2018年6月26日火曜日

有限会社プロスパー 代表取締役 伴 克亘(ばん かつのぶ)氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社プロスパー 代表取締役 伴 克亘(ばん かつのぶ)氏登場。
本文より~

部屋に残された、6本の哺乳瓶。

首から下げた紙のボードには、母の字で行き先が書いてあった。幼稚園から小学校の低学年まで、長期の休みとなれば、初日から親戚宅に行くのがルールのようになっていた。「休みの初日に新幹線に乗せられて、登校日の前日に帰宅。それが定番」と、今回ご登場いただいた有限会社プロスパーの代表取締役 伴 克亘氏。
長期休暇になれば、京都駅のホームで1人、伴少年はボードを下げて新幹線を待っていた。それを「ヘンだ」と思ったことはない。「こどものことですからね。親戚の家に行くのも楽しみだし。なかには『ぼっちゃん1人でどこ行くの?』って言いながら、お菓子とかをくれたりする人もいたし…」。
親戚宅に向かう理由は、ご両親が仕事で忙しかったから。だが伴氏は「貧乏だったからだ」と表現する。「こどもの頃はぜんぜんそんな風には思っていなかったんです。でも、私の姉は、養女にだされていますし、住まいだって6畳一間。トイレ、風呂なし、です」。
伴氏は、生まれた時から「かぎっ子」だったらしい。両親は、6畳一間に伴氏と哺乳瓶6本を残して仕事にでたそうだ。おむつは、朝から母親が帰宅するまで、おなじもの。むずかって泣いても、だれも手を差しのべてはくれない。
「たまたま、哺乳瓶に気づいて飲んでいたんでしょうね。ごっつい生命力ですよね。我ながら/笑」。
むろん、哺乳瓶を一人で抱えて飲んだ記憶はない。しかし、「自立」という意味では、象徴的な話である。
「うちの両親は、親戚がやっている着物の染工場ではたらいていました。小学校の高学年になる頃には、私も手伝っていました。私の仕事は、親戚や工場のスタッフみんなで食べる晩御飯の用意です」。学校が終わると買い物籠を抱えて、商店街に向かう。肉に、魚に、野菜に。つまりは、買い出し部隊。
たいへんですね、というと、「ぜんぜん」と伴氏。馴染みになった肉屋のおばさんが、コロッケをくれたりしたそう。だから、せっせと買い物に向かった。もっとも近所の悪ガキにみつかり、せっかく貰ったコロッケを取り上げられたりもしたそうだが。
ところで、伴氏が購入した食材がテーブルにならぶと、とたんに争奪戦がはじまったそうだ。「はよ食べな、なくなるでしょ。16人くらいおるからね。そら、戦争ですわ」と伴氏は笑いながら、当時を思い起こした。

昭和の真ん中、その時代。

「貧乏だ」と言いながら、中学から私学に通っている。「そうですね。相当、無理したんとちゃいますか? 学校も大阪でしたし、私学に行くために、塾にも行かせてくれはりましたから」。
私学に進学はしたが、お金ができたわけではない。
「学校には食堂ってあるでしょ。うちの学校の食堂の食券は10円の綴りやったんです。で、端数がでるでしょ。それを貰いまくっとったんです。食堂のおばさんには『今日はきれいやなぁ』なんておべんちゃらを言うたりしてね。そういうたら、カレーを多目によそってくれはるんです/笑」。
食事にかかわる話は多い。
「ともだちの家に行くでしょ。そしたら晩御飯とか出してくれはるんです。その晩御飯が、もうぼくにしたら、レストランのディナーなんですよ。で、『むちゃむちゃうまいやんけ!』なんて言うてたら、お母さんが『毎日、食べにおいで』って。そりゃ、ありがたい話です」。
「そうですね。子どもの頃から誰彼なしに、可愛がって貰ったように思います。そういう才能はあったんだろうと思います。こいつちょっとかわいがったろか、みたいなね/笑」。
ともだちの弁当を分けてもらっていたら、翌日から2人分の弁当が用意されていたこともあったそうだ。昭和の真ん中は、そういう時代でもあったのだろう。

