2024年12月27日金曜日

日本フードサービス協会設立50周年にて。

 日本フードサービス協会設立50周年にて。

会員企業表彰していただきました。

今日で2024年の仕事納めです。

今年もあとわずかとなりましたが、1年間大変お世話になり、心より感謝しております。

今年はオリンピックなどビックイベントが多数あったほか、
日本が世界の人気の観光地となり、たくさんの外国の観光客が訪れるなど、
飲食業界においても大きな変化があった年だと感じています。
皆様の日々の企業PR活動や、採用活動において
当社も、少しでもお力添えができましたら幸いです。

2025年もまた、2024年以上に様々なことに挑戦し、
お役にたてるよう精進してまいりますので、
本年同様のご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。

なお、弊社の年内の営業は12月27日(金)までとなり、
新年は1月6日(月)から営業開始となります。

なお、誠に勝手ながら、
弊社は業務削減及び環境保護への取り組みの一環として、
昨年より年賀状の送付を差し控えさせていただいております。
メールでのご挨拶となりましたこと、何卒ご容赦ください。

最後になりましたが、
皆様が心穏やかに、新しい年を迎えられますようお祈りいたします。

キイストン一同

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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン 

有限会社DEED 代表取締役 千葉俊宏氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社DEED 代表取締役 千葉俊宏氏登場。

本文より~

千葉少年と、父の言葉。

「4畳半と6畳の部屋に5人で暮らしていた」と千葉さん。「懐中電灯で照らさないと、真っ暗で風呂にも入れなかった」と笑う。
「私が中学2年の時に、自宅を購入するんですが、その頃は金利がMAXの時で、程なくしてバブルが弾け、左官業だった父は返済に苦労していました」。
千葉さんが中学2年と言えば、1992年の頃。バブル崩壊の始まりの1年。「バブル期には従業員もいた」と千葉さん。バブルが弾けたあともお父様は1人で細々と仕事をされていたそうだ。
「父は、私が36歳の頃に他界するんですが、病に侵されても弱音一つ吐かない人でした。ローンの返済もつづけ、左官の仕事だけではなく、夜間に東京メトロの補修工事もしていました」。
その姿を千葉少年はみている。「尊敬していた」と千葉さん。いつか父の仕事を継ごうと思い、お父様からも「大学に行って一級建築士の資格をちゃんと取って、人を使う側になりなさい」と言われていたとのこと。
「ところが、私が高校2年の時ですね。担任から『父に』と渡された封筒を開けて、学費が滞納されていることを知ります。それからしばらくして、父親から『申し訳ない。大学進学はあきらめてくれ』と」。
<ショックはなかったですか?>
「だいたい想像はしていましたから、学費についてはショックではなかったですが、『もう、一級建築士をめざすことはない。今からは好きなことをしなさい』と言われたのは、たしかにショックでしたね」。
お父様は、どんな思いで、息子に、その一言を言われたんだろうか。バブル経済の破綻は、市井の片隅でいくつもの物語を生んでいる。千葉家の話もその一つかもしれない。

美容師の道へ、進む。

退学という選択肢もあっただろうが、千葉さんはバイトを掛け持ちして学費を払いつづけ高校を卒業している。
バイトを始めて外の世界と接点を持つようになったことで、ファッションに興味を抱き、高校2年生の時に、初めて美容室でカットを体験した。そこの男性スタッフのセンスやファッションに心を打たれ、将来の目標が美容師になったという。
そう、千葉さんは、飲食ではなく美容師の道を進んだ。「実を言うと、飲食にも惹かれたんですが、『手に職をつけろ』という父の教えもあり、美容師を選択します」。
千葉さんの話を聞いていると、大事な時にお父様が登場する。その度に、父と息子の関係が浮き彫りになった。
「元住吉にあった美容室に就職します。こちらに見習いで入社し、専門学校に通いながら美容師の免許を取得しました」。当時のことを千葉さんは、つぎのように語っている。
「すべてが初めてなんです。シャンプーでしょ。パーマの巻き方、カットの技術、ヘアメイク…と。高校生の時にはなかったモチベーションで、仕事にのめり込んでいきます。朝は7時、タオルをたたんだりして、開店の準備をして、夜は仕事が終わってから23時まで自主練です」。
「努力すれば、それが結果になって現れるから面白い」と千葉さん。
ちなみに、結果がつぎつぎ現れるのは、その道のゴールを100%とすれば、70%くらいまで。「残りの30%を埋めるのは、多大な労力と時間が必要」と千葉さんはいう。千葉さんは、新たな領域にチャレンジすることで、その労力とモチベーションを維持できると自己分析している。
それが、飲食へのチャレンジとなって現れるのだろうか。ここでは、もう少し、美容師時代の話をつづける。

2002年、24歳、独立。川崎駅西口に「HAIR&SHOES TypeAB」をオープン。

「18歳の入社当時は、まだバブルの残滓というのか、羽振りのいい人がいらして、チップをいただくことも少なくなかったですね」と千葉さん。
「ただし、給料は実質の勤務時間で割ると最賃割れは確実でした(笑)。入社2年目には「教育部門リーダー」に抜擢され、新人教育を担当します。3年目に月間個人売上150万円を達成。新店舗の店長候補にしていただいたんですが、方向性にズレを感じて、4年目で転職します」。
転職先でも、千葉さんは躍動する。
ところで、千葉さんに<美容師で大事なのは、やはりセンスですか?>と質問してみた。
「そうですね。昔はセンスや創造性が大事でしたが、今は写真などをみせられてオーダーされるケースが多いので、創造性より、再現性ですね。人によって、毛量とか、髪質はちがいますから、再現するテクニックというのは、難しいんです」とのこと。
さて、上記のつづき。
「新たなステップ」と退職した千葉さんは、2002年11月、24歳で独立し、川崎駅西口に「HAIR&SHOES TypeAB」をオープンする。従業員6名でのスタートだったそう。
業績は好調。
2005年5月に「有限会社DEED」 設立。2007年には店舗を拡張し、「雑貨屋arinko」を併設オープンしている。2008年には、横浜に2店舗目「TypeAB-evolve-」をオープン。
そして、2010年1月、横浜に初の飲食事業1店舗目となる「F+affinity dining」OPENしている。ここまでがいわば千葉さんの第一章。

