2020年9月18日金曜日

『自信をつける』、一番大事なこと。

『自信をつける・つけさせる』のが一番大事なこと。
その自信つけるために、これだけやってるという仕事量(練習を繰り返す)にこだわる。
なかには、根拠のない自信を持ってる人材もいる。
ただ、年月経つと根拠のない自信を持ってる人材は、その後努力しないと実力伴わないプライド人間になる。
過去にもそんな社員いたな・・・・。努力してたら、りっぱな営業マンに成長したのに勘違いしちゃったみたいです(笑)
今頃、きっと気づいてると期待しています。

また、部下に自信をつけさせること、上司は必須である!!
「山本五十六語録」

2020年9月16日水曜日

東京食彩株式会社 代表取締役 山寺昭彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”東京食彩株式会社 代表取締役 山寺昭彦氏登場。

本文より~

高校までの話。

いろどり。
ホームページの料理をみて、社名の意味を理解できた気がした。赤と緑と青。光の三原色が重なって、社名の通り、食を彩っている。
今回は、この社名のような料理を生みだしてきた東京食彩株式会社の代表取締役、山寺昭彦氏にご登場いただいた。
山寺氏は1982年生まれ。父親は大手メーカーで勤務する、いわゆる転勤族。「小学校で3回転校している」と山寺氏は笑う。
「自分がリニューアルされるようで、案外楽しみだったし、元々ひょうきん者で、ものおじしない性格だったので、どこにいってもすぐに友達ができた」と言っている。
「兄がいるんですが、兄に影響されて、私も中学からバスケットボールをはじめます」。そのバスケットボールはもちろん、スポーツ全般、できは悪くなかったが、勉強は今一つ。
「勉強が嫌いだったので成績はクラスでビリでした。でも、高校受験前の3ヵ月間は猛勉強しました」。なんでも、好きだった女の子と同じ高校に進むためだったそう。大人になれば、微笑ましい話と笑って言えるが、当時は、そりゃ、真剣。
「彼女が行くと言っていた高校が県内の進学校で偏差値が高かったので、試験までの3ヵ月は本気モードです。生れてはじめてまじめに勉強というものをやりましたね。ただ、私は合格したんですが、彼女が落ちてしまいました。人生、うまくいかないことも勉強できた受験でした/笑」。

料理の道へ。

「うちの父は大手の製薬会社に勤務するサラリーマンでした」。話をうかがうと、かなりやり手。「ただ、突拍子もなく『蕎麦屋をオープンしたい』と言ったりしていました。成績が優秀なサラリーマンであったため、頑張るなら自身に全て責任がありリターンも大きい独立開業のみちを考えていたのだと思います。
じつは山寺氏は中学生の頃から、その父親に『料理人になれ』と言われて育ったそう。「だから、大学に行くつもりなんて全然ありませんでした」とのこと。せっかく進学校に進んだのにもったいない話だ。
「大学に行かないと決めていましたから、高校時代は好きなことをしていたかった。だから、勉強も部活もせず、アルバイト三昧の日々です」。
むろん、バイト先は飲食。フランス料理店でアルバイトをしていました。
料理人になれと育てられたわけですが、抵抗はなかったですか?
「全くありませんでした。元々素直な性格で先ず飲み込んでしまうので。笑。高校を卒業する時には、いよいよだと。ついに、その道がはじまる的な」。
「それで、進んだ学校が『辻調理師専門学校』です。卒業後は当時日本一と言われたイタリア料理店で修業を5年間しました。特段料理が好きで始めたわけではなかったけど、それが逆に良かったのかもしれない。好きで始めると期待値が高いから嫌な事があるとすぐに逃げ出したくなっちゃったり、現実とのギャップに悩んだりしちゃうのかもしれないけど、全然期待してなかったから途中からめちゃめちゃ楽しくなっちゃった。どんなに大好きだっていたって毎日やってみてくださいよ。ましてや修行となるとつらいことの方が多いでしょ?(笑)今から色々な業界に入っていく若い夢のある方たちに伝えたいんです。何でもいいからはまってやり抜く事が大事だと思うんですよね。プロになるまではどんなお仕事も大変ですけどプロになっちゃえば突然世界が開けて周りからも承認されて楽しいライフワークになりうると思うんです。それにしても業界自体ですが修業時代はコンプラのかけらもない本当にありえない恥ずかしい業界だったので、この業界も成熟してきて本当に良かったと心から思います/笑」。
単身、イタリアへ。
その後当時の修業時代の同期の仲間数人と独立。
特別、興味がなかったという「料理の世界」にすっかり魅了された証かもしれない。だから、料理の世界は奥が深い。

