2022年9月28日水曜日

株式会社ユリシス 代表取締役 龍井義典氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ユリシス 代表取締役 龍井義典氏登場。

本文より~

競技スキーと学生生活。

「小学生の頃は神童で、勉強でも、スポーツでも目立ちまくっていました。今思えば、あの頃が人気のピークだった気もしますね」と笑うのは、今回ご登場いただいたユリシスの代表、龍井社長。
「父親が典型的なサラリーマンだったこともあって、私もサラリーマンになるんだろうなと漠然と思っていました。中学3年生で、父親が単身赴任をします。重石がなくなったことで、私自身の生活態度が少しずつ乱れ始めます」。
それでも、「やることはやろう」と神童らしさも残っていたという。「中学の頃は、勉強より、スポーツです。なかでも物心ついた頃から始めたスキーが大好き。高校も実はそれで決めました」。
高校は、神奈川県の法政二校。
「関東で競技スキーのクラブがある学校は少なく、内申書の成績で推薦が受けられたので、そちらに通うことにしたんです」。
実家は東京の北区だったから電車で1時間はかかったそう。バイクで通ったこともあったが、学校にバレて取り上げられている。
スキーの成績はどうだったんだろう?
「スキーではインターハイにもでています。かなり真剣にやりました。でも、そうですね。冬は授業そっちのけで山に籠るんですが、夏はプールで遊んだりもしていましたね。大学はそのまま法政に進むんですが、進学を境にスキーと縁を切りました」。
どうして縁を切ったんだろう?北国ならともかく、関東でスキーはマイナーだ。そのあたりに答えがあるのかもしれない。ちなみに、龍井氏は、中学ではビーバップハイスクール、高校で神奈川にいくと、それが時代遅れと知り、チーマーに憧れたという。
時代に敏感といえば聞こえはいいが、移ろいだというほうが正しい。

学生生活と就職。

大学になってスキーをやめた龍井氏。「ちょっと生活が荒れた」と笑う。マージャンに明け暮れたのも、大学入学後。「大学時代は、飲食をはじめいろんなアルバイトをしました。なかでも、高校時代の同級生のおばさんが経営していた『もんじゃ焼き』のバイトは、メインの仕事です」。
月30万円をめざしたが、だいたい20万円程度で終わる。ただ、20万円でもすごい。
いったい何に使った?と聞くと、マージャンで払った授業料が相当額になるそうだ。
チャランポランな学生生活だというが、就職もきっちり第一志望に合格している。
「たしかに、そうなんですが…実は大学も、就職も、第一希望と言っているんですが、頭から妥協した上での第一志望です。大学なら早稲田、就職なら総合商社がいい、と。でも、最初から無理だと決めていたんです。いいかげんな学生生活を象徴するように、高みをめざすという気概がなかったわけです(笑)」。
「就職はヤナセです。こちらが、就職できるカテゴリーのなかで第一志望でした。配属はコンチネンタルタイヤ営業部。1年で退職してしまうんですが(笑)」。
父親のサラリーマンの生き様が、重なったのかもしれない。「ああはできない」と思ったのか、「ああはなりたくない」と思ったのか。もっと単純に「つまらなかった」のかもしれない。
いずれにしてもサラリーマンの時代があったから、起業しようと思ったのはたしか。「その時、頭に浮かんだのが『もんじゃ』です。飲食ではなく、『もんじゃ』をやろうと。ヤナセは、1年きっちり勤め、退職。もんじゃ店オープンに向け、スタートします」。

