2024年7月23日火曜日

株式会社NFI 代表取締役 中谷俊文氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社NFI 代表取締役 中谷俊文氏登場。

本文より~

スポーツ少年時代。

小学校の頃は剣道、野球、ソフトボールの三刀流。剣道では、大会で優勝している。そんなスポーツ少年が、今回ご登場いただいたNFIの中谷さん。大阪府八尾市の出身。2人兄妹で、3歳下に妹がいる。
「剣道は6年生までつづけましたが、陸上をやっていた親父の影響もあって、中学からは陸上部に入り、長距離ランナーに転向します」。
運動神経に恵まれていたんだろう。サッカー部の顧問から誘われたこともある。「休み時間に長距離は走れないんで(笑)。暇があればサッカーをやっていたんです。それを観て、顧問の先生が誘って下さったようです」。
<それで、高校からサッカーですか?>
「そうですね。多少は影響しているんでしょう(笑)。とにかく、高校からはサッカーを始めます」。
高校は、体育学科がある高校に進んでいる。
「体育学科っていうんで、期待していたんですが、特別、何かがあったわけじゃなくて。体育の授業が多少、多かっただけで(笑)」。
高校時代を総括すると、部活とバイトと、ほんの少しの夜遊びと。
「最初のアルバイトは、叔母がパートをしていたガスト。あとは、地元のお寿司屋さんだったり、カニ料理のお店だったり。オーナーやバイトの先輩たちにも可愛がってもらいました。今、振り返ると、人に恵まれていたように思いますね」。
「アルバイト代ですか? アルバイト代は…クラブで遊んだり、洋服を買ったり(笑)」。
ファッション、そして、それ以外にも色々と、目覚めていく。

美容師のたまご、飲食へ進む。

「高校を卒業して、美容師の専門学校に進みます。夜間の学校です」。
日中は、美容室でアルバイト。夕方学校に行き、授業を聞いたあと、ふたたび美容室でアルバイトをする。「1日中、美容と葛藤しているからほかの生徒より実習もできて…。できる奴だと思い込んで。やらかしたっていうか、舐めちゃって、授業もちゃんと聞かなくなってしまいます」。
2年制だったので、学校には通い、美容師の免許も取ったが、アルバイトは4ヵ月程度で辞め、美容以外のアルバイトを始めるようになる。
「これが一つの転機ですね。ちゃんと2年は通いましたが、もう少し真面目に取り組んでいたら、人生、かわっていたんちゃうかな。もっとも、そのおかげで、FI(フロンティアイノベーションズ)に出会うことができたわけですから、それはそれでよかったんですが」。
なんでもできる中谷さんのことだ。美容師として進んで、カリスマと言われるようになっていたかもしれない。とにかく、美容師のたまごは孵化することなく、終わる。
<ところで、FIというのは?>
「NFIの親会社です」。
<たしかに、Nがあるかないかのちがいですね?>
「そうなんです。FIに、中谷の頭文字のNをつけて、NFI。もちろん中谷ファクトリーイノベーションじゃなく、ネクストファクトリーイノベーションです(笑)。2014年にNFIを立ち上げていますから、私が、32歳の時です」。
<FIに就職したのは、美容師の専門学校を卒業してですよね?>
「そうです。今、思うと、よう、あんな若造を採用してくれたもんやな、と、当時の社長、今の会長には感謝しきりです。人に恵まれていると言いましたが、その代表がうちの会長ですね」。
入社当時は、叱られるようなことを何度もやらかしたが、会長は、中谷さんを高く評価されていたのだろう。中谷さんは、20歳、入社8ヵ月で店長にも抜擢されている。

子会社、社長に就任。

「仕事は当時のことですから、かなりハードでした。15時~27時まで。その分、給料も悪くはなかったです。もっとも、いろんな店を食べ歩きますから、それなりのコストもかかります。ただ、食べ歩くことで、気づきも多く、参考にさせていただくことも少なくありません。マーケティングリサーチは、飲食にとっても大事なことだと思っています。もちろん、今もつづけています」。
<独立志向はなかったんですか?>
「独立は頭になかったですね。 FIに入社したのも、じつは、知り合いに勧められて、『ヒゲを剃らんでいいし』くらいの理由で。ほかの社長さんがおっしゃっているような立派なモチベーションはありません。何もかもゼロからのスタートです(笑)。ただ、そんなええ加減なやつを評価して、育ててもらって。飲食も、立派に好きになりました。だからだと思いますが、社長(現会長)の影響が大きく、いっしょにFIを大きくしたいという思いだけで、突っ走ってきたって感じです」。
<子会社の社長になると言うプランもなかった?>
「そうですね。『子会社をつくるから代表をしろ』って言われたのが、2014年。『まる勝 寺田町店』が最初の店です」。
「FIって会社はほかの外食企業さんと関わることが少なく、鎖国的な武闘派集団ってイメージだったんです。私自身もそうだったんですが。じつは、あることで知り合った同い年の経営者7人と会をつくって、今ではいろんな情報を共有しています」。
会の名称は「五十六(いそろく)会」。
「自然発生的にスタートしました。年齢もおなじですし、全員、飲食の経営者ですから、素直にいいことも悪いことも共有しやすいです」。

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株式会社NFI 代表取締役 中谷俊文氏

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キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)   

株式会社UNI 代表取締役 岡本直也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社UNI 代表取締役 岡本直也氏登場。

本文より~

小学生の頃、子どもなりに飲食業に憧れを抱いていた。

国宝・姫路城で知られる兵庫県姫路市。山陽姫路駅から徒歩10分程、本町商店街に『アイスは別腹』という店がオープンした。2021年11月19日のことだ。このユニークな名で開業したのは、株式会社UNIの代表取締役で2024年4月、25歳になったばかりの岡本直也氏。
―“UNI”という社名の由来は……?
「比類のない、独特なという意味を持つ“UNIQUE”と、連結する、統合するという意味の“UNITE”の頭3文字からとり、個性的でユニーク、さらに面白い人たちと働きたいという意味を込めて命名しました」と岡本氏。
「生まれは兵庫県姫路市大津区で、姉が一人いますが、双子の兄弟なんです」。双子の兄の拓也氏は現在、株式会社SIROという会社を起業し『クレープは別腹』というクレープ専門の店舗を運営している。兄との関係は後述するが、基本的には兄弟の強みを活かしたといえなくもない。
「父親は従業員が20~30人ほどの製造業を経営しています。双子だからってことではないのでしょうが、よく兄弟喧嘩をしましたね。お互い意志が強いのか、よく衝突しました。そのたびに父親には叱られましたが……」。
―どんな教育方針だったのですか?
「特に厳しく育てられたわけではないです。ただ放任ではないのですが、『好きにやっていいよ』とは言われていました」。
考えようによっては、両親は“自立”“自律”して生きることを暗に教えてくれていたのかも知れない。そんな教育を施された直也氏、学生時代に起業した。
「幼い頃から料理、飲食が身近にありました。というのも、父方の母がお好み焼き屋を営んでいたのですが、よく“好きなもの、食べたいものを作っていいよ”と言われ、調理というか、飲食の虜になっていたんです。小学校の頃ですが、当時から飲食業に憧れてもいました」。
「食に関する興味があったので、高校卒業後に食に関する幅広い知識、スキルを身に付けようと大手前大学 の健康栄養学部管理栄養学科に進学しました。2017年のことです」。
学びの意欲を抱え入学した大学時代、思いもよらぬ、回避することもできない事態、不測の出来事に遭遇した。新型コロナの流行だった。

