2016年3月30日水曜日

祝・祝 うちの営業のツートップが相次いで結婚・披露宴挙げました。

祝・祝 うちの営業のツートップが相次いで結婚・披露宴挙げました。


2月20日にはHR事業部第1営業部(求人広告部門)部長の石毛が結婚披露宴を・・・。



3月19日にはHR事業部第2営業部(人材紹介部門)部長の江川が結婚披露宴を・・・。


本当にうれしいです。
めでたい!めでたい!

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2016年3月29日火曜日

株式会社小肥羊ジャパン 代表取締役 青山 浩氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社小肥羊ジャパン 代表取締役 青山 浩氏登場。
本文より~

火鍋、そのルーツ。

小肥羊。「しゃおふぇいやん」と発音するそうだ。「小肥羊は1999年、中国・内モンゴル自治区の包頭(パオトウ)市で誕生した火鍋専門店です。1号店がオープンするやいなや行列ができる人気店となり、2003年までの4年間でフランチャイズを含め、中国全土に約700店舗を開店するに至ります。私が小肥羊に出合ったのは2005年で、日本に第1号店をオープンしたのは、2006年9月です」。
日本でもすっかり馴染になった火鍋。そのルーツは、この「小肥羊」と言えるかもしれない。今回は、株式会社小肥羊ジャパンの代表、青山 浩氏にお話を伺った。

名門、灘中学にて。

青山氏は1973年、大阪市住吉区帝塚山に生まれる。兄弟は、兄と弟。父親は大手百貨店のグループ会社で勤務されていたそうだ。
「好奇心旺盛な子ども」。少年時代を一言でいうとそうなるらしい。勉強が良くでき、名門、灘中学に進学している。
小学校では塾でも、学校でも群を抜いていたはずだが、「灘中に入ると、勉強ができる奴ばかりで」と青山氏。
成績は上から数え3分の2くらいを行ったり来たりしていた。天才がふつうの生徒になる。しかし、その順位に甘んじる青山氏ではない。中学3年になって、一念発起すると、成績はみるみる上昇し、最終的には上位10位に食い込んだそうだ。
「中学3年の時には、めざすものがあったんです。野口英世さんです。彼に憧れ、京大に入り、医師になるつもりでした。しかし、彼もけっして英雄だったわけではないことを知って幻滅してしまうんです」。
「幻滅」。多感な少年にとって、重い二文字である。少年の心は、いたく傷ついたに違いない。しかし、青山氏は、すぐに方向転換した。

野口英世、改め官僚。

「医師を辞め、次にめざしたのは官僚です」。
「東大」「官僚」。野口英世の話にしてもそうだが、一般の私たちからすればホラにも吹けない話がバンバンとびだし、腰が引ける。
とにかく、話を進めよう。
青山は、エスカレーター式で灘高校に進学する。むろん、めざすは東大。しかし、勉強ばかりの青二才ではない。
甲子園球場でビールを売り歩くバイトもした。
挫折も経験している。
「バイトも含め、さまざまなことに手を出していたもんですから、結局1浪してしまいます」。
青山氏が赤門をくぐったのは、高校卒業の翌年。法学部に入学している。住まいは池ノ上に借りた。月5万円のアパート。初めての独り暮らしでもあった。

官僚、断念? 富士銀行(現みずほ銀行)就職。

「思ったより、国家一種の試験のカベは高かったですね」と青山氏。当時は猛烈な買い手市場。そのなかでも、大手都市銀行に就職しているからすごい。
「結局、富士銀行に入行しました。勤務したのは約3年です。その後、友人に誘われてインターネットのベンチャー企業を設立しました」。
2000年、ITバブルに向け、ネット関連の企業が次々、設立された時だ。うまくいった会社はそう多くない。青山氏がつくった会社も、その一つだったようだ。
「なかなかうまくいきませんでした。結局、1年くらいで撤退。転職活動、開始です(笑)」。

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来期はリーダー育成し、今までより強い組織に!

