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2025年9月10日水曜日

オルニ株式会社 代表取締役 熊崎雅崇氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”オルニ株式会社 代表取締役 熊崎雅崇氏登場。

本文より~

偶然の始まり。

高齢のご夫婦が営む一軒のラーメン店。その暖簾をくぐった瞬間から、物語は動き出した。
きっかけは、熊崎さんが尊敬してやまないSHOWROOM株式会社 代表であり、ベストセラー作家の前田裕二さんからの一本の連絡。
「熊くん、明日、愛媛に行ける?」
詳しい説明はなかったが、その声には不思議な力があった。「行きます」と即答。
翌日、松山の繁華街にある小さな店へ。カウンターの奥にはご夫婦、そして前田さんが連れてきた大手ラーメンチェーンの経営者らが集まり、店内は熱気と緊張感に包まれていた。
体調不良と後継者不足で、店は一週間後に閉店するという。
丼から立ちのぼる湯気、しじみの香り。一口すすれば、澄んだ黄金色のスープが体の芯まで染み渡る。
この味を絶やしてはいけない。
スープを飲み干すころには、壮大な構想が頭に浮かんでいた。

天才少年の、挫折と、大逆転と。

熊崎さんは、兵庫県の三田市で19歳まで過ごしている。地図でみればわかるが、三田市は兵庫県の南東部に位置するベッドタウンである。
自然が残るなか熊崎少年はサッカーに勉学に打ち込んだ。
勉強もでき、スポーツもできる。サッカーでは小学校から県選抜。才能だけで、ほかの選手に負けるとは思わなかった。「将来は、Jリーガーになるかくらいに思っていました。でも、人生、そううまくいきません」と熊崎さんは笑う。
高校に入ると様子がちがった。サッカーは2軍スタート。
「中学生の頃から知っている選手もいたんです。私より下と思っていた彼らが1軍にまじり、ぼくはまさかの2軍」。
「それだけじゃない」と熊崎さん。
「中学のときは、トップクラスだった勉強ですが、順位が発表されると、280人中、269番」。
「え? といって、固まってしまった」と笑う。
「京大や、神大に進む生徒も多い兵庫県のトップ校でしたから、中学とは、こちらも様子がちがいます。サッカーも、中学のときは練習しなくても巧かったんです。練習もしなかったから差がついちゃっていたんでしょうね」。
<投稿プラットフォーム「note」に当時のことを「プライドが地面に落ちた」と書かれています>
「ぶっちゃけ天才だと思い込んでましたから(笑)。はじめて現実を知って、思い込みとのギャップに驚き、ぼくが、まとっていたプライドがガラガラと崩れ落ちたんです」。
残ったのは、何者でもない、ただの高校生。
プライドは地面に落ちてなくなったが、「このままで終われるか」と、はじめて真剣に練習に打ち込んだ。天才とまではいわないが、才能があったのはまちがいなかったんだろう。練習に打ち込んだ結果、半年後には2軍のリーグで得点王になって、1軍に昇格している。3年時は副キャプテンだ。
<大逆転ですね、勉強のほうはいかがでしたか。大学受験が待っています>
「兵庫だし、京大や神大に進む生徒もいたんで、サッカーほど挽回できませんでしたが、まぁ、どこか受かるだろうと高をくくっていました」。
<しかし?>
「そう、人生、やはり甘くないです。大敗です。滑り止めも役立ちませんでした(笑)」。
掲示板に受験番号がない。歓声をあげる群衆のなかを、肩を落として歩き、来た道を帰るしかなかった。
「地獄の入口がひらく音がした」と熊崎さんは、表現している。でも、そうなんだろうか。じつは、未来のトビラがひらく音だったかもしれないのである。

東京と、ダンスと。

<1年、浪人生活の末、立教大学に進まれています。どうして、立教だったんですか?>
「三ノ宮の予備校で、チア部出身という女の子から『立教に日本一のダンスサークルがある』と聞いた。これがきっかけですね。当時、三代目 J SOUL BROTHERS が流行っていて。そうか、東京か、ダンスか、立教かって」。
「東京」「ダンス」、この二文字が、熊崎さんの視界を広げる。
「ぼく以外、サッカー部はほぼ全員、現役合格だったんです。なんでオレだけ? みたいな、ね。でも、東京でしょ。ダンスでしょ。元気がでてくるんです。当時は、東京と聞くとわくわくする、三田の田舎者だったんでしょうね」。
熊崎さんの頭の中で、立教に進学→東京生活がスタート→ダンスをマスター三代目J SOUL BROTHERSの世界へ、というプランが立ち上がる。
立教大学、無事、合格。熊崎さんは、念願のダンスサークルに入会する。立教の学生だけではなく、東大生や一般人も参加できるフリーなサークルだったという。
<ダンスのほうの才能は?>
熊崎さんは、ふふふ、と笑ったあと、「サッカーなら小学生からですからね。でも、ダンスは初心者です。だから、プライドもない。とはいっても、どこかでいちばんじゃないと気がすまない性格だから、ダンスじゃなく、SNSや会計ですね、そっちで目立ってやろうと」。
「気づけば、サークルの代表に選出されていた」と熊崎さん。代表になった熊崎さんは宣言する。
「日本一をめざす」と。
しかも、「大会に出場したい人、全員で日本一を目指す」と。
<メンバーを巻き込むちからですね>
「いい経験ができたと思います。宣言通り、日本一も獲得しましたしね」。
<それは、すごい、勲章ですね>
熊崎さんは「そうですね」と誇らしげに微笑む。
三田の田舎モンは、東京で日本一になった。

どう生きるか。いのちに向き合う。

大学を卒業した熊崎さんは、人事部の熱量に惹かれて転職サイトの大手「エン・ジャパン」に就職する。翌年、縁あって、SoftBankに転職。最年少でマネージャーに昇格し、予算5億円のプロジェクトを担当することになる。
「当時は社長になろうという想いがつよかったですね」。サークルで代表の経験があり、日本一も獲得、同年代とは、望む未来がちがった。
「エンジニアを含め、30~40人の部下をもってサービスをゼロから立ち上げる予算5億円のプロジェクトでした。1年目は投資です。2年目、売上が立ち上がってくるはずだったんですが(笑)」。
話を聞くと、海外で先行しているサービスだったそう。
SoftBankを退職した理由を聞くと、プロジェクトの失敗ではなかった。
「きっかけは母親の死です。ぼくが25歳のとき。そのとき、人はいつかなくなる、いのちがあるうちにやりたいことを人生をかけてやらなきゃいけないと。その思いを抑えきれずに辞表を提出したんです」。
上層部の方々から慰留されたという。ただ、熊崎さんの意志はかたい。
「想いを語ると最終的には『わかった』と。いつか社長同士で酒でも酌み交わそうって背中を押してくださったんです」。
「やりたいことを人生をかけてやらなきゃいけない」と、SoftBankを退職したが、じつは、なにを「やりたいか」「やるべきか」がなかった。
「とにかく、組織のなかにいちゃ甘えてしまう。ぼく自身を追い込むためにフリーになったというのが真相です。そうやって未知の大海原に出航します」。
羅針盤はない。だが、進まないといけないという、強迫観念に似た思いがあったのではないだろうか。