「F+affinity dining」好調。好調な飲食事業にシフトする。

<その後についても教えてください>
「そうですね。トピックスでいうと、2011年。震災があり、その影響もあってスタッフたちの退職希望が相次ぎます。翌2012年には美容室で年間2000万円をセールスしていた店長が退職。その翌年にも1700万円、1500万円のスタッフがつぎつぎ退職するなど(寿退社などを含めてですが)人材の流出がつづきます」。
流失した人材の売上を補いつつ、その一方、業績が好調な飲食事業へシフトしていく様子が、その後の年表で明らかになる。
2012年、自由が丘駅前に「HINATA KITCHEN」をオープン。翌2013年にも「JINGLE BEER&DINING」をオープンしている。
「業績は順調だったんですが、2014年、片腕だった取締役が他界。父もこの年に他界します」。
「きつい1年だった」と千葉さんはいう。だが、下を向かない。これも、父の教え。
2015年には、自由が丘に2店舗目となる「こかげ酒場」をオープン。
その後も、出店を続け、その一方で人材の育成や流失とたたかいつづけている。「美容師を育成するには3年かかります。それだけ時間をかけて育てても、技術をつければ独立を目指し退職していきます。現状、美容室の出店はストップしています」。
ただし、千葉さん自身は、美容師の仕事をリタイヤするつもりはない。今も、美容室に立っている。「接客業のなかでは、美容師が最高峰だと私は今も思っています。私たち美容師は、あの距離で多い人で月に400人と接しているんです」と千葉さん。
「お客様と、あの距離で1時間、時には2時間接する仕事なんてほかにないでしょ。大事な髪をまかせてくださったり、シャンプーでは体を預けてくださったりね」。
たしかに。
<その接客ノウハウが、飲食で活きている?>
「そう。まちがいないと思います。飲食の業績が好調な、一つの理由です」。美容師の接客技術を、飲食に移植する。そういう手もあるのかと、ある意味、目から鱗の話。
ただ、スタッフの定着は、それとは別の話。
「2019年11月ですが、女性スタッフの育休後の職場復帰を念頭に業態を模索して、高級食パン専門店「Omochi」をオープンします。ほかの飲食店とはちがって、帰宅が深夜になることはありませんから(笑)」。
この一手が功を奏する。以下は、コロナ禍になってからの話。

・・・続き

有限会社DEED 代表取締役 千葉俊宏氏

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有限会社オーベルジーヌ 代表取締役社長 髙橋祐介氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社オーベルジーヌ 代表取締役社長 髙橋祐介氏登場。

本文より~

髙橋少年と、少年を取り巻く人たちと。

創業者は、お祖母様だそう。
「曽祖母が長者番付にも載るくらいのお金持ちでしたから、祖母もお金持ちです。父親は、宇宙人みたいな性格で、実は、うちにもあまり帰ってきませんでした。その父のために、祖母が出資してつくったのがオーベルジーヌです」。
創業は1987年。髙橋さんが5歳のとき。ただし、このとき、お父様もまだ26歳。
「めちゃくちゃボロいアパートに住んでいました。それでも、最初はお金もあったんです。だから、外食といえば、相当、いいお店で、です。ただ、父親がだんだん帰宅せず、お金も湯水のようにつかって、底をつきます」。
お父様は、板橋区のジェームズディーンと言われたそう。プレイボーイだったんだろう。髙橋さんが14歳のとき、ご両親は離婚。下を向く髙橋さんを叱責したのは、当時の女性担任だった。
学校での様子を聞くと、人気者だったという。小・中は水泳。高校では陸上と空手をしている。中学のときは担任に言われ生徒会に立候補。人気者だから、ふつうに当選したという。
ちなみに、板橋区のジェームズディーンは、カレーをどこで修業したんだろうか?
「欧風カレーの名店で修業されたオーナーのショップで習ったらしいです。ただ、色々あって退職し、独立したと聞いています」。
店名も聞いたが、いずれも名店。オーベルジーヌも、その系譜というところだろうか。髙橋さんの話を聞いていると、髙橋小年を真ん中に動く、父と母、そして、ともだちたちの様子が、目に映る。

大学中退。進むべき道は、決まっていた。

「大学には進学したんですが、1年ちょっとで退学しています。大学のときからアルバイト三昧で(笑)。あるとき、TVで『1万人アンケートで選ぶ、好きなカレーのランキング』というような番組があって、うちが7位だったんですね」。
<7位でもすごいですね>というと、髙橋さんは笑いながら、「7位も悪くはないんですが、私はその番組を観て、勉強のために、大学を辞め、1位のカレーショップに就職しました」という。
お父様の店を継ぐのは、中学生の頃からの既定路線。だから、大学の進学もある意味、猶予期間。TVを観たことで、その期間が短くなる。そちらで、1年程度、勤務して、21歳のときにお父様が経営するカレーショップで仕事をはじめた。
「赤字がつづいていた」と髙橋さん。
宇宙人のお父様に、堅実な経営は似合っていなかったのかもしれない。
「銀座店で店長を務め、133%アップを実現しました。それでも父親がいうには『創業したことがないだろ』なんですね。それで23歳のときに、一度退職しています」。
腹立たしかったからか、それとも、経験しておくべきと思ったのか。どうやら、後者のほう。案外、素直な性格。髙橋さんは、お母様が望まれていたようで、改めて専門学生となり、そのかたわらで居酒屋をオープンした。
「創業してわかったことは、負債のプレッシャーもそうですし、何より金策が難しかったですね。いい勉強になりました。『過去5年分の決算書用意してください』って。なんで、ああなるんでしょうね。決算書もなにも、すべて今からだっていうのに(笑)」。
金策には苦労したが、経営自体は難しくなかったという。そして、再度、父親の会社に復帰する。もちろん、会社は赤字のママ。キャッシュフローが回らない。
「これが、26歳のとき。かなりやばい状況でしたが、そのとき、すでにロケ弁はスタートしていたんです」。

