2022年11月30日水曜日

11月25日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦は『居酒屋甲子園』を取り上げました。

11月25日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦は『居酒屋甲子園』を取り上げました。

株式会社eatopia 代表取締役 山科博昭氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社eatopia 代表取締役 山科博昭氏登場。


奇跡の大逆転。

小学校時代、本人はそのつもりはなかったが、周りからは優等生タイプだと思われていたらしい。勉強も出来たし、スポーツも平均以上。ただし、それを自慢するタイプでもなかった。
「習い事は沢山しましたね。公文やピアノ、書道。運動系では、水泳、テニス、剣道、サッカーなど。親としては色んな習い事に触れることで僕の可能性を広げようとしてくれたのだと思います。ただ、習い事が多すぎて他の同級生と同じようには遊べなかったのが自分としては少しつらかった気がします。当時は、親から刷り込まれていたので、ぼんやりとですが将来は医者になるのかなあ、とか思っていました(笑)」。
秀才だから、無理な話じゃない。
父親はエリート銀行員、父方の祖父は政治関係、母方の祖父は大学教授。サラブレッドだ。「ただ、そのエリート時代は、長く続かなかったです。」と笑う。
どういうことだろう?
「中学受験をし、神奈川御三家の一角と言われる中高一貫の私学に通うことになりました。そこまでは良かったのですが、その最初の中間テストで270人中240位という成績を取ってしまい、下位40人が先生に呼び出されました。そこで言われたのは「君たちは今までは各小学校で成績優秀だと言われていたかと思うが、ここはそういった人たちが集まる学校だ。だから、今の自分の立ち位置を認識して頑張るように」という内容。今までの自分が体験したことのない立ち位置で結構な衝撃を受けました(笑)補足すると、進学先の大学は早慶以上でないと人生の落伍者のレッテルが貼られる学校でした・・・」。
秀才のハナが折られたということ?
「そうですね、特に中学時代は良い思い出がありません。成績も下の方をうろうろ、当時の人気漫画の影響で始めたバスケットボール部ではレギュラーはおろか15人のベンチ枠にも入れず、時々部活を休んで家でゲームをしていました(笑)」。
ただ、高校に進級するところから大きな変化が。
「中学時代は身体の成長の早さの差による体格差もありなかなか一度決まった序列を覆すことが出来なかった。だから、3~4軍のまま。ただ、中学の部活が引退するタイミングで、過去の序列はシャッフルされて、私にもレギュラーを狙えるチャンスがあると感じました。それがモチベーションになって、練習は一度も休まず、毎日個別で昼練をするなどガラリと部活に取り組む姿勢が変わり、最終的にはレギュラーを射止め、チームで最も得点を取るエースになることができました」。
4軍からの奇跡の大逆転。スカッとする話。「私の中では、絶対的な成功体験だったと思います。あ、ちなみに勉強の方は、そんな大きな逆転劇は起こらなかったですね(笑)」。
ところで「早慶以上に行かないと人権がない学校」とも言っていたが、はたして人権は手にできたんだろうか?
「おかげさまで。なんとか現役で慶応義塾大学に進むことができました」。
慶応義塾大学でも、立派なエリートだと思うのだが、優秀な人たちの中ではまた違った感覚があるんだろう。
ちなみに、3つ下の弟さんは東京大学を卒業されている。

