2019年2月26日火曜日

株式会社修三グループ(卓球酒場ぽん蔵) 代表取締役 中川修三氏登場。

(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社修三グループ(卓球酒場ぽん蔵) 代表取締役 中川修三氏登場

卓球が楽しめる、大人のあそび場。

スポーツBARは聞いたことがあるが、「卓球酒場」というのは、はじめて耳にした。とはいえ、調べてみると、すでに都内に5店舗あり、なかなかの人気ぶり。創業者は、1975年生まれの、中川 修三氏。今回、ご登場いただいた飲食の戦士である。
「30歳の時に、諸事情があって創業しました。私もスポーツ、特にサッカーが大好きだし、当時、スポーツBARが流行っていたんで、最初は、うちも『それでいくか』と思っていたんですが、ふと、『試合のない時はどうすんだよ』ってなって。それで、『じゃ、みんなが楽しめるのがいいじゃん』と卓球に落ち着いたんです」。
ソファーもゆったり。大人のあそび場がコンセプト。卓球だけではなく、ダーツや、TVゲームも楽しめる。もちろん、カウンターでじっくりお酒を楽しむのもありだ。
業態がユニークだからだろう。TVなどマスコミにも取り上げられている。業績も、むろん、悪くない。特に、今はアルバイトの採用も困難な時代だが、「サッカーつながりで、来てくれる」と中川氏はいう。
サッカーつながり?
「ええ、そうなんです」。
そこから今回のインタビューは、はじまった。

巨大なキーパー誕生。

中川氏が生まれたのは、1975年4月19日。出身は、杉並区西荻窪である。母方はもともと東京だが、父方は愛媛県の宇和島市だという。
「修三っていうのは、3人きょうだいの3番目だからです」。
この3人目の息子は、子どもの頃からデカかった。「いま182センチです。小学校の頃から160センチ以上あったんじゃなかったかな。もともと親父の影響で柔道をしていたんですが、小学4年の時、サッカー漫画を観て、サッカーに憧れて。ハイ、からだがデカかったので、キーパーです」。
キーパー。相手チームにとっては、巨大なカベだったことだろう。
「中学校でも、サッカーはつづけますが、ちょっと外れた道にも進んで。正直にいうと高校にも進学せず、就職したかったんです、親父も、大工で、職人でしょ。それにも影響されたのかもしれません」。
勉強がきらい。それも進学したくなかった理由である。
「そうですね。ぜんぜん、勉強しなかったですね。ただ、母に『せめて、高校は』と言われて…」。それで、高校に進学。卒業後は、東京電力のグループ会社に就職する。

社会人と、コーチと。

「そちらの会社には、合計12年、勤務するんですが、いい会社でしたね。高卒にもかかわらず、ずいぶん高く評価もしていただきました。私は、どちらかというと、社会人になってから本格的にサッカーをはじめるんですが、その点にも理解がありました」。
社会人になってから、本格的に?
「そうですね。社会人のチームでプレイするようになって。そこで、中学の教師と知り合いになり、ご縁をいただいて、中学生を指導するようになったんです」。
指導?
「そう、指導です。コーチングですね。このあと私は、都立高校のコーチなどを歴任します」。
実は、中川氏。東京電力のグループ会社に勤めていた時、労務を担当したことがある。そこで、「生涯年収を知り、愕然とした」そうだ。それも、間違いなく退職の引き金の一つ。しかし、インタビューで話を聞いている限り、お金には、あまり関心がないように思うのだが、どうなんだろう? 「お金」より、よっぽど「サッカーの指導」のほうが大事な人のように思える。

昼間はコーチに専念できるように…、卓球酒場オープン?