新型コロナ禍。逆風だったから思い切ることができたかも。

「大学2回生のとき、2019年ですが、新型コロナが流行しました。得体の知れない感染症で収束が見えず、社会の動きや経済活動が停滞したのですが、その動きに合わせるように学校は休校に、アルバイト先も休業になり、一人で考える時間が増えました」。
休校、休業という不都合な状況だったが、その一方で“思考する”という時間が持てたことは、有意義な時間でもあったことだろう。
「将来、飲食店を開きたいと思っていたので、この“空き時間”を利用し、起業できないかと調べ始めました」。
「親の教育なのかどうか、学生時代から自身の才覚で稼ぐことが多かったこともありましたし、調べたり、考えたりした結果、“やりたいことをやろう!”と決断して在学中でしたが淡路島でカフェを開業したんです。この時が飲食業のスタートになりますね」。
-学生生活を送りながらカフェを運営することに支障はなかったのですか?
「当時、大阪に住んでいたのですが、再開した授業がオンラインでしたから通う必要はなく、 別の場所でも授業を受けることが可能でした。であれば淡路島で出店してみようと考えました」。
―開業に要した費用は、どのように工面されたのですか?
「総額で200万円ほど。半額は用意できましたが、残り半額は父からの援助で賄いました」。
―どのようなお店でした?
「スイーツからランチまで、幅広い料理を提供するお店です。意欲はありましたが知識もコネもないゼロからの状態で、内装やメニューまですべて僕が考えました」。
―業績は?
「ところがオープンはしたものの、新型コロナの影響は深刻でした。開業して間もない頃は、お客さんが来ませんでしたから……。学生時代、大阪でグルメ・インフルエンサーのようなことをしていてフォロワーもいたものですから、それなりにお客さんが来ると思ったのですが……」。
ただ、手をこまねいていても好転するわけではないので、メニューの内容など改善していくうちに、徐々に来客が増えるようになったという。夏が訪れた。
「夏に向かってアイスを作ったところ、お客さんが増えたんです。季節的にもマッチしたのか評判になり、“これならイケるっ!”と確信が生まれ、自信のあることに特化しようと決断したんです。それが、“アイス”でした」。
『アイスは別腹』の誕生だ。

双子だから尊敬し合うし、苦労も乗り越えられると思った。

淡路島での経験を踏まえ開業した『アイスは別腹』。開業にあたって岡本氏は、現在、株式会社SIROの代表を務める双子の兄、拓也氏に協力を仰いだ。
 「兄は兄で独自の仕事をしていたのですが、“姫路でお店を始めるので一緒にやらないか”と誘いました。兄からは“店舗経営は素人だけれど、お店以外のこと、サイトを作ったり、SNSで集客したり、そういった面でサポートできるから協力できるよ”と返事がありスタートしました」。
そもそも双子経営って珍しく話題になることを目論んでいたし、二人で力を合わせれば成功するという自信もあったという。
「お互いがお互いの能力を尊敬していましたし、何があっても二人なら乗り越えて行けるという確信がありました」。
「父に打ち明けたとき、“とにかく喧嘩はするなよ”と、笑いながらですが釘を刺されました。幼い頃、よ~く喧嘩していましたからね」。ただ、喧嘩はすれど強い味方であることに変わりはない。でも、喧嘩は避けられない。
「どんなに仲が良くても他人ならどこかに遠慮があると思うんです。ところが身内、双子の兄弟となると話は別で容赦しないですから、必要以上に争ってしまうことも分かったんです。喧嘩というほどではなくても言い合いはしょっちゅうでした。だからこそ、最高のものができると……。ある意味では強みですね」。
「メニューひとつ決めるのさえ簡単じゃなかったですね。最大に意見が違ったのは『アイスは別腹』という店名です。兄には兄なりのイメージがあったのでしょう、“そんな店名にするんなら、一緒にはできない”と言われましたが、僕としても譲れない」。
―とは言え、かなり珍しい店名だと思うのですが……。
「どちらかと言えば、直感で閃いた名でしたが、インパクトがあるし、印象に残るだろうと思いました。そんなこんなで“絶対に成功するから”と口説き落としました」。兄と侃々諤々のバトルを繰り返し、紆余曲折を経て2021年11月、無事に開業。
「順調にTakeOffすることができました。新型コロナ禍だったからテイクアウトできるものを考え提供し、それがお客さんのニーズにマッチしたのだろうし、コンビニ感覚で寄れる店でしたし……。振り返ってみれば成功だったと思いますね。予想以上にね。もちろん、『アイスは別腹』とい店名の訴求力とでも言うのか、好意的に受け取られたと思いますよ」。
メニューも豊富で、定番商品、こどもあいす、大人の深酔いパフェなど多彩で、新商品の開発にも余念はない。
「地元の食材を使うなど、地元が潤い、産業が盛り上がればいいかな、と思っています。スタッフはほぼ同世代で、1店舗10~20人ほどで運営しています。運営にはそれぞれ細かなマニュアルがあり、就業前に本部で研修を受けることになっています」。
2021年11月の開業から2年半ほど(取材時)にしかならないが、商いは順調に推移し店舗数も増えているようだ。
「現在、直営店とFC店を合わせて全国で20店舗展開しています。仕事の内容はマニュアル化されていて誰でもが取り組める仕組みになっていますから、FC店運営は未経験でも可能です」。

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株式会社UNI 代表取締役 岡本直也氏

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2024年7月22日月曜日

7月19日(金)更新のフードリンクニュースで取り上げていただきました。

7月19日(金)更新のフードリンクニュースで取り上げていただきました。

「外食経営者の”生き様”エピソードにスポットを当てたドキュメントコラム「飲食の戦士たち」が、連載1,000回を達成。衰えを知らないキイストン代表の細見氏にインタビュー
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

株式会社サムライフードカンパニー 代表取締役 高城直弥氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社サムライフードカンパニー 代表取締役 高城直弥氏登場。

本文より~

お母さまがつくったお菓子の、効力。

お母様の影響もあって料理人に興味をもったというのは、今回、ご登場いただいたサムライフードカンパニーの代表、高城さん。うちにたんぼがあったから、兼業農家のようなものだったという。
「母親は私が小さい時からお菓子とかをつくってくれていたんです」。高城さんも、わからないながら、手伝っていたそうだ。それが、最初のクッキング。
「料理人になろうと真剣に思ったのは、高校3年の時で、あべの辻調理師専門学校に進みます。上京したのは、そのあと。東京のほうが最先端の料理が勉強できるだろうし、寮もあるにちがいないと思って」。
専門学校を卒業した舞浜の「シェラトン」に就職し、合計で2年くらい勤務している。「そのあとに、アルポルトという町場のイタリアンに転職します」。
ところで、高城さんは、運動神経もいい。小学生の時は陸上、中学は陸上部はなかったのでバレー部に入り、高校までつづけているが、小6・中1の時には100メートル走で県大会で3位に入賞している。
とにかく、快速ランナーだった。

