2020年12月30日水曜日

2020年もあと1日。

いよいよ2020年も終わろうとしてます。

まさか1年前に誰がこんなこと予想していたでしょうか。

昨年はキャリアある営業マンが独立するとなり退職し、代わりに新卒で2人が入社。

人件費は下がるどころが微増、ただ売上は、新人2人はほぼ見込めない中でのスタート(涙)

案の定、上半期は予想通り赤字で折り返しました。

しかし、この6月に執行役員に昇格した営業トップの江川中心に皆が少しずつ力付け、下半期の2〜3月で大幅に売上を伸ばし、4期連続の黒字に…。


と、思ったら期が変わる前の1月早々に大阪出身の営業マンが大阪に戻りたいと相談が…。

おいおい。

でも、これまでよく頑張ってくれてたので、本人がやりたいなら無理だとわかっていながらもチャレンジすることがキイストンスピリッツなので準備室を設けました。

その後、直ぐにコロナ禍で、この1年が終わろうとしております。

おかげさまで、いろんな逆境が、会社&個人の精神力強くしてくれ成長させてもらってます(笑)

決算の3月末までまだ3ヶ月あります。

常にワクワク、常にエキサイト、常に喜ばれる人生ほど楽しいものはない。

最後は笑顔で終える2020年度にしたいので、一丸となり頑張ろう。


2020年12月22日火曜日

株式会社グローズバル 代表取締役社長 吉田茂司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社グローズバル 代表取締役社長 吉田茂司登場。


本文より~

28歳、起業するまでの話。

熊本県で生まれ、神奈川県で育った。兄と2人だったが、父が再婚したことで、兄弟は4人になった。「勉強はそんなにできなかったかな」と笑う。中学時代は卓球部。相模大工業高校に進学し、バレーボール部に移る。
高校からはじめたにもかかわらず、1年からユニフォームを渡され、のちに副主将も務めている。もっとも、いちばん声をだしていたから、と本人評。たしかに、声はよく通る。
「高校卒業後、株式会社パルコに就職します。パルコといえば、みなさんアパレルをイメージされがちですが、ディベロッパーです。だから、私の最初の仕事は電気技術者です。24歳までの6年間、お世話になり、退職して1年は、おなじ電気の仕事をつづけます」。
飲食の出会いは?とうかがうと、「当時はITバブル。ITビジネスで起業するのが流行っていて、私も起業に向けてパソコンの勉強をはじめます。その時、はじめたアルバイトがバーテンダー。この世界に入るきっかけです」。
相模原西門にある、レストラン&バーのバーテンダー。
「やったらやったぶん、『ありがとう』って言われるでしょ。それが、新鮮だったし、うれしかった。こちらの店で3年。店長にもなり、自信もできたので『独立したい』とオーナーにいったところ、『じゃぁ、店を買わないか』って」。
悩みどころだったんじゃないだろうか? 「そうですね。180坪の大型店です。テナント料だけで120万円ですからね」。
悩んだが、結局、買い取ることにする。2400万円くらいかかったそうだ。むろん、ぜんぶ、分割。これが、28歳の時の話である。

占い師。

「買い取ったレストランは、駐車場も20台あったくらいですから、相模原西門のはずれです。道路交通法の改正があった時に、いまの駅前に移転します」。こちらは家賃も、そう高くなかったようだ。これが、起爆剤となった。
「当時、ホットペッパーの営業さんが占い好きで。で、『今度、いっしょに行きましょう』って言われて」。連れて行かれた代官山に占い師がまっていた。「もう起業していたんですが、それを言わずにみてもらったら、『起業に向いている』と言われて。割とそういうのが、うれしいタイプなんでしょうね。いまでも、しっかり記憶しています/笑」。
スピリチュアルは、案外、吉田氏も好きなほう。「じつは、法人化する前にスピリチュアルな占い師がいるってことで鎌倉まで行ってみてもらっています/笑」。
そのとき、改めて思いが整理できたという。占いがあたったかどうかは、知らないが、過去と向き合い、何がしたいのかに気づいたのは占い師のおかげかもしれない。
父親の再婚で兄弟は4人になり、にぎやかになったが、吉田氏は、逆にさみしかったそうだ。「私が、末っ子。でも、兄と違って、義母になつかなかったんでしょうね。私だけ、なんだか違っていた/笑」。
兄弟とも、とくに仲がよかったわけではないらしい。
「高校卒業してすぐにはたらきだしたのも、はやく独りになりたかったから。でも、飲食に惹かれたのも、こうした子どもの頃の体験があったからだと思うんです。みんなが、屈託なく、語り、笑う。私の、欲しかった世界です」。

