2013年8月30日金曜日

9月より関西エリアのフォローさせて頂きます。

この9月より関西の企業様をフォローさせていただける体制が整いました。
社長直属の社長室 特命課として、担当がまわらせて頂きます。
 特命課は、お客様の声を拾って、お困りなことを解決する課です。
できる範囲からコツコツやらせてもらいますので、まだまだ大きなことはできません。
少しずつ、関西エリアのフードビジネス企業様にお役立てるよう頑張りますのでご支援ください。

2013年8月29日木曜日

昨年に続き、今年も母校にて講演させいもらいます。

昨年に続き、今年も10月に母校の大学で学生相手の講義させて頂きます。
昨年はリブセンスの村上社長とW講演、今年はトークライブなんで楽しみです。
夢•希望を与えられればうれしいです。
大学OBにはショップJAPAN創業者や中古車情報GOOの社長らもいらっしゃいます。
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2013年8月28日水曜日

昨日27日、第4回「海外展開フードビジネス企業説明&就職面談会」を実施しました。  

この8月27日で、4回目の「海外展開フードビジネス企業説明&就職面談会」を実施しました。
今回は動画も撮るため、会場兼スタジオで実施し、より企業PRがうまくいきました。 
 (最初に説明させてもらっています)
 (KUURAKU GROUP様)
  (セント・リングス様)
 (鶏冠菜様)
(面談風景/KUURAKU GROUP様)
(面談風景/セント・リングス様)
(面談風景/鶏冠菜様))
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2013年8月27日火曜日

株式会社ホノルル コーヒー ジャパン 代表取締役社長 藤尾英雄氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ホノルル コーヒー ジャパン 代表取締役社長 藤尾英雄氏登場。
本文より~

大阪天満、庶民の町で愛された食堂。

藤尾は1980年6月12日、大阪市天満に生まれる。姉と弟の2人姉弟。父はすでに述べた通り、(株)フジオフードシステムの代表取締役、藤尾政弘氏である。
「もともと父の実家が、大阪の天満で『大衆食堂』を営んでいたんです。父は小さい頃から、この店で育ちます。昭和54年、1979年『藤尾実業』を設立し、キッチンバー『エスカール』を大阪梅田のお初天神にオープン。正確には、この店がグループ1号店です。今年、2013年で34年目になります」。
(株)フジオフードシステムといえば、「まいどおおきに食堂」や「串家物語」などが有名だが、「まいどおおきに食堂」の1号店、「森町食堂」が生まれたのは昭和63年、1988年のことである。ホームページをご覧いただければわかるが、それまでの9年間に政弘氏は実にさまざまな店舗をリリースされている。
藤尾が生まれたのは1980年だから政弘氏が独立起業して1年目のことである。父、政弘氏がもっとも多忙な時期に生まれたと言ってもいいだろう。幼い当時の様子を伺ってみた。

やさしい父の記憶。

「「生まれて3歳まで天満で育ちました。小さな頃の私は、大人しく目立たない少年でした。コツコツと勉強するようなタイプです。幼少の頃には、母が運転する自転車の後ろに乗って商店街を回っていたのを覚えています。父は、仕事中は厳しい人ですが、家では優しく怒られた記憶はほとんどがありません。良くキャッチボールをしてくれました。物心ついた頃には、もう20軒くらいになっていて毎日現場に立たれていましたから、忙しくてしかたなかったはずですが、時間の合間をぬって私との時間を作ってくれていたのだと思います」。

はじめて父に反発。

忙しい日々を送る父のもと、藤尾も日に日に大きくなっていく。 「高校からサッカー部に所属し、毎日、ボールを追いかけていました。大学に入学した後もサッカーを続けようと部活に入ったのですが父から『プロのサッカー選手を目指すか、家業を継ぐか考えろ』と言われるまでになりました。家業を継ぐことは小さな頃から頭にあったんですが、まだ大学生になりたての頃ですから『なんで好きなサッカーを辞めなあかんねん』と、はじめて父に反発しました」。
プロのサッカー選手になるのはハードルが高いし、むろん現実的ではない。とはいえ与えられた選択肢が極端すぎる。反発したくなる気持ちはわからないでもない。ただし、このとき藤尾は父の意図をくみとり「家業を継ぐ」という現実的な道を選択することになる。後悔はしていない。アルバイトではあったが「早くから現場に入ったことが、いまの財産になっている」とも言っている。・・・・続き
株式会社ホノルル コーヒー ジャパン 代表取締役社長 藤尾英雄氏
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株式会社ちよだ鮨 代表取締役社長兼COO 中島正人氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ちよだ鮨 代表取締役社長兼COO 中島正人氏登場。
本文より~

