2026年5月20日水曜日

株式会社double 代表取締役 松井勝也氏登場。

“飲食の戦士たち”株式会社桐麺JAPAN 代表取締役社長 松井利也氏を取り上げました。

本文より~

桐谷さんと、松井さん。

2023年の1月、大阪トップクラスの人気ラーメン店「桐麺」の経営者、桐谷尚幸さんが「桐麺本店」はじめ、「中華そば桐麺」「桐ちゃん製麺」の桐麺全店を同年7月末に閉店するとアナウンスした。
「桐麺」は2014年12月のオープン以来行列が絶えず、「食べログ百名店」にも毎年選出された名店だったから、その発表を聞いて「桐麺ファン」が騒ぎ出したのも頷ける。
今回、ご登場いただいたのは、現在、桐谷さんに代わり、この「桐麺」を運営している「桐麺JAPAN」の代表、松井利也さんである。
一体全体、どういう経緯なんだろう。今回も興味深いお話をうかがうことができた。
松井さんと桐谷さんが知り合ったのは、松井さんが16歳の時。
「そのとき、桐谷さんは『ラーメン人生JET』という大阪の名店で店長をされていました。私は常連客の1人。毎週ラーメン人生JETに通っていただけのその客に、ある日、桐谷さんが『お前、おもろいやっちゃな、うちで働けや』っていうんです(笑)」。
<そこからの縁ですか?>
「そうです(笑)。『ラーメン人生JET』が好きだし、桐谷さんもいい人でしたから、二つ返事で『ラーメン人生JET』でアルバイトを始めます」。
<ラーメン人生JETっていうのは?>
「大阪を代表するラーメン店で、店主は山本さんです。スープは鶏白湯で、数々の賞を取った名店です。桐谷さんはその店主の方に惚れ込んで店長として修行をされてました」。
とにもかくにも、これが、松井さんと桐谷さんの出会い。その後、松井さんは、大学を卒業し、飲食ベンチャー企業に入社する。
そして、2020年、兄の松井勝也さんとともに株式会社doubleを設立。同社は、このインタビュー時の2026年現在で、売上100億円に迫っている。
コロナ禍での奇跡。サントリーの年間新規出店数ランキングでは、2024年、2025年と2年連続で1位を獲得している。
さて、その松井さん。「桐麺」継承以前にも支援するかたちでラーメン店を経営している。これもまた2020年のこと。
その頃、桐谷さんのほうはというと。
「桐谷さんは、『ラーメン人生JET』を卒業し、2014年に『桐麺』をオープン。オープン後間もなく人気店に駆け上がり、2019年頃には『桐玉』という、自家製麺を冷水で〆て、生卵と特製塩ダレをからめて食べるシンプルなメニューが大ヒットして」。
「私がラーメン店を経営することになった2020年頃には、桐谷さんは、超人気ラーメン店の店主でした。桐谷さんにラーメン店を開業することを報告すると、その後もなにかと気にかけてくださって」。
<縁はとぎれない?>
「そうですね」といって松井さんは話をつづける。
「ある日、桐谷さんからLINEをいただきました。その内容というと、『相談があるんや』って。なんやろって、首をひねりながら待ち合わせの十三の喫茶店に行ったら、『加西に家、買ったで。俺はラーメンに100%向き合って生きたい』って言われてました(笑)」。

兄の勝也さんと、松井さん。

松井さんは1996年、今でいう飲食激戦区の大阪市福島区に生まれた。
「父は元料理人。祖父が残したお金でパチンコ店を開業するんですが、失敗してしまいます。倒産するまでは幼いころは裕福だったんですが」と苦笑する。
兄弟は、男3人。
「兄の勝也は中卒でしたが、私は特待生で私立高校に入ります。特待生は入学金、授業料、修学旅行代もいらなかったから、公立に行くより賢い選択かなと」。
その後、松井さんは立命館大学に入学。
高校は学費がかからなかったが、大学はそうはいかなかった。
「高校も、大学も両親には一切迷惑をかけたくありませんでした。ただ、私立大学ですから入学金などのまとまった費用がどうしても工面できなかった。それで、兄に電話を入れました」。
<電話でなんといったんですか?>
「『大学に行きたいねんけど、100万円貸してくれへんか』って(笑)」。
<どうなりました?>
「『ええよ』って。細かいことは一切聞かないでね」。
兄弟愛といえば、それまでだが、たぶん、これが、兄、勝也さんの生き様。
「今、『株式会社double』を、兄といっしょにやっているんで、仲がいい兄弟に思われがちなんですが、じつはあの時まで、ぜんぜん仲もよくなかった(笑)」。
「それどころか、私は高校も卒業していない兄を正直見下してました」と松井さんはいう。「それが、あの『ええよ』の一言で、すべて反転したんです」。
あの日を境に、松井さんは兄、勝也さんをリスペクトの目で見始めた。

