産経デジタルzakⅡにて、株価も高騰されてる絶好調のあさくま様を取り上げました。
2026年2月27日金曜日
2026年2月25日水曜日
株式会社MaruDining 代表取締役社長 加藤涼太氏登場。
“飲食の戦士たち”に株式会社MaruDining 代表取締役社長 加藤涼太氏を取り上げました。
父の弁当、宣言。
今回、ご登場いただいた株式会社MaruDiningの代表、加藤さんは1993年、横浜市に生まれている。旅行代理店に務める父。香港、サイパン、海外旅行にも行った。
「比較的、裕福だった」と加藤さんは小さな頃の記憶を思い浮かべる。「ただ、5歳以降、海外にも行っていない」と苦笑しながら、5歳以降の話をつづけてくれた。
「両親が5歳で離婚し、私は父と祖父母がいる茨城県の取手市に移ります。父は取手で起業し、2人は小さな団地の一部屋で暮らすようになりました」。
祖父母の家まで徒歩1分。父は起業したばかりでいそがしい。だから、私は四六時中、祖父母の家にいた。
「祖父祖母に育てられた」と加藤さん。学校ではさびしさを紛らわすようにはっちゃけた。だから、人気者だった。勉強もできたが、スポーツもできた。足が早く、中学ではサッカーだけではなく、短距離、長距離でも大会に出場して好成績を収めている。
サッカーは1年から準レギュラー。市の選抜にも選ばれた。高校ではいったんクラブチームに入ったが、1年で辞め、学校のサッカー部に。当然、レギュラーとなってピッチを駆け回った。
「父との暮らしで、今でも記憶に焼き付いているのは高校生になるときのことです。父が宣言するんです。『高校生になったら給食がなくなるから、オレが弁当をつくる』って」。
「いいよ」と加藤さんがいう。父は「いや、つくる」と言いはった。入学、初日、起床すると、台所はにぎやかなことになっていた。
父は、料理などつくったことがなかった。
「おいしくも、きれいでもなかった」と加藤さん。
「でもね。宣言どおり3年間、つくりつづけてくれたんです。あれを愛情って言わなければ、愛情って何かってことになりますよね」。
高校3年間、父の手作り弁当を食べ、ピッチをかけ、勉強もちゃんとした。
「クラブチームをやめたのは今でも後悔していますが、父親と移り住んだ取手での生活は、何物にも代えがたい時間だったのは事実です」。
加藤さんは遠くを観るようにして、そう言った。
狂犬が来た。
高校を卒業した加藤さんは、北千住にある帝京科学大学に指定校推薦で進学した。半年後、北千住でひとり暮らしをはじめた。先輩の紹介で、キャッチのアルバイトを開始した。
授業には出席したが、後期も終わりに近づく頃、進級が怪しくなった。加藤さんを含め3名が進級できなかった。
「もう一度、1年生ですが、今度は講義一つだけ。しかも、前期に講義はありません。だから、じゃぁ、うだつが上がらなかったキャッチのバイトを真剣にやってみようと」。
舞台は、上野。加藤さんは、夜を待たず繁華街で声をかけた。道を急ぐ人、すでに一杯ひっかけたであろう人、飲み屋を探している人、眼の前を通り過ぎる人たちに声をかける。ただ、真剣にといっても、それまでとかわらず空回りの日がつづく。
「そんなときに、狂犬が来たんです」と加藤さんは笑う。
「狂犬?」と聞き返すと、「私らの会社のなかで、『渋谷の狂犬』と言われていた人が、上野に派遣されてきたんです」。
狂犬が来ると知って、キャッチたちは散り散りになった。狂犬の強権が発動する。残ったキャッチもいなくなる。
「残ったのは、私だけ」と加藤さん。加藤さんにとってはただの狂犬ではなかった。
「まさに、その人との出会いがターニングポイントです」。
容赦なく尻を叩かれた。罵声も浴びせられ、ときには拳骨がとんできた。それでも、加藤さんは感謝している。
「キャッチというより、マネージャーです。客をキャッチしたら、その人、つまり狂犬に連絡するんです。彼は、店内の様子も把握していますから、『どこどこに何人』とテーブルまで割り当てるんです。外にいて全部をコントロールしています。雨が降り出したら、すぐ店に連絡して、『二次会はない。客を帰すな』と指示をとばします」。
狂犬の下、闘犬くらいにはなった。狂犬の下ではたらきはじめると、月収は18万から35万まで、倍増した。
加藤さんは大学3年生まで進級したが、梅雨が始まる頃には自主退学。正社員となって狂犬の下ではたらきだした。ちなみに、加藤さんは、「狂犬が来たことで、上野の街はがらりとかわった」という。加藤さんにすれば、まさにヒーローだった。
22歳、月50万円のオファーをける。
正社員になって加藤さんは、狂犬の下で、キャッチと店舗のコントロール、スタッフたちの管理をマスターしていく。ただ、疑問がなかったわけではなかった。
「狂犬は、いわば恐怖政治です。でも、私はそういうタイプじゃない。だから、スタッフの管理については、私流でやると宣言しました」。
「仲間となる」が加藤さん流のスタイル。
