2019年9月25日水曜日

株式会社COMATSU 代表取締役 松村宗孝氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社COMATSU 代表取締役 松村宗孝氏登場
本文より~

大人たちが笑顔の花を咲かせる、スタンド・バー。

自由人というイメージにちかい。競馬も、競輪も、たしなんだ。料理もうまい。今回、ご登場いただいた松村氏の父親の話である。
「そうですね。自由人にちかいですね。好きなことをしている人でしたから」。
父親は、松村氏らが暮らす住まいの階下でスタンド・バーを経営していた。「ちっちゃな、スナックのようなバーだったんですが、毎日、いろんな人がいらして。親父も、お客さんもそりゃ、楽しそうでした」。
大人のたまり場みたいなものだった、と松村。
「父親が楽しそうで、いま思えば、あの父親の姿が、私の原点ですね」。
子どもながら、手伝った記憶もある。シェーカーで植木に水をやっていた、と笑う。
「住まいも、店もボロボロで、ぜんぜん裕福ではなかったですが、食べ物だけはいいものを食べていましたね。たぶん、儲けはわずかだったんでしょうね。高校に進学する頃になると、そういうのもだんだんわかってくるじゃないですか。だから、最初は、進学するつもりもなかったんです。ただ、たまたま中学の時にやっていたバスケットボールのおかげで、特待生で獲っていただける学校があって」。
それで、進学。
「そうです。学費も、入学金もいらない、というお話だったので。ただ、高校2年の頃に、今度はだんだんバスケットボールにさめてしまいます。バスケットボールで食べていける、そこまでの自信もなかったですし、だんだんと将来が不安になってくるんです」。
バスケットボールばかりやっていて大丈夫だろうか? そう思うと、ちからがはいらなくなったそう。
「じつは、ひざの半月板を損傷しちゃうんですが、それも、けっきょくそのまま。治療代がなかったし、そうまでしてやらなくてもいいかって」。
父親は、お金にしばられるような人ではなかったが、子どもたちはそうはいかない。「とにかく、仕事をする、それが、いちばんでした。だから、大学への進学は頭になかったですね。その時、就職したのはアパレルと飲食をやっているハイブリットな企業です」。
アパレルに興味があったから、と松村氏。こういうと、怒られてしまうかもしれないが、ごくありふれた志望動機だった。

東京へ、イギリスへ。青年の旅がはじまる。

「私は父親を尊敬していますが、私自身はサラリーマンになろうと思っていました。反動といえば、反動ですね。それで、就職も、アパレルの会社に就職したんですが…」。
サラリーマンはたいくつでしたか?
「正直、楽しくなかったです/笑。一度、飲食部門にヘルプに行くんですが、じつは、それが楽しくて。オレってやっぱり飲食が性に合っているんだ、と/笑」。
父親のDNA?
「そうですね。私のなかにいる父親を感じました。やっぱり、DNAには敵いません/笑。父親とおなじバーテンダーをはじめたのは20歳の時です。もう、DNAが開花したっていうか、楽しかったです。とくに、地元ですから。ただ、『これじゃ、いけない』って思うようにもなるんです」。
知り合いがいないところでないと、バーテンダーのちからを図れない。たしかに、そうかもしれない。ただ、「だから、東京へ」というのは、距離が離れすぎているように思った。しかし、まだ、東京はちかいほうだった。
「23歳の時に上京します。ただ、バーではなく、お酒を知ろうと思って酒販店で勤務します。そのかたわら、いろんなバーを観て歩きました」。
そして、なんと、イギリスのパブを観たくなって、イギリスにも渡っている。
「アイリッシュパブのようなバーをやりたいと思うようになりました。これが、イギリスに向かった理由です」。
ロンドンは2泊だったが、スコットランドやアイルランドの田舎町を回ると、とたんに楽しくなり、いくつかのパブで飲むうちに、おぼろげだった構想が、明確なかたちとなる。
けっきょく、この時は3ヵ月滞在。
この旅は人生においても、いちばんの財産になった。しかし、やりたいことが明確になっても、すぐにできるわけもない。
インターバル。松村氏は、いったん福岡にもどる。

