2019年10月24日木曜日

9月21日(土)から日刊ゲンダイ“グルメ企業社長の食い倒れ日記”は5連載でコジマ笑店・小嶋崇嗣社長でした。

9月21日(土)~10月19(土)の5連載の日刊ゲンダイグルメ企業社長の食い倒れ日記はコジマ笑店・小嶋崇嗣社長でした。
(9/21掲載)
 (9/28掲載)
  (10/5掲載)
   (10/12掲載)
   (10/19掲載)
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

株式会社ネオ・エモーション 代表取締役会長 石橋幸男氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ネオ・エモーション 代表取締役会長 石橋幸男氏登場
本文より~

海のことは知り尽くしている。

三浦半島の先っちょに、城ヶ島という小さな島がある。戦国時代に、ある武将が城を築いたことからこの地名になったらしいが、これには諸説あるようだ。黒潮の影響で冬でも温暖。とはいえ、いったん天候が荒れだすと、人を寄せ付けないほど厳しい表情をみせる。
「私も、父も、母も城ヶ島出身で、父は漁師です」。黒潮に乗り、脂がのったさかなを獲る。天候がいい時はいいが、いったん荒れ狂うと手がつけられない。漁師という仕事はそういう意味で過酷である。気が荒い漁師が多いのは、そういった仕事が影響しているのだろうか。
「父に似たんでしょうね。私も小さな頃は、やんちゃ坊主です。小学4年生までは島の分校で育ち、5年生からは市の学校に進みます。運動神経はいいほうだったと思いますね。でも勉強はぜんぜんやらない。ただ、うちの仕事は毎日やりました」。
海が好きだという。泳ぎは得意。潮の流れ、さなかの群れ、悪天候の時の、海の怒り。海のことは知り尽くしている。遅くなったが石橋氏が生まれたのは、1947年。一般的にいう終戦から2年後のことだ。
ちなみに、城ケ島の南側の海沿いは、ウミウやヒメウ、クロサギの繁殖地となっているそうで、これらは神奈川県の指定天然記念物となっている。ともかく、大自然にはぐくまれ、石橋氏は育つ。

行商の仕事にのめり込む。

「高校では囲碁将棋部です。いまでも、やっています。囲碁をすると読みが深くなる。といっても、私はその時々のひらめきで動くんですが、これってたぶん経験があるからだと思うんです。つまり、直観の正体は、経験なんです」。
なるほど、という話だ。
高校を卒業した石橋氏は印刷会社に勤める。むろん、地元の会社である。「あの頃の三浦市じゃ、漁師になるか、工場に勤めるか、それくらいの選択肢しかなかったんです。それで印刷会社に勤めるんですが、2年くらい経った時、これじゃ将来もないな、と/笑」。
若い血が騒ぐ。
それでガソリンスタンドですか?
「そうです。当時はマイカーの黎明期ですからね。ガソリンスタンドもかっこいい仕事だったんです。この時、ガソリンスタンドにいらしていたお客様に紹介いただいて、行商の仕事をはじめます」。
行商とは、産物などの商品をもって相手先に行って販売するスタイルのことをいう。店舗をもたないことが、行商の意味でもある。
「社長は40歳くらいだったと思います。社長といっても個人で、私にとっては、師匠。この人との出会いが、いちばんの転機です」。
師匠のもと、仕事をはじめると、お客様との会話も楽しく、何より頑張ったら頑張ったぶんだけ稼げるのが、性に合った。次第に仕事にものめり込む。
・・・続き
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株式会社クリスプ 代表取締役社長 宮野浩史氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社クリスプ 代表取締役社長 宮野浩史氏登場
本文より~

15歳。学校がつまらないと退学する。

「私は1981年12月20日生まれです。ごく普通の家庭で、ごく普通に育ちます。ただ、他人と異なるといえば、高校1年で学校を辞めてしまったことでしょうか」。
高校1年で?
「高校1年の夏ですから、15歳です。志望校じゃなかったというのもあるんですが、ただ、つまらなくなったというのが正解だと思います」。
それから、どうしたんですか?
「中卒の人には、申し訳ないいいかたですが、親からさすがに中卒はまずいだろうと。父の知り合いが、ロサンゼルスにいたので、『そちらでやっかいになって、アメリカのスクールに行きなさい』と。その知り合いは、中国系のアメリカ人です。この方と出会ったことが、いまにつながるんですが、それはもう少し先の話ですね」。

渡米。ホストファミリーと、ストレスと。

「そういうわけで、アメリカ生活がスタートします。最初は、けっこうなストレスでした。やさしくしてもらっても知らない人といっしょに暮らすわけですし、言葉もわからない。学校も、さすがにすぐにはなじめなかったですね」。 そりゃそうだろう。
「ただ、少しずつ会話ができるようになると、日本の教育って向こうより進んでいるんですね、とくに数学とか。それもあって、『頭のいい日本人が来た』って話題になるんです。日本じゃ、言われたことがないから、勉強も少しだけ好きになりました/笑」。
生活をサポートしてくれたのは、お世話になったホストファミリーの主人、「アメリカのお父さん」である。
「彼は日本語もできるし、もちろん中国語も。英語もできるので、貿易とか、アメリカに進出する企業のサポートなどを行っていました。そのなかに面白いのがありまして。日本でも時々みかけますが、天津甘栗です。あれをアメリカで流行らせようという企業があったんです。私も、週末には売り場で、販売をサポートしました。もちろん、その時は、高校を卒業して、天津甘栗の仕事をするとは思ってもいませんでしたが」。

天津甘栗の教え。

「1日に3000~4000ドルをセールスしたことがある」と宮野氏はいう。円にして、40万円程度。「卒業のタイミングで、たまたま天津甘栗の会社が撤退してしまったんです。そこで、向こうのお父さんがパートナーとして、いっしょにやらないか、と」。 Fifty・Fifty? 「そうです。彼は、出資はしますが、実務はしない。ただし、やり方を教えるだから、イーブンなんだと」。ロス、サンフランシスコ、サンディエゴ…、スーパーの軒を借り、セールスする。
「その時の原体験が、私の一つの指針になるんです。というのは、天津甘栗はおいしいけど、日本ではそう買わないじゃないですか。でも、向こうだと、みんなが買うんです。日本では買わない日本人だって買います。それをみて、『そうなんだ!』って。ロケーションがかわれば、ものごとはかわるんだって、思ったんです」。
「私は、のちに日本で、テックスメックスの店もだしますが、あれも、同様ですね。アメリカではふつうに食べられているけど、日本だったらどうだろうって。それが、やっぱりヒットします。天津甘栗が教えてくれたことなんです」。
じつは、英語の先生にでもなろうか、って思っていたらしい。そうしたら、向こうのお父さんが一言、「やめとけ!」と。ビジネスの才能を見抜かれていたんだろうか。

