2023年7月25日火曜日

株式会社ワンズトライン 代表取締役社長 山内 仁氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ワンズトライン 代表取締役社長 山内 仁氏登場。

本分より~

新聞配達とバスケットと音楽と。

高槻市は大阪府と京都府のほぼ中間に位置する、大阪・京都のベットタウンの一つ。自然も残り、いい具合に都市化も進んでいる。今回ご登場いただいた山内氏が、高槻に生まれたのは1983年。九州男児の父親に拳骨をくらいながら育ったと笑う。
4人姉弟の長男。姉が2人と弟が1人。仕事に忙しいご両親は月曜から金曜までほとんど家にいらっしゃらず、「月曜と火曜はカレー、水曜と木曜はシチュー、金曜はハヤシライス」と食事はローテーションが決まっていたらしい。
「子どもの頃は水泳とピアノを習っていました。姉弟みんなそうなんですが、小学5年生から新聞配達をさせられるんです。朝3時や4時起きですから、苦行です(笑)」。
小学5年生からマイケル・ジョーダンに憧れ、バスケットボールも始めている。「勉強は全然してないですね。(笑)」通っていた公立小学校は8クラスもあったそうだから、さすがベットタウンだ。
「中学でもバスケットボールを続け、中学になると1年からキャプテンを任されます。弱小だったんですが、私は大阪選抜にも選出されています」。
勉強はイマイチだったが、スポーツは万能。ただ、中学3年になってスイッチが切り替わって猛勉強を開始する。なんでも「高校に行きたいと思うようになったから」だという。
やればできる。というか、集中力が抜きん出ている。この時も、中学3年生の1年間で小学校からやり直し、中学3年に至るまでの5教科を猛烈なスピードでマスターしたそうだ。
その結果、進学校に進んでいる。ただ、高校に入学したことでガソリン切れ。代わりに音楽に目覚める。これで早くも本格的に人生が動き出す。

プロのミュージシャンと学歴の話。

プロのミュージシャンと学歴の話。
「気持ちはもうミュージシャンだった」と笑う。
「1年生の時はたまに学校にも顔を出していましたが、高校は途中で辞めています。先生のおかげでなんとか2年生に進学できたんですが」。
父親に伴われ、退学する意思を担任に伝えた時の話。
「先生が泣いて止めてくれます。『だったらせめて、音楽を勉強しながら通える学校に移って、高校だけでも卒業しなさい』って。でも、当時の私は『プロのミュージシャンになりますから高校を卒業したって意味がないんです。それに、音楽は習うもんじゃないんです』って。アホというか危ない奴ですよね(笑)。父も、『学校にこれ以上迷惑をかけられないから』といって。アホな17歳は無事、高校からトンズラできたんです。今、思えば、アホな選択です」。
――ただ、これで音楽1本ですね。
「初めて買ったのはギターだったんですが、これがうまく弾けない(笑)。次にベースを買ったんですが、ギターより弦が2本少ないでしょ。だからうまく弾けている気がしたんでしょうね。だから、高校時代の話になりますが、朝起きてベースを3時間くらい練習して、学校に行って昼飯だけ食べて、帰宅してまたベースの練習。高校生じゃないですよね」。
ただ、言うだけの少年ではなかった。楽器店で偶然再開した2年歳の離れた先輩と意気投合し、バンドを結成。19歳でプロデビューを果たしている。
<高校を退学したことを今はどう思っているか>という質問に山内氏は以下のように回答している。
「これが、今、いちばん言いたいことですが、日本はなんだかんだ言って強烈な学歴社会なんです。だから、学歴のない私には起業しかなかった。そういう選択を高校の時にしてしまったんです」。
だからアホな選択なのだろう。学歴がないと覚悟がないと生きられない。ハンディが課せられる。いくら綺麗事を言っても日本社会はそういう社会なんだろう。
もっとも、山内氏には覚悟と才能があった。だから、扉をこじ開けることができた。しかし、まだスタート地点に立っただけである。競争の激しい音楽の世界。無事、音楽の世界を駆け上がれるのだろうか?

