2026年7月7日火曜日

株式会社ワイズテーブルコーポレーション 代表取締役社長 船曵睦雄氏登場。

“飲食の戦士たち”株式会社ワイズテーブルコーポレーション 代表取締役社長 船曵睦雄氏を取り上げました。

本文より~

文武両道から掴み取った東工大への切符。

神戸に生まれ育った船曵氏は、幼少期から運動が得意で小学校では野球クラブで活躍し、中学から始めた陸上では、入部直後の1500メートル走でいきなり5分10秒という好タイムを叩き出し、周囲を驚かせる。その後、名門・神戸高校へ進学。サッカー部のレギュラーとして活躍する一方でアルバイトにも精を出す。しかし部活動との両立は容易ではなく、一時は成績が低迷した。
しかし、「このままではいけない」と一念発起。高校3年の夏休みから猛烈な追い上げを開始し、図書館でひとり参考書と向き合った。そして見事、東京工業大学への合格を果たした。

マッキンゼーでの研鑽とワイズテーブルとの邂逅。

就職活動では当初商社を志望していたが、船曵氏の関心は次第に「人の感情を動かす仕事」へと移っていく。きっかけは、ディズニーランドで目にした光景だった。
「エレクトリカルパレードを見て、心の底から感動している外国人観光客たちの姿に、僕が感動してしまったんです。世界中の人を喜ばせる、エンターテインメントの場を作りたいと強く思いました」。
その夢をかなえる修行の場として選んだのが、戦略コンサルティング大手のマッキンゼーだ。
しかし、そこで待っていたのは想像を絶するハードワークだった。「僕らの仕事は9時5時(朝9時から翌朝5時)だよ」と冗談を言い合う日々。数百億円規模のプロジェクトに携わり、論理的思考の極致を叩き込まれたが、一方で「手触り感」の欠如も感じ始めていた。
「もっと経営者の体温が感じられる場所で、人が直接喜ぶビジネスをしたい」。
そんな時に出会ったのが、設立間もないワイズテーブルだった。求人案件は「社長の右腕募集」。創業者・金山精三郎氏(現会長)の人柄に惹かれ、実際に訪れた同社系列のレストランで、かつて夢見た「人を感動させる場作り」がここにあると確信した。弱冠24歳、ここから船曵氏とワイズテーブルの二人三脚が始まる。

苦難のリーマン・ショックと「全責任を負う経営」への挑戦。

入社後は、現場の声に耳を傾けながら人事制度や管理会計システムの構築に奔走し、組織の土台を築き上げた。2004年に東証マザーズ(当時)上場、2006年には海外進出と順調に規模を拡大したが、2008年の上海進出直後にリーマン・ショックが直撃する。
副社長として再建に尽力する船曵氏。責任ある仕事にやりがいを感じる一方で、心の奥底には閉塞感が漂い始める。
「最終決定はやはり創業社長。二番手でいる限り、自分自身の成長はない」。
黒字化を達成した船曵氏はワイズテーブルを辞し、2016年に株式会社フレッシュネスの代表取締役に就任。創業者の懐を離れ、自らが「全責任を負う経営者」として生きるための挑戦だった。
フレッシュネスでの経験は、船曵氏を大きく変えた。
「最終決裁者として、社員全員の人生を背負う。その重みを知ることで、仕事に対する誠実さがより深まりました」。
180店舗、売上80億円規模の事業を自らの手で動かし、ブランドを再構築した貴重な経験。それが、予期せぬ形で生かされることになる。2020年、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、外食産業はかつてない窮地に立たされた。

コロナ禍での電撃復帰と、誠実さが手繰り寄せた再起の奇跡。

古巣ワイズテーブルの経営もまた、危機に瀕していた。金山氏は船曵氏に復帰を打診。かつてのような二番手ではなく、経営を任せる社長として――2020年5月、船曵はワイズテーブルの代表取締役に就任した。
船曵氏を待っていたのは、銀行交渉や補助金申請といったコロナ危機対応業務の連続だった。2021年には債務超過に陥り、上場廃止も危惧された。
「銀行への返済はリスケという形で保留してもらえましたが、ニューマネー(新たな資金)がなければ次の一手は打てません。債務超過に陥るということの本当の意味での厳しさはそこにあります。資本力がなければ従業員を守れないのですから」。
再起をかけて孤軍奮闘する船曵氏。金山会長とともに身を切る改革に挑むその誠実な姿は、取引先や個人の心を動かし、コロナ禍において異例ともいえる計10億円の資金調達を成功させた。こうして2022年、同社は債務超過を解消。東証スタンダード銘柄として、再び市場と株主からの信頼を勝ち取った。

