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2025年8月12日火曜日

株式会社WAS 代表取締役 宇野優司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社WAS 代表取締役 宇野優司氏登場。

本文より~

大学進学までの、勘違いと気付きと。

「大きな勘違いだった」と笑うのは、今回、ご登場いただいた株式会社WASの代表取締役、宇野 優司さん。
「小学校って、学年順位も公表されないでしょ。私の通信簿はオールAだったし、スポーツでも、それ以外でも目立っていたから天才くらいに思っていて、将来は東大だと(笑)」。
宇野さんは1992年1月に静岡県の沼津市に生まれている。なんでも「沼津生まれ、裾野育ち」なんだそう。お父様は大手企業勤務のサラリーマン。ゴルフにもいそがしかったが、食べるのがお好きだったんだろう。土・日には家族を連れて外食を楽しんだ。
宇野さんが飲食に進む、背景の一つだという。
中学に上がった宇野さんは冒頭の話通り、大きな勘違いに気づくことになる。
「中学になると学年ごとに順位がでるんです。私は内心、将来、東大生だと思っていましたから、当然、1位だろうと。でも、結果は12位だったんです」。
愕然とした。
「でも、この時にはまだ、私にはサッカーがあったんです」。
12位でも凡人からすれば悪くはないが、宇野さんはあっさり東大の道は忘れ、今度は小学生時代トッププレイヤーだったサッカーにのめり込む。
「そんなにつよい学校でもなかったんです。だから、私がトップスターで、みんなをひっぱっていました」。
これも、勘違い。ただしくいうと、井の中の蛙。
「高校に進むと、サッカーもけっしてトップじゃないことに気づきます」。
<上には、上がいる?>
「そうですね。スポーツもそうですが、勉強が得意なやつもたくさんいましたし、サッカーも巧いやつがたくさんいて、レギュラーでもなかったです」。
ただ、サッカーで汗を流したことは無駄じゃなかった。
「サッカーを通し、食がスポーツのパフォーマンスに影響することを知って、それで『食』の世界に進むことに決めたんです」。
大学では「管理栄養士」の資格が取得可能な学部を専攻。勉強のためだといって、ドイツ・フランスにも渡っている。もちろん、無事、「栄養士」の資格を取得。これが、今の強みの一つとなっている。

Globridge入社と代表の大塚誠さんとの出会い。

宇野さんは大学時代を、「濃厚で、貴重な4年間だった」と表現する。
「じつは、サッカーを引退してからの半年間、初めて猛勉強したんです」。
なんでも1日10時間が日課だったそう。
「それでも、国公立は落ちちゃったんですが、勉強がふつうになり、勉強する体力がついたと思うんです。だから、大学に進んでも勉強が苦にならず、わりと勉強熱心な学生だったと思います」。
アルバイトでも、学んだ。
「バイト先は4年間おなじで、フレンチ出身のオーナーから、食のイロハ、料理の哲学を教えていただきました」。
  たぶん、新鮮だったのだろう。栄養学と料理を真摯に学んだ。
当時の話を聞くと、少しずつ、今の宇野さんがリアルなカタチになっていく。
「大学では、8割が女子ということもあって、例えばバーベキューをしようとなったら私に声がかかるんです」。
みんなのリーダー。今度は、勘違いではなかった。ちなみに、現在、WASの副社長は大学時代の友人、スタッフには、当時の後輩が5人いる。
「大学時代に飲食を経営するノウハウまですべて頭に刻みこんだと思っていました。これも、勘違いといえば勘違いだったんですが」。
宇野さんは、起業をめざす学生たちに人気の、先進的な飲食企業「株式会社Globridge」に就職する。(Globridgeについては、コチラを御覧ください。)
当時、採用に注力していたGlobridgeには、新卒50人が入社する。起業家をめざす、野心のある学生たちだ。
そのなかでも、当然、トップランナーをめざして走り出した宇野さんだったが、ふたたび挫折を経験する。
「成績は配属に左右されますし、いくらでも言い訳はできるんです。実際、分析もできています。ただ、楽勝だと思っていたのにトップじゃないことに愕然としました」。
宇野さんはそういうが、トップか、トップではないことにどれだけのちがいがあるのだろう。宇野さんは飲食に進んだ最終的な理由を、「私の生活の横にはつねに食があったから」と言っている。
栄養士の資格を取り、食品加工系の研究室では、素材から缶詰をつくる研究もしてきた。深い知識をもとめ、大金をはたいてドイツ・フランスに渡り、学んでいる。
もとフレンチのオーナーから教わったことも、トップになることではなかったはずだ。それでも「トップを取れなかった」と悔しがる宇野さんは、狙わなくても、トップを穫れるくらいに思い込んでいたのかもしれない。
それとも、宇野さんがいうトップとは、比較対象として位置づけられるトップではなく、登るべき山の頂きのようなものなのだろうか。
ともあれ、悔しがる宇野さんを評価した人がいた。 Globridgeの代表である大塚誠さんだ。