生みだしたヒット商品「とろけるハンバーグ」。

現在、吉田氏は、レストラン&バー「ラヴァーズロック」、とろけるハンバーグ「福よし」、バーガーズカフェグリルフクヨシ「BURGERS CAFE」の3ブランドを展開している。注目は、「とろけるハンバーグ」だろう。「2016 モンドセレクション受賞」「楽天デリバリーランキング お弁当部門第1位」「王様のブランチ2016グルメアワード」「東京メトログルメランキング第1位」「相模原名物料理選手権S-1グランプリ第1位」「寺門ジモン厳選 極上グルメ祭り出店」など、話題にことかかない。
 もともとは、吉田氏の先輩である、吉田氏が天才と絶賛する住村哲央シェフが開発。吉田氏がプロデューサー的に商標の獲得などに動き、いまのヒットをつくりだした。「とろけるハンバーグ」使用店舗は、全国に広がっている。
 また、ハラルフード事業にも進出しているから、守備範囲も、攻撃範囲も広い、広い。「ロケットのスポンサーにもなっています」と吉田氏。「たまたま堀江氏の講演を聞き、スポンサーの話があったので、じゃぁ、と手を挙げたんです。スポンサー料ですか? そうですね、小型車一台分くらいですね/笑」。

趣味は、ひとを喜ばせること。

吉田氏の目標は、飲食の世界を進化させること。
「一つは、憧れて、飲食に入った人たちが、いつまでも仕事をつづけていける世界ですね。40代、50代になっても、たのしく、仕事をしている。もう一つは、やはり、給料ですね。でも、これはなかなかむずかしい。ショップの売上だけでは限界がある。『とろけるハンバーグ』のEC事業や、ハラルフード事業などをスタートさせているのも、じつは、そのためなんです」。
「相模原」も、未来のキーワードになりそうだ。リニアモーターカーの駅ができるなど、「相模原には『のびしろ』がある」といったうえで、「じつは、相模原には、これといった名物がないから、いま開発しているんです。商品名は、『相模原のびしろ饅頭』です/笑」。
その話を聞いて、うまい!とひざを叩きたくなった。「ただ、おみやげに、と思っているんで、賞味期限の関係で、なかなか商品化がむずかしい。いまや、日本を代表するメーカーまで巻き込もうとしています/笑」。
 新型コロナウイルスの影響もうかがった。「4月、5月はどうしょうもなかったですが、7月くらいからは回復しています」。
実際、ニュースにもことかかない。
6月には横浜関内にプロデュース店舗「やきとり直」がOPEN。8月には「楽天市場内EC店舗」オープン。翌9月にも「auコマースサイト内EC店舗」がオープンしている。
おなじ9月に「まちだ未来ビジネスアイデアコンテスト 2020 ー協業型起業家応援プロジェクトー」に参加。10月には、イーアスつくば美味コレクションに、「オリエンタルレストランSouju(ソウジュ)」がOPENし、11月には、デリバリー専門店ラヴァーズロック相模原中央店がオープンする。
吉田氏の原動力はいくつもあるように思えるが、もとをたどれば、一つになる。その原動力は、「ひとを喜ばせる」、その思い。趣味は、「ひとを喜ばせること」と言い切る。趣味だと気づかせてくれたのは、いうまでもなく、「飲食」という世界。
「趣味は、ひとを喜ばせること」。吉田氏が語ると、この何気ない一言がかっこいい一言になる。むろん、価値ある一言という意味で。

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株式会社グローズバル 代表取締役社長 吉田茂司


2020年12月16日水曜日

株式会社セカンドアロー 代表取締役社長 大須賀伸博氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社セカンドアロー 代表取締役社長 大須賀伸博氏登場。

本文より~

3人兄妹の末っ子、20歳で結婚する。

3人兄妹の末っ子だそう。「甘やかされた」と大須賀氏。兄のことを尊敬しており、兄の影響でバイクに乗り、兄を追いかけるように飲食に進んだ。
結婚も早い。高校の時から付き合っていた彼女と20歳で結婚する。30歳にして、早くも3児のパパだ。
「串カツ田中」に入社したのは、21歳の時。24歳で執行役員になり、25歳で取締役営業本部長に昇格している。そして、30歳の今(2020年)、新たに生まれたグループ会社の代表取締役社長に就任。結婚した当時はトラックの運転手だったから、目が覚めるような快進撃。果たして、その人生は? いつもどおり、子どもの頃から追いかけてみることにしよう。
大須賀氏は、1990年9月25日、東京都大田区に生まれる。ご両親も、大田区生まれというから生粋の江戸っ子なんだろう。すでに書いたが兄妹は3人。大須賀氏は末っ子。母方の実家は医者。父方は、曾祖父の代から会社を経営されていたらしい。とはいえ、父親は会社を継がずに会社員として勤務。
性格は、人見知り。それは今も変わらないらしい。
小学3年生からソフトボールをはじめ、関東大会に出場し、準優勝も経験している。中学生ではスラムダンクに影響され、バスケットボールに転向している。
高校は都立大崎高校。大学に進学するつもりは、ハナからなかったそう。1年時は、バスケットボールを続けたが、2年からは兄の影響でバイクに乗り、のめり込んだ。
高校を卒業したあとは、飲食店に就職する。
「特別、飲食がやりたかったわけじゃない。やりたいことがなかったから」と、大須賀氏。ただ、はじめたものの、数ヵ月でリタイア。
そのあとはトラックに乗り、奥様の妊娠がわかり、そちらで、アルバイトから正社員になる。収入が不安定だったから、兄が店長を務める「銀のさら」でアルバイトもした。ちなみに、その兄も現在は、飲食店経営の会社に勤務。「銀のさら」や「串カツ田中」のフランチャイズもされているそうだ。

