2015年8月31日月曜日

協和発酵バイオ「オルニチン」に弊社の武田で出ます。

弊社のミストラル代表の武田ですが、協和発酵バイオ「オルニチン」が密着生活で出演させていただいてます。
もし観られ、よかったら是非とも「オルニチン」買ってください。

2015年8月25日火曜日

株式会社ワインバーテラ本部 代表取締役社長 藤本和良氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ワインバーテラ本部 代表取締役社長 藤本和良氏登場。
本文より~

漫画家志望の少年。

絵を描くことが好きだった。いつか漫画家になるのが目標だった。作品をつくって投稿もした。小学生の頃の話である。
今回、ご登場いただく株式会社ワインバーテラ本部の社長 藤本和良氏が生まれたのは、岡山県の笠岡市。瀬戸内海に面する港町である。
「父親は製鉄所に勤めるサラリーマンです。小学1年生の時に母を亡くしたものですから、私は、父と祖母、特に祖母に育てられました。明治生まれの、きびしい祖母でした」。
箒でぶたれたこともあったし、箒を手に追いかけられたこともあった。友だちにも、容赦がなかったそうである。
「父親は、仕事ばかりです。私には姉が2人いて、私を含め3人なんですが、親父は私たちに『片親』という思いをさせたくなかったそうです。だから、しっかり働いて、そのぶん、美味しいものもたくさん食べに連れて行ってくれたりもしました。祖母も食べるのが好きで、その時は、さすがに祖母も怒ることなく、家族みんながテーブルを囲んで笑顔いたのをおぼえています」。
週に1回はレストランに。それぐらいの頻度だったらしい。父親の息抜きという意味もあったかもしれない。
「交替勤務だけど、連続して勤務することを連勤というんですが、父は毎日、連勤をしていました。睡眠は1日3~4時間だったんじゃないでしょうか。そういう父親を観ていたもんですから、私も働くということにまったく抵抗がありませんでした。父の口癖は、『中卒だから汗をかくことしかできない』です。父が汗を流した分、私たちは大きくなりました」。
実は、藤本氏の父親も昔、漫画家になりたかったそうだ。漫画を熱心に描く子どもをどういう目で見詰められておられたのだろうか。

漫画家→デザイナー→そして、営業マンに。

愛情に育まれてはいたが、子どもの頃は、それをうとましく思ってしまうことも少なくない。藤本氏も、早く独り立ちをしたいと思っていたそうだ。
「高校でバイトを始めたのも、早く独り立ちしたいと思ったから。もちろん高校生になっても、デザインや、漫画に関連する仕事をまだちゃんと志望していました(笑)」。
一足飛びに漫画家は無理でも、まずはデザイナーから、そういう思いもあったのだろう。
「大学や専門学校に行く手もなくはなかったんですが、祖母がどうしても遠くへは行かせたくないというので、高校を卒業し、岡山に工場がある段ボールメーカーに就職しました。最初は、デザイナーです。ただし、デザインらしい仕事をしたのは、3ヵ月ほどで、あとは営業です(笑)」。

40歳、脱サラ。

営業のセンスがあったのだろう。工場の立ち上げのプロジェクトには、いつも藤本氏の名があった。大阪にも、東京にも、宇都宮にも、工場ができる度に行った。
「うちの祖母は、私が初めて、大阪に転勤した時には、お百度参りをしてくれていたらしいです。こわいおばあちゃんですが、やはり最高の祖母だと思います」。
ともかく、岡山を離れても仕事に没頭する日々がつづく。40歳、いつしか、そんな年になっていた。
「私が、飲食というか、『ワインバーテラ』を始めるのは、40歳の時で、それまで飲食の経験は一度もなかったんです。もともと50歳で定年だと決めていたもんですから、それが少し早くなった感じでしょうか(笑)」。
兵庫県西宮北口にオープンした「ワインバーテラ」。これが藤本氏の最初の店舗である。「この店はFC店です。私もFCオーナーだったんです。起業の時から関わっていたんですが、飲食のことは何も知らないからまずはFCからだと思って」。
段ボール会社の敏腕、営業マンが、突如、飲食のFCを始めるという。勤めていた会社の上司たちもさぞ驚いたことだろう。