外資系金融機関でトップクラスの成績。

「大学に進んでからは、バスケットボールではなく、テニスサークルに入り、代表を務めることになります。この時の経験も私にとって大きな財産の一つです。色んな人との出会いがあり、結果、私の人生に大きな影響を与えます」。 就職は日本IBM。 「金融機関を担当する営業でした。在職は3年だったんですが、部署や担当先にも恵まれて3年目には年収800万円を超えるようになっていました。給料も悪くないし、辞めるなんて一切考えていませんでした。しかし、当時、前述のサークルの後輩でお医者さんの娘さんとお付き合いをしていまして。その彼女から「自分の親が私にしてくれたことをあなたのようなサラリーマンでは出来ないから結婚出来ない」と言われてふられてしまいます。一般的には高給取りのはずでしたが、800万円くらいは『彼氏まで』だったということですね(笑)」。
ショックな一言だったが、その一言が大きな引き金となった。
「当時は凹みましたね。お金がないということが人生の可能性を狭めるということを身を以て学んだので・・・じゃあ、医者を超えるくらい稼いでやろうとたまたま誘われた完全歩合の外資系の生命保険会社に転職します」。
どうでしたか?
「むちゃくちゃ楽しかった。人生で一番楽しかったと言っても良いくらいですね。給料はうなぎ登りで、天井知らず。何よりスカウトされた営業所が、全社でもトップを独走。トップクラスの人材と一緒に熱く仕事ができたことは人生の宝物です。3年目には営業所長に昇格し、5年間全社TOP3%の成績をおさめ年収5000万円を突破しました」。
順風満帆、なんの悩みもないですね。
「よく言われたんですけど・・・実は、入社当時、上司から『年収5,000万円を超えると、自分って貧乏だな、と思う時期が来るぞ』と言われたことがあるんです。当時は全く理解出来なかったですが、だんだん実感してくるんですね。お付き合いする人が超富裕層に変わっていくことでその彼我の差を感じるようになるんですね。
そして、この会社でのキャリアもある程度見えてしまった。マネジメント職では支社長がトップというか、あがりなんです。だからその先がない。もちろん、成功すれば年収は1億円を超えるようになっていくんでしょうが、じゃあこの仕事をそのまま30年間続けるのか?と思うと・・・」
漠然とした不安と不満を感じるようになった。むろん「未知数の未来」と「今」を天秤にかければ、今がいいに決まっている。さて、どうなったんだろうか?今回もまた、山科氏を次のステージにいざなう出会いが、待っているのだろうか?

ロピアに転職。

話を先に進めると、今や関東だけでなく関西圏でもその名を轟かせているスーパー「ロピア」の経営陣として山科氏は転職することになる。オファーを受け、決断までわずか2時間だったということだ。 どういう経緯だったのだろうか。
「ロピアの2代目社長の高木さんが、大学のサークルの先輩だったんです。当時からとてもかわいがってもらっていて・・・そうですね、自分が保険会社の支社長職になろうとしている31歳の時に、高木さんと食事をしている中で、『ITや金融という虚業は確かにお金を稼ぎやすいとは思うが、実業の世界で一緒に会社を成長させていく夢を見てみないか』というお誘いを受けます。その場で妻に電話をかけて「俺会社辞めるわ」と。家に帰ると妻が待ち構えていて、最初は不安そうでしたが、話すと意外にも背中を押してくれて。誘いを受けてから3時間くらいで承諾していますので、まぁ、即決ですね」。
今までとは、まるで違った道がスタートする。
「ロピアっていうのは、スーパーの中では最近勢いの良い新参者という感じでした。私が入社した当時で年商700億円程度だったかと思います。それを高木さんは1兆円企業にしたい、というビジョンを語るんですね。その熱に動かされました」。
そして、天秤は思わぬ方向に傾いた。
「小売りのことを全く知らない私は現場の一社員から経験していくつもりでした。しかし時を同じくして、ロピアは総菜やデザートなどの食品メーカーである利恵産業をM&Aすることとなりました。なので、その社長に就任したところからロピアグループでのキャリアが始まります。5年赤字続きだった会社だったのですが、今までの経験からなんとかなるだろうと安易に『1年後に単月黒字にする!』と宣言してしまいます。すぐに、無謀な一言だったと分かるんですが(笑)」。
食品メーカーを傘下にすることで、シナジー効果があるとロピア経営陣はそろばんを弾いていたに違いない。だが、「蓋を開ければ、相乗効果以前の話でした。ロピアは、黒船来航よろしく、他のスーパーのマーケットを奪って成長してきた会社だったので同業他社さんからよく思われていなかったんです。それで、今まで理恵産業が卸していた会社から次々と、『ロピアの傘下に入ったので、取引はやめる』と打診され、入社後3か月で、売上の7割を失うこととなったのです」。
赤字+7割減からのスタートですか?
「そう。単月黒字なんて、とんでもないホラ吹き男になっちゃうところでした(笑)」。
そこから2年程で、山科氏はある銀行出身者に社長のバトンを渡している。もちろん、単月黒字を諦めたからではない。むしろ、その逆。
「ある高級スーパーで扱っている有名なチーズケーキがあるんですが、それとほとんど同じ品質のものを半額で売れるように開発することに成功しました。それを担いでロピアは勿論のこと、私が直接、他のスーパーマーケットや、ドン・キホーテさんに営業をしかけます。その結果、ロピア以外の各地方のスーパーマーケットでも販売いただけるようになり、これが起爆剤となって、就任からちょうど一年後に単月黒字を達成することが出来ました。そこまで浮上した次は安全運転のフェーズです。そうなると私より、もっと緻密な細かい管理が出来る人にバトンタッチする方が良いじゃないかと思って、社長を譲りました」。
原野を切り開き、新たな苗を植え、芽吹かせる。元優等生の山科氏だが、今や、ちから仕事が山科氏には似合っていた。ただ、この時、次にさらなる力仕事が待っているとは、本人も思ってもいなかっただろう。

