2026年8月18日火曜日

第1163回 株式会社レゴリス 代表取締役社長 星 幸輔氏登場。

“飲食の戦士たち”第1163回 株式会社レゴリス 代表取締役社長 星 幸輔氏を取り上げました。

本文より~

月の砂と、従姉妹のワンピースと、生きている証と。

「レゴリスは、月の砂のこと」。そう回答してくれたのは、今回、ご登場いただいたレゴリスの代表、星さん。
月と星がいい感じでマッチしている。ロマンチックな話を期待して耳を傾けていると、真逆でリアルな話がはじまった。
「ぼくは、生後すぐに息をしなかったらしくて、生きられたのは奇跡だったそうなんです。その話を聞かされてから、生きていることをちゃんと証明したくて」。
「TVに出たい」と思うようになったそう。「じつは今も出たいんです」と、まじめなトーンでつぶやく。
「ただ、最近になってね。民放全キーに取材されたんです。うちはサバ専門店でしょ。サバが今、むちゃくちゃ高騰しているんです。だから、そのニュースで…」と笑う。
「子どもの頃、お金があったら、絶対役者の養成所に通っていたと思う。でも、なかったから断念するしかありません。うちは、兄弟3人で、5人家族です。とにかく貧乏で、遠足のおやつもなかったし、レジャーといったら海に家族で行くんですが、ぼくは従姉妹のお姉さんのワンピースを着ていたくらいなんです」。
――それは、ちょっときつい――
「でしょ。洋服はすべてお下がりだったし、木造で風呂がなかった。だから、銭湯には2日に1回。でもね。それはそれで楽しかったかもしれない」。
「で、さっきの役者の話のつづきなんですが、昔、新橋の魚金(うおきん)って店で働いているときのこと。自称、ジャニーズと吉本の社員さんがいらして『お兄さん、将来、何かめざしてないの?』なんて言いながら誘ってくるんです」。
「でも、当時の新橋でしょ。ジャニーズの人が来るなんて思わないじゃないですか。酔っ払いが、しつこくからんできてるくらいに思って、あしらっていたらカチンときたんでしょうね。ジャニーズの名刺を差し出されて、『チャンスはこうして一瞬でなくなるから気をつけな』って(笑)」。
――それは、もったいない――
「どうかな」と言って星さんは笑う。

救ってくれた恩人と、恩人を救った星さんと。

星さんが生まれたのは、1978年3月27日。
「じつは4月に生まれる予定だったんです。それが、数日、早くなった。だから、そう、中学までは剣道とかを習うんですが、ちっちゃくて。バレーボールをしていたんですが、中3で144センチしかありませんでした」。
4月1日生まれの生徒とは、たった5日の差だ。学年では、ぐるっと1年離れている。そりゃ、そのぶん、小さい。まだ、砂の一粒だった頃の話。
兄弟についても、聞いてみた。
「兄は宇宙人で、弟はガチのヤンチャ。ぼくは、ちょいワル」。
宇宙人からガチのヤンチャまで、グラデーションの真ん中にちょいワルの星さんがいた。
「ワルといっても、ぼくの場合はガチじゃなくって。学校に行くまでに喫茶店に行っちゃう程度。だべっていると、『あ、5時間目でヤベー』って。それで、単位と出席日数が足りなくなって、高校に4年通っています」。
「留年」。周りは1学年下。だが、5日あとに生まれていたら、同級生。むしろ、こっちのほうがちかい。
「留年は挫折でしたが、後輩といっしょになったこと自体は気になりませんでした。私が進学したときに、留年した人がいたんで、そういうもんかなと、抵抗感がなかったのかもしれません」。
「4年目にいい先生に出会った」という。
「担任の先生なんですが、恩人ですね。その先生のおかげで卒業できたようなもんです」。
ただ、先生にとっても星さんは、恩人だった。
「その先生は、ラグビー部の顧問でした。ぼくが3年生、というか、4年目のときですね。部員数が足りなくなって存続の危機に陥ったんです。先生が困っているのをみて『じゃあ、ぼくが入ります』って手を挙げたんです」。
この話から、星さんのやさしさと行動力と、そして、多少の無謀さが浮き彫りになる。
「ほかの選手とは、からだのサイズからしてぜんぜんちがった」と星さん。
そういや、星さんの3年間は、喫茶店通いがルーティンだった。スポーツとは無縁。
からだの小さな星さんが、グラウンドを駆ける姿を想像すると、先生を恩人と慕う星さんの気持ちと、ちょいワル星さんの意外な、ひたむきさが伝わってきた。
一粒の砂は少しずつ光りはじめた。

