2022年7月31日日曜日

7月29日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、『店舗流通ネット』様を取り上げました。

7月29日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、コロナ禍で飲食業界から離れていく人が多くなってるなか、夢があり前向きな飲食経営者を応援する『店舗流通ネット』様を取り上げました。

2022年7月25日月曜日

7月22日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は『KIWAMI』様を取り上げました。

7月22日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、コロナ禍の苦境の1年を乗り越え、お客様への感謝を形にした1周年記念のイベント実施でより絆を強くされた『KIWAMI』様を取り上げました。

株式会社串カツ田中ホールディングス 代表取締役社長 坂本壽男氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社串カツ田中ホールディングス 代表取締役社長 坂本壽男登場。

本文より~

生家は養鶏場。

地図でみると、熊本市から西を望んだ対岸にあるのが島原半島。同半島にある島原市は人口5万人弱の小さな街。いうまでもないが、島原の乱の舞台でもある。
この島原の海沿いにあった養鶏場が今回、ご登場いただいた坂本氏の生家である。
「今もですが、農業、漁業が盛んです。逆にいうと、それだけしかない(笑)。あとはそうめんくらいです。うちの養鶏場は曾祖父の代からつづいていました。私も、たまごを取ったりしていました」。
お手伝いは、少年の日課。
「兄弟は兄と妹。父母も長崎生まれで、農業高校卒。親戚のなかでも大学に進学したのは私が最初だったかもしれません」。
秀才と言われていたんじゃないだろうか。小・中と学年トップ。高校は九州でも3指に入る名門校。「父親は私が小学校の頃に養鶏場をやめて、犬のブリーダーに転身し、アパート経営も始めます」。
森の中の一軒家。カベを巨大な蜘蛛が這う。そんな環境で少年時代を過ごした。
「今思えば、案外、商売人だったんでしょうね。ブリーダーをはじめてからは私たちも、それまでと比べてですが、いい生活をしていたように思います。一軒家も新しくなりました」。
鶏がドーベルマンにかわる。少年と犬との付き合いはいったいどのようなものだったのだろうか。
「祖父が好きだったこともあって、私も釣りが大好きでした。アジの大群がいる時は100匹くらい、すぐに釣れました」。
豊かな自然は少年の大きな心を育て、同時にクレバーな頭を育てた。
「兄の勉強を先生がみてくれていて、その横にいた私が兄よりも学習していたんでしょうね。勉強はだれかにしろと言われたわけではなく、問題を解くのが楽しくて、中学生の頃には明け方まで問題と格闘していました。その結果、まぁ、いい高校に進むことができたんですが、今思い出しても二度ともどりたくない学生生活がスタートします」。

秀才の進学。

青雲高校。すでに書いたが九州で3指に入る進学校だ。
「当時は 1年生は全員、寮生です。4人部屋。朝6時にはたたき起こされラジオ体操です。おなじ部屋の1人が遅刻すると、連帯責任で4人全員グランドを走らされます」。
TVもないから娯楽もない。夕食が終われば、もう一度学校にもどり自習が始まる。年中無休で勉強、勉強。何のために、誰のために学んでいるかもわからなくなっていたのではないだろうか?
「私は高校からですが、中・高一貫でしたから系列の中学から進学してきた生徒もいます。なかには長野県から来た生徒もいました。6割が医大志望です。私は通っていた塾に勧められて、こちらに進学したんですが、最初はぜんぜん相手にならなかったですね」。
相手にならないというのは、学力の話。「だから、順位を上げていくのもたいへんでしたし、なにより寮生活がサバイバル(笑)」。
もどりたくないが、坂本氏を坂本氏としてつくりあげた原風景の一つでもある。
「ただ2年生になると、下宿に移ることができます。私は、その日をまってフルスピードで下宿に移りました」。
こちらは1人部屋。何でもできた。外出の許可ももういらない。
ところで、気になっていたので確認してみた。
めざすのはやっぱり赤門ですか?
「そうですね。ただ、私は東大には縁がなく慶応義塾大学に進んでいます」。
生活が一変したそうだ。
「タガが外れたというか勉強もまったくしなかったですね。サッカーとか、テニスとか、スケボーとか。バイトは日吉にあるコーヒーショップで4年間、勤めました。カレーやサワーが作れるようになったりして、長崎の田舎者にはなにもかもが新鮮でした。じつは、初めてエクセルに触れたのも、この時。オーナーから教わりました」。
一つのセルに数字を打ち込めば、もう一つのセルに答えがでる。
秀才、坂本氏も最初は驚いたのではないだろうか?
1990年代後半は、まだ、そんなアナログな時代だった。

