2016年2月27日土曜日

1月に入社した新戦力、かなり化けるかも…。

1月から新たな営業戦力が加わり、約2ヶ月経ちましたが、一つ一つの仕事ぶり見てますが、大化けしてくれる予感します。
大きな目標掲げ、社会的にも認められるほどの夢描いてくれてたら、やってくれるかも。

ここに来て、ほんと営業組織はいい人材が揃ってきました。
しかも営業全員20代、もう彼らの時代ですから、楽しみ!!


2016年2月23日火曜日

鉄板焼 石垣吉田 主宰 吉田純一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”鉄板焼 石垣吉田 主宰 吉田純一氏登場。
本文より~

料理人の道を歩み始めるまでの話。

吉田 純一氏が生まれたのは、1973年8月21日。
東京、東向島の出身である。父方の祖母が料亭を経営。父親も元々は板前として店を手伝われていたそうだが、吉田氏が幼少の時に公務員に転職されている。
吉田氏に子どもの頃の記憶を辿って頂いた。
「そういえば、調理場で遊んでいると親に怒られ修業中の優しい板前さんにプリンを作って貰ってよく食べていましたね。凄く美味しかったのを今でも覚えています。両親とも東京出身なので、帰る田舎がなく、里帰りしている友達が羨ましかった。小学生低学年になると、水泳を習いはじめ自宅では友達とパンケーキを作ったりしていました。小学生高学年には野球。勉強はあまり好きじゃなかった(笑)」。
高校は、鉄道系の男子校に進んだ。特別やりたいことがなかったことと、鉄道が小さい頃から好きだったから。
しかし、授業よりバイト三昧。それでも鉄道会社にはしっかり就職している。
「保線といって、路線のメンテナンスが私の仕事でした。あんまり楽しくなかったですね。下請け工事の人たちが作業をしてくれて電車が来たら指示を出して監視するだけ。定年退職を迎える前の人が私のデスクの正面にいらして、あぁ、こうはなりたくないな、と」。
それで入社1ヵ月で退職することを決意。その時、子どもの頃から好きだった「食べること」と「仕事」を初めて結びつけて考えてみた。
「会社を辞めて、漠然と料理人になりたいと思ったんです。改めて専門学校に行くため、バイトで資金を貯めながら、旨い料理店のメニューも、私なりに研究するようなことをしていました」。
ここまでが、吉田氏の人生の第一章。波乱の第二章が幕を開ける。

ヨーロッパの研修旅行で見つけた目標。

料理人を志すと決めた吉田氏は、服部栄養専門学校に進んでいる。1年制の学校である。思い出は、ヨーロッパの研修旅行。その当時はサンテチェンヌにあった「ピエール・ガニェールは、心底凄いと思った」と当時のことを振り返る。
「ピエール・ガニェール」とは、パリの三ツ星レストラン「ピエール・ガニェール」のオーナー・シェフで、前衛的と評価されている料理人である。
「彼の料理は、盛り付けが立体的なんです。そのうえ皿の淵に至るまで全てが計算され、完成されていました」。
この出会いがあり、西洋料理への憧れが増す。
「しかし、当時の日本はバブルが弾けたところで、行きたいと思ったホテルニューオータニに就職できませんでした。知り合いから、ホテルニューオ―タニ幕張のオープン情報を聞いて、もう1年専門学校で勉強して受験してみようと思ったんです」。
もう一度、専門学校の門を叩く。進んだのは「華調理師専門学校」である。
「目標ができたことで、熱が入った」と吉田氏。
「1番になる」、その思いが形になったのは卒業コンテストでのこと。「1年制、2年制合同の卒業コンテストがあったんですが、そこで最優秀賞の理事長賞をいただきました。大きな自信になったことはいうまでもありません」。
念願の「ホテルニューオータニ」。倍率は15倍以上で、調理の枠は3人しかなかった。その狭き門を潜り抜けた。吉田氏の「ニューオータニ」時代がスタートする。

