2023年3月14日火曜日

株式会社古久家 代表取締役 出石雅夫氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社古久家 代表取締役 出石雅夫氏登場。


本文より~

長崎から藤沢へ。

日大の生物資源科学部のキャンパスは藤沢にあった。「大学の2年時に進級するまでは、藤沢がホームグラウンドでした。その時にご縁があり、二代目社長の下、古久家でアルバイトをはじめました」。
今回、ご登場いただいた株式会社古久家の代表取締役、出石雅夫氏は1957年、長崎県の大島に生まれる。その昔は炭鉱の島だったが、現在は農漁業と造船が主産業。佐世保港からフェリーで1時間程度だという。
お父様は床屋をされていた。仕事はできたが、酒飲みでギャンブル好きだったと笑う。
お母様も長崎県、生まれ。やさしく、怒られた記憶がまったくないらしい。
「高校までを地元で過ごして、スポーツは、中学から高校の途中まで、バレーボール部に所属していました。高校のクラスは、理系と文系の進学組と就職組に分かれていたので、私は理系の進学組を選びました。長崎ですから、関西の大学に進む生徒も少なくない中、私は最初から東京を目指しました」。
それで、日大の藤沢のキャンパスだったわけですね?
「そうです。そこで古久家と出会いました。アルバイトは他にも、色々と経験しました。ゴルフ場の草むしりに、表札や英語教材のセールスなど、その中でも、一番長く続いたアルバイトが、マクドナルドでした」。
「私は新卒で、大手住宅メーカーに就職したのですが、実はこれはリベンジでもありました」。
リベンジ?
「セールスのアルバイトをしたと言いましたが、これが全然売れなかった、それが本当に悔しくて。なので『だったらもっと価格の高い住宅』を、これを販売して、その時のリベンジをしてやろうと思ったのです。結果的に、その会社では在籍2年と短い期間でしたが、全国で2番目の営業成績を残すことができました。リベンジはちゃんと果たせたと思っています」。
現金で支給されるボーナスは、封筒ごと直立したそうだ。
「ただ、ふと周りの先輩方の姿を見て将来を想像した時に、どうしようかな、となりまして。それで結局、古久家に転職しました。私が25歳の時です。もちろん、給料は激減しましたよ(笑)」。

古久家への転職。

話を戻しますが、進級されてからは、古久家のアルバイトは辞め、東京のキャンパスに移られるんですね?
「はい。ただ、東京へ引っ越した後も、二代目からはちょくちょく食事に誘って頂きました。自分なりに東京の飲食店事情を調べてご報告したりして、まぁ、リサーチャーみたいなものですね(笑)」。
縁とは不思議なものだ、思っていなくても結ばれた一つの縁がきっかけとなって未来が決まることがある。もっとも、その時点では「旨い飯が目的」だったらしく、古久家に就職するとは思ってもいなかったようだ。だが、飲食とのつながりは切れてはいなかった。
「マクドナルドのアルバイトがいちばん長いとお伝えしましたが、時給が良かったですし、何よりも勉強になりました。あの頃のマクドナルドは、ビジネスでも最先端だったのではないでしょうか」。
たしかに、マクドナルドは日本の飲食経営に、アメリカ式の合理的で科学的なアプローチを導入する。もっとも創業者の藤田田氏は、人情家で、ドライな経営とは無縁の人だったそうだが。
ともあれ、出石青年にとって、マクドナルドでの経験は衝撃的だったにちがいない。今も、マクドナルドのオペレーションを参考にしているというから、間違いない。 飲食だけでいえば、古久家をいったん離れ、マクドナルドで修業したことになる。
給料は減ったが、未来は広がった。ここからは、古久家への転職の話。
「私が転職したのは、湘南台店がオープンするタイミングでした。オープンするまで、研修を重ねて、最初から店長として配属させていただきました」。
25歳の時だった。
「当時の古久家は、まだ3店舗ほどでした。古久家への愛着もありましたし、社長にも懇意にしていただいていましたが、転職した理由は、それだけではありませんでした」。
会社にほれ込んだと出石氏はいう。むろん、客観的に評価しての結果。
「マクドナルドでは、アルバイトながらも、社員に次ぐポストのスイングマネージャーを務めていましたから、マクドナルド式の運営や経営の方法は理解していました。マクドナルドと比較すると、当時の古久家のそれは、まだまだ昔ながらのオペレーションでした。マクドナルドのノウハウを古久家に移植すれば、もっと業績が拡大すると、そう私は確信をしていました。そして、行動に移したわけです」。
未来という意味では、マクドナルドより、むしろ大きいと思ったのではないか。とはいえ、いきなりイノベーションを起こすことはできない。
「古久家は創業1947年です。お客様からご評価をいただきながら、またその歴史がある分、私が転職した当時は、社内の様々なシーンで経年劣化が起きていました。職人方の認識もそうです」。
なかなか職人の癖は、抜けなかった。社内の人間関係もそう、当時の古久家は、職人たちの天下。
「私は、彼らにこう伝えました。『職人さんたちが旨いラーメンをつくってくださるおかげで、今がある。それは、絶対です。しかし、きれいに洗われた器があるから、旨いラーメンを出せる。その器を洗ってくださるスタッフさんやアルバイトさんも、同じく大切な存在です』と」。
飲食経営の根幹は、人。これもまたマクドナルドの教え。出石氏は「人」の意識改革に取り組む。ていねいに、真摯に言葉を重ねる出石氏に対し、心をひらく職人たちが現れる。いつしか、互いへのリスペクトの心も広がった。

金勘定で、老け込む。

「二代目は、40代の時に父である創業社長から、会社を引き継ぎました。その後、三代目が引き継き、そして、私自身は60を過ぎてから、四代目を引き継ぐことになりました」。
すでにナンバー2になっていた、という。
「コロナ禍に突入する前年の2019年に、当時は会長職にあった二代目の号令の下、会社は3つに分社され、私たちはボランタリーグループとして、歩み始めました。そしてその直ぐ後に、コロナ禍がスタートしました」。
社長となった途端に、いままでになかった敵と闘うことになる。
「コロナとの闘いは大変です。しかし、そうですね、過去にあった大変な時期を挙げるとしましたら、35歳の頃から財務を担当しましたが、むしろその時の方が。当時の私は一気に老け込みまして、あれも、本当に大変な闘いでした」。
どういう意味ですか?
「言葉の通りです。それまで私はまわりからは、どちらかと言うと、比較的若くみられる方でしたが、財務を担当するようになってからは、心身の疲労でしょうかね、年齢以上に老け込みました(笑)」。
資金ショートの危機もあったそうだ。
「財務ですからね、なんとかしなくてはいけない。立場が変わる前は、たとえ一時しのぎであっても、ショートするのを回避できれば、それでいいと思っていた節はありました。しかし立場が変わるとそうはいかない」。
ナンバー2は難しい立ち位置でもある。ショートしなければ、それでいいという出石氏の気持ちもわからなくもない。むしろ、それが通常といったほうがいいんじゃないだろうか。
ただ、老け込んだ出石氏をみて、出石氏を慕っていたスタッフたちはどう思っただろうか? 転職時にみた古久家の未来像は、どこにいってしまったんだろうか? それを追いかける出石氏の情熱を含めて。

