2020年4月1日水曜日

株式会社平田牧場 代表取締役社長 新田嘉七氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社平田牧場 代表取締役社長 新田嘉七氏登場
本文より~

養豚、平田牧場の始まり。

すべては、たった2頭の豚からはじまった。ホームページを観ると、そんな文字が浮かんでくる。
今回、ご登場いただいた新田嘉七氏は、平田牧場2代目社長である。創業者は父、新田嘉一氏。嘉一氏は米作りの農家の跡取りだったが、「暮らしが豊かになれば、食の嗜好はたんぱく質に移るはず」と周囲の反対を押し切り、養豚業をはじめ、養豚の世界を広げてきた人である。
平田牧場の創業は昭和39年、1964年のこと。
「ちょうど私が小学校に上がる頃ですね。法人化したのは、昭和42年です。もともと、うちは山形県庄内地方の旧平田町ではじまります。米農家としては、父で17代目です。そりゃ、養豚をはじめると言いだせば、反対もされますよ。それでも、父は『これからは養豚だ』と反対意見も聞き入れず突っ走るわけですが、最初は値崩れとか、いろいろな問題があったそうです」。
「農家ですからね。どんな問題があったかは知りませんが、私ら子どもも仕事に駆りだされます。ただ、それが当たり前だし、日課ですからね。辛いなんて思ったことはなかったですね」。
ちなみに、新田氏が生まれたのは1957年5月30日。新田氏のちかくには、いつもペットではない「いきもの」がいた。

息子の選択。

「当初は、ダイエーさんと取引をしていたんですが。その頃のダイエーさんって言えば超大手ですからね。うちにはなんともできないような要求もされてきたようです。取引額は大きかったんですが、親父は取引を停止します。それで、額は少なかったですが生協との取引をはじめます。これが、ちょっとした話題になって、のちに親父はカンブリア宮殿にも出演しています」。
「私が、うちの会社を意識しはじめたのは高校生くらいからです。親父からは何も言われなかったんですが。なんとなく、というか」。
さすが、牧場の息子である。小学生の頃は健康優良児で、表彰もされていた。中学の最初までは野球をしていたが、急激に体が大きくなり、体調を崩して辞めてしまったと笑う。
「高校は工業高校に進みたかったんですが、親父から『大学に行け』と言われて、それでふつうの進学校に進みます。自転車で10km離れた高校に通っていました」。
「私の一つのターニングポイントは、高校時代ですね。人生には限りがあることを知るんです。祖父や祖母がいて、亡くなったり、20歳で亡くなった知人を見たりして、やりたいことをやろうと思ったんです」。
やりたいことをする。言葉で表せば簡単だが、もっとも難しい。
そんな命題を持ち、新田氏は大学に進む。進んだのは成城大学だ。
「大学ではゴルフです。親父のススメですね。同好会でしたが、部長も経験しました。スコアですか? スコアは70台で回るくらいですよ」。
大学卒業後、本来はドイツで修業する予定だったが、様々な理由で断念し、大手食品会社が運営する全寮制の学校で半年間学んだ。もちろん、いずれ平田牧場に入社するためだ。これが、息子の選択。

いのちをつなぐ。とんかつ専門店、オープン。

「『とんかつ』をはじめたのは、15年前からです。最初は、洋食系だったんですが、『とんかつ』をはじめると、これが好調で。ええ、飲食では、牛角や温野菜のFCもやりました。ただ、方針が合わずにこちらは辞めました。いまは直営です」。
平田牧場が、直営店をオープンしたのは2000年代に入ってからだ。15年前というから、「とんかつ専門店」として、ブレイクするのは2004年のことだろう。
豚を育て、直営店で食べてもらう。生産者としては、最高のシチュエーションだ。当然だが、消費地にもちかづくことになる。東京に初出店したのは調布だったらしい。
「現在は生産部門も合わせると、従業員は800人くらいです。20万頭を取り扱っています。今では当たり前になっていますが、行政と協力して、お米を豚に食べさせる仕組みをいっしょにつくりあげたのも平田牧場です。今後はもっと社会貢献をしていきたいですね」。
「たとえば、平田牧場の料理を食べたら残さない、残したくないと思えるような物を提供していくのも、私たちの使命だと思っています」。
今後のテーマは、「健康」だという。糖分や塩分にこだわるのも、その一つかもしれない。「いのち」の生産者。だから、新田氏の言葉は重く、深い。
「いちばん丁寧なブランドになろう」。ホームページには、そんな一言も添えられている。この言葉は、まさに「いのち」の重みを表している。
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株式会社平田牧場 代表取締役社長 新田嘉七氏
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株式会社Sunrise 代表 菊池厚志氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社Sunrise 代表 菊池厚志氏登場
本文より~

みんなといっしょに。

「いまも、むかしもそうですが、『だれかといっしょに』『みんなといっしょに』が好きなんです。だから、いま、この仕事をしているんでしょうね」。
今回、ご登場いただいた株式会社Sunriseの代表、菊池氏はそう言って笑う。「愛らぶ川崎」というコンセプトにも、その思いが表れているのかもしれない。
「川崎のみんなといっしょに」。
菊池氏が生まれたのは、1990年。きょうだいは3人で、菊池氏がいちばん下。父親は、菊池氏が生まれた年に「蕎麦屋」を開業している。
「小学校から高校まで、ずっと川崎です。ただ、高校は退学して、あとで通信の高校に進みます。スポーツは、小学校では剣道と水泳、中学ではバスケットボールです。このバスケのときに、みんなでやることの楽しさを知った気がします」。
勝つことより、楽しい?
「そうです。楽しい。いまもじつはそうなんです。もちろん、仕事ですから、勝つこともまた大事なんですけどね/笑」。むろん、そうだろう。とはいえ、「仲間といっしょにいること、それが目標でもかまわない」。菊池氏は、そういうことを思わせてくれる人だ。

20歳、飲食業で独立を志す。

「一つの転機はやっぱり高校を辞めたことですね。バイトしたり、あそんだり。バイトでいえば、とび職に、ペンキ屋、飲食店…、そうですね。20歳になるまで無数に経験しています」。
「そういう意味では、18からの2年間ですね。私が18歳の時に、2つ下の後輩が事故死するんです。昨日までいっしょにあそんでいたのに。人の死を経験したのははじめてでしたし、急に人がいなくなるなんてね。その時から人生観もかわりました」。
「フリーターを卒業したのは、20歳の時です。周りの人間が就職するんで、それにも多少は影響されたんだと思います」。
その時、選択したのが飲食店だった。
「バイトでいちばん楽しかったからです。私に合っているんでしょうね。親父も、そうだし、じつは祖父も飲食店を経営していたそうですから」。
なるほど、祖父も、父も、飲食の戦士。飲食の世界で菊池氏は、ある意味、サラブレッドだ。菊池という名馬は、どんな道を進んでいくのだろう?