「私流でも業績は悪くなかった。ただ、バイトといっしょに自腹で飲みに行ったりと、お金は残んなかったですね(笑)」。
加藤さんは管理者ではなく、プレイヤーをつづけた。
「キャッチをつづけているとちがった疑問もでてきます。紹介する飲食店に価値があれば、今でもキャッチは販促の一つだと思っています」。
「その価値があるかどうかは、キャッチにとっても大事なんです。しくみがわかってくると、だんだんとうしろめたさがでてきて。ともだちや親に紹介するかというと、『しない』わけなんですよ」。
「そういうことを思っているうちに、じゃぁ、価値ある店をつくろうと独立に心が傾いていきます」。
とはいえ、店舗運営のノウハウはない。加藤さん、22歳。月給50万円のオファーを断って、会社を退職する。
「まるでキャバ嬢が、昼の仕事につくみたいです」と笑う。キャッチを卒業した加藤さんは、リクルートの代理店でホットペッパーの営業を開始する。
数ヵ月後には、ホットペッパーの営業と同時に、居酒屋のバイトを掛け持ちする。
「だし巻き卵一つ焼けなかったから。それに、魚もさばけないといけないでしょ」。加藤さんは、目標に向け、まっすぐ進んでいく。
そんな加藤さんをみて、バイト先のオーナーが「業務委託」で店を任せてくれることになった。
2020年、WHOがパンデミックを宣言。
「神楽坂の雑居ビルの6階と7階の2店舗」と加藤さん。
「もう一人、今の副社長がおなじように船橋で業務委託をとってきました。これで、業務委託で3店舗です。創業メンバー3名と、スタッフ3名。ほぼキャッチ時代の仲間や部下です。3店舗で6名。『いける』と2020年の1月1日にやるぞ、と、みんなで正式に独立起業を宣言します」。
キックオフ。プレー開始のホイッスルが鳴る。その一方、コロナウイルスが少しずつ正体を明らかにする。
「いつくらいでしょう。日を追うごとに、神楽坂から1人、2人と足音が消えていきます。すっかりいなくなったのは、3月かな、4月かな」。
WHOがパンデミックと宣言したのは3月12日。東京都を対象とした緊急事態宣言は、4月7日。
「固定費だけがでていきます。月200万円。スタートしたばかりで資金はありませんでした。役員3名は、給料なし。残るスタッフ3人には、月10万円ずつ渡しました」。
「とにかく、笑っていこう。役員3人で、それだけを決めました」。
具体策はなにもない。だから、せめて。
「笑っていよう、宣言」。
「でも、泊まっていたサウナのカプセルで1人になると、『どうしよう』って。パンデミック相手に、答えがでるわけではないのに、ね」。
なにが正しいかわからなかった。ただ、黙って潰れるわけにはいかなかった。
「仲間といっしょにね。私は寂しがりやだから、せっかくの仲間がバラバラになるのがいちばんいやだったんです」。
「神楽坂だけだったら、潰れていたはずです。幸い、副社長が取ってきてくれた船橋には、まだ人がいたんです。だから、神楽坂をクローズして、みんなで船橋に行って。朝から店の下でマスクを売って。昼はお弁当を売って。ウーバーイーツもして。朝から晩までキャッチをして。私らが持っているすべてを叩き込んで、がむしゃらに。でも、笑顔をわすれずに」。
船橋で、6人が、コロナ下でも、笑顔を絶やすことなく、お客様と接した。
「都内は依然きびしかったので、神楽坂は手放し、船橋をメインにして、その後、福島県の福島駅でも新たな店舗をオープンします」。
コロナ禍で、知らないロケーション。
「最初、出店のお話をいただいたときは悩みました。ただ、その一方ではやるしかないわけです。給料だってだせていなかったのでなおさらです」。
飲食のキーワードを調べた。「すると、福島では馬肉と日本酒が上位だったんです。それに都内とちがって、福島にあるのは、大半が総合的な居酒屋だったんです。専門店がなかったから、キーワードで上位だった『馬肉』と『日本酒』の専門店をオープンしたらいけるんじゃないかって。はじめて、マーケティングをしました」。
船橋で業績は上がり、コロナ禍でできた借金も返済できた。福島でも、狙い通り専門店が大ヒットする。
「福島の固定費は、神楽坂のほぼ1/10。だったら、守りじゃなく、攻めようと。これがうちの一つの成功モデルになっていきます」。
地方×専門店×低賃料。
その後、ホームページにあるように、北海道、岩手、新潟、大阪、福岡などにオープンを重ねていく。「#カキもビールも『生』がスキ。」「大衆馬肉酒場 うまる」「銀シャリ鮮魚 オサカナマルシェ」「日本の酒と馬の肉 ウマ」「だし劇場◯△□(まるさんかくしかく)」「餃子酒場肉汁とっつぁん」。2025年10月現在、5ブランドを展開している。
・・・続き
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2026年2月22日日曜日
株式会社ネオ・エモーション 兼 株式会社三崎恵水産 代表取締役 石橋匡光氏登場。
