2020年11月30日月曜日

10月17日(土)より5連載で日刊ゲンダイ “飲食のプロが見つけた、バッカスがいる店”に「ティーケーエス」斎藤浩司社長が推薦の5店舗が紹介されました。

10月17日(土)~11月14日(土)の5連載で日刊ゲンダイ “飲食のプロが見つけた、バッカスがいる店(旧 グルメ社長の食い倒れ日記)”に「ティーケーエス」斎藤浩司社長が推薦の5店舗が紹介されました。



9月12日(土)より5連載で日刊ゲンダイ “飲食のプロが見つけた、バッカスがいる”に「神楽坂くろす」黒須ゆきこ女将が推薦の店舗が紹介されました。

9月12日(土)~10月10日(土)の5連載の日刊ゲンダイ “飲食のプロが見つけた、バッカスがいる店(旧 グルメ社長の食い倒れ日記)”に「神楽坂くろす」黒須ゆきこ女将が推薦の5店舗が紹介されました。

2020年11月24日火曜日

株式会社つばめ 代表取締役社長 石倉知忠氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社つばめ 代表取締役社長 石倉知忠氏登場。

本文より~

創業1930年。

「特急 つばめ」が走る。デビューは1930年。「つばめグリル」と同い年。名に、由来がある。
ホームページによれば、もともと「特急 つばめ」は「新橋」駅にも停車していたそう。それが停車しなくなったことで、「つばめ」の名を惜しむ声があがり、同駅ちかくにあった小さなレストランに、その名が刻まれたということだ。
ちなみに、「特急 つばめ」は、東京・大阪間を8時間20分で走破している。はるか昔の話。
この超特急の名を受け継いだグリルにも年が流れ、いまや4代目の店主となる。その4代目が、今回ご登場いただいた石倉知忠氏。社長に就任したのは2020年の5月。このインタビューが同年7月のことだから、まだ1年も経っていない。どんなお話が聞けるだろう。
「今年で弊社は90周年になります。創業者は曾祖父です。2代目の祖父は戦時中にシベリアで抑留されていて、シベリアから帰国した際に2代目になったと聞いています。ただ、色々な理由が重なり、比較的すぐに父にバトンタッチしています。私には兄がいますが、兄は子どもの頃から『継がない』と公言していまして、おかげで私にお鉢が回ってきたということです」。
もっとも子どもの頃になりたかったのは、「つばめグリル」の4代目ではなく、アナウンサーか、化石発掘者か。
「ただ、食には関心があったほうだと思います。日曜になると、よく外食に連れて行ってもらいました。銀座のお店が多かったように思います」。
英才教育?
「今思えば、そうかもしれないですね/笑」。

1998年、つばめに、入社する。

子どもの頃、どんな少年でしたか?という質問には、「トゲトゲした子ども」という回答。
学校は小学校から慶應。
「英語と美術以外はあまりできませんでした。スポーツは軟式テニス、バドミントン、また、グライダーもやりましたが、特段はハマったものはない。大学時代は、カヌーをしていました。その一方で、映画にはハマりました。年間400本は観ていたと思います」。
高校3年の時には、アメリカにも行っている。今も年2回はフランスなどのヨーロッパや20年来の付き合いがあるワイナリーを視察するため、チリ、アルゼンチンにも行っているそうだ。
ちなみに大学を卒業して、就職したのはサッポロビール。サッポロビールで3年間、勤務している。
「私がつばめグリルに入社したのは、1998年のことです。それからもう22年になります。今年、社長に就任したわけですが、10年くらい前から、すでに自由にハンドリングしていましたので、社長になったことでなにか違いがあるわけでもないですね。あるとすれば、やはり新型コロナウイルス。リーマンショックといった世界的な不況は経験してきましたが、今回はそれ以上にやっかいですね」。
たしかに、いままでの不況ともちがう。予測がつかないのも、その一つ。
「現在26店舗あり、そのうち6店舗が惣菜店です。レストランのほうは4月から自粛しましたが、惣菜店に関しては社会のインフラの一つだと思い、営業をつづけてきました」。
「レストランの営業を再開したのは6月1日から。だんだんとお客様も戻ってきてくださって、この調子でいけばと思っていましたが、7月に入り感染者数の増加と共にまた急下降です」。
たしかに、7月に入り、出口はまだ先の先ということを思い知らされた。
「BSEの問題とかもありましたが、その際は今思えば比較的短時間で解決しました。ただ、今回は先が長い。だとすれば、時間が解決してくれるのを待つのは最悪の手です。どうすればいいか、問題はそこにあります」。