イタリア。

「最初は、向こうで修業するつもりだったんです」。
最初は?
「そうです。最初は、わくわくしていたんです。ローマの空港に着いた時には、『これがローマの空気か』って/笑。もちろん、いさんで料理店に行くわけですが、『あれ?』って」。
なにかがちがう?
「北から南まで旅をつづけながら、いろんな店に行くんですが、結局わかったのは『そうでもないな』ということでした。修行先だった先輩たちが長い年月をかけてものすごい前情報で僕の期待値をあげすぎちゃっていたんですね(笑)。一番おいしいと思ったのが、知り合いの店で僕らの為に出してくれた山奥の小さなレストランで食べた子羊なんですが、それは生後間もない小さな小さな子羊で、、日本だと生産の規格に、流通に無いものだったんですね。今日はお前らが来るから、まだ早いけど羊締めちゃったんだって。その気持ちがうれしくって。それを食べたときに、あれ?これ日本でも出来るし結局料理って食材とか人に対する気持ちなんじゃないかなって。基本的なイタリア料理は勿論、最先端のものまで既にすべてとっくに日本に入ってきてましたね/笑」。(
それで帰国するんですか?
「そうです。日本のイタリア料理は、既に成熟しており、かつ独自の進化すら遂げていたんですね。まぁ、それに気づけただけでも収穫でした」。
これが、山寺氏、25歳の時の話。
「帰国してからは、『一緒にやろう』と言ってくださった方がいらして、あるレストラン・バーの立ち上げを経験します。独立するにしても、立ち上げの経験がなかったもんですから、いい勉強をさせていただきました」。
むろん、独立は既定路線。
「起業したのは、27歳の時です。父に資本をだしてもらって、兄と、レストラン時代の同僚といっしょに中目黒に『コロッセオ中目黒』をオープンします」。
雑居ビルの2Fだったんですよね?
「固定費を下げるには、路面店ではなく2階がいいだろうと。 兄は、もともと星付きのフランス料理店で働いていました。兄以外の創業メンバーは、僕の修業時代の同僚で、計7名でのスタートでしたが、現在もそのうちの5名は在籍しています」。
休みなく働いた。修行時代から同僚とはもはや運命共同体だ。1年後、山寺氏たちは、神楽坂に新たな店をオープンしている。

逆に生まれた副産物。

現在、東京食彩は16店舗を出店している。いずれの店も評価が高く好調だ。とりわけ感心するのは、これだけ出店を重ねても無借金経営ということ。
しかも、つぎの戦略ももうスタートしている。
転機というのはありましたか? という質問に山寺氏はつぎのように回答する。
「もともと、うちのレストランは想定単価が高かったんです。単価8000円~9000円くらい。ある時、元同僚の結婚したての、お子さんが出来たばかりの知り合いが来てくれたんですが、メニューを見てオーダーを躊躇しているんですね」。
たしかに、気軽なレストランとは言いにくい価格。
「転機といえば、その時です。『え、』って思うわけです。だれにでもおいしく食べてもらいたいという想いで働いていました。それが料理人です。なのに…」。
「これでは、だめだ」と言葉がでる。
「翌日から、今まで最低価格がアラカルトで1500円だったのですが全てを500円にしました/笑」。
お客さんの反応はいかがでしたか?
「ありがたいことに、それまで以上にご好評をいただきました。経営的にもプラス効果です。ただ、一つ問題があったのも事実です。さすがに1500円の時と、500円の時におなじ食材というのは、無理な話です/笑」。
とはいえ、それでは料理のレベルが下がる。通常なら、価格を上げるか、食材のレベルを下げるかだが、山寺氏はもう一つの道を選択する。
「私たちは修業時代、いい食材を贅沢に使用させてもらってきました。だから、食材のレベルは下げたくない。これで、いったん行き詰まるんですが、逆に副産物が生まれました」。
どういうことだろう?
「独自の仕入れルートを作ることができたんです。たしかに、料理人は料理が仕事ですが、じつは、それだけじゃない」。
いい食材をどう仕入れるか。 たしかに、これもまた料理人のスキルなのだろう。ただし、それに気づく人、気づかない人がいるのも事実。むろん、気づいたとしても、実行する人はそう多くない気がする。
僕らは今までキッチンで包丁しか握ったことが無いのに乗ったことのない大型なトラックの免許をとって運転して船から魚を買い付けしたり、船の免許をとって夜通し釣りをしたり、またある日は海女さんと潜ったり、これらはほんとに極僅かな一例ですがいろんなダイレクトチャレンジとトライ&エラーを繰り返しお客様に良い食材をリーズナブルにお求め頂くすべを学習しました。
僕はそれも「料理」だと思っています。現場に出れなくなっていく日が当然に増えていきますが、食材の交渉や開拓、発見などでも沢山のお客様に毎日お料理を作っている感覚でいることはとても大事にしている心構えの一つです。
・・・続き

2020年9月15日火曜日

訃報  


 日刊ゲンダイで大変お世話になってた柳生さんが、12日(土)突然お亡くなりになられたとの訃報頂きました。(享年73歳)

2012年8月掲載の「社長の私生活」からご縁あり、出会ってから早くも8年経ってました。
飲食の経営者をもっとメディアに!とその必要性を柳生さんにお伝えし、ここ4年はずっと取材先を全て任せて頂いてました。

おかげさまで、延45社ほどの飲食の社長様を出して頂きました!
柳生さんの飲食業界への貢献度は計り知れません。
会う度に「キイストンは社長との関係が素晴らしい、キイストンの姿勢はさすが」とお褒めの言葉頂戴してました。
もう
「細見さん、時間ある? 珈琲でも行かない?」が今世で聞けないのが残念でなりません!
本当にありがとうございました!
心よりお悔やみ申し上げます。

2020年9月8日火曜日

8月28日(金)より夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」にて”新時代”運営のファッズ様を掲載しました。

8月28日(金)より夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」にて2連載で”新時代”運営のファッズ様を掲載しました。

株式会社2TAPS 代表取締役 河内 亮氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社2TAPS 代表取締役 河内 亮氏登場。
本文より~

