2019年9月12日木曜日

新たな業務の柱を立てるために・・・。

新たな業務の柱を立てるため新規事情の構築でいろいろ動いております。
次世代を担ってくれる平均年齢28歳の営業メンバーたちにうまくバトン繋がれたら…。
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2019年9月10日火曜日

株式会社コジマ笑店 代表取締役 小嶋崇嗣氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社コジマ笑店 代表取締役 小嶋崇嗣氏登場
本文より~

中学生、月数十万円、儲ける。

稲藁に移った炎で、鰹を炙る。これが、土佐の鰹のたたき。コジマ笑店の名物でもある。さて、今回は、そんなコジマ笑店の代表取締役、小嶋崇嗣氏にご登場いただいた。
小嶋氏は、1977年9月9日生まれ。2人兄弟の弟。兄とは6つ離れている。「親父はIT系の会社に経営していて、いっときは羽振りもよかったんですが…」と小嶋氏。
正確な記憶はないが、父の仕事がうまくいかず、父と母は別れ、母と子ども2人は都内から離れ西に向かったそうだ。これが小学生の頃の話。
「私が中学生になった頃には、兄はいませんし、母も夜まで仕事をしていましたので、我が家に人はいない。昔は母にピンタされたこともあったんですが、中学にもなると、こちらも大人ですからね。いろいろ認めてくれて、とにかく自由です。うちにも勝手にともだちが入って来たりして。そうそう、ともだちに料理をふるまって褒められたのも、この頃のことですね」。
アルバイトを始めたのも中学から。
「土建業です。給料はいいですよね、肉体労働ですから。当時は、財布にはいつも数万円入っていました。学校より断然、バイトが楽しかったですね。だって、いい月には数十万円です。学校に行ってられないでしょ。とはいても、学校に行かないわけにはいかないから、自動車の整備学校に進みます」。
なんでも小嶋氏、整備士の資格ももっているそうだ。

楽コーポレーションとの出合い。

自動車の整備学校を卒業したが、仕事に就いたのは、またしても土建業。「何しろ給料がだんぜんいいんです。月50万円っていうのもあったし。それに、でっかい建物が建っていく様子は、やっぱりすごくって。俺らの仕事ってかっこいいじゃんみたいな、ね」。
18歳になると、車の免許を取って、さっそく、チェロキーを購入した。「充実しているはずだったんですが…」と小嶋氏は笑う。
「なんでかな。ともだちが『楽コーポレーション』ではたらいていて、なんでかわからないんですが、一発でその姿に感化されちゃんです。まだ、ハタチになっていないんですが、『楽』って会社に酔っちゃたんでしょうね。土建業のほうはすぐ退職して、『楽』に入ります。もっとも最初の3年間はアルバイトです」。
衝撃は受けたが、社員になる気はなかったそうだ。
「そうですね。だいたい性格的に人の下ではたらくってことができないんです。だからって、アルバイトでもそうなんですが/笑」。
当時から独立は考えていましたか?
「ええ、経営に興味があったわけではありませんが、そんな性格なんで、独立はずっと考えていました。『楽』にいると、順番に先輩たちが独立していきますからね。そういう先輩の背中を観ていたというのも大きいんでしょうが」。

バイトから社員へ。

「接客が何より楽しかったですね。お客さんといっしょに楽しむっていうのが、『楽』ですから。ただ、給料は半分くらいになっちゃいましたし、よくやったと思います」。
「楽」では、接客だけではなく、調理も学んだ。それ以外にも、「経営的な数字も自然と修得できる」という。だから、独立するちからが数年で育つ。
「社員になったのは、『楽』でいちばん信頼していた先輩の店に異動した時ですから、私が23歳の時ですね。新店、立ち上げの時です。じつは、その先輩には辞めることを話していましたから、『どうせ辞めるんだったら、最初だけ手伝ってよ』って誘われたんです。ええ、まんまと騙されて、社員になります/笑」。
「ただ、立ち上げは初めてです。だんだんお客さんがついていく。そんな様子を観ているのは、最高でした。最初から爆発したわけじゃなく、だんだんお客さんとのコミュニケーションも深まって、そうやって常連さんが1人、また1人と。それがとても新鮮でしたね」。
飲食経営の楽しみとだいご味。経営のノウハウと同時に、小嶋氏は、そうした飲食ビジネスのもっとも重要な部分をを経験する。