最強の2人。

大学を卒業した松井さんは、勝也さんが役員をしている会社に入社。勝也さん同様、役員的な立ち位置で九州エリアを担当する。
松井さんは福岡をホームにして、つぎつぎと新店をオープンしていく。
「兄は大阪で、私は福岡です。2人で9店舗まで店舗数を拡大します」。
<破竹の勢いですね?>
「実際に、破竹の勢いとなるのは、その後、なんですが、とにかく、兄と私で9店舗まで拡大していきます。しかし、その後、コロナが始まってしまうんです」。
<それが一つの起点になった?>
「そうなんです。コロナで、どこもかしこも大変だったじゃないですか。コロナの正体がだんだんわかってきて。それで、余計に何が何かわからなくなって。私たちの店だって、だんだんお客様がいなくなって。でも、お客様はいなくなっても、私と兄を信じて入社してくれた仲間がいる」。
<でも、どうしようもない>
「そう、オーナー経営者じゃなかった。勝算のない中真っ暗闇に突っ込み、不安と戦っている自分達がいたんです。だから、全責任を背負って決断できるオーナー経営者になりたいと思い独立を決意しました。管轄店舗を9舗のうち7店舗を分割ですが買い取らせて頂いて、仲間といっしょに、コロナ禍で再スタートというか、改めてスタートを切ったんです」。
<それが2020年のことですね?>
「そうです。『株式会社double』を立ち上げて、私と兄の、互いの強みを活かして。暗闇のなかでアクセルを踏んで爆走していきます」。
「コロナ×地方」と、松井さんは勝利の方程式をそう表現する。
「都会といったら、大阪でいうとミナミとか梅田。そういう繁華街じゃなく、地方に戦略的に投資しました。都会じゃ『リモートだ、在宅だ』で、昼間の人口が減っていくわけですが、地方はそうじゃありません」。
地方でも、都会同様、抜群のロケーションで、かつ格安な物件が現れた。松井さんはつぎつぎと、それらの店舗の権利を獲得してオープンを重ねる。
財務は松井さんの担当。「いける!」と思えば、迷わずアクセルを踏んだ。
「おれらは背中を預けあった時は最強だと思っていたんです。もし、おれらがだめだったら、どこもだめだろうって」。
<ちなみに、2020年にはさきほどのラーメン店もオープンされていますね?>
「そうなんです、ええ男がパートナーでいたんで。独立支援という形でグループ会社化しました。コロナ禍でしたが、このラーメン店が大バズりするんです。コロナ禍にもかかわらず、連日、お客様が列をつくってくださったんです。もちろん、みなさん、マスクをして」。
「インスタが功を奏した」と松井さん。
「インスタが黎明期の、むちゃくちゃいいタイミングでした」。
片や最強のコンビが経営する「double」が驚異的なスピードで拡大をつづける。その一方で、小さく生まれたラーメン店が、コツコツと人気店舗への道を歩みだす。
ちなみに、最強のコンビといったが、スタンスは異なる。松井さんいわく「独立採算制」とのこと。「いざってときは兄弟ですからね。合体して、2人のパワーで切り開いていきますが、今は、それぞれが担当エリアと業態が独立していて、ライバルでもあります。その集合体が『double』という感じでやっています」。
今回、インタビューさせていただいた「桐麺JAPAN」は、松井さんが率いる独自の法人。創業者の桐谷さんは、取締役最高顧問でアドバイザー的な立ち位置で参画されている。
そして、兄の勝也さんは「株式会社food culture」を立ち上げ、東海エリアでマスターフランチャイジーとして「桐麺」の2店舗をオープン。弟の松井さんのフランチャイジー応援している。

・・・続き

キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  

2026年5月14日木曜日

株式会社桐麺JAPAN 代表取締役社長 松井利也氏登場。

“飲食の戦士たち”株式会社桐麺JAPAN 代表取締役社長 松井利也氏を取り上げました。

本文より~

桐谷さんと、松井さん。

2023年の1月、大阪トップクラスの人気ラーメン店「桐麺」の経営者、桐谷尚幸さんが「桐麺本店」はじめ、「中華そば桐麺」「桐ちゃん製麺」の桐麺全店を同年7月末に閉店するとアナウンスした。
「桐麺」は2014年12月のオープン以来行列が絶えず、「食べログ百名店」にも毎年選出された名店だったから、その発表を聞いて「桐麺ファン」が騒ぎ出したのも頷ける。
今回、ご登場いただいたのは、現在、桐谷さんに代わり、この「桐麺」を運営している「桐麺JAPAN」の代表、松井利也さんである。
一体全体、どういう経緯なんだろう。今回も興味深いお話をうかがうことができた。
松井さんと桐谷さんが知り合ったのは、松井さんが16歳の時。
「そのとき、桐谷さんは『ラーメン人生JET』という大阪の名店で店長をされていました。私は常連客の1人。毎週ラーメン人生JETに通っていただけのその客に、ある日、桐谷さんが『お前、おもろいやっちゃな、うちで働けや』っていうんです(笑)」。
<そこからの縁ですか?>
「そうです(笑)。『ラーメン人生JET』が好きだし、桐谷さんもいい人でしたから、二つ返事で『ラーメン人生JET』でアルバイトを始めます」。
<ラーメン人生JETっていうのは?>
「大阪を代表するラーメン店で、店主は山本さんです。スープは鶏白湯で、数々の賞を取った名店です。桐谷さんはその店主の方に惚れ込んで店長として修行をされてました」。
とにもかくにも、これが、松井さんと桐谷さんの出会い。その後、松井さんは、大学を卒業し、飲食ベンチャー企業に入社する。
そして、2020年、兄の松井勝也さんとともに株式会社doubleを設立。同社は、このインタビュー時の2026年現在で、売上100億円に迫っている。
コロナ禍での奇跡。サントリーの年間新規出店数ランキングでは、2024年、2025年と2年連続で1位を獲得している。
さて、その松井さん。「桐麺」継承以前にも支援するかたちでラーメン店を経営している。これもまた2020年のこと。
その頃、桐谷さんのほうはというと。
「桐谷さんは、『ラーメン人生JET』を卒業し、2014年に『桐麺』をオープン。オープン後間もなく人気店に駆け上がり、2019年頃には『桐玉』という、自家製麺を冷水で〆て、生卵と特製塩ダレをからめて食べるシンプルなメニューが大ヒットして」。
「私がラーメン店を経営することになった2020年頃には、桐谷さんは、超人気ラーメン店の店主でした。桐谷さんにラーメン店を開業することを報告すると、その後もなにかと気にかけてくださって」。
<縁はとぎれない?>
「そうですね」といって松井さんは話をつづける。
「ある日、桐谷さんからLINEをいただきました。その内容というと、『相談があるんや』って。なんやろって、首をひねりながら待ち合わせの十三の喫茶店に行ったら、『加西に家、買ったで。俺はラーメンに100%向き合って生きたい』って言われてました(笑)」。

