2023年5月31日水曜日

株式会社ジェラフル 代表取締役 吉田 達二郎氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ジェラフル 代表取締役 吉田 達二郎氏登場。


本文より~

高校卒業までの吉田氏。

ホームページを開くと、生クリームと新鮮なくだものに彩られたスイーツが現れる。スイーツ好きな人は釘付けになるにちがいない。
2004年。東京汐留に8坪のショップがオープンする。それが、始まり。オープンから5年、年間休日3日、287連勤、月間450時間勤務を行い、鬼気迫る表情をひた隠ししつつ、ハードワークを続けたそう。
今回は、そのハードワークの張本人、関東を中心に中部や関西、中四国に、スイーツショップを展開する株式会社ジェラフルの代表取締役、吉田氏に話をうかがった。
吉田氏が生まれたのは、1971年。子どもの頃から独立志向が強かった、という。「神奈川県の厚木生まれです。兄が1人。私とは性格がまるで違います笑」。
吉田氏自身は、周りをみて気遣うタイプというからお兄様は寡黙なタイプなのかもしれない。もっとも、小学3年生までは、内気な性格だったとのこと。空気をうかがうタイプだったのだろう。
「父親がソフトボールの監督をしていたので、私もチームに参加していました。小4になったくらいから、明るくなって、振る舞いもかわってきた気がします」。
中学生に上がると、性格はよりオープンになり、ともだちを笑わせるなど、クラスで随一の人気者になっている。「中学から野球を始めたのですが、小学校ではソフトボールですから、野球経験者にはかなわなくて、途中でリタイアしました」。
高校でもサッカー部に入り、1年程度でリタイア。
これが、未来の引き金になるから、不思議。
「小さい頃から独立志向だったといいましたが、高校時代、学校には内緒でアルバイトをしたことで、その思いが強くなったというか、早く社会に出たいと思うようになります」。
どんなバイトをされたんですか?
「中華料理店です。年が離れた先輩たちと遊んでいるうちに、彼らがうらやましいと思うんでしょうね、私も早く社会に出てみたいと。もっとも、成績が学年ビリでしたから、進学校とはいえ、進学できたかどうかは微妙ですけどね笑」。
569人中、569番が、吉田氏の卒業時の順位。ひっくり返せば学年トップだ。こちらもなかなか取れるもんじゃない。

10年のモデル生活と、クレープショップと。

「高校を卒業して、百貨店の丸井に就職します。配属は、新宿丸井です」。百貨店には大量の客が来る。接客スタッフは1日中、立ちっぱなし。それで腰を痛めたそう。
「結局2年で退職して、水回りのトラブルを解決する会社に転職しました」。なんでも、たまたま見た求人広告がきっかけだったそう。
「フランチャイズ本部のスタッフとして、フランチャイズ希望者に講演会を開いてお話をするなど、貴重な経験を積むことができましたし、フランチャイズの仕組みを知ることができました」。
こちらの会社では3年くらいだったそうですね?
「20歳の頃から3年くらいです。300人くらいの希望者の前で講演したのは21歳ですから、なかなかできない経験ですよね。その時の勤務先は福岡で、会社を辞めて、神奈川にもどります」。
スカウトされた時は、その頃ですか?
「そうです。わりと有名なモデルエージェンシーにスカウトされて。もちろん、モデルだけじゃ食べていけないので、アルバイトも散々としました。80種類くらいやったんじゃないかな笑」。
要領が良く、何をしてもすぐトップレベルになったそう。その一方で、モデルの仕事も軌道に乗り出す。「20代後半からでしょうか。じつは、あのCMにも出演しているんです」。 あのCMとは、だれでも知っているメーカーのCM。ほかにも30~40本は出演していたらしい。それでも、モデル一本というわけにはいかない。
「私自身がプレイヤーとなってモデルエージェンシーを立ち上げるか、別の事業をするか、年齢を重ねるとそういった選択を迫られます。私は、前者には向きません。そういう時、たまたまご縁ある方からスイーツショップをやらないかとお声をかけていただいて。始めるには始めたんですが、まだ腹が決まっていなかったんでしょうね。最初は、モデルの仕事も継続していたんです」。
辞めるには惜しい職業でもある。
しかし、「2~3ヵ月でカベにぶち当たり、無理だとわかった」と笑う。両立は、限界だった。
「モデルやりながら、ショップも運営するなんて、先輩でもいるにはいますが、やっぱり離れ業だったんでしょうね。2~3ヵ月でモデル業を辞めます」。
モデルを始め10年経った頃。年齢はすでに30歳オーバー。

モデルのたまごを魅了したジェラートinクレープ。

「最初はジェラートのショップをしようと思っていたんですが、ショップの隣に映画館が出来ると聞いて、それならワンハンドで食べられるクレープがいいだろうと。それが、始まりなんです」。
狙いはいい。
1号店は、たしか、汐留ですね?
「そうです。でもね。結局、映画館ができる土地をもっていたのが郵便局だったもんですから、あの郵政民営化の影響でその計画がなくなってしまうんです」。
ただし、近くにあったモデル養成所の、モデルのたまごがやってきて、今でいうインフルエイサーのようになったそう。
「やると決めると研究熱心なところもあって、あっちこっちのクレープを食べまくります。新宿、渋谷…。でもね。悪く言うわけじゃないんですが、当時は、薄皮でパリパリ、クリームはスカスカっていうか。くだものだって、缶詰。これなら勝てるかなと思って、私はもっちりのクレープをつくります」。
それが、ヒットした?
「そうですね。当時から、ジェラートを乗せるというのはあったんですが、数種類だけ。そんななかで、もともとはジェラートをやろうと思っていましたから、うちは20種類以上のジェラートをご用意したんです。ジェラートinクレープですよね。これがヒットします。ただ、さっきもいったように、映画館の計画もなくなりましたから、大ヒットという意味では、つぎのお台場のビーナスフォートですね。催事的なスタンスで、いったん契約をします。結果を出さないと契約を切られる、背水の陣です笑」。
このビーナスフォートが、冒頭にあげたハードワークの舞台。オープンからクローズまで、いまでいうワンオペで、休みには年3日だったそう。
しかも、汐留のショップも経営している。
「汐留は、結局数年でクローズしちゃいます。代わりにというわけではありませんが、小田原にも、新宿にも出店することができました。小田原と新宿はキッチンカーのスタイルです」。
ジェラートinクレープ。もっちり生地で、ボリューミー。話を聞いただけで食べたくなる。ホームページをみているから尚更だ。
しかし、またまた限界に達する。