帰国、そして、タリーズへ。

「シカゴにアイスクリームショップを開いたり、事業は好調でしたが、突然、向こうのお父さんが亡くなられてしまうんです。それで、一時、帰国します」。
天津甘栗を総括すると?
「だいたいの事に尺度をもたないようにしています。だから、成功だったとは思いますが、大成功だったのか、どうかはまったくわかりません。私自身、いい給料だったと思いますが、どこにいったんでしょうね、あれは/笑。ただ、私自身、なにか特別なことをしたわけではないので、かりに給料が少なかったとしても文句はいえませんね。儲かったのは、ただただ、栗のおかげですから」。
「だから、達成感も薄いですし、自信ができたわけでもない。ただ、じつは、もともとサラリーマンになりたかったんです。そのために、コンプレックスもあったから、大学に行こうかなと、思ったりもして」。
「けっきょく、天津甘栗は3年くらいです。帰国したのは、ビザの更新が難しくなった時期でしたし、いったん帰ろうと。もっとも一時のつもりが、いまのところずっと日本です」。
「帰国して、就職したのは、タリーズです。じつは、アメリカにいたときにタリーズの話を聞いていたんです。スペシャリティーなコーヒーでヒットしている店があると。そうか、それを今度はアメリカで、なんて思っていたんです。幸い、合格させていただいて。まだ、松田さんが社長をされていた時です。店舗数は200くらいだったかな。タリーズでは5年弱勤務します」。
社長の松田氏にも目をかけられる。「社員になれば、社長宛にメールができるんですが、しょっちゅうメールを送っていましたから/笑」。
タリーズがクーツグリーンティをリリースした時には、松田氏の直轄メンバーとして、仕事をする。「ぜんぶで、15店舗ほど出店しました。シアトルにも出店します。ただ、最初はなかなか赤字から抜け出せない。責任者も、定まらない。1年くらい経った時に、松田さんから『おまえがやれ』と。当時まだ25歳だったと思いますが、その年齢で、事業責任者は、異例の抜擢だと思います。もちろん、いい経験になりました。カリスマの下で仕事をしたことも含めて」。

タリーズ後。

勤務して5年弱で、タリーズを離れた宮野氏は、今度は、投資家から資本を獲得し、テックス・メックス料理などメキシカンなブランドをリリースする。
「ファストカジュアルのようなショップです。4年やり、今は譲渡してしまいましたが、4店舗を出店します。いまも、六本木や麻布十番などで営業されていますよ」。
クリスプを起業したのは、そのあとですか?
「2014年です。天津甘栗の教え通り、アメリカで当たり前の、サラダ料理のスタイルを日本に輸入します。それがクリスプ・サラダワークスです」。
2019年7月、現在、サラダ9店舗、新ブランドのピザが1店舗となっている。「今年も直営で5店舗の出店を計画しています。今公表できるのは、日本橋のコレド室町テラスですかね。業績は、おかげさまで好調がつづいています。最初はもちろん、私1人だったんですが、ブームになって予想の何倍もの売上です。いまは、マックスから少し落ちて落ち着いていますが、それでも、ぜんぜん、好調と言っていい領域ですね」。
ところで、サラダって、ホントに食事になるんだろうか? ベジタリアンは、そうだとしても。
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10月22日、キイストン設立記念日。

10月22日、キイストン設立記念日ですが、今年は奇しくも「即位の礼」と重なり祝日となりました。

前から設立記念日休みになれ!と願ってたのが形になったのかって思いました(笑)

ただ、一つ言えることは、10月22日は平安京遷都の日であるということです。
そしてこの10月22日は、京都で時代祭が行われる日です。

創業者の私も武田も京都生まれ。
また時代祭は私の故郷の山国隊が先頭に立ちます。

何か不思議なもの感じますが、全ての事象には意味があると思います。
1994年(平成4年)設立し、いよいよ28年目に突入しましたが、きっと令和はキイストンにとっても良い未来があると確信しました!
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2019年10月17日木曜日

夕刊フジ ロックフェスティバル、楽しかった~。

夕刊フジ ロックフェスティバル、4回全て制覇しました!!

改めて一流ミュージシャンは年齢重ねても腕は衰えないし、なにより自らも楽しんでおられるな。
いわゆる【天職】なんですね。

2019年10月15日火曜日

夕刊フジの「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」にて横浜家系ラーメン 町田商店(ギフト様)掲載しました。

夕刊フジの「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」にて横浜家系ラーメン 町田商店(ギフト様)を9月27日(金)10月4日(金)10月11日(金)で2連載させて頂きました。
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株式会社全力の元 代表取締役 河方 卓氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社全力の元 代表取締役 河方 卓氏登場
本文より~

海と祖母とラーメンと。

「ラーメンでも食べてきんしゃい」。
祖母は、そういって、お小遣いを渡した。
「生まれてすぐ両親が離婚したこともあって、私は、父方の祖父母に育てられます。とにかく、祖母のあとを追いかけているようなおばあちゃん子でした。ただ、祖母は料理が好きじゃなくって、うまくもなかったので時々、小銭を渡してくれるんです」。
その時、添えられた言葉が冒頭の一言。「定番は久留米ラーメンです。とにかくラーメンが大好きになったのは、おばあちゃんのおかげです」。
父親はフレンチのコック。後輩に今や超有名なラーメンチェーン店の社長がいらっしゃるとか。「なんだか、いろんなことが今につながっていますね。ともかく、ちっちゃい頃いただいたラーメンは、おばあちゃんには悪いけど、私にとって何よりのご馳走でした/笑」。
河方氏は、1974年、福岡の東区に生まれる。「東区は、海に突き出たような格好をしています。私が通っていた小学校は当時、日本でいちばん海にちかい学校でした」。
校庭にも潮風が流れこんできた。「好きだったのは、野球です。みんなの打順を勝手に決めたりして。それでついたあだ名が『キャプテン』です」。
目立つことも大好きだったらしい。
その一方で、祖母から「人に喜ばれるようなことをしなさい」と何度も諭された。「祖母自身がそういう人だったんです。だから、祖母の背中をみて、言葉と行動がリンクしたっていうか。『ああ、こういうことをしなくっちゃいけないんだな』って。この教えは、今も私の心の背骨を貫いています」。
海と祖母とラーメンと。
河方氏の少年時代は、この3つの単語で語ることができる。