16社目でもらった初の、合格。

「お酒では、それなりのプロにもっていましたが、料理はできません。そういうこともあって、ちょっと最初にもどろうと」。地元にもどった松村氏は、飲食店を経営する小さな会社に就職した。
「就職したのが、有限会社ディー・ディー・カンパニーという会社で、これが小野 孝社長との出会いです」。
「じつは、それまでに15社落ちた」と松村氏は笑う。いまもその理由がわからない。
「こういっちゃなんですが、大手チェーンも受けました。あの時は、え、この人たち、困っているんじゃないの? って。ええ、相当、落ち込みました。16社目が、ディー・ディー・カンパニーで、面接官が小野社長だったんです」。
「いきなり、怒られた」と松村氏。だが、話すうちに、たがいに引き込まれた。「いま私があるのは、あの面接の、数十分のおかげですね」。
人生には不思議な出会いがある。
15社に「いらない」と言われた。唖然とするしかなかった。どうして? 当時はそう思ったが、今なら、ノーと言ってくれたことに感謝したいくらいである。
ちなみに、小野氏はいま飲食店を11店舗経営されている。
「小野社長と出会ったのは、なかなか就職が決まらなかった時ですから、25歳の時ですね。ほんとに、いろんな経験をさせていただきました。まだ、社員も1人か、2人くらいの時ですからね。店も最初は1店舗だけです。でも、ぜんぜん、それじゃ終わらない人だったんです」。
松村氏は、小野氏の下、文字通り奔走する。
「一つとして、おなじ店がないんです。鮨でしょ。和ダイニング、洋食、ラーメン…。私は、いつしかナンバー2という立ち位置で仕事をさせていただくようになりました」。
11年間、小野氏の下で、薫陶をうける。
「独立という思いはつねにあったんですが、具体的な計画に移すことはしませんでした」。
そりゃそうだろう。ナンバー2として、ONOグループを動かす。起業とある意味かわらない。そんな松村氏に転機をうながす事態が起こる。

1号店、オープン。

「2011年に父親が他界します。そして、震災です。改めて、人生について考えさせられました。やりたいことをやらない、と。そう思って、36歳の時に、独立して小さな酒場をはじめます」。
小野氏も、背中を押してくれたそうだ。
「私が抜ければ、たいへんになるのはわかっていましたから、ある程度、準備期間を設けて独立と思っていたんですが、小野社長は『そういうのは、思い立った時がいいんだ』と。ありがたいですよね」。
背中を押してくれただけではないだろう。どんな社長になればいいか。小野氏は、間違いなくお手本を示されている。
独立してどうでしたか?
「おかげさまで、最初から悪くなかったんですね。ただ、オープニングの時だけって約束で手伝ってくれていた友人2人がいなくなった時はどうしようかって、割と真剣に悩みました。料理は、ポテトチップだけにするかって。そういうわけにもいきませんしね/笑」。
ただ、この時の不安は、「1人じゃできない」という発想になって、プラス方向にはたらいたのではないか。ひょっとすれば、この思いがいまをかたちづくっているようにも思うからだ。
「1人じゃできない。でも、だれかといっしょならできる」。
このあと松村氏は、次々と出店を重ねていく。2013年には法人化も実現した。2019年、現在、福岡では、絶対的な人気を博している。
「COMATSU kitchen & bar」「Comatsu imaizumi」「cave de comatsu Imaizumi」「Comatsu Premier」「リバーサイド コマツ」「ニューコマツ」「地下のニューコマツ」「欧風酒場食堂 パーラーコマツ」「China Stand 二兎(ニト)」。
じつは、ここまでが、福岡の店。そして、2019年7月段階で残す1店が、都内に出店した「コマツ神田西口商店街」である。
・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2019年9月24日火曜日

セガフレード・ザネッティジャパン株式会社 代表取締役社長 アジア地域統括責任者 森 聡郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”セガフレード・ザネッティジャパン株式会社代表取締役社長 アジア地域統括責任者 森 聡郎氏登場
本文より~

祖父は、高等小学校出の木こり。稼ぐためオーストラリアへ

和歌山県東牟婁郡古座川町。はるか太平洋を望む位置にはあるが、古座川町は山間部の、人口2700人の過疎の町だ。父は高校教師。祖父は山仕事を生業としていた。人生でもっとも影響を受けた人は?と質問すると、森氏はすぐさまこの祖父を挙げた。
「祖父は木こりでした。当時、給与は11銭だったそうです。ところが、オーストラリアの北岸にあるアラフラ海で真珠を採る仕事の話があって、こちらは給与が12銭。それを聞いて遥かオーストラリアへ。当時は、祖父同様、仕事をもとめ海外へ行く人が多かったそうですが、良く言えば旺盛なるバイタリティ、或いは当時はそれほど生活が苦しかったとう事でしょう。明治が終わった翌年、つまり1913年の話です。その次の年に第一次世界大戦がはじまります」。
幼少の頃の森氏は祖父っ子で、毎晩、祖父といっしょに風呂に入って、当時の話を聞かされた。祖父が語るオーストラリアの木曜島での体験談を、目をランランとさせながら聞いていた森氏の姿が浮かび上がる。この森氏が尊敬する祖父は、99歳まで生きておられたそうだ。「炭焼き、丸太切り、大八車引き、饅頭屋、家族を食べさせるために何でもやったんです」と森氏は笑った。