「在職中も、コーチはつづけていました。最初は言った通り、中学生相手です。当時、私も20歳だったので、歳がちかいからでしょう。私が、練習に顔をだすと、『お兄ちゃん、お兄ちゃん』って子どもたちが寄ってくるんです。そりゃ、楽しいですよね」。
中学時代、暴れもしたが、デカくても心優しいのが中川氏という人の本性だ。「28歳から32歳まで、都立高校の監督をするんですが、最初の2年間はサラリーマンをしながら。ただ、そうすると土日だけなんですね。だから、だんだんストレスが溜まってきて/笑」。
なんと、それで、退職。独立し、西荻窪に「卓球酒場」1号店をオープンする。
「独立っていう意味では、軽いですよね。父親からも、なんで安定した会社を辞めるんだと、ぶっ叩かれました。でも、そうしないと土日だけしか練習をみてやれない。私にとっては大問題だったんです」。
なるほど、思いはわからなくはない。しかし、独立すれば、それこそ、サッカーどころの話ではなくなる、のではないか。そんな心配はしなかったのだろうか。
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CLASSIC HD INC. 代表取締役社長 萱場俊克氏登場。

(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”CLASSIC HD INC. 代表取締役社長 萱場俊克氏登場

専門学校、退学。一つの決意。

兄の影響で空手をはじめた。兄は案外と早く辞めたが、弟の萱場氏は30歳までつづけ、道場を3つ任されるまでになっている。フルコンタクト系の空手。殴り合いがある、マジに痛いほうだ。
そんな萱場氏も、いまでは空手を卒業。ただ、格闘技はいまもつづけている。今は「キックボクシング」なんだそうである。
もっとも、性格は大人しく、いまでも初対面の人と話すのが苦手だと頭をかく。ふつうの人の前では、フルコンタクト系の攻撃性も、鳴りを潜めるようだ。
「小さな頃は、カギっ子です。だから、料理もつくっていました。中学は帰宅部。これは小学校の頃からかわらないんですが、独りでいることが多かったですね」。
高校は、コンピュータ系の新設校に進学し、学年で1位を獲るなど、好成績をおさめる。卒業時には、成績優秀だと、宮城県から知事賞が贈られている。
「そうですね。割と真面目で、卒業時には『知事賞』もいただきました。専門学校に進むか、NECに就職するか迷い、それで、結局、専門学校に進学します。特待生で進学できましたから」。
その専門学校の時に飲食でアルバイトをしたのが、飲食業界に進むきっかけとなる。「コンピュータ」と「飲食」。ある意味、対極にあるといっていい。まるで、普段の萱場氏と、試合で相手と対峙する時の萱場氏のよう。ともかく萱場氏は、「飲食 に魅了され、1年半で専門学校を退学する。
萱場氏は、ホームページで<何気ない切っ掛けで始めたこの仕事>と書いているが、退学の裏には、一つの強い決意があったのは間違いない。「知事賞」も「特待生」も獲るちからがあったのだから、尚更だろう。惜しい決断な気もしないではない。

仙台では、思い通りになった。東京では、どうなるだろう?

飲食店の印象を伺うと「『ごちそうさま』って、お客様が素直に喜んでくださるでしょ。あれが、いいな、と」いう返答。専門学校を辞め、バイト先で正社員になる。
「たしかに、コンピュータと飲食は、異なりますね。でも、その時、私の頭は、もう飲食だったんです/笑。ただ、私が就職した時に、会社を経営していた共同経営者がわかれて、私は、そのうちの1人に付いていきます。
ある意味、正解だった。
「私が、そう、22歳だから、会社に就職して2年くらい経った時ですね。その時、オーナーが私に投資してくださって…。ハイ。会社がオーナーで、私が起業する、そんなイメージです。それで、『DJ BAR』を立ち上げ、翌年に『CAFE』をオープンします。次が『ベトナム料理』、その次が『タイ料理』です」。
次々に斬新な店舗をオープンする。当然、仙台でもやり手のニューフェイスと注目された。ただしく言えば、仙台だから注目された。「東京でなら、どうだろう?」
「東京」という二文字が、萱場氏の頭のなかにはじめて、現れる。