前田さんとの出会い。

「前田」という人物がいた。自身のバックグラウンドと似ていた。前田さんとの出会いを聞くと、熊崎さんは2冊の本を挙げる。
「大学4年の就活中のことです。前田裕二さんの『メモの魔力』と『人生の勝算』という本に出会ったのがはじまりです」。
この時の話も、じつは熊崎さんがnoteに詳細に記載されている。
「母の死で“人生の有限さ”を骨の髄まで思い知った」と語り、自身と同様のバックグラウンドをもつ前田さんの生き様に強烈な感銘を受けたと記している。そして、つぎのようにも語っている。「SoftBank に退職願を出し、命の使い道をまっさらな地図に描き直した」。
もう少し、熊崎さんが記した文字を追いかける。
「2023年5月9日。前田さんが登壇されるというイベントをXで見かけた。青山ブックセンターで開かれた『スタートアップ企業の実践論』出版記念イベント。最前列に座ったものの、緊張で質問の手が上がらなかった。その夜すぐに前田さんのオンラインサロンへ飛び込む。11月。サロンのプレゼン大会で優勝。翌年2024年1月、サロンの運営メンバーへ」。
大海原の向こうにみえた灯台に向かい全速力で進んでいく。
「フリーランスとして、パーソナルジムの立ち上げ支援やアプリ制作の支援を行いつつ、前田さんをお手伝いします」と熊崎さん。ちなみに、前田さんというのは、すでに書いた通り、SHOWROOM株式会社の代表、前田 裕二さんのことである。
そして、2024年7月。その前田さんから声がかかった。
「熊くん、明日、愛媛に行ける?」

ラーメン店の、跡取り修業始まる。

「ラーメンと聞いたとき2秒、フリーズした」と熊崎さんは笑う。
「ただ、何をすべきかと悩んでいましたし、何より前田さんといっしょに何かができると思うと気持ちが高まり、2秒後には、行きます、と」。
前田さんに同行したのは熊崎さんだけではなかった。
「有名なラーメン店の経営者をはじめとした、ぼくからすると雲の上の存在のようなメンバーがチームを組んで愛媛に向かいます。ぼくは、カメラマンです」。
ラーメンを食べ終わったあと、喧々諤々のミーティングが行われたそうだ。もちろん主題は「しじみラーメン」について。「事業を継承するのを前提に話が進みます。専門的な話も多く、ついていけない部分もありましたが、とにかく、会話の熱量がハンパなかったですね」。
カメラマンとして同行したが、ミッションは撮影だけではなかった、そのミーティングの会話も含め、頭に叩き込む。
なぜなら、熊崎さんこそ、この店、「しじみラーメン父ちゃん母ちゃん」の事業を継ぐ主人公だったからだ。
「話を聞きながら、プレッシャーはハンパなかった」と熊崎さんは振り返る。その時食べた「しじみラーメン」の味はどうだったんだろう?
その後、正式に事業譲渡の話がまとまる。熊崎さんは「私が後継者です」と、ご夫婦に頭を下げた。その時から、熊崎さんを主人公にしたリブランディングが開始される。
「計36日」と熊崎さんは指を折る。8月から9月にかけ、「父ちゃん」「母ちゃん」からラーメンづくりを叩き込まれた。
残すほうも必死、学ぶほうも必死。
「最初は、東京でオープンする予定だったんで、いったん東京に戻るんですが、愛媛のお店をお任せできる人をご紹介いただけたので、東京からとんぼ返りで愛媛に行き、今度は、その人にぼくが指導します」。
「はじめての弟子」と、熊崎さんは笑う。
「ぼくとしても、そのお店は残しておきたかったんです。父ちゃん、母ちゃんの想いをつぐわけですから。『本店』として残すことで、ストーリー性もあるでしょ。そういうのを大切にしたかったんです」。

「しじみラーメン父ちゃん母ちゃん」の、今と、未来。

「しじみラーメン父ちゃん母ちゃん」は、愛媛県の松山の繁華街にある。
「もともと、おかあさんがスナックを経営し、お酒をふるまってきたそうなんです。お酒に酔ったお客さんを癒やしてあげようとはじめたのが、しじみラーメン」。
「しじみにはオルニチンというアミノ酸の一種が、ほかの食材と比べても大量に含まれていて。これがアルコールの分解を促します。〆に、しじみラーメンを食べると二日酔いしないのは、そのためです」。
飲んだあとに〆。
だから「しじみラーメン父ちゃん母ちゃん」の営業時間は、夜から深夜にかけて。「しじみラーメン父ちゃん母ちゃん」を引き継いだ、「生しじみラーメン『オルニ』」も、おなじ時間帯で営業している。
東京、愛媛を何度も行き来するうちに、確信めいた思いが頭に宿ったそうだ。熊崎さんはいう。
「『しじみラーメン父ちゃん母ちゃん』のラーメンは、たしかに旨い。でも、有名だったわけではありません」。
「にもかかわらず、2人が作る一杯のラーメンを囲んで、日本を代表するようなラーメン店の店主や、ビジネスの世界をリードする人たちが、熱く、真剣に語るんです。なぜ、あれほど真剣だったのか、その理由の根っこがみえてきたとき、これはすごい世界に足を踏み入れたんじゃないかな、と」。
「つまり、前田さんが偶然見つけたこのしじみラーメンは、世界を穫るポテンシャルを秘めていることに気づくんです」。
学生時代は「日本一だ」といった。今度は「世界一」。
だからだろう。それに気づいた熊崎さんは、「しじみ」にのめり込む。今や「しじみ」の専門家。「しじみ」の話になると、さらに雄弁になる。
「うちのしじみは、すべて島根県の宍道湖から直送されてきます。宍道湖のなかでも南部のしじみを送ってもらっています」。
<どうして、南部なんですか?>
「北部は砂地が多く、南部は泥なんです。泥のほうが栄養が豊富で、南部のしじみは日本はもちろん、世界でもトップクラスなんです」。
調べると「しじみ」は、複数の種があり、中国や台湾が原産の「タイワンシジミ」は、アメリカやヨーロッパにも生息域を広げているそうだ。
日本の場合は、市場に出回るしじみの99%以上がヤマトシジミ。なかでも宍道湖は、ヤマトシジミの全漁獲量の4割以上を占めているとのことだ。
貝はもちろん海外でも、人気の食材。クラムチャウダーやボンゴレなどが思い浮かぶ。

・・・続き

オルニ株式会社 代表取締役 熊崎雅崇氏

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合同会社関内産業 代表 陳佑妹(チン ユウマイ)氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”合同会社関内産業 代表 陳佑妹(チン ユウマイ)氏登場。

本文より~

母の生まれは、ピンタン。

「平潭島」と書いて、「ピンタン」と読む。中国福建省の最大の島で今や観光で潤っている。ただし、今回、ご登場いただいた関内産業の陳さんがいた頃は島全体が貧しく、父母と、兄妹3人の生活は、けっして恵まれたものではなかったという。
「島をでることもひと仕事だった」と陳さん。当時は小さな船しかなく、荒れる海峡を渡ることができなかったらしい。
いうならば、孤島である。
孤島でも、人々の暮らしは、つつましく営まれていた。
「父と母の教育は褒めることでした」と陳さん。教育というより、息子、娘が大好きすぎて褒めることしかできなかったのかもしれない。
お母様は、10人兄妹のちょうど真ん中。頭が切れる人だったらしい。
「弟や妹はもちろん、歳の離れたお兄さんたちまで、なにかあれば、母に相談していたそうです。やさしくて明るくて、とにかく、人の話をちゃんと聞く人でしたから、たぶん相談もしやすかったんですね。でも、母親は学校にも行っていないので、字が読めないんです。だから、メールで相談が送られてきても、『電話じゃなきゃだめ』って(笑)」。
大陸から離れた平潭島では、識字率も低かったにちがいない。
「でも、母がいうことに間違いはないから、みんな頼ってくるんですよね」。
たしかに、やることにもまちがいがない。息子2人と娘1人を上手に育て、兄2人は、今や中国で2000人の従業員を擁する有名企業の経営者。陳さんもまた、日本で飲食店を経営している。
じつは、陳さん、中国にいた頃から経営者で、平潭島で「文房具店」を経営している。
「兄妹の仲は昔も今もいいですね。兄は2人とも私のことが大好きなんです」。
そんな大好きな妹が海を渡ると言い出したときには、父母はもちろん、兄2人も、さぞ、驚き、心配されたことだろう。
ちなみに、ここで言う海は、平潭島と大陸の間の海峡ではなく、大海原のことだ。

