2026年4月30日木曜日

【特別企画(過去掲載からの再取材)】株式会社トライ・インターナショナル 代表取締役社長 田所史之氏登場。

“飲食の戦士たち”【特別企画(過去掲載からの再取材)】株式会社トライ・インターナショナル 代表取締役社長 田所史之氏を取り上げました。

本文より~

味噌らーめん専門店「麺場 田所商店」。

ブラジルのサンパウロ、アメリカのニューヨーク。今年(2026年)には、トライ・インターナショナル単独で味噌の展示会を開催するそうだ。
2013年、1回目のインタビュー時、国内は5店舗(FC45店舗)だったが、当時から海外へ目をむけ、海外でも味噌らーめん専門店を複数店舗オープンされていた。ブランドは「麺場 田所商店」。看板代わりにそびえる大きな味噌樽が味噌専門店であることを誇っている。
2026年現在の店舗数はFC合わせ国内外で200店舗以上ある。田所さんは店舗を“出口”と表現する。対になる入口は、約70社ある取引先。味噌蔵である。なかにはグループ化した味噌蔵もある。
「宮崎にある1社が顆粒の味噌を製造しているんです。面白いでしょ。この会社もグループ化しています。味噌を顆粒化し、世界中で手軽に使える調味料として広げていく取り組みも進めています」。すでに60歳を超えた田所さんだが、前回同様、ハリのある声でユーモアを交えながら淡々とお話をしてくださった。
では、今回のお話を始める前に、13年前にうかがった少年期からの話をはじめよう。

野球よりバイク。大学よりバイト。

田所さんが生まれたのは、福島県白河市近郊だった。実家は明治から続く味噌蔵。
子どもの頃の話を聞くと、「テストは30点とればいいほう」とこちらを笑わせてくれた。
勉強は苦手だったが、スポーツは得意。得意な野球では高校で県ベスト4。社会人野球からも誘いがあったそう。ただ、本人は、野球よりバイク。学校にいかなかったから、卒業に赤信号が灯った。
真冬の2月のプール。「25メートルを泳ぐことができたら卒業させてやる」。「先生のむちゃくちゃな課題をなんとかクリアして卒業できた」とおっしゃっていた。
その時の話をすると、「そんな話をしていましたよね。昭和だからある話で。」と笑う。
大学に進学したが、3年生に進級できず除籍。2年間の在学中、田所さんがキャンパスに現れたのは通算で5日。
「バイトに明け暮れていました。当時のマルイシティ新宿でウエイターをしていたんです」。
<大学どころじゃなかったんでしたよね?>というと、田所さんは力強く頷く。
「親も商売をしていたからでしょうね。商売がしたくなって、大学を辞めてとあるラーメン店に就職しました」。

自己破産という選択と、再起と。

「そのラーメン店で修業させていただいて、21歳のときに独立します」。
フランチャイズ店として、居酒屋。商才があったんだろう。バブルの波にも乗り事業は快調に滑り出す。
「ところが、29歳でバブルが弾けて、ラーメンの2号店で躓きました。その一方で、父親が経営していた会社も厳しくなって」。
バブルが弾けると、だれもがとたんに財布の紐をしめた。
「私が経営していた飲食店もそうですし、父親の会社もますます厳しくなって。35歳になるまで厳しい状況が続き、ついに、にっちもさっちもいかなくなり、自己破産を選択するしかなくなりました」。
田所さんは、以前同様、苦しげな表情をする。
「なんとか、FC本部で仕事をさせていただけたおかげで生活はできましたが、制約があって事業は起こせませんでした」。
日々の仕事に地道に向き合った。
「はずかしくて。周囲の目を気にしてしまうほど精神的に追い込まれた時期もありました。あれだけやりたかった商売もやりたくなくなった。でも、事業をする、それ以外の選択肢がなかったのも事実なんです」。
田所さんは自己破産から5年後の話をする。
<再度、ラーメン店でしたよね?>
「いえ、復活の1号店は味噌をメインとした味噌居酒屋だったんです。ところが」。
そういって、もう一度、昔を振り返る。
「ちょうど、うちがオープンしたタイミングで、道路交通法が改正されたんです。簡単にいうと、飲酒運転の取り締まりがむちゃくちゃ厳しくなったんです」。
「しかもね」と田所さん。「うちの店の前で検問が始まったんですよ」と笑う。

盛和塾と再スタートと。

再起をかけてスタートしたが、タイミングが悪く出鼻をくじかれる。
「見事に水をさされました。でも、今思えばそれが幸いして。味噌らーめん店をスタートすることができたんです」。
田所さんは淡々と、話をつづける。
「私の一大転機は、盛和塾に参加させていただいて、あの稲盛さんから指導をいただいたこと。そして、おなじ塾生の人たちに刺激を受けたことだと今でも感謝しています」。
<13年前のインタビューでは、すでに直営5店舗とおっしゃっていました>
「稲盛さんの経営哲学をもとに、今度こそ本当の再スタートです。おかげ様で事業は軌道に乗り、インタビューしてもらったときには直営5店舗、FC45店舗。それ以降も順調に拡大し、今は直営が60店舗、FCが130店舗。当時から海外進出もしていましたが、今はカナダ、アメリカ、ブラジルに店舗をオープンしていて、ベトナムでは製麺所を運営しています」。
「もともとはお店もオープンしていたんですが、コロナ禍にクローズさせていただいて製麺事業だけ残したんです」。
ベトナムでは製麺事業も手がけており、現地のラーメン市場の中で着実に存在感を高めている。「現地でも多くの店舗で当社の麺を使っていただいています」と田所さんは語る。
しかも、ベトナムだけの話ではないようだ。「カナダの大手小売業向けの冷凍麺もつくっているんです」。
話は世界へと広がっていく。卒業と引き換えに25メートルプールを泳いだ、少年の姿はどこにもなかった。