「報・連・相」厳禁と、独りで立つ力と。

「学校の紹介もあって、ゴム関連の会社に就職しました。3年半くらい勤めました。仕事ですか? 仕事は父親のアドバイスもあって営業職です」。
――どうでした?――
「3年半、つづけていますから、成績も悪くはなかったんでしょうね」。
――魚金はそのあとですか?――
「そうです。さっきのジャニーズの話は、そのときのことです。当時の魚金は今みたいに有名じゃなかったです。そのあと、越後屋に移るんですが、これもまた私のターニングポイントの一つです」。
「看板は同じでも全店、独立採算制だった」と星さん。
営業利益の30%が店長の取り分。
「最初から45万円くらいありました。最高は、80万円くらいです。社長ともお話することが多く、かなり影響されています(笑)」。
「報・連・相が厳禁だった」と星さんは、突然、切り出す。
「なにをやってもいいんです。メニューも店舗でちがうし、なんなら価格もちがいます。ぜんぶ、フリー。マニュアルも、ルールもない。ただひとつ、報・連・相が厳禁」。
「ふつうその逆でしょ。でも、わかるんですよね。相談はもちろんですが、報告も、連絡も毎回、相手にしていたらキリがない」。
ルールで「報・連・相」が禁止されている。だから、独学で学んでいくしかなかった。ただ、それがかえって、星さんを育てた気がする。
「調理の経験がなかったんですが、それはなんとかクリアできました。困ったのは、スタッフの育成です。そもそも採用が難しいエリアだったし、若気の至りっていうんでしょうか。ちょっときつくあたったときもあって」。
――ほかの店長に相談しなかったんですか?――
「それもなかったなぁ。月1回定例会があったんですが、会社のなかに『共有』っていう概念がなかったんだと思います」。
調理も、採用も、育成も、経営もイチからで、本人は悩んだことも少なくなかったというが、高い給料が示す通り、課題をつぎつぎとクリアし、社長からも高い評価をもらうようになっていく。
そして、37歳で独立。

・・・続き

第1163回 株式会社レゴリス 代表取締役社長 星 幸輔氏


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  

ジャパンフードセレクション・グランプリ受賞!

 推薦させてもらった2社がジャパンフードセレクション・グランプリ受賞されました!

嬉しい〜!!

【あさくま様】

あさくまの冷たいコーンスープ https://share.google/cXcvoKRSIxWblS5KH

学生ハンバーグ https://share.google/amKTsUoRZPa8uRwgf


【ペッパーフード様】

かいりの痛風鍋 https://www.japan-foodselection.com/prize/po8qvuudr

おめでとうございます。

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2026年8月17日月曜日

8月8日(土)BS10プロ野球中継“日ハムVSオリックス”の試合の「応援メシ」は銀座三洲屋様でした。

 8月8日(土)BS10プロ野球中継“日ハムVSオリックス”の試合の「応援メシ」は銀座三洲屋様でした。

銀座三洲屋様は来年60周年迎えられる老舗有名店で、エスコンフィールドにも出店されており、2代目社長はなんとプロレスラーでもある三州ツバ吉選手!!