Globrideの5年間と、世界のDELLと。

<Globrideには、合計何年いらしたんですか?>
「5年です。最初の3年間は正直、消化不良でしたが、4年目からオーストラリアの新事業にタッチさせていただき、状況がいっぺん」。
異国での事業の立ち上げ。
宇野さんともいっしょにオーストラリアに渡り、現在、オーストラリアでも事業を行っている、現「株式会社REBEL」の代表取締役、堀場健太さんにも、この飲食の戦士たちにご登場いただいている。
「5年目、堀場さんは、そのまま向こうに残りますが、私は帰国し、今度は、大塚さんの下で新事業にかかわります」。
すべてが勉強だった。
「私の人生のなかで、大塚さんとの出会いはやはり大きい。 もちろん、1年ですが異国での経験もいい勉強になりました」。
「オーストラリア人は、はたらかない!」と、宇野さん。「でもね、ビジネスはちゃんとまわっているんです」と笑う。
国民性の違いだけで片付けてはいけないが、スタッフも、お客さんもただひたすら楽天的で、明るかった。
「日本じゃ、とくに飲食は、24時間365日はたらくという印象があるでしょ。それが、全然違った。でも、そのなかでも、私たちは日本の飲食人の代表選手のように、24時間365日はたらいていました。そのギャップのおかげで、私のなかに芯のようなものができた気がします」。
5年のうち、最初の3年は、凹みつづけた3年。その後の2年は、「思ってもいなかった世界へ、代表の大塚さんが連れて行ってくれた」という。
「辞めるときも大塚さんと食事をして、叱られるんじゃなく、逆に激励していただいて」。
起業家を育てるという大塚さんにとっても、望むところだろう。ただし、宇野さんは起業に走らず、転職する。その先がユニークだ。
世界のDELLである。

異文化での挫折と、起業。

「当時はまだ、飲食で起業しようとは思っていなかったんです。ただ、BtoBの経験がなかったもんですから、そのピースを埋めようと。それに、今からは何をするにしてもITを知らないといけないと思って」。
「食がつねに私の隣にあったので飲食で、今仕事をしていると言いましたが、ビジョンは、日本の文化を世界へ発信すること。これが、テーマです」。
<だから、世界のDELLだったんですね?>
「そうです。内定いただいたなかで、いちばんスケールも大きかったこともあって」。
<このあと起業ですね? これは既定路線ですか?>
「もともとは30歳までDELLで勉強するつもりだったんですが」と宇野さんは苦笑する。
「私にとっては、DELLもまた異文化だったんです。まわりとの歯車が噛み合うことがなく。不本意でしたが28歳で退職します。そのあと、じつはアメリカの企業からオファーを受け、海を渡る予定だったんですが、コロナ禍となり、アメリカ行きが実質上、不可能になりました。これが、今、飲食の世界にいる直接的な理由です」。
<どういうことだろう?>
「アメリカ行きを断念しなければいけなくなって、どうしようかと迷っているときに、オーストラリア時代の上司、現在はREBEL社長の堀場さんにオファーをいただいたんです」。
<それが、飲食だったんですか?>
「そうです。堀場さんとREBELの日本国内事業の立ち上げを、3か月(2020年の4~6月)取り組みました。コロナでの緊急事態宣言下のバーチャルレストラン事業でした。そして、私自身、起業の思いがあったので、同じくコロナ禍の下でしたが、2020年の10月14日に株式会社WASを設立します」。
ホームページで宇野さんはつぎのように、創業の背景を語っている。
<株式会社WASは、“温故知新”の理念のもと「日本の伝統を世界に発信し、未来へ感応させる。」という想いで創業しました。>
その日本の伝統とは、「UMAMI」である。