5億円の挑戦。

「7店舗になった時に、『社長にならないか』とおっしゃっていただくんですが、この時は、お断りしました。代わりにではありませんが、『東京に行かせてください』とお願いするんです」。
約束では、会社を1年休むことになっていた。
ただ、半年で店がみつかり、今度は「東京でやらせて欲しい」とお願いする。
「その時のお店が、宮城県仙台市発祥のイタリアンレストラン『ALMA』です」。
以来、10年で10店舗になる。
「私は、どちらかというと、表にでるようなタイプじゃない。みんなをまとめ動かすような監督タイプです。スタッフを活かすには、どうすればいいか。永遠の課題ですが、このあたり頑張って取り組んできたと思います」。
実は、萱場氏。オーナーから都内にあった店舗87店舗、すべて買い取っている。
「銀行からも融資いただくんですが、何しろ数億の買い物ですから、ギリギリお金を用意できたって感じです」。
でかい買い物だ。
「銀行さんも、私のことやうちのスタッフのことを、よく観てくださってオッケーがでたわけですから、それはそれで自信にもなりました」。
それからも、23店舗出店し、合計10店舗。いずれも人気店だ。
「買い取ったいちばんの理由は、スタッフの仕事環境ですね。保険や、そういうのも含め難しい問題なのはわかっていますが、『俺についてこい』って、ひっぱってきた手前ね。いつまでも、我慢しろというわけにはいきません。それで、いっそ、自分でできるかどうか試してみようと。ハイ、その時のかかった資金が、合計5億円です」。
なんと、5億円の挑戦である。
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2019年2月24日日曜日

2月22日(金)発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」は、ドリームリンク様です。

60代・70代で頑張ってる人、働きたい人を応援!(キイストン寄稿)
1983年に前身の『秋田料飲コンサルタンツ』1号店を開店したときには若かったスタッフが、シニアになった現在でも元気に働いておられ、「秋田長屋酒場」で働く勤続32年の熊地新吉氏(63)と、同30年の小林次郎氏(70)に話を聞いています。

  (夕刊フジより)
「over60(ロクマル)世代応援企業30」の取材を70歳の元編集プロダクション社長の土金さんにお願いしております。
【氏名】土金哲夫(ツチガネテツオ)
【生年月日】昭和23(1948)年9月25日
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2019年2月19日火曜日

株式会社志 代表取締役 保志智洋氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社志 代表取締役 保志智洋氏登場
本文より~

父の経営問答。

今回ご登場いただいた株式会社志の代表取締役、保志智洋氏が生まれたのは1979年。
父親は薬局を数十店舗も経営されていたそうだ。兄弟は2人で保志氏は次男。
「帝王学ではないのですが、父は小さい頃から何かあると経営問答みたいな話をしてくれました。『いまのうちの会社は…』、なんて問題をだし、『お兄ちゃんならどうする? 智洋ならどうする?』って」。
問題をだすだけではなく、珍解答にも名解答にも「いいね」と言ってくれたそう。
なかには実際に採用された解決策もあるそうだ。
父親とのこのやりとりは兄弟2人にとってひそかな楽しみだった。
たしかに父親にすれば、戯れだったかもしれないが、子どもたちにとっては一つ一つの問答が財産になったのではないだろうか。経営者という立場から“ものごと”を観る思考が育ったように思うからだ。
「父の背中に憧れ、幼少期にはすでに「経営者になりたい」という夢を持ちました。だから父は、私に「夢を与えてくれた人」なんです」と保志氏。
幼少期は?
「とにかく、小学生の頃から仕切るのが好きな性格でしたね」。子どもの頃の様子を伺うとそんな答え。「生徒会長もしましたし、サッカー、野球、習字…と一通りのことは経験し、中学校では応援団長です。いろんなことで目立ってもいたんですが、だんだんと反抗期に入り、そこからはやや荒れた学生時代を過ごしました/笑」。
ただ、両親にとても愛があり、本当の意味で悪くはなり切れず、間違った方向に行かずに済んだそうだ。
その後、親元を離れて大学に進学。
「何をしたいかは分からかったのですが、とにかく起業しよう、しかも20代のうちに。そんな漠然ながら固い決意を持ち大学に進みました」。

恩師との出会い。

「ゼミの専攻はマーケティングでしたが、勉強の内容はなんでもありで多岐にわたりました」と保志氏。ときには、「哲学」や「経済」にも及んだそうである。
講義は週に2回。5時限目からスタートして、深夜までつづくことも少なくなかったそうである。「いろんな意味で、私に学ぶ楽しさを教えてくれたのは、このゼミでした」と保志氏。
勉強だけに限らず、食もそうですが、知らない事をもっともっと知りたいと思うようになったのも先生のおかげ。「当時は先生の付き人みたいに運転手もしていました」。
余談だが、実は今も保志氏の会社の顧問をお願いしているそうだ。
だから、大学卒業後の20年近く経った今でも青木教授は保志氏の先生である。

