2019年1月22日火曜日

1月18日(金)発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」は、かばはうすホールディングス様です。

60代・70代で頑張ってる人、働きたい人を応援!(キイストン寄稿)

60歳以上のシニア従業員は74歳の最高齢者を含め30人。その中の1人が「炉端かば米子店」で接客やドリンカーとして生ビールやカクテル作りを担当している71歳の根来川(ねごろがわ)陽子さんを取り上げさせてもらいました。
  (夕刊フジより)
「over60(ロクマル)世代応援企業30」の取材を70歳の元編集プロダクション社長の土金さんにお願いしております。
ライター

【氏名】土金哲夫(ツチガネテツオ)
【生年月日】昭和23(1948)年9月25日
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

フクモチック有限会社 代表取締役社長 茂木貴彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”フクモチック有限会社 代表取締役社長 茂木貴彦氏登場
本文より~

幼少期に培われた、商売への熱意。

1974年、群馬県藤岡市に生まれる。団塊ジュニアと呼ばれる、競争が激しい世代。茂木家は商売人一族で、曾祖父が骨董屋、祖父が団子屋、父は建築関係の商売をしていた。その為、茂木氏は物心つく頃から、商売をやることを考え、家業を継ぐつもりだった。
「自分が幼い頃、家はとても貧しかったです。生まれた家は、商店街の中の借り家でした。隣の呉服屋が大家でしたが、雨が降ると雨漏りがひどく、家じゅうに鍋や桶、ごみ箱などを置いて、雨を受けていたのを覚えています。曾祖父が遊び人で、お金を使い切ったと聞いています。祖父は病弱で50代で亡くなり、父は若い頃は苦労していたのだと思います」。
それなのに、母親が教育熱心だったこともあり、3歳の頃から、様々な習い事は始まった。音楽教室やお絵かき教室、習字に英語、学習塾など、様々な塾へ通った。
「母親からは『将来は大学へ行って、公務員になってね』と、いつも言われていました。しかし、どこかいい加減でいながらも成功していく父親を見ていて、『自分ならもっと上手に商売ができるのではないか』と思うようになり、商売への熱はさらに大きくなっていきました」。
小学校1年から始めた剣道では、県大会だけではなく、全国大会にも出場している。当時の剣道の世界は、上下関係がとても厳しく、過酷なイジメやシゴキを経験。「こんなにつらいことは、この先の人生では2度とないだろうな」という思いを、合宿などでは経験していたという。
剣道を続けながら、高校生活を経て、その後、帝京大学へ入学と同時に上京する。

アメリカの空の下で、世界を意識する。

東京で一人暮らしを始めると、今までの「受験勉強・学習塾・剣道・教育熱心な親」の束縛からの解放で、極端に遊ぶようになったという。
「母親はあいかわらず公務員や一般企業への就職を望んでいましたが、私の気持ちは家業を継ぐため、4年間だけ東京にいるつもりでした。サーフィン、スノーボード、パーティー、サークル活動、車など、アルバイトと遊びに精を出し、学校へは単位を取る為だけに必要最低限通っていました。今思えば、あの時にもっと経営を勉強していれば・・・と思いますね(笑)。経営学部だったのに、まったく勉強してなくて、卒業して経営者になってから経営本買って勉強してましたので。私立の大学なので、学費も高かったし、親が全額負担してくれたのに、親不孝だったなと思います」。
家業を継ぐための研修先として、埼玉県のサッシ問屋への就職を大学3年の時に決めた。その為、まともな就職活動もせず、のんきに大学生活を送っていたという。
しかし、大学4年の夏休みに行った初めての海外旅行が、彼の将来を全く別のものにするターニングポイントとなる。
カリフォルニアの州都、サクラメントの大学へ通っている友人宅に、3週間ホームステイをした。この時にカルチャーショックを受け、「世界」を感じることになる。
「このまま家業を継ぐために、群馬県に帰ることでいいのか、疑問に思いました。人生がそこで終わってしまうような気がして。世の中には、もっと大きな世界があると気づきました」。
子供の頃から、家業を継ぐことしか考えてなかったので、この時からタイムリミットとなる卒業まで、悩み続け、「あいつはおかしくなってしまった」と友人に心配されるくらいだったという。
その後、内定が決まっていたサッシ問屋へ断りを入れ、親に「自分のやりたいことができた。東京に残る」と伝えた。
そうして、アルバイトすらしたことがなかった「飲食業」の世界へ入ることとなる。
様々な店の中から調布にある創作和食の店を選び、門を叩く。海外で勝負するなら、「和食」だと考えたからだ。