ニューヨークに行こうぜ。

「タイミング的には彼らと一緒です」。と著名なバンドの名を挙げて教えてくれる。「ライブハウスはもちろん全都道府県でツアーもしていて、バリバリのミュージシャンのつもりだったし、負けん気も強かったです」。
負けん気の強さからだろうか。21歳で音楽事務所を立ち上げている。
「音楽事務所をつくったのは21歳の時。と言うのも、20歳を超えるとだんだん自分らの立ち位置が見えてくるですね。例えばさっき挙げた彼らと一緒のステージに上がったりもするわけですが、だんだん苦しくなる。とはいえ、これで終わってたまるか、っていう思いもあって」。
――このあとニューヨークにも行かれていますよね?
「そうなんです。彼らと一緒の舞台じゃアカンと思って。それで、『オレ、ちょっとニューヨークに行ってくるわ!』ってみんなに言って」。
――3ヵ月の語学留学でしたね?
「アメリカの大学で英語を習って、夕方になるとニューヨークには有名なライブハウスがいくつかあるんですが、そのうちの一つに日参します」。
――日参?
「それも、ライブハウスはたいてい21時にオープンするんですが、私は18時には潜り込んでカウンターに腰掛けます。まだ、スタッフが下準備している時間です。英語もできないですから、何を聞かれても唯一できる英語の『オッケー!』と返答します。日本じゃ開店前に客なんか入れないじゃないですか? でも向こうはたぶんダメとは言ってない(笑)。最初は危ない奴と遠巻きにしていたスタッフさんも声をかけてくれるようになって、オッケー、オッケーといって勝手に準備を手伝い始め、益々やばい奴になるんです(笑)」。
――それは、確かにやばい。(笑)
「でしょ。ただ、だんだんと英語も聞き取れるようになって、オーナーさんとも話すようになって。もちろん、どこにでもいるオーナーじゃありません。大物アーティストも来るニューヨークでも指折りのライブハウスのオーナーさんです」。
「一度、大学にいる英語がペラペラな日本人に通訳をお願いして、そのオーナーと会話します。通訳を頼んだ相手が言うわけです。『彼は実は日本のプロミュージシャンだ』って。オーナーは『嘘だろ』って言うわけですよ。そりゃそうですよね。『だったら、彼が日本からバンドを連れてきたら、ステージに立たせてくれますか?』って通訳が言うと、『オッケー、オッケー』って。たぶん嘘だと思っていたんでしょうね」。
――どうなりました?
「帰国してみんなに、『よし、ニューヨークに行くぞ!』って言って。みんなでニューヨークのそのライブハウスに乗りこんで。オーナーが目を丸くして、『ほんとに来たのかよ』って(笑)。それがきっかけになって、ニューヨークとロスでライブをするようになります。それを23歳まで続け、解散です」。
やり切ったと山内氏は言う。だが、その一方で音楽でメジャーになれなかったとも。だから今、「上場」というもう一つのメジャーな世界を目指していると言う。

2017年「大衆酒場あげもんや」オープン。

ミュージシャンを辞めたと言って、業界から離れたわけではなかった。
「若いアーティストを支援する事務所を作ります。ライブやツアーのブッキングやCDを出すサポートですね。そういうことを始めるんです。ただ、うまく行くようになると俺たちが10代の頃に大人たちからされていたようなことを、今度は私が若い世代にしていると思うようになったんです。それで辞めました」。
切り替えが早いのは、山内氏の強みの一つ。
――それでどうされましたか?
「27歳の頃、カラオケ店を買います。そちらを再生させ、同様にして27店舗くらいまでネットワークを広げました。ただ、カラオケの世界のカラクリというのがあって、いくら利益を上げても結局は大手の機器メーカー次第というところがあって。ビジネス的には私らは弱者なんです。そういうのに嫌気がさして事業を売却します。当時はかなりいい値段で売却できたと喜んでいたんですが、交渉すればその何倍かになっていた気もしなくはないですね」。
――そのあと、飲食を起業することになるんですね。
「そうです。2017年に『大衆酒場あげもんや』をオープンします」。コンセプトは、天ぷら・とんかつ・から揚げも加えた4本柱で「揚げ物の総合デパート」
「メジャー(上場)を目指していましたから。最初からアジア、特に中国の投資家や経営者が魅力に思う業態を作ろうと、そこからの発想です。長く一発勝負の音楽の世界にいましたら、オープンまでかなり綿密に準備をしています」。
串カツのソースはメーカーと半年がかりで共同開発。パン粉、練り粉、油もオリジナルのものを開発している。「ファミリーも取り込もうと、家族3世代で楽しめる居酒屋をコンセプトに、子どものいる世帯が多いエリアを選び出店。店内には席数を減らしてまで駄菓子や射的のコーナーも作りました」。
――楽しそうですね。
「ええ、楽しいです(笑)。お客様に喜んでいただけるって、最高に楽しいじゃないですか」。音楽と一緒かもしれない。楽しんでいる観客の歓声を聞いて、ミュージシャンが楽しんでいる。この連鎖が波になり、会場を包む。
「オリジナルな店舗を出店する一方で、イベントが開催時のケータリングサービスも開始しています。こちらは2022年12月に開催し、今年も開催を予定する「食とエンターテイメント『ミライイニ』」に繋がるんですが、それはもう少し後の話ですね」。