就職、そして、将来。

「特別な志望動機もなく、ある化学メーカーに就職します。大学に進学してからは勉強もしていませんでしたし、社会に対しても無知だったので、いい悪いという選択肢もなかったのが正直なところ。ただ、競合も少ないから、会社は安泰かなと」。
1999年のこと。坂本氏はある化学メーカーに就職している。「まだまだ就職難の時代でした。1年目は物流の仕事を経験し、タンクローリーの配車係を、2年目からは営業です。結局こちらは辞めてしまうんですが、ラグビーが楽しかったですね」。
ラグビーですか?
「からだが大きかったし、足も速かったので先輩に強引に誘われて。でも、面白かったですね。サッカーとちがってコンタクトもOKでしょ。ポジションはウイングです。うちの所長が明治のラグビー部出身で、強烈なラガーマンなんです。そんな所長と朝から晩まで仕事をしていましたからね。所長のラグビー好きに私も染まったのかもしれません。とにかくいい思い出の一つです」。
それでも、退職?
「これは、小さい時の記憶も関係しています。私が小学生の頃、父が養鶏場をやめ、ブリーダーとアパート経営を始めたと言いましたが、あの時、生活が一変するんです。その原体験があったもんですから、じつは早くから、いわゆるサラリーマンにはなりたくなかったんです。そういう目で、周りの先輩をみているとどうもつまらなかった。5年先の給料までわかっていましたから」。
ラグビーのような楽しさは、仕事になかったようだ。
いつかは、独立。
もう一つのサバイバルが始まった。

公認会計士へ。

「あの時、知人の話を聞いて税理士の仕事もたのしいなと思ったんです。私も、いちおう経済学部卒なので、一度、チャレンジしてみようかと。ただ、税理士っていうのは取得するのに数年かかるんです。でも、公認会計士なら1年でもいけると知って、じゃあ、そっちだと(笑)」。
東大を狙った秀才だ。勉強のコツも知っている。ただし、会計士の門はある意味、赤門より狭い。「税理士が20~30%の合格率に対して、会計士は7~8%と言われています。レベルは高いのはわかっていましたが」。
軍資金は、1年間の生活費で消える。
「昼夜で1000円です。それ以上はNGです(笑)。ただ、1年目は失敗。2年目は生活費もままならないなかでしたが、無事、合格できました」。
「あの頃、あのイオンでよく買い物したわよね?」
じつは、このインタビューの数日前、奥様からそう言われたらしい。買い物は、奥様の、正しくいえば、当時は彼女の自腹。買い物籠の中身は、坂本氏のための食材だった。
「すっかり忘れちゃっていました(笑)。あの頃はお金がなくて、彼女にガス代やごはん代まで助けてもらっていました」。
奥様の期待通り、公認会計士になった坂本氏は、大手監査法人に就職する。「むちゃくちゃ仕事をしましたね。私だけでなくみんなそうです。いちばんの下っ端でも前職と比較すれば給料も倍以上です。全社で6000人くらいがいて、私の部署だけでも300人いて、仕事ができる人間ばかりなんです」。
8年間は監査の仕事をして、あと2年は営業の仕事をする。
その時に出会ったのが、そう、串カツ田中。