専門学校進学時に上京する。

ホームページには「人と人を繋ぐ酒場」とある。三軒茶屋で人気の三茶呑場「マルコ」の話。「マルコ」のマルは、「円」であり、「縁」も表しているそうだ。
ページ内にある料理の写真、店内の写真を観ると、たしかに「縁」をかんじる。写真のような、料理、サービスに惹かれる人たちが、マルコで出会い「縁」が繋がれていくと思ったから。
創業は6年前の2014年2月。今回、ご登場いただいた株式会社2TAPSの代表取締役、河内氏が、友人と2人で「たくさんの方が繋がっていく酒場やりたいね」とはじめたという。
さて、その河内氏は、1982年、新潟県村上市で生まれる。村上市は、新潟県の最北に位置する市。地図で観ればわかるが、日本海に接し、面積は広い、広い。
「両親が忙しかったので、小学3年生くらいから料理をしていました。いわばこれが、いまの源流ですね。もっとも、当時は飲食を仕事にするなんて思ってもいなかったわけですが/笑」。
どんな料理が得意だったんだろうか。料理は好きだったが、中学にあがると河内氏にも料理をする時間がなくなった。「野球をしていたんですが、中学の部活は、結構きつくて朝から晩まで練習漬けでした。ピッチャーでキャプテンだったのもあり、尚更、たいへんでした」。
「その反動ってわけじゃないんですが、」と笑いながらつづける。「高校ではサッカーに転向します。野球よりモテそうだと思って」。実際に、モテたかどうかはおくとして、「モテそう」というのが、転向したいちばんの理由だったのは間違いなさそうだ。 だんだんと色気づく。ファッションにも興味をもち始める。大人になるとは、そういうことだろうか。
「高校を卒業して上京します。専門学校に進学するためです。ファッションに興味があったので、進んだのは服飾専門学校です」。
料理学校としても有名な学校だそう。「高校3年になると進路の話とかになりますよね。その時、いいなと思っていた専門学校の営業さんが、測ったようなタイミングで学校に来られたんです。それで、体育の授業を抜けだして、直接、話を聞きました」。
行動力があるのは、昔からだ。「そうですね。専門学校の料理のほうは、3000~4000人いましたが、服飾のほうは300~400人くらいです。それでも、いい勉強はできたと思っています」。

アパレルの向こうにあった飲食という世界。

「接客が好きだった」と、河内氏はいう。専門学校を卒業した河内氏は、大手セレクトショップのビームスに就職。アパレルの先端で仕事を始めることになる。
ビームスでは3年。それ以降もアパレル中心に転々とし、営業として合計8年間はたらき、最終的に管理職に昇格している。「ビームスを退職したあと、小さなブランドにも転職します。規模の小さなところで勝負したほうが、ちからがつくと思ったからです。当時、業績は良かったですね。うちだけじゃなく全体的にですが」。
リリースすれば、売れるという時代だったらしい。アパレル全盛期。
「ただ、私としては会社に行って、パソコンで数字をみて、展示会に行って、予算立ててっていうルーチンが、どうも面白くなかったんです」。
現場派?
「そうですね。接客が好きでしたし。数字で語るようになったら、ファッションっていうものが、ファッションじゃなくなるように感じてしまいました。その頃からだと思いますが、頭のどこかで飲食もいいかなと、チラつき始めます」。

給料は4分の1に減り、寝る暇もなくなった。修業時代の話。

それで思い切って転職ですか?
「そうです。私が26歳の時ですね。新潟にもどって、和食の店をしているかつての先輩の下で修業をはじめます」。もともと料理は、好き。小学3年生から、フライパンもふっている。
「専門学校の時も、バイトはぜんぶ飲食でした。鮨屋とか、日本料理屋とか」。ともだちを招いて、料理をふるまってもいたそうだ。
「だから、多少は自信があったんですが、むろん、コテンパですね。後悔はまったくしませんでしたが、それまでがいかに天国だったかに気づきます/笑」。
「ええ、とっても貴重な2年半でした。あの時、飲食という仕事に向き合ったおかげでいまがあるわけですからね」。

三軒茶屋に三茶呑場『マルコ』オープン。


「私は32歳で独立するんですが、先輩の下から離れ、再度、上京。約5年間、株式会社上昇気流のフードサプライサービス事業で勤務します。むろん、こちらでも、いい勉強をさせていただきました」。
そこから、独立ですか?
「そうです。物件を探しに7ヵ月かかりました。その時オープンしたのが、『三茶呑場マルコ』です」。その7ヵ月間、築地でもはたらき、仕入れや食材についても勉強している。オープンに向け、一直線だ。
では、その結果はどうだったんだろう?
「12月にオープンするんですが、3ヵ月間、お客様は知人のみが多く、本当にありがたかった。売上がアップしたのは、4ヵ月目くらいからですね。だんだん認知されてきたんだと思います。実際、たいへんでしたが、独立して、改めて飲食は楽しいなと思いました」。
人と人とが繋がるからでしょうか?
「まさに、そうです。私たちとお客様のつながりもあれば、お客様同士もある。その一方で、私とスタッフ、スタッフ同士という繋がりもあると思うんです」。
マルコのマル(円)は、半径を広げ、「縁」を繋いでいく。
「おかげ様で、創業から5年。4店舗になり、スタッフも多くなりましたが、負の理由で辞めた子はいません。これも、縁を大事にしているからだと、思うようにしています」。
河内氏は、そう言って笑う。
「円」の真ん中にいるのは、そんな表情の河内氏にちがいない。
・・・続き