・・・続き
株式会社eatopia 代表取締役 山科博昭氏

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2022年11月24日木曜日

22日発行の東スポに大きく取り上げて頂きました。

11月22日発行の東京スポーツ全国版(東京スポーツ、中京スポーツ、大阪スポーツ、九州スポーツ)にめちゃくちゃ大きな記事を出して頂きました。

ほんと超ビビりました(笑)
東スポ様、ありがとうございました!






戦略型総合人材採用会社キイストン

株式会社ダイナック 代表取締役社長 秋山武史氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ダイナック 代表取締役社長 秋山武史氏登場。
本文より~

京都生まれの長距離ランナー。

風を受けて疾走する。時速で言えば何キロ出ているんだろうか?「父親も兵庫県下でわりと有名な陸上選手だったので、その才能を受け継いだのかもしれませんね」。
今回ご登場いただいたのは株式会社ダイナックの代表取締役秋山氏。
秋山氏が生まれたのは1970年。「京都で生まれ、大学を卒業するまで京都がずっと私のホームでした」。出身大学は同志社大学商学部。
「小さな頃からかなり自由にさせてもらっていましたが、躾という意味では、父は厳しかったですね。ただ、指図されるのがイヤな私の性格を知っていたんでしょう。基本、私の考えを尊重してくれていたようにも思います」。
小学校で8クラスあったというから、さすが京都のど真ん中。「中学になって、京都の南区から城陽市という奈良県よりの市に引っ越します」。
公立中学だが、陸上は強豪。そのなかでも秋山氏は群を抜いていたのではないか。「走るのが好きだったから入部するんですが、練習はきつかったですね。部員は50人ちかくいました」。
秋山氏は長距離3000メートルを選択する。
「中学2年くらいから成績も良くなって」と秋山氏。平然というが、全国で4位、ジュニアオリンピック2位というからすごい。
「練習では弱く、本番に強いタイプ」。これは自己評価。

同志社大学時代。海でも走る?

「洛南高校から同志社大学に進みます。いずれもスポーツ推薦で進学しました」。洛南時代には、全国高校駅伝1区で当時の区間賞を獲得している。
調べると記録が残っていた。39回大会、29分53秒、秋山武史、京都、洛南と記載されている。「とにかく負けず嫌いなんです。だから、先を進む選手を抜くまであきらめなかったんでしょうね笑」。
社会人の強豪チームから声がかかったが、陸上は大学までと決めていたという。大学時代、陸上は続けたが、その一方でサーフィンにもハマった。こちらは、今もつづけているというから、相当のめりこんだのだろう。
「海外にも行きましたしね。アルバイトは、サーフショップや飲食店でした。あの頃から、お酒を飲みながらワイワイガヤガヤするのが好きだったんでしょうね」。
就職先も、その延長線上で判断した。ワイガヤの店づくりが、就活コンセプト。