まさに二刀流です。

BS10プロ野球中継の「応援メシ」は人気コーナーですが、キイストンがサポートさせて頂くのは8月7試合、9月4試合となりました。

皆さんに喜んで頂けるように頑張ります。


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2026年8月16日日曜日

IPコラボ、2027年には10案件動かしたいな…。

 飲食店を活かしたIPコラボがとても人気ですね!キイストンでも、現在いくつかの案件が同時進行中です。

……というのも、本当に素晴らしいブレーンの方々に恵まれているからこそ。

迅速かつきめ細やかな仕事ぶりがキイストンと最高に相性が良く、改めて感謝の気持ちでいっぱいです!

 

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2026年8月13日木曜日

次から次へと自然な流れで現在に至ってます。な

実はキイストンは、昔から「誰もやっていないこと」に挑み続けてきた会社です。
今から33年前、全国の求人メディアを横断して取り扱う代理店がまだどこにもなかった時代。私たちはすでにその先駆者として、一歩先を走っていました。
さらに2001年には、ケータイに特化した採用ページ「エム採用」をリリース。
この取り組みが非常に画期的だったため、当時すべての求人メディアから大きな注目を集めることになります。
その後、さまざまな逆風もありましたが、私たちはめげずに「エム採用」を継続していきました。転機が訪れたのは、リーマンショックが起きた2008年のことです。当時、特に取扱いの多かった飲食業界へ一気に舵を切る決断をしました。
そうして誕生したのが、飲食業界に特化した求人サイト「in-職(いんしょく)hyper」です。
そして、その付録的な編集企画としてスタートしたのが「飲食の戦士たち」でした。
まさかこの企画がここまで長く続き、多くの反響を呼び、キイストンの認知度を大きく押し上げる看板コンテンツに成長するとは、当時は誰も想像していませんでした。
さあ、これからおもしろくなってきそうです!

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2026年8月10日月曜日

横浜家系ラーメン「壱角家」様、連続コラボとはスゴい!!

 横浜家系ラーメン「壱角家」様、ヒプノシスマイク -Division Rap Battle(と『ペルソナ』シリーズ30周年の連続コラボとはスゴい!!

『ペルソナ』シリーズ30周年(コラボ期間8/21~10/4)

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BS10プロ野球中継の「応援メシ」今シーズンあと8試合提供します!

8月7日(金)日ハムVS楽天試合の「応援メシ」はKIWAMI様でした。

KIWAMI様は超おすすめの“極み盛り”にてジャパンフードセレクション・グランプリ受賞され、解説の小笠原氏に提供されていました。

ご縁を頂き、BS10プロ野球中継の「応援メシ」に昨シーズン後半から参画させてもらいましたが、今シーズンはあと8試合提供となりました。

皆さんに喜んで頂けるように頑張ります。

KIWAMI阿波社長と解説者の小笠原氏
ジャパンフードセレクション・グランプリの“極み盛り”
お通し食べ放題で超人気の“もつ煮込み”

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なかなか帰省できませんが・・・・・。

先日、実家のある京北下町・高野地区の墓掃除には借りて頂いてる星野さんが私の代わりに参加してもらいました。
その午後には姉が一足早くお盆でお墓参りに・・・・。

東京に住んでるため、両親が亡くなってからは、なかなか帰省できないので本当にありがたいです。
おかげで仕事も好調で感謝です。


 


2026年8月7日金曜日

おもしろい展開やる時が来た~!!

やっとキイストンの新しいことにチャレンジするベンチャースピリッツである、おもしろい展開やる時が来た~!!