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2026年4月22日水曜日

株式会社アオギリコーポレーション 代表取締役 澤出晃良氏登場。

“飲食の戦士たち”株式会社アオギリコーポレーション 代表取締役 澤出晃良氏を取り上げました。

本文より~

六畳一間の孤独と、写真にしか残っていない記憶。

今回、ご登場いただいたのは目黒区で「西口アオギリ」「呑家」「居酒屋ホドケバ」「大衆酒場はんろく」「警視鳥」を展開する株式会社アオギリコーポレーションの代表取締役、澤出晃良さん。
1973年生まれ。
「生まれたのは武蔵小金井。ぼくらはやんちゃな時代で。ビーバップハイスクールに影響されて不良の全盛期」と笑う。
「きょうだいは3人で姉がふたり」と澤出さん。
ご両親は澤出さんが中学に上がるときに離婚。
母親は家を離れ、のちにふたりの姉も家を出る。狭い部屋に残されたのは父親と澤出さん。
「親父は帰ってこないから、すぐに友達の溜まり場になった」と苦笑する。
父親が家にいたとき、電話がかかってくるのは決まって借金取りから。そのたび「いないと言え」と父親の罵声がとぶ。
「恥ずかしかったですよ。だって、4000円の給食費も払えない。部屋も欲しかったね。ぼくが中学までは六畳一間にきょうだい3人ですからね」。
小さい頃、澤出さんは、わがままを一つだけいった。
「部屋が欲しいってね」。
そのたびに傷ついた。
「部屋が欲しいから、『引っ越して』っていうんです。そうしたら『よし、来年は引っ越すよ』っていうんです。嘘つくんですよ。必ず言うんですよ。期待させるんです。で、ぼくも子供だったから必ず期待しちゃうんですよ。『来年になったら、ぼくの部屋ができる』って」。
「でも、毎年、絶対引っ越さない」。
「で、いうんです。『来年は、絶対だよ』って。すると『よし、わかった。来年は引っ越しだ』って」。
何年、そんなやり取りを繰り返したんだろう。
中学生になった澤出さんは、もうわがままを繰り返さなくなった。
小学校の話を聞くと、澤出さんは記憶がないという。父親と公園で凧揚げをしたこと、発表会でワニを演じたこと。すべて写真の記憶だった。
「ピーター・パンで、ぼくはいちばん脇役のワニだった」と笑う。ただ、勉強はできた。「姉ふたりもそうですが、きょうだいみんな優秀でした。もっともぼくは小学校までだけどね」。

え? 塾行ってたの?

「頭がいいって勘違いしていたんですね。小学校のときは、なにもしなくてもクラスでいいほうだったから。でも、中学になってやんなきゃ、そりゃついてけない。1学期に早くもトップに離されまくって。そうなるとつまらなくなるでしょ」。
教室じゃなく、非常階段で授業のベルを聴くようになった。
「非常階段で、悪い先輩らとつるんでいるのが楽しくなっちゃってね」。
澤出家が溜まり場になるには、そう時間がかからなかった。
「でもね。そうやってつるんでいた先輩も、友達も、なんだかんだって高校に進むんですよね。『え? 塾、行ってたんだ!?』って。で、けっきょく3人かな。義務教育で、終了したのは(笑)」。
澤出さんは16歳で内装工事の仕事をはじめる。
「先輩の紹介で、いっしょにはたらいたのは、ぜんぜん学校に来なかった奴。でも、そいつ、仕事をはじめたら急にマジメ人間になって。それで、すぐに独立するんです。『おいおいみんなどうしたんだよ』です。だって、ぼくは、仕事もすぐサボって行かない(笑)」。
結局、長くつづかなかった。
「退職して、ブラブラしてました。新宿とかで。とにかく夜遊びが好きで、20歳のときかな。ライブハウスや、クラブで仕事を始めます。夜は案外、得意なんです」。
ライブハウス、クラブ、そして24歳のとき先輩に誘われ大阪に向かう。

マネージャーの響きに誘われて、東京脱出。

「『大阪でカフェするからついてこない?』って言われて。『マネージャーやらせてやるよ』って。いいでしょ。『え? マジっすか?』って、ルンルン気分で電車に乗ります」。
「マネージャーって響きに釣られた」と澤出さん。実際は副店長。
「副店長でも悪くはないんですが、カフェがだめでした。夜じゃなくって、昼でしょ。夜専用のタイプでしたから、昼の人とは言葉のニュアンスもちがうし。だんだん、怖くなっちゃって。手がふるえるもんだから、お出しするコーヒーまでふるえだすんです」。
キッチンに逃げ込んだ。ひたすら食器を洗った。横目で白い目が注がれるのをみた。
「副店長でしたからね。『副店長やのに、なんやねんあいつ!』みたいなね。『あいつのほうが給料ええの、許せへんわ!』といって辞めていくやつもいて。店長にむちゃくちゃ怒られて」。
東京と大阪。言葉のカベもあった。澤出さんは「健全な少年少女と話したことがなかったから」と苦笑する。
関西弁もマスターして、夜行性の習性を修正する。「なんか、そうしているうちにしゃべりも、うまなってきて『大阪ってええやん!』ってなって」。
新たな環境を好きになるのに時間がかかるタイプ。かたい殻を脱ぐ、そこからスタートするからだ。でも、いったん好きになると、ちがった澤出さんが現れる。
「カフェは2年間です。26歳までですね。大阪もそうですが、後輩もできて『飲食って楽しいな』って少しずつね。で、気づくんです。『なんか、世界が明るいぞ』って(笑)」。