創業90周年目の大波乱。

「昨年、消費税が10%になってから雲行きが悪くなってきましたが、それでもオリンピックがあると思っていました。しかし、コロナウイルスでその望みもなくなりました」。
まさに、創業90周年目の大波乱。
「5月の就任ですからね。年始は、こんな事態をまったく想像していませんでした。とくにうちのようなつくり方のハンバーグだと原価が高くなります。そのため、売上が前期比70%に戻ったと言っても、経営的には赤字です。これが50%やそれ以下になるわけですから大変です」。
とはいえ、手をこまねいているわけではない。じつは光明もある。やはり老舗のちからだ。
インタビューの冒頭で、石倉氏は「つばめグリルによく行っていた」というお客様からの言葉について、「何故か過去形の方が多い。そこが課題」と言っていた。「よく行っていた」ではなく「たまに行っている」と言われたいというわけだ。
しかし、このコロナ下において「よく行っていた」というお客様の存在と価値があぶりだされている。
「今までは売上の比率はレストランがメインで、総菜の比率は15%くらいだったんですが、この総菜の比率を大きくしていこうと計画しています。実際、レストランがほとんど前年比50%なのに比べ、総菜店は90%くらいまで回復している店舗もあります」。
総菜。なるほどレストランに「よく行っていた人」が購入されるのだろう。
「ええ、もちろんそれもあるんですが、じつは総菜のノウハウを活用し、通信販売を進めていこうとしています。その時に、自社でSNSなどの情報発信ツールをつくろうと、遅ればせながらインスタグラムに力を入れはじめたところ、数ヵ月でフォロワー数が約2万人近くになりました」。
ハンバーグの作りかたの動画なども投稿したそうだ。
「これが思いのほか、けっこう話題になりました。大阪や北海道といった地方からの反響が大きかったです。そう、全国から『昔よく行った、あのつばめグリルの味を』というわけです。ありがたいですね。これがたぶん、うちの商売を永く続けてきた飲食店のパワーであり、そんなお客様が大事な財産なんでしょうね」。
これを活かす。通販には早々に着手したいとのこと。つばめグリルの味が簡単に家庭で楽しめるとなれば消費者にとってはありがたい限り。

・・・続き

株式会社つばめ 代表取締役社長 石倉知忠氏


新型コロナウイルスの「第3波」に備えて、キイストンでは・・。

新型コロナウイルスの「第3波」の到来で、全国の新規陽性者数が過去最多を更新なか、

キイストンは社内の忘年会&新年会取りやめにしました。

出勤時の検温、アルコール消毒、手洗いに加えて、今回席と席の間にパーテーション設置しました。

少数精鋭でやっているため、もし社内で誰かが感染すると全面的に営業活動停止の可能性のありますからね・・・。

自分たちの身は自分たちでも守る。

また、関わる皆さんにも安心していただけるよう、事前にやれることから対応していきます。


11月6日(金)より夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」に肉汁餃子のダンダダン(ナッティースワンキー様)を3連載で掲載しました。

11月6日(金)〜20日(金)の3週に渡って夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」に肉汁餃子のダンダダン(ナッティースワンキー)を掲載しました。

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2020年11月17日火曜日

株式会社浪漫家グループ 代表取締役 福井将一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社浪漫家グループ 代表取締役 福井将一氏登場。


本文より~

飲食は儲かる。

「ハッピー・バースデイ・トゥー・ユー♪」「ハッピー・バースデイ・トゥー・ユー♪」
福井氏の歌がこだまする。テーブルには、福井氏の渾身のスイーツ。「最初はうちのアルバイトもモジモジやっとったんやけど、だんだんみんな調子でてきて」。小さな店がバースデイソングに包まれる。「本人らは、ボロボロやったんちゃうやろか」。
30年以上も前の、小さなお店での話。
「24歳の時に『低資金でも開業できる』が謳い文句の、あるフランチャイズに加盟して、京都伏見にある赤字店をひきつぎます。そりゃ、赤字ですからね/笑」。
最初から、全力。
「ハッピー・バースデイ・トゥー・ユー♪は、『今日、彼女のバースデイやから、なんかしたってな』っていう一言のリクエストからはじまります。まだ、お客さんもついてない頃やったからね。そりゃ、心込めますわ」。
いまもそうだが、なんでも、全力。
「口コミで、『おもろい店長がおる』って広がったんかな。県をまたいでぎょうさんお客さんがきてくりゃはるようになって。ありがたいことに、赤字はどこへやらですわ」。
「飲食は儲かる」。これが、最初の体験。
フランチャイズの研修店にもなって、本部のスタッフになり30店舗だったFCを126店舗まで広げたそう。「うちの店は遠隔操作でカバーしながら、私自身は今日は名古屋、明日は金沢みたいな、もう寝る間もない。睡眠いうたらサービスエリアでウトウトするくらい。で、さっきいうたみたいに、『2年で126店舗まで広げる』わけです。その126店目が、じつは、うちの京都、赤池のお店なんですけどね」。

フルーツ・パーラーは儲からへん。

「独立から2年で5店舗まで拡大しました」と、福井氏は笑う。「採算はぜんぜんあいませんが、『オレは、できる』という自信が確信にかわったのは、この時ですね/笑」。
 福井氏が生まれたのは、1963年。京都市中京区。
「親父はもともとサラリーマンだったんですが、独立して染工場をはじめます。親父の、社員にやる気を与えている姿がめっちゃ格好よかった。こうやって仕事するんやぞ。そんな姿を見て『オレも社長になろ』と思っていました」。
そんな父親からは、小さい時から「やるなら、現金商売」と言われていたそう。「昔は、おとなしい子やったんです。でも、中学で陸上やるようになって性格がかわって。高校は、ラグビー、工業高校です」。
 ハナから、大学進学は頭にない。「ただ、これをやるというのもなかった。最初に就職した会社は1年半しかつづけへんかった。あとは、フリーター。あの頃は、転職のオニでしたね、まさに」。 
 自身でみつけた、最初の未来は、「フルーツ・パーラー」。「19歳の時ですね。とつぜん、フルーツ・パーラーをやっている夢をみるんです」。
 思い立ったら、行動は早い。
 「すぐ、中央市場の仲卸の果物店で社員として働かせてもらいます。そりゃ、フルーツを極めなあかんから。ただ、これもまた、あほみたいに頑張りましてね。19歳で市場の世界に入って、20歳の時にはもうセリに立っていました。たぶん、最年少記録です/笑」。
 21歳になると、軽トラックにフルーツを積んでビジネスを開始。「定期便みたいになって、飲食店からも注文をいただきます。もちろん、フルーツ・パーラーをするための軍資金獲得が目的ですかね。でもある時、ふと、コーヒー飲んだり、パフェ食べたりしてもろうて、いったいいくら儲かるんやろって」。
計算機をたたいた。「でね。結論は、利益がない!みたいな/笑」。
 つまり、起業のきっかけはフルーツ・パーラー。だけど、やったのはフルーツ・パーラーじゃやないってことですね?
 「そうそう。いろいろ準備を進めているうちに、フルーツ・パーラーは儲からへんという事実に思い至ったわけです」。