試練のあとの、イノベーション。

「そうですね。ただ、私自身は金銭的にそれほど欲があるタイプではなく、それなりの給料も貰っていましたから、危機感が薄かったのでしょうね。でもある時、部下の給料を知って、これはヤバイと、初めてなんとかしなければと思うようになりました」。
ナンバー2に甘んじているわけにはいかなかったということだろう。「給料をアップする為には、利益を出さなくてはいけません。一つは、節約ですね。ただ、それでは縮こまるだけでしたから、税理士の先生にもアドバイスを頂きながら、全店のリニューアルを行いました。ショップの経年劣化に切り込みました」。
歴史があるぶん、ショップもまた古くなっていた。
「当時は、全店の店長を集めた会議もおざなりになっていましたから、もちろん、それも仕切り直しました」。
店長会議のスタイルも、出石バージョンにする。「良いことはやり、悪いことはやらない」を徹底したと出石氏はいう。
財務のルールも徹底する。1/3ルールがそれ。1/3は会社にプールし、1/3はお客様に、1/3は従業員に還元する、というルールだ。
ちなみに、「左理論」も教えていただいた。古い駅は左側が発展している、コンビニなども左回りで陳列されているそうだ。さすが、理論派。
飲食を含め、日本の流通を変革した「ペガサスクラブ」の本も、愛読していたそうだ。
エビデンスのある経営。これが、マクドナルドの経営スタイルの正体でもあるのだろう。ただ、コロナ禍のピンチは、またまた出石氏を悩ませる。

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株式会社古久家 代表取締役 出石雅夫氏

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株式会社一品香 代表取締役社長 鳥生恒平氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社一品香 代表取締役社長 鳥生恒平氏登場。

本文より~

バイト先は大阪王将。高校生離れした鍋使いで、バイトがバレる。

「調理実習で炒飯をつくったのがいけなかった」と、今回ご登場いただいた鳥生氏が笑う。なにがいけなかったというと。「うちの高校はアルバイトが禁止されていたんです。でも、つい、いつもの要領で炒飯をつくったものだから」。
バレてしまった?
「そう、プロみたいじゃなく、プロそのものですからね笑」。
鳥生氏が生まれたのは、1978年7月19日。
鳥生という苗字はかわっているように思ったが、愛媛県の今治には多いらしい。ちなみに、お父様が愛媛出身。鳥生氏自身は大阪の枚方市生まれ。兄弟は2名。
鳥生氏は長男で2つ下の次男は、特待生で同志社大学に進み、現在は大手企業での社長の秘書を務めておられるそうだ。
「小さい頃から、今みたいな性格だった気がしますね。明るくて。これはたぶん母親似。日曜日には、みんなでハイキングが日課でした。これは、父の趣味です」。
お父様は、個人事業主として金型の設計をされていたそう。なんでも、鳥生氏が小学校くらいに独立されたそうだ。理数系で数字が好きで寡黙なタイプとのこと。
スポーツはサッカー。
「小学高学年から高校で膝を怪我するまでは、サッカー漬けです」。
アルバイトは、そのあと?
「そうです。ちかくにある『大阪王将』にアポなしで突撃し、『アルバイトさせてください』って笑」。
とびこんだわけですか?
「それで、私の人生が決まるんだから、不思議ですね」。

大阪王将と鳥生氏。

「料理人がかっこよかったですね」。
たしかに、それはわかる。中華鍋ひとつでいろんな料理をつくりだす料理人は、食のクリエイターだ。炒飯ならこう。鍋を火にかけ玉子を投入。お玉でかき混ぜ、ご飯と具材を追加。お玉で調味料を救い上げ、適量を鍋のなかに流し込む。五徳と鍋底がリズミカルな音を奏で、ご飯と具材と玉子がはねあがる。そして、完成。まるで、芸術。自宅では、もちろん、真似ができない。
「見様見真似でしたが、私も賄いをつくらせていただくようになっていきます。もちろん、プロにはかないませんが、少しずつプロにちかい料理ができるようになっていきました」。
「大阪王将」は1969年、大阪の京橋で誕生する。餃子専門店としてスタート。
たしかに昔は「餃子とビール」だけだった気がする。関西人のなかでは、「餃子=大阪王将」というイメージがつよいのではないか。
餃子専門店から、いまのメニュースタイルになるのは、創業者のご子息、現イートアンドホールディングス代表取締役会長CEOの文野直樹氏が2代目の社長となられた時から。むろん、鳥生氏がアルバイトをはじめた頃はすでに現在、同様、中華料理店の幅広いメニューとなっていたはずである。
「私がアルバイトを始めたのは、比較的、大型店でした。料理はこちらで修業させていただいたりしたわけですが、のちにラーメン部門の『よってこや』に異動しました。こちらは10坪少しの小型店舗」。
「よってこや」は「京都鶏ガラとんこつ屋台の味」。今や大阪王将の主要ブランドの一つだが、当時はまだスタートしたばかり。
「高校3年の12月に南口にオープンし、その半年後に寝屋川にもオープンします」。
「よってこや」の興隆に一役買った鳥生氏だが、むろん、アルバイター。就職したわけではなく、鳥生氏も、まさか大阪王将に就職するとは思っていなかったのではないだろうか。
接点はあったが、交差しただけで、離れ離れとなるのは、むろん、ある話。

激戦区、恵比寿での新店オープンに駆り出されるアルバイター。

「高校を卒業してからはいったん2年制の専門学校に進みます。当時は、スポーツ関連の仕事に就ければと思っていました。だから、進んだのもインストラクターを養成する専門学校です」。
ただし、1年生の終わりに退学している。
「スポーツ系ということもあって、体力維持のため20時以降のバイトが禁止されていたんです。が、そういうわけにはいかないでしょ。そういうこともあって、退学してフリーター生活がスタートします」。
なんでも、学校からクレームの電話が入ったらしい。ところで、その頃にはもう、バイトといっても経験は長い。新店立ち上げも経験済。
「そういうキャリアを評価いただいて、直営店を恵比寿にオープンする時に声がかかります。文野社長と出会ったのは、その時が最初です」。
関西弁の青年が、大都会東京の恵比寿で奮闘する。
「当時の恵比寿は、ラーメン激戦区だったのでけっこうたいへんでしたね。私自身はオープンから4ヵ月ほど向こうで仕事をさせてもらって、いったん状況が落ち着いたこともあって大阪にもどります」。
ミッションコンプリート?
「そうですね。なんといってもアルバイトですしね(笑)」。
ところで、「大阪王将」以外でも、アルバイトは経験されましたか?
「もちろん、トラックに乗ったり、そうそう営業の仕事も経験しました。いろんな経験を積みながら、私自身がやりたいことを模索していた、そんな数年間だった気がします。大学に進学したともだちが社会人デビューする時には、多少、焦ったりもしましたが、私が社会人デビューするのは、2年後の、2002年の10月、24歳の時です」。
もちろん、就職先は大阪王将ですよね?
「色々、模索したうえで、行き着いたのが『大阪王将』でした。ほかにも色々、あったんでしょうが、私はこれで正解だったと思っています。うちの両親も、いつの間にか『大阪王将』のファンだったので、反対もされず、逆に喜んでくれていましたし」。
高校3年間から密接な関係を保ってきた舞台で、晴れて正社員となった鳥生氏は、どんな仕事をしていくんだろうか。
「6~7年ちかく関西で店長を経験し、再度、東京です」。
今度も、東京遠征で実績を残し、関西にUターン。関西マネージャーになり、ラーメン部門の指揮を執ることになった。「大阪王将」はむろん、規模が大きい分スタッフも多いわけだが「よってこや」を東西で極めた人は、そういないはず。「大阪王将のラーメン部門に、鳥生氏あり」と言われたのではないだろうか。