・・・続き

株式会社ジェラフル 代表取締役 吉田 達二郎氏

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2023年5月23日火曜日

株式会社マックスフーズジャパン 代表取締役社長 西田勇貴氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社マックスフーズジャパン 代表取締役社長 西田勇貴氏登場。

本文より~

香港で始まった理不尽な生活。

目が覚めると上司がいた。
「40歳後半の、日本で言えば本部長にあたる役職の方です。香港に渡ると、その方の家に放り込まれ、1年弱、共同生活です」と、今回ご登場いただいたマックスフーズジャパンの2代目社長、西田勇貴氏は笑う。
大学を卒業し、大手の食品メーカーに就職した西田氏は、入社1年目から香港に赴任。しかも、本部長との共同生活。想像しただけできついですね?
「今では1部上場もしている会社ですが、当時は香港のオフィスを立ち上げたばかりだったし、お金もなかったんでしょうね。それに、香港の住宅事情というのも特殊で、とにかくマンションが高い。60階、70階とかあって。背が高いぶん、家賃も高い(笑)」
6畳に3畳がくっついただけの住まいの家賃が日本円にして月30万円。物価は日本と変わらないが、住まいだけが異様に高かった。日本より土地が狭いからというのが西田氏の見解。
3畳の部屋はお手伝いさんが住む部屋なのですが、そこに住むこととなった。小柄な女性一人がやっと。かろうじて小さなベッド一つ置けるかどうか。体の大きい西田氏にとっては、足も延ばして寝れない広さだった。とにかく狭い。しかも、隣部屋には、本部長。
物理的にも、精神的にも息苦しいですね?
「ですねぇ。でも、1年くらい経った時かな、さすがにもうやばいと思って、本社に直訴です。なんとかしてくれ!って」。
どうでした?
「OKです」。
よかったですね?
「20万円くらいならいいぞって。だから私も最初は歓喜したんですが。うん? 20万円で借りられるか?って。日本だったら、いいところに住めますよね、でも、ここは、香港だぞ、と(笑)」。
香港には日本人など、外国人が住む高級なマンション街がある。本部長と暮らしたマンションは、その一角にあった。ただ、30万円。20万円では話にならない。西田氏は覚悟を決める。本部長の隣にもどるか、20万円で借りられるところで、我慢するか。
「香港にもスラム街のような雰囲気のところがあるんです。そのなかでも、とくにごちゃっとした下町のエリアがある旺角(モンコック)という街。ここは地元の人が住む場所で、女人街というコピー商品を売る露店が軒を連ねるど真ん中で私の第二の生活がスタートします」。
とにかく、匂いがきつかったと西田氏。
「臭豆腐という腐った豆腐のような食べ物があるのですが、その専門店が家の下にあったんです。毎朝5時頃にその匂いで起きるんです。最悪の目覚めです。それだけではありません。夜、帰宅して電気を点けるでしょ。そしたら100匹のゴキブリが一斉に姿を消すんです」。
なんともはや、ですね?
「でもね。仕事は面白かったし、向こうでラグビーを再開して、日本人ですが、年齢も企業も役職も違う人とラグビーができましたし。何より、本部長の隣じゃなかったから(笑)」。
ちなみに、配属された香港支社には本部長を含め日本人4名と、現地採用の社員、合計10名程度のスタッフがいたそうだ。本部長から逃げ出す格好になったが、じつは今も時に酒を酌み交わす関係がつづいている。西田氏いわく、「初めて出会った尊敬できる人」だったそうだ。

「やきとん まこちゃん」と西田氏の誕生と。

さて、時を遡ることになるが、西田氏の生い立ちに話を移す。西田氏が生まれたのは1983年。すでに父親が経営する「やきとん まこちゃん」は創業済。
ホームページを参照しながら当時を振り返る。
父親でもある創業者が「麻布十番 あべちゃん」で修行を開始したのが1966年のこと。2年後の1968年11月10日に「やきとん まこちゃん」を創業。1970年には現在の本店である「やきとん まこちゃん」をオープン。その翌年に、貿易事業を開始。1976年にはカナダ・バンクーバーで生雲丹の加工を行い、日本への輸出を開始。西田氏が生まれた翌年の1984年には、現在は休眠中だが、米国・ロサンゼルスに「MACK’S FOOD L.A.」を設立。立派な国際企業でもある。
つまり、西田氏の父親は、「やきとん」のオヤジであり、同時に国際派の事業家だった。
今では、日本屈指の「サラリーマン&のんべぇ」の聖地と謡われるようになった新橋だが、創業当時は、今ほどでもなく、苦労もされたようだ。ただし、西田氏が生まれる頃には、海外事業もされていることからも推測すると、すでに今のような大人気店になっていたのかもしれない。
「私が小さな頃には、海外へもよく出かけていましたね。『まこちゃん』も好調だったと聞いています。私自身ですか? そうですね。私には、2つ違いの妹がいるんですが、そのせいか、小学校の頃は女の子と一緒に遊んでいた気がしますね。サッカーとかスポーツもやってはいたんですが」。
中学から私学に進まれていますよね?
「そうです。中学受験で玉川学園に進学しています。別のクラブに入る予定だったんですが、結局ラグビー部に入部します。体が大きくなっていたからでしょう。先生に勧められたんです」。
それがきっかけで大学まで?
「わからないものですね。内部進学で玉川大学工学部に進学します。そこでもラグビーは続けていました。もっとも、中学からラグビー漬けだったので、大学3年時に籍は残していましたが、一旦リタイアして、遊びに比重を移します(笑)」。