・・・続き

株式会社ワイズテーブルコーポレーション 代表取締役社長 船曵睦雄氏


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  

2026年7月3日金曜日

株式会社Buzz Foods 代表取締役 鈴木康平氏登場。

“飲食の戦士たち”株式会社Buzz Foods 代表取締役 鈴木康平氏を取り上げました。

本文より~

手がとどかなかったプロの世界。

畑に電線が走る田舎町。
今回、ご登場いただいた鈴木さんが、その田舎町、山梨県の身延町に生まれたのは1995年。
猪注意の看板があったというから、山間の町だったんだろう。そのあと、戸塚に移り、幼稚園からは埼玉県久喜市で暮らしている。
小学生から体格に恵まれた鈴木さんはスポーツが好きで、なかでも野球が大の得意だった。
キャッチャーで5番。
中学に上がるとクラブチームに入り、上級生にまじって全国大会にも出場している。
今度は、6番でファースト。
高校は、名門の聖望学園へ野球推薦で進学。聖望学園は、阪神の名ショートだった鳥谷敬選手の母校である。
<どうでした?>と聞くと、「たまげた」と鈴木さんは笑う。
「特待生が20人くらいいて、中学時代から知っている選手も少なくなかったんですが、グラウンドにでるまでは、背丈でいうと負けてなかったですから『案外、オレもいけるんじゃないか』って思っていたんです」。
ところが、練習をはじめると、想像の世界とちがった。
「ちっちゃいのがカツーンとホームランを打つわ、遠投をズバーンって投げるわ。デブが、めっちゃ速いわで(笑)」。
一般試験で入学してきた選手のなかにも、もと日本代表がいたりしたそうだ。 
「最終的にはメンバーに入りましたが、人生最初の挫折だった気がします」。
野球の一方で、寮生活がスタートする。
「だから、挫折したといっても、ふてくされている時間はなかったです。先輩の洗濯でしょ。課題でしょ」。
自身の勉強どころでもなかった。じつは、野球にも熱が入らなかった。
「2年生になって、寮生活も慣れ、ちょくちょく試合にだしてもらうようになって。それからですね。このぶんなら、メンバーに入れるんじゃないかって欲がでて、もう一度まじめに練習をするようになりました」。
といっても、プロの道は「たまげた」ときからもうあきらめていた。

大学1年、冬、居酒屋のキャッチに出会う。

大学に入ってからは、小学生の時からやっていた野球がなくなり、心にぽっかり穴が空いたような感覚で惰性で学校に行ってました。1年生のときは、ちゃんと通っていました。行かなくなったのは、2年生からです」。
<なんで?>と聞くと、『飲食店のキャッチのバイトを始めたから』と鈴木さん。
「1年生の11月くらいからですね。最初はパチンコ店のバイトとかけもちでやっていたんですが、そのうちキャッチ1本になって」。
<面白かったですか?>
「キャッチのバイトってフルコミッションなんです。だいたい40万円くらい儲けていました。時給のバイトでは、いかに楽をするか、そればかり考えていたんですが、キャッチは別人で、1ミリもさぼりませんでした」。
お金はもちろんだが、楽しみはそれだけではなかった。
「ターゲットをみつけるでしょ。トークもマニュアルがあるわけじゃなく、自分のアイデアで語りかけ、お客様をキャッチする。それが、面白くて」。
儲けたお金は親に渡していたそう。
「特別、使うこともなかったし、『管理しといて』くらいの感覚でした」。
<飲食が好きになった?>
「『好き』という気持ちはなかったですね。プレイヤーのときは、数字に追いかけられていましたし、21歳で部下をもってからはマネジメントに奔走していたって感じです」。
プロ野球選手を目指していた田舎育ちの少年が21歳で立っていたのは、思ってもいなかった世界だった。

