2019年3月26日火曜日

株式会社更科堀井 代表取締役 堀井良教氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社更科堀井 代表取締役 堀井良教氏登場
本文より~

1961年、麻布にて、生まれる。

創業は1789年だから、2019年で230年目となる。今回、インタビューに答えてくれたのは、更科そばの名店、9代目の社長、堀井良教氏だ。
堀井氏が麻布十番に生まれたのは1961年。当時は、まだ地下鉄も通っておらず、孤島のようだったそう。麻布だけではなく、当時は、都内でも交通が不便な街があったに違いない。明治時代には、田んぼや畑がいたるところにあったという話を伺ったこともある。今しか知らない者からすれば、イメージするしかない空想の世界だ。
その世界に、やがてアスファルトの道が延び、次々とコンクリートのくさびが打たれ、巨大なビル群が競うように天空をめざす。地下では、地下鉄のネットワークがアリの巣のように地下深く、広がる。2019年現在、今や取り残された街は、東京中さがしても、もうどこにもない。

堀井家と、麻布十番。

「東京は、たしかにずいぶんかわりましたね。私は、3歳で幡ヶ谷に引っ越します。私どもの創業の地である麻布にもどったのは、私が30歳。出店した『更科堀井』が好調になった頃です」。
麻布は、創業の地であり、堀井家にとっては、縁の深い土地である。
「そうですね。戦前、麻布には『麻布銀行』があったんですが、うちも、かなり出資していたようです。副頭取も堀井家からでています。7代目の時には店の敷地にお稲荷さんを祀っていたようです。話に聞くところによれば、猿好きの7代目が、そこに100頭の猿を飼っていたらしいです/笑」。
その昔、将軍にも献上され、大名たちも舌鼓を打った名店だ。銀行だって、猿の話だって、わからない話ではない。ただし、次の話にはおどろいた。
「じつは、その7代目の時に、一度、店をたたんでいるです」。
「えっ」と、言いたくなる。
「7代目、つまり、私の祖父が、かなり遊び人で。これも聞いた話ですが、麻布からタクシーを飛ばして熱海まで行くような人だったらしいです」。
店の経営も、あったもんではなかったのだろう。不況も重なり、昭和16年。長く、長くつづいた暖簾を下すことになる。麻布の町の歴史から「更科そば」の名前が姿を消した瞬間だ。
ちなみに、ウィキペディアには<麻布永坂町は古くから更科そばで有名であり、町内には更科そば本舗の布屋太兵衛がある>とある。この「布屋太兵衛」が当時の店名。<正岡子規が、永坂を詠んだ俳句がある>とも紹介されていた。
「蕎麦屋出て永坂上る寒さかな」が、それである。

堀井氏。

「私が、子どもの頃には、もう『永坂更科』はありました。こちらは戦後、うちの店と更科そばを惜しんだ投資家たちが出資してできた店です。祖父の代ですね」。
投資家たちの手によって「更科」の文字が、ふたたび麻布永坂町に現れる。「堀井家は、出資比率は少なかったものの祖父も、父も、こちらの会社の経営にも携わりました。創業家ということで、配慮されていたんだと思います。私自身は、そういうことも知らず、中・高・大と何不自由なく育ちます。後継者と言われたこともないし、私自身も、考えたことがなかったですね」。
中・高は早稲田大学付属。大学は慶応義塾大学。いうまでもなくエリートコースである。しかし、帝王学のためではなかったようだ。後継者と言われたこともなかったし、9代目になるとも思っていなかったのは、事実だろう。それだけ、創業家という意識が薄れていた証ではないだろうか。

やるか、やらないか。託された未来。

「中・高は水泳部、大学は棒術部です。大学は、文学部哲学科。本が好きだったんで、最初は大学院に進むつもりだったんですが、もう少し現実的な勉強をしたほうがいいと思って、アメリカでMBAを取得する計画だったんです。でも、そのタイミングで、父親から『更科堀井をやらないか』と言われて。ええ、突然です」。
突然だったが、二つ返事で「やります」と言ったそうだ。もう大学生。父が言わなくても、自身のルーツも、堀井家のルーツも知っている。「永坂更科」との関係も、多少は理解できるようになっていたはずだ。
「そうですね。私が『やる』といわなければ、父は、店をつくってなかったでしょうね。父の代だけで終わなら、再興する意味もないですから」。
父の思い、息子の思い。8代目と9代目の思いが交錯する。ただし、本家本元、「更科堀井」を後世に残すという思いは同じだった。
堀井氏、23歳。
もう孤島でもなんでもない麻布十番に、歴史ある名店、総本家「更科堀井」が帰ってくる。
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株式会社シーウェイズ Syway's Inc. 代表取締役 山本駿介氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社シーウェイズ Syway's Inc. 代表取締役 山本駿介氏登場
本文より~

ちっちゃな頃から、酒屋の3代目。

代々つづく酒屋だったそう。昭和7年、祖父が西荻窪で創業。昭和17年に上井草に2号店をオープンする。当然、当時はまだ「酒税免許」が宝物だった時。「創業から言えば、だいだいいまで76年です」と、今回、ご登場いただいた山本氏は呟く。山本氏は、その酒屋の次男。しかし、昔から兄ではなく、次男の山本氏が3代目と決まっていたそうだ。父親が、祖父や祖母から事業を継承したように、山本氏もいずれ継ぐものだと思っていた様子である。
「小学校ですか?そうですね。活発な少年でしたね。リトルリーグで野球をしていました。野球は中学に進学してからも、シニアリーグに進んでつづけたんですが、じつは1年間で辞めてしまいます。それからは帰宅部です/笑」。
「中学3年からは、自宅ちかくの喫茶店でアルバイトを始めます。親が知り合いで、『山本君だったらいいよ』って。高校生になってからは、ビザの宅配ショップでもバイトをします。この頃ですね。飲食っていいな、って思っていだしたのは。もちろん、いいと思っても、うちは酒屋ですから、ちがいます。将来ですか?将来は、酒屋と決まっていますから。そうですね。特になにかほかの目標は、なかったですね」。
もう、決めている。だから、大学に行っても無駄。山本氏は1970年生まれだから、山本氏が高校時代といえば、日本はバブル真っただ中。お金の価値がもっとも軽くなった時代でもある。
「昔から継ぐもんだと思っていたでしょ。だから、大学も行きません。『やりたいことは、なかったのか?』って言われそうですが、『やりたいことは、社長になってからやればいい』くらいに考えていました。もちろん、親父もいますし。そう簡単に社長になれるとは思っていません。ともかく、高校を卒業して、うちの会社に入社する、それがちっちゃい頃から思い描いた私のスタートラインでした」。