源流。

中島が生まれたのは1967年もあと3日残す、12月の29日。東京の荻窪で生まれたが、父の仕事の関係で幼稚園に入学するまでは神奈川の上大岡で暮らし、その後、大田区の石川台に移り住む。兄弟は3人、2歳下の妹と5歳下の弟がいる。母は専業主婦でおおらか。父は、年中忙しく「母子家庭のようだった」と幼少の頃を振り返る。
「ちよだ鮨」の源流は、曾祖父の代から始まっている。もともと富山県の堀岡村(現・射水市)で水産加工業をされていたそうだ。ところが祖父が12歳の時、曾祖父が亡くなり、それ以来、祖父は家業を手伝いながら北方に向かう漁船にも乗っておられたそうだ。
「祖父は23歳の時に上京し、25歳で独立します。商売がうまかったのでしょう。魚を仕入れ、それを陸軍や病院、企業の社員食堂などに卸していたそうです。ところが、戦争の影響で魚関係の仕事ができなくなったことがあって、戦後の一時期、石鹸の製造・販売を行うようになります。石鹸などが不足していた時代ですから飛ぶように売れたと聞いています。しかし、大手のメーカーが息を吹き返したことで、もう一度、魚の卸事業に回帰したのです」。
「中島水産」が設立されたのは昭和29年だから戦後9年。その翌年に企業内の食堂(給食)を委託・運営する事業部として「食堂部」が生まれる。これが現在の「ちよだ鮨」の原点である。
中島の父がなかなか家にも帰れず母子家庭のようだったのは、当時「中島水産」の第一線で活躍されてきた証でもある。
結局、中島の父は専務取締役となり、父の兄である長男が「中島水産」を継ぎ、父は平成元年に「ちよだ鮨」の社長に就任する。
平成元年といえば、1989年。中島が22歳になる年である。

立教中学へ。

ホットケーキが好きだったのだろうか。小学校に入るまで、「日曜日になればホットケーキをつくっていた」と中島は笑う。「幼少期は大人しく静かだった」というのが自己分析。芸術系の家庭で育った母の影響もある。ものをつくったり、絵を描いたりすることが好きだったそうだ。
「ピアノ」「習字」「水泳」と教育熱心な両親の下、自由に育ちながらも熱心に「学び」もした。反面、スポーツは好きではなかったそう。そんな、どちらかといえば大人しい少年だった中島だが、小学校も高学年に差し掛かる頃には活発になり、周りを笑わせるような少年になっていく。
中学を受験するため塾に通い始めたのは小学4年生から。青山と立教を受験し、立教に進んでいる。スポーツは得意ではなかったが、中学ではバスケットボール部に所属し、厳しい練習に耐えぬいている。
「たまたま私たちの先輩が全国2位の成績を収めたもんですから練習も厳しく、OBもひんぱんに練習に来てくれていました。おかげで夏休みも返上で、練習漬けです。それでも私たちの代は全国には進めませんでした」。もっとも中島はレギュラーではなく、時々、試合にでるような選手だったそうだ。・・・・続き
株式会社ちよだ鮨 代表取締役社長兼COO 中島正人氏
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2013年8月26日月曜日

今年も実施。第2回調理師試験会場求人冊子配布!!

24日(土)、昨年に続き第2回目の調理師試験会場求人冊子配布を実施しました。
“in-職hyper 飲食経験者版”の冊子を外部を使わず自社スタッフで東京都の調理師試験会場2ヶ所で配布しました。
やっぱり事前に伝えてると他社さんもマネしてきました。
ただ、バイト少数で終わったころに来てても無理ですよ(笑)
うちは休日のなか、適性人数考え、社員だけで各5人ずつ配置し配布しました。
なんでもそう、自分たちで考え、自分たちで実施し巻くことまですると気持ちが違います。
あと継続する、続けることですね。

 (東京第1会場で配布する社員たち)
 (東京第2会場で配布する社員たち)
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2013年8月23日金曜日

22日、めざましテレビ「ココ調」に“角の蛸笑”が出ました。

昨日22日のフジテレビ系『めざましテレビ「ココ調」』にSERVERSの“角の蛸笑”が出ました。 今回の「ココ調」は、外国人観光客が日本で困るという「飲食店で注文」をどのように対応しているのかを調べました。
 
(めざましテレビ「ココ調」)
 (角の蛸笑)
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2013年8月22日木曜日

『新たなる都市伝説』、“刀削麺 唐家” !!


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in-職hyper 飲食業経験者版の求人冊子、本日届きました!!

昨年に続き、今年も24日(土)東京都の調理師試験会場2ヶ所で求人冊子を配布します。
許可承諾も取り、求人冊子も本日届きました。
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昨日21日、東京MXテレビに尾前オーナーシェフのお店“プレート”(西麻布)が出ました。

東京MXテレビの“アンナの美Viスタッ”に出ました。
(尾前武オーナーシェフ)
【オーナーシェフ 尾前武】
「レストランタブローズ」総料理長、「レストラン森本XEX」料理長などを歴任。
2008年からは「レストラン尾前XEX」総料理長を務められました。
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2013年8月20日火曜日

株式会社IKD 代表取締役 笹間 章氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社IKD 代表取締役 笹間 章氏登場。
本文より~

