2022年8月30日火曜日

東和フードサービス株式会社 代表取締役社長CEO 岸野誠人氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”東和フードサービス株式会社 代表取締役社長CEO 岸野誠人氏登場。

本文より~

生い立ち。

東和フードサービス株式会社が誕生して25年となる。創業から数えると50年になり、父、岸野禎則氏が創業者。2018年、その父、禎則氏が急逝され、現在は今回ご登場いただいた岸野誠人氏が社長を務めている。
事業の幅が広い。グループ全体では1,000億円をオーバーする勢いだ。外食と不動産とアミューズメント。父、禎則氏が存命の頃は、誠人氏がアミューズメント事業を、禎則氏が外食と不動産事業を統括していたそうだ。
「そういう意味ではすみ分けができていました。私自身は2006年、東和産業に入社し、2016年に東和フードサービスの取締役、2018年に社長に就任しました。父は真面目で、仕事のことは常に頭にあったと思いますが、家族を大切にする人でした」。
忙しい仕事の合間に相手をしてくれたキャッチボールは、今も記憶に残っている。
誠人氏が生まれたのは1977年。「まだ創業して3~4年の頃。いちばん忙しい時だったかもしれませんね」。
子どもの頃の自己評価は、「わりとひょうきんな奴」。
中学から私立の玉川学園に進学し、玉川大学まで進んでいる。
「玉川学園に入学し、ラグビーをはじめます。おぼっちゃん学校だったので、ラグビーがあって、ある意味、バランスが取れていたんじゃないでしょうか」。
<One for all All for one>
「ネットワークができたという意味でもそうですが、人生観にも影響を受けたスポーツです。自己犠牲やチームワーク、規律もすべてラグビーを通して知りました。4番でフォワード、ロックと呼ばれるポジションでした」。
4番はスクラムを組む選手。
ラインアウトになったときはジャンパーとなって空中戦を繰り広げ、地上では相手選手を蹴散らし、前進する。大型選手が多いのはそのためだ。
むろん、誠人氏も昔から大きかった。

アメリカ、ニューヨーク。

「大学でもラグビーを続けますが、入部したのは3年生になってからなんです。1、2年の時は海外旅行とか、ラグビーとはちがう人生勉強をしていました」。
大学での専攻はアート。今とは、まるで畑違いだ。創業者の父、禎則氏は、事業の継承についてなにか言われていなかったのだろうか?
「大学生になっても、私自身はそう意識はしていなかったですね。父からは『やりたいならやればいい』と言われていました」。
ただし、「やるなら、覚悟がいる」とも言われていたそうだ。
「覚悟」。
今ならその意味はわかる。当時は、その重みをどれだけ理解されていたのだろうか。
就職についてもうかがった。
「当時は、就職氷河期真っ只中です。大手企業への就職は現実的ではなかったですね」。
それで海外へ?
「そうですね。もともと海外に興味があったことも影響しています。留学を選択し、ニューヨークの大学院に進みました。MBAを取得したのは、その時です。9.11はニューヨークにいました。おなじニューヨークでも、マンハッタンではなく、クイーンズだったので被害はなかったです」。
ちなみに、9.11は、引っ越しをした翌日だったそうだ。TVも設置していなかったので、日本からの国際電話で、テロを知ったそうだ。
「母から心配する電話があって。最初はなんのことかと思っていましたが、街頭のTVでニュースを観て、凍りつきました」。
アメリカでは合計5年生活している。
「MBAを取得したあと、そのままニューヨークで電通に就職します」。
つまり、誠人氏はニューヨークで社会人生活をスタートしたことになる。電通に就職したのは、マーケティングを専攻していたからだという。玉川大学時代のアートとは、先端という意味で似ているが、カテゴリーは畑違い。さて、どんな社会人生活がスタートするんだろう?

マンハッタンを駆ける、社会人1年生。

「アメリカで仕事をスタートするわけですが、最初に驚いたのは人の動きが激しいことです。日本とは全然違います。だって、朝、仕事を一緒にしていた人が、夜にはもういない。そういう世界です」。
日本ではちょっとイメージできないドライな世界ですね?
「そう。『あれ? あいつはどこいった?』っていったら、『あいつはクビ』だって(笑)。でも向こうは、そういう社会です。クビになってもマイナスにならないし、転職回数もハンディになりません」。
今では、日本でも転職回数を気にする会社は減ったが、それでもまだまだ少数派である。組織と個人、どちらを優先するかと問えば、アメリカ人は個人といい、一昔前の日本人なら間違いなく組織と答える。
「そういった価値観や世界観を勉強することになりました。そういう意味でも、ニューヨークに行ったのは間違いなく私のターニングポイントです」。
MBAを取得したことはもちろんだが、アメリカ的な仕事観、価値観を体験したことも、貴重な財産。はたして、アメリカ帰りの二代目社長は、どんな世界観をつくりだすのだろうか?