17歳の出立。

「中学になって、だんだん祖母とも話さなくなっていきました。だいたい私らが住んでいたのは『和白』っていう地名なんですが、不良だらけの町だったんです。そういう影響をモロに受けて、祖母がいさめても耳を貸さないっていうか。でも、あっちの世界に行かなかったのは、やはり祖母のおかげですね」。
深い愛情は時にうっとうしくもあったが、くさびになった。
「うちの経済事情もある程度わかっていたんで、高校にはハナから行くつもりはなかったです。それに、なんだかんだと言って祖父母が大好きだったので、早くうちにお金を入れなくっちゃって思っていたんです」。
それで、就職?
「そうです。15歳でうちを出て、最初に仕事をしたのはペンキ屋さんでした。でも、半年だったかな、つづいたのは/笑」。
職を転々とする。
「大工、石屋、何をやってもつづきません。そのうちいっしょに住んでいた先輩が東京に行くことになって。じゃぁ、いったんうちにもどろうか、と。それから、1ヵ月、無職で何もしません。さすがに、これではまずかろうと飛びついたのが、新聞に載っていた一つの求人広告でした」。
「あなたも百万円、稼げる」「寮完備」の、2つのキャッチフレーズが頭を駆け巡る。「だいたい石川県なんて、どこにあるんだ?って。まぁ、勉強もしてないからわかんないんですが、なんとかなるだろうと/笑」。
大好きな祖母が玄関で見送ってくれた。
「人に好かれるよう頑張りなさいよ」。
その一言は、祖母の表情といっしょに忘れない。河方氏、17歳の出立の話である。

ベンチで号泣した夜と、救いの神と。

「100万円」と「寮完備」に惹かれ、何をするかには目を向けていなかった。仕事内容はやったことのないセールスだった。しかも、けっこうハード。
「みんなすぐに辞めていきました。ベテランの先輩から若い子には無理だなと言われた。高額なアイテムだったんで、若い子には説得力も、信頼もないから無理なんだって」。
無理と言われて、ハイ、そうですかとは言えない。
「若い子っていうんですが、そのなかでも私は断トツで若いです。17歳ですから。それでも、『やると決めたら、やるんだ』と。だれよりも多く、件数を回ります。はじめての受注はいまでも忘れられません。80代のおじいさんで神主さんでした。あとで聞くんですが、『何を言っているのか、ぜんぜんわからなかったが、とにかく一生懸命だったから』って」。
件数を回っただけではない。勉強もした。風呂につかりながら、商品の説明を何度も繰り返した。だれもいない公園のベンチで号泣したこともある。無謀だったかもしれないが、真剣だった。
「けっきょく10ヵ月で私も辞めますが、支店でトップの成績を残しました。全力やれば結果でる。これも、私のひとつの原点ですね」。
辞めるきっかけは、飲食だった。

「神仙」の始まり。

「飲食店に18歳で入社し、23歳まで勤務します。そのあと、独立し、BARをオープンするんですが、3年でたたみ、もう一度、前の飲食の会社に採用してもらいました」。
飲食の仕事はきらいではない。ただ、社長業はしばしお預け。そして、5年後。
「31歳でもう一度、独立するんですが、何が何でもっていうわけじゃなく、尊敬していた社長が突然、引退宣言されたからなんです。ええ、だから、プランもないまま、どうしようか? 何をすればいい? その時、浮かんだのが、昔から大好きだったラーメンです」。
じつは河方氏、週に5日ラーメンを食べるというラーメンマニアに育っていた。
「最初は、BARに勤めていた後輩が、ラーメン店を経営していましたので、そちらで仕事をします。金沢にラーメン店は、そう多くないこともあって、当初はうまくいきましたが、だんだん業績も下がります」。
ついに、店を閉めることになったそうだ。
「それで、知人からお金を借り、私がそのお店を譲りうけます。こういうとなんですが、私が経営すればもっとうまくいくという自信があったからです。もっとも、今のままではだめだってことはわかっていましたから、最高のスープをつくるまで、再オープンしないと決意したんです。これが、あれだけたいへんなことになるとは思ってもいなかったんですが/笑」。
店を買って、もう金がない。極貧。しかし、妥協はできない。全力。
「灰汁を飲んだり、豚の脳みそを生で食べたり。もう、取りつかれたように試行錯誤するんですが、なかなか、これといったラーメンができません。朝、いいなと思っても、夜になると、だめとか/笑」。
1ヵ月経ち、2ヵ月経ち、家賃も業者への支払いも滞納しがちになる。信用もないから、すべて現金。もう、数万円しか残っていなかった。
「もういっぱい、いっぱいでしたね/笑」。
「納得できるラーメンができた時には、試行錯誤をはじめてなんと半年が経っていました。忘れもしません、12月の26日です。28日をオープン日と決め、27日にはレセプションを開催しました。ありがたいことに好評で、オープン日にも限定100食がなくなりました。ただ、食べていける。最初の数年は、そんな状況でしたね。いろいろ払いを済ませたら、5万円しか残らないとか/笑」。
これがいえば「神仙」の始まり。
ちなみに、店名の「神仙」とは、神様の弟子ということだ。
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日本サブウェイ合同会社 社長 角田 淳氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”日本サブウェイ合同会社 社長 角田 淳氏登場
本文より~