新世界で観た未来。

当時、つまり、飲食で行くと決めた、その時から「独立をめざしていた」と菊池氏はいう。だから、狙いを定めて「串亭 リアルテイスト」で仕事をはじめたそうだ。
「一度、大阪の新世界に行ったことがあるんです。その時、あの独特の世界観に圧倒されたんです」。
 新世界といえば、串かつが有名だ。
「そう、その串かつにも、その調理法にも驚いたんです。野菜、肉、魚…、食材は、なんでもありでしょ。揚げるだけなら、オレでもできる。その時のことを思い出して、やるなら、『串かつだ』と、『串かつ』にロックオンです/笑」。
それで、串亭?
「そうです。『串亭』は、新世界のように『こてこて』じゃない。おしゃれで、恰好いいんです/笑」。
「店長は50代の女性です。かわいがってくださいましたし、キッチンには口出ししないようにされていたので、私も自由にさせていただきました。私は、キッチンで『揚げ』を担当し、勉強するのが狙いだったんですが、キッチンの先輩もいい人で、素人の私に『あれをやってみろ。これやってみろ』と勉強させてくれました。おかげで、1年半で自信がつき、その店で知り合った先輩の1人といっしょに独立します」。
じつはいったん2人で独立したが、売上が思ったようには上がらず、連日、朝11時から深夜3時までつづく仕事で心労も重なり、けっきょく言い出しっぺの菊池氏が、店を離れることになる。
「『串揚げ花火』って、いう店名です。私は、1年でこの店を離れます。無駄骨だったといえば、そう映るかもしれませんが、じつは、この店をやったおかげで、今があるんです」。
どういうことだろう?

愉快な試み。

「『花火』をオープンしたのは、学芸大学だったんです。その店に、川崎から、ともだちがたくさん来てくれたんですね。すると、ほかのお客さんからも『川崎って、面白いよな』みたいなね。そういう話がでるんです。川崎を離れて、改めて『川崎って、いいよな』って気づいたわけです。それだけでも『花火』をオープンした意味があったと思っています」。
 「川崎のポテンシャル」と菊池氏は表現する。
「これが、23歳の時です。川崎にもどって。今度は1人で起業をめざします」。
といっても、資金もなかったのでは?
「そうなんです。だから、最初に向かったのは、川崎の信用金庫です/笑」。
「うすっぺら」だったという事業計画書をもち、銀行の行き、頭を下げること、50回。出直すたびに、計画書はあつくなっていく。ついには信用金庫の担当者が折れたらしい。
「融資が下りたのは800万円。それを資金に、8坪17席でスタート。メインは、もちろん『串かつ』です」。
この時、24歳。
じつは、オープンしたとたん連日、盛況。菊池氏のともだちもせっせと顔をだしてくれたおかげで、通帳にはみたことがない数字が印字される。
一方、最初は1人でやるつもりでいたが、菊池氏を慕い、就職を希望する新人を受け入れ、8坪の店は、すぐに4人の社員でいっぱいになった。
「学芸大学の時の失敗がありますからね。最初は慎重だったんですが、だんだん『飲食ってこんなに簡単だったんだ』って。人間って、そうなっちゃいますよね。いまのナンバー2も、この時の社員なんです。よし、あいつのためにも、もう1店舗だそうって」。
それでつくったのが、川崎の超隠れ家である「華金」。知らなければ、絶対、たどりつくことができないそう。あまりに隠れ家すぎて、なかなか客が来なかったが、現在では、悪くても楽々、損益分岐点を超え、いい時には、2倍にもなるそうだ。
もっとも、いい時もあれば、悪い時もある。
「もう、6年(2020年現在)になるわけですが、『やっぱり、飲食は難しい』と改めて思い知らされたこともありますし、いま『居酒屋甲子園』で理事をしているんですが、すごい経営者がたくさんいらっしゃることも知りましたし、そうですね、『川崎』ともう一つ、『世界』って、キーワードもできました。海外で出店する店はもう決めているんです。『そうま』っていう蕎麦屋です。祖父の店、父の店とおなじ店名です/笑」。
もっとも海外に進む前に川崎でやりたいことがある。
「川崎って町全体を『食』の横丁にしたいんです」。
それが、育ててくれた恩返しだという。「食」で川崎を元気にする。それが狙い。
「川崎って、歓楽街だし、工業の町だし、雑多といえば雑多で、たしかに今もにぎやかな町なんですが、まだ、眠っているエネルギーがあると思うんです。『食』を通して、このエネルギーをひきだす、それが我々のミッションかな、と」。
なるほど、町の真ん中に「食」がある。面白い「町」になりそうだ。
菊池氏の構想は、日本各地の「食」をあつめた横丁をつくること。たしかに、日本各地の食文化が、「川崎」という横丁にならぶというのは、なんともスケールが大きく、なんとも愉快な試みだ。その時を期待しよう。
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株式会社Sunrise 代表 菊池厚志氏
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キイストンプロデュース書籍第4弾!「夢中になれ!快楽を愉しめ! 『本気力』 大誠テクノ株式会社取締役会長 柴墻宗良」が納品されました。

3月30日(月)キイストンプロデュース書籍第4弾
「夢中になれ!快楽を愉しめ!『本気力』大誠テクノ株式会社取締役会長 柴墻宗良」

わたしたちの日常生活に欠くことのできない代表的な公共交通機関である鉄道。
利用者にとって身近な出札、改札、運賃精算などの駅務や安全で安心、
快適な運行をもたらしてくれる車両のメンテナンスなどを手掛けている「大誠テクノ株式会社」取締役会長・柴墻宗良の69年の人生を辿ったものである。
大阪に生まれた柴墻だが、仕事にも趣味(いわば遊び)にも夢中になってしまう性格のようだ。
言い換えれば、仕事にも趣味にも「遊び心」満載で取り組んでいる。
本書は、思わず微笑んでしまう「遊ぶ高齢者=柴墻宗良」の愉快さや痛快さ、夢中になることの愉しさを描きながらも明日を担う後身を暖かい目線で見守り、
69年の歳月で体現した「何事にも本気であれ」という心構えや人生観を「柴墻の言葉」で綴ったものである。

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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2020年3月30日月曜日

こんな時だからワクワクすることも・・。

新型コロナウィルスでどこもが大変厳しい時ですが、
気持ちだけは前向きにと、ロト6&ロト7を会社で各社員が個々選んだ数字のもの人数分買います。
些細なことですが、ワクワクすること積み重ねれば大きな元気発信パワーになります。
来期4月から野スタート頑張ります。

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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2020年3月24日火曜日

有限会社STPDファーストゲート 代表取締役 金井秀樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社STPDファーストゲート 代表取締役 金井秀樹氏登場
本文より~

