2016年12月14日水曜日

株式会社アークス 代表取締役 米田周平氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社アークス 代表取締役 米田周平氏登場。
本文より~

高校生から社会に出る。

米田氏は、1985年10月6日、神戸市に生まれる。
生まれてすぐ、父親の転勤で東京都の江戸川区に移り住んだ。子どもの頃は、喧嘩もし、何でもいちばんでないと我慢できない性格だったので、努力し常に1番を取っていたそうだ。
兄弟は、3人。米田氏は次男坊である。
「自儘」という言葉がある。「周囲の事情など考えずに、自分の思うままに物事をする」という意味だ。子どもの頃の米田氏はまさに、その言葉通りの行動を取っていた。
高校を辞めることになったのも、いうならば自儘な生活が原因だった。
「その頃からすでに独立心が旺盛だったものですから、高校に行くにしても時間がもったいないなと思っていたんです。しかし、父親に説得されて、渋々、進学するんですが、1年目で早速、留年が決定的となって。そうなると、1年をもう一回やるわけで、『そんな時間、オレにはない』と思ってしまうんです。まさに、身勝手なヤローですよね。それから、通信制の高校に鞍替えしたんですが。高校を退学する時、父親が学校に来て、『申し訳ありませんでした』って先生に頭を下げていたんです。それをみて…」。
それをみて、親父に頭を下げさせてしまったことを反省し、このままじゃダメだと思い「すべてがかわった」、と米田氏はいう。

理不尽な社会のなかでみつけた、目標。

「それから1年生が終わるまではまじめに出席しました。そうすると、通信の学校に行っても2年から編入できたからです」。
「せめて高卒の肩書は」と、父親に勧められたに違いない。もっとも通信制だから、仕事もできる。早く社会に出たいと思っていた米田氏にとっても最良の選択でもあった。
「最初に就職したのは、土建関係の会社です。まだ17歳ですから、父親の了承も必要でした」。
父親はなかなか「うん」と言わなかったそうだ。しかし、結局、息子の意思をたしかめて、「承諾してくれた」という。同時に、一通の手紙が渡された。息子と社会に対する父の思いが綴られていた。「あの時の手紙は、いまも大事に残しています」と米田氏はいう。
「現場作業ですから、肉体的にも相当きびしかったんですが、それ以上に、まあ、理不尽な会社だったんです」。
「人に使われるというのは、こういうことか」。それをいやになるほど味わった。
「結局、経営陣のやりかたにに反発して、退職します。その時に、私のなかでは大きな目標が生まれたんです。『経営者になる』という目標です」。

経営者をめざすには、まず営業は避けて通れない。

「営業を知らなければと思って、通信系の会社に就職しました。そちらで、約3年間、営業の仕事をしました。
その後は経営を学ぶためにベンチャー・リンクに入社しました」。
ベンチャー・リンクとは、もともとかかわりがあったそうだ。「一度、ベンチャー・リンク関連の店で、アルバイトをしていたんです。そのとき、いまでも尊敬する上司となる山田さんという方に出会って」。

「ベンチャー・リンク」の日々。


ベンチャー・リンクに入社した米田氏は、日々の仕事と、日々の勉強に追われた。「あの時はさすがに、もうちょっと勉強しといたほうがよかったって、思いました」。
米田氏は笑っていうが、当時は、切実な悩みでもあった。「だって、仕事だけで、もう、24時間なわけですよ。それに勉強でしょ。時間がない」。
「相当、きつかった」と米田氏がいうのも頷ける。しかし、そこまで米田氏を動かしたものはなんだったんだろう。「一言で言い表わすなら、『夢』です。しかし、ベンチャー・リンクという組織のなかで仕事をしていたからだとも思うんです。尊敬できる先輩ばかりでしたから」。
大卒の先輩らと違って、20歳で入社した米田氏は、年下である。可愛がってもらっていたのだろうし、逆に米田氏が先輩たちに刺激を与えていたのも間違いない事実だろう。
「当時は、そういう意味では恵まれた環境だったと思います。私もそうですが、当時の先輩たちの多くも独立して、起業されています。その事実が当時のことを何よりも雄弁に物語っていると思います」。
たしかに、ベンチャー・リンクの、事業以外の功績を一つ挙げるとすれば、米田氏らのような「経営者を輩出したこと」となるだろう。外食ビジネスのなかだけでも、ベンチャー・リンク卒業生の、社長は数多い。

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2016年12月6日火曜日

株式会社麺庄 代表取締役 庄野智治氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社麺庄 代表取締役 庄野智治氏登場。
本文より~

教科書は、「料理マンガ」。

海老とトマトの鶏白湯スープ/生姜スープ。スープは、このいずれかをチョイスする。この2種類のスープ選びから始まる「ベジつけめん」は、麺と、チャーシューなどの具材が、絵画のように美しく盛られた目にも楽しい「つけめん」である。
「ベジつけめんは、3号店目となる、新宿1丁目の『gotsubo』でお出ししているラーメンです。店名通り、5坪の小さなお店ですが、女性客も多く、高い評価を頂戴しています」とのこと。2016夏限定メニューは、更に独創的で、「冷たいトウモロコシのラーメン(890円)」は月・火は長芋とオクラのスープ、水・木はトマトとキュウリのスープ、金・土はキノコのスープと、2日毎にスープも入れ替わる。
「上質でワクワクするようなラーメン」と社長の庄野氏はそう表現するが、実際に目の当りにすると、パスタに近い。というか、ラーメンとパスタが融合した新たな食のカテゴリーという気がしなくもない。
さて、今回ご登場いただくのは、この「ベジつけめん」をはじめ、独創的なラーメンを生み出し、いまやサンフランシスコに海外1号店をオープンするまでとなったラーメンクリエーターであり、株式会社麺庄の社長、庄野智治氏である。
庄野氏は、1980年2月12日、生まれる。なんでも、ラーメンというか、食に熱烈な興味を持ったのは、庄野家では庄野氏だけだった。
「小学3年生の頃から、剣道をはじめます」。理由は、「剣道場に一目ぼれした」とのこと。結局、中学2年生までつづけ、区大会や県大会で入賞したこともあるそうだ。
「次男ということもあったんだと思いますが、両親は、とにかく何でも自由にさせてくれました」。
「私がつくった料理も、いつもほめてくれました」。
実は、庄野氏。子どもの頃から、食べ歩きが大好きだった。とくにラーメンがお気に入り。食べるだけではなく、つくることも大好きだった。好きな漫画は「クッキングパパ」。「クッキングパパ」「美味しんぼ」漫画に出てくるレシピが、教科書だった。父や母や兄が褒めてくれたのは、その時につくった料理の数々である。
「家ではもちろんですが、友人宅でも、冷蔵庫を開け、なかにある食材で料理をつくっていました」とのこと。少年たちが、口々に、「庄野は、料理の天才だ」といったのは、この頃のことである。早くも、料理人の片鱗がうかがえる話でもある。