2020年9月5日土曜日

コロナに台風に、地震に、インフルエンザ…

もっと元気に元気発信企業!!と商標登録までして、元気というかワクワクを提供してますが、今回のコロナは終わりが見えそうでまだ見えないので、いろんな経営者の心を蝕む気がしてます。

私の場合は、嫌なことも辛いことも会社を長くやってるので少しは免疫力あると思います。
いいイメージを妄想し、まずはアクション起こし、ダメなら次とダメ元精神で挑戦してきてますが、独立間無しや失敗・挫折経験が少ない経営者には、今回のコロナはそこが深いので堪えると思います。

キツい時こそ、頑張ってる従業員がいるだけで元気もらえます。
売れなくても頑張ってる営業マンやなんとか役立とうとしてくれてるスタッフは宝物です。
厳しいときこそ、自分だけって殻にこもらず、一緒に戦ってくれてる従業員、声かけてくれる仕事関係者、そして家族がいるのを感謝する機会になると思います。

頑張れや負けるなとは言いませんが、「絶対あきらめない」気持ちは忘れずに。


2020年9月1日火曜日

株式会社UMAMI BURGER JAPAN 代表取締役 海保達洋氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社UMAMI BURGER JAPAN 代表取締役 海保達洋氏登場。
本文より~

中学1年、欲しかったのはパソコン。

18歳まで、大阪市淀川区西中島で育った。父親の仕事は、こども服の卸。小中高とすべて、公立。中学、高校は陸上部で、100メートルの選手だった。
「昔からお調子者で、おしゃべり。成績ですか? 成績はだいたい真ん中くらいをキープしていました/笑」。
お調子者は、パソコンに通じていた。
「小学4.5年の頃に、パソコンが出てきて、興味を持ちました。初めて触れたのも、この頃です。中学1年生になって、パソコンを初めて購入します」。
将来、システム関連の仕事をしようと思っていたらしい。「将来は絶対パソコン社会になると思っていましたから」。
海保氏が小学4.5年といえば、1980年~1981年。ちょうど、パソコンが登場した頃だ。1980年にはアップルがナスダックに上場。1981年には孫正義氏が日本ソフトバンクを設立している。
パーソナル・コンピュータの黎明期。
「結局、子どもの頃に想像していた通り、システム会社に就職します。同期は10人くらいいました。
その会社には12年間、在籍しました」。
パソコンと海保氏。飲食は、もっぱら利用するほうだった。

ソフトウェア業界の常識、35年、定年説。

「飲食といえば、ホテルの宴会場でウェイターのバイトをしていたくらいです。もちろん、私自身、飲食を事業にするなんて思ってなかったです。ただ…」
ただ、なんですか?
「当時は、35歳定年説っていうのがあって、私も、35歳で会社を辞めようと思っていたんです。で、実際に辞めたわけですが、これが、一番の転機ですね」。
「その時、システムの仕事をしている時に、ある仕事でパートナーのように関わったことがある人がいたんですが、彼に相談すると、『じゃ、うちにこないか』って誘われて。彼は私より一つ下ですが、アクセサリーのビジネスで独立して、今はロサンゼルスに住んでいます」。

UMAMI BURGERとの出会い。


今も、海保氏は、この会社に在籍している。ところで、UMAMI BURGERとの出会いは、どうだったんだろう?
オーナーはロサンゼルス在住であるそうだが、それはヒントになるのだろうか?
「そうです。年に数回、ロサンゼルスにミーティングで行くわけですが、ある時、連れていってもらったのが、『UMAMI BURGER』です」。
「『UMAMI BURGER』っていうのは、アメリカ人のアダム・フライシュマンが創設したハンバーガーレストランです。今は、アメリカを中心に20店舗くらいでしょうか。もちろん、当時、日本にはないハンバーガー・ブランドです」。
「UMAMI BURGERがデビューしたのは、2009年のロサンゼルスです。すぐに評判になり、街のベストレストラン及び国内ベストハンバーガー部門でランキング入りします。『UMAMI』は、UMAMI BURGERの特徴ですが、もちろん、日本語の『うま味』がもとになっています」。
日本にデビューしたのは、2017年。TVや雑誌でも、とにかく数多く取り上げられているから知っている人も多いだろう。ただ、知らない人は、注意したほうがいい。
UMAMI BURGERは、ナイフとフォークで食べる。ジャンクに、かぶりつく、あれ、ではない。カジュアルだが、それが、より、洗練されたイメージだ。
「UMAMI BURGERと出会って、すぐに日本でもやってみたいと思い、連絡を取りました」。
いいってことになったんですか?
「そうです。今からという時期だったから、タイミングが良かったんでしょうね」。
パソコンの時もそうだが、先見の明がある。しかも、行動力もある。もっとも、OKはすぐにでたが、準備には、それなりの時間がかったようだ。
・・・続き

2020年8月31日月曜日

株式会社TGAL 代表取締役 河野恭寛氏登場。

本文より~

「やっちゃん同盟」

広島市内だが、山の上だから田舎だったと河野氏は笑う。今回、ご登場いただいた株式会社TGALの代表取締役だ。ご両親は、中華料理店を経営されていた。
「親父はマツダからの脱サラ組。私が生まれた頃にはもう、中華料理店を経営していたそうです。私自身は小さな頃から、やんちゃ坊主でした」。
「やっちゃん同盟」というのをつくって、そのなかで、ガキ大将を務めていたそう。40人規模だったというから驚く。小学からサッカーをはじめ、高校までつづけている。
「中学になると釣りにもハマりました。高校でもサッカー部に入っていたんですが、休みがなく、試合をさぼって釣りに行ったこともありましたね/笑」。
高校は、名門、広陵高校。そりゃ、きびしいはずだ。
「やっちゃん同盟の時から、そうだったんでしょうが、性格的にはガキ大将なんです。高校の時だって、上級生に意見するようなタイプでしたからね。ただ、さぼって釣りに行った翌日は、反省の意を示すために、丸坊主に。案外、律儀な性格でもあったような/笑」。