飲食店、オープン。キャッチをすればなんとかなる。

けっきょく、キャッチは4年。キャッチのグループをつくり、21歳のときから、中国人といっしょに儲けた。
「大学は、1年休学していたんですが、キャッチの世界が楽しすぎて、3年目くらいに退学します」。
「中国人が店をオープンして、うちのグループがお客様をキャッチするというイーブンの関係で事業をスタートしました。ただ、経営がザルすぎたというか、23歳のとき、そのオーナーと別れ、私自身が飲食店をオープンします。これも、まったく想像していなかった世界ですね(笑)」。
<創業店は津田沼ですね?>
「当時、西船橋に住んでいたこともあって、津田沼でスタートしました。津田沼じゃなきゃだめだったわけではなく、たまたまいい物件があったんです」。
「飲食は簡単だと思い込んでいた」と鈴木さん。
「中国人のオーナーの店も、儲かっていましたし、私が仕込みをやって、キャッチをしたらまずいけるだろうと」。
初期費用1000万円。40坪 家賃と返済合わせて110万円。
闇金みたいな金利だったが、なんとかお金を集めてスタートさせた。
<いかがでしたか?>
「飲食をなめてました。業績は2ヵ月で黒字になって、まぁまぁいいスタートを切ったんですが、アルバイトのマネジメントはうまくいかなかったです」。
鈴木さんは自走するタイプだったし、キャッチのメンバーも、おなじ人種だった。しかし、飲食店のアルバイトはそうじゃなかった。
<指示待ちの人は、鈴木さんからすれば異邦人だった?>
「そうなんですよね。ただ、私も高校時代、キッチンのバイトをするんですが、そのときは、つまみ食いの日々で、どうサボるかばかり考えていましたから、彼らのことも、わからなくはなかったんです」。
<とはいえ、経営するほうになったらそうはいかない?>
鈴木さんは頷き、「だから、『どうしてできない?』『なんでやらない?』って詰めてしまうんです」と苦笑した。
それでも、なんとか、業績を維持したまま数ヵ月経った10月。
今度は、消費税増税。
「マネジメントはきつかったですが、業績は想定通りだったんで、悪くはなかった。ただ、10月に消費税が上がると、急にブレーキがかかりました」。
客が、来ない。キャッチもできない。赤字になった。
「それでも、12月になれば盛り返せるとは思っていたんです」。
<どうでした?>
「12月に入ると、思っていた通り、お客様はもどってきて。宴会需要もあって900万円~1000万円になって、マイナスぶんをカバーできました」。
これが、2019年の年末と、翌年の年始の話。
ただし、2020年、コロナ禍がスタートする。

コロナの大逆転。

「人生、どうしよう」。
コロナ禍になって、創業店をオープンした津田沼にも人がいなくなった。協力金もでなかった。
「あのときは、ため息をつくばかりでした。マイナス思考になって、『2019年にギリギリのお金で独立開業した人は、いい店だろうが、悪い店だろうが、終わりだな』って」。
キャッチができない、というよりキャッチする人がいない。魚のいない池に、釣り糸をたらすことに似ていた。
「退店も検討しました。でも、原状回復に600万円かかることがわかって、まさに進むも退くも地獄という状況でした」。
赤字、赤字とつづく。ご両親から200万円を借りる。業者に頭を下げ待ってもらう。
「どうしようもないなかで、1日も休まなかったのが、ある意味、功を奏したというか。毎日、外をみていると、ふと、あれ、いつもとちがうな、と。恐る恐るなんですが、だんだんと、人が流れだしたのがわかったんです」。
<よくなると思った?>
「お客様の『我慢できない』が、うちにとっては光明でした。実際、最悪の数ヶ月が過ぎ、お客様がいらっしゃるようになりました」。
<ただ、コロナ禍はつづく>
「つぎの転機は、8月に2店舗目をオープンしたことです」。
<2020年の?>
「そうです。キャッチ時代、2社目に勤めた会社の会長から『80坪で家賃100万円だが、どうだ?』って言われて。たまたまですが、5月に緊急融資があって、若干、キャッシュもあったもんですから、『やります』と」。
これが2店舗。
「幸い、店長もいい人が採用できて。なんとかかんとか2号店をスタートすることができたんですが、これが大きな転機となります」。
1号店も、わずかだったが、利益がでるようになっていた。2号店はスケールが大きいぶん、ハイリスク・ハイリターンだったが、コロナ禍でも針はハイリターンに傾いた。
「今思うと、よく決断できたなと。会長と話をしたのが、7月15日。8月から私が運営することになるんですが、その期間は2週間しかない(笑)。『やります』といった時点では店長も決まってませんでしたから、ギリギリ。コロナ禍だったから、ある意味、一か八かという部分もあったかと思います」。
8月にスタートした新店は、コロナ禍でも順調に業績をあげていく。600万円からスタートした業績は、すぐに900万円をオーバーする。
「翌年の2021年にはオープンした店はなかったですが、年末には2つの出店が決まっていました」。
1月に千葉駅前。そして、3月にもう1店舗。8月に、アクセルを踏んだことで、すべてが好転する。
「事実と解釈はちがう」と、鈴木さんはいう。
「事実は変えられない。だけど、それを『ピンチ』と捉えるか『チャンス』と捉えるかは、自分の解釈次第」というのである。
「けっきょくはどう解釈するかで、私は、コロナ禍をチャンスと解釈して、オープンを重ねていきました」。
3号店は千葉駅前。4号店は人気FCの「ホルモンたけ田」だった。この「ホルモンたけ田」がもう一つの転機となる。