ニューオータニ時代。

「恵まれていたと思います」と吉田氏。オープンしたばかりのホテルだったこともあって、ニューオータニでもトップの料理人たちが揃っていたこと。そして、調理をすぐにやらせてもらったことと、その理由を語る。
配属されたのは、イタリアンコンチネンタルのメインダイニング。シェフは当時ミシュラン三ツ星の『トゥールダルジャン』で経験されたニューオータニ全体でも3本の指に入る凄腕の持ち主でフランス語やイタリア語なども流暢に話せるシェフだった。またホテル総料理長から「鉄は熱いうちに打て。1日1個でも覚えれば1年で365個覚えられる」と教えられた。
結局、ニューオータニ時代は5年間に及ぶ。逃げ出したいと思ったこともあったが、実行に移す余裕すら無いほど忙しかったそうだ。
「実は、入社して1ヵ月で、入院してしまいました。焦りました。休んでいると同期と差が付くと思っていましたから。何度も、退院すると言って先生を困らせました」。
また、入院時は、怖かった先輩たちも心配しに駆けつけてくれた。その時は、涙が出るほど嬉しかった。
退院すると翌日には店に戻った。「歩くのもままならず、最初はめまいがすることもしょっちゅうでした。それでも怠けているわけにはいきません」。
辞書を隠しつつ、フランス語のオーダーに対応した。寝る間を惜しんでフランス語のメニューを解読したのもこの頃。語学とともに、少しずつ料理人の力もついていった。
「今思えば軍隊みたいな感じでしたね。油断していると、物が飛んでくるんですが、それを避けちゃいけないんです。避けたら、怒られるから(笑)」。厳しさとある意味優しさが同居しているような感じだったのだろう。
メインダイニングからいったん、宴会のプレパレーションに異動。24歳の時に、24階の「鉄板焼」に異動する。運命が動き出した。

・・・続き

鉄板焼 石垣吉田 主宰 吉田純一氏
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2016年2月18日木曜日

社会人インターン生加入しました!!

若いメンバー加わりました!!

月曜から社会人インターン生としてU君(25歳)が入り、社内もさらに活気が出ております。
ほんとありがたいことです。

このU君、留学(ジャマイカ&カナダ)のため1年間休学、大学卒業後1年バンド活動してた様ですが、将来のこと考えキイストンで修行に来てくれました。
まだ何がやりたいかも考えてませんが、こんな営業未経験の人材が実は大化けするんですよね。

「自ら大手企業や有名企業の社長にアポイント取り、自ら取材に立ち会うキッカケ作れ」って話してますが、なんとその後すぐ有名ラーメンチェーン店のアポイント取れそうみたいです。

前例にホテルで中華の料理人で営業未経験からぐるなびに転職し、その後飲食オーナーになり大活躍してるA君がいますが、U君にも同じ様に自分の道を見つけ納得いく天職見つけてくれれば…。
96x96
戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2016年2月16日火曜日

株式会社たき航グループ 代表取締役 滝 航也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社たき航グループ 代表取締役 滝 航也氏登場。
本文より~

弱い者は、守った。正義の味方、参上。

兄とは4歳、弟とは11歳、年が離れている。「だから、兄弟喧嘩をした記憶はない」と、今回、登場いただいた滝 航也氏。
滝氏は、1970年6月29日、横浜市旭区に生まれる。父は自営業者で、母方の祖母は品川で焼鳥店を経営していた。
「父もそうですが、祖母もいわば自営。だからでしょうか。小さな頃から『人の下ではたらくのはイヤだな』と思っていたんです。当時から、人にアレコレ言われるのは、イヤというタイプでした」。
学校では、やんちゃ者だったが、正義感はつよかった。悪い奴が相手だと手がつけられなくなったが、一方で、弱い者は絶対に守った。
スポーツはなんでもできた。サッカー、水泳、陸上…、体育では、いつも注目されていた。ちゃんとスポーツをつづけていたら、なんらかの選手になれていたかもしれない。しかし、中学になって早くも青春を謳歌しはじめる。