・・・続き


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2023年12月28日木曜日

株式会社REBEL 代表取締役 堀場健太氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社REBEL 代表取締役 堀場健太氏登場。


本文より~

野球と、堀場少年。

堀場さんは1989年東京の町田市に生まれている。ご両親とも仕事をされていたこともあって、鍵っ子だったそう。日大三高で野球をされていたお父様の影響もあったんだろう。堀場さん自身も小さな頃から野球をしている。サードやセカンドが定位置。
「小学校から甲子園に出場することが目標だった」という。高校は駒沢大付属高校に進んでいる。目標は甲子園。ただし、東京でベスト16が最高とのことだ。
1年時、野球部には70人くらいが入部したが「1週間で20人になった」と笑う。厳しい練習についていけない選手もいた。かなわない選手をみて退部を選択した部員がいたかもしれない。
堀場さんは最後までつづけている。「リタイアは、ダサいと思っていた」そう。レギュラーにはなれなかったが、試合に出る、出ないではなく、自分で決めた道を簡単に諦めるようなダサい人間になりたくなかった。才能はなかったがやると決めた時の覚悟なら負けない。
「父親は広告代理店を経営していましたが、リーマンショックの時に倒産し、今は町田でバーを経営しています。私が大学1年生の時で、『大学を辞めたほうがいいか』と母に相談したところ、つづけなさいと諭されました」。
だから、奨学金だけではなく、アルバイトにも精を出した。これが、今につながっている。

こころざしは、飲食で独立。

「大学は駒沢です。進学はエスカレータですが、学力順に学部が決まります。現役時代は600人中500番台だったんですが、引退してから成績がグングン上がって最終的には100位以内に入り法学部に進んでいます。大学時代はアルバイト中心でした。今まで野球漬けでしたから、アルバイトも初めて。最初にアルバイトをしたのが町田商店(現ギフト)さんでした」。
1号店だったというから、面白いに決まっている。
「ほかには、沖縄料理店でもはたらきました。ニライカナイというお店です。社長は山岸雄人さん。カリスマ社長です。こちらでは、株式会社カオカオカオの新井勇佑さんもアルバイトをされていました」。
広いようで、飲食の世界は狭い。新井勇佑さんにも、「飲食の戦士たち」にご登場いただいている。新井さんも「ニライカナイで天才と出会った」とおっしゃっている。堀場さんがいうカリスマ社長、山岸雄人さんのことだろう。
「大箱のチェーン店舗、個人店、中堅企業、上場企業と経験できたのは財産になっています」。
大学を卒業した堀場さんはGlobridgeに就職している。実は、Globridgeの社長である大塚誠さんにも「飲食の戦士たち」に登場いただいている。その時のインタビューで大塚さんはGlobridgeの目標は企業家の育成と輩出だとおっしゃっていた。
堀場さんも「条件とかはどうでもよかった。外食ベンチャーで、かつ成長できる環境かどうかでGlobridgeを選択した」といっている。正反対からみているが、両者の狙いは一致している。
2人の思いはどのようにして交差するんだろうか。