大学教授になる夢が挫折。

高校生の頃には、なんとなく大学教授をめざすようになっていた。「田舎者ですから、親父が高校教師なので、大学教授になろうと、ただ単純にそう思いました」。神戸大学で英語学を専攻。これも将来、教授になるための選択だった。
学部の4年間が終わると奨学金をもらい、アメリカのオレゴン大学大学院に進んだが挫折。25歳でしぶしぶ社会に出る。ところが、自分がビジネスに向いていることに気付いたのもこの頃。
「向こうでは、29歳までシティ・バンクで勤めていました。最初の離婚で日本に帰ることになり、そのタイミングで退社し、パソナに転職しました。シティ・バンクで勤めていた時に南部さんにお会いしていて、それが縁でお世話になったんです」。
森氏が南部さんというのは、いうまでもなく現パソナグループの代表 南部靖之氏のことである。
「ただ、こちらも31歳までの2年間だけでした。ただ、もっと在籍していた気がします。ホントに濃厚な2年間でしたね」。
南部氏の下での2年。すべてが新鮮で、学ぶことが多かった半面、人生簡単じゃないなと悩んでもいた。

人生は成り行き。7回の転職を経験。


思い切って、パソナから転職した森氏は「1年はファイナンス、もう1年はマーケティング」と次に転職したディズニーストア時代を語る。そして、3年目は競合のタイムワーナーへ転職。このワーナーの在籍期間も5年とけっして長くはないが、この時がいちばん大事なキャリアを積んだ時期だったという。ワーナーブラザーズスタジオストアをフランチャイザーとして管理する日本の責任者。実質、トップの仕事が任され、「精神的にもタフになった」という。
まだまだ転職はつづく。次には、セールストレーニングを展開する英国企業に入り、こちらでも実質、トップの仕事を任される。外資の車のインポーターが顧客だったとのこと。
「ディーラーセールスやプロダクツ、マネジメントなどのトレーニングを行う会社でした。イギリスにモデルがある事業なのですが、目に観えないものを商品化して販売するわけですから、ある意味、想像力や発想力も鍛えられました」。
こうしてみると、転職を通して、その度に新たなキャリアに挑戦しスキルアップを図っていることがわかる。インタビューの冒頭、私の話は良い意味でも悪い意味でも転職のいいケーススタディになるかもといったが、その言葉にも頷ける。
結局、森氏の転職回数は7回におよび、そのうち、3社で代表取締役社長を務めている。
そして、現在が、2011年に就任したセガフレード・ザネッティジャパン株式会社の社長というわけだ。「結局、人生は成り行き。いろいろ考えてもしょうがない。」と森氏は述べた。
・・・続き

2019年9月20日金曜日

株式会社ゆかり 代表取締役社長 山下真明氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ゆかり 代表取締役社長 山下真明氏登場
本文より~

はじまりは、「甘党ゆかり」。

大阪には、いくつものお好み焼の店がある。老舗もあれば、モダンな造りの店もある。「ゆかり」が創業したのは昭和25年だから、むろん老舗である。もっとも山下氏に言わせれば少し様子が異なる。
「じつは、うちは最初、<甘党ゆかり>としてスタートしてるんです。その後、昭和40年に<パーラーゆかり>をオープンし、昭和44年に洋食業態<グリルらん>をオープン。いまのお好み焼専門店としてスタートしたのは昭和47年。ですから、ほかの有名なお好み焼店と比較するとずいぶん後発なんです」。
なるほど。
たしかに、創業は古いがお好み焼店としてスタートしたのは、1972年のこと。それだけに限れば、マクドナルドやケンタッキーより新しい。「そうですね。だから、たいへんだったと思います」。お好み焼店へのリニューアルを進めたのは、先代の社長。むろん、山下氏の父親だ。

原価率40%のお好み焼。

「いまでも、そうなんですが…」と言って、山下氏は、当時のことを話だす。
「当時といっても、私はまだ生まれていませんから聞いた話です。後発だから、『とにかく差別化しないといけない』ということで、食材にお金をつぎ込みます。いまもそうなんですが、たまごも高級鶏卵「ヨード卵」を使用し、小麦粉も特等粉で、きめ細かくケーキにも使用できるグレードです。むろん、ほかの食材もおなじ。だから、原価率は40%にもなっています。『粉もんは、儲かる』っていいますが、あれは、うちには当てはまらない話です/笑」。
もともと、パーラーやグリルだったから、コック出身のスタッフもいた。「だから、うちだけのメニューもつくることができました。たとえば、『塩焼そば』や『オムそば』は、うちが先駆けなんです」。
旨いからファンはついたが、利益はなかなか上がらない。
「それでも、私の父親が3代目となってから、3店舗から13店舗まで拡大します」。
とにかく関西人はお好み焼が大好きだ。
梅田の、たとえば東通りとお初天神に向かう道が交差した点に立てば、半径300メートルくらいに数店舗のお好み焼の店がある。
「ゆかり」だけで、4店舗。
東通りを東に進めば、左手に1つ。地下に入り、ホワイティを進めばそこに、もう1つ。お初に向かおうとすれば、右手にすぐあり、横断歩道を渡り、お初天神に向かいまっすぐ進めば、さらにあと1つ、といった具合だ。むろん、これだけあるにもかかわらず、行列ができる日もある。
すごいもんだ。原価率40%と大声でうたわなくとも、人は、それを見抜いているのだろう。ただし、老舗の「ゆかり」の社長が、まだ35歳とは、さすがに関西人でも想像できないだろう。

4代目候補が、栄養失調?