今日のランチに、サンドイッチをつくろう。

自分好みのサンドイッチをカスタマイズできる。サブウェイのサンドイッチのことだ。
まず、サンドイッチの種類を選択。つぎにパンをチョイス。そのあともいろいろ選べて、オリジナルのサンドイッチをつくっていく。
私の例でいうと、たとえば、ローストビーフを注文したとする。パンは基本、セサミ。トーストしてもらって、トッピングはなし。野菜は、苦味と辛味が欲しいのでピーマンとオニオン多めで、ピクルスを追加。サンドイッチは、その日によって違うが、ドレッシングはお決まりの、わさび醤油。
サンドイッチはポーカーをやりながらも片手で食べられる便利な食べ物であるが、サブウェイのサンドイッチの場合は片手とはいかない。両手でワシっとつかみ、かぶりつく。小食の人ではなくても、レギュラーで満たされる。難点を一つ挙げれば、口をひらくので顎が多少疲れることくらい。(フラットブレットを選べばその心配もないだろう)
さて、今回、ご登場いただくのは、このサブウェイを運営する日本サブウェイ合同会社の社長、角田 淳氏だ。
じつは、2011年、当時の社長、伊藤 彰氏にもインタビューさせていただいている。当時はまだサントリーホールディングスの子会社だった日本サブウェイ株式会社が運営していた。あれから8年、サブウェイにも、いくつかの変化があった。最大のものといえば、運営会社がサブウェイ本体にかわったことだろう。そして、変革の時期を迎えている。その点もうかがってみた。

サブウェイの歴史。

「最盛期は470店舗に及んだんですが、現在は約240店舗です。運営がかわったのは、2016年にサブウェイがサントリーと結んでいたマスターフランチャイズ契約を更新しなかったから。サブウェイとサンドイッチのことだけを考えているスタッフによる運営体制に変わったのです。韓国では数年前に店舗を整理したあと、もう一度出店を加速し、現在は過去最高の店舗数です。日本もこれからそのフェーズに入ると思っています。現在、店舗の売上・利益も回復傾向にあり、様々な改革が実を結んできています」。
サブウェイの基本戦略は、フランチャイズ。パッケージとしては出店コストも低く、ロイヤリティは8%だが、他のチェーンと違い、野菜などの食材にはいっさい上乗せがないから実は条件がいい。角田氏自身も「初めてFC店を経営しようという個人の方にも向いている」と言っている。
法人だけでなく、個人でも経営しやすいのが特徴というわけだ。さすが、世界中に広がっているだけはある。
今後は、首都圏、近畿、中部エリアを中心に展開を強化するとのこと。サブウェイのサンドイッチを食べた人も多いエリアだけに、拍車がかかることだろう。むろん、指揮をとる角田氏の手腕が問われるのはいうまでもない。
では、長くなったがいつも通り角田氏を生い立ちから追いかけてみよう。

中学からはじめた寮生活。

「私は、1971年生まれです。小学校入学直前までブラジルで生活していました。母は、南米出身です。最初はポルトガル語で、つぎにスペイン語、実は日本語をマスターしたのは、日本で暮らすようになってからです。姉が1人います」。
重工系の仕事をされていたからだろう。父親は海外出張も多く、グローバルに育った子どもたち。姉は高校からアメリカへ、角田氏もまた大学からアメリカで過ごしている。「だから、いちばん日本にいるのは、外国出身の母でした(笑)。私は中学から寮生活に入ったので、家にいるのは、もっぱら母1人でした」。
中学から寮生活?
「そうなんです。小学校の校長先生に勧められて、静岡の学校に進みました。入学してからは担任に勧められ、ラグビーをはじめます。練習量は多くないものの、成績は良かったですね。グランドでも寮でもいっしょですから、チームワークが取れていたんだと思います。あの時の学生生活は私にとって財産です」。
週に1回、お菓子をもとめ下界に降りた。それも、いまになれば楽しい思い出だ。
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2019年10月9日水曜日

株式会社アクアプランネット 代表取締役 福政圭一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社アクアプランネット 代表取締役 福政圭一氏登場
本文より~

瀬戸内海に浮かぶ島。

「海へは2分、山へは1分」と、福政圭一氏は笑う。
福政氏に言わせれば、島とはそういうものらしい。高いほうから山、人、海なんだそうである。福政氏が瀬戸内海に浮かぶ、その島に生まれたのは1969年5月15日。
市町村名で言えば、現在は尾道市瀬戸田町となる。
「『生口島(いくちじま)』と言います。私が生まれた頃は、人口1万2000人くらいでしたが、今は1万人を割っています。かつては造船の町だったんです。今は瀬戸内レモンで有名ですが…」。
生口島は瀬戸内海では10番目に大きな島なんだそう。この島で福政氏は18歳まで過ごしている。「本土は、海の向こうで、私たちにすれば文字通り海外です。高校までは島を離れ、尾道の中心街に出かけるのも冒険でした」。
小学校から野球が好きで、高校では軟式野球部を、硬式野球部にしてしまったそう。「やるなら硬式でしょ。私はキャッチャーです」。
父親は造船の仕事をされていたそうだ。
「うちは貧乏でした。ぜんぜんお金がない。父が四六時中、お酒をかっ食らっているので、さらにない/笑。ま、当時は、うちまでとは言いませんが、貧しい家庭も少なくない時代です。でも、なかにはお金持ちもいて、ある友達のうちに行くとステレオがあったんです」。     
そのステレオが、福政氏の人生を動かす。
小学6年生の時の話である。

愛するステレオと、福政氏と。

「とんでもなく、衝撃を受けた」と福政氏。2つのスピーカーからでる音が、からだの前でひとつなる。不思議でならなかったそう。
「でも、うちでは買ってもらえないのはわかっています。それで、お菓子もジュースもすべて我慢して、お小遣いをぜんぶ貯金です。その一方で、工業高校に進もうとしたんですが、島には普通科しかない。それで、高校2年の時です。全財産をかきあつめて、通信講座を始めました」。
なんでも、最後の最後には高校でまだ習っていない微分・積分がでてきたそうだ。
「学校の勉強はしないのに、こちらはさぼらない。結局、未習の微分・積分の根本はわからなかったですが、式をそのまま記憶して、クリアします」。
それで、デンオンですか?
「そうです。世界でいちばんステレオを愛する男だと思っていましたからね/笑」。これが、福政氏が20歳の時の話。
「新卒と同じように採用していただくんですが、何しろ、私よりステレオを愛する男はいないわけですから、当然、制作部に配属されるもんだと思い込んでいたんですね」。
「夢は、自分の作ったステレオで世界の人たちを自分の時と同じように感動させたい。でしたし」。
ところが、そうじゃなかった?
「そう!/笑。制作の下の部署で、商品に不良がないか確かめる部署だったんです。最初は『なんでやねん!』とむくれていたんですが、制作部のトップの人が作った物を見て愕然とします。こっちは通信講座でしょ。向こうは一流の大学でゼミなど専門的な研究をしてきて仕事をしているわけで、そりゃ、レベルからしてぜんぜん違う」。
                     3年半、在籍した。
「技術はそうでもなくても、私、耳は自信ありでした。一つのスピーカーの音をチェックしながら、ほかの人の、スピーカーのチェックもできるくらいでしたから。『いまの音、おかしいよ』って。しかも、驚くくらいの精度です。だから、実は仕事も面白かったんですが。ま、妻というか恵子さんを取ったわけですけれど/笑」。