お客様は神さんです。

中学では卓球、高校ではアイスホッケー。「アイスホッケーなんて、大阪、ぜんぶ入れても3校しかありません。だから大阪大会では、絶対3位以内に入れるんです。うちは、弱かったから3位ばっかりでしたけど/笑」。伴氏はマネージャーだったらしい。
この頃は、「法律にも関心があった」と伴氏はいう。実際、大学も法学部に進んでいる。「そうなんです。法学部に進むのはええんですが、大学に進学して、初めてぼくは、うちが貧乏やと気づくんです。それで、迷惑はかけられへんから、学費も、生活費も、ぜんぶバイトで捻出し、仕送りまでしていました。だから、学生時代はバイト漬けなんです」。
当時の話を聞くと、バイトというイメージでは収まりきらない仕事ぶりである。「小さい頃から、勝手に料理をしていたんです。お袋が遅いとお腹が減るから。その料理を両親が食べて『旨い』ってホメてくれたこともあって。そういう原体験があったからでしょう。バイトは迷わず、飲食。当時、流行りだした『カラオケパブ』でバイトをはじめます。ぼくは、接客担当なんですが、そうですね、いちばんええ時には、月に40万円くらいもろてました」。
40万円。休みなくはたらいたのだろうと思っていたら、「自由出勤で、その額」という。なんでも、学生にもかかわらず、4店舗のマネージャーを務めていたそうだ。
「ぼく自身が楽しかったんやと思うんですわ。お客様ともいっしょに話もしますから、いろいろ教えてもらえる。啓発本っていう本があるのも初めて知りました。それに、話が盛り上がってきたらビールをぽんと開けて『のみぃや』でしょ。お金払ってもろて、いろいろ教えてもろて。なかには、休みの日に飲みに連れてくりゃはるお客さんもいたはりました。お客さんは、ほんま神さんです」。
「そうそう、思い出した」と言って、次のような話もしてくれた。「あいつにまけたくないとか、思うでしょ。でも、それって、勝ったら終わりやないですか。だから、『そんな仕事の仕方はあかん』って、お客さんに教えてもろたことがあって、ずいぶん長い間、ぼくの信念みたいになっていました」。
「なんのためにするか、ですよね。『お客様のためなら、一生やろ』って。そうですよね。たしかに、一生、終わることがない。貧乏もね。イヤヤ、イヤヤ言うてても、切りがあれへん。頑張って、貧乏やなくなっても、それで終わりでしょ。これ、真理ちゃいますか」。
・・・続き
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2018年6月21日木曜日

6月から入社の新人A君、入社13日で大手2社の社長取材のアポイント10社!!

6月4日から入社の新人A君、大手2社から社長取材のアポイント取ってくれ既に10社です。
3週間目に入ってますが15社取れるかな・・・。
今期2人採用し、この1年は人材を育てる期間と考えています。
会社設立して26年目でスタッフはベテラン揃いですが、営業マンは平均年齢27.6歳と勢いあります。
企業の将来、また人の人生を左右する求人。
キイストンの理念を継承させ、少しでも早く権限委譲やっていくため社内改革も進めています。

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2018年6月19日火曜日

有限会社トーホーエージェンシー 代表取締役 山崎一彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社トーホーエージェンシー 代表取締役 山崎一彦氏登場。
本文より~

妹の笑顔をみたくて。フライパンをふる。

角栄さんのお隣さんだったこともある。もっともこれは、羽振りがいいときのお話。6歳の頃、父親が事業を失敗してとたんに生活が苦しくなった。
2人いたお手伝いさんも、お抱え運転手ももういない。「私には8つ離れた姉と2つ違いの妹がいるんですが、母も仕事に出るようになってから、私が少しずつ妹のごはんを作るようになったんです。いま、思えばそれがすべてのスタートです」。
今回、ご登場いただいたトーホーエージェンシーの代表取締役 山崎一彦氏は、1970年、東京の深川に生まれる。父親方は、商売上手な人が多く、なかでも末っ子の父親は、経営のセンスで群を抜いていたそう。事業がいかに成功していたかは、上の話からも想像いただけるだろう。しかし、その父親が事業に失敗し、家を出ていくと、生活は前述通りいっぺんした。妹の笑顔をみたいと、せっせと料理をつくりだしたのは、それから。やがて山崎氏は、料理人になる。山崎氏が、妹のごはんづくりを指して、「それがすべてのスタート」というの頷ける話である。