テイクアウトとデリバリーのみ。

ロケ弁。
ウイキペディアによると「映画やテレビ番組のスタッフや出演者が、撮影・収録現場などで、撮影・収録の前後や合間に食べる弁当」とある。TVなどで「ロケ弁」を耳にするから、案外、広く知られている。
実は、このインタビューを行う少し前の、2024年6月に「第1回日本ロケ弁大賞」が開催されている。オーベルジーヌは、名店を差し置き、堂々、大賞にかがやいている。
「私が25歳で復帰したときは、さすがにお金がなくなっていました。だから、先輩社員たちもいなくなっていた。以前は、芸能人の方がお忍びでいらっしゃっていましたが、この時にはもう、イートインをやめ、テイクアウトとデリバリーにしシフトしていました」。
芸能人の名前を聞くと、「え?、ほんとに?」と声が漏れる。
「キャップを深く被っていても、オーラーがちがう」と髙橋さん。
ただ、芸能人が来ても、業績は改善されなかった。
「私が復帰する時の月商は500万円くらいでした」。テーブルは6席のみ。「1席にお1人だと、マックスで6人。これでは、あまりに非効率で、採算が取れません。だから、思い切ってデリバリーとテイクアウトにシフトしました」。
<テーブルもイスもなしですか?>
「ええ、そうです。実は、私が復帰してから、試行錯誤して、味そのものもかえているんです」。「旨いかどうかは別にして、セールスできる商品になった」と、髙橋さんはいう。
「ロケ弁」ビジネスが、ロケットスタートする、といいたいのだが。
「タイミングが悪く、東日本大震災が起こりました。収益の大部分をTV局に依存していたものですから、とたんに厳しくなります。1年半くらいは、業績もぜんぜんでしたね。だって、番組がつくられないんだから、演者も、スタッフも、そして、ロケ弁もいりません」。
苦境は、1年半くらいつづいたそう。ただ、もと通りになったとき、髙橋さんは打ってでる。1都3県に商圏を広げる。ポータルサイトにも、依頼した。
それで、改めてロケットスタートがはじまる。
「月商が2500万円くらいになったときですね。TV番組で、あるお笑い芸人の方が、オーベルジーヌを連呼してくださって。一気に500万円アップです(笑)」。
笑いが止まらなかったわけではない。汗をかいて体制づくりを行なった。おすすめいただいた芸能人の方々に、恥をかかすわけにはいかないから。
ちなみに、髙橋さんは、日清食品からオファーを受け、カップラーメンの監修を行なっている。カップラーメンは数量限定だったが、カレーメシの監修は今も行なっているそうだ。
現在では、それ以外にも、セブンイレブンやイトーヨーカ堂などから依頼を受け、数多くの商品の監修を務めている。

・・・・続き

有限会社オーベルジーヌ 代表取締役社長 髙橋祐介氏

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2024年12月25日水曜日

市川大作さん、12月10日3時11分死去。

「飲食の戦士たち」再現ショートドラマの脚本・撮影・監督でもあった宇那藤初咲 (市川大作)氏が12月10日3時11分、くも膜下出血により亡くなりました、享年54歳。

あまりに短い人生でした。

23年来の家族付き合いする友人でもあったたげに、寂しくて、悔しくて、残念です!!

【第七話】株式会社G-vision 代表取締役 伊藤穣二
https://youtu.be/7yc5ux-CHls?si=lXwq01Qkrdt2FFq3





【第六話】飲食の戦士たち ~社長たちの原点が、ここにある~ 店舗ナンバーワンホールディングス株式会社 代表取締役 三浦正臣https://youtu.be/Y1EKEmoGvPQ?si=zLJUdzMFAHaLupI0





【第五話】飲食の戦士たち ~社長たちの原点が、ここにある~ 株式会社せい家 代表取締役社長 山内勝彦https://youtu.be/SzhX89Fke18?si=a3lS6S00wgWktb7c






【第四話】飲食の戦士たち ~社長たちの原点が、ここにある~ 株式会社KIWAMI 代表取締役社長 阿波耕平https://youtu.be/V8a2FQsr66g?si=Nik53IB5g3-7_6fB





【第三話】飲食の戦士たち ~社長たちの原点が、ここにある~ 株式会社田(でん )代表取締役 内田克彦https://youtu.be/GkOAV5gIiH0?si=cWDnTcjp0JDw3Tc





【第ニ話】飲食の戦士たち ~社長たちの原点が、ここにある~ 有限会社倶楽部二十九 代表取締役 酒井 敏https://youtu.be/J4TzoiZNDuQ?si=nYngjBUPyxZYLUDQ





【第一話】飲食の戦士たち ~社長たちの原点が、ここにある~ 株式会社REED 代表取締役 樺山重勝https://youtu.be/vQN3_7COEyo?si=bGuezKQLqxQ62xLo



■「飲食の戦士たち」のこれまでの歴史をストーリーにまとめました。
誕生秘話や、印象深かった出来事などをまとめていますので、こちらもぜひ御覧ください。
https://prtimes.jp/story/detail/7bZNkZSXj9b
youtubeチャンネルを運営中!
https://www.youtube.com/channel/UC3smUdKNXz1-I-CLW3Tp7ig

2024年12月17日火曜日

株式会社CARTON 代表取締役 櫻井 航氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社CARTON 代表取締役 櫻井 航氏登場。