就職したら辞令が降りた。香港へ行け。

1単位足らずで、留年されたと聞きました。
「そうなんです。まだまだ遊びたくて確信犯的に1単位落としたんです(笑)」。
大学時代は深夜のコンビニバイト、宅急便など色々なアルバイを経験している。卒業旅行では仲間と一緒に海外を回った。
ただ、それにしても、就職していきなり「海外勤務」とは。抜擢かどうかの、判断も難しい。
香港時代の話は冒頭でも触れたが西田氏はどんな思いで、異国の香港で暮らしていたんだろう。はっきりしているのは一つだけ。父親の会社を継ぐ気はまったくなかったということ。
香港ではラグビーを再開し、現地のコミュニティで可愛がられ溶け込んでいった。進んで帰国するつもりはなかったが、2年経った頃にラグビーで怪我をして帰国している。
結局、その会社に在籍していたのは計7年。「親父同様、人の下で働くことができないタイプなんでしょうね」。
ついに、会社を後にする。

5月23日、「飲食の戦士たち」再現動画版の第四話(株式会社KIWAMI 阿波耕平社長編)をアップしました。

「飲食の戦士たち」再現動画版の第四話(株式会社KIWAMI 阿波耕平社長編)をアップしました。

飲食経営やってみたいと考えてる人たちの背中を押せればと「飲食の戦士たち」の社長の生き様を再現ドラマ風にしYouTubeにアップしてます。
今回の第4話は、坪売上112万をたたき出し、お通しにモツ食べ放題のKIWAMI阿波社長です。
キイストンとの関係も深く、元リクルートで転職バーやられてた故鈴木康弘氏の出会いが阿波社長の人生を大きく変えました!
是非ご覧ください!
株式会社KIWAMI 代表取締役 阿波耕平氏【飲食の戦士たち:株式会社キイストン特別コラム】は
こちら https://in-shoku.info/foodfighters/vol881.html

戦略型総合人材採用会社キイストン

2023年5月16日火曜日

株式会社リックプレイス 代表取締役 石塚信司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社リックプレイス 代表取締役 石塚信司氏登場。

本文より~

あだ名は、健作。

大学の時に、非嫡出子だと告げられた。
「正妻が別にいるってことです。父は、当時で70億くらいの商社を営む敏腕経営者だったようです。私が25歳の時に亡くなります。遊んでもらった記憶ですか? そうですね。キャッチボールを1度くらいかな笑」。
ただ、年に1~2回、旅行には行った。
「でっかいホテルに連れて行ってもらうんですが、衣食住のすべてがそろっている。そういう世界に憧れたんでしょうね」。
作文に「将来、ホテル塚司を建てる」と書いたそう。
「塚司」はもちろん、石塚の「塚」と信司の「司」。
サービス業に惹かれたのはもう一つの原体験があったから。
なんでも、母方の祖父が仕出し屋を経営されていたそうで。
「だし巻きが人気で、お正月ともなれば、石塚氏も駆り出され、玉子を割る仕事に追われていた」と笑う。
「高学年になると、だし巻きを焼けるまでになっていて。それが次々に売れていくわけでしょ。お客さんもみんな笑顔だし。商売って面白いな、と」。
学校では、どんな小学生でしたか?という質問には「やんちゃでいたずらっ子、先生を困らせて喜んでるような子」との回答。運動はできたが、勉強はイマイチ。ただ、中学に上がり、成績がランキングされるようになると黙っていられなくなった。
「ランキングっていうのに弱いんでしょうね。勉強すれば順位が上がる。これがモチベーションになっちゃって」。案外、単純な性格。ただ、勉強に目覚めたおかげで進学校に進んでいる。
「高校はラグビー部です」。
なんでも、先生にスカウトされたそうだ。楕円のボールを追いかける一方で、校内のイベントではお祭り男として、舞台に登場する。
「仕出し屋さんを手伝っている時に、チームビルディングというか、みんなで何かを作り上げていくって作業にも魅了されていたんでしょうね。イベントってそうじゃないですか。で、付いたあだ名が『健作』です」。 健作?
「あの森田健作さんの、健作です。みんなを鼓舞するというか、元気はつらつ。とにかく、イベントが大好き。学級委員長だし、修学旅行では、先生に混じって部屋割りも決めていました。だから、私のクラスは、いつもいちばんいい部屋だったんです笑」。
段取りが上手い。これは、今もそう。
「今も、フランチャイズクラブを作ってます。細かい段取りとか決めたりするんですが、高校の頃からそういう才覚はあったんでしょうね」。
父親譲りか、祖父譲りか。とにかく、なるべくしてなった、という印象。ところで、健作さんには、吉川くんがいたが、石塚氏にも、○○くんはいたんだろうか。つい、聞き漏らしてしまった。

お祭り男、東京へいく。

「父親からも、東京へ行けと言われていました。『東京を10とするだろ。名古屋は1、大阪は3、だから東京へ行け」って」。早稲田を落ち、一浪して、明治に。
お祭り男にとって、東京は晴れ舞台だ。
「サークルも楽しかったし、六本木のカラオケパブや、銀座の料亭など、今思えば飲食ばかりですが、アルバイトも楽しかったですね。そうそう二十歳の時に、TVの企画でグランプリをいただいています」。
どんなTVだったんですか?
「第一回スーパーマネー大賞という番組で、私は買物配達代行を企画して、グランプリを獲得します」。
旅行にも出かけた。バリ、トルコ、ギリシャ…と、お祭り男は、海外でも人を巻き込んだに違いないと言いたいが、実は、トルコで身包み剥がされている。
「就職は、セコムです。経営者になりたいと父に相談したところセコムを勧められ、営業は必須のスキルだと言われて、セコムで営業をしていました。当事、新卒200名のうち営業はたった2名でした」。
なんとなく想像できたが、結果が凄い。1年目で、同僚の倍の給料を手にしていたという。
「セコムって言っても当時は『?」の時代です。だから営業はたいへんでしたが、マーケットがブルーオシャンだったのも事実です。私は法人営業でしたから、様々な企業に飛び込むのが仕事です。配属されたのは、中央支社と言って、東京の真ん中ですね。そういうところに配属されたもんですから、結果もでやすかったので、ある意味ではラッキーだったのかもしれませんね」。
創業者の飯田亮氏の面談は今でも記憶している。「代表との面談が、人生でいちばん緊張しましたね笑」とのことだ。