アフリカ、南アフリカ、ケニア、南米、ピースボートで地球2周半。

「人生のトビラが開けたのは、イタリア旅行です。ともだちと料理の勉強をかねてイタリアをめぐっていました。そのとき、ローマのレストランで話しかけた日本人がピースボートのシェフで、まさかのホテルもおなじだったんです。今もお付き合いがあるんですが、とにかく意気投合して、私もピースボートに乗り、世界を旅することになります。旅するといってもピースボートでは料理人として勤務します」。
世界一周船の旅。乗務員をあわせ、800~1000人くらいが乗船するそうだ。「半分は若い子で、残りは、おじいちゃんとおばあちゃん。クルーは外国人だったので英語も勉強できました」。
なんでも100日で世界を1周するそうだ。高城さんは、1年間で、地球を2週半している。
「豪華客船とはちがって、主にアフリカ、南アフリカ、ケニア、南米など貧民国も回るんです。ケープタウンで、いっしょに船ではたらいている乗務員と、タクシーで観光していたとき、黒人のドライバーがスラム街の黒人居住地に連れていってくれたんです」。
窓は開けるな、写真は撮るなと、くぎを刺されたそうだ。
「南アフリカっていったらアフリカで唯一、道路がアスファルトで舗装されている国だったんですが、シティから一歩外にでると、まるで異なった世界が広がっていました」。
アフリカでも、南米でも、どこにいても、ストリートチルドレンたちがいた。
「あのとき、ふと、想像したんです。日本とはたぶん環境がぜんぜんちがうこの国で生まれた彼らは、生まれたときに人生のてっぺんが決まってしまっているのかもしれないって」。
「日本人に生まれたことが、無性にラッキーに思えた」と言っている。

「世田谷バル」オープンと、恩人の大家さん。

「ワインを飲むのは、世田谷区民だって勝手にイメージしていて。当時の彼女、あ、今の奥さんですが、彼女がみつけてくれたんです」。
今度は物件探しの旅。初日は京王線沿線を歩いて、翌日は小田急線に乗って、世田谷、代田から歩いて環七にでる。バス通りを歩いてるときに当時の彼女、今の奥様が、あれは?とつぶやいた。
「4坪で4万円。すぐに話を聞きに行きました。最初は、飲食はダメって断られたんですが、料理の盛り合わせと簡単な事業計画書を持って行って、『家賃も払えなかったら昼間アルバイトをして払います』と頭を下げたら、『気に入ったわ』っておっしゃっていただいて許可してもらいました。むちゃくちゃありがたい話です」。
内装は手作り。電気やガスは知り合いに頼んで、200万円しかかかっていない、と笑う。
<いかがでした?>
「バルブームの走りだった。そういう意味ではタイミングもよかったんでしょうね。雑誌に取り上げられたバルもみにいきました。すごいなと思ったんですが、ぜんぜん負けてないというのが正直な気持ちでした。オレなら500円でワインも、食事もだせる」。
ワンコインで、ワインが飲めて旨い料理が食べられる。ヒットしないほうが、おかしい。「5杯どり」という、独自のシステムも考案したそうだ。
「周りには、年配の方も多く、かわいがってもらった」と微笑む。「料理王国」の取材が来て、取材時のノウハウを教えてくれる。
「それから、東京カレンダーやハナコをはじめ、いろんな雑誌の取材が入るようになり、大繁盛します」。
高城さんはホームページに「週末には足の踏み場もないほどの客で埋まった」と表現している。しかし、人気になると問題も浮上する。なにしろ、何もない住宅街。
「そりゃそうですよね。繁盛すればするほど『うるさい』と苦情が入るんです。大家さんにもクレームが入っていたにちがいありません。ある日、夜の12時を回ってもお客さんでにぎわっていて。やばいな、と思っていたら、案の定、大家さん、80歳くらいのおばあちゃんなんですが、向かいから様子をみていたんです」。
すぐに謝りにいったそうだ。すると、おばあさんの口から江戸っ子のような気っぷのいい一言が、でてきた。「まだ宵の口じゃない、まだまだやりなさい」。
恩人と高城さんは、言っている。ひょっとすれば、だれより高城さんの応援団だったのかもしれない。そして、その応援団の一言に高城さんは、どれほど勇気づけられたことだろう。
ちなみに、この物件をみつけてくれた天使のような奥様とは、25歳からの付き合いだったそう。「ピースボートの時のお客さん」といって笑う。いっしょに物件を探したのは、28歳の時。28歳で独立し、29歳の時に結婚、2人の娘さんがいる。

渋谷のつぎは、福岡だ。

2号店は、渋谷駅すぐにかかわらず8坪15万円。これが、2024年で14年目になる「リゾットカレースタンダード」。
じつは、高城さん。2017年には、福岡に15坪35席の店舗を出店している。
「うちが、近江黒鶏を使った地鶏料理をメインにしていたからだと思うんですが、九州の人が視察に来ることが多くて、むこうは、ホラ、鶏文化でしょ。その文化に、私も興味があって、ぎゃくに福岡を偵察してやろうと」。
お客様から、福岡の経営者を紹介してもらった。「行ったら、もうみなさんいい人ばかり。コネクションも一発でできました」と高らかに笑う。
じつは、この笑い声が人を魅了する。取材の受け答えも明確。雑誌社のライターも、つい、高城さんが経営する店を取り上げたくなるにちがいない。経営者同士のつながりもつよい。「世田谷バル」での話だが、思いも寄らないような著名な人が数多くいらっしゃったそうだ。
福岡でも、多くの方々が支援してくれたそう。
<それが「かしわビストロ バンバン今泉店」ですね?>
「そうです。みなさんが応援してくれたおかげで、オープン当初はバーンといったんですが」。
<想定外だったんですか?>
「そうなんです。当初は月商を700~800万円と設定していたんですが、最初だけで、ガクンと落ちちゃって、結局初月が、300万円くらいで、、」。
「福岡は、鶏文化ってことを思い知らされました。安い店も多かったですしね。味はいいとしても、かっこつけすぎで入りにくい。そういう声も聞こえてきました」。
毎月、ショートか、ギリギリの低空飛行。コロナが追い打ちをかける。高城さんは、舌を噛む。いままで味わったことのない経験だ。どうなっていくんだろう。

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株式会社サムライフードカンパニー 代表取締役 高城直弥氏

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株式会社DAN 代表取締役 畑中 尚氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社DAN 代表取締役 畑中 尚氏登場。

本文より~

善意から生まれた縁。

お父様とお母様の馴れ初めは?と尋ねると、少し長くとなると前置きしたうえで…
「母方の祖母が詩吟の先生だったんです。祖母も、母も北海道で、札幌出身です。その日、祖母は東京に来たらしくて。荷物には詩吟の道具などが入っていたそうです」。
重そうに荷物を持つ高齢の女性をみかねて1人の青年が近づく。
「そうなんです。父が祖母の荷物を持ってて。それが縁で、うちの娘を紹介するという話になったそうです(笑)」。
まるで、ドラマのような話。
「その時、母は札幌でいくつかの事業をしていたそうなんですが、それが縁となって事業で貯めたお金をもって東京にでて父と暮らすようになったそうです」。
父親は韓国済州島出身。26歳のときに、単身来日されている。一つの荷物を持ったことがきっかけで縁が結ばれたという素敵な話。
もちろん、そのお二人のご子息が、今回ご登場いただいた株式会社DANの代表取締役、畑中尚さん。1989年11月11日生まれ。

ランチをやめる→給料5万円ダウン。どうする?

畑中さんが育ったのは東京の綾瀬。子どもの頃からムードメーカー。スポーツは陸上で、中学生の時は短距離と投擲の選手だったらしい。
高校は校舎がリニューアルされたばかりの学校へ。
「リニューアルされたばかりの校舎に惹かれ、進学しました。ただ、学校で勉強したというより、1年生から飲食でバイトばかりしていました。中華料理店などでホールの仕事です。学校とは違って、こちらは楽しかったです」。
「大学にも行くには行った」と笑う。
「進学するつもりはなかったんですが、父が『行け、行け』と煩かったもんですから」。
仕方なく浪人して、帝京大学に進んだそう。
「大学に行くなら小学校の先生になろうと思っていましたから、教育学部に進みます。でも、結局2年で辞めてしまいます」。
「大学生になってからも飲食店でアルバイトしていたんですが、またまた、そちらのほうがはるかに楽しくて。勉強にも身が入らず、ずるずると2年間通って、もういいかな、と」。
飲食店の給料はランチも、ディナーも働いて月25万円。悪くはなかったが、ランチはやめるとオーナーが言いだし、給料が20万円になる。
5万円の差はバカにはならない。どうする?