・・・続き

株式会社Buzz Foods 代表取締役 鈴木康平氏


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  

Global Bridge株式会社 代表取締役 青山祐司氏登場。

 “飲食の戦士たち”Global Bridge株式会社 代表取締役 青山祐司氏を取り上げました。

本文より~

朝礼の最前列と、1ヵ月で3センチと。

今回ご登場いただいたGlobal Bridgeの青山さんは、1983年に青森の八戸に生まれている。住まいがあった是川エリアの周辺には、古代のロマンが詰まった縄文時代の是川遺跡がある。
兄弟は3人。青山さんは次男。
「長男が188センチで、私が184、弟が178。兄は勤め人ですが、私と弟は事業をしています」。
弟さんは、青森で自動車関連の会社をされているそう。
「青森では2番手になってます。うちより売上がいいので、兄としては腹が立ちます」と笑う。
お兄さんとは5つちがい、弟さんとは2つちがい。全員、背が高いが、小学校時代、青山さんは、朝礼では先頭に立っていたそうだ。
「小学校のときは、ちっちゃかったんです。中学に上がるときでも149.1センチしかありません。ただ、それが、中学卒業時には178センチでした」。
「中2のとき、1ヵ月で3センチでかくなった」とのこと。
小学校からバスケットボールをはじめていたから、背丈は大事なポイントだった。
「小学校では、女子がむちゃくちゃつよかったんです。女子と試合をして勝ったことがない。だって、全国大会に行くようなチームでしたから散々でした(笑)」。
小さなからだの青山さんは、どんなふうにコートを走り回っていたんだろう。
<高校もバスケですか?>
「高校は、そうですね、バスケです。兄が先にバスケのスポーツ推薦で進学した高校です。公立ですが、監督が有名で」。
小・中とは弱小だったが、高校はちがった。
1年のときには、練習にもついていけなかったそう。
しかし、3年の終わりにはレギュラーになった。ちなみに、背丈が6センチ高くなったぶん、ゴールがちかくなった。

大学進学と、就職と。

青山さんは大学ではじめて青森を離れた。進んだのは、千葉県の国際武道大学。なんでも権威あるスポーツトレーナーの教授に師事したかったそうだ。
ただ、2年生くらいになるとスポーツトレーナーへの想いが冷める。
ちなみに、大学ではバスケットボールではなく、レスリングをはじめる。<なぜ?>と問うと、「なんででしょう?」と首をひねる。
ほんとに思い出せないらしい。
このとき、お父様が亡くなっている。
「大学辞めるな。母親を守れ」。お父様はそう書き遺した。
優しくて、強くて、怖い父だった。
大学を卒業した青山さんは、冠婚葬祭関連の会社に就職し、その後、ゴルフ会員権の会社に転職する。
合計7年、在籍したというこちらの会社で、「社会人のイロハをすべて身につけた」という。
「高額な会員権は1000万円以上ですから、商談の相手もちがってきます。たいてい上場企業の役員の方です。だから、売買契約書など、書類の知識はもちろんですが、そういった社会的な地位のある方々とのコミュニケーションの方法や、身だしなみも含めて、勉強させていただくことができました」。
青山さんのデスクのすぐちかくに社長のデスクがあった。
「社長にも可愛がっていただいて、ごはんにも何度も連れていっていただきました。いごこちは申し分なく、だから、このときは、独立なんて思っていなかったです」。
だが、人生はわからない。

政治家になるには、金がいる。理想と、現実と。

「ほんとわからない」と、青山さんは笑う。
「小さな頃から経営者だった父親の背中をみてきたからでしょう。私も起業することが一つのゴールだと、じつは学生の頃から経営の本をよみ、のちにお世話になる、株式会社subLimeの代表、花光雅丸さんのブログなども面白くって、勉強になるから、いつもチェックしていたんです。ただ、ゴルフ会員権の会社はいごこちがよくて、独立や起業の思いは霧散していました。ただ、ある人との出会いで、いままで思っていなかった方向へ、進みだすんです」。
<それが政治?>
「そう。ある代議士の第一秘書とたまたま知り合って。感銘を受けて、私も「日本のために、はたらこう」と心を決めたんです。そして、よくしていただいた会社を退職して、ある代議士の秘書になります」。
秘書の仕事は志がないとできない仕事だった。
「とにかく、ハード。選挙になると、朝6時から深夜の0時や1時まで仕事がつづきます」。
講演会の調整、人集め、椅子集めも仕事の一つ。
いつか、日本を動かす政治家に。
「当時、結婚もしていましたから、妻には迷惑をかけました。時間もないですし、じつは給料も半分程度になって、私の収入だけでは食べていけなくなりました」。
<それでも、いつかですね?>
「そう。もちろん、政治家になることがゴールじゃありません。日本のためになる。それがゴールです」。
およそ3年。青山さんは秘書として走り回った。ただ、政治の世界は、ピュアな思いだけではどうにもならないことがわかってくる。
「地盤、カンバン、カバンもない私が、かりに、ある党から立候補させてもらったとして。うまく政治家になれても、カバンも看板もなければ、力が無ければ党の言い分を丸呑みにしなくっちゃなりません。党議拘束がかかれば、党の言うとおりにしなくっちゃいけない世界なんです」。
代議士になっても、お金がないと自由にできない。人から渡されるお金には重い鎖がついていた。
「それがいいことなのか、悪いことなのかわかりませんが、政治家になれても、賛成票や反対票の、その1票にしかなれないんだったら意味がないと思うようになるんです」。
<それで政治家を志すのをやめたんですか?>
「いいえ。私が思う政治家になるために、独立して、代議士になる軍資金をつくろうと決意したんです」。
昔から読んでいた、subLimeの花光さんのブログが灯台になり、花光さんが羅針盤になった。