この数年、営業リーダー不在というか特に弱体化してたんでついつい動いてしまうが、
ここは任せた以上は、今の若手リーダーたちに全てやらせてみようか。
真のリーダーになってもらうには、自ら考え、自ら行動してもらわないと…!
営業は本当に力付けてくれている。
やはり人で組織は変わります。
わかっちゃいるが、痛感してます!
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2016年3月22日火曜日

株式会社KATSU NUMBERS 代表取締役社長 宇敷勝巳氏登場。

本文より~

フレアバーテンダー、世界チャンピオン。

今回、初めてフレアバーテンダーという職業を知ったので、調べてみた。酒やジュースを注ぐ【ポア】。酒やジュースを溢れさせる【スピア】。ボトルやシェーカーなどをつかんで受け止める【キャッチ】。回転をかけて放る【フリップ】…、いろんな技の名称がでてきた。
今回、登場いただいた宇敷勝巳氏は、2010年、カナダ、バンクーバーの世界大会で、フレアバーテンダーの世界チャンピオンとなった人である。HPによれば、日本・アジア・世界、すべてのタイトルを制覇。フレアバーテンディングで5本ジャグリングの世界記録を樹立し、2015年現在も、その記録は破られていないという。
フレアバーテンダーでは初の東京都公認パフォーマンス資格を獲得。世界最高峰のサーカス団「シルク・ドゥ・ソレイユ」のオーディションに合格し、登録パフォーマーとして在籍とも書かれていた。
では、その世界的なパフォーマーになるまでの道のりを追いかけてみよう。

野球推薦で、進学するも、中退。

宇敷氏が生まれたのは、1982年。出身は群馬県。父親は、鉄骨溶接の仕事をされていたそうだ。両親は、宇敷氏が小学6年生の時に別居。18歳で、離婚。宇敷氏は3つ離れた兄とともに母に引き取られた。
「母は別居してから、旅館の掃除、ドライバー、配膳、内職と朝昼問わず働いていましたが、けっして弱音は吐かず、私たち兄弟を育ててくれました。にもかかわらず私たち兄弟は、兄弟そろってやんちゃな道に進みます。とはいえ、兄は中学を卒業して、寿司屋で住み込み、仕送りをしてくれました。私も、兄同様、高校に行かず働こうと思っていたのですが、教師の勧めもあって野球推薦で高校に進学しました」。
野球は小学校の時から始めている。小学生の時はキャッチャー、中学ではサード、センターを守っていた。野球推薦をもらうくらいだから、運動神経に恵まれていたのだろう。
「しかし、結局は退学します。理由は、バスの定期代で6万円以上かかったことと、当時つるんでいたグループが不祥事を起こして、連帯責任を取らされ停学をくらったからでした。そのあとは、2年間ほど住み込みで大工の見習いをしました」。

西新宿のバーでみつけた未来の種。

宇敷氏が上京したのは、18歳の時。最初は渋谷に住むつもりだったが、大家に断られ、大宮で暮らすことになる。
「テレフォンアポイントをして生計を立てていました。バーテンダーの世界を知ったのはこの時で、西新宿のバーに知り合いに連れて行ってもらったのが、はじまりです」。
人には、多かれ少なかれ歴史が動くターニングポイントがある。この時の宇敷氏がまさにそうだった。
バーテンダーの仕事に心惹かれた宇敷氏は、その場で「雇ってください」と頼み込んだそうだ。HPのプロフィール欄にある、新宿サントリー/クラシックジガーバーが、その時のバーである。
「そのバーで勤務している時に、もう一つのターニングポイントが訪れるんです」。
ある日、1人の客に、フレアバーテンダーの映画を渡された。トム・クルーズ主演の映画「カクテル」である。この映画を観て、フレアバーテンダーに興味を持った。
独学が始まる。

国内大会、優勝。

「フレアバーテンダーに興味を持った私は、とにかく道具だと、横浜の協会で教えてもらった店に行き、購入しました。それからは、独学です」。
何度も映画を観て、練習した。師匠がいるわけではないから、どれだけのレベルかわからない。
「私のレベルがわかったのは、ある大会に出場した時です。ルーキー戦があって、2位になりました。それから、日本チャンピオンシップに出場し、優勝もしました。それが20歳の時です」。
当時、フレアバーテンダーの人口が日本にどれだけいたのかはわからない。ただし、大会は大掛かりで、出場した選手は少なくなかった。そのなかで宇敷氏は優勝したばかりか、最年少記録も更新した。
その後、宇敷氏は、世界に目を向け始める。
行くなら、本場カナダだ。
宇敷氏は、1人、カナダに向かった。