目標は100台な。上司の一言。

高校時代、成績はつねにトップクラス。テストは満点。大学は指定校で法政大学に進む。
「東京に行きたいという思いがつよかったですね。当時から、起業したいとも思っていました。大学2年時から、経営のゼミに参加。経営者の本を読まされて、それが刺激になった気がします。バイトは40以上やりました。いろんな仕事をみておきたいと思ったからです」。
卒業後、「光通信」に就職されるんですよね?
「そうです。新卒で入社して5年間在籍します。実戦形式の教育でした。私の場合、いきなり代理店5社を担当させられましたから/笑」。
右も、左もわからない。研修もない。今なら、そっぽを向かれる教育スタンス。しかし、だからこそ自走できる社員が育ったのではないか。少なくとも手を取り、足を取りではこうはいかない。
とはいえ、半年もたたず福岡へ行かされ、すぐに大分へとばされる。同意はほぼなしだ。
「大分ではいきなり店長です。店と、目標だけ渡されます。『目標は100台な』って。もう必死です。半年ほど休みも取れなかった。店長といっても、1人です。あの手この手で、目標は達成しましたが」。
ただ、その会社に5年。やはり律儀だし、根性も座っている。

どん底ってあるんですね。河野氏の一言。

「当時、役員の1人が独立して、会社をつくります。私は、しばらくして、そちらに転職するんですが、ここからがけっこうきつい/笑」。
なんでも、パニック障害になったそう。じつは、そればかりか、片目が見えなくなり、足の難病にかかったそうだ。
「どん底ってあるんですね」と河野氏。
仕事がハードだったからではない。いわばスタートアップ企業。「やるからには、でっかくしてやる」という思いがつよかった。だが、うまくいかない。
「転職して、給料も半分に下がります。仕事ばっかりだから、離婚もしました。精神ももう、ボロボロで」。それまで、だれよりも息巻いていた河野氏が会社にもでてこなくなる。
「1ヵ月か、2ヵ月くらいですかね。そんな時、当時のメンバーらが、うちまで来てくれたんです」。心配する彼らに、精神を病んでいること、離婚したこと、あるけないことも正直に告げた。それでも、彼らは河野氏をみすてなかった。
「現在のうちの役員になっているのもいるんですが、あの時はメンバーたちに救われました。彼らと会話し、よし、もう一回やってやろうって」。
閉じていた心が開いたと河野氏は表現する。
「彼らがいなければ、どうなっていたかわからない」としみじみと、そうも、語った。
いまも独眼だが、あるくことに支障はない。何より、あの時、彼らと約束したように独立し、設立からまだ10年未満だが、FC含め84店舗を展開し、すでにシンガポールなど海外進出も果たしている。
じつは、河野氏はバーチャルキッチンと言っているが、いま注目されているゴーストレストランのサービスをコロナ前からはじめている。発想も広くて、ユニークだ。
このバーチャルキッチンは、フードデリバリーをイメージするとわかりやすい。フランチャイズオーナーは、30種類以上のブランドから数種類(いつでも、いくつでもOK)をチョイスし、オープンする。デリバリーだから3等立地でも開業可能で、スペースも5坪からOKだから、開業資金はそうかからない。
低投資は、いまのトレンド。個人限定だが、黒字店舗を引き継ぎ、0円で開業できるプランも用意しているというから驚きだ。
このフランチャイズビジネスが、設立10年未満で84店舗にまで急伸した理由の一つだ。ただし、急伸はしたが、まだまだゴールは先。このビジネスのポテンシャルから考えれば、まだ始まったばかりと言えそうだ。
認知度があがり、ブランドがより多くなれば、消費者にとっても、これほどうれしいことはない。「TGAL」。「テガル」だから、時代が欲している。
・・・続き

2020年8月26日水曜日

『飲食の戦士たち』、8月26日(水)、商標登録の手続完了しました。

2008年2月15日より本格的にスタートした『飲食の戦士たち』ですが、800連載の達成を機に本日8月26日(水)、商標登録の手続完了しました。
『飲食の戦士たち』のスタート時から、商標登録のタイミングみてました。
次の展開に、活用します。

2020年8月20日木曜日

2020年8月18日火曜日

株式会社ルピナス・F 代表取締役 福本義博氏登場。

  in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ルピナス・F 代表取締役 福本義博登場。


本文より~

少年、福本氏の話。

イマジネーションも、貪欲も、「ルピナス」の花言葉の一つ。ルピナスは、古代のヨーロッパでも食用されいたそうで、薬草やビールのつまみなどにされたと言われている。
むろん、こんな話をするのは、今回ご登場いただいた福本氏が設立した会社の社名が「ルピナス・F」だから。Fは、福本のFでもあるが、フリーという意味もある。
2つをむすんで、「イマジネーションを制限なく」ということだろうか。
福本氏が生まれたのは1978年12月25日。大阪府堺市の出身。
「小さい頃、両親が離婚したこともあって、私は姉2人といっしょに祖母に育てられます。姉もいましたが、甘えられる人はいなかった。そういうことも影響したんやと思うんですが子どもの頃は引っ込み思案。からだも小さかったし、スポーツとか運動はできましたが、ジブンをだすのが苦手な少年というイメージだったと思います/笑」。
それでも、友達も少なくなかった。なにも言わずとも、人を惹きつけるタイプ。そんな人は、たしかにいる。
「中学の頃はアクション俳優になりたかったですね。それもあって体操部に入りたかったんですが、私らの代につぶれちゃって。3人でやらせてくれ直訴したんですが、駄目でした。中学時代ですか? ひととおなじことをするのがイヤっていうタイプになっていましたね。たばこは吸ったことがないですが、お酒は。ちなみに、うちたばこやだったんですけどね/笑」