1951年、生まれ。

1951年10月16日、笹間は、港区の六本木に生まれる。2人兄弟の長男。母方の祖父は九州から東京にでてタイプライターの輸入、販売で財を成した敏腕経営者。父もまた祖父同様、タイプライターの輸入・販売で独立したが、ワープロの普及とともに経営が悪化する。
記憶では笹間が小学2、3年生になったあたりから、きびしい経営状況が子どもたちにもわかるようになったとのことである。
それ以前、つまり笹間がまだ幼い頃は、会社もまだ好調で「六本木の高級レストラン」や「有名なホテルのレストラン」にしばしば通っていたそうだ。
一方、「小学生の頃はコマ劇前の広場が遊び場だった」と笹間がいうように、いまと違って当時は新宿もまた子どもたちの喧騒が聞こえる街だったようだ。

両親の離婚。育てられた偏見のない視点。

「父の事業が傾き始めたのは、私が小学2、3年生の頃。かなりの借金を抱え、家族4人で夜逃げ同然で町を離れたこともあります。親たちは暗澹たる気持ちだったんでしょうが、私たち兄弟はまだ子どもだったんで『貧乏だろうとそれはそれで別に構わない』という心境でした」。
家族4人の生活は、そう長くつづかなかった。笹間が中学生になったとき、両親が離婚したからだ。兄弟2人は、父の下に引き取られた。
多感なときの両親の離婚だったが、笹間はけっして非行には走らなかった。母を恨むこともない。「もう少し大きくなってからは、母とも、母の再婚相手とも自然と付き合っていました。いま振り返れば、人を色眼鏡でみることなく、また偏見を持つこともなく、どのような人ともフランクに付き合えるような性格になったのは、あの頃の経験があったからだと思います」と笹間は語っている。
「偏見を持たない」。これは経営をするうえでも大事な視点である。ちなみに辞書によれば「偏見」とは、<かたよった見方・考え方。非好意的な先入観や判断>のことを言うらしい。

ホテル業、志望。

「ホテル業」に興味を持ったのはいつ頃からだろうか。高校時代には「大学生だ」と嘘をついて、いろんなホテルでバイトをさせてもらった。高校卒業後は「ホテル部門」がある観光専門学校に進学。卒業後は「はとバス」直営のキャピタルホテルに就職した。
ところで、笹間が就職した1970年は、大阪府吹田市で万国博覧会が開催された年である。翌年には「マクドナルド」や「ケンタッキー」の1号店がオープンする。またチェーンストア理論をひっさげ、多くの「ファミリーレストラン」が誕生するのも、この頃である。
食文化という一点でみれば、日本の大衆のなかで洋風化が進み始めたのが、1970年代であり、その突端の年に、笹間は社会に出たことになる。
ホテル業に興味を持ち、ペンションで起業しようとも考えていた笹間であったが、あることがきっかけで、「飲食」で独立しようと心を定めることになる。これが21歳のとき。社会に出てわずか1年で「キャピタルホテル」を退職し、「飲食の戦士」の一歩を踏み出すことになった。・・・・続き
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株式会社レプハウス 代表取締役 堀口康弘氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社レプハウス 代表取締役 堀口康弘氏登場。
本文より~

ピカソに魅せられた少年。

絵を描くのが好きだった。小学3年生の時、県のコンクールに入選した。美術教室に飾ってあったピカソの絵に触発され「画家という職業」を意識しはじめたのは、中学生の時。高校1年で、「芸大」に進むことを決意。夏休みには東京の親戚宅で寝泊まりし、芸大・美大受験予備校の夏期講習に通い詰めた。めざすは最難関の「国立東京芸術大学」。父は四男坊のために金を工面し応援した。だが、「東京芸大」のなかでも堀口が受験した油絵学科の競争率は約50倍。ライバルは、全員、才能にあふれた画家の卵たちである。
高校時代の3年間は夏休みのたびに東京に向かい、予備校に通った。それでも願いかなわず、1年目は失敗。もう一度、と再チャレンジするものの、芸術系大学では唯一の国立で、日本最高峰の芸術系大学である。予備校時代にはコンクールで上位を何度も獲得した堀口にとってもハードルは高かった。挫折。そこから堀口の新たな人生がスタートする。

堀口家の話。

堀口は1955年、佐賀市で鉄工所を営む父の下に4男坊として生まれた。「男5人兄弟の4番目です。全員、3歳ずつ離れていたものですから、入れ替わり立ち替わり中学に進んでいくわけです。兄が卒業し、弟が入る。そういう感じでしたから、先生も3年ごとにお前が堀口の弟かと(笑)」。しかし、4番目の堀口は、3番目までの堀口と少し違っていた。たしかに兄たち同様、テニス部に入りキャプテンも務めるのだが、その一方で4番目の堀口には、あふれんばかりの「絵」の才能があった。テニス部に所属しながらも絵を描きつづける。
一方、家庭のほうは、いつもにぎやかだった。幼少の頃は、家業も順調。船を貸し切るなど年2回は社員旅行も行われていた。堀口は「子どもでも『堀口』と言えばタクシーに乗れたほど」と当時の裕福な暮らしぶりを語っている。だが、堀口が小学校に上がってしばらくして、業績に陰りが見え始める。長男が大学に進学する頃には業績は目に見えて悪化し、秀才と言われた兄が進学を断念するまでになった。・・・・
http://in-shoku.info/foodfighters/vol385.html
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