高校生、ラーメンを自作。

高校生からバイトをする人は少なくない。庄野氏も、高校3年から居酒屋でアルバイトを開始している。しかし、高校生の時から、骨を炊いてラーメンを自作するなんていう人は少ないのではないか。
「コロッケ屋さんが骨をわけてくれたんです。それをうちにあった小ぶりな寸胴で、じっくり炊いて…」。キッチンは、小学生の頃から、庄野氏の縄張りでもあった。
この時も、出来上がったラーメンをふるまうと、みんなからお世辞抜きで「天才だ」と称賛された。
「そりゃ、旨くて当然です。原価もまったく気にしていないわけですから。しかも一杯入魂ですからね(笑)」。
決断も、早い。
もっとも、すぐに独立というわけにはいかない。ラーメンづくりには、素人ながらも、いや正しくいえば素人だからの、自信があったが、資金もない。
社会というものも勉強しなければならなかった。
「それで、知り合いに、飲食店の工事を請け負っている会社があったので、そちらに厄介になりました」。営業もしたし、現場にも入り、汗を流したそうだ。
「いつ、もしくは何歳になったら、独立すると決めていましたか?」と聞くと、「そういうのは、決めてなかったんですが、とにかく資金が貯まったらと思っていました」。
結局、3~4年で、独立資金を貯めた。短い期間で用意したのは、意思の表れである。
ところで、高校生からラーメンを自作するようになっているが、そもそもラーメンだと思ったのは、なぜなんだろう。
「『ラーメン巌流島』っていうテレビ番組があったんです。その番組を観たのが、ラーメンに興味を持つようになったきっかけですね。当時は、荻窪の『春木屋』さんや『丸長』さん、『大勝軒』さんに良く通っていました。専門学校に進んでいたら、フランス料理を専攻するつもりだったんですが、大学に進みましたから、ラーメンはもちろん、料理はすべて独学です。だから、店をやるには、かつて『天才』と言われたラーメンでと、甘い考えでスタートしたわけです」。
大学2年で中退して、3年だから、1年浪人を入れて、24歳の時である。
「資金も貯まった頃に、いい物件もあって、よし、ってことで、オープンしました」。その店が1号店である「麺や庄の」である。
「たまたま、当時ブレイクしたカレーハウスの創業店の跡地だったんです。10坪、10席です。人気店を生み出した創業の地ですから、そこでやってだめだったら、飲食店の経営は向いていないことになる。だめだったら、ぜんぶ捨てて、ふつうのサラリーマンになろうと思っていました」。
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2016年12月5日月曜日

夢を買いに有楽町に行きました!!

2016年もあと1か月、とうとう師走となりました。
最後に“夢を買い”に有楽町の「西銀座チャンスセンター」に行きました!!
まあ2時間近く並びましたね・・・。
そしてついに1番窓口でゲット!!

2016年11月29日火曜日

株式会社小松庵 総本家 代表取締役社長 小松孝至氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社小松庵 総本家 代表取締役社長 小松孝至氏登場。
本文より~

小松庵。

3代目である。「祖父が小松庵を創業したのは、大正11年です。祖父から、父へ。そして、私で3代目です。ただ、3人とも性格が違うし、方向も違います。小松庵のDNAは、たしかに継承してきましたが、表現はバラバラです」。
 職人堅気の祖父は、店舗展開に消極的だったが、父親はむしろ出店を積極的に行った。「ある意味、祖父に対するアンチテーゼだったかもしれません」。
蕎麦職人から、経営者へ。2代目の挑戦である。
1992年には、池袋メトロポリタンに出店。1994年には、恵比寿ガーデンプレイスへ。1996年には、新宿高島屋へ出店。2000年になってからも5店舗出店するなど店舗展開を図っている。
一方、孫である3代目小松氏は、先祖返りの部分もなくはない。「私自身、職人ではありませんが、『職人』の考えかたや、在りようにはつよくこだわっています」。
職人の仕事は、「文化をつくる仕事でもある」と考えているからだ。次の言葉からも、小松氏の考えが透けてみえる。
「蕎麦屋は、蕎麦をだしていればそれでいいのか。そんなことを考えているわけですから、やっぱり私も、先代たちとはちょっと違いますね(笑)」。
小松氏が生まれたのは、1953年である。生まれは、駒込。すでに、祖父は「小松庵」を創業されている。「祖父の時代は、とりわけ同族経営の時代です。母は、新潟から嫁いできましたが、祖父にすれば働き手が1人増えたくらいにしか思ってなかったんじゃないでしょうか」。
従業員ならまだしも、家族だから余計始末に悪い。「年間365日いっしょです。逃げられない。家族旅行っていっても、社員旅行でしょ。しかも、社員といっても親戚ばかり。母は、長男の嫁ですから、親戚からも冷たい目を向けられていました」。
創業者である祖父に反発できる者はだれもいない。孫の小松氏にとっても、怖い人だった。小松氏も、小学校に上がる頃には、母同様、働き手の1人となった。
「勉強していたら、祖父に殴られるんです。『頭が良くなったら、蕎麦屋をつがなくなる』というのが祖父の言い分。たしかに、あの時は蕎麦屋になんかなるものか、と思っていました」。祖父は、そんな小松氏の気持ち察し、はがゆい思いをしていたのかもしれない。
「ある日、母が『いっしょに逃げよ』といいました。でも、私たちは、逃げ出さなかった。どこかで、小松庵という店に惹かれていたんだと思います」。
祖父が亡くなり、父が2代目になってからも、母は店のために良く働いた。それをつぶさにみていたのは、小松氏ら子どもたちだけではなかった。「私が、銀行関係の方とお話しするようになった時に言われました。『あなたのお母さんは、ほんとうに良く働く人だ。小松庵を支えてきたのは、間違いなくお母さんだ』ってね」。
ちなみに小松氏母は、今もお店に出られることがあるそうだ。
時代は、大正から昭和、平成と移っている。新潟から嫁いできた母がみた当時と比べ、「駒込」の風景はもちろん、「小松庵」もまた、まったく違う姿をしているはずだ。