下を育てるのが、独立の準備の一つ。

「26歳になって、もう一度、辞めようかなって思うんです。ただ、26歳で店長にも昇格して、それで腹を決めて馬車馬のように仕事をしました。だって、負けたくないし、期待にも応えたいでしょ。だから、売上を上げたい一心で頑張りました」。
月商のアベレージがすぐに引き上がった。しかも、アップ率150%。「800万円だったのが、1200万円以上になりました。店長で売上はかわるのか、ですか? かわります。とくに、『楽』は人対人ですからね。それだけお客さんは、我々のこともみてくださっているということですよね」。
もちろん、「楽」での経験はいまも小嶋氏の背骨を貫いている。
「私が独立したのは34歳の時です。だんだん、独立っていう時期が、わかってくるんです。だから、独立してもいいように下を育てます。もちろん、私もそうしました」。
「いっしょに」とねがうスタッフもいたが、「楽」からは、1人として連れていかない。小嶋氏の矜持だった。「いつまでもいい関係にいたいでしょ。15年くらいはたらいた会社なんだから」。
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珈琲館株式会社 代表取締役社長 友成勇樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”珈琲館株式会社 代表取締役社長 友成勇樹氏登場
本文より~

学生起業家、マクドナルドへ。

小さな頃から起業には関心があった。中央大学に進学すると、おなじ大学生でありながら、起業する人が現れる。いわゆる学生起業家だ。
「私が学生だった頃は、起業が流行っていました。私の周りにも起業する人が現れます。じつは、私も大学2年の時に飲食店をオープンしました。開業資金は、借金です/笑」。
卒業するまでつづけたが、なかなかうまくいかなかったようだ。
「就職すれば、さすがにつづけられません。それで、大学卒業直前にお店を閉める決断をします。残ったのは2,000万の借金です」。最初の起業は2年半で幕を閉じたが、むろん、いい経験ができた。
「私が就職先に選んだのは、日本マクドナルドです。マクドナルドって、最初はそう給料が高くないのですが、店長になると、ぐっと給料がアップします。店長になるには、平均6年くらいかかるのですが、借金があったから頑張らないわけにはいきません。/笑」。
ちなみに同期276人のなかで、いちばん最初に店長に昇格したのも友成氏だ。店長、昇格は25歳の時だったという。しかも、30歳でスーパーバイザーになっている。いっておくが、あのマクドナルドで、である。店長になるのも、難しい会社だ。早くて、10年かかると言われていたそうだ。会社からの評価が高かった証でもある。
そんな友成氏にアメリカへの転勤の指令が下りる。34歳の時だ。

シカゴへ行け。

「最初は『長野に行け』だったんですが、すぐに取り消され、『もう少し遠いところになった』って。それがシカゴです/笑」。
これから、友成氏のアメリカ生活がスタートする。
「最初の2年間は、シカゴの店舗で勤務していました」。仕事のかたわらで、じつはビジネススクールでMBAも取得している。
「会社からの指示ですか?」と聞くと「ぜんぶ自腹」と笑う。向こうの大学院は高い。数百万円かかったと聞いてびっくりした。ただ、この話を聞いて、友成氏という人物がイメージのなかで、はっきりと立ち上がる。まっすぐで、貪欲な人なのだ。
「3年目からは、アメリカの本社でプロフェッサーとして仕事をしました。世界のマクドナルドの本社ですからね。いい経験にもなりました」。友成氏は軽くいうが、むろん、異例の人事だ。世界でも数名しかいない抜擢だったともいえるだろう。 帰国したのは、友成氏が37歳の時。すでに、マクドナルドを代表するような青年に育っていた。

イギリスのサンドウィッチ店「プレタ・マンジェ」オープン。社長に就任。

「帰国した翌年ですね。私が38歳の時です。新たなグループ会社が立ち上がり、私がその会社の社長に就任することに決まります」。
社長になってオープンしたのは、イギリスのサンドウィッチのファストフード店「プレタ・マンジェ」。オープンは2002年7月。
「それまで遠い存在だった藤田田社長とも、この時いっしょに仕事をさせていただきました。会社は、2年半後に解散になりましたが、いい経験になりました。藤田さんっていうのは、とんでもなくすごい人です」。
2年半。この経験は、だれにもできるものではない。
「解散は、もちろん悔しかったですね。会社の指示だから、従わないといけないんですが。プレタ・マンジェのウリは合成添加物をいっさい使用していないサンドウィッチです。まだ、日本には早かったのかもしれません」。
従わなくてはいけない、と思ったものの、友成氏はあきらめ切れなかったのだろう。
「つくった組織の解散も忍びない。だから、思い切って私が会社を立ち上げました」。
このあと、新たなステップとして友成氏は、モスフードサービスの顧問に就任し関連会社の会長として、8年間、指揮をとった。
「いろんな愛着がありますね。起業した会社もそうですし、マクドナルドも、自分で立ち上げた会社も、もちろん、モスも」。
そんな友成氏が珈琲館に転職した経緯はこうだ。
「最初は、私の後輩を紹介しようと思っていたんです。ただね。話を聞いているうちにだんだんと興味がでてきてしまって。これは、私がなるべきだな、と。社長に就任させていただきました」。
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2019年9月5日木曜日