ワインバーテラの生い立ち。


「もともとワインバーテラは、芸能人の北野誠と、彼の同級生2人の3人でスタートしたんです。うち1人はビアードパパの創業者です。私は、北野さんと以前から知り合いだったこともあって、創業時にもいろいろと話を聞かされてはいたんです」。
「その時、北野さんが語るワインビジネスというか、私は、ビジネスという言葉はあまり好きではないで、文化と置き換えたほうがしっくりきますが、日本にはまだワインの文化が根付いていないという言葉に惹かれて、私もたいへん興味を持ったんです」。
藤本氏自身、ワインが大好きだったことも、背景にはある。それで40歳で、脱サラ。ワイン文化を広げるという大きな目標を掲げ、2008年、西宮北口に15坪のワインバーをオープンさせた。
「とんでもなかったですね」。
というのは、売上のことである。
「15坪で2フロア。席数は50席。それが1日に2回転するんです。月商は400~500万円を下ったことがなかったですね」。
ワインの仕入れは一元化されているが、ロイヤリティは低額固定で5万円。ワイン以外は、料理もすべて自身でチョイスできる。そういう自由なパッケージである。
「西宮北口は、私にとっても、本部にとってもキーとなるモデル店でした。あの店の成功をみて、FC数もグッと拡大していきます。それからも、私はFCのオーナーをつづけ、5店舗のFC店を経営していたんです。一方で、本部からも誘われ、一時はFCオーナーと本部スタッフという二足の草鞋を履いていました」。

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2015年8月24日月曜日

“キイストン―グルメマイスターTV”第2回 ジャパントータルロブロス株式会社のYocco社長登場。

キイストンプロデュースの“キイストン―グルメマイスターTV”(ガールズチューブ・コラボ企画)第2回
ジャパントータルロブロス株式会社のYocco社長アップしました。



ジャパントータルロブロス株式会社のYocco社長にお話を伺うべく、
コクーンシティ コクーン2(さいたま新都心)にある『Yocco’s Kitchen Bake&Cafe』を訪れました。

店内はオシャレな装飾と温かい雰囲気に包まれており、
取材当日は平日だったにもかかわらず大盛況。

特に女性のお客様が多く来店していました。
インタビューでは、女性客を魅力するために
Yocco社長が施している工夫を聞いてきました!

2015年8月18日火曜日

株式会社ハブ 代表取締役社長 太田 剛氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ハブ 代表取締役社長 太田 剛氏登場。
本文より~

1961年生まれ。

父は公務員一筋。息子2人にもできれば「公務員になって欲しい」と思われていたそうだ。そんな息子の1人、次男の太田氏が生まれたのは1961年のことである。
「父は公務員として、バスの整備士を務めていました。私も何度か事務所におじゃまして、卓球台を拝借してこっそり卓球を楽しんだりしていました」。今思えば、当時は高度成長期で日本人は「エコノミックアニマル」と揶揄されたりもしていたが、おおらかな時代でもあったようだ。
「兄は、両親の自慢の息子でした。小学校から野球をはじめエースで4番。当時、甲子園出場の常連校だった『東洋大姫路』に進みます。う~ん。比較されたわけではありませんが、3つしか違わないわけですからコンプレックスみたいなのはたしかにありました。私も、小学校から野球を始めたんですが、ぜんぜんダメでしたし(笑)」。
今は私学で校長をされているという太田氏の兄は、甲子園に出場するために「東洋大姫路」に進学されたが、「兄の代だけ、『報徳学園』に負けてしまった。だから、甲子園には行けてないんです」ということだ。
兄を追いかけ、野球を始めた太田氏だが、野球には見切りをつけ、中学で陸上に転向する。長距離ランナーだ。
「それで、私は兄とは逆に『報徳学園』に進むんです。当時、駅伝で言えばナンバー1の高校です。実際、私の卒業後、全国3連覇しています。今では、県立の『西脇工業』が有名ですが、当時は、『報徳』と『西脇』が兵庫県で交互に優勝し、そのまま全国を制覇していました。兵庫県で優勝するということは、全国大会で優勝するのとある意味、同じだったんです。練習も、戦いも、そりゃ過酷でした」。

痛恨の一敗。

「30年間くらいね、頭から離れなかったことがあるんです」と太田氏は当時のことをふり返る。「私が3年生の時です。駅伝はレギュラーが7人、補欠が3人の計10人で試合に臨みます。3年まで続けたのは4人で、私もそのうちの1人だったんですが、最後の大会で私はレギュラーから外されてしまったんです。代わりに1年生の名が呼ばれました」。
3年、最後の大会。実は、大会前の選考会で、その1年生に数秒の差をつけられていた。
「言い訳になりますが、その時は調子が悪くてスピードがのらなかったんです。それまでのタイムなら私のほうが速かった。もちろん、負けたこともなかった。しかも、相手は1年でしょ。悔しかった。思っちゃいけないけれど『怪我しろ』って」。
痛恨の一敗。しかし、この一敗が、太田氏を奮い立たせる起爆剤ともなった。大学で駅伝をつづけたのも、この一敗があったからである。