兄の勝也さんと、松井さん。

松井さんは1996年、今でいう飲食激戦区の大阪市福島区に生まれた。
「父は元料理人。祖父が残したお金でパチンコ店を開業するんですが、失敗してしまいます。倒産するまでは幼いころは裕福だったんですが」と苦笑する。
兄弟は、男3人。
「兄の勝也は中卒でしたが、私は特待生で私立高校に入ります。特待生は入学金、授業料、修学旅行代もいらなかったから、公立に行くより賢い選択かなと」。
その後、松井さんは立命館大学に入学。
高校は学費がかからなかったが、大学はそうはいかなかった。
「高校も、大学も両親には一切迷惑をかけたくありませんでした。ただ、私立大学ですから入学金などのまとまった費用がどうしても工面できなかった。それで、兄に電話を入れました」。
<電話でなんといったんですか?>
「『大学に行きたいねんけど、100万円貸してくれへんか』って(笑)」。
<どうなりました?>
「『ええよ』って。細かいことは一切聞かないでね」。
兄弟愛といえば、それまでだが、たぶん、これが、兄、勝也さんの生き様。
「今、『株式会社double』を、兄といっしょにやっているんで、仲がいい兄弟に思われがちなんですが、じつはあの時まで、ぜんぜん仲もよくなかった(笑)」。
「それどころか、私は高校も卒業していない兄を正直見下してました」と松井さんはいう。「それが、あの『ええよ』の一言で、すべて反転したんです」。
あの日を境に、松井さんは兄、勝也さんをリスペクトの目で見始めた。

最強の2人。

大学を卒業した松井さんは、勝也さんが役員をしている会社に入社。勝也さん同様、役員的な立ち位置で九州エリアを担当する。
松井さんは福岡をホームにして、つぎつぎと新店をオープンしていく。
「兄は大阪で、私は福岡です。2人で9店舗まで店舗数を拡大します」。
<破竹の勢いですね?>
「実際に、破竹の勢いとなるのは、その後、なんですが、とにかく、兄と私で9店舗まで拡大していきます。しかし、その後、コロナが始まってしまうんです」。
<それが一つの起点になった?>
「そうなんです。コロナで、どこもかしこも大変だったじゃないですか。コロナの正体がだんだんわかってきて。それで、余計に何が何かわからなくなって。私たちの店だって、だんだんお客様がいなくなって。でも、お客様はいなくなっても、私と兄を信じて入社してくれた仲間がいる」。
<でも、どうしようもない>
「そう、オーナー経営者じゃなかった。勝算のない中真っ暗闇に突っ込み、不安と戦っている自分達がいたんです。だから、全責任を背負って決断できるオーナー経営者になりたいと思い独立を決意しました。管轄店舗を9舗のうち7店舗を分割ですが買い取らせて頂いて、仲間といっしょに、コロナ禍で再スタートというか、改めてスタートを切ったんです」。
<それが2020年のことですね?>
「そうです。『株式会社double』を立ち上げて、私と兄の、互いの強みを活かして。暗闇のなかでアクセルを踏んで爆走していきます」。
「コロナ×地方」と、松井さんは勝利の方程式をそう表現する。
「都会といったら、大阪でいうとミナミとか梅田。そういう繁華街じゃなく、地方に戦略的に投資しました。都会じゃ『リモートだ、在宅だ』で、昼間の人口が減っていくわけですが、地方はそうじゃありません」。
地方でも、都会同様、抜群のロケーションで、かつ格安な物件が現れた。松井さんはつぎつぎと、それらの店舗の権利を獲得してオープンを重ねる。
財務は松井さんの担当。「いける!」と思えば、迷わずアクセルを踏んだ。
「おれらは背中を預けあった時は最強だと思っていたんです。もし、おれらがだめだったら、どこもだめだろうって」。
<ちなみに、2020年にはさきほどのラーメン店もオープンされていますね?>
「そうなんです、ええ男がパートナーでいたんで。独立支援という形でグループ会社化しました。コロナ禍でしたが、このラーメン店が大バズりするんです。コロナ禍にもかかわらず、連日、お客様が列をつくってくださったんです。もちろん、みなさん、マスクをして」。
「インスタが功を奏した」と松井さん。
「インスタが黎明期の、むちゃくちゃいいタイミングでした」。
片や最強のコンビが経営する「double」が驚異的なスピードで拡大をつづける。その一方で、小さく生まれたラーメン店が、コツコツと人気店舗への道を歩みだす。
ちなみに、最強のコンビといったが、スタンスは異なる。松井さんいわく「独立採算制」とのこと。「いざってときは兄弟ですからね。合体して、2人のパワーで切り開いていきますが、今は、それぞれが担当エリアと業態が独立していて、ライバルでもあります。その集合体が『double』という感じでやっています」。
今回、インタビューさせていただいた「桐麺JAPAN」は、松井さんが率いる独自の法人。創業者の桐谷さんは、取締役最高顧問でアドバイザー的な立ち位置で参画されている。
そして、兄の勝也さんは「株式会社food culture」を立ち上げ、東海エリアでマスターフランチャイジーとして「桐麺」の2店舗をオープン。弟の松井さんのフランチャイジー応援している。