太陽のトマト麺と無料券。

2023年現在、「大阪王将」ラーメン部門には、「よってこや」の他に「太陽のトマト麺」というブランドがある。もちろん、いずれも鳥生氏が密にかかわっている。
「イタリアンとラーメンが融合して生まれたのが『太陽のトマト麺』。トマトのうまみが凝縮されたヘルシーなラーメンです」。
ブランドサイトの「歩み」をみると、最初は<鶏パイタン麺専門店「よりみち屋錦糸町店」としてオープン>したそう。それが2005年のことで、翌年、メニューを刷新 トマトらーめん専門店として再スタート。名称が「太陽のトマト麺」となったのは2007年のこと。
鳥生氏が「太陽のトマト麺」を担当するのは、2008年「大阪 福島駅前支店」オープンの時。
「東京でヒットした『太陽のトマト麺』だったんですが、関西ではイマイチというか。なかなか想定通りの結果がでません」。
どうされたんですか?
「東京で実績もありましたし、1度食べていただければと。いわゆるラーメンとは異なりますが、だから逆に唯一の存在として注目されてもいいと思っていました。で、『そうか、TVに取り上げられたら』と、安直ですがTV局に日参して、警備員さんに毎日、無料券を配布して笑」。
狙い通り、TV局の人が来た?
「そうなんです。TV関係のお客様がいらっしゃるようになってしばらくして関西の朝の人気番組でオンエアされました。反響があったようで、それ以来、雑誌やTVで取り上げられ、『太陽のトマト麺』がメディアを彩ります」。
ちなみに、グルメサイトをみてみると評価は高い、高い。「これは、ハマる」といった口コミもあった。関西では、まだ大阪の2店舗だが、ラーメンの新ジャンルとして確固たる地位を築いているのが、これ一つからでも理解できる。
やがて、鳥生氏はラーメン部門を統括するようになり、執行役員に名を連ねることになる。

・・・続き

株式会社一品香 代表取締役社長 鳥生恒平氏

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2023年3月1日水曜日

株式会社ガーデン 代表取締役社長 川島 賢氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ガーデン 代表取締役社長 川島 賢氏登場。

本文より~

高校卒業までの川島氏。

足が速いと色々有利だ。運動もできるし、なにより、注目される。トークも楽しく、人気者。「あの頃は、モテモテだったんですよ」と笑うのは、1971年生まれの川島社長。株式会社ガーデン、代表取締役である。
「勉強はできる方だったと思いますが、勉強そのものはまったくしなかったですね。何をしても飽き性でつづかない。そんな少年でした(笑)」。
足が速いから、中学生になると陸上部に入る。だが、本人曰く、ぐうたらだからサボってばかり。
高校は、どちらに進まれたんですか?
「港区にある芝商業高校です。商業を選択したのは早く独立したいと思っていましたし、じつは、私の小さい頃にセブンイレブンが出店を開始した頃で、ちかくに次々とセブンイレブンができていったんです」。
それに、興味を持った?
「そうなんです。小さいながらにも。イトーヨーカドーにも買い物によく行っていて、それで創業者の伊藤正敏さんに興味をもって、本も読ませていただきました。中学生くらいですから、十分、理解はしていなかったと思うんですが、伊藤さんが、芝商業高校の出身だと知って、行くならここだろうと」。
早くも事業に関心を抱いていたことを示すエピソードだ。
ただ、志は高かったが、飽き性が顔をだす。
「週5日は学校に行きました、ちゃんとね。でも、遅刻ばかり。高校1年までは勉強しなくても、なんとかついていくことができましたが、高校2年の頃には、何が何だか、やばいくらいわからない(笑)。だから、益々、勉強をしない。学年でビリが指定席です(笑)」。
バレー部にも入ったが、辛くてすぐに逃げ出した。
「高校時代は清掃のアルバイトで月10万円くらい稼いでいました。バイトもまぁ言えば大人の世界ですが、じつは麻雀にハマって、雀荘に行っては大人相手にリーチ!ロン!の世界です」。
進学どころの話ではなかったそう。「私の卒業が決まったのは、卒業式の1週間前。担任の先生が職員室で教職員や教頭に泣きながら土下座してくれたおかげなんです」。
高校は卒業できたが、むろん、大事なのは、そこから。風船のような少年は、どんな青年になっていくんだろうか?

事業再生、手始めは不採算のカラオケBOX。

「マジメに仕事はするんですが、指示されるのがイヤな性格だからそもそも正社員は向いていなかったんでしょうね」。職も転々としたが、引っ越しも30回以上と、回数を重ねる。引っ越し代だけでたいへんだ。あいつはいまどこだ?という話が、とびかったにちがいない。
ただ、どこにいっても注目されたんじゃないだろうか? ポジティブで、話も、面白い。「たしかに、ネットワークはそれなりに広がりましたね。縁あって起業したのは25歳の時です。知人の紹介で、不採算のカラオケBOXをもらい受け、事業を開始しました。カラオケBOXってだいたい1億円くらいの初期投資がいるんですが、うちは0円。0円でもいいからやらないかと言われスタートしたわけですから」。
いかがでしたか?
「最初の数ヵ月は月商300万円程度でうろちょろするんですが、半年くらいで1000万円をオーバーします」。
まさに、V字回復ですね?
「ありがたいことにそうですね。当時、社員は私1人。むちゃくちゃ効率的です(笑)」。
話を聞くと、割り切った戦略だった。「初期投資がないから、むちゃくちゃ安くしました。極端な話、0円でもいいんです。かわりにジュースとかで、利益を取ることができますから」。
平日から満員御礼。
「ちょっといけなかったのは、高校生が学校に行かずにうちにきちゃうようになったことですね(笑)」。安くて、楽しめる。そりゃ、人がくる。
「2店舗目を出店する際に、はじめて社員を採用するんですが、それが、今の専務です」。
専務はもとバンドマンで、デビューも決まりかけていたらしい。カラオケBOXには、もってこいの人材だ。

1億円の融資。

「不採算のカラオケBOXを買い取り、再生するビジネスモデルで合計10店舗まで突っ走ります。3年で年商10億円。もう、イケイケです。ただ、イケイケすぎて、そのあと本厚木、ひばりが丘、熊谷に3店舗同時オープンしたりするんですが、ちょっとヤバかったですね。本厚木は閉店。ひばりが丘、熊谷も苦戦。競合店が勝手にコケてくれたおかげで、なんとか黒字化したんですが。手当たり次第、買い取ったり、出店したりしたもんだから、資金繰りができなくなって大ピンチです」。
どうされたんですか?
「ある銀行さんの新宿東口にある支店に、アポなしで突撃です。担当から支店長につないでもらって、支店長に包み隠すことなく現状をお話しました」。
「融資していただかないと、今月末で潰れます」。むろん、頼んだからと言って融資が下りるわけがない。支店長は、川島氏になにをみたんだろうか?
「ありがたいことに1億円を融資いただきました。それだけではなく、事業モデルを絶賛いただいて、アドバイスというか約束を色々交わしてもう1億円、融資いただけたんです」。
その時の話を聞くと、支店長のアドバイスは、1億円以上の価値があったように思う。事業モデルも評価されたが、何より川島という人間が評価された証だろう。学年ビリの生徒が、億単位の評価を受けた証でもある。