飲食業界への一歩。

「BtoB(法人向けサービス)の会社」であること。「ベンチャースピリッツ」があること。
これが大学卒業後の会社選びでのコンセプトだった。
「それで、ある人材系のベンチャーに就職します。ある程度きついだろうと想像はしていたのですが、社内に寝袋まで用意されていて想像をはるかに超える激務でした。まさに仕事、仕事の毎日です。この会社で多くのビジネス経験を積ませて頂き、夢に向かって卒業しました。起業の準備にはいる前にバックパッカーとして世界を旅しようかと思っていた時、兄から『いっしょに会社をやろう』という誘いを受けました」。
兄とは5歳離れている。長男・次男。保志家を継ぐ者たちである。保志家といえば、経営されていた薬局はどうなったんだろう。
「私が大学を卒業して、まもなく会社は倒産します。一族で経営していたものですから、助けもない。とても大変な状況でした。そういうのを見ていたので、兄から『いっしょにしよう』と言われた時もかなり悩みました。実は、現在は兄の会社をでて別の会社を経営していますが、これは父から頂いた教訓ですね。共倒れにならない策でもあります」。
ともかく、兄の誘いにうなずき保志氏の飲食時代がスタートする。これが23歳の時のこと。
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株式会社志 代表取締役 保志智洋氏
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味の民芸フードサービス株式会社 代表取締役 大西尚真氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”味の民芸フードサービス株式会社 代表取締役 大西尚真氏氏登場
本文より~

野球と新聞配達の二刀流。

八幡町というより、徹夜踊りと城下町で有名な「郡上八幡」といったほうが、通りがいいだろう。岐阜県にある昔ながらの町である。今回、ご登場いただいた味の民芸フードサービス株式会社、代表取締役の大西氏は1962年、この郡上八幡に生まれている。
「長男だから両親は当然、期待します。でも、ぜんぜん勉強しない、期待外れの少年でした/笑」と大西氏。
「少年時代、自慢できるものっていったら。そうですね、小学4年生から夕刊を配りはじめて、高校3年まで9年間もつづけたことかな。これは、数少ない自慢の一つです」。
小学生から野球もはじめている。こちらも高校3年までつづけているから、野球と新聞配達の二刀流だ。
「お金が欲しいからじゃないです。先輩を真似て、一度、興味本位で試してみたら、案外、しんどくなくって。そもそも、一度始めれば、なかなか辞められない性格なんです」。
高校3年まで、ほぼ休んだ記憶はない。
だから、家族旅行の思い出もないそうだ。
「中学から、朝刊に替わります。部活があって、夕方は無理になったからです」。
中学進学。「辞める絶好のチャンスじゃないか」と、こちらはつい、そう思ってしまったが、そうじゃなかった。
朝、新聞を配る。それから、朝練。高校になれば、夜まで練習はつづいた。さすがに勉強の時間も、気力もない。「そうですね。ま、時間があっても勉強はしなかったと思いますが…/笑」。
進学するつもりもなかったそう。ただ、「就職もヤだな」と思っていたらしい。
「それで調理の専門学校に進みました。ちょうどいい選択かな、と。1年の執行猶予ですね」。