本文より~

楽天・三木谷社長の生い立ちに「かっこいい!」

公務員の父と、保育園勤めの母の間に生まれた櫻井氏は、子供のころから運動神経が抜群で、小中高時代は一貫してサッカーに打ち込んだ。少年サッカーの人気が高く強豪校も多い千葉県で、市の選抜大会に抜擢されるほど実力のある選手だったが、自身は「これくらいでプロになれるわけがない」とどこか冷めた気持ちでいたという。
中学卒業後は、サッカー推薦を蹴って地元の柏中央高校に進学。その後もサッカー漬けの日々を送ったものの、やはりプロを夢見ることはなかった。
「でも同級生に日本代表選手になったのが1人いたんですよ。彼とはずっと一緒にやってたし、当時はそんなにレベル差はなかったと思うんです。だからもっとちゃんと向き合っていればって、思うこともありますね」。
高校3年のある日。何気なくテレビに目をやると、楽天・三木谷社長の生い立ちが紹介されていた。この番組が櫻井氏の将来を左右することになる。
「めちゃくちゃかっこいいって、その時に『社長になりたい!』って思ったんです」。

学生ビジネスは敢え無く玉砕。

指定校推薦だった日本大学でもサッカー部に所属し、1年生で早くもレギュラー入りを果たした。しかし、サッカーに高校時代ほど情熱を注げなくなったこと、また『社長になる』という新しい夢ができたことから2年生の終盤で退部。その後は起業家セミナーに参加するなど、ビジネスについて研鑽を積むようになる。
― 一番最初に始めたビジネスはなんですか? ―
「パワーストーンを売ってました。まあ今思うと、騙されたかなって思いますけどね(笑)」。
思うように売れない上に、無理やり買わせた友人にも嫌われる始末で、パワーストーンビジネスからは早々に撤退。次に始めたのは、店舗にフリーWi-Fiを導入させる仕事だった。
「契約してもらうと、僕にキャッシュバックがあるっていうビジネスで。最初はスーツで飛び込み営業してたんですが、ある日ふと思いついて、パーカーで行くようにしたんです。そしたら店の人も『大学のゼミの一環?』って感じで、気軽に応対してくれて。月々の電気代もわずかなんで、ガンガン契約が取れるようになったんですよ。いい時は月50万くらい稼いでいました。学生でしたからね、大金でした」。
ところがフリーWi-Fiの普及であっという間に売れ行きが落ち、気が付けば稼ぐどころか50万もの借金を抱える事態に陥っていた。返済のためアルバイトを始めたものの、「毎日、出勤の5分くらい前まで今日のシフトをどうやって断ろうか考えていた」くらい仕事が嫌で、どこも3か月程度しか続かなかった。そんな学生時代、最後に出会ったのが地元柏市のイタリア料理店での接客という仕事だった。

イタリア料理店で接客サービスの醍醐味を知る。

「それまで居酒屋とかでバイトしてたんですが、そのイタリア料理店はおしゃれだったし、ホスピタリティというか、サービスがすごくしっかりしてたんですよね。で、『接客サービスって面白いな』って思って」。
在学中には将来の“保険”として教職課程を履修し、親を安心させるため就職活動も行ったが、社長になる夢を諦めることはなかった。大手アパレルメーカーから内定を得るも、大学卒業の直前親にその辞退を報告。「自分でやろうと思ってる」と宣言し、そのままそのイタリア料理店に就職した。
アルバイト時代の手腕を買われ店長に就任した櫻井氏は、100席を数える大型店を見事に采配。成績さえよければ比較的自由に動ける社風で、資金調達以外の業務はすべて経験させてもらったという。業績に応じたインセンティブもあり、やればやるだけ給料はアップ、月に100万円を稼ぐこともあった。
「最初は25歳で独立って考えていたんですが、『こんなに稼げるなら、独立する必要ないんじゃない?』なんて思って、結局27歳までいました」。
―それほど好待遇だったのに、なぜ辞めたんですか?
「会社が大きくなるにつれて、オペレーションが均一化してきたんです。インセンティブも周りと一緒で、つまらなくなって」。
話し合いの末円満退職となった櫻井氏に対し、社長は取引先銀行の担当者を紹介してくれた。その社長とは、今でも良好な関係が続いている。

順調な滑り出しで天狗に。

「会社を辞めようって思った時に、知り合いの不動産屋にすぐ相談したんです。そこで紹介されたのが、流山おおたかの森駅の物件でした」。
つくばエクスプレス開通にあわせて開発された同駅周辺には大型の商業施設があり、宅地の造成も進んでいた。当時はまだそれほど整備されていなかった駅北側の物件だったが、「ここは絶対当たる」と櫻井氏は即決した。
自己資金300万円と親からの支援金100万円、前述の社長が紹介してくれた銀行からの融資1800万円で開業準備に着手。35坪のスケルトン物件の内装工事に1500万円を要し、オープン前日手元に残ったのはわずか5万円だった。
「最初にコケたら、もうアウトでしたね。今はそんな怖いことできないけど、当時は自信しかなくて」。
2018年7月に、ワインとタパスの店「PORTA -albero cucina」をオープン。当初のヨミ通りスタートから好調で、月商は700万円を超えた。
「出来過ぎでしたね。商売って簡単だなって、思ってしまいました」。
半年後にはアメリカンダイナー「I.B Diner 柏の葉」をオープン。この2軒目も大当たりしますます勢いづいた櫻井氏は、2019年12月に3軒目の「VIGO-BISTRO&BAR-」を開店。滑り出しは順調だったが、翌年に始まったコロナ禍で状況は一変する。

辛い時期を乗り越え。

「子供のころに挫折したことがないのがコンプレックスで……自分は打たれ弱いところがあるんです。今は挫折を繰り返しているけど、若い時にそういう経験があったら、もっと強い経営者になっていたかもって思います」。
当時の従業員数は、12~13名の社員を入れて合計70人弱。政府からの協力金とコロナ融資でなんとか乗り越えたが、パンデミックが終息し始めたころに辞めた社員がいた。
「厳しい業績の中、給料だけはずっと下げずに頑張ったのに、『給料が上がらないから辞めます』って言われて。苦しかったし、悔しかった……。なんでこの思いが通じないのかって」。
そこに追い討ちをかけるように、コロナ融資の返済が始まった。通帳からどんどんお金が消えていく恐怖。櫻井氏にとって、2022年の暮れから翌年ぐらいが人生で最も辛い時期だったという。
「去年一年間はいろいろあって辛かったけど、この夏くらいから(将来の展望)が開けてきて。これはいけるなって思いました」。
それが“夜パフェ”だ。