蕎麦屋の3代目の挑戦。

大学時代まで、ぱっとしなかった。外交的でもない。女子とわいわい騒ぐということもできないタイプだった。「大学で初めて、生涯の友ができた。それが、今の妻です(笑)」。
小松氏は、青山学院に進学。青学で始めたオーケストラで知り合ったそうだ。「それまで、何か楽器をしていたかというと、ぜんぜんそんなことはなかったんですが、突然、やろうと思ったんですよね。なぜか」。踏み込んだ先に、奥様がいた。音楽にもむろん惹かれた。文化への傾倒も、この頃に始まったのかもしれない。
「怠け者だが、凝り性」と小松氏は自己分析する。怠け者のほうはともかく、凝りだしたらとまらない。余談だが、30歳から始めたテニスでは、コーチを務めるまでになっている。その頃には、だれかれともなく言葉を交わす外交的な性格になっている。これも、たぶん奥様のおかげである。
小松氏は、1977年、同大学の理工学部、物理科を卒業している。大学出身の飲食経営者は少なくないが、理系というのはめずらしい。「ものごとを論理的に考える癖がついてしまっている」と笑う。だから、知り合った頃には、偏屈な奴と思われる時もあるそうだが、交流が深まれば、たいていの人は小松氏に好意を持つ。「経営者の多くは、現象を観る。私が観るのは、原理です」。
心ある人は、小松氏の言葉にいつか耳を傾けるようになる。ある会合に参加した時もそうだった。最初は、言葉がまるでかみ合わなかった。ただ、「2年で本質的な議論ができるようになった」と小松氏はいう。
「旨ければいい」。それでは「旨い」という現象にしか、目が向いていない。店は、存続しなければならないし、儲からなければならない。そうしなければ、文化を継承する職人も、生まれない。
「蕎麦屋は、少なくなっているんです。『それは、なぜか』を根本から考えないといけない。つまり、減少という事象のみに目を向けるのではなく、原理から考えないといけない。労働環境もそうでしょう。でも、それだけではない。文化や、時代背景など、実は、社会の体制にまで手を突っ込んでいかなければ、解決できない問題なんです」。
むろん、蕎麦屋が自らできることは限られている。だからといって、放っておくことはできない。3年前リニューアルした「総本家 小松庵 駒込本店」は、小松氏のひとつの挑戦だ。
ネットなどで確認いただきたいが、蕎麦屋という外観ではない。小松氏自ら「蕎麦屋っぽくないようにした」と豪語する。外観は、高級レストランに近い佇まいである。「つくりたかったのは、非日常」。けっして安くはない。ランチでも3500円。それでも、客は溢れる。
「蕎麦っていうのは、旨いだけでは経営が難しいです。旨いのはもちろんですが、それだけではだめってことです。安ければいい、でもない」。では、どうすればいいのか。その答え探しのために、小松氏は、新たな挑戦を開始したに違いない。


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株式会社小松庵 総本家 代表取締役社長 小松孝至氏
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2016年11月25日金曜日

11月24日、青山学院大学堀内ゼミにて楽観の伊東良平社長の講義でした。

11月24日、青山学院大学堀内ゼミにて楽観の伊東良平社長の講義でした。
20代前半時にピースボート内の調理スタッフとして世界一周旅行の経験が今の伊東良平社長を形成されてるようです。
これからの海外展開がとても楽しみです。
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株式会社石はら 代表取締役 石原誠二氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社石はら 代表取締役 石原誠二氏登場。
本文より~

石原家の話。

蕎麦屋といえば、古風な造りが頭に浮かぶが、蕎麦「石はら」は和モダンなイメージで、なかでも3店あるうちの1店舗でもある学芸大学店は、「蕎麦カフェ」といった趣だ。旨い蕎麦はもちろんだが、蕎麦前と言われる「だしまき玉子」や「蕎麦がき」などのつまみも、これまた旨い。
つまみで一杯やりながら、蕎麦で〆る。これが、江戸っ子の流儀なのだ。
さて、今回、ご登場いただくのは、その粋な蕎麦「石はら」の店主であり、株式会社石はらの代表でもある石原誠二氏である。
石原氏は1966年、東京都世田谷区で生まれる。
「兄が生まれ、1歳違いで、私が生まれました。お金がなかったから、2人も育てられないと、私は一時、捨てられる運命にあったそうです(笑)」。
むろん、そんな親の事情を知っていたわけではないが、「父親がオレをみる目が、兄を見る時とは違う」と思っていたそうだ。望まれなかったわけではないが、石原家に、それだけの余裕がなかった頃の話である。
「事実を知ったのは、ずいぶん大人になってからです。知ったからといって、何かがかわるわけもなかったですが、なんとなく、それまでのことが腑に落ちたのは事実です」。
親子で好きな球団がわかれていた。最初は、石原氏だけが巨人ファンで、父母兄は、阪神ファン。石原氏1人が違う球団を応援していることを知って、母は、石原氏とおなじ球団を熱心に声援するようになる。
1対3という構図は、母にとっても辛い構図だったのかもしれない。