社長就任、2年後、コロナの時代へ。

ニューヨークで社会人をスタートした誠人氏だったが、むろん、父、禎則氏からも様々なことを学習し、受け継いでいる。「偉大な経営者」と言っているのは、ただの賛辞ではない。
「社長としては、まだまだですが、事業の継承は比較的スムーズにできたと思っています。社長になる2年前から取締役だったので、だいたいはわかっていましたから」。
問題はなかったが、社長となって2年、コロナ禍に突入する。
「たしかに、コロナ禍の下では難しいかじ取りとなりました。アミューズメント事業も苦戦しましたし、飲食も例外ではありません」。
現在、東和フードサービスのブランドは、「椿屋珈琲」「椿屋カフェ」「椿屋茶房」 、パスタ&ケーキ「ダッキーダック」など、父、禎則氏の代から大きな違いはない。
ただ、ウエイトは異なってきている。催事事業やEC事業に重心が移っているのは、その一例。
「朝の情報番組で取り上げてもらった、『シャインマスカットのチーズズコット』『あまおう苺のズコット』は10万ピース以上のヒット商品となりました。また、『椿屋』、創業25周年の記念プロジェクトとして開発したレトルトタイプの『椿屋カレー』『椿屋ハヤシソース』も販売開始から10ヵ月で12万食以上の出荷を記録しています」。
イートインからテイクアウトへというのも一つの戦略。
むろん、催事やEC事業が加速する。2022年4月の決算短信で確認すると、催事事業全体のセールスが前年比273.9%となっていた。

・・・続き

東和フードサービス株式会社 代表取締役社長CEO 岸野誠人氏

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2022年8月28日日曜日

インターンシップ再開。

先週8月22日(月)、29日(月)より文京学院大学の女子学生が各1人インターンシップで2週間学びに来てくれます。

電話もしたことない学生が、自らリストアップし取材依頼のアポイントを入れ社長取材に立ち会うというプログラム内容です。
2週間ですが、企業様に電話してアポイント入れ、取材に立ち会うのはすごい成長になります。
たぶんこんな経験は他社では経験できません。
コロナ禍で3年ストップしてたので再開出来てよかったです。
96x96

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2022年8月20日土曜日

東スポの「東スポからあげ」と「筑前屋」(株式会社カスタマーズディライト様)がコラボ。

8月3日より東京スポーツ新聞の「東スポからあげ」と「やきとん 筑前屋」(株式会社カスタマーズディライト)がコラボ。
8/3~5日イベント開催。

攻める夏の陣! 東スポからあげ 筑前屋に殴り込み!! 


東スポからあげが「筑前屋」の期間限定グランドメニューに! 

食べ比べイベントは大盛況



96x96

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

この1週間は1日社長取材2社!

この1週間は1日2社、「飲食の戦士たち」の社長取材をさせて頂いた。

ハードでしたが楽しかった!!

コロナ禍で企業訪問すら出来なかっただけに、社長の生き様を聴く取材はおもしろい。

もう直ぐ900連載!業界特化型でこの社長取材の数は真似できない!

この貴重な財産をどうやったらもっと多くの人に伝わるかを模索し、再現風に動画でも展開しようと考えました。

これもまたおもしろかなりそう。

万人うけしなくても飲食業界に興味ある方が、人の生き様を見て、自分も頑張ろってキッカケになればいいのではと考えてます。

個人的にはもう直ぐ60歳と未だに信じられない年齢になり、こんな機会をたくさんもらえありがたい限りです。

コツコツ積み上げれば、誰でも他人より優れたところが出てくる。

まさに継続は力なりです。

96x96

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン


2022年8月16日火曜日

株式会社Global Ocean 代表取締役社長 佐藤洋一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社Global Ocean 代表取締役社長 佐藤洋一氏登場。


本文より~

スポーツ万能。

「おとこは、中華に魅了されますよね」と、佐藤氏。炎がたちあがる、あの瞬間がたまらないという。だから、中華の道に進んだ。
「もともとお父さんが料理好きだったものですから、それにも影響されて、料理の世界がいいと思ったんだと思います」。
極貧だった、と佐藤氏は笑う。これは子ども時代の話。
「団地暮らしです。生活もギリギリだったんじゃないでしょうか。ディズニーランドに行ったのは、一度切り」。
極貧というが、無料教室の習い事は色々した。とくに格闘系の習い事がおおかった。極真空手、合気道、少林寺拳法、キックボクシングなど小さい大会ではきまって優勝した。
運動神経がいいのは、父譲り。
少林寺は3段。中学で初段になり、高校まで6年間やっている。そのあと、ニコラス・ペタスにつき、キックボクシングをやっている。
めざしたのは、ジャッキーチェン。じつは、俳優にもなっている。
破天荒な人生だ。
大学にも進んでいる。18歳から俳優になり、料理の専門学校にも進んだ。
俳優で言えば、事務所には所属していなかったが、舞台に出たり、さとうきび畑の唄にもエキストラで登場している。
「20代は失敗もできるじゃないですか。だから、色々、チャレンジしたかった。大学生も、俳優も、料理の専門学校も、チャレンジするために進んだ道です」。
ただし、予定していた道だったかどうかは定かではない。「大学進学で、むちゃくちゃ落ち込んだ話があるんです。もともと高校の最初の頃は成績が悪かったんですが、やればできると母親からハッパをかけられたことで成績がのび、指定校推薦までいただけるようになります」。
いい話だ。お母さまは、佐藤氏の教師でもあるらしい。
「ただ、絶対、受かるはずだったのに落ちちゃった。ありえないんです。うちの高校、50年の歴史のなかで初めてだそうです。ちょうど、彼女にもふられて、もう、むちゃくちゃ落ち込みました」。
母の一言で立ち直りはしたが、50年に1人とはたしかにきつい。
「でしょ。理由はわかんないんです。それで気持ちを切り替え、進学したのがわりとゆるい大学で、俳優もできたわけですが、けっきょく俳優は1年くらいでやめています。ジャッキーチェンはあきらめました笑」。
指定校推薦はアウトだったが、ある意味、幸いだったのかもしれない。満足できない。だから、チャレンジはつづく。