「もんじゃ」をやろう。

龍井氏の「もんじゃ」のルーツは、学生時代のバイト先。だから再度、もんじゃ焼きの店に舞い戻る。今度は修行という色合いがつよかった。
「そうですね。ただ、『もんじゃ』だと決めている割には、熱意が薄かったのも事実。フリーター生活を親に咎められ、もんじゃとはちがう飲食に就職します」。
それがグローバルダイニングですか?
「そうです。彼女とデートでお台場に行った時にモンスーンカフェをみて、心を動かされました」。
それで、即?
「ええ、即、面接にいきました(笑)。面接では、『すぐに辞めたくなるからアルバイトからスタートしたほうがいいよ』ってアドバイスしていただいたんですが、『正社員で』とお願いして」。
「ただ、結果的には言われた通り長くは続かず8ヵ月程度退職しました。でも、むちゃくちゃ勉強になる濃密な8ヵ月でした。お客様が、居心地がいいお店は、スタッフがたいへんだというのも初めて知りました。グローバルは給料がいいことでも知られていますが、私の時で、初任給40万円でした。ただ、当時は労働時間もハンパなかった。これでは体がもたないと退職を決意しました」。
それから、どうしました?
「また、『もんじゃ』の店に戻ります(笑)。そこでアルバイトをしながら、今度は、もう少し楽というか、ハードルが低いお店と思って、『まるはレストラン』に転職し、ほぼ3年間お世話になりました」。
もんじゃ焼きはどこにいったんだろう?
「そうですね。『もんじゃ』にはなかなかたどり着きません。ただ、忘れたわけではありません。じつは縁もあったんです」。
ヤナセ時代の同期が、龍井氏より早く「もんじゃ焼き」のお店をオープンしていたそう。その方が2店舗目をオープンする際に、責任者として声がかかった。
「もんじゃ」との縁はつながっていた。
そして、30歳の時、初めて自身でプロデュースした「もんじゃ焼き」のお店をオープンする。「もんじゃをやろう」と思って、7年。いまだ「もんじゃ」なら成功すると高をくくっていた。

長いトンネル。

「1号店は、偶然、みつけたんですが、もとのオーナーが焼き肉チェーン店の社長さんで、びっくりするくらい器が大きい人で、破格の条件で店を譲ってくださったんです」。
「ちょうど、ジンギスカン料理の店がうまくいかず、お好み店にするかと思ってらっしゃったので、鉄板もまっさら。おかげ様で出店コストは1000万円もかかっていません」。
上々のすべりだし。
ただ、破格と言っても、じつは10年間で1年以上つづいた店が1軒もない店舗だった。だから、つづいたこと自体、奇跡だ。とはいえ、計画していた売上にはまったく届かない。給料も取れず、生活もギリギリ。「辞めるにも辞められなかった」というのが、正しい表現になるだろう。
「『もんじゃ』で失敗した店は知らなかったから、大丈夫だと。資金計画では月商を600万円と弾いていました。ところが、ふたを開ければ200万円からよくて250万円です」。
家賃は30万円だから、通常に計算すれば300万円が損益分岐点。「粉もんは利益率が高いといいますが、食材費は30%程度はかかります。だから、粉もんだから利益がいいという計算は成り立ちません」。
経験者がいうのだから間違いない。
「食べていくのでやっとだった」と龍井氏は声を漏らすようにつぶやいた。当時のつらい思いが、声のトーンを暗くする。「食いつないではいけるものの、先がみえませんでした」とも言っている。
1年目にはお子さんも生まれている。先がみえないプレッシャーに押しつぶされかけたこともあったはずだ。
何がいけなかったんでしょう?
「正直、なめていたんです。それがすべて。もちろん、何もしなかったわけではありません。営業時間も数ヵ月後には朝5時まで延長します。3年間、休むこともなく仕事をしました」。
それでも先がみえない?
「みえなかったですね。ソースも改良し、サービスも徹底しました」。
じつは龍井氏の店では、スタッフが横に付き、「もんじゃ」を焼き上げる。「これって、グローバルダイニングで教わったことなんです。お客様に居心地がいいと思っていただくには、スタッフが動かなくちゃいけない。『もんじゃ』ってけっこう焼くのが面倒ってお客様も多いんです」。
しかし、なかなか業績は浮上しない。トンネルはつづく。

・・・続き

株式会社ユリシス 代表取締役 龍井義典氏

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2022年9月24日土曜日

9月16日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は『鬼金棒』様を取り上げました。

9月16日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、麺屋武蔵を卒業され、唐辛子と山椒を使ったから(い)しび(れる)の『鬼金棒』様を取り上げました。

上半期(4~9月。

9月末で上半期終えますが、ようやく軌道に乗れそうです。
コロナ禍でこの2年は大変苦しかったですが、従業員や外部ブレーンの皆さんが頑張ってくれ、V字回復しております。
中途採用の営業マンも加わり、営業も結果を出してくれてますし、キャリア組のスタッフたちはいろんな局面乗り切ってきたので右往左往しないのもよかったかも・・・。
まだまだこれからですが、下半期は自社商品・サービス、制度のPRも積極的にしていきます。

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2022年9月21日水曜日

株式会社エルティーアール 代表取締役社長 谷 丈太朗氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社エルティーアール 代表取締役社長 谷 丈太朗氏登場。