先生から告げられた。「住み込み付きの、いいバイトがある」。

「こうして振り返ると、ぜんぜん努力してないですね。たしかに、新聞配達はしましたけど、特別、苦にならなかっただけの話。部活も、お世辞にも一生懸命だったとは言えない。結局、調理の専門学校に決めたのも就職するのがイヤだっただけだし…」。
ご両親は、しきりに「公務員になれ」と勧められたそうだ。なるつもりはない。「そもそも、勉強もできないのに、なれるわけがないでしょ」と大西氏は笑う。ともかく、そういう経緯で、大西氏は専門学校に進んだ。
校舎は、名古屋にあった。八幡から通うには遠すぎる。
「それで、専門学校の先生に相談したら、住み込みのバイトがあるっていうんですね。いいでしょ。私にピッタリだ。それで、先生にお願いして。ええ、それがサガミとの出合いでした」。
住み込みのアルバイト。当然、学校とバイトの掛け持ち。「当時、私みたいな学生が10人くらいいたでしょうか」。
大西氏は「人生がかわったのは、サガミのおかげ」という。ボンクラだった人間に、一本の筋が通る、というイメージなんだそう。「ただね。そう思うのは、もう少しあとの話で、最初は、住むところがあったからだし、女の子が多いからいいやくらいに思っていたんです」とのこと。
八幡の田舎者にとって、名古屋は大都会だった。18歳の少年にとっては、それだけで胸がふくらんだ。

「ぼくはお金で動く男ではないですよ」。アルバイター、創業者に啖呵を切る。

バイトでは、一つだけ得意なことがあった。「料理のセットが、いちばん早かったんです。それで、重宝してもらって。バイトなんですが、オープニングには決まって呼ばれました。オープンは忙しいでしょ。だからね。ありがたかったのは、オープニングには創業者もいらっしゃるから、何かと声をかけていただいたことですね」。
一度、創業者から「学費は、ぜんぶだしてやる。だから、正社員になれ」と誘われたそうだ。「でも、あの頃から、生意気な奴でね。ぼくはお金で動く男ではないですよって、偉そうにね」。
当時、サガミチェーンは、出店ラッシュを開始するタイミングだったそう。新卒採用も積極的に行い、大西氏も結局、専門学校卒と同時に入社するのだが、その時は70人くらいの同期がいたという。「最初は、店長に歩き方が悪いなんて言われたもんです。でも、新卒で入社する時には、バイトですが、もう1年やっているから慣れたもんです。創業者にも知ってもらっていましたしね」。
最初から、頭一つ抜けていたのではないだろうか。トントン拍子で出世する。

あこがれは、やっぱり店長。

「当時店長はあこがれ、花形でしたね。ただ、サガミの店って、だいたい年商2億円くらいの大型店なんです。そう、簡単に店長にはなれません。だいたい6年くらいが、平均じゃないでしょうか」。そのなかで、大西氏は3年目で1号店本店と言われる店の店長になっている。
「評価して頂いたと思います。もちろん、当時は出店に次ぐ、出店。私だけではなく、みんなの昇格も早かった時代ですから」。
店長からマネージャーになり、平成11年には運営部長になっている。
「業績のピークは、だいたい2005年くらいじゃないですか。無謀な出店があだとなって、だんだんクオリティが下がっていきました。私は、のちに営業部長にもなるので、関西のお店も観に行くんですが、賃料が高く、立地も良くなくても、無理やり出店していましたから」。
サガミチェーンの話を整理するとこうなる。
1980年代に入り、チェーン化を加速。1991年には、名古屋証券取引所市場第二部に株式を上場。破竹のいきおいだったが、2005年以降、無理な出店も影響し、業績が陰り始める。リーマン・ショックで店舗は激減。特に、出店してまだ歴史の浅い関西で、多数の店をクローズする羽目になった。
大西氏が、創業者に「お金で動かない」と啖呵を切ってから、25年ちかく経った頃の話である。
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2019年2月18日月曜日

2月15日(金)発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」は、駒八様です。

60代・70代で頑張ってる人、働きたい人を応援!(キイストン寄稿)

2月15日(金)発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」第18回(18社/30社)は、駒八様です。
「従業員数は社員40人、パート&アルバイトが約80人、合計120人ほどです」と語る八百坂社長は70歳。「社員の平均年齢は50歳ですから高齢化率も高いですよ」と・・・。
  (夕刊フジより)
「over60(ロクマル)世代応援企業30」の取材を70歳の元編集プロダクション社長の土金さんにお願いしております。
ライター

【氏名】土金哲夫(ツチガネテツオ)
【生年月日】昭和23(1948)年9月25日
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2月8日(金)発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」は、坂東太郎様です。

60代・70代で頑張ってる人、働きたい人を応援!(キイストン寄稿)