「いい声しているわね」、恵子さんのつぶやき。

アクアプランネットの創業者は、実は福政氏ではない。妻の福政惠子氏である。福政氏は妻のことを「恵子さん」という。この記事でもそれを踏襲する。
「恵子さんと知り合ったのは、デンオン に入社するまでにやっていたテレフォンアポインターの仕事で、です。
彼女に電話をかけ『投資に興味はないですか?』と/笑。それが、始まりなんです」。
証券会社のアポインターの仕事だったようだ。
福政氏は大阪から彼女が暮らす三重まで電話をかけていた。
「ふつうは1秒です。『もしもし…』『ガチャ』『もしもし…』『ガチャ』。なのに恵子さんは違っていました。話に耳を傾け『いい声しているわね』って。それがきっかけで、仕事以外でも話をするようになって。お付き合いをして3年くらい経って『結婚しようか』と」。
だが、大阪と、三重である。
「恵子さんが会社をたたみ大阪にくるか、私が仕事を辞めて三重に行くか。選択肢は、そのどちらかです」。
もう塾を経営されていたんですね?
「そうなんです」。

三重へ、選択の結果は、さらばオンキョーだった。

「仕事がいやだったら、さっさと辞めちゃうんですが、好きだから、そうはいかない。ただ、上司に相談すると四日市にあるオフィスに異動できるみたいな話になるんですね。四日市だったなら通勤もできそうだったんで、『こりゃ、いいや』と」。
それは、よかった。
「そう、よかったんですが、実は、転勤前に向こうのオフィスがなくなっちゃって。『え、うそでしょ』ですね。会社は、『交通費を出すから大阪まで通勤したらどうだ』とも言ってくれたんですが、さすがにそれもないな。って」。
それで結婚して、三重ですか?
「はい、そういうことになります。私が24歳の時です。ただ、すぐに塾を手伝ったわけではありません。最初は、松阪で独立しシャープサービスの下請けをしていました」。
膝を悪くしてしまったそうだ。
「突然膝が痛くなって 、シャープの仕事ができなくなっちゃいました。それがきっかけといえば、きっかけです」。
妻の恵子氏が経営されていた塾も、生徒が膨れ上がり、100人くらいになっていたそう。「さすがに1人じゃたいへんだろう、と。それで、『私も手伝おうか』って。私が26歳の時です。答えは、もちろん『YES』です」。
恵子氏は、とびあがって喜んだことだろう。大好きで、頼りになる夫が、一緒にやってくれるのだから。
福政氏が手伝い始める。
恵子氏が授業を行い、福政氏が進路指導などのカウンセリングをする。そのスタイルが定着すると、益々評判となり、倍々で生徒数が増えていく。
「塾だけではなく、予備校もスタートします。その一方で、恵子さんが飲食を始めたいというので、『いいよ、こっちで利益をちゃんとだすから思い切りチャレンジすれば』と背中を押しました」。

恵子さんが、残した会話のつづき。

福政恵子氏は女性経営者として、数多くの女性たちの目標ともなり、慕われてもきた。じつは、この「飲食の戦士たち」にも登場していただいている。しかし、突然、お亡くなりになってしまった。
「突然だった」と福政氏はその時の様子まで話してくれている。
「あの時はねぇ。気が張っていましたから…。最初は、泣くこともできませんでした。事業のこともありましたし、彼女を慕うスタッフたちのこともありましたし。ただ、僧侶に『我慢しなくていい。泣いてやるのが、供養です』と言われて…」。
その一言で、膝から崩れ落ちたそうである。
「私たちが最初に手がけた飲食店は『バレル』という大阪の淀屋橋に出店したベルギービールのお店です。その2年後に、東京・丸の内にも出店します。彼女は、精力的に飛び回っていました。それでも、毎日、電話をしていました」。
思えば、塾を手伝い始めてからというもの2人はいつも一緒だった。2人して、1台の車で通勤する。
福政氏がハンドルをにぎり、恵子氏が語りかける。スタッフのこと、事業のこと。知性的な恵子氏のことだ。ウイットに富んだ会話は、塾につくまでの道のりを楽しくしたにちがいない。
「じつは、今も話をしています」。
そういって、福政氏は手帳の話をしてくれた。
「恵子さんが、いつも空想・妄想を書き記していた手帳が何冊もあるんです。そこにね。1年後。3年後。いやもっと先に、どうなっていたいかが書かれているんです。それをみてね。私は、いまでも話をしています」。
手帳には、どの場面にも一つだけ同じことが書いてある。
「『スタッフを幸せにする』っていう一言です。いかにも恵子さんらしいな、と」。
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株式会社SANTA CALA 代表取締役 望月貴史氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社SANTA CALA 代表取締役 望月貴史氏登場
本文より~