・・・続き

株式会社ワンズトライン 代表取締役社長 山内 仁氏

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2023年7月19日水曜日

暑い。

暑い!!

新人時代の昭和60年頃飛び込み営業してた時は真夏でも数少ない上着(時には冬物)着て、ネクタイは必須、それに重いカバン持って動き回ってましたが、

今、20代になり当時と同じことをやれば間違いなく熱中症に倒れてますね。

営業スタイルも変わりましたが、気候の変化も半端なくなりました。

気持ちはいつも若いですが、過信せず体力を考えて行動しないとダメですね。


そこで日傘登場!

妻に買ってもらいました。


いろんな仕事の話をもらえ、必要とされてるので日傘も活用し頑張ろう。

こうやってやれることに感謝です。

2023年7月18日火曜日

株式会社理想実業 代表取締役 布施 真之介氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社理想実業 代表取締役 布施 真之介氏登場

本文より~

フレンチとラーメンが協演する、一杯のラーメン。

神座の創業者、布施正人氏がフレンチのコックをされていたのは有名な話。その話を知らなくても食べてみると、ホームページにある「フレンチとラーメンの協演」という言葉に頷くことになる。
今回は一杯の器のなかでフレンチとラーメンの協演をしてみせた稀代のラーメン店店主 布施正人氏の息子であり、現在、㈱理想実業の代表取締役を務める布施真之介氏にお話を伺った。
「神座の創業は1986年、私が3歳の時。4坪9席からスタートしています。その時の記憶はもちろんないですが、少し大きくなると記憶も鮮明になります。仕事が終われば従業員がうちにご飯を食べにくるんです。なかにはお酒を飲む人もいて、私は父の膝の上に座り、父と従業員の話を聞いていたように思います。酒の肴になっていたかもしれませんね(笑)」。
布施氏が言うとおり、神座は1986年7月19日に1号店をオープンする。もともとフレンチレストランのオーナーだった先代正人氏だが、災害をきっかけにラーメン店に関心を持ち業態をチェンジ。フレンチの技量を盛り込んだ絶妙なバランスのスープが生まれ、神座は大阪中にファンをつくる。
「私自身は神座の息子と言ってもどこにでもいる少年です。野球と少林寺拳法を小学2年から高校卒業まで続けていました。今とほとんど変わらないような、負けず嫌いな少年でした」。
家業を継ぐことを意識したのは早く、小学生の頃。中学では生徒会長、高校は奈良の進学校に進んでいる。