陳さん、来日。

<どうして、日本へ?>
「私、高校を卒業するまで平潭島をでたことがなかったんです。だから、平潭島から、でたいと(笑)」。
海峡の向こうにある文化に興味をもつ旺盛な好奇心は、母になってもかわっていなかった。
「さっきも言いましたが、平潭島でもビジネスをしていたんです。私の子どもたちは小さい頃から仕事を手伝ってくれて、今、横にいる息子は計算が得意で、小学1年生で、お釣りも間違わなかったです」。
その息子、楊業煌さんは、現在24歳。日本の中央大学に在学し、学業のかたわら、子どもの頃と同様、母の陳さんの仕事を支援している。
「彼は中学生のときに、ネット通販の事業を起こして、その頃からビジネスの世界に浸かっているんです。今はまだ学生ですから、私のサポートをしていて起業もしていませんが。飲食店の経営と、法律事務所を経営したいと言っています」。
<法律事務所?>
「そうです。彼は今、中央大学の法学部の学生です。私たち外国人が帰化することなく、異国の日本で暮らしていくために法律をマスターしようと中央大学に進学しました。そうだよね?」。

息子、楊さんの話。

陳さんは、息子の楊さんをみる。
「来年か、再来年には弁護士の資格を取得する予定です。その一方で、飲食という、こちらは私にとっては趣味にちかいんですが、飲食の経営も行っていきたいです」。
息子をみる陳さんの目はやさしい。たぶん、陳さんのお母様も、息子、娘をそういう目でみていたんだろう。
2人は「ケンカもしたことがない」という。陳さんが、息子の楊さんを生んだのは、20代前半。「親子というより、ともだち」と、歳のちかい親子はそう言って笑う。
改めて、来日についての話をうかがうと、将来に向かって走るつよい母の姿が浮かび上がった。
「外の世界をみる。それが、私の当時のミッションだった気がします。当時、平潭島はさっきもいいましたが、今のように繁栄していませんでした。だから、島からでるのは息子たちの道標になると思ったんです。日本に来たのは親戚も少なくありませんでしたし、2010年の頃でいうと、やはり日本はアジアのなかでも憧れの国だったんです」。
息子2人を父母に託し、遠く離れた日本での生活がスタートする。それからおよそ8年後、息子たちを日本に呼び寄せるが、その間、陳さんは1人で奮闘した。
「最初は日本語がわからないでしょ。息子なんかは1年でマスターしましたが、私は15年経った今もまだつたないです。来日当初はつたないというレベルじゃなく、ぜんぜんわかりません。生活をしないといけないんで、飲食店で接客のアルバイトをして勉強しようと思ったんですが、日本語がしゃべれないので、コップ洗いです(笑)」。
慣れない異国での生活。言葉、文化のカベを、陳さんは年月をかけ、その一つひとつをクリアしていく。人とも、ふれあう。
<起業するきっかけは?>とうかがうと、アルバイト先の女性オーナーが「共同で経営しようと誘ってくれたこと」という。

楊さん、日本へ。

あらためて、楊さんにお話を聞く。
「楊さんが来日されたのは、何歳の時ですか?」。
「20歳の時です。ママ(楊さんは、母親である陳さんをそう呼ぶ)から日本に来なさいと言われて、弟と2人で来日します」。
ちなみに弟は薬学部に通いながら、お店の手伝いをしているそうだ。
<「海王酒場 舞」をオープンされたのは、大学2年の時と聞いています>
「2023年の11月ですから、そうなりますね。ママがさっきお話したように、私は12歳からネットビジネスをやっていました。希少価値の高い靴をネットで販売していたんです。月商をいうと、みんなひいちゃうと思うので言いませんが、当時からお金儲けには関心があったんです。中国で大成功している叔父さんたちの影響もあったんだと思います。ただ、異国でビジネスとなると、やはりむずかしい。言葉のちがいも、文化のちがいもありますから。そのなかで唯一飲食は、ハードルが低く、私にもできるだろうと」。
「息子が飲食店をしようといったのは、コロナ禍の下でした。本来、飲食店にとってマイナスだったんですが、私たちにすればラッキーで、またとないロケーションでオープンできました」。
こちらはお母様の陳さん。
「ママの言う通りで、今『海王酒場 舞』があるのは、ヘンな言い方になりますが、コロナのおかげです」。 コロナ禍で多くの飲食店が閉店するなか、「今こそチャンス」と考えた陳さん親子は、空き物件を探し、駅前のビルに出店を決めた。
物件はスケルトンからのスタート。最初はデザイナーに任せた図面に満足できず、楊さんが自ら設計を引き継いだという。

・・・続き

合同会社関内産業 代表 陳佑妹(チン ユウマイ)氏

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2025年9月4日木曜日

株式会社アントレスト(Entrest Co. Ltd.) 代表取締役 中岸孝介氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社アントレスト(Entrest Co. Ltd.) 代表取締役 中岸孝介氏登場。

本文より~

少年、中岸。将来の目標は、起業家。

「起業家」という言葉を学生たちが使いはじめたのはいつ頃だろう? AIに聞いてみると「1990年代後半から2000年代にかけて」という回答だった。
たしかに、1990年代後半に入ると、ITベンチャーのブームが到来。大学でも「アントレプレナーシップ教育(起業家教育)」が科目となったほか、ビジネスプランのコンテストも様々なメディアで取り上げられていた気がする。
今回、ご登場いただいたアントレストの代表取締役、中岸孝介さんは1980年生まれだから、ズバリ、その年代の申し子でもある。
「私は1980年、京都府の、今の木津川市に生まれます。京都と奈良の境にちかく、田舎といえば、田舎ですね。もともと東大阪市の工場で働いていた祖父が、起業し工場を木津川市に建設、父が継承。最盛期には30名程度のスタッフが勤務していました」。
祖父の時代もそうだが、お父様に代替わりしてからも業績はよく、羽振りも悪くなかった。「車好きでもない父親がリンカーンに乗っていた」と笑う。外食も少なくなかったそうである。
1980年代はバブルに向かって経済がひた走りに走っていくとき。「私が起業という言葉を使い始めたのは、中学くらい。いうまでもないですが、祖父や父の影響です」。
サラリーマンが色褪せていく時代でもあったんだろう。中岸さんの話をきいて、起業家ブームの遠因が、この頃にあったんだと気づくことになる。
「たしかに、私の起業原点は、あの頃の祖父や父の姿でまちがいないですね」。
中岸さんは、中学生の頃から早くも「起業する」と公言していたそうだ。その言葉に、惹かれるように仲間ができた。
「今ね、芸能界でいちばん注目されている事務所があるんですが、その事務所の経営者はその頃から馬があって、四六時中いっしょにいた友人です」。
ニキビづらの少年2人が、起業について、あつく語っていたんだろう。「高校に進むと、のちにいっしょに起業する有村さんと出会います」。
のちに共同経営者となる有村さんは立教大学に進み、中岸さんは京都産業大学に進学している。ちなみに、中岸さんは、小学生からラグビー、中学、野球、高校でふたたびラグビーとスポーツ少年でもある。