大阪経済大学、陸上部。

だいたい長距離選手の練習とはどんなものかと思って、聞いてみた。「午前に30キロ、午後に30キロ。もちろん、毎日じゃないですが…」と太田氏はさらりと答える。聞けば高校時代で20キロだったそうだ。
「当時、『大阪経済大学』っていうのは、全国に出場できるかどうかのギリギリのレベルでした。関西では3番目くらいには位置づけられていたんです。私が2年、3年、4年の時に3年連続で、全日本駅伝大会に出場することができました」。
高校時代のリベンジである。
太田氏は、とにかく走りつづけた。
「中学の時からそうですが、とにかく走ること一筋です。雨の日も、風の日も。そりゃ、母親には感謝です。朝早くから起きて、ずっと弁当つくってくれて。でも、それだけに高校3年の時の最後の大会は悔しくて、応援してくれた父や母にも申し訳なかったんです。でも、それがあったから大学でもつづけられたんだと思います」。
悔しさは、バネになった。
余談になるが、太田氏がOB会に初めて参加したのは、卒業して26年経ったある日のことだ。
「監督が第55回全国高校駅伝を最後に退任されるのを新聞で読んで、なぜか、どうしても会いたくなったんです。それで、監督に『なんであの時、ぼくじゃなかったんですか?』とたずねてみたんです。そうしたら『勝負に負けたからや』と一言。そう、単純なことだったんです。『負けたから』、そうあっけらかんと言われて、26年間モヤモヤしていたのが、はじめて解消されました」。
26年と言えば、太田氏が44歳の話である。

就職先、「HUB」の話。

さて、太田氏と「HUB」の話に進めよう。「私が『HUB』と出会ったのは、就職活動中のことでした」。仲間と連れ立って向かった神戸・三宮の「HUB」1号店。
「衝撃的でしたね。三宮ということもあって、半分くらいのお客様が外国人でした。ビールが一杯180円。セルフサービスのキャッシュ・オン・デリバリー(COD)です」。
「その時はダイエーが親会社として経営しているとは知らなかったんですが…。大学時代も唯一、ダイエーの倉庫でバイトをしていたもんですから、そういう縁だったのかもしれません。とにかく、後日、会社説明会があるのをみつけて、参加します。創業したのが、1980年で、私が説明会に参加したのは1982年。バリバリの創業期です。スタッフも正社員は、まだ13名しかいなかった。目標は10年1000店舗。こりゃ、私にもチャンスがあるんじゃないか、と。それに、神戸に住む私たちにとって、ダイエーの創業者である中内さんは神様みたいな人でしたから」。
その神様と直接、語り合ったのは太田氏が「HUB」に就職して、20年ちかく経った頃だった。とにかく「HUB」でも、一筋。「キャッシュ・オン・デリバリーが一般的ではなかった頃には、財布を投げられたこともある」という。創業当時の熱気を知る数少ないスタッフでもあったことだろう。その太田氏が、神様と話した。
「むろん、それまでもお会いはしていました。中内さんは『HUB』のことが大好きで、店にもちょくちょく来られていましたから。ただ、直接、本音の話をぶつけるチャンスはなかった。いつもお付の人がいらっしゃいましたし」。
「あれは、私が浅草の店にいた時です。はじめて、お1人でフラリとおいでになったんです。それで『帰るわ』と言って席を立たれたんですが、誰もいない。『運転手は?』と聞くと、歩いて100メートルくらい先に止めてあるというんです。これは、チャンスだと思いまして。車までお送りするというのを口実に、何故、英国パブなのか、を伺ったんです。そうしたら、パブの歴史を語られ、日本の居酒屋との違いも含め、中内さんが考えるパブ文化についても語っていただけました」。
何故、英国パブなのかの、明確な答えが、尊敬する経営者の口から放たれた。初めて、神様の熱に触れた気がした。
「中内さんが好きなイギリスのパブは、サラリーマンが会社帰りに、1杯か2杯のお酒を飲んで、1日をリセットする店として利用されているんです。居酒屋のように『食べながら、飲む』じゃなくて、『飲みながら、会話する』。それが正しいパブの利用方法です。会話はあるが、愚痴はない(笑)。潤滑油として、暮らしを豊かにする。そういう場であり、文化なんです」。「だから、最後にこう言われました。『食事メニューには手をだすなよ』って。これはむろん飲食店にとっては、とんでもない決断です。それを貫くには、売上を捨てることにほかならないからです。しかし、中内さんの覚悟は、まさにその一言に凝縮されていたと思うんです」。
英国パブを日本に。それを太田氏は、「中内さんの遺言」だと語っている。