・・・続き

Global Bridge株式会社 代表取締役 青山祐司氏


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  

2026年6月29日月曜日

セッティングに次ぐセッティング。

セッティングに次ぐセッティング。

それができるだけのネットワーク構築できた。

またこちらから営業しなくても仕事につながる。

こんなありがたいことないです。

そこには、聞き逃さないヒアリングが重要。


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  


2026年6月22日月曜日

6月22日(月)、産経デジタルzakⅡにて、「食べ歩き」がフリー業態の発想原点 「海鮮市場 八芳 上野店」を取り上げました。

産経デジタルzakⅡここだけの外食産業ニュースにて、「食べ歩き」がフリー業態の発想原点 「海鮮市場 八芳 上野店」(運営会社: ファンドリームカンパニー)様を取り上げました。

産経デジタルzakⅡより「海鮮市場 八芳 上野店」




キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  

今期、キイストンで3冊目の書籍動きます。

 今期、書籍が既に2冊(10月~11月出版予定)動き、新たに3冊目(12月~1月出版予定)が動きます。

なんと2冊が、またまた「飲食の戦士たち」再現ショートドラマで登場してもらった会社です!!

また、漫画書籍も1冊出版(時速200kmの世界から、ゴキブリ駆除の日本一へ。 「3K仕事を誇り高い仕事に変える」 元レーサー社長の挑戦!/クリーンライフ大野宗)しましたが、実例があるので新たに3冊くらいは動くかもです。

(クリーンライフや大野宗社長編)


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  

2026年6月18日木曜日

「鬼金棒」様の展開、理想かも。

 店舗展開をそれほどせず、ブランディングに注力!

結果、クオリティの高い店舗が出来上がり、そこに多く国内・海外から一度食べてみたいと多くのファンが集まる。

そしてやりたい企業が世界中から集まり海外展開!

まさに現在の人手不足や原材料高騰してるなかで理想的な飲食経営!

素晴らしいです。


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  

2026年6月16日火曜日

株式会社コローリ 代表取締役 渡部武志氏登場。

“飲食の戦士たち”株式会社コローリ 代表取締役 渡部武志氏を取り上げました。

本文より~

いろの複数形と、2つのいろの最強タッグと。

単数形がcolore(コローレ)で、複数形がcolori(コローリ)。
「イタリア語です」。
教えてくれたのは、今回ご登場いただいた株式会社コローリの共同代表、渡部武志さん。
創業は2012年、ドゥエ・コローリ(イタリア語で2色という意味)という店名で共同経営者の山口さんと創業。2014年には法人化し、12年経った2026年4月現在、池尻大橋にイタリアン「ルリイロ」、 自由が丘に、ネオ居酒屋「ニショク」、外苑前にモツ酒場「こがね」、都立大学にニューレトロイタリアン「マーブル」、そしてキッチンカー「ミルイロ」をオープンしている。
いずれも、色をモチーフにした店名だ。
イタリアン「ルリイロ」をみると、ホームページにはおおよそつぎ のように書かれている。
<築80年の古民家をリノベーションした一軒家風のトラットリア。炭火焼の肉料理と、豊富なナチュラルワインをお楽しみいただけます>
グルメサイトの評価点も高い、高い。
「創業時から、料理は共同代表の山口高志が担当し、ソムリエでもある私がサービスを担当しています。私は料理がからっきしだめで、山口はコミュニケーションが苦手。2人で1人って感じでしょうか」。
料理のプロと、サービスのプロ。
最強タッグがつくったイタリアンは、地下1階だったが、オープンしてしばらくすると地上ちかくまで列ができたそう。
ふと、地上まで長蛇の列ができたというサイゼリヤの創業時の話を思い出した。