お祭り男、京都三大祭りを、四大祭りにする。

「いっしょに起業について語り合ったともだちは東京に行き、有村さんも立教だから東京へ。その友人は東京で有村さんが運営する起業家サークルに参加して、いっしょにビッグになろうぜって」。
青年となり、語り合うことで、起業家熱が加速する。
その頃、中岸さんはアメリカに渡っている。
「大学を1年間休学して、アメリカで暮らします。そして、帰国してからですね。彼らに影響されて、京都でもなんかしようと、私が発起人となってイベントを開催します」。
<葵祭、祇園祭、時代祭といった京都三大祭り、プラスワンのことですね?>
「そうです。四大祭りをめざして開催します。起業家の方々にもプレゼンしてスポンサーになっていただいて、数百万円かけて。1万人くらいのイベントになりました」。
学生のエネルギーに、大人たちが資金を投下した。
「4年はつづいたと思うんですが、発起人の私は、1年で東京へ上京するもんですから、かかわったのは1年だけでした」。
<なにかきっかけがあったんですか?>
「私が大学4年の12月くらいですね。就職は、もちろん、まったく頭にありませんでした。私同様、起業しか頭にないような仲間が有村さんや、もう一人の友人以外にもいて、みんなでなにかをしようとなったんです。彼らと合流するため上京して、あるレコード関係のベンチャー企業で、はたらきます」。
女子高生をつかったマーケティング会社だったそう。「ルーズソックス」や、「路上の歌姫」という言葉をつくった会社だと中岸さん。「私は、オフィスに住み込んではたらいていました。住込みといっても、デスクの横で寝ていただけなんですが(笑)」。
もう一人、住み込んでいた人がいる。
「有村さんですよね。彼は、渡邉美樹さんの『青年社長』に感化されて、飲食で起業するといって、ある会社に就職して、社長さんの自宅に住み込んでいました。起業の準備は1年間と決めていたそうで、早く、すべてをマスターするなら、社長にへばりつくことだと」。
有村さんが飲食店開業に向けひた走る一方で、中岸さんらは、路上のライブをサポートし、歌姫をデビューさせることに熱中した。芸能界とのパイプもできる。

「飲食を。」青年たちが向かった志の、そのさき。

「そうなんですね。じつは、私と有村さん以外にも4人の仲間がいて、小・中から起業を語り合った奴もそのうちの1人で、有村さんの話をきいて『じゃあ、みんなで飲食を』ってなったんです」。
起業家、6人。
野望もある、アンテナも高い、ネットワークも生まれつつあった。
<それにしても、どうして飲食だったんですか?>
「もちろん、歌の世界とか、芸能とか、そういうカテゴリーに惹かれてはいましたが、有村さんが飲食といい、私はじつは料理が好きだったもんですから、そこからスタートだと。ただ、6人のうちの3人は、けっきょく離れていきました」。
けっきょく、起業は有村さんと、もう一人京都からいっしょに上京した3人で行うことになる。
「仲間割れとかそういうことじゃなくって。最初は『渋谷で、イタリアン』なんていってたんですが、そんな洒落たレストランにだれも行ったことがなくって。唯一の飲食経験者の有村さんも居酒屋だったんで、最終的に虎ノ門で『炉端』をオープンすることになったんです」。
<渋谷が虎ノ門になり、イタリアンが炉端になったわけですね?>
「それで、『じゃオレは下りる』と、小・中いっしょだった奴は、芸能の世界にもどります。今も交流があり、いちばんの友人なんですが、あのときはさすがに険悪なムードになりました」。
<イタリアンと炉端、たしかに響きがちがう(笑)>
「感度の高い女子がひいきにするおしゃれなイタリアンと、かたや『飲んべぇ』の聖地みたいな炉端でしょ。私を含め、残った3人も『居酒屋』って響きがちょっとイヤで(笑)」。
だから、「炉端」といっても、一つずつ手づくり。価格は抑えたが、原価も惜しまなかった。
「正直にいうと、原価って意識がなかったんです(笑)。とにかく、お客様に喜んでいただこうと。それに炉端っていってもチープな料理ももだしたくない」。
チラシも配りまくる。創業者の1人、有村さんは、あるメディアのインタビューで「深夜にチラシ持って走り回ってるアイツらは誰だ?」という口コミが広がったとおっしゃっている。
原価を無視した手づくりの料理と、宣伝効果が重なりオープン後、すぐに軌道に乗る。店名は「さくらさく」。2004年、虎ノ門に咲いたもう一つ「さくら」である。

お金がなくなった。

「当時のキャッチフレーズは100店舗だったんです」。「アントレプレナー」と「レストラン」「最上級のest」。飲食における最高の起業集団という想いを込めて、社名を「アントレスト」と命名した。
毎夜、客の喧騒が店を包む。
「このあと、神楽坂に「つみき」、新宿に「いちりん」をオープンしていきます」。正確には、2004年に「さくらさく」、翌2005年「つみき」、その翌年の2006年には、「いちりん」ほか3店舗をつぎつぎオープンしている。
このときがいちばん厳しかったというのは、2006年からの快進撃のうらがわで、中岸さんが感じていたこと。「じつは、大阪の飲食店からいただいたコンサルティングの依頼を受け、私がそちらに行っていたこともあって、業績が真っ赤になっていくんです」。
<無理がたたった?>
「というか、私たちが無知だったんでしょうね、起業という二文字ばかりおいかけ、エンジンはもちろんあったんですが、経営のノウハウもない若造でした」。
経営の甘さをおぎなおうと、コンサルタントを採用。それが、落とし穴となったようだ。
「コンサルタントが悪いというより、効率化の落とし穴ですね。『さくらさく』は、素人目線で、どうすればお客様が喜んでくださるか、それだけを思って経営していたんです。その思いをスタッフみんなで共有して。でも、それが、効率、効率になっちゃって」。
「いちりん」につづく、2店舗も予想を外す。「お金もなくなった」と中岸さん。
「そのとき、ある飲食の経営者が資金を援助してくださって、事務所まで間借りさせてくださったんです。そのおかげで今があるのは、事実ですね」。
いきおいと、センスだけで、船出した。風を読み間違え、座礁した。ただ、<それが、かえってよかった>と言っては怒られてしまうだろうか?

社長、就任。

「『魚串さくらさく』は2009年にリリースした自社ブランドです。炉端で仕事をしているとき、魚を食べるお客様をみているとどうも食べにくそうなんですね。じゃぁ、焼鳥のようなサイズにして、串に刺すとどうだろうか、と」。
この魚と串のコラボレーションが、ヒットする。その一方、辛酸を嘗めたことで、経営への関心、スキルも向上する。ネットワークも広がった。
「先日、この『飲食の戦士たち』にも登場されていましたが、あの井戸さん花光さんが絶好調だった頃。私たちも、井戸さんや花光さんを真似て、初期投資をかけずに、つぎつぎ『魚串』をオープンしていきます」。
「魚串」をライセンス化する。最盛期には20店舗まで拡大したが、当初のキャッチフレーズの100には程遠い。いまだ、5分の1である。
「ロケーションの問題もあって、だんだんと魚串が停滞するなかで、有村さんが牛角の創業者の西山さん主催の『西山塾』に入り、その縁で、『焼肉ライク』の起業に参加することになったんです」。
8年前というから、2017年頃のことだろうか? 「焼肉ライク」1号店オープンは2018年のことである。
ちなみに、この中岸さんのインタビューに度々、登場する有村さんは、「焼肉ライク」の初代社長である有村壮央さんのこと。有村さんは現在、中小外食企業にマーケティングとマネジメントを移植する「株式会社カチアリ」を経営されている。
面白い記事も書かれているので、「有村壮央」「焼肉ライク」で検索してみてはどうだろうか。
「有村さんから株式を買い取りましたので、株主の比率は今、当初出資してくれた友人たちが10%程度で、あとは、私です」。当然、代表取締役社長となったのは、中岸さんである。
<有村さんが抜けたことで、なにかかわりましたか?>
「当時は、有村さんはもう、現場にはでていなかったんで、そうですね。特段、影響があったわけじゃないです。ただ、有村さんはカリスマ性があって、それでみんなをひっぱっていくタイプで、私は、どちらかというと、仕組みや制度を大事にするタイプなので、そこはスタッフからみてかわったかな、と」。
中岸さんが社長になり、評価制度も整えたという。中岸さんと有村さんは、仲違いしたわけではない。 アントレストが「焼肉ライク」を9店舗も運営していることからも、その関係がうかがえる。「焼肉ライク」を育てた有村さんのノウハウをわけてもらい、フランチャイズビジネスも拡大していく予定だ。
話は少しもどり、経営権を獲得し、社長になった中岸さん。その中岸さんをまっていたのは、そう、あのコロナだった。