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株式会社Numbers 代表取締役 達川京平氏登場。

   “飲食の戦士たち”株式会社Numbers 代表取締役 達川京平氏を取り上げました。

本文より~

京平さんは、大学進学のため、バイトに精をだす。

父にも母にも敬語を使っていた。弟たちからは「京平さん」と言われていた。曽祖父が起こした達川グループは、地元の京都府福知山では有名な企業グループだった。
「ただし、うちは富豪でもなんでもなかった」と断った後、「それでも、父には『お父さん』じゃなく、『社長』。母には『母』でも『達川』でもなく、旧姓で話しかけていました」という。
ちょっと変わった話が、始まった。
「兄弟は私を筆頭に男4人。弟たちも私には『京平さん』でした」。
「父は私が2歳の時に、祖母が経営していたお好み焼き店を継承して、飲食業を本格的にスタートします」。
お父様が飲食を開業したのは、やはり、福知山。
その福知山が、今回、ご登場いただいた、株式会社Numbersの代表取締役、達川 京平さんの生まれ故郷。
生まれは1999年。2026年のこのインタビュー時点で、まだ27歳。この年齢も少し頭に入れて読み進めて欲しい。
「父の飲食業は、福知山から北近畿に広がります。私が高校生の時には20店舗ありました」。
息子たちと、一緒に会社も育っていった。
父の教えは「兄弟全員、船主になれ」だった。船主はもちろん1人。「兄弟で、おなじ会社を経営するな」という教えである。この教えを小学生の兄弟は、頷きながら聞いていた。
「私は、小学校から水泳やバスケットボールをやって、勉強もそれなりにやって、福知山のなかでは進学校に進みます」。
<将来、船主ですもんね?>
「そうです、そうです。ただ、高校生の時には、起業とかそういうことじゃなくって、田舎者だから東京に憧れて。大学は『青山か、明治か』なんて考えていました。実は、東京の大学に進むために、中学生の時からバイトでお金を貯めていたんです」。
4人兄弟だから、高校も公立。父母の言うことは、絶対。反対されても行けるよう資金を準備した。その額、300万円。
「父のカバン持ちもしていて、飲食の経営者にもお会いしました。こちらは将来の起業のためですが、父の会社の書庫にあった『日経レストラン』や『月刊食堂』など、外食の経営本を片っ端から読んでいました」。
<大学進学と起業。まずは大学進学ですね?>
「ふつうなら、そうなんですよね」と、達川さんは笑う。

社長は、高校3年生。

「小さな頃から父の仕事をみていましたし、店でアルバイトもしていたんで、飲食だったらだいたいわかるんです。高校生くらいになると独学の効果もあって、解像度が上がってきます。すると、父の店の問題点にも気づいて『オレなら』という気持ちになっていくんです」。
「根拠はまったくないですが、自信だけあって。実は、高校3年生に進級した春、父を説得して、業務委託で飲食事業をスタートするんです」。
<高校3年の春? 学校は?>
「高校は続けました。もともと禁止されていたアルバイトも、私だけ特別にOKだったんです。その延長で(笑)」。
「居酒屋を経営します」と聞かされた先生は、さぞ目を丸くされたことだろう。
「うちの社長は、高校生」。
やはり、おかしい。
「お酒を飲めないのに、お酒を勧める高校生だった」と言って、笑う。
創業メンバーはご近所さんの幼馴染。今もナンバー2として、達川さんをサポートされているが、当時は2人とも高校生。
「さすがに、高校生2人ですから、父のところからサポートで、スタッフさんに来ていただいていました」。
家賃は15万円。父には月60万円を支払った。
しかし、どうして、進路が大きくかわったんだろう?
出向で来られていた方は、達川さんを「社長」と呼んだのだろうか?
それにしても、大学に通いながら社長になった経営者にはインタビューで度々、出会ったが、高校生で社長になったのは、今回の達川さんが初めてかもしれない。
果たして、高校生社長はどんな結果を残すのか。経営は空想のなかで、経験したのみ。店の業績は、下降気味で、月商100万円前後で推移。駅から徒歩30分のロケーション。
常連さんは、少年の店主を受け入れてくれたのだろうか?
話を急ごう。

