2020年8月31日月曜日

株式会社TGAL 代表取締役 河野恭寛氏登場。

本文より~

「やっちゃん同盟」

広島市内だが、山の上だから田舎だったと河野氏は笑う。今回、ご登場いただいた株式会社TGALの代表取締役だ。ご両親は、中華料理店を経営されていた。
「親父はマツダからの脱サラ組。私が生まれた頃にはもう、中華料理店を経営していたそうです。私自身は小さな頃から、やんちゃ坊主でした」。
「やっちゃん同盟」というのをつくって、そのなかで、ガキ大将を務めていたそう。40人規模だったというから驚く。小学からサッカーをはじめ、高校までつづけている。
「中学になると釣りにもハマりました。高校でもサッカー部に入っていたんですが、休みがなく、試合をさぼって釣りに行ったこともありましたね/笑」。
高校は、名門、広陵高校。そりゃ、きびしいはずだ。
「やっちゃん同盟の時から、そうだったんでしょうが、性格的にはガキ大将なんです。高校の時だって、上級生に意見するようなタイプでしたからね。ただ、さぼって釣りに行った翌日は、反省の意を示すために、丸坊主に。案外、律儀な性格でもあったような/笑」。

目標は100台な。上司の一言。

高校時代、成績はつねにトップクラス。テストは満点。大学は指定校で法政大学に進む。
「東京に行きたいという思いがつよかったですね。当時から、起業したいとも思っていました。大学2年時から、経営のゼミに参加。経営者の本を読まされて、それが刺激になった気がします。バイトは40以上やりました。いろんな仕事をみておきたいと思ったからです」。
卒業後、「光通信」に就職されるんですよね?
「そうです。新卒で入社して5年間在籍します。実戦形式の教育でした。私の場合、いきなり代理店5社を担当させられましたから/笑」。
右も、左もわからない。研修もない。今なら、そっぽを向かれる教育スタンス。しかし、だからこそ自走できる社員が育ったのではないか。少なくとも手を取り、足を取りではこうはいかない。
とはいえ、半年もたたず福岡へ行かされ、すぐに大分へとばされる。同意はほぼなしだ。
「大分ではいきなり店長です。店と、目標だけ渡されます。『目標は100台な』って。もう必死です。半年ほど休みも取れなかった。店長といっても、1人です。あの手この手で、目標は達成しましたが」。
ただ、その会社に5年。やはり律儀だし、根性も座っている。

どん底ってあるんですね。河野氏の一言。

「当時、役員の1人が独立して、会社をつくります。私は、しばらくして、そちらに転職するんですが、ここからがけっこうきつい/笑」。
なんでも、パニック障害になったそう。じつは、そればかりか、片目が見えなくなり、足の難病にかかったそうだ。
「どん底ってあるんですね」と河野氏。
仕事がハードだったからではない。いわばスタートアップ企業。「やるからには、でっかくしてやる」という思いがつよかった。だが、うまくいかない。
「転職して、給料も半分に下がります。仕事ばっかりだから、離婚もしました。精神ももう、ボロボロで」。それまで、だれよりも息巻いていた河野氏が会社にもでてこなくなる。
「1ヵ月か、2ヵ月くらいですかね。そんな時、当時のメンバーらが、うちまで来てくれたんです」。心配する彼らに、精神を病んでいること、離婚したこと、あるけないことも正直に告げた。それでも、彼らは河野氏をみすてなかった。
「現在のうちの役員になっているのもいるんですが、あの時はメンバーたちに救われました。彼らと会話し、よし、もう一回やってやろうって」。
閉じていた心が開いたと河野氏は表現する。
「彼らがいなければ、どうなっていたかわからない」としみじみと、そうも、語った。
いまも独眼だが、あるくことに支障はない。何より、あの時、彼らと約束したように独立し、設立からまだ10年未満だが、FC含め84店舗を展開し、すでにシンガポールなど海外進出も果たしている。
じつは、河野氏はバーチャルキッチンと言っているが、いま注目されているゴーストレストランのサービスをコロナ前からはじめている。発想も広くて、ユニークだ。
このバーチャルキッチンは、フードデリバリーをイメージするとわかりやすい。フランチャイズオーナーは、30種類以上のブランドから数種類(いつでも、いくつでもOK)をチョイスし、オープンする。デリバリーだから3等立地でも開業可能で、スペースも5坪からOKだから、開業資金はそうかからない。
低投資は、いまのトレンド。個人限定だが、黒字店舗を引き継ぎ、0円で開業できるプランも用意しているというから驚きだ。
このフランチャイズビジネスが、設立10年未満で84店舗にまで急伸した理由の一つだ。ただし、急伸はしたが、まだまだゴールは先。このビジネスのポテンシャルから考えれば、まだ始まったばかりと言えそうだ。
認知度があがり、ブランドがより多くなれば、消費者にとっても、これほどうれしいことはない。「TGAL」。「テガル」だから、時代が欲している。
・・・続き