串カツ田中と、坂本。

人生は面白い。長崎で生まれた秀才が、その英知をつかって上京し、公認会計士という狭き門を潜り抜け、会計士の経験とスキルを積み、ある会社と出会う。
「もともと独立するためだったので、上司には監査の時代に辞めるといっていたんです。そしたらオレといっしょに営業を経験しようと言われて。最初に串カツ田中と出会ったのは、その先輩なんです」。
上場予備群のなかから上場の可能性が高い企業に営業をかけ、支援する。それが、坂本氏らの仕事。だから最初は串カツ田中も顧客の一社にすぎなかった。
「営業にかわり2年、私も独立の準備を開始します。『坂本公認会計士事務所』っていう名刺も刷って。ところが、偶然ですね。串カツ田中のお店でばったりと当時社長の貫に会って」。
人と人の出会いもまた面白い。
「独立することを貫に報告すると、『じゃあ、うちにおいでよ』っていうんです。『独立は難しいから』って。私自身、どこかに不安もあったんでしょうね。今は4人ですが、あの頃でもう3人の子宝に恵まれていましたから」。
創業者、貫氏の一言が反芻した。
「でも、串カツ田中を選択したのは、独立のリスクだけではありません。事業会社の内部から上場をめざすことができればと。もちろん、貫という人物に惹かれていたのも事実です」。
あと1日電話するのが遅ければ、縁はなかったそうだ。貫氏に電話すると、「あしたCFOを決めるところだった」と言われたそう。縁は待つだけではないようだ。
「貫は人柄も申し分なく、クレバーな人です。頭もむちゃくちゃいい。業態もとがっているわけですが、それだけでは上場はできません。社長の資質という意味では群を抜いていましたが、私が入社した時点ではまだ40店舗。確信はありましたが、むろん、上場ははるか向こうです」。

・・・続き

株式会社串カツ田中ホールディングス 代表取締役社長 坂本壽男

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2022年7月24日日曜日

株式会社リアルテイスト 取締役社長 田久翔太氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社リアルテイスト 取締役社長 田久翔太氏登場。

本文より~

ピッチを駆けた少年時代。

サッカー少年だった。
「2つ上の兄に影響されて始めました。父親の転勤で小学校の2~3年間、石川県で暮らしていたんですが、その時に全国大会に出場しています」。
ポジションはフォワード。本人いわく、目立ちたいから。
「子どもの頃は結構わがままで、自信家だった気がします。人見知りもしないタイプでしたし、明るいキャラでクラスでも目立っていたと思います」。
勉強よりスポーツというタイプ。サッカーは中・高でもつづけている。中学での成績は県大会ベスト4。背番号は10。サッカーが盛んな千葉でベスト4だから悪くはない。
複数の高校からスカウトが来る。いずれプロのサッカー選手に、それが目標になる。
「でも、高校で初めて挫折を味わいます」。
どういうことだろう?
「私は修徳高校に進学します。サッカー部員だけで150人くらいいました」。
田久氏もそうだが、県外からスカウトされた選手が集まる強豪校だ。そのなかでも早くからAチームに入る。自信が確信にかわる。ただ、対戦相手にとんでもない奴がいた。
「今もプロでやっています。オリンピック代表にも選ばれるくらいですから、そりゃ、巧いわけです(笑)。私より小柄なのに足も速いし、簡単にまた抜きもされてしまう。プライドもずたずた。その時、初めて上には上がいることを知って。そう、人生初の挫折です」。
試合があると、決まってご両親が駆けつけたそう。「父母が私のいちばんのファンです(笑)。父は毎週、試合にきてビデオを撮ってくれました」。
高校時代にはオランダにも海外遠征している。ただ、プロはもうあきらめた。

飲食が好きだったんだと気づいた、就活時代。

「大学は東京経済大学に進学します。飲食に出会ったのは学生時代です。サッカーはやめていましたし、大学より、飲食の世界が私の居場所でしたね。錦糸町の居酒屋で、4年間バイトをしました。ただ、就職は親の目もあって飲食以外のつもりで不動産や金融の会社を検討していました」。
ただ、意外なことで進路が決まる。
「就職活動を行っていくなかで、だれもがおなじスタイルで、おなじ問答を繰り返すことに、なんでだろうと思っていました。そんなある日、バイト先が倒産してしまうんです」。
日課が日課でなくなる?
「そうですね。アルバイトは、生活の一部でしたから。あの時、店に立つことができなくなって、初めて飲食が好きだったんだと気づくんです」。
就活の羅針盤が、視野になかった飲食に傾く。とはいえ、飲食には様々な業態があり、会社も、店も様々。どうしてエー・ピーカンパニーだったのだろうか?
「じつは、アルバイトをしていた店の、同じビルに塚田農場があって、とんでもない業績をたたき出していることはうわさで知っていました。実際、飲食のなかでは、いちばん勢いがあった。それもあって、受けるならここだと」。
面接もそれまでの会社とはまるでちがった。衝撃的だった、と言っている。「選考を通過するたびに、会社のことが好きになっていきました」。
飲食というカテゴリーだからではなく、エー・ピーカンパニーという会社そのものに惹かれる。「けっきょくは、人なんですね。いっしょに働きたい人がたくさんいたことが、いちばんの理由です。また、6次産業という斬新な発想はもちろん、アルバイトを含め、スタッフの思いをかたちにするオペレーションなど、いままでにないアイデアに心を動かされました。ただのアイデアではなく、生産者、それを提供する人、そしてお客様がすべてつながっているんです」。
「私はこのあと、鹿児島で店長になり、生産者の人たちと接することができるんですが、作り手の思いをつぐ、それが、今の私の、経営指針の一つになっています」。