やきいもと、商売と。

「で、どっかで調子に乗ってたんかな。さそってくれた先輩と喧嘩をして『辞める』っていって、26歳で退職。一度、喧嘩すると、ぼく頑固なんで二度と電話にもできませんでした。ま、そっちはいいんですが、家賃を払わないといけないから、仕事はしないといけないでしょ。で、焼き芋屋を始めます」。
<焼き芋?>
「ハイ。あの移動販売です。大阪や京都、滋賀をまわって。でも、ぜんぜん売れへんかったですね(笑)」。
1日のノルマは30キロ。走るほうじゃなく、重さのほう。
「30キロいったら、そこからが利益なんですが、ぜんぜん。だから、芋ばっかり食べていました」。
面白い話も聞かせていただいた。
「大阪でやっていたら、子どもとかくるでしょ。たいてい500円もってくるんです。でも、なかには50円分ちょうだいっていう子もいてね。『そんなのないよ~』ていうしかないでしょ。で、あれ、芦屋ですね。イカリスーパーっていう高級スーパーがあるんですが、その駐車場で疲れ果てて昼寝しちゃってたんです」。
「すいません」と声がする。目がさめたら子どもがこちらをみていた。
「また、子どもかって思って『ないよ~~』っていったら、その子ね、5000円もっていたんです。急にシャッキとして、『なになに?』って。そしたら『5000円分ください』って」。
「芦屋には、たまげた」という話である。
冬は焼き芋、夏はわらび餅。
「それ、2年くらいつづけたんです。正直、楽しくもなかったし、生活で精一杯でしんどいし、ぜんぜん儲からなかったんですが、なんて言ったらいいんかな、商売やってるなって感じになって」。
「で、大阪でなんだかんだあって、ちょとだけ楽しいことをみつけたんだけど、けっきょく27歳のときに東京に帰ります」。

2500万円の衝撃と。

27歳、東京にもどり、鉄板焼の店でアルバイトをはじめ、朝8時から夜2時まではたらいた。給料は40万円オーバー。
「はたらくのは、もう抵抗なかった。でも、40万円ももらっちゃうと、社長が『正社員になれ』って言ってくるんです」。
<イヤだったんですね?>
「そう、根拠のない反骨精神ですね。で、葉山のほうでもはたらいて。35歳のときに『根室食堂』でアルバイトをはじめます」。
「そのときは、とにかくはたらくしかなかったんです」。
理由を聞くと「父親が逮捕されたから」という。
「詐欺という容疑です。そのとき、父親は会社を経営していることになっていました。ぼくが監査役で印鑑を貸していて。突然『2500万円払え』って」。
「もちろん、そんな大金あるわけないし、払えません。だから、裁判になって、けっきょく請求は却下されるんですが、2年くらい真っ暗な日々がつづきました」。
<だから、はたらくしかなかったんですね?>
「そう、計算するんです。月に20万円返して何年かかるかって。そしたらもうクラクラしてきて」。2年間、澤出さんは「ぼくは、無実といいつづけた」という。
澤出さんはいう。
「どう計算しても、完済するのは50過ぎているんです。なんかね。『ちょっと一回死んじゃおうかな』と思ったりして。で。『一回死んじゃおうかな』と思ったら、『あれ、何でもできんじゃないかな』と思って。さっきの反骨精神じゃないですが、『プライドもぜんぶ捨てていいんじゃないかな』と思って。で、そのときですね。『根室食堂』でバイトを始めるんです」。
もちろん、ふつうじゃ返済できない。だから、独立するしかないと、心を決めていた。

独立、それしかないと、覚悟を決めた。

「根室食堂にいったら、もうむちゃくちゃはたらかされるんです(笑)。でも、ぼくにはちょうどよかった。2階もあるから、料理もって階段を駆け上がるんです。1日中、走っているから、へたへたで。何も考えなくていいんです」。
ひたすら、階段を上下した。そんなある日のこと、昔の友達と店の前で出会った。
「ぼく昔から大ぼらふいていて『オレ、絶対、独立して成功するから』って言ってたんですよ。でね、渋谷とかで遊んでいたときの友達が、『根室食堂』も渋谷だったからか、店の前で偶然、出会って、『お、澤出くん、キミの店か、すごいじゃん!』って」。
言葉が終わらないうちに背中から声がどんできた。「澤出くん、何やってんの。中入って、忙しいんだから」って。
声の主は二十歳の店長だった。
「たぶん、親父の逮捕で、ぜんぶかわったと思いますね。たまたま彼女にも振られたタイミングだったし、借金の話をしたら、友達も『頑張れよ』って言って離れていくんです。だから、ぼくは『頑張れ』は言わないようにしているんです」。
<なぜ?>って聞くと、「『頑張れ』って、むちゃくちゃ薄情な一言なんです」。
街道をバイクで駆けて「バカヤロー」と叫びつづけたのも、この頃の話。