キリンシティ株式会社 代表取締役社長 江田雄太氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”キリンシティ株式会社 代表取締役社長 江田雄太登場
本文より~

ラグビーと江田氏と。

小学3年生から始めたラグビーは、30歳までつづけた。社会人になってからは会社のチームに所属する。大学の時には肩の脱臼がくせになり、2年時には手術をしている。
「いまのマネジメントにもラグビーは役立っています。スポーツはこれ一本ですから、私自身をつくってくれたのはラグビーと言っていいと思います。/笑」。
ポジションはスタンドオフ。ラグビーでは司令塔と言われているポジションだ。
「高校生の頃までは、小学校の先生になるのが夢でした。結局先生にはなりませんでしたが、ラグビーで母校の高校監督や、大学のコーチをしたことで、夢が叶った気持ちがしています」。
ラグビーと学生生活。
「大学2年の時、脱臼がくせになって手術するんです。手術に踏み切ったのは、残りの大学生活、最後まで思い切りラグビーがしたかったから。でも、手術したおかげで、社会人になってもつづけることができました。ええ、やってよかったですね」。
ラグビーの精神も、江田氏のなかに息づいていることだろう。
「One for all, all for one」。
経営にも、人生にも通じる言葉だ。

「スーパードライの横に淡麗を」作戦。

就職先の第一志望は、キリンビールだった。「ビールの役割の多様性、うれしい時もそうではない時も、人の人生を豊かにするちから」に興味をもったからだ。
「入社して2年は、練馬区の営業担当。そのあと5年間、スーパーやディスカウントストアを担当します」。
当時、それまで首位を譲ったことがないガリバーのキリンビールを、スーパードライのアサヒがシェアで追い抜くという、衝撃的な出来事があった。
スーパーやディスカウントストアでも、キリンラガーに代わり、アサヒスーパードライが売れに売れていた。当然、ディスプレイのなかで、いちばん目立っているのもアサヒスーパードライ。
「そうなんですね。キリンの牙城が、アサヒさんによって崩されます。キリンも新商品を出したり、勝負をかけるんですが、うまくいきません。発泡酒の淡麗ができたのは、ちょうどそういう時でした。私は、この淡麗で勝負をかけます。とにかく、淡麗をスーパードライにぶつけたんです」。
どういうことだろう?
「スーパーにもディスカウントストアにも予め決められた棚割りがあるんです。ただ、お店ごとにも多少の裁量があるには、ある。私は品出しなど、とにかくスーパーの人たちといっしょになって汗を流して、心を通わせ、スーパードライの横に淡麗を置かせてもらったんです。スーパードライの横に淡麗を、作戦です」。
これが、一つのターニングポイントと江田氏も言う通り、仕事の喜びを見出だしたのは、この時だ。
「それぞれのスーパーやディスカウントストアで、淡麗が、日々、スーパードライのシェアを食っていくんです。この戦略は、やがて全国に広がります。ついでに、東京に、スーパードライを逆転した奴がいる、とも」。

長崎は第二の故郷。


「キリンビールっていうのは、老舗ですが、自由な風土なんです。だから、私もいろんなことを思い切ってできたし、東京の若造が生み出したスーパードライの対抗作戦も『いい戦略だ』といってシンプルに広がっていったんだと思います。このあと5年間は、飲食店向けの業務用で仕事をします。スーパーやディスカウントストアならキリンビールがゼロになることはないでしょ。でも、飲食店なら起こるんです。ゼロか、100か。痺れる仕事です」。
もともと営業職を希望していた江田氏だが、このあと7年半、マーケティング部に異動。本社勤務となる。
「そのあとが長崎支社です。営業現場にも戻りたいと思っていたので、大変ありがたい異動でした。長崎はキリンビールにとって、ゆかりがある土地ですしね」。
営業部長として赴任し、1年半後に支社長に昇格する。ここでも、アサヒと熾烈なバトルが繰り広げる。「3年半の間に、少しだけシェアを奪回できましたが、力が足りず、逆転にまでは至りませんでした。その悔しさは残っています」。
もっとも長崎はいまなお思い出、深い。
江田氏が、支社長になってタイミング良く、「47都道府県のキリン一番搾り」がリリースされる。「これは、各都道府県の食文化や風土、歴史を活かしたビールなんです。原料も県によって違います。そういうビールをつくって、地域に貢献しようというプロジェクトです。地域の方々にも開発プロジェクトに参加していただきましたので、交流も生まれます。『ビールの役割の多様性、うれしい時もそうではない時も、人の人生を豊かにするちから』。まさに、これですよね」。
このビールは、江田氏が支社長の2年間だけの限定商品だったらしい。このビールの開発、そして何より長崎の人々の温かさによって、江田氏は長崎に愛着をもつことができたのだろう。これも、ビールの多様性の一つ。江田氏は、「長崎が第二の故郷だ」といって、笑う。
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2019年9月4日水曜日