ラッキーボーイ。

「たぶん、選択肢は色々あったと思いますが、私の場合は、じゃあ独立するか、と(笑)。父も母も商売をしていましたから、そのDNAを引き継いでいたんでしょうね。それに若かったから、大胆に行動できたんだと思います。もっとも父も母もやめておけ、と心配していたようです」。
父母のアドバイスを頭に入れつつも、畑中さんは22歳の時、綾瀬で串カツ店をオープンする。
「綾瀬には友だちがたくさんいますからね。みんなのたまり場になればいいな、って」。
大胆かつ、軽いノリ。だが、狙い通り。たまり場になり、繁盛する。
「基本はワンオペだったんですが、妹や雀荘の友人が無償で手伝ってくれたりして。内装も出世払いで、その道のプロが手伝ってくれました」。
開業資金は?とうかがうと、「父親が大学進学のために用意してくれていた150万円と、パチンコで儲けた70万円と」との回答。
ギャンブルで儲けたお金も投入された、その結果は、初月から100万円近く利益が残ったらしい。ラッキーボーイ。畑中さんも、「私は運がいい」と笑う。
もちろん、俯瞰すれば運だけではないことが明らか。畑中さんをサポートしてやろうというネットワークがあったからこそ。かつてのムードメーカーは飲食店のオーナーとなって、みんなの真ん中で、笑い、しゃべり、青春の1ページを飾ることになる。

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株式会社DAN 代表取締役 畑中 尚氏

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2024年7月16日火曜日

株式会社元天コーポレーション 代表取締役社長 水野起業氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社元天コーポレーション 代表取締役社長 水野起業氏登場。

本文より~

看板メニューはネギ蛸。

たこ焼きは、旨くて、定番。だから、浮き沈みがない。むかしはソース味だけだったが、今は、しょうゆ、マヨネーズ、ポン酢、塩と、進化している。
ねぎと蛸。たこ焼きの主要なパーツは、やはり、このふたつ。ねぎは、彩りにもいい。「だったら、ねぎをあとから、ふりかけたらインパクトもあって、ええんちゃう?」。
青々したねぎが、たこ焼きにたっぷり散りばめられる。
「乗せ放題にしとったからね。ねぎをいっぱい仕入れて、最初は店で切っとんたんです。そりゃ、たいへん。評判になって、切る時間もなくなって(笑)」。
今ではねぎがトッピングされたタイプのたこ焼きもめずらしくない。
「絶対とは言えませんが、あれを最初に始めたのは、たぶん、私。もともと素人やから、できたんちゃうかなと思っています(笑)」。
たしかに、ねぎのトッピングは、異次元の進化。
今では、このスタイルも定番のひとつになっている。
「うちは、この『ねぎ蛸』が看板メニューです。ほかになかったからインパクトもあったんですが、いまは『ねぎかかっているだけやん!』みたいな(笑)」。
「それだけちゃうで、うちは、といいたいんですが」。
その後も、笑いながら、いろいろな話をうかがった。
社名の話になると、「中国の会社と間違われます」と、こちらの笑いを誘ってくる。さすが、関西人。で、「それだけちゃうで、うちは」のつづきはこうなる。
水は電解還元水、小麦とネギはもちろん、国産。主役の蛸は、新鮮な生蛸。「生の蛸をつかっているのは、めずらしいです。こっちのほうが断然、うまいんです」。
ただし、材料を厳選するぶん、原価が高くなる。「みなさん、粉もんやから、利益率が高いと思ったはるでしょ。でもね、うちみたいに水からこだわっていたら、原価は、想像以上に、高いんです。でも、そのぶん、おいしいって、いうてくれはるからね」。
関西弁が、耳にここちいい。飾らない人柄が、声にのってやってくる。さて、遅くなったが、今回は、「ねぎ蛸」が旨い、元天コーポレーションの代表、水野さんにご登場いただいた。

12歳から、働く人生。

「ちっちゃい頃は、おやじが商売をしとったんです。従業員も10人くらい抱えていましたから、ええ時もあったんでしょうね。でも、私が小学生にあがってから倒産して、両親は離婚。兄妹は、姉と弟の3人。みんなで母親についていって、ちっちゃいアパートで生活します」。
アパートがあったのは、「今里」。大阪のなかでも、ディープな街の一つ。
「なんでかしらんけど、今里だけ物価が安い。私は、中学から新聞配達を始めるんですが、今里はバイト代も安かった(笑)」。
新聞配達は、朝5時から。ねむい目をこすりながら、走り出す。
「勉強は、アホやなかったけど、『できる』ほうでもなかった。ただ、スポーツはできた。小学生の頃は今でいうボーイズリーグで野球をしていました。ピッチャーで6番。けっこう強いチームで、甲子園にでた仲間もいます。私もそれなりやったんですが、何しろ金がない。私学の強豪にいかんと、プロにはなれへん。だから、ふつうの公立に行って、バイト1本です」、
好きな野球と離れ、どんな思いで朝の町を走っていたんだろうか。
「あのね、大人になってもそうなんですが、苦労を苦労と思わない性格なんです。鈍感いうたら、そうなんでしょうが、母親の苦労をみていましたから」。
バイト代は、月2万円。うち1万円を母親に渡した。
「残り? 残りはあそんでたんやろね」。月1万円、中学生にしたら大金だ。ちなみに、水野さん。「12歳から、働く人生」と言っている。

となりは、6坪のたこ焼き屋さん。

高校に進学してからも、もちろん、「働く人生」は続く。
「学校が終わって、夕方5時から晩の10時まで喫茶店で仕事をしていました」。時給600円。1日3000円。30日働けば、けっこうな額になる。
子どもが大きくなるにつれ、お母様も、楽になっていかれたことだろう。
「それは、どうでしょうね。少しは楽になったんかな。母から、弱音を聞いたこともない。だから、ようわからんですね。自分で仕事をしとったから。真面目な人で、私ら兄妹にも『人の3倍働かな、あかん』っていっていました」。
小学生のボーイズリーグ時代の話。
「最後の試合だけ観に来てくれた」という。大好きな息子が投げる豪速球を、お母様は、どんな風に観ておられたんだろうか。
高校を卒業した息子は、さらに遠い存在になっていく。
「ゲーム喫茶を経営している会社に就職します。当時で月給23万円。むちゃくちゃ高い。せやけど、さすがにちょっとやばいんちゃうかって思うようになって。給料と、天秤にかけたんですけど、やっぱり、やばいと逃げ出します」。
<それから、どうしました?>
「25歳で独立するまで、職を転々としました。営業職が多かったですね。最初に起業したのは、ゴルフ会員権を売買する仕事です。これを、13年続けます」。
ちょうど、バブルの頃、さぞ儲かっただろうと思ってうかがうと。「波にのれんかった」と笑う。なんでも、お金がなかったから、大きなビジネスはできなかったらしい。
「でもね。会員権を買い取って、おっきな仕事しとった会社は、みんなつぶれました。私らは、そのぶん、長く仕事ができたと思っています。まぁ、長くは続けたけど、借金もできて、また、新聞配達からやり直さなあかんようになってしまうんですが」。
新聞配達ではなく、縁があって、フードコートの飲食店を委託されることになる。「ラーメンから丼まで、なんでもある30坪の、わりと大きなショップです。その隣にあったのが、たこ焼き屋だったんです」。
たこ焼き屋は6坪。だが、やたら儲かっている。