・・・続き

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夏の上高地も良かったな。

昨年は夏季休暇取ってなかったので、今年は上高地へ。
川の水がきれいで、野生の猿もいました・・・。

2015年8月11日火曜日

株式会社ことこと屋 代表取締役 都外川景司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ことこと屋 代表取締役 都外川景司氏登場。
本文より~

「カゴメ オムライススタジアム」グランプリ獲得

2015年5月16日、17日東京スカイツリータウンで開催された、オムライス日本一を決める「カゴメ オムライススタジアム」。
事前のWEB投票と当日の投票で争われたなかで、東海地区代表の「ことこと屋」が見事、グランプリを獲得した。2日間で、つくったオムライスの数は3000食にのぼるというから驚かされる。スタッフの息の合った見事なオペレーションも高く評価された理由の一つではないだろうか。
では、今回は、その「カゴメ オムライススタジアム」で見事優勝された「ことこと屋」の創業者、都外川景司氏に登場いただこう。

少年は、お菓子職人?

都外川氏は、1960年(昭和35年)、福岡県に生まれている。男兄弟の次男坊で、料理が好きな少年だったそうである。
「小学校の時、お菓子をつくるのが好きだったんです。自宅でクッキーやケーキをつくっては、翌日学校に持っていくんです」。
評判は良かったんだろうか。
「そうですね。みんな『おいしい』って言ってくれました。そう言われるのが嬉しくって、つくっていたのかもしれませんね(笑)」。
「母から教わったわけじゃなく、本とかですね。レシピをみて、ま、意味のわからないことは母に聞いていたかもしれませんが…」。
少年がだれに教わることもなく、本を片手に、クッキーやケーキづくりに取り組む。微笑ましくもあるし、いまの都外川氏の人生を示唆しているようにも思える話である。

ウエスト80cmのスコートで知った仕事の喜び。

大学卒業まで話が飛ぶ。中京大学を卒業した都外川氏は、岐阜県にあるスポーツ用品店に入社する。
「大学じゃなく『専門学校に』という思いもあったんですが、通っていた高校が進学校だったもんですから、国立に行く生徒も多く、全員、大学へという風潮だったんです。そういう風潮に流されて、私も大学生になりました(笑)」。
飲食店との接点はどうだったんだろう。
「高校の時、1ヵ月くらい焼肉店でバイトしていました。大学では4年になって1年間、カフェのバイトを経験。飲食も悪くないなと思っていました」。
それでも当時、大学を出て飲食を選択する人はまずいなかった。都外川氏もとにかく一般企業ということで、岐阜県にあるスポーツ用品店に就職したのである。
「テニス用品を担当していたんですが、なかなか売れない。それで、ちょっと頭をつかって、実験的にですが年配向けの品揃えを強化したんです」。
「すると客がドンドン増えていったんです。そりゃ、そうです。ウエスト80cmのスコートなんて置いている店はほかにはない。狙い通り、口コミでうちの店のことが広がっていったんです。この時ですね、仕事でも『喜んでいただけることが楽しい』と心から思えるようになったのは」。
しかし、退職。「大卒、50人いて全員辞めてしまったような、当時でいえば斜陽産業だったんでしょうね。とにかく、給料も低くって生活できなかった(笑)。背に腹は代えられず転職していった人もいたんじゃないでしょうか」。