「串カツ田中」で、昇給の味を知る。

「串カツ田中に入社するきっかけは、母なんです」。
お母様?
「そう、母親が『串カツ田中』に食べにいって、すごい人気だって言われて、じゃぁ、1回いってみようと食べにいったのが、最初。もちろん、母親がいったとおり、すごいパワーの店でした/笑」。
そのあと求人誌で確認されたんですよね?
「はい。タウンワークに掲載されていました。週休2日で、月給25万円。当時では、破格の条件です。ただ、店舗数はまだ6~7店舗で、フランチャイズをはじめようとしていた頃ですね。社員数も20人くらいの頃です」。
最初はどんな仕事をされましたか?
「武蔵小杉のオープンに関わらせていただきました。『串カツ田中』も、出店がつづき、私も、初めて昇格・昇給を経験します。ええ、社会人になって初です/笑」
半年で店長になられていますね?
「そう、まだ、21歳でしたから、当然、アルバイトでも年上がいました。でも、けっこううまくやれていたんじゃないかなと思います。今もそうですが、タメ口は基本、きかないですし」。
「大人しく、人見知り」と言っているが、昇格・昇進に関しては遠慮がない。22歳で、店長からスーパーバイザーに昇進。「あの時は、相当勉強させてもらった」とのこと。
役職が人をつくるというが、ある意味、正しい。大須賀氏が、その好例。営業本部長になり、営業のトップに。役員になった時には店舗数も50店舗になっている。むろん、大須賀氏が、トップに立ったことで出店はさらに加速する。
串カツ田中についてふれておくと、創業は2008年。2016年、東証マザーズに上場し、2019年には東証一部に昇格。国内全店規模で禁煙化実施するなど、業界を驚かすことも多く、2020年3月現在、その店舗数は277店舗に及んでいる。
しかし、「串カツ田中」の1本足打法であり、「串カツ田中」につづく第二のブランドの育成が、急がれている状況だった。

第二のブランド創り。第二の矢が放たれる時。

「セカンドアローは、まさに第二の矢、ブランドを構築するために生まれた会社です。『みたのクリエイト』さんから、鳥と卵の専門店 『鳥玉』 を譲渡いただきスタートします」。
その新会社の社長に就任されたわけですね? 期待が大きいぶん、プレッシャーも大きいのでは?
「鳥玉は、『鳥 on the stage』、つまり『鳥の、鳥による、鳥のためのステージ』というのが店舗コンセプトです。沖縄県内に4店舗展開されていたブランドです。譲渡いただいたのが2月で、セカンドアローを設立したのが翌3月。出店は9月からのスタート。店長はいますが、まだ、私と、部長の2人です/笑」。
「ポテンシャルのあるブランドですから、当然、大事に育てていきたいですね。フランチャイズは、来年春からスタートする予定です。当然、プレッシャーはありますが、『鳥と卵』という食材にフォーカスしたユニークなショップなので、かなり面白いんじゃないかと、わくわくした気持ちのほうが大きいですね」
和名で、「第二の矢」という社名も、コンセプトも明確でいい。とはいえ、「串カツ田中」の第二のブランドという限り、店舗数だけではなく、その経営にも注目が集まるのではないか。
むろん、大須賀氏が行うのだから、抜かりはない。ただ、店舗数の拡大だけがミッションではない。飲食の生産性の向上や、スタッフの価値向上をどこまで実現できるか、そこが、大須賀氏に課せられた使命。それができた時、初めて第二の矢が放たれたといえるかもしれない。
ちなみに、『鳥玉』のホームページには、「毎日食べたい。でも家庭じゃ真似できない。そんな鳥と卵の料理」とある。たしかに、家庭じゃ真似できない、鳥と卵の料理なら、だれもが食べたくなるに違いない。ぜひ、一度、そちらもみて欲しい。来年春からの、フランチャイズスタートも待ち遠しい。

・・・続き

株式会社セカンドアロー 代表取締役社長 大須賀伸博氏


2020年12月9日水曜日

12月8日(火)発行の日刊ゲンダイ「社長の私生活」にゼットン鈴木伸典社長の記事が掲載されました。

12月8日(火)発行の日刊ゲンダイ「社長の私生活」に“AlohaTable ”などを運営されてる株式会社ゼットン鈴木伸典社長の記事が掲載されました。

株式会社エン(株式会社ひと味)  代表取締役 杉本孝太郎氏登場。

  in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社エン(株式会社ひと味)  代表取締役 杉本孝太郎氏登場。