・・・続き

キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  

2026年5月11日月曜日

2026年5月11日は父親が亡くなりちょうど10年。

2026年は、母が旅立って20年、父が旅立って10年という大きな節目になります。
本当に月日が経つのはあっという間ですね。
地元の高校を出て名古屋の大学へ行ってからは、年に一週間も帰らないような勝手な息子でした。
仕事で独立したあと、「少しでも顔を出して親孝行を」と思って京都に拠点を置きましたが、結局は思うように何もしてあげられなかった気がします。
そんな私にできた唯一のことが、葬儀の際の花でした。
母のときも驚くほど多くの供花をいただきましたが、父のときはそれをさらに上回る、溢れるほどの花に囲まれて送り出すことができました。
父もきっと、照れくさそうに笑って見てくれていたんじゃないかな、と思っています。
5月11日は、父親の命日でもあり、また10日は母の日でもあるので仏壇にお供えの花に合わせてカーネーションも挿しました。



2026年5月4日月曜日

4月28日(火)、産経デジタルzakⅡにて、SNS全盛時代に超アナログ手法で大成功!「ジョウネツ」のNEVOK・瀧上晋之介社長を取り上げました。

産経デジタルzakⅡ「ここだけの外食産業ニュース」にて、飲食店オーナーに代わり店のセールスポイントをアピールし、集客につなげるプロ集団「ジョウネツ」(株式会社NEVOK・東京都品川区 瀧上晋之介社長)を取り上げました。

SNS全盛時代に超アナログ手法で大成功! ジョウネツ流リアル感動集客術の秘密

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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2026年4月30日木曜日

【特別企画(過去掲載からの再取材)】株式会社トライ・インターナショナル 代表取締役社長 田所史之氏登場。

“飲食の戦士たち”【特別企画(過去掲載からの再取材)】株式会社トライ・インターナショナル 代表取締役社長 田所史之氏を取り上げました。

本文より~

味噌らーめん専門店「麺場 田所商店」。

ブラジルのサンパウロ、アメリカのニューヨーク。今年(2026年)には、トライ・インターナショナル単独で味噌の展示会を開催するそうだ。
2013年、1回目のインタビュー時、国内は5店舗(FC45店舗)だったが、当時から海外へ目をむけ、海外でも味噌らーめん専門店を複数店舗オープンされていた。ブランドは「麺場 田所商店」。看板代わりにそびえる大きな味噌樽が味噌専門店であることを誇っている。
2026年現在の店舗数はFC合わせ国内外で200店舗以上ある。田所さんは店舗を“出口”と表現する。対になる入口は、約70社ある取引先。味噌蔵である。なかにはグループ化した味噌蔵もある。
「宮崎にある1社が顆粒の味噌を製造しているんです。面白いでしょ。この会社もグループ化しています。味噌を顆粒化し、世界中で手軽に使える調味料として広げていく取り組みも進めています」。すでに60歳を超えた田所さんだが、前回同様、ハリのある声でユーモアを交えながら淡々とお話をしてくださった。
では、今回のお話を始める前に、13年前にうかがった少年期からの話をはじめよう。

野球よりバイク。大学よりバイト。

田所さんが生まれたのは、福島県白河市近郊だった。実家は明治から続く味噌蔵。
子どもの頃の話を聞くと、「テストは30点とればいいほう」とこちらを笑わせてくれた。
勉強は苦手だったが、スポーツは得意。得意な野球では高校で県ベスト4。社会人野球からも誘いがあったそう。ただ、本人は、野球よりバイク。学校にいかなかったから、卒業に赤信号が灯った。
真冬の2月のプール。「25メートルを泳ぐことができたら卒業させてやる」。「先生のむちゃくちゃな課題をなんとかクリアして卒業できた」とおっしゃっていた。
その時の話をすると、「そんな話をしていましたよね。昭和だからある話で。」と笑う。
大学に進学したが、3年生に進級できず除籍。2年間の在学中、田所さんがキャンパスに現れたのは通算で5日。
「バイトに明け暮れていました。当時のマルイシティ新宿でウエイターをしていたんです」。
<大学どころじゃなかったんでしたよね?>というと、田所さんは力強く頷く。
「親も商売をしていたからでしょうね。商売がしたくなって、大学を辞めてとあるラーメン店に就職しました」。