下積みから、オックスフォードへ。

「母親からは、飲食業に入ることは、とても反対されました。飲食業をやらせる為に、大学に行かせたわけではないと。様々な塾へ通わせてくれたものが、すべて無駄になると思ったのでしょうね」。
そんな反対の中、飲食業へ足を踏み入れたが、その厳しさに最初はとても苦労することになる。
「大学時代、たくさんのバイトをしていたのに、飲食業はやってことがなかったのです。やっておけばよかった。笑。まったくのド素人でしたし、センスもなかったのですかね。試用期間3か月で、社員にしてもらえませんでした。そのまま試用期間を3か月継続って感じです。でも、やる気だけは誰にも負けなかったので、毎日料理本を読み、勉強していました。それを実践で試したいから、賄い係をやらせてくれと訴え、毎日賄いを作っていました。しかし、その賄い作りが遅くて、何時間もかけるので、ますます怒られていましたね」。
調布のビジネスホテルに併設する創作和食居酒屋だったが、70席ほどの店で、魚の捌き方から、焼き物まで、すべての調理をやらせてもらうことができたという。およそ2年間、下積みの修業はつづく。
就職と同時に、英会話教室にも通いはじめ、英語の勉強も続ける。
給料が安かったので、料理本を買うお金も満足になく、出勤前に毎日、図書館で料理本を読んで勉強をしていたという。
「2年が経過したころ頃ですね。友人から、イギリスで飲食店経営をしている香港人オーナーが「日本人のシェフを探している」という話がきました。それで、チャンスだと決断し、すぐに履歴書を英文で書いて送り、採用が決まりました」。
ロンドンから車で2時間ほどの距離にある学生の街、オックスフォードの中心にある、200席ほどの「モンゴリアンバーベキュー」の店がその香港人オーナーの店で、その地下に日本食レストランを作ったという。
「30席くらいの小さな店を作りました。やったことないのに寿司を握ったり、ラーメンも作りました。ラーメンのスープの作り方は、そのオーナーから教わりました。マグロが欲しいと伝えたら、まるまる1匹来たりして、15㎝くらいのアジ用の出刃包丁で、150㎝くらいあるマグロをさばきましたね」。
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2019年1月16日水曜日

株式会社サンライズサービス 代表取締役社長 松村幾敏氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社サンライズサービス 代表取締役社長 松村幾敏氏登場
本文より~

最初の仕事は「悪臭対策」。

山口県にいたのは2歳の頃まで。その後は兵庫県西宮市で、高校を卒業するまで暮らす。小学校卒業後に中高一貫の進学校である甲陽学院に入学し、勉強に励んだ。2つ上の兄と2人の叔父は京都大学を卒業。兄たちとは違い、京都大学に進学せず、東京工業大学に入学した。「東京に出たかったのと、自分は法律や経済ではなく、化学に興味があった。だから東工大を選びました」。ここで、最終的に大学院まで進むことになる。
大学院卒業後は、そのまま研究者として残る道もあったが、「研究よりもモノづくりがしたい」と、就職を選ぶ。「自分としては関西の住友化学に入りたかったんですよ。しかしですね、大学院の教授が、私の進路を勝手に決めていたんです」。薦められたのは、日本石油株式会社(現・JXHD)。住友化学への思いがあったものの、教授が決めたことだし「モノづくりができればいいか」と入社を決意した。
しかし、いざフタを開けてみると、モノづくりとは正反対の仕事が待ち受けていた。配属されたのは根岸の製油所。そこで、工場から出る悪臭を分析し、対策をたてるのである。当時は日本中で「公害」が注目され始めた時代。各企業が騒音や悪臭などの対策に乗り出した時期でもあり、また大学院卒で現場に配属される人間がいなかったことから、松村氏が抜擢されたのだという。「モノづくりがしたくて、ずっと異動の希望を出していたんですよね。しかし僕の思いとは裏腹に、国に環境庁が設立され、各企業が本格的に公害対策のセクションを作り始めた。だから僕は、お客様のそういうセクションを回る仕事を、3~4年やることになったんです」。
環境対策の仕事を7年ほどやり、その後はずっと本社勤務。なぜか一度も転勤することはなかった。本社では原油の買い付けを担当。オイルショックの時代である。原油輸入国であるサウジアラビアやイラン、イラク等からの輸入がストップし、今まで仕入れたことのないコンゴ、ロシア、メキシコ、北海などから買い付けを行った。
「石油会社が行くとこって、だいたい治安が悪いんです。僕も一度サウジアラビアでテロに巻き込まれそうになったこともあります。早めに帰国できたので難を逃れましたが」。その後40歳で課長に就任。「たいへんなこともあったけど、環境の仕事よりは楽しかったですね」と振り返る。