本文より~

玉川学園とハイスクールと。

小田急線の「玉川学園前」駅で降りる。学校のホームページでは、そこから徒歩3分となっている。むろん、校名は「玉川学園」。
「小学校から、高校まで玉川学園です。サッカーを始めたのは小学生で、中・高は野球です。子どもの頃は品行方正だったんですが、高校の時にやんちゃになって、2年で退学しています」。
今回、ご登場いただいた株式会社エンの代表、杉本氏はそう言って笑う。ちなみに、杉本氏は2020年7月に株式会社ひと味の社長にも就任している。
「父親は、建設会社を経営していました。きょうだいは、姉が二人、そして、私。じつは、高校を辞めていったん川崎の職人の世界に入り、1年くらいつづけます。その頃、姉がアメリカ人と結婚していたので、その姉を頼って、19歳の時に渡米します。向かったのは、ジョージア州。観光ビザでハイスクールに潜り込み、3ヵ月~4ヵ月通っていました。観光ビザでも、問題ないと思っていたんです」。
10代の青年にとって、アメリカはどうだったんだろう。英語はできない。予備知識もない。言葉も、当然、通じない。「でも、楽しかった」と杉本氏。 ボディランゲージで、アメリカ人の心をつかんだのだろうか。
「楽しかったんですが、ビザが切れて帰国します。そののち定時制の高校に進みます。定時制ですから、昼は父親のコネで就職した、KDDI関連企業の会社で営業を始めます」。
なんでも、定時制に行き始めた時から父親と改めて話をするようになったそう。「自由奔放に生きてきましたが、私自身もかわり始めたんでしょうね。ただ、高校に進学して、すぐに父親が心筋梗塞で急死します」。
杉本氏、ハタチのことだから、1998年のこと。

アメリカンBAR。

「2001年9月11日。じつは、あの後すぐにアメリカにあそびに行ったんです。ハイ、アトランタ空港で、拘束です。1日半くらいで解放されたんですが、以前、観光ビザで学校に通っていたのが問題になり、怪しまれます。だから、今も、正式な手続きを経ないと入国できないんです/笑」
「アメリカの思い出ですか? やはり、義理の兄、つまり、姉の旦那さんにいろんなところに連れて行ってもったのが記憶に残っていますね。なかでも、私がいちばん魅了されたのは、BARです。バーテンダーになりたいと思ったのは、この時です」。
帰国後、横浜でアメリカンレストランバー(有)パーティーアニマルズの「フラッシュバック・カフェ」を経営されている田邊さんと出会い、弟子入り。飲食の人生の一歩を踏み出すことになる。
「3年くらい経った頃ですね。店長に昇格っていう時に、脳梗塞になる可能性があると診断されるんです。『今のままだと、悪化する』とのことだったので、田邊さんに相談し、辞めさせていただきます。ハイ、田邊さんのことは今も慕っています。だから、辞めるのは辛かったです」。
これが、26歳の時。1年後に、結婚している。

開拓先の1社が町田商店(現ギフト)。

「奥さんは、玉川学園の同級生です。学生の時、面識があったってくらいなんですが、成人式の日に会って意気投合します。それから、私がアメリカに行ったり、定時制の高校に入学したり…。彼女はぜんぶ知っています。私がバーテンダーに憧れたのも、店長にならず、辞めたのも」。
「私が今あるのは、父の死と、妻との出会いです。妻とは、27歳の時に結婚します。それから、10年くらい彼女の父親の下で仕事をしていました。養鶏場を経営されていたんです」。
定時制高校の時も営業だった。こちらの会社では飼育から営業。
「町田商店(現ギフト)に出会ったのは、東京を開拓することになった時のことです。それまで、商圏といえば、会社のある茨城だけ。役員も兼務していましたから、なんとか商圏を広げたいと思って。その時、町田商店にも営業をかけ、無事、契約していただきました」。
「驚く、スピードだった」と杉本氏。
「商品を卸しているから、わかるんです。すごいスピードで大きくなっていきます。そんな会社から、ある日、フランチャイズをやってみないか、と声をかけていただいたんです」。
杉本氏は、むろん、YES。ただ、会社は「NO」。
「だったら、自分でするしかないと、独立を決意します」。

常務の椅子をけって、ラーメンにかける。

常務だったから、「常務」の椅子を投げうって、独立したことになる。
今いる創業メンバーも二人、当時の部下がついてきてくれました。
「町田商店さんとしては、社内独立のスキームをつくるという狙いがあったそうです。だから、私は一度、会社に入り、修業し、独立するという一連のプロセスを経験し、2015年に相模原店で独立します」。
「最初は、400~450万円くらいを計画していたんですが、初月からいきなり600万円です。しかし、3ヵ月目には、計画を大幅に下回り、300万円を切ります。やばかったですね」。
「気絶寸前だった」と杉本氏。社員2人、バイト10人はいたが、全員、素人。「指揮もやんないといけないから、休みもない。営業も最悪。だから、初月600万円だった時も不安だったんです」。
歯車が回りだすまで、数ヵ月かかったそう。
「最初、ぜんぜんできなかった社員たちが、だんだんできるようになって。そのおかげで、予定通りの月商になります。厳しい言い方をしたと思うんですが、それでも、みんなついてきてくれて。ええ、今も創業メンバーは全員います」。
厳しくも、温かい、それが、杉本流。むろん、スタッフを信じている証。それは、今もかわらない。現在、店舗数は6店舗になる。
「横浜家系ラーメン孝太郎」2店舗に加え、「PIZZA&WINE BAR CONA」「つけ麺や 武双」「ぼんたぼんた」と、「広尾とんかつ ひとみ」の運営も行っている。