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株式会社元天コーポレーション 代表取締役社長 水野起業氏

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 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  

株式会社アクトコミュニティ 代表取締役 柳瀬雅斗氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社アクトコミュニティ 代表取締役 柳瀬雅斗氏登場。

本文より~

プール付き、2億円の豪邸。すべては、そこからスタートする。

今回ご登場いただいたアクトコミュニティの代表、柳瀬さんは1987年4月6日、名古屋市西区則武町生まれている。お父様はアパレル関連の会社に勤め、お母様は昼夜問わず仕事をする働き者だった。
「市営住宅で暮らす3人家族の一人っ子です。両親が共働きだったこともあって、5歳の頃にはカップラーメンを一人でつくっていました。勉強はしないで、外で遊んでばかりの少年でしたね」。
勉強はしなかったが、数学は好きだった。
「中学の頃、一戸建の夢をみて、調べてみたら2億円がいるとわかったんです」。
<2億円っていったら、かなりの豪邸ですね?>
「そうなんです。プール付きの豪邸です。40歳で子どもが小学校に上がるまで建てようと計画します」。
得意の数学でそろばんを弾く。
「2億円を借りるとしたら、最低でも年収は2,000万円が必要。そこから逆算すると、サラリーマンなんてとてもやっていられない、となったわけです」。
<だから経営者?>
「そうです。すべてはここからスタートしています」。

カウンターの向こうには、めざす未来のジブンがいる。

「経営者になるといっても、勉強はできなかったから学問がいらず、起業しやすい飲食をめざします」。15歳の少年が、ある意味、理論的にその絵を描いていたというから、驚くばかりだ。
「高校に通いながら、錦でバーテンダーを始めます。15歳から20歳までダーツバー、そのあともバーテンダーです」。この仕事が、柳瀬さんの経営者への道をリアルに開くことになる。
「バーには著名人をはじめ、ユニークな経営者がたくさんいらっしゃいました。カウンター越しなら、そのような方々も対等に接してくださるんです。すべてが貴重な経験でした」。
もっとも、仕事はハード。「月商1,000万円がノルマで、月末に達成が見込めないと帰れま10(テン)だった」といって笑う。
それでも月給は25万円。
「ぜんぜん見合ってないですよね。でも、独立のためのステップだと思っていましたから、給料に不満はなかったです」。
社会に出ても、中学の時に立てた志は忘れていない。
ちなみに当時、錦でもっとも有名なバーテンダーを1人挙げるなら、だれもが柳瀬さんの名を挙げたのではないだろうか。それだけ、目覚ましい仕事をしていたようだ。

生肉マーケットを再構築。「タテガミ」が、快走する。

イベントも開催したそうだ。芸能人やスポーツ選手とも出会った。「雑誌の編集者やTV局のプロデューサー、そういう人とのコネクションができて、彼らからも勉強させていただきました」。
情報発信の方法のことだろう。柳瀬さんにとってSNSは原動力の一つになっている。25歳、バーをオープンし、2,000万円の軍資金をつくり打って出る。
<タテガミ、ですね?>
「そうです。馬肉の『タテガミ』は、ちょうどレバ刺し、ユッケなどの生肉が問題なったときに、規制のない馬肉に目をつけスタートしたブランドです。『馬肉』ではなく『生肉』という大きなマーケットにチャンスがあると思ったんです」。
たしかに、レバ刺しやユッケが規制され、大好きな生肉が食べられなくなった人は無数にいる。ちなみに、馬肉は牛肉や豚肉と比べ、低カロリーで高タンパク。鉄分が豊富と言われている健康食。馬の生肉が規制されていないのは、牛や豚と違い、馬は体温が高く、雑菌が繁殖しにくいからである。
そこに目をつけ、オープンしたのが馬肉の「タテガミ」。グルメサイトで検索してみたが、さすが柳瀬さんが手塩にかけただけあって、とにかく高評価だった。
「『タテガミ』で、フランチャイズ化を進めます。バーで知り合った経営者の方々が参加してくださいました。ロケーションを間違えなければ、うまくという自信もありました」。
「タテガミ」が、快走する。だが、落とし穴があいていた。

バイブルは、ブログ。

予想通り大きなマーケットがあった。すべてが順調。柳瀬さんの戦略は、ことごとくヒットする。
<バイブルがあったそうですね?>
「そうなんです。株式会社subLimeの代表、花光雅丸さんのブログです。私は偶然、そのブログを知って、それから毎日、なめるようにしてブログを読み、花光さんの後を追いかけます。だから、今もそうですが、すべてが花光さん基準なんです」。
ブログを通して花光さんと出会ったのは、20歳の時。花光さんの生き様が人生の羅針盤となる。
「経営の師匠は、バーのお客様だった方と奥さんのお父さん。お二人とも尊敬できる経営者で、とても参考にさせていただいています」。
柳瀬さんのネットワークは広い。バーテンダーの時代、数々のネットワークを築いている。カウンター越しに培った人間観察力は、おそらく柳瀬さんの武器の一つ。

赤字からの大逆転。

「さきほどお話したように、バーで知り合った経験者の方々が加盟してくださって、『タテガミ』のフランチャイズ化も加速します。ただ、5年目。私が30歳の時に直営を含め、加速したことがあだとなって苦境に陥ります」。
<どういうことですか?>
「当時、『タテガミ』が15店舗あって、さらに事業スケールを拡大しようと、2018年の10月に愛知・国際センターに1億円かけて『肉のよいち』を立ち上げたんです」。
<現在、メインブランドの米が主役の焼き肉店ですね?>
「そうです。投資額が大きいわりにスタートがうまく切れませんでした。その一方で、『タテガミ』も同ブランドながら大衆店から高級店までバリエーションを広げ、出店エリアも一気に広げすぎて、スタッフの管理ができなくなって内部崩壊してしまいます」。
<資金的にはどうだったんですか?>
「借入金を返済しなければなりません。月300万円がショートして、半年で1,800万円の赤字がでます。バーを経営していた時に貯めた軍資金も使い果たし、自己破産ギリギリまで追い詰められました」。
やむなく撤退を開始する。10あった直営店のうち8店舗をクローズ。
「1年くらいは苦しかったですね。ただ、直営は減りましたが、逆に組織がスリム化し、フランチャイズの比率をあげるきっかけになりました」。
ため息はつかない。萎縮することなく、次に進むきっかけになったのは、間違いなく花光さんのおかげ。
およそ1年で、ビジネスを再構築。再び事業が加速する。ただ、その先にもう一つの試練があった。

・・・続き

株式会社アクトコミュニティ 代表取締役 柳瀬雅斗氏

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2024年7月12日金曜日

株式会社ダル・マットグループ 代表取締役 平井正人氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ダル・マットグループ 代表取締役 平井正人氏登場。