大学へ。そして、就職。

「高校卒業後はアメリカに留学しています。合計2年弱。2001年9.11のテロの影響が留学生にも及ぶ中で残るか、戻るかの選択に迫られ、日本に戻り慶應義塾大学に再入学しました。大学時代のアルバイト先は神座でした」。
アメリカに留学したことにはちょっとした挫折がある。
「今になればなんてことないんですが、京都大学の受験に失敗しショックが大きすぎて。浪人して東京大学へとも言われたんですが、心が折れてしまって(笑)。東大や京大には友達も進学していたので、だったらアメリカだと」。
東大や京大もそうだが、アメリカが次にくること自体凡人にはない発想だ。
ところでアルバイトの話の続き。
「神座では私が社長の息子というのはバレていた」と笑う。そりゃそうだろう。高校生の時から店長会議にも出席していたそうだから。
ただ、社長の息子であってもそれを斟酌する余裕は周りのスタッフの人たちにもなかったのではないか。関西ではもちろんだが、東京でも神座は絶大な人気ラーメン店となっていた。つまり、斟酌される暇もする暇もない。
子どもの頃から事業継承を想像し、大学時代から神座でアルバイトをしていた布施氏だったが、大学卒業後は神座ではなくファンドに就職している。
「ゴールドマンやモルガン・スタンレーのような投資銀行に行こうとしていたんですが、将来役立つのは金融の中で経営を学べるところだと思って。最終的には「さわかみファンド」で有名な『さわかみ投信株式会社』に就職します」。
当時は新卒採用を行っていなかったらしい。にもかかわらず布施氏は電話で直談判して就職している。
パッションを認められたからだろうか。入社すると、創業者である澤上会長のすぐ後ろに布施氏のデスクが用意されていたそうだ。
仕事はいかがでしたか?
「アナリストとして企業調査を通じて様々な経営スタイルを勉強できるだろうと入社するわけですが、予想以上に色々な勉強ができた3年間でした」。
ただし、仕事はハード。朝5時に出社し、深夜1時、2時に帰宅というハードワークも行っていたらしい。土日はリサーチや勉強の時間。つまり、遊ぶ暇もない。「とにかくハードというか。恥もたくさんかきました(笑)」。
恥、ですか?
「ええ。週イチでお客様を前に1時間、テーマはなんでもいいんですが講演しないといけないんです。今ならラーメン業界のことを堂々と喋れますが、なんのバックボーンもない新卒なわけで」。
何を語るか一週間かけて検討し用意してもわずか5分で喋ることがなくなってしまう。
「恥も、汗もいっぱいかきました。でも、そういうのも大事な経験なんだなと思います」。
『さわかみ投信株式会社』での在籍期間は3年程度だが、わずか3年でアナリストチームをマネジメントするまでにもなっていた。恥も、汗も、かいたおかげだろう。
そのあと、神座ですか?
「ハーバードのMBAにチャレンジしようかともう一度アメリカに渡ろうと思っていたんです。ただ、そのタイミングで母から帰還命令があって」。
悩むところですね?と聞いたが、実は即答だったそう。
「父親が60歳になっていましたから。そういう意味では小学生の時の誓いを忘れていなかったわけですね」。
むしろ、海外留学もファンドへの就職も、いずれくる事業継承のためだったと言っていい。家業を継いで神座を「経営」する。布施氏はここに至るまでも、何度もこの言葉を使っている。

誓いを胸に、神座へ。

2010年当時の神座は、いっときの勢いをなくしていた。
「利益率はちゃんと高かったんです。その分、ラーメンの価値は守られていたわけですね。ただ、売上は下がり続けていました」。
いっときの勢いがなくなったということですか?
「そうですね。人の流れがロードサイドの店から商業施設に変わったのも背景にはあると思います。ただ、㈱理想実業という会社にも問題があったのは事実です。両親も『職人としてやれるのはここまで』と言っていました」。
つまり、ラーメンの職人集団だったということですか?
「その通りです。トップに創業者の正人氏がいて、あとはすべてラーメン職人でもある店長です。本社の社員は2名だけ。評価のモノサシは店舗オペレーションのみ。弊社の大切な職人をバックアップする体制には全くなっていませんでした」。
「組織がなかった」と布施氏はそう表現する。
「会社の方向性を定めることからスタートしました。理念を掲げ、それに向かう組織をつくることにも着手します。新規出店ができるようになるには2~3年かかり、カルチャーを変化させるのには5年かかったと思います」。
神座が、ふたたび帆を張る。
それを見届け、布施氏はいったん神座を離れ、投資会社を設立する。「最初の3年はがむしゃらに仕事をしました」と布施氏。延べ10数社に投資。良好な投資成果を得る。 「ただ、軌道に乗るとだんだん面白さがなくなっていくんです。やっぱり私は布施正人の息子であり、経営者だったんでしょう。飲食がいちばん面白いと改めて実感します。ただ、ラーメンは神座があるのでそれ以外でと思って。うどんや蕎麦をはじめ様々なブランドをリリースできる会社『㈱ZIPANGU』を設立します。神座が1000億円ブランドなら、こちらは10億円のブランドが100あるイメージです」。
現在、この「㈱ZIPANGU」は「㈱理想実業」の中に組み込まれている。「私が『㈱ZIPANGU』を立ち上げたタイミングでまた戻ってこいというオファーがありました。父親は70歳になっており。2010年と同様、伸び悩んでいたのも事実です」。
2020年の話ですよね?
「そうです。コロナ禍の真っ只中です(笑)」。
神座の業績は前年売上71億円から49億円まで急降下していた、という。