“飲食の戦士たち”に株式会社ネオ・エモーション 兼 株式会社三崎恵水産 代表取締役 石橋匡光氏を取り上げました。
本文より~三浦半島のさきっちょの話。
「三浦半島の先っちょに、城ヶ島という小さな島がある。戦国時代に、ある武将が城を築いたことからこの地名になったらしい。黒潮の影響で冬でも温暖。ただし、いったん天候が荒れだすと、人を寄せ付けないほど厳しい表情をみせる」。
こちらは、今回ご登場いただいた石橋さんのお父様であり、先代でもある石橋会長にご登場いただいたとき、冒頭に記した一文である。
石橋さんも、三浦市三崎城ヶ島生まれ。 「三崎は、日本有数のマグロ漁港です。昭和初期から遠洋漁業の拠点で、現在も日本有数のマグロ水揚げ量を誇っています」と、石橋さん。
「マグロの町」としても有名。
そのマグロの町で生まれた石橋さんは、小・中・高と野球部で白球を追いかける。学業も優秀で、高校は「小泉純一郎元首相の母校」だという。「ほかにも、オリンピックの柔道の猪熊功さん、ノーベル物理学賞受賞者の小柴昌俊の出身校です」と石橋さん。 同窓会のHPによるとノーベル賞受賞者、オリンピック金メダリスト、総理大臣を卒業生に持つ全国唯一の公立高校とのことだ。
石橋さんがまだ小さかった頃の、話もうかがった。
「小学校が3クラス、中学校が4クラス。生徒の大半の保護者がマグロに関係する仕事をされていました。1本のマグロでたくさんの人が食べられていた時代です。うちもその一つで、三崎恵水産が創業したのは私が生まれる前でしたので記憶はありませんが、まだまだ小さくて従業員さんも3~4人だったそうです」。
小さな頃の記憶で鮮明なのは、魚臭い人といっしょに食べた昼飯。「とにかく、マグロ臭いんです」と石橋さんは、声をだして笑った。
才能の限界を知ることで覚醒が始まる。
才能の限界を知ることで覚醒が始まる。
「大学は青山学院に進みます。通っていた高校のレベルからすると上位校ではないですが、私自身、高校ではトップクラスではなかったので」と苦笑する。
一般の我々からすると、青山学院は憧れの大学の一つだが、さすがノーベル賞や総理大臣の出身校となれば話はかわってくるようだ。
実際、東大へ進む生徒も多かった。
「高校は横須賀にある公立高校です。中学生のときまでは、勉強もスポーツでも目立っていました」。中学の野球部ではキャプテン。キャッチャーでクリーンナップだった。勉強もスポーツでも目立っていたが、「猛勉強も、猛特訓もしたことがなかった」と笑う。
「トップ高にも何をすることもなく合格できましたし、高校に進学するまでは、万能な人間だと思っていたんです」。
だから、高校でもトップを走るはずだった。
「でも、進学校では珍しいことではないんでしょうが、私より勉強ができて、スポーツもできる生徒がたくさんいて。野球部でもレギュラーじゃなかったです」。
野球は3年夏までつづけたが、「途中で気持ちが切れてしまった」という。
挫折を感じた?というと、首をふる。
「忘れるのが、得意」とこちらを笑わせる。
「挫折というマイナスなイメージはもたないようにしています。逆にハードルを上げて努力するプラスのイメージをもつようにしています」。
じつは、このときの教訓が今に生きているそうだ。
「会社運営も、そうですが、とにかくハードルを上げて、立ち向かうようにしています。そうしないと適当なところで満足してしまうでしょ」。
これが、高校時代の教訓。何もせずなんでもできたことで、「視座が低い人間になっていた」そうだ。
「それに気づけてよかった」と、いう。だから、今も、意図を明確にしたうえで、自分にハッパをかけつづけている。
ウィンドサーフィンと、アメリカ留学と、帰国と。
さて、大学生活をはじめた石橋さん。
青山学院というと渋谷のキャンパスをイメージするが、石橋さんが進んだ理系は厚木と世田谷にキャンパスがあった。石橋さんは町田でひとり暮らしをスタートする。
どんな学生生活だったんだろう。
「大学生になって、ウィンドサーフィンをはじめました。これにハマってしまって、1週間のうち3~4日は鎌倉の海にでかけていました」。
風がマストを押し、ボードが波を切る。
スポーツは極めて万能だ。
「じつは、高校生のときから体重がかわっていない」と石橋さん。
今も、フルマラソンを走ったりと、体調維持に勤めているそう。体重維持も、食を生業にしている人間にすると、かなり高いハードルだ。しかし、石橋さんは、『食を仕事にしているからこそ、プロとして太れない』と自らを律する。こちらも、石橋さんのいうハードルの一つ。
大学に入り、ウインドサーフィンに没頭するようになった石橋さん。3・4年生になると、就活が始まる。
就活の話を聞こうとすると、「大学卒業後、アメリカに留学するんです」という意外な答えが返ってきた。
そして、「よく海外留学を人生のターニングポイントという人がいるじゃないですか。私の場合は逆で、帰国したことがターニングポイントだったんです」。
どういうこと?