株式会社U-MORE 代表取締役社長 山﨑基史氏登場。

本文より~

サッカーも、野球もつづかない。好奇心旺盛な少年。

2年浪人して、学習院に合格した。そもそもは有名なアーティストに憧れて音楽に携わる仕事を目指し、日大芸術科への進学を希望していたが、学習院なら悪くない。人生でいちばんうれしかったことの一つと、山﨑氏がいうのも頷ける。
「学習院ってやっぱり、お坊ちゃまもいるし、頭の切れる人もいる。そんななかで下町育ちの私は、ちょっと浮いていたかもしれません。それでも大学時代は、いま思い返しても楽しいことばかりでしたが」。
山崎氏は1976年、京都市北区に生まれている。3人兄弟の真ん中。父は商社を経営し、社員数も一時は100人規模に達したそうだ。
「といっても、私が4歳の時に会社をたたんで東京に引っ越します。だから、京都弁はぜんぜんしゃべれないです。東京の下町育ちというのが正確です」。
当時、下町の状況はどうだったんだろう。
山崎氏が4歳といえば、1980年。経済はまだ活況ではなかったが、バブルの芽が少しずつ育ち始めた頃でもある。バブルを経て、下町の風景は一新したはずである。
「学生の頃は、何をやってもつづかなかったですね。サッカーをやってはやめ、野球をやってはやめて…」。
そういって山崎氏は照れ笑いするが、好奇心が旺盛だった証だったに違いない。

マスコミ志望。USENに就職する。

「大学では『放送研究部』っていう部に入ります。この部で部長も経験するんですが、私が部長の時に部員は100人に。これは、創設以来、最高の部員数でした。『放送研究部』っていうのは、ま、いろいろするわけですが、映像制作やラジオ番組の制作とか。私もそうですがTV局関係でバイトをする部員が多かったですね。マスコミとの距離がちかくなる、そんな魂胆で入部してきたメンバーもいたはずです。就職先も、希望は当然、マスコミ関係です。私も何社か受験するんですが、その時、就職したのが有線ブロードネットワークス社、もう少しわかりやすくいえばUSENです。放送関係ということもあったんですが、じつは、大学時代のバイトを通して、ショップのプロデュースにも興味があったからです」。
じつは、USENには「店舗事業部」という部署があった。
「そうなんです。USENに就職したのも、この事業部があったから。2年間は、BGMやヒトサラの営業だったんですが、3年目にこちらに異動しています。これが、いまの始まりですね」。
山崎氏は、プロデュースはもちろん経営にも興味があったという。「だから、当時のグループ会社も含め、転々とするんですが、どこに行っても経営陣をきびしい目でみちゃうんですよね」。
経営者の父親の遺伝子なのだろうか。
「ただ、私は、新人の頃からナンバー2がいいなと思っていたんです」。
「なぜ、トップじゃないのかって。だって、ナンバー2のほうが自由でしょ。社長は、社長の椅子に座っていてもらって、ナンバー2の私らが全部事業を動かしていくっていうイメージです。でも、まぁ、そううまくはいきませんね。そういうことはだんだんわかってきます/笑」。

好奇心と、勇気と。

山崎氏はグループ内の会社を含め、転々としたと言っているが、たしかに、子会社だけで6社と、たしかに少なくない。子会社を転々とし、様々なキャリアを積んでいくなかで、経営者としての評価も高まる。
「さきほどいったように最初は、ナンバー2がいいな、と思っていたんですが、トップじゃないとできないことってあるってわかってくるんですね。私が大嫌いな長い会議を止めさせるのもそのひとつ。トップじゃないから、なんともできない/笑。だから、トップもいいかな、と思うようになっていたんです。その後、グループから独立し現在のU-MOREの設立に合わせ代表取締役の依頼があった時には、すぐに『やります』と」。
旺盛な好奇心と、新たなことも怯まずはじめる勇気と。案外、サッカーをやってはやめ、野球をやってはやめて、と笑った学生の頃と似ている。
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