外食事業を第二の柱に育てる。

「セコムに4年半お世話になり、お客様だったパチンコ店に転職します。当時の専務から『企業にしたいからサポートしてくれないか』というオファーをいただいて」。
たしかに、その当時のパチンコ店は、個人経営の色合いがつよかったように思う。
「でも、セコムのBtoBとは違って、BtoCでしょ。面白そうだと。何しろ仕出し屋の孫ですからね笑」。
石塚氏のために、新店がオープンする。
「これにはびっくりしました。篠崎に、私のためにと、新店がオープンされたんです」。
会社にすれば、しがらみのないところで、思い切り仕事をさせてみようという狙いだったに違いない。転職でいったん下がった給料もやがて1000万円をオーバーするようになる。
「まぁ、当時はいろんな意味で、むちゃくちゃというか。とにかく、クレームは多かったですね。お金がかかっているからそりゃそうなんですが笑。ただ、私は、ホテルのカジノにも憧れていましたし、ゲームセンターの熱気も大好きだったので、ある部分では水が合ったんでしょうね。そんな私がクレーム以上に困ったのは、定着率です。せっかく1人採用できたと思っても、1人辞めていく。自転車操業です笑」。
どうされたんですか?
「どうしようもなかったのが事実ですね。ただ、あるスタッフが辞めると言いだした時、さすがにまずいと話を聞きます。すると『外食をしたいんだ』というんです。同じサービス業でも、外食とパチンコでは、まるでちがうところがあったんです。パチンコでは、はたらく喜びが少なかったんです」。
ただ、パチンコ店には、資金はある。
「だから、その時、じゃぁ一緒に外食をしようよ、と。もっともノウハウがありませんから、フランチャイズだと思って。それでスタートしたのが牛角です」。
当時の牛角は、ハンパないブランドだった。17時にオープンすれば、客が傾れ込む。毎日が盛大な宴。「事業計画で1200万円だったのが、蓋を開ければ2000万円オーバーだった」と笑う。
BSE問題などピンチに立たされたこともあったが、外食事業部長となった石塚氏は、自社ブランドを合わせ、20店鋪まで事業を拡大する。パチンコ事業と違った、もう一つの柱ができ上がる。
組織も、企業然とした体制になっている。外部の石塚氏が、専務となったのが、その証かもしれない。
「したいことをさせていただきましたし、独立なんて思ってもいなかったんですが」。
てっきり独立はつねに頭にあったと思っていたから、そう言われて戸惑った。

・・・続き

株式会社リックプレイス 代表取締役 石塚信司氏

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2023年5月15日月曜日

株式会社G-vision 代表 伊藤穣二氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社G-vision 代表 伊藤穣二氏登場。

本文より~

少年の野望。

今なら大問題だろう。本人もそう言っている。
「小学3年生の時に先生に怒られ、倒れた拍子に骨を折ってしまいます」。犯人の名は今でも記憶しているようだったが、ここでは伏せておく。
「そのことがあって小学5年生から越境で、日本橋の学校に転校しているから余計に忘れられないんだと思います」。
十分な謝罪もなかったというから、ひどい話だ。
父親は貿易関係の会社に勤めていて、1年の4分の1は海外勤務だったそう。「父親が向こうにいるので小さい頃は東南アジアによく行っていました。そのおかげか、私以外のきょうだいは英語をしゃべれるんですが、なぜか私は日本語一択です笑」。
小さい頃から食べることが好きだったというから、東南アジアのエスニックな料理も堪能したことだろう。もちろん、母親の料理も大好きだった。
「食べるのは大好きだったんですが、当時は今みたいじゃなく、痩せていました。剣道をやっていて体を動かしていたからかもしれませんね」。
「勉強はできなかったな」と笑う。「オール2とか」らしい。好きな教科は美術と歴史。特に目立つわけではなく、大人しい子だったそう。
だが、その大人しい少年には、小さな野望があった。
「実は、小学生の頃から焼鳥屋さんになりたいと思っていたんです」。
小学生で焼鳥屋ですか?
「西船橋にある焼鳥屋さんで食べた『つくね』がもうおいしくて笑」。
焼鳥屋になれば、旨いつくねが山ほど食べられる。これが、少年が抱いた野望だった。