社長、一番乗り。

田久氏は新卒4期生で、エー・ピーカンパニーに入社している。同期は、40人程度。
「私が入社したのは上場する前です。当時の営業時間は平日24時、金土日25時まで。当時の店長がミーティングを大事にする人で、店が終わってからミーティングがスタートします。店に泊まり込んだことも少なくなかったです。そのお店で経験を積み、そこから鹿児島です」。
鹿児島で店長に就任されたんですよね。
「そうです。鹿児島県、初出店の時です。当時は宮崎に1店舗あったくらいで、知名度もなかったのでアルバイトを確保するのもたいへんで、私も大学にビラをもっていき配りました。結構、たいへんでしたが、初月から目標の700万円はクリア、立ち上げ隊の使命は果たしたんですが、結局、3年、向こうにいました」。
この3年は、エー・ピーカンパニーにとっても、田久氏にとっても貴重な3年となった。
「向こうにはともだちもいない。だから休みの日はヒマで(笑)。休みのたびに生産者さんたちをまわって話を聞きました。地鶏の農家、酒蔵、焼酎をつくっているところ、野菜の農家にも何度もおじゃましてお話をしました。作り手を知ると、それだけで売り方もぜんぜんかわってきます。もちろん、キズナもできます。エー・ピーカンパニーの強みである生産者さんとのつながりを直に体験できたのは、今も私の最大の武器になっています」。
その後、東京にもどった田久氏は、複数店舗を管轄するマネージャーに昇進する。
「新宿、池袋からスタートし、埼玉の店も担当しましたし、事業部長になってからは神奈川エリア全域11店舗を管轄していました」。
飲食と田久氏。サッカー少年の時とはむろん異なるが、フィールドを駆けまわる姿は同じなのかもしれない。
「ある日、突然、CEOの米山さんに呼び出されて、ドアを開けると役員が勢ぞろい。え? 何で? オレなにか悪いことでもしたのかなって焦りまくりです(笑)。はい、その時に思いもしなかった社長就任の話をいただいたんです」。
「おめでとう、新卒で君が社長一番乗りだ」というCEOの米山久氏からの一言は今も頭に残っている。新卒4期生でありながら、新卒初の社長就任。
「特別、出世しようと思っていたわけではありません。正直にいうと産地との連携は私がいちばんでしたし、塚田農場イコール、オレ!って思っていましたら、そういう意味でも関連会社の社長というのは意外なオファーでした。ただ、昔から『言われたことはやろう、受けよう、それがオレの価値だ』と思っていたので、その時も、あれこれいわずに、『わかりました』と。ただ、それが試練の始まり(笑)」。

・・・続き

株式会社リアルテイスト 取締役社長 田久翔太氏

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2022年7月23日土曜日

7月15日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、世界自然遺産・徳之島の『農夢ファーム』様を取り上げました。

7月15日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、台風の通り道でもある世界自然遺産・徳之島のミネラル豊富な島の完熟フルーツを冷凍フルーツにして販売されてる『農夢ファーム』様を取り上げました。

株式会社クリエイト・レストランツ・ホールディングス 代表取締役社長 川井潤氏登場。

  in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社クリエイト・レストランツ・ホールディングス 代表取締役社長 川井潤氏登場。