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株式会社エン(株式会社ひと味)  代表取締役 杉本孝太郎氏


2020年12月2日水曜日

株式会社ファミリア 代表取締役 菅原哲男氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ファミリア 代表取締役 菅原哲男氏登場。

本文より~

菅原氏×ラーメン。

亀有生まれ。5人兄妹の長男。「母親が1人で、育ててくれた」と菅原氏。むろん、長男。ときに父親代わりになって母を助けたにちがいない。
昔から「強さ」に惹かれた。だから、小学校は空手、中学は柔道、高校はキックボクシングと格闘技路線を進む。中学生の頃は柔道で都大会にも出場している。
推薦も来たが、進学したのは地元の商業高校。
「女子生徒が多く、バラ色だった」とこちらを笑わせる。
しかし、普段の生活はもちろん苦しかった。「とにかく、貧乏だった」と菅原氏。「電話もなかったし、電気やガスが止まることもあった。子ども心にも、貧乏だってわかる/笑」。
「だから、裕福になりたいとずっと思っていました。そのためには、社長にならないとけないと思っていたんですが。まさか、ラーメン店の店主になるとは、ね/笑」。
ラーメンが好きだが、もっぱら食べるほう。「小学3年生の頃からです」と菅原氏。家系ラーメンを知ってからは、益々、ラーメンの深みにハマる。ラーメン店の名刺をコレクションしていたくらいだ。
菅原氏とラーメン。関係はとりわけ長い。

中退×仕事×ラーメン。

じつは、菅原氏。高校2年で学校を辞めている。
「先生たちから無言の『辞めろ』の圧があった」と笑う。
「高校2年を2回やっているんです。まぁ、態度が悪かったもんですから。ただ、諸事情があり、自主退学です」。
諸事情を聞いて、なるほどなと思った。おとこの選択だ。「その後は横浜のほうで、仕事を始めます」。
どんな仕事だったんですか?
「最初は、建築関係ですね。給料は悪くなかったです。というか、仕事はとにかく転々とするんですが、とにかくいい給料の仕事を選択していました。たとえば、当時の時給って800円くらいだったんですが、私がチョイスするのは、日給1万1000円にたばこ代や昼飯代がプラスされるっていうようなバイトです」。
ただ、給料はよくても、お金は残らなかったらしい。もちろん、母にもいくらかを渡している。「家系ラーメンにハマったのは、横浜で現場の仕事をしている時です。いちばん好きだったのは、六角家さんですね」。
たしかに、肉体労働はハラが減る。エネルギーを補うにも、ラーメンは最高だ。しかも、安い。
「昔からラーメンが大好きでしょ。旅行に行っても、その地元のラーメン店に入るくらいのラーメンマニアが食べても、『これは旨い』と唸るんですから。そりゃ、旨いに決まっていますよね」。
旨いと思う一方で、ラーメンの奥深さにも惹かれたのではないか。まだまだ、オレの知らないラーメンがある、と。

上野×ホスト×ナンバー1。

「とにかく、いろんな仕事をするんですが、基本、からだを動かす現場の仕事です。ただ、ある時、パソコン一つも知らないぞと思って、いきなりプログラマーを志すんです。でも、中卒だし、そもそも素人は採用してもらえません」。
どうしたんだろう?
「たまたま知り合いの女性が、秋葉原のパソコンショップのオーナーを紹介してくたんです」。
そのショップで、仕事をしているうちにパソコンが自作できるまでになったそう。
「ハードって、やっぱりわかっているほうがいいんですね。で、めでたくあるソフトウェアの会社に入社することに成功したんですが」。
「まるで、あわなかった」と笑う。
「頭がおかしくなりそうだった」とも。菅原氏いわく、思考回路がまったく違うんだそう。ただ、経験したことで、納得もできた。「他にも、いろいろチャレンジしています。そうそう、駅前にテーブルをおいて携帯並べて売ったりもしました。あれが、初の起業ですね」。
お金になると、ホストも経験している。上野のクラブで、ナンバー1ホストだったそう。「でも、いっても上野ですからね。新宿とは、ぜんぜんちがう/笑」。
もうひとつ言えば、キャバクラのマネージャーも務めている。つまり、いろいろやった。笑い話になるものもあれば、そうじゃないものもある。