貯めに、貯めた400万円が飛んでいく。

こののち、2012年、澤出さんは独立して学芸大学に「大衆酒場アオギリ」をオープンする(後に「呑家」に店名変更)。
「大家さんに『作文書いて』って言われて、作文なんか小学生以来だから困っちゃって。でもね。紹介してくれた不動産会社の女の人、『私、作文コンクールで優勝したことあるから、澤出さんが書いた作文を書き直してあげる』って、女神が現れて。作文みせたら大家さんが『君、気に入った。めちゃくちゃ気に入った。君みたいな人にやってもらいたい』なんてベタ褒めでね。13坪くらいで16万円だから、家賃は破格だったんだけど、『頭金だけ先に払ってくれ』って。それも、120万円」。
<払ったんですか?>
「そう、払いました。そのときの貯金が400万円だったから、残り280万円。スケルトンからだったから、280万円じゃとても工事ができません。でも工事業者の人は準備をはじめてくれているし、それで国金へいくんですが相手にされません」。
ひどい言葉も浴びせられた。
「『頭金が担保だ』っていったり。緊張してね、地酒を言い間違えちゃったりして。だからぼくもわるいんだけど、『君、ぜんぜん素人でしょ。すべて嘘でしょ、これすべて』って、書類を叩きながらね」。
嘘じゃなかった。すべてほんとう。いや、すべてをほんとうにするために、今、お金がいるんだ。
「捨てる神あれば、拾う神あり」というが、ほんとうだった。
「今もうちのメインバンクなんですが、さわやか信用金庫の担当の人が『キミ、面白いね』っていって、480万円、貸してくれたんです。もう、大恩人です。するとね。会計士の人も、業者さんも応援してくれてね。店に寝泊まりするつもりだったから、借りてた家もでて、生活費を削る。そんな真剣な覚悟をみんなみてくれていたと思うんだ」。
「営業は、夕方5時から朝5時まで。それから仕入れにいって。『素人』って言われたのも、その通りでさ。とにかく安くすればいいと思ってた。さしみ380円、ホッピー中100円とかね。お客さんは来たけど、お客さんがきているわりにはお金が残んないんだ(笑)」。
戦略は、とにかく、安く! だから、人件費もケチる。
「どうだったかな。3年間は380~400万円くらいだったかな。アホだからさ。とにかく安く、人件費もケチって、お金が入れば返済する。でもね。あるとき、1人スタッフを入れたら売上がポンって上がったんです。あれ? あ、そうか。これだよなって」。 新店もオープンした。
「でも、戦略なんかない。芋売ってたときとぜんぜんかわってなかったんです。じつは、2年前ね、ビール会社さんから『株式会社ぐっとくるダイニング』の代表、岩田 聡さんを紹介してもらって、あちらの会社の副店長のミーティングに招待してもらうんです」。

・・・続き

株式会社アオギリコーポレーション 代表取締役 澤出晃良氏


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2026年4月19日日曜日

昨年に続き、決算賞与支給。

昨年度、求人部門の結果には悔しさも残りますが、全員の粘りによって最低目標は死守することができました。
この成果を今期の爆発的な成長へ繋げるため、今年も決算賞与を支給することにしました。ここからが真の勝負です。
今期、キイストンは原点に立ち返り、「求人」の領域で圧倒的な力を発揮していきます!
新たな施策、強力なブレーン、武器(商材)など次々と投入します。
しかし、すべての土台となるのは「アポイント」への執念です。
泥臭く、そして熱く。私たちの魂である「キイストンイズム」を体現し、共に新たな歴史を創りたいです。

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2026年4月14日火曜日

株式会社BOUT 代表取締役社長 尾坂 亮氏登場。

“飲食の戦士たち”株式会社BOUT 代表取締役社長 尾坂 亮氏を取り上げました。

本文より~

街と人が行き交う日常を原体験に。

鳥取市の中心部、JR鳥取駅にほど近い商店街の一角にある、ひときわレトロな佇まいの建物。「ヲサカ文具店」――尾坂亮氏は創業80年を数えるこの老舗の3代目として生まれた。1階が店舗で、2階に祖父母、3階には両親と尾坂氏、妹の4人が暮らす。家族と街の人が公私の境なく出入りする環境――これが彼の原風景だ。
本業のかたわら、地元サッカー協会の仕事も務める父の周りには、いつも多くの人が集まっていた。尾坂氏自身「頑固で、それほど器用なタイプではない」と評する父だが、地域に根ざし、自然と人が訪ねてくるその姿は、「場」に対する氏の感覚に少なからぬ影響を及ぼしていた。
鳥取大学附属の小・中学校から、県内屈指の進学校である鳥取西高校へ。クラス委員を任されるタイプの真面目な生徒で、勉強もスポーツもそつなくこなした。建築への興味から横浜国立大学を選び、関東での新しい生活をスタートさせた。

