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2025年8月12日火曜日

株式会社WAS 代表取締役 宇野優司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社WAS 代表取締役 宇野優司氏登場。

本文より~

大学進学までの、勘違いと気付きと。

「大きな勘違いだった」と笑うのは、今回、ご登場いただいた株式会社WASの代表取締役、宇野 優司さん。
「小学校って、学年順位も公表されないでしょ。私の通信簿はオールAだったし、スポーツでも、それ以外でも目立っていたから天才くらいに思っていて、将来は東大だと(笑)」。
宇野さんは1992年1月に静岡県の沼津市に生まれている。なんでも「沼津生まれ、裾野育ち」なんだそう。お父様は大手企業勤務のサラリーマン。ゴルフにもいそがしかったが、食べるのがお好きだったんだろう。土・日には家族を連れて外食を楽しんだ。
宇野さんが飲食に進む、背景の一つだという。
中学に上がった宇野さんは冒頭の話通り、大きな勘違いに気づくことになる。
「中学になると学年ごとに順位がでるんです。私は内心、将来、東大生だと思っていましたから、当然、1位だろうと。でも、結果は12位だったんです」。
愕然とした。
「でも、この時にはまだ、私にはサッカーがあったんです」。
12位でも凡人からすれば悪くはないが、宇野さんはあっさり東大の道は忘れ、今度は小学生時代トッププレイヤーだったサッカーにのめり込む。
「そんなにつよい学校でもなかったんです。だから、私がトップスターで、みんなをひっぱっていました」。
これも、勘違い。ただしくいうと、井の中の蛙。
「高校に進むと、サッカーもけっしてトップじゃないことに気づきます」。
<上には、上がいる?>
「そうですね。スポーツもそうですが、勉強が得意なやつもたくさんいましたし、サッカーも巧いやつがたくさんいて、レギュラーでもなかったです」。
ただ、サッカーで汗を流したことは無駄じゃなかった。
「サッカーを通し、食がスポーツのパフォーマンスに影響することを知って、それで『食』の世界に進むことに決めたんです」。
大学では「管理栄養士」の資格が取得可能な学部を専攻。勉強のためだといって、ドイツ・フランスにも渡っている。もちろん、無事、「栄養士」の資格を取得。これが、今の強みの一つとなっている。

Globridge入社と代表の大塚誠さんとの出会い。

宇野さんは大学時代を、「濃厚で、貴重な4年間だった」と表現する。
「じつは、サッカーを引退してからの半年間、初めて猛勉強したんです」。
なんでも1日10時間が日課だったそう。
「それでも、国公立は落ちちゃったんですが、勉強がふつうになり、勉強する体力がついたと思うんです。だから、大学に進んでも勉強が苦にならず、わりと勉強熱心な学生だったと思います」。
アルバイトでも、学んだ。
「バイト先は4年間おなじで、フレンチ出身のオーナーから、食のイロハ、料理の哲学を教えていただきました」。
  たぶん、新鮮だったのだろう。栄養学と料理を真摯に学んだ。
当時の話を聞くと、少しずつ、今の宇野さんがリアルなカタチになっていく。
「大学では、8割が女子ということもあって、例えばバーベキューをしようとなったら私に声がかかるんです」。
みんなのリーダー。今度は、勘違いではなかった。ちなみに、現在、WASの副社長は大学時代の友人、スタッフには、当時の後輩が5人いる。
「大学時代に飲食を経営するノウハウまですべて頭に刻みこんだと思っていました。これも、勘違いといえば勘違いだったんですが」。
宇野さんは、起業をめざす学生たちに人気の、先進的な飲食企業「株式会社Globridge」に就職する。(Globridgeについては、コチラを御覧ください。)
当時、採用に注力していたGlobridgeには、新卒50人が入社する。起業家をめざす、野心のある学生たちだ。
そのなかでも、当然、トップランナーをめざして走り出した宇野さんだったが、ふたたび挫折を経験する。
「成績は配属に左右されますし、いくらでも言い訳はできるんです。実際、分析もできています。ただ、楽勝だと思っていたのにトップじゃないことに愕然としました」。
宇野さんはそういうが、トップか、トップではないことにどれだけのちがいがあるのだろう。宇野さんは飲食に進んだ最終的な理由を、「私の生活の横にはつねに食があったから」と言っている。
栄養士の資格を取り、食品加工系の研究室では、素材から缶詰をつくる研究もしてきた。深い知識をもとめ、大金をはたいてドイツ・フランスに渡り、学んでいる。
もとフレンチのオーナーから教わったことも、トップになることではなかったはずだ。それでも「トップを取れなかった」と悔しがる宇野さんは、狙わなくても、トップを穫れるくらいに思い込んでいたのかもしれない。
それとも、宇野さんがいうトップとは、比較対象として位置づけられるトップではなく、登るべき山の頂きのようなものなのだろうか。
ともあれ、悔しがる宇野さんを評価した人がいた。 Globridgeの代表である大塚誠さんだ。