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株式会社CARTON 代表取締役 櫻井 航氏

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株式会社AZism 代表取締役会長 和田敏典氏。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社AZism 代表取締役会長 和田敏典氏登場。

本文より~

東京、八王子。和田さんの思春期の話。

「マイクに向かって、バカヤローってやっていた」と、今回ご登場いただいた株式会社AZismの代表取締役、和田敏典さんは笑う。パンク・ロックをやっていた頃の話。
和田さんが生まれたのは東京都八王子市。駅すぐに自宅があった。デパートやスーパーがあって賑やかだったという。「ダイエーがあったんですが、ダイエーにその土地を売ったのが、うちの祖父」。
お祖父様は、数十にも及ぶ事業を営んでいた稀代の事業家だった。そして本家を継いだ叔父様も才覚を受け継ぎ、事業をさらに拡大した結果、大豪邸を建てるに至る。その自宅は映画やドラマの撮影にも使われたこともあるそうで、3メートルくらいあるドアを開けると、甲冑がこちらを睨んでいたらしい。
「ちなみに、私はこの叔父に可愛がられ、ビジネスマンとして育てていただきました」。
叔父様も、お祖父様に似た多彩なビジネスマンで、パチンコ店を経営するなど「商才、センスに溢れた人でした」と和田さん。その一方で「うちの父はね」と苦笑いする。
「うちもけっして貧しかったわけじゃないんですが、叔父のところに比べたらね。そりゃ、向こうは豪邸だしね」。少年は叔父と父親を比べ、ため息をついたのかもしれない。
叔父様は、偉ぶるわけではなく、弟を心配して、和田さんのお父様に何度もアドバイスを送っている。
「雀荘も叔父さんのアドバイスで始めたことの一つ。もっとも、事実上、母がやっていたんですけどね」。和田さんは「私は母似」だという。母親とおなじように人を喜ばせるのが好きなタイプ。明るい性格も、母譲り。
「雀荘って風営法で24時以降はやってちゃだめなんです。だから、カーテンを閉めて光が漏れないようにするんです。でもね、おまわりさんが、その時間でもリーチ!ロン!なんてやっている。子ども心にグレーの世界をみたよね(笑)」。
「幼少時、祖父はモーテルも経営していましてね。私ら子どもたちはお正月、挨拶を兼ねて神奈川にあったモーテルまでお年玉をもらいに行くの。最初は、なんだろうなここは?って感じだった。お城みたいなね(笑)」。
「父がラーメン店をオープンしたのは、私が中学生くらいのとき。これも、叔父さんのアドバイスだったと思うんですが、うまく経営ができなかったみたいです」。
叔父と父の経済格差。うっせきした何かを背負う父をみて、和田さんもまた、マイクに向かって吠えた。「バカヤロー」。これが、和田さんの思春期の話。

電気屋で、才能開花。

和田さんは、1965年3月24日、生まれ。3人兄弟の長男。スポーツは卓球。なんでも雀荘に卓球台があって、父親ともラリーをしたことがあるそうだ。「でもさ、部活じゃさ。卓球っていうよりね。卓球台の下に潜るでしょ。女の子のブルマとかね、そんなのを追いかけてた。バカですね(笑)」。
中学2年から高校3年まではパンク・ロック。おなじ舞台に上がったアーティストのなかには、のちに「ニューロティカ」のギターになった人もいたそうだ。
和田さんは当時を振り返って、「パンクだから、バカヤローってやっていたんですが、案外、真面目だからさ。そういや、あの頃からマネジメントの真似事をやっていましたね。プリントショップに飛び込んで、バンドのチケットをつくってもらったり。チケットを販売するには、どうしたらいいかってね」。
「あの頃は、行動力があったね」と今も行動力バツグンの和田さんがいう。「リスペクトする叔父さんから、敏典はおじいちゃんに似て商売人だな、って言われた時は、うれしかったですね」。
もっとも、当時は叔父様のようにビジネスに関心があったわけじゃない。
「高校を卒業して就職するんだけど、とにかく、うちを出たくてさ。就職課にあった求人のなかでいちばん給料がいい会社に就職。うちは、親父と喧嘩して、でていっちゃった、そんな感じ」。
「電気屋じゃなくても、どこでもよかった」と和田さん。しかし、いざ仕事を始めると、和田家に流れる商売人の血が徐々に目を覚ます。
「言ってたでしょ。人を喜ばせるのが好きだって。私は髭剃りやアイロンの担当だったけど、とにかく、お客さんが喜んでくれる。最初はね。もちろん、苦労しましたよ。だって、パンク野郎だからね。情けないことに、つっぱっちゃって先輩にも聞けないんです。だから一人で、何が、どこが先輩らとちがうんだろうって。ひたすら、アイロンの説明書を読んだりしてね。それでね、1ヵ月くらいで花開くっていうか、私個人の名前でお客さんがいらしてくださるようになったんです」。
そうなると、もうたまらない。「ひたすら楽しかった」と和田さん。「辞めるつもりは一切なかった」とも言っている。ちなみに、この頃になると、お父様とも酒を酌み交わす間柄になったらしい。
「年に数回、うちに戻るでしょ。仕事が楽しいから、その話をするでしょ。すると、母親だけじゃなく、父親もうれしそうに聞いてくれるの。こちらは、それがうれしくて、だんだんわだかまっていたものまで忘れちゃうんだ。電気屋さんではたらいたのは3年だったけど、私の人生観をいい意味でかえることができた3年間でした。もちろん、感謝しています」。