フランチャイズで、飲食に進出。

2018年、現在、山本氏は、「炭火焼肉酒家 牛角 初台店」をはじめ「串カツ田中 高田馬場店・上井草店」、「肉汁餃子製作所 ダンダダン酒場 練馬店・高田馬場店」、「大衆ビストロ 煮ジル 吉祥寺店」の合計6店舗を経営している。いずれも有名なFCで、しかも、立地も悪くない。
「コンビニエンスストアが最初です。『改装費もこちらでもちますから』って本部がおっしゃって。そこまで言われたからでしょうね。親父が『どうする?』っていうから、『いいんじゃないの』って。そもそも酒屋だけじゃ無理だと思っていましたし。ハイ、もう、免許があれば、儲かる時代でもなくなりましたから」。
昔は「酒税免許」に守られていたが、スーパーや小売店、更にコンビニエンスストアでもお酒が販売できるようになると状況はいっぺんする。「コンビニエンスストアは、計3店舗までやりましたが、いまはゼロですが。そのあと、宅配のFCも始めましたが、こちらもだめでした。いいのは『牛角』のFC。これが、うちの第二の創業です。じつは、うちはFC店のなかでもまだ早いほうで、加盟店でつくる会があるんですが、そこでは年齢はともかく、私は古参のほうなんです」。
もともとは、異なる業態の店を出そうとしていた。しかし、偶然、「牛角」を知り、本部へ向かう。「昔、日経MGっていうのがあって、そこでも紹介されていました。これだって、ピンときて。親父に『絶対、あたるよ』って。親父も焼肉が好きだから、『よし、やろう』ってことになって。ただ、思ったより、投資がかかった。ぜんぶで5000万円くらいです。それだけかかっても、大丈夫だと思っていました。自信がありましたし、実際、オープンしてから予想を大幅に上回る月商がつづいたんです。ところが…」。

BSE問題、発生。月商が半分以下に。

山本氏が「牛角」を出店したのは、2000年。「牛角」全盛期でもある。しかし、このあと、全盛期だった「牛角」にBSE問題が襲いかかる。
「うちも、500万円いけばいい、と言われていたところを680万円くらい売っていましたから、そりゃ、絶好調です。それが1年くらいつづきますが、海外でBSEが発表され、オープンして3年目ですね。日本でも大問題になって」。業績は、急降下した。700万円超をうかがっていた数字が、300万円を割る。むろん、赤字。
「なんとか乗り切ったっていうのが正直なところですね。だって、どうしようもない。焼肉店みんなが悪いんですから」。頭を下げ、嵐が過ぎるのを待つことだけしかできなかった。「ただ、うちはもどりましたが。そうですね。牛角のFCにとって、ここが一つのポイントだったんじゃないですか。半年くらいでBSEは、沈静化するんですが…。うちもじつは3店舗あったうち、2店舗、撤退。初台店は、昔から業績がいいので、いまもつづけていますが」。
「串カツ田中」「ダンダダン酒場」。業績がもどると、山本氏は、次々と打ってでた。いち業態だけでは、おなじ問題が起こるかもしれない。「牛角みたいに出店費用はかからなかったですね。坪数なども関係しますから、一概には言えませんが、いずれも、いい数字を叩きだしてくれています。串カツ田中は、いい時には月商900万円以上です。ただ、これでまたコケちゃうんです/笑」。
「ムール貝がメインの、オシャレな店です。お金もかけ出店するんですが、ぜんぜん業績が上向かず、半年で断念します。何しろ、浮上の兆しもない。ビルの3階っていうのも、問題だったと思います。それで本部に相談して、違約金なしで、なんとか契約を解除してもらいました」。
「起きたり、転んだり」と、山本氏はいったが、まさに、そんな感じ。しかし、転んでもただでは起きない。そこが山本氏の経営者の強みだ。
・・・続き
株式会社シーウェイズ Syway's Inc. 代表取締役 山本駿介氏
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2019年3月22日金曜日

3月22日(金)発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」は、300宴商人ホールディングス様です。

60代・70代で頑張ってる人、働きたい人を応援!(キイストン寄稿)
勤続8年72歳の金子氏が早番、64歳の石川氏が遅番のお二人に登場してもらいました。
  (夕刊フジより)
「over60(ロクマル)世代応援企業30」の取材を70歳の元編集プロダクション社長の土金さんにお願いしております。

【氏名】土金哲夫(ツチガネテツオ)
【生年月日】昭和23(1948)年9月25日
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株式会社アホウプロジェクト 代表取締役 泉川武士氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社アホウプロジェクト 代表取締役 泉川武士氏登場。
本文より~

アホウの一歩。

アホウである。関西弁でグレードアップさせるとド・アホウとなる。社長の泉川氏も、ホームページのなかで<あつかましい程のドアホウを!>と謳っている。つぎの一文が素敵だ。「悲しい時 嫌なことがあった時 不安になった時 立ち止まりたくなった時 遊びに来て下さい!」。そう、ド・アホウは揺るぎないアホウさでお客様を元気にするちからを持っている。
今回は、その素敵なド・アホウにスポットをあててみた。
アホウ、代表の泉川氏は、1983 年、兵庫県西宮市に生まれる。小学生時代から、明るくて、おちゃめな少年だった。
「きっかけは1年生の時ですね。それまでは内気な少年だったのですがお楽しみ会で相方のコウジくんと漫才をしたのがウケて…。そう、あれからですね。人が楽しんでくれることに喜びを感じる、アホウになったのは/笑」。
学生時代は、ひたすらバレーボールに打ち込んだ。むろん、ムードメーカーという役割は、忘れていなかった。「副キャプテンです。あの頃は『声を出すチームが勝つ』っていう不思議な持論をもっていたんで、オリジナルの掛け声をつくったりしていました」。
ムードメーカー。昔からそうだった。泉川氏がいたチームは、明るくて、げんき。そのチームにいまの源流をみることができる。
「とくに行きたい学校もなかったので、1年間、東京で充電します(新聞配達をしていたそう)。その時、京都精華大学を知って、京都へ向かいます」。京都精華大学。調べてみると、マンガやアニメーションという学科もある、面白い大学だった。
「この時、焼き鳥店でバイトをしたのが、飲食に入るきっかけです。カウンターから見えた景色は今も忘れられない。
みんながとても幸せそうに見えたんです。あー、幸せやなぁって」。
実際、大学を卒業して、やりたいことをやり尽くしたあとに、京都の焼肉店に就職している。泉川氏と、飲食が、共鳴する。
「半年で店長になりました。当時の最速記録です」と胸をはる。
「そうですね。結果的には5年勤めました。当時は『日本一の焼肉屋にしたい』とまっすぐに思っていたんですが、・・・ここで、歴史が動くんです」。