飲食店での居心地の良さと、マイナビで学んだ「場」の意義。

人生の転機は、横浜駅そばの鶴屋町にあったダイニングバーでのアルバイトだった。スタッフと客が一体となって楽しむその店は、そこにいるだけで心が弾む、不思議な居心地の良さに満ちていた。さらに、周りの店との垣根を越えた交流が日常的にあり、街そのものへの愛着が自然と育まれていった。
「中学のころ、料理人になりたいって思ったことがあるんです。地元にあんかけかつ丼の美味しい店があって、図書館で料理本を見ては餡のレシピを家で試したりして。学校の文集に『将来は料理人になりたい』って書いたこともありました。でも飲食に進みたいって本気で思ったのは、あのアルバイトがきっかけです」。
現場での経験を通じ、かつて抱いた食への関心が「自分が歩むべき道」に変化した瞬間だった。
一方で、自身の進路を再考し、留年。5年生の就職活動では人材業界に焦点を当て、人材大手のマイナビ(当時・毎日コミュニケーションズ)への入社を決める。
「同業他社の圧倒的な『熱さ』よりも、マイナビの持つ程よい『ゆるさ』が自分には合っていました」。
面接を担当した人事部長の目に留まり、人事部へと配属。尾坂氏はそこで、自然体のまま着実にキャリアを積んでいく。新卒・中途採用の最前線で全国を飛び回り、数多の面接をこなす中、そのビジョンは少しずつ形を変えていった。
「ただ飲食店をやりたいだけではなく、人が集まる場、そこで誰かと誰かが出会って何かが始まる、そんな場を作りたいと思うようになりました」。
20代のうちに面白いことをやろうという気持ちは常にあった。高校時代からの親友とよく飲んでは、そんな話で盛り上がっていた。その勢いのまま、27歳を迎えた2009年8月、尾坂氏は一歩を踏み出す。

「マグロマート」の広がりと、独創的な試行錯誤の数々。

2010年、中野のマンションの一室を借り、わずか80万円の投資で開いたバー「0番酒場」。BOUTの出発点はこの店だったが、当初は売り上げが思うように伸びず、翌年中野富士見町に「城ヶ島マグロマート」をオープン。親友とよく通った渋谷の店で食べたマグロの美味しさに惹かれ、港町三崎の業者を紹介してもらったことがきっかけだった。
「素人だからこそ、これは面白いと素直に思えたのがよかったんだと思います」。
マグロの脳天や骨身など希少部位を主役に据えた、当時としては珍しい試みだった。しかし当初はそのコンセプトにメニューや品数が追いつかず、試行錯誤しながら少しずつ売り上げを積み上げていったそう。
次に丼と地方食材をフィーチャーした3号店を出店。また1号店のバーをマグロの店にするなど、業態変更や統合によるトライ&エラーを繰り返しながらの経営が3~4年続いた。
そんな「マグロマート」に、ついに転機が訪れる。仕入れ先の新規開拓や関係強化と合わせて、マグロの魅力をより伝えられるメニューが充実していくにつれ、テレビをはじめとするマスメディアへの露出も増えてきた。国産生本マグロのさまざまな部位を楽しむスタイルが様々なメディアで拡散。SNSが台頭してきたこともあり、マグロの帽子を被って楽しむ姿も投稿され盛り上がった。満席の日も増え、少しずつ予約困難店へと成長していったのだ。
しかし、尾坂氏に成功者の気負いは見られない。「マーケティングを徹底したわけではなく、ひとつひとつがうまくハマっていった感じ」と謙虚に過去を振り返る。その飾らない姿勢が、スタッフや顧客を惹きつける氏の魅力なのだろう。

・・・続き

株式会社BOUT 代表取締役社長 尾坂 亮氏


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2026年4月13日月曜日

相乗効果ありそうなビジネスされている会社探しています。

 いろんなサービスがありますが、キイストンにとって相乗効果ありそうなビジネスでこれは?って会社を細見自ら発掘中です。

サービス内容はもちろんですが、誰とやるかですからね。

飲食業界においてキイストンは絶対的不可欠な存在になりたい。


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2026年4月7日火曜日

株式会社ペゴパ 代表取締役 松本光希氏登場。

“飲食の戦士たち”株式会社ペゴパ 代表取締役 松本光希氏を取り上げました。

本文より~

父から受け継いだ起業家のDNA。

東京都大田区。下町の活気と職人気質が残るこの街で、松本氏は産声を上げた。両親は同い年で中学時代からの顔見知りという、絵に描いたような地元カップル。18歳で第一子である兄を授かり、若くして家庭を築いた父は、家族を養うため必死で働いた。焼き鳥屋や引越し業など、ありとあらゆるアルバイトを掛け持ちしながら食いつなぐ日々。しかし、父の心には常に「独立」の二文字が燻り続けていた。
24歳の時、父は内装業で独立を果たす。店舗の内装を手掛ける中で飲食ビジネスの可能性に触れ、自らもプレイヤーとして参入。イタリアン、焼き鳥、居酒屋……最盛期には20店舗を運営するまでになった。松本氏にとって、父は「商売人」そのものだった。
しかし、商売の世界はそれほど甘くない。急拡大の裏で経営の波に翻弄され、一家はどん底も経験した。自宅の電気やガスが止められるほどの窮乏。普通の子どもならトラウマになりかねない光景だが、松本氏は事もなげにこう振り返る。
「僕がまだ小さい時でよかったですよ。そんなに苦労した記憶はないんです」。
この屈託のなさが、彼の最大の魅力といえよう。
父の事業閉鎖という危機に直面する家族。しかしバラバラになるどころか、より一層その絆を深めていく。親族や友人たちの温かいサポートもあり、松本氏は荒れることもなく真っ直ぐに育っていった。
そんな氏の憧れは、8歳上の兄だった。 兄は弱冠20歳で美容・化粧品関連の広告代理店を起業。さらに自社での製造販売まで手掛け、父譲りの商才を遺憾なく発揮していた。オフィスを広げ、成功の果実を臆せず享受する兄の姿を見るたび、人生における「当然の選択肢」として、「起業」の二文字が宿命のごとく松本氏の胸に居座るようになっていった。
「起業して成功したらこうなるんだって思いました。起業するのが当たり前っていう感覚でしたね」 。
起業という生き方以外の選択肢はない。その確信が、のちの型破りな行動力を支える礎になった。