本文より~

教職者の家系、環境に生を受ける。

東京都大田区で生まれた川井氏。両親とも教職者であり、当の両親や川井氏本人は意識するかどうかは別として一般的に言うなら「インテリ階級」「高学歴階級」と思われる家庭に生を受けた。1963年のことだ。
「広島出身の父親、川井健氏は大学教授、東京都大田区生まれの母親は高校教師でした」。民法を専門とした法学博士である父親は、1986年から1989年までの3年間、一橋大学の第11代学長を務めた。また、祖父・川井清一郎氏も教育者であったという。つまり川井氏が生まれ育った環境は、根っからの教育者家系だったのである。

北の大地で伸び伸び育つ。

川井氏が生まれた1963年、家族は北海道大学教授であった父親の赴任地、札幌に引っ越し、広々とした大地、環境で幼少期を過ごした。
「生まれて間もない頃から8歳の頃まで札幌で過ごしました」。
今年、市制施行100周年、政令指定都市50周年を迎えた札幌市だが、川井家が転勤した当時は、区政ではなく人口も約100万人(現在は約190万人)でありながら、東京以北最大の都市だった。
北海道の魅力は、「大きな空と広い大地」。こうした東京にはない恵まれた環境で大らかに伸び伸びを過ごした日々にも、やがて去る日が訪れた。
1971年、父親の一橋大学法学部の教授に赴任したことに伴い、生まれ故郷の東京に戻り、東京都国立市の国立第二小学校に転校、小学校2年の時だった。

幼いながら不思議に思っていた父親の職業。

話がやや横道に逸れるが、幼い頃、父親の職業を不思議に思ったことがあると振り返る。
「友だちの話から父親は朝、勤務先に出勤し夕方帰宅するのが当たり前だと思っていたんですが、我が家はまったく違いました」。
小売業や飲食業、農水産業など自宅が勤務先になる職業がある。一方で会社や役所などの朝、勤務先へ出勤し夕方に帰宅するという仕事もある。大学教授の場合は、どうなのだろうか。
「いつ仕事をしているのかわからないんです。いつも家にいて書斎で仕事をしていましたし、夏休みも冬休みもありました。さらに土日や夜は家族で過ごすことが当たり前でした」
いまなら働き方の多様性など理解できるが、当時、友だちから聞く家庭像や父親像とはどこか違う父親の姿に、子どもながら不思議に感じていたようだ。
教育者である両親、4歳下の妹の4人家族で過ごした川井少年の小学校から高校までの生活を振り返ってみよう。

理不尽な差別?些細な理由から受験競争へ。

1971年、国立第二小学校に転入。「1学年5クラスで、1クラス40人程度だったと思います」。いわゆるマンモス校ではないけれど小さな規模でもない。
「転校して一番驚いたのは、泳げる人と泳げない人(いわゆるカナヅチ)に分けられ、優劣を付けられたことです。自分はもちろんカナヅチ派。というのも冬、降雪の関係もあり北海道の小学校にはプールがないんです。だから体育の授業に水泳がないんです。こんなことで競争させられることには、子どもながら理不尽に感じましたし、正直なところ傷つきましたね」。
結局、負けず嫌いな性分も手伝ったのか、「中学受験を睨んだ勉強に取り組むことで、この理不尽な世界から脱出したいっ!って思っていました」。

世の中、“頭のいい奴”っているものだ。

「教育者一家だったこともあり教育熱心な環境というより、勉強するのが当たり前の雰囲気がありましたし、特にプレッシャーもなく自発的に取り組みました」。
受験勉強の甲斐があり、晴れて中高一貫の男子校、筑波大学附属駒場中学・高等学校(旧東京教育大学附属駒場中学校・高等学校)に入学。入学したらしたで、また驚かされる事実に直面することになる。
筑波大学附属駒場中学・高等学校は、東大をはじめ超難関大学への合格者が多いことで知られている。川井氏が合格・入学したのは、日本でトップクラスともいえるエリート輩出校だ。 同校の生徒数は中高一貫ということで中学校が120人、高校になると高校受験で入学してくるのがプラス40人、合計160人ほど。このうち100人以上が東大に進学する。
「帰国子女(男子校なので帰国子男)もいましたし、同級生は頭のいい奴ばかりで、衝撃を受けましたね。それと明確な将来のビジョンを描いている奴や、学業ばかりではなく、スポーツでも芸能でも才能のある奴が多かったですね」。
では、本人はどうだったのだろうか。
「中学時代は将来のビジョンは特にありませんでしたが、ぼんやりとですが教師の道に進むことも考えていました」。両親とも教育者という影響かもしれない。
中高6年間、特に際立った活動はしていたわけではないが、テニス部に所属。
「自由な校風でしたし、もともと水泳が嫌で受験を目指しただけでしたので、中学の成績は半分以下、あまり勉強はしませんでした」。とは言え、高校生になると大学受験が視野に入ってくる。