20歳のオーナー。

独立したのは、何歳ですか?
「19歳の後半から物件を探しはじめて、20歳の時に独立しました。創業店は鴨居にオープンしました。初期投資は600万円。私と親で半分、半分です」。
25坪で、家賃は20万円。周囲からは反対された。ただ、ご両親だけが応援してくれたそうだ。
大学生だったんですよね?
「ええ、大学にも通っていました。料理ですか? 料理は、料理人を中国でスカウトしました」。
中国人をスカウトですか?
「19歳から物件を探していたんですが、じつは料理人も探していて、夏休みにハルピンに渡ります。旅費の関係で、東北のハルピンにしかいけなかった笑。向こうで、そうですね、20軒くらい食べ歩き、料理人をみては『ジャパン カモン』って。もちろん、中国語も、英語もできません。にもかかわらず、奇跡ですが、声をかけたうちの1人が連絡先をくれたんです。当時32歳くらいの人です。帰国してから、オープンも決まりましたので、その人に連絡を取り、日本に来ていただきました」。
「たまたまなんですが、その人のお父さんが料理学校の講師で、日本に来てくれた料理人は中国にもどっていますが、お父さんのネットワークもあって、今も料理人を紹介してもらったりしています」。
偶然といって片づけていいのか、わからない。たしかに、奇跡みたいな話だ。
「19歳の若造を信用してくれて。来日してからも、けっしていい待遇を用意できたわけではありませんが、がんばってくれました。今でも感謝しています」。
店も確保でき、料理人も採用できた。しかも、料理人は本場の中国人。だが、オープンして3ヵ月は、毎日、客数ゼロを更新したらしい。

客数、ゼロ行進。

「みんなに聞かれますが、ほんとうにゼロだったんです。鴨居は、おじいちゃん、おばあちゃんばかりというか、新店には抵抗があったんでしょうね。ただ、なぜか、そんなに心配はしていなかったです。たぶん、若いうちの失敗は取り返せる、と思っていたからでしょうね」。
とはいえ、さすがにゼロ行進は辛い。そのあとはどうなっていったんだろうか? ちなみに現在は、鴨居でナンバー1のセールスを記録する店になっている。
「店のなかにいても中国人と2人でしょ。言葉も通じない笑。だから私は、店の前に立って、地域のおじいちゃん、おばあちゃんに声をかけて。お名前はもちろんですが、ご家族の構成まで、ぜんぶ、メモして。お孫さん誕生日ですね、なんて言葉を交わしているうちに、ボチボチですがお客さんがいらして。半年経った頃には、ありがたいことに、もう連日満席です」。
人生がかかっている。
「私はジャッキーチェンにもなりたかったですが、じつは社長にもなりたかった。ようやくその一歩ですね。お店が繁盛すると、反対していた人もみんな『すごい、すごい』と言ってくれて。あまり褒められたことがないので、その意味でもお店をオープンしてよかったなと思います」。
今も、お客様のお目当ては、餃子。
「餃子は、最初の料理人が残していったうちの財産です。タレからして、ぜんぜん違います。じつは、このレシピは今も私しか知らないんです。秘伝のレシピです」。
最初は、1店舗だけでいいと思っていたらしい。
「ただ、成功して褒めてもらったでしょ。今までそんな風に褒められたことがなかったので、もっと褒められたくなって」。
それで新店ですか?
「そうです。22歳の時。スケルトンからだったので、本を読み漁ったりして。けっきょく6000万円ちかくかかりました。43坪100席、家賃は140万円です」。
とほうもないステージに入っていく。

・・・続き

株式会社Global Ocean 代表取締役社長 佐藤洋一氏

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2022年8月10日水曜日

SunnyHills Japan株式会社 日本法人経営責任者 堂園有的氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”SunnyHills Japan株式会社 日本法人経営責任者 堂園有的氏登場。