生まれは亀戸、育ちは江戸川。

金井氏は1967年、亀戸に生まれる。
「祖父は、和菓子店を経営していました。親父は自衛隊に入隊し、除隊したあと、アパート経営をやり、個人タクシーの運転手もしていました。父はとても厳しく、おかげで反骨精神が育ちます/笑」。
母親もクリーニング店やお好み焼き店を経営されていたそうだから、経営者一家でもある。ちなみに、金井氏には姉が1人いるのだが、その姉は今、占い師をされているそう。本を出すなど、著名な人らしい。
父と母、そして、姉と金井氏の4人家族。住まいは都内だが、都内といっても当時はまだ街が復興・再生する時代。いうなら昭和のど真ん中である。
「私は亀戸で生まれ、江戸川区で育つんですが、今とは全然違いますね」と金井氏。お父様の話も出たので、「どんな父親でしたか?」とたずねると、「怖い父だった」と一言。
「今じゃ、ちゃっと、ヤバイくらい」と笑う。
「ただ、当時はタクシーの運転手でしたから、私たちとタイムスケジュールが違うんです。だから、一緒に過ごすことは少なかった。ただ、休みの時などは、外食が好きな人だったんで、みんなでよく出かけましたね」。
ただ、外食に出かけたとしても、マナーが悪いといって怒られていたのかもしれない。
ところで、金井氏が高校生になると、母が店をだす。
「『ローンがあったから』と母は言います。ただ、もともとクリーニング店をやっていましたし、ある意味、商売が好きだったんでしょうね」。
金井氏も、勉強、部活の合間に仕事に駆りだされたそうだ。住宅街の、12坪の小さな店。はたして、売上はどうだったんだろうか?
それはともかく話を戻す。
金井氏、中・高の話。青春時代だ。「私は、中学から私立に進みます。進んだのは日大付属。ええ、中・高とも男子校です。どちらかといえば、勧めてくれたのは母ですね。父親は、学歴なんか、『くそくらえ』って人でしたから」。
どんな学生だったんですか?
「もう、卓球ばかり。私は、中・高の6年間を卓球に捧げています/笑」。

無駄ではなかった、大喧嘩。

「野球で言えば、PL学園」と金井氏は表現する。高校時代の、卓球部の話。
何でも、中学時代は一番巧かったそう。だから、「高校でも」と何も考えず入部したそうである。しかし、それが苦難の始まり。トレーニングは朝7時から始まる。勉強をはさみ、昼の3時から練習は再開され、夜の9時、10時までつづく。盆も正月も、むろんない。最初25人いた仲間は1年で4人になったそう。
「相当、きつかったですね。でも、私も東京都の代表にもなりましたし、この6年は、大きな財産ですね。ただ、卓球ばっかりだったでしょ。引退すると、急に、何をしていいのやらわからなくなって/笑」。
大学からは推薦の話もきたが、続けるつもりはなかったそうだ。ともかく進学したのは、日大の法学部。しかし、すぐに退学している。
どうしてだろう?
「受験シーズンの時に、ですね。じつは親父と大喧嘩してしまったんです。親父にしたら、私が高校生になってもバイトもしないでしょ。勉強はしていますが、だらだらしているように映ったんでしょうね」。
「なんだ」「なんだよ」
売り言葉に、買い言葉。だんだん喧嘩は、エスカレートする。結局、金井氏は、この騒動で家を出ることになる。
「27歳までに父さんを超えてやる」と泣きながら、啖呵を切って。
「だから、大学に進学したものの、授業料は自腹です。これが、大学を中退する引き金となりました」。むろん、ゆっくりしている時間がないというのが、最大の理由。勝負は、27歳まで。のんびりしてられない。
「今では親父とも和解しているんですが、当時は私も若かったですからね」と金井氏は笑う。
「和解」とは、よかった。しかし、相当な時間がかかったのも事実だろう。ともあれ、「父を超える」決意が、今につながっているのは、間違いのないこと。そういう意味では、仲良く青あざをつくった、あの大喧嘩も無駄ではなかったことになる。それが、親子というもんだろうか。

約束より早く、父超え、達成するも。


大学を退学した金井氏は、日本料理店に就職する。多少なりとも、母親の影響があるのかもしれない。「就職したのは、秋葉原にあった、ある割烹です。こちらで2年、勤めました。ただ、2年やっても、もちろんお金は貯まりません。それで焦るんですね。父を超えるには、とにかく店をださないといけない。店をだすには、とにかく資金がいると/笑」。
何でもするつもりだったそう。
「とにかく資金を貯めないと何も始まらない。それで朝は弁当屋、夕方から居酒屋、夜はBARと、アルバイトを3つ同時に始めます。弁当屋では、アルバイトなのに営業に回されて、営業成績は言ってはなんですが社員を入れてもトップクラスでした」。
とにかく、働いた。
アルバイト開始から2年くらい経った頃だろうか。すでに通帳には、500万円がたまっていた。「遊びの誘惑にも負けなかった」と金井氏。とにかく、目標は「父、超え」。
「いつのまにか、自分との約束になっていたんです」。だから、目もくれず走りつづけた。ただ、最初に辿り着いたのは、12坪の、母の店だった。
「私が25歳の時です。母が体調を崩して、店を他の人にお願いしていたんですが、この店を、私がやることになるんですね」。
駅から離れた住宅街の、小さな12坪の店。
「普通だったら、やっていないと思います。でも、母がやっていた店でしょ。愛着もある。もちろん、親子といっても、取られるものは、きっちり取られます/笑」。
けっきょく、大事な軍資金の500万円が消える。
「全盛期には月商300万円になった時もあったと聞いていますが、私が引き継いだ頃は120万円で、精一杯。だいたい息子がやるっていっても、だれも知らない。母の時のお客さんは、みんなもう離れていましたからね」。
「だから、なんでもやった」と金井氏はいう。
「スーパーマーケットを回って、ビラを撒くのは当然で。そうそう、発泡スチロールにお好み焼きをいれて、工場に持って行ったこともありました。『これ、食べてください』って。ヘンな目でみられましたよ、最初はね。メニューも、見直します。そういうことを2年やって、月商は400万円になります。大変でしたが、いい意味で、これも財産になりましたね。やれば、できるというのも含めて」。
当時の年収は、1000万円を超えていたそうである。もちろん、「父、超え」達成だ。とはいえ、この店は結局、義理の兄に譲ることになる。
「いろんなことが重なり、またゼロからです。神楽坂にも店を出していたんですが、こちらも、全然だめで。どうしようか、と」。
父を超えることはできたが、その向こうには、それ以上に高いカベが用意されていた。
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株式会社ピエトロ 代表取締役社長 高橋泰行氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ピエトロ 代表取締役社長 高橋泰行氏登場
本文より~