カラオケ事業、売却。こちらも、大胆な一手。

カラオケ事業は、専務に任せ、自身はラーメン店の事業にチャレンジする。
ただ、カラオケとラーメン店は、ぜんぜん違う。大丈夫なんだろうか?
「たしかに、そうなんですよね。でも、その頃には、私もちょっと有名人になっていて、再生の話が向こうからくるんです。もともと、そのラーメン店は、潜在的なちからはあったんですね。ただ、私も慎重になって、いったん部長として入社して、この財務なら間違いなく再生できるだろうと確信して再生を開始します」。
なんと、8000万円の赤字が8000万の黒字化まで改善したそうだ。それが、今の「壱角家」の始まり。ホームページには、家系ラーメンの最高峰と記されている。
「株式の上場を狙うくらいにまでは、大きくなりましたが、もうおわかりのように、けっして順風満帆だったわけではありません。リーマン・ショックの時はとにかくきつかったですね。飲食自体は、それほどダメージを受けたわけではないんですが、うち借入金が少なくなかったもんですから」。
融資を断られるだけではなく、貸し剥がしにもあったと乾いた声で笑う。「『もう辞めだ』っていいたかったんですが、そういうわけにはいきません」。
銀行にはとびこむな、と、例の恩人の支店長に、その昔、釘をさされていた。「メインバンクからして、貸し剥がしですからね。もう、どうすることもできない。でも、できないなら、潰れるしかない」。
電話をかけまくる。
「沖縄から北海道までのすべて銀行をリスト化して、北から次々、電話をかけていきました。相談に乗ってくれる銀行なんて、ぜんぜん現れない。でも、徳島まで進んだ時に、神の声ですね。徳島の銀行がビジネスローンを組んでくれたんです。そのあと、何行かでビジネスローンを組んで、なんとかピンチ乗り切ることができたました。この経験は、私にとって、違う意味で財産になっています。コロナ禍でも、うちは、びくともしなかった。たまたま組織を固めたタイミングだったことも幸いしたわけですが、この時の経験をいかし、キャッシュをつねにもっていたからです」。
ところで、カラオケ事業は、売却されていますね。
「そうですね。カラオケは大手が独占しているし、国内需要だけですからね。頭打ちだと思っていましたので、創業の事業でしたが、第一興商さんに売却させていただき、飲食に主軸を移しました」。
2022年12月22日、現在、ガーデンは国内だけではなく、タイ、マレーシアを含め、3ヵ国に210店舗ある。むろん、指揮者は、川島氏。
「じつは一度、会長職になったんですが、組織がうまく回らなくなって、売上も落ち込み、会社が傾きはじめてしまって。それで、社長職にもどり、今度は自社の再生です。もちろん、V字回復。ただ、コロナ禍になり、またまたピンチ。もっとも、今度は、さきほどもいったように資金は潤沢にありましたから、右往左往することはなかったんです。ピンチは乗り越えることで、ちからにも、財産にもなるという好例だと思っています」。
M&Aはガーデンのビジネスモデルの一つ。資金がなければ、スピード勝負についていけない。しかし、飽き性でつづかず、転々とした青年が、いつ、これほどまでにスイッチが入ったのだろうか。

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株式会社ガーデン 代表取締役社長 川島 賢氏

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2023年2月22日水曜日

さか萬株式会社 代表取締役社長 坂巻章宏氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”さか萬株式会社 代表取締役社長 坂巻章宏氏登場。 

本文より~

劇団員までの人生。

「坂巻牧場っていうと横浜あたりでは結構、知られていたんですよ」と、今回ご登場いただいた「さか萬株式会社」代表取締役、坂巻氏。牧場は祖父の代の話。「それから牛乳屋をやり、あとはビル経営などを始めます」。
今なら、「横浜に牧場?」と思ってしまうが、坂巻社長が生まれた頃は、横浜もまだ田舎町だったのかもしれない。「兄弟は3人です。母の影響でしょうか。長兄は音大を卒業し、音楽教師に。次兄は商社でデザイナーをしています。私だけです。ジプシーみたい人生を送るのは」。
そう言って笑いながら、人生を語ってくださった。
「私が生まれたのは1963年。昭和のド真ん中です。上2人とちがって、勉強が大嫌い。いたずらっ子で、とにかく先生によくぶたれた。当時は拳骨も、OKだったからね」。
成績は下から10番目。しかし、図工だけは学年で1番。展示会の常連で、表彰もされている。「人間、取り柄っていうのはあるもんでさ。図工と、そうだね、器械体操もしていたから体育もいいほうだった。ただ、勉強がだめ笑」。
中学時代、1年下に、あの俳優の阿部寛さんがいたらしい。「当時から背が高かった」と笑う。
「高校は都内の私学に進みます。舟木一夫さんや山田隆夫さんの出身校です」。
渋谷もちかかったそうだ。
「在籍したのは、1年~1年半くらいですが、劇団に所属します。あの大竹しのぶさんも在籍されていた劇団です」。
時代はちょうどバブル経済に向かっていく頃。

転職数、合計7社。

「最初に就職したのは、アパレル会社です。ここから私のジプシー人生がスターするわけですが、こちらは案外、長かったですね。10年くらいいましたから」。
入社当時は、17店舗だったが、10年で50店舗にまで拡大。10代~20代後半の女性をターゲットにみるみる業績を拡大していったそうだが、バブル経済が崩壊すると、業績が悪化。バイヤーまで昇格した坂本社長も、やむなく退職することになる。
ファミリーマートの本部に転職。フランチャイズオーナーの不採算店を立て直す仕事に奔走した。
「うまくいってないショップは、掃除ができてない。そういうショップに限って商品の補充も疎か。細かいことの積み重ねなんですね。そういう勉強はできたように思います」。
面白そうな仕事ですが、2年で退職されるんですよね?
「そうなんです。つぎは、水商売です。横浜で、店長やオーナーも務めました。今でいうクラブやキャバクラです。このあと、アルバイト生活に突入します。トータル5~6年かな。いわゆるつなぎです」。
合計7社。「ま、いろいろ経験しましたね。たとえば、このあと、有名な布団の訪問販売の会社に就職します。1年ちょっとかな。成績は悪くなかったんですが、もともと運転免許がなかったから、移動が面倒くさくなっちゃって笑」。