・・・続き
株式会社理想実業 代表取締役 布施 真之介氏

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2023年7月11日火曜日

株式会社エムシス 代表取締役 瀧川真雄氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社エムシス 代表取締役 瀧川真雄氏登場

本文より~

野球と瀧川氏。

瀧川氏は1979年7月4日、岩手県盛岡市に生まれる。小学1年生の時に仙台に引っ越し、小学6年生の時には両親が自宅を購入したことで、ふたたび転校している。
本人曰く「どちらかというと優等生タイプで学級委員を務めるような少年だった」とのこと。父親の影響で野球を始め、中学では一番バッターとして活躍。実は、運動神経も群を抜いていた。
高校は「盛岡大学付属高校」。野球の名門校だ。瀧川氏は、特待生として、その野球部に入部している。
「野球も大変でしたが、寮生活がそれ以上でした。4人部屋で1年生は私1人。もちろん、使いっ走りです」。俗に言うパシリ。
同級生は20名。
「私らの代になるまで2年間、岩手県では負けたことがなかったんです。そのうえ、私らの代は最強とも言われていたんですが、実を言いますといちばん勝てなかった」。「大会の度に優勝旗を返す結果になった」と苦笑する。レフト、8番。最後の大会で、なんとか背番号7を奪い取った。
ところで、寮生活はその後、どうなったんだろう?
「2年になると、パシリの時代が終わります。私も先輩になるわけですが、後輩を顎で使うようなことはなかったからか、私の部屋には1年生が入り浸っていました」。
当時から人に好かれる性格だったんでしょうね?と問いかけると、「いや、舐められていたんじゃないかな」と一言。そういう風に言うところが瀧川氏らしくていい。

店長と瀧川氏。

「大学は国士館です。一般入試で受験し、体育学部に入ります。準硬式野球部に入り、野球は続けました」。
寮も卒業し、念願の独り暮らしですね。アルバイトは何をされていたんですか?
「100席はある、とんかつ居酒屋でキッチンをしていました」。
その時に出会った店長が瀧川氏の運命を動かす。2歳上の店長だった。
「お店は流行っていたと思います。キッチンは5~6人で回していました。私は、夕方からですが、それでも週5~6日出勤していましたから中心メンバーですよね。店長にもかわいがっていただいて。実は、その店長から『独立』というのを刷り込まれていたんです。サーフィンが好きな店長で、毎日、『海のちかくに出店して、サーフィン三昧の生活を送る』なんて楽しい話を聞かされていましたから笑」。
歳がちかかったからだろう。2人の距離はすぐになくなり、瀧川氏はみるみる、その店長に惹かれていった。
「結局4年間、アルバイトをさせていただきます。体育学部ということもあって、消防士をいったん志望するんですが、どうも身が入らない。ただ、飲食に抵抗があったのも事実です。でも、やはり店長の影響なんでしょうね。飲食だって思っちゃう笑」。
葛藤もあったが、だからと言って飲食以外の道を選択する気にもなれなかった。心が決まったのは4年時になって。
「グローバルダイニングのモンスーンカフェに出会って、もう心を動かされまくるんです。ちょうど4年生の夏だったと思います。店長に相談したら『いいじゃん』ということで、恵比寿のモンスーンカフェでもバイトを始めます」。

仙台へ。

盛岡から仙台、ふたたび盛岡、そして東京にでて、もう一度、仙台にもどる。案外、忙しい。
「モンスーンカフェは時給が自己申告制なんです。自信があったので、最初に『1200円!』って申告しちゃうんです。でも、全員会議で、みんなに散々に言われて笑。以来、900円で細々仕事をさせてもらっていました」。
だから、ではないが、結局飲食にも就職しなかった。
「これも店長の影響なんですが、サーフィンにもハマってしまって。じつは、仙台にはサーフィンにもってこいのスポットがあるんです。それで、仙台にもどって2年間だけ真剣にサーフィンをしようと思ったんです」。 むろん、働かないという選択肢はない。
「最初に働いたのは、若い社長が運営するレストランでした。こちらで3年。統括というポジションで、社長のちかくで仕事をさせてもらいました。そのあと、お世話になったのが、上場企業を経営されている社長が、サブビジネスだと思うんですが、オーナーのお店でした。社長とは歳も離れていましたが、直接、お会いすることも少なくなく、いろんなお話もさせていただきました。じつは、こちらでガールズ・バーを提案して、それがヒットするんです」。
ガールズ・バー。じつは、瀧川氏の創業事業もそれ。
「ヒットしたもんですから、これなら独立して大儲けだ、と。社長にお話ししたところ、『じゃぁ、今の店舗も委託で運営してくれ』となって」。
仁義を通すため、瀧川氏は、仙台ではなく、盛岡で出店することを想定していた。「だから、仙台で2店舗、盛岡でもう1店舗という、なかなかハードルの高い独立を果たします。でも、ガールズ・バーというのがよかったんでしょうね。仙台からも遠隔コントロールができましたから」。
儲かりましたか? そういうと、瀧川氏はこっくりと頷く。自身の年収は1000万円を軽くオーバーしたそうだ。

