2026年度も上半期終え、 3年前に達成しようと掲げた目標を3年目の上半期で達成できました。
めちゃくちゃ嬉しく、とても大きな自信付きました。
なんでもそうですが、諦めず目標に向かってコツコツ地道にやっていけば必ずうまくいく。
キイストンは設立日が10月22日ですから、いよいよ創業35年目に突入します。
これからも業界のためにも、働く社員のためにも、周りのプレーンのためにも、いつまでもチャレンジしていきたいです。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
2026年度も上半期終え、 3年前に達成しようと掲げた目標を3年目の上半期で達成できました。
めちゃくちゃ嬉しく、とても大きな自信付きました。
なんでもそうですが、諦めず目標に向かってコツコツ地道にやっていけば必ずうまくいく。
キイストンは設立日が10月22日ですから、いよいよ創業35年目に突入します。
これからも業界のためにも、働く社員のためにも、周りのプレーンのためにも、いつまでもチャレンジしていきたいです。
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“飲食の戦士たち”で 株式会社plow 代表取締役 久我耕輔氏を取り上げました。
兄も弟もおなじサッカー少年だった。ただ、見ている世界は少し違っていた。
「兄は勉強もできて、サッカーも巧い。何をしても敵いませんでした」と久我さんがいう。
お兄さんは中学時代、三菱養和というチームでプレーし、日本一になっている。一方の久我さんは、澤穂希選手の出身クラブでもある、府中の『府ロクサッカークラブ』でプレー。
チームメイトには、あの日本代表にもなったサッカー選手「中村憲剛」さんがいたそううだ。
中村さんといっしょにピッチに立った。
「中村さんのプレーは、そりゃ、まったく異次元です。彼を至近距離でみていたので、プロになるなんて思わない。持久力をあげたくて、1人、朝練もしましたが、どれだけ練習しても、ああはなれないって」。
サッカーは高校でもつづけた。
「でも、高校生になって遊びに目覚めてしまって」と久我さんは苦笑する。
じつは、久我さん。監督からクビを言い渡されている。
今回、ご登場いただいた株式会社plowの代表取締役 久我 耕輔さんは1981年、調布に生まれている。
小さい頃にご両親は離婚。
「母が女手一つで、私たちを育ててくれた」と久我さん。
今思えば感謝しかないが、学校も行かず母親を泣かしたこともある。 久我さんは「だらしないやつだった」と表現する。
「中学生のときから、大学に行くつもりもなかった。ただ、『高校くらいは』と進学して、サッカー部に入るんですが、そのサッカーもクビになって、始めたバイトもことごとく続かない」。
「将来についても何一つ考えていなかった」という。
「兄がサッカーで活躍する一方で、私はサッカーはもちろん、努力することから逃げ出します」。
―――今が楽しけりゃそれでいい?
「ほんとそうでしたね。高校を卒業して六本木のBarでバイトを始めるんですが、やはり続きません」。
―――焦りのようなものはなかった?
「感じていたから、そこから意識的に逃げていたのかもしれません。朝までマージャンをして、ヘラヘラ笑って」。
仕事に疲れ泥のように眠ることもない。堕落した人生は、刹那の快楽だった。
―――今の久我さんからは、想像できないです。
「高校を卒業したんで、仕事をしないと生活ができません。そんなとき、一つだけ、続く仕事があったんです」。
―――それが、飲食ですね?
「そう。ただ、最初は、ちょっと怖い先輩に紹介してもらったお店だったんで、簡単には辞められなかっただけなんですが(笑)」。
―――先輩が怖いから、続いた?
「エイジアンキッチンっていう、今も人気ですが、当時から100席が連日満席になるような人気店でした。スタートは時給1000円の皿洗いです」。
次々洗い物が運ばれてくる。手を少しでも休めれば、シンクのなかは洗い物でいっぱいになった。
「オーバーな表現をすれば戦場です。でも、その単純な作業が向いていたのか、何も考えられないほど忙しかったのが功を奏したのか3ヵ月が過ぎます。最長記録です(笑)」。
3ヵ月経っても、皿洗いは続く。
「続けられたのは、周りのスタッフのおかげもあったんです。スタッフ同士の飲み会とかもあって、心が通い合うと、今度はそれでなかなか辞められない。そうこうしているうちに6ヵ月が経って後輩が入ってくるんです。それで、ようやく皿洗いを卒業してドリンク場に昇進しました」。
―――違う世界が見えてきた?
「社員さんや、社長さんからも褒めていただくことが多くなって。今まで褒められたことなんてなかったから、もっとこうしようとか、これをできるようになろうとか。サッカーの朝練みたいに、無給覚悟で早く出勤して仕込みを教えてもらったり」。
―――今までのバイトとはぜんぜん違うんですね?
「大違いです(笑)。今まではコンプレックスを抱えたままでしたが、そういったものにまで立ち向かえるようになって。気づけば、がむしゃらに仕事に打ち込んでいました」。
「店に行くのが、何より楽しみになった」と久我さんは心境の変化を一言で表現する。
「最初はアルバイトでしたが、料理やサービスの勉強も真剣に始めます」。
休みになれば、勉強になると思った店を見てまわった。地道な作業だった。黙々と、継続した。
―――まったく別人ですね?