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株式会社アントレスト(Entrest Co. Ltd.) 代表取締役 中岸孝介氏

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2025年8月27日水曜日

株式会社pangaea 代表取締役 進藤幸紘氏登場。

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本文より~

エコール辻東京に学ぶまで。食の目覚めのお話。

今回、ご登場いただいたパンゲアの進藤さんは1986年11月生まれ。小・中・高と、千葉県内で過ごし、高校にはバスケットボールの推薦で進学している。
「小学校からバスケットボールをはじめました。背が高かったぶん、評価をいただいたんだと思います」。
バスケットボールに熱中したが、それ以上に関心があったのが、飲食。なかでもフレンチが大好きだったという。
「中学1年のときに両親が離婚。私は母の下で暮らします。父は工場勤務のまじめなタイプだったんですが、母は大病院で栄養管理士をしていて、エネルギッシュでバリバリのキャリアウーマンでした」。
進藤さんに影響を受けた人を聞くと、まっさきにお母様の名を挙げる。
「私が高校に進学したあと、母は新興住宅街にでマンションを購入します」。
父にも頼らないキャリアウーマンの母。
「管理栄養士ですから料理もうまくって」と進藤さん。カレーには決まってお頭付きの海老が添えられていたそうだ。「外食も多く、レストランからラーメンまで、ジャンル関係なく、食べさせてもらいました」。
なかでも行くのが楽しみだったのが、フレンチレストラン。「当時で1人8000円くらいでしたから、かなりハイエンドなフレンチでした」。
母とともに、食すフレンチ。その甘い一時と、料理の奥深さ。進藤さんが飲食の世界へ進みたいと思ったのは、自然な流れだったのかもしれない。
「母が『外食に行くよ』っていうとパブロフの犬じゃないですが、その一言で心が踊ります。レストランに行く前、本屋さんに寄るんです。母も私も漫画が好きで、ある日一冊の漫画に出会います」。
「『大使閣下の料理人』っていう、在ベトナム日本大使公邸料理人が、主人公の漫画です。食卓外交や、ベトナムの市場の人たちとの交流が描かれていました」。
バスケットボールと、料理。もちろん、プロになるなら、料理人。
「青学クラスは、合格判定だったんですが、進むならシェフだとエコール辻東京(現、辻調理師専門学校 東京)に進みます」。
オープンキャンパスで、「エコール辻東京」を訪れた際、有名なシェフと出会い、「絶対、来ます」と宣言したそうだ。
ここまでが、進藤さんの食の目覚めのお話。

プロの料理人へ。片道、2時間半の勉強時間。

「千葉のうちからエコール辻東京まで、片道2時間半かかりました。9時の始業に遅刻すると、講義を受けさせてもらえません」。通勤のサラリーマンとまじって、満員電車で通学。
「エコール辻東京は、実践的な学校だったんです。教科書も多く、リュックには大量の本と、包丁が入っていました」。
すし詰めのなか、教科書を貪るように読んだ。
「1年生の学校ですが、入学料、授業料は高くって、年間200万円です。全額、母に頼っていたので、絶対、シェフにならないといけなかったんです」。
満員電車に揺られながら、教科書を貪るように読む、進藤さんの姿が浮かび上がる。学校が終わると、溜池山王のハイエンドなレストランでバイトが始まる。
バイトも真剣。
そのレストランは、カリフォルニア・フレンチだったという。カリフォルニア・フレンチは、カリフォルニアの食文化とフランス料理の技術が融合した独創的な料理スタイルのことだ。進藤さんは、その一皿一皿に、魅了されていく。
料理に対する感度が高い。料理人の才能を一つ挙げるなら、これ。一般人とは、みる世界がちがうのだろう。幾層にも重なったレシピの一つひとつを解像度高く、みることができる、それが料理人である。
エコール辻東京を卒業した19歳の進藤さんは、このレストランに就職。2年、勤務して、「料理とパティシエを経験した」ということだ。進藤さんは脇目もふらず、プロの料理人への道を突き進んでいく。
ところが、このあと転機が訪れる。

世界一のソムリエのアドバイス。

「そのレストランを退職して、田崎真也さんプロデュースの『レストランS』で勤務させていただきます。田崎真也さんっていうのは、あの世界一のソムリエです」。
「レストランS」で勤務をはじめた進藤さんは、1年で「エキスパート資格」を取得している。「エキスパート資格」を調べてみると、一般社団法人日本ソムリエ協会(J.S.A.)が認定する、ワインをはじめとする酒類や食全般に関する専門知識とテイスティング能力を認定する民間資格とあった。
ソムリエと匹敵する、資格だそう。
しかし、料理人ではなく、ソムリエ?と、疑問が浮かび上がる。
「一つの転機は、やはり田崎さんとの出会いですね。じつは、田崎さんから「きみはサービスのほうがいいよ』と助言をいただいたんです」と進藤さん。
進藤さんは、その一言に素直に従った。
田崎さんは、進藤さんになにをみたのだろう。一方、進藤さんは、その一言をどう受け止めたんだろう。
結果として、その一言は、進藤さんの人生のターニングポイントとなる。進藤さんは、そののち、「レストランS」に転職し、4年間勤務することになる。
世界一のソムリエのアドバイスで、視界が広がった。
「4年、勤めたあと、ロンドンに渡ります。パリとロンドンどちらにするか迷ったんですが、田崎さんから『ロンドンがいい』とアドバイスされ、じつは、私も、学校の卒業旅行でパリへ、母の会合かなにかでいっしょにロンドンへも行ったことがあって、比較することができたんで行くならロンドンかな、と」。
ワーキングホリデーで2年、ロンドンのレストランで勤務する。勤務したのは「ヨーロッパで3本の指に入ると言われているワインリストを持つ2つ星のレストランだった」という。
ほかにも、IWC(International Wine Challenge)の酒部門で酒ジャッジメントを経験したほか、在英日本大使館でのサービスを行うなど、「大使閣下の料理人」と同様に、世界で研鑽した。

ワインを研鑽する日々。

「帰国後、『ベージュアランデュカス東京』でソムリエとして勤務します。ただ、その時、突発性難聴を患い、飲食現場を離れざるを得なくなってしまいます。それでは、私が志していた世界へたどりつくことができません。だから、それを奇貨として、ワインの勉強を徹底的にスタートします。最初にワインを輸入するインポーターに勤め、そのつぎは、日々、20種類くらいのワインをテイスティングするリカーショップではたらきます。合計3年、ワインの世界にどっぷり浸かることができました」。
料理人の志を封印して、サービススタッフとして高みをめざしてきた。そんな進藤さんには、もう一つめざすものがあった。むろん、独立である。
すでに、30歳。チャレンジするには、十分なキャリアも積んでいる。
「じつは、その30歳の時、学生時代の先輩と独立の計画を立てていたんです。でも、オープン前に頓挫してしまいました」。
<どういうことだろう?>
「契約した物件が、重飲食不可だったんです。それで、投資しようとしていたお金をすべてなくしてしまいます。オープンもできないから、仕事もない。『明日からどう生きる?』という世界です」。
仕事もない。心も折れた。
「その時、ある先輩が、サブライムに招いてくださったんです」。