涙のなかで、歴史が、動く。

なにがきっかけになるか、わからない。「歴史が動くのは、28歳の時です」。泉川氏は、言葉を区切る。
「実は、結婚が決まっていたんです。式の日取りも決まり、招待状を送り、それがもどってくる頃です。みんな『喜んで、参加します』みたいなコメントを書いて祝福してくれる、その最中、彼女の浮気を知るんです。それでも最初はもう1ヵ月だし、みんなも喜んでくれているから式だけでもと思ったんですが、両親から『先のほうがもっと長い』って言われて…」。
お母さまは、親戚に頭を下げ、泣いておられたそうである。泉川氏も、ともだちを無くしてしまうかもしれないという恐怖と闘いながら1人1人に事情を話し、頭を下げた。「みんな、口々に『そうか』って。せっかく予定もあけてくれていたのに、文句も一つ言わない。もう感謝ですよね」。
でも、それだけじゃなかった。
だれが言い出したのか、結婚式の告別式をすることになった。「そんなん聞いたことありますか?どうせ、時間を空けていたんやからって。パーティに来る予定のともだちが、みんな、みんなあつまってくれて。ぼくは、結婚式に着る予定だったスーツで遺影を持って登場させられて。もう最低で最高でしょ。うれしくてね。みんな喪服なんです。横断幕は、『泉川武士君の結婚式の告別式』。もう、みんなが、爆笑してくれて」。
オレもアホウ。でも、みんなもアホウや。でも、そのアホウさが、涙がでるほど、ありがたかった。
「あの時ですね。歴史がちゃんと動いたのは」。
アホウになって、人を救う。それが、泉川氏のその後のテーマになった。冒頭に書いた素敵な一文は、その表れ。ともかく、起業、独立だ。

アホウの道が、始まる。


「学生時代にバイトをしていた『焼き鳥店』のFCからスタートしました。プログラム通り3ヵ月で独立します。河原町今出川のバス停前で立地も悪くない。朝4時まで営業していたこともあってライバル店も少なく、オープンからいいスタートです」。FCのなかでも群を抜く成績を残す。
「メンバーも、昔バイトしていた時の仲間が来てくれて。ハイ、爆発したと言ってもいいと思います」。店は、いうまでもなく、明るく、げんき。アホウは、全開である。
「スタートしてどれくらい経った時か、お客さんから、自分のお店は作らないの?と言われることが多くなって。それで、オリジナル店舗で独立を現実として考えた途端、あっという間に縁もあって『アホウどり一号店』をオープンします」。
いつか来るべき日に備えて貯めていたノートいっぱいのネタ帳には店名の「アホウどり」は、すでにあった。「こちらのお店も3日で絶対いける!と思いました。普段からポジティブなんですが、これは確信ですね。絶対、いける、と」。
岡山から、姫路から、昔のバレーボール部の後輩たちが、アホウな店づくりに参戦するため京都にきてくれた。現、ロッキーと生徒会長(スタッフはニックネームで呼んでいる)である。
同じころ、現ナンバー2も参戦する。「週5日のペースで店に来て、毎回5000円くらい使うような子だったんです。大学の後輩だという事も分かりプライベートでも会うようになって。そうですね。どれくらい経った頃かな。『もうお金がない』っていうんです。で、つづけて『だから、取り返しに行きます』って。ハイ、うちではたらくって意味ですね。あ、もちろん、充分取り返してくれています」。
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バッカーナ株式会社 代表取締役 佐藤尚之氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”バッカーナ株式会社 代表取締役 佐藤尚之氏登場
本文より~

東北大学卒、研究者、希望。

もはや説明するまでもないが、シュラスコはブラジルを代表する料理のスタイルだ。いうならば、ブラジリアン・バーベキューである。今回は、このシュラスコの仕掛け人でもあるバッカーナ株式会社の代表取締役、佐藤尚之氏に話を伺った。
佐藤氏が生まれたのは、1959年。宮城県仙台市、出身である。
10番、50~100番、260番。失礼だが、小・中・高と成績を並べてみた。「そうですね、小学校ではクラスで10番くらいだったのが、中学になると350人中50~100番。高校になると、なんというか270人中、260番くらいで/笑」と佐藤氏。
1人っ子というのも影響しているのだろか。子どもの頃から人見知りで、人と関わらない仕事に就きたいと思っていた。「昔はね。松島の種牡蠣の会社に就職するつもりでいました。ま、大洋漁業(現マルハニチロ。以降、本文ではマルハで進める)に就職するのですから、なんとなく共通項がありますが/笑」。
高校では、後ろから数えたほうが圧倒的に早い成績だった佐藤氏だが、1年浪人して「東北大学」に進んでいる。「あの時は、人生でいちばん勉強しましたね。東北大学の水産学科と青学の理工学部に合格。東北大学を選択し、水産を学ぶ道に進みます」。将来は研究員。寡黙な佐藤氏にピッタリの仕事だ。
その道をまっすぐ歩いて、マルハに就職?
「そうですね。マルハとニッスイを受けて、先に内定をいただいたのがマルハだった。それだけの理由です。マルハを選択したのは。私にすれば、研究できればいいわけですから」。
東北大学からマルハへ。希望通りの進路だった。しかし、人生はわからない。

なんで、あの人いるの?