リアルに感じたこともある。プロ野球の世界。

小学校の頃からだれからともなく慕われるタイプだった。あだ名は、会長。実際、生徒会長も務めている。作文を書いては、文部大臣賞を受賞。頭も良く、運動神経も群を抜いていた。野球をはじめるとすぐに注目され、中学ではシニアに進む。「でも、うちにお金がないでしょ。どうしても遠征なんかがあるわけです。だから、そのたびに風邪を引いたりして」。お金がないことを隠したかったわけではないだろう。たぶん、母親にも、チームメイトにも、気を遣わせないためだ。
山崎氏はそういう人である。
「高校はセレクションで、阿部選手も通った安田学園高等学校に進みました。最初は、『プロへ』という思いもあったんですが、それこそ、どこのチームでも四番、ピッチャーをやっていたような奴ばかりで。背番号は『3』でレギュラーでしたが、プロレベルでないことは、すぐに気づきました。大学進学ですか? ええ、進学せずに、就職です」。

かつての会長、就職する。

高校でも、山崎氏の周りには人がいつもいた。「不思議とどこにいても慕われた」と山崎氏。いまの山崎氏をみていると、当時のことが自然とイメージできる。「ええ、そうですね。オレが、オレがじゃないですね。どちらかというと周りを気遣う性格です」。
いま山崎氏は、アルバイトを含め、全スタッフの給料明細の裏側に気づいた一言を書き記している。もう、何年も前からつづけているとことだ。先輩、経営者を真似たわけではないらしい。はじめた理由をうかがうと、「ただ、『ありがとう』を伝えたくて」という返答。なんとピュアで、素敵な思いだろう。
この思いは、いまや山崎流の経営の背骨となっている。
ところで、話をもどすと就職の話である。
「うちの親父が8人兄弟の末っ子ってこともあるんですが、20歳くらい年の離れている従兄弟がいて、居酒屋を経営していたんです。そこに就職しました」。
従兄弟と言っても、特別扱いされたことはない。それがよかった。山崎氏は甘えることなく、修業をつづけ、ある人物と巡り合って、独立を果たす。これが、就職して17年経った35歳の時。その時、創業したのが、いまや大人気店の「鳥一代」だ。

お客様の心をわしづかみにした、オリジナル参鶏湯。

いまは本店となっている創業店は、JR田町駅(芝浦口)から徒歩2分の、ビルの2Fにある。「そうですね。路面店ではないので、『どうだろう』と思ってもいたんですが…」。
当初から、評判となった。特に参鶏湯をメニューに加えるようになってからは、TVや雑誌にもひんぱんに取り上げられるようなった。
そして、いまや参鶏湯専門店の様相だ。
「ありがたいことに、女優の川上麻衣子さんがいらして、絶賛いただいたんです」。
参鶏湯については、「実は、本をみて知ったんです。私は料理人ですから、鶏もさばけますし、鶏というのは、さばくと、とれる肉も少ないんですね。それで食材を無駄にしない方法を模索していた時に出会ったのが、この参鶏湯という料理だったんです」と語っている。
もっとも、山崎氏の参鶏湯には薬膳臭がない。薬膳は、当然、からだにいい要素の一つだが、あの独特の臭いが苦手という人も多いのではないだろうか。そういう人にとっても、山崎オリジナルは、受け入れられる。
グルメサイトの高得点も、このオリジナル性が評価されてのことだろう。
・・・続き
有限会社トーホーエージェンシー 代表取締役 山崎一彦氏
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2018年6月18日月曜日

女性セブンの表紙裏にまたまた、うちの武田が出ました。

6月14日(木)発売の女性セブンの表紙裏(表2・表2対向)にうちの武田がDHCの広告出てます。
武田から聞くところによると髪が洗練された色に染まり、持ちも抜群みたいです。
表紙裏とはすごいな。