ピエトロ交響曲。

「頭の中がピエトロで埋め尽くされた」と笑うのは、ピエトロ代表取締役社長の高橋泰行氏である。
大学時代はボート部。その時の先輩に誘われて、運輸関係の大手企業に就職する。
「ピエトロに転職したのは34歳の時です。飲食とはまったくちがう仕事をしていましたから、まったくの畑違いの会社からの転職組なんです」。
知人を通じ、創業者である村田邦彦氏と出会う。
「当時、村田社長は59歳で、ピエトロは、創業20年。海外展開を志向されていた時です。社長の野心的な話を聞き、人柄に触れるうちに、だんだんと頭の中がピエトロばかりになってしまいました」。
転職するなら、年齢的にもこれが最後だと思ったそう。しかし、そう簡単に決断できない。「子どももまだ小さかったですしね。ただ、妻は薄々気づいていたようです」。転職の話を切りだすと、奥様はためらうことなく賛成してくれたそうだ。「でも、親の説得が大変でした。当時は今とちがって転職は稀なことでしたから。まして、畑違いの飲食業でしょう?」。
ただ、いかに反対されても、ピエトロという会社と、その創業者が指揮する「ピエトロ交響曲」は、頭から離れなかった。

創業者・村田邦彦氏の未来図。

いろいろ不安もあったとおっしゃいますが、そうはいっても高橋社長のなかには、飲食の世界で広がる未来図があったんじゃないですか?と問いかけてみた。
「もちろん、そうですね。希望観測的な…。ただし、入社まもない頃は、創業者である村田社長がつくった未来図を観ていただけかもしれませんね。なにしろ、村田社長は、最初にお会いした時から、私にとっては英雄だったんです」。
村田氏は、いうまでもなく日本を代表する経営者の1人で、いち早く、スパゲティに魅了され、その料理に可能性を見出し、さらに、レストラン生まれのドレッシングを世に送り出した人でもある。
「村田社長も私と同じサラリーマンの経験者なんです。ただ、それ以前が料理人だったんですね。ピエトロのレストラン1号店をオープンしたのは、39歳の時だったとおっしゃっていました」。
むろん、創業シェフは、村田氏本人。
始まりは、1980年。福岡市・天神に創業したパスタ専門店「洋麺屋ピエトロ」である。翌1981年には、早くもレストランで提供していた手作りのドレッシングの店頭販売を開始している。
「当時はスパゲティといえばまだミートソースかナポリタンの時代ですね。そんな時代に、高菜や明太子、納豆などの「和」の具材で、「洋」のスパゲティにチャレンジしていきます。当初から海外にも目を向けていました。海外1号店は、ホノルルにオープンした『アンジェロピエトロホノルル店』。1992年のことです」。
高橋氏が転職したのは、34歳の時、1999年のこと。企業力はあったが、まだ、東証二部上場も果たしていない。
「それでも、村田社長の頭のなかには、壮大なスケールの絵があったんです」。
むろん、当時、村田氏に惹かれたのは高橋氏だけではないだろう。店舗や工場で仕事をするスタッフたちも、きっと、そうであったはずだ。

創業者の宿題。

「私は、社長の秘書として、ピエトロに入社しました。出張がある度に、ご一緒させていただきました。正直にいうと不安もありましたが、昔から一度、心が動いてしまうともう止まりません」。
高橋氏をそこまで動かしたのはなんだったんだろう? 改めて聞いてみた。
「事業の将来性とかそういうのもありましたが、何より英雄の下で仕事ができることですね。村田社長に心をわしづかみにされ、動かされてしまったわけです」。
時代を切り開く、英雄。立身出世という言葉が適切かどうかわからないが、村田氏もまた一介の料理人から経営者となり、日本を動かした人である。その英雄の下で、高橋氏は仕事の喜びを見出したにちがいない。村田氏の発想は、空を駆けた。それを、高橋氏が追う。
「怒られることばかりだった」と高橋氏は、当時のことを懐かしそうに語る。
「秘書からスタートして、まずは海外事業、それから通信販売部門や食品部門、製造部門の役員なども経験しました」。
村田氏による英才教育?
「う~ん、そうかもしれませんが…」。
それから、社長ですか?
「そうですね。村田社長が急逝されて、会長と、専務と私の3人が代表取締役となり、私が社長に就任します。村田社長が現役の時に、東証二部から一部に上がったのは大きな喜びだったと思います。ずっと望んでいらっしゃいましたから」。
村田氏はどんな人だったんですか?
「創業者ですからね。パワフルだし、厳しかった。でも、スタッフをことのほかかわいがった。私も、かわいがっていただきました」。
ところで、社長に就任されてからレストラン部門を立て直されていますね。
「ドレッシングなどの食品部門は好調だったんですが、レストラン部門は、赤字が続いていました。レストラン事業は、我々の創業事業ですし、そこから商品開発など食品事業にフィードバックされることも少なくない。だから、この部門が元気でなきゃいけないんです」。
村田氏が残された宿題かもしれませんね? そういうと高橋氏は、「そうかもしれませんね。社長として出席した最初の株主総会では、株主のみなさんに『もう少し時間をください』と言いましたしね」といって笑う。
創業者の宿題ともいえるレストラン部門の再生に向けて、スタッフと一丸となって動き始め、手応えをつかんでいる。社長に就任した翌々年には6期ぶりに黒字化となった。
2019年3月期の短信では、レストラン事業のセグメント利益は32百万円。前期は、72百万円の損失だったからV字回復だ。
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2020年3月20日金曜日

事業継続緊急対策(テレワーク)助成金申請します!

東京都は、新型コロナウイルス感染症等の拡大防止対策として、令和2年3月6日より都内企業のテレワーク環境整備を支援する助成金の募集を開始しました。

枠が限られてるのでキイストンも早速申請の用意をしました。
申請間に合えば嬉しいな〜。

もし東京都に事業所ある企業様はお勧めします!
限定100社なので急いでください。

事業継続緊急対策(テレワーク)助成金
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000080.000052467.html

中小企業は、自分たちで知恵絞り、ここ乗り切らないと!


夕刊フジ・ロック酒場にNOVERAのアンジーが訪問、もつ焼きでん内田社長との対談実現!!