本文より~

父に内緒で買ったファミリーコンピュータ。

炎をまとった翼で時空を飛翔する。手塚治虫氏の「火の鳥」。初期の作品「黎明期」は、1954年から連載がスタート。ロングセラーだ。この「火の鳥」を筆頭に、ミヒャエル・エンデの「果てしない物語」、宮崎駿の「風の谷のナウシカ」、星新一の「ショートショート」、そして大友克洋の「AKIRA」を挙げたあと、「私のからだの成分は、子どもの頃から読みつづけた、それら、数々の物語からできています」といって笑うのは、今回、ご登場いただいた株式会社エルティーアールの代表取締役社長、谷 丈太朗氏。
「私は1974年八王子に生まれます。父親は大手電気メーカーで半導体事業の責任者をしていました。祖父は国鉄に勤務し、柔道の普及に貢献したようで、小渕さんが総理だった時に表彰されています。母親はピアノ教室や合唱団等の音楽活動を今も精力的に活動しています。兄弟は弟が1人です」。
うろ覚えの記憶ですが、谷家にはテレビは1日に1時間だけというルールがあった。本に傾倒するのは、この1時間ルールのおかげかもしれない。ちなみに、最初に「火の鳥」を読んだのは小学生の頃。本の虫だが、家のなかでじっとしているタイプではなかった。
「一番好きだったのは自転車。何時間もペダルをこいでいました」。
片道2時間のチャリ旅に出かけたこともあるそうだ。余談だが、当時の中学校は、荒れに荒れていた。校舎のなかを、爆音を轟かせながらバイクが走る。まるで漫画の世界。校舎のなかはまさにカオス。
「人間の原点ってそういうシーンが記憶に刻まれていって、かたちづくられるんでしょうね。話はちがいますが、私が中学生くらいの時に、『このままでは俺たちは一生、ファミリーコンピュータをもてないぞ』と弟と話し合って、お年玉を出し合って、父親に黙ってファミリーコンピュータを購入します。バイクで校内を駆ける奴らと比較すれば、なんともかわいい話ですが、私らにとっては、これは大革命でした」。
高校もチャリ通学。楽そうだからと、バトミントン部に入るが、とんでも勘違い。母親の影響もあるのか、音楽に傾倒。イギリスや香港などディープな世界にも憧れた。将来、音楽系の仕事に就きたいと思うようになったのは、この頃。「大学に進学するつもりはなく、音楽系の専門学校へ進学したかったんですが、父親の許しがでません。しかたなく1年浪人して大学に進みます」。
物語の世界とリアルな世界。ちがいはどこにあるのか。「果てしない物語」を映画化した「ネバーエンディング・ストーリー」は、リアルと物語の境界線があやふやで、面白い。ただ、社会人になれば、リアルな世界の比重が大きくなるのは間違いのない事実。兄弟の革命の象徴だった、ファミリーコンピュータも、もう押し入れのなかだったのではないだろうか?

株式会社レッグス入社。

「大学3年の時にインドネシアのバリ島に行きます。これも私の、ターニングポイントの一つです。バリにはそのあとも何度も行きます」。
こちらはリアルな世界。ただ、その世界は、まるで物語のような美しさだったのではないだろうか?「1998年、大学を卒業した私は、セールスプロモーションなどを行う株式会社レッグスに就職します。株式を上場する以前の話です。業績を評価いただき、部長職も経験したあとの2008年、初めての海外進出としての中国事業立ち上げのため、上海現地法人の社長として赴任します」。
整理すると、1998年大学を卒業し、株式会社レッグス入社。営業部長を経て、2008年、上海現地法人の社長に就任。シンガポール在住を経て2015年に帰国する。
「合計7年間の海外赴任と、向こうでのコンテンツビジネスを通して、改めて日本の漫画やアニメの力を再確認します。漫画やアニメは簡単に国境も越え、人の心を鷲掴みにします。言葉のカベすらないかもしれません。帰国後、日本のキャラクターやアニメ作品のライセンスビジネス事業を推進していくことになる背景の一つです」。
ちなみに、その当時、中国で読まれていた漫画は?と質問すると、『NARUTO-ナルト-』、『ドラえもん』、『名探偵コナン』、『美少女戦士セーラームーン』など、いくつかのメジャーな作品が挙がった。
中国時代の話をもう少し。
「中国でビジネスをしようと思ったときに、はじめて経営者になろうと考えました。それまで経営者というのは頭になく、クリエイティブな世界を追求し、楽しんでいるだけでいいと思っていたんですが…」。
クリエイティブを突き詰めれば、それは人づくりであり、会社や文化をつくることじゃないかと思うようになったそう。
「そういうクリエイティブをやろうとすれば、ゼロイチを経験しないといけない。それが、中国で社長をやろうと思った理由です。もともと文化や習慣も違いますから、なかなか大変でした。私を入れ、4人で会社を立ち上げたんですが、3000万円あった資本金が、あれよあれよ、となくなっていきます。これはもう、3ヵ月でゲームセットじゃないか、と(笑)」。
運よく、と谷氏はいうが、むろん、谷氏たちの奮闘があり、中国でのビジネスは軌道に乗る。ちなみに2008年には、リーマンショックが世界を襲う。ナショナリズムが中国で叫ばれていた時代ではなかっただろうか。