「UCSD(カリフォルニア大学サンディエゴ校)っていうんですが、大学と大学院のちょうど間っていうイメージの学校に留学します。1年半ちょっといて、OPTという1年間の労働許可を取得できたんです」。
1年間の労働許可は、更新が可能なんだそう。
「OPTを取れば、つぎに、とにかく1年働いて更新する。それを繰り返してグリーンカードを取得するのが一般的だったんです」。
じつは、「絶好の働き口もみつかった」と、石橋さん。ウインドサーフィンの会社だった。
「ウインドサーフィントリップにでかけたとき、現地に着くと、『日本人が来るから通訳をしてくれ』って言われたんです。その日本人っていうのが、日本で有名なウインドサーフィンのプロだったので、イエスと返答しました」。
「その縁で、その会社から『働かないか?』と誘っていただいたんです。またとないオファーだったんですが、待てよ、これを受けてしまうと、もう、アメリカから離れられないぞって。今度は、そういう思いがつよくなって、逆に不安になって」。
「帰国」の二文字が頭に浮かんだそうだ。
自由の国で人生を謳歌するつもりで、OPTを取得して、一歩を踏み出した。それにもかかわらず、「帰国」を選択する。
帰国がターニングポイントという一言の意味が理解できるエピソードだった。
人生ゲームと、リアルな人生と。
帰国後、石橋さんは、大手広告会社に就職する。
「3年半」と石橋さん。
たのしかった?と聞くと、大きく頷く。
「あるカーディーラーのプロモーションで神奈川県限定の『人生ゲーム』をつくったんです」。
神奈川、三浦市で育ってきた石橋さんには、うってつけのプロモーションだった。マスを進むごとに神奈川県で暮らす未来が映し出される。
「濃密な経験を積み重ねて、3年半。いちばんたのしいときに会社を離れます」。
もともと実家に戻るつもりはなかったが、時代は動く。
「ネオ・エモーションで外食事業をスタートするころです」と石橋さん。
水産の加工会社である「三崎恵水産」を母体に、外食に事業を広げる。創業者であるお父様の決断である。
「父はどちらかというと、トップダウンで会社を動かすタイプです。だから、やると言えば、止められません。ただ、外食の経験はありません。だから、それをカバーできればと、息子の私も、人生のコマを一つ動かしたんです」。
石橋さんは、ある外食大手に転職する。
「上場して2年後くらいの時期です。飲食事業を勉強するために入社したんですが、新たにスタートしたコンビニエンス事業に配属され、コンビニの店長になってしまいました」。
それもまた、人生。
進んだはずのコマは、でるサイコロの数で、進んではまた戻る。
「それで、これは長くいても勉強にならないと思って、退職します。でも、多少ネットワークは広がりましたし、当時、いっしょにやっていた仲間が数名、今、うちの会社で働いてくれています」。
ゲームで言えば、石橋さんは、「仲間を得た」となる。
新たなエモーションを生み出せ。
家業に入った石橋さんは、外食ではなく水産事業をメインに仕事をする。
「朝5時から水産の仕事をスタートして、仕入れなどを勉強します」。
活況ある漁港を体験する。小さなころのマグロの匂いが、石橋さんのからだにも染み込んだ。
「5年くらいですね。朝から市場で仕事をして、夕方5時くらいから10時くらいまで、飲食店のほうで働いてドリンクをつくっていました」。
広告代理店の仕事とは対極にあるような、現場の仕事を黙々とこなした。
「大きな転機は、海外に目を向けたことでしょうか。父の目がとどかないマグロの輸出を開始したんです」。
アメリカ留学の経験もある。英語も堪能ではないが、ある程度の会話なら支障がない。
「ここでアメリカに留学したことが、活きてきました」。
海外に出向き、販路の拡大に取り組む。
この事業は現在、10億円の規模になっている。
「中東、東南アジア、アメリカ。このあと、海外で、ある商社といっしょに飲食店をオープンします。シンガポールには今も3店舗あり、先日、マニラでもオープンしました」。
水産業をバックボーンに飲食事業が広がる。
ネオ・エモーションは、その外食を担っている会社である。
この2社をエンジンにして、古い体質の水産業界に新たなエモーションを起こす。海外進出、外食への領域拡大は、その舞台の一つ。
原動力は、いうまでもなく、石橋さんが信じる多くのスタッフたちだ。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
2026年2月16日月曜日