「いうまでもなく、研究所、希望です。でも、実際に配属されたのは、北海道支社。ハイ、営業です/笑」。人と関わらないどころか、関わる密度で言えば、いちばんの営業職。
「仕事は缶詰の営業です。函館や小樽の問屋を回るんですが、ぜんぜん相手にされません。やることはないんですが、オフィスには東大出身のとんでもなく、おっかない上司がいて、帰ることもできない。『なんでニッスイじゃなく、マルハを選択してしまったんだろう』ってね」。
むろん、会社の評価もけっして高くはなかった。ところが、あるお客様をきっかけに大逆転劇が始まる。
「ある問屋さんです。さっきも言ったように帰社するのが怖いから、ある問屋さんに伺った時、黙って居座りつづけたんです。相手にされないのに、いつまでも座っているもんだから、だんだん『なんでいるの? あの人』みたいな空気になって、気味悪がられるわけですよ。こっちはもう、ちから尽きているだけなんですが、結果として、それが大逆転のきっかけになりました」。
仕事ができないから無視してもずっといる→だから、プレッシャーを感じる→いつもいてかわいそうたからマルハのものを売ってやろう。公式にすれば、こうなる。おなじ戦法で、いくつもの問屋と取引がスタートする。
「それから、前年比全国1位になるまで、爆走です。同エリアの売上高は前年比で400%くらいアップしました」。4倍。とんでもない数字だ。そうなると社内の評価も、うなぎのぼり。4年後には、東京の本社管理部門を経由し販売促進・マーケティングの営業部に異動することになる。むろん、栄転だ。

マルハ、退職。すでに、飲食の戦士。

のちに佐藤氏は、マルハの関連会社の代表になる。レストラン「マンボウズ」や「バッカーナ」をオープンした会社だ。「これも縁ですね。マンボウズは伝説的なレストランの一つで、当時は芸能人もたくさんいらっしゃいました。ただ、私が引き継いだ時にはブームが過ぎ、経営を管理する人がおらず、クローズすることになります。そのあとに開店直後に引き受ける事になったのが、シュラスコのレストラン『バッカーナ』です。私が飲食に引きずり込まれたレストランです/笑。私は、こちらで代表に就任しています」。
研究職が希望だった佐藤氏がいつのまにかレストラン事業の代表になっている。人の人生はわからないと言ったのは、そのためだ。そのうえ、佐藤氏は、35歳の時に同社を退社。独自に中国でもシュラスコを流行らせようと奔走する。いったん向かった先は、未知なる飲食の世界でもあった。
「でも、時間がかかりすぎて、合弁のパートナーに売却します。今も、その時のパートナーとは付き合いをしていますが、3年後くらいからだんだんと人気になり、今や中国に6店舗以上出店する人気店だそうです。最初に出店したのは上海だったんですが、当時は、上海でもまだ牛肉文化がなかったんでしょうね。だから、流行るのに時間がかかった。中国では多くの人にまねされ、一時中国全土で100店舗を超えたそうです」。
「それで、私自身はやることもないから、日本にもどってフードライターなどをして糊口をしのぎます。ええ、この頃にはフードは私の一つのアイデンティティになっていました。ポルトガル料理、スペイン料理、イタリア料理店を経営する傍ら外部コンサルを2年間務めたのも、その証でしょう。このあと、とある会社の社長に声をかけていただいて『シュラスコ』のブランドをいっしょに手がけます」。
いよいよ独立にちかづく。
「そして、2011年、こちらもある方と縁をいただき、バッカーナを設立し、銀座に『バッカーナ』をスタートします」。むろん、日本のシュラスコの、パイオニアのレストランである。
「そうですね。私たちがシュラスコ料理をはじめたのは、1991年です。Jリーグが、スタートするなりして、タイミングもばっちりですね。ブラジル出身のJリーガーもいらしてくださいましたし。え、いまは? ですか?」
今、シュラスコ料理はどうなんだろう?
・・・続き
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3月15日(金)発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」は、麺食様です。

60代・70代で頑張ってる人、働きたい人を応援!(キイストン寄稿)
「シニア社員は、60代から70代が8人です。勤続20年以上の方もいらっしゃいます」と直営営業部の杉原伸次氏。   
そのシニアのおひとりが、前職での管理職経験を生かしたバイタリティーあふれる行動力で八面六臂(ろっぴ)の活躍をされている経営開発室顧問の柳内豊樹氏(60)です。
  (夕刊フジより)
「over60(ロクマル)世代応援企業30」の取材を70歳の元編集プロダクション社長の土金さんにお願いしております。

【氏名】土金哲夫(ツチガネテツオ)
【生年月日】昭和23(1948)年9月25日
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母親が亡くなり13年。

3月19日は母親の命日。
2006年に亡くなり、早13年経ちました。
私が3〜4歳くらいからパート勤めし、小学校以降は当時地元でも繁盛店のドライブインで働き、休みもあまりなく、いつも21時近く帰ってきてました。
高校卒業後は名古屋の大学に行ったので、正月や夏休み等に帰っても2〜3日間。
だから、大学時代は延1ヶ月も実家にはいなかったかもな・・・・・。
その後、業務もハードなリクルートに入社、そして独立。
考えてみると母親と一緒に居た時間は、本当に少なかった気がします。

2019年3月15日金曜日

3月8日(金)発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」は、福しん様です。

60代・70代で頑張ってる人、働きたい人を応援!(キイストン寄稿)
高橋社長「シニアの方は定着率が高く、トレーニング期間も短くて済むメリットがありますが、それ以上に経験から学んだことを仕事に生かす創意工夫の能力が高いです。」ということで、実際に豊島区公会堂前店に勤務している67歳の平川和夫氏と70歳の大田太郎氏(仮名)に、仕事ぶりを聞いみました。
  (夕刊フジより)
「over60(ロクマル)世代応援企業30」の取材を70歳の元編集プロダクション社長の土金さんにお願いしております。

【氏名】土金哲夫(ツチガネテツオ)
【生年月日】昭和23(1948)年9月25日
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「飲食の戦士たち」を通じて・・・。