「いちばんびっくりしたのは、ぼく自身でした」。
ある日、上司と社長に呼び出された。
「鮨屋に連れていってもらうんです。アルバイトでしたが、もう時給もいちばん高くなっていましたし、社長とも距離がすごく近くなっていたんです」。
鮨屋に入る。上司の統括店長がビールを頼む。ビールがジョッキで現れる。
「私を真ん中に左に統括店長、右に社長です。2人が、ジョッキを私のほうに差し出してきて、『社員昇格おめでとう』っていうんです」。
バイトを始めて2年半、 22歳のときだった。
「途中で離れた時期もありましたが、計11年、修行させていただきました」。
―――最初の怖い先輩のおかげですね?
「人って、やっはり一人じゃないんです。いろんな人との出会いがある。私はほんとにだらしない人間でしたが、出会った人のおかげで変わることができました。人との出会いが、私の最大の財産です」。
出会ったなかで師匠ともいえるのが、エイジアンキッチンの社長は吉崎英司さん。吉崎さんには2010年、この「飲食の戦士たち」にご登場いただいている。
そして、時間を見つけては通った様々な飲食店の先輩方。
「20代の頃にはたくさんのお店に勉強しにいかせていただきました。そこで出会った方々は、同年代の仲間も含めてですが、尊敬できる人が多く、今でもお付き合いさせていただいている人も少なくありません。エイジアンキッチン同様に、たくさんの刺激と学びを受けました」と、久我さんは嬉しそうに語る。
直接の師匠という関係性ではなくとも、そうした偉大な先輩たちや仲間たちとのつながりが、今の久我さんをカタチづくっている。
さて、久我さんはホームページで、「覚悟を持った一歩を踏み出せば必ず見えてくるものがある。」といっている。
その覚悟を改めて示すときがきた。そう独立だ。2014年。久我さん、33歳のときのこと。
「独立するといってから2年以上かかった」と久我さんは、苦笑する。
「やるやるサギだなんて言われました。やろうにも店がない。不動産会社が契約を進めてくれなくて(笑)」。
「今でも、忘れていない」というくらいだから、担当者にはイヤミも言われたにちがいない。 しかし、それが、奮起の材料になっていく。
「ついに契約できたのが、千歳烏山で21坪。中学校の隣で、岩盤浴だったところです」。
駅から離れていて、夜になると人通りもない。
「『やめておけ』ってみんなに反対されました。『さすがに、ここじゃない』って。でもね。デザイナーともう一人、英司さんだけ、『ここがいい』って。私とおなじ感覚で、背中を押してくださったんです」。
駅から離れていても繁盛店はいくつもある。
「ロケーションはたしかに悪かったですが、ピンと来たんです。自己資金だけでは足りなくて、借入もしましたから失敗はできません。でも、そこは、覚悟です。今までの、いくつもの覚悟を試すつもりで、オープンを決めました」。
「久我さんは、暗い街を明るくしたい」とも言った。その一言がいかにも飲食に育てられた久我さんらしい一言だった。
「飲食をはじめて、最初は『辞めたい』『辞めたい』の日々でしたが、だんだん楽しくなって、仕事の喜びっていうのを知って、暗かった私の人生が明るくなっていきます。独立って目標をもってからは、食べ歩く以外はお金も遣わなくなった。そして、がむしゃらにはたらいた」。
久我さんは10代の頃を振り返る。
「あそびまくっていたあのときも、ある意味でプラスになった気がするんです。人生に無駄はないんだって。ほんとうにそう思います」。
店名は「我ー喰う」。 スケルトンからの大勝負。自己資金700万円、借入1500万円。 もう、逃げ出すことなんてできない。
大勝負の結果はいうまでもない。オープンは2014年12月。初月から600万円をオーバーする。2号店もおなじ千歳烏山で、今度は16坪の「酒場アカボシ」をオープンする。
「酒場アカボシ」も、のちにオープンする三軒茶屋の「赤星」も、生ビールを置かず、瓶ビールをコミュニケーションツールとしている点は共通している。
「『注ぎつ、注がれつつ』っていう文化。注いで、注がれているうちに、笑顔が咲いて明るくなっていく。瓶ビールはコミュニケーションツール。そういう時代がたしかにあったんです」。
そのうえで、三軒茶屋の「赤星」では、縄のれんやネット予約なしといった独自のスタイルを展開している。
三軒茶屋の「赤星」よりひと足早くオープンしたのが、これも話題の渋谷「タートル」。2023年のこと。
渋谷で勝負。
―――またまた大勝負ですね?