パンチパーマをかけた、正義の味方。16歳から社会にでる。

「いま思えば、若気の至り」と滝氏は笑う。「パンチパーマをかけ、肩で風を切って、俺は強いんだみたいな…」。正義感も強かった滝氏は、みんなを束ねてもいた。
それでも、高校にはかろうじて進学。しかし、通ったのは半年に過ぎなかった。
「私は、16歳からはたらいています。板金塗装や、免許を取ってからはトラックにも乗りました。そうですね。21歳で大型や牽引の免許を取って、23歳になった時には給料が100万円を超えていました」。
それでも、仕事は将来独立するためと割り切っていた。だから、給料が良くても、ずっとトラックに乗るつもりはなかったそうだ。
「20歳から、仕事のかたわら、キックボクシングを始めました。精神力を鍛えるのが目的でした。サンドバックに向かっていると精神が研ぎ澄まされるんです」。
プロの試合にも出た。
「だいたい17時に仕事が終わり、それから1時間くらいかけてジムに通う毎日でした。当時、キックボクシングはまだまだマイナーなスポーツだったんですが、私は、全身を使いたかったから、それならキックボクシングだと思ったんです」。
からだを動かしているうちに、汗が滴となり、眠っていた強い精神が覚醒する。このジムで、もう一つ覚醒した心があった。
それが、起業である。

起業へ、と。

「元々25歳までには起業しようと思っていたんです。でも、何をしたらいいかわからない。ジムに入門したのも、そういう迷いを吹っ切りたかったからなんです。このジムの会長がホルモン焼の店を経営していたことで、飲食への道が開けます」。
ジムの仲間と会長の店に通うようになって、飲食に興味がわいた。23歳で、前職を退職し、会長の店で修業を開始する。
「ただ、小さな店だったものですから、学べるものも少なかった。それで、飲食で独立するなら、ちゃんと学ぼうと、数ヵ月して大型のチェーン店に転職します。この時には、もう気持ちも固まっていましたので、25歳までの2年でどれだけ勉強できるかが勝負だと自分に言い聞かせ、真剣に取り組みました」。
肉の仕入れ、調理、すべての仕事に真剣に向き合った。2年後、頑張る滝氏にジムの会長が「店を譲渡する」という話を持ち込んできた。
「ジムの会長には、飲食の楽しさを教えていただいたばかりか、起業のチャンスもいただけたと思って、今も感謝しています。会長がくれたチャンスというのは、元々、私もいたホルモン焼のお店の譲渡話でした」。
滝氏が25歳の時、たまたま会長が新店を開業することになり、元のホルモン焼の店を滝氏に譲渡するという話を持ちかけたのである。滝氏は、むろん快諾。
経営権を買い取るには、資金がいったが、屋号も内装も、そのままで始めることができた。
25歳、目標通り、滝氏は独立する。

・・・・続き
株式会社たき航グループ 代表取締役 滝 航也氏
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2016年2月9日火曜日

本日発行の日刊ゲンダイに「ケンコー」の藤井健社長の記事が取り上げられました!

小学6年時残留孤児の祖母と一緒に一族200人で福建省から来られた「ケンコー」の藤井健社長の記事が本日9日(火)掲載の日刊ゲンダイに取り上げられました!
藤井健社長現在37歳で直営・FC併せ200店舗の飲食店を経営されており、これからもっと伸びていきますね!!
PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

株式会社ギフト 代表取締役 田川 翔氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ギフト 代表取締役 田川 翔氏登場。
本文より~

何が食べたい? 答えは決まって「ラーメン」だった。

今回、登場いただいた株式会社ギフトの代表取締役、田川 翔氏は、1982年に千葉県船橋市で生まれている。兄弟は2人で、田川氏が次男。
「父はサラリーマンで、母は元教師。教師だったこともあって、母はとにかく教育熱心でした。兄とは3つ違いです」。
「私は小さい頃から、ラーメンが大好きだったんです。5歳の頃に『ニューラーメンショップ かいざん』っていうお店のラーメンを食べて虜になってしまったんです。あの当時、外食は何がいい?と聞かれたら、決まって、『ラーメン』って言ってました(笑)」。
とくにお気に入りは「ニューラーメンショップ かいざん」のラーメン。千葉にいる間は、毎週通ったほどだ。いまも時々、食べに行くそう。
「いまは『ラーメンかいざん』というブランドです。私の原点ですから、今も時々、原点をたしかめに行くんです」。
「そうそう、この味。ここから、はじまったんだな、って」。