外部から3月より新入社員研修として、飲食店経営者へ「飲食の戦士たち」の取材依頼から取材同行で1人4日間・計6人受け入れました。
さすがに4日間では成果上がるのかな?って不安はありましたが、結果取材先6社を確定させてくれました。
また、社長取材の同行も各人1〜2社行くことができました。。

まったくやったことないリストアップを自ら行い、そこに対し社長にアポイント入れ、依頼する。
そして取材した社長から社長になったその経緯や生き様を聴きくという、まさに営業の基本中の基本をやることで、皆さん成長を感じてくれました。
今回研修に来てくれは皆さん、誰一人営業職はいません。
しかし、この研修を通じ、アポイント取れた嬉しさ、社長からのヒアリング等仕事のおもしろさも味わえ、楽しかったと・・・・・・。

改めて、外部からの受け入れ、ビジネス研修、営業研修としても出来る!!という確信得ました。

4月中旬には「飲食の戦士たち」も700連載突破します!!
「飲食の戦士たち」はキイストンにとっても人材育成にとっても大きな財産となってます。
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2019年3月12日火曜日

株式会社zans 代表取締役 水谷大輔氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社zans 代表取締役 水谷大輔氏登場
本文より~

高校までの、水谷少年。

長野の高原は、風が透明で天空はどこまでも青かった。
「経験したアルバイトは種類だけでも30種以上」といって、今回ご登場いただいた株式会社zansの社長、水谷大輔氏は笑う。長野の話も、じつは農家のバイトの話。
水谷氏が生まれたのは、1974年12月7日。京都市の南区出身。父親は、友人と共同でプラスチック製造の会社を経営されていた。母親もはたらいていので、かぎっ子だったそう。
5歳離れた妹がいる。
「小学校の頃から、活発なほうでした。スポーツは苦手だったんですが、小学生の頃は野球もやっていました」。
中学は、地元の洛南中学。全校で生徒3000人ほどのマンモス校だ。そのなかでも、成績は常にトップクラス。超名門の洛南高校にも、70~80%の確率で入学できる成績だったというから、すごい。しかし…。
「じつは、成績がいいのは中学2年までの話なんです/笑。3年からちょっと道を外したっていうのか/笑」。高校にも進学はしたが、2学期になる前に卒業してしまっている。

人生初の師と、放浪と漂流。

「それからですか? 大工を3年くらいやって、親父の会社でもはたらきました。こちらは4~5年です」。
父親が経営する会社の取引先は、京都の大手メーカーが主。業績は悪くない。
「共同経営者が、岩崎さんって人で、私の最初の師です。親父が営業で、岩崎さんが技術。私は、岩崎さんから様々な思考やアプローチの方法を教えていただきました」。
ぜんぜん、人をほめない方だったらしい。「でも、たまーに『いいな』、なんて言われる時があって。ふだん、ほめられないもんだから、その一言がうれしくて。ハイ、自信を生む魔法の一言でした」。
4~5年も務めたのに、会社を継ぐ意思はなかったのだろうか?
「ぜんぜんなかったですね。まだ若かったし。5年目でも、まだ23歳です。高校を辞めてから、大工も経験しましたが、いっても小さな世界です。それで、23歳だと思うんですが、外の世界をみてみようと。長野で百姓をしたのも、その時です」。
28歳になるまでの、およそ5年間。流されるように、渡り歩いた。ただし、この5年は無駄ではなかったはず。人は、そうやって人間の幅を広げるから。しかし、水谷氏はどこにたどり着くのだろう。

もう1人の師、山口氏との出合い。

「リゾートバイトってあるでしょ。その時、知り合った子といっしょに東京に行きます。そして、飲食店を紹介してもらって。ハイ、その店のオーナーが、私のもう1人の師である山口氏です」。
水谷氏が、紹介された店というのは、株式会社エヌイーエスの運営店である。その会社のオーナーであり、代表取締役が山口義成氏。和食、ワイン酒場、沖縄料理、鉄板料理、創作ダイニングなど、バラエティ豊かな店舗展開を行っておられる敏腕経営者だ。現在、店舗数は、30数店舗オーバー。
 そして、弟子である水谷氏のほうはというと、現在、おなじく業態の異なる飲食店を6店舗運営している。「かいかぶり」や「えんなすび」などとネーミングにもヒネリが利いていて、面白い。もっとも、店名は、山口氏やスタッフが名付け親だそうだが。
「ともかく、今の原点になるのが、エヌイーエスですね。山口社長に採用いただいて、すべてがスタートします」。
最初の1年間。休みも返上した。何も知らないから、時間でカバーするほかない。明るく、楽しく。何ヵ月経った頃だろうか。月商は、過去最高に。
「あの頃は、やるしかなかったですね。エヌイーエスも出店攻勢をかけていましたから、店長、マネージャーに昇格。2年半で、私自身は独立しました。最初は業務委託です」。
いよいよ、水谷ワールドが始まる。しかし、水谷氏が偉いと思うのは、けっして独りよがりにならず、ちゃんと山口氏の方法論をトレースしている点だ。ちなみに、山口氏とは今でもファミリーとして付き合う仲だそうだ。
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シュマッツ・ビア・ダイニング クリストファー・アックス氏、マーク・リュッテン氏 共同経営登場。

(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”シュマッツ・ビア・ダイニング クリストファー・アックス氏、マーク・リュッテン氏 共同経営登場
本文より~