「コロナ禍を乗り越えて、街が少しずつ明るくなってきたとき。と言っても、うまくいくとは限りません。都内は、エイジアンキッチンのときの主戦場だったので得意なエリアです。ただ、独立してオープンしたのは、京王線のはるか西(笑)」。
今度は、資金も潤沢だった。
「タートルをつくるにあたっては、国内・海外のお店をたくさん見て勉強し、自分自身でもデザインや店づくりについて様々なアイデアを出した」と久我さん。
「とにかく明るいカラーにしたくて」。
久我さんの言葉通り、店内はカラフルに彩られ、オープンしてからは様々な雑誌にも取り上げられた。
業績はいうまでもない。「1000万円を下回ったことはない」という。 そして、同年、満を持して三軒茶屋に「赤星」をオープンする。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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“飲食の戦士たち”で株式会社UG 代表取締役 渡部雄二氏を取り上げました。
小・中学生の頃は、スポーツに関して大きな挫折を経験した記憶がほとんどない。アルペンスキーでは全国大会に出場し、野球ではエースで4番。
「勉強は置いておいて(笑)、スポーツなら何でもできると思っていました」。
しかし、その感覚は高校進学と同時に大きく変わる。野球推薦で入った名門校には、自分より投げる、打つ、走る。そんな選手が当たり前のようにいた。
「背番号1をつけて甲子園で勝つつもりで入ったんです。でも周りを見た瞬間、これは簡単じゃないなと。最終的には背番号13でベンチ入りしました」。
それまでの「やればできる」という感覚から、「努力しても、うまくいかないことの方が多い」という現実を初めて知った。
ただ、この経験は後の人生にもつながっている。
うまくいかないことは、失敗ではない。そこから何を学び、次にどう行動するか。経営者になってからも、その考え方は変わっていない。
高校卒業後は、スポーツに関わる仕事がしたいとスポーツトレーナー専門学校へ進学。卒業後、六本木のパーソナルトレーニングジムに勤務する。
そこで出会った顧客から声をかけられたことをきっかけに、中国でのインターネットカフェ事業の立ち上げに参加する。
中国語も話せない。経営経験もない。
それでも「面白そうだ」と飛び込んだ。
事業は1年弱で撤退することになるが、帰国後は同じオーナーのもとで飲食店の運営を任される。
スポーツトレーナーから、海外事業、そして飲食業へ。一見すると一貫性のないキャリアにも見える。
しかし振り返れば、この時期に身についたのは、経験したことがないことでも、まずやってみる姿勢だった。
2014年、中野新橋に「焼鳥なべちゃん」を開業。開業資金は約400万円。焼鳥の修業期間は、わずか2週間だった。
当然、最初から順調だったわけではない。オープンしても思うようにお客様は来ない。
それでも、前職から一緒だった仲間と店に立ち続け、少しずつ地域のお客様に認知されていった。
その後、さまざまな業態・店舗へ挑戦。出店を重ね、一時期は店舗数を増やしていった。
しかし、すべてが成功したわけではない。むしろ、撤退した事業も少なくない。
かつては「次はどこに出店するか」を考えていた。店舗数が増えることを会社の成長だと思っていた時期もあった。
しかし実際に事業を拡大していくと、人材採用、教育、管理、利益率など、さまざまな問題が生まれた。
海外にも挑戦した。うまくいかなかった事業もあった。そして、この2年間で複数の店舗から撤退した。
一見すれば「縮小」に見えるかもしれない。しかし本人の感覚は逆だ。
「会社を小さくしたかったわけではなく、強くしたかった」。
店舗数を増やすことそのものが目的になってしまえば、働く人も経営者も疲弊する。
改めて、「自分は何のために会社を経営しているのか」を考えた。
そこで行き着いた答えが、「数ではなく、質」だった。
現在、飲食事業の中心には長く一緒に働いてきたコアメンバーがいる。
渡部氏が考えているのは、「自分が全部やる会社」ではない。
一緒に働いてきた人たちが成長し、仕事を任され、やがて自分たちの意思で次の挑戦ができる会社だ。
「彼らがもう一度店舗展開したいと言うなら、もちろん支援します。ただ、店舗を増やすこと自体を目的にはしたくないんです」。
人を採用して、店を増やして、売上を伸ばす。もちろん数字は経営に欠かせない。
しかし、その先にいる人が幸せにならなければ意味がない。
会社が成長することと、そこで働く人が成長すること。
その両方が重なって初めて、本当の意味で会社が前に進んだと言える。
渡部氏が仕事を考えるうえで大切にしているのが、「不」の解消。
不安、不満、不快、不便。世の中やお客様、そして働く仲間が感じている「不」を見つけ、それを一つずつ解消していく。
飲食店なら、美味しい料理を出すだけではない。
お客様が気持ちよく過ごせること。
スタッフが働きやすいこと。
努力した人が報われること。
将来に希望を持てること。
そうした小さな「不」を減らしていくことが、事業をする意味だと考えている。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
“飲食の戦士たち”で青木フルーツ株式会社 代表取締役会長 青木信博氏を取り上げました。
今回ご登場いただいたのは、青木フルーツ株式会社の青木会長。1947年生まれ。ご実家は福島県郡山市。創業は1924年(大正13年)。初代から数えて3代目。なんでも、青木家60年ぶりの男子だったそう。
会長に言わせると、「中学生になるまで一貫して引っ込み思案だった」とのこと。
―――意外ですねというと、「アルキメデスのおかげ」と笑う。
聞けば、小学6年生の時「アルキメデスの原理」をすぐに理解できたことで、先生にかわいがってもらい自信がついたそう。
「もう一つ勲章のような話をするとね。高校生でソフトテニスをはじめて3年生の時にインターハイに出場しているんです」。
結果は惜しくも、3回戦敗退。でも、勲章はそのあとの話。
「高校から始めてインターハイに出場できたんですから、それで十分なんですが悔しくて、納得できない。だから、受験もあったし、ふつうはその大会で引退するんですが、私は勉強もそっちのけで、10月10日開催の次の大会をめざします」。
―――結果はいかがでしたか?