サントリー入社。角ハイブームを巻き起こす。

1993年、秋山氏はサントリーに入社する。当時はバブル経済が崩壊し、就職ランキングトップクラスの常連であるサントリーといっても採用枠を減らしていた。
狭き門に、相当数の学生がチャレンジしたはず。そのなかで勝ち抜いたのは、たしかに、本番に強い証。
「就職して初めて京都を離れます。希望通り東京南支店(渋谷)に配属され、大田区を担当しました。こちらで3年勤務しています。そのあと市場開発本部に異動し、5年半。こちらでは、全国チェーン店の開拓などをしています」。
秋山氏は、そののちグルメ開発部に異動。旨い一杯をつくりだす。
「ここでは業態開発やメニュー開発をメインに、経営支援をするのがミッションです。ブランディングやマーケティングも重要なテーマです」。
さて、その旨い一杯というのは、のんべぇでなくても「旨い!」と歓声をあげたあの一杯。。「角瓶」をソーダで割って飲む「角ハイボール」である。角ハイの戦略は、消費者だけではなく、業界のなかでもセンセーショナルだったのではないか。とにかく、筆者自身は「とりあえずビール」から「とりあえず角ハイ」となった。
まんまと戦略に乗せられた格好だが、旨いのだから、いくら乗せられてもいい。ちなみに、山崎のハイボールは角ハイより、まろやかで、これもまたいい。
筆者のなかで言えば、角ハイが、ウイスキーの消費曲線をV字回復する決め手になった。
どうも、この現象は筆者だけではなかったようだ。古いデータだが、角ハイがリリースされた2008年と、翌2009年、2期連続でサントリーのウイスキー出荷量は前年を上回っている。
ウイスキーの弱みを逆手にとり、「角ハイなら一杯目からでいい」を定着させ、ウイスキーの消費をうながしたのは、マーケッターとして大金星だ。
しかし、飲食店にとって厳しい時代が到来する。コロナ禍である。

コロナ禍でサラリーマンがいなくなる?

「新橋からサラリーマンがいなくなった」。コロナ禍の下、インタビューしたある経営者がため息を漏らした。リモートワークが喧伝され、サラリーマンが巣ごもりしてしまった時期のこと。
飲食店から1人2人と、歯がかけていくように、常連客が減った。
「ダイナックはサラリーマン御用達ですから、いちばんきつかったですね。宴会がまったくなくなったわけですから打撃はハンパない。お客さんがいないと、ただの広い箱ですからね」。
実際、コロナ禍でかなりの店をクローズしている。
このダイナックに、コロナ禍がスタートして、1年と少し経った2021年9月に社長として就任したのが、そう秋山氏である。
ウイスキー同様、V字回復できるのか。

・・・続き

株式会社ダイナック 代表取締役社長 秋山武史氏

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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

11月16日、MAG2NEWSに「飲食の戦士たち」再現動画を取り上げて頂きました。

11月16日、まぐまぐニュース(MAG2NEWS)に「飲食の戦士たち」再現動画を取り上げて頂きました。

少しずつですが、飲食経営者の生き様を伝える「飲食の戦士たち」がより多くの人に認知されてきてる手応えあります。






戦略型総合人材採用会社キイストン

2022年11月23日水曜日

2022年11月22日火曜日

ここにきて「飲食の戦士たち」が少しずつですが認められてきた気がします!!

ようやく「飲食の戦士たち」が認められてきた気がします。

最初は、

こんなの無料で取材やってどうなんですか、売上上がるんですか?

20〜30回くらいまでしか続かないんじゃないんですか?

なぜ過去の出来事を書くんです、今からの展開じゃないんですか?

まあ、振り返ってみるといろんな意見がありましたね!!

でも、諦めずに続けてきて良かったです。


この「飲食の戦士たち」は、多くのアルバイト、インターン、社員(元社員含む)の人たちが一生懸命取材のアポイントを取ってくれました。  

その成果の賜物です。

次は1,000掲載ですね。






戦略型総合人材採用会社キイストン

2022年11月16日水曜日

株式会社カオカオカオ 代表取締役 新井勇佑氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社カオカオカオ 代表取締役 新井勇佑氏登場。