2月8日(金)発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」第18回(18社/30社)は、坂東太郎様です。
坂東太郎様は正社員200人でパート・アルバイトを含むと従業員数は約2500人を数えます。そのうちの約40%がシニア層と、シニア雇用率の高さが目を引きます。   
同社には店長やほかの従業員とは異なり、男性は「支配人」、女性は「女将」「花子さん」と独特の呼称を持つ専門のスタッフがいらっしゃいます。
“接客から、フロア全体を指揮する”のが業務の「支配人」の小池道夫氏(64)と中川仁氏(65)、「女将」の鹿間美代子さん(63)と木村はるみさん(48)の4人に話をお聞きしました。

  (夕刊フジより)
「over60(ロクマル)世代応援企業30」の取材を70歳の元編集プロダクション社長の土金さんにお願いしております。
ライター

【氏名】土金哲夫(ツチガネテツオ)
【生年月日】昭和23(1948)年9月25日
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2019年2月12日火曜日

株式会社四季の台所 代表取締役 洲之内 克氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社四季の台所 代表取締役 洲之内 克登場
本文より~

恵比寿生まれの恵比寿育ち 両親が飲食店を経営。

親戚が経営していた飲食店で修行し、父親が、中華料理店『赤とんぼ』をオープンしたのは1981年。これが、始まり。地域の住民がいつでも気軽に入れる食事処として『赤とんぼ』は気流に乗る。
「『なかよし』がオープンしたのは1989年です。もともと『なかよし』っていうお店があって、そちらから屋号も譲っていただいて、再オープンしたんです。ぼくが15歳の頃ですね」。
サックスのかっこよさに憧れ、高校では吹奏楽部に入部。
進学した高校の吹奏楽部は、当時から全国大会の常連で大勢の部員が祖属していた。サックスをやりたかった洲之内氏だが、オーボエに決まる。「吹奏楽部ではありましたが、部活スタイルは体育会系でしたね。毎日練習に明け暮れました。だから、東京のど真ん中に通っていたのに、ぼくらはあそびを知らないんです/笑」
吹奏楽漬けの高校時代を終え、洲之内氏は2浪ののち中央大学に進学する。
「もともと、うちを継ぐと思っていましたから、大学は行かないでいいやって思っていたんです。だって、行っても意味がないし。でも、その時、あの怖い親父が「大学はたのしいぞ」って囁くんです。そうか、そうだよな、そう思って、結局、2浪もしちゃいます。吹奏楽ばかりで、ぜんぜん勉強してなかったですからね」。

サラリーマンとして8年勤務。

「1993年には、横にあったお店も買って、それでカベをぶち抜いて一つにします。ぼくがまだ浪人中の話ですね。大学でも管弦楽部に入ります。そこでも担当はオーボエです」。
「親父が言う通り、楽しい学生生活を送って卒業です。うちの『赤とんぼ』も好調だし、『なかよし』も悪くない。でも、ぼくは、いったん就職する道を選びます」。
埼玉にある不動産会社だった。「営業です。当時、社員数2,000人くらいだったと思います。同期も300人くらいいたんじゃないですか」。
就職先では営業部に所属。
「ぼくらの事業部で営業は100名くらいいたかな。もともと、いつかは家業を継ぐつもりでしたが、その前に社会を体験するようなイメージですね。でも、始めてみると仕事も楽しくなって、辞めたくなくなっていくんです」。

2代目候補、暖簾をくぐる。

「結局、31歳になるまでの8年、在籍しました。宅建、ファイナンシャルプランナー、2級建築士の資格も取得しています。だから、うちの店を継ぐって選択肢は、だんだんなくなっていくんです。両親も何も言わなかったですし」。
ところがある日、突然、「店を継ごう」と思った。「なんででしょう。ぜんぜん意味不明ですね。でも、突然、そう思っちゃったんです」。
退職の翌日の12月1日には、2代目候補として暖簾をくぐっている。「今思えば、不思議ですね」と洲之内氏。「じつは、翌年の2月。父親が他界します。まったく、そんなこと思ってもいなかったです。数ヵ月だけですが、いっしょに働けて嬉しかったです」。
店の経営は好調だった。「『赤とんぼ』『なかよし』の2店の経営で、それなりの生活はできました。ただ、これで終わりたくない」。
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ダンデライオン・チョコレート・ジャパン 代表 堀淵清治氏登場。