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2016年3月15日火曜日

オーストラリア・シドニーの鱒屋インターナショナルの定松社長と・・。

もうオーストラリア・シドニーの鱒屋インターナショナルの定松社長とお付き合いさせて頂き14~15年経ちます。
この3月にもご来社され、各有名なお店&社長様とご縁作らせていただきました。

秋田牛鉄板焼「銀座 五明」にて。


純米専門八咫(やた)にて。

 「神楽坂くろす」にて。
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株式会社ティクリエ 代表取締役 仲道敏夫氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ティクリエ 代表取締役 仲道敏夫氏登場。
本文より~

海が、料理の原点。

仲道氏が生まれたのは、1975年。出身は、静岡県浜松市である。兄弟は2人。お兄様は今、地元で塾を経営されているそうだ。
ところで、浜松市といえば浜名湖と天竜川に挟まれ、目の前には遠州灘が広がっている。仲道氏の自宅も海に近く、自転車で行ける距離だったそうだ。
「だから、自転車を漕いでしょっちゅう海に行っていました」と仲道氏。仲道氏の料理の原点も、実は、この海。
「小学生の頃から父といっしょに釣りに行っては、魚をさばきました。そういうのが楽しくて、いつか料理人になろうと決意したんです」。
海で、遊んでいたからだろうか。水泳も得意で、いつしか県でいちばん快速のスイマーになっていた。種目は平泳ぎ。
スポーツも万能だったが、勉強もできた。進学した高校は、地元ではいちばんの進学校である「浜松北高校」である。

フランス料理をめざして。

「大学には行かず、料理の専門学校に進もうと思っていたんです。でも、両親からすれば、『できれば大学』ですよね。それで、迷った末に大学を選択します。東京の武蔵大学です」。
料理の専門学校はあきらめたが、TVの料理番組を観てフランス料理に興味を持っていた仲道氏は、いつか役立つだろうと仏文科を選択する。
バイトも、むろん飲食で。初バイトはラーメン店だったが、フランス料理店でも、勤務するようになる。そのフランス料理店でアルバイトをしている時に、幸運が訪れた。
「店のオーナーが、フレンチの老舗『シェ・イノ』のシェフと知り合いだったんですね。それで、『シェ・イノ』を紹介してくださったんです」。
おかげで、学生だったが2年間、『シェ・イノ』で修業することができた。
「シェ・イノ」といえば、客単価5万円~10万円もする高級店であり、仲道氏が、本格的に飲食業界に入るきっかけともなった店である。

大学卒業、すぐさまフレンチレストランに就職。

小学生で、料理に関心を持ち、中学生の頃には料理人になる、と公言していた仲道氏は、迷いもなくその道を進み、大学を卒業して「ビストロボン・ファム」に入社する。こちらも有名なフレンチレストランである。
「『ビストロボン・ファム』では、約2年、お世話になりました。その後、表参道のレストラン『アン・カフェ』へ。こちらでも約2年間、勤務しました。学生時代にバイトをしていた『ビストロのみの市』に戻ったのは、この後で、シェフを任され、4年勤務します」。合計、8年。これが、仲道氏の修業期間である。
料理だけではなく、「ビストロのみの市」では、マネジメントも任され、経営のノウハウまで修得することができた。そろそろ、独立と考えた。
「『シェ・イノ』も『ビストロボン・ファム』も、そうでしたが、『アン・カフェ』はもう少しカジュアルなフレンチです。『ビストロのみの市』もそうで、私は、カジュアルなレストランをつくろうと思っていました」。
そして、2005年、「ビストロ・ヴァンテオ」を渋谷にオープンする。