Globrideの5年間と、世界のDELLと。

<Globrideには、合計何年いらしたんですか?>
「5年です。最初の3年間は正直、消化不良でしたが、4年目からオーストラリアの新事業にタッチさせていただき、状況がいっぺん」。
異国での事業の立ち上げ。
宇野さんともいっしょにオーストラリアに渡り、現在、オーストラリアでも事業を行っている、現「株式会社REBEL」の代表取締役、堀場健太さんにも、この飲食の戦士たちにご登場いただいている。
「5年目、堀場さんは、そのまま向こうに残りますが、私は帰国し、今度は、大塚さんの下で新事業にかかわります」。
すべてが勉強だった。
「私の人生のなかで、大塚さんとの出会いはやはり大きい。 もちろん、1年ですが異国での経験もいい勉強になりました」。
「オーストラリア人は、はたらかない!」と、宇野さん。「でもね、ビジネスはちゃんとまわっているんです」と笑う。
国民性の違いだけで片付けてはいけないが、スタッフも、お客さんもただひたすら楽天的で、明るかった。
「日本じゃ、とくに飲食は、24時間365日はたらくという印象があるでしょ。それが、全然違った。でも、そのなかでも、私たちは日本の飲食人の代表選手のように、24時間365日はたらいていました。そのギャップのおかげで、私のなかに芯のようなものができた気がします」。
5年のうち、最初の3年は、凹みつづけた3年。その後の2年は、「思ってもいなかった世界へ、代表の大塚さんが連れて行ってくれた」という。
「辞めるときも大塚さんと食事をして、叱られるんじゃなく、逆に激励していただいて」。
起業家を育てるという大塚さんにとっても、望むところだろう。ただし、宇野さんは起業に走らず、転職する。その先がユニークだ。
世界のDELLである。

異文化での挫折と、起業。

「当時はまだ、飲食で起業しようとは思っていなかったんです。ただ、BtoBの経験がなかったもんですから、そのピースを埋めようと。それに、今からは何をするにしてもITを知らないといけないと思って」。
「食がつねに私の隣にあったので飲食で、今仕事をしていると言いましたが、ビジョンは、日本の文化を世界へ発信すること。これが、テーマです」。
<だから、世界のDELLだったんですね?>
「そうです。内定いただいたなかで、いちばんスケールも大きかったこともあって」。
<このあと起業ですね? これは既定路線ですか?>
「もともとは30歳までDELLで勉強するつもりだったんですが」と宇野さんは苦笑する。
「私にとっては、DELLもまた異文化だったんです。まわりとの歯車が噛み合うことがなく。不本意でしたが28歳で退職します。そのあと、じつはアメリカの企業からオファーを受け、海を渡る予定だったんですが、コロナ禍となり、アメリカ行きが実質上、不可能になりました。これが、今、飲食の世界にいる直接的な理由です」。
<どういうことだろう?>
「アメリカ行きを断念しなければいけなくなって、どうしようかと迷っているときに、オーストラリア時代の上司、現在はREBEL社長の堀場さんにオファーをいただいたんです」。
<それが、飲食だったんですか?>
「そうです。堀場さんとREBELの日本国内事業の立ち上げを、3か月(2020年の4~6月)取り組みました。コロナでの緊急事態宣言下のバーチャルレストラン事業でした。そして、私自身、起業の思いがあったので、同じくコロナ禍の下でしたが、2020年の10月14日に株式会社WASを設立します」。
ホームページで宇野さんはつぎのように、創業の背景を語っている。
<株式会社WASは、“温故知新”の理念のもと「日本の伝統を世界に発信し、未来へ感応させる。」という想いで創業しました。>
その日本の伝統とは、「UMAMI」である。