新入社員、6月に海を渡る。

「当時、Globridgeは3年で独立を謳っていました。私たちが新卒3期目で、同期は130人程度です」。 大量採用ですね?と聞いてみた。 「そうですね。大量採用だからなんとか目立たないといけない(笑)」。 たしかに、130分の1のママでは先がない。 「私が入社してすぐに、海外で新規事業がスタートするといったプランが明らかになります。新卒にもチャンスをいただけたので、すぐに立候補しました。立候補したのは年次に関係なく50人くらい。そのなかから4人が選ばれ、その4人のなかに残ることができました。だから、4月に入社して、6月にはシドニーです」。 堀場さんと、堀場さんの同期、2年目と中途採用者の4名がシドニーに渡っている。海外事業の推進と、それを行うことでの英才教育が開始されたといっていい。 「シドニーでは4人で暮らします。私にとっては初海外でしたし、語学が得意ってわけじゃない。選考では、話をもりにもって(笑)」。 ただ、もりにもったのは、堀場さんだけじゃなかったようだ。 「海外での経験はもちろん、新たに事業をスタートさせた経験なんてだれにもありませんでした。すべて手探りです。海外戦略のため立ち上げた『ふじやま製麺』といううどん業態を開始します。 ただ、右も左もわからない。文化、商習慣、好み。試行錯誤の連続です。今は、弊社に譲渡いただき月商1500万円くらいを叩きだしていますが、スタートした頃は、1日の来店数は30人くらい。月商は200万円にも届きません」。 右も左もわからない。ただっ広いオーストラリア。観光ならコアラも笑ってくれるが、ビジネスでは、そうはいかない。

片道切符と、オーストラリアでの事業と。

4人に渡されたのは片道切符。早々と1名が抜けている。逃げ出すのはかっこ悪いという思いと、挑戦できる環境を与えてくれた大塚さんへの感謝の思い。そして結果を出して恩返しをしたいという思いが強くあった。だから堀場さんは離れない。 「お寿司やうどんっていう日本食のカテゴリーに興味はあっても、やはりオーストラリアは肉なんですよね。日本とおなじでは、うまくいかないことに気づきます」。 ショップはフードコートの一角にあった。オーストラリアの人々が、『ふじやま製麺』を通りすぎる。 「どうすればいいか。メニューをカスタマイズしていきます」。 堀場さんが、その『ふじやま製麺』を買い取らせてもらったというのは、入社して、つまり、オーストラリアにきて7年目のこと。すでに書いたが、現在は月商1500万円というモンスターショップだ。 「社長の大塚さんからもいろいろなアドバイスいただき、『ふじやま製麺』とは異なる新ブランドもリリースします。それが、日本でも出店しているKen-Chan Curryです」。 チキンカツカレーがメインメニュー。チキン、つまり、肉がオーストラリア人の嗜好にフィットする。 「コロナでいったん日本に帰国します。現在、日本で2店舗、オーストリアで4店舗展開しています」。 「ふじやま製麺(Fujiyama Noodle Bar)以外は、すべてKen-Chan Curry(日本ではケンちゃんカレー)だ。試行錯誤の末に生まれ、オーストラリア人の胃袋をつかまえた新ブランドである。今後、日本ではこのケンちゃんカレーをフランチャイズで展開していくとのこと。ただし、堀場さんの事業のメインとなるフィールドは海外。片道切符はまだにぎりしめたまま。

・・・続き

株式会社REBEL 代表取締役 堀場健太氏

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2016年1月5日火曜日

オーストラリア・シドニーでレストラン経営されている鱒屋レストラングループ 代表 定松勝義氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”オーストラリア・シドニーでレストラン経営されている鱒屋レストラングループ 代表 定松勝義氏登場。
本文より~

混迷の先にあった父の死と挫折。

愛媛県の松山市で産声を上げた定松氏。幼少期から決して裕福な家庭では無かったが、特に不自由なく過ごしてきた。そして高校時代も順調にいくだろうと思えた。しかし、当時の学歴偏重な風潮に精神的に付いて行けず、進学クラスから落ちこぼれてしまうことになる。そんな矢先、父の薦めもあり、父の経営する鉄骨建築会社に就職することを決意した。「従業員は8人いました。気楽な気持ちで始めた仕事だったのですが、就職して直ぐに父が急死してしまったんです。ショックでした。ただ、いつまでも落ち込んでいられないと思い、父の会社を守ろうと自分が後を継ぐことにしました」。何の経験も無かったが、意気込みはあった。年若くして、一企業のオーナーとなる。
「父は会社にとっての大黒柱でした。実際、自分がトップに立ったことでどうこうなることもなく、会社の業績はどんどん悪化していきました。そしてついに閉鎖せざるを得ない状況に追い込んでしまいました。自分自身の無力さを痛感した出来事でした。」大きな求心力を失くした会社は、誰にも立て直すことは出来なかったのだった。「申し訳ない気持ちと共に、なぜできなかったのかと自分を激しく責めました。人と話す気力も無くなり、何日間も寝ずに突貫工事を行ってくれていた従業員の方々に最後の挨拶もせずに、逃げ出すようにして立ち去りました」。その家族の方々の顔を思い浮かべると強い罪悪感に襲われた。この出来事は長い間、トラウマとなって残ったという。