夕刊フジ・ロック酒場にNOVERAのアンジーが訪問。
NOVERAの大ファンでもあるロック魂持ったもつ焼きでんの内田社長にとっても夢のひと時だったようです。
コンサートは8月に延期になりましたが、夕刊フジ・ロック酒場は28日まで実施してます!
(夕刊フジ・ロック酒場)
(もつ焼きでん・内田社長とNOVERAアンジー 初顔合せ)
(内田社長とNOVERAアンジー対談)
(夕刊フジ・ロック酒場/もつ焼きでん水道橋店)
(OPEN前の準備中)
(夕刊フジロックセット)

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コツコツといろんな飲食企業様のフォローしています。

BSの取材先としてある地方の飲食企業様決定。
新聞メディアでの掲載4社進行中。
キイストンプロデュース第4弾が3月末に納品。
キイストンからの書籍化開始。
飲食企業様と飲食企業様とのコラボ計画。
新型コロナウイルスに関するアンケート調査計画。

新たな試み含め、日々やるべきことをコツコツと。
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2020年3月17日火曜日

株式会社ティーカンパニー 代表取締役社長 菊池 尚氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ティーカンパニー 代表取締役社長 菊池 尚氏登場
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本文より~

上海での1日は、ティースタンドで飲むティーで始まる。


株式会社ティーカンパニーのホームページには、次の一文が掲載されている。
「新鮮なクリームチーズをたっぷり使い、岩塩を加えて甘じょっぱく仕上げた自家製のチーズフォームを使ったチーズティーは、一度飲んだらまたすぐ飲みたくなる自慢の一品」。
チーズティー? と首を傾げたくなった人は、ググってみるといい。タピオカドリンク同様、注目されていることがわかるだろう。
中国や台湾のお茶の文化が、だんだんと日本に根付き始めている証なのかもしれない。「チーズティー」においても、早くも競合している状況だ。
次々と登場する「チーズティー」のショップのなかでも今回、ご紹介するティーカンパニーは、マスコミの注目度も高く、日本流に言えば本家本元というイメージ。何しろ、本格的なチーズティーを日本で初めてリリースした会社である。
では、どのようにして、チーズティーの本家本元は、誕生したのだろうか?
創業者の菊池氏は、以下のように説明する。
「仕事で3年くらい上海にいたことがあったんですが、その間、ティースタンドに通い、ミルクティーを毎日と言っていいほど飲んでいたんです。チーズティーは、もちろんですが、お茶を楽しむ大陸の文化は、いずれ日本でも流行るのではないかと。じつは、知人がタピオカドリンクのショップをやろうと思ったという話もヒントになりました」。
これはと思えば、行動は早い。
「知人の話を聞いてすぐに台湾・中国に行き、2ヶ月かけて現地の工場やブランドと打ち合わせをし、2017年12月にティーカンパニーを立ち上げます。そして、2018年5月、1号店を恵比寿にオープンしました」。
このインタビューは2019年10月に行っているので、まだ1年と少ししか経っていない。だが、すでに12店舗をオープンし、前述した通りマスコミの注目度も高く、様々なメディアで取り上げられている。
では、「チーズティー」も気になるところだが、いつも通り、創業者である菊池氏の足跡を追いかけてみることにする。

高校生の時に早くも起業を志す。

菊池氏が生まれたのは、1987年8月5日。生まれは中国だが、出身は東京と言っていいほど、もう日本の暮らしが長い。
「私が日本に渡ったのは、4歳の時です。両親は2人とも中国人で、父親が30歳の時に留学で日本に。その時、私が4歳だったわけです。日本語はすぐに流ちょうになりました。友達やTVが、日本語の先生でした」。
最初は福岡にいたらしいが、父親が大学院に行く時に、今度は横浜に引っ越している。
「中学2年から高校1年まではオンラインゲームにはまっていた」というから、いえば、どこにでもいる日本の中・高校生だ。しかし、一つちがうとすれば、高校生の時に早くも独立を決意していたことではないか。なんでも、たまたまカナダの起業家の本を読んだことが、きっかけだそう。「たまたま」と言っているが、たまたま起業家の本を読む高校生はそういない。このあたり父親の影響だろうか。実際、人生でいちばん影響を受けたのは?という質問に、カナダの起業家の本と一緒に父親を挙げている。

,がある1日。

「大学は明治大学に進みました。3年の時に中国に交換留学に行っています。就職したのは、あるシステム会社です。法人営業に興味があって、入社を決意します。同期は300人いました。こちらの会社では2年弱、勤務します。退職した理由は、休暇中に行った上海で出会った新しいビジネスに刺激されたからです」。
高校生の時から頭にあった「起業」の二文字が起動する。
「最初の会社を退職して、そうですね、半年くらいベンチャーで勤務します。でも、条件も、当初の話とはちがい、ビジネスもうまく行くとは思えず、退職します」。その後は、先輩と貿易会社をやりつつ、中国系の広告代理店の日本法人を立ち上げたりする。 「その後に私自身が、知人と共同で貿易会社を立ち上げます。しかし、管理はすべてお任せしてティースタンドを開始するんです」。ティースタンドを立ち上げた背景はすでに書いた通り。
最初からうまく行きましたか?と質問すると、「ぜんぜん」と笑う。「5月のオープンに向けて、4月にプレオープンしたんですが、お客さんがぜんぜんいらっしゃいません。そこで、5月のグランドオープンに向け、プレス記事を出したところ、SNSで拡散して」。
続きは、いうまでもないだろう。
初期投資は、内装や設備で1500万~2000万円かかるが、半年あれば回収ができるという。しかも、今まで出店した12店舗の殆どが同様のハイペースで回収が進んでいるという話だ。
冒頭でも書いたように、海外、特に台湾茶や中国茶に関する日本人の評価は、定着しつつある。タピオカブームが背景にあるのかもしれない。しかし、タピオカドリンクやチーズティーといったアイテムだけが、その主役ではないだろう。
「『コンマ』が、主役になるかもしれないですね?」というと、菊池氏は頷いた。「コンマ」とは、株式会社ティーカンパニーが運営する、日本発ティースタンド「comma tea(コンマティー)」の、コンセプトである。ホームページでは、「あなたの一日に小さなコンマを」と謳っている。
容器を手に取りながら、「ホラ、ここにもあるでしょ」と菊池氏。
たしかに、すべての容器に「,」が描かれている。
ほっと一息つくことで、文脈も、日常も、明瞭になる。1杯のティーがもたらす、日常は、今よりも、きっと素敵だ。
ちなみに、「王様のブランチ」や「ホンマでっか!?TV」にもコンマティーのチーズティーが取り上げられている。タピオカやチーズティーというより、ティースタンドとしてブランド化していきたいというのが、菊池氏がめざす方向。新商品の開発も、2~3ヵ月間隔で進めており、スイーツ系の商品も拡大していくというから楽しみだ。
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有限会社ウッドボーイ 代表取締役 塩塚 晃氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社ウッドボーイ 代表取締役 塩塚 晃氏登場
本文より~

官舎住まい。

官舎に住んでいた。父親が防衛相に勤務していたからだ。母親も教育関係の仕事をしていたこともあって、勉強熱心。塾にも早くから通っている。
「父親の仕事の関係で、引っ越しも少なくなかったです。福岡、立川、熊本、埼玉と、高校時代まで転々としました。私が小さい頃、父親は予算をしていたので、忙しかったのでしょうね。遊んだ記憶はほぼないです」。
父親の影響か、政治などにも興味があった。最初になりたいと思ったのは考古学者。
「小学校の頃は、勉強ばかりしていました。ただ、中学受験の時に熊本に引っ越すことになってしまったので、受けたいと思っていた学校にも進むことができず、その反動で今度は勉強をしなくなってしまいました/笑」。
授業では、歴史が大のお気に入りだった。
小学生の頃の勉強で、高校、大学の受験も乗り越えたそうである。