自由奔放な学生時代と、人生初の目標。

起業への意欲は人一倍強かった。しかし、既存の教育システムという窮屈な服を、松本氏は最後まで着こなすことができなかった。高校に入学したものの、授業に興味が持てずわずか1年で中退。通信制高校に転入するも通学は月2回、テストは自宅で受けるという、まさに「形だけ」の高校生活だった。卒業までの3年間はアルバイトに明け暮れた。大学には推薦入学を果たしたものの、片道2時間半の通学に耐えきれず、2年で中退してしまった。
周囲から見れば「もったいない」の一言に尽きるだろう。しかし学生という肩書きは、起業家魂を宿す松本氏にとって、無用の長物だったのかもしれない。
大学中退後、一部上場のデジタル広告会社にアルバイトとして入社。大手美容メーカーを担当し、後に自身の生業となる広告営業のノウハウを学んだ。
「兄と同じ美容系の広告会社を作りたい」という強い願望。それは、自由奔放に生きてきた松本氏が、人生で初めて明確に掲げる「目標」となった。

「10か月間売上ゼロ」を打破した強運と、執念のウルトラC。

学時代の2年間、学業の面では目に見える成果もなく、ただいたずらに時が流れていった。しかし、そこで得た「友人」という財産が、松本氏の運命を大きく変えることになる。
22歳で広告代理店を設立。共同経営者として代表に据えたのは、学生時代からの友人だった。 彼の両親から資本金200万円を借り、事務方を任せた松本氏は、営業職としてたった一人で最前線へ斬り込んでいった。
華々しい船出になるはずだった起業生活。しかし、現実は非情だった。創業から10か月間、売上はゼロ。刻一刻と通帳の残高は減り続け、やがて資本金も底を突いた。責任感の強い友人はプレッシャーに押しつぶされ、松本氏の前で涙を見せることもあった。
「僕がどうにかしなければ」。
そんな松本氏に焦りはなく、むしろ「確信」に近いものがあった。
「僕は、『やれば絶対に顧客を捕まえられる』と信じていました」。
最後まで諦めないその姿勢が、奇跡を呼んだ。資金繰り目的でとりあえずアルバイトをしようと面接に臨んだある会社から、仕事の依頼を受けるというウルトラCをやってのけたのだ。
「面接で応募理由を聞かれたので、『実は広告代理店をやっているが、仕事がない』と事情を説明しました。そしたら逆に発注してくれることになって、月100万円ほどの売り上げを得ることができたんです」。
なんという強運の持ち主だろう。その時期から今でも取引しているという美容系のクライアントも急成長を遂げ、月30万円という小規模な取引から、松本氏の会社に投じる広告費も、それに見合う規模へと拡大していった。気が付けば数年後、松本氏の会社は売上5億円規模の組織へと変貌を遂げていた。
「まず動く。直接ぶつかる」スタイルこそが、まさに松本氏の真骨頂といえるだろう。

父の居場所を守るための新業態。

広告事業が絶好調となり、経営者として安定期に入った松本氏。2020年、彼は経験のない「飲食業」への参入を決意する。当時、世界は新型コロナウイルスの猛威にさらされ、飲食業界は未曾有の危機に瀕していたにもかかわらず、だ。
その決断の根底には、戦略的な勝算よりも、相手の心に寄り添おうとする松本氏なりの矜持があった。数年前、兄が郵便局店頭での冷凍ケーキ販売事業を手掛けた際、現場の責任者として采配を振るっていたのは、かつて20もの店を経営していた父だった。父にとってそれは、自身の再起を託す大切な居場所でもあったのだ。
しかし、コロナ禍で対面販売が不可能になる。次の一手として兄は飲食業を検討していたが、フランチャイズ展開になる可能性が高かった。
「FCだとしたら、父が現場で活躍できるポジションがないかもしれない。なら、父はこれからどうやって、どこで輝けばいいのか」。
松本氏は動いた。2020年、世の中が自粛ムード一色に染まり、多くの店がシャッターを下ろす中、「周りが閉めている今こそがチャンスだ」とする逆転の発想で「株式会社ペゴパ」を設立。大森に1号店をオープンし、現場の責任を父に委ねた。
政府からの補助金が一切支給されない時期の開業。深夜営業やアルコール提供のニーズを真っ向から受け止め、攻めの営業姿勢を貫いた。加えて父の豊富な飲食業経験も奏功、やがて連日満席の繁盛店が完成した。現在は「新世界・焼肉ホルモンぺごぱ」を始めとする焼き肉店2店舗と、韓国料理店の合計3店舗を展開。今後は焼肉店に注力していくそうだ。