もう、とまらへん。

タイミングもあった。ある喫茶店のオーナーが「いまどき、喫茶店は儲からへん」と、串かつ店をオープンする。
「オープン前から話を聞いていたもんですから、もう興味津々なわけです。ええ、毎晩、出勤です/笑。だいたい観てたらわかるんです。サラリーマンばかりやったんですが、食べて、飲んで、『ごちそうさん』いうて、帰らはる。だいたい1人3500円。フルーツ・パーラーの3.5倍の客単価です。こりゃ、儲かるやん!って/笑」。
 「この時、はじめて、本を読んだ」と笑う。ワタミフードサービスの渡邉美樹さんの自叙伝「青年社長」だ。「最初は、パーラーやったんが、これで完全に方向転換です。でも、ぜんぜんお金がない/笑」。
 でも、もうとまらない?
 「そうですね。とまらへん。そんな性格ですから/笑」。
そんな時に、知人から「大吉」の独立システムの話を聞く。「ええやん、これやと思うんですが、京都でやりたかったから、私は大吉さんとは異なる会社と契約します。あとは、さきほどお話した通りです。けっきょく、私の店は研修店になって、私自身は本部スタッフともなって、126店舗まで店を広げます」。
 父親は「現金商売をしろ」といった。じつは、福井氏だけではなく、弟も、おなじやきとりで独立し、現金商売をしている。京都駅にある「きんぎょ」という店舗らしい。
 「焼き鳥の本部スタッフとして出店を伸ばし11年で退職、1998年10月に有限会社 浪漫家グループを創業しました。これが、ドル箱。13坪、40席で、月商500万円。スタッフは4人に。月商の1/2が残ります。ええ、毎月です」。
 けっきょく、創業から2年で5店舗まで拡大。
「経営の神かもしれへん」。
自信は、やはり確信にかわる。しかし…。

・・・続き

株式会社浪漫家グループ 代表取締役 福井将一氏


2020年11月11日水曜日

有限会社モグモグ 代表取締役社長 中村保和氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社モグモグ 代表取締役社長 中村保和氏登場。

本文より~

1966年、生まれ。

ホームページを観ると、色鮮やかなページが目にとびこんでくる。「アロハカフェ カウカウ」「ブルーウォーターシュリンプ」「スマイルカフェ」「Go!Go!Crepe」などなど、目にも鮮やかな料理や商品が並ぶ。
その一方で、いぶし銀のように光る、たい焼き、たこ焼き、と日本人の定番も、いい色を醸しだしている。
今回、ご登場いただいたのは、有限会社モグモグの中村 保和氏。1966年、千葉県富里市生まれ。この、いい色のカンパニーが育つまでの軌跡をお伺いした。
「実家は、酒屋を営んでいました。千葉の田舎だったんですが、私が小学6年生の頃に、近くに成田空港が開港します。もともと1学年が2クラスだったのが、卒業する頃には6クラスになり、人も一気に多くなりました」。
ネットで調べてみると、中村氏が生まれた富里市は、成田市に隣接する市だとわかる。スイカが有名なようで「富里スイカ」は、皇室献上品となっているそうだ。人口推移もみてみたが、たしかに1970年代半ばから急拡大している。
「小学校の頃は野球、空手、中学からはバスケットボールに夢中になっていました。外食には小さな頃から興味がありましたね。転機をひとつ挙げるとすれば、高校受験に失敗したことでしょうか」。
もともと公立の高校を希望していたが、そちらが不合格。進んだのは私立の学校。どんな転機がやってきたんだろう?