サッカー、サーフィン、そして、飲食。

旨いラーメン店がある。某グルメサイトでベストラーメン賞を6年連続受賞。賞の名目は変わったが現在もラーメンの名店として選ばれ続けている店。素人の声はプロの評価に劣らない。庶民の食べ物であるラーメンなら尚更だ。
今回ご登場いいただいたのはそんな無類に旨いラーメン店の店主、望月貴史氏。1971年生まれ。
「うちは先々代から飲食です。もともとは別の場所で喫茶店をしていたのですが食堂を経営する際にここに引っ越してきました」。
望月家の歴史が刻まれた「中華そば 麺や食堂」で取材は始まった。
ホームページによれば移転は1955年「食堂ブラジル」としてリニューアルオープンと書かれている。無論、望月氏が生まれるずっと前だ。
望月氏は1971年に生まれご両親の愛情を受けすくすくと育っていく。小・中学時代はサッカーに没頭するスポーツ少年だった。「ただ、サッカーは高校2年生の時に辞めました。10年間も続けていたので…。それにサッカーだけっていうのもな、と思って。」。
それでサーフィン?
「はい。湘南が近かったですし、当時はサーフィンが格好良いスポーツだったので」。
しかし日本の海だけでは満足できず、高校を卒業した望月氏は半分サーフィンをするためにアメリカに渡る。名目は語学留学。
「うちの仕事を始めたのは帰国した時だから20歳ですね。人がいなくなって手が足りないというのが理由です。もっとも私の給料は5万円。最初は、何でだ?って思っていたのですが、台所事情を知ると文句も言えなくなった/笑」。

食堂には、メニューがいっぱい。

「あの頃は言わば私の修業時代です。5万円じゃさすがに足りず夜はアルバイトをしていました。なんとか売上をアップさせようと弁当もスタートしたのですが、なかなか利益が出ませんでした」。
食べていくだけでやっとという時代。
「ただ食堂だったのでメニューは多いです。カレーにカツ丼、野菜炒め、とんかつ、生姜焼き…。おかげで野菜のカットや肉のセレクトなど貴重な経験ができたのも事実です。今でもその時の経験が私の財産になっています」。
ただ頑張っても売上は低空飛行が続く。
「食材や調味料を見直すなど試行錯誤を重ねましたがバブル崩壊の影響もありなす術が無かったのが正直なところです。無我夢中で必死に仕事をしましたが浮上のきっかけも掴めず身体もボロボロでした。いよいよ店を閉めなければならなくなった、それが丁度私が28歳の時です」。
ラーメン一本で勝負すると決めた時だ。
「一品で勝負しようと決意しました。この時は2人目の子供も産まれたというのもあり崖っぷちに立たされてました。でも、そのままズルズルやっていくのも許されなかった。ラーメンで失敗したらもう終わり。祖父の代からつづけてきた家業も畳まなければなりません」。
勝算があったわけではない?
「勝算はありませんでした。反対する親父をなんとか説得して。ただ、リニューアルするにも金がない。この内装も実は手づくり」。そう言って店内を見渡す。
「最初は私が素人なりにやっていたのですが、内装をやっている友達やお客さんまでもが見るに見かねたんでしょうね。『何しているの?これじゃだめ。』と言いながら手を貸してくれて。ラーメンそのものは父親が作っていた味をベースに、新たに食材を加え調味料を調整しました。このラーメンは私が小さい時から食べ続けてきたラーメンです」。

食べ続けてきた馴染みのラーメンで最後の勝負。

我が家の味?
「我が家の味と言えばそうなるのでしょうか。実は昔から食べ続けてきたせいでラーメンは嫌いだったのです/笑」
お腹が空くと、母親が「ラーメンでいい?」と、ラーメンをテーブルに置いたそうだ。忙しく働く両親の背中を見ていると嫌とは言えなかった。
「ただ、この時ラーメンで勝負しようと思ったのは、いろんなメニューがある中で父親が一番大事にしてきた料理ですし、私にとっては小さな頃から慣れ親しんできた味だからです。これで駄目なら諦められる、と」。
考えてみれば祖父から続く3世代の結晶でもある。
「ラーメン店をオープンしてからは今まで以上にがむしゃらに働きました。5年間休んだ日は1日もない。それでも売上は伸びずこれといったスープもなかなか作れませんでした」。
「きっかけは一杯のラーメンです。すごく旨いラーメンでした。今までは『食堂ブラジル』のラーメンがベースでしたが、このままではいけないと気づきました。それからですね。父親としょっちゅう喧嘩しながら、TVでラーメンの特集が流れると知れば録画してTVにかじりつくように観たり、それまで以上にラーメンにつかる日々。ようやくカタチができたのが30歳の時です」。
しかしそれでも業績はなかなか改善しない。そんな中、週1日を休みにして食べ歩きに専念したのは友達がラーメンを食べて言った一言、「普通」。。 何がなんでも普通じゃないラーメンをつくる!。 そうやって苦労に苦労を重ねて出来上がったのが、今やグルメサイトでもトップクラスに評価される望月氏のラーメンだ。。 「最初は特別なオレだけのラーメンだと思っていたのですが、いろいろ試行錯誤して『普通でいいんじゃないか』って思うようになるんですね。うちのラーメンを上からみると分かるのですが麺が川の様になっています。有名店でも見られるような綺麗な盛り付けは実はうちが発祥なんです。お金がないから平ザルですくって入れていたら、時にすごく綺麗に盛ることができて。コレ、いいじゃん!ということに。そんな偶然から生まれたのです」。。 今やインスタントラーメンのパッケージの麺もそうなっている。「ラーメンは嗜好品なんです。うどんや蕎麦と比べればわかりますね。奇抜なラーメンが許されるのは嗜好品だからなのです。ただうちは普通で言わば王道です」。。 確かにメニューを見れば望月氏が言わんとすることも理解できる。
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2019年10月1日火曜日

株式会社ダイナック 代表取締役 田中政明氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ダイナック 代表取締役 田中政明氏登場
本文より~

お堀の向こうの、大屋敷。

父親の実家は、京都の老舗染物店だった。父親は、京都大学出身の技術者。
「ものごころついた時には、お屋敷に住んでいました」と、今回ご登場いただいた田中氏は、語りだす。兵庫県が、技術者の父親のために用意してくれた屋敷だったとか。4人家族には広すぎて、部屋を区切って暮らしていたらしい。
「庭もそうなんです。迷子になってしまうからロープで仕切って『ここから、向こうはよそさんだ』って言われていました。あの時、『怖いのは何?』って聞かれたら、まっさきに『家』って叫んでいました」。それだけ、古臭く、広かった。
「丹波篠山って、ご存知ですか?あそこに篠山城っていう城があって、そのお堀の向こうに、私たちは住んでいたんです。昔のご家老のお屋敷だったみたいです」。
それなら、広いわけだ。
「篠山の伝統工芸の一つに『立杭焼』っていうのがあるんですね。うちの父親は、兵庫県に頼まれ、当時はその『立杭焼』の窯の設計をやっていたそうです」。
親子関係はどうだったのだろう?
「うちにいる父は、ずっと書斎にいましたから。じつはあまり話したことがないんです」。
父上はいくつかの本も執筆されている。技術サポートのために、台湾に渡られたこともあるそうだ。
「本人曰くですが、台湾ではけっこうな有名人だったらしいですよ」。
田中氏本人に、反抗期はなかったという。それどころか、絶対服従に近かったかもしれない、年の離れた兄が1人いるが、兄にも、父親にも敬語だったそうだ。
「それが、ふつうと思っていたんでしょうね。父も、兄も、リスペクトの対象でしたからね。公園でキャッチボールをしてくれたのは、兄だったかな」。
「兄は、みんなから期待されて育つんですが、京都の実家からすると、長男のそのまた長男で、しかも初孫ですからね。兄に言わせれば、それはそれで、大変だったようです/笑」。