・・・続き

株式会社ペゴパ 代表取締役 松本光希氏


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  

2026年、今後への備え。

イラン情勢の影響で景気後退が予測される2026年。
そこを逆風にするか、追い風にするかは、「仕組み作り」にかかっています。
飲食業界特化で求人メインのキイストンにとっては地獄の一丁目一番地だったコロナ禍を勝ち抜いた転換力を武器に、外部ブレーンの皆さんも巻き込み共創による新プロジェクトの始動も計画してます。
もちろん社内の人たちには、人材採用と教育など関わりを深く持ってもらいます。

そのすべての基盤となるのが、累計1,145回を数える「飲食の戦士たち」の歩みです。
まずはこれを1,200回へ。
基礎を積み上げ、変化を恐れず、次なるステージへ向かいます。

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2026年4月3日金曜日

「結果に偶然はない」、なるほどそのとおり!!

ユニクロを展開するファーストリテイリングの柳井正会長兼社長が、今年の入社式で509名の新入社員へ贈ったメッセージが話題です。
柳井氏が説いたのは、プロフェッショナルとしての徹底した「自律」と「主体性」でした。
「自分の運命は、自分で作れ」
「受け身になるな。自分から動かなければ、周囲に動かされ、変えられてしまう」
「結果に偶然はない」
これらの言葉には、変化の激しい時代において、自らが変化の起点となって行動することの重要性が込められています。
「やってみないとわからない」という現実は、多くの経験を積んできた柳井氏だからこそ行き着いた真理。成功も失敗も、すべては自分の意思と行動が引き寄せた「必然」の結果であると受け止めることで、私たちは自分の人生を力強く切り拓いていけるはずです。


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2026年4月1日水曜日

炭火と藁焼き 滾(たぎる) オーナー 北岡健吾氏登場。

“飲食の戦士たち”炭火と藁焼き 滾(たぎる) オーナー 北岡健吾氏を取り上げました。

本文より~

1日のフィニッシュは「ごちそうさま」。

「18時厳守だった」と、今回、ご登場いただいた北岡健吾さんは笑う。北岡さんは、「炭火と藁焼き 滾」(2025年12月オープン)ほか、分倍河原にドミナントで3店舗の飲食店を展開する、1991年生まれの若き経営者。
 少年時代から活発で、友達も多く、習い事は片手でおさまらない。ボーイスカウト、サッカー、空手、野球、卓球、ECC、パソコン教室…。
 空手は仮面ライダーになりたくて、サッカーは2002年に開催された日韓ワールドカップで観たイングランド代表のマイケル・オーウェンに魅了されて。
 ちなみに、空手は10年、ボーイスカウトは8年、プロを目指したサッカーは大学までつづけている。
 数々のスポーツで敵をけちらす北岡さんだったが、母と祖母にはかなわなかった。大好きだったから。
 門限は18時。「車にひかれて、骨が曲がったときだって遅れまいと思って、うちに走った」と笑う。
 「小学6年生のとき、父と母が離婚して。それから母と祖母と私の3人の生活が始まります。銀行員だった母は仕事人間で、社交性のある祖母もまた、沢山の友達と常に一緒で」。
 「おかげで習い事もたくさんできて、勉強をしなくてよくて、なにをするにも自由だったんです。ただ、時間にだけはうるさかった。18時に帰って、家族で晩御飯を食べる。これが北岡家の絶対的なルール。1日のフィニッシュは、『ごちそうさま』の一言と決まっていたんです」。

怒り、悲しみ、痛みが生む莫大なエネルギー。

母と祖母。
話を聞いていると、お二人は北岡さんにとって先生以上にリスペクトする存在だった。その様子が言葉の端々に浮かび上がる。
「私は、大阪で生まれ育ち、大学まで家族と暮らします」。
難病で祖母が亡くなり、大学では、友達を亡くした。
「ゼミで知り合った後輩の女の子でした。とても明るい子で、いっしょにコンサートに行こうと言っていたのに。いちばん近くにいたのに、彼女の苦しみに気づいてあげられなかった」。
頭の回路が、狂った。復讐をするかと、ナイフを探したこともあった。
「でも、そうじゃないって気づくんです。彼女が私に向けていた、あの明るい表情はカムフラージュでもなんでもない。彼女の、心からの表現だったんです。だから、彼女のぶんまで、私はつよく、明るく生きないといけないんです」。
祖母の闘病中の時に15歳の北岡さんが「死ぬのがこわい?」と聞いたことがあるそうだ。
「『こわくないよ!私のことを覚えてくれている人たちが沢山いるから』と。その一言が僕の死生観を形成してくれました」。
そんな祖母の最後の教えは、後悔しないことだった。
「怒り、悲しみ、痛みは莫大なエネルギーを生む」と、北岡さんはいう。そのエネルギーをどうコントロールするか。トップギアか、バックギアか。それによって人生がかわる。
北岡さんは、怒りや、悲しみ、痛みを知るたびに、トップギアで加速した。
大学の卒業式、大学で首席だった北岡さんは、壇上で「大学を卒業して、オーストラリアに渡る」と宣言する。
さぞ、会場はざわめいたことだろう。

目標、教科書に載ること。でも、どうしたらいい?