2020年8月26日水曜日

『飲食の戦士たち』、8月26日(水)、商標登録の手続完了しました。

2008年2月15日より本格的にスタートした『飲食の戦士たち』ですが、800連載の達成を機に本日8月26日(水)、商標登録の手続完了しました。
『飲食の戦士たち』のスタート時から、商標登録のタイミングみてました。
次の展開に、活用します。

2020年8月20日木曜日

2020年8月18日火曜日

株式会社ルピナス・F 代表取締役 福本義博氏登場。

  in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ルピナス・F 代表取締役 福本義博登場。


本文より~

少年、福本氏の話。

イマジネーションも、貪欲も、「ルピナス」の花言葉の一つ。ルピナスは、古代のヨーロッパでも食用されいたそうで、薬草やビールのつまみなどにされたと言われている。
むろん、こんな話をするのは、今回ご登場いただいた福本氏が設立した会社の社名が「ルピナス・F」だから。Fは、福本のFでもあるが、フリーという意味もある。
2つをむすんで、「イマジネーションを制限なく」ということだろうか。
福本氏が生まれたのは1978年12月25日。大阪府堺市の出身。
「小さい頃、両親が離婚したこともあって、私は姉2人といっしょに祖母に育てられます。姉もいましたが、甘えられる人はいなかった。そういうことも影響したんやと思うんですが子どもの頃は引っ込み思案。からだも小さかったし、スポーツとか運動はできましたが、ジブンをだすのが苦手な少年というイメージだったと思います/笑」。
それでも、友達も少なくなかった。なにも言わずとも、人を惹きつけるタイプ。そんな人は、たしかにいる。
「中学の頃はアクション俳優になりたかったですね。それもあって体操部に入りたかったんですが、私らの代につぶれちゃって。3人でやらせてくれ直訴したんですが、駄目でした。中学時代ですか? ひととおなじことをするのがイヤっていうタイプになっていましたね。たばこは吸ったことがないですが、お酒は。ちなみに、うちたばこやだったんですけどね/笑」

営業のハードな経験で、仕事観がかわる。

小さかったからだが急に大きくなったのは、高校生の時。もともと運動が得意だったこともあって、スポーツテストでは校内でも4位になる。もっとも、勉強は不得意のまま。
「現場の仕事しかできないと思っていました。当時は、飲食もイヤだったですね/笑」。
それで内装の仕事ですか?
「そうです。姉の旦那さんの紹介で入って。でも、半年で辞めてしまうんです」。遅刻も常習だったそう。ほかの内装の会社にも入ったが、こちらはケンカして辞めている。
「人間関係がイヤ、現場の仕事もあかんと思って。今度はリゾート会員権の営業に転向します。でも、ここも半年で辞めています/笑」。
ただ、辞めたのはイヤだからじゃない。
「子どもができて。完全歩合でしたから、不安定だったんです。これじゃいけないと」。
ただし、この半年で、仕事観がかわる。1ヵ月休みなくはたらくなど、ハードな経験によって、いままでとはちがった自信も生みだされていた。
「自分の子供を命をかけても守る母親の愛情のようなパワーが誰にでもあること。そしてその引き出し方というのも、この時に教わりました。じつは、これは私の一つのテーマになります」。

つぎは、飲食だ。

「この時、つぎは飲食だと。ただ、動機はほめられたもんやないですね。営業とちがって、飲食ならお客さんが向こうから来てれると思ったんです。営業にはさすがにちょっと疲れてもいましたから/笑」。
それが、ラーメンですか?
「いえ、お弁当屋さんです。ともだちのお父さんが経営されていました」。
たしかに、弁当ならお客さんが向こうから来るイメージつよい。
「で、半年くらい経った時、『五苑』のフランチャイズをすることになって、私が研修に行きます。ただ、最初の店では、研修に行ったにもかかわらず店長にはなれなかったんですけどね/笑」。
店長になったのは?
「2号店です。1号店は40坪で月商750万円。2号店は70坪80席で月商1800万円。客単価2300円くらいでしたから、それなりの数字です。それからも、じつは新店をだすたびに駆り出されます。ラーメンにであったのは、その時ですね。その時も、塩ラーメンやったんですが、お客さんからは『薄いわ』ってよう言われました。そりゃ、醤油や豚骨と比べたら薄い/笑」。
それでも、この店も繁盛店にした。20代前半の話というから驚く。