高校進学で一波乱。

「兄も、私もそうですが、小学校の頃から番長みたいな存在でした。兄は、あることがきっかけで、中学から性格がかわるんですが、私はそのまま。野球もつづけ、中学時代には区の大会で準優勝しました。私はキャチャー5番です」。
遊んでもいたが、部活にもまじめに取り組んでいた。高校でもつづけるつもりだったが…。
「ぜんぶ、すべっちゃったんです(笑)。3校くらい受験したんですが、ことごとく(笑)。そうなると、中学浪人です。あの時は、ちょっとやばかったですね。でも、最終的には2次募集で、ある私立高校に合格します。それが、実は、たいへんな高校だったんです」。
入学したのは、2次募集の石原氏らをいれて350名。たばこの煙がもうもうとたち込め、授業にでてくる生徒も少なかった。「野球部もあるにはあったんです。でも、グラウンドが小さかったのと、戦績を聞いて辞めました。弱すぎなんです(笑)」。
学校の成績は、最初だけトップテン入りした。2次募集で進学しただけに、最初からその高校を狙っていた生徒たちとはさすがに差があった。
「最初の頃だけ」と笑うが、もともと石原氏は、頭の回転が早いほうだ。
「親父がばくちばっかりやっていたもんですが、子どもの頃からいろいろつき合わされて、そのおかげで計算はめっぽう早くなったんです。小学生の時は、クラスでいちばん頭がいいって子にも、算数だけは負けませんでしたから」。
しかし、むろん、勉強はしなければだめになる。卒業時には「真ん中くらい」になったのは、勉強をせずに済ましたからだろう。大学には、進む気もなかった。

居酒屋が専門学校だった。

「兄はいろいろ買ってもらっていたと思いますが、私はぜんぜんでした。だから、中学3年の頃からアルバイトをはじめ、そうですね、高校を卒業する時には7~80種類のバイトを経験していました(笑)」。賭け事も経験する。なかでも麻雀は得意だった。
ところでバイトでもらったお金はどうしたんだろう。貯金とかしたんだろうか。
「それがぜんぜんです。もらったぶんだけ使っちゃいます」。江戸っ子は宵越しの金を持たないというが、子どもでもそうなのだろうか。
「私は結局、大学にはいかず、専門学校に進むんですが、こちらも、なかなか気が入りません。とくに居酒屋のバイトを始めてしまったもんですから、朝3時に帰宅という日がつづいて、正直にいえば、1年で学校にいったのは10回くらいで、結局、退学してしまいました」。
今思えば、居酒屋が専門学校だったのかもしれない。「この時、お客様から、『この仕事に向いているね、キミ』って言われるんです。あの一言がいまに生きていると思うんです」。

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2016年11月17日木曜日

11月15日、千葉商科大学にてネオ・エモーションの桑田士誉社長が講義されました。

11月15日、千葉商科大学・サービス創造学部池田ゼミにてネオ・エモーションの桑田士誉社長が講義されました。
事前課題「6つの事例検証」を7チーム(2〜3年生30人強)に分かれて学生たちが自分たちの考えを発表し、桑田社長がそれに関して説明されました。
濃いです。
(池田ゼミの学生さんと桑田社長)
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11月16日、インターシップに来てくれた文京学院大学の報告会に参加させてもらっています。

本日16日、文京学院大学の報告会に来ております。
8月22日から2週間、文京学院大学の学生2名(大内君と片山君)と京都女子大学の学生1名(鈴木さん)のをインターンシップとして受け入れました。
文京学院大学様とはもう4年以上なります。
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2016年11月15日火曜日

株式会社ゼットン 代表取締役社長 鈴木伸典氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ゼットン 代表取締役社長 鈴木伸典氏登場。
本文より~

「たばこ」と父の鉄拳制裁。

鈴木氏は、1971年10月23日、岐阜県の現山県市に生まれる。
「山県市は繊維の町で、うちの家も祖母の代から縫製加工業を営んでいました。父は苦労人で、母と見合いで結婚し、婿養子として事業を継ぎます。私自身は、小さな頃から裕福な家庭だったものですから、苦労知らず、でした。勉強もできたし、小学校の頃から児童会長などの役職にも就いていました。周りのみんなが、持ち上げてくれていたんだと思います」。
中学でも成績は良く、みんなに慕われた。高校は、自由な校風に惹かれ「岐阜北高校」に進学する。
「父との思い出はいっぱいあるんですが、いま思い出すのは、高校1年の時のことです。たばこを吸っているのがばれて、目の玉が飛び出すくらい往復ピンタを食らいました。いま思えば、あれだけはったら、父の手も痛かったはずですよね」。
もともとは温厚なタイプな父親なのだという。
「でも、あの時は違った。父親は小さな頃から苦労しているから、社会のルールに従わないと烈火のごとく怒りだすんです」。

「嘘はつくな」「友だちは大事にしろ」。父親はそう言いつづけたそうだ。その躾が、いつしか鈴木氏の背骨となり、からだを貫くようになる。

DCブランドと鈴木氏。

「大学は愛知大学へ進みました。大学ではアルバイト三昧です(笑)」。高校時代から、洋服が好きだった鈴木氏は、当時、流行っていたDCブランドショップで勤務する。
「ファイブフォックスのコムサデモードです。大学1年の時から3店舗を掛け持ちしていました。というのも、アルバイトなんですが、売上が群を抜いていたんです。それが評価されて、社員が休みの時になると駆り出されるんです」。
「名古屋パルコでしょ。岐阜パルコと、栄ノバっていうDCブランドの商業ビルがあって、その3店をぐるぐる、ぐるぐる(笑)」。
服も好きだし、面白いように売れたから、仕事が楽しくないわけはなかった。そのうえ、会社からの評価も高い。しかし、人間関係にイヤケがさした。
「私が担当していたのはレディースだったんです。スタッフは大半が女性です。う~ん、ちょっと…、いや正直に言えば、当時は、かなりドロドロしていました」。
それで退職し、今後は、喫茶店でアルバイトを開始する。喫茶店というと古めかしい響きだが、こちらも、コムサデモードに負けずおとらず時代の最先端だったようだ。「いまでいえばカフェのハシリですね。名古屋でも有名なお店でした。この店で勤務していたことで、稲本とも出会うんです」。