アダルトで、大逆転。

「父親とは、根っ子でちゃんとつながっていたんでしょうね。電気屋さんを辞めたのは父の頼みを断り切れなかったから。親父はラーメン店をやっていましたが、そっちがうまくいかず、叔父さんの勧めもあって、今度はレンタルビデオショップを始めるんです。それを手伝ってくれっていうわけです」。
「さすがにむげにはできなくて始めたわけですが、3ヵ月で辞めたくなっちゃった。だって、電気屋さんの頃より、給料は下がったしね。だいたいビデオショップって言ったって、まだポピュラーじゃない頃で、叔父さんが経営しているほうは、さすがに上手くいっていたようなんだけど、こちらはさっぱり。親父も私もため息ばかり」。
「で、どうしたかって? 私が21歳のときかな。さすがに、このままではダメだって、親父と経営方針について真剣に話したらさ。親父は『じゃぁ、お前がやれ』って」。
借金3600万円。こちらも背負うことになる。「まぁ、それは親父の借金ですからね。そんなにプレッシャーはなかったんですが。それにしても、どうすればいいかわからない」。
「いろんな街をあるいて、ある日、新橋でアダルト専門のビデオショップを見つけたんです。若い人にはわからないと思いますが、当時はVHSとベータの時代です。まだお店が赤字で銀行からもう資金の借り入れができず、ベータのビデオを全部売っぱらって、そのお金でお店を改装します。風営法の都合でぜんぶアダルトにすることはできなかったんですが、それが逆によかったかもしれません」。
実は、風営法で売場面積の20%以上になると、許可を取らなければいけないらしい。「で、外からみたら、ふつうのビデオショップです。だから、女の人もいらっしゃいましたが、外見はふつうのビデオショップだから、男性がとにかく入りやすいんです。なかに入るともちろん、アダルトの世界です」。
商魂と、商才が、姿を現す。
「アダルトビデオは月に200タイトルくらいリリースされるんですが、それぜんぶ買ってね。○○監督の最新作とか、電気屋さんの時といっしょで、こちらからドンドン提案するんです。アダルトは一般のビデオに比べ、仕入れ額が安くて、お客さんは3本とかまとめて借りてくれるんです。だから、もう、ね」。
<アダルトで大逆転したわけですね?>
「そう(笑)」。
借金の3600万円も小さく映るようになったにちがいない。貯金通帳の残高に毎月100万円以上が積み重なる。今まで、みたことのない世界。
もっとも、それで浮かれないのは父親譲りの慎重さ。「むちゃくちゃ調子がいい時期は、案外、早く終わります。だってあのTSUTAYAがでてくるんですから、かないっこない(笑)。それで、今度は、ゲームのリサイクルが来るっておもって」。

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株式会社AZism 代表取締役会長 和田敏典氏

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2024年12月11日水曜日

DAVELLO gastropub 代表 吉田 慎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”DAVELLO gastropub 代表 吉田 慎氏登場。

本文より~

食べて、飲む。「飲食」という世界に、憧れた少年。

お父様は、ジーンズの職人から縁があったんだろう。ファッション雑誌の編集などに従事し、モデルやスタイリスト、美容師と接点をもたれるようになる。そのなかで、独立を希望する美容師をサポートしながら、複数店舗の美容室をオープンされていたそうだ。今は、縮小しているが、かつては10店ちかくあったというから、経営センスがおありだったんだろう。
兄弟は2人。5つ上に兄がいる。話をうかがっていると、真面目な兄(今はテレ朝で仕事をされているそう)より、吉田社長のほうが、色濃くお父様の性格を受け継いでいる気がした。実際は、どうなんだろうか。
「私は、1993年、うちの店がある二子玉川で生まれました。だから、このエリアには詳しいんです。小学校から兄と一緒の私立に進みます。千代田区にある行政学園。医者の息子が多くいるような学校です」。
「私自身は小さな頃から飲食をしようと決めていました。もっとも中学1年からバンド活動もはじめ、ドラムを叩きつづけていたんですが」。
<ドクターをめざす少年は少なくないように思いますが、飲食を、という少年はそう多くないのでは?>
「そうかもしれませんね。私の場合、一つは、小さな頃から家族で色んなお店に連れて行ってもらったからだと思います。もう一つは、父の仕事の関係でうちには、美容師さんや、それ以外のお客様もたくさんいらして、時にはみんなで食事をされていて、そういう空間が子ども心に好きだった。そして、少し大きくなって、なぜ好きだったかがわかるんです」。
「これが、もう一つの理由ですが、首脳会議もそうですが、会談の後、食卓を囲んで、ご飯を食べて、心を開く。そして、仲良くなるでしょ。言葉はわからなくても、おなじものを食べて、飲むと、心が響き合う。そういう、だれもがハッピーになれる、飲食という世界に惹かれていたんです」。
<ドラムと飲食の二刀流ですね?>
「これは私もそうですし、両親もそう思っているようですが、とにかく、昔から人前に立って、人を喜ばせるのが好きだったんです。ドラムも、飲食も、そこがスタートかもしれませんね」。

ホテルニューオータニで、ベルマン吉田、誕生。

実は、吉田社長、小学校の時には合唱団に入っていたそう。全国のコンクールに出場し、優勝しているからすごい。中1でドラムを始めたのは、音楽に興味があった証だろう。
「飲食は、高校1年の時から具体的にスタートします。父親の知人に高級なレストランを経営される方がいらして、その方にお願いして皿洗いの仕事をさせていただきます」。
<まるで、料理人の下積みですね?>
「いえ、それほどたいしたことではないです。その時の経験は大事にしまっていますが、実は大学に進学して、飲食もそうですが、サービスのトップってなんだろうってふと思って。昔から思いったらすぐ行動するタイプだったので、帝国ホテル、ホテルニューオータニ、ホテルオークラの3つのホテルに『なんでもしますから』って書いた履歴書を送って(笑)」。
<大胆ですね(笑)>
「今なら、外資のホテルという選択もあるんでしょうが、当時は、やはりその3つのホテルがトップでした。いずれのホテルからも返事をいただくんですが、いちばん早かったホテルニューオータニで『ベルマン』としてスタートします」。
ホテルニューオータニは、むろん、日本トップのホテル。そのぶん、客室も多い。ベルマンは、たいへんだ。
「その通りで、2棟ありましたしね。お客様をお迎えして、客室までご案内するわけですが、15分くらいかかるんです。いっしょに歩いて、いっしょにエレベーターに乗って。黙っていることは許されません。ビジネスと観光とで、テンションがぜんぜんちがいますし、国によってキャラクターもちがいます」。
そんなお客様と、一つのエレベーターに乗る。数分でも、気まずい思いはさせたくない。何しろ、人を喜ばせるのが大好きな性格。「英語は、ある程度、できるようになりましたね。そりゃ、1日、何人ものお客様と会話するわけですから」。
「それにね。日本にいらしたんだから、日本のいいところを知ってほしいでしょ」。とにかく、サービス精神が旺盛だ。だから、言葉を交わすのに、躊躇はない。
「とてもいい経験をさせていただきました。これが19歳の時で、大学3年の時にアメリカに渡ります」。