父が設定した、高いハードル。

「実は、その店は父の会社の創業店で、さっき言った祖母が経営していたお好み焼屋だったお店です。突然、店長が姿を消し、月商も下がって100万円程度だったので、『倉庫にするか』『社員に譲るか』という話があって、それが私の耳にも入るんです」。
<思い出のあるお店だった?>
「創業店といっても、私が2歳のときですから、思い出うんぬんじゃなく、『やってみたい。オレなら業績をあげられる』って。眼の前にニンジンをぶら下げられた馬の気分で、もう、大学どころじゃなくなったんです(笑)」。
<高校生によくお父様もOKをだされましたね?>
「簡単じゃなかったです。父からは『社員に委託するよりハードルを上げる』と言われました。社内で、独立希望者も少なくなかったから、当然ですね。それで、月商100万円程度の店で、家賃15万円、使用料で月60万円です」。
<固定費75万円?>
「当然、赤字です(笑)」。
社員の給料もある。大学に進学するために貯めていた300万円を運転資金に回した。それが、みるみる減っていく。
「でも、ぜんぜんビビってなかったです。父がバックにいるとか、そういうんじゃないですよ。実際、バックにいたわけではないですし。オレなら、絶対、いけるって」。
高校生が、赤ら顔の大人たちに料理をだし、酒を勧める。福知山、ローカルなエリアだ。なかには、おなじ高校出身のお客様もいて、盛り上がったかもしれない。交わされたのは、部活の話か、未来の話か、酒の話か。
<お店に来たら、お客様も若返ったんじゃないですか?>
「15坪の小さな店です。お客さんとの距離はめちゃくちゃちかいです。影響は、あったかもしれませんね(笑)」。
おっさんと高校生がカウンター越しにキャッチボールする。
「当時の福知山ですから口コミです。いけるかどうかは、カウンターの向こうにいるおじさんたち次第です。まさか、高校のともだちに来てもらうわけにもいきません(笑)」。
<業績は上がりましたか?>
「なかなか上がらなかったですね。半年くらいで貯金が底をつき、首が回らなくなりました。でも、タイミングを測ったかのように、その頃から、ぐっと業績がアップしていくんです」。
高校生、実践にもとづいた戦略、戦術はない。
「週イチだったお休みをやめて、毎日17時~24時までフルタイムで働きました。父のところから出向で来ていただいていたんで補助輪付きですが、なんとか、かんとか、軌道に乗り始めます」。
「月商は350万円になった」という。
自身は給料もとらずに資金をプールして、出店を重ねた。
「未成年ですから銀行が貸してくれない。だから、3店舗目までは自己資金でオープンしていきます」。
<4店舗になったときは、さすがに高校を卒業されていますよね?>
「ええ、そこは、当然」。
<改めて、大学に進むという考えはなかったですか?>
「ないですね。ますます飲食に惹かれて、有名な飲食の経営者のブログを読み漁っていました」。
友達も、お酒を飲める年齢になっている。飲食店の若きオーナーを、友達は、どういう目で見ていたんだろう?

・・・続き

株式会社Numbers 代表取締役 達川京平氏


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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有限会社マイプロジェクト 代表取締役会長 増子誠二氏登場。

  “飲食の戦士たち”有限会社マイプロジェクト 代表取締役会長 増子誠二氏を取り上げました。

本文より~

スジャータに就職するまでの増子さん。

「キャプテンで、エースで4番」。
「小学校の頃の話だけどね」と増子さん。今回ご登場いただいた有限会社マイプロジェクトの代表取締役会長だ。
「中学ではショートで5番。ちょっと遊びの方向に進んじゃって。1年くらい幽霊部員みたいな時があって。でも野球が好きだったからね。3年になってもう一度、グラウンドに戻って」。
「いろいろあったな」と笑う。
「中学1年で初恋。高校に入って彼女ができて。高校は市立工芸高校っていうんだけど。入学してすぐ喧嘩で停学になって、合計3回くらいかな停学になっています」。
校則はゆるく、比較的自由に楽しめたが、停学以外にも、難関が一つあった。
「追試があってダメだったら、退学。私はギリギリクリアしましたが、実際、今も付き合いがあるんですが、ともだちの何人かは追いだされています」。
高校を卒業した増子さんは、スジャータ(名古屋製酪株式会社)に就職する。
「高校に求人が来るでしょ。頭のいい奴からとっていくんです。最初はチョイスできるけど、私はもう最後のほうだからね。でも、スジャータはとてもいい会社だったよ」。
<残り物に福がある?>
「そう、まさにそんな感じ」。