「夏休みがない、これはやばいぞ」。

「父がサラリーマンだったといいましたが、もう典型的なサラリーマンで、帰ってくるのは私たちが寝静まってから。それでいて朝は、私たちよりうんと早い。あるとき、『夏休みってあるの?』って質問をしたら、『ない』っていう答えだったんです。まだ子どもでしょ。『夏休みがない』と聞いて、『これは、やばいぞ』って、子ども心にそう思って、それから『サラリーマンになってはいけない』とかたく決意するんです(笑)」。
今なら仕事の意味もわかるし、仕事のたいへんさも、たのしさも理解できる。しかし、当時は「夏休みがない人生」なんて考えられなかった。
父親とは違うタイプの父親と出会ったのも、いま思えば一つの分岐点だった。
「中学生の時、溜まり場のような家があったんです。けっして広くはないんですが、いごこちがよかった。その家の親父さんは、ブルーワーカーで17時には家にいます。裕福ではなかったはずなんですが、みんなで食卓を囲んでいるのが、とても幸せそうでした。どこかで、うちの親父と比較していたんでしょうね。あぁ、こういう生き方もあるんだなと」。

中学3年の進路相談で、早くも「ラーメン屋になる」と宣言する。

「母親から、とにかく高校だけはと言われて進学するんですが、中学の時にはもうラーメン屋の店主になると決めていたんです。理由の一つは、ラーメンが好きだったこと。もう一つは、サラリーマンにはならないと決意していたからです」。
教育熱心な母親が「息子の宣言」を受け入れたのは、「高校に進学すれば気持ちがかわるだろう」というかすかな希望を抱いていたからだ。進学したのは、学区内でもベスト2の進学校。周りは進学希望者ばかりである。影響されないわけがない。
「母はそう思っていたらしんですが、まったくの期待はずれ。だいたい母がいうもんだから進学はしましたが、勉強はまったくしない。なんとか出席日数はキープして卒業はできましたが、テストは、いつも最下位。進学を希望したとしても無理な状態だったと思います(笑)」。
話を聞いていると、「進学も無理な状態」を、確信犯的につくりあげたようにも思えてくる。
「そうですね。当時はとことんジブンを追い込みました。高校時代は悔いなくあそび尽くす、と決めたのも、その一つです。大学進学の道も、もちろん残せません」。
潔い3年間が、過ぎる。中学3年で宣言した「ラーメン屋、開業」へ。甘えも許されない道がスタートした。

・・・続き




PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2016年2月4日木曜日

カナダ・トロントで日本人向け情報誌の『TORJA』にも・・・。

キイストンの“飲食の戦士たち”ですが、なんとカナダ・トロントで日本人向け情報誌の『TORJA』にも掲載されます。
今回はオーストラリア・シドニーの鱒屋レストラングループの代表・定松勝義氏です。

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2016年2月3日水曜日

株式会社CREAFE(クリエイフ) 代表取締役 宇佐美祐介氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社CREAFE(クリエイフ) 代表取締役 宇佐美祐介氏登場。
本文より~

30歳。先代でもある父の、脱サラ年齢。

「それまで勤めていたデパートから脱サラし、焼肉店『味樹園』を創業したのは、父が30歳の時だそうです」。
その店が今も好調な「志賀本通り店」である。名古屋で何十年にも亘り愛されてきた名店の一つだ。
その名店の2代目当主が、今回、ご登場いただいた、宇佐美氏である。
「もの心ついた時には、『我が家は焼肉店』という環境だった」と言う。
「味樹園」のメインは、当時からカルビ。このカルビの独特な味付けと、父親が名古屋で初と言う「海鮮焼き」が、好評だったそうだ。
「もともとこの場所には、3店舗が入っていたらしいんですが、最終的には、うちが3店舗を一つにします。それくらい繁盛していたということでしょう」。
宇佐美氏自身の店舗デビューは高校時代。仲間も誘って、アルバイトを開始。週に4回は入っていたそうで、「いつのまにか主任となって店舗の運営を仕切っていた」と言う。
小さい頃から目立ちたがりで、まとめ役でもあったそうだ。その性格が、初のアルバイトでも惜しみなく発揮された格好だ。