ロン毛のアジア人、ドラムを披露する。

<アメリカ?> 「そうです。サービスはアメリカが進んでいますから、奨学金をいただいてアメリカに渡ります」。
なんでも、レストランマネージメントを本格的に学ぶため、渡米。アメリカの大学に3年生から編入したそうだ。「トランスファー」というらしい。
奨学金は、レストランではなく、ドラムでいただけたという。どういうことだろう?
「アメリカの大学には、ペップバンドというバンドがあって、アメリカンフットボールやバスケットの試合に参加して選手を応援するんです。そのバンドの一員になることが認められれば奨学金が支給されます。私は日本から音源と映像を送って。無事、採用してもらって」。
「奨学生は、週に1回、アメフトやバスケの選手について遠征して、試合を盛り上げます。演者たちのまんなかで、ドラムを叩く、ロン毛のアジア人がユニークだったんでしょうね」。
色んな学生が声をかけてくれたそう。人気者になったアジア人が叩くドラムの音と、笑い声が聞こえてくる。
<アメリカの大学を卒業した後、ニューヨークのレストランではたらいたんですね?>
「2年程度、勤務しました。Buvetteという、食のアカデミー賞って言われるジェームスビアード賞を受賞しているニューヨークの名店です。アメリカは労働ビザを取るのが難しくて、なかなか取れないんですが、卒業生には、おまけじゃないですが、期限付きの労働ビザが渡されるんです」。
「私はマネージメントも、サービスも勉強してきたんですが、料理はまったくしていない。だから、そうだと思って」。

ニューヨークの片隅。キッチンは、スパニッシュの世界。

思い立ったら、行動は早い。
「レストランの予約画面に『料理の仕事をさせてくれ』と打ち、送りまくった」という。マスターシェフから返信が来たのが「Buvette」。
「日本への進出が念頭にあったんだと思います。タイミングがよかったんでしょうね」。無事、採用。
最初の3ヵ月は皿洗い。24時間、営業。汚れた皿は、途切れることはなかった。
「勤務は朝4時から、夕方の4時くらいまで。キッチンにアメリカ人はいません。キッチンの公用語はスペイン語です」。
メキシコ、ベネズエラ、コロンビアから来た労働者だった。
「アメリカではホールが花形です。ウエイターは、モデルで、俳優で、タレントなんです。キッチンは、違う。ハードワーカーで、給料だってちがいます。それでも、ニューヨークで週休1日、2年はたらけば、メキシコに家が建つって話していました。それだけ物価もちがっていたし、ドル/ペソにも差があったんでしょう」。
日本人の青年にとっても、ニューヨークの物価は高い。
「ハリーポッターってご存知でしょ。あのハリーがおじさんの家に住んでいた時の部屋って、階段の下にあったじゃないですか、私の部屋も、あれそっくりで、ベットしかありません」。
仕事はハードワーク。しかも、朝4時に間に合うようニューヨークの地下鉄に揺られ、レストランに向かう。日本での修業ともまた違うハードな世界。
2年間、つづけただけでも頭が下がる。メンタルコントロールができるようになったそう。そして、帰国。Buvetteが日本に出店する。思いを描いて、海を渡った青年は、Buvetteに少し遅れて帰国することになる。
英語も、スペイン語も、サービスも、マネジメントも、そして、料理もできる。オールマイティだ。

・・・続き

DAVELLO gastropub 代表 吉田 慎氏

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キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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株式会社プログレ 代表取締役 西村和則氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社プログレ 代表取締役 西村和則氏登場。

本文より~

三重県伊勢志摩の小さな漁師町が物語の始まり。

父親は漁師。
「遠洋漁業でしたから鮪を追いかけているときは、年に1度しか帰って来ませんでした。ちっちゃい頃は父親ってわかんなかったんでしょうね。抱っこされるたびに泣いていたそうです(笑)」。
三重県伊勢志摩の小さな漁師町。今回ご登場いただいた株式会社プログレの代表取締役、西村さんは1970年にこの町に生まれている。
「寄港した船のなかに連れて行ってもらったことがあるんですが、ベッドなんてこんなんですよ」と手を小さく広げる。「だから、子ども心に漁師には絶対なるまいと決めていた」と笑う。
ちなみに、西村さんが生まれた漁師町は小さく、ご両親の実家は目と鼻のさき。「おーい」と言えば声が届いたらしい。「私らの代は第二次ベビーブームだったんで子どもは少なくなかったですが、今は子どもそうですが、人口がだいぶ減っています」。
空き家も少なくないらしい。漁村がさびれるのは、なんだか寂しい話でもある。