「今度は、最後までコートに立っていた」とニコッと笑われた。
「ただ、優勝したのは喝采ものなんですが、気づいた時には大学受験がもうそこで(笑)」。
戦略を練り、勉強方法、今風にいえば独自のメソッドをつくり、難関大学の受験を突破。目標だった東北大学の経済学部に進学する。
「おそらくですが今まで経済学部に進んだ先輩はいなかったのに、私が合格した翌年からはつぎつぎと受験するんです。たぶん『あいつが受かったんだから、案外ハードルが低いんじゃないか』って。先生たちが、そう思い始めたんでしょうね」。
そう言ってこちらを笑わせてくれる。
―――いい指標になったってわけですね、というと、会長は「そうそう」と言って大笑いされた。
世界一周の旅にでたのは、大学3年生の11月。
「当時はドル/円が360円。外貨持ち出しは500ドル=18万円まで。シベリア鉄道で北欧に行って、それから南下。エジプトからスペインのマドリード。アメリカには大西洋を渡ってニューヨークでしょ。そして、西海岸からハワイに寄って帰国です」。
「これはね。岡崎って、ちょっとかわった奴がいて、そいつと途中までいっしょだったんですが、途中で別れて。お金がないから宿泊はユースホステルや夜行列車です。そうそう、ローマのテルミニ駅でその岡崎と待ち合わせをしていたんですが来なくて、その旨を日本への手紙に書いたら、心配した母親によって行方不明騒ぎが起きたこともありました。バルセロナの近郊じゃ、不審な2人組にホテルに連れて行かれて。机3台でドアを押さえて一夜を過ごした。北欧のおばさんは親切だった(笑)」。
―――当時、アメリカやヨーロッパは、今よりずっと遠かったんじゃないですか?
「そうだけど、行くか行かないかは、今もいっしょ。出発前の準備なんて、英語学校に2週間行っただけ」。
文字通り世界一周。異文化や異邦人との交流。東洋の小さな島国は、まだ世界に知られていなかった頃の話である。
その頃、青木フルーツも、大きな冒険を開始する。
「私が大学を卒業する1970年。万博があった年です。父が新しく整備された郡山市中央卸売市場に入場を決断するんです。青果卸業への挑戦です。フルーツショップを開業したのは祖父で、父は2代目。勤勉で、実直な人でした」。
初代のお祖父様は、郡山駅前・柳町商店街の会長として尽力された方で、東北初の天蓋式アーケードの建設計画を主導された方だったそうである。
さて、その青木フルーツと3代目の会長の話のつづき。
大学を卒業した会長は、業界では有名な『水信』に就職し、修行を開始する。水信は、1915年創業、横浜の老舗果物店であり、伝統あるバナナ加工卸売業者だ。
「ちょうど関西で勢いをつけていたスーパーマーケットが関東に進出してくるタイミング。私は運良くそのスーパーの担当になります」。
立川と八王子に巨大なスーパーがオープンする。会長が担当するスーパーだ。
「私の担当はバナナです。『関東の店舗のバナナはすべて水信で』という契約が交わされていたんです」。
―――当時、バナナは高級品でしたね?