本文より~

イタリアへ。心躍らせ、夢膨らませ…

大学卒業と共にイタリアへ飛び立つ機上に、不安を抱えながらも“イタリア料理の料理人になる”と心躍らせ、夢を膨らませた平井氏がいた。
「イタリアンに魅せられたのは、大学時代~群馬県でしたが~、ホテルでの結婚式の配膳を3年間、その他イタリア料理店で、卒業するまでアルバイトをしたことがきっかけですね」。
「条件というほどではありませんが賄い付きのアルバイトを探し、イタリアンに限らず、とんかつ屋でのアルバイトを経験しました。アルバイトで得た収入は、全額といってもいいくらい食事に使いました。金額にして12~13万円くらいでしたか……」。
「ただ食べるばかりではなく、本を読んで勉強して友人に料理を振る舞うこともありました。作ったのは和食、イタリアン、フレンチなどいろいろでしたね。その本の中に落合シェフの本があったんです」。
就職活動もせず飲食業でのアルバイトに明け暮れていた平井氏に、イタリア行きという思わぬチャンスが訪れた。
「“イタリアに行きませんか”という募集があったんです。費用は90万円。内容は料理の専門学校に入って研修をしてレストラン配置というツアーで、半年間のプログラムでした」。
イタリア料理に魅せられ料理人になる夢を抱いていた平井氏は、迷うことなく応募した。
かくしてイタリアへ飛び立った平井氏。時計の針を戻し、その成長の過程を遡ってみよう。

子どもの頃、料理人になる芽が形作られていたかも…

うなぎの名産地として知られる静岡県浜松市に生まれ、清水市(現在は静岡市清水区)で育った平井氏、“食”とは幼い頃から縁が深かったようだ。
「現在、イタリア料理店を営んでいますが、飲食の道に進むきっかけは幼い頃にすでに芽生えたのかもしれませんね」。
―“食”に関する思い出を振り返ってみてください。
「小学校の頃、一番好きな食べ物は“エスカルゴ”でした。そう、フランス料理を代表する食べ物です。簡単にいえば“でんでん虫”“カタツムリ”ですね」。幼くしてすでに食通の萌芽が垣間見える。
「父親が食べ歩きが趣味だったようで、“○○の◇◇が美味しい”などという情報を仕入れると、家族全員、といってもボクは一人っ子ですから両親と三人で食べに行きました。月一回の家庭行事ですね」。家族揃っての食べ歩きは、地元、近隣に留まらず範囲は広かった。
「近場だけではなくクルマで30分、1時間かけてでも行きましたもの。ボクは連れていかれるだけでしたが、両親、特に父親は評判、話題になっている食べ物を食べてみたかったんでしょうね」。
昨今は、テレビ番組やSNSで紹介された有名店や話題になった飲食店へ時間をかけてでも訪れる人の行動を目にする機会が増えたが、当時は珍しかったのではないだろうか。その意味では、平井家は先駆的な家族だったとも考えられる。
「朝夕の食事は母親がつくっていましたし美味しかった記憶があります。お正月などは三段のお節料理でしたし、食べることに貪欲な家族だったかも知れません。こうした家庭に育ったためか、“美味しいものを食べたい!”という欲求とでもいうのか、現在のボクの原点になるのか、“食”に興味をもったのは子どもの頃からでしたね」。
「具体的には小学生の頃から、たとえば野菜炒めとか焼き魚とか、自分の食べるものは自分で作っていましたね。理由は、両親が共働きだったので自分で作るしかなかったんです」。
「そんなこんなで必然的に料理をしたり美味しい食事を摂ることが、特別なことではなかったと思います」。
「話は前後しますが、高校生までお米って、白ではなく茶色だと思っていました。ウチは貧しいからなのかと思っていましたが、実は玄米だったんです。これは健康食品の販売を手掛けていた母親の影響、考えでしたね。そのためか、お米に限らず普通のお菓子を買ったり食べたことがなかったんです。おやつも健康食品のお菓子でしたね」。
人間にとってもっとも大切な“食”と“健康”。こうした体験が平井氏が料理人になる原点となったのではないだろうか。料理人になることに何ら疑いもなく、当たり前の選択だったのだろう。イタリア行は当然だったであろうし、特別な選択でもなく必然でもあった。

巨匠と呼ばれるシェフに送った一通の手紙。

“食”と“健康”を重視する家庭で育ち、長じてイタリアの地を踏んだ平井氏。
「初めての試みだったのか、0期生という形で取り敢えずお試しでした。まず二か月間は専門学校で学びました」。
「15人ほどの日本人~職人だったり、店長だったり、イタリア語が話せる人だったり~が一緒で、経験のある方々ばかりでしたが、挫折感も委縮することもなく、そういう人たちの中に入れて貰えてことで、かえって“頑張ろっ!”という気、モチベーションになりましたね。恵まれたと思いますよ」。
「専門学校に通う最初の二カ月はホテルで、以後はレストランに派遣され三店舗で学んだのですが、一店舗目は一つ星の魚料理専門の店、二店舗目は郷土料理中心の店、三店舗目はイタリアで常に一位の評価を得ていた店で、四か月くらい仕事しました」。
―コミュニケーションは上手くいきましたか?
「半年ほど経ってからですかイタリア語が分かるようになり、考えていることなど相手に伝えることができるようにはなりました」。。
―イタリア料理の先駆者であり、一般社団法人日本イタリア料理協会名誉会長の落合努シェフに手紙を書いたとか……。
「ええ、当時、赤坂のイタリア料理店“GRANATA(グラナータ)”の総料理長を務めていた落合シェフの下で働きたいと思っていて、その思いを伝えるためにずーっと手紙を書いたんですが、四カ月くらいしてからでしょうか、落合シェフご本人から直接、電話~国際電話~をいただきました。嬉しかったですね」。
「落合シェフから、『最低でも一年は居ろ』と言われました」。ところが思わぬ話が耳に入ってきた。
「帰国したら落合シェフの下で働くんだと言っていたら、新しく入ってきた日本の方に落合シェフが“グラナータ”を辞めたということを教えられ驚き、落合シェフに電話したんです。そこで『まだ何も決まっていないけれど、帰国したら“グラナータ”に行け』と言われ取り敢えず安堵しました」。
こうして一年二か月に及んだイタリアでの修業を終え、帰国の途についた。

落合シェフの下で働ける日がくるまで。

2005年帰国。真っ先に会ったのは落合シェフだった。
「初めての出会いは、新宿駅東口正面の“アルタ”でした。ここしか知らなかったものですから……」。
「第一印象は、おっかない!って感じでした。“グラナータ”に連れて行っていただき『ここで働けよ』と勧めていただいたのですが、落合シェフが開業するまで実家で待機することに決めました。落合シェフのお誘いをお断りしたことになるのですが、どうしても落合シェフの下で働きたく、その理由を説明し、ご理解いただきました」。
飲食に限らず憧れの人の下で働きたいという気持ちは、広く職人の世界にあるものだと思う。そこにあるのは、執念というには軽すぎる、生涯を駆けた覚悟だ。
「半年ほどでしたが、いわゆるダイニングバーで働くなど勉強をしていました。ある時、“danchu”という有名な料理雑誌に落合シェフが銀座に出店する記事が掲載され、早速、連絡をとりました」。
「落合シェフから指定された日、足立区の東武鉄道竹ノ塚駅に降りたのですが、そこには落合シェフが不動産屋と一緒にいて、住むところを紹介されました。この日が落合シェフの下で働くことが決まった日になりました。2007年8月のことです」。