2つのいろの出会い。

渡部さんは、1979年生まれ。三人きょうだいの長男。西東京で育っている。
「父は歯科技工士です。青森出身で、母は静岡出身。私らが小さい頃は専業主婦でしたが、動物がとにかく好きでドッグトレーナーになります。父は父で、登山が趣味。月に数回、山に登っていました。2人の遺伝子を受け継いだのか、私も動物が好きで、アウトドア派です」。
現在、渡部さんは2拠点生活を送っている。ふだんは都内で暮らし、休日は、奥様とお子さんが暮らす河口湖の湖畔に向かう。
「動物を飼いたいんですが、残念なことに今は賃貸で。ただ、いま広い土地がみつかって、来年には家を建てることができそうなんです。広いぶん、動物もたくさん飼えそうかなと楽しみにしています」。
渡部さんの口調はちょうどいいスピードで、一定のトーンで話がつづく。
「小・中・高とバスケットボールをしていました。ただ、中学でマージャンを覚えちゃって、高校になるとバスケもそっちのけで(笑)」。
レートも聞いたが、こちらは内緒。
「けっきょく、バスケは高校の途中で辞めてしまいます。じつは、その頃から独立志向がありました」。
渡部さんは、専門学校に進む。独立に向けた一歩。
「日本ホテルスクールという専門学校で、サービスや接客を勉強します。同時にホテルレベルの高い接客スキルがマスターできる店でアルバイトを開始しました」。
接客とサービスのスキルをマスターした渡部さんは、ウルフギャング・ステーキハウス、ハードロックカフェなどを運営する外食事業会社「WDI」に就職する。
「じつは、山口もWDIで働いていたらしいんです」。
<その時は知らなかった?>
「ええ。ただ、その時の上司が、WDIのつぎに私たちが働く会社をつくり、創業時から私も山口もそちらに移り、いっしょに仕事をします」。

病魔とのたたかい。

奥様との出会いも聞かせていただいた。
「妻と出会ったのはスペインのバルセロナの語学学校です」。
「彼女は、高校のときから海外に留学しているような子で。当時、私はスペインに留学中だったんです。2人は、学校で偶然出会って交際がスタートしました」。
日本人がスペインの学校で出会う。まるで映画のようだ。
さて、それはさておき、話のつづき。
「7年、もとの上司の会社でお世話になって、私が山口を誘って独立します」。
それが、冒頭に書いた地下1階のイタリアン。
「初めて物件を見に行ったときのことです。ドアを開けるとキッチンとカウンターがパッと広がって。もう、ここだろって。すぐに契約し、オープンします」。
未来のトビラが開いたのは、外苑前にあった小さな物件。17坪で、家賃25万円。造作譲渡費用や工事などを含め、初期投資は1000万円弱。
「もともと2人で始めたんで、『2店舗はオープンしたいな』って話していたんです。創業店が、さっき言ったように業績も悪くなかったもんですから、すぐにつぎの店舗を探します」。
でもなかなかでてこない。
「ところが、灯台下暗しじゃないですが、すぐちかくにみつかったんです(笑)」。
話を聞くとたしかに、ちかい。
「創業店が地下で、その上の1階に2号店がオープンします。今度はナチュラルワインのお店です」。
順調だったときに、病魔が渡部さんを襲う。
「半年間、たっぷり入院しました。生死をさまようような壮絶な経験でした。病魔に負けるわけにはいきません。子どもも生まれたばかりでしたし、会社も今からというときでしたから」。
「もし退院できたらと、窓の外を眺めていた」と渡部さん。
「外の景色を眺めながら、もし退院できたら、『今年の忘年会は、いつも見ていた屋形船でやりたい』と思っていました。そういう想いもちからになったんでしょう。半年後、無事、退院できたんです」。
夏が、冬になっていた。
「12月の屋形船は、さすがに寒すぎて」と、そのときを思い浮かべる。
  スタッフたちは、口々に「寒い」「寒い」とクレームをいいながら、みなさん、心から笑っていた。クレームの一言一言が、渡部さんには「お帰りなさい」と聞こえたにちがいない。

・・・続き

株式会社コローリ 代表取締役 渡部武志氏


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  

7月よりキイストン人事評価制度を実装させます。

 昨年度社員による人事評価制度が完成してましたが、この1年個人面談等繰り返し、評価も無事終えて、7月より昇給・昇格、インセンティブ制度の変更、賞与について明文化しました。

私がやった訳でなく幹部がしっかり細かくやってくれました。

ありがたいことです。

私は一線でお客様と会って仕事してるのが楽しいので繊細な業務は内部に任せよう(笑)