サブライム、花光雅丸さん。

「サブライム?と 思う人もいるかもしれないですが、その当時、サブライムはハイエンドなレストランを経営していたんです」。
サブライムといえば、代表の花光雅丸さんが有名だ。2025年3月、久々に「飲食の戦士たち」にも登場いただいている。
コロナ禍で、サブライムを手放し、現在は「beagle」を経営。その経緯は、コチラで。
さて、新たな道を進むべく、サブライムに入社した進藤さんだったが、マネージャーとして着任したフレンチブランドの業績が今一つだったそう。
「それで、中華業態にブランドチェンジして、少量で多品目を楽しめる『series』をオープンします」。
「series」はオープンしてわずか8ヶ月でミシュラン一つ星を獲得。現在、進藤さんの手も、花光さんの手も離れたが、「ミシュランガイド東京2025」で5年連続で一つ星を獲得している。
進藤さんは、このあと、コロナ禍の下で「パンゲア」を設立。念願の代表として新たなスタートを切る。

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株式会社pangaea 代表取締役 進藤幸紘氏

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株式会社ネバーランド 代表取締役 加世堂洋平氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ネバーランド 代表取締役 加世堂洋平氏登場。

本文より~

長島町――原点となる故郷。

鹿児島県最北端、人口約1万人の長島町。日本三大急潮の一つ「黒之瀬戸」を有し、ブリ養殖日本一の地として知られるこの島で、加世堂氏は漁師の家系に生まれた。漁業のかたわら、鹿児島大学水産学部の養殖実験場で働く研究者という二足の草鞋を履く父と、実家がブリの養殖場を営む母のもと、豊かな自然と新鮮な海産物に囲まれつつ三人きょうだいの末っ子として育った。
「両親は私に、町の診療所を支える医者になってほしいと願っていました。実際、私も医師を目指して勉強していました」。
1クラスしかなかったという長島町の小学校を卒業後、単身で鹿児島県薩摩川内市の私立中学に進学。同校の高等部に進み、学業でもトップクラスの成績を収めた。しかし、高校2年生になり人生の潮目が変わる。
「彼女ができたんです。で、気が付いたら成績も落ちていて、医師の道は断念しました」。
目指していた医大を諦め、東京の青山学院大学理工学部に進学した。

飲食業界との運命的な出会い。

相模原のキャンパスに通うため、町田で下宿生活を始めた加世堂氏。ある日、友人に「すごくいい店があるから」と誘われ、何気なくその居酒屋の暖簾をくぐった。
「『こんな店があるんだ!』って、衝撃を受けました」。
これが、“居酒屋の神様”宇野隆史氏率いる楽コーポレーションとの出会いだった。
同社が経営する「まんま屋 汁べゑ」は、オープンキッチンが開放的な活気あふれる店。料理の美味しさはもとより、キビキビ働く人たちの笑顔が何よりも印象的だった。この体験が、当時19歳の加世堂氏を飲食の道に進ませるきっかけとなった。
在学中、3年3か月にわたり楽グループのアルバイトを勤めた加世堂氏だが、卒業後は飲食業界から一旦距離を置き、先物取引を扱う企業に就職する。
「飲食の経験はある程度あったんで、次は自分の営業力を試したいと思いました。で、『営業が一番大変な業種は?」って考えて、先物取引の会社を選んだんです」。
顧客リストをもとに朝から晩まで電話をかけ続け、金やガソリンなどの先物取引を勧めた。人一倍努力と工夫を重ねた結果、その後入社半年でトップセールスの座に輝く。当時の月収はおよそ100万、賞与も十分な額だったという。しかし、
「『人のためにやろう!』って営業しているはずなのに、だんだんウソだってわかってくる。“あぁ、これは人をだます仕事だな”ってね」。
人を幸せにできる飲食業の素晴らしさを再認識した加世堂氏は、その会社をわずか一年で辞めた。

経営ノウハウを学び、30歳で独立――鹿児島での挑戦。

「小規模店の方が経営を学べる」と考えた加世堂氏は、楽コーポレーションの卒業生が経営する居酒屋に就職。金の流れや経営の仕組みを現場で体得したという。
「先物と違って、飲食は結果がすぐ出るから面白かったですね。来店してから退店まで、お客様にどれぐらい喜んでもらえたかがすぐわかる。それが嬉しかったです」。
30歳を迎えるタイミングで鹿児島に戻った加世堂氏は、2010年12月、地下1階・15坪・家賃10万円の物件で「特攻チキン野郎本店」を開業。新鮮な海の幸を見極める目利きの技と、地元鹿児島の味を活かしたメニューが評判を呼び、繁華街から離れた場所にもかかわらず順調に客足を伸ばしていった。
― 10年以上も東京暮らしでしたから、鹿児島といえど土地勘はあまりなかったでしょう?繁華街でもない地下1階の物件って、勇気ありますね。
「家賃が安かったというのもありますが、僕は『人の流れを作っていくのが面白い』っていう、“楽”の考え方が大好きなんです。それに、町田時代のお客さんや仲間たちが、僕と一緒に働きたいって、鹿児島に集まってくれたんですよ。みんな、鹿児島とは縁もゆかりもないのに、嬉しかったですね」。
楽コーポレーションで学んだホットな人間関係づくりと、加世堂氏の世話好きな一面がうかがえるエピソードだ。
2011年11月、株式会社ネバーランドを設立。翌2012年、鹿児島中央駅近くのホテル跡地に、9年間限定の屋台村「かごっまふるさと屋台村」が誕生した。加世堂氏はこの場所に「TAGIRUBA」をオープン、わずか3.5坪のスペースで月600万円を売上げ、9年間トップの座を守り続けた。その後も70席の大規模店「ハイパーチキン野郎」を始めとする複数の店舗を展開し、鹿児島の地盤を固めていく。

東京進出――新たなステージと苦闘。

鹿児島での経営が軌道に乗り、移住組のスタッフを再び故郷へと戻すべく東京進出を決意し東京青山に出店、首都圏の高額な家賃や人件費を前に苦戦を強いられた。東京2店舗目の池尻大橋店では健闘したものの、青山店の利益は低く、そのうち鹿児島の経営にも影響が出始めた。「この頃が一番辛い時期だった」と、加世堂氏は往時を振り返る。
2018年、東京丸ビルに「どん薩摩」をオープン。開店当初は苦戦したが半年後から売上が伸び、2019年に“居酒屋甲子園”で優勝。2020年には上場をうかがう規模にまで成長していた。
そんな矢先にあのパンデミックが襲来。新規出店した店舗の撤退を余儀なくされたり、「少しでも日銭を稼ぎたい」一心で駅ビル内に開いたケーキ店が低迷するなど、苦難の日々が続いた。
「ケーキ店は原価率が高く、飲食業の本業とは異なる難しさがありました。撤退するにも違約金が大きくて。幸いいろんな条件が重なって、違約金少額で閉店できたのは助かりましたね」。
ケーキ店の撤退を機に、加世堂氏は事業の5ヶ年計画を策定。コロナでくすぶっていた株式会社ネバーランドが、未来に向け再び動き出した。


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2025年8月12日火曜日

株式会社WAS 代表取締役 宇野優司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社WAS 代表取締役 宇野優司氏登場。