お値段以上の大衆居酒屋「大金星」、いよいよFC展開本格始動されます。
お値段以上の大衆居酒屋「大金星」(運営会社:倶楽部二十九 代表 酒井敏)、いよいよ「大金星」FC展開本格始動されます。
Yahoo!ニュース→全店黒字の居酒屋「大金星」 失敗経験を糧に商売に挑み続ける理由とは
zakⅡ→「大金星」が注目される理由 “お値段以上の大衆居酒屋”の成功戦略

~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
ついに両手にますかけ線が現る。
両手がますかけ線に・・・。
もともと左手がますかけ線あるので、強運でしたが、なんとこの数年で右手もますかけ線になってます。
「右手にますかけ線がある場合、人生経験を積み重ねてきた結果として、強運や粘り強さなどが授かったとされます」と言われてるので、さらに強運になればうれしい限りです。
※手のひらの画像を出そうと思いましたが、 戦国時代、武将たちが自分の手相、特に「ますかけ線」と呼ばれる天下取りの相を容易に見せなかった背景には、自身の命や運勢を敵に知られないため、また運気を他人に吸い取られないためとあった伏せておきます。
個人情報なので。
2026年2月10日火曜日
株式会社スティック・ピーエス/株式会社コンサルティング・オブ・デルタ 代表取締役社長 横山公介氏登場。
“飲食の戦士たち”に株式会社スティック・ピーエス/株式会社コンサルティング・オブ・デルタ 代表取締役社長 横山公介氏を取り上げました。
ヤンキーとビリヤード。
横山さんは1974年、狛江市に生まれる。姉2人、兄1人。横山さんが生まれたときには、お父様はすでにアパレルの会社を起ち上げておられた。
お母様を中心に、やさしさに包まれた家庭だった。時代は第二次ベビーブーム。小学校が新たに生まれ、中学は5クラスあった。
お兄様とおなじ中学に入学する。「あの横山の弟が入学してくる」と知って、上級生たちは興味津々だった。
「兄は、のちに沖縄に移住し、プロダイバーになって、ダイバーの専門雑誌に連載を持つくらいその世界で有名になるんですが、当時も地元ではかなりの有名人で、『横山の弟』というだけで、私は、先輩たちから特別扱いです」。
入学早々、いかついヤンキーに肩を組まれ、耳もとで「ハンドボール部な」と囁かれた。横山さんの弟なら、ハンドボール部に招待しないといけないと、暗黙の了解があった。
ハンドボール部は、先輩も、後輩もみんな横山兄同様、ヤンキーだった。
横山さんはヤンキーではなかったが、ふつうのレールからは外れていた。
「長女は、もう大学生で、大学を休業してフランスへ。次女は、イタリアへ。父は、再婚相手と暮らしていて、うちには、兄と、私だけ」。
当時の食生活について、横山さんは「父が、たぶん、うちに来てつくってくれていたんだと思います」と、記憶をたどるように語る。ただ、さだかではない。横山さん自身、家にいたかどうかも、さだかではないからだ。
「中学2年のとき、ポール・ニューマンとトム・クルーズの映画のハスラー2が大ヒットします。ハスラーの25年ぶりの続編です。トム・クルーズがかっこよくて。日本でもビリヤードが流行りだし、ぼくもビリヤード場に入り浸り、朝まで過ごしていました」。
ビリヤードにハマる中学2年生。周りはすべて幼く映った。
キュー1本、30万円。
「もともと勉強はきらいじゃなかったんです。ただ、高校進学では、内申点が悪くて行きたい高校に進めませんでした。その苦い経験もあったんで、大学は一浪して、行きたい大学に進みました」。
進学したあと、始めたバイト先に、ビリヤード台があった。もちろん、大学生になっても、ビリヤードは大好きだ。
「バイトができて、ビリヤードもできる文句なしのロケーションでした」と横山さん。
バックスピン、オーバースピン、マッセ…、つぎつぎ技が決まる。
文字通り、ハスラー2。
大学じゃなく、バイト先で、青春が色付く。いつしか、ビリヤードは、趣味の領域を越えて、仕事のひとつになった。
大学を卒業した横山さんは、ビリヤードで使うキューの輸入業を開始する。
「きっかけは、アメリカで有名なキューの職人に電話をかけたことなんです。8年先まで予約で埋まっていて断られたんですが、中古のマーケットになら俺のキューがあるからよければ探してみてくれって。ネットもまだないような時代だったんですが、運よく希望のキューがみつかって。これを仕事にしたらどうだろうか、と」。
そのときのキューのお値段は、30万円。「なかには、100万円を超えるキューもあるんですよ」と、たのしげに語る。