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  

2026年6月9日火曜日

昨日Amazonに発注したクリーンライフの創業者大野宗社長の物語、本日手元に届きました。

 『時速200kmの世界から、ゴキブリ駆除の日本一へ。 「3K仕事を誇り高い仕事に変える」 元レーサー社長の挑戦! 』クリーンライフの創業者大野宗社長の物語、Amazonに昨日発注し本日手元に届きました。


私出てます(汗)


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  


BONDZ株式会社 代表取締役社長 関川光之祐氏登場。

“飲食の戦士たち”BONDZ株式会社 代表取締役社長 関川光之祐氏を取り上げました。

本文より~

自己紹介の鉄板ネタ。

お父様は、秋篠宮家の専属料理人だった。お父様は、息子の関川さんをしばしば職場に連れて行った。
「母も宮内庁に勤めていた縁で、二人は結婚。2人の間に生まれたのが私で、じつは眞子さんや佳子さんといっしょに宮内庁のなかを走り回ったりしました」。
今回のインタビューはそんな話からスタートした。
改めて、今回、ご登場いただいた関川さんを紹介すると、現在、BONDZ株式会社の代表を務めておられる。1987年8月31日生まれ。
「祖父は染め物職人。神楽坂でお店を経営していました。父は料亭で修行したあと、調理師会の推薦で宮内庁に勤めます」。
園遊会のお料理も担当されたそう。
祖父も、父も、プロフェッショナル。プロの職人の背中をみて関川さんは育った。
「もう入れませんが、小学校のときには宿題の『お父さんの仕事のレポート』を書くために、宮内庁にも、赤坂御所にも行って。今思うとむちゃくちゃ貴重な経験だったな、と父に感謝しています。自己紹介では外せない鉄板ネタです」。
そういって、関川さんは笑う。
皇室ほどの英才教育ではないが、関川さんも、ピアノやバイオリンを習う。
「色々、習った気がします。ただ、ぼくは芸術系じゃなくって、スポーツ。ハンドボールなんですが、そちらに熱中します」。
小・中・高とチームのキャプテン。今のキャプテンシーの源流である。
ちなみに、東京都の小学校でハンドボールのチームが結成されたのは、関川さんらのチームが初だったそう。
「だから、試合も関東大会からスタートみたいな(笑)」。
大学は、スポーツ推薦で進む予定だったが、怪我がもとで推薦が受けられなくなり、指定校推薦で都内の大学に進んだ。

ネズミ講と訪問販売と。

大学生活の話を聞くと、「ネズミ講」という。「先輩に『儲かるで』って言われて」と笑う。
「初期投資は10万円。高田馬場の学生ローンに行って、キャッシングして。儲かるはずが、初月も、その翌月も空振り」。
<10万円の投資を回収しないと>
「そう。だから、凹む暇もない。心を入れ替えて真剣にやります。すると、面白いもので、結果が表れ始めて。調子に乗って、スーツを着て、公民館に人を集めて、ホワイトボードを使って偉そうにプレゼンしたりして。1年弱で辞めちゃいましたが、3ヵ月目からは月に40~50万円は入ってきました」。
<それは、すごい!>
「それ以外にも、飲食や配達のバイトをしました。どこもかしこも、楽しかったですね」。
「仕事より、人間関係が面白かった」というところが関川さんらしい。
就職も、ネズミ講同様、ハイリスクで、ハイリターンな道を進む。
「オール電化や太陽光発電のセールスマンです」。
<インターホンをピンポンってするあの仕事?>
「ハッハ、そうです。車で決められたエリアまで連れていかれて、そこで、リリースされて。契約をいただくまで帰れません。営業の世界ってたいへんでしょ。そのなかでも、紛れもなくいちばん過酷な世界。新卒は200人。みんなであっちこっちをピンポンするんです」。
「ネズミ講で鍛えていただいたからでしょうか。新卒のなかでは群を抜く結果を残していました。秘訣ですか?秘訣は数。数はすべてを凌駕します」と関川さん。
渡された地図をみて、グルグルグルグル、もう一度、グルグルグルグル。ひたすら回る。
「ふつうの人は1ヵ月で3本、ぼくのマックスは12本です」。
商材はオール電化やエコキュート、IH、太陽光。
ちなみに配属されたのは、池袋。
「ネズミ講のときと同様に、そこも1年くらいで退職します。じつは、スカウトされたんです」。