甲南中学入学。その時のいろいろ。

六甲山の麓になるだろうか。阪急「芦屋川」駅から徒歩20分。山間にある、自由な校風の中学だ。甲南大学の付属校である。
「当時、身体が弱かった私を心配した母が、一貫校に進めるように父を説得します。それが甲南大学の付属中学でした。ここではバレー部に所属します。主将になり、それが一つの教訓を生むんですが…。そうですね、それは、もう少しあとで/笑。高校でもバレーを続け、監督からまた主将に命じられるんですけど、『いや、先生、それはだめです』って」。
なんでも、中学の時、主将になったことでハリキリすぎ、メンバーと齟齬が生まれたらしい。
「だれにでも、命令口調でね。ハッキリいえば、嫌われ者だったんです。だから、『また主将なんて、無理』って思ったんですが、1人の同級生が『やれよ』って言ってくれて。私にとっては、大きな一言でした。あの一言がなければ、人生もかわっていたかもしれません」。
たしかに、そんな一言はある。
「じつは、この時もう1人の貴重な人物と会っているんです。のちに上司となる、吉本さんです」。
そんな時から縁があったのですね!
「そうなんです。私は、サントリーで吉本さんの下につくんですが、中学・高校の学園際で、すでに実行委員長だった吉本さんに指導されているんですね。模擬店をやる私たちに『値段は、いくらにしろ』とか、『よし、今から値下げだ』とかね。当時から、商才があったんでしょうね/笑。吉本さんは、私の4歳上です。出身が一緒だということで、ずいぶん可愛がってもらいました。今あるのは、言うまでもなく、吉本さんのおかげです」。
田中氏が「吉本さん」というのは、サントリーのグループ会社である「ミュープランニング」を育てた故吉本隆彦氏のことだ。以前、このサイトにもご登場いただいている。
人が好き、ビジネスが好きな素晴らしい経営者だった。
「そうですね。サントリーのなかでも、だれよりも抜きんでていました。私がサントリーに入社した時は、吉本さんもまだ営業をしていて、距離が近かったもんですから、当然、影響も受けているんですが、勝負する気にはなりませんでしたね」。
直接、吉本氏にも、そう言ったこともあるそうだ。
「すると、『お前だって、京都の老舗だろ』って言われたんですね。でも、それは間違っている。いうまでもなくスケールが違いますよね/笑」。
ちなみに、吉本氏の父上は、関西人ならだれでも知っている「大阪マルビル」の創業者である。
ところで、話をもどすと、主将をもう一度拝命した田中氏。今度はチームをうまく運営し、弱小チームを強くしている。「今でも高校のホームページに残っているはずです。私らの代が『何十年ぶりに、勝利した』って」。
もっとも、バレーは高校までで、大学に進んでからはテニス部に入部することになる。

負け組ペア。

「こうやって振り返ると、いろいろなことがありましたね。やはり主将を経験できたことと、吉本さんと出会えたことが大きいです。そうそう、大学のテニス部の時に、もう1人、面白い人に会います」。
それが、負け組ペア?
「そうなんです。先日、新聞にも載っちゃいましたからね。私とその人はダブルスのペアで、当時は『負け組ペア』って、かなり有名だったんです」。
その相手は、いま象印マホービンの社長をやっておられる市川典男氏だ。
某新聞のコーナーで、市川氏は当時のことを語り、そのなかで、ダブルスのペアだった田中氏の話もでてくるそうだ。負け組ペアの相棒として。
「高校の時、席が隣だった奴が、テニスのインターハイの優勝者だったんです(現在は、日本テニス協会の理事も務めている人物だそうだ)。互いに主将だったから気もあって。大学に入った時に、何かの大会に応援に行くんですが、その祝勝会でテニス部の先輩らにつかまってしまうんです」。
なんとなく、あるある話である。
「『酒を飲んだからには、もう、うちの部員だ』って。一緒に何人か連行されるんですが、私だけがまったくのド素人で。甲南のテニス部って、けっこう強豪なんですね。だから、私の出番なんてなくて、練習だって、みんなが終わってからでないとできない。ただ、そんな私も、いちおう大会には出してもらうんですね。ダブルスです。でも、相手がいない。その時、先輩が『そうや、市川がおるやろ』と。それで、市川・田中ペアが生まれました。もっとも市川さんは、選手ではなくマネージャーだったんですが」。
大会で、市川、田中ペアが登場すると、会場がどっと沸いた。「今日は、どれだけずっこけシーンが観られるか」。
その2人が、いまやともに大企業の社長である。
これを知ったら、当時の観客は何を思うだろうか?