ラーメン×仕事。

「いろいろ経験したあと、ラーメン店で仕事を始めます」。25歳、キャバクラのマネージャーだったの時のこと。「そろそろ表の仕事を」と思ったそうだ。
「いったん営業とかも経験していたわけですが、ホストやキャバクラのマネージャーですから、最後は夜の仕事です。それじゃあかんと、もう一回、表の仕事にチャレンジするわけです」。
何をするかとなった時、現場も営業ももういいと思った。
「いらないものをとっぱらうと、ラーメンが残ったんです。もともと、大好きなわけですしね。で、初めてラーメンを仕事とみるようになるわけです。お世話になったのは、『ら~めん大』さん。二郎系です」。
「ら~めん大」は1年と半年。これも諸事情があって退職。社長とは、今でも仲がいい。
「人生の転機といえば、この時ですね。1ヵ月、落ち込んで。そう、初めてお金を貯めてラーメン屋をやろう、とマジメに思いました」。
「それからですね。もう1回、建築の仕事をして、夜の仕事もして。今度は、もう流されません。だいたい4年で、開業資金がたまります」。
「ヘンな自信があった」という。ラーメン店開業について、である。「でも、物語が足らないと思ったんです」。物語? 「そう、物語です」。

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株式会社ファミリア 代表取締役 菅原哲男氏


2020年11月30日月曜日

10月17日(土)より5連載で日刊ゲンダイ “飲食のプロが見つけた、バッカスがいる店”に「ティーケーエス」斎藤浩司社長が推薦の5店舗が紹介されました。

10月17日(土)~11月14日(土)の5連載で日刊ゲンダイ “飲食のプロが見つけた、バッカスがいる店(旧 グルメ社長の食い倒れ日記)”に「ティーケーエス」斎藤浩司社長が推薦の5店舗が紹介されました。



9月12日(土)より5連載で日刊ゲンダイ “飲食のプロが見つけた、バッカスがいる”に「神楽坂くろす」黒須ゆきこ女将が推薦の店舗が紹介されました。

9月12日(土)~10月10日(土)の5連載の日刊ゲンダイ “飲食のプロが見つけた、バッカスがいる店(旧 グルメ社長の食い倒れ日記)”に「神楽坂くろす」黒須ゆきこ女将が推薦の5店舗が紹介されました。

2020年11月24日火曜日

株式会社つばめ 代表取締役社長 石倉知忠氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社つばめ 代表取締役社長 石倉知忠氏登場。

本文より~

創業1930年。

「特急 つばめ」が走る。デビューは1930年。「つばめグリル」と同い年。名に、由来がある。
ホームページによれば、もともと「特急 つばめ」は「新橋」駅にも停車していたそう。それが停車しなくなったことで、「つばめ」の名を惜しむ声があがり、同駅ちかくにあった小さなレストランに、その名が刻まれたということだ。
ちなみに、「特急 つばめ」は、東京・大阪間を8時間20分で走破している。はるか昔の話。
この超特急の名を受け継いだグリルにも年が流れ、いまや4代目の店主となる。その4代目が、今回ご登場いただいた石倉知忠氏。社長に就任したのは2020年の5月。このインタビューが同年7月のことだから、まだ1年も経っていない。どんなお話が聞けるだろう。
「今年で弊社は90周年になります。創業者は曾祖父です。2代目の祖父は戦時中にシベリアで抑留されていて、シベリアから帰国した際に2代目になったと聞いています。ただ、色々な理由が重なり、比較的すぐに父にバトンタッチしています。私には兄がいますが、兄は子どもの頃から『継がない』と公言していまして、おかげで私にお鉢が回ってきたということです」。
もっとも子どもの頃になりたかったのは、「つばめグリル」の4代目ではなく、アナウンサーか、化石発掘者か。
「ただ、食には関心があったほうだと思います。日曜になると、よく外食に連れて行ってもらいました。銀座のお店が多かったように思います」。
英才教育?
「今思えば、そうかもしれないですね/笑」。

1998年、つばめに、入社する。

子どもの頃、どんな少年でしたか?という質問には、「トゲトゲした子ども」という回答。
学校は小学校から慶應。
「英語と美術以外はあまりできませんでした。スポーツは軟式テニス、バドミントン、また、グライダーもやりましたが、特段はハマったものはない。大学時代は、カヌーをしていました。その一方で、映画にはハマりました。年間400本は観ていたと思います」。
高校3年の時には、アメリカにも行っている。今も年2回はフランスなどのヨーロッパや20年来の付き合いがあるワイナリーを視察するため、チリ、アルゼンチンにも行っているそうだ。
ちなみに大学を卒業して、就職したのはサッポロビール。サッポロビールで3年間、勤務している。
「私がつばめグリルに入社したのは、1998年のことです。それからもう22年になります。今年、社長に就任したわけですが、10年くらい前から、すでに自由にハンドリングしていましたので、社長になったことでなにか違いがあるわけでもないですね。あるとすれば、やはり新型コロナウイルス。リーマンショックといった世界的な不況は経験してきましたが、今回はそれ以上にやっかいですね」。
たしかに、いままでの不況ともちがう。予測がつかないのも、その一つ。
「現在26店舗あり、そのうち6店舗が惣菜店です。レストランのほうは4月から自粛しましたが、惣菜店に関しては社会のインフラの一つだと思い、営業をつづけてきました」。
「レストランの営業を再開したのは6月1日から。だんだんとお客様も戻ってきてくださって、この調子でいけばと思っていましたが、7月に入り感染者数の増加と共にまた急下降です」。
たしかに、7月に入り、出口はまだ先の先ということを思い知らされた。
「BSEの問題とかもありましたが、その際は今思えば比較的短時間で解決しました。ただ、今回は先が長い。だとすれば、時間が解決してくれるのを待つのは最悪の手です。どうすればいいか、問題はそこにあります」。