「ビストロ・ヴァンテオ」オープン。

「『ビストロのみの市』で、私についてくださっていたお客様もいたもんですから、おなじ目白で出店するのは失礼と思い、渋谷に出店することに決めました。でも、渋谷の駅の近くでは、相手にしてもらえません。それで駅から少し離れた宇田川町に1号店をオープンしました」。
価格は2人で1万円くらいに設定した。フレンチを気軽に楽しんでいただこうという思いで設定した価格である。フレンチの老舗「シェ・イノ」と比較すれば、およそ10分の1程度となる。現在、5店舗を経営する仲道氏の原点のお店でもある。
2店舗目は、2009年、中目黒にオープンした「2ヴァンテオ」。ショーケースに数種類の牡蠣がならぶ、牡蠣自慢のお店である。
「私は、最初から複数店舗の出店を考えていました。価格帯をリーズナブルに設定し、カジュアルな店づくりにしたのも、その狙いからです。もちろん、フレンチを多くの方に楽しんでもらいたい、という思いが原点です」。
「そういう思いで店をつくってきましたが、店をつくる時には、チェーン店という発想ではなく、その店のウリをハッキリさせようと考えてきました。『2ヴァンテオ』で仕掛けたのは、牡蠣だったんです」。
仲道氏がいう「店のウリ」、それは立地によっても、違うのだろう。つづいて、2011年に3店舗目を、今度は酔っ払いの聖地「新橋」に出す。新橋とフレンチ、ふつう距離がありそうな気がするのだが。
「私自身、新橋とは縁がなかったんです。ある時、お客さんに行こうって言われて、やってきたんですが、『こんなにサラリーマンがいるんだ』って、冗談じゃなく、衝撃を受けました」。
それが出店の引き金になったのだろうか。「新橋をみて、一つ気づいたのは、手頃な価格帯のバルがないってことです。バルなら、この聖地でも勝負できるんじゃないかな、と思ったんです(笑)」。
3店舗目は、フレンチのバル。新橋にパテやシャルキュトリーをメインにしたフレンチが登場する。雑誌社が放っておかなかった。

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2016年3月8日火曜日

3月8日発行の日刊ゲンダイに「TSコーポレーション」の徳山哲大社長の記事が取り上げられました!

京都初!熟成肉専門店「听」(ポンド)を運営されている「TSコーポレーション」の徳山哲大社長の記事が3月8日(火)掲載の日刊ゲンダイに取り上げられました!
徳山哲大社長現在38歳でこの2年で20店舗を、この3年で30店舗・計50店舗出店を計画!!
(「TSコーポレーション」の徳山哲大社長)
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株式会社ネクストグローバル 代表取締役社長 時吉宏昌氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ネクストグローバル 代表取締役社長 時吉宏昌氏登場
本文より~

高校1年、秋までの話。

2歳の時に茨城に引っ越したから、記憶にあるのは、茨城の風景。だから、「茨城出身」と言っている。父は、主に試作品を手がける板金工場を経営されていた。業績は悪くない。特に、バブルの頃は相当に儲かったはずだ。
時吉氏は、子どもの頃からスポーツが得意で、小学校からはじめた剣道では群を抜いていた。高校からもオファーがあったというから、相当な手練れだったのだろう。
「公立高校ですが、推薦をいただきました。無条件ではなく、『形だけでいいから、試験を受けてくれ』ということでした。私は、合格するもんだと思っていますから、ろくに勉強もにせず、受験。フラリと試験会場に入り、適当に答案を埋め、試験終了です(笑)」。
時吉氏の予測は甘かった。おなじ剣道部から数人受験し、絶対案パイだった時吉氏がなぜか落ちた。
「いま思えば態度がちょっとよくなかったんでしょうね。ズボンも心持ち太かったし…」と言って、時吉氏は笑う。
しかし、当時は、真っ暗な思いだったのではないだろうか。剣道の強豪校に入る。進学より、そちらが大事だったと思っていたはずだから。時吉氏も「人生初の挫折」と言っている。
公立の強豪校に袖にされた時吉氏は、私立高校に進学。こちらでも剣道部に入ったが、入部2ヵ月ほどでリタイアしてしまった。
「ぜんぜん相手にならなかったんです。3年生が1年生に簡単にやられてしまう。つまんなくて…」。
目標を失ったというより、スイッチが入らなかったのだろう。
「それから、ふらふらするんですが、いままでスポーツをずっとやってきたでしょ。どこかで、『このままじゃいけない』という思いがあって。それで、ヨット部に入るんです」。
それが、高校1年、秋の頃の話である。