本文より~

あこがれは、ドクター。

学生時代は頭がいい方だと言われていたらしい。もちろん、成績はオール5。女の子にも人気だった。好きな子が同時期に5人いた時もあったが、それぞれの好みに合わせた男子を演じていたらしい。恋も戦略で成就させる、そんな幼少期。
父親は高校時代、全国の建築コンクールで3位に入賞。大手建設会社からのオファーを受け、以来、そちらで建築畑を歩まれている。そんなエリートの父親だが、父親から「勉強しろ」と言われたことがないらしい。むしろ、好奇心を持ったものには、自由に取り組ませてくれたそう。
ユニークな話が一つ。
「ふつう子どもがつくるといったら、プラモデルだと思うんです。でも、あれはパーツをくっつけるだけ。うちの場合は、五重塔なら、塔を設計するところからスタートするんです」。
なるほど、建築家の教育はちがう。
新井氏は自身の人間形成に、父親の教育がもっとも影響しているという。
新井氏が生まれたのは、1984年。池尻大橋に生まれ、3歳で町田へ引っ越している。小学校は地元の公立小学校だが、中・高は、「攻玉社」に進んでいる。
「ぼくから言い出したんです。受験させて欲しいと」。
「攻玉社」といえば、150年以上もつづく、有名な進学校。卒業生は総理大臣から学者、宇宙飛行士まで、多士済々。むろん、受験は新井少年にとっても高いハードル。
どうして、険しい道を選択したんだろうか?
「小学2年生の時に盲腸になります。体質的に麻酔が効かないなかでの手術だったんですが、その痛みより、手術をしてくれたドクターがカッコよくて。それで、ぼくも、あんな人になりたいと思います」。
それで、選んだのが「攻玉社」?
「そうです。医学部志望の生徒もたくさんいますし、東大は当然。それ以下は、負け組という学校です。ただ、この学校も、父親といっしょで勉強しろとは言わない(笑)」。
記憶にあるのは、20キロの遠泳や、30キロのマラソンなど。マラソンでは先生の目を潜り抜け、タクシーで快走していたそうだ。

臨床心理学と、飲食。

「最初は、いいほうだったんですが、だんだん成績が下がり、最後は下からうん番目。もちろん、めざすのは医学部です。ただ、不合格。かなり高いカベを知りました。でも、白衣は着たい(笑)」
それで臨床心理学ですか?
「そうです。『臨床心理学』という比較的新しい分野に挑戦します。おなじやるなら、大学のブランドをすて、トップになれる大学に進みます」。
それが帝京平成大学ですね?
「そうです。創立も新しく、たぶん、トップ層での合格です。大学では自由を謳歌します。卒論を認めていただいて、大学院にも進みました。ただ、研究者タイプではなかったんでしょうね。どこかで、『違う』と思いはじめます」。
どこがどう違った?
「仕事をつづけるという意味で、NOだったんだと思います」。
それで、真逆の職人気質の世界に飛び込んだんですか?
「職人の世界のなかでも、飲食に進んだのは、もともと父親が美食家で、ぼくも利き蕎麦ができるくらい、繊細で敏感だったからです。もちろん、飲食の世界に入ったのが26歳だったので、今から職人は無理です」。
ただし、という。
「大学や大学院で専攻した心理学や、昔から得意だったマーケティングやコミュニケーション、またマネジメントのスキルを掛け合わすことで、飲食の世界に、また職人という世界に、何か新しいイノベーションが起こせるんじゃないかと思ったんです」。
新井氏は「存在意義」という言葉を遣う。
「鶏口牛後」ではないが、どうすれば、自身の存在意義を明確に示せるかを、冷静に分析し、その確度を高める道を進む。飲食の世界も、その一つだったに違いない。

天才に出会う。

新井氏が天才というのだから、飲食の世界に棲む大天才ということになるんだろうか?
新井氏は、たまたま縁がって「旅人食堂」「ニライカナイ」を運営する有限会社コパアミューズメントに就職する。同社では、運営や戦略の立案など経営的な業務を行っていたそうだ。
そのコパアミューズメントの社長が、新井氏がいう大天才。とにかく、ヒットを連発する人だという。「真似ができない。いうなら、カリスマですね。今は、沖縄で仕事をされているはずです」。
このコパアミューズメントでタイ料理にハマるんですね?
「そう。研修でタイに行くんですが、衝撃的でした。日本で食べるのとはまったく違います」。
雑多、喧噪。
ガチャガチャと食器が音を立てる。意味不明な言葉が頭上でシャッフルする。後方で、ブルブルというのは、バイクの音。
「そういった日本にはない世界観ですね。そういったものも含め、惹かれてしまいます」。
ちなみに、日本で一般に食べられているのは、タイの王宮料理。新井氏によれば、王宮料理はフランスなどヨーロッパにルーツがあり、どちらかというとソースが決めてとなる濃い味。逆に屋台料理は中国から伝わったあっさりした薄味だそう。
「ぼくが、食べたのは屋台料理です。テーブルには、知らない人がいる。料理もフリー。飾らない世界で、これぞ、タイの食のカルチャーだ、と」。
大天才とはちがうが、ひらめきがあった。
「日本にはないタイ料理と、日本人の居酒屋文化の融合です。もちろん、ぼくはロジカルに物事を進めるタイプなので、飲食店の視察や調査も念入りに行い、ロケーションにもこだわりました。そして、2014年、『タイ料理×居酒屋』がコンセプトの『タイ屋台999』を東京・中野に出店します」。