28歳、独立。

独立は28歳。あるラーメン店のフランチャイズで起業する。
「可もなく不可もなくですね。やることは、やっていましたから。私は思うんですが、飲食は経営者がふつうにやれていれば、だいたいうまくいくもんです」。
ラーメン以外で、やきとりも出店した。
「4年目くらいの時ですね。まだ、フランチャイズの契約中だったんでラーメンはできなかったんです。もっとも、いままでも、いろんな業態を立ち上げてきましたから、不安はゼロでした」。
頭を打つことはなかったんだろうか?
「そうですね。頭を打ったというわけではないですが、5店舗になってくると、さすがにセンスだけやったらあかんのちゃうかなと思って、経営塾に通って経営の勉強をはじめます」。
飲食といっても経営はむろん数字でできている。原価率、人件費率、正しい経営の下には、正しい数字がなくてはならない。その一方で、近年、仕事環境もクローズアップされている。
「労働環境と一口にいっても、改善するのは簡単やない。うちも、なんとか改善し、お休みも週休2日を取り入れようとしていた矢先に、今回のコロナです」。
経営者なら、だれもがぶつかった3文字。いや、過去形ではない。生活様式がかわれば、飲食もまた、それに合わせかわらなければならないのかもしれない。
「ほんとそうです。うちも、デリバリー、テイクアウト、通販。クラウドファンディングもしましたし、SNSもしていますし、YouTubeもしています。私が、飲食に入る時に思った、お客さんが来てくれるっていう発想。あれは、これからもう通用しないんとちゃいますかね」。 たしかに、時代は、もうちがうのかもしれない。
続き
(取材 天川美保)

2020年8月12日水曜日

祝800回 ライブコーヒー株式会社 代表取締役 大塚 徹氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” ライブコーヒー株式会社 代表取締役 大塚 徹氏登場。

本文より~

空襲を聞く。

好きになることは以外と難しい。コーヒーも一緒かもしれない。今回、ご登場いただいたのは、コーヒー豆の老舗ショップ、ライブコーヒー株式会社の代表取締役、大塚徹氏。
大塚氏が生まれたのは、1940年。その翌年に日本は、英米に対し宣戦布告している。
「私の両親は、神戸でぜんまいのつくりかたを教える仕事をしていました。国内はもちろん海外でも行っていたようです。戦後は、組合の長にも就いていました」。
父親は180センチ、体重100キロの堂々たる体躯の人だったらしい。「怖かったですね」と大塚氏。「もっとも父も怖かったが、母もまた怖かった。母は、聖路加国際病院の初代看護婦なんです」。
3歳の頃の思い出は、空を飛ぶ敵機。音が近づく度に、空襲警報がなる。太平洋戦争は1945年に終戦するから、大塚氏が5歳の時。街は焼け野原になるが、のち強烈なスピードで、復興を遂げ、近代国家の道を進む。
「父からは勉強せず好きなことをしろと言われ育ちます。私が大学に進んでいないのも、それが理由です。父から商売をしろと言われ、大阪の、赤いダイヤ、これ、小豆ですが、そういうのや、ゼンマイやらを扱っている店で丁稚奉公をはじめます。住み込みで、月給3000円。朝4時起きです」。
丁稚奉公だったが、大学に進むよりいい経験ができたにちがいない。この頃すでに、「コーヒーのビジネスをしたいと思っていた」と語っている。

20歳、東京に参上。

「東京のど真ん中は中央区でしょ。だって、そういう名前だし。でも、そうじゃないんですよね。中央区といったって、ど真ん中じゃない」と、上京した当時の話を伺うと、そう言って笑う。
大阪で2年間の丁稚奉公をしたのち、高い志を抱き、東京進出。「仕事をするなら、東京のど真ん中」。だから、中央区で仕事を探す。
「友達の寮でお世話になって、中央区の中を歩きます。その時、就職したのが『ライブコーヒー』とともに先代がされていた、もう一つの事業である『とらや商店』です。先代とはもちろん、そこで出会います。私が20歳の時です」。
先代はどんな人でしたか? と伺うと、「厳しい人だったが、なんでも自由にやらせてくれる人だった」とのこと。無論、商売人の鏡。どんなお客さんに対しても、謙虚な人だったそう。海外に何度も行かせてくれたのも、先代。感謝は尽きない。
とにかく、大塚氏、20歳。コーヒーを追いかける大塚氏の旅がスタートする。