・・・続き


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2022年1月21日金曜日

合同会社笑う門には福来る 代表 菅原広行氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に合同会社笑う門には福来る 代表 菅原広行氏登場。


本文より~

荒川区町屋に生まれた少年。

山形から父親が上京したのはいつの頃だろう。「集団就職で上京したのではないか」と菅原氏はいう。仕事は印刷関連。その頃から町屋で暮らしている。まだまだ町屋が下町だった頃。
菅原氏が生まれたのは1976年。「あの頃と比べると高いビルが建ち、駅前もおしゃれになった」と笑う。下町といっても、当時からビルがあったのは、さすが東京だ。
小学校は30人3クラス。中学も同規模。多いとみるか、少ないとみるか微妙なところ。「小・中はリトルリーグやクラブで野球をしていました。ポジションはショート。高校に進学してからは準帰宅部です」。
どうして野球をつづけなかったのだろう。
「硬式の野球部があればよかったんですが、軟式しかなく。いちおうバトミントン部に籍は置いていました」。だから、準帰宅部。バトミントン部に入部したのは、「女の子のお尻を追いかけて」とこちらを笑わす。
「勉強は、ぜんぜん好きじゃなかった。大学進学も最初から頭になかったくらいですから。バイトは高校時代から始めていて、ピザ屋や東京ドームでコーラを売ったりもしていました」。バイト代は月数万円になったが、すぐにパチンコ台に飲み込まれた。
「今思うと、あの頃は、やることがなかったんでしょうね」。やりたいこともなかった。だから、就職も父親の紹介で印刷会社に簡単に決めている。
町工場の印刷オペレーター。これが菅原氏の最初の仕事。「24歳で退職していますから、合計6年間くらいいた計算になります」。印刷機と向き合う菅原氏は、何を考えていたんだろうか?

オペレーター→営業→飲食→トラックドライバー、そして、ふたたび。

「印刷の仕事の傍らで、アルバイトもしていました。仕事に慣れた20歳の頃からですね。酒代や、サーフィンやスノボーにもお金がかかりましたから」。
営業をやってみようと思ったのは、単純な作業が苦になってきたから。転職先は、光通信関係の会社。コピー機のセールスが仕事。勇んでチャレンジしたのはいいが、思ったようには売れない。「月に2台くらい」と笑う。結局、こちらは1年で退職している。
「次の就職先がみつかるまでと思って、カラオケ店でアルバイトを再開します。その時、新たにダーツバーをやることになり、立ち上げから参加させてもらったんです」。
飲食の楽しさを知ったのは、この時と菅原氏は言っている。「独立もしたくなりましたね。ただ、ダーツバーにいたのは27歳までです」。
独立も視野に入れ、飲食への思いを膨らませた菅原氏。しかし、次に選んだのはトラックドライバーだった。「28歳で結婚するんです。飲食は給料がよくなかったので、結局、飲食を離れ、トラックドライバーに転身します。そうですね。ハードな仕事でしたが、年収は550万円くらいありましたから、飲食とは比較にならなかったです」。
この仕事を33歳までつづけている。今度は、どんな理由で退職するのだろう。

自己資金ゼロで独立?