パクチー鍋、TV局を動かす。

「創業店は12坪で32席です。ロケーションにこだわったと言いましたが、家賃も比較的安い路地裏で、隠れ家的なイメージがわく、ロケーションに出店します」。
資金は父親の退職金ほか。出資金をお願いした時に、ご両親はすぐに了解してくださったそうだ。
「当初は、400万円くらいの月商を見込んでいたんですが、半分くらいしかいかない。お客様がいらっしゃらない時もありました。性格的に焦るタイプじゃないんですが、もちろん、何もしないわけにはいきませんし、逆に課題が明確だったので、あとは解決するだけ。そういうのは、大好きですからね」。
----------戦略① 奥様が民族衣装を着る。
「まずは、知ってもらわないといけないので、妻に民族衣装を着てもらって、ビラを配ってもらいます。駅と、キリンビール本社前。ビールメーカーの人は、飲食店の利用率が高いんです。もちろん、1度来店いただけばリピートしていただける自信あったからこそ、できた戦略です」。
----------結果① 200万円前後の売上が300万円をオーバーする。
----------戦略② 平日の週末化。
「つぎに、週の売り上げデータから、平日の週末化を狙った動きを開始します。9日、19日、29日は『カオマンガイの日』に設定。パクチーブームの到来で2日、8日、9日をパクチー食べ放題の『パクチーの日』に。つまり、平日にも『週末のように楽しめる時間』をつくりだします」。
----------結果② 連日、満席。月商は400万円をクリアする。
----------戦略③ マスコミを動かせ。
「毎日、満席になるんですが、まだ、中野の人だけなんですね。東京から人を連れてくるために、マスコミを利用します。その仕掛けのためのコンテンツが、パクチー鍋です。SNSでアナウンスしたら、狙い通りTV局が動いてくれました。そのおかげで、狙い通り中野以外からも集客することができたんで、じゃぁ次は東京のど真ん中だと、新宿三丁目に2号店を出店します」。
----------結果③ 中野以外のお客様の集客に成功する。
すでにと言っていいだろうか、「タイ屋台999」は、タイ料理のスタンダードになっている。むろん、このブランドコンセプトはぶれない。だから、料理もけっして日本人の味覚に寄せないという。この潔さもまた、新井氏が設計した、飲食のデザインの一つだろう。
2022年8月現在、6店舗を展開。一つひとつに出店の意味がある。コロナ禍の下でも出店を行っている。

・・・続き

株式会社カオカオカオ 代表取締役 新井勇佑氏

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2022年11月8日火曜日

11月4日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」『テイクファイブ』様を取り上げました。

11月4日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は3年連続の焼肉百名店にも選ばれてる亀戸ホルモンなど運営されてる『テイクファイブ』様を取り上げました。

株式会社KRフードサービス 代表取締役社長 望月 進氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社KRフードサービス 代表取締役社長 望月 進氏登場。

本文より~

祖父と父親は公務員、母親は教師という絵に描いたような“お堅い”家庭に生まれ育つ。

いわゆる“お堅い”家庭に生まれ育った望月氏。生まれたのは兵庫県神戸市。1973(昭和48)年のことだ。
「秋田出身の祖父の代から父まで、公務員の家庭に育ちました。厳密に言えば、祖父は生糸関連を扱う国家公務員、三人兄妹の次男だった父も公務員でした。母は兵庫県加古郡出身で中学校の音楽教師でした。母方の祖母も教師でした」。世間一般から見れば公務員の父、教師の母という家庭は、ある意味では“真面目な家庭”“羨まれる家庭”と受け取られたのかもしれない。すべての公務員に当てはまるわけではないが、一方では公務員には公務員ならではの価値観があるようで、望月氏も“公務員ならではの価値観”の環境で育てられたともいえる。
「両親は厳しかったです。“〇〇すべき”という“べき論”に価値を見出していたのか、あるいは教育方針なのか、どちらかと言えば、学校教育にしても躾や礼儀作法など家庭教育にしても型にはめ込むような教育でした」。
「また、大学に行くまでですが、祖父、両親、3歳下の妹を含む三世代同居だったことも影響していたのかも知れませんね」。因みに、関西地方は“三世代同居”の比率が関東に比べて高いという。望月氏は、そんな家庭で育った。