焼きとん大国と。

業績は悪くなかったが、瀧川氏自身が経営者となる準備は整っていなかったのかもしれない。コンセプトも、ビジョンも、理念もまだない。
「整骨院のフランチャイズを開始したのは、野球部時代、私もたくさんお世話になりましたし、儲かると思ったからです。ガールズ・バーがなんとなくうまくいって。今思うと経営者としての、知識も経験もたりなかったんでしょうね。実際、苦労もしています。どうしても、やりくりできず、スタッフに迷惑をかけた時もあったし、納税ができなかった時もありました」。
うまくいかない。どん底。そんな時に、東日本大震災が起こる。
「じつは、大国を始めたのは、それ以前で、付き合いのある方からの紹介で大国の本部の社長と知り合い、その社長の講演を東京へ聞きに行って、感銘を受け大国のFCに加盟します。これで、長いトンネルを抜けられると思ってスタートするんですが」。
いかがでした?
「当時、仙台ではまだ、焼きとんっていう文化がなかったんです。『なんだ!?やきとりじゃないのか』って笑」。
なかなか計画通りにいかなかったわけですね?
「計画通りというか、300万円の目標に対し、180万円ですからね。目算違いもいいところです笑」。
起死回生のつもりが、洒落にもならない結果になった。どうしてもやりくりができなかったのは、この頃。
「その時に震災です。『もうだめだ』と正直、そう思いました。幸い、家族も、従業員も無事だったので、それでよかったと思わないといけないと。ところが、」。

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株式会社エムシス 代表取締役 瀧川真雄氏

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2023年7月6日木曜日

コロナ禍を経て業務の幅広がりました。

キイストンの生業は求人広告の代理業務で、関連のミストラルは飲食業界に特化した人材紹介業務です。

ただコロナ禍の2020年からは幅を広げいろんな部門作りました。

全部で6部門、2023年全てにおいて結果出てます。

今や全体の利益の40〜45%占めており、2023年度は50%になるかも…。

ただ全て飲食企業様の人材採用にも直結しそうな部門です。

半分の部門は大きな柱となりましたが残りの3部門も力入れ、大きな柱にします。

他社にはできないことをやり続けると必ず誰かが見てくれます。

コツコツと頑張ろう。


戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2023年7月4日火曜日

株式会社ヤマナミ麺芸社 代表 吉岩拓弥氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ヤマナミ麺芸社 代表 吉岩拓弥氏登場。

本文より~

大学時代までの吉岩氏。

ラーメンが大好きで、大学時代は福岡中心に東京や大阪にも遠征してラーメンを食べ歩いていたそう。今回、ご登場いただくヤマナミ麺芸社の代表、吉岩氏のことである。
吉岩氏は1978年、大分県別府市に生まれている。
お父様が事業家で、1994年に「株式会社ヤマナミ麺芸社」の前身である「ゴールドプランニング株式会社」を設立。「ラーメン工房 ふくや」や「麺堂香」といったラーメン店を経営されていた。
「父親はそれ以外にも様々な事業をしていました。子どもの頃からそういう父親をみてきましたから、社長という仕事に憧れていたように思います」。
その思いは卒業文集にも綴っている。
小学校から野球をしていたと聞いていたので、野球選手じゃなかったんですね?と尋ねてみた。
「そうですね笑。父親を近くでみていましたからね。プロ野球選手より父親のほうがかっこよかったのかもしれません。野球は、弟と一緒に小学校からはじめ、高校卒業まで続けています。高校は公立ですが文武両道の進学校。私は野球部で副キャプテンを務めていました」。
ちなみに、弟さんとは現在も一緒にはたらいている。吉岩氏と違って職人タイプなんだそう。二人ならべば凸凹コンビで、弟さんは吉岩氏より15センチ以上も高い。
高校生活はいかがでしたか?
「楽しかったです。部活に遊びに、時々、勉強って感じでしょうか笑。もっぱら部活と勉強だったら、文字通り文武両道だったんですけどね笑」。
遊びが過ぎたのだろうか? 遅刻が多くて関西大学の推薦をのがしている。
大学はどちらに?
「やっぱり東京とかにでたいと思っていたんですが、推薦も取れなかったもんですから、九州産業大学に進みます。この大学は父親も通っていた大学です」。
親子二代ですね?
「そうなりますね。父親と違うのは、ラーメンを食べ歩いていたことでしょうか」。