「じつは、ドライバーをしながらも、なんとなく独立したいと思っていたんです。当時、サーフィンをやっていましたから、いずれ海の近くでお店をやりたいなと。ただ、なかなか人間、踏み出せない(笑)」。
そんな時、リーマンショックで年収が100万円くらい下がってしまったそう。「稼ぎたくても、稼げない時期がつづいた」と菅原氏。
それが、菅原氏の背中を押すことになる。
「もうひとつ、家を買おうと思って、方角などを占い師にみてもらった時に、『人の上に立つ仕事があっている』って言われるんです。それも引金になりました」。
「飲食」×「独立」。キーワードが重なる。むろん、もう33歳。遠回りはしたくない。目標は、海の近くに飲食店を出店すること。ただ、どの道が海までつながっているかわからない。
「いちおう面接は5社受けて、合格したのは2社。お給料のいいほうを選択しました」。すでにお子さんもいたから、生活のためを思えば、給料が基準になってもおかしくない。
「蕎麦と地酒、饂飩と焼酎のお店を都内に6~7店舗もっている会社です。ダーツバーにいた時に、焼酎にハマって、『焼酎の利き酒師』の資格をもっていたもんですから、給料だけではなく、そういう点でもいいかなと思って」。
現実的かつ、理想的な選択。ただ、独立という目標がある。そちらはどうだったのか?「独立のセミナーにちょこちょこ参加していたんです。ある時、そのセミナーで『自己資金ゼロで独立』という謳い文句と出会うんです(笑)」。
それが、グロブリッジとの出会いだったそうである。

独立。一号店、オープン。

「グロブリッジさんのお店もまだ5店舗くらいの時です。その時は、希望者である私たちがグロブリッジで4ヵ月間研修を受け、5ヵ月目に新店の立ち上げを行い、初月の成績が目標をクリアすれば合格となり、無利息でお金を貸していただけるというスキームでした」。
晴れて、合格されたんですね?
「おかげ様で、研修では昼間、経営を勉強し、夕方からお店で実践を積みます。新店では、アルバイトの採用からぜんぶ行いました。それ自体、いい経験ですし、その時、お会いした代表の大塚さんには、今も感謝しています」。
大塚氏は<「株式会社グロブリッジ 代表取締役社長 大塚 誠氏」第310回>で、「飲食の戦士たち」にもご登場いただいている。とにかく、6ヵ月後には、グロブリッジから資金を借り、巣鴨に一号店をオープン。思ってもいなかった展開となる。
ただし、フランチャイズだからといっても、安パイではない。独立までも大事だが、それ以降がもっとも大事だ。「どうにかこうにか」と菅原氏は笑う。
「何もないところから一つひとつが生まれ、お店ができて、リピーターがつく。ダーツバーの立ち上げで経験したことが、いまの私の原点だと思います」。
店づくりが、面白いということだろう。それは、実践できた。菅原氏が言う通り、お店も、どうにかこうにか軌道に乗った。
菅原氏が上記のスキームで独立を果たしたのは35歳の時。2号店は2~3年後に出店したとのこと。2022年1月現在は巣鴨、錦糸町、町屋に3店舗運営している。すでに、グロブリッジとのフランチャイズ契約は終了。店名も今は「笑う門には福来る 巣鴨店」だ。

新たな狼煙。

<東京・荒川区の下町、町屋。焼肉の超激戦区として全国に名を轟かすこの地に、「炭火焼肉ホルモン 笑う門には肉来る 町屋店」が、新たに狼煙を上げました。>
こちらは、「Makuake」のプロジェクトの一つとして始まった「雲丹×和牛 うにく」に掲載された紹介記事。記事通り、2021年10月、町屋に炭火焼肉ホルモン店がオープンした。
菅原氏は独自の仕入れルートがあるんだという。芝浦の食肉市場で社長をしている友人が、その独自ネットワーク。巣鴨店で好評のレバテキやもつ鍋も、そのルートから仕入れた食材だそう。これは、強い。ただ、一方で、焼肉業態は設備面など投資もかかり、参入のハードルが高い。
「こちらも友人なんですが、横綱三四郎という焼肉店を経営し、コンサルタントもしている人がいて、彼にアドバイスをもらいながら準備を進めました。資金面では、事業再構築補助金に申請し、1000万円、お借りしました。ただ、合計2000万円ちかくかかりました」。
コロナ禍の下、簡単にできる投資ではない。むしろ、「思い切った」と表現したほうがいいだろう。結果がでるのは、いうまでもなく、アフターコロナの時になってから。
とはいえ、「Makuake」をみるとわかるが、すでに注目度は抜群。ちなみに、この「うにく」では、雲丹専門店とコラボレーションし、雲丹と和牛のマリアージュを追求しているとのこと。二大食材のコラボと言っていいだろう。 将来に話をふると、「農業」の二文字がでてきた。すでに、埼玉県の春日部で無農薬野菜を育てているそうだ。最後に、そのお話もうかがった。