30万円のキューを輸入して、60万円でセールスする。月に1~2本セールスできただけで生計が立った。
「ほかより安かったから、口コミで広がりました。キューのメンテナンスもやっていて、そちらのオーダーも少なくなかったですね」と横山さん。それにしても、あの1本のキューがうん十万というのは興味深い。
横山さんが進んだのは、数学科だったが、数学の幾何学と、ビリヤードは関係があるんだろうか? 球と球があたる角度、クッションにあてる角度。バックスピンをかけた球は、狙った球を穴に落としてピタッと停止する。
まるで、力学と数学、そして映画のワンシーンだ。
大喧嘩の後始末。
輸入事業は、5年つづけた。26歳で結婚し、バイト時代の後輩に誘われて、27歳で、アミューズメント会社に就職している。
「事業が急拡大するタイミングでした」と横山さん。事業の拡大に合わせて、横山さんもスピード出世を遂げ、1年半で事業部長に昇格している。
ただし、休む暇もない。朝まで仕事はつづき、自宅に帰るのは、もうみんなが起き出している頃。
「社長も高く評価してくださっていたんですが、ある日、社長と大喧嘩して、見事、店長に降格です(笑)」。
露骨な人事だった。今まで経験したことのないインターネットカフェ事業に異動。しかも、問題山積みの店舗に配属された。
「やめさせようって魂胆がまるわかりだった」と横山さん。
「でも、こっちは、ぎゃくにギャフンと言わせてやるって」。
横山さんが着任してから、無法地帯だった店舗はいっぺんする。
「お客様とも、従業員とも、会話を重ねました。ルールと、ルールを破るとどうなるか。一部の問題あるお客様は、出禁に。警察とも連携して、違法行為ができないようにしました」。
ある一部のお客様にとっては、不自由なネットカフェとなったが、業績は落ちるどころか、アップした。
半年後、辞めさせるはずだった横山さんに、月商3600万円の、インターネットカフェ事業、最大店舗へ異動という辞令が下りる。
その1年後に事業部長に再昇格。これが、横山さんの、大喧嘩の後始末。
部下の恩返しと、先輩の恩返し。
27歳で就職して12年、39歳で横山さんはその会社を退職している。会社が買収されたことも大きな要因だった。
ブライダルの会社などを経て、現在、社長を務める株式会社コンサルティング・オブ・デルタに転職。横山さんをヘッドハンティングしたのは、当時の社長で、現会長の高橋さん。
アミューズメント会社では、横山さんの部下だった人だ。
「お断りしたんですが、じゃぁ、定期的にお会いするだけって言いつつ、ふたたび交流がはじまって。いつのまにか店舗も用意されて。じゃぁ、やりましょうかって」。
4歳年下。
「『なぜ、ぼくに声をかけてくれたんですか?』と聞くと『横山さんだけが、ぼくを人間として扱ってくれたから』って」。
部下の恩返し。その恩返しに応えるように、横山さんは事業を拡大していく。
「株式会社コンサルティング・オブ・デルタは、『ダーツ カフェ デルタ(Darts Cafe DELTA)』というダーツカフェを現在19店舗運営するほか、ダーツマシンの設置やレンタル、ダーツバー運営のノウハウを活かした集客支援などのコンサルティングを行っています」。
「もう1社、私が社長を務めているのが、グループの株式会社スティック・ピーエスです。アミューズメントバーの運営が主な事業です。定額制アミューズメントバー「D.P.S」が主力ブランドで東京をはじめ、埼玉、千葉、福岡、神戸にオープンしています」。
株式会社スティック・ピーエス、2021年設立の若い会社だ。
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
2026年2月3日火曜日
株式会社ウィザー 代表取締役 西岡敬悟氏登場。
“飲食の戦士たち”に株式会社ウィザー 代表取締役 西岡敬悟氏を取り上げました。
先生の一言が人生の分岐点。
今回、ご登場いただいた西岡さんが生まれたのは愛媛県の東部、香川県に隣接した四国中央市。大王製紙の本社があり、日本一の紙の町と言われている。
西岡さんは、男三兄弟の三男。兄2人を追いかけるように、小・中を過ごした西岡さんだったが、高校の時に、兄弟と別れ、母といっしょに母の出身である香川県に移り住んだ。
当時のいきさつをうかがった。
「母方の祖母の体調が悪くなったこともあって、母が香川に移り、私は高校を転校してついていったんです」。
「転校して偏差値がぐっと下がった」と西岡さんは笑う。
転校先で、今でも付き合いのある友達もできたが、転校当初は孤立していた。中学時代と同様、ソフトテニス部に入部したが、3ヶ月で退部。