「そう、高価なフルーツだったんですが、そのスーパーはほかより3割安く販売されていました。ちょうど自由化が進んだ頃で、スーパーのなかでも目玉商品だったんです」。
土曜に5トン、日曜には10トン。
「運ぶのも、たいへんだった」と笑われる。
その後もスーパーの出店はつづき、2年間の間に合計15店舗、そのすべてを会長が担当していたそうである。
会長も、土日となれば店にでた。まだ20代前半。あらゆるものを吸収する。「実体験で、小売のノウハウを勉強できた」とおっしゃっている。
「それでね。担当していたスーパーとの関係を軌道に乗せて、昭和47年の2月、24歳で水信を退社して実家に戻ります」。
会長がもどってからの30年。青木フルーツの業績は拡大をつづけ、8000万円だった年商が30年目には60億円になった。ただし、会長は満足されてはいなかったようだ。
「たしかに大きな成長なんですが、いっても60億でしょ」と会長。
「それに気になることもあったんです」。
「その30年で、昭和は平成になって、人々のライフスタイルも変化をつづけているんです。そんななかで、農水省がフルーツの流通量を発表するようになって、それをウォッチしていたんですが、その資料だと年々、流通量が減っているんです」。
「人口が減っているわけじゃないのに、毎年、減っている。『なんでかな?』って、頭をフル回転させて、考えました。答えはね…」。
話は飛ぶが、2026年9月現在、青木フルーツはフルーツショップを5店舗、生搾りジューススタンドを190店舗、フルーツタルト&カフェを19店舗、オープンしている。
この成長は、当時の会長の疑問がスタートライン。
回答が気になる。
「私の回答は、こうでした」と説明してくださった。
「流通量が減っているのは、家庭で時間をかけて調理する時代から、すぐ食べられるものを買う時代に変化したからなんです。魚で想像してみるとわかりやすいんだけど、下処理がたいへんで時間がかかる。だから、刺身を買ってきて、パッパと食卓に並べるほうが楽で速い。パックの魚を買う人をみて、『そうか』って。当時、フルーツのパック詰めなんてパイナップルやメロンぐらい。だから、切ったり、皮を剥いたり。そういう時間がもったいないから手がのびないんだって」。
「要するに、魚じゃないけど『フルーツを食べやすく加工すればいい』って。発見ですよね。でも、どうすればいいか思案している時に『ジュースがいいんじゃない?』って、天の声が聞こえてきたんです」。
「それを聞いて。これ、じつはうちの妻の一言なんですが、いいアイデアだって思って。縮小するBtoBから、拡大するBtoCへ。そんな思いで『ジューススタンド』をオープンしたんです」。
「最初にオープンしたのは郡山のうすい百貨店。2002年6月1日の土曜日です。今でも忘れないです。オープン初日、レジを閉めたら170杯、5万4000円だったんです。これには驚きました。だって、よくいって50~60杯だろうって計算していましたから。その後も売上があがって、2号店は郡山のショッピングセンターに出店するんですが、そちらは日曜日には20万円。店員さんも目を回しただろうけど、経営者の私も目を回しました(笑)」。
「これでいける」と確信した会長は、一大勝負にでる。東京への出店だ。
「ショッピングセンターのバイヤーにね。『青木さん、郡山でこれだったら東京だともっとすごいことになりますよ』って一言に背中を押されてね」。
都内に複数のスタンドを次々とオープンさせた。
1杯400円。缶コーヒーの4倍。それでも、飛ぶように売れていくはずだった。
「商売っていうのは、ほんと難しいよね。ぜんぶだめだった(笑)」。
ふたたび「なんで?」と頭を抱えたそう。
郡山や仙台は計算通りだった。しかし、東京は、まったく計算外。
「なにがいけないんだろう。なにがちがうんだろうって。ところが、そんな時も出店のオファーがあって、つくばに『駐車場4000台の大型ショッピングセンターをオープンするから、出店しませんか』って。東京でお金を使いはたしていましたから、とてもじゃないが無理だって最初は断っていたんです。でもね、担当者が熱心に誘ってくれてさ。それで、出店を決めるんです」。
「また、お金をかき集めた」と会長は笑う。
300億円の大型ショッピングセンター、その一角に、ジューススタンドがオープンしたのは2008年11月3日。
「そりゃもうシーズンはとっくの昔に終わってます。だって、寒いんです。凍えて買物に来たお客さんは冷たいジュースを飲まないでしょ」。
―――「だめだ」と思っていたんですね。
「そうです。春にならないと売れないと思っていました。ところが、本社に電話をかけてきた担当者が興奮気味なんです」。
「会長、たいへんだって。『50万円売れた』っていうんです。『悪い冗談はやめてくれ』っていうと、『ほんとに、1700杯いったんです』って」。
「『よくやった』って言いたいでしょ。でも、また計算外で、余計にわからなくなった。それに『なんで東京はダメだったのに』って」。
―――答えはみつけられたんですよね?
「はい、答えはロケーションだったんです。東京は、駅前です。1人で買物に来て終わって、ジュースをのんびり飲んでいる時間なんてないんです。こっちは無料の駐車場があって、車に乗ってきた家族全員で買物を楽しめます。そこに、美味しいフルーツジュースがあったらどうです?」。
―――ちょっと飲んでみたくなります。
「そうでしょ」。
会長は、つぎつぎと難問を紐解いていく。
「それから、広域の商圏をもつイオンモールなどに出店を重ねていきます。ただね。全店がうまくいったわけじゃない。今はスクラップアンドビルドを繰り返していて。190店舗くらいになっています」。
その一方で、もう一つの柱になっている「フルーツタルト」の話も聞いた。
「こっちはね、逆転の発想なんです。たとえば、ショートケーキって、苺がのっかっているけど、苺がメインじゃないでしょ」。
「ショートケーキが悪いとは言わないけど、私らからしたら、そりゃ、フルーツをメインにしてほしいよね。だから、逆転の発想で、『フルーツメインのケーキをつくろう』ってスタートしたんです」。
「こっちも色々あったんですが、2010年11月3日に郡山郊外にフルーツショップとフルーツタルト&カフェの複合店をオープンしたら、これがうまくいったんです」。
「ジュースは衝動買い」だけど、「タルトは目的買い」だと、会長はいう。フルーツメインのケーキのカフェとショップの複合店。
「フルーツショップやカフェが一体となった世界観。行列をみて、『これだったんだ』って」。
会話がつづく。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
4月から9月まで36試合、36店にご提供頂きました。
このような機会を頂いたBS10プロ野球中継関係者の皆様には感謝申し上げます。
【4月】
【5月】
【6月】
【7月】
【8月】
【9月】
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
秋のお彼岸に姉が実家のお墓参りに行って来てくれました。
ジェットクリーナー使い、墓石も綺麗に掃除されたので、先祖も喜んでいるようです。
そういえば全然墓参りにも帰れてないな・・・。
「飲食の戦士たち」もだいぶ業界内での認知も出てきました。
次のステージではこの「飲食の戦士たち」シリーズに手をつけます。
今、再現ショートドラマを動かしてますが、「飲食の戦士たち」に登場頂いた飲食経営者限定のショートドラマです。
この再現チームによる企業の紹介動画も動かす予定です。
サラリーマン廣井が飲食業界を応援する企業様にレポーターとして訪問!