「開発部」で「ヒラメの養殖」。

故郷に錦を飾る、ではないが、松村氏には「地元の山口で仕事をしたい」という思いがあった。その思いが現実になるときが来た。山口県の下松市にある製油所の責任者として赴任する、という辞令が下ったのだ。思いがようやく叶うときが来た…はずだった。残念ながらその希望は泡と消えてしまう。なんと、製油所が急遽閉鎖することになったのである。しかもそれだけではなかった。「製油所で働いていた200人が路頭に迷ってしまう。悪いけど、面倒見てくれないか?」。仕事のなくなった従業員を食べさせていくために、新しい事業を起こす。それが、開発部のリーダーとしての最初のミッションだった。
何をするか?漁業や水産、農業なら、きちんとやれば収益は出る。その中でたどりついたのが「ヒラメの養殖」。石油会社がヒラメの養殖?まったく結びつかないが、製油所をさらに大きくしようという計画があったおかげで、堤防やダムの一部、海水ポンプなどの設備だけはあった。これを使わない手はなかった。これらを使って何ができるか?漁協にも相談したところ、返ってきた答えが「ヒラメの養殖」だったのだ。
もちろん養殖なんて今まで経験したことがない仕事である。しかし持ち前の探究心のおかげもあり、少しずつ形になっていった。「ヒラメって、砂地にペタっと這う、あの状態になるまでに40日ぐらいかかるんですよ。それまでの間に4回もエサが変わるんです。だから、難しかったですね」。
努力の甲斐あって養殖は軌道に乗り出したものの、7月、8月あたりまでは漁獲量が多いので価格が暴落。一方9月以降は漁獲量が少ないので価格は上がるが、需要が大きすぎて、養殖が追いつかなくなる。そんな状態でキロ1000円から1万円の間を乱高下するのが当たり前だったのだが、松村氏はここにもメスを入れた。
「まず、築地の仲買と仲良くなりました。そして年間でウチのヒラメを買ってもらう契約をしたんです」。年間で買うということは、ヒラメの相場価格が安いときには高い買い物になるが、逆に相場が高いときには他と比べて安く買える。「ヒラメなんて、寿司屋さんで食べようと思ったら『時価』でしょ? 寿司屋さんも時価より、たとえば300円なら300円と価格が決まっているほうが、仕入れやすいはずです。そういう説得をして、契約にこぎつけました」。
年間で取引ができるようになってからはすごく儲かったという。
「ウチと同じように、うなぎを扱う鉄鋼会社もありましたが、なんせ殿様商売なんです。漁獲量が少ないときはいいんですけど、多いときにはまったく売れていませんでした。築地からシャットアウトされ、時価の8割の値段でも売れていなかった。そんな中、ウチは時価より2割高い金額でも売れていました」。
このヒラメの養殖で20人の従業員を養い、養殖とは別にトマトの水耕栽培を始めて30人の働き口を作り、さらに大きな植物工場を作るなどして、なんとかみんなが食べていける環境を整備した。しかし、そんな生活も4~5年で幕を閉じる。1993年に発生した台風19号。この台風により、堤防が決壊、タンクも吹き飛ばされ、事業の継続が困難になったのである。
「養殖は軌道に乗って楽しかったけど、一方でしんどくもあった。これを機会に、撤退しようと思ったんです」。
その後、植物工場を本格的に手がけようとしたものの失敗、水耕栽培も途中で行き詰まり、最終的にはバイオテクノロジーの分野に進出。「化学と近しいものがあるので、興味があったんです」と松村氏。ビタミンB12やアスタキサンチンの培養研究を開始し、20年の歳月をかけ、ようやく事業化に成功した。
「思えば、立ち上げのときは社員たちの雇用の受け皿的な意味合いもあったのかもしれませんが、そのうち『新しいことをやらなきゃいけない』ということでいろいろやり、開発部として形になっていったわけです」。
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株式会社サンライズサービス 代表取締役社長 松村幾敏氏
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1月11日(金)発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」は、テンポスホールディングス様です。