学生時代のワンシーン。古着の買い付けに、アメリカへ。

最初はラーメンではなく、古着屋だったらしい。大学時代のことだ。
「じつは、父親はラーメン店以外にも、いくつもの事業を行っていました。古着屋も、事業の一つとして始めたんですが、うまくいかなかったのか、すぐにやめてしまいます。ただ、その仕事をかじった私が魅了されてしまって」。
20歳だから、1998年の頃の話ですね?
「大学3年生の頃です。父親のサポートをしている時に、ある店長に出会うんです。同い年だったんですが、私なんかとは比べられないほど大人で、将来独立するんだという志をもち、生計ももちろん、立てています」。
それが、古着屋をするきっかけ?
「正確にいえば、その店長の生き様に影響されたのがきっかけですね」。
店長と親しくなった吉岩氏は、店長と一緒にアメリカに渡り、レンタカーを借り、フリーマーケットなどを回り古着を買い付けた。安いモーテルで宿泊する、それ自体、刺激的だったという。
「アメリカで買ってきたものを業者に卸したり、フリーマーケットやヤフーオークションでセールスしたりしていました。店長はそれで生計を立てていたわけですが、私は、ただで海外に行けて、少しだけお小遣いがあればいいくらいの気持ちでした。だから、まだまだ緩い人間だったんです」。
どんな商品が売れましたか?
「いちばん儲かったのは、ヴィンテージのジーンズですね。5万円で仕入れたものが15万円で売れました。もっとも当時は古着ブームでしたから、100円のTシャツが2000円になったりもして。ただ、しばらくして古着ブームが去ります。それで今度は韓国に渡ってシルバーアクセサリーを買い付けるようになりました」。
アジアン雑貨もされていたそうですね?
「そうです。シルバーアクセサリーは中州の路上でセールスしていたんですが、『シマがある』と、あちらの方から教えられたので、こちらは撤退笑。それで、つぎはタイに渡って、アジアン雑貨を仕入れセールスするようになります。それなりにマジメにやっていたつもりですが、さっきもいったようにお小遣いになればいいくらいに思っていましたから、ビジネスといえるスケールではなかったですね」。

最初で最後の親孝行。

いったん会社勤めをした吉岩氏だったが、半年で退職し、父親の下ではたらきはじめる。業績が悪化した父親の会社をサポートするためだ。
「昔から借金があったことはわかっていましたが、いろんな事業の業績が落ち込み、3店舗あったラーメン店もふるわない。もちろん、私がもどっても、すぐにV字回復できるほど簡単な話じゃありませんでした」。
そりゃ、そうだろう。古着屋で才覚をみせた吉岩氏だが、趣味の範疇にすぎなかったとも言っている。
「業績がなかなか好転しないなか、私がもどって2年くらい。私が25歳の時に、父親が急逝してしまいます。もちろん、ショックでしたし、悲しみは尽きませんでしたが、その一方で、残された借金をどうすればいいのか。私より早く入社していた弟といっしょに頭を抱えます」。
「どうする?」「どうすればいい?」
兄弟が話し合ったのは久しぶりのことだった。
「中学校くらいから口を聞かなくなっていましたから。性格も違いますし、どこかに溝があったんでしょうね。ただ、山ほどの借金を抱えて、溝があるなんて言ってられなくなりました。『最初で最後の親孝行だ』と2人して、心を奮い立たせました」。
「今、私があるのも、弟のおかげだし、弟もたぶん、そう思ってくれているはずです」と吉岩氏はいう。
ところで、最初で最後の親孝行はどうなっていくんだろう?
「ほかの事業は畳んで、ラーメン1店舗だけにすればいいとアドバイスをくれる人もいたんですが、昔から負けん気が強いというか、そう言われると、逆に『なにくそ』となっちゃって」。
結局、ラーメン3店舗を継承する。
日銭にかかわらずラーメン店も赤字だった。
銀行はすぐに駆け付けてきた。
「ああいう時は、行動が早いですね笑。私らは事業を継承したことで7億円の借金を背負います。大分駅前に5億円で購入したビルの利息が大きいかったですね。その頃には、価値が下がり、売ろうにも売れない状態でした」。
船長はもういない。しかも、V字回復はまったなし。