イタリアでの経験は、まったく役に立たなかった。

“LA BETTOLA da Ochiai(ラ・ベットラ・ダ・オチアイ)“。1997年9月に、落合シェフが銀座にオープンしたイタリア料理店だ。予約でいっぱいの店と知られる有名店だ。落合シェフの元で働きたいと切望していた平井氏。念願かなって働くことになった。
「落合シェフを入れて6人。息子さんがホールを担当、スタッフは全員が料理人でした。“グラナータ”出身者で、技は凄いし意識は高いし、働く姿勢の違いを感じました」。
―いざ働いて、どうでしたか?
「結論から言えば、イタリアでの経験は役に立ちませんでした。“素人”と“料理人”の違いとでも言いますか……日々、理不尽なことだらけでしたし、先輩たちも厳しかったですよ。先を読みながら仕事を進めることが求められ、身に付けなければならず、ある意味、仕事の仕方を学ぶ毎日でした。その一方で、食材に対する考えなど暇があったら勉強する日々でした。“ラ・ベットラ・ダ・オチアイ“は、雪の日でも傘をさして並ぶ人がいるなど人気店だったこともあり、休憩時間なんかほとんど取れなかったですね」。
「先ほども言いましたが、当時は足立区に住んでいて、朝6時から夜中2時まで仕事でした。落合シェフはもっと前に終わっているのですが、私を家まで送るために、私の終業まで付き合って頂く毎日で…。それを先輩が見かねて、23時に帰していただくようになりました」。。 「“ラ・ベットラ・ダ・オチアイ“では4年間ほど働きました。お店を辞めた後、食べ歩きをし、東銀座にあった“Crattini(クラッティーニ)”というお店に勤めました。“クラッティーニ”を選んだのは、有名店など食べ歩きをしたなかで、一番気に入ったお店だったことと倉谷さんという有名なシェフがいらっしゃったことが決め手でした。ここには4年勤めました。当時、お店は乃木坂にあったのですが西麻布に移ることになったのですが、乃木坂の当時のオーナーが残ってくれということで、2年間勤めました」。
-独立を決意したのは?
「選択肢は二つありました。ひとつは“クラッティーニ”に戻る。もうひとつは別の職場を探すか、という道で迷ったのですが、先のふたつではなく独立を目指すという道を選んだんです。30歳までに独立しようと計画し、会社を設立しました。29歳のときでしたね」。
かくして、美味しいもの好き、料理好きの少年は、時を経て、経験を積み重ねて自分の店を持つことになった。

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株式会社ダル・マットグループ 代表取締役 平井正人氏

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オーシャンリゾート株式会社 代表取締役 足立嗣朗氏登場。

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本文より~

舞台は北海道、札幌。

出身地である伊達市は室蘭の近くにある。近くと言っても、北海道は広い。札幌からと比べて、近いということだ。ただ、すぐに札幌に移り住んでいる。父親の転勤で、実は福岡で暮らしたこともある。
スキーは当然、小学校から。冬には毎日山に通ったと言っている。
さて、今回インタビューに登場いただいたのは、オーシャンリゾート株式会社の代表取締役、足立嗣朗さん。スキーを始めたのは父親の影響で、小学6年生まで続けている。
札幌の少年たちにとって、スキーは身近なスポーツすぎた。
「大会にでる子もいましたが、中学くらいになると違ったスポーツもしたくなる。私はバスケットボールをはじめ、こちらは高校でも続けました」。
同じバスケットボール部でも、中学と高校ではまるで風景が違ったそうだ。
「中学はむちゃくちゃ校則が厳しい学校で、私自身、反抗期だったんでしょうね。大人は敵だ、って(笑)。もちろん、部活動も同様です。でも、高校は真逆で、自由な校風で、クラブの先輩らも優しくて」。
時には先輩たちと遊びに行った、と笑う。
「私たちの頃はベビーブームで、高校受験も大学受験も就職もそうですが、とにかく倍率が高い。私は、このあと札幌大学に進みますが、今だったら東京っていう選択もあったかもしれません」。
東京に行けば、競争はもっと激しくなる。
「大学ではバイト一本です」。
バイト先はホテルのビアホール。
「やたらと出勤できないかって電話があって、最高、月間27日バイトしています」。
素直な性格なんだろう。4年間続けている。
ちなみに、バイト仲間でグルメサークルを立ち上げて食べ歩いている。これは、今でもいい思い出。

社会は、思い通りにならない。

「当時、札幌って携帯電話をもっている人がまだ少なかったんです。私の中学時代のともだちが、携帯電話のセールスプロモーション会社を起業します。私も参加し、仲間10人でスタートしました。業績は悪くなかったですね。私も月50台くらいはセールスしていました。ただ、1年くらいでだんだんセールスが厳しくなる。飽和状態って奴ですね。そうなると、別の事業を始めなければなりません。その時、私と創業者の友人の間で方針が合わなくなって、私はいったん会社を離れます」。
足立さんは、そのあと、札幌で就職する。
「印刷やシステムを販売する100人程度の会社です。こちらには10年在籍しています」。
退職したのは、社長のワンマンにあきれたからというのが正直なところ。正義感も仇となった。
「Windowsが普及するなど、社会の仕組みにイノベーションが起こっている頃。乗り遅れないように事業を変化させていかないと先がない。だれでも気づくことに、社長や幹部連中が気づかない。私が提言しても、彼らの耳には届かない。あと何十年も仕事をする若手じゃないからです」。
この時、足立さんは実費で東京のお台場まで行って、展示会を見学。新たな知識・技術を仕入れるなどして、会社の業績にも貢献している。だが、1人舞台。社会は思い通りにならなかった。

もといた会社への資本参加で、飲食業スタート。

足立さんは、競争の激しい世代のなかで、社会に縛られない生き方を選択する。
「35歳ですね。今度もまた中学のともだちと3人で、IT関連会社を起業します。携帯電話の社長だったともだちから、サーバー管理の仕事を丸っと請け負うのが私たちの事業でした。むちゃくちゃ恵まれた仕事だったんですが、いつまでもあるわけじゃなかった(笑)」。
危うく路頭に迷うところを、携帯電話の社長が救う。「当時、彼は福岡にいたんです。それで、『札幌でもつ鍋をやれば面白いぞ』って。で、やろうってことになって。サーバーの会社はたたんで、友人の会社を私が引き継いで、飲食業をスタートします。これが平成26年で、私が37歳のときです」。
<もつ鍋屋ですよね?>
「そう。冬はいいんですが、お客さんからも夏はどうするの?って。『そりゃ、もつ鍋屋ですからね、もつ鍋です』って、笑いをとるしかありません」。
業績は悪くなかった。ただ、色々とあったらしい。
「平成26年にもつ鍋をスタートして、翌年に新ブランドをリリースします。それが、元祖串カツ恵美須商店です」。
大学時代、4年間ビアホールで働き、グルメサークルを立ち上げただけはある。飲食に対する感度は高い。
「札幌にはなかった文化の一つが昼飲みです。大阪に行けば、みんな昼から飲んでいる。2度漬け禁止の串カツなんて、典型ですね。昼でもお客さんであふれている。だったら、札幌にその文化をもってくれば、と。それが、私の戦略でした」。
北の大地に串カツ文化が広がるのか、と思い、早口で<どうでしたか?>と聞いてみた。

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オーシャンリゾート株式会社 代表取締役 足立嗣朗氏

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2024年7月9日火曜日

株式会社YOSHITUNE 代表取締役 飯塚義一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社YOSHITUNE 代表取締役 飯塚義一氏登場。