60代・70代で頑張ってる人、働きたい人を応援!(キイストン寄稿)

グループ会社のテンポスバスターズはシニア社員の比率が高い。
従業員数は762人。その24%にあたる180人が60歳以上です。この中には80歳以上が8人、70歳以上が71人含まれています。
そのひとり、本部の人事総務部に勤務する元高校教師の長崎健雄氏は75歳です。
(夕刊フジより)
「over60(ロクマル)世代応援企業30」の取材を70歳の元編集プロダクション社長の土金さんにお願いしております。
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【氏名】土金哲夫(ツチガネテツオ)
【生年月日】昭和23(1948)年9月25日
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2019年1月11日金曜日

有限会社翠葉 代表取締役 浅野宜貴氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社翠葉 代表取締役 浅野宜貴氏登場

本文より~

中国、福建省。

福建省は、中国の南東部に位置する。今回、ご登場いただいた浅野宜貴氏が、福建省に生まれたのは1966年12月25日。六人兄弟の四男。
「私が生まれたのは、福建省のなかでも田舎のほうです。父は共産党員で、日本でいうならば公務員のような仕事をしていました。ただ日本と違って、当時の、中国の公務員の給料は、ぜんぜんです。私たちは、小さな頃から母といっしょに畑仕事をして暮らします」。
さつまいもを細く切って干す。それが、ひと冬明ければ、食料になる。ただ、両親と兄弟6人が食べていくだけの米がない。
「だから、お母さんは、ほとんど料理を口にしません。経済的には恵まれてなかったですが、親子はもちろん兄弟同士のきずなもつよく、両親は、私たちにちゃんと期待してくれていました」。
なかでも四男の浅野氏は、もっとも期待されていた。村いちばんの神童だったからである。
「当時は、中卒もふつうです。田舎ですからね。私の兄弟も、私以外はだれも大学に進んでいません。幸い、私は勉強ができたし、みんながそれを応援してくれたから、大学に進学できたんです」。
学校から帰ると、兄弟たちは畑仕事をはじめている。浅野氏は、料理などを担当した。いつのまにか、兄弟たちの期待も、浅野氏に寄せられていったのではないだろうか。
「田舎には、チャンスがないんです。私は、大学で都会に出ましたから。そのぶん、兄弟たちが観たこともない世界を観たとも言えますね」。
進んだのは、福建省にある、師範大学。先生養成学校だ。ただ、浅野氏は、せっかく入学した大学を中退する。そのいきさつを聞くと、改めて、当時の中国と日本の格差が浮かび上がる。

来日。時給500円のアルバイト。

「実は、次男が私より先に日本に渡ります。我が家の開運はそこからスタートします」。
次男が、日本で生活できるようになった頃、浅野氏も大学を中退し、来日する。
「日本という国に行けば、運が開ける。私も、それに賭けたんです。中国で大学生をするより、チャンスがある。やがて三男も、五男も、六男も。つまり、長男以外、全員、来日します。いまでは帰国した者もいますが、全員、日本で運を開いたといっていいでしょうね。日本は、そういう国だったんです。当時の我々、中国人からすれば」。
浅野氏が来日するのは、1988年。日本が、ある意味、いちばん光る時。異国の方からすれば、まぶしい国だったに違いない。
「最初は、兄の紹介で、横浜中華街で仕事をします。時給500円でした。兄は、コックでしたが、私はホール。でも、日本語ができません。お皿を下げるくらいしかできなかったですね。それから、日本語学校にも通います。葛飾区の平井駅のちかくです。」
時給500円。学校にも通っているから、長くは勤務できない。
「将来が心配ですね。どうしようか、と。ある人に相談し、兄に別れを告げて、東京で暮らしはじめます。新しい店は時給800円。終電ギリギリまではたらきました。そんな時、学校のともだちから、新しいバイト先を紹介してもらうんです。紹介されたのは、現場監督をされている人でした。私の恩人です」。