営業マン、増子さん。

「成績はいいほうでした」。学校ではなく、営業成績の話。表彰もされているそう。
「レストランにトラックで注文された商品をとどけて、そのときに営業もするのが定番のスタイル。営業数字より、人間教育っていうか、そういうのを大事にする会社だった気がします。スジャータには24歳までいたから、6年か。長くいたよね」。
じつは、増子さん。中学生の頃から「将来、社長になる」と思っていたそうだ。
「おぼろげだけどね。勉強はしなかったけど、歴史は好きで、とくに成り上がる豊臣秀吉とか、坂本龍馬とか。そういう偉人の本を読んでいたからじゃないかな」。
「それに、人に従うのが、どうもできない人でした」。
だから、6年もサラリーマンをつづけられたことは、異例。ちなみに、人に従うのが苦手なことは、高校生のときのバイトで証明されている。
「全然続かないんです。態度が悪いんでしょうね。すぐ、くびになっちゃう(笑)」。
「スジャータを退職することになったのは、ちょうど神戸の震災があって、お客さんに誘われたんです。『神戸に行って解体業をしようぜ』って」。

神戸と、黒塗りのベンツと、建築業と。

「震災があった年の6月には神戸に行った。誘ってくれた飲食店のオーナーは『いかん』と言いだしたんで、行ったのは、私1人。向こうで、解体業のチームに入りました」。
<いい会社だったのに、なにが増子さんを動かしたんですか?>と聞くと、「スジャータという看板がないなかで、なにができるかやってみたかったんです」と回答。
24歳。ピュアな青年だった。
「仕事はあったけど、500万くらい借金ができた」というのは、神戸での話。
<なんでまた?>と聞くと、私らは10人くらいのチームでやってたんですが、そりゃ、いろんな奴がいるんです。サギ師みたいなのもいた。借金ができたのは、そのチームをまとめていた親方が、借金を抱えて飛んじゃって、私がアホで、その保証人になってたからなんです」。
<どうしたんですか? そんな大金?>
「幸い、親方の仕事を引き継ぐことができて、ほかにもいろいろと紹介してもらって。まぁ、向こうは借金を返済させるために、せっせと紹介してくれたわけんだけど(笑)」。
「それでもマジメにやってたからでしょうね。仕事の幅も広がって、じつは建築の仕事もはじめたんです」。
<借金はどうなりました?>
「1年くらいで無事返済できたかな。返済が終わって自由になって。もう、神戸はこりごりだって、名古屋にもどってくるんです」。
「解体の作業中だから昼頃かな。黒塗りのベンツが現場のちかくで止まって、『増子っていうのどれだ?』って。『オレです』っていったら、ベンツに乗せられちゃって。500万円の返済がスタートです」。なんて、おっかない話もしてくれた。
<神戸を離れるのに仕事はどうしたんですか?>
「後輩にクライアントごとパスしました」。
もったいなかったが、早く神戸からおさらばしかたった。
カネの鎖が取れて、名古屋に、無事、帰還。さて、その後は、どうなっていくんだろう。

マイ(MY)プロジェクト、スタート。

「建築の勉強とかをしたかったから、リフォームの営業をします。成績は悪くなかったから、いいお金にもなって、だんだん仕組みもわかるようになって。適切な値段で営業したら、オレでも会社ができるんじゃないかって思うようになってね」。
「それで、吉田ってやつを誘って、増子のMと、吉田のYをとって、MYで、マイプロジェクトを設立するんです。でも、吉田は飲酒運転で事故って亡くなっちゃうんです。すぐあとに、良くしてくれていた中学校からの先輩も亡くなって。神戸での経験もそうですが、この出来事で人生観がめちゃくちゃかわりました」。
それでも増子さんは後ろを向かなかった。
「いい仲間がたくさんいたからね。こっちに戻ってマイプロジェクトをつくったのは1996年。20代の後半だったかな」。
「初年度は数千万円だったけど、2年目には1億円になって」。
スジャータ時代のネットワークを使って、業績はアップをつづける。ついに、4億円。
「でさ、今度は、自分でやりたくなっちゃって。売り上げも4億円になったんで調子に乗っちゃってね。最初に鉄板のお店をオープンするんですが、見事にこけます。つぎに、セルフうどんの店を引き取って、セルフパスタに変更して再オープンするんです。こっちはしばらく健闘するんですが、けっきょくクローズします」。
「そのときね。業者の人に聞くんです。『なんで失敗したと思いますか』って。そしたら『社長はやりたいことをやっているだけ』だの、『ロケーションを考えていない』だの、『人使いが悪い』だの。もう、コテンパンにやられたんです」。
「彼らは、もう店をしないと思っているから、もう関係もないでしょ。だからズケズケ言ってきます」。
「聞き方によっては悪口なんだけど、ありがたかったね。私には救いの言葉でした。『そうか、そうなんだ』って」。
転んでもただじゃ起きない。それが増子さん。MYプロジェクトもまた、そんなやわな会社じゃない。
・・・
続き