自我に目覚めた中学時代、親の考えとの違いに気づく。

小学校、中学校とも地元の公立校で学んだ望月氏。
「小学校の頃、公務員一家のためなのか両親に中学受験を薦められ塾に通ったんですが、5年生のとき受験することを辞めました。あまり覚えていませんでしたが勉強は嫌いでした」。
1973(昭和48)年生まれの望月氏。いわゆる第二次ベビーブームにあたり“団塊ジュニア”と称される世代で新生児の数も200万人と多い(参考までに2021年は約80万人)。必然的に小学校も中学校も、高校もクラス数は多い。
「中学校は8クラスでした。あまり勉強をしたつもりはないのですが、成績は学年で5番目くらいだったと思いますし、生徒会の活動を務めたこともありました。その一方で、番長と呼ばれる不良的な連中とも仲が良かったですね」。
一般的に“14歳の壁”“中2の壁”ともいわれる年頃、“自分は何者であるか”という疑問を自分に投げかける時期だといわれている。望月氏も「親が言うこと、つまり親の希望と自分の考えが違うなと感じていました」と振り返る。

固定的な価値観から解き放された人生を送りたい。

そして高等学校は県立高へ進学。
「兵庫県の公立高校で県立長田高校と県立星稜高校で悩み、結果、星稜高校に進みました」。
因みに県立長田高校は2020年創立100周年。県立星稜高校は1878年に前身の神戸商業講習所と、両校とも歴史のある高校である。
「自宅からもいちばん近い学校で服装も自由。男女共学で生徒数は1学年500人以上、12クラス編成でした」。高校3年間、よく遊び、悪友との付き合いも生まれるなど、学業とはかけ離れるばかり。当然ながら成績は下降の一途だったと語る。
「成績は最終的には500人の下から数えたほうが早いくらいまで落ちました」。
人生には多彩な「教師」が存在する。最も身近な教師は“親”だろう。なぜなら“親”は子どもが出会う最初の“人生の見本”だからだ。良きにつけ悪しきにつけ、“親”の影響は絶大なものがあり、結果的には逃れられないものだ。
「先ほども言いましたが、祖父も父も公務員、母は教師でしたから固定的な価値観が強かったように思います。そうした、両親のような生き方が平凡な人生に見えたんですね。だから自分は高校生なりに、親の価値観に左右されず自分なりの人生を創ろうと思いました」。
『平凡は非凡なり』。その意味するところは、簡単にいえば“平凡に生きることが、実はいちばん難しい”ということだが、反面、没個性に写るもかもしれない。どこかで“平凡ではない、没個性ではない個性的な人生”を送りたいと思うのも当然だろう。
「振り返ってみれば親が反面教師だったことは間違いなく、そこを起点に将来の人生を思い描いたように思います。ただ、お金持ちにはなりたかったですね」。
親が描いた固定的な価値観の呪縛から逃れ、自身の価値観に沿った“自立”への歩みは、大学時代から始まった。

飲食業への道を歩みはじめた学生時代。

「両親には調理師学校に行きたいと言ったのですが、大学だけは行きなさい、調理師学校に行くなら卒業して自分のお金で行きなさいと諭されました」。
1年目は受験せず、一浪して大阪経済大学へ進学。大学時代は実家を離れ下宿生活をしていたとか。
「入学後間もなく梅田にあったイタリアンレストランの厨房でアルバイトを始めました。厨房スタッフが4~5人、40~50席の本格的なイタリアンの店でした。時給が良かったこともありますが、卒業まで4年間、続けたんですよ。しんどいこともありましたが職場環境が良かったことと、料理長のスキルに憧れたことも続けられた要因だと思います」。
学業とアルバイトに明け暮れていた日々。大学2年も終わろうとしていた1995(平成7)年1月17日、神戸を中心に未曽有の大地震が襲った。『阪神淡路大震災』である。ある意味で人生観が変わるような災害だった。
「さっきまであった街並みが一変した景色に言葉を失いました。幸いなことに家族は無事でしたが実家は半壊、大規模火災が起きた長田地区の友人も亡くなったりしました。ある種の虚しさとでも言うのか、いつ死んでもおかしくないなと思いましたね」と震災がもたらした心的影響や人生観への影響を振り返る。
4年間の学生時代を経て卒業。元来、高校卒業時に調理師学校へ行きたいと希望していた望月氏。つまり、調理師学校へ進むということは視点を変えれば飲食業へ進むということに結び付く。