一号店、オープン。

「それまでは、飲食ですが、それから建設現場の仕事をはじめます。いわゆる3Kです。でも、お金がいい。1日はたらけば2万円。いいでしょ。現場監督をされている人にも親切にしていただいて、実は、外国人たちの元請けのようになり、月に200万円くらい稼ぐようにもなりました」。
月200万円とはすごい。
「もっとも稼いだお金は、仕送りしますから、手元には残りません。1990年に結婚するんですが、その時にも200万円くらいの借金があったくらいですから/笑」。
家族のため。兄弟のため。中国では、それが当然だった。むろん、妻のため、我が子のためもある。
「結婚して、そうですね。彼女も、中華街で仕事をしていたもんですから、結婚した平成4年に横浜市の南区に飲食店を開業します。ハイ、それが一号店です」。
新たな未来へための一歩。
この時のビルのオーナーとの出合いにも浅野氏は深く感謝している。
「だって、たいてい話も聞いてくれないんです。でも、そうでしょうね。実績もないにもないんだから。中華街に出店したかったんですが、まったく話になりません。だから、あのオーナーがいなければ、いまのうちはないんです」。
ただ、そのオーナーのビルは南区だった。中華街ではない。
「それがわからなかったんですね。だから、中華街と同じようにしてしまうんです。けっして高級店ではなかったんですが、それでも、酢豚1500円、エビチリ2000円です」。
最初は、よかったそうだ。まだ、バブルの余韻が残っていたから。月商は300万円。悪くない。

業績悪化とV字回復。神が舞い降りる。

「でも、だんだん下がって、200万円を切るようになります。そうなると、赤字です。どうしようもない。私はコックじゃないから、私だけ店を離れて昔の仕事をしようかとも考えました。でも、そうはいかない」。
いくら頑張っても振り向いてくれなかった運が、ほほ笑んだのは、ある物件を手にしてからだった。
「もう、追い込まれていたんですね。出前もするようにして。ただ、家賃もそうだし、人件費もそれなりに高かった。だから、いま言ったように昔の仕事をするかとも思ったんですが。そうじゃないな、と。ここは、攻め時だって、考えを改めたんです。そうしないと、いつまで経っても『あした』がない」。
平成9年になっていた。
一号店を出店して5年。
「不動産屋さんに声をかけていたんです。どこかにいい物件ないですか?って。その時に、紹介いただいたのが、いま本社ビルとなっている、ここです」。
もともとはラーメン店だった。立地は悪くないが、経営がうまくいかなかったようだ。ただ、浅野氏の目には、申し分なく映ったそう。最初は、居抜き。800万円で店だけ取得した。
「このあたりは東京で言えば、歌舞伎町なんです。深夜になっても客足が絶えません。ラーメンに、お酒に。月商は600万円になり、利益がでます。そして、これを境に、三号店、四号店と、私の快進撃が始まるんです。まるで、神が舞い降りたようなもんですね」。
この物件によって、人生がかわったと浅野氏は大げさなことをいう。しかし、浅野氏にとっては、まぎれもない事実だった。もちろん、それだけではない。出会った人、すべてを尊敬し、出会いに感謝する。
出会いから、生まれた人脈はいま、さらに広がっている。新聞社やTV局の経営者とも深くつながっている。
知人から勧められたゴルフを通して、輪はさらに広がった。
実はいま「ジュニア育成トーナメント」なるものまで開催している。
・・・続き
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2019年1月7日月曜日

1.4新日本プロレス『WRESTLE KINGDOM 13 in 東京ドーム』に行ってきました。

昨年は行けませんでしたが、毎年恒例の1.4新日本プロレス『WRESTLE KINGDOM 13 in 東京ドーム』に行ってきました。

1月4日(金)発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」は、サガミホールディングス様です。

60代・70代で頑張ってる人、働きたい人を応援!(キイストン寄稿)
1月4日(金)発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」の第13回(113社/30社)はサガミホールディングス様です。 今ご紹介するのは、店舗後方支援部署グループ開発課の丹下茂之氏61歳と65歳の橋田政彦氏(仮名)で海外部門で活躍されているシニアお二人です。
(夕刊フジより)
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2019年1月1日火曜日

謹賀新年!!

謹賀新年!!  

2019年のキイストンは3カ年計画立てましたので集大成で挑みます。
年賀状とは別バージョンです。
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