有限会社マイプロジェクト 代表取締役会長 増子誠二氏


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2026年7月21日火曜日

株式会社POC 代表取締役 佐野健治氏登場。

 “飲食の戦士たち”株式会社POC 代表取締役 佐野健治氏を取り上げました。

本文より~

爆音のなかで、望んだ未来。

5歳のときだった。
こどもたちは埼玉県にある戸田競艇場にいた。ボートレース好きの父親に連れて来られていた。爆音に耳をふさぐ妹をみながら、佐野さんも両手で耳をふさいだ。
「うちの父親は、ザ・昭和の人間で、とにかくめっちゃこわい大人でした。ボートレースに入れ込んでいて、週末になると、私ら兄妹を競艇場に連れていきました。競艇場には、こども用のエリアがあるんです。3歳下の妹と2人して、そこで、父親を待つんです」。
勝てばエビスが、負ければオニが現れたに違いない。
最初は、爆音に耳をふさぐ少年だったが、プールを疾走するボートを観て、心が動く。
「競艇に行くのは好きじゃなかったんですが、週末ごとに連れていかれていたので、だんだんとレースに魅了されて、将来、競艇選手になってやろうと思うようになっていきます」。
<格好よかった?>と聞くと、「ですね」と相槌を打ったあと、「なによりおカネになるでしょ」と一言。
父親の支配から、母と妹を連れ出すにはカネがいる。少年は、爆音にすべてがかき消される、そのなかでも少年は現実をちゃんとみつめていた。

170cmオーバー。これも、一つの現実。

小学生の頃の話を聞くと「これといった特徴もない、平均的な少年だった」と回答。
「第二次ベビーブームの生まれなので、生徒数は今とは比較にならないです。とにかく、こどもが多く、中学や高校は11クラスあったんじゃないかな」と笑う。
たしかに、今とは比較にならない。
子育ても、今の時代とはちがう。キゲンが悪いと、父の拳骨がとんだ。希望は競艇選手。しかし、中学2年生で背丈が170cmをオーバーして断念するしかなかった。
調べてみると、競艇選手には身長制限があって「175cm以下」となっていた。
「そう。今はそうなんですが、当時は170cm以下だったんです」。