波に乗れない、ヨット部員の話。

レスリングか、ヨットかで迷った。どちらも、強豪だったから。
「レスリング部はごっつい奴ばっかりで、ちょっとこわかったんです。で、消去法で、ヨット部にするか、と思っていたら、偶然、ヨット部の顧問に呼び止められたんです。廊下で」。
それが一つの縁ともなって、ヨット部に入部。当時のヨット部は、国体、インターハイの常連校だったそうである。
「湖でぷかぷか浮いて気持ち良さそうだった」と時吉氏は、ヨット部の様子を語っている。しかし、時吉氏自身は、入部早々、停学処分を食らってしまった。
2週間の停学。停学が解けて、登校した時吉氏の頭は、五厘刈り。再スタートの決意を髪型で示した。たしかに、それから2年ちかく、問題は起こさなかったが、3年になり、ふたたび停学となる。バイクに乗っているのが、学校側にバレてしまったそうだ。
本人は、知らなかったが、この時の職員会議は、紛糾。「退学」という意見も出たそうだ。
「これはあとから聞いた話なんですが、そのとき、うちの顧問が体をはって私を守ってくれたそうなんです。『あいつは大丈夫だ。責任はオレが持つ』というようなことだったんでしょうね。それを聞いて、スイッチが入ったんです」。
それまでヨット部にいても、ただただ湖に浮いているだけ。大会にも特別、興味がなかった。
「しかし、あのときは間違いなくスイッチが入りました。私を救ってくれた先生に対して、このままでは申し訳ない、と」。
体をはって引き留めてくれた教師を、まぬけな教師にするわけにはいかなった。「インターハイはもう終わっていたんですが、国体が残っていた。国体まで3ヵ月。もう、やるしかないでしょ」。
部にいても、波に乗れず、ただいるだけだった部員が、猛練習を開始する。
「退学させるべきだ」と主張した教師たちは唖然としたことだろう。時吉氏の思いを知って、「あいつを国体へ」と、思いがけず仲間たちもちからを合わせサポートしてくれた。
とはいえ、たった3ヵ月。いくら運動神経に恵まれた時吉氏といえども、簡単に出場できるほど甘い世界ではない。
「ところが奇跡が起こったんです。茨城で1位になり、国体に選ばれたんです」。
いまもその時のことは忘れていない。
初めて知った仲間のありがたさも含めて。

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株式会社ネクストグローバル 代表取締役社長 時吉宏昌氏
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株式会社スタイルスグループ 代表取締役 佐々木浩史氏登場。

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本文より~

野球少年が、高校を卒業するまでの話。

今回、ご登場いただいた(株)スタイルスグループの代表取締役、佐々木浩史氏が生まれたのは、1961年。出身地は、宮城県石巻である。「近所でも有名なくらい怖い人だった」という父は、大手製紙会社のサラリーマン。兄弟は、6つ下に弟がいた。
「小学校の頃から野球が好きだったんですが、頑張り過ぎて肩を壊してしまって。だから、中学では水泳などをしていました。音楽に興味を持ち始めたのも、中学生の頃です」。
小学校の頃は、クラスの人気者。中学では、やんちゃな仲間とも付き合った。
「石巻って、漁師の町でしょ。やんちゃな奴が多いんです。中学卒業の時に、そいつらといっしょに水産高校に進もうとしたんです。ですが、うちは父が漁師でもなんでもない。まして、漁師になる気もなかった。それを担任の先生にズバリ指摘されて引き留められました(笑)」。
引き留められて、無事、普通科の高校に進学したというのだが、進んだのは県下でも有名な進学校だった。
高校ではふたたび野球を開始。しかし、途中で辞めてしまう。それが「人生で唯一の悔いだ」という。
「怪我がもとで、辞めることになったんですが、顧問の先生からは裏方でつづけないかと誘ってもらったんです。あの頃は、そういうのが受け入れられなかった。野球が好きなのにね。だから、のちに応援部に入りました。少しでも野球に関わっていたかったからです」。
ちなみに、現在、佐々木氏の、仙台にある店には野球関係者も多く来店する。楽天の関係者はもちろん、大学や高校の野球部監督や顧問もいらっしゃるそうだ。野球が好きという気持ちが通い合うのかもいれない。