本文より~

大学進学までの、勘違いと気付きと。

「大きな勘違いだった」と笑うのは、今回、ご登場いただいた株式会社WASの代表取締役、宇野 優司さん。
「小学校って、学年順位も公表されないでしょ。私の通信簿はオールAだったし、スポーツでも、それ以外でも目立っていたから天才くらいに思っていて、将来は東大だと(笑)」。
宇野さんは1992年1月に静岡県の沼津市に生まれている。なんでも「沼津生まれ、裾野育ち」なんだそう。お父様は大手企業勤務のサラリーマン。ゴルフにもいそがしかったが、食べるのがお好きだったんだろう。土・日には家族を連れて外食を楽しんだ。
宇野さんが飲食に進む、背景の一つだという。
中学に上がった宇野さんは冒頭の話通り、大きな勘違いに気づくことになる。
「中学になると学年ごとに順位がでるんです。私は内心、将来、東大生だと思っていましたから、当然、1位だろうと。でも、結果は12位だったんです」。
愕然とした。
「でも、この時にはまだ、私にはサッカーがあったんです」。
12位でも凡人からすれば悪くはないが、宇野さんはあっさり東大の道は忘れ、今度は小学生時代トッププレイヤーだったサッカーにのめり込む。
「そんなにつよい学校でもなかったんです。だから、私がトップスターで、みんなをひっぱっていました」。
これも、勘違い。ただしくいうと、井の中の蛙。
「高校に進むと、サッカーもけっしてトップじゃないことに気づきます」。
<上には、上がいる?>
「そうですね。スポーツもそうですが、勉強が得意なやつもたくさんいましたし、サッカーも巧いやつがたくさんいて、レギュラーでもなかったです」。
ただ、サッカーで汗を流したことは無駄じゃなかった。
「サッカーを通し、食がスポーツのパフォーマンスに影響することを知って、それで『食』の世界に進むことに決めたんです」。
大学では「管理栄養士」の資格が取得可能な学部を専攻。勉強のためだといって、ドイツ・フランスにも渡っている。もちろん、無事、「栄養士」の資格を取得。これが、今の強みの一つとなっている。

Globridge入社と代表の大塚誠さんとの出会い。

宇野さんは大学時代を、「濃厚で、貴重な4年間だった」と表現する。
「じつは、サッカーを引退してからの半年間、初めて猛勉強したんです」。
なんでも1日10時間が日課だったそう。
「それでも、国公立は落ちちゃったんですが、勉強がふつうになり、勉強する体力がついたと思うんです。だから、大学に進んでも勉強が苦にならず、わりと勉強熱心な学生だったと思います」。
アルバイトでも、学んだ。
「バイト先は4年間おなじで、フレンチ出身のオーナーから、食のイロハ、料理の哲学を教えていただきました」。
  たぶん、新鮮だったのだろう。栄養学と料理を真摯に学んだ。
当時の話を聞くと、少しずつ、今の宇野さんがリアルなカタチになっていく。
「大学では、8割が女子ということもあって、例えばバーベキューをしようとなったら私に声がかかるんです」。
みんなのリーダー。今度は、勘違いではなかった。ちなみに、現在、WASの副社長は大学時代の友人、スタッフには、当時の後輩が5人いる。
「大学時代に飲食を経営するノウハウまですべて頭に刻みこんだと思っていました。これも、勘違いといえば勘違いだったんですが」。
宇野さんは、起業をめざす学生たちに人気の、先進的な飲食企業「株式会社Globridge」に就職する。(Globridgeについては、コチラを御覧ください。)
当時、採用に注力していたGlobridgeには、新卒50人が入社する。起業家をめざす、野心のある学生たちだ。
そのなかでも、当然、トップランナーをめざして走り出した宇野さんだったが、ふたたび挫折を経験する。
「成績は配属に左右されますし、いくらでも言い訳はできるんです。実際、分析もできています。ただ、楽勝だと思っていたのにトップじゃないことに愕然としました」。
宇野さんはそういうが、トップか、トップではないことにどれだけのちがいがあるのだろう。宇野さんは飲食に進んだ最終的な理由を、「私の生活の横にはつねに食があったから」と言っている。
栄養士の資格を取り、食品加工系の研究室では、素材から缶詰をつくる研究もしてきた。深い知識をもとめ、大金をはたいてドイツ・フランスに渡り、学んでいる。
もとフレンチのオーナーから教わったことも、トップになることではなかったはずだ。それでも「トップを取れなかった」と悔しがる宇野さんは、狙わなくても、トップを穫れるくらいに思い込んでいたのかもしれない。
それとも、宇野さんがいうトップとは、比較対象として位置づけられるトップではなく、登るべき山の頂きのようなものなのだろうか。
ともあれ、悔しがる宇野さんを評価した人がいた。 Globridgeの代表である大塚誠さんだ。

Globrideの5年間と、世界のDELLと。

<Globrideには、合計何年いらしたんですか?>
「5年です。最初の3年間は正直、消化不良でしたが、4年目からオーストラリアの新事業にタッチさせていただき、状況がいっぺん」。
異国での事業の立ち上げ。
宇野さんともいっしょにオーストラリアに渡り、現在、オーストラリアでも事業を行っている、現「株式会社REBEL」の代表取締役、堀場健太さんにも、この飲食の戦士たちにご登場いただいている。
「5年目、堀場さんは、そのまま向こうに残りますが、私は帰国し、今度は、大塚さんの下で新事業にかかわります」。
すべてが勉強だった。
「私の人生のなかで、大塚さんとの出会いはやはり大きい。 もちろん、1年ですが異国での経験もいい勉強になりました」。
「オーストラリア人は、はたらかない!」と、宇野さん。「でもね、ビジネスはちゃんとまわっているんです」と笑う。
国民性の違いだけで片付けてはいけないが、スタッフも、お客さんもただひたすら楽天的で、明るかった。
「日本じゃ、とくに飲食は、24時間365日はたらくという印象があるでしょ。それが、全然違った。でも、そのなかでも、私たちは日本の飲食人の代表選手のように、24時間365日はたらいていました。そのギャップのおかげで、私のなかに芯のようなものができた気がします」。
5年のうち、最初の3年は、凹みつづけた3年。その後の2年は、「思ってもいなかった世界へ、代表の大塚さんが連れて行ってくれた」という。
「辞めるときも大塚さんと食事をして、叱られるんじゃなく、逆に激励していただいて」。
起業家を育てるという大塚さんにとっても、望むところだろう。ただし、宇野さんは起業に走らず、転職する。その先がユニークだ。
世界のDELLである。

異文化での挫折と、起業。

「当時はまだ、飲食で起業しようとは思っていなかったんです。ただ、BtoBの経験がなかったもんですから、そのピースを埋めようと。それに、今からは何をするにしてもITを知らないといけないと思って」。
「食がつねに私の隣にあったので飲食で、今仕事をしていると言いましたが、ビジョンは、日本の文化を世界へ発信すること。これが、テーマです」。
<だから、世界のDELLだったんですね?>
「そうです。内定いただいたなかで、いちばんスケールも大きかったこともあって」。
<このあと起業ですね? これは既定路線ですか?>
「もともとは30歳までDELLで勉強するつもりだったんですが」と宇野さんは苦笑する。
「私にとっては、DELLもまた異文化だったんです。まわりとの歯車が噛み合うことがなく。不本意でしたが28歳で退職します。そのあと、じつはアメリカの企業からオファーを受け、海を渡る予定だったんですが、コロナ禍となり、アメリカ行きが実質上、不可能になりました。これが、今、飲食の世界にいる直接的な理由です」。
<どういうことだろう?>
「アメリカ行きを断念しなければいけなくなって、どうしようかと迷っているときに、オーストラリア時代の上司、現在はREBEL社長の堀場さんにオファーをいただいたんです」。
<それが、飲食だったんですか?>
「そうです。堀場さんとREBELの日本国内事業の立ち上げを、3か月(2020年の4~6月)取り組みました。コロナでの緊急事態宣言下のバーチャルレストラン事業でした。そして、私自身、起業の思いがあったので、同じくコロナ禍の下でしたが、2020年の10月14日に株式会社WASを設立します」。
ホームページで宇野さんはつぎのように、創業の背景を語っている。
<株式会社WASは、“温故知新”の理念のもと「日本の伝統を世界に発信し、未来へ感応させる。」という想いで創業しました。>
その日本の伝統とは、「UMAMI」である。