4代目となる山下氏が生まれたのは、1983年。高校の頃から音楽にハマる。
「高校1年の時の文化祭ですね。生演奏を聴いて、こりゃすごいや、と。それから音楽にハマり、勉強どころじゃなくなったから、入学当時は学年7位だったのが、卒業時は後ろから3番目と、勉強は散々でした/笑」。
ライブハウス、スタジオ…、異空間と音楽が、山下少年のこころを離さない。
「それで大学にも進学せず、音楽関係の仕事を始めます。ライブハウスだったり、スタジオだったり、レーベルの仕事をしたこともあります。給料は…、あれが雀の涙って奴なんでしょうね」。スーパーに行って、やすくなった麺を買い、すする日々。
「それでも音楽からは、離れられなかったですね」と苦笑いをする。「じつは、音楽を辞めたのは、ドクターストップがかかったからなんです。栄養失調です/笑。なんにも食べてないですからね」。
ストイックなところがある?
「そうですね。わりと没頭してしまうことはありますね。食いもんやの息子が栄養失調って、笑い話もなりませんが、そのおかげで、食べることの難しさや、たいへんさをからだで知りました。2代目、3代目の社長さんで、こういう経験しているのは、私くらいじゃないですかね?」。
・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2019年9月19日木曜日

株式会社トッペミート 代表取締役 木原 徹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社トッペミート 代表取締役 木原 徹氏登場
本文より~

結婚相手は、焼肉店の令嬢だった。

「親父が香港に転勤になったもんですから、中学3年間は香港です」と木原氏。
小学校までは津田沼だそう。
「高校から日本にもどって、千葉英和高校に進みます」。中学までは野球部で、高校時代はいわゆる帰宅部。「大学に進学するつもりはなかったですね。業種とかは決めていなかったんですが、とにかく社長になりたいと思っていました。ただ、まさか飲食で社長になるとは/笑」。
「じつは、この業界に入ったのは離婚した前妻がきっかけなんです。彼女の父親が焼肉店を経営していたもんですから。そうです。20歳で結婚し、21歳で2代目候補に就任です」。

7年目の決断。

7年間は向こうの親父さんとずっといっしょ。ずっと仕事の話ですね。思えば、その7年間があるからいまがあるんです。感謝しかないですよね」。
「かなりフリーハンドに仕事もさせてもらっていました。
しかも、まだ若い。意欲もある。
「7年つづけるわけですが、店舗拡大したい気持ちが強くなり、独立をします」。

開業…、だが。

「そうですね。仕事もないし、できることもない。ただ、独立しようと思っても、金がない。ただ、あの時は、独立しか頭になかったもんですから、母に頼み込んで、なんとかお金を用意することができました。会社を設立したのが、2010年。<「将泰庵」船橋本店>をオープンしたのが、2011年の6月のことです」。
「出店コストは、ぜんぶで1500万円くらいですね。初月ですか? だいたい300万円くらいでした。ぜんぜんよくないですね。それが1年間くらいつづきます」。
「月商が400万円あれば」と思っていた。100万円の差はでかい。
18坪、26席。11時~23時まで。アルバイト代がもったいなくて1人でキッチンも、ホールもした。客が少ないから、できたことだから、じつはシャレにもならない。
「1日も休みません。というか、休めない。いつまでつづくんだろ。そういうのは、頭のどこかにはあったと思います」。

選択肢は、「やる」、だけ。

「思っていたようにはいきませんが、むろん、『やるしかない』というか、『やらない』という選択肢はありませんでした。だからでしょうね。何ヵ月経ってもモチベーションは高かったですね。だいたい10ヵ月、経った頃からでしょうか。だんだんと観たことがあるお客様がいらっしゃるようになって。そりゃ、全力投球です」。
「いらっしゃいませ」。声のトーンもいちオクターブ上がる。
「2号店をオープンしたのは、2013年5月。本店をオープンして2年経った頃ですね。今の<「肉バルSHOUTAIAN」渋谷店>です。こちらも最初は苦戦します。とくに最初はアッパーな価格でしたから、ぜんぜんでした/笑」。
「浮上のきっかけはTVですね。あと肉フェスに参加したりして。最初のきっかけがないと。焼肉ですからね。おかげ様で、いまでは船橋本店で月商1300万円をキープしています」。
なんと、当初の4倍強だ。
TVはつよい。しかし、TVにでても、リピーターはつくれない。「そうです。スタッフもみんながいっしょになって頑張ってくれたおかげですね。1号店をオープンした時は、私1人で、キッチンも、ホールもやっていた時もあるくらいですからね。とにかく、感謝です」。

飲む? ハンバーグを?