ディスコの花形職種、DJ。

怖い親父のもとから逃げ出すように、佐々木氏は仙台の大学に進んだ。しかし、進学したものの、キャンパスライフとは無縁だったそうだ。
「当時、ディスコがブームだったんです。アルバイトで生活費をねん出しなければいけなかったんで、ディスコでDJのバイトをしていました。そう、1年の時からです」。
佐々木氏が大学1年といえば、ちょうど1980年。日本全体がバブルの坂を駆け上がる頃だ。その当時の日本を象徴するものの一つが、ディスコだろう。連日、連夜、若い男女が押し寄せ、黒服というボーイは、女性にチヤホヤされ、DJは、その上をいった。言うならば、花形職種である。
「元々は、ボーイだったんですが、たまたまチャンスがあってDJになることができました。元々、音楽が好きで、当時、昼間は、アーティストのプロモーションのバイトをしていました。そういうのも、評価されたんだと思います」。
佐々木氏によると、当時、札幌、仙台、新宿は、音楽の流行りを先取りするベスト3の街だったそうだ。つまり、仙台で流行れば、勝ち組になれる。昼、夜となく、佐々木氏に注文があつまる。
「あの当時、DJの仕事だけで給料が50万円あった。大学の新卒がまだ14、5万円の時に、です。そりゃ、勘違いします。簡単にいえば、世の中をなめたガキでした」。
なんとなく、想像もつく。
「ディスコではハーレム状態だった」とも語っている。

好きなことをして、生きていく。それが人生の価値だ。

「私は、新卒で就職していないんです。仲間の多くは、大手の会社に就職していきましたが、私は関心がなかった。鎖につながれるのがイヤだったんです。給料をもらうために、したくもない仕事をつづける、そういうのが信じられなかったし、イメージできない。DJのバイトだけで、新卒の初任給の何倍もあったのも無関係ではなかったんだと思いますが、とにかく、好きなことをやって生きていこうと思っていた。また、そうできると、信じていたんです」。
大学卒業後も、昼間は音楽のプロモーション、夜はDJのバイトに明け暮れた。
「当時は、いま大物と言われているアーティストも、まだ駆け出しの時代です。仕事で何度か接した人も多いので、まぁ、あれから、すごくなったけど、そんなに距離が離れているとは思いません。矢沢さんなんかは、当時から別格でしたが(笑)」。
好きなことをして、生きていく。それが、佐々木氏の生き様。
「当時、仲間に『仙台でくすぶっていないで、東京に行こう』って誘われたことがありました。でも、私は、仙台が良かった。『東京に行かないで、オレは仙台でいちばんになる』って言ったんです」。
「仙台でいちばんになる」。これもまた佐々木氏の人生の背骨を貫く目標となる。
まだ、青く、好きに生きることの難しさを知らない時代でもあった。

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2016年3月6日日曜日

3月、爆発しそうな予感。

3月はネタがかなり増えています。

最強の営業組織にするため営業マンの底上げしてますが、本当に昨年までとは全く違います。
皆が力付けてます。
次の段階として営業マンから営業リーダーとしての器、また戦略・戦術の考えられる人材になってもらう様に徐々にやっては見せ、話してはやらせ、外部の方から日々教えてもらっています。
やはり、チームを強くするには人材の資質は大きいです。
人にはそれぞれの持ち味ありますから活かすべきですが、少なくても上に立つ人材の能力が低いと組織の力は大幅に落ちます。
この数年でそれ改めて実感してます。