コーヒー豆の味は、大地の味。

「コーヒーは、深煎りだとしても甘みが残っているかどうか。ブラックといっても、ただ、苦いだけではない」と教えてくれたのは、3代目となることが決まっている川島氏。大塚氏と同様、社長の大塚氏とは何の血縁もなく、「アルバイトからスタートした」という。
「私だって、血縁もなにもなく、社長に抜擢いただいたんですから。彼が社長になっても、うちでは普通。伝統かもしれませんね」と大塚氏。ただし、コーヒーを嗜む流儀はちゃんと伝わっている。
「コーヒー豆の味は、大地の味」と大塚氏はいう。だから、国ごとに味が異なる。「あと大事なのは、太陽」。収穫後の乾燥でも豆の味が決まるそうだ。
「綺麗な水、肥沃な大地、雨期乾期も大事」という。だから、赤道直下、またその周辺にある国が、栽培にも適しているのだろう。
直接、それぞれの国に行き、コーヒーを飲み、吟味する。それが、大塚氏の仕事でもある。
「私は、砂糖を入れる派なんですが、1日に何十杯も飲むわけで、それだけ飲んで砂糖を入れていたらからだに悪いでしょ。だから、10杯目以降は、ブラックかな/笑」。
好きな豆はどこの国の豆ですか?
コーヒーを知り尽くしている人には、誰もが聞いてみたい質問だろう。即答されると思ったが、大塚氏は、聞かれたくないのか、しばし答え方を探し、沈黙する。

・・・続き

ライブコーヒー株式会社 代表取締役 大塚 徹氏



2020年8月5日水曜日

MAJIMA株式会社 代表取締役社長 眞島充友氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” MAJIMA株式会社 代表取締役社長 眞島充友氏登場。
関西エリアは私と同じくらいインパクトある(笑) 天川が取材させてもらっています。

本文より~

充友。名は体を表すか。

ともだちで充たされるように「充友」と名付けられたと眞島氏は笑う。小学3年生になると、名前の通り、ともだちが周りに充ちるようになる。当時は、サッカー選手。「親父も長嶋世代で、私も野球が好きだったんですが」。案外、流されるタイプだったらしい。
「野球は中学になってからですね。高校は、登美ヶ丘高校と奈良では真ん中くらいでしょうか。その高校に進みます」。新設校で、眞島氏は4期生。勉強はできないほうじゃなかったが、いつのまにか、眞島氏のあとには、成績順でいえば1人の生徒がいるだけだった。「そりゃ、大学進学もままなりません/笑」。
プロ野球選手をめざしたこともあったらしい。しかし、普通の公立校ではなかなかそのレールには乗れない。「1浪して進んだのが、近畿大学です」。
近畿大学といっても夜学。かろうじて滑り込んだ格好だ。だが、多少なりとも、それが人生にプラスになっている。「仕事をして、勉強もしようという人たちです。そこらへんの学生とは、いろんな意味で違います」。
眞島氏も、勉強とバイトに打ち込んだ。

ロン毛で、ピアス。

「私の人生の、最初の師に出会うんです」。バイトの話をうかがっている時に、師の話がでた。師は、ロン毛で、ピアス、推定50歳。「植木屋の大将です。この人がとにかく、格好いい。ロン毛で、ピアス。たばこではなく、パイプです/笑」。
大学3年時の話。師に倣って、眞島もたばこをやめパイプにしたそうだ。
「なにが格好いいかって、スタイルもそうなんですが、生き様ですよね。植木屋なんですが、塀などの外壁もやっていたんですね。ある時、ようやく一つの塀が完成したんです。私らが、『できたぁ~』と一息ついていたら、『コワセ!』です。いい意味でも、悪い意味でも職人のなかの職人ですよね。それでいて、ロン毛で、ピアスっていうのが、ギャップがあって、またいい/笑」。
仕事がある日は、昼飯も、風呂も、晩飯と晩酌までもいっしょだったらしい。当然、大将のおごり。「もともと私は公務員になりたいと思っていたんです。なんたって、楽ちんそうでしょ。でも、言われちゃうんですね。『白シャツして、いやな上司に従って、それでええんか』って」。
師は心の自由を語ったのだろう。眞島という人間を、同類と思っての一言だったのかもしれない。もっとも大学3年生の時に、眞島氏は、夜間から通常の学部に編入。白シャツをめざしたわけではないが、ちゃんと就活もしている。