転機と、子ども時代から決めた道と。

「コンプレックスっていうか」と中村氏。
「先生も受かると言っていましたし、私もまぁ、いけるだろうと。勉強はしなかったんですが、頭は悪くないと思っていましたから、そういう意味で自信はあったんです。だから、不合格の時はけっこうショックでしたね」。
ただ、落ちたことよりも、私立に進んだことが、転機ということ。
「そうですね。私にとって転機になったのは、その私学に進んだことでしょうか。クラス委員長を3年間勤めましたし、成績も、勉強はやっぱりあまりしなかったんですが、それでも常にトップクラスでしたし。その後、推薦で大学に進むんですが、結局高校受験の失敗が、私が進む道を決めたといってもいいと思うんです」。
たしかに、そうだ。人生はわからない。
「ただ、道という意味では、実は子どもの頃から父親の事業を継ぐつもりでいましたから、ゴールは決まっていた。高校時代から、酒屋の手伝いもしていますし、大学を卒業してからも酒屋を継ぐことを想定し、流通系の会社に就職します」。
その流通系の会社では、2年間、勤務している。奥様とも「こちらの会社で出会った」と、笑う。

酒屋の経営。

「2年で退職したのは、親父から『もどってこい』と言われたからです。ただもう、私の子どもの頃とはわけがちがう。事業を取り巻く風景はすっかりかわっていました」。
<ディスカウントストア、コンビニですね?>
「そう、昔は免許があれば、それで守られもしたわけですが、もうそんな時代じゃない。酒屋だけでは生きていけない、そんな時代だったんです」。
それでも、3年くらい酒屋の経営を続ける。しかし、さすがに選択に迫られる。
「平成7年に決断します。酒屋を辞め、飲食事業を開始しました。この年が今のモグモグの創業年です。最初に出店したのは、『ジョイフル本田』に出店しました。たこ焼きやラーメンやアイスクリームの、何でも屋的なショップです」。
会社の経歴をいただいたので、そちらを見ると、たしかに、「平成7年ジョイフル本田富里店内に「MOGMOG富里店」をオープン」とある。翌年、有限会社モグモグを設立と続き、平成9年には長崎屋成東店内に「天たこ成東店」をオープン。その後は、毎年のように出店を重ねている。
「2号店の『天たこ』をオープンした頃から、たこ焼きがブームになり、業績が拡大します。ただ平成13年あたりから今度は、たい焼きがきます」。
たこ焼きに、たい焼き。日本人なら、だれもが大好きな食べ物だ。しかし、ハワイとはかなり離れている。

たこ焼き、たい焼き、ブームに乗る。

もう一度、経歴に目をむける。平成12年までは「天たこ」のオープンが続いていたが、翌13年からは、たい焼きの「あんたろう」のオープンラッシュが始まっている。
「たい焼きも、おかげさまでブームになり、業績が拡大します。平成12年には、『m cafe』というカフェの出店も行いました。一つのものを掘り下げつつも、常にあたらしい発想で挑戦する、それがうちのDNA。かたちになるのは、このあたりからですね」。
「酒屋」というブランド価値が低下するなか、生き残りをかけ飲食事業を開始した時から、このDNAは生まれ、育ったと言っていいだろう。
ただ、ふつうなら、どこかで躓くはずだ。しかし、年表を観る限り、「停滞」の二文字がみあたらない。冒頭で書いた通り、いまやハワイアンカフェもある。
右から左までならべれば、それこそ色鮮やかで、バラエティ豊かという表現がぴったりになるに違いない。

飲食も、経営も、スピードのちからが大事。

「『アロハカフェ カウカウ』もそうですが、正直言って、緻密な計算というより、ひらめきです/笑。『ブルーウォーターシュリンプ』も、計算ありきではスタートできなかったブランドです」。
どういうことだろう?
「『ブルーウォーターシュリンプ』っていうのは、文字通り、シュリンプ、海老ですね。海老をガーリックソースで食べるハワイで大人気のショップです。日本では、うちが独占しているんですが、そもそもはイオンさんのテナントでスタートするっていう会社さんがあって。そちらさんが、オープンの直前に降りられてしまうんですね」。
<イオンさんにとってはたいへんですね?>
「そうなんです。『ハワイアンタウン』って名称でオープンされるつもりだったから、尚更ですね。とくに『ブルーウォーターシュリンプ』は、目玉の一つです」。
「かわりに手を挙げる会社さんもあったそうですが、海老って日本じゃ高い。だから、計算が立たないとぐずぐずしておられたんですね。で、じゃあ、うちがやろうじゃないかと。ハワイの本部にメールを送って、翌日にはハワイの本部にうかがっていました/笑」。
<それが功を奏した?>
「その通りです。すぐに契約が済み、正確には、『横浜ワールドポーターズのビブレ1Fのハワイアンタウン』にオープンするんですが、そちらが成功したことをもって日本でうちが独占することになります」。
「スピーディ」。
飲食のキーワードもそうだが、経営のキーワードも、たしかに、スピードだ。その意味で、中村氏の行動力と決断のスピードが、成功のキーとなっているにちがいない。
一言でいえば、「スピード力」とでも、いえばいいのだろうか。それが波に乗る力にもなる。

・・・続き

有限会社モグモグ 代表取締役社長 中村保和氏


2020年11月5日木曜日

株式会社クラマ計画 代表取締役社長 佐竹伸彦氏登場。

私が一番こだわっている「飲食の戦士たち」ですが、基本他人には原則任しません。
ただ、弊社の天川だけは別です。
関西の企業様は私に代わって趣旨も理解ししっかり取材してくれているので、唯一任せてます。
今期になり、関西の企業様はその天川が取材してくれています。