バンド活動はハタチで、終了。家業を継ぐ、準備を開始。

「今では、あまり言わなくなった」と言いながら、宇佐美氏はバンド活動に打ち込んでいた頃の話を聞かせてくれた。そのうえで「バンド活動は、20歳で終了」と一言。「音楽で一生食べていくことは不可能だと悟って。それで、方向転換」と言って笑う。
方向転換で向かった先は、2代目店主への道。
まずは修業と、当時、大人気だった洋食店に就職する。「正社員でお願いしたかったんですが、目的を正直にしゃべったら、正社員じゃなく、アルバイトで採用されてしまいました(笑)」。
宇佐美氏の目的は、圧倒的なサービスを生み出す「しくみ」を知ること。正確に言えば盗むことだった。
「手っ取り早く、サービスを学べるだろうと思っていたんですが、最初に配属された店で痛烈な洗礼を受けます。いかに私が甘ちゃんで、ボンボンだったかを知ることにもなりました」と宇佐美氏。
宇佐美氏が洗礼というのは、女性店長からの、こと細かい指導と指摘だった。「歩きかた一つからなっていないと指摘されるんです。料理の持ちかたなど、話にならないレベルでした」。
すべてイチから。
いかにハイレベルなサービスが評価されていた店とは言え、宇佐美氏も素人ではない。飲食の申し子とは言わないが、子どもの頃から「飲食」という世界観のなかで暮らし、育ってきた。それが、まったく通用しない。
宇佐美氏が「洗礼」と表現した気持ちもわからないではない。
「優れたサービスのうらには徹底した教育がある」。宇佐美氏がこの時知ったことはこれだ。「今でも、私のなかでは、あの時のサービスレベルがスタンダードなんです」というくらいサービスの高さも印象的だった。むろん、今も当時の店長に、感謝している。

2号店、ナンバー2として復帰。

この店にいた2年間は、アルバイトといえども修業期間だった。
レベルの高いサービスを叩き込まれ、自信をつけた宇佐美氏は「味樹園」に就職し、新店をナンバー2という立ち位置で仕切ることになる。
高校時代の経験もある。2年間の修業も、終えてきた。やる気満々でオープンしたが、これが、まったくの期待外れ。今の「茶屋が坂店」のことである。
「今からは考えにくいですが、実は、軌道に乗るまで6~7年かかりました。今ならわかるんですが、うちの業態は、いきなりドーンとはいかないんです。6~7年はさすがに長いですが、2店舗目でしたし、私にとっても会社にとってもある意味、貴重な経験が積めたと思います」。
当時は歯ぎしりしたに違いないが、いまでは冷静に振り返ることもできる。
「元、叙々苑の店長を総料理長として入社いただいたのも、いい刺激となりました」。
「軌道に乗るきっかけになったのは、思い切ってすべて個室にしたこと」と宇佐美氏。「個室にして、スグにバーンときた」と語っている。

2016年2月1日月曜日

1月30日、誕生日を迎えました。

1月30日、53歳の誕生日を迎えました。
1年1年、時が経つのは早いですね。
人の人生は有限で、しかも健康寿命考えると今この時を大事にしないといけないと日々感じだしております。
(誕生日は自宅でゆっくり過ごすのが、私の至福です)

誕生日当日、『ピーナッツ100個』のプレゼントを贈られてきたました。
これはもしかして・・・・思わずロッキード事件再来かって想像してしまいました(笑)    

注).ロッキード事件=丸紅からロッキード社に渡された領収書にピーナッツ100個などの暗号が記され流行語となった。
よく見ると、な・な・なんと名前が…、超感動!!
本当にありがとうございました!

また、もう長い付き合いでお世話になっているリブセンス村上社長より今年もお花贈って頂きました。
本当にありがとうございます。若いのに律儀であり、さすが東証一部です。



また、社員からは私がサウナ等のお風呂好き知ってくれてるのとメガネをあまり付けないためよく失くしそうになるためプレゼントもらいました。
自分にとっては大変価値ありうれしくありがたいです。

またここまで大きな病気もなく、本来家系的に血圧高いのですが120~130/82~88に保ちいつも元気にいれるのは食事をはじめ健康管理してもらっている妻のおかげかな・・・。
なかなか恥ずかしくて言えませんがね。