小さな起業家2人。

マーク氏は、ドイツのもっとも優秀な大学の一校。European Business School, Oestrich-Winkelを首席で卒業している。しかも、最年少というオマケ付き。クリス氏は、マーク氏より年長で、彼の母親は経済学者であり、作家。日本のクラフトマンである「職人」たちを取材されたこともあるそうだ。
ちなみに、マーク氏の父親はサラリーマンで、母は銀行員。クリス氏の実家は、オーガニックファームである。
「ちかくに美術館があって、日本人はもちろん、日本語を聞くことが多く、その響きに興味をもったのが日本を意識するようになった始まりです。当時は、日本語とスペイン語を勉強しました」とマーク氏は、利発そうな表情で語る。
「マークは、はやく仕事がしたいと言ってインターナショナルスクールを2年で卒業し、飛び級して大学も19歳で卒業しています。じつは、日本の名古屋の大学にも留学していたんです」。
マーク氏とクリス氏は、きょうだいのように仲がいい。小さい頃から一緒だった。
「そうですね、ぼくらが小さな頃から、ファミリー同士が付き合っていました。互いにきょうだいもいるわけですが、なかでも、ぼくたちは波長があったのでしょう。小っちゃい頃から連絡を取り合って、海外へも一緒に旅行しています」。
気もあった。
「小さい頃から、2人とも起業しようと思っていました。『起業するか?』と、6歳の頃に聞かれても、ぼくらは同じように『イエス』と答えていたでしょうね」。
ただし、歩む道は、違った。
「クリスは、ファイナンスの世界に進んだし、ぼくは、ベンチャーキャピタルへと進んだ」とマーク氏。マーク氏はベルリン、クリス氏はメキシコシティ。
「2人が再会するのは、ニューヨークです。ぼくが先で、マークがあとから赴任してきました」。時間が許す限り、語りあった。志が高い2人。話は当然のこととして、起業の話に向かう。
「ぼくらはよく似た業界で仕事をしていたんですが、結果へのアプローチはまったく異なっていました。ぼくは、オペレーションだし、クリスは、ファイナンスやマーケティングが得意です。ある時に、ぼくらは気づきます。経験が異なるから、一緒にやれば、互いを補い合うことができるはずだ、と」。
「そう、それで、『じゃぁ何をするか』と話し合った時に、『フード』と『日本』が、ぼくらのキーワードになったんです」。

日本×ドイツ料理。

「ぼくは子どもの頃からの日本贔屓だし、名古屋の大学に留学した経験があって。クリスも、昔、東京の国際弁護士事務所に勤務していましたから、もともと2人とも、『日本』という国とは親和性があったんです」。
なるほど、わからなくはないが、広い世界のなかから、彼らが日本を選択したのは、それだけが理由だろうか?
まして、フードビジネスは2人にとって無縁の世界でもある。
「ぼくのお祖母さんがホテルを経営していて、昔から『食の仕事』をみてきたこともフードビジネスを選択した理由ですね。それに、マークは、とってもグルメで世界中のおいしい店を知っています/笑。それともう一つ、日本には『気軽に食べられるドイツ料理がまだ入ってきていない』というのが、日本を選択した理由です」。
まだ日本にないドイツ料理?
「そうです。バイエルンの伝統的なドイツ料理ですね。ぼくらは、ハンブルグで海もちかいからシーフードも食べます。そういう、いまの若者たちが好むドイツ料理、これが日本にはないな、と」。
面白い話がある。これも、彼ら2人が日本で起業する背景である。
「マーケティングをしているマーカスって知り合いが、日本にいた時に、マーケティングのため、中目黒の『桜祭り』に小さいソーセージ店をだしたんです。そうしたら、たちまち60~70人の行列ができて。送られてきた写真をみて、笑ってしまいました。ドイツでもソーセージにそんな行列ができない/笑」。
「でも、そこに、ぼくたちはビジネスの未来をみつけたんです。日本なら間違いなく、ぼくらのドイツ料理が受け入れられるって」。
そして、マーク氏21歳、クリス氏26歳。かくして2人は、2013年、新たな未来を拓くために、日本に渡る。

桜祭りの行列は再現できる?

「もともと資金もそうないので、できるだけお金をかけないというのがテーマでした。もちろん、初めてのチャレンジですし、日本のことも、いってもまだ知らないわけですから、小さくやろうよ、と」。
「そうですね。資金も200万円くらいしかなかったかな。志はでっかくても、お金があるわけじゃない。それで、フードトラックです。ペイントも2人でして。寝泊まりは、もっぱら倉庫で、実は住むところもなかったんです」。
「お金も、時間も、ぜんぶフードトラックに使いました。メニューですか? メニューは、ビールとソーセージです。ただ、とにかく本物にこだわって、レシピは有名なホテルのドイツ人シェフにお願いしました」。
初日から、桜祭りが再現されたそうだ。
販売方法にも工夫を重ねる。「マーケティング、販促、ディスカウント、何をしたら、リピーターになってくれるのか、試行錯誤する日々だった」と2人は当時を振り返る。
「お客さんは、タクシーの運転手から、OL、工事現場の人もいました。いろいろな人に来ていただいて、自信もでました。もっともすべてが順調だったわけではないです。フジロックフェスタにも出店しましたし、週末に開催される青山のファーマーズマーケットにも参加しました」。
 そして、1年半後に、「246 COMMUNE」にビアスタンドを出店し、赤坂に1号店となる「シュマッツ ビアダイニング赤坂」をオープンさせる。

「ドイツ料理」の将来性。

現在、マーク氏とクリス氏が経営する店は、12店舗、2019年3月には15日に東京ドームシティ、22日には中目黒に旗艦店がオープン。
このページがアップされる頃には、すでに14店舗になっている予定だ。
今後も月に2~3店舗も出店する計画というから、今後の展開が楽しみだ。
マーク氏とクリス氏という、2人のドイツ人が仕掛けた、ドイツの若者の食文化は、日本でも、旨いビールと旨いソーセージと一緒に広がっている。
「シュニッツェル・パルミジャーナ」「特製ドイツソーセージ5種盛り」「シュマッツ・ジャーマンポテト」「ドイツ風シャルキュトリボード」「マッシュルームのクリーミーリゾット」…。
シェアするなど食べ方は自由だ。
「日本人がいう『和・洋・中』の『洋』のイメージは、フランス料理やイタリア料理で、ドイツ料理ってないでしょ。そのイメージを僕たちが変えたいんです」 。
最後に2人が「困った」という一例を挙げる。
  「ランチですね。ドイツ人にとっては『じゃがいも』が、日本人のいう『お米』なんです。ともに主食です。日本の、『お米とおかず』のように、ドイツでは『じゃがいもとおかず』なんですね。でも、これが、理解されず…」。
「そうですね。どうしても、日本人はお米がないとだめなんでしょうね。ぼくたちドイツ人には考えられませんが、『じゃがいも』をおかずに『ご飯』を食べる人もいるくらいですから。それが、ある意味、カルチャーショックでしたね」。
  たしかにそうだ。「パン」は主食になったが、「じゃがいも」いまだ主食にならず。言い方をかえれば、そのぶん、未来があるとも言える。
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2019年3月5日火曜日