成功のチャンス、偉くなるチャンスは飲食業にあり。

望月氏が卒業したのは1996(平成8)年。1986年(昭和61)年12月から51か月間続いたバブル景気が崩壊した後のことだ。
「各企業とも求人を減らしたのか、大学の就職課には思うような企業はありませんでしたが、就職するなら飲食業にと限定していました。なぜなら飲食業であれば成功できるチャンス、偉くなれるチャンスがあると思ったからです」
就職にあたり優先的に考えたことがあった。
「経営と仕組みを学びたかったことと結婚を控えていたので、企業を中心に受けました」。
因みに奥様は大学1年のときに知り合った女性で、卒業後の23歳で結婚、27歳で父となった。
「ロイヤルホストやサイゼリアも受けましたが、最終的に大阪ガスの子会社に決まりました。ガス会社が飲食と思われるかもしれませんが、子会社を通して大阪ガスがガス供給のできるエリア内で飲食業を展開していたんです。当時は“かごの屋”が7店舗ほど、他業種で数店舗ほどでした」。
職場は長時間労働が日常的で9:00~23:00まで、14時間働いたという(現在なら過労死ラインを越えて問題になる筈だ)。
「同期は40人くらいいましたが、その中の1人、戦友でありライバルでもある男が経営企画に異動、私は入社1年経った頃に自らが希望して商品開発に異動しました」。
その後2年ほどして望月氏は店長に。「ちょうどその時期は、売上があがる時期でした」とのこと。一方で、ある意味では目標にしていた“社長になりたい”“偉くなりたい”という思いだったが、社長になれないことに気が付く。時計の針を入社時に戻してみよう。
「同期入社は40人くらいでした。実は入社早々、同期の前で社長になる宣言をしたんですが、不可能だということに気が付きました」。
その理由は、経営母体が大阪ガスの子会社ということ。つまり社長(に限らず幹部も)大阪ガスからの出向というのが慣例というか仕組みで、プロパーである望月氏が社長になれる道は、最初からなかったことに他ならない。
ところが思わぬ展開が繰り広げられることになる。それは経営母体が“ファンド”に変更になったことだ。

“ファンド”による経営は、東京進出という道を切り拓いた。

大阪ガスが子会社の株をファンドに売却。その結果、社長以下役員を含む約40人が会社を去り人事が一新した。
「中枢の人たちはファンドから補充され、その他の幹部職は中途採用した人たちで構成されました。30歳代そこそこだった私は部長職に昇格しました」。と同時に経営思想も大きく変わった。
「ファンドって、飲食業かどうかは別としてどのような事業であれ“儲かるか、儲からないか”が判断基準なんですね。中身が変わっただけではなく、根本的に話が合わないんです。ただ、いつまでも“話が合わない”では進展もありませんから、MBA研修で経営などについて学びました」。
一方でファンドによる経営は、東京への進出という新たな事業拡大のきっかけになった。
「当時、“かごの屋”は大阪で展開していた60店舗からの拡大が難しい状況でした。しかし、ファンドによる経営は、東京への進出という新たな事業拡大のきっかけとなり東京進出が実現されました」。

・・・続き

株式会社KRフードサービス 代表取締役社長 望月 進氏

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2022年11月7日月曜日

11月5日YouTube「松尾チャンネル」に武田あかねが特別出演版がアップされました。

証券アナリスト松尾範久氏のYouTube『松尾チャンネルに武田あかねが特別出演し、「飲食の戦士たちの再現動画版誕生秘話などお話しさせて頂きました。

松尾氏、最新のダイヤモンドZAi(ザイ) におすすめ株掲載中です。

松尾チャンネルの登録もよろしくお願いします。 

ニュースリリースはこちらです。





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11月2日(水)発行の日刊ゲンダイに「飲食の戦士たち」再現動画の記事が出ました。

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しっかりした内容で伝わりやすくとてもよかったです。

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