占い師。

「官舎っていうのは、住んでいる子どもたちの学力が高いんです。熊本でも、官舎の子どもたちの偏差値は高かったと思いますね。だいたいみんな同じ中学に通うわけですから、ライバル意識は親にもあったんじゃないでしょうか。そうですね。東京といっても立川なんですが、東京から同年代が来たわけですから、最初はみんな興味津々です。『東京は空気が汚いんか』みたいなね。私のほうは、すぐに熊本弁にも馴染みました。東京とは、異なる都市の文化や歴史に触れて、それがとても新鮮でした」。
高校になって、今度は埼玉に移る。「大学は法政大学に進みます。ただ、高校でもぜんぜん勉強はしていなくって、大学でも、勉強はせず、実は学校にもぜんぜん行ってないんです/笑」。
大学は1年で中退する。
「大学にも行かずバイトばかりしている息子をみて、母が心配して、ある占い師の下に行かされるんです。ええ、ぜんぜん信用もしてないです。でも、たまたま足が向いて」。
占い師から、「靖国神社にもう一人のあなたがいる」と言われ、靖国神社に行くと、そっくりの写真をみつけることになる。これが、偶然か、必然かはいまもわからない。ただ、前世の記憶らしきものが、フラッシュバックしたのは事実。
神社の境内で、「うそだろ」とつぶやいていた。塩塚氏が、19歳の時のことである。
占い師はもう一つの占いを残している。「32歳で社長に」。それがもう一つの占いだった。

中国。

「そうですね。いろんなことを言われているんですが、その占い師から『北京に行け』とも言われるんです。それで、不思議なことに中国に行くと、とんでもなく中国に惹かれるんですね。最初は旅行でしたので、およそ2ヵ月。ええ、中国全土を回ります。それから、一度、帰国し、今度は、上海の大学に進みました」。
中国では、まったく日本のコミュニティには交らなかったそう。だから、「語学を修得したのは、いちばん早かった」と豪語する。中国流の付き合い方も学んだ。
「たとえば、中国では割り勘っていう習慣がなくって、女性といっしょに食事に行けば、支払いはすべて男性。男性同士なら、『オレがだす、いや、オレが』ってなるんです/笑」。
「その一方で、中国人は本性をさらけ出すことがいいことだと思っています。だから、お酒も浴びるほど飲みますね。日本でいうヘベレケになって。でも、たとえば招待しているほうからすると、それが嬉しいことなんです。そこまで、楽しんでくれたって」。
なるほど。そういう国なのだ。イメージとは少し異なっていたが、それが真実なのだろう。
「大学を卒業して、帰国します。その時、『モミアンドトイ』っていうクレープ専門店に就職しました。ちょうど、中国に進出する時で、『なら、ここがいい!』と思って」。

社長就任。


何と何がつながっているか、わからない。
一つ言えるのは、中国という莫大な人口を抱えた国の黎明期には、様々なチャンスがあったことだ。そのチャンスは、国境を越え、我々日本人にもつかむことができた。
「最初は、その『モミアンドトイズ』の社員として向こうに行くんですが、実は、中国進出をコンサルティングしてくれていた会社があって、私自身はそちらに転職するんです。ええ、日本企業が中国に進出する時です。私もコンサルタントとして、様々な会社の進出をお手伝いします。そして、そのお手伝いを通して、日本を代表するような会社の社長様とも知り合いになっていくんです」。
 「つい先日もあの人にあった」と一部上場の社長の名を挙げる。
「中国というフィールドでは、歳が若くても私たちのほうが先輩なんです。中国で成功するためには、中国を知らなければならない。日本とおなじようにやると、失敗します。だから、私たちの仕事も、にぎわったんだと思います」。
ところで、だんだんと、予言の32歳がちかづいてくる。
「ええ、そうですね。とくに意識していたわけではないんですが」と塩塚氏。
「ただ、ある会社の社長さんから売却の相談を受けた時に、たまたまその会社の商品が好きで、『それなら、私にさせてください』と立候補するんです。それなりに出店もされていましたので、買い取るにはそれなりのお金もいったんですが、親しくしていた台湾人の資産家が、『じゃぁ、買えばいい』といって、資金をポンとだしてくれたんです。ハイ、オーナーはいまもその方です。ただ、ぜんぜん経営には口出ししないし、月に1度ふらっと来日して、『どうだ』っていうだけで。たぶん、日本が好きだから、日本に来る口実が欲しかったんじゃないかなって思うようにしています/笑」。
「その会社が、いまのウッドボーイ?」
「ええ、そうです」。
2018年のこのインタビューで、4年前というから、2014年。占い通り、32歳で社長に就任することになる。
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2020年3月15日日曜日

3月10日(火)発行の日刊ゲンダイにてナナシフードサービスの平英樹社長が掲載されました。

とんこつラーメン七志のナナシフードサービス平英樹社長が3月10日(火)発行の日刊ゲンダイ(全国版)にて取り上げられました。

また、ナナシフードサービス様ですが、4月に新たな試み計画されています。
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2020年3月10日火曜日

株式会社門崎 代表取締役社長 千葉祐士氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社門崎 代表取締役社長 千葉祐士氏登場
本文より~

奥羽山脈の麓、岩手県一関市。

牛の鳴き声を聴いて育った。今回、ご登場いただいた千葉氏の父親は家畜商を営み、牛の目利きでは東北でも知られた存在だった。
舞台は、岩手県の一関市。岩手県は三陸海岸で有名だが、一関市は内陸にある。千葉氏が小さい頃は、「川崎村」という名称だった。小学校は1クラスだけ。人口は少なかったが、自然の豊かさが魅力的な土地だった。
中学生になると、音楽に興味がわく。当時、流行っていたのはスピーカーとチューナーが一体化したオーディオコンポ。価格は15万円と安くはなかったが、どうしても欲しくなり、新聞配達をはじめる。朝4時半過ぎに起き、新聞を配る。毎月の給料から7000円を母に預けた。毎月7000円だから、2年でおよそ15万円がたまる計算になる。
いよいよコンポを買おうと、お金の話を母にすると「生活費に遣ってしまった」と言われ、その時はじめて、「うちが裕福ではないとわかった」と千葉氏は話す。