木原氏が、メディアでも話題をさらったのは、「飲むカレー」じゃなく「飲めるハンバーグ」専門店をオープンしてからだろう。ネーミングが斬新だ。いくらやわらかいと言っても、飲むのをイメージできるのは「カレー」くらいまでだろう。 「あらびきハンバーグってあるでしょ。あれの逆をやってみようという発想です」。
これがヒットする。
2017年11月に「飲めるハンバーグ専門店」高田馬場店がオープン。マスコミも、黙っちゃいない。ハンバーグが飲める? 好奇心旺盛な消費者も、ほうっておくはずがない。
「話題狙いのオーバーな表現かも?」と思いつつ、ひとくち食べた人は、アレ?いま、食べたんじゃなく、飲んだ?と思うはずだ。じつは、それほどやわらかい。だから、ナイフやフォークじゃなく、スプーンでいただく。
「もともとは、お肉を余すことなく利用したいという思いで開発をはじめました。ええ、このハンバーグもA5ランクの国産黒毛和牛100%です」。
・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2019年9月12日木曜日

新たな業務の柱を立てるために・・・。

新たな業務の柱を立てるため新規事情の構築でいろいろ動いております。
次世代を担ってくれる平均年齢28歳の営業メンバーたちにうまくバトン繋がれたら…。
96x96

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2019年9月10日火曜日

株式会社コジマ笑店 代表取締役 小嶋崇嗣氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社コジマ笑店 代表取締役 小嶋崇嗣氏登場
本文より~

中学生、月数十万円、儲ける。

稲藁に移った炎で、鰹を炙る。これが、土佐の鰹のたたき。コジマ笑店の名物でもある。さて、今回は、そんなコジマ笑店の代表取締役、小嶋崇嗣氏にご登場いただいた。
小嶋氏は、1977年9月9日生まれ。2人兄弟の弟。兄とは6つ離れている。「親父はIT系の会社に経営していて、いっときは羽振りもよかったんですが…」と小嶋氏。
正確な記憶はないが、父の仕事がうまくいかず、父と母は別れ、母と子ども2人は都内から離れ西に向かったそうだ。これが小学生の頃の話。
「私が中学生になった頃には、兄はいませんし、母も夜まで仕事をしていましたので、我が家に人はいない。昔は母にピンタされたこともあったんですが、中学にもなると、こちらも大人ですからね。いろいろ認めてくれて、とにかく自由です。うちにも勝手にともだちが入って来たりして。そうそう、ともだちに料理をふるまって褒められたのも、この頃のことですね」。
アルバイトを始めたのも中学から。
「土建業です。給料はいいですよね、肉体労働ですから。当時は、財布にはいつも数万円入っていました。学校より断然、バイトが楽しかったですね。だって、いい月には数十万円です。学校に行ってられないでしょ。とはいても、学校に行かないわけにはいかないから、自動車の整備学校に進みます」。
なんでも小嶋氏、整備士の資格ももっているそうだ。

楽コーポレーションとの出合い。

自動車の整備学校を卒業したが、仕事に就いたのは、またしても土建業。「何しろ給料がだんぜんいいんです。月50万円っていうのもあったし。それに、でっかい建物が建っていく様子は、やっぱりすごくって。俺らの仕事ってかっこいいじゃんみたいな、ね」。
18歳になると、車の免許を取って、さっそく、チェロキーを購入した。「充実しているはずだったんですが…」と小嶋氏は笑う。
「なんでかな。ともだちが『楽コーポレーション』ではたらいていて、なんでかわからないんですが、一発でその姿に感化されちゃんです。まだ、ハタチになっていないんですが、『楽』って会社に酔っちゃたんでしょうね。土建業のほうはすぐ退職して、『楽』に入ります。もっとも最初の3年間はアルバイトです」。
衝撃は受けたが、社員になる気はなかったそうだ。
「そうですね。だいたい性格的に人の下ではたらくってことができないんです。だからって、アルバイトでもそうなんですが/笑」。
当時から独立は考えていましたか?
「ええ、経営に興味があったわけではありませんが、そんな性格なんで、独立はずっと考えていました。『楽』にいると、順番に先輩たちが独立していきますからね。そういう先輩の背中を観ていたというのも大きいんでしょうが」。

バイトから社員へ。

「接客が何より楽しかったですね。お客さんといっしょに楽しむっていうのが、『楽』ですから。ただ、給料は半分くらいになっちゃいましたし、よくやったと思います」。
「楽」では、接客だけではなく、調理も学んだ。それ以外にも、「経営的な数字も自然と修得できる」という。だから、独立するちからが数年で育つ。
「社員になったのは、『楽』でいちばん信頼していた先輩の店に異動した時ですから、私が23歳の時ですね。新店、立ち上げの時です。じつは、その先輩には辞めることを話していましたから、『どうせ辞めるんだったら、最初だけ手伝ってよ』って誘われたんです。ええ、まんまと騙されて、社員になります/笑」。
「ただ、立ち上げは初めてです。だんだんお客さんがついていく。そんな様子を観ているのは、最高でした。最初から爆発したわけじゃなく、だんだんお客さんとのコミュニケーションも深まって、そうやって常連さんが1人、また1人と。それがとても新鮮でしたね」。
飲食経営の楽しみとだいご味。経営のノウハウと同時に、小嶋氏は、そうした飲食ビジネスのもっとも重要な部分をを経験する。