本文より

ディープな街、天満。

ご両親は昔から大阪天満で商売をされているそうだ。「アパレル系ですね。祖父の代からだそうです」。兄弟は兄が1人。ネイリストをされているそう。
「自宅がショップやったんで、商売がふつうというか、生活と商売の境目がないっていうか。戦後はもっと繁盛していたそうですが、私が物心ついた頃でも10人くらいの従業員さんがいたんとちゃいますか」。
天満といえば、下町。ただし、ここ数年は、飲食の街というイメージで、実際、出店もつづいている。とはいえ、交通整理がされず、思い思いの店がオープンするから雑然とした状態だ。ただ、この混沌さがディープな街、天満の象徴かもしれない。
「性格ですか? 昔から大人しいタイプですね。絵を描くのが好きで、小学1年から高校3年生まで授業中にはずっと絵を描いていました/笑」。
絵を描いていたというと、不勉強な生徒をイメージするが、そうでもなかったようだ。「高校時代は、西洋の哲学の本とか、宗教の本を一通り読みました」。
哲学も、古典も好きだったそう。
その一方、漫画家になりたかったそうで、授業中に描いた絵は、漫画家志望の青年の思いの表れだったかもしれない。

物理学の修士。飲食に向かう。

「でも、けっきょくは大学院で物理を勉強して、東京の大手電機メーカーに就職します。会社の未来をつくるプロジェクトマネジメントの仕事を経験して2年半で退職します」。
じつは、最初から辞めるつもり満々だったそう。
もともと起業にも興味があったんだろう。そのあと、ITか、デザイナーか、飲食かの三択で迷ったそうだ。「たた、三択といっても、ITはとんでもなく賢い人が多そうだし、やめておこうとなり、デザイナーは言っても食べていけへんやろな、と」。
残るのは、飲食。海外志向もつよく、料理も好きだったから、まちがいない道。さて、残りものに「福」はあったのだろうか?
学生時代にアルバイトの経験はあったが、それだけ。経験をプラスする意味もあって、退職後、サッポロライオンでアルバイトをはじめる。これが、25歳の時。すでに、結婚もしていたから、失敗も許されない。
「結果として、バイトでしたが、サッポロライオンでよかったです。焼き場をさせてもらうんですが、バーベキューをしているみたいで。これで、給料もろてええんかなと思うくらい楽しかった。メーカーの時は、会議が仕事みたいなところがあったんで、ぜんぜんちがうんです。たぶん、初日から仕事をしているっていう意識もなくなっていた/笑」。
バーベキューからだんだん料理のグレードもあがる。
「あの頃はもう朝から晩まで料理の勉強をしていました。いちおう2年つづけたので、修業は一段落ってなるわけですが、今度は、包丁1本でアメリカに渡ります。27歳の時です」。

帰国。そして、天満にデビューする。

「渡米したその日から、評判のいい和食店に突撃します。『採用してくれ』と。けっきょく、向こう、サンフランシスコですが、3年いました。向こうで独立とも思ったんですが、ピザの関係で断念。30歳の時に妻といっしょに帰国します」。
どうするか? 選択肢は、ありうそうで、そう多くはない。
「あれは、たまたま実家に泊まっていた時ですね。天満に空き物件があったんです。よし、ここでやるかと」。佐竹氏、30歳。
「いちおう貯金もしていたんですが、出店したのは裏路地の裏みたいな/笑。ハイ、妻といっしょに2人ではじめました」。ところが半年して奥様の妊娠がわかる。「思ったより、しんどかったですね。売上は過去最高になるんですが、1人で閉店作業していて、これの何が楽しいんやって」。
精神的にまいった。いっしょに笑ったり、励ましたりできない。
「それで、採用しようと思って求人広告をだしたんですが」。
ひょっとして、応募がなかった?
「そう、ぜんぜんです/笑。 でも、なんでかな? と思うんです。その時、なにかひらめていて。ただ、仲間になってくれっていっても、それはあかん。大事なことは『仲間に何をしてやれるか』とちゃうかな、と」。
それが、じつはいまのスタイルにつながっている?
「まさにそうですね。その時、『店あげる』みたいな広告だしたら、めっちゃ人が来て。独立前に経営を経験したいって人を採用します。彼はもう、めでたく独立しています」。

社員が、自走する組織。

「2店舗目も、その時、来てくれた人に半年待ってもらっていっしょに立ち上げます。そりゃ、むっちゃ楽しいですよね。店も流行ります。きずなもばっちりやし、みんな熱い思いがあったから」。
店舗数が拡大すると、信用力も高まり、資金面でもなにかと有利になった。とはいえ、佐竹氏がめざすのは、やはり、個人店。組織のメリットは活用するが、組織のルールにしばられない、そんなスタイルでもある。
「3店舗目くらいから、いっても会社組織にしないとなと思います。『セントラルキッチンやマニュアルもつくらなあかん』みたいな話もあったんですが、『でも、待てよ』って。だって、みんな独立したいとか、料理したいとか、そういう思いで入社してくれているのに、それはないんちゃうかって思ったわけです。だって、組織やからって、やりたいことはみんな少しずつちがうんやから。そもそも、組織の論理っていいますが、だれのための論理なんでしょうね」。
「決まりごとはない」と、佐竹氏はいう。いや、一つだけある。「店長がいない」。
「そもそも店長っているんやっけ?みたいなところから、話が始まりました。いらんのちゃう、ということになって。だったら、料理長も、SVも、ついでに社長もいらん、と/笑」。
これは、ルールではなく、流儀にちかい。
「私にしたって、社長っていう意識がない。給料を払っている感覚ないですね。利益がでれば、山分けするがうちのイメージにちかい。でも、これって、利益が少なきゃ取り分も少ないわけで/笑」。
セーフティネットはちゃんと設けている。「利益をいったんあつめて、セーフティネット的なところも加味しつつ、分配する。私の役割はいうたら、それです」。
いうなら、全員が自立した経営者、というノリ。これはつよい。そのうえ、会社という組織に対するエンゲージメントも高い。「いま、正社員は40名で、アルバイトは60名以上です。ケンカもするけど、仲はいいですよ。ただし、出入りはそれなりにあります。去年も5名希望通り無事独立してくれましたから」。
こういうこと自体、一つの組織のなかで、全員が自走している証ではないだろうか。