3月1日(金)発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」は、J・ART様です。

60代・70代で頑張ってる人、働きたい人を応援!(キイストン寄稿)
82歳の最高齢者を筆頭に、今回、仕事内容を聞いた河合芳雄氏(71)と朝日浩氏(72)を含む19人のシニアが活躍されています。
  (夕刊フジより)
「over60(ロクマル)世代応援企業30」の取材を70歳の元編集プロダクション社長の土金さんにお願いしております。
【氏名】土金哲夫(ツチガネテツオ)
【生年月日】昭和23(1948)年9月25日
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アイエムエムフードサービス株式会社 代表取締役社長 河村征治氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”アイエムエムフードサービス株式会社 代表取締役社長 河村征治氏登場
本文より~

高校1年生、ロスに渡る。

「高校の時から、飲食店をしたいと思っていた」と、今回ご登場いただいた河村征治氏は語る。「実をいうと、『起業する』ことがまず先にあって、業種については『これだ』というものがなかったんです。いくつもある選択肢のなかから飲食業を選んだのは、店内に1-2時間滞在してもらえるレストランであれば差別化できると思ったからです」。
高校生で、この発想。できるもんじゃない。できたとしても「手っ取り早いから」となるのではないか。
高校1年の冬休み。ともだちと2人で出かけたアメリカ・ロサンゼルスの1週間の旅が、何かしらの化学反応を起こしたのだろうか。
「そうですね。なんとなくですがサラリーマンになりたくないと思ったのは事実ですね」。
河村氏は、1977年、石川県金沢市に生まれる。3人きょうだいの長男である。父親はNTT、母親は銀行に勤めておられた。「子どもの頃から要領がいいほうでした。下に弟と妹がいたこともあって/笑。家族で、登山やスキーにでかけました。学校の成績は中の上って奴ですね」。
河村氏の実家は、金沢駅から10分の立地。中学は8クラスあり、ともだちに影響を受けてバスケットボール部に入部している。
「高校も10クラス。こちらは、進学校です。バスケットボールはつづけるんですが、2年の時に退部します。だんだん音楽に惹かれ、バンドを組み、私は主にギター担当していました」。
「ただ」と河村氏、実は演奏よりも、ライブを企画運営するほうが楽しかったそう。当時から、経営者的なことに興味があったのかもしれない。

じゃ、フランスに行くか。

「高校3年生の夏休み、もう1回、アメリカに渡ります。今度は1ヵ月の短期留学です。高校は進学校だったんですが、進学は考えず、卒業後もまたアメリカに向かいました/笑」。
3週間に亘り、カリフォルニアやマイアミを旅したそうだ。アメリカは、河村氏に何を教えてくれたのだろう。
「日本とアメリカ、意外に近いと感じはじめていました。高校卒業後は先ずフランスに渡るんですが、料理でナンバー1はフランス料理と思っていたので、じゃぁ、フランスに行くかと」。
3ヵ月、語学学校に通い食べ歩き。「そうです。その時に、まだ修業中の下村浩司さん(現・「エディション・コウジシモムラ」オーナーシェフ)にお会いし、アドバイスをいただきます。『東京なら、このレストランがいいよ』と6店舗挙げてくださって、私自身も帰国後に食べ歩き、四ツ谷にある北島亭の門を叩きます」。
叩くというのは、文字通り、4回門を叩いて、最後に開いたという意味。つまり、3回、面接で落ちた。「やっぱり、北島亭がいちばんだったんです。だから、落ちても、ほかで、という選択肢はなかったんです」。
「北島亭」については、いうまでもないだろう。「当時からナンバー1でしたね」と河村氏。それだけ著名なフレンチレストランだ。その後「当時、2番手だった先輩が、知り合いの店を立ち上げるというので、ついていきました。」。

料理人、河村。経営者を目指す。

河村氏の人生において、「北島亭」に就職した意味合いは大きい。仕事のベースは、いまも、すべて「北島亭流」だからだ。高校を卒業してから25歳まで、24時間、365日、頭を占めるのは「料理」の二文字だった。
日本での修業を終え、ふたたびヨーロッパへ。フランスで修業し、帰国。グローバルダイニング等レストランで働く一方で、アイスクリーム製造卸事業を開業している。
「アイスクリーム事業は、仲間4人とはじめます。アイスクリームが評価されて、都内のカフェに卸したりイベントを行ったり。ただ、経営者としての、私のちからがなく解散することになりました。あの時、職人ではだめだ。経営者にならなければ仲間を守れないとそう思ったんです」。
その後、河村氏は、縁あって、大手商社にて商品開発のコンサルタントをはじめる。
「数社のコンサルを勤めた後、グローバルダイニングに正社員として入社しました」。このグローバルダイニングで、副社長にまで上り詰めている。この一つの事実からも河村氏の力量がわかるというものだ。
そこを辞めて、金沢ですか?
「ええ、33歳のときに独立します。『東京で』とは考えなかったですね。あの頃、頭にあったのは地方発でブランドをつくるということでした、それで、故郷の金沢をスタートの場所に選びました」。
・・・続き
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株式会社新和 代表取締役 宇野辰雄氏登場。

(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社新和 代表取締役 宇野辰雄氏登場
本文より~

父はギャンブラー、それとも起業家?