豚骨と、豚骨以外。ラーメンのバリエーションは、無数にある。

立て直しには、2年ちかくかかったと吉岩氏。スープを含め、聖域なき改革を推し進めたそうだ。
「私ら兄弟が経営者になったことで、古参のスタッフが辞めていきました。残念なことですが、皮肉なことに人件費の比率が下がって赤字が解消されます。今、振り返ると5~10店舗までがたいへんでしたね。ヒト、カネ、モノ、全部なかったから笑。それでも、熊本ですが、県外へのチャレンジも開始します」。
ところで、九州といったら豚骨ラーメンですよね?
「そうです。福岡もそうですし、熊本ラーメンも、基本は豚骨。東京のラーメンとはぜんぜん違います。ただ、豚骨ラーメンが主流ということは間違っていませんが、たまには違うテイストのラーメンも食べたいと人間、思いますよね。私自身、いろんなラーメンを食べ歩いた経験から、豚骨ラーメン以外にも旨いラーメンをたくさん知っていましたから、尚更です」。
ローカルに、グローバルを。という発想ですね?
「そうですね。たとえば、2008年にリリースした『太一商店』は、豚骨ラーメン定番である細麺の真逆の太麺です。ローカルに目を向けていただけではできない、チャレンジです。オープン当初は『これは、ラーメンじゃなく、うどんだ』とお叱りをいただきました笑。ただ、おおむね好評で、2009年に濃厚醤油ラーメン『馬力屋』、2013年には味噌ラーメン『味噌乃家』をオープンします。現在では、長浜ラーメンを含め、7ブランドになっています」。
重石になっていたビルも売却済。7億の借金からの大逆転はすでに果たしている。

・・・続き

株式会社ヤマナミ麺芸社 代表 吉岩拓弥氏

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飲食業界にとって夕刊紙は最強のメディアです。

飲食業界にとって夕刊紙は最強のメディアです。

今回テクニカン様の「凍眠生酒」に関して夕刊フジ様(5/26)&日刊ゲンダイ様(6/21)&東スポ様(6/29)に記事を掲載頂きました。

それぞれ競合メディアですが、協業いただいており、ありがたい限りです。

これからどんどんメディア露出が人材採用において大事な武器になります。

より多くのメディアとも関係強化しておこう。

夕刊フジ5月26日発行
日刊ゲンダイ6月21日発行
東スポ6月29日発行
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2023年7月3日月曜日

キイストン関連会社のミストラルでは幅広くインターンシップ求めています。

キイストン関連会社のミストラルでは幅広くインターンシップ求めています。

■インターンシップの教科書は『飲食の戦士たち』(キイストン)

ミストラルの母体であるキイストンでは『飲食の戦士たち』というweb上のコラムを運営しています。

2008年2月に立ち上げて以来、2022年9月にはコラムの掲載回数が900回を超え、掲載記事数・掲載期間ともに業界最大級のサイトとなっています。

コラムの内容は、フードビジネスに携わる経営者が、幼少期や学生時代、会社を立ち上げるまでといった「社長の原点」をたどるというもの。現在の経営内容を紹介するものではないことから、数年経っても記事の内容は劣化することがなく、これらの記事は飲食業界経営者の貴重なデータバンクとなり、多くのマスコミ人から重宝されています。

インターンシップではまず最初に、『飲食の戦士たち』の記事を読むことで飲食業界のリアルを学びます。そして新しい『飲食の戦士たち』の記事を作成するために、ここに登場すべき経営者を探し出して電話などで取材交渉を行います。このアポ取りがインターンの最初の業務となるのです。