転職する度、経験値があがる。

劇団員からスタートし、アパレル、ファミリーマートの本部、水商売、布団の訪問販売。まるで、共通項がない。ただ、職探しに苦労した経験はないそうだ。
「売り込む才能はあったんでしょうね。このあと派遣会社に就職するんですが、営業トークもうまくて入社すぐに7社受注し、1ヵ月で所長に昇進します」。
「劇団での経験がトークにみがきをかけた」と坂巻社長。共通項はないが、様々な業界で獲得した経験値は、高く積み重なっていく。ただ、リーマン・ショックで派遣切りがスタートし、業績が悪化。会社をあとにする。
派遣会社を退職したあとは、スポーツメーカーで、1年半。経営を再構築する7名のプロジェクトチームに選抜される。「理論的な経営ノウハウはこちらでマスターします」。
組織作りのノウハウも、この時にマスターしたという。転職回数で、人を測ろうとする採用担当者がいるが、回数そのものは案外、意味のない指標かもしれない。

15坪の、オンステージ。

「『じぃえんとるまん』は、ゴールだったかもしれないですね。ただ、『じぃえんとるまん』と出会わなかったらどうだっただろうって思います。転職回数が天文学的になっていたりして笑」。
お客さんだったんですよね?
「そうなんです。『じぃえんとるまん』の総本店ですが、そちらの常連客だったんです笑。とにかく、楽しいし、元気になる。これはいいと思ってある時、社長に直談判させていただくんです。で、話しているうちに意気投合して、『じゃぁ、フランチャイズで』って話になるんです」。
ファミリーマートの経験がいきてきますね?
「そういうことです。『じぃえんとるまん』は15坪程度の立ち飲みです。私の創業店は二俣川。賃料30万円。500万円用意していたんですが、ちょっとたりなかった。だから、借入もしています。妻も賛成してくれて、最初は夫婦2人でスタートしました」。
業績はどうでしたか?
「初月はぜんぜんだめでしたね。でも、心配はしていなかった」。
どうしてですか?
「お客様はたしかに少なかったんですが、いらしてくださったお客様からは大好評だったんです。だから、そのうち、という確信めいたものがあって。おかげ様で、その通りになります」。
劇団と布団の販売、派遣会社でみがいたトークが客の心を鷲掴みにする。むろん、店内はピカピカ。ファミリーマートで学んだショップ経営の基本である。
ちなみに、スポーツメーカーでは、経営スキルを、水商売では接客スキルを手にしている。いくつものスキルが、客を離さない。
15坪の立ち飲み店は、坂巻社長のオンステージになった。

2023年2月17日金曜日

株式会社アールディーシー 取締役会長 久志本 京子氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社アールディーシー 取締役会長 久志本 京子氏登場。 

本文より~

医学部に進んだ兄と、薬学部に進んだ妹。

2017年11月16日、「カンブリア宮殿」に取り上げられている。スシロー、くら寿司などの大手回転寿司とは一線を画す、いわゆるグルメ回転寿司が、海のない埼玉県からスタートした「がってん寿司」。大手と比較すると確かに値は張るが、その分、旨い。クオリティの差が、値段の差を軽々と埋めていく。
「がってん寿司」のモットーは手の届く贅沢の追求。今回は、この「がってん寿司」を経営する株式会社アールディーシーの取締役会長、久志本京子氏にお話を伺った。
「私たちは、埼玉県の大里郡寄居町という人口3万人程度の小さな町に生まれます」。
大里郡寄居町を、地図で調べてみた。荒川を遡上すれば、寄居町に着く。「寄居」は「よりい」と読む。昔は宿場町として賑わったそうだ。
「周りが大人ばかりだったので、本ばかり読んでいた」と久志本氏は笑う。本の虫だったが、成績は、普通の女の子。
「小学校6年生の時に、初めて先生に影響されます。国語の先生がいらして、言葉遣いを厳しく教えていただいたんです。本が好きだったこともあって、先生の教えに傾倒しました」。
中学に上がると、父親の同級生が音楽の先生だったこともあって、有無を言わさず吹奏楽部に入部することになる。
「理科の先生が好きで、私自身も科学に興味があったので、あの頃は、いつか理科の先生になろうと思っていました。ただ、熊谷女子高校に進んだあと、今度は医学部に興味がわいてきます。ただし、こちらも先に医学部に進んでいた兄から『女性が医学部に進学すると厳しい』とアドバイスされたこともあって、結局は、理科の先生でも医師でもない、薬学部を選択。当時、女子大だった旧共立薬科大学、現在の慶應義塾大学薬学部に進みます」。
「大学を卒業して最初に勤務したのが、埼玉医科大学の附属病院です。2年間、勤務するのですが、兄が歯科医院を開業することになったので、いったん退職し、兄をサポートすることになりました」。
仲のいい兄妹。信頼は厚い。

白衣を着た飲食経営者、現る。

兄をサポートする。最初は、開業した歯科医院を手伝うだけだったが、領域が思わぬ方向へと広がっていく。
「兄は、歯科医院を経営する一方で、RDCを起業します。『元禄寿司』寄居店をオープンしたのは、1987年のことです」。
つまり、がってん寿司の創業者は、兄の大島敏氏。
元禄寿司のフランチャイズからスタートした大島氏は、店舗数を拡大し、6店舗目にして「がってん寿司」をオープンする。
海のない埼玉県で、ホンモノ志向の回転寿司をはじめた歯科医師。白衣のまま店に現れたこともあるそうだ。
当時の物流状況を考慮すれば、まさにイノベーション。このチャレンジは、多くのお客様の笑顔となって結実する。
ちなみに、久志本氏のお父様も事業家で、日大の経済学部を卒業し、映画製作などに取り組まれたあと、飲食事業にも取り組まれ、最終的に不動産会社を起業されている。

専業主婦からの転身。

「実は私、RDCに就職するまで8年間、専業主婦だったんです。私が入社した頃は、まだ10店舗くらいだったと思います」。
今からすれば、まだまだ始まった頃の話。
先に話を進める前に、専業主婦時代の話も少し。
「結婚は、私にとって一つの挫折だった」と久志本氏はいう。悪い意味ではなく、思い通りにならない時代だったという意味。
「大学で寮生活を始めるのですが、2人部屋ということもあって、そちらでも『私』という個を主張することができなくなった経験がありました。一緒に生活していこうとすれば、相手に寄り添うことが前提になります」。
「その経験を経て、性格が変わった」と、久志本氏。
本の虫の、孵化が始まる。
「寄り添うという意味では結婚もおなじです。ただ、家族というのは思い通りにならないものの、絶対的な味方。その意味で、精神的な安定を得ることができたのも事実です」。
「自身の思い通りにいかない」という葛藤は、「挫折」という言葉に置き換わり、人生の伴侶と、子どもたちに囲まれ、日々の暮らしは明るく彩られた。
子どもたちが手を離れるようになったこともあったのだろう。平成5年から兄の片腕となるべく、RDCでの勤務を開始している。当時10店舗くらいだったというのはすでに書いた通り。
ところで、いつ頃から「がってん寿司」は、埼玉以外でも有名になったのだろう。
「TVチャンピオンじゃないですか。3連勝していますから」。確かにTVチャンピオンで3連勝のインパクトはでかい。「『がってん承知』の合言葉も面白がっていただけたのではないでしょうか」。
個人的には、絵本から飛び出してきたようなイラストも面白い。やがて、「がってん寿司」は海を渡っている。海のない埼玉県で生まれ、海を渡る。それ自体、ロマンのある話。
この兄の構想を実現すべくサポートしてきたのも久志本氏だった。妹は、兄にとって懐刀のような存在だったんじゃないだろうか。むろん、兄妹だから、だけではない。類まれな久志本氏の経営手腕を、兄大島氏は早くから見抜かれていたはずだ。