生産者と消費者をダイレクトに結びつける。

大学に進学した千葉氏は、いちばん時給が高いという理由で、個別指導の大手塾でアルバイトを始める。全国に130校あり、講師は山ほどいたが、千葉氏はそのなかで、売上3位の成績を残している。上位にランクインするのは、プロ講師ばかり。アルバイトは、千葉氏だけだった。
「『千葉ちゃんはすごい』って言われてました。じつは卒業したらそのまま、フランチャイズで、その塾を経営しようとも思っていたんです。でも大学4年のゴールデンウィークの時かな。営業部長から『新卒の就職活動は、一度しかできないから』とアドバイスをいただいて、たしかに、その通りだと。それで就職活動を開始します。1ヵ月ほど活動して、大手食品フィルムのメーカーから内定をいただきました。この時は、一千億円企業の社長になるのも悪くはないなぁ、と思っていました」。
この会社で、千葉氏は、ダイレクトマーケティング時代の到来を予想する。しかし、予想はしても、何を作るか、何を売るか、手段も方法も、知らない。
「やっぱり起業をしたいと考えていました。でもまだ20代でしょ。未熟なまま会社を辞めていいのか。そういう思いもあって相当、悩みました。ただ、一方で『ダイレクトにユーザーとつながるビジネス』というテーマは、頭から離れない。悩みながら、岩手にもどったある日のことです。牧場で飼育している牛が、モーっと鳴いたんです。その声でひらめいたんです」。
うちの実家はいうならば肉の原料メーカーである。
「アイデアはいいと思っていたんですが、ひとつ問題点がありました。牛の値段はセリで決まります。つまり、生産者に値段の決定権はないんです。それでは、私がいうダイレクトマーケティングではない。いろいろ悩み、セリに回さず消費することを選択します。消費といっても、私が食べるわけじゃない。直接、消費者に食べてもらう。そうすることで、生産者と消費者がダイレクトにつながるんです」。
「どちらが上とか下とかじゃなく、生産者と消費者は互いに影響を及ぼしている」と千葉氏はいう。その両者を結びつける手段として、千葉氏は飲食事業を開始する。
27歳の時のことだ。

オーダーできるのは、おまかせコースのみ。

理念はただしい。ただし、消費者は、理念では動かない。
「ダイレクトマーケティングができる形で飲食をやろうと思って、岩手県一関市に『五代格之進』をオープンするんですが、なかなかふるいませんでした。最高の黒毛和牛。でも、当時は輸入牛が一般的でしたから、それと比べると、比較にならないほど価格が高かったんです」。
工夫も重ねた。ただ、今思えば、裏目にでることも少なくなかった。韓国風の味付けにしてみたのも、その一つ。黒毛和牛は、肉に風味があり、甘みもある。だから、にんにくダレは、不要。試行錯誤の結果、答えは「そもそも肉が違うのだからほかを真似ても意味がない」だった。
そして、今ではポピュラーとなっている、「五代格之進」オリジナル「塩胡椒、山葵、ポン酢で食す」が生まれる。黒毛和牛の本来の旨味は、消費者を魅了した。
しかし、千葉氏は、まだ納得しない。
「牛肉といったら、ヒレやサーロイン、ロース、モモなどが一般的。ただ、うちみたいに一頭仕入れしないとわからないのですが、和牛は82の部位に分けられるんです。たとえば、カメノコ、サンカク、トウガラシ、ネクタイなどと細やかに切り分けられ、味もちがう。そういう部位ごとに異なる味も、ちゃんと楽しんでもらいたいと思ったんです」。
その思いが募り、2000年から「おまかせコースだけ」という思い切った作戦にでた。
「私が消費者の方に食べて欲しいと思ったものを食べていただく。これなら部位ごとに異なる味を楽しんでいただけますからね。そうしないと、無駄な肉がでてしまい、生産者という立場からすれば、つらいことです」。
単品を注文したい客は離れたが、大半の消費者は「コースオーダーだけ」にも好意的だった。それは、そうだろう。専門家が勧める今まで知らなかった旨い肉が食べられ、「肉」の世界が広がるのだから。
ただ、好意的といったが、繁盛しても原価をかけているぶん、赤字ギリギリだった。このあと東京に進出するのだが、それも青息吐息だった。と笑う。

食の未来は、生産者だけじゃつくれない。


「東京に来てからもたいへんだった」と千葉氏。岩手と東京の往復は、夜行バス。東京では、姉の嫁ぎ先の物置を借りて寝泊りした。
「店舗数としては、現在、13店舗まで広がりました。しかし、今も昔もですが、店舗数の拡大だけがテーマじゃない」。
「日本の食の未来を、消費者と生産者とともにクリエイトする」。これが、千葉氏のかわらぬテーマである。「消費者と生産者とともに」がポイントだ。生産者だけで、「食の未来」はつくれない。
だから、千葉氏は、店舗を単に「食事をしていただく場所」とは位置づけない。「生産者と消費者をつなぐハブだ」という。なるほど、連鎖の「鎖」だ。この「鎖」は、「証券取引所」の役割も担っている。つまり「格之進」で食事をした消費者は、次の生産に投資していることになる。
「安く仕入れ、安く売ればいいなんて店じゃない。お客さんだって、ぼくらの仲間だと思っていますから」。
この話のあと、千葉氏は「CSA」という聞き慣れない言葉をつかった。調べてみると、「コミュニティ・サポーテッド・アグリカルチャー」の略で、アメリカで広がっている生産者支援型消費のことらしい。「消費者が支持する生産者」である。「これは、私たちのテーマにも沿った考えかたです。だから、うちは、CSAを推進するハブでもあるんです」。農家がいい肉を育て、それを消費者がハッピーな表情で食べる。この「連鎖」。同時に、消費は、投資となり、生産者をサポートする原資となる。
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株式会社T.H.S 代表取締役 金本正彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社T.H.S 代表取締役 金本正彦氏登場
本文より~

青森から東京へ。

青森県五所川原市は、津軽半島の中南部に位置する。
「田舎だから、小学校の校庭だって広いんです。冬になるとね。雪がいっぱい降るわけです。その雪で、雪山をつくって、みんなでスキーとかをしていました」。
青森の少年はたいていスキーができるんだそう。そのあたりはいっしょだが、家庭の様子はもちろん異なる。
「うちは、父が絶対君主でした。当然、敬語です。そうですね。豪快な人でしたね。うちは、5人きょうだいなんですが、長男が秀才で。父の接し方も、長男と、そのほかってイメージです/笑」。
上京したのは、金本氏が小学6年生の時。
「兄が東京の学校に進む時に、みんなでいっしょに東京に来ます。父にすればいいきっかけだったんじゃないでしょうか。いつまでも青森の田舎でっていう人じゃないですから。父の仕事は、不動産と金融です。商才にたけた人でした」。
東京で、父親の事業は拡大する。
兄は医者をめざし、まっしぐら。
「中学は四谷にある中学なんですが、野球部がなかったんです。それで、ソフトボールなんですが、あの3年間がもったいなかったです」。
最初はジョークかなと思ったが、真剣だった。野球の話である。
「青森ですからね。当然、ジャイアンツ。長嶋です。むろん、小学校から野球をはじめた私はサード、四番。目標は長嶋です。しかし、野球部がない中学を選択したのは、痛恨のミス。高校になって帝京に進み、野球部にも入部して、さぁ、長嶋へ向けまっしぐらだと思ったんですが、3年のブランクはいかんともできませんでした」。
けっきょく、1年で野球部を退部している。「だいたい、これが高校までの私ですね。う~ん、そうですね。やっぱり、中学に野球部があったら。いまじゃ、どっかのプロ野球の監督になっていたかもしれません」。