営業のハードな経験で、仕事観がかわる。

小さかったからだが急に大きくなったのは、高校生の時。もともと運動が得意だったこともあって、スポーツテストでは校内でも4位になる。もっとも、勉強は不得意のまま。
「現場の仕事しかできないと思っていました。当時は、飲食もイヤだったですね/笑」。
それで内装の仕事ですか?
「そうです。姉の旦那さんの紹介で入って。でも、半年で辞めてしまうんです」。遅刻も常習だったそう。ほかの内装の会社にも入ったが、こちらはケンカして辞めている。
「人間関係がイヤ、現場の仕事もあかんと思って。今度はリゾート会員権の営業に転向します。でも、ここも半年で辞めています/笑」。
ただ、辞めたのはイヤだからじゃない。
「子どもができて。完全歩合でしたから、不安定だったんです。これじゃいけないと」。
ただし、この半年で、仕事観がかわる。1ヵ月休みなくはたらくなど、ハードな経験によって、いままでとはちがった自信も生みだされていた。
「自分の子供を命をかけても守る母親の愛情のようなパワーが誰にでもあること。そしてその引き出し方というのも、この時に教わりました。じつは、これは私の一つのテーマになります」。

つぎは、飲食だ。

「この時、つぎは飲食だと。ただ、動機はほめられたもんやないですね。営業とちがって、飲食ならお客さんが向こうから来てれると思ったんです。営業にはさすがにちょっと疲れてもいましたから/笑」。
それが、ラーメンですか?
「いえ、お弁当屋さんです。ともだちのお父さんが経営されていました」。
たしかに、弁当ならお客さんが向こうから来るイメージつよい。
「で、半年くらい経った時、『五苑』のフランチャイズをすることになって、私が研修に行きます。ただ、最初の店では、研修に行ったにもかかわらず店長にはなれなかったんですけどね/笑」。
店長になったのは?
「2号店です。1号店は40坪で月商750万円。2号店は70坪80席で月商1800万円。客単価2300円くらいでしたから、それなりの数字です。それからも、じつは新店をだすたびに駆り出されます。ラーメンにであったのは、その時ですね。その時も、塩ラーメンやったんですが、お客さんからは『薄いわ』ってよう言われました。そりゃ、醤油や豚骨と比べたら薄い/笑」。
それでも、この店も繁盛店にした。20代前半の話というから驚く。

28歳、独立。

独立は28歳。あるラーメン店のフランチャイズで起業する。
「可もなく不可もなくですね。やることは、やっていましたから。私は思うんですが、飲食は経営者がふつうにやれていれば、だいたいうまくいくもんです」。
ラーメン以外で、やきとりも出店した。
「4年目くらいの時ですね。まだ、フランチャイズの契約中だったんでラーメンはできなかったんです。もっとも、いままでも、いろんな業態を立ち上げてきましたから、不安はゼロでした」。
頭を打つことはなかったんだろうか?
「そうですね。頭を打ったというわけではないですが、5店舗になってくると、さすがにセンスだけやったらあかんのちゃうかなと思って、経営塾に通って経営の勉強をはじめます」。
飲食といっても経営はむろん数字でできている。原価率、人件費率、正しい経営の下には、正しい数字がなくてはならない。その一方で、近年、仕事環境もクローズアップされている。
「労働環境と一口にいっても、改善するのは簡単やない。うちも、なんとか改善し、お休みも週休2日を取り入れようとしていた矢先に、今回のコロナです」。
経営者なら、だれもがぶつかった3文字。いや、過去形ではない。生活様式がかわれば、飲食もまた、それに合わせかわらなければならないのかもしれない。
「ほんとそうです。うちも、デリバリー、テイクアウト、通販。クラウドファンディングもしましたし、SNSもしていますし、YouTubeもしています。私が、飲食に入る時に思った、お客さんが来てくれるっていう発想。あれは、これからもう通用しないんとちゃいますかね」。 たしかに、時代は、もうちがうのかもしれない。
続き
(取材 天川美保)

2020年8月12日水曜日

祝800回 ライブコーヒー株式会社 代表取締役 大塚 徹氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” ライブコーヒー株式会社 代表取締役 大塚 徹氏登場。