「高校で、母と二人暮らし。父と兄たちとも離れて。今思うと、一つのターニングポイントだったかもしれません」。
偏差値が低かったので、授業は余裕でついていけた。だが、そのぶん、荒れている生徒たちもいた。転校生の西岡さんを悪ふざけで絡んできた生徒もいた。
西岡さんは、進学コースだったが大学に進学するつもりもなく美容師になろうと思っていたそうだ。
「私は数学が好きで、理系を選択していたんです。理系は全員、進学コース。だから、進学しない生徒もいました」。
「もし、美容師になっていたらどうなっていたんでしょうね?」とうかがうと、首を傾げる。
「美容師になろうと、思っていたと言っても、ただ、かっこいいかな、くらいで。進路の先生に『将来、独立するんだったら、大学に行って経済を勉強したほうがいい』と、言われて進路を変更しました」。
「美容師になっていたら、どうなっていたかわからないですが、今とはちがう人生だったのはたしか。その意味では先生のあの一言が私の人生の分岐点だったわけですね」。
s 西岡さんは、次兄を追いかけるように、東京の大学に進学する。
飲食で初バイト。八王子の夜と、西岡さんのささやき。
東京の八王子。大学。次兄と二人暮らし。
最初の2年間は、大学に通い、授業では教授の話に耳を傾けた。
「3年から飲食店でバイトをはじめて、そのあと八王子で居酒屋のキャッチの仕事も開始します」。
これが飲食との出会い。
「将来、社長になろうと漠然と考えていたことが、この頃には、だんだんと明確な目標となっていました」。
「お金に興味があった」と西岡さんは正直に言う。大学の教授に「それは悪いことではない」と教わった。お金をもつことで、自分を縛るものから解放される。
「祖父も株を運用してましたし、今、次兄は今、投資家となって生活しています。そういう影響もあったのかもしれません」。
「キャッチのバイトは儲かりましたか?」とたずねると「時給換算すれば1600円くらいだったんで、ふつうのバイトの倍くらいは儲かりましたが、私は八王子だったんで、たとえば新宿のキャッチと比較すると半分くらいでした」との回答。
夜の八王子。
きらびやかで雑多な新宿と比較すれば、ネオンの数も少ない。キャッチの取り分も少なかった。それでも、月に15万円くらいになったというから、ほかの学生バイトにはもどれない。
「とにかく、独立と、お金儲けという考えがあったもんですから、就職するなら不動産か、証券かと思っていました。たまたま大学にいらした証券会社の方から話を聞いて。大手じゃなかったので転勤もないと聞いて、その会社に就職します」。
証券マンになる。アベノミクスがスタートした頃だった。
証券会社、期待の新人が3年でスピンアウト。
「アベノミクスがスタートした頃なので、タイミング的にはいちばんいいときでした。就職したのは上場会社でしたが、オーナー会社ということもあって人情も熱かった。とくに私が配属されたのは、その会社のなかでも温厚でいい人ばかりの部署だったんです」。
西岡さんの話によると、新人がその部署に配属されるのは数年ぶりで、キャリアの長いおじさん連中が「あいつは大事に育てようと話し合ってくれていた」そうだ。
お酒が苦手な西岡さん相手に、「乾杯だけな、一口つけたら、あとはオレが飲むから」と宴会でも助け舟がでたそうだ。
期待もされていた。
「最初は、1年勉強して辞めるつもりだったんですが、居心地が良くって、このままサラリーマンでもいいかなと思ったこともありました」。
辞めるきっかけは、当時の部長が西岡さんを励ますつもりで公開した年収だった。
「自慢するつもりじゃなかったはずです。キャリアの一つとして教えてくださったと思うんです。『オレの年収は2000万円だ』って」。
逆効果だった。
「だってね。朝から深夜まではたらいて。土日は接待ゴルフです。その金額を聞くまでは、部長は部長、私は私と思っていたんで、仕事ぶりを知っていてもピンときていなかったです」。
「自分事じゃなかった?」と聞いてみた。
「そうなんです。その金額を聞いて、部長くらい仕事をしても2000万円なんだって。突然、自分事になったんです」。
もう1人。「もともとバリバリの営業で、2年間ほど内勤にいた方がもどって来られたんです。いい意味で、めちゃくちゃな人で、営業数字がヤバいんです。もちろん、寝る暇もなくはたらいていらっしゃいました」。
居心地は悪くなかったが、10年後、20年後、同じように仕事ができるとは思えなかった。部長たちとは、住む世界が違うと思った。