スカウト先は、同業者。

「私の仕事を聞いて、じゃぁ、うちにおいでよみたいな(笑)。仕事はかわらなかったんです。ただ、アポインターもいたし、何より社用車もあって。特別待遇だったんです。ハイ。ラッキーと思ってすぐ転職しました」。
「商材はおなじ。結果も当然でます。だから、給料は悪くない。ただ、最初の会社とちがって、若い奴が多かったからか、いい時計買って、高級車乗って、キャバクラでパッと使って」。
「派手っていうか、見栄っ張りっていうか。車は、高級車なのにボロボロのアパートに住んでいる奴もいました。私は、ちょっと好きじゃなかった。そういうのは」と関川さん。たまに、つるむと「ノリが悪い」と笑われることも少なくなかった。
「けっきょく、1年くらいで、この会社も退職します」。
少しだけ、営業の様子もうかがったので、記載する。
「朝9時から1台の車に4人が放り込まれて、インターホンを押せる、ギリギリの、夜の9時くらいまでですね。グルグル、回るんです。9時、ギリギリにお客さんとつながったら、そこから契約をいただくまで2~3時間はかかります」。
「落とす」というらしい。
「車は1台。だから、1人がギリギリの時間にお客様をキャッチしたら、ほかの3人はやることがありません。そりゃ、苦痛ですよね」。
仕事が終わるのは、夜の12時。ときには深夜1時。
「ぼく自身は数字をあげていました。2社目では、アポインターさんもいたし、社用車もあったし。でも、支店長に手を抜いているのを見抜かれていたんでしょうね。直行直帰もできなくなって。だんだん、無駄にしんどいなと思うようになって」。
そのとき、関川さんは誘いに乗って、飲食の道に迷い込む。

心を折る一言で、火がついた。

「大学の最後のアルバイトが、神楽坂にオープンした焼肉店のオープニングスタッフだったんです。じつは、その時のスーパーバイザーが、のちの『株式会社ふたご』の李 純哲さんだったんです」。
<李さんとは、その時からのご縁だったんですね?>
「そうです。ただ、社員として働いたのは別の飲食店で、いうなら、これが私の飲食人生のスタートです」。
メニューづくりも、仕入れも初体験。しかし、業者との交渉や折衝はお手のもの。値決めのセンスもあった。
「むちゃくちゃ面白かったです。利益もでていましたから。で、本格的に飲食をやろうって決めたときでした」。
そのタイミングを計ったように1本の電話が入る。
「ふたごの李さんからでした。『今何しとんねん?』って」。

ふたごの李さんと。

社員番号は「9番」。 これが、「ふたご」での関川さんの番号。
「正確にいうと、私は2店舗目からで。それ以降はほぼ全店でオープンから入り、最後はブランドマネージャーで70店舗を管理していました」。
<ブランドマネージャーってすごいですね>
「私だけではなく、今、社長をされている森川さんもいましたし、もちろん、創業者の李兄弟もいて。え? 李さんから教わったことですか?」。
「サボることと、遊ぶこと」と言って笑う。ただ、スケールはでかい。「ニューヨークのお客様と意気投合して、『じゃぁ、ニューヨークにだすわ!』って。あの2人ならほんとにやりそうなんです」。
じつは李純哲さんには2012年6月に、今、話にでた森川さんには2025年9月にインタビューさせていただいている。
森川さんに聞いたところ、ふたごの兄弟は今ドバイ在住とのこと。「日本には年の半分しかいない」という。たしかに、2人のスケールはちがう。
そのふたごの兄弟の下で、水を得た魚のように関川さんははたらく。「大阪焼肉・ホルモン ふたご」をはじめ、多くのブランドの責任者となり、事業をコントロールする。
森川さん同様。ふたごの兄弟の懐刀。切れ者の森川さんと、人望の関川さん。2人が事業の両輪となっていた。
「評価いただいていたこともあったし、『ふたご』のオープンな社風も気に入っていましたので、独立はもちろん、辞める選択肢はなくって、森川さんじゃないですが、『ふたご』で役員になろうと思っていたんです」。
「ところが」。
<ところが?>

言い出しペの責任。

「『私が役員といっしょに設計してスタートした『買取モデル』があって。ロールモデルをつくろうとしていたんですが、話を進めていく中で、新規で独立したほうがまわりに刺激を与えれるんじゃないかって」。
「言い出しっぺだし、『じゃ、オレが』と宣言するんです。李さんからは、『なんで関川が』って言われるんですが」。
言い出したはいいが、詳細が決まっていなかった。
「『ふたご』の看板を汚すわけにもいかないので、退職後、自力で、ゼロイチで、店をオープンします」。
<それが、ボンズですか?>
「そう。1号店はコロナのど真ん中の2021年8月。赤坂に『焼肉ホルモン ボンズ』をオープンしました。12坪で28席。家賃は48万円。助成金などは一切でません」。
ローリスク、ハイリターンのつもりが、けっきょくいつも通りハイリスク、ハイリターン。
コロナ禍の下、赤坂の夜は、ひっそりとしていた。

・・・続き

キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)