クラブ・ディスコで出会った1人の青年。

「ナンパのための基地としていたクラブ・ディスコがあって、その店のバーテンダーが稲本だったんです」。
当時、「プリンセス大通り」は、夜になるとナンパ通りと化していたそうだ。喫茶店で勤務していた鈴木氏は、友だちとともに、夜な夜な、このナンパ通りに出没する。その時、行動の起点となったのが、そのクラブ・ディスコだった。
「稲本は、当時、プロダクト・デザインの仕事していたんですが、夜になるとクラブに現れ、バーテンの仕事をしていたんです。その時、初めて彼と出会いました。彼は、名古屋造形短大出身。現在の専務も、同じ大学で、稲本とは先輩・後輩。当時、稲本が25歳で、現専務が23歳。私が21歳の時でした」。
20歳を超えたばかりのとんがった学生をみて、稲本氏はどう思ったのだろう。2人は、しばらくして、打ち解けるようになる。
「私は、父との約束で『出会った人を徹底的に大事にしろ』という言いつけを守っていましたから、稲本との出会いも絶対大事にしようと思っていました。とはいえ、こんなに長い付き合いになるとは思ってもいませんでしたが」。
出会いは、人を育てる。ただし、それは、いかに、出会いを大事にするかで決まるのかもしれない。

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株式会社ゼットン 代表取締役社長 鈴木伸典氏
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2016年11月8日火曜日

アウトバックステーキハウス株式会社オーエムツーダイニング 代表取締役社長 伊丹俊彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”アウトバックステーキハウス株式会社オーエムツーダイニング 代表取締役社長 伊丹俊彦氏登場。

大学合格まで。

「大阪の吹田市で万国博覧会が開かれた時は、ちょうど大阪にいた」と伊丹氏は子ども時代を振り返る。「1970年ですよね。小学4.年生でした」。太陽の塔を中心に、各国の館が並び、日本中から人が訪れた。アメリカ館の「月の石」をみるために、数時間におよぶ行列ができたそうである。
もともと伊丹氏は、岩手県で生まれている。小野田セメントに勤めていた父が、典型的な転勤族で、東京、富山、大阪、ふたたび東京と渡り歩き、家族も転々とした。伊丹氏が言う通り、万国博覧会が開催された1970年は、ちょうど大阪で、しかも、開催市の吹田で暮らしていたそうだ。
「いまではマンションが林立したような街ですが、当時はまだ山もあり、田畑も多かった。遊び場には、苦労しませんでした」。なんでも、「万博につづく秘密の抜け道もあった」そうだ。
兄弟は、2人いる。伊丹氏が末っ子で長男とは7つ、次男とは2つ離れている。「上の兄2人が優秀だったもんですから、なにかとコンプレックスがあったのは事実ですね。もっとも高校までは、だれだれの弟っていうことで得していたような気もしますが(笑)」。
親子5人、落ち着いたのは、2度目の東京で暮らし始めてからだ。東京にもどったのは、伊丹氏が小学6年生の時である。「それからは転勤なしですね。あっても、親父1人の単身でした。両親はもともと、三重県。母方は、住職です。これは、のちに私の問題にもなるんですが、ともかく、小学6年生で東京にもどって、落ち着きます。中学を卒業するまでは、サッカーをしていました。次男がサッカーをしていたので、その影響です。ただし、兄の時とは違って、試合では1回も勝っていませんが(笑)」。
高校でも、サッカーをつづけようと思ったが、巧い選手ばかりで、「気後れして、入部を見送った」と笑う。「中学までは兄のあとを追いかけていたんですが、高校はそうはいきません。彼らとちがって、勉強もそうできなかったから。次男は、慶応に進みましたが、私は、明治。それも前日に、読んでいた箇所がそのまま出るといった奇跡もあって、です(笑)」。

就職と倒産。


「大学受験の時にはもう一つの選択肢がありました。さきほど言った母方の住職の話です。お寺を継ぐ人がいなくて、どうだということになったんです。いま思えば、悪くはないんですが、大学もそちらのほうに行かないといけないし、祖父には申し訳なかったんですが、辞退しました。いまそのお寺は、私たちとは関係のない方が住職をされています」。つまり、住職という道を捨てて、選んだのが、明治大学だった。
どんな大学生でしたか? と伺った。「そうですね。大学では、放送研究会に入りました。50人くらいいて、うち3分の1が女子です。あの頃は、真剣にスポーツアナになりたいと思っていました。野球観戦に行って、ネット裏で、1人実況中継を行っていました」。
ラジオを聴くのも、大好きで、それも勉強だった。スポーツアナをめざし、テレ朝を受検したが、惜しくも不合格。スイッチを切り替えた。
「それで就職したのは、TVとはまったく関係のない、大沢商会(一部上場企業)です。入社できたのは良かったんですが、2年目くらいの時に倒産してしまいます。1部上場企業の大型倒産でしたから、当時は、結構、大きな波紋を呼びました」。
配属されたのは、経理だったから、ある程度、推測できる位置にいたが、それでもまだペイペイである。「そうですね。倒産するとは思っていませんでした。2月に倒産し、残務処理やなにやらで5月くらいまでは勤務していました」。
ところで、伊丹氏は「転職マニアだ」と自嘲するが、これが、最初の転職の引き金となった。

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2016年11月1日火曜日

株式会社千里 代表取締役、面白法人カヤック 顧問 湯澤大地氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社千里 代表取締役、面白法人カヤック 顧問 湯澤大地氏登場。
本文より~