本家本元。

「中国からシンガポールに渡り、こちらでも新規事業を立ち上げます。中国の事業を通し、ライセンスと同時にコンテンツのちからに心底ほれ込んでいましたから、このちからでもっと世の中を楽しく明るくしたいと思い、日本のアニメと掛け算したスマートフォンアプリのビジネスをスタートします」。
ただ、こちらのビジネスは、うまく軌道に乗らなかった。
「だからといって、コンテンツやライセンス事業が否定されたわけではありません。私は、日本との距離を想像しました。今更、日本もないだろうと思っていたんですが、やはりここはもう一度、本家本元の日本で本流を知るべきだと帰国します。もちろん、7年も外国暮らしですから、浦島太郎です」。
たしかに、浦島太郎だった。谷氏は、日本にもどって一つのビジネスに出会い衝撃を受ける。「それが、今のカフェビジネスです。アーティストやキャラクター、アニメと飲食体験を掛け算し、ファンたちが集う空間をプロデュースするのがカフェビジネスのミッションです。たとえば、私たちはK-POPの展開が多いのですが、アーティストって人ですよね。本人がいないと、なかなかファンビジネスは成立しません。ただ、その一方でファンたちが集うだけなら、アーティストがそこにいなくても成立します。むしろ、そういうファン同士の交流を実現していくことで、よりアーティストを好きになる場を提供していきたいと思っています」。
2021年には、様々なカフェをプロデュース・運営してきた「TRANSIT GENERAL OFFICE」と共同で、現在、谷氏が代表を務める株式会社エルティーアールを設立。
「こういうビジネスは、元々は秋葉原などにあったわけですが、私たちは表参道や原宿といった、感度の高い女子たちの聖地でビジネスを展開し、成功しています。実は、ヒルトンお台場のIPを掛け算したスイーツビュッフェもプロデュースし、コロナ禍の下でも大成功しています」。
今までの仕事をいくつかピックアップすると、2019年、ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社とフード領域におけるライセンス契約を締結し、専用店舗である「OH MY CAFE TOKYO」を東急プラザ表参道店3階にオープンする。
2022年、株式会社TBSホールディングスが展開する「赤坂エンタテインメント・シティ計画」の一環として、舞台『ハリー・ポッターと呪いの子』が開幕されることに伴い、ワーナー ブラザース ジャパン合同会社とのライセンス契約を締結し、専用店舗である『Harry Potter Cafe』を赤坂Bizタワー1階に期間限定オープンしている。

・・・続き

株式会社エルティーアール 代表取締役社長 谷 丈太朗氏

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2022年9月19日月曜日

先週はよく歩いたな。

先週はよく歩きました。

月曜 13,050歩

火曜 12,225歩

水曜 13,430歩

木曜 9,995歩

金曜 15,250歩

出来る限り駅からお客さまのオフィスが離れてても歩くようにしております。

コロナ禍の1〜2年は1週間平均3,000〜7,000歩くらい、ここしばらくは10,000〜11,000歩だったのでよく歩きました。

そのおかげで3年前に体重減らしてから維持してます。

20歳から3〜4kg増なのでまあ維持してるかな。


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2022年9月13日火曜日

株式会社日本珈琲販売共同機構 代表取締役社長 山内豊也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社日本珈琲販売共同機構 代表取締役社長 山内豊也氏登場。 

本文より~

社長失格からリターンマッチで返り咲いた男。

東京都杉並区阿佐ヶ谷を舞台とする漫画『若者たち』(2007年映画上映)。この物語で主人公たちのたまり場として、たびたび登場するのが『ぽえむ』という名の喫茶店。
この喫茶店を開業したのは、現代表取締役社長・山内豊也氏(以下、豊也氏)の父、山内豊之氏(以下、豊之氏)。豊也氏は、二代目社長として父亡き後、27歳で社長に就任したが「ダメ出し」をくらい、一旦は身を引き、6年後、リターンマッチで返り咲いた。
ここにいたるまでの豊也氏の51年にわたる人生と顛末は、おいおい語るとして、まずは、『ぽえむ』を運営するにいたった父・豊之氏の足跡から始めることにする。