日刊ゲンダイの『グルメ社長の食い倒れ日記』、デジタル版でも掲載。

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紹介された店舗、紹介する飲食社長、そして携わられる編集の皆さん。
まさに三方良しです。

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東大クイズ王伊沢VSとんかつ専門店“とんきゅう”クイズ対決動画アップされました。

東大クイズ王伊沢VSとんかつ専門店“とんきゅう”のクイズ対決動画が16日19時にアップされましたが、なんと丸2日で再生数10万超えました。
今、最も旬な伊沢君とつくば本社(元マイクソフト事務所)で17店舗展開しておられるとんきゅう様の動画作成に関係させてもらいました。
縁をつないでくれた現役医学生・ドクターNこと乗杉君に感謝!!
(伊沢君ピンチ?!)
 
                (日刊ゲンダイにも記事が・・・)
(弊社永野、風景撮ってます)
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2018年6月12日火曜日

株式会社ISSEI 代表取締役 浅田一世氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ISSEI 代表取締役 浅田一世氏登場。
本文より~

中学でスポーツの名門校に進学。

サッカーで有名な三都主アレサンドロや相撲で有名な朝青龍ともおなじ寮だった。調べればわかるが、ともに明徳義塾に留学。つまり、今回、ご登場いただいた浅田氏も、高知にある明徳義塾出身である。
浅田氏の生まれは京都。小学6年生まで京都で暮らす。中学に進学する際、独り高知に向かい「明徳義塾」に入学する。浅田氏は「海と海、山と山に囲まれた陸の孤島」と表現する。
中学時代は野球に専念していたが、高校で断念。カラテ部に進む。
「だれもかれもスポーツ選手でなきゃだめな学校なんです。私は中学から野球でしたので、そのまま野球部に進もうと思っていたんですが、1週間で心が折れて(笑)。だって、段違いの奴らばかりで。『あぁ、こういう奴らがプロに行くんだな』って。でも、野球部を辞めても、どこかの部に入らないといけない。唯一ウエルカムだったのが、空手部だったんです」。
これが、地獄のはじまり。二度とあの頃には戻りたくない時間がスタートする。

青春の香りは、シャンプーとリンス。

明徳義塾では、ほぼ全員が、寮生活を送ることになっている。むろん、浅田氏も、寮生だ。寮生活は6年間に及ぶ。中学の時は、それなりに楽しかったが、高校に進学してからは、「ヤバイ」の一言だったそう。
「なんていったって陸の孤島です。しかも、きびしい監視下に置かれての生活です。そのうえ、高校に進学する前、食堂から酒を盗んで飲んだことがバレちゃって。要注意人物のレッテルが貼られました」。
要注意人物だったが、かなりの人気者でもあったそう。当然、目立つぶん、上級生からも何かにつけ、可愛がられた。とくに寮の先輩たちは、ひどかった。いろんな先輩がいるなかでも、いちばん悪い奴に目をつけられた。空手部の2年上の先輩。
「ちっちゃかったんです。だから、からかうにはもってこいだったんでしょうね。いまでは、その先輩とも親しいんですが、当時といったら」。
先生たちの監視下に置かれ、先輩たちには、顎で使われたた。それでも、青春の1ページはあった。「洗剤っすね。俺たちの青春は」と浅田氏。「服も決まっているし、恰好つけようと思ってもできるアイテムがないんです。頭はみんな丸坊主だしね。唯一の楽しみが、洗髪の時のシャンプーやリンスなんです。あれのええ奴で、ね。ええ匂いがするでしょ、それが、唯一のおしゃれで」。
実は、禁断の山にも登ったことがあったそうだ。山の上にあるのは、女子寮。どうやっても、侵入できなかったらしい。こちらも青春の1ページ。ブランド物のシャンプーとリンスでキメて、頂をめざしたのはいうまでもない。
ちなみに、奥様も、実は明徳義塾の出身。1つ下らしい。「まぁ、いろいろあった中・高ですが、卒業する時には、さすがにウルウルきちゃいました」。
ところで、浅田氏は、空手でインターハイにも出場している。先輩が目をかけてくれたおかげでもある。「あんだけいじめられたら、そらぁ、つよなりますよ」。
浅田氏はそう言って笑う。卒業することで、たしかに少しだけ、笑い話となった。