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2025年8月5日火曜日

株式会社ココロオドル 代表取締役社長 杉本健司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ココロオドル 代表取締役社長 杉本健司氏登場。

本文より~

進め、美容師へ。

高校に数ヵ月通っただけで辞めている。
「当時は、さきのことは何一つイメージしていなかった」と、今回、ご登場いただいた株式会社ココロオドルの社長、杉本さん。
杉本さんは1983年8月、神奈川県の平塚で生まれている。
「中学からバスケットボールをはじめます。バスケというより漫画の世界にあこがれて。ワルい世界に憧れて、だんだんと目つきの悪い連中とつるむようになって」。
当時の平塚は「治安が悪かった」と杉本さん。ただ、高校を辞め、冷めた頭で未来をみようとすると、さすがに不安になった。
「悪くすればどこまで落ちていく気がして。さすがに、抵抗があった」と杉本さん。
「だから、つるんでいた仲間と距離を置こうと、美容室に就職したんです」。これが、杉本さん物語りの始まり。
「ぼくらの世代って、テレビドラマのビューティフルライフに影響されている人が多いんです。ぼくもその一人で(笑)。ファッションや音楽が好きだったところに、あのドラマでしょ。はたらくなら、美容師だって」。
はたらきながら、美容師の専門学校にも進んだ。
「何年か経って、当時勤めていた美容室の先輩に、代官山で美容室をオープンするからいっしょにやらないかって誘われたんです」。
<独立に誘われたのは、センスが認められたから?>と、質問すると、杉本さんは苦笑いする。
「イメージは頭のなかにあるんですが(笑)」。
まだ、ヘアスタイリストとは名乗れない。それでも、独立の舞台は代官山。心が踊った。
「でもね。競争がはげしかったからでしょうか。現実は甘くなかったです」。客が来ない。ハサミをにぎっても、髪を切ることができなかった。給料もでなかったそうだ。
当時の心境は、どうだったんだろう? 
「そりゃ、困ったなとは思っていましたが、結婚していたわけじゃないし、それに資金をだしているわけでもなかったので。ただ、給料がないと生活できないでしょ。だから、ダブルワークしていいですか? って先輩に言ってみたんです」。
<答えは、もちろん、YESですよね?>
「そりゃ、だめと言えません(笑)。ただ、ぼくのほうも、真剣にやろうってわけじゃなく、給料がでるようになるまでと思っていたんで、軽い気分でバイトをはじめます」。
美容室が終わってからのダブルワーク。はじめたのは、飲食店でのアルバイトだった。
「で、はじめてみてわかったんですが、時給換算すると美容師と比べて、断然、飲食がいいです」と杉本さんは笑う。
しかも、いまは、無給。だんだんと美容師の世界が色褪せてみえた。
「お金がすべてじゃないですが、片や無給でしょ。こっちは、深夜バイトだったこともあって、断然いい」。
<それで、飲食ですか?>
「6年も美容師でしたから、そう単純じゃないですね。いま思うと、つづけるのもありだったかもしれません、ただ、当時のぼくは、さっき言いかけましたが、頭にイメージがあっても不器用だからうまく再現できなかったんです。だから、頭のどこかで、辞めどきかなって思っていたんです」。

表参道、ファッショナブルなメガネショップ。

「先輩に話をしてダブルワークを解消させてもらって、飲食のバイト1本に絞ります」。
若かったから体力は有り余っている。「深夜までバイトして、40万円」と杉本さん。
<美容師とは大違い?>
「ヘタをすると、ダブルスコアですね(笑)、仕事はともかく、お金を儲けるっていうのは、楽しかったですね」。
ただし、その日暮らし。カリスマ美容師という、一つだけあった目標はなくなった。
<お金はどうしました?>と、聞くと、「服が好きって言っていたと思うんですが、全力で買いまくりました」。
「服と酒」と杉本さん。トレンドには、敏感。アンテナが高い。インスタグラムで、好きなブランドを追いかけた。
のちに、この時の体験が、ある結果を生むのだが、それは、つぎの話。
「フリーター生活はだいたい2年です。メガネショップに勤めて、終止符を打ちます」。
<メガネショップ?>
「表参道にある、芸能人も贔屓にしているスタイリッシュなメガネショップです。アパレルもいいかなと思ったんですが、メガネってファッションのキーアイテムですから。それに、大好きなショップだったんです」。
お気に入りの服に、お気に入りのメガネ。杉本さんは、スタイリッシュなスタイルで表参道を歩いた。
ところが、ある日、上司ともめて、退職。高校と、おなじようなスピードだった。
「辞めたのはいいんですが、メガネを売掛で買っていたもんですから、そのぶん、給料からひかれます」。
残ったのはまともに生活できる金額じゃなかったそう。困り果てた杉本さんは実家に戻り、かつてアルバイトした飲食店に顔をだした。
美容師→飲食→メガネショップ→飲食。杉本さんの社会人歴を単純化するとこうなる。ところで、その飲食店、じつはレインズインターナショナルの直営店だった。
26歳のときである。

やるか、破産か。

「特別、秀でたものは昔からなに一つありません。美容師だってテクニックがあったわけじゃないし、飲食でも、なにかが得意だったわけじゃない。ただ、変化に対応するのはうまかったんでしょうね。美容師のときも、飲食のときも、メガネショップのときだって、業種がちがっても売上だけは悪くなかったんです」。
むろん、レインズインターナショナルに入社してからも高い業績を残す。
「渋谷店で店長をしているとき、こういうのも縁なんでしょうね。コロワイドがレインズをM&Aするという話が流れだしたんです」。
<レインズインターナショナルが、コロワイドに>というのは飲食の世界で話題になった。
「渋谷の店長をしていましたが、レインズにも、コロワイドにも興味があったわけではありません。ただ、コロワイド化されていくと、ぼくとはちがう方向へ会社が進み始めるんです」。
「これもタイミング」と、杉本さん。そのとき、急成長中の飲食ベンチャーから声がかかった。
<転職回数でいうと、7回目?>
「それくらいになるかもしれませんね。ただ、そのベンチャーで仕事をしてしばらく経ったとき、美容師のときと同様、独立する先輩に誘われて、いっしょに飲食店をオープンします」。
先輩につぐ、ナンバー2だった。
<美容師のときと今回で、独立は2度目ですね?>
「そうですね。ただ、様子はちがいます。今回も、資金はだしていなかったんですが、名義を貸していたんです」。
<名義貸し?>
「独立っていうのは、むずかしいですね。今回も、業績が悪化。今回は名義を貸していたので1000万円以上の借金ができてしまうんです」。
「ロケーションに問題があった」と杉本さん。複数店舗をオープンしていただけに、赤字額も少なくなかった。
スタッフの給料が遅延する。
「家賃も未払でした。さすがにきついな、と。もう、自己破産するか、それとも、ぼくが経営者となって独立するか、です。経験上、独立してうまくいけば借金返済は可能です」。
ただ、開業資金はない。
「それで、ひとまず、ココロオドルの前身である『杉本フーズ』を設立して、ぼく名義だった西新宿の店舗を先輩から譲ってもらいます。というか、そもそもぼくの名義ですからね」。
「杉本フーズの事業目的は借金の返済」と杉本さん。
甘い誘いに乗ったことを悔やむような人ではないが、今回は、悩む時間もなかった。

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株式会社ココロオドル 代表取締役社長 杉本健司氏

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