・・・続き

合同会社笑う門には福来る 代表 菅原広行氏

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2020年6月9日火曜日

株式会社Non-Stop Dining 代表取締役社長 工藤 徳将氏/岩崎 純平氏登場。

本文より~

竜馬に刺激され、工藤氏は、海を渡る。「次は帰ってくるな」は、岩崎氏の親父の一言。

「わしには、天がついちょる。」
「竜馬がゆく」のなかで、司馬遼太郎は坂本竜馬に、そう言わせている。この「竜馬がゆく」を、人生のターニングポイントに挙げる人は少なくない。
今回、ご登場いただいたNon-Stop Diningの共同経営者の1人、工藤氏もその一人だ。
「私は、小学校の頃から県の選抜に選ばれるような、サッカー少年だったんです。勉強もわりとできた方で、高校はサッカーで有名な県立八千代高校に進みます」。
もちろん、めざすはJリーガー。「日本のゴールはオレが守ると思っていたんですが、、高校時代、ライバルにまけてしまって。ええ、初めての挫折ですね。これじゃ、プロにもなれない、とじつは2年くらいで部も辞めてしまいます」。
目標を見失う。
「大学もいろいろあって1浪します。そのとき、『竜馬』という人を知ります。ええ、もちろん、『竜馬がゆく』を読んで、です。竜馬と比べたら、ぐちぐちしているオレってなんて小さい奴なんだって。はい、そうです。このあとアメリカに渡るんですが、それも竜馬の影響ですね」。
工藤氏は、1浪のあと、語学学校に留学し、のちにカリフォルニア大学に進んでいる。カリフォルニア大学といえば、ソフトバンクの創業者、孫正義氏の出身校でもあるそうだ。
その頃、もう1人の共同経営者である岩崎氏は、キャバクラの黒服だった。「私は、石川県の小松市出身です。高校を卒業して、いったん小松製作所に就職するんですが、そのあと東京へ。20歳から黒服を、そうですね、1年3ヵ月くらいしていました。それからは、田舎と東京を行ったり来たり。3回目にとうとう親父から、次は帰ってくるな、と/笑」。
目標がなかったわけではない。何かをやりたいと、漠然と思ってはいた。
「それ、つまりやりたいことが、なかなか形にならなかったんでしょうね。すぐ上の兄は、石川で料亭に就職し、そのあと東京のプリンスホテルに転職したりするんですが、私には、そういう具体的なプランもなかった」。
とはいえ、寝ずに3ヵ月で100万円をためたりしている。ガッツは、むろん、あった。「24~26歳くらいまでは、上野にある和食の店で料理の修行をしました」。
この頃にはもう、「独立」という文字が頭にあった。「工藤とは、グロブリッジという会社で出会うんですが、私がその会社に就職したのは、3年で独立させる、というフレーズに惹かれたからなんです」。