下を育てるのが、独立の準備の一つ。

「26歳になって、もう一度、辞めようかなって思うんです。ただ、26歳で店長にも昇格して、それで腹を決めて馬車馬のように仕事をしました。だって、負けたくないし、期待にも応えたいでしょ。だから、売上を上げたい一心で頑張りました」。
月商のアベレージがすぐに引き上がった。しかも、アップ率150%。「800万円だったのが、1200万円以上になりました。店長で売上はかわるのか、ですか? かわります。とくに、『楽』は人対人ですからね。それだけお客さんは、我々のこともみてくださっているということですよね」。
もちろん、「楽」での経験はいまも小嶋氏の背骨を貫いている。
「私が独立したのは34歳の時です。だんだん、独立っていう時期が、わかってくるんです。だから、独立してもいいように下を育てます。もちろん、私もそうしました」。
「いっしょに」とねがうスタッフもいたが、「楽」からは、1人として連れていかない。小嶋氏の矜持だった。「いつまでもいい関係にいたいでしょ。15年くらいはたらいた会社なんだから」。
・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

珈琲館株式会社 代表取締役社長 友成勇樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”珈琲館株式会社 代表取締役社長 友成勇樹氏登場
本文より~

学生起業家、マクドナルドへ。

小さな頃から起業には関心があった。中央大学に進学すると、おなじ大学生でありながら、起業する人が現れる。いわゆる学生起業家だ。
「私が学生だった頃は、起業が流行っていました。私の周りにも起業する人が現れます。じつは、私も大学2年の時に飲食店をオープンしました。開業資金は、借金です/笑」。
卒業するまでつづけたが、なかなかうまくいかなかったようだ。
「就職すれば、さすがにつづけられません。それで、大学卒業直前にお店を閉める決断をします。残ったのは2,000万の借金です」。最初の起業は2年半で幕を閉じたが、むろん、いい経験ができた。
「私が就職先に選んだのは、日本マクドナルドです。マクドナルドって、最初はそう給料が高くないのですが、店長になると、ぐっと給料がアップします。店長になるには、平均6年くらいかかるのですが、借金があったから頑張らないわけにはいきません。/笑」。
ちなみに同期276人のなかで、いちばん最初に店長に昇格したのも友成氏だ。店長、昇格は25歳の時だったという。しかも、30歳でスーパーバイザーになっている。いっておくが、あのマクドナルドで、である。店長になるのも、難しい会社だ。早くて、10年かかると言われていたそうだ。会社からの評価が高かった証でもある。
そんな友成氏にアメリカへの転勤の指令が下りる。34歳の時だ。

シカゴへ行け。

「最初は『長野に行け』だったんですが、すぐに取り消され、『もう少し遠いところになった』って。それがシカゴです/笑」。
これから、友成氏のアメリカ生活がスタートする。
「最初の2年間は、シカゴの店舗で勤務していました」。仕事のかたわらで、じつはビジネススクールでMBAも取得している。
「会社からの指示ですか?」と聞くと「ぜんぶ自腹」と笑う。向こうの大学院は高い。数百万円かかったと聞いてびっくりした。ただ、この話を聞いて、友成氏という人物がイメージのなかで、はっきりと立ち上がる。まっすぐで、貪欲な人なのだ。
「3年目からは、アメリカの本社でプロフェッサーとして仕事をしました。世界のマクドナルドの本社ですからね。いい経験にもなりました」。友成氏は軽くいうが、むろん、異例の人事だ。世界でも数名しかいない抜擢だったともいえるだろう。 帰国したのは、友成氏が37歳の時。すでに、マクドナルドを代表するような青年に育っていた。