創業90周年目の大波乱。

「昨年、消費税が10%になってから雲行きが悪くなってきましたが、それでもオリンピックがあると思っていました。しかし、コロナウイルスでその望みもなくなりました」。
まさに、創業90周年目の大波乱。
「5月の就任ですからね。年始は、こんな事態をまったく想像していませんでした。とくにうちのようなつくり方のハンバーグだと原価が高くなります。そのため、売上が前期比70%に戻ったと言っても、経営的には赤字です。これが50%やそれ以下になるわけですから大変です」。
とはいえ、手をこまねいているわけではない。じつは光明もある。やはり老舗のちからだ。
インタビューの冒頭で、石倉氏は「つばめグリルによく行っていた」というお客様からの言葉について、「何故か過去形の方が多い。そこが課題」と言っていた。「よく行っていた」ではなく「たまに行っている」と言われたいというわけだ。
しかし、このコロナ下において「よく行っていた」というお客様の存在と価値があぶりだされている。
「今までは売上の比率はレストランがメインで、総菜の比率は15%くらいだったんですが、この総菜の比率を大きくしていこうと計画しています。実際、レストランがほとんど前年比50%なのに比べ、総菜店は90%くらいまで回復している店舗もあります」。
総菜。なるほどレストランに「よく行っていた人」が購入されるのだろう。
「ええ、もちろんそれもあるんですが、じつは総菜のノウハウを活用し、通信販売を進めていこうとしています。その時に、自社でSNSなどの情報発信ツールをつくろうと、遅ればせながらインスタグラムに力を入れはじめたところ、数ヵ月でフォロワー数が約2万人近くになりました」。
ハンバーグの作りかたの動画なども投稿したそうだ。
「これが思いのほか、けっこう話題になりました。大阪や北海道といった地方からの反響が大きかったです。そう、全国から『昔よく行った、あのつばめグリルの味を』というわけです。ありがたいですね。これがたぶん、うちの商売を永く続けてきた飲食店のパワーであり、そんなお客様が大事な財産なんでしょうね」。
これを活かす。通販には早々に着手したいとのこと。つばめグリルの味が簡単に家庭で楽しめるとなれば消費者にとってはありがたい限り。

・・・続き

株式会社つばめ 代表取締役社長 石倉知忠氏


新型コロナウイルスの「第3波」に備えて、キイストンでは・・。

新型コロナウイルスの「第3波」の到来で、全国の新規陽性者数が過去最多を更新なか、

キイストンは社内の忘年会&新年会取りやめにしました。

出勤時の検温、アルコール消毒、手洗いに加えて、今回席と席の間にパーテーション設置しました。

少数精鋭でやっているため、もし社内で誰かが感染すると全面的に営業活動停止の可能性のありますからね・・・。

自分たちの身は自分たちでも守る。

また、関わる皆さんにも安心していただけるよう、事前にやれることから対応していきます。


11月6日(金)より夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」に肉汁餃子のダンダダン(ナッティースワンキー様)を3連載で掲載しました。

11月6日(金)〜20日(金)の3週に渡って夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」に肉汁餃子のダンダダン(ナッティースワンキー)を掲載しました。


2020年11月17日火曜日

株式会社浪漫家グループ 代表取締役 福井将一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社浪漫家グループ 代表取締役 福井将一氏登場。