本文より~

パイナップルケーキと台湾茶のおもてなしと、世界戦略。

どこからお話すればいいだろうか?
創業者の許銘仁(英語名:マイケル)氏からだろうか、それともパイナップルケーキ、もしかしたら隈研吾氏から始めたほうが興味がわくだろうか。
SunnyHills Japanが誕生したのは2013年のこと。南青山に奇抜な木組みの店舗がオープンする。木材が幾重にも重ねられ、森のようなイメージ。世界的な建築家である隈研吾氏によるデザインだ。
なかに入ると、2階のフロアに案内され、パイナップルケーキと台湾茶が振る舞われる。隈研吾氏のデザインはもちろん、おもてなしもまた日本ではなかなか体験できない世界観だ。
パイナップルケーキに話を移すと、パイナップルケーキは台湾で鳳梨酥(オンライソー)と言われる、台湾ではもっとも有名な銘菓の一つ。
「ただ、安価な商品が多かったのも事実」。そう語るのは、今回、ご登場いただいたSunnyHills Japan株式会社のゼネラルマネージャー堂園氏。
「台湾政府は1960年代から70年にかけて国策として、パイナップルケーキの生産を進めました」。
たしかに台湾のみやげものとして、一定の認知はある。ただし、品質には多少なりとも問題があったようだ。当時50歳だった創業者、許銘仁(以下英語名のマイケルを用いる)氏は、そこに目をつけた。
「私たちはマイケルと英語名で言っていますが、彼は、台湾の半導体商社AITの創業者です。簡単に言えば、使い切れないお金持ちです(笑)」。
潤沢な資金をどうするかで、人間性が問われる。マイケル氏は、台湾の農業を扶け、生まれ故郷に恩返ししようと動き出し、2009年、台湾の南投県八卦山麓に「微熱山丘(サニーヒルズ)」を創業。
パイナップルケーキの世界戦略という、壮大な計画がスタートする。
台湾に初のショップをオープンしたのち、シンガポール、上海、香港にも進出。そして、世界ブランドに育てるために、2013年、東京に進出することになった。
これが、南青山にショップがオープンする、言い方を変えれば「森」が生まれた背景だ。
現在は、南青山だけでなく、「GINZA SIX」や「ルクア大阪」にもショップが設けられている。むろん、オンラインショップでも購入可能だ。
ところで、堂園氏は、どういう経緯でゼネラルマネージャーに就任したんだろうか?

設計担当者の1人が、ゼネラルマネージャーになる。

堂園氏は1982年6月14日生まれ。子どもの頃からバイオリンを習っていたという秀才である。アメリカでの生活も体験している。「小学校の頃と大学院ですね。父親のアメリカ転勤で、私もそちらで生活します」。
高校から慶應に進んでいる。「建築家になろうと思ったのは大学4年。祖父が大手のゼネコンの設計士だった影響もあったんだと思います」。
建築の勉強するためにアメリカの大学院に進み、デンマークで半年、北京で1年、建築の修行を重ねている。そして、隈研吾の下にいく。
「隈研吾建築都市設計事務所に就職するのは、難関でしたが、幸い課題をクリアし、面白いと評価いただき、採用いただきました。じつは、南青山のショップの設計を担当していたんです」。
もともとこの建物の設計者だったんですか?
「そうなんです。隈さんはなんでも任せてくれるんですが、トイレだけは、なかなかOKがでなかった。何十回も描き直しましたね(笑)」。
設計図はできても、特殊なデザインだけに建築会社がなかなか決まらなかったという。「5社は断られたと思います。唯一、神社仏閣も手掛けている建築会社さんが、面白そうだと。だれもかれもが儲けとかは関係なく、『面白い』という一言で、動くんです。もう、そういう世界なんでしょうね。もちろん、建築はたいへんだったと思います。木組みだけで4ヵ月もかかっています」。
木材は岐阜県産のヒノキ。日本でもっとも有名な神社にも利用されている木材だそうだ。堂園氏にとっても、記憶に残る作品だったに違いない。
しかし、どうして?
「そうですよね。私だってまさかゼネラルマネージャーになるなんて思ってもなかったです(笑)」。
その話をつづけよう。

パイナップルケーキの価値を知る日本人。

「華々しくオープンしたものの、売上が想定を下回ります。ニュース性は抜群だったんです。隈研吾の名前にあのデザインでしょ。ニュースバリューもあり、TVや雑誌にもたびたび取り上げられます」。
しかし、一定の効果はあっても、それが逆に、アンバランスな生産を生みだしたそうだ。「品切れ」も続出。計画通りに進まない。
「マイケルにとって、売上自体は問題ではなかった。ただ、食べてもらわないとブランディングも始まらないというんですね」。
いわば、その苦境を、マイケル氏は、ビジネスコンサルではなく、この森を設計した1人の日本人にゆだねることにした。日本のなかでいちばんマイケル氏の思いと、パイナップルケーキの価値を知っているという理由だけで。
「設計で何度も台湾にも行きましたし、マイケルとも話をしています。だから、マイケルがいうのは正しいです。日本でいちばん、マイケルのことも、パイナップルケーキのことも知っていましたから。とはいえ、未知数な人間です。飲食の経験はありません。それでも、オファーを受けたのは、やはりマイケルという人間の存在と、ブランディングに興味もありましたし、自分が手がけた作品に命を吹き込むような、そんな仕事ができれば幅が広がると思ったからです」。
それが2014年、8年前のこと。オープンから1年ちかく経った頃の話。
飲食の経験はない。当初はスタッフを動かすことにも四苦八苦したそうだ。
「私がショップに立って、『ゼネラルマネージャーです』と言ったら、買ってくれるお客さんも少なくなかったんですが、じゃぁ、それをアルバイトができるかといえばノーですよね」。
その時、堂園氏は、マイケル氏や隈研吾氏の流儀を採用することにした。
「マイケルも、隈さんも、相手に任すことで、逆に自身のしたいことを実現している稀有な人なんです」。
そういわれると、なかなか高いかハードルに思えるが。
さて、未知数な人間にかけたマイケル氏の運命はどうなるんだろうか?