注).そのサラリーマン廣井をこと廣井憲太郎氏が11月6日上映(池袋シネマ・ロサ)される『冤罪のつくりかた』に出演します。
また、書籍も現在3冊動かしており、こちらも「飲食の戦士たち」に登場頂いた企業様に限定しております。
10月以降下半期のキイストンの目玉になる「マンガde採用」も書籍と同様にシリーズに加えます。
益々、「飲食の戦士たち」を強固なメディアにしていきます。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
“飲食の戦士たち”で株式会社ブリッヂウィン 代表取締役 玉井亮佑氏を取り上げました。
「隣のコースは、未来のオリンピック選手、北島康介さんだった」と、玉井さんは笑う。
1981年生まれ、インタビュー時で45歳。株式会社ブリッヂウィンの代表だ。
「巣鴨の近くですから、とにかく下町育ちです。北島選手といっしょだったのは、水泳教室です。父は大手商社に勤め、母は専業主婦でした。兄弟は3人。小さい頃はやんちゃで、下の弟とはしょっちゅうケンカをしていました。ただ、父が怖くて、父が帰ってきたのがわかると、ケンカをやめて、蜘蛛の子を散らすように自分の部屋に駆け込んでいきました(笑)」。
小学校の頃から足がはやかった。学校では負けたことがない。だから、サッカーも好きだった。右ハーフ。運動量が半端ないポジション。
「じつは」と玉井さん。
「小学1年生のとき、車にはねられて15メートルぶっ飛んでいるんです。あと2、3センチ飛んでいたら縁石に頭をぶつけていたそうです。幸い、かすりキズだけで済んだのは、ほんと奇跡でした」。
九死に一生を得るとはこのこと。ただし、これだけじゃない。では、いつも通り、波乱万丈と背中合わせの玉井さんの人生を追いかけてみよう。
「小学2年で警察のお世話になった」と玉井さんは苦笑する。
警察?と驚くと、頷きながら経緯を話してくれた。
「ともだちとザリガニ釣りに行っていて、ザリガニは釣れたのにカゴがなくって。それで、『オレ、カゴ取ってくるわ』って。ちかくにあったコンビニに行くと、ちょうどいいのがあって」。
―――言葉通り、取っちゃった?
「そう、ぜんぜん悪気はなかったんです。悪気がなくても許してくれませんよね。店員さんにみつかって御用です」と玉井さん。
警察沙汰とは、大人げない気もしないではないが、大人たちは、教育のつもりで、簡単には許してくれなかったのかもしれない。
中学ではどんな感じだったんですか?
「あまり勉強はできませんでしたね(笑)。中3で初めて塾に行くんですが、進学した高校は、偏差値が低い男子校でした」。
そこしか受からなかったわけではない。
「友達が行くんで『じゃぁ、オレも』って。で、学校に行くまで、男子校だって知らなくて、『おい!男ばっかりじゃないか!』って(笑)」。
ただし、高校時代について聞くと「めちゃくちゃ楽しかった」と声を弾ませる。
「中学ではサッカー部がなかったんですが、高校にはちゃんとあったので、もう一度、サッカーを始めます。そのときのポジションが右ハーフです」。
「とんでもないバケモンがいた」と玉井さん。
彼の活躍もあって、東京都でベスト32にまで進んでいる。もちろん、玉井さんもピッチを何度も往復。右ハーフだけあって運動量は相当なもんだった。
ちなみに、小学生のころ、ボーイスカウトで自然のなかで生きることを覚え、中学の時には、家をでて1ヵ月帰らなかったことがある。
話を聞いていると、小さな頃から自立した少年の姿が浮かび上がってきた。
「当時、流行っていたカリスマ美容師のTV番組を観て、それまで漠然としか将来を考えていなかったんですが、『これだ!』って」。
3年制の専門学校に通い、美容室で働いた。
「結構、ハードでした。仕事も、勉強もした半面、その反動じゃないんですが、遊んじゃって。相当な借金をつくります」。
「よからぬ会社からも借りた」と苦笑する。こちらも大ピンチの一つ。
当時、20代前半の青年がつくった借金の額を聞いて驚いた。借り手はもちろんだが、貸し手にも責任がある。もちろん、飲食の戦士たちでよく出てくる独立資金や運転資金のためではない。借りたお金は、夜の街に消えていった。
「けっこうヤバかった。15メートル飛ばされたとき以上に、精神的にはヤバかったかもしれません。だって、麻痺して、お金を借りることが止まらないんです」。
子どもの頃からいつも頼っていた祖母に頭を下げた。
「おばあちゃんには感謝しかない。ぼくだけじゃなく、兄弟全員、世話になっています。もちろん、それ以来、事業資金以外、金融機関から借りたことはありません」。
―――美容師のほうはどうなりましたか?