バイト代=酒代。

「妹は大学院まで行ってMBAも取っていますから頭は悪くないと思うんですが、私は何しろオール2でしょ。高校は通信制で9月に入学しています。先輩から『高校は出ておけ』と諭されて。でも、3年で卒業のはずが5年かかっています。バイトばかりしていましたから」。
鶏肉が好きだったから、バイトはケンタッキー。カーネル・サンダースさんが聞いたらきっと大喜びされるはずだ。
「3年つづけました。ほかにもそうですね。道路にラインをひく、あの仕事もしていました」。
「バイト代は、すべて飲み代に消えた」と笑う。
飲むのも好きで、食べるのも大好き。メニューでいちばんは鶏料理。
「高校を5年かけ卒業して、いったん焼鳥屋さんに就職します」。
既定路線ですね?
「そういえば、そうですね。ただ、社会保険もなかったので、ある会社の食堂に転職します。でも、ぜんぜんつまらなくて、半年で退職してしまいます」。
ところで料理はどこでマスターされたんですか?
「小さい頃の話ですが、うちで料理を作ると、みんなが美味しいと喜んでくれる、それが嬉しくて。だから技術より先に料理の楽しみを知りました。技術的なことでいえば、最初に就職させてもらった焼鳥屋ですね。あそこで教えていただいたことが今のベースになっています」。
その後、前職の会社に入社されたのは、食堂を辞めてからですか?
「そうですね。キャバクラの店長から誘っていただいて笑」。
その会社とは、「飲食の戦士たち」でもご紹介している会社で、創業は2008年でその1年後に法人化している。
「私が入社したのは創業期で、飲食店2店舗目をオープンする時に、店長を任せていただきました」。
メニューの開発も伊藤氏のミッション。
「業者の窓口とかも全部やってたのでめちゃめちゃ勉強になりました」。小さい頃から他人に喜んでもらうのが好きだったから、お客様の笑顔を見たくて頑張ったのかもしれない。だが、人間、頑張りすぎはよくない。

・・・続き
株式会社G-vision 代表 伊藤穣二氏

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2023年5月6日土曜日

2023年5月1日月曜日

株式会社TOKITOU 代表取締役 時任恵司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社TOKITOU 代表取締役 時任恵司氏登場。

本文より~

父の料理と、少年の未来と。

中学1年の夏に就職先を決めたと聞いて耳を疑った。中学1年といえば、まだおさない少年だ。将来を決めるには、さすがに早すぎる。戸惑っていると、「まちがいなく、中学1年の夏休みです」と笑う。
今回ご登場いただいたのは、日本の伝統料理の一つである鰻とフレンチを融合させた稀代の料理人、「うなぎ時任」のオーナーシェフ、時任恵司氏。
「兄弟が4人いて、私は3男。男ばかりですから、兄弟喧嘩もしょっちゅう。とにく、次男と私は11ヵ月しか離れていないこともあって、毎回、やるか、やられるかの壮絶なたたかいでした笑」。
小学1年生の時には、とつぜん、住む家がなくなったそう。昭和20年代生まれの人の話ではない。時任氏は1984年生まれ。経済がバブルに向かってまっすぐに進んでいた頃。だから奇異な話に映るかもしれないが、ほんとうらしい。1ヵ月ちかく、家族みんなで民宿生活を送っていたという。むろん、優雅とはほどとおい。
スポーツはなにかされていましたか?
「柔道です。あれがいちばん、お金がかからない笑」。
お金はなかったが運はいいと時任氏はいう。生まれてすぐ大病をわずらったが、奇跡的に助かっている。
「勉強は、ぜんぜん、できませんでした。ともだちにも、勉強ができない奴というレッテルを貼られていた気がします。次男と11ヵ月ちがいなので、同学年なんですが、彼は私とちがって勉強ができたんです。だから、譲ったんです」。
何を、ですか?
「進学です(笑)。2人いっしょに進学するお金はさすがになかった。私は勉強がいやだったし、進学する意味もわからなかったから、高校はいかなくていいと」。
本心だったんだろうか?
「もちろん、本心です。とにかくあの頃は、勉強するのがいやで、いやで(笑)」。
今では、経営に関する難しい本も読む。「あの頃は、勉強する意味もわかなかったっていうのが正直なところです。勉強と仕事を天秤にかければ、そりゃ、傾くのは仕事へ、でしょ。だって、勉強から解放されて、お金が儲かるわけだから」。
たしかに、たしかに。ところで、どうして、飲食だったんですか?
「小さな頃、父親が卵焼きをつくる様子をみて、かっこいいな、と、そういう原体験があったので、就職するなら飲食だと。鰻は、もちろん想像外のジャンルでしたが」。

鰻重に心を奪われた少年の選択。

中学を卒業した時任氏は、創業から200年以上つづく鰻の名店に就職する。「麻布 野田岩」。政治家をはじめ、著名人のなかにも贔屓客は少なくない。
名店に就職できたのは強運の証だが、そのぶん、仕事は生ぬるくない。
「きつかったですね。同期はつぎつぎ辞めていきました。でも、私は絶対、逃げ出さないと決めていました。ここで、投げ出したら終わりというか。仕事はたいへんでしたが、たぶん、逃げ出すことのほうが怖かったです」。
15年、その道はつづく。
「東京に来て初めて暖簾を潜ったのが『野田岩』さんでした。ちょうど昼ちかくだったこともあって、面接が終わると『たべてけ』と鰻重をだしてくださったんです」。
時任氏は中学1年の夏を思い出して目を細める。
「料理を食べて感動するってあるんですね。もう、『旨い』が、波のように押し寄せて」。
箸がとまらない?
「そう。ただ、あの時は、『すげぇ、旨い、旨い』だけで。あとになって思うと和食や洋食ってコースじゃないですか。全体のバランスでしょ。前菜があって…。でも、鰻は『鰻重、ハイ、どん!』(笑)」。
「むちゃくちゃシンプル。言い訳が効かない。やり直しもない。旨いか、どうか。イチかゼロ。もうちょっと言えば、それ一杯で、感動させられるか、どうか」。
潔さに惚れた?
「そうですね。そのあと、面接いただいたお店は申し訳ないことに記憶にないんです。ボーとしていて」。
鰻重が頭から離れない?
「心を打たれた初めてのお料理が『野田岩』の鰻重でした」。
なんとも贅沢な話ではある。むろん、帰路につく頃には、もう、心は決まっていた。これが、『野田岩』との出会い。やるか、やらないか、ある意味、壮絶な人生の始まり。兄弟げんかの比では、もちろんない。