催事とオンラインショップと。

「南青山のショップもけっして悪くはなかったんですが、催事がある意味、起爆剤となりました」。
催事ですか?
「そうです。実をいうと、最初は、催事に乗り気じゃなかったんです。ブランディングには逆効果と思っていたから。ですが、色々なオファーをいただくなかでもっと頑張りたいスタッフたちの気持ちもあり、断り続けることも難しくなり催事をはじめていきます」。
最初は、なかなかうまくいかなかったそうだ。
「うちの会社ってやっぱりちょっとヘンなんですね。だって、ブランディング一つとっても、いきなり隈研吾ですからね。そういうことに興味をもった、取引先デパートの元バイヤーが働かせて欲しいと応募してきてくれたんです」。 そのスタッフに催事を任すことで戦略が再構築され、催事を通し、パイナップルケーキの認知度が、東京以外でも広がっていったそうだ。
「1日で200万円ちかくのセールスを記録したこともあります。戦略がヒットしたのは、オンラインに波及したことです。コロナ禍の下では、とくにオンラインが経営を支えてくれています」。
催事が起爆剤となり、オンラインショップで事業が拡大する。
ただ、生み出したのは、それだけではない気がする。
堂園氏には経営者としての自信、催事やオンラインショップを担当するスタッフには、仕事のやりがいと、成功体験が生まれたに違いない。
事業が拡大するのは、こういう時だ。
新製品の開発が、象徴的な出来事かもしれない。
「日本では、パイナップルも好評ですが日本の市場との親和性ではりんごがいいと、マイケルを真似て、りんご農家をまわって新製品を開発しました」。
それがりんごケーキですね。
「そうです。台湾でも好評で、今では売上の25%を占めるようになっていると聞いています。マイケルにすれば本当は台湾の農産物なんでしょうが、そこは目をつぶってくれているようです(笑)」。
オンラインショップをみると、パイナップルケーキとりんごケーキ、バナナワッフルクッキーがならんでいる。今後はフルーツの加工、ドリンクやアイスクリームにも注力していくことになるそうだ。
Sunny Hills Japanという企業のブランディングも、大事な時期になってくる。

・・・続き

SunnyHills Japan株式会社 日本法人経営責任者 堂園有的氏

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2022年8月7日日曜日

キイストンから紹介する食材卸は最強かも。 …。

飲食企業に紹介しても自慢出来る“食肉”、“ 生鮮野菜”にプラスして今回“ 鮮魚”の卸会社のブレーン揃いました。

「肉・野菜・魚」最強です。
96x96

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2022年8月6日土曜日

株式会社日比谷松本楼 代表取締役社長 小坂文乃氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社日比谷松本楼 代表取締役社長 小坂文乃氏登場。

本文より~

病弱な姉と健康で活発な妹。

「24歳からここで働いていますから、日比谷公園から出たことはありませんね」と笑う小坂氏。幼いころから活発な少女だったようだ。
「両親と2歳上の姉の4人家族で育ちました。ただ姉は身体が弱く病気がちだったためか、母は姉に付きっ切りのような日常でした。極端に言えば“ほったらかされ状態”のようで子ども心に『お姉ちゃんばっかり!』と振り返った小坂氏。それが、家の中より外で友だちを作って遊ぶのが好きな積極的で活発な子どもに育った要因と言えなくもない。
「両親には『もっと自分もみてほしい』という思いはありました。勉強も頑張りましたし、学校では生徒会活動に励んだり、と結果的に活動的な自分を作っていったように思います」。
小学校は姉と同じ区立小学校に進学。「姉は学校になじめず一緒に3回転校しました」。

小学6年の3学期、1月にイギリスに渡った。

小学校を卒業した12歳の春、イギリスに渡った。
「イギリス留学は母の勧めでした。母は父と結婚する前、英国大使館に勤めていたこともあり、見分を広めることもあったのか、海外で学ばせることを考えていたようです。それは、言語が通じないなかでコミュニケーションを図るとか、相手を理解するとか、海外での経験が人生において役に立つと考えていたからではないかと思います」。
かくして小坂氏は先にイギリスに渡った姉を追うように1年半後、イギリスの地を踏んだ。留学したのは、ロンドンとブライトンの間くらいの南イングランドのウエストサセックス州にある、立教英国学院。
「寄宿制の学校でした。ですからベッドが空かないと入学出来ないんです。丁度小学6年の3学期スタートの時期に空きが出たので、中途半端な時期でしたが、イギリスに行きました。留学当初は英語も話せず、生活習慣も違うので苦労しました。友人たちにずいぶん助けられました」。
当然だと思うがイギリスの学校も日本と同じように春休み、夏休み、冬休みがある。驚くことに小坂氏は、その間、中学2年くらいから高校卒業までほとんど帰国することはなかったとのこと。
「姉は休みのたびに帰っていましたが、わたしは中学2年から高校卒業までほとんど帰らず、その間、ホームステイをして過ごしていました。ひとつには、当時のレートで1ポンド500円くらいだったと記憶していますが、父が旅費もかかるので懸念していましたし、当時は直行便なかったことなどが帰らなかった理由のひとつですね」。
本人が意識するかしないかは別問題として、こうした体験が現在の小坂氏の精神性を作り上げた要因のひとつであることに変わりはないだろうと推察する。