父と少年。

母の出身が奥多摩だった。夏になると、その奥多摩に行き、アマゴ釣りなどに興じた。
父は、鎌倉市の大船で中華料理店を営んでいた。その父について、湯澤氏は「先見の明があった」と語っている。中華料理店を出店する一方で、回転寿司や吉野家とフランチャイズ契約を結んだ。
「まだまだフランチャイズが一般的ではなかった時。吉野家にしても、フランチャイズビジネスは、まだアーリーステージの頃でした」。
「事業欲がつよかった」とも言っている。「とにかく、投資ですね。バブルの頃には見事に踊った口でした(笑)」。最盛期に、店は60店舗まで拡大した。「100億円をめざす」。それが父の口癖だったそうである。
ところで、湯澤氏が生まれたのはバブルのはるか以前。出身は神奈川県である。兄と妹、弟の4人兄弟。仲のいい兄妹だった。むろん、裕福である。「外食も良く行っていたほうです。デニーズができた時も、早速親子で出かけました。父と接する時間は多くありませんでしたが、短い時間でも、いい思い出ができるように気を使ってくれていました。それがわかるから、やっぱりいい父ですね」。
そんな父親の教育方針は、自主・自立。
「つまり、放任ですね。兄が良くできたぶん、弟の私は、規格外でもいいかと思っていたんじゃないですか。中学時代に、ともだち5人と自転車をこいで、2泊3日の旅行に行ったりしましたが、特別、注意もされませんでした」。

自転車でかけた中学時代、アメリカに向かったのは、高校1年の時。

中学時代の話。
「私は、出会った1人のともだちにすっかり魅了されました。彼は、自転車競技をやっていて、私もいっしょにレースに出たりもしました。それで、自転車旅行にもでかけたりもしたんです」。
箱根まで往復100キロの日帰りも、決行した。中学生でなくても、かなりの距離である。ともだちと5台の自転車をならべ、走り抜いた。山中湖にも向かった。手製のテントをひろげ、樹海で泊まったこともあるそうだ。
「もし、彼と出会っていなかったら、絶対、そんな旅は、やっていませんよね。そういう意味でも彼は、私の人格形成のなかで、重要な役割を果たしてくれたと思っています」。
何にも縛られない自由な生きざま。それが、中学時代に、湯澤氏がみつけた人生のコアではなかったか、と思う。高校に進学して、さっそく、海外に向かったことも、顕著にそのコアの影響が表れている。
「そうなんです。高校に入ってすぐに、アメリカに向かいます」。
湯澤氏は、長男ではなかったので、父の料理店を継ぐ気はなかったそうだ。しかし、父のほうはどう考えていたんだろう。兄と弟を違ったように教育する。それは、いずれか1人でも、という計算があったからかもしれない。父親が渡米を勧めたのも、弟、湯澤氏に兄とは異なる期待を寄せていたからかもしれない。
「向かったのは、アメリカと南米です。とくに南米は、たのしかったですね。たぶん、自転車で、箱根や浜名湖まで出かけた中学生の時代に、冒険心も育まれていたんでしょう。向こうではバイトをしながら、糊口をしのいで、約2年半過ごしました」。
アメリカはもちろん南米は、湯澤氏の期待にたがわず、冒険に満ちていたはずだ。いったん、冒険を終え、帰国した湯澤氏は、父が経営する会社に入社した。
冒険は終わり、現実の日々が始まった。

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株式会社千里 代表取締役、面白法人カヤック 顧問 湯澤大地氏
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2016年10月26日水曜日

10月25日発行の日刊ゲンダイに旭鮨總本店株式会社の丹羽豊社長が掲載されました。

10月25日発行の日刊ゲンダイの“社長の私生活”に旭鮨總本店株式会丹羽豊社長が掲載されました。

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日刊ゲンダイに気になる記事が出ていました。

日刊ゲンダイに大変気になる記事が出ていました。
私どもは人材採用(求人)の仕事をしていますが、飲食業界の大手2社比較では、1人採用するとその生涯給与額は1.5億円~2億円強かかるようです。

いろんな企業様の採用お手伝いしていますが、皆さん高い買い物している感あまりないですね。
来る人拒まず、よく聞きます。
理由は採れないかなとか・・・。

でも、最初にお金かけてでも人材を集めてを選んで採ならければ、後あと高くつきます!!
人の性格や資質はそんなに変わりませんからね・・・。
最初に投資されるか、後に投資されるか。
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旭鮨總本店株式会社 代表取締役 丹羽 豊氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”創業90周年の旭鮨總本店株式会社 代表取締役 丹羽 豊氏登場。
本文より~

やりだしたら、途中で逃げない。それが流儀。

群馬県国定村。今では伊勢崎市となっている。この国定村に、丹羽氏が誕生したのは、1956年である。兄と妹に挟まれた次男坊。運動神経が良く、中学時代から始めた卓球で群馬県の郡大会で優勝している。
「高校は前橋商業に進学しました。卓球が強い学校で、インターハイにも9年連続で出場しているような学校でした」。県立だから、むろん推薦で入学はできない。にもかかわらず同期には、中学時代に全国大会で1位や2位になったような選手がいたそうだ。
「そういう奴がいたもんだから、1年の時は入部を見送ったんです(笑)。でも、さすがに何もしないというのもなんだから、2年になって入部します。もともと巧い選手ばかりでしたし、1年の遅れがあったもんですから、なかなかいい成績は残せませんでした」。
それでも、当時は3年連続インターハイに出場している。県では群を抜いたチームだったのだろう。「練習は、それなりにきつかったですね。辞める奴も結構いました。私は2年からですが、最後までちゃんと続けました」。
1年のブランクは、肉体的にもハンディキャップとなったはずだ。おなじ練習をしても、疲労度は、1年分、異なる。それでも、やりだしたら、途中で逃げない。それが、丹羽氏の流儀なのだろう。
これから先を進めていくわけだが、我々は、度々、その流儀に、驚かされることになる。