・・・続き

株式会社クラマ計画 代表取締役社長 佐竹伸彦氏


キイストン29年目、身体も完璧になってるので「全集中」で頑張らなくては・・・。。

1992年の10月22日に武田と一緒に会社立ち上げ、早いもので28年経ちました。

これも関わってきた皆さんに助けてもらったおかげです。

30周年には、キイストン内で世代交代も考えてるので、

それを実現するために、「全集中」で頑張ります。

おかげさまで身体も社会人になってから一番完璧な数値になっております。
もし独身だったら、成人病ど真ん中でした。
本当にありがたいことに救われてます。

2020年11月2日月曜日

10月16日(金)より夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」にて3連載でS・H・N様を掲載しました。

10月16日(金)〜30日(金)の3週に渡って夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」にS・H・N様を掲載しました。
(10月16日発行 電子版/カラー)
(10月23日発行 電子版/カラー)
(10月30日発行 電子版/カラー)

2020年10月27日火曜日

AGTK株式会社 代表取締役 宮村栄宏氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”AGTK株式会社 代表取締役 宮村栄宏氏登場。

本文より~

大学進学までの話。

小さい頃は叔父の歯医者を継がそうと親族は考えていたそうだが、本人にその意思はなく、子どもの頃を一言で表せば「ガキ大将だった」と笑う。高校は、東京工業大学付属高校に進む。高校時代は、バスケットボールの選手。大学は、青山学院大学。
「うちの祖父は、灯台の光の部分をつくる会社を創業し、業績は文句なかったそうです。父親は、いったんそちらを継ぎますが、私が中学の頃に独立して起業します。ただ、私が19歳の時に事業がうまくいかなくなります」。
ただ、末っ子の宮村氏は、ちがっていた。行動を開始する。
「当時の私は、浪人です。だから、時間もあった。スーパーのアルバイトなんかをしながら、月に25万円くらい儲け、生活費にあてていました」。
月25万円。そりゃ、勉強する時間もなかったろう。離婚騒動も起こったそうだ。
「母が離婚を決めて、兄も姉も母と一緒に家を出るというんですね。それで、私に『あなたは、どっちについていくの?』って。当然、母と一緒に行くと思っていたんでしょうね。ただ、私の返事は違った。頑固なところもある親父ですが、みんな母親についていくのも、さすがにと思いました。だから、『オレは親父の面倒をみる』って言ったんです。そしたら、まったく予想外だったんでしょう。離婚そのものがなくなった/笑」。
離れ離れになるところを、宮村氏の一言が救った格好だ。しかし、父親は、宮村氏が21歳の時に他界されてしまっている。

グローバルダイニングとの出会い

「進んだのは青山学院大学の経済学部です。ただ、学校には全然行ってなかったから、単位はいつもギリギリでした。お金の問題も理由の一つですが、始めたバイトが、あのグローバルダイニングの恵比寿ゼストのオープニングスタッフだったので」。
もう、なにを言いたいかだいたい分かった。
ハマってしまったわけですね?
「そうです。すっかり魅了されちゃいます。本当はバーテンダー志望だったんですが、最初はカウンターの中にも入れず、瓶片付けばかりでした。それだけでもうヘトヘト/笑」。
ヘトヘトというのもうなずける。なにしろ、ゼストの月商は1億円ちかい。1日だけでも、相当数のアルコールの瓶が空いたはずだ。
飲食は、アルバイトと正社員の垣根が低い。料理長やマネージャーになれば、違いは明らかになるが、ホールスタッフの時代は、違いを見つけにくい。ではプロとは、何か?
「正社員とアルバイトっていうのではなく、プロかどうかは、ひとつひとつが全然違います。そもそも熱意も違いますし、プロ意識があるかどうかだけで、お客様への対応も変わります」。
「もちろん、プロは厳しいですよね。私は、さきほど言ったようにバーテンダー志望だったんですが、カウンターにも入れず、瓶片付け係です。なんでだよって話ですよね。ですがその当時は、ジントニックっていうのが何かも知らなかったから、当然なんですけどね/笑」。
ただし、それで終わるのは、宮村氏がいうプロではない。
「なんとか、とびらをこじ開けて、カクテルを勉強して…。結局その後、部下を29人もつようになって、バーのリーダーになりました。もちろん、大学時代の話です」。