事業を継ぐ意思はなかったのだが…。

中学・高校と6年間の留学生活を経て帰国。立教大学へ入学。
「心理学を志望していたのですが、環境がそうさせたのか、社会学部観光学科に進みました。一方で、帰国した当時の同世代の学生の間隔に戸惑う場面も多々ありました。たとえばみんな同じとは言わないまでも誰もが似たスタイル、ファッションに身を包んでいましたし、流行なのかどうか同じスポーツ~テニスですけど~をしているし、画一的に写りました」。
大学生活を過ごしながら将来のことを、どう思い描いていたのだろうか。
「父の事業、“松本楼”を継ぐことは考えていませんでした。教師になりたい、あるいは小説家、作詞家になりたいと思っていました。元々、幼いころから自己表現がある意味で得意だったせいかもしれませんね。現在、さまざまな機会をいただいて講師を務めることがあるのですが、表現という意味で現在に繋がっているように思います」。
「継ぐ意思はなかった」という小坂氏が、結局は継いで現在にいたるわけだが、どのような経緯で「継いだ」のか。

大学卒業、就職。そして「松本楼」へ。

「将来は海外に移住したいと考えていました。そのために必要な資金は自分で貯めてからからと考えました。海外に行くチャンスがあると思い、外資系の会社に就職しました」。
就職したのは外資系のWaterford Wedewood Japan株式会社でマーケティング部に所属、思い描いた順調な社会人生活をしていたところが、思いもかけない事態が起きた。
「明治以来続く”松本楼“の跡継ぎに関しては、父なりの考えはあったと思います。父は、1932(昭和7)年生まれで、いわゆる“昭和ヒトケタ生まれの男性”でしたから、女性が社長になるという考えはなく、姉か私のどちらかが婿をとって継がせることを考えていたと思います」。
「姉が急遽、お見合いで銀行マンと結婚してしまいました。そして、周囲の人たちにとっては私が跡継ぎになるのだろう、ということが暗黙の了解になってしまいました。母に説得され、努めていた会社を辞め、“松本楼”に就職しました。24歳の時です。最初は厨房から入り、料理やケーキを作る手伝いから始めました」。
「話は変わりますが、いわゆる“昭和ヒトケタ生まれの男性”すべてに共通しているとは思いませんが、父はともかく仕事一筋でしたから、家のことは母に任せていることが多く、普通の家庭なら当たり前のようなクリスマスなどの家族で過ごすイベントなどはありませんでした。母も寂しかったのではないでしょうか」。

シングルマザー奮闘記。

“松本楼”を継ぐことに決めた小坂氏。一方で、当人の結婚問題に直面した。父親は元々、恋愛に関しては干渉してこなかったが、婿候補となれば話は別、厳しい目線で判断されたようだ。
「当時、お付き合いをしていた方がいたのですが、両親から干渉され破局してしまいましたし、一方、“松本楼”と継ぐという重責に耐えられず、自ら身を引いた男性もいました。お見合いも何度か経験しましたが、最終的には27歳のとき、当時お付き合いしていた人と結婚しました」。
が、結婚生活は長くは続かなかった。
「1年後に離婚となりました。ちょうど臨月の頃に重なりました。生まれたのは男の子です。つまり、一人で生んで一人で育てたということになります。いわゆる“ワーキング・シングル・マザー”です」。
無事に出産を終えた身に「いつ復帰するの?」と母に職場復帰を促され、また本人も早く復帰しなければという思いもあり、産後2カ月程度で復帰した。つまり、生後2か月の乳飲み子と仕事を両立させる生活を送ることになった。
因みに現在は、産後8週間の産後休暇、その後、子どもが1歳6か月まで(延長で2年)の育児休暇の取得が法律(労働基準法)で定められている。小坂氏が取得した2カ月というのは短い。
こうした日々、乳飲み子の育児と仕事とにプラスして新たな負荷が加わった。母の看病である。
「母が癌になり、看病、介護が10年間、続きました。銀行マンに嫁いだ姉は、シカゴ、ロスアンジェルス、アムステルダムと海外勤務が続いていましたから、結局は私一人で対応するしかなかったのです。10年間の闘病生活の末、母は67歳でなくなりました」。
当時を振り返って小坂氏は、こう言う。
「30歳代はとにかく大変でした」。

時には衝突もあったけれど、認めてもくれた。

父親が代表を務める“松本楼”。小坂氏は、販売企画など旧来にはなかったようなプランを提案するも、そこは“昭和ヒトケタの男性”。父親には長年積み重ねてきた、娘の小坂氏には絶対的に不足している経験も知恵も自負もある。
「『お前に何がわかる!』と叱責されたり、提案した企画など却下されたこともありました」。父と娘の衝突がたびたび起こることに。とはいえ、全面的に認められなかったわけではなく、小坂氏独自の視点、企画で業績を伸ばしていくこともできた。
「ここは場所柄、霞が関が近く、接待やパーティなどでのご利用が多かったです。そこに“官官接待”(大蔵省接待汚職事件)の問題が持ち上がり多少、経営が厳しくなるなどした時期に私の発案で“レディースランチ”やワインのイベントを行うなど現在に続くイベントが生まれました」。
余談ながら“松本楼”といえば“10円カレー”が知られていて、実際に食べた方も多いことだろう。今年で50回目を迎えるが、発端は、こうだ。
1971(昭和46)年、沖縄返還協定に反対する過激派グループによる放火で全焼し、一時は閉店に追い込まれた“松本楼”だったが、全国のファンの支援により2年後の1973(昭和48)年に再オープン。その感謝の気持ちを込めた記念行事として始まったイベントである。毎年、9月25日に開催されている。
また「支店の展開については、郊外型ファミリーレストランが流行してきた時代にデパート食堂が衰退し、戦略の見直しを余儀なくされました。そこで、病院や大学のお話がでてきたので、そちらにシフトしていきました」とのこと。

社長就任は父親のインフルエンザがきっかけ?