「私は、凡人で、なにをやっても才能なんかないんです。ただ、ちょっとかわった奴なんです」。
高校時代、サッカーの強豪校に入ると、中学までチームでいちばんうまかった北岡さんが、いちばんヘタになった。だから、だれより努力した。かなわない相手を前にしても、退かない。
「やりきれ」と母は言った。
今もその言葉に従っている。
「だからね。教科書に載らないといけないんです」と、北岡さん。
<教科書に?>と思わず聞き返すと、「かわった奴でしょ」と言ってから、「でも、一度、決めたからにはやりきらないといけない。それに、祖母に教えてもらった“一人でも多くの人に覚えてもらっていれば、死ぬことが怖くなくなる。”という考え方。だから教科書に載れれば、いつどうなっても、後悔なく生きられると考えたんです。だから、大学を卒業して、3年間、日本を離れました。日本じゃ、あのソフトバンクの孫さんだって、教科書に載っていないから、海外で勝負しようと思って」。
大学生になった北岡さんには、とんでもない野心が生まれていた。たぶん、生きた証。
「突然、思いついたわけじゃなく、大学1年から計画していて。2年までで徹底的に単位をとって、3年からはバイトです」。
「やると決めたからにはやりきれ」。
母の言葉が背中を押しつづける。
「バイトで500万円をためた」と聞いて驚いた。「週6日、1日16時間、仕事漬けだった」と笑う。
500万円を握りしめて向かったのは、オーストラリアのブリスベン。日本人がまだいないエリアだった。
ブリスベンだった理由を聞くと、「日本人がいないエリアじゃないと海外に行く意味がないでしょ」と返答。
ただし、そのぶん、苦労もした。
「苦労する自分が、好きなんです。サッカーのときもそうですが、這い上がるのが大好きな、マゾなんでしょうね(笑)」という。
だれとも比較しない。だから、これくらいでいいとはならない。とことん、やる。これが、北岡さんがいうマゾの正体。

オーストラリアで、披露した高速、皿洗い。

「ワーホリじゃなく、留学でしたら、学校に通いながら仕事を探しました。ただ、うまくいきません。日本の大学では首席でしたが、英会話がろくにできなかったんです(笑)」。
それだけじゃなく、ファッションもなかなか、就職のハードルをあげていた。
オーストラリアへ向かう息子にお母様がいった。
「いい? 日本人なんて思われたら、お金を取られちゃうんだからね。向こうは、あったかいからユニクロで買ったボロボロの服を着ていきなさい」。
そして、ボロボロの半袖、半パンの、虫取り小僧がオーストラリアの街をあるくことになる。
「仕事をしたくて、学校の先生に履歴書を書いてもらったんですが、そんな格好だから、どこに行っても門前払いです(笑)」。
「でも、ある飲食店のトビラを叩いたとき、たぶん、浮浪者に間違われたんでしょうね。仕事はくれなかったけど、飯を恵んでくれたんです」。
「初めて、親切にしてくださった人だったので、お礼に皿洗いをさせてくれとジャスチャーで頼んだんです」。
シンクにたまっていた皿が次々ときれいになっていく。人がいい店長の目が丸くする。
「なにしろ、高校から皿洗いしていますからね。高速で、きれいに洗いまくっていると、採用だって(笑)」。
「そんな感じで、そこで働くことになって」。
オーストラリアに2年、帰国してからもルワンダなど貧困国に渡っている。
海外を訪れて感じたことは、日本人に生まれてよかったこと。「日本に生まれただけで運をもっている」と北岡さんはいう。
「それなのに、だれだれと比較して落ち込んだり、立ち止まったりして、その運を、無駄遣いする。そんなことしちゃダメなんです」。
オーストラリアで日本の飲食のレベルの高さに気づいた北岡さんは、世界で勝負する、そして、教科書に載るなら飲食だと狙いを定めた。
満を持して帰国した北岡さんは、数ある飲食店のなかから、株式会社subLimeを選択する。
経営者は、この飲食の戦士たちにも何度もご登場いただいている花光雅丸さん。現、株式会社beagleの代表である。

subLimeで加速する、飲食人生。

subLimeに入社した北岡さんは、いきなりトップランナーに躍り出て、飲食人生を加速させていく。
subLimeのM&A戦略を実質、リードしてきた中村英樹さん(現GYRO HOLDINGS株式会社の取締役)との出会いが、加速装置となった。
「subLimeでは、『牛タン大衆酒場 べこたん』という、新たなブランドの2号店を任されます。オペレーションも確立していなかったし、そもそもどんな業態でオープンしても長続きしなかった最悪の店舗だったんです」。
だれがやっても、うまくいかない。起死回生を託された格好の北岡さん。ただし、意欲はあっても、経験値は少ない。
どうなっていくんだろう?
「マニュアルないから、『自由にしていいよ』と。そりゃそうですよね。自由以外、何があるっていうんでしょう(笑)」。
思案しても、始まらない。凡人らしく、やることをやる。ただし、「やる」のレベルがちがった。
「昔からそうなんです。できるできないじゃなく、やる。やるなら、自分の最高レベルで。失敗はしてもいいけど、悔いを残したくありませんから」。
悔いを残さないこと、やさしくて、つよい祖母の生き様だった。


・・・続き

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