とにかく勝ちクセ付けさせ、最強の営業組織を早く構築したい。
本当にキイストン採用している20代はもともと営業未経験が多いので、変なプライドや固定概念がないので成長早いです。
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2016年3月1日火曜日

株式会社クリエイティブプレイス 代表取締役社長 中村雄斗氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社クリエイティブプレイス 代表取締役社長 中村雄斗氏登場。
本文より~

3年数ヵ月で、注目企業に成長。

記事作成のためインタビューさせていただいた時点で、店舗数は、10店舗。しかし、設立からまだ3年と数ヵ月と日は浅い。
設立からの軌跡を追いかけてみる。
2012年3月、株式会社クリエイティブプレイス、設立。同年7月に1号店「美食かほりや」新橋店OPEN。翌年8月に「和酒旬菜創魚ととのえ」新橋店がOPENし、2014年には拍車をかけるかのように3月、7月、9月、10月と4店舗をOPEN。2015年にもすでに4店舗のOPENを実現している。
何らかのバックボーンがあるわけではない。豊富な資本も、経験もない。ある一つのことをのぞけば、文字通りゼロからのスタートだった。
結果だけをみれば、「風雲児」。そう言えなくもない。
まだ、28歳。可能性も、でかい。今回は、そんな風雲児、株式会社クリエイティブプレイスの中村氏にご登場いただいた。

サッカー、小僧。めざすは、Jリーガー。

中村氏は、1987年6月25日生まれである。出身は宮城県仙台市。父親は国土交通省の役人。兄弟は3人。中村氏が長男である。
「もっぱらサッカーに育ててもらった」という。5歳からサッカーを始め、すぐに熱中した。
小学生、中学生時代は「ジェフ市原」のジュニア、ジュニアユースで過ごす。県大会ベスト4になった中学生時代は、キャプテンを務めていた。
練習に明け暮れる一方、勉強にはまったく興味がなかったが、それでも校内の成績はつねにトップだった。「5教科で、480点を下回ったことはない」というから、驚きだ。
頭脳も明晰。高校は、学区内でトップ校と言われていた仙台一高に進む。偏差値68。高校でも中村氏は、クラブチームを選択。「塩釜FC」に所属する。1年生から試合に出場していたというから、これにも驚かされる。しかも、中村氏が、1年生の時のチームは全国大会にも出場するほど、選手がそろっていた時期である。むろん、中村氏も全国大会でピッチをかけた。しかし、全国大会後、試合に出られない日々があって、悔しさから朝起きて練習を始めた時期でもある。「あの頃は、365日のうち、350日くらい練習していたイメージです」。
めざすのは、言うまでもなく「Jリーガー」だった。

サッカー選手から、路上でのキャッチへ。

大学は、「日本大学」の経済学部。卒業はしているが、大半は「キャッチ」のバイトで明け暮れた。
サッカーはどうしたんだろう。
「実は、大学1年の時、体育会のサッカー部を1ヵ月で辞めてしまいました。何だかんだと理由をつけていましたが、早い話、遊びたかったんだと思います(笑)」。
小さな頃からプロをめざしていた。ところが、高校時代になると目標が「プロではなく全国大会に置きかわった」そうだ。中村氏は、そうとは言っていないが、「プロ」というゴールがなくなったことが、サッカーを離れるきっかけだったかもしれない。
ともあれ、Jリーガーへ進むだろう話は、「キャッチ」の話に方向転換されるに至る。
「歌舞伎町で、居酒屋のキャッチをしていました。最初は、ホールだったんですが、『キャッチのほうが金になる』ということで始めたんです」。
1年生の時から計4年、「キャッチ」生活はつづく。「いちばんいい月で100万円くらいでした。ふつうは、40万円くらいかな」。
駆け出しのサラリーマンよりずっといい。親に金額を白状すると、「仕送りを打ち切られた」そうだ。
時間は1日4時間くらいで、月15~16日勤務。効率もいい。「この時、いまの副社長の今津に出会ったんです。店は違いましたが、2人ともキャッチで」。
意気投合したのだろう。「キャッチ」を辞めてからも、友好はつづいた。

・・・続き

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