自己破産という選択と、再起と。

「そのラーメン店で修業させていただいて、21歳のときに独立します」。
フランチャイズ店として、居酒屋。商才があったんだろう。バブルの波にも乗り事業は快調に滑り出す。
「ところが、29歳でバブルが弾けて、ラーメンの2号店で躓きました。その一方で、父親が経営していた会社も厳しくなって」。
バブルが弾けると、だれもがとたんに財布の紐をしめた。
「私が経営していた飲食店もそうですし、父親の会社もますます厳しくなって。35歳になるまで厳しい状況が続き、ついに、にっちもさっちもいかなくなり、自己破産を選択するしかなくなりました」。
田所さんは、以前同様、苦しげな表情をする。
「なんとか、FC本部で仕事をさせていただけたおかげで生活はできましたが、制約があって事業は起こせませんでした」。
日々の仕事に地道に向き合った。
「はずかしくて。周囲の目を気にしてしまうほど精神的に追い込まれた時期もありました。あれだけやりたかった商売もやりたくなくなった。でも、事業をする、それ以外の選択肢がなかったのも事実なんです」。
田所さんは自己破産から5年後の話をする。
<再度、ラーメン店でしたよね?>
「いえ、復活の1号店は味噌をメインとした味噌居酒屋だったんです。ところが」。
そういって、もう一度、昔を振り返る。
「ちょうど、うちがオープンしたタイミングで、道路交通法が改正されたんです。簡単にいうと、飲酒運転の取り締まりがむちゃくちゃ厳しくなったんです」。
「しかもね」と田所さん。「うちの店の前で検問が始まったんですよ」と笑う。

盛和塾と再スタートと。

再起をかけてスタートしたが、タイミングが悪く出鼻をくじかれる。
「見事に水をさされました。でも、今思えばそれが幸いして。味噌らーめん店をスタートすることができたんです」。
田所さんは淡々と、話をつづける。
「私の一大転機は、盛和塾に参加させていただいて、あの稲盛さんから指導をいただいたこと。そして、おなじ塾生の人たちに刺激を受けたことだと今でも感謝しています」。
<13年前のインタビューでは、すでに直営5店舗とおっしゃっていました>
「稲盛さんの経営哲学をもとに、今度こそ本当の再スタートです。おかげ様で事業は軌道に乗り、インタビューしてもらったときには直営5店舗、FC45店舗。それ以降も順調に拡大し、今は直営が60店舗、FCが130店舗。当時から海外進出もしていましたが、今はカナダ、アメリカ、ブラジルに店舗をオープンしていて、ベトナムでは製麺所を運営しています」。
「もともとはお店もオープンしていたんですが、コロナ禍にクローズさせていただいて製麺事業だけ残したんです」。
ベトナムでは製麺事業も手がけており、現地のラーメン市場の中で着実に存在感を高めている。「現地でも多くの店舗で当社の麺を使っていただいています」と田所さんは語る。
しかも、ベトナムだけの話ではないようだ。「カナダの大手小売業向けの冷凍麺もつくっているんです」。
話は世界へと広がっていく。卒業と引き換えに25メートルプールを泳いだ、少年の姿はどこにもなかった。


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  

2026年4月22日水曜日

株式会社アオギリコーポレーション 代表取締役 澤出晃良氏登場。

“飲食の戦士たち”株式会社アオギリコーポレーション 代表取締役 澤出晃良氏を取り上げました。

本文より~

六畳一間の孤独と、写真にしか残っていない記憶。

今回、ご登場いただいたのは目黒区で「西口アオギリ」「呑家」「居酒屋ホドケバ」「大衆酒場はんろく」「警視鳥」を展開する株式会社アオギリコーポレーションの代表取締役、澤出晃良さん。
1973年生まれ。
「生まれたのは武蔵小金井。ぼくらはやんちゃな時代で。ビーバップハイスクールに影響されて不良の全盛期」と笑う。
「きょうだいは3人で姉がふたり」と澤出さん。
ご両親は澤出さんが中学に上がるときに離婚。
母親は家を離れ、のちにふたりの姉も家を出る。狭い部屋に残されたのは父親と澤出さん。
「親父は帰ってこないから、すぐに友達の溜まり場になった」と苦笑する。
父親が家にいたとき、電話がかかってくるのは決まって借金取りから。そのたび「いないと言え」と父親の罵声がとぶ。
「恥ずかしかったですよ。だって、4000円の給食費も払えない。部屋も欲しかったね。ぼくが中学までは六畳一間にきょうだい3人ですからね」。
小さい頃、澤出さんは、わがままを一つだけいった。
「部屋が欲しいってね」。
そのたびに傷ついた。
「部屋が欲しいから、『引っ越して』っていうんです。そうしたら『よし、来年は引っ越すよ』っていうんです。嘘つくんですよ。必ず言うんですよ。期待させるんです。で、ぼくも子供だったから必ず期待しちゃうんですよ。『来年になったら、ぼくの部屋ができる』って」。
「でも、毎年、絶対引っ越さない」。
「で、いうんです。『来年は、絶対だよ』って。すると『よし、わかった。来年は引っ越しだ』って」。
何年、そんなやり取りを繰り返したんだろう。
中学生になった澤出さんは、もうわがままを繰り返さなくなった。
小学校の話を聞くと、澤出さんは記憶がないという。父親と公園で凧揚げをしたこと、発表会でワニを演じたこと。すべて写真の記憶だった。
「ピーター・パンで、ぼくはいちばん脇役のワニだった」と笑う。ただ、勉強はできた。「姉ふたりもそうですが、きょうだいみんな優秀でした。もっともぼくは小学校までだけどね」。

え? 塾行ってたの?