社長に就任したのは2017(平成29)年。
「息子が大学に進学したのがきっかけになりましたが、就任3カ月前、当時83歳で元気だった父親がインフルエンザに罹ったことが大きな要因でした」。
何事にも慎重だった父親で、当然、資金面での管理も万全でした。ただ、それが思わぬ事態を招いた。
「インフルエンザによる高熱で、金庫の番号を思い出せなくなってしまったのです。お金の管理は厳しかっただけではなく、金庫の番号は誰も教えられてなく父しか知らなかったんです。要するに、開けられない事態になったんです。困りましたよ!」と笑うが、当時は“笑いごと”ではなかった筈だ。
そんな、失礼ながら“笑い話”のようなアクシデントを乗り越え、副社長から社長へ就任したが、就任3年後、また歓迎したくない試練がやってきた。
“新型コロナウイルス感染症”の世界的な流行、日本も例外ではなかった。いわゆる“パンデミック”だ。

・・・続き

株式会社日比谷松本楼 代表取締役社長 小坂文乃氏

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

株式会社ヤマト 取締役社長 清水一成氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ヤマト 取締役社長 清水一成氏登場。

本文より~

初就職と、退職まで。

小学校の入学時、担任の先生から「清水の弟か、勉強はできるよな」と言われたそうだ。
「担任のこの一言でヘソを曲げたというか比較されることから逃げたのだと思います。姉が2人いますが、どちらも優秀でしたので。担任の悪気ない一言で『勉強はやらない』と思ってしまいました。だから、小学校の通知表は体育と図工以外2がほとんど」。
通知表をみた父親から殴られたこともある。また意固地になって、勉強はしない。
「でも中学でちょっと勉強したら、普通にクラスで上位になって」。やればできる。清水氏には怒られそうだが、それは姉2人が証明している。
得意だったというスポーツではどうだっただろう?「中学では体育はいつも通知表5でした」。
「小学校の時は、柔道。中学の時は楽そうだと思い卓球です(でも きつかった)。高校からサッカーを始めるんですが、3ヵ月でリタイアしました」。
エネルギー満タンの高校生だ。部活をやめて、何をしていたのかも聞いてみた。
「女子高と合コンに精を出すのが一番で。学校に内緒でスクーターで通学したり(笑)。そんな感じでフラフラしていましたので担任の先生に応援団長をやれと言われて、野球が強い高校でしたから選抜甲子園の決勝まで応援に行きました」。
甲子園では 生徒と地元からの一般市民合わせて何千人ですから大変でした。 マナーが悪くても一般応援の方への気遣いが出来ていなくても全て団長の責任だと怒られ、本当に人をまとめる大変さを経験しました」。
「ですが、基本いい加減でしたので大学受験に落ち予備校にも行かせてもらったんですが、基本の性根が変わっていないないものですから翌年も失敗。専門学校に進みましたが、1年の夏で辞めています」。
どうして辞めたんですか?
「専門学校に進んで東京で独り暮らしをはじめて、バイトとサーフィンにはまってしまって。進学できないことがわかって、人生完全に脱線したと思いました。ですが ここで人生のレールから外れたことを自覚をし 普通に生きていては大学卒には勝てないと 学生では出来ないことを経験しようと決心しました。その時、バイト先の会社の常務に声をかけてもらって、じつはそこに一度、就職するんです」。
19歳から2年弱。上司、社長も評価する優秀な社員だったそう。「評価もいただいていましたし、仕事も楽しかった。提案にも耳を傾けてくださいました。ただ、」
ただ?
「私よりあとから入社した年配の人が、月に200万円くらいお金をくすねていたんです。立派な不正です。それに気づいて会社に報告しましたが、結局、辞めさせることをしなかったんですね。皆で汗水流して稼いだお金を取ってお咎めなしなんて許せなかったですね、もうこの会社にはいられないと思いました。まだまだ私も青かったんでしょうね(笑)」。
今だったら、会社まで追及しているところと言いたげ。ただ、なんとなくスタートした社会人人生が一転したのは間違いない。