本文より~

空襲を聞く。

好きになることは以外と難しい。コーヒーも一緒かもしれない。今回、ご登場いただいたのは、コーヒー豆の老舗ショップ、ライブコーヒー株式会社の代表取締役、大塚徹氏。
大塚氏が生まれたのは、1940年。その翌年に日本は、英米に対し宣戦布告している。
「私の両親は、神戸でぜんまいのつくりかたを教える仕事をしていました。国内はもちろん海外でも行っていたようです。戦後は、組合の長にも就いていました」。
父親は180センチ、体重100キロの堂々たる体躯の人だったらしい。「怖かったですね」と大塚氏。「もっとも父も怖かったが、母もまた怖かった。母は、聖路加国際病院の初代看護婦なんです」。
3歳の頃の思い出は、空を飛ぶ敵機。音が近づく度に、空襲警報がなる。太平洋戦争は1945年に終戦するから、大塚氏が5歳の時。街は焼け野原になるが、のち強烈なスピードで、復興を遂げ、近代国家の道を進む。
「父からは勉強せず好きなことをしろと言われ育ちます。私が大学に進んでいないのも、それが理由です。父から商売をしろと言われ、大阪の、赤いダイヤ、これ、小豆ですが、そういうのや、ゼンマイやらを扱っている店で丁稚奉公をはじめます。住み込みで、月給3000円。朝4時起きです」。
丁稚奉公だったが、大学に進むよりいい経験ができたにちがいない。この頃すでに、「コーヒーのビジネスをしたいと思っていた」と語っている。

20歳、東京に参上。

「東京のど真ん中は中央区でしょ。だって、そういう名前だし。でも、そうじゃないんですよね。中央区といったって、ど真ん中じゃない」と、上京した当時の話を伺うと、そう言って笑う。
大阪で2年間の丁稚奉公をしたのち、高い志を抱き、東京進出。「仕事をするなら、東京のど真ん中」。だから、中央区で仕事を探す。
「友達の寮でお世話になって、中央区の中を歩きます。その時、就職したのが『ライブコーヒー』とともに先代がされていた、もう一つの事業である『とらや商店』です。先代とはもちろん、そこで出会います。私が20歳の時です」。
先代はどんな人でしたか? と伺うと、「厳しい人だったが、なんでも自由にやらせてくれる人だった」とのこと。無論、商売人の鏡。どんなお客さんに対しても、謙虚な人だったそう。海外に何度も行かせてくれたのも、先代。感謝は尽きない。
とにかく、大塚氏、20歳。コーヒーを追いかける大塚氏の旅がスタートする。

コーヒー豆の味は、大地の味。

「コーヒーは、深煎りだとしても甘みが残っているかどうか。ブラックといっても、ただ、苦いだけではない」と教えてくれたのは、3代目となることが決まっている川島氏。大塚氏と同様、社長の大塚氏とは何の血縁もなく、「アルバイトからスタートした」という。
「私だって、血縁もなにもなく、社長に抜擢いただいたんですから。彼が社長になっても、うちでは普通。伝統かもしれませんね」と大塚氏。ただし、コーヒーを嗜む流儀はちゃんと伝わっている。
「コーヒー豆の味は、大地の味」と大塚氏はいう。だから、国ごとに味が異なる。「あと大事なのは、太陽」。収穫後の乾燥でも豆の味が決まるそうだ。
「綺麗な水、肥沃な大地、雨期乾期も大事」という。だから、赤道直下、またその周辺にある国が、栽培にも適しているのだろう。
直接、それぞれの国に行き、コーヒーを飲み、吟味する。それが、大塚氏の仕事でもある。
「私は、砂糖を入れる派なんですが、1日に何十杯も飲むわけで、それだけ飲んで砂糖を入れていたらからだに悪いでしょ。だから、10杯目以降は、ブラックかな/笑」。
好きな豆はどこの国の豆ですか?
コーヒーを知り尽くしている人には、誰もが聞いてみたい質問だろう。即答されると思ったが、大塚氏は、聞かれたくないのか、しばし答え方を探し、沈黙する。

・・・続き

ライブコーヒー株式会社 代表取締役 大塚 徹氏



2020年8月5日水曜日

MAJIMA株式会社 代表取締役社長 眞島充友氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” MAJIMA株式会社 代表取締役社長 眞島充友氏登場。
関西エリアは私と同じくらいインパクトある(笑) 天川が取材させてもらっています。

本文より~

充友。名は体を表すか。

ともだちで充たされるように「充友」と名付けられたと眞島氏は笑う。小学3年生になると、名前の通り、ともだちが周りに充ちるようになる。当時は、サッカー選手。「親父も長嶋世代で、私も野球が好きだったんですが」。案外、流されるタイプだったらしい。
「野球は中学になってからですね。高校は、登美ヶ丘高校と奈良では真ん中くらいでしょうか。その高校に進みます」。新設校で、眞島氏は4期生。勉強はできないほうじゃなかったが、いつのまにか、眞島氏のあとには、成績順でいえば1人の生徒がいるだけだった。「そりゃ、大学進学もままなりません/笑」。
プロ野球選手をめざしたこともあったらしい。しかし、普通の公立校ではなかなかそのレールには乗れない。「1浪して進んだのが、近畿大学です」。
近畿大学といっても夜学。かろうじて滑り込んだ格好だ。だが、多少なりとも、それが人生にプラスになっている。「仕事をして、勉強もしようという人たちです。そこらへんの学生とは、いろんな意味で違います」。
眞島氏も、勉強とバイトに打ち込んだ。