武家の末裔、父・豊之氏。喫茶店経営に乗り出す。

日本珈琲販売共同機構の母体は、1966年に豊也氏の父・豊之氏が東京都杉並区にコーヒー専門店『ぽえむ阿佐ヶ谷店』を開業したことがスタートだ。
「父は高知県の出身で、土佐藩十五代藩主・山内容堂の分家にあたります。いわば“武家”の出ですね。代々、理系の学者や教員など教育関係に携わった家柄ですが、父だけが“突然変異”とでもいうのか、独自の道を歩んだ人でした。シナリオライターになりたかったそうですよ」。
父・豊之氏は、大阪と高知両県の大学で学び放送研究会に所属したこともあり卒業後、シナリオライターを目指し上京。とは言え、即、シナリオライターとしての仕事があったようではなかったようだ。
「収入を得るためもあったのか、下高井戸の喫茶店にマネージャーとして勤めていました。それが上手くいったみたいで、“自分で喫茶店をやってみよう”と思ったのが発端のようです。父が30歳くらいのときだったと思います。父には父なりに東京で一旗揚げる、という意気込みがあったのかもしれませんね」と豊也氏。
ちなみに、この下高井戸の店時代に見初め結婚したのが、10歳年下の母・本子さんだ。

フランチャイズ黎明期。次の時代を見据えた父の決断。

「先ほども言いましたが、1966年、東京都杉並区に父が母と『ぽえむ阿佐ヶ谷店』を開業したのは父が30歳のときでした。7坪ほどの小さなお店でした。経営が軌道に乗ったこともあり4年後の1970年『ぽえむ下高井戸店』を出店しました」。
「創業当時、フランチャイズ黎明期とでもいうのでしょうか、現在のような明確なフランチャイズ展開というのは形作られていなかった時代でした。ただ父は、“アメリカで拡大しているフランチャイズ・ビジネスが早晩、日本に上陸するだろう”という自分なりの考えというか確信があったようです」。
「創業は1966年ですが、1971年に日本珈琲販売共同機構を設立しましたが、これは“フランチャイズ”展開を睨んだものでした」。
ただ設立には、単に“フランチャイズ”の店舗数を“量的”に拡大させるのではなく、“質”も備えた“フランチャイズ”という明確な理念と思想があった。
「父には『日本に本物のレギュラーコーヒーを広めよう』という意気込み、思想が底流にありましたので、当時の業界の常識を覆すような事ばかりを進めていました。ですから“フランチャイズ”展開を進めるにあたって誰でもいいのではなく、こうした思想を共有できる方がいいと考えていました」。
つまり思想を結実させるには、“志”を同じくする、言い換えるなら“同志”たちと意識を共有することが成功に繋がるという確信があったからだと豊也氏は、父・豊之氏の決断を語る。
こうして始まった『ぽえむ』は、豊之氏の考えに共感したオーナーによるフランチャイズ店が拡大、1975年頃には50店舗、豊也氏が小学生の頃には、最大で80店舗ほどにまで広がった。
『日本に本物のレギュラーコーヒーを広めよう』という“思想と志”を貫いてきた父・豊之氏が52歳のとき他界した。豊也氏が中学3年生、15歳のときだった。その当時、FC店が70店舗ほどあったという。
人それぞれ、各人各様に人生の“転機”がある。豊也氏にとって父の死は最初に訪れた最初の“転機”になった。