理容の道をまっしぐら。

「長嶋になる目標がなくなった私は、もう、やることがないんです。その時ですね。いつも通っていた床屋さんに、そんな話をしたら、『床屋がいいんじゃないか』って言われたんですね。たしかに、当時、床屋っていうのは、いいビジネスだったんです」。
それで、理容の専門学校?
「そうなんです。家族も賛成してくれましたし。専門学校のなかにも、美容と理容があるんですが、私は理容のほうに進みます。断然、美容が人気だったんですが、ビジネスとしてかたいのは理容のほうだ、と。男女の割合は6:4くらいでしょうか。そうです。意外に男性が多いですね。ともだちにも恵まれました。おかげで悪い道には進まず、1年で卒業し、当時、5店舗くらいだったかな。有名な理容店に就職できました」。
「これは、飲食もおなじだと思うんですが、朝6時から夜9時まではたらき詰めで、仕事が終わってから、練習です。ええ、ふだんから店で寝泊まりです。それでも、1年目は何もさせてもらえません。観ているだけ。時々、タオルをもっていったりはしますが。2年目からはシャンプー、シェイビングです。実際に仕事をするのは3年目から。給料は1万7000円くらいだったんじゃないかな。大学初任給が7万円くらいでしたから、まぁ、劣悪ですね/笑。3年、経験し、一つ目の店は退職しました」。
「ある程度のことはできるようになった」のが、退職理由。
「独立って目標がありましたから。理容っていうのも、飲食とおなじで、店によって違うんですね。だから、いろいろな店を経験するのも大事なんです。10社くらい転々としました。最終的には一つの会社に落ち着き、それなりの地位で仕事をしていたこともあって、なかなか独立というわけにはいきませんでした。独立したのは、息子が小学1年の時で、私が39歳の時です。資金もなかったので、国からお金を借りて、平成3年に1号店をオープンします」。

2号店は、やきとり?

悪くなかった。業績の話である。
「駅からちかくて、お客さんにも通っていただきました。私の城です。たいへんでしたが、たのしかったですね。最初はチラシをまいて。口コミで、次々、新しいお客様がいらしてくださるんですから、うれしくないわけがありません」。
金本氏は、飲食とは異なる世界でずいぶんと長く仕事をする。
どうして飲食に?と聞いてみた。
「じつは2号店を出店するつもりだったんです。カット中心の安い理容店です。融資も下りて、場所も決まったんですが、理容師がいない/笑」。
「その時、知り合いが、『だったらやきとりはどうだ? 儲かるらしいぞ』っていうんですね。まだ、内装には手をいれていなかったので、『そうだよな。やきとりをやれば、最悪でも、やきとりが食べられるな』って/笑。だいたい、こんな軽い気持ちでやれば、失敗します」。
失敗?
「そうなんです。私は料理ができないから、人にお願いするわけですが、ちょっと問題がある人というか、ぜんぜん売上もあがらなかったですね。けっきょく違う人にお願いして、いい感じになっていくんですが、いい教訓ですね。最初にお願いした人の時は、理容店の利益をだいぶもっていかれました/笑」。

もつ鍋から、ラーメン、イタリアンバル、そして、ハレパン。

それでも「飲食を辞める」道はなかったようだ。
「現在、うちは、やきとりから、もつ鍋、ラーメン、そして食パンをやっているんですが、起爆剤となったのは、新宿の東口にオープンした2号店『もつ鍋 もののふ』です。10坪くらいのお店なんですが、次々とお客様がいらして。その時、息子が会社に入ります。忙しくて、手伝ってくれと声をかけたのが始まりです。息子がいたおかげで、ラーメンの話がきて、息子があるラーメンの塾に入って。彼が、その塾の一期生なんです」。
そこから生まれたのが「マルキン」ですか?
「そうなんです。らーめんを教えてやるという話が来て、息子を預けて。彼の卒業を待ってスタートしたのが百年味噌ラーメン『マルキン』です。いまでは12店舗を出店します」。
2019年現在でいうと、その百年味噌ラーメン「マルキン」が12店舗。<もつ鍋&串焼き「鳥正」><「絶品博多もつ鍋「もののふ」><イタリアンバル「38炭リッチ」>各1店舗。そして、2018年5月にオープンした、<純生食パン工房「HARE/PAN」>。こちらがいま猛烈なスピードで成長している。
「直営は1店舗ですが、フランチャイズが20店舗あって、年度内に40~50店舗出店するのが、だいたい決まっています。店で焼いていますから、ショップは5坪でも、工房を入れれば全体で18坪はいりますね。ただ、加盟金は高く設定していませんので、はじめていただきやすいスキームになっています。もっとも飲食をやっている人に限定させていただいています。パンですから食中毒の心配などはないんですが、ブランドを守るという意味でも、ご理解いただいています」。
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2020年3月9日月曜日

逆境の今こそ変革のチャンス。

飲食業界は新型コロナウィルスの影響で大きな被害を受けています。
ただ、時点で言えるのは消費が景気の影響で落ちてるわけではなく、コロナの影響で外出控えてるだけです。
※この状態が続けば消費も減るが・・・。
実際、お弁当等の中食やデリバリーは好調です。
私は昨年11月から“Uber Eats”の顧問として大手企業様ご紹介してますが、
中堅含め個店もぜひ活用されるべきです。
もちろん“出前館”でもいいと思います。
また、飲食店様でなかなか売上伸びないのと人材確保が厳しい企業のI様。
ある店舗でお弁当やったところすごく売れたので考えた挙句お弁当事業を作られました。
そこで1人シニアの方ご紹介し入社されたのが1月。
まさか新型コロナウイルスで各飲食店舗の売上がここまで落ち込むなか、このお弁当事業が絶好調で、飲食店舗の売上カバーするとは・・・。

常にニュートラルな気持ちで状況に合わせて対応できるかできないかで今後変わってきます。
変化できる企業とそうでない企業はこんな時こそ、その分かれ目の時。
キイストンは1992年創業し、その間にバブル崩壊、リーマンショック、東日本大震災、そしてキイストン上場残念など数多く厳しい状況を経験しその都度乗り越えてきた中で得たことです。
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