「シブヤ109」の裏手に「シブヤバル209」、デビュー。

最高で月給55万円の学生アルバイト。お金は、どうしたんだろう? 学費に遣っても、まだ残るはずだ。
そんな話をすると、「半分は、母に渡していた」と宮村氏は、当然のように言う。人間性が表れた一言だった。よく聞くと、お母さまにはどんなときにも、月5万円以上を送っているという。頭が下がる。結婚しても変わらないそう。奥様も、理解がある人だ。
「大学卒業後、グローバルダイニングに就職して11年半働くことになります。西麻布の権八にいた時は、当時、アメリカ副大統領のチェイニー氏や、歌手のジャネットジャクソンさんなどもいらっしゃいました」。
たしかに、濃厚な11年だった。
宮村氏が独立するのは、次に就職した飲食業界に在籍中のこと。
「就職というか、私はスペイン・バルをしたかったので、オーナーにその話をすると、じゃあここでやってみないか、ということで、最初は委託のようなスタイルでスタートするんです」。
それが「シブヤバル209」ですか?
「そうです。完全に独立したのは、私が33歳の時です」。
「シブヤバル209」は、「シブヤ109」の裏手の道玄坂小道にある。立地も悪くない。そのあとも、出店を重ねる。2015年5月には「アジアンバル209」をリリース。2018年にも「呑ん処二◯九」をオープンしている。
「1号店はスペイン料理がベースのスペイン・バルです。2号店はアジアン料理です」。台湾や上海、タイを旅行している時にコンセプトを決めたそう。
3店目は今までとは少し違う。
「渋谷は若者の街というイメージですが、実は大人も少なくない。ただ、若者向けのショップが多いから、そう映るんでしょうね。うちの店もそうですが、渋谷にはオシャレなバルやレストランはあっても、いわゆる、大人がちからを抜いて飲める店がない」。
「お客さんに、どの店で飲むのがおすすめ? と聞かれても、全然思いあたらなくて。だったら、オレが酒場を作ろう、と。これが、3号店『呑ん処二〇九』誕生秘話です」。
つまり、プロダクトアウトではなく、マーケットインというわけだ。
それにしても宮村氏は多彩だ。スペインのつぎはアジア、そして、ジャパン。内装デザインにも宮村氏のセンスが盛り込まれている。
さらに、「呑ん処二〇九」には、別の意味で、壮大な計画が詰め込まれている。
最後にその話を聞いた。

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AGTK株式会社 代表取締役 宮村栄宏氏


2020年10月20日火曜日

がんこフードサービス株式会社 代表取締役 小嶋達典氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”がんこフードサービス株式会社 代表取締役 小嶋達典氏登場。

本文より~

剣道と、ラグビーと。

「小学校の時は、東大行って、寿司屋になると話していたらしい」という。
現、がんこフードサービス株式会社の社長、小嶋氏の話である。「幼少の頃より、十三で暮らしていました」。
<十三といえば、がんこ寿司の創業の地ですね?>
「そうです。がんこ寿司 は1963年、十三で4坪半の小さな店からスタートします。私の父の小嶋淳司が創業者です。姉はいますが、私が長男ですから、父はともかく、私はいずれ寿司屋になると思っていました」。
<だから、東大に行って、寿司屋になる?>
「ええ、東大っていうのが無茶無茶ですが。たぶん、大学いうたら、それしか知らんかったんでしょうね/笑」。
スポーツの話もうかがった。
「小・中は剣道です。剣道は小1から習いました。父とですか? そうですね。キャッチボールくらいはしてもらったと思いますが」。
<高校では、ラグビーだそうですね>
「それまで剣道一本です。高校生にもなったから、ちがうスポーツもいいだろうと、ラグビーをはじめます。最初は、アメリカフットボールと迷ったんですが、あっちは丸刈りだったもんですから/笑」。
丸刈りではなかったが、練習はハンパなかった。36人が入部して、1年後、残ったのはたった7人。小嶋氏もなんとかくらいついた。
「大学は、京都佛教大学に進みます」。もちろん、大学でもラグビー。ポジションはウイング。
「高校時代は、練習漬けでしたが、大学では自由な時間もそれなりにあって、バイトも経験しました」。
大学を卒業すれば「食」の道に進む。小嶋氏は、抵抗なく、その道を受け入れていたようだ。大学4年生の頃には、父の淳司氏を「社長と観るようになっていた」とも明かす。
むろん、父、淳司氏は、小嶋氏にとって飲食の大先輩でもある。

父親同様、修業の日々を送る。

「大学卒業後、板前になりたかった私は、京都の老舗料亭に就職します」。就職より、ただしくは丁稚奉公。1年目の給料が6万円。2年目になって8万円。
高校時代の部活より、ある意味、きびしい。
「2DKに6人くらいで暮らしていました。仕事では18時間立ちっぱなしです」。
以前、父親の淳司氏を取材させていただいた時、たしか、つぎように語っておられた。「寿司職人になるには5年はかかると言われました。ですが1年でやると決めたんです」。修行先に選んだのは、黒門市場にある寿司の名店。淳司氏27歳の時の話。ずいぶん、おそい修業開始である。「新聞を海苔の大きさに切って、残ったごはんとこんにゃくとで巻き寿司をつくるんです」。
親子は、ある意味、おなじ道を進む。
「ただ、私は、2年間、お世話になったあと、じつはある大手電機メーカーさんに就職します。うちの主要なお客さんである、『サラリーマン』の世界を経験しておいたほうがいいかなと思って」。
<組織の運営なども、勉強できたのではないですか?>
「いやぁ、スケールがでかすぎて。ただ、はじめて有給っていう制度を知ったのはよかったですね/笑」。