ベンチャーで、2人が出会う。

「大学を卒業したのは24歳です。じつは、大手の食品メーカーや電機メーカーにも受かっていたんですが、それらを袖にして、中堅のメーカーに就職しました」。
工藤氏の話を聞くと、「大手だからいいとは限らない」という発想ができる軸をもった学生だったことがわかる。「就職した会社は、いちおう中堅クラスだったんですが、いきなり副部長からスタートさせていただきました。もちろん研修があって、その後に副部長としてという流れです」。
ただ、1年とちょっとで辞めている。
「そうなんです。約束通り、管理職として仕事もさせていただくんですが、上は上で、ちゃんと詰まっていて、そこから先に行くには、何年もかかると思ったんですね。それで、退職させていただきました」。
「大企業より、中堅だ」と思って入社したが、歴史のある会社で、キャリアアップするのは、やはり、なかなか難しい。ならば、と選択したのが、バリバリのベンチャー企業「グロブリッジ」だった。
「工藤と会ったのは、入社して1~2ヵ月くらいしてからですね。有楽町の立ち上げの時だよね」「そうです。ぼくらは同い年だし、転職した時期もだいたい同じなんです」。
知り合ったときの工藤氏の印象を岩崎氏にたずねると、とにかく、熱量がある奴という答え。横で、工藤氏が「私の、岩崎の印象もまるでいっしょ」と頭を上下する。
2人は、当然、いい友になり、いいライバルにもなる。
「私は、1年くらい経って海外事業部に配属されるんです。オーストラリアのシドニーで2年ちょっとかな」。
「ぼくらは2人ともグロブリッジに合計3年半くらいですから、岩崎は、大半、向こうですね」。
「当時は、いわゆるそういう時代でもあったので、仕事もかなりハード。厳しかったですね。それでも、辞めようとは思わなかった。もちろん、独立はしたいと思っていましたから、店を黒字化したときに、一度、上司にその話をしています」。「売上でいえば、ぼくら2人がたいてい1位か、2位だったよね」「そうだな。昇格も早かった。2人とも早くから店長会議に参加するようになっていて、独立の話をしたのは、会議のあととかだったよね」。
日本と海外と離れていたが、思いはおなじ。「連絡は、もちろん取り合っていました」。やがて、グロブリッジを卒業する日がくる。ベンチャー企業を卒業し、ベンチャー企業をつくる。2人の戦いが始まる。

2つのエンジンを搭載したベンチャー企業。

ホームページを観ると、トップページに「創業から4年間連続で成長率200%の急成長。ワクワクする未来を自分の力で切り開く」という文字が掲載されている。
この取材を行ったのは、2020年。2人が独立してまだ4年目のことだ。早くも4業態、6店舗を出店している。描く目標もバカでかい。「でっかい夢を描いて何が悪い!?」、これもトップページに書かれた一言だ。
「1号店を出店したのは2016年の1月です。ええ、それが、『蔵どり』門前仲町本店です。今年で4年目ですが、業績は、おかげさまで好調です。正社員の募集も開始して、いま13名くらいかな」「そう。まだまだですが、社員を採用するとね。やっぱり、大事にしなくっちゃ、と思います。平均年齢は、30ちょいかな」。
給料は33万2千円。悪くないというより、いい。すごく、いい。
「私は、大学時代、アメリカに渡って、外に出たからか愛国心っていうのが、すごくあるんですね。日本のなかにいたらわからない。岩崎もオーストラリアに2年いましたから、そういうのは、わかってくれると思うんですが」。
「私は、海外といっても、仕事漬けでしたからね。日本とそうかわらない/笑」。
それでも、2人は意気投合している。
「ひょっとしたら、最終の目標が違うからかもしれませんね。私は、日本をよりよくしたいんですよ、もっと盛り上げたい!って感じで。その手段が、私の場合は飲食でして。なので、最終は飲食業をもっと誰もが憧れる仕事にしたいなって。」「岩崎は、ブランドをつくるのが好きなんです。工藤に比べると現実的ですが、10業態10店舗を目標にしています」。
創業10年で年商10億円。これが最低の目標だという。株式の上場も、むろん、視野に入れている。「今年は4億円くらいですね」。今年を入れ、あと7年、難しい数字ではないだろう。
とはいえ、飲食の仕事は、難しい。カベにぶつかることもあるだろう。その時、隣に友がいる。それは、何より心強い事実。いわば、二基のエンジンを搭載しているようなものだ。だから、止まらない。ノンストップで、この会社は駆け上がっていく。
・・・続き