“頭でっかち”だった少年が会社を継ごうと決心した日。

さて、現在、父・豊之氏の意思を継ぎ社長を務める豊也氏は、豊也氏は、1971年、東京都世田谷区で父・豊之氏と母・本子さんの長男として生まれた。3歳下に弟が一人、4人家族で育つ。
「振り返ってみれば、“内向的で頭でっかち”の子どもでしたね」と豊也氏は振り返る。
“頭でっかち”という言葉は二通りの意味がある。一つは文字通り“頭のサイズ”が大きいこと。もう一つは、知識が豊富で賢いけれど行動が伴わなかったりする人を指し、ネガティブなニュアンスで使われることが多い言葉だ。そんな“頭でっかち”少年だったが、進学塾に通い始め、そこで知り合い、仲良くなった友人もでき、勉強が好きになったと語る。
小学校を卒業して、いわゆる世間では進学校と称される中高一貫の麻布中学へ進学した。
「カルチャーショックとでもいうのでしょうか、学力レベルの高さに驚かされましたね。次元が違う子たちがイッパイいました」。
中高一貫の有名進学校に進んだものの、将来展望を持ち具体的な目標を設定したわけでもなく、卒業時には明確な志望はなかったと言う。
15歳の時、父・豊之氏が亡くなったのだが、“父の仕事を継ごう!”ということまでは考えていなかった節が伺える。
進路の決まらない(決められない?)、何を目指せば、どこを目指せばいいのか分からなくなっていた豊也氏だが、「国際基督教大学の国際関係学科に行こうと思っていましたが、最終的には2年浪人の末、早稲田大学第一文学部へ進みました」。
どんな学生時代を送ったのか。
「学業の思い出は大学の図書館でお経を読んだこと(笑)。あとはイベントスタッフのバイトは結構楽しかったのですが、現実の社会や自分の環境が正視できなかったんです。3年まで進んだんですが、会社の経営も悪くなっているのも知っていたので22歳のとき中退し、会社に入りました。父が亡くなる直前、高知で初めてのFC出店を認めた松下さんという方、この方、現在、弊社の会長を務めているのですが、このころ食事をする機会があり、そのとき『もう親を泣かせていい歳じゃないよね』と諭されました。この言葉に『やらなきゃ』と思うようになり、きっかけにもなりました」。
大きな決断だった。

“社長失格!”「ダメ出し」を突き付けられる。

入社後、二度目の転機が訪れる。社長就任である。27歳だった。
「父が亡くなったときまだ15歳でしたが、子ども心に自分が父の想いを継がなくちゃとは思っていました。弟も同じ思いだったと思います」。
一時は母が社長を務めていました。ただ、母は家庭からいきなり経営者になったので、周囲に頼りながらどうにか会社を守っていたのが実情でした。
「わたしより先に弟が大学には行かず18歳で会社に入っていましたが、わたしはいきなり役員として入りました。当然軋轢も生まれ、思いを同じくしていた弟も3年で退職してしまいます」。
27歳で社長に就任した豊也氏。残念なことに経験不足はどうしても否めない。二代目社長(厳密には三代目)にとって見本、手本となる初代の仕事ぶりを見たこともなければ、学んだこともなく、いわば“暗中模索”で取り組むしかなかった。
「自分ならできるという思いばかりが強くなって、家族のみならず、社員やスタッフとの関わりも一方通行になりがち、一人空回りする事が多い10年だったと思います」。
自分の未熟さや会社運営など山積する諸問題の解決に向けて、なかなか全てを相談出来る人もなく追い込まれていく日々を送る中、創業当時の社員の方に意見やアドバイスを求めて、会社の中に入ってもらう事になったが、結局その方に社長失格の烙印を押され、生え抜きの別の役員に社長の座を明け渡し会社を出る事になった。

人事の刷新、自身は修業へ。

『社長失格』ということで解任された豊也氏。社長就任にいたるまでいささかの経験を積んだといっても社長業は“重き荷物を背負う”ようなもの。荷物の重さに耐えながら歩むことは、足腰の強さと相当の体力が必要だ。当時の豊也氏には、過酷だったのかも知れないし、一方で同情も禁じ得ない。
社長就任から実質解任されたこの時期は、同社にとって大きな変革を迎えるきっかけになったのかもしれない。
「悪化した状況を改善すべく挑んだ、いわば人事の刷新でしたが、それでも経営は改善どころかひどくなり、当時大阪での私の指南役で支えになって頂いた松下さん(現会長)が会社の陣頭指揮をとることになりました。会社は最大の危機でしたが、私は大阪で一心不乱に働くしかありませんでした。むしろ、そう後押しして頂きました」。
新しい陣容で経営改善をはかると同時に豊也氏は、西へ、大阪へ向かった。修業のために。

“捲土重来”を期して、修業のために大阪へ。

“着の身着のまま”というか、“転勤”ではなく“修業”なので、身の回りの必需品を詰めたバック一つで、土地勘もなく、知人とて多くない大阪へ向かった豊也氏。
「豊中にある『ぽえむ』のFC店のそばにアパートを借りて、なかば居候でお世話になることになりました。仕事内容は、大阪市内、阪神地区への営業活動でした。まったく知らない土地でしたが、ひと握りの知人や周囲の方々のご厚意で、少しずつ営業先をご紹介いただき、ひたすら歩いて回りましたね。“どぶ板営業”というのでしょうか、人のご縁にも救われましたが、自分の直観を信じ、飛び込み営業に再三挑んだり、異業種交流会や地域の会合などにも積極的に参加し自分の顔を知ってもらうなど、“日々是精進”でした」。
当然ながら厳しい方もいたようだが、豊也氏の切実、真摯な姿、営業に門戸を開いてくれた方があちこちにおり、今でもお世話になっている方も多いようだ。
こうした活動を積む重ねた3年度、“居候”していたFC店のオーナーが引退することになり、豊也氏から願い出て同店を引き継いだ(現在は、後任の店主に譲り盛業中)。