うなぎ職人の朝は、早い。

オーナーは朝4時半に出勤する。だれもいない店で、仕込みを開始する。それが日課だった。神聖な、その時間を奪ったのが時任氏だった。
「先輩らは、だいたい7時に出勤します。でも、私はオーナーが出勤される前の3時に出勤しました」。
早朝。まだ、薄暗い。冬は、室内まで凍てつている。独りの神聖な時間に踏み込んできた少年を、オーナーは拒否しなかった。
15歳にして、オーナーすらライバルだと言い切る、切れ味の鋭いナイフのような少年に、オーナーは何をみて、横に立つことを許したのだろうか。
鰻をさばくスピードが先輩たちを追い抜き、いちばんになるまで、そうかからなかった。
「先輩らが来るまで2時間以上、オーナーを独占しています。四六時中、鰻が頭から離れません。1日、1000~1500を焼き上げるわけですから、さばく仕事をしている私らにスピードがないと、つぎの工程がうまく進みません。だから、評価もいただきました」。
オーナーも、少年に目をかけていたのは、間違いない。25歳で、料理長も任されている。ただし、朝3時からスタートして、夜11時まで。帰宅して、風呂に入って、文字通り、バタンキュー。フリータイムもない。できる人も、それを望む人もたぶんいないが、時任氏には、それが、ルーティンになる。15年、そのルーティンは破られたことがなかった。
「だんだんと、みんながあいつはそういう奴という目で私をみるわけです。そうなると『やめた』とは言いにくくって(笑)」。
ふつうなら高校に進み、そして、大学に進学。大学でふざけ、笑い…、就職時には、御社は…とやる。だが、時任氏は、毎日、毎日、ひたすら鰻に向かった。
ちなみに、皮がぬるぬるして滑りやすく、小骨が多い鰻は、技術を習得するのが難しいといわれている料理の一つ。繊細な料理でもある。
その料理をマスターする。成人式に現れたのは、もう立派なうなぎ職人だったにちがいない。スポーツなら金賞、間違いなし。
ただ、少年は、うなぎ職人だけをゴールにしていたわけではなかった。

起業へ。だが、道は険し。

「野田岩では、オーナーに師事できたのはもちろんですが、野田岩ではたらいているというだけで、著名な方々とお話ができたのもラッキーでした」。
深夜、時任氏はある資産家に進められた通り、港区の高級バーに顔をだす。「『新橋でともだちと安いビールを飲むんじゃなくって、港区で1杯1000円のビールを飲みなさい』とアドバイスされたんです」。チャージ代を含めれば合計2000円。薄給の時任氏には、痛い出費。だが、常連になる。「常連といっても、一杯だけ。それで長時間いるわけですから、迷惑な客です(笑)」。
時任氏の人柄もあったのだろう。若さもあったのかもしれない。野田岩の効力かもしれない。「みなさん、さすがに、ご存じなんですよね。野田岩で、というだけで興味をもっていただいて。私もまだ20代でしたらか、ギャップもあったんでしょうね。感心され、がんばりなよって」。
人脈が広がる。じつは、起業の背中を押してくれたのも、バーで知り合った恩人の1人。名前を聞くと、だれもが知っている有名な経営者だった。
「野田岩を卒業しようと思い始めたのは、27歳の頃から。昔のようには感動できなくなったことも理由の一つです。もちろん、30歳で独立と決めていましたから、それが、いちばんの理由なんですが。兎にも角にも、支援もいただき銀座でスタートします。ところが、これが、ぜんぜんだめだったんです」。
それはないだろうと、質問を重ねたが、事実。つまり、「うなぎ時任」にも、閑古鳥が鳴いていた時代があったのだ。
「価格なども含め、銀座にはマッチしなかったんでしょうね。コンセプトもできあがっていなかった。そういう意味でビジネスは難しいです」。
16歳から30歳までの、修業のすべてをぶつけたが、客の心をわしづかみにはできなかった。「最初の3ヵ月はまぁ、いいかなという感じだったんですが、4ヵ月目から、がくっと落ちちゃって」。
野田岩では、客がいない日はなかった。初めての経験。
「当時はたしかに凹みましたが、私にとっては、それまでとは違った意味で重要なイベントだった気がします。おかげで今までを、ゼロリセットできたわけですから」。
挫折?
「そういうのは、あったかもしれないですが。鰻は私の軸だし、もう一度、チャレンジする志も揺るがなかった。ただ、もう一度、ゼロからいろいろみてみようとは思いました。だから、2年間くらい、あっちこっちで仕事をさせていただいたんです」。
どこに行っても、3日くらいで料理長になれると言われたそうだ。時任氏がいうように、この2年間の意味は大きい。時任氏の守備範囲の広さや深さは、この2年間があったおかげだろう。
ところで、「うなぎ時任」の代名詞である、フランス料理との融合は、どこから始まったのだろう。「野田岩には、支店がいくつかあるんですが、じつはパリにも支店があって、そちらで料理長を務めた経験があるんです。みなさん、鰻って言ったら、日本だけのお料理って思っていませんか? じつは、ヨーロッパでも、ちゃんと鰻の料理はあるんですよ」。
調べてみると、たしかに、フランスだけではなく、ベルギーでも、デンマークでも、イギリスでも、それ以外でも、鰻料理があった。
料理の方法は異なったが、世界は、ちゃんと旨いものを知っている。ともかく、2年の雌伏の時を経て、再チャレンジがスタートした。

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株式会社TOKITOU 代表取締役 時任恵司氏

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株式会社総合近江牛商社 代表取締役 西野立寛氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社総合近江牛商社 代表取締役 西野立寛氏登場。