北海道富良野。母は、その富良野出身。おなじ北海道の北見出身の父と出会い結婚。やがて、娘と息子を生む。その息子が、今回ご登場いただいた株式会社新和の代表取締役、宇野 辰雄氏である。
「親父は絵に描いたようなギャンブラーで、もともとは北海道でパチンコ店を経営していたんですが、私が生まれる頃にはそちらをたたんで東京に。たぶん、逃げるようにして出てきたんだと思います。はっきりと聞いたことはないですが、たぶん、ギャンブルの問題が根っ子にあったんでしょう」。
好きこそものの上手なれというが、ギャンブルばかりはそうはいかない。「博才」があるといっても勝ちつづけるのは、難しい。もっとも「博才」があったかどうかはべつとして、会社を興す才覚はお持ちだったのだろう。東京に移ってからもまた、宇野氏の父は会社を興されている。それが、いまの「新和」のベースとなるパッケージ会社である。
「姉はいたんですが、10歳も離れていましたし、彼女はうちにあまりいなかったもんですから、小さな頃から一人っ子で、かぎっ子のような暮らしです」。
パッケージの工場は、自宅の下にあったから正確にはかぎっ子ではないが、料理も掃除もアイロンかけまでできる少年だったそうである。
父は、儲かるとそのお金をもって、ギャンブルに走った。なんでもやられたそうだが、競馬は特にお気に入りだったそうである。何かの本で読んだが、競馬に没頭しているギャンブラーは百万円を1本というそうだ。宇野氏の父もまた、1レースに1本、2本と賭けられたに違いない。
「そうですね。それでも私が小さい頃は、うちも少し裕福になったんでしょうね。夏休みとか、いろんなところに連れて行ってくれました。私は私で、べつに父が大好きだったわけではないんですが、小学生の頃から家業を継ぐと思っていました」。
まだ小さな会社だったが、宇野氏にとっては価値ある会社と映っていたのだろう。

「大学を辞めてくれ」。

中学ではバレーをやり、高校では居合道をやっている。居合道は、刀の居合である。担任からほぼ強制的にやらされた。空手か、居合かどちらかを選択しろと言われ、空手はどうみても、怖そうな先輩がいたので、消去法でもう一方を選択した。進学したのは、帝京高校。
「大学までストレートだったし、何よりうちに近かったから」というのが、こちらの選択理由である。
「大学を卒業したら2~3年同業ではたらいて、そのあとうちに戻るというのが当時のプランです。ええ、会社を継ぐというのが、前提でした」。だから、大学に進学するといってもさしたる理由がなく、大学に入ってからも、特にこれといった勉強はしない。もっぱら、遊びに軸を置いた。進んだのはいうまでもなく、帝京大学である。
「ただ、私が20歳の時に、転機が訪れます。実は、うちの工場長が会社を辞めると言い出したんです」。なんでも、スキーから帰ったら、深刻な顔をしたご両親から「大学を辞めてくれ」と言われたそう。理由はその工場長の代わりとなるような人が誰一人いなかったから。つまり、ご両親は、息子の宇野氏に白羽の矢を立てられたわけだ。
「突然ですから、びっくりはしましたが、卒業できるかどうかも怪しかったもんですから、『ま、いいか』と。元々、継ぐつもりでいましたしね。ただ、工場長はいわば職人で彼しかできないことがあったんです。小さな頃から工場の手伝いはしていましたが、当然のこと、いきなり彼の代わりはできません」。
当時、パッケージの製造には、職人のわざが欠かせなかったようだ。
「最初の1ヵ月で、5キロは痩せました。だって、できないでしょ。でもやらなければ上達しない。でも、やればやったで材料が無駄になるばかりで/笑」。
ものになるまで半年から1年かかったそう。それでも、「それくらいでできるようになった人は、ほかにいないんじゃないですか」と胸をはる。
もっとも家業の命綱だったから、必死だったのだろう。当時、社員は3~4人くらいだったそうである。彼らの生活も含め、2代目候補の宇野氏は、20代の若さで会社の命運をにぎったわけである。

「社長」と「従業員」はどちらも欠けてはいけないピースだった。

さて、結論を急ぐと「何か父と違うことを」と、やがて宇野氏が飲食業を興す。それを前提としたうえで、父と宇野氏の関係を読むと、話がわかりやすい。
宇野氏が工場長となり、職人のわざも手にしたことで、元の工場長がいた時のように、工場内はにぎわい、事業は順調に進むようになる。
やがて周りのみんなを大事にする二代目候補は、社員やパートさんたちにとっても大事な存在となる。やがて、今の専務や取締役も入社し、宇野氏を核とした体制が徐々に出来上がっていった。
しかし、父はトップに君臨したままだった。
「ぼくは、親父を経営者として尊敬していません」と宇野氏はきっぱりという。
「何かあればやくざのところにも乗り込んでいくような人ですが、親父はギャンブル、それだけが大事な人だったんです。息子のぼくが、会社で存在感を示せば示すほど、父は苦虫を潰します。ぼくに負けたくなかったというより、『会社という財布』を失いたくなかったんです。父は」。
「財布?」「そう財布です。当時の小企業ですから、会社のお金はオレのものっていう人は少なくなかったと思うんです。ただ、うちの親父はひどかった。勝手に会社の金を持ち出して、競馬です。工場長が辞めたのも実は、父のせいです。ぼく自身、何度辞めてやろうか、と思ったことか」。
そんななか、30にもなっていなかった頃、ある事件が起こる。
「親父がいきなり、『今回は賞与がないから』って言いだしたんです。賞与がない?耳を疑いました。業績はけっして悪くなかったもんですから。でも、理由はすぐにわかります。案の定、『なぜだ?』って問うと、『原資がない』と。つまり、社員に渡すための賞与の原資は、府中かどこかで馬券になり、紙屑になったんです。あの時は、『もうだめだ、この人の下では』って心底、そう思いました。でも、社員たちのことがありますから、ぼくが何とかしようと奔走するんですが、若造にそう簡単にお金はできません」。
母親にも頭を下げたそうだ。だが、耳を貸してもらえなかった。しかし、到底、納得できないことだった。
「だから、みんなを集めて『賞与がないらしい。でも、俺がなんとかするから』っていったんです。そうしたら、古参の、ぼくを小さい時から知っている社員が、『無理せんで、いいです。私たち今回は我慢します。我慢しますから、早く社長になってください』と」。
もし、今の宇野氏を知る人がいたら、この事件というか、古参の社員の一言が今の宇野氏をつくっていることがわかるだろう。
「この時、ぼくは初めて、社員たちとの関係を、ぼくなりに理解し、定義することができました。社員はけっして経営者の使用人ではないんだ、と」。
どちらもかけてはいけないピース。そのことを宇野氏は気づいた。今も、この思いはいささかもかわってはいない。
父が会社を財布としたこととの違いは、明白である。むろん、どちらがいいかの判断を第三者がすべきではないのだろうが。
・・・続き
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