コネも効果なしだった就活戦線。

「植木屋のバイトもそうなんですが、バイトを通してだんだん社会っていうのも理解できるようになるんですね」。父親に勧められ、はじめたスナックの仕事も、社会勉強になった。
「ついでにいうと、そのスナックに通っていたお客さんが、会社も紹介してくれたんです」。最初に受けたのは、関西電力や中部電力など3~4社。公務員ほどではないが、安定志向である。
「でも、ぜんぶ落ちちゃって。そしてら、スナックのお客さんらが紹介してくれるんです。えっと、ね。たしか、ライオンとアサヒペイントと、キーエンスだったかな」。
ぜんぶ、落ちた? 
「ええ、そうなんです。当時は、コネがあれば、受かったりしそうなもんなんですが…」。紹介してくれた人に悪いことをした、と眞島は笑う。
「仕方がないので、ともだちがやっていた建築系の会社に就職します」。ダンプを動かしたりもしたそうだ。「植木屋の時もそうなんですが、ものづくりが楽しかったんですね。とはいえ、大卒でしょ。周りからしたら、それだけで気に入らないっていうかね。精神的には、しんどかったです。ただ、3年したら会社が潰れちゃって。仕事も、なくなってしまいました」。
眞島氏、25歳。

青年社長に憧れて。

この時、眞島氏ははじめて本を読んだという。題名は「青年社長」。ワタミフードサービスの創業者、渡邉美樹氏のサクセスストーリーを追ったノンフィクションである。
「衝撃を受けました。でも、その時は、感動しただけで、いつのまにか忘れかけていたんですが」。
偶然だったそう。「2000年の8月です。そろそろ職に就かないと、と、就職情報誌を買ったんです。で、開けたページが。なんだったと思いますか?」
ひょっとして、「和民」の募集のページとか。
「正解です。偶然でしょ。あれ、これどっかできたことがあるなって/笑」。聞いたことがあるな、と眞島氏がいうのも無理もない。当時、奈良はもちろん、関西にまだ「和民」はなかったからだ。
「つまり、あの渡邊さんの会社の関西進出。その1号店の募集だったんです。直接、渡邊さんともお会いできるかもしれないでしょ。青年社長って、どんな人なんだろうって。そりゃ、興味津々です」。
父親がめずらしく猛反対したそう。「夜の仕事でしょ。それに、サービス。そういうのが気に入らなかったんでしょうね」。
しかし、反対を押し切り、入社。最初の配属は、横浜。

ワタミフードサービス、入社。部長に駆け上がる。

先を急ぐと、眞島氏はワタミフードサービスで頭角を現し、あの大所帯で部長職に登り詰めている。
「大阪に帰りたい一心でがんばったのが功を奏したんでしょうか。関西1号店の立ち上げのメンバーに抜擢いただきました」。
部長が店長、課長が副店長を務めるという異例の人事だったそう。「それだけ、ちからを注いだわけですね。もちろん大繁盛です」。「こんなに流行るんや」、はたらきながら、そんな感想を口にしたそう。
「それから、2号店の店長をさせてもらって」。
その当時の仕事ぶりを、評価してもらうと「5点満点で2点」とのこと。何より、初めてのマネジメントに苦労したそう。しかし、それを乗り越え、エリアマネージャーに昇格。こちらを2年つづけ、30店舗を統括する部長に。じつは、九州エリアの立ち上げも、眞島氏が行っている。
しかし、好調だった業績にかげりも生まれ、先輩たちが次々、会社を離れる。独立支援制度を利用した先輩たちも多い。
「それに倣ったわけではないですが、私も最初に店長を務めた関西2号店で、委託の店長を務め、翌年35歳で正式に独立します」。
ホームページの沿革から抜粋すると、<2010年6月1日、語らい処「坐和民」淀屋橋店フランチャイズ契約スタート>ということだ。
「3年でお金貯めて買い取りなさい、というのが会社のスタンスでした。そして、始めたのが『炉暖』です。独立するオーナー向けのパッケージでした。夫婦2人でも独立できる小箱。既存のメニューを6割程度というルールはありましたが、あとは自由だし、店名だって、自由。私は、あったかみのある店名にしたくて、暖炉をひっくり返して店名にしました。そうです。だから、『炉暖』」。
・・・続き
(取材 天川美保)

7月3日(金)より夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」にて3連載で“ゆで太郎システム”様掲載しました。

7月3日(金)より夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」にて3連載で“ゆで太郎システム”様掲載しました。
(7月3日発行 電子版カラー)

(7月10日発行 電子版カラー)
(7月17日発行 電子版カラー)