“やったつもり”の姿勢が根底から覆された。

FC店を引き継いだ豊也氏。
「“ワンオペ”からスタートしました。毎朝お店の前にたって地域の方に朝のご挨拶をすることからはじめました。こうして、少し少し、一歩一歩ではありましたが、お客さまを増やしました」。
“毎朝のご挨拶”いうが、雨の日もあっただろう。強い風、冷たい風が吹き抜けた日もあっただろう。台風のときもあっただろう。言葉で言い表せない辛い日だってあった筈だ。そんな簡単なことではなかった筈だ。これを豊也氏は3年間、継続した。
「振り返ってみれば、会社には“仕事未経験”でありながらいきなり取締役で入社し、現場に立ったり、新規営業にも行きましたが、結局は誰かの信用や業務の積み重ねのお陰だったんだと気づきました。こうした事実への配慮も感謝もなく、『やったつもり』だったんだと思い知りました」と含蓄のある言葉を口にした。

・・・続き

株式会社日本珈琲販売共同機構 代表取締役社長 山内豊也氏

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2022年9月8日木曜日

株式会社アヤカンパニー 代表取締役社長 小口欽也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社アヤカンパニー 代表取締役社長 小口欽也氏登場。

本文より~

たった一度のキャッチボール。

「父の影響が良くも悪くもいちばん大きい」と、小口氏。父親の話をうかがうと、小口氏が、そう表現するのもわからなくもない。
「父は大学を卒業し、バーニングプロダクションに入ります。どうやら学生時代からアルバイトをしていたようです」。
当時のサラリーは有名な企業でも6,7万円が相場だったが、芸能マネージャーは約3倍の給与だったそう。「芸能界に入ったのは給料がいいからと言っていました(笑)」。
サラリーもすごいが、違う意味ですごい話がでてくる。
有名な歌手、タレントの話。名前を挙げれば誰もが知っている芸能人たちだ。
「父は、私が3歳の時に自身でフロムファーストプロダクションを立ち上げ独立します、父は、豪快ですが、そのぶん口も悪いからタレントとも衝突していました。ただ、そういう時は、タレントを母親がなだめていました」。
夫婦で、二人三脚?
「そうですね。父が亡くなったあともプロダクションを続けられたのは、昔から母がタレントと接していたからでしょうね。タレントのなかには私に憧れていた人もいましたが、私にとって父は、怖い存在でした」。
ある時、小学校の校庭に連れていかれ、いきなり硬球を投げられたという。初のキャッチボール。捕れるわけがない。ボールをそらし、たたずむ小口氏に『二度とやるか』といって去っていったそう、それ以来、キャッチボールもしてくれないらしい。
一度のキャッチボールが父と子の関係を物語っている。
「父は、私をプロ野球選手にしたかったようです。でも、才能がないと思って腹立たしかったんでしょう。あの頃は、我が家では父が絶対でした。父に対しては、会話も敬語です。私は中学から全寮制の学校に進みますが、父のもとから離れたかった。それが、いちばんの理由です」。

アイルランドで、国外追放、ついでに日本も追放?