「頭がいいって勘違いしていたんですね。小学校のときは、なにもしなくてもクラスでいいほうだったから。でも、中学になってやんなきゃ、そりゃついてけない。1学期に早くもトップに離されまくって。そうなるとつまらなくなるでしょ」。
教室じゃなく、非常階段で授業のベルを聴くようになった。
「非常階段で、悪い先輩らとつるんでいるのが楽しくなっちゃってね」。
澤出家が溜まり場になるには、そう時間がかからなかった。
「でもね。そうやってつるんでいた先輩も、友達も、なんだかんだって高校に進むんですよね。『え? 塾、行ってたんだ!?』って。で、けっきょく3人かな。義務教育で、終了したのは(笑)」。
澤出さんは16歳で内装工事の仕事をはじめる。
「先輩の紹介で、いっしょにはたらいたのは、ぜんぜん学校に来なかった奴。でも、そいつ、仕事をはじめたら急にマジメ人間になって。それで、すぐに独立するんです。『おいおいみんなどうしたんだよ』です。だって、ぼくは、仕事もすぐサボって行かない(笑)」。
結局、長くつづかなかった。
「退職して、ブラブラしてました。新宿とかで。とにかく夜遊びが好きで、20歳のときかな。ライブハウスや、クラブで仕事を始めます。夜は案外、得意なんです」。
ライブハウス、クラブ、そして24歳のとき先輩に誘われ大阪に向かう。

マネージャーの響きに誘われて、東京脱出。

「『大阪でカフェするからついてこない?』って言われて。『マネージャーやらせてやるよ』って。いいでしょ。『え? マジっすか?』って、ルンルン気分で電車に乗ります」。
「マネージャーって響きに釣られた」と澤出さん。実際は副店長。
「副店長でも悪くはないんですが、カフェがだめでした。夜じゃなくって、昼でしょ。夜専用のタイプでしたから、昼の人とは言葉のニュアンスもちがうし。だんだん、怖くなっちゃって。手がふるえるもんだから、お出しするコーヒーまでふるえだすんです」。
キッチンに逃げ込んだ。ひたすら食器を洗った。横目で白い目が注がれるのをみた。
「副店長でしたからね。『副店長やのに、なんやねんあいつ!』みたいなね。『あいつのほうが給料ええの、許せへんわ!』といって辞めていくやつもいて。店長にむちゃくちゃ怒られて」。
東京と大阪。言葉のカベもあった。澤出さんは「健全な少年少女と話したことがなかったから」と苦笑する。
関西弁もマスターして、夜行性の習性を修正する。「なんか、そうしているうちにしゃべりも、うまなってきて『大阪ってええやん!』ってなって」。
新たな環境を好きになるのに時間がかかるタイプ。かたい殻を脱ぐ、そこからスタートするからだ。でも、いったん好きになると、ちがった澤出さんが現れる。
「カフェは2年間です。26歳までですね。大阪もそうですが、後輩もできて『飲食って楽しいな』って少しずつね。で、気づくんです。『なんか、世界が明るいぞ』って(笑)」。

やきいもと、商売と。

「で、どっかで調子に乗ってたんかな。さそってくれた先輩と喧嘩をして『辞める』っていって、26歳で退職。一度、喧嘩すると、ぼく頑固なんで二度と電話にもできませんでした。ま、そっちはいいんですが、家賃を払わないといけないから、仕事はしないといけないでしょ。で、焼き芋屋を始めます」。
<焼き芋?>
「ハイ。あの移動販売です。大阪や京都、滋賀をまわって。でも、ぜんぜん売れへんかったですね(笑)」。
1日のノルマは30キロ。走るほうじゃなく、重さのほう。
「30キロいったら、そこからが利益なんですが、ぜんぜん。だから、芋ばっかり食べていました」。
面白い話も聞かせていただいた。
「大阪でやっていたら、子どもとかくるでしょ。たいてい500円もってくるんです。でも、なかには50円分ちょうだいっていう子もいてね。『そんなのないよ~』ていうしかないでしょ。で、あれ、芦屋ですね。イカリスーパーっていう高級スーパーがあるんですが、その駐車場で疲れ果てて昼寝しちゃってたんです」。
「すいません」と声がする。目がさめたら子どもがこちらをみていた。
「また、子どもかって思って『ないよ~~』っていったら、その子ね、5000円もっていたんです。急にシャッキとして、『なになに?』って。そしたら『5000円分ください』って」。
「芦屋には、たまげた」という話である。
冬は焼き芋、夏はわらび餅。
「それ、2年くらいつづけたんです。正直、楽しくもなかったし、生活で精一杯でしんどいし、ぜんぜん儲からなかったんですが、なんて言ったらいいんかな、商売やってるなって感じになって」。
「で、大阪でなんだかんだあって、ちょとだけ楽しいことをみつけたんだけど、けっきょく27歳のときに東京に帰ります」。

2500万円の衝撃と。

27歳、東京にもどり、鉄板焼の店でアルバイトをはじめ、朝8時から夜2時まではたらいた。給料は40万円オーバー。
「はたらくのは、もう抵抗なかった。でも、40万円ももらっちゃうと、社長が『正社員になれ』って言ってくるんです」。
<イヤだったんですね?>
「そう、根拠のない反骨精神ですね。で、葉山のほうでもはたらいて。35歳のときに『根室食堂』でアルバイトをはじめます」。
「そのときは、とにかくはたらくしかなかったんです」。
理由を聞くと「父親が逮捕されたから」という。
「詐欺という容疑です。そのとき、父親は会社を経営していることになっていました。ぼくが監査役で印鑑を貸していて。突然『2500万円払え』って」。
「もちろん、そんな大金あるわけないし、払えません。だから、裁判になって、けっきょく請求は却下されるんですが、2年くらい真っ暗な日々がつづきました」。
<だから、はたらくしかなかったんですね?>
「そう、計算するんです。月に20万円返して何年かかるかって。そしたらもうクラクラしてきて」。2年間、澤出さんは「ぼくは、無実といいつづけた」という。
澤出さんはいう。
「どう計算しても、完済するのは50過ぎているんです。なんかね。『ちょっと一回死んじゃおうかな』と思ったりして。で。『一回死んじゃおうかな』と思ったら、『あれ、何でもできんじゃないかな』と思って。さっきの反骨精神じゃないですが、『プライドもぜんぶ捨てていいんじゃないかな』と思って。で、そのときですね。『根室食堂』でバイトを始めるんです」。
もちろん、ふつうじゃ返済できない。だから、独立するしかないと、心を決めていた。