東大受験に二度失敗し、早稲田に進学。

教育者の家庭で育ったこともあるのか、さして親が進学を強要したわけでもなかったが、高校2年で模擬試験を受け始めたことをきっかけに大学受験の実感が湧いてきたという。
進路について両親からは特にアドバイスはなく、自由だったようだ。
「進学先ですが、周りの雰囲気からして私大は考えられず東大を受験するんだろうなと、漠然と考えていました。なんか私大に進むと同窓会にも顔を出せないような空気を感じてもいました」。こうした環境に身を置いた経験のない者にとって理解し難い側面もある。とは言え、東大文Ⅰを受験することに決定。
受験前、最後の模擬試験で一番の成績だった実績を引っ提げ受験に臨んだが、見事に不合格。
“捲土重来”を期して一浪、予備校へ通って1年後、再度、東大を受験。結果はまたしても不合格。つまり東大への挑戦に2度、失敗したことになる。
それなりに自信もあったのだろう。突きつけられた事実に、ショック、ダメージを受けたことは否めない。大袈裟に言うならば19歳にして“人生初の挫折”を経験した。最終的に、中学・高校であまり意識していなかった私大、早稲田大学法学部に入学、複雑な気持ちのまま大学生生活がスタートした。
一方で、東大受験には失敗はしたけれど、人の出会いとは不思議なものでこの予備校時代、後々、現在の仕事に繋がる人物とすれ違いがあった。ただし、この時点ではお互い面識も付き合いもなかったが……。

体験したことのない価値観に出会う。

“東大一直線”というギャグ漫画があったが、東大を目指す子どもたちにとっては、ギャグで済まされる問題ではない。「東大合格当たり前」的な環境、雰囲気の中で育ったことによって形成された同質な価値観しか知らない、体験したことがない川井氏にとって、私大の雄とも評される早稲田大学の自由闊達でバンカラな雰囲気は新鮮そのもの。
「これまで培われた競争だけの価値観とは異なる世界にショックを受けましたし、人間的な魅力にあふれる同世代に出会ったことも驚きでした。つまり、こんな世界があるんだよ!こんな人間がいるんだよ!と驚きの連続でした」。極端にいえば“目から鱗”か。
「中学・高校の6年間、テニス部に籍を置いたこともあり、テニスサークルに入ったり、家庭教師や塾の講師などいくつかのアルバイトを体験しました。そうそう、コンビニのアルバイトもしました」。話を聞くかぎり、どこにでもいるような普通の学生生活だったようだ。
“時”が経つのは早い。気が付いたら4年生。現在、大学生に就職活動は3年生の春あたりからスタートするようだが、当時は4年生の8月に解禁。
さぁ、どんな職業に就こうか?どこを受けようか?どこを目指そうか?就職活動が始まった。

企業の人気度が就職の目安。興銀に決めた。

就職は学部によって左右される場合が多々、ある。また人気のある企業かどうかも判断材料の重要なファクターだ。川井氏が希望したのは、東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)、三菱銀行、そして日本興業銀行(いわゆる興銀)の3社。
「銀行に行くと決めていたわけでもありませんでしたが、知名度が高いとか、給与面など待遇がいいとか、人気があるとか、そんな判断基準で選んだと記憶しています。どこかで東大受験の失敗を挽回しようという気持ちが働いたのだろうと思います」。
「興銀については、父親が教鞭をとっていた大学のゼミの関係で存在を知った程度ですから、企業風土など、むしろ未知だったかも知れませんね」。
ともあれ、1987年、興銀に入社。23歳になっていた。

・・・続き

株式会社クリエイト・レストランツ・ホールディングス 代表取締役社長 川井潤氏

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2022年7月13日水曜日

7月12日、日刊ゲンダイにも「飲食の戦士たち」の再現動画版を取り上げて頂きました!