底で掴んだ覚悟と挑戦魂。

父を亡くし、会社は潰れ、従業員からも逃げてしまった。定松氏は、その中で一つの考えに辿り着いた。「奈落の底に落ちようが、天まで登りつめようが、どちらに転んでも自分の人生一度きり。それだったら自分の無限の可能性を信じて、登りつめられるところまで、登ってやろうじゃないかと思ったんです」と定松氏は当時を振り返る。人はそれぞれ自分の人生を歩む時、今までの自分の環境・習慣に伴った考えや他人からの言葉に流されてしまうことが多いが、この時の定松氏は違った。底に落ちたことで、逆に自分の命の尊さを認識できたのかもしれない。授かった自分の命をこんな人生で終わらせたくないと。そして、無限の可能性を信じた。日本では無く、巨大大陸国家であるオーストラリアで挑戦することを決意した。定松氏の眼には、生まれの愛媛県に似た環境でもあり、ワーキングホリデー制度のある国として最適な挑戦場に映った。

22歳。いざオーストラリアへ。

当時、オーストラリアへの片道切符は12万円。日本人の豪州観光ブームに火がつく前だった。当時、免税店が採用していた日本人は永住者が中心で、ワーホリ来豪者が仕事に就けるのは日本食レストランぐらいであった。覚悟を決めて渡ったものの、実際どこも競争率が激しく、仕事さえあればという状況だった。シドニー周辺の約200店を飛び込みで回り、仕事を探した。そんな中、鮨屋とフィッシュ&チップス店での仕事が決まった。「仕事を始められたのは良かったのですが、オーストラリア人が言うBill(請求書)とBeer(ビール)の発音の違いを聞き分けることができず、苦労したりもしました。ただどうしても現地人の中で仕事をしたかったので働きだしたのですが、一方で働いていく中、単調な作業に嫌気が差していたのも事実でした」。そんなことを考えていた矢先、理想の挑戦場が見つかった。「ブルー・トラウト・レストラン」という現地の人気レストランだった。
「そこで初めてキッチンハンドから包丁を使い、料理を作ることを学びました。少しすると昼間はお弁当屋さんを任されるようになり、いちオーナーとして家賃と人件費を払いながら6ヶ月間働きました。また、22歳まで豚肉を食べられなかったのですが、ある日、賄いでトンカツを作り、口に入れてみるとなんて美味しいことか!今までなぜ日本で食べられなかったのか、自分自身で驚きました」と笑って当時を振り返る定松氏。海外で初めて気付く、日本食の良さが分かったのだろう。しかし、働き詰めの毎日で、友人もなかなかできず、英語も上達しなかったそうだ。そうこうしているうちにワーホリ期間が到来。日本への帰国となった。「帰国して1ケ月後、現地のお持ち帰り弁当店で日本のカレーがよく売れていることを思い出したんです。そこで、カレーライスの店をオーストラリアで出店することを本格的に考え、永住権取得にとりかかりました」。そして、23歳にて再度来豪を果たし、前レストランの方々のサポートもあり永住権を取得。挑戦への準備は整った。その後、幸運にもハイアットホテルでセカンドコックをされていた方と出会い、約2年間に渡るシェフ修行をスタートさせることになる。

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鱒屋レストラングループ 代表 定松勝義氏
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2014年11月4日火曜日

世界のレストランのTETSUYA’S オーナー・シェフ 和久田哲也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”TETSUYA’S オーナー・シェフ 和久田哲也氏登場。
本文より~