ロン毛で、ピアス。

「私の人生の、最初の師に出会うんです」。バイトの話をうかがっている時に、師の話がでた。師は、ロン毛で、ピアス、推定50歳。「植木屋の大将です。この人がとにかく、格好いい。ロン毛で、ピアス。たばこではなく、パイプです/笑」。
大学3年時の話。師に倣って、眞島もたばこをやめパイプにしたそうだ。
「なにが格好いいかって、スタイルもそうなんですが、生き様ですよね。植木屋なんですが、塀などの外壁もやっていたんですね。ある時、ようやく一つの塀が完成したんです。私らが、『できたぁ~』と一息ついていたら、『コワセ!』です。いい意味でも、悪い意味でも職人のなかの職人ですよね。それでいて、ロン毛で、ピアスっていうのが、ギャップがあって、またいい/笑」。
仕事がある日は、昼飯も、風呂も、晩飯と晩酌までもいっしょだったらしい。当然、大将のおごり。「もともと私は公務員になりたいと思っていたんです。なんたって、楽ちんそうでしょ。でも、言われちゃうんですね。『白シャツして、いやな上司に従って、それでええんか』って」。
師は心の自由を語ったのだろう。眞島という人間を、同類と思っての一言だったのかもしれない。もっとも大学3年生の時に、眞島氏は、夜間から通常の学部に編入。白シャツをめざしたわけではないが、ちゃんと就活もしている。

コネも効果なしだった就活戦線。

「植木屋のバイトもそうなんですが、バイトを通してだんだん社会っていうのも理解できるようになるんですね」。父親に勧められ、はじめたスナックの仕事も、社会勉強になった。
「ついでにいうと、そのスナックに通っていたお客さんが、会社も紹介してくれたんです」。最初に受けたのは、関西電力や中部電力など3~4社。公務員ほどではないが、安定志向である。
「でも、ぜんぶ落ちちゃって。そしてら、スナックのお客さんらが紹介してくれるんです。えっと、ね。たしか、ライオンとアサヒペイントと、キーエンスだったかな」。
ぜんぶ、落ちた? 
「ええ、そうなんです。当時は、コネがあれば、受かったりしそうなもんなんですが…」。紹介してくれた人に悪いことをした、と眞島は笑う。
「仕方がないので、ともだちがやっていた建築系の会社に就職します」。ダンプを動かしたりもしたそうだ。「植木屋の時もそうなんですが、ものづくりが楽しかったんですね。とはいえ、大卒でしょ。周りからしたら、それだけで気に入らないっていうかね。精神的には、しんどかったです。ただ、3年したら会社が潰れちゃって。仕事も、なくなってしまいました」。
眞島氏、25歳。

青年社長に憧れて。

この時、眞島氏ははじめて本を読んだという。題名は「青年社長」。ワタミフードサービスの創業者、渡邉美樹氏のサクセスストーリーを追ったノンフィクションである。
「衝撃を受けました。でも、その時は、感動しただけで、いつのまにか忘れかけていたんですが」。
偶然だったそう。「2000年の8月です。そろそろ職に就かないと、と、就職情報誌を買ったんです。で、開けたページが。なんだったと思いますか?」
ひょっとして、「和民」の募集のページとか。
「正解です。偶然でしょ。あれ、これどっかできたことがあるなって/笑」。聞いたことがあるな、と眞島氏がいうのも無理もない。当時、奈良はもちろん、関西にまだ「和民」はなかったからだ。
「つまり、あの渡邊さんの会社の関西進出。その1号店の募集だったんです。直接、渡邊さんともお会いできるかもしれないでしょ。青年社長って、どんな人なんだろうって。そりゃ、興味津々です」。
父親がめずらしく猛反対したそう。「夜の仕事でしょ。それに、サービス。そういうのが気に入らなかったんでしょうね」。
しかし、反対を押し切り、入社。最初の配属は、横浜。

ワタミフードサービス、入社。部長に駆け上がる。

先を急ぐと、眞島氏はワタミフードサービスで頭角を現し、あの大所帯で部長職に登り詰めている。
「大阪に帰りたい一心でがんばったのが功を奏したんでしょうか。関西1号店の立ち上げのメンバーに抜擢いただきました」。
部長が店長、課長が副店長を務めるという異例の人事だったそう。「それだけ、ちからを注いだわけですね。もちろん大繁盛です」。「こんなに流行るんや」、はたらきながら、そんな感想を口にしたそう。
「それから、2号店の店長をさせてもらって」。
その当時の仕事ぶりを、評価してもらうと「5点満点で2点」とのこと。何より、初めてのマネジメントに苦労したそう。しかし、それを乗り越え、エリアマネージャーに昇格。こちらを2年つづけ、30店舗を統括する部長に。じつは、九州エリアの立ち上げも、眞島氏が行っている。
しかし、好調だった業績にかげりも生まれ、先輩たちが次々、会社を離れる。独立支援制度を利用した先輩たちも多い。
「それに倣ったわけではないですが、私も最初に店長を務めた関西2号店で、委託の店長を務め、翌年35歳で正式に独立します」。
ホームページの沿革から抜粋すると、<2010年6月1日、語らい処「坐和民」淀屋橋店フランチャイズ契約スタート>ということだ。
「3年でお金貯めて買い取りなさい、というのが会社のスタンスでした。そして、始めたのが『炉暖』です。独立するオーナー向けのパッケージでした。夫婦2人でも独立できる小箱。既存のメニューを6割程度というルールはありましたが、あとは自由だし、店名だって、自由。私は、あったかみのある店名にしたくて、暖炉をひっくり返して店名にしました。そうです。だから、『炉暖』」。
・・・続き
(取材 天川美保)

7月3日(金)より夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」にて3連載で“ゆで太郎システム”様掲載しました。

7月3日(金)より夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」にて3連載で“ゆで太郎システム”様掲載しました。
(7月3日発行 電子版カラー)

(7月10日発行 電子版カラー)
(7月17日発行 電子版カラー)