ベンツと8万円のブルーバードと。

高校に入学して、西村さんは生まれ育った漁師町から離れることになる。進学したのは「三重県の甲子園常連校」。野球部に入部し寮生活がスタートする。鉛筆を転がせば入学できたと西村さんはいうが、調べてみると偏差値は53。西村さんの居た野球部はまた違うのだろうか。
実は、甲子園にも出場している。1年ながら西村さんは控えのキャッチャーとして、ベンチ入り。当時の野球部の話も伺った。
「当時は『水飲むな』でしょ」と一言。なんでも「14時をまわると、陽があたっていても寒くなった」そう。
<それって間違いなく、熱中症ですよね?>
そういうと西村さんはしきりに頷く。365日、練習漬け。
「今、アッパーズってチームをつくって草野球をやっていますが、硬式の野球は高校で終わり。プロになった選手のなかにも知り合いがいますが、私は、そこまでの力はなかったです」。
大学は名古屋の大学に進学。しかし、すぐに中退。
「友達の1人がお金持ちの息子で、スカイラインやベンツを運転してくるんです。私は8万円で買ったブルーバード。格差を目の当たりにして、お金持ちになりたいと思って中退しました」。
<大学には、お金が落ちていない?>
「そういうことですね(笑)」。
「コンパ」という言葉すら知らなかったピュアな青年は、その格差を埋めるために大学を中退。飲食の仕事をスタートする。その頃、西村さんは今もアニキと慕う新田さんと出会っている。
西村さんがいう新田さんとは、株式会社ジェイグループホールディングスの代表取締役を務める新田治郎さんのこと。
アニキとの格差はベンツとブルーバードが象徴する経済的なちがいじゃない。新田さんの人間力に心を奪われたといっていいだろう。
アニキと出会ったのが21歳のとき。それから8年、和食料理店での店長を経て29歳で独立する。ホームページの年表によると「平成12年5月29日、鳥開名駅西口店、開店」とある。

鶏の総合デパート「鳥開」の始まり。

「鳥開」の話を聞いて、疑問が浮かんだので直裁にたずねてみた。
<どうして、魚ではなく鶏だったんですか?>
西村さんは笑いながら「たしかに、父親が漁師ですからね(笑)。ただ、だからこそ鶏だったんです。魚は鮮度もすぐに下がりますし、何より天候に左右されがちというのも知ってましたし、逆に鶏は仕入れが安定している。だから、魚じゃなく鶏というのが回答です」。
<とはいっても、名古屋には風来坊さんや世界の山ちゃんなど、名店も、競合店も少なくないですよね?>
「たしかにライバルは少なくありません、だから、差別化しないといけません。私の場合は親父が漁師ですし、生まれが食材が豊かな伊勢志摩だったこともあって『素材』そのものの旨さを知っていました。利益は少なくなりますが、鶏はすべて国産、とりわけ名古屋コーチンに決め、そこで差別化を図ることにしました」。
ここが最大のポイント。ちなみに、名古屋コーチンは比内地鶏、さつま地鶏と並ぶ日本三大地鶏の一つである。
話を聞くと、差別化は食材だけではなかった。
「煙もくもくの焼鳥店にはしたくなかった」と西村さんはいう。コンセプトは「鶏の総合デパート」。
「焼鳥だけだと職人に左右されてしまいます。和食時代の経験から、職人がいらないこともコンセプトの一つにしました」。
経験からシンプルな回答を導きだすのが西村さんのストロングポイントの一つ。
じつは、工夫はまだある。
スタッフは全員がパリッとしたコック服を着ている。熱々の「瓦」の上に乗せられた焼鳥が、香ばしい香りをたたせる。こちらは「食べ歩きのなかでひらめいた」という。それ以外にも、戦略的な差別化が、つぎつぎ図られていく。
当時、飲食人が意識していなかった戦略的なアプローチも行っている。
「プロモーションに200万円くらいは使った」と西村さん。わざと行列ができるように仕掛けている。もちろん、期待を裏切らない味とサービス。メディアが突然現れた人気店をこぞって追いかける。オープンした年の年末には、東海エリアでいちばんの人気番組にも取り上げられた。
有名なタレントが「鳥開」で歓声をあげる。
「年が明けると、予約の電話が鳴り止まなくなった」と西村さんは笑う。これが「鳥開」の始まりの話。

倒産寸前の大ピンチ。

「鳥開名駅西口店」の成功をきっかけに、つぎつぎにオープンを重ねる西村さんにピンチはなかったかと、ふたたびストレートにうかがった。
「鳥インフルエンザ、リーマンショック」と西村さん。ただし、リーマンショック以前に「倒産寸前まで追い込まれたことがある」と苦笑する。
どういうことだろう?
「たまたまお話をいただいてオーストラリアで流行っている高級なケーキショップをオープンすることになりました」。
なんでも、ビル1棟を借りるなどして、投資額は1億円にのぼったという。
「準備万端、あとはケーキ職人をまつだけだったんですが、その職人が来ず、ついに話が頓挫してしまいます」。
<ビルを借りたあとにですか?>
「そうです。契約書もまいてなかったから、どうしようもありません」。
1億円のビルが宙に浮く。
「そのビルに『鳥開』をオープンするんだったらよかったかもしれないんですが、なにしろその投資したビルに対して高級なイメージが刷り込まれていましたから、アッパーな和食店をオープンしてしまいます。『大間のマグロと松坂牛を個室でいただく』というコンセプトのお店でした」。
西村さんによれば「そのコンセプト自体は絶賛された」とのこと。
ただし、半年で5000万円の赤字を積み上げてしまう。
「コンセプトを知って『いいね』って来店してくださったお客様が、『サービスが話にならない』って帰っていかれるんです。そりゃそうですよね。今まで客単価4000円の焼鳥を売ってきた人間に、いきなり1万円のワインを売れっていっても無理な注文だったんです。当時の私は、そこがわからなかった」。
「それだけじゃありません。財務のこともよくわかってなかったから、なんとかなるんじゃないかって。甘かったですね、全部ね」。
「早急に対応しなければ倒産する」と、財務の担当から指摘されたらしい。
「あの時、やらなければならないことを書き出したんです。7つあったかな。すぐに5000万円を用意することでしょ。オープンした和食店も売らないといけない。こちらも、もちろん早急にです」。
絶体絶命。歯車が一つでもくるったら終わり。「まるで、ドラマだった」と西村さんはそう表現する。ただし、下を向かない。
もとキャッチャー。「キャッチャーは1人だけ、視点がちがうでしょ。私が人とおなじような思考をしないのは、キャッチャーをしていたからだと思っています」。
キャッチャーの目線で、ピンチに立ち向かう。

・・・続き

株式会社プログレ 代表取締役 西村和則氏

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