子ども時代から憧れた海外。

独創的だった。それは小さな頃からである。「考えるのが好きな子どもでした」と世界の「TETSUYA」こと和久田哲也が、そういって笑い声をあげる。
「私は、子どもの頃からボーっとするところがあって。いまでも危なくて車を運転できないんですよ」とも。魚の買い付けにも、運転手付きの車で通っているそうだ。「ボーっとする」というのは放心するという意味ではなく、いったん気になれば、そちらに心が奪われるということを意味しているのだろう。
和久田が5歳の時、東京オリンピックが開催され、9歳の時には、万国博覧会が開催されている。子どもたちが、世界に目を向けはじめたのは、この年代からだろう。
もう一つ、世界と和久田を結ぶエピソードがある。
「私が生まれた浜松は田舎町だったんですが、キリスト教の教会があったんですね。だから、ブロンドのキレイな女性がいたんです。とはいえ、私の小さい頃は、まだまだ外国人とは距離があって、道で出会っても目を伏せてしまいがちだったんです。でも、私は全然平気。キレイな女の人をジーッと観ていたんです。そしたら母親に、『失礼なことはしないの』と怒られて…」。
まだ円が360円の時である。世界は、まだ抽象的なものに過ぎず、概念的であった。畏怖する対象とまでは言わないが、確かに外国人と接するだけで気おくれしたものだ。
そんな時代にあって、和久田少年は、海外、また外国人と正面から対峙していた。
「外国が好きでね。だから『兼高かおる』さんの、TV番組『世界の旅』をいつも観ていました。小学校へ入学するときにはもう、交換留学生に興味があったぐらいです」。
小学生の時には、すでに「どういう手段で海を渡るか」ということを考えていたというから、同年代の者からすれば、それだけでも大きな「驚き」である。

100万円を貯めて、オーストラリアへ。

大学には、浪人して入った。 「現役で合格したんですが、浜松を抜け出して自由になりたくて。それで、いろいろ言って東京で1年間浪人します。1年後、晴れて大学生になるんですが、ともかく海外に行きたかったんです。だから、バイトも3つ掛け持ちで…」。
吉野家でバイトしたこともあるそうだ。新聞配達もした。新聞代の回収が巧くて、バイト代は、一時跳ね上がった。
「それが原因というか、前から勤めている人より断然給料が多くなって、居づらくなって辞めてしまいました」と笑う。
ともかく、目的額の100万円が貯まった。
「当時はオーストラリアのビザが取りやすかったんです。それもあって、まずオーストラリアへ、と思っていたんです。ただ、ビザは取りやすかったんですが、往復のチケットと100万円持っていることが条件でした。だから、バイトに精を出して…。代わりに大学には通わなかったな(笑)」。
渡航費も、100万円もなんとかなった。
「往復のチケットがいるというのは、戻ることが前提ですよね。でも、私はもちろん見せかけです。日本に戻るつもりはなかった。かといって、オーストラリアに居続ける気もなかったんですが。ところが、もう30年以上です(笑)」。
無事、海を渡りオーストラリアへ。片言の英語で、不動産屋に行ってアパートを見つけた。
「ギリシャ人がオーナーの不動産屋でした。彼も移民だったんです。だから、異国人の私に優しくしてくれました。ある時、私は親しくなった彼に、こう言いました。英語を安く教えてくれるところはないだろうかって」。
いま思えば、すべてがその一言から始まっている。
「よし、わかった。連れてってやる」。
人のいいオーナーは、自ら車を運転し、和久田を乗せて連れていってくれた。
レストランだった。