2代目、店長デビュー、その結果は。

がんこフードサービスに転職し、最初に配属されたのは「高瀬川二条苑」。下足番からのスタートだったそう。
「二条苑」は、梅の花、鴨川の水音、紅葉など、京都の四季折々が楽しめる、がんこフードサービスの代表的な店舗でもある。
「二条苑では2年ですね。スタッフと親しくなって、京都の寮にも泊まらせてもらいました。そのあと、三条店に行き、六地蔵でオープンから店長として仕事をさせてもらいます。しかし、オープンは初めてで、不安だらけでした」。
 初のオープン店長。業績は、どうだったんだろう?
「1日1000人のお客様が、2~3ヵ月つづきました。オープンするとたちまち200席が満席です。業績は悪くなかったけど、ぜんぜんあかんかったですね。料理も、ドリンクもぜんぜんでぇへん。段取りが悪かったんです。今なら、そう思えるんですが、波のようにいらっしゃるお客様をみたら、なにもでけへんかったというのが、正直なところとちゃいますかね」。
ただ、ひたすら動く。がむしゃらに。むろん、いい経験になった。自信にもなった。その後、小嶋氏は、現場から少しずつ離れることになる。
「営業企画や、メニュー開発といった仕事から、業態の開発までを経験します。コリアン料理とカフェが融合したショップなども開発しますが、なかなか思うようにはいきません」。
その時、小嶋氏は、ほかの飲食をひんぱんに訪れることになる。
「オペレーションファクトリーさんって会社があって、よく行きました。格好いいなぁ、と参考にもさせてもらっています」。
この素直さも、小嶋氏は真骨頂。「バカ正直」、これも、父、淳司氏ゆずりだ。

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がんこフードサービス株式会社 代表取締役 小嶋達典氏


2020年10月13日火曜日

株式会社JACKALMAN 代表取締役 金 栄釱(キム・ヨンデ)氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社JACKALMAN 代表取締役 金 栄釱(キム・ヨンデ)登場。


本文より~

目標は、東大進学。

ほんとうは東大に行っているはずだった。
金 栄釱氏。日本を代表するラガーマンの1人。ラグビーファンでなくても、個性的なヘアースタイルを観れば、思い出す人も多いだろう。楕円形のボールを追いかけてきた、どちらかといえば野性的な風貌と、「東大」とは落差があった。
「ハハ、中学進学の時の話です。その時の目標は、灘高校に進学し東大に入り弁護士になる、だったんですね。それで上宮中学という中・高一貫校に進学します」。
上宮中高は、有名大学への進学率だけでなく、スポーツでも高く評価されている。「私が進んだのは、むろん、進学コースです」。
いつからからだが大きくなったのか聞き忘れたが、当時から大きかったとすれば、窮屈な椅子に座り、熱心に本を読む。そんな少年のすがたが目に浮かぶ。めざすは、東大。
「ところが、1つ上の先輩が、ラグビー部を創部されたんですね」。
で、やったら、ハマった?
「そうです。もう、勉強どころじゃない/笑」。

金 栄釱という、ラグビー選手誕生まで。

金氏が進んだのは、スポーツではなく進学コース。授業のコマ数も多い。「勉強に追われ、ラグビーがでけへんことに気づくんです。だから、中学2年になる時に、思い切ってラグビー部がある別の中学に転校しました」。
「不良の巣窟だった」と笑う。金氏にすれば、ラグビーができれば、なんの巣窟であろうが、かまわない。
そのあとの経緯を簡潔にトレースすると、高校は、当然、灘ではなく島根県の江の川高校(現石見智翠館高校)に進む。高校では、いじめにもあったそう。高校から逃走した金氏を、父親が首根っこを捕まえ、連れ戻したこともあるそうだ。
大学は大阪産業大学。ただし、2部リーグ。「これが功を奏した」と金氏。実際、1年目から金氏のプレーは際立った。その結果、2部リーグから異例のプロ契約に進むことになる。
2005年、近鉄ライナーズに入団。2年在籍したのち、オーストラリアにも渡る。
「向こうでトライアウトを受けたりもしたんですが、ピザの関係もあって、いったん帰国します。この時、ホンダヒートに2年半、リコーブラックラムズで2年、NTTドコモレッドハリケーンズで2年プレーします」。
ポジションは、フランカー。どんな相手にもひるむことなくタックルする、あのポジションだ。ラグビーファンなら、金氏のタックルを記憶しているにちがいない。

からだづくりの相棒だった、赤身肉。

さて、そんな金氏と飲食。これが、ここではテーマだ。「2014年にNTTドコモで引退表明し、その年の8月に、『ステーキ食堂BECO』をオープンします。これが、1号店です」。
ここから、金氏と飲食の関係がスタートするのだが、じつは源流は、もっと昔にあった。「親父が、ある会社の飲食事業部の責任者だったんです。そんな親父を観てかっこいな、と。あの頃から『飲食はかっこいい』とからだのどこかに刷り込まれていたんでしょうね」。
東大からはじまり、ラグビー、そして、今度は飲食。オープンした「ステーキ食堂BECO」は、現役時代、からだづくりの相棒だった赤身肉がメインのステーキハウスだ。
赤身のステーキは、ヘビーなイメージもあるが、金氏に言わせると、「ヘルシー」でもあるそうだ。たしかに、霜降りの肉は旨いが、脂っこい。比較して、赤身は、「いまオレは、肉を食べている」という、人のなかに潜む、野生まで刺激する。

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株式会社JACKALMAN 代表取締役 金 栄釱(キム・ヨンデ)