本文より~

飲食は儲かる。

「ハッピー・バースデイ・トゥー・ユー♪」「ハッピー・バースデイ・トゥー・ユー♪」
福井氏の歌がこだまする。テーブルには、福井氏の渾身のスイーツ。「最初はうちのアルバイトもモジモジやっとったんやけど、だんだんみんな調子でてきて」。小さな店がバースデイソングに包まれる。「本人らは、ボロボロやったんちゃうやろか」。
30年以上も前の、小さなお店での話。
「24歳の時に『低資金でも開業できる』が謳い文句の、あるフランチャイズに加盟して、京都伏見にある赤字店をひきつぎます。そりゃ、赤字ですからね/笑」。
最初から、全力。
「ハッピー・バースデイ・トゥー・ユー♪は、『今日、彼女のバースデイやから、なんかしたってな』っていう一言のリクエストからはじまります。まだ、お客さんもついてない頃やったからね。そりゃ、心込めますわ」。
いまもそうだが、なんでも、全力。
「口コミで、『おもろい店長がおる』って広がったんかな。県をまたいでぎょうさんお客さんがきてくりゃはるようになって。ありがたいことに、赤字はどこへやらですわ」。
「飲食は儲かる」。これが、最初の体験。
フランチャイズの研修店にもなって、本部のスタッフになり30店舗だったFCを126店舗まで広げたそう。「うちの店は遠隔操作でカバーしながら、私自身は今日は名古屋、明日は金沢みたいな、もう寝る間もない。睡眠いうたらサービスエリアでウトウトするくらい。で、さっきいうたみたいに、『2年で126店舗まで広げる』わけです。その126店目が、じつは、うちの京都、赤池のお店なんですけどね」。

フルーツ・パーラーは儲からへん。

「独立から2年で5店舗まで拡大しました」と、福井氏は笑う。「採算はぜんぜんあいませんが、『オレは、できる』という自信が確信にかわったのは、この時ですね/笑」。
 福井氏が生まれたのは、1963年。京都市中京区。
「親父はもともとサラリーマンだったんですが、独立して染工場をはじめます。親父の、社員にやる気を与えている姿がめっちゃ格好よかった。こうやって仕事するんやぞ。そんな姿を見て『オレも社長になろ』と思っていました」。
そんな父親からは、小さい時から「やるなら、現金商売」と言われていたそう。「昔は、おとなしい子やったんです。でも、中学で陸上やるようになって性格がかわって。高校は、ラグビー、工業高校です」。
 ハナから、大学進学は頭にない。「ただ、これをやるというのもなかった。最初に就職した会社は1年半しかつづけへんかった。あとは、フリーター。あの頃は、転職のオニでしたね、まさに」。 
 自身でみつけた、最初の未来は、「フルーツ・パーラー」。「19歳の時ですね。とつぜん、フルーツ・パーラーをやっている夢をみるんです」。
 思い立ったら、行動は早い。
 「すぐ、中央市場の仲卸の果物店で社員として働かせてもらいます。そりゃ、フルーツを極めなあかんから。ただ、これもまた、あほみたいに頑張りましてね。19歳で市場の世界に入って、20歳の時にはもうセリに立っていました。たぶん、最年少記録です/笑」。
 21歳になると、軽トラックにフルーツを積んでビジネスを開始。「定期便みたいになって、飲食店からも注文をいただきます。もちろん、フルーツ・パーラーをするための軍資金獲得が目的ですかね。でもある時、ふと、コーヒー飲んだり、パフェ食べたりしてもろうて、いったいいくら儲かるんやろって」。
計算機をたたいた。「でね。結論は、利益がない!みたいな/笑」。
 つまり、起業のきっかけはフルーツ・パーラー。だけど、やったのはフルーツ・パーラーじゃやないってことですね?
 「そうそう。いろいろ準備を進めているうちに、フルーツ・パーラーは儲からへんという事実に思い至ったわけです」。

もう、とまらへん。

タイミングもあった。ある喫茶店のオーナーが「いまどき、喫茶店は儲からへん」と、串かつ店をオープンする。
「オープン前から話を聞いていたもんですから、もう興味津々なわけです。ええ、毎晩、出勤です/笑。だいたい観てたらわかるんです。サラリーマンばかりやったんですが、食べて、飲んで、『ごちそうさん』いうて、帰らはる。だいたい1人3500円。フルーツ・パーラーの3.5倍の客単価です。こりゃ、儲かるやん!って/笑」。
 「この時、はじめて、本を読んだ」と笑う。ワタミフードサービスの渡邉美樹さんの自叙伝「青年社長」だ。「最初は、パーラーやったんが、これで完全に方向転換です。でも、ぜんぜんお金がない/笑」。
 でも、もうとまらない?
 「そうですね。とまらへん。そんな性格ですから/笑」。
そんな時に、知人から「大吉」の独立システムの話を聞く。「ええやん、これやと思うんですが、京都でやりたかったから、私は大吉さんとは異なる会社と契約します。あとは、さきほどお話した通りです。けっきょく、私の店は研修店になって、私自身は本部スタッフともなって、126店舗まで店を広げます」。
 父親は「現金商売をしろ」といった。じつは、福井氏だけではなく、弟も、おなじやきとりで独立し、現金商売をしている。京都駅にある「きんぎょ」という店舗らしい。
 「焼き鳥の本部スタッフとして出店を伸ばし11年で退職、1998年10月に有限会社 浪漫家グループを創業しました。これが、ドル箱。13坪、40席で、月商500万円。スタッフは4人に。月商の1/2が残ります。ええ、毎月です」。
 けっきょく、創業から2年で5店舗まで拡大。
「経営の神かもしれへん」。
自信は、やはり確信にかわる。しかし…。

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株式会社浪漫家グループ 代表取締役 福井将一氏