本文より~

注目の成長企業「総合近江牛商社」。創業者は鹿児島県出身の西野立寛氏。

「総合近江牛商社」は「近江牛を世界へ」という理念を掲げ、幅広い事業も展開している。コアとなるのが、飲食事業。ブランド名は「近江焼肉ホルモンすだく」。
2019年の創業以来、コロナ禍に関わらず異例のスピードで出店をつづけ、2023年1月現在で早くも40店舗ちかい店舗を出店しているから驚きだ。
代表は鹿児島県出身の西野立寛氏。1991年、生まれの若き経営者。
昔から勉学に秀でていた西野氏だが、「ラ・サール学園はしっかり落ちました」と笑ってみせる。もっとも父親の転勤で、京都に移ったあとは、京都でナンバー1の「洛南高校」に編入しているのは、さすがの一言。 「子どもの頃は、運動も勉強もできるほうでしたし、頭は悪くないと思っていましたが、洛南には天才がたくさんいて」。
特別な存在じゃなくなった?
「そうですね。奴らといっしょにいると、たいていの人がそうなるんじゃないかな笑」。
好奇心旺盛な性格で、中学まではパイロットをめざしていた。
「目が悪くなって断念しなければいけなくなって、そのあとは、父親が京セラのエンジニアだったからではありませんが、エリートサラリーマンに憧れました。稲盛和夫さんの影響も受けていたように思います」。
中学では吹奏楽部。
「かわいい子がいたから」と、かわいいことを言う。

5年間の大学時代と、世界一周の旅と。

「第一志望は京都大学でしたが、ラ・サールの時と同様で、立命館大学に進みます。実は、就職は船井総研なんですが、こちらも第二志望。第一は外資のデロイトトーマツでした」。
第一希望も、第二希望も、こちらからすれば、いずれもエリートの道に変わりがない。
「デロイトが第一希望だったのは、外資を経験してみたかったからです。ただ、最終的には船井総研でよかったと思っています。とても、いい勉強をさせていただきました」。
船井総研には、何年いらっしゃったんですか?
「合計3年です。その時、担当していたのが外食で、それが今につながっています。外食を担当したのは、サービス業に関心があったから。実は学生時代、結婚式場でアルバイトをしていて」。
西野氏は学生生活を5年送っている。その間アルバイトは、基本結婚式場。感動に包まれる仕事だったらしい。ただし、卒業まで5年かかったのは「アルバイトにハマったから」ではない。3年時に1年間、世界を一周していたからだ。
韓国からのスタートだったらしい。世界は広い。この旅もまた西野氏の、今の心の骨格をつくっている。

人口16万人の苫小牧で、年間60万人が来店する金剛園。

「かなりのハードワークだった」と、船井総研時代を笑って、そう表現する。「もちろん、それが今の私の力になっているわけですから感謝ですが、今じゃ完全にアウトです笑」。
それだけ、濃い時間を過ごされたんですね?
「行動半径も広かったです。私は、大阪で勤務していたんですが、関西だけじゃなく、北海道から沖縄まで担当していました」。
北海道まで?
「そうです。でもそれがきっかけで、ある会社と出会います」。
どんな会社ですか?
「『金剛園』という焼肉店です。『金剛園』は1985年創業の、苫小牧本店の焼肉店。人口16万人の苫小牧で、年間のべ50万人が来店するんですからモンスターです。専務の須藤さんと仕事を通して知り合い、親睦を深めさせていただきました」。
むろん、コンサルタントとしてサポートするのが、西野氏の仕事。
「依頼はWEBマーケティングのサポートだったんですが、逆に私が勉強させていただきました。今、うちがあるのは、須藤専務のおかげ。実は今も、須藤専務には勉強させていただいています」。
マーケティングや、ファイナンスは西野氏の得意分野。むろん、コンサルタント業にも面白みは十分に感じでいたが、リアルな経営者の姿にはかなわなかったのかもしれない。
西野氏は、経営者として新たな道を進むことになる。

リアルすぎる、屠畜の世界。

「銀行に事業計画書を出したら、通った」と、西野氏。ファイナンスは得意分野。コンサルタントが作成した事業計画書に対して、銀行は2000万円を融資する。
「船井総研を2018年12月末に退職します。牛を極めたくて、実はそれ以前から、アルバイトですが『滋賀食肉センター』で近江牛の屠畜に従事しました」と西野氏。
流通のしくみも含め、研究にも没頭。
コンサルタントは口先だけではない。なにをすべきか。その意味も含め、深く知り尽くしている。一方、どれだけの独立希望者が、このプロセスを踏むことができるだろうかと思ってしまった。
結局、誰でもない、西野という人間がやるしかなかったというのも、独立のきっかけかもしれない。
さて、実践派のコンサルタントがつくった飲食店は、どうなっていくんだろう?
門馬西野氏は「最初から仕入れをするのが目的ではなかった」と言っている。「屠畜に従事したことで、流通から、解体、廃棄も含めて、今まで知らなかった世界をみた」とのこと。その結果、組合員と認められ「直接、仕入れる権利を獲得できた」という。これは、ほかの焼肉店にはない、強烈なストロングポイントだ。
ちなみに今現在、社員にも屠畜を経験させているらしい。命の尊さを知ることもまた、経験すべきことの一つ。
さて、西野氏の戦いは、今からが本番。屠場で経験を積みつつ、2019年1月、創業店を滋賀県の守山に出店する。
「銀行からの融資のうち1000万円程度をかけて、守山に『近江焼肉ホルモンすだく』をオープンします。食いっぱぐれのないように、まずは、土地勘もある守山でスタートします」。
19坪、28席、損益分岐点は250万円。
「ファミリーで来店いただいて1万円でお釣りがくる、というイメージです」。
いかがでしたか?
「今までとは違ってリアルな世界です。オペレーションがぜんぜんだめで最初はクレームの嵐。それでも安価な価格帯でカバーできたんだと思います。オープンから、お客様がたくさんいらして。それがまたクレームを生むわけです笑」。
後に奥様になられる、当時の彼女と、お母さま、弟さん、まさにファミリー経営。オペレーションに関しては素人だったが、お客様は容赦がなく来店を重ねる。旨くて、安いと口コミもとまらない。
結果、損益分岐点を軽々オーバーする月商700万円。
「勢いにのって、4月に近くの栗東に2号店をオープンします。駅前のロードサイド。でも、守山と同じわけにはいきませんでした。初月が100万円。全くの赤字です」。
やばい。これはリアルな世界の話。
「もちろん、最初はどうするか、となりましたが、半年後には創業店と同等までアップしましたので、ホッとひといきです」。
改めて「すだく」と、西野氏の力を示すことになった。