2023年2月9日木曜日

リテンションマテリアル合同会社 代表 大塚 達氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”リテンションマテリアル合同会社 代表 大塚 達氏登場。 

本文より~

アメフトと大塚氏。

たぶん、からだのでかい奴らばかり。飯もどんぶり飯。「同じ釜の飯」というが、まさに、同じ釜のどんぶり飯を食べる、そんなシーンが繰り広げられたんじゃないだろうか。
「独り暮らしということもあって、家族ではありませんが、みんなとは兄弟のような密な関係でした」と、大学時代を振り返ってくれたのは、今回、ご登場いただいたリテンションマテリアル合同会社代表、大塚氏。
1985年生まれの、若き経営でもある。
「アメフトを始めたのは高校時代。先輩に誘われて入部して魅了され、大学時代もグランドを走り回ります」。
高校ではキャプテン、大学では副キャプテン。
「1年の時は3学年の先輩たちがいるわけでしょ。年次が上がると後輩ができる。同年代の仲間との関係もそうですが、先輩や後輩との関係も『密』の一言です」。
大塚氏は4歳の時に父親を早くして亡くしている。母一人子一人。「裕福ではなかったんですが、好きなことはなんでもさせてくれました。習い事も色々経験しています」。
「母が再婚したのは、私が小学4年生の時。姉が2人、兄が1人、きょうだいが一挙に3人できました笑。姉や兄たちはかわいがってくれましたが、再婚相手の父親とはうまくいっていなかったように思います。町工場の経営者で、口調もつよく、子ども心に溶け込まないといけないと思いながらも、それが難しかったですね」。
大塚氏は、当時の父子関係をそう語っている。
「ちなみに、卒業証書は2枚あるんです。大塚の姓と田中の姓で。母が再婚した時、相手の父親が経営者だったもんですから、何かあった時のことを思って、私だけ戸籍は『大塚』のままだったんです。ただ、面倒なので学校では再婚後の田中で通していたので、学校側が配慮してくれて、大塚と田中の2つの証書を用意してくれました」。
今は、大塚を名乗っているが、大学までは田中で通していたそう。
「だから、昔の仲間からは今でも田中達です」。

心の筋トレ。

卒業、就職したのは不動産のベンチャー企業。いわゆるイケイケの会社。その会社を選択したのは、リクルーターのトークにうまく乗せられたからだったが、むろん、稼ぎたかったからとも言っている。
「子どもの頃、裕福ではなかったですし、当時はお金しかモノサシがなかったんだと思います」。
それから、過酷な日々が始まったわけですね?
「同期は7名いたんですが、2日で1人、2週間でまた1人、半年後には半分になっていました。私が担当したエリアは群馬。群馬は土地をもっている人が多いからマンションを購入する人がそもそも少ないエリアなんです」。
「とにかくプレッシャーがきつかったですね。先輩といっしょに回るんですが、先輩は監視役です。真夜中の3時にチャイムを押す。工場勤務などで、深夜に帰宅される人もいるから、まぁ、アリなんでしょうが、チャイムを押す手がなんども止まります」。
半年間、結果がでず、かわりに口内炎が12個できた。
「結果的に、こちらの会社に在籍したのは1年ですが、ふつうの会社の10年に匹敵すると思います。それぐらいきつかったです。ただ、最終的には営業ではトップの成績を残すことができました」。
調子があがってきたところで、世界的な金融危機が起こり、会社が倒産してしまう。
「いい意味で、プレッシャーの日々から抜けだすことができました。心の筋トレだって、真夜中3時にチャイムを押すこともなくなったわけですからね笑」。
だれが「心の筋トレ」と言い出したんだろう。たしかに、心は鍛えられまくった。

店長に昇格するも、ボーナス4万円。

「中学時代の友人に誘われて、私の地元である八王子の焼肉店でアルバイトを始めます。始めはつなぎのつもりでしたが、お客様からいただく『ありがとう』にめちゃくちゃ感動してしまって、飲食の仕事にハマります。前職では、そんな言葉をもらったことがありませんでしたからね」。
心がいやされた?
「前職では、不審者ってことで警察に連れていかれたことがありました。ひどい時には、週に1回ペースで。その時とはお客様の反応も真逆です。心もいやされ、もっと『ありがとうをいただこう』と正社員になり、店長にも昇格しましたが、今度は経済的にきびしくて」。
「君がトップだと渡されたボーナスが4万円だった」と笑う。
「仕事そのものは好きだったんですが、さすがに最高額のボーナスが4万円というのはね。トップだったのは、事実で、みんなの倍はいただいていましたが」。
みんなは2万円?と聞くと、大塚氏は苦笑いする。
経済的な理由以外にも、狂牛病などもあり、将来を不安に感じたのも事実。
「それで、また知人の紹介なんですが、今度はコンサル企業に転職します。フランチャイズの加盟店をサポートする仕事です。好きだけじゃやっていけない、と再度、営業職にチャレンジしようと思っていましたから」。
お金と仕事の間で、心が揺れ動く。
「その会社の仕事は、電話で加盟店を探す仕事でした。『叶え家』は、そうした加盟店の1社です。その当時の『叶え家』は利益もでておらず、クローズするしかないような状態だったんです」。
そちらを買い取るわけですか?
「そうです。色々な経緯があり、私が会社を興し、経営を引き継ぐことなりました。2013年6月のことです」。
思い切った決断ですね。
「当時の社長から経験があるんだからやってみてはと言われて、二つ返事で引き受けることにしました。失敗したとしても経験になるし、経営はしたことがなかったですが、テレアポをつづけるより、そちらのほうが楽しいと思ったからです」。

大塚氏が、披露したマジック。

思い切った決断だが、じつは勝算があった。
「焼肉店の時に、プロのマジシャンからマジックを教わっていたんです。プロレベルとは言いませんが、スプーンも曲げられますし、コインも消せます笑」。
それは凄い!
「お子さん連れのお客さんのところに行って、面白トークと、テーブルマジックを披露するでしょ。お子さんは100%喜んでくれるし、リピートもあって、それで100万円以上、月商がアップしていたんです。マジックのスキルはまったくさび付いていなかったので、それをやれば、ある程度リピーターはできるんじゃないかなと」。
もちろん、マジックはきっかけでしかない。
「マーケティングに注力し、コストパフォーマンスが高い料理をならべました。リピーターがだんだん増えていきます。半年後には、黒字転換しました」。
ただ、経営者として、わきが甘かった。
「財務を任せていた会社と、問題が起こり、最終的には勝訴するんですが、利益がぜんぶ抜かれてしまっていました。信頼していたということもあって、契約書も巻いてはいなかった。だから、経営者として私にも問題があったのは事実なんですが」。
料理と接客とマジックで、お客様を喜ばせていた一方で、「利益を抜く仕掛け」に気づくことができず、対価として頂戴したお金が消えていった。
「勝訴まで2年ぐらいかかりましたが、勝訴しても、もちろん、お金は返ってきません」。
損害は1000万円以上だという。「ただ、苦い経験ではありますが、社会を知るいい経験になったように思うようにしています」。
ポジティブな発想は、大塚氏の持ち味であり、切り札だ。
ちなみに、赤字を垂れ流し引き継いだその店舗は、今や蒲田で一番の繁盛店になっている。これこそ、大塚氏が披露したいちばん大掛かりなマジックだったに違いない。