旭鮨総本店で、寿司職人になるための、見習い期間がスタートする。

「私が鮨屋をやろうと思ったのは、なんといえばいいんでしょうね。何もやりたいことがなかったから、っていうのがいちばん正しい気がしますね」。
丹羽氏が鮨屋に入る経緯はこうだ。
「もともと鮨屋でバイトをしている奴がいたんです。もちろん、群馬で、です。そいつが『高校を卒業したら、東京の鮨屋で仕事を始めるからついてきてくれ』っていうんですね。それで、私もついて行って面談もいっしょに受けたら、家に帰った時には、その鮨屋から合格通知が届いていたんです」。
その鮨屋が、その後、40年以上勤務することになる「旭鮨総本店」である。
「それで、さっきも言ったように、『これだ』っていうものがなかったから、『鮨屋でもいいか』って、私が就職して。いっしょにいった奴は、結局、地元の鮨屋ではたらくことになったから、私1人が東京に向かうことになるんです」。
高卒で、鮨屋というのは、当時、どういう選択肢だったんだろうか。丹羽氏が18歳とすれば、1974年のことである。1970年、万国博覧会が開催され、食文化においても、「マクドナルド」や「ケンタッキー・フライド・チキン」が日本に登場する一方、「すかいら~く」などのファミリレストランも台頭する。飲食店の経営が近代化されていくのも、この頃からだ。
しかし、鮨屋は、まだまだ旧態依然とした、伝統文化に染まったままだったに違いない。鮨職人も、むろん徒弟制の時代だったはずである。
「旭鮨の創業は、1927年ですから、私が入社した頃ですでに50年ちかく経っていました。いわゆる老舗です。いい寿司職人がいて、その技を代々、受け継ぐことで、はじめて成り立つ商売ですから、私たちも、ある意味ちゃんと育てていただきました。いまはもう、そういうシステムではないんですが、当時は5年です。5年続ければ、見習い終了です」。
5年といえば、ずいぶん長い期間だが、伝統の技を受け継ぐというのはそういうことなのだろう。
「私の同期は、8名です。実は、この8名が全員、5年の修業を終え、見習いを卒業するんです。その後も含めていままでの90年間で、全員が辞めずに卒業したのは、私らが唯一なんです」。
いい勲章である。8人は寮生活。数名が1部屋でいっしょに生活した。どんな話をしていたんだろう。へこんだ仲間がいれば、励ましあい、逆に、いいことがあれば、全員で喜びあった、そんな関係だったに違いない。いずれにしても、「やりだしたら、途中で逃げない」という丹羽氏の流儀はここでも貫かれている。

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2016年10月19日水曜日

株式会社壱OR八 代表取締役会長兼社長 増子竜一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社壱OR八 代表取締役会長兼社長 増子竜一氏登場。
本文より~

パレスホテル入社、3年はしがみついてやる。

増子氏は、1976年1月27日、東京都豊島区に生まれている。父親は自営業を営んでいたそうだが、増子氏が小学2年生の時に廃業し、一家は、小平に移り住んだ。
「父は、無口な人で、家では母が主導権をにぎっていました。私自身は小さな頃からかぎっ子で、保育園も、夕方まで残っていました」。勉強はしなかったそうだが、スポーツには精をだし、中学卒業までサッカーを続けた。
高校は立川にある男子校。普通科だったが、大半の生徒が就職するような学校だったらしい。「飲食もいいかな、と思ったのは高校時代で、トレンディドラマに出ていたお洒落なお店を観て、憧れたのがきっかけです(笑)」。
三者面談で、「ホテルマンは、かっこいいぞ」と先生に勧められ、立川にオープンする予定の「パレスホテル」に入社を決める。ただし、思い通りにはいかないもので、最初の半年は、本社勤務となる。「本社で、何を勉強しろと言われたと思います? ふつう英語とかでしょ。でも、私が言われたのは、日本語でした(笑)」。
たしかに、と思う。今どき、大学をでても、ただしい日本語を操れる人は少ない。しかし、本人にとってはどうだっただろう。ともかく、「3年は、続けてやる」と思っていたそうである。

2つの店での、修業時代。

「私が配属されたのは、宿泊部です。TVで観たのは、格好いいバーテンダーだったんです。バー部門への異動を何度も希望したんですが、辞めるまでずっと宿泊部でした(笑)」。
それだけではないが、結局、4年でホテルを退職した。飲食業が念頭にあったのだろう。当時、吉祥寺で人気店だった、「チャールストンカフェ」のオープニングにスタッフとして参加する。これが22歳の時である。
「今では、住みたい町№1になって、すっかり昼間の町って印象ですが、当時の吉祥寺は、まだ夜の町だったんです。風俗もあったし、飲みや繁盛した。私も酒が好きで、吉祥寺って町も好きだったもんですから、吉祥寺で仕事を探しました。『チャールストンカフェ』は朝まで営業するカジュアルなイタリアンです。アルバイトからスタートして4年、勤務し、次に『ワイズテーブル』で勤務します。『サルヴァトーレ』の前身となるバール部門に配属され、こちらで2年間勤務しました。大きな声では言えませんが、当時は15時間勤務です。家にも帰れません(笑)。ただ、それで、仕事の筋肉がついた、と感謝しています。ともかく、これで、ホテル時代から数えて10年です。28歳で独立という目標も掲げていましたので、会社が上場する前だったんですが、2年で辞表だし、退職しました。」。
「チャールストンカフェ」も「ワイズテーブル」も、いい経験になった。「チャールストンカフェ」では、今なお、尊敬する先輩にも出会った。
「全体を盛り上げるというか、凄い人でした。その先輩に引っ張られるように、スタッフも、全員が真剣です。みんなで飲みに行っても、仕事の話。悔しくて、泣き出す女の子もいたほどです。それでも、チームワークは抜群。今でも、いちばん仲がいい連中かもしれません。そういう店をつくったのが、その先輩だったんです」。
いろんな意味で薫風を受け、刺激も受け、独立までの日々が過ぎた。「私は、料理人ではないんで、何をするかは、ある意味、フリーハンドです。バーもいいですが、とにかく料理をだす店をつくりたかった。それで、目をつけたのが、リゾットだったんです」。
「もともとイタリアンだったから、イタリアンといえばパスタやピザの専門店だな、と思っていた時に、アレ? リゾットがないぞ(笑)って。ふつう2~3品はあるでしょ。しかし、リゾット専門店がない。リゾットは、具によって何通りにも広がる楽しい料理なんです。よし、これで勝負しよう、と思い立ちました」。