(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”ダンデライオン・チョコレート・ジャパン 代表 堀淵清治氏登場
本文より~

アメリカで送った、ヒッピー生活。

ヒッピーっていまも存在するのだろうか。少し調べてみた。ヒッピーは、カウンター・カルチャーなんだそう。当然、ファッションにも、芸術にも影響を与えている。昔、イメージしていた以上に、ヒッピー的な生きかたは、広範囲に広がっているのがわかった。ファッションや映画、音楽を通じて日本にも波及している。ちなみに「ヒッピー」が生まれたのは、1960年代後半ということだった。
今回、改めてヒッピーを調べてみたのは、ご登場いただいた堀淵氏が「ヒッピー生活を送った」というからだ。堀淵氏は1952年生まれ。ビートルズやローリングストーンを通して、世界を知った。そんな世代だ。
「まだ、学生運動が華やかなりし頃で、ぼくは早稲田大学の法学部に進みました。授業はなくレポートだけ。バンドとマージャンに明け暮れた生活を送っていました。そんな中、大学3年の時にともだちと1ヵ月サンフランシスコを旅して、すっかり魅了されてしまうんです」。
アメリカに?
「そうですね。それで、卒業と同時に渡米しました。学生ビザで入国し、カリフォルニア州立ヘイワード大学の文化人類学修士課程に進みます。もっとも、こちらは退学し、それから2年くらい、サンフランシスコから4時間くらい車で行った山のなかで、ヒッピー生活をします」。
「自由」。ヒッピーは体制的なものからの解放を意味している。日本の学生たちが叫んだものも、それにちかいのではないか。
一方、日本では思想的なものよりも、現実的なアメリカ文化の移植が盛んになる。アメリカのTシャツや中古のジュークボックス、ビリヤード台などもその一つで、実は、堀淵氏は個人商店を設立し、この仕事を行っている。
ヒッピー生活は終了したんだろうか?
「起業は、ぼくが31歳のとき。アメリカのポピュラーカルチャーを日本へ、というテーマで仕事を開始しました」。ちなみに、ポピュラーカルチャーのなかにはサブカルチャーも含まれる。堀淵氏が日本に送ったのは、当時の日本人には、充分、マニアックなサブカル的なものだったのではないだろうか。

日本の漫画は、もう、ここまで進んでいるのか。

「衝撃を受けたのはぼくだけではないと思いますが、大友克洋氏の『童夢』は、やはり鮮烈でした」。ちょうど帰国した時の話である。「久々に、日本にもどって、たまたま『童夢』を読む機会があって」。大友氏の、写実的で、それでいてドライなペンタッチは、従来の漫画と一線を画す。「AKIRA」もまた大友氏の作品だ。
「正直、日本の漫画は、ここまで進んでいたのかと、びっくりしました。浦島太郎になった気分です。それもあって、ぼくが33歳のときに小学館のオーナーとサンフランシスコで出会い、『日本の漫画をアメリカにもっていったら、面白いと思うんですよ』って言ったら、『そうだね』って話になり、小学館の出資を受けて『ビズコミュニケーションズ』を設立し、ぼくは上席副社長に就任しました」。
むろん、ミッションは、日本の漫画をアメリカに輸出すること。ただ、当時のアメリカの書店では、漫画が冷遇されていたそう。「それで、漫画の出版比率を少なくして一般書籍を増やそうと計画を立てたんですが/笑」。
その話をプレゼンすると、当時の小学館の専務が、「ふざけるな!」と一喝され、灰皿を投げつけられたそう。「さらに、『初心に帰れ』とね。怒鳴られて、『あ、そうだ』ってね。鎮火しちゃっていた漫画にかける思いが、再度、メラメラと/笑」。現在、堀淵氏は、日本の漫画文化をアメリカで流通させた立役者、世界に広げた第一人者として知られるが、それは同時に、このとき再着火した炎が、ついに掻き消されなかったことを証明している。