レストランで習ったものは、英語か、料理か、生き様か。

「私は、料理をつくるのが好きだったわけでもないし、方法も知らなかった。ほんとにたまたま、『英語の学校だ』と、その不動産屋のオーナーに連れて来られたのが、レストランだっただけなんです。あとで話を聞くと、彼もそうやって言葉を覚えたからということでした。確かにサラリーも貰えるわけですから、言うことがない(笑)。ともかく、その時、対応してくれたシェフが『じゃぁ、明日9時に来い』と。それが私の飲食人生のスタートでした」。
「確かに、いい『学校』でもありました(笑)。店にはアイルランド人がいて、彼から英語の勉強方法も教わりました。『とにかく、片言でもいいから、会話しろ』『わからなくても聞け』と。そう言われたもんだから、ラジオは始終、そうですね、寝ている時もつけっぱなしでした」。
和久田には、こういうところがある。一度、これがいいと思えばそのスタイルを貫く。修業時代の話もそうだ。有名な料理店を食べ歩いた結果、クレジットの額は当時の和久田からすれば、天文学的な数字になっていたという。
ともかく、いいと思ったら、やる。それも徹底して。だから、ひょんなことで連れて行かれたレストランも、市井の英語学校だと思い込み、レストランの仕事にも精を出した。
「1ヵ月は皿洗いと海老の皮剥きが仕事だった」と和久田。ところがある日、2人のシェフが軽い事故にあってしまい、数日間休んだ。途端に人手が不足し、和久田にも皿洗いと海老の皮剥き以外の仕事が回ってきた。
「あれもやれ、これもってことで、魚の捌き方も初めて教わりました。日本人というのは器用なんでしょうね。私も、すぐに出来るようになって、だんだん雑用の割合が減って、シェフを手伝う割合が多くなりました」。
「1日ずつ雑用の仕事が減って、シェフの手伝いが多くなっていくんですから、そりゃ、楽しい。英語も少しずつ上達する。あっという間に、1年が過ぎました。しばらくして、今度は皿洗いをしていた頃のマネージャーと偶然会って、うちに来ないかと誘われたんです。シェフに相談すると、『あの店はいいから、行け』と。それで、そちらで5年間、勤務します」。
修業のため、高級店に足繁く通っていたのもこの時だろう。5年後、27歳の時に前職で同僚だったアイルランド人から声をかけられた。「いい店が空いた。一緒にやらないか」。2人して、5000ドルを出し合った。共同出資。
オーストラリアに日本人が、店を構えた。最初の一例となるのだろう。


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2014年10月11日土曜日

オーストラリアからお客様が・・・。 

オーストラリア・シドニーの鱒屋インターナショナルの定松社長より連絡あり、
ビジネスパートナーの友だちのAlanaさんが初の日本旅行なので、いろいろ手配させてもらいました。
もちろん、社長特命課の横谷に・・・・・・。
なんとその横谷、前日マニラから飛行機乗り遅れても帰国で心配でしたが、無事案内してくれました。
やるときやってくれますね、おバカですが(笑)

私はしゃべれませんから助かりました。
(渋谷のハチ公前にてAlanaさんと横谷)
(西麻布の権八にて)



前日までの横谷は遅めの夏季休暇でマニラに行ってました。
キイストンPRしてくれてたのはいいのですが、おバカです・・・・、飛行機乗り遅れました(笑)
 (いつでもどこでもキイストン命、うれしいね)
(左に写ってる現地の方ほんとに笑ってます)




そんな横谷26歳。
気を遣ってるのか早く、きましたね。
簡易修正してやろうかな・・・・。


2014年1月15日水曜日

2014年、いよいよ日豪プロジェクトやります!!

2014年、いよいよ日本とオーストラリア(豪州)をつなぐため
オーストラリアで学ばれた経験を
海外進出考えておられる日本の企業様に紹介する
人材ビジネスをシドニーの鱒屋様とやります!!
(日豪プレス新春特大号より)

2013年11月7日木曜日

2012年1月24日火曜日

1.15発行のオーストラリア・シドニーNo.1生活情報誌「チアーズ」、第10弾!!

「チアーズ」2月号(1.15発行)にて、ワーキングホリデー帰国者の就職支援企画第10弾の広告発信!!


今回のご登場はウェンディーズ・ジャパン合同会社 アーネストM.比嘉最高経営責任者。


チアーズ比嘉


チアーズ2月号


チアーズ

いよいよ、2012年から本格的に飲食業界にグローバル人材送り込めるよう稼動!!


オーストラリア・シドニーを楽しむための生活情報誌「チアーズ」



2011年4月15日金曜日

ワーホリ経験者をフォローするためのサイト「グローカルスタイル」OPEN。

塩原 


オーストラリアをはじめ、海外にいる日本人との架け橋になれればと「グローカルスタイル」というサイトを立ち上げた。


ワーホリ経験者をフォローするため、ワーホリ経験者で海外在住のMr.SHIOHARAが担当。


グローカル=【地球規模で考えながら、自分の地域で活動する】