初期投資は1500万円。

「ワイズテーブルを退職して、オープンするまで半年以上かかっているんです。というのも、なかなかいい物件がみつからない。だから、その半年は、パチンコ店でバイトをしていました(笑)」。
ようやく見つかったのが、吉祥寺の駅からそう遠くないビルの地下1階だった。「駅からそう遠くはなかったんですが、イタリアンをここでする? ってロケーションだったんです。イタリアンだから、女の子がターゲット。でも、近くには、風俗街があって、呼び込みのお兄さん方の横を抜けきらなければ、来ることができない(笑)。それでも、今思えば当時は、そういう町だけど、元気があり、人が多かったのも事実です。オープンするなら吉祥寺だと決めていたもんですから、ようやく空いた物件を手放すわけにはいきませんでした」。
家賃は安かったが保証金が20ヵ月とべらぼうだった。
「もともと四川料理店の居抜きだったんですが、内装が気に入らなくて、ぜんぶやり直しました。それで、かかったお金が1500万円です」。手元にあった軍資金は、300~400万円。残りは、金融公庫と信用金庫から借り入れた。「担保がたいへんだったんです。それぞれ500万円ずつの融資を受けたんですが、代わりに、実家を担保にしろ、と。そりゃ、親は納得できなかったし、猛反対です。父親が、事業に失敗しているから尚更です」。
土下座をして、事業計画書をみてもらって。ご両親にすれば、家を担保にすることはもちろんだが、事業リスクを背負う、その意味を、息子に教えたかったのだろう。
10年という時間の経緯を知っていても、迂闊な返事はできるはずがなかった。しかし、ご両親は、息子のやりたいという思いを尊重されることになる。

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2016年10月14日金曜日

株式会社クリエイト・レストランツ 代表取締役社長 池田 宏氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社クリエイト・レストランツ 代表取締役社長 池田 宏氏が登場。
本文より~

中学入学2日目、「大きなお世話だ」と吠えた。

今回ご登場いただく、株式会社クリエイト・レストランツ、代表取締役社長、池田宏氏は、1960年、山形県酒田市に生まれる。4人家族の2人兄弟。兄とは3つ離れている。
「子どもの頃から、影が薄かった」と池田氏は笑うが、中学入学して2日目、3年生に呼び止められている。本当に影が薄ければ、こうはならないだろう。
「入学して2日目です。3年生が『なまいきな奴だ』と言ってきたんです。『なんなんだ、こいつは』と思って『大きなお世話だ』って怒鳴り返しました。そこまではまぁ、よかったんですが、怒鳴り返したとたん、容赦ないパンチが飛んできて、ボコボコにされました(笑)」。
相手が悪かったそうだ。
「5年後、後楽園ホールで開催されていたボクシングの試合を観ていたら、その先輩というか、3年生がリングに上がって試合をしていたんです。そう、プロボクサーの卵だったんです。そりゃ、勝てません」。
未来のプロボクサーに吹っ掛けられたとはいえ、2学年下、しかも入学早々噛み付いたのだから、池田氏の中学生時代がほぼ想像できる。負けん気というか、怖いモノ知らずの性格もまた想像できる。

初ステージは、50円。ほろ苦いプロデビュー。

高校卒業、母の勧めもあって「東北電力」を受験し、内定をもらう。
「そうですね。あのまま、東北電力で勤めていたら、また違った人生だったでしょうね。むろん、内定をもらっていたんで就職するのが当然なんですが『いざ、就職か』と思うと、なんだか「まだ、働きたくないな』って思いが頭をもたげてきて。それで、内定を辞退して、3年生の年末から今までしてこなかった勉強を、なんとか開始して翌年、東洋大学に進学しました」。
 東洋大学を選択したのは、2人の好きな卒業生がいたからだ。植木等氏と、坂口安吾氏である。「今の人にはピンと来ないかもしれませんが、植木等は当時有名な歌手で、コメディアンです。坂口安吾は小説家です。私は、この2人を先輩にしたくて、東洋大学に進み、植木さんのようになりたくて、音楽サークルに入部します」。
 先輩が歌を歌い、池田氏がギターを弾いて、やがてプロデビューもした。もっとも、プロといっても観客1人に対し、100円支払うような契約だったらしい。「初ステージは悲惨でした。まだゼロのほうが、ある意味マシですよね。観客は1人。ステージが終わって、100円をもらって、2人で分けました」。1人50円のほろ苦いプロデビュー。母には、冗談で「ミュージシャンになる」といったが、信じてもらえるはずもなかった。

日本ケンタッキー・フライド・チキン、入社。

東洋大学を卒業した池田氏は、日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社(以下、ケンタッキー)に就職する。何ができるのか、何をしたいのかが、自分でもよくわかっていなかったので「成長している会社」に就職したのが正直なところだそうだ。
ケンタッキーは、1970年3月、日本に登場する。同年7月、三菱商事とKFCコーポレーションの出資により日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社が誕生。同年、11月21日、名古屋市のダイヤモンドシティ・名西ショッピングセンター内に1号店がオープンする。しかし、華々しいデビューとはいかず、半年で1号店は閉店に追い込まれている。
このあたりの経緯は、初代店長であり、のちに社長に就任される大河原毅氏を通し、お伝えさせていただいている。飲食の戦士たちの姉妹サイトであるクロスαをご覧いただきたい。
ケンタッキーは神戸三宮の「トアロード」に出店した4号店で、火が付き、軌道に乗る。池田氏が就職したころは、もっとも元気だった時代だろう。
三菱商事という商社がバックにある。資金力も、ネットワークもある。様々な事業も打ち出した。「私は、9年間、ケンタッキーで勤務します。最後の半年は、ハワイで勤務していました。ケンタッキーを辞めたのは、ピザハットを立ち上げることになったからです」。むろん、関連会社である。現在は、ともに日本KFCホールディングス株式会社の傘下に収まる企業である。

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株式会社クリエイト・レストランツ 代表取締役社長 池田 宏
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2016年10月12日水曜日

10月11日発行の日刊ゲンダイにラー麺ずんどう屋の橋本龍八社長が掲載されました。

10月11日発行の日刊ゲンダイの“社長の私生活”にラー麺ずんどう屋のZUNDホールディングス」橋本龍八社長が掲載されました。
首都圏版しかいつも見てないのですが、関西・中部地方はモノクロなんですね・・・。
(ZUNDホールディングス橋本龍八社長)

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