「じつは、父が50代で独立して『タリーズ』のフランチャイズショップをオープンするんです。そのとき珍しく頭を下げて、『いっしょにやってくれないか』って」。
―――美容師とはちがう道ですね。
「そう。将来、独立するつもりでしたから、半年間、回答できませんでした」。
―――たしかに、難しい選択ですね。
「頭を下げてくれた父をムゲにできません。でも、独立もぼくにとっては大事な未来だったんです。最終的には、いくつか約束をして、父の下ではたらきはじめます」。
―――他社のインタビューでお父様に影響を受けたとおっしゃっていますね。
「タリーズをオープンしてから、ちかくで仕事をする父の姿をみます。父はスタッフより早く出勤して、毎日、店の周りを全部掃除するんです。前を通る人だけじゃなく、20メートル先の人にまで元気な声で『おはようございます』って声をかけて」。
―――普段のお父様とちがいましたか?
「初めてみる姿です。父がタリーズをオープンしてから、街の朝が一変するんです。『一人の人間が、朝の空気まで変えるんだ』って感動したのを覚えてます」。
―――その感動が、今の玉井さんをかたちづくっている?
「そうかもしれません。間違いなく、影響は受けています。ただし、フランチャイズでしたので、自由度がなくて、ぼくはそれが物足らなくて、父とちがう道を歩み始めます。父の下ではたらいたのは、けっきょく4年程度でしたが、この4年がぼくの人生にとって大きな意味をもっています」。
美容師から飲食へ。背景には、たしかに父の影響があった。
しかし、職業だけの話ではない。父の背中は、玉井さんに仕事の意味、人生の意味を教えたにちがいない。
「その後、複数社で勉強をさせていただき、39歳のとき、そのとき勤めていた会社を引き継ぐというかたちで独立しました」。
―――ちょうど、コロナのときですね?
玉井さんは、黙って頷く。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
“飲食の戦士たち”で 株式会社塚田農場プラス 代表取締役社長 森尾太一氏を取り上げました。
一つのお弁当のなかに主役級が並んでいる。若鶏のチキン南蛮、肉じゃが、高菜明太、玉子焼き。塚田農場こだわり卵「塚だま」をたっぷり使った特製タルタルソースは隠れた主人公だ。
芸能界のなかにも「塚田農場おべんとラボ」のお弁当のファンは多い。日本ロケ弁大賞では3年連続金賞を受賞している。
「今では塚田農場イコール『居酒屋』ではなく『弁当』という人も少なくないんです」といって白い歯をみせるのは、エー・ピーカンパニー(現:エー・ピーホールディングス)の子会社で、弁当事業を展開している「塚田農場プラス」の代表、森尾さんだ。 森尾さんは、1976年、奈良県の大和郡山市に生まれている。2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の舞台の一つとなる市である。
今回は、そんな大和郡山市の話から。
2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で、弟秀長の居城と言われているのが奈良県大和郡山市にある郡山城だ。2026年6月現在、城近くの「やまと郡山城ホール」には、「大河ドラマ館」もオープンして、にぎわいをみせている。
お城と金魚が有名な大和郡山市。
森尾さんは3人兄弟の長男で、父は市役所の職員だった。もっとも市役所の職員といっても、一般的なイメージとはちがっていたそうで。
「授業参観だったか、球技大会だったか。赤いポロシャツで、パンチパーマ、ブレスレットにサングラスで学校に現れたときは汗がでた」と笑う。
野球が好きで、食にうるさかった。
「外食は、専門店と決まっていた」と森尾さん。
もう一つ、うるさかったのが、教育。教育熱心だからだろう。ときにはパンチが飛んできたそうだ。
「中学受験も父の指令です。勉強しまくって、国立の共学校である『奈良女子大学附属中学校』に進学します」。
生徒は全員、附属の高校に進む。「進学率は高くて、国立に進む生徒も多いんですが、私は東京の私立大学に進学しました」。
一つは指定校推薦で入学できたこと。もう一つは「親元を離れ、東京に行きたかったから」。
「ちょっといろいろあって、高校時代に1年間親戚の家で暮らしていたんです。それも親元を離れて一人暮らしをしたいと思うきっかけだった気がします」。
東京へ向かった森尾さん。<学生生活はいかがでした?>とたずねると、「結論からいうと」と切り出す。
結論からいうと「卒業していない」らしい。
「レストランやカラオケなど、とにかくアルバイトが中心だった」と森尾さん。「夕方からレストランではたらいて、深夜から朝までカラオケでバイト。学校に行く気力は残っていなかった」と苦笑する。