独立、それしかないと、覚悟を決めた。

「根室食堂にいったら、もうむちゃくちゃはたらかされるんです(笑)。でも、ぼくにはちょうどよかった。2階もあるから、料理もって階段を駆け上がるんです。1日中、走っているから、へたへたで。何も考えなくていいんです」。
ひたすら、階段を上下した。そんなある日のこと、昔の友達と店の前で出会った。
「ぼく昔から大ぼらふいていて『オレ、絶対、独立して成功するから』って言ってたんですよ。でね、渋谷とかで遊んでいたときの友達が、『根室食堂』も渋谷だったからか、店の前で偶然、出会って、『お、澤出くん、キミの店か、すごいじゃん!』って」。
言葉が終わらないうちに背中から声がどんできた。「澤出くん、何やってんの。中入って、忙しいんだから」って。
声の主は二十歳の店長だった。
「たぶん、親父の逮捕で、ぜんぶかわったと思いますね。たまたま彼女にも振られたタイミングだったし、借金の話をしたら、友達も『頑張れよ』って言って離れていくんです。だから、ぼくは『頑張れ』は言わないようにしているんです」。
<なぜ?>って聞くと、「『頑張れ』って、むちゃくちゃ薄情な一言なんです」。
街道をバイクで駆けて「バカヤロー」と叫びつづけたのも、この頃の話。

貯めに、貯めた400万円が飛んでいく。

こののち、2012年、澤出さんは独立して学芸大学に「大衆酒場アオギリ」をオープンする(後に「呑家」に店名変更)。
「大家さんに『作文書いて』って言われて、作文なんか小学生以来だから困っちゃって。でもね。紹介してくれた不動産会社の女の人、『私、作文コンクールで優勝したことあるから、澤出さんが書いた作文を書き直してあげる』って、女神が現れて。作文みせたら大家さんが『君、気に入った。めちゃくちゃ気に入った。君みたいな人にやってもらいたい』なんてベタ褒めでね。13坪くらいで16万円だから、家賃は破格だったんだけど、『頭金だけ先に払ってくれ』って。それも、120万円」。
<払ったんですか?>
「そう、払いました。そのときの貯金が400万円だったから、残り280万円。スケルトンからだったから、280万円じゃとても工事ができません。でも工事業者の人は準備をはじめてくれているし、それで国金へいくんですが相手にされません」。
ひどい言葉も浴びせられた。
「『頭金が担保だ』っていったり。緊張してね、地酒を言い間違えちゃったりして。だからぼくもわるいんだけど、『君、ぜんぜん素人でしょ。すべて嘘でしょ、これすべて』って、書類を叩きながらね」。
嘘じゃなかった。すべてほんとう。いや、すべてをほんとうにするために、今、お金がいるんだ。
「捨てる神あれば、拾う神あり」というが、ほんとうだった。
「今もうちのメインバンクなんですが、さわやか信用金庫の担当の人が『キミ、面白いね』っていって、480万円、貸してくれたんです。もう、大恩人です。するとね。会計士の人も、業者さんも応援してくれてね。店に寝泊まりするつもりだったから、借りてた家もでて、生活費を削る。そんな真剣な覚悟をみんなみてくれていたと思うんだ」。
「営業は、夕方5時から朝5時まで。それから仕入れにいって。『素人』って言われたのも、その通りでさ。とにかく安くすればいいと思ってた。さしみ380円、ホッピー中100円とかね。お客さんは来たけど、お客さんがきているわりにはお金が残んないんだ(笑)」。
戦略は、とにかく、安く! だから、人件費もケチる。
「どうだったかな。3年間は380~400万円くらいだったかな。アホだからさ。とにかく安く、人件費もケチって、お金が入れば返済する。でもね。あるとき、1人スタッフを入れたら売上がポンって上がったんです。あれ? あ、そうか。これだよなって」。 新店もオープンした。
「でも、戦略なんかない。芋売ってたときとぜんぜんかわってなかったんです。じつは、2年前ね、ビール会社さんから『株式会社ぐっとくるダイニング』の代表、岩田 聡さんを紹介してもらって、あちらの会社の副店長のミーティングに招待してもらうんです」。

・・・続き

株式会社アオギリコーポレーション 代表取締役 澤出晃良氏


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  

2026年4月19日日曜日

昨年に続き、決算賞与支給。

昨年度、求人部門の結果には悔しさも残りますが、全員の粘りによって最低目標は死守することができました。
この成果を今期の爆発的な成長へ繋げるため、今年も決算賞与を支給することにしました。ここからが真の勝負です。
今期、キイストンは原点に立ち返り、「求人」の領域で圧倒的な力を発揮していきます!
新たな施策、強力なブレーン、武器(商材)など次々と投入します。
しかし、すべての土台となるのは「アポイント」への執念です。
泥臭く、そして熱く。私たちの魂である「キイストンイズム」を体現し、共に新たな歴史を創りたいです。

キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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2026年4月14日火曜日

株式会社BOUT 代表取締役社長 尾坂 亮氏登場。

“飲食の戦士たち”株式会社BOUT 代表取締役社長 尾坂 亮氏を取り上げました。

本文より~

街と人が行き交う日常を原体験に。

鳥取市の中心部、JR鳥取駅にほど近い商店街の一角にある、ひときわレトロな佇まいの建物。「ヲサカ文具店」――尾坂亮氏は創業80年を数えるこの老舗の3代目として生まれた。1階が店舗で、2階に祖父母、3階には両親と尾坂氏、妹の4人が暮らす。家族と街の人が公私の境なく出入りする環境――これが彼の原風景だ。
本業のかたわら、地元サッカー協会の仕事も務める父の周りには、いつも多くの人が集まっていた。尾坂氏自身「頑固で、それほど器用なタイプではない」と評する父だが、地域に根ざし、自然と人が訪ねてくるその姿は、「場」に対する氏の感覚に少なからぬ影響を及ぼしていた。
鳥取大学附属の小・中学校から、県内屈指の進学校である鳥取西高校へ。クラス委員を任されるタイプの真面目な生徒で、勉強もスポーツもそつなくこなした。建築への興味から横浜国立大学を選び、関東での新しい生活をスタートさせた。

飲食店での居心地の良さと、マイナビで学んだ「場」の意義。

人生の転機は、横浜駅そばの鶴屋町にあったダイニングバーでのアルバイトだった。スタッフと客が一体となって楽しむその店は、そこにいるだけで心が弾む、不思議な居心地の良さに満ちていた。さらに、周りの店との垣根を越えた交流が日常的にあり、街そのものへの愛着が自然と育まれていった。
「中学のころ、料理人になりたいって思ったことがあるんです。地元にあんかけかつ丼の美味しい店があって、図書館で料理本を見ては餡のレシピを家で試したりして。学校の文集に『将来は料理人になりたい』って書いたこともありました。でも飲食に進みたいって本気で思ったのは、あのアルバイトがきっかけです」。
現場での経験を通じ、かつて抱いた食への関心が「自分が歩むべき道」に変化した瞬間だった。
一方で、自身の進路を再考し、留年。5年生の就職活動では人材業界に焦点を当て、人材大手のマイナビ(当時・毎日コミュニケーションズ)への入社を決める。
「同業他社の圧倒的な『熱さ』よりも、マイナビの持つ程よい『ゆるさ』が自分には合っていました」。
面接を担当した人事部長の目に留まり、人事部へと配属。尾坂氏はそこで、自然体のまま着実にキャリアを積んでいく。新卒・中途採用の最前線で全国を飛び回り、数多の面接をこなす中、そのビジョンは少しずつ形を変えていった。
「ただ飲食店をやりたいだけではなく、人が集まる場、そこで誰かと誰かが出会って何かが始まる、そんな場を作りたいと思うようになりました」。
20代のうちに面白いことをやろうという気持ちは常にあった。高校時代からの親友とよく飲んでは、そんな話で盛り上がっていた。その勢いのまま、27歳を迎えた2009年8月、尾坂氏は一歩を踏み出す。

「マグロマート」の広がりと、独創的な試行錯誤の数々。

2010年、中野のマンションの一室を借り、わずか80万円の投資で開いたバー「0番酒場」。BOUTの出発点はこの店だったが、当初は売り上げが思うように伸びず、翌年中野富士見町に「城ヶ島マグロマート」をオープン。親友とよく通った渋谷の店で食べたマグロの美味しさに惹かれ、港町三崎の業者を紹介してもらったことがきっかけだった。
「素人だからこそ、これは面白いと素直に思えたのがよかったんだと思います」。
マグロの脳天や骨身など希少部位を主役に据えた、当時としては珍しい試みだった。しかし当初はそのコンセプトにメニューや品数が追いつかず、試行錯誤しながら少しずつ売り上げを積み上げていったそう。
次に丼と地方食材をフィーチャーした3号店を出店。また1号店のバーをマグロの店にするなど、業態変更や統合によるトライ&エラーを繰り返しながらの経営が3~4年続いた。
そんな「マグロマート」に、ついに転機が訪れる。仕入れ先の新規開拓や関係強化と合わせて、マグロの魅力をより伝えられるメニューが充実していくにつれ、テレビをはじめとするマスメディアへの露出も増えてきた。国産生本マグロのさまざまな部位を楽しむスタイルが様々なメディアで拡散。SNSが台頭してきたこともあり、マグロの帽子を被って楽しむ姿も投稿され盛り上がった。満席の日も増え、少しずつ予約困難店へと成長していったのだ。
しかし、尾坂氏に成功者の気負いは見られない。「マーケティングを徹底したわけではなく、ひとつひとつがうまくハマっていった感じ」と謙虚に過去を振り返る。その飾らない姿勢が、スタッフや顧客を惹きつける氏の魅力なのだろう。

・・・続き

株式会社BOUT 代表取締役社長 尾坂 亮氏


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2026年4月13日月曜日

相乗効果ありそうなビジネスされている会社探しています。

 いろんなサービスがありますが、キイストンにとって相乗効果ありそうなビジネスでこれは?って会社を細見自ら発掘中です。

サービス内容はもちろんですが、誰とやるかですからね。

飲食業界においてキイストンは絶対的不可欠な存在になりたい。


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