イギリスのサンドウィッチ店「プレタ・マンジェ」オープン。社長に就任。

「帰国した翌年ですね。私が38歳の時です。新たなグループ会社が立ち上がり、私がその会社の社長に就任することに決まります」。
社長になってオープンしたのは、イギリスのサンドウィッチのファストフード店「プレタ・マンジェ」。オープンは2002年7月。
「それまで遠い存在だった藤田田社長とも、この時いっしょに仕事をさせていただきました。会社は、2年半後に解散になりましたが、いい経験になりました。藤田さんっていうのは、とんでもなくすごい人です」。
2年半。この経験は、だれにもできるものではない。
「解散は、もちろん悔しかったですね。会社の指示だから、従わないといけないんですが。プレタ・マンジェのウリは合成添加物をいっさい使用していないサンドウィッチです。まだ、日本には早かったのかもしれません」。
従わなくてはいけない、と思ったものの、友成氏はあきらめ切れなかったのだろう。
「つくった組織の解散も忍びない。だから、思い切って私が会社を立ち上げました」。
このあと、新たなステップとして友成氏は、モスフードサービスの顧問に就任し関連会社の会長として、8年間、指揮をとった。
「いろんな愛着がありますね。起業した会社もそうですし、マクドナルドも、自分で立ち上げた会社も、もちろん、モスも」。
そんな友成氏が珈琲館に転職した経緯はこうだ。
「最初は、私の後輩を紹介しようと思っていたんです。ただね。話を聞いているうちにだんだんと興味がでてきてしまって。これは、私がなるべきだな、と。社長に就任させていただきました」。
・・・続き
PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2019年9月5日木曜日

キリンシティ株式会社 代表取締役社長 江田雄太氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”キリンシティ株式会社 代表取締役社長 江田雄太登場
本文より~

ラグビーと江田氏と。

小学3年生から始めたラグビーは、30歳までつづけた。社会人になってからは会社のチームに所属する。大学の時には肩の脱臼がくせになり、2年時には手術をしている。
「いまのマネジメントにもラグビーは役立っています。スポーツはこれ一本ですから、私自身をつくってくれたのはラグビーと言っていいと思います。/笑」。
ポジションはスタンドオフ。ラグビーでは司令塔と言われているポジションだ。
「高校生の頃までは、小学校の先生になるのが夢でした。結局先生にはなりませんでしたが、ラグビーで母校の高校監督や、大学のコーチをしたことで、夢が叶った気持ちがしています」。
ラグビーと学生生活。
「大学2年の時、脱臼がくせになって手術するんです。手術に踏み切ったのは、残りの大学生活、最後まで思い切りラグビーがしたかったから。でも、手術したおかげで、社会人になってもつづけることができました。ええ、やってよかったですね」。
ラグビーの精神も、江田氏のなかに息づいていることだろう。
「One for all, all for one」。
経営にも、人生にも通じる言葉だ。

「スーパードライの横に淡麗を」作戦。

就職先の第一志望は、キリンビールだった。「ビールの役割の多様性、うれしい時もそうではない時も、人の人生を豊かにするちから」に興味をもったからだ。
「入社して2年は、練馬区の営業担当。そのあと5年間、スーパーやディスカウントストアを担当します」。
当時、それまで首位を譲ったことがないガリバーのキリンビールを、スーパードライのアサヒがシェアで追い抜くという、衝撃的な出来事があった。
スーパーやディスカウントストアでも、キリンラガーに代わり、アサヒスーパードライが売れに売れていた。当然、ディスプレイのなかで、いちばん目立っているのもアサヒスーパードライ。
「そうなんですね。キリンの牙城が、アサヒさんによって崩されます。キリンも新商品を出したり、勝負をかけるんですが、うまくいきません。発泡酒の淡麗ができたのは、ちょうどそういう時でした。私は、この淡麗で勝負をかけます。とにかく、淡麗をスーパードライにぶつけたんです」。
どういうことだろう?
「スーパーにもディスカウントストアにも予め決められた棚割りがあるんです。ただ、お店ごとにも多少の裁量があるには、ある。私は品出しなど、とにかくスーパーの人たちといっしょになって汗を流して、心を通わせ、スーパードライの横に淡麗を置かせてもらったんです。スーパードライの横に淡麗を、作戦です」。
これが、一つのターニングポイントと江田氏も言う通り、仕事の喜びを見出だしたのは、この時だ。
「それぞれのスーパーやディスカウントストアで、淡麗が、日々、スーパードライのシェアを食っていくんです。この戦略は、やがて全国に広がります。ついでに、東京に、スーパードライを逆転した奴がいる、とも」。

長崎は第二の故郷。


「キリンビールっていうのは、老舗ですが、自由な風土なんです。だから、私もいろんなことを思い切ってできたし、東京の若造が生み出したスーパードライの対抗作戦も『いい戦略だ』といってシンプルに広がっていったんだと思います。このあと5年間は、飲食店向けの業務用で仕事をします。スーパーやディスカウントストアならキリンビールがゼロになることはないでしょ。でも、飲食店なら起こるんです。ゼロか、100か。痺れる仕事です」。
もともと営業職を希望していた江田氏だが、このあと7年半、マーケティング部に異動。本社勤務となる。
「そのあとが長崎支社です。営業現場にも戻りたいと思っていたので、大変ありがたい異動でした。長崎はキリンビールにとって、ゆかりがある土地ですしね」。
営業部長として赴任し、1年半後に支社長に昇格する。ここでも、アサヒと熾烈なバトルが繰り広げる。「3年半の間に、少しだけシェアを奪回できましたが、力が足りず、逆転にまでは至りませんでした。その悔しさは残っています」。
もっとも長崎はいまなお思い出、深い。
江田氏が、支社長になってタイミング良く、「47都道府県のキリン一番搾り」がリリースされる。「これは、各都道府県の食文化や風土、歴史を活かしたビールなんです。原料も県によって違います。そういうビールをつくって、地域に貢献しようというプロジェクトです。地域の方々にも開発プロジェクトに参加していただきましたので、交流も生まれます。『ビールの役割の多様性、うれしい時もそうではない時も、人の人生を豊かにするちから』。まさに、これですよね」。
このビールは、江田氏が支社長の2年間だけの限定商品だったらしい。このビールの開発、そして何より長崎の人々の温かさによって、江田氏は長崎に愛着をもつことができたのだろう。これも、ビールの多様性の一つ。江田氏は、「長崎が第二の故郷だ」といって、笑う。
・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2019年9月4日水曜日