多彩で、多芸。2016年、ダンデライオン・チョコレート・ジャパンCEOに就任。

「小学館と集英社が合弁したのに合わせ、『ビズコミュニケーションズ』は、『ビズLCC』へと社名を変更します。そのときに、社長/CEOに就任しました。また、日本映画の配給を行う『ビズピクチャーズ』を設立し、こちらでも社長/CEOに就任します」。
実は、2015年に「ブルーボトルコーヒージャパン」の共同代表を務めている。
「『ビズピクチャーズ』が『ブルーボトルコーヒー』などをテナントとする複合商業施設「NEW PEOPLE」を2009年にオープンしたことがきっかけで話が進み、6年後の2015年に日本に上陸。そのときに、共同代表を務めることになりました」。
多彩で、多芸、様々な顔をもつ。ただ、ご本人は、やりたいことをやってきただけというだろう。
「その後、日本の第1号店である清澄白河店と2号店の青山店をオープンさせたのち、ブルーボトルコーヒージャパンを辞任しています。そして、翌年に『ダンデライオン・チョコレート』の日本上陸に参画し、ダンデライオン・チョコレート・ジャパン株式会社のCEOに就任しました」。
そういう意味で、いまやりたいのが、これ。「ダンデライオン・チョコレート」だ。
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2019年2月5日火曜日

「飲食の戦士たち」、さらに加速させます!!

飲食企業の社長の生きざまを伝える「飲食の戦士たち」ですが、
2月より週2社掲載で4月くらいまで加速させ、4月には700社連載突破させます。
併せて、もっと親しみ持っていただくよう、漫画を用いた動画版もスタートさせます!! 

乞うご期待ください。
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

松葉屋株式会社 代表取締役 宮南 譲氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”松葉屋株式会社 代表取締役 宮南 譲氏登場
本文より~

東大へ行け。

父の指令はまんざら無理難題ではなかった。「父は、教育熱心な人で、私は小学生の頃から塾通いを始めます。中学の時は、めざせ、東大です」。
そう言って笑うのは、料亭「松葉屋 赤坂本店」などを運営する老舗企業、松葉屋株式会社の代表取締役、宮南譲氏だ。
「小学校の頃はスポーツ中心で、野球やサッカーをしていたのですが、事故で足を骨折してしまってサッカーができなくなり、勉強の虫になりました。中学では、足が治り、サッカーを再開。東大をめざしつつ、スポーツでも手を抜きませんでした」。
文武両道?
「そうですね。才能があるというより、努力家だったと思います」。
高校は、慶應義塾大学の付属に進む。
「父に、『大学は医学部に入れ』とハッパをかけられ、高校1年の時は、かなり猛勉強するんですが…、さすがに、レベルが高く、白旗を上げるんです」。
「どうしても無理と父に伝え、あきらめてもらった」と笑う。
医学部に行くには、10段階評価で8.5以上が必要だったが、どうしても、とどかなかったらしい。2年から方向転換し、文系へ転じる。

あと2日休んだら…。

「1年からラクロス部に入っていたんですが、1年の時は勉強中心でした。でも、文系に移った2年からは、だんだんウエイトがラクロスよりになって/笑」。
授業にも顔をださなくなり、「あと2日休んだら、会議にかける」と通達までされている。それもあって、3年に進学する時にはラクロス部を辞め、改めて勉強中心の日々を送った。
「成績は、悪くはなかったですね。大学進学時には、高校の成績でどの学部に行くか決まるんですが、私は文系であれば、どこでも行けるような成績でしたから」。
もちろん、内部進学での話である。ここでも実は、父の助言を無視している。
「父からは経済学部へと言われていたんですが、進んだのは法学部でした。最初は弁護士をめざしたんですが、難しすぎて断念です」。
案外、結論を早く出すタイプだ。
ただ、次の目標はなかなか諦められなかった。
その目標は、パイロット。

セスナからジャンボへ。ただ、結局、セスナにも乗れず。

「大学2年の頃ですね。先輩に影響されて、パイロットをめざします。でも、JALやANAなどを受けるんですが、全敗。普