負け組ペアの片割れ、サントリーに進む。

さて、大学4年。当時はまだ就職にコネがきいた時代である。
「なんでもよかったんですが、日常で使われるモノをつくっているメーカーがいいな、と。なかでもサントリーに興味をもったのは、図書館で『サントリーの一族』の本を読んだのが、きっかけです。こいつは、すごいわって」。
コネがあれば有利だが、コネがないと逆に不利になる。
「そんな時、友達がふと『田中ってまだサントリーに入りたいん?』って聞いてくるから『せやなぁ…』って答えたら、人を紹介してくれるっていうんですね。だれって聞いたら、副社長だって。『え?』あの時、私はどんな顔していたんでしょうね/笑」。
どれだけ、紹介が功を奏したのかはわからないが、ともかく、サントリー入社が決まる。
サントリーに入社してからの話は、さきほど少しふれたが、もう少しつづけよう。
新卒でサントリーに入社した田中氏は、東京の品川・目黒の営業担当になる。その時、六本木を担当していたのが、吉本氏だ。これが、1981年のこと。
85年に田中氏は、吉本氏を追いかけるように、業態開発部に異動している。
「以来30年以上、外食ですね」と田中氏。吉本氏以外にも、様々な経営者の話がでてくる。
プロント、ファーストキッチン、サブウェイ…の社長たちの話。「プロント以外は現在、サントリーグループから離れていますが、社長たちは、私と同年代で、みんな吉本教だったと思います」。
たしかに、田中氏と同年代の人たちは、サントリーの外食部門に大きな影響を与えている。むろん、田中氏も、その三銃士、四銃士の1人だ。
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夕刊フジmusic「ミッキー吉野 Half Century」。

9月29日、恵比寿ザ・ガーデンホールにて夕刊フジ・ロックフェスティバルvol.2「ミッキー吉野 Half Century」に行ってきました。
皆さんギターテクニック含め一流は違うな、うまいですね~。

株式会社ポジティブドリームパーソンズ 代表取締役社長 杉元崇将氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ポジティブドリームパーソンズ 代表取締役社長 杉元崇将氏登場
本文より~

バレーボールで知った、私の性格。

父親の実家は、酒蔵を経営していた。母親の実家はビジネスホテルを経営。両親はサラリーマンだが、経営者のDNAは、隔世遺伝のように現れる。
「小学生からリトルリーグに入って、5年からエースとして試合に出ていたんですが、6年生の最後の大会でピッチャーからライトにコンバートされてしまうんです」。
これが、初めての挫折経験。トラウマだ、とも語っている。大人から見れば大げさに映るが、そうではない。今も、忘れていないほどだ。
それで、野球に見切りをつけたわけではないが、中学からはバレーボールを始める。ポジションはセッター。「セッターっていのは、ゲームをつくっていく役割を担っているんです。セッターは一歩引いて、全体を見ないといけませんから、そういう意味でいい経験ができました」。
もともと、運動神経は抜群だったんだろう。高校ではラグビーとテニスをやっている。「もっとも、ラグビーは1週間で辞めちゃいました」と笑う。
「割となんでもできました。スポーツもそうですが、生徒会長に推薦されたりもして。ただ、私自身はセッターのような仕事がいちばん合っていると思っていました。プロデューサーといえば、言いすぎですかね/笑」

オレも28歳で起業だ。

「大学時代はファッションに興味をもち、バイト代の大半は洋服に代わります。大学は福岡大学です。地元を離れたのは、これが最初だったもんですから、いろんな意味で刺激をうけました。ディスコやバーで働いたりしたことも、刺激の一つですね。今まで知らない世界を知る。すべてが新鮮でした」。
「実は起業に興味をもったのも、この頃です。バーで出会ったお客さんのなかに28歳で起業した人がいたんです。この方から仕事の楽しさをはじめ、様々なことを学びました。もともと漠然と起業に興味をもっていたのも事実で、この方との出会いで、意思が固まります。『オレも28歳で起業だ』って」。
28歳。大学を卒業して、6年後を、ひとまずはゴールに設定。
「就職先を選択するのも、起業に役立つかどうかでした。もちろん、具体的なプランはまだない状態です。だから、理念とか、ビジョンを大事にして、いろいろな会社さんのお話を聞きました。イトーキに入社させてもらったのは、社長のビジョンが決め手になりました」。
希望していた東京配属が実現する。
上司にも恵まれ、時には、社長の鞄持ちのような仕事も経験したそう。
「すごく勉強になりました。当時は社長がトップ営業だったので、営業のための資料の準備なども、そりゃ、手も抜けません」。
「この時の経験があったからでしょう。実は入社5年目から出向することになり、出向先では社長のような仕事をするのですが、なんとか、全うすることができました。起業するにも、いい経験になりました。出向先には2年間、在籍するんですが、一番経営の勉強ができた時だと思っています」。

感動とともに、生まれた、ポジティブドリームパーソンズ。

経営者の生の声を聞く。それだけでも恵まれている。そのうえ、実践もできるなんて、そうそうないことだ。「28歳で起業する予定だったんですが、ちょっと長く在籍しすぎました。結局、出向から戻されるタイミングで退職します」。
イトーキの仕事は、むろん面白かったが、起業の志は変わらなかった。それだけ、強い思いだったという証だろう。
「そういうと格好いいんですが、何をするかもまだ決めてなかったですからね。ただ、ずるずる行きたくなかった。それで、思い切って」。
このあと、杉元氏は、とある会社の創業メンバーとして勤務する。その一方で、起業のタネもみつけている。「先輩の結婚式に出席した時のことです。やっぱり、東京の結婚式なんです。幸せそうなお二人にも感動しましたが、式自体にも感動するんです。私が知る、福岡の結婚式とはぜんぜん違っていて、これだ、と」。
「なんでもそうだと思うんですが、東京から地方へ広がっていくものって多いですよね。いくらかの時間差があって。だから、これだ、と。そして、何より感動ですね。こういう感動を生みだす仕事をしたい、と」。
この時、ポジティブドリームパーソンズが生まれたと言っていい。生まれた、ビジネスのキーワードは、「感動」の二文字。

「GNH」を向上。それは、ハレの日をみんなで楽しむことかもしれない。

ポジティブドリームパーソンズについては、ぜひ、ホームページを参照していただきたいと思う。ウェディング事業、レストラン事業、フラワー事業と幅広い。
代表メッセージのなかで、杉元氏はポジティブドリームパーソンズの使命について語っている。
多少、要約すると<2019年、現在、日本のGDPは、世界第3位。一方で、「豊かさ」をはかる尺度である「GNH」は世界156ヶ国中、54位。“モノ”はあふれているが、“ココロ”が満たされない日本の現状を課題ととらえ、日本、さらには世界の「GNH」を向上させることを使命と考え、世の中に『感動』という新たな価値を提供していく>となる。
壮大といえば、壮大だが、ホームページをつぶさにみれば、決して絵空事ではないことがわかる。
<「感動」という新たな価値>。この一言がいい。むろん、杉元氏自身は感動を生む、セッターの役割だ。
・・・続き
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