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リテンションマテリアル合同会社 代表 大塚 達氏

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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

株式会社LG&EW 代表取締役社長 中澤祐介氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社LG&EW 代表取締役社長 中澤祐介氏登場。 

本文より~

バスケットボールと中澤氏と。

「親が呼び出されるほど、落ち着きがない子どもでした」と笑うのは、今回ご登場いただいた株式会社LG&EWの代表取締役社長、中澤祐介氏。
ただ、小学4年の時、川崎に引っ越してから「ふつうになった」そう。
「環境がかわったから、ちゃんとしないといけないと思ったんでしょうね」。だれかに言われたわけではないらしい。中学になってハンドボール部に入部。「めちゃくちゃ強い部だった」とのこと。
中澤氏は、万年Bチーム。「からだも小さかったし、うまいのがゴロゴロいましたから笑」。ただ、万年Bチームだったが、ハンドボールは大好きだった。
日大三高に進んだ中澤氏は、バスケットボール部に入部する。こちらも強豪。練習もハンパない。
「みんな辞めていくんです。正直、楽しいとは思ってなかったですね」。
その頃、ご両親が離婚されている。
「ナーバスになっていたわけではないですが、それもあって、退部を監督に相談したら、全否定されて。その日、なぜか練習が楽しくて。やっぱりオレってバスケが好きなんだなって思うんです」。
ちなみに、中澤氏は今もバスケットボールをしている。ボールを自在にハンドリングし、キュッキュッとシューズの音を鳴らすし、リングに向かってシュートする。
いえば、たったそれだけのことだが、それが人を魅了する。
「高校時代より、背丈は20センチくらい高くなりました。ただ、大学ではつづけていません」。
大学は日大ですか?
「内部進学で商学部に進みます。ただ、進みたい学部だったわけじゃなかったし、バスケットもしなかったから、だんだん学校に行かなくなってしまいます」。
学校に行かず何をしていたんですか?
「じつは、アルバイトにハマりまくるんです」。

飲食人生の始まり、始まり。

「時給は800円ですが、なんだかんだで、月30万円になっていました」。
時給800円で30万円?
「当時、私がハマったのは、清掃のアルバイトです。ショッピングモールや大学などの床を綺麗にする仕事です」。
給料が高くなったのは、深夜が多かったから?
「そうです。だれも知らないうちにピカピカにする。あれはあれで、全国のコンテストもあるんですよ」。
清掃員というより、プレイヤー。バスケット選手のように館内を自在に走り回る。ピカピカに光った轍が床に描かれる。たしかに、面白そうだ。
4年間つづけ、就職先も清掃関連の設備会社に決まっていた。「そう、決まっていたんですが、飲食のバイトも楽しくて、バイトばっかりしていたもんですから、卒業できなくて笑」。
飲食ですか?
「そう、私の飲食人生の始まりです」。
「お台場にある、今のクリエイト・レストランツの前身である徳寿という会社のお店です。店長が現、グルメブランズカンパニーの社長、石井克二さんでした」。
かけもちで飲食のバイトを始めたのは、20歳の時。清掃の時同様、ドハマリした。もちろん、その当時、会社がこれだけ巨大になるとは思っていなかった。
「1年間、留年しちゃったので、内定も取り消しになりましたし、クリエイトレストランツの創業店で仕事をつづけます」。
それでクリエイトレストランツに就職したんですか?
「いえ。飲食で、とは思ったんですが、就職したのはグローバルダイニングです。むちゃくちゃ恰好いいし、サービスも最高だったんです」。

挫折と再開。

3年間のバイト経験はだてではない。だから、ぜったいいけると思っていた。「私は、たまプラーザのモンスーンカフェで勤務を開始します。むちゃくちゃ忙しかったです。それは、それでよかったんですが、正直いうと、私のサービスレベルでは、まったく通用しなかったです」。
「当時の店長から、『逃げ癖がつくぞ』とも指導いただいたんですが、逃げるように退職します」。早速、やってきた飲食人生初の挫折。
それでどうしたんですか?
「銀座の酒屋さんで仕事を始めます。体もガリガリになってしまっていたので、体も造れるだろうと思って笑」。
飲食は向いていない、飲食業界から離れようと思ったという。ただ、高校時代、バスケットボール部のコーチからもらった色紙に書かれた言葉がふいに蘇ったそうだ。
「耐えがたきに堪えたるは、ああ、愉快なり」
それで、飲食人生の再開ですか?
「そうです。やっぱり飲食だと思って、際コーポレーションに1年ちょっとお世話になります」。
副店長になったが調理師とぶつかって退職。「調理のことはわからないだろって言ってくるんですね。もちろん、わかりません。だから、『わかった』といって、退職して、向かいにあったお店に入って1年間、キッチンの仕事をします。きっかけは、ともかく、いい勉強になりました。段取りやしくみが理解できたことは、私にとって大きな財産の一つです。そういう意味では、喧嘩をふっかけてきた、調理師には感謝しなければいけないですね笑」。

石井さんが呼んでいる。

このあと26歳でクリエイト・レストランツに入社されるんですよね?
「キッチンで働いていた店舗の経営元がかわることになって、それでいったんそちらを辞め、フロムエーというバイト雑誌をペラペラめくっていると、クリエイト・レストランツが掲載されていて。それで、興味本位で面接に行くと、すぐに電話があって、『君、石井って知っているよね? 石井が呼んでいるよ』って。そう、バイト時代の店長の石井さんのことです。それで、即採用いただき、『ポルトフィーノ』で勤務を開始します」。
いよいよ飲食の戦士、中澤が姿を現し、始める。
26歳で入社し、27歳、最年少でスーパーバイザーになり、35歳で、株式会社LG&EWの前身でもある株式会社イートウォークに役員として出向している。
代表はグローバルダイニングで総料理長などを務めた、カリスマシェフの渡邉明氏。「株式会社イートウォークをクリエイト・レストランツがM&Aをした時ですね。私はナンバー2として送りこまれるわけですが、渡邉明さんと出会ったことも、私にとって大きな財産の一つです。あれだけピュアに料理に立ち向かっている人は知りません」。
数字は、中澤氏がチェックし、コントロールしていた。
「私が渡邉明さんをリスペクトしていたのはもちろんですが、渡邉明さんも、私をリスペクトしてくださっていました。だから、うまくやっていけたんだと思います」。
現在、渡邉明氏は相談役だとのこと。
「2020年9月に、グループ再編によりイートウォークとルモンデグルメが合併し、LG&EWが生まれます。現クリエイト・レストランツの社長である飯沼辰朗さんが、いったん社長に就任され、私は今年の3月に社長に就任しました」。
「社長業は思っていたよりハードだ」と中澤氏は笑うが、それがナンバー2とナンバー1の違いは大きいということだろう。ただし、ナンバー1になる準備は整えていた。