トヨタの期間工と、パチプロと。

「3ヵ月のインターバルを経て、トヨタ自動車の期間工をはじめます。名古屋駅を降りたら迎えのバスが何十台と、私とおなじようなボストンバックをもった奴がいっぱいいてびっくりしました」。
寮付き、月給も悪くない。「全部で数万人くらいの独身寮だったと思います。むさくるしいオトコの世界です。私は体力測定の結果、組み立て科に配属されます」。
仕事は単純だが、それでも難易度は高かったそう。ある程度、マスターするまで3ヵ月はかかったと言っている。
「ある意味、人種の坩堝です。給料は悪くなかったですね。半年で150万円は貯金できたんじゃないですか。私は、蓄財せず、散財していましたが(笑)」。
二匹目のドジョウを追い求めていたらしい。
「っていうのは、当時はオグリキャップ全盛期、競馬が大人気。しかも、ちかくに中京競馬があってね。ある日、いつもいっしょに行っていた仲間が、万馬券当てて2000万円勝って」。
2000万?!
「そう、2000万円です。そいつは、その日のうちに寮からいなくなって(笑)。その話が広がって、オレも、オレもと。でも私を含め、二匹目を手にした話を聞いたことはありません。とにかく、そんな期間工時代の勉強になったことは トヨタのカンバン方式 カイゼンを身をもって経験できたことです。今でも自分の考えの基本の一つです。ですが期間工が終わり東京に戻りパチプロを目指しました。今思うと本当にダメダメですね」。
博打つづきですね?
「やるからには真剣にプロ目指しました。自分ルールを決めて、資金は毎日5万円です。夕方までに負けたら、終わりで早退ですね、それ以上は残業です。情報収集のために、店員を飲みに連れて行ったり、常連さんとも情報交換したりして。ただ、月に30~40万円くらいしか勝てないんです。それくらいの儲けでは一生の仕事には出来ない。だから辞めました」。
プロにはなれなかったが、いい教訓を得たという。
「単純な話です。あそびを仕事にしたら本当に辛いなって、ことです。生活が掛かると全然楽しくない。ただこの経験で、どんな仕事でも辛抱強くやり抜く考えが芽生えましたね」。
それとあと二つうんちく話があった。その話で、プロントまでの清水氏の人生はひとまず終わる。
「パチプロをめざしている時には、パチンコ店の前で開店を待っています。スーツを着た人たちが目の前を行き交うわけです。夏でも当時はスーツです。正直、心のどこかでバカじゃないかと思っていました。ですが、今も私も道行く人になって、今度は開店前の彼らをみるわけです。立ち位置が違うと、みえる景色が全然違って見えると。これも、私にとっては大事な教訓の一つになりました。今でも相手側の視点から物事を見て考えるようにしています。最期にパチプロ時代に女の子と遊んだりするときに仕事何?学生?と聞かれると本当に返答に困りましたね。そして所属や肩書で人は第一印象を判断すると心から思いました。この経験も今も生きていて絶対に人をそのように判断しないと心に誓っています」。

人事からのモーニングコール。

楽しく可笑しくプータロー生活を送っていた清水氏を動かしたのは、1991年静止画の画像から急に湾岸戦争が始まったテレビを見ていた時。
「TVを観て、さすがにやばいなと思って。就職情報誌を買いに走りました。夜中の3時に」。
まだまだバブルの頃。就職情報誌には溢れんばかりの求人広告が掲載されていた。「でも安心しました。これだけまだオレを必要とする会社があるんだと(笑)本当に単純でしたね」。
数ある会社のなかで選んだのが、サントリーとUCCが立ち上げた「プロント」。
「面接を通過して、『一週間後に電話をください』と言われていたんですが、じつは、給料も16万円そこそこ、すっかり危機感もなくなって、電話も忘れていたんです。そうしましたら、先方より電話を頂きまして」。
人事から?
「そうなんです。約束を守らなかった罪悪感と、誠意をすごく感じまして、一瞬考えて『宜しくお願いします』って言ってしまいました。入る以上今から全力を出そうと思い、入社までの1ヵ月間『是非、飲食の経験がないのでバイトさせてください』って。
プロントでは3人の社長に従事する。
「最初の社長には、人として男としての生き方を叩き込まれました。本も、毎月3冊読んで感想文です。又当時スーツのシャツが白がスタンダードの頃 カラーシャツでネクタイも派手にしろお洒落になれと教育されました。ダメダメの私の性根を本当に鍛えてくれました。二人目の社長は、前職がサントリーが買収したペプシの社長です。プロントも創業して10年が経っていて、経年劣化していた頃です」。
面白い話がある。
二人目の社長に「なぜスーツを着るのか」と聞かれたそうだ。
その時は全直営店統括責任者で店長の部下も大勢いたものですから「店長が店で何かご指摘を受けた時にもスーツのほうがいいですし、店長と年の近いバイトさんから一目置かれる方が良いと話しました」。
返ってきた言葉が、スーツを切れば誰でも仕事が出来るのかと言われて。そうですね、朝の3時くらいまで延々と議論をしました」。
で、どうなったんですか?
結局論破されまして「翌日、私はチノパン、ノーネクタイ ジャケットで出勤しました(笑)全員スーツの時代に本当に注目を浴びました」。
二人目の社長から、清水氏は「プロントルネッサンスプロジェクト」の責任者に抜擢されている。ロゴをはじめすべてをリブランディングする、その指揮を執った。たいへんだが、面白くないはずがない。かつての教訓を思いだして、これだ、と思ったに違いない。
いったん業績が落ち込んだプロントだが、ふたたび従来のちからを取り戻す。文化までリブランディングする。だから、プロジェクト名は「ルネッサンス」だったのだろうか。
ふたたび、プロントが快走する頃になって、清水氏は退職を検討した。もともと好奇心旺盛で新しい取組が好きな為だ。
「元々、最初の社長の時に6年目に卒業させてくださいって言っていたんです。義務教育は終わってないと言われ9年目に申し出ると高校はぐらい(あと3年)は卒業しろと。そうこうしているうちに社長が変わりやめるタイミングを失って。私としてはもっといろんな世界をみてみたかったんです。具体的には2つ。人材ビジネスと、海外でのビジネスです。そして3人目の社長の時に『いいよ、やれよ』って」。
3人のタイプの違う個性的な社長に仕え勉強になったことは、自分を成長?いやまともな人生に戻して頂いたと今でも感謝しています。

・・・続き

株式会社ヤマト 取締役社長 清水一成

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)