株式会社U-MORE 代表取締役社長 山﨑基史氏登場。

本文より~

サッカーも、野球もつづかない。好奇心旺盛な少年。

2年浪人して、学習院に合格した。そもそもは有名なアーティストに憧れて音楽に携わる仕事を目指し、日大芸術科への進学を希望していたが、学習院なら悪くない。人生でいちばんうれしかったことの一つと、山﨑氏がいうのも頷ける。
「学習院ってやっぱり、お坊ちゃまもいるし、頭の切れる人もいる。そんななかで下町育ちの私は、ちょっと浮いていたかもしれません。それでも大学時代は、いま思い返しても楽しいことばかりでしたが」。
山崎氏は1976年、京都市北区に生まれている。3人兄弟の真ん中。父は商社を経営し、社員数も一時は100人規模に達したそうだ。
「といっても、私が4歳の時に会社をたたんで東京に引っ越します。だから、京都弁はぜんぜんしゃべれないです。東京の下町育ちというのが正確です」。
当時、下町の状況はどうだったんだろう。
山崎氏が4歳といえば、1980年。経済はまだ活況ではなかったが、バブルの芽が少しずつ育ち始めた頃でもある。バブルを経て、下町の風景は一新したはずである。
「学生の頃は、何をやってもつづかなかったですね。サッカーをやってはやめ、野球をやってはやめて…」。
そういって山崎氏は照れ笑いするが、好奇心が旺盛だった証だったに違いない。

マスコミ志望。USENに就職する。

「大学では『放送研究部』っていう部に入ります。この部で部長も経験するんですが、私が部長の時に部員は100人に。これは、創設以来、最高の部員数でした。『放送研究部』っていうのは、ま、いろいろするわけですが、映像制作やラジオ番組の制作とか。私もそうですがTV局関係でバイトをする部員が多かったですね。マスコミとの距離がちかくなる、そんな魂胆で入部してきたメンバーもいたはずです。就職先も、希望は当然、マスコミ関係です。私も何社か受験するんですが、その時、就職したのが有線ブロードネットワークス社、もう少しわかりやすくいえばUSENです。放送関係ということもあったんですが、じつは、大学時代のバイトを通して、ショップのプロデュースにも興味があったからです」。
じつは、USENには「店舗事業部」という部署があった。
「そうなんです。USENに就職したのも、この事業部があったから。2年間は、BGMやヒトサラの営業だったんですが、3年目にこちらに異動しています。これが、いまの始まりですね」。
山崎氏は、プロデュースはもちろん経営にも興味があったという。「だから、当時のグループ会社も含め、転々とするんですが、どこに行っても経営陣をきびしい目でみちゃうんですよね」。
経営者の父親の遺伝子なのだろうか。
「ただ、私は、新人の頃からナンバー2がいいなと思っていたんです」。
「なぜ、トップじゃないのかって。だって、ナンバー2のほうが自由でしょ。社長は、社長の椅子に座っていてもらって、ナンバー2の私らが全部事業を動かしていくっていうイメージです。でも、まぁ、そううまくはいきませんね。そういうことはだんだんわかってきます/笑」。

好奇心と、勇気と。

山崎氏はグループ内の会社を含め、転々としたと言っているが、たしかに、子会社だけで6社と、たしかに少なくない。子会社を転々とし、様々なキャリアを積んでいくなかで、経営者としての評価も高まる。
「さきほどいったように最初は、ナンバー2がいいな、と思っていたんですが、トップじゃないとできないことってあるってわかってくるんですね。私が大嫌いな長い会議を止めさせるのもそのひとつ。トップじゃないから、なんともできない/笑。だから、トップもいいかな、と思うようになっていたんです。その後、グループから独立し現在のU-MOREの設立に合わせ代表取締役の依頼があった時には、すぐに『やります』と」。
旺盛な好奇心と、新たなことも怯まずはじめる勇気と。案外、サッカーをやってはやめ、野球をやってはやめて、と笑った学生の頃と似ている。
・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)