「服好きだったから、大学を辞めてから、外資系のアパレル会社に就職しました」。
就職といってもアルバイトでスタート。ただ、3ヶ月程度で社員昇格を果たす。異例のことで「今も記録保持者かも」と笑う。
「社員にもすぐになれましたし、評価もいただいていたんで楽しかったんですが、中途入社組のキャリアは、いくら評価されてもストアマネージャー止まり。それがわかってテンションが下がったとき、タイミングよく先輩が『独立するから一緒にやらないか』と声をかけてくれたんです」。
今度は、福島県の郡山市へ行く。「郡山で、アンティークなカフェをオープンしたんです。3人でスタートするんですが全員、未経験で、けっきょく空中分解してしまいます」。
サービスのイロハも、F/Lコストもみんなわかってなかった。数ヶ月経つと、給料が支給されるかどうかもわからなくなった。
「それで『オレは東京に帰る』っていうんです。初めての挫折です。でも、感謝はしているんです。挫折はしましたが、飲食が好きになったし、社会人としてゼロから出直しだと、はじめて心を決めることができたんです」。
「飲食×社会人やりなおし計画」が始動する。求人誌をひらいて目にとまった会社があった。「リンク・ワン」だった。
「外食産業向けの人材派遣やコンサルティングを行っていた会社です」。
当時は急成長の真っ只中だったそう。
「採用した人材を『プロ店長』に育て、派遣する。絶好調だったから、週に5~10人は採用していたんじゃないかな。当時は、『銀のさら』が絶好調で、私も最初は『銀のさら』だったんです」。
「でも、免許がないとバイクに乗れないでしょ。それじゃ、宅配の『銀のさら』ではだめだってことになって」。
関西で『牛角』を支援する事業がスタートするタイミングだったので、『じゃぁ、森尾はそっちだ』と」。
「そんなわけで、福島の郡山から東京にもどって2週間で、大阪です」。
森尾さんは、関西にできた研修センターで「プロ店長」を育成するトレーナーの仕事を開始する。
「今でも笑えない」といって、当時の様子を語ってくれた。
「トレーナーとか、コンサルなんですが、じつは『げんかしょうきゃく』がわからなかった。漢字もわからない(笑)。でね。『原価』って書いて、ちょっと止まって『ショウキャク』ってカタカナで」。
ノートに書かれた文字をみて、当時の上司に真顔で心配された。
郡山で頭を打ったが、それでもオレはできると心のどこかで思っていた。しかし、レベルが一つあがると、ほんとになにもできなかった。
「何も知らないし、何もできない。コンサルの相手はオーナーでしょ。人生経験で敵うわけありません。それに、周りに、そりゃぁ雲の上のような優秀な人がたくさんいて」。
<それでも前に進めたのはなぜ?>と聞くと、「猛烈な危機感」と森尾さんはいう。ビジネス書にかじりついた。F/Lコスト、P/L、利益計算、減価償却…先輩たちが会議で語っていた専門用語が、だんだんとわかるようになる。
「あの時があったから、今がある」と森尾さんは隠さずいう。のちに牛角を展開するチームの責任者になり、リンク・ワンは4年在職。その後、当時の役員の独立に伴って転職。そこでも同じ仕事をしていたので合計9年、コンサルの仕事をしていたことになる。
「コンサルの仕事は、やりがいがありましたが、その一方で、オーナーさんの喜ぶ姿や、数多くの素敵なお店をみてきたからでしょうね。支援だけじゃもの足りなくなって」。
コンサルから、実業へ。森尾さんは舵を切った。
「最初は知人の紹介で、業務委託からのスタートです。業績は悪くなかったんですが、オーナーと意見が食い違うようになって。それで、つぎに就職したのが」。
<エー・ピーホールディングスですね?>
「そう。勉強のつもりだったので、じつはもう少しスケールの小さな会社がいいと思っていたんですが」。
エー・ピーホールディングスの「生販直結」のビジネスモデル、独自のビジョンに惹かれて転職したそうだ。
「みなさんご存知と思いますが、米山久社長(現株式会社エー・ピーホールディングスの代表取締役会長 兼 社長)の片腕といっていい、大久保伸隆さん(現株式会社ミナデイン代表)という方がいらして。私は大久保さんをサポートするチームで主に人事系の仕事を担当します」。一度に100名以上採用したこともあったそう。
転職して1年後、エー・ピーホールディングスは上場を果たし、メインブランドの「塚田農場」はブームとなり、テレビにも何度も取り上げられた。
「居酒屋のバイトが就職に役立つ」という切り口を設けたのも塚田農場だった気がする。
「パッションもあったし、ピュアだったし。私は採用だけじゃなく教育、マネジメントまで担当していましたので、それはやりがいがありました」。
「でも」と言って森尾さんは続ける。
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