今回、ご登場いただいたアヤカンパニーの社長、小口氏は1979年12月生まれ。父親が独立したのは、小口氏が3歳の時、母親が飲食事業を開始したのは8歳の頃。
「日本はバブルに向かっていく頃ですね。プロダクションは好調だったようです」。
小口氏は、どんな状況だったんだろう。
「私も、ある意味、ひっぱりだこでしたね、父の職業を知られて、学年やクラス問わず、学校の先生までがだれだれのサインをくれとかと言われて(笑)」。
小学校も知名度が高い小学校。中学も知名度がある「暁星国際学園」。こちらが全寮制だった。
「中学時代は陸上部で、持久走が得意でしたね。高校は、蒲田の日体荏原高校へ進学します。ただ、高校2年生の時にアイルランドに留学します」。
なぜ、アイルランド?
「めったに日本人がいかないからです(笑)」。
留学は楽しかったという。日本人だからと、差別もされなかったらしい。
「最初は、英語もぜんぜんできませんでしたが、しゃべれないなかでもコミュニケーションには積極的でした。おかげで、彼女もできましたが、悪い友だちもできて、それで、じつは国外追放になっています」。
国外追放?
「そうです。あの時は、やばかったですね。帰国しないといけないわけですが、帰国したら父が待っていますからね。正直、どうしたらいいもんかと・・・」。
小さくなる小口氏に向かって、父親は一言、『しゃぁねぇ奴だな』とだけ言って笑ったらしい。「しかも、それで終わりじゃないんです。『ヨーロッパは合ってねぇと思ってたんだよなぁ。明日からアメリカに行け』って」。
帰国したばかりで、今度は、日本追放。拒否はできない。そういう親子関係。
「今度は、アメリカのアリゾナです。こちらも日本人がいないからです。1年半ほど在学しました。」。
アリゾナでは勤勉な好青年だった。「海外で父みたいな仕事がしたいなと思ったのはあの頃です」。父親の背中をはじめて意識したということだろうか。
ただ、高校を卒業し、大学進学にしてからは、またもや机から離れる。「サーフィンしたくなって西海岸の大学に進みます。あの時、仕送りが30万円なのに、29万円くらいのところに住んでいました。バカでしょ。でもね、ロケーションが最高。ドアの向こうに、西海岸の海がバーンと広がっていて。朝起きたらすぐにボードといっしょに海にダイブです。ただ、その結果、アリゾナでは勤勉だったのに、大学にもいかなくなっちゃって。そういうこともあって帰国し、もう一度大学に進んでいます。22歳の時。イチから勉強です(笑)」。
破天荒といえば、破天荒。
有名なタレントがいるなかで育ったからだろうか。それとも、もともと父親譲りで、スケールがちがったんだろうか?

社長就任、食の世界のタレントづくり始まる。

話はとぶが、小口氏は2020年にアヤカンパニーの社長に就任している。こちらは、すでに書いたが、小口氏が8歳の時に母親が創業した、小口家のもう一つの事業である。
「父が他界したあとも、芸能事務所はつづけ、私も入社して仕事をしていましたが、ある時を境に飲食に舵を切ります」。
アヤカンパニーのホームページをひらくと、素敵な絵が現れる。
「飲食は母親と、今の副社長がプロデュースした事業です。きびしい時もあったようですが、おかげさまで人気となり、今の店舗数は12店舗です」。
グルメサイトをみてみたが、いずれのショップも高得点。店づくりでも、やはりスケールがちがうように映る。とはいえ、経営者の小口氏は、ただ大胆なだけではない。むしろ、デリケート。
「社長に就任してからは、全スタッフと面談しました。私の代になって、ぐっとスタッフに近づいたと思います。おかげで、コロナ禍のなかでも、スタッフは辞めずに残ってくれています」。
コロナ禍でも、給料は100%、ボーナスも支払っている。小口氏の矜持という奴だ。
「今では、利益もコロナ前にもどりつつあります。支配人、料理人のおかげですね」。
小口氏は、料理人はタレントで、支配人はマネージャーだという。その発想が面白い。タレントも、マネージャーもいるなら、彼らに任せておけばいい。
「料理もそうですが、店のカラーも支配人を中心としたスタッフみんなで決めています。私は、彼、彼女らをバックアップするのが仕事であり、役割です。だから、コロナ禍でも給料を支払ってきたし、独立したい人も支援しています。もちろん、それでも不満な人もいるでしょうが、そこはもう『去る者は追わず来る者は拒まず』で」。
社長に就任して2年。まだまだ手探りのところもあるようだ。
ただし、逃げるつもりはない。
「将来はイタリアに本社移そうかなと思っています。飲食は世界共通ですからね」。
たしかに、そうだ。
ところで、ある時、父親に、これまたいきなり100万円を渡され、何を食べるか試されたことがあったそう。その時、小口氏は100万円を使い和食の料理人を呼ぶことを選択したそうだ。それを報告すると、父親はにっこり笑い『正解』といったという。理由は、「和食は素材に金をかけるから」ということだった。
料理の本質を見抜いたということだろうか?
さて、今の小口氏は、いったいこれからどんな選択するのだろう?
食の美学を広めるのもいい。イタリアでボーノと言って笑っていてもいい。いずれにしても、答えは、食の世界のタレントたちが握っている。その、食の世界のタレントへのマネージメントが大切であると小口氏は語っていた。

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株式会社アヤカンパニー 代表取締役社長 小口欽也氏

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2022年9月6日火曜日

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