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株式会社LG&EW 代表取締役社長 中澤祐介氏

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株式会社オリエンタルダイニング 代表取締役 宮 将司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社オリエンタルダイニング 代表取締役 宮 将司氏登場。 

本文より~

6番、ショート、宮。

ショートからみる風景は、どうなんだろう? 右にサード、前を向けば、ピッチャーにキャッチャー、そして、バッター、左には、セカンドとファースト。
甲子園は特別でしたか?
「小さい頃から目指してきましたから、たしかに特別でしたね」。
池田高校、6番、ショート宮。
「小さな頃からスポーツではわりと目立っていたほうです。運動会で走ると、ほかの子のお父さんが私を撮影していたくらいですから笑」。
野球好きの大人には、野球で評判の、目の前を走る少年がなにかの原石に映ったんじゃないだろうか。「私自身、野球が大好きで、小さな頃から夢は池田高校で甲子園と周囲に言いふらしてました笑」。
池田高校といえば、やはり「やまびこ打線」と「蔦監督」。
「強豪と思われていますが、実は田舎の県立高校。蔦監督が赴任された時はボールが3球しかなかったそうです。部員もいないから陸上部から選手を借りたりしていた弱小時代もあったと聞いています」。
県立だから、スカウトもない?
「そうなんです。ただ、私らの時にはもう有名でしたから、蔦監督を慕って、それなりの選手が入ってきたように思います」。
中学時代はピッチャーだったが、ピッチャーは早々にあきらめた。「同級生にすごい球を投げる奴が2人いて、ピッチャーなんてチャンスすらまわってきませんでした。で、初日にいきなり蔦監督からショートをしろと言われて、なんとか3年間ショートをやったわけですが」。
蔦監督は、宮さんにとってどんな人?
「入部するまでは、神様のような存在でした」。
入部すると?
「このくそおやじ!笑」
蔦監督がつくった寮で暮らした。「くそおやじ」は、文字通り、グランド外でも、おやじのような存在だったに違いない。
「もちろん、卒業後はふたたび神様。今も、尊敬してやまない人で、蔦監督がいなかったら全く違った人生になっていたと思います」。
教育者だった、ともいう。
「蔦監督は社会科の先生でして、生活態度や試験の点数が悪ければグラウンドに入れてもらえない。野球はあくまでも学校の部活動という考えだったから学業優先が当たり前。いわゆる『野球学校』が大嫌いな先生でした」。
この話からでも、蔦監督の人間像が浮かび上がる。
ちなみに、調べてみると1991年夏、国学院久我山を1回戦で破り、弘前実業を2回戦で撃破、帝京高校と当たった3回戦で延長戦の末、惜しくも敗れている。

明治大学、野球部で、辛酸を舐める。

2つ下に川上憲伸氏がいたという。こちらは明治大学時代の話。
「野球推薦で入りましたが、高校時代とはレベルが全く違う。特に守備と走塁は知らないことだらけ。全然歯が立ちませんでした」。
1年時に椎間板ヘルニアをわずらった。
「いい病院があると聞けば、大阪でもどこでもいきました。でも、けっきょく手術をします」。
選手を続けながら練習をサポートしたりもした。
「なんとか野球ができるようになってからは、毎日痛み止めを飲んで練習をつづけます。でも、そんな状態では到底かなわない。最後までやりつづけ、4年生の時チームは日本一になりましたが、辛いことのほうが多かった4年間でした」。
田舎の天才少年が、全国の天才たちに跳ね返され、凡人になる。楽しくはない。だが、人生にとっては悪くない試練。背骨はそういう試練の下で、まっすぐになる。
「大学を卒業してからは、いったん故郷の愛媛にもどり、経理をさせてくださいといって石油化学メーカーに就職します」。
どうして経理だったんですか?
「もともとうちが裕福でなかったことと、大学時代、経済格差を目の当たりにしたことで、早くから独立志向があったんです。要するにお金持ちになりたかった笑。経理はお金のことを勉強できるので、それで経理部を希望しました」。 勉強になりましたか?
「経理は初めてでしたから最初は苦労しました。ただ入社した会社が素晴らしい経営体質で、ぜんぶが勉強になりました。会計学はもちろん、会社のあるべき姿を優良企業から学べたのは、何よりも私の財産ですし、目標とすべき理想の会社です」。
東京で営業もされていますね?
「そうです。経理を3年やって、営業を2年やりました。とても楽しかったので少し躊躇いましたが、初志貫徹で独立します。」。

日本人向けにアレンジしたインド料理。

大学時代の友人から外食を勧められたそう。
「あるビデオを勧められて、、、たしかグローバルダイニングの特集だったかな。頭も体も動かすし、チームスポーツみないで面白いなと外食に関心をもって。あることがきっかけでインド料理をはじめます」。
インド料理といえばカレーですね。
「日本では国民食ですが、インドのカレーといったらまた別物。インド人がつくるスパイスの利いたあのカレーです。私は、ちょっと苦手だったんですが」。
たしかに、コテコテのインド料理店は家族連れではちょっと入りづらい。。
「私と同じように、興味はあるけれど本場過ぎて敬遠してきた人もいるだろうと思いましたし、実際、本場のインド料理を謡っているところに限ってそれほど賑わっていないことがわかったので、だったら日本人向けにアレンジしたインド料理で勝負すればいけるんじゃないかな、と」。
それがきっかけですね。
「ただ、会社を辞め、1年は物件がない笑。25坪、50万円と決めていたんですが、探しても、探してもいい物件がありません。けっきょく恵比寿に出店するんですが。27坪、84万円。いきなり予算オーバーしちゃいましたが、それでも最初はいけると思っていたんです。オーナー気どりで、蝶ネクタイで店に立ちました笑」。
オープン初日はどんな思いだったんだろうか?
「居抜きで開業資金は2500万円くらいです。私はほかの社長さんとちがって飲食の経験はありませんでしたが、かわりに、財務会計やマーケティングには自信がありました。ところが、初日からすべての計算が狂います」。
どういうことだろう?
「ぜんぜん、お客さんが来ないんです笑」。
1日経っても、2日経っても、客はこない。「飲み屋には向いている場所でしたが、カレー屋には全然向かない場所だったんです。エリア的な問題ですが、最初はわからなかったんです」。
チラシを撒いても、ビラを配っても、笑いたくなるほど、反応がない。「ネットにも掲載しましたが、インド料理はお酒とつながらないので、うまくいきません」。
賃料84万円。通常なら、400万円が損益分岐点。しかし、月商は180万円しかなかった。「3日目には、恥も外聞もなく、アルバイトの子に頭を下げてシフト減らしてもらって、蝶ネクタイをはずして、私がホールに立ち接客をはじめました」。
最初は意地もプライドもあったという。「でも、オープンしてからの3日が、私の意地もプライドも、ぜんぶ、洗い流してくれました」。
11:30のオープンから深夜2:00のクローズまでぶっ通しではたらいた。アルバイトを雇用したのはランチタイムのみ。閉店後はポスティング。帰宅は深夜3時。これを無休で1年間続けた。

・・・続き

株式会社オリエンタルダイニング 代表取締役 宮 将司氏

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