念願の一人暮らしと、カラオケボックス。

今回、ご登場いただいた佐野さんが生まれたのは1973年12月24日、クリスマスイブだ。
兄妹は、3人。下に妹が2人いる。
「とにかく、はやく独立したいと思っていて、高校では学校が終わるとアルバイトにでかけました」。
授業が終わる夕方からシフトに入る。
「親戚が経営する焼肉店で、高校を卒業して18歳になった時に店長に昇進しました。アルバイトの採用からシフト管理、給与計算も任せてくれたのが、いい経験になりました」。
社会人として、自立する一方で、念願の一人暮らしをはじめている。
高校を卒業して23歳になるまで、勤務。その後、あるカラオケボックスのチェーン店に転職する。
「大手のカラオケチェーンのエリアマネージャーから、オファーをいただいたのは23歳の時です。うちの常連客のお一人です」。
「当時はカラオケボックスの全盛期で、そこだけバブルが残っているようでした。だから、採用にも積極的だったんだと思います」。
実際、採用数はハンパなかった。ただ、その一方で退職者が多かったのも事実である。
「同期20人が一斉に入社して、3ヵ月後には3人しか残らない世界でした」と佐野さん。
ハードな勤務に逃げ出す同期が少なくないなかで、佐野さんは逆に「仕事に惹かれていった」という。
「カラオケボックスって、じつは空間をセールスする仕事なんです。時間を課金化するしくみがあって。運営のポイントは効率的な集客。そのスキームをつくって、多くのスタッフを使い、何十ルームを運営する。これが楽しくて完全にのめり込んだんです」。
残った社員同士の競争もまた、佐野さんを刺激した。仕事はきつい。ただ、前職でも深夜まで働いていた佐野さんにとっては苦にならない。
責任ある仕事が任される。それがまた、楽しかった。
「仕事だから厳しい時もなくはないですが、当事者意識で仕事をしていれば面白くないわけがないんです」。
ビジネスというプールを疾走する。カラオケボックスは、次々にオープンされ、80店舗以上に広がる。佐野さんは営業トップをサポートするキープレイヤーとなって事業を推進する。
「面白い」という言葉にも頷ける。
ただし、仕事が面白いのは、会社がおなじ方向を向いていればの話である。

複合カフェで出会ったダーツビジネス。

「元々、いろいろな事業に関心がある経営者でした。カラオケボックスは主体だったんですが、あるホテルを買収してからは、ホテル事業が大きく成長したこともあり、カラオケ業界のダウントレンドと共に事業ポートフォリオが変わっていきました」。
「会社の戦略も変わり、事業の成長期と共に育った私からするとやりがいが薄れてきていたのが事実です」と佐野さんは言う。
向くべき方向がずれる。
「そうなると、私自身の熱量も下がって、37歳の時に、14年在籍した会社を去りました」。
<思い切った決断ですね?>
「そうですね。でも、やりきったという思いがつよく、新たな道をさがそう、と」。
<わくわくする方向へ、ですか?>
「そうです。それで、2009年、信頼する上司の誘いで、カラオケ機器ディーラー母体の企業に転職しました」。
それが、今につながるターニングポイントだった。
「その会社の事業の一つではじめて複合カフェを担当した」と、佐野さん。
「お世話になったのは愛知に本社のある会社で、東京で『カラオケボックス事業』をスタートするという事で、その責任者に誘っていただいたんです」。
「事業M&Aに積極的な会社で、カラオケボックスの展開より、たまたま複合カフェの買収が案件として多く、経験のない複合カフェ事業の営業管理職を任命されました。その時に初めてダーツとも出会いました」と佐野さんは言う。
「後にダーツマシンのレンタル・リースのディーラー事業もM&Aすることになりました。当時は複合カフェの責任者をやりながらダーツマシンの営業もついでにやってましたね。複合カフェ事業もそもそも不採算店舗を買収しているので収益性も低く、ダーツのディーラー事業もカラオケディーラーとは勝手が違う世界だったので、業界関係者からは悪い意味で目立つ存在にもなっていて…」。
どちらの事業も会社の事業の中ではお荷物扱い。そこで、ダーツディーラー事業の責任者をやらせて欲しいと自ら手を挙げたそうだ。
「私は、その事業を立て直すために奔走するんですが、けっきょく、ファンドのメスが入って事業は切り売りされてしまいました」。
10年、在籍した。
「残務処理が最後の仕事となってしまった」と、佐野さん残念そうな表情をする。
「私が採用したスタッフや、部下を、リストラするのも仕事の一つです。あれほど辛い経験はほかになかったですね」。
どうしようもない、抗うことができない力に屈する。力のなかった少年時代といっしょだった。
時代の変化は、ピュアな佐野さんを弄んだ。しかし、それによって新たな道も広がっていく。2020年2月、残務処理を行っている佐野さんに、ある人物が声をかけた。

・・・続き

株式会社POC 代表取締役 佐野健治氏


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