肉が食えるんちゃうかな。未来の取締役は、そう思ってバイトを始めた。

「卒業したら駒沢大学に進学する予定だったんです。空手部のルートです。でも、それってヤバイでしょ。だって、そんな大学に行こうもんなら、あの、イヤな先輩たちがいるわけですから」。
それで、進学を断念し、「吉本」に入った。「吉本ってあの『よしもと?』」 「そう、あの『よしもと』です。1年間は関西、2年目に東京進出です。進出っていったって、時々、舞台にでるくらいです。アルバイトしないと生活もままならない。トラジのバイトをスタートしたのは、東京に行って1年が終わろうとしている頃ですね。それまで、どっちかっていうと、アルバイトっていっても独りできるような奴ばかり。だんだんさみしぃなってきて。みんながしているような『ふつうのバイトしてみよかな』って思うようになった時に出会ったのが『トラジ』です」。
貼り紙をみて、ココだと思ったらしい。「何しろ焼肉屋でしょ。肉、食べられるんちゃうかなって」。単純な動機だが、それで人生が決まるのだから不思議なものだ。
「ほんまですね。アレが俺のはじまりですもんね。それから、いうたら、ずっと肉です」。
ちなみに、浅田氏はトラジで取締役まで昇進。代表取締役社長 金 信彦氏の懐刀にもなる。

独立するも、独学でつくったラーメン、マズし。

「トラジを辞めたのは27歳の時です。その時には、取締役で、営業本部長も兼務していました。すると、会議ばっかりで、いうたら、会議室で缶詰です。そんなん、ぜんぜんおもろないでしょ。それで、社長に『辞めます』っていうんです。でも、なかなか辞めさせてくれへんかったけど、ある日、金さんから『飯でも食いに行こうかって、言われて』。そこで『わかったって』はじめていうてもろたんです。だいたい半年くらいかかりましたっけ」。
「それで独立?」
「そう、それで独立です。でも、焼き肉はあかんわけですよ。義理もありますから。それで、ラーメンです。インターネットで調べて、つくったんですが、みんなが『めっちゃマズい』って(笑)」。
「でも、まぁ、客はいないこともなかったんです。とくに深夜は。ただ、『ラーメン』はマズいからだれも食べない。つまみと、酒で、みんなとしゃべりに来て、帰らはるんです。ま、そんなわけですから、赤字です。それで、金さんにも了解してもらって、焼肉屋をはじめます。こっちは、俺のフィールドですからね。失敗するわけはない」。
実は、トラジからの支援はいまも受けている。トラジのセントラルキッチンを利用させてもらっているのは、その好例。1号店には、金氏も出資してくれているそう。
「あれがなければ、独立なんて無理だったですね。いま、資本は50%・50%です。金さん抜きでは、考えられないです。いまも感謝がたえません」。
むろん、金氏の行動は、期待の表れでもあった。しかし、目をかけ育て、独立も支援してきた浅田氏が途方にくれていたことは、どれだけご存知だろうか?
つい3年前、つまり2015年の話である。
・・・続き
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2018年6月11日月曜日

巨匠“篠山紀信”×ビオレの「肌」プロジェクトに武田が・・・。

うちの武田あかねが、あのカメラマンの巨匠“篠山紀信”に撮ってもらったのが出ました!
テーマは肌。隠さない素顔の瞬間です。

日刊ゲンダイで好評の「グルメ社長の食い倒れ日記」。

日刊ゲンダイで4月からスタートした好評の連載記事「グルメ社長の食い倒れ日記」の第2クールは物語コーポレーション治社長でした。

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今年も大学生と飲食店とのコラボ始めます!!

昨年に続き、今年も大学生と飲食企業とのコラボのサポートします。
今年は2社同時開催とやったことない企画です。

先生と企業様との顔合せも終え、さあ来年1~2月頃の発表までサポートしていきます。
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