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株式会社総合近江牛商社 代表取締役 西野立寛氏

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株式会社アールベイカー 代表取締役社長 廣谷光彦氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社アールベイカー 代表取締役社長 廣谷光彦氏登場。

本文より~

剣道と。

福知山市に引っ越したのは、小学校に入る前。
「大阪の藤井寺出身です。4歳の時に福知山に来て、それから高校までこちらで暮らします」。
兄弟は2人。廣谷氏は次男。長男とは性格がちがうらしい。「兄はおっとりですが、私はせっかち。性格がちがったからではないですが、兄は野球で、私は剣道です」。
剣道は小学校からはじめたそうで、中学時には40数年ぶりに学校に優勝旗を持ち帰っている。
「高校は福知山高校に進みます。剣道は続けますが、中学の時と比べれば練習量も減って、いい成績は残せなかったですね」。
剣道も好きだが、プロセスも好き。格闘技好きというのが少年、廣谷氏の正体。
スポーツもできたが、頭も悪くない。進学校の福知山高校を選択したのは、そのためだろう。
「剣道だけでいえば、 福知山成美高校というのがあって、そちらは京都府でもトップクラス。中学時代の剣道仲間はそちらに進みましたし、私も勧誘されたんですが、学業を取って福知山高校に進みました」。
福知山成美に進んでいたら、どうなっていたでしょう?
「そうですね。剣道で福知山成美に進むと、国士館や日大に進学していたんじゃないでしょうか。ただ、私にはそういった思いもなかったですね。当時は、漠然とですが、ADになりたいと思っていました。芸能界に憧れていたんでしょうね」。

アトピーと、未来と。

「大学は、四天王寺大学に進みました。福知山から離れ、独り暮らしを開始しました。大学は、私の出身である藤井寺のちかくにありました」。
「親元から離れたことで困ったのは食生活です。カップラーメンとか、食べちゃいますよね。もともとアトピーはあったんですが、いいかげんな食生活がたたったのか、大学2年くらいの時にひどくなって。原因は、一言、食生活の乱れです」。
たまたまだったそうだが、廣谷氏が3年生の時に父親が転勤で、大学の近くに来ることになり、そこで一緒に生活を始める。
「親といっしょに暮らすようになって、野菜をちゃんと食べるようになります。すると、アトピーがうそのように治ります。この実体験があったから、このあと栄養士をめざすようになるんです」。
つまり、アトピーの改善で、未来が決まっていったんですね?
「そうです。ただし、大学での専攻は社会学部で、栄養士とは無縁でした。なので、大学を卒業したあと、栄養士の専門学校に通い始めます」。
学生時代のアルバイトは?
「流通系のクレジットカードの案内のバイトです。時給が当時で1200円。専門学校の学費も、こちらのバイトでためたし、ヤマハの400CCのバイクも購入しました」。
晴れた日には400CCのバイクを駆ってツーリングを楽しんだそう。山道を通り抜ければ、和歌山まですぐ。和歌山にでれば、海岸線も近づいてくる。
「大学時代を一口にいうと、バイトと、あそび」。もちろん、アトピーと食事も、廣谷氏の大学時代のキーワード。

栄養士、船に乗る。

専門学校に進んだ廣谷氏は、熱心な生徒になる。「先生に、やるね、すごいね、と言われて、その気にさせられていたんでしょうね」。
講師がすごいといったのは、調理実習。
天性のものがあったんだろう。
「かなりいい評価をいただいたもんですから、この頃から将来独立もいいかな、と。とはいえ、就職先は、営利団体に興味なく、保育園などを志望していました。独立とは真逆で、ほのぼのとした生活をしたいと。おっとり系だった兄の色がでてきたのかもしれませんね笑」。
ただ、うまくいかない。
「保育園は、やはり女性が有利。それで、不合格が続きました。学校に相談し、それならと、給食会社を勧められます」。
いかがでしたか?
「こちらは、一発合格でした」。
廣谷氏が就職したのは、川崎重工業の子会社の川崎食品。
「川崎食品は、社食やお弁当をつくっていて、そこで栄養士として入社します。ただ、1年でグリーンハウスという会社に買収されてしまって、入社した翌年4月には上司が入れ替わります。関西弁が共通言語だったのに、その4月からは、標準語です笑」。
川崎食品からは残るかどうかの選択を迫られたらしいが、廣谷氏はグリーンハウスに籍を移し会社に残っている。
ちなみに、川崎食品時代は船員の食事づくりのため、船にも乗ったそう。「播磨灘を往復したり、1回乗船すると、3~4日は船上の生活だった」という。
「船に乗ると手当がつくもんですから、新人なのに手取りで30万円あって、さすがに大手はちがうなと」。
「もちろん、グリーンハウスも悪い会社じゃありません。でも、これはどこの会社でもおなじだと思うんですが、なんだか先がみえなくなって。脱サラしてパン屋をしようと思い立ちます。これが26歳の時です」。 昔からいったんこうだと決めれば、行動ははやい。
「最初は、個人のパン屋さんで2年間、修業をさせてもらって。そのあと、中小企業のパン屋さんで4年ほど勤務します。前者の2年間は体がもたないと思いましたし、後者の4年間は、どうかな、とにかく役職をめざして。それでチーフになったんで、もういいかなと。その会社もそうですが、もうパン屋はいいかな、と」。
独立も封印ですか?
「結果、そうなりました。栄養士の頃を思い出して、商品開発の道へ進もうと思ったんです。その時、たまたま大阪王将のホームページをみて、王将の商品開発募集と書いてあって、それでイートアンドに応募したんです」。
すでに、32歳。
新たな決断は、どんな道につながっていくんだろうか。

・・・続き

株式会社アールベイカー 代表取締役社長 廣谷光彦氏

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