キーエンスで、ビジネスマンの頭角を現す。

都外川氏は、「ビジネス」という言葉を良く使用する。ビジネスとして通用するかどうか。成立するかどうか。そういう観点を植え付けられたのは、次の会社、株式会社キーエンスでの日々だった。。
「案外、いい成績だったんですよ。国際会議場になるような会場の檀上にも何回も上げていただきました。当時、私は、工場を自動化するための計測機器などを販売していました。お客様のご要望に一つひとつ対応していくというのが、当時、私が編み出したオリジナルな方法です。すべてに対応できた時には、当然、受注もいただけます(笑)」。
なるほど、シンプルだけど、奥が深い気もする。
「当時はね。どうすれば、喜んでもらえるのか。売れない時には、どうすれば売れるのか。ということをつねに考えていました」。
「頭を使っていた」と表現する。この頭を使うことが、いまにつながっている。ところで、キーエンスといえば、いうまでもなく制御センサのガリバー企業だ。
そうした有名な企業で認められ、給料も良かったにも関わらず、39歳になった都外川氏は、ある日、あっさり退職を決意する。

・・・・続き

株式会社ことこと屋 代表取締役 都外川景司氏
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2015年8月4日火曜日

株式会社フォーユー 代表取締役 諏訪下正俊氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社フォーユー 代表取締役 諏訪下正俊氏登場。
本文より~

2015年4月、社長就任。

「博多一番どり」や「大阪王将」などのフランチャイズ店に自社ブランドを加え、九州や東京に38店舗の飲食店を出店しているのが、株式会社フォーユー。
創業は2001年となっている。ただし、今回ご登場いただく諏訪下正俊氏が、フォーユーに参画するのは2013年から。元々、勤めていた会社が飲食部門を「フォーユー」に譲渡した時に、諏訪下も同社に転籍することになる。
元々、諏訪下氏自身が、執行役員として取り組んでいた飲食部門ということもあって、入社後も譲渡した店舗の責任者となり、更に、フォーユーがそれまで運営してきた店舗も含め、すべて諏訪下氏の管理下に置かれた。そして、2015年4月、晴れて社長に就任。
「今期は東京、九州に4~5店舗出店する」と、鼻息も荒い。鼻息という言葉を使ったが、諏訪下氏の話を聞いていると、極めてスマート。情熱をスーツの下に隠しながら、淡々とビジネスを語る、クレバーな経営者という印象である。

野球とサッカーと、バイトと。

諏訪下氏が、生まれたのは1975年8月4日。鹿児島市内の生まれである。「父は公務員。兄弟は男3人で私は真ん中です」と諏訪下氏。小学3年~6年までは、父親の仕事で大阪でも暮らしていたそうだ。
運動が大好きで、野球やサッカーは特に大好きだった。「小・中はサッカー少年でした。高校でもサッカーはつづけましたが、それまでのようにはいかなかった。なんだか、ぜんぶが『めんどくさい』なと思うようになったのは、この頃です」。
北九州大学に進学する。「私は、高校の卒業式にも出ていないんです。大学にも進学はするんですが、ぜんぜん学校には行ってなかった。ちゃらんぽらん、ですよね(笑)」。
大学に進学しても、授業には出席しない。だからといって代わりに没頭するものもなかった。
「ただ一つ、バイトですね。大学1年から4年まで、バイトするんですが、大学に行かなかったのも、退学せずに4年間で大学を卒業できたのも、このバイトのおかげだと思っています」。
諏訪下氏がいうバイト。最初は、レストランバーだった

バーで知り合った師匠のゲンコツ。

「最初は、地元のケーキ屋さん、といっても5~6店舗を持つ会社が経営しているレストランバーだったんです。その店に、8歳年上の先輩がいらして、私が2年生の時に独立されて、洋酒をメインしたバーをオープンされるんです。私の師匠みたいなもんですから、私も連れてってくださいと、そちらの店に移りました。ウイスキーにこだわったお店。いまもまだありますよ。結構、有名なバーですから」。
店名を聞いたので、ネットで検索すると、たしかにいまも健在で、口コミのグルメサイトでも高い評価を獲得されていた。
 「いまでも年に何度かは海外に買い付けに行かれているんじゃないですかね」と諏訪下氏。諏訪下氏が、その店の店主をいまも師匠と呼ぶのは、バーの運営を2人で行い、いろいろと教えてもらったからだけではない。むしろ、それ以前、レストランバーの時代に、師匠の手によって、社会人の意識を叩き込まれたからだ。
「それまでの私は、すでにお話したように、ちゃらんぽらんだった。だから『だめ』なんですが、なかなか改まらない。師匠のゲンコツが、その姿勢を正してくれたんです」。
殴られる、蹴られるのが日常茶飯事だったそうだ。それでも、師匠の人間性に魅了され、卒業するまでつづけた。「1度だけ、逃げ出して。でも、すぐに連れ戻されました。懇々と説教までされて(笑)」。

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