しかし、次へ進むと言っても明確な目標はない。独立するといってもあてがない。
「でも、どこか自分に自信があって。なんとかなると、あてもないのに退職しました」。
同世代と比較しても高い収入だったが、それもいっしょに捨て去った。
うそか、まことか、加盟金50円。
25歳。フリーター生活がスタートする。
「サラリーマンを辞めて独立、という絵を描いていたんですが、金融の知識が少しあるだけで、独立するノウハウはなにもない。だから、ひとまず、居酒屋でバイトをはじめました」。
キャッチのバイト以来、ふたたび飲食の世界へ。
「2年半くらい」と西岡さんがフリーター時代を振り返る。
「飲食店のバイトと言ってもキッチンの経験はありませんでした。ただ、バイトのなかではいちばん年上だったからでしょうね。オーナーから業務委託の話をいただいて」。
「共同経営でやろう」という仲間も現れた。
「ついに独立に手が届くまでになりました」。
ただ、共同経営には抵抗があった。共同経営はうまくいかないと聞いていたからだ。
軍資金は学生時代から貯蓄した700万円。
「一人で独立するとなると、ホールの経験しかなかったもんですから、どうしようかと。そのときフランチャイズという手段を知ったんです」。
「人気店のフランチャイズなら間違いないだろう」と思ったが、そのぶん、初期投資が高かった。
「後先考えず証券会社を辞めるような人間ですが、じつは慎重なところもあって。なんとか手持ちの700万円以内で収めたかったんです」。
フランチャイズなら加盟金だけで数百万円。物件取得費を合わせると、700万円で収めるのは、かなり難しい。
西岡さんも「難しかった」という。
ただ、そのとき、あるフランチャイズの加盟店募集の広告をみると、うそか、まことか、そこには、「加盟金50円」と書かれていた。
初月、売上86万円の大ピンチ。
鶏ヤロー。代表の和田成司さんには、「飲食の戦士たち」にも過去2回ご登場いただいている。「加盟金50円」のお話もうかがっている。
「最初はいっちゃなんですが、詐欺かなと。でも、詐欺でも50円はないでしょ(笑)。それで、思い切って連絡したところ、すでにフランチャイズをされている方が、売上データまですべて公開してくださったんです。もちろん、50円もほんとうで、仲間を募集する意味合いもあったみたいです」。
「50円」。
加盟金はないのとおなじだし、ロイヤリティもじつは50円。(2025年現在は、加盟金200万円、ロイヤリティ10万円)。
「ビジネスモデルもほかにはないほどシンプルで明瞭だった」と西岡さん。加盟金が安いぶん、物件探しは自分でしなければならなかった。
「和田さんから、『とにかく大学の近くで』と言われていたんで。それで、小平市の鷹の台でオープンするんです。鷹の台には、武蔵野美術大学を含めて4つの大学があったんです」。
フリーターの2年半で飲食は勉強したが、物件に関しては、まったくの素人。大学の近くといっても、グーグル・マップで調べただけ。
人流などは載っていない。
「家賃16万円。加盟金を含めて、700万円以内に収まりました」。
アルバイトを採用し、準備万端、2月に華々しくオープンする。しかし、予測は見事に大外れ。「オープン景気もなかった」と苦笑する。
「オープンするまでは、なんとなく300万円くらいはいくだろうと。それをもとに計算していたんです。300万円を売り上げれば、利益も十分残ります。でも、実際には」。
西岡さんは、ため息をついてから言った。
「初月が税込み、86万円」。
翌月、若干アップして110万円。最高で150万円。
アルバイトを何名か解雇した。すると、ほかのアルバイトも辞めていった。徒歩数分の女子学生が一人残っただけ。
「なにかあれば言ってくださいって(笑)。臨時バイトです」。
100万円で10万円程度が残った。基本、ワンオペ。
「たまにね。10名くらいのお客さんがいらっしゃるウルトラCがあって、そんなときは、その子に連絡するんです。そうしたら、数分後にすっぴんで『おはようございます』って」。
1年半くらいつづけた。希望はなかった。しかも、パンデミックが起こる。130~150万円だった売上が、30~40万円に下がった。
「人生のなかでいちばんきつかったですね。あのときが」。
30万円、40万円、家賃だけで、売上の半分を占めた。
「もう、どうしようもない」と呟いたときに、緊急支援融資が始まった。
・・・続き
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