本文より~

野球は大好き、でも勉強は大嫌い。

小学生のころ親に「勉強しろ」と口うるさく言われ、それが嫌でどんどん勉強しなくなったという飯塚氏。彼の父は準大手ゼネコンの社長や会長を歴任するほどの人物で、父の弟たちも一部上場企業に勤めていた。サラリーマン家庭として成功をおさめた飯塚家本家の長男として誕生し、家族や親戚の期待を一身に受けていたことから、塾やスイミングスクールといった習い事にも通わされたという。
「でもサボってすぐ行かなくなりました」。
駅前のゲームセンターやおもちゃ屋へ直行し、2時間ほど時間をつぶして帰宅する。水着は駅のトイレで濡らすという用意周到さだった。そんな努力が功を奏したのか、ほぼ一年バレなかったというから大したものだ。
それほど勉強嫌いな飯塚少年が夢中になっていたもの、それが野球だ。ピッチャーだった飯塚少年は、鶴見区内の強豪チームがぶつかり合うオール鶴見のレギュラーにも選ばれるほど実力があった。しかし連日の厳しい練習に身も心も疲れ果て、小学校卒業時には野球に対する気持ちも萎えてしまっていた。
中学校に入ると、野球はおろか勉強もそっちのけで、とにかく遊んでばかり。親に「野球を続けろ」と言われることはなかったものの、日曜日のキャッチボールだけは父子のルーティンになっていた。平日は完全に仕事優先だった父とは取っ組み合いの喧嘩もしたが、週末のキャッチボールだけはずっと続いた。野球は父子を繋ぐ唯一のコミュニケーションツールだった。
― 厳しい練習は嫌だけど、やっぱり野球がしたい。甲子園に行きたい ―
やがて野球への衝動に突き動かされた飯塚氏は、中学最後の年に勉強を再開。その結果、甲子園出場4回、関東大会出場ほか、神奈川県大会で10回の優勝記録を持つ県内の私立高に合格した。朝から晩まで練習に明け暮れるうち、かつての遊び仲間とは自然と疎遠になっていった。

地獄の特訓で知った己の限界値。

飯塚氏が入学した高校は神奈川県200校のうちベスト8、時にはベスト4に残るほどの準強豪校。年中ナイター可能なグラウンドで、厳しい練習に耐える日々が続いた。部員は一年生だけでも100人はいたが、厳しさのあまり徐々に脱落していった。
中でも忘れられないのが、毎年冬に行われる3泊4日の伊東キャンプだ。
キャンプ中にボールを握ることは一切なく、とにかく朝から晩までランニングや筋トレを繰り返すというハードなメニュー。食事の度に嘔吐する者も後を絶たなかった。クタクタの身体を引きずりながらやっとの思いで宿舎に戻っても、先輩のユニフォームの洗濯を始めとする雑用が待っていた。
「もうあのころの記憶は曖昧ですね。それくらいしんどかったし、人生、あんなに辛かったことなんてなかった。でもあの経験で自分の限界値を知ることができました。それからはどんなにしんどいことがあっても、あの辛さに比べたらまだいける、もっと頑張れるって思うようになったんです」。
2年生になって野球部にとどまる者はせいぜい4割。その中に自分は残った、あの地獄の特訓を乗り越えたという経験は、飯塚氏を支える原動力へと変わった。

竜馬の生きざまに感動。

高校2年の春。冬の合宿を耐え抜き、一度は練習メンバーに選ばれた飯塚氏だが、その後メンバーから脱落。昔の友達と遊ぶ機会が増え、あの地獄の特訓に再び挑む気力も失い、秋にはとうとう野球部を辞めてしまう。
「でもやり切りたかったですね。人生でやり切ったって言えるのは、小学校の野球だけですから(苦笑)」。
卒業を間近に控え、父に「どこでもいいから大学には行ってくれ」と懇願されるが受験には失敗。昔のようにフラフラと遊ぶ日が続いていた。
浪人生活一年目の19歳の誕生日を迎えたある日のこと。友人宅を訪れた飯塚氏は、そこで『おーい!竜馬』というマンガに出会う。それまで歴史にはまったく興味がなかった飯塚氏だが、坂本龍馬や幕末の志士たちの生きざまに驚き、それらにぐんぐんと引き込まれていった。
「こんな歴史があったんだ。こういう志を持って、日本を良くしようとぶつかり合って、そして早く死んでいった若者がいたんだ。なのに今の俺はパチンコやって、遊んでばかり。いったい何をしてるんだろうってね」。
歴史に興味を持った飯塚氏は日本史を猛烈に勉強、二度目の受験に臨んだがまたもや敗退。IT系の専門学校に進むも、肌に合わずフラフラ……と辞めてしまった。
そんな飯塚氏を真の意味で変えたのが、飲食業との出会いだった。

「お金が好き」と思う気持ちが、自身の強みに。

飯塚氏は宅配ピザチェーンのFC店にアルバイトとして入社。その働きが評価され、アルバイトから正社員、店長へと昇格していった。全国のFC60店(当時)中40位前後だった鶴岡店を5位まで引き上げるなど、店長としての才覚を発揮。「まるで軍曹のようでしたよ」というくらい厳しい店長だったという。
― これまでのお話を伺うに、なかなか飽きっぽい性格だったようですが……なぜ続けることができたんですか? ―
「たぶん、お金が好きだったんでしょうね。今までどれだけ頑張っても、お金をもらうなんてことはなかったですから。頑張ってお金をもらう、そんな商売の楽しさを知ったのかな」。
頑張れば頑張るほど、その頑張りが数字に表れる嬉しさ、楽しさ。気が付けば9年の歳月が過ぎ28歳になっていた。そんな飯塚氏に2006年、独立・起業のチャンスが訪れる。あるFC店オーナーから上大岡店の譲渡を持ち掛けられたのだ。
店舗運営のノウハウは十分ある。資金に関しても、FC本部が名義変更に必要な300万円を無利子で貸すと申し出てくれ、本部のスタッフからも支援の声があがった。迷った飯塚氏は両親に相談するが、これまで何も言わなかった父親に大反対されてしまう。
「父からは、それこそ長い長い手紙を貰いましたよ。でも怖くて10年くらい開封できませんでした」。

飛躍のきっかけは韓国旅行。

両親の反対を押し切ってスタートしたピザステーション上大岡店。その滑り出しはお世辞にも順調とは言えなかったそうだ。同店にはベテランの社員も多く、いい意味でも悪い意味でもスタッフ全員が団結していた。そこに28歳の若い社長がやってきたのだから、あまり面白くはない。まるで全員が敵というくらいビリビリとした雰囲気が漂っていたという。
独立の翌年にはラーメン店を開業(現在は閉店)、2008年に『カーヴ隠れや』のFCとして横浜西口店をオープンさせた飯塚氏(現在はFCではなく直営店)は、その後も和風創作居酒屋や熟成肉の店、炭火焼ホルモンの店などさまざまな店舗を展開。しかし、これらの果敢な挑戦にもかかわらず、確実な手ごたえは得ていなかったという。
「独立して年数だけは経ったけど、正直軌道に乗ったって感じはずっとなかったですね」。
そんな株式会社YOSHITUNEの起爆剤となったのが、『韓国屋台酒場 韓兵衛』だ。きっかけは妻との韓国旅行。妻の友人が結婚式を挙げるというので、現地まで同行したのだ。初めて触れる韓国文化。日本人観光客は思っていた以上に多く、初めて触れる韓国の文化もこれまのイメージとまったく異なるものだった。その頃日本でチーズタッカルビの人気が高まっていたこともあり、「これはいける」と確信したそうだ。
『韓兵衛』のメニューは、ネイリストで調理師免許も取得している同氏の妻が担当。オペレーションが容易で利益率の高い『韓兵衛』は大当たりし、あっという間に同社の中核を担うブランドにまで成長した。併せて韓国食材や簡単な調理器具を販売するECサイトも立ち上げ、若者を中心にコアなファンを獲得している。

・・・続き

株式会社YOSHITUNE 代表取締役 飯塚義一氏

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