7月12日(火)発行の日刊ゲンダイにも「飲食の戦士たち」の再現動画版スタートを取り上げて頂きました。

内容
飲食業の経営者が人生を振り返るコラム「飲食の戦士たち」の再現動画がスタート!
 
 将来、飲食店をやってみたいと思っている人は多いはずだ。そんな人にとって現在、飲食店経営者として成功を収めているオーナーは目標とすべき憧れの存在といってもいいだろう。
14年前からそうした飲食業社長の生い立ちや生きざまを取材し、コラム「飲食の戦士たち」として毎週火曜日に連載してきた、飲食業の求人や支援事業を行っている株式会社キイストン(東京都港区 代表取締役 細見昇市)では連載888回を記念し、この7月から「飲食の戦士たち」のショート再現動画を新たにスタートした。
今回の再現動画の企画プロデュースを務める武田あかね氏は、
「そもそも『飲食の戦士たち』を始めたきっかけは人材紹介業を進める中で飲食業界への就職を希望する人が社長の生きざまに興味を持ち、就職を決める特性が強く見られたため。これまでは文字だけでしたが、昨今の時代の変化を鑑み、広い層に知ってもらいたいと考えて8分以内のショートドラマにすることにしました」
 とその背景を説明する。
 第1話で取り上げているのは府中市の株式会社REEDの樺山重勝社長。主役はCMや舞台で活躍中の廣井憲太郎を務める。同社では文字での連載は従来通り続け、再現動画はオプションとして希望する企業に展開していくとしている。 
「飲食の戦士たち」と検索ください。
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2022年7月10日日曜日

7月8日(金)発行の夕刊フジに、人との出会いや奮闘ぶりを再現ドラマに「経営者が人生振りかえるコラム」の『飲食の戦士たち』を取り上げました。

7月8日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、900連載間近の人との出会いや奮闘ぶりを再現ドラマに「経営者が人生振りかえるコラム」の『飲食の戦士たち』を取り上げました。

武田あかね、CM出演(オンエア中)です。

武田あかね、CM出演(オンエア中)です。

ビタブリッドCフェイス 年齢ギャップ篇


2022年7月5日火曜日

7月4日、「ユニクロ 感動ジャケット/パンツ」特設サイトに弊社・永野がモデルで出ました。

なんと「ユニクロ 感動ジャケット/パンツ」特設サイトに弊社・永野諒がモデルに選ばれ、本日アップされました!!


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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

『飲食の戦士たち 〜社長たちの原点が、ここにある〜』 再現ドラマ版完成しました。

『飲食の戦士たち 〜社長たちの原点が、ここにある〜』

飲食業界をリードする社長の生い立ち、生き様、そして独立のキッカケや軌跡を紹介するコラム『飲食の戦士たち』の再現ドラマ版完成しました。

【ドラマの概要】 旨いものを食べ歩く事を趣味とするグルメなサラリーマン「廣井」が美味しそうな店に入るところから始まる。 実はこの廣井、ビールを飲むと直前に見た人の過去にタイムリープし、過去のその人に乗り移ってしまうという特殊能力を持つ。 廣井はふと乗り移った体験から、1人の人物が社長になったキッカケや料理へのこだわりまでを知ることになる! これは「社長の原点」に迫るほか、店を育てるキッカケとなった本物のグルメの情報まで深く知ることができるショートムービーである。


主役のサラリーマン 「廣井」 はCMや舞台で活躍中の実力派俳優、廣井憲太郎(51)を起用。 役の色が濃くついてないところに目をつけ、ドラマでは視聴者が容易に社長の生き様に入って行けるように展開します。 ★第一話★ 株式会社REED 代表取締役 樺山重勝 「飲食の戦士たち」より
https://in-shoku.info/foodfighters/vo... 【cast(キャスト)】 サラリーマン廣井・・・廣井憲太郎 恩人 神里会長(過去)・・横谷祐紀 【撮影協力】 スシサカバ稲穂 【エグゼクティブプロデューサー】 細見昇市 【企画・キャスティング】 武田あかね 【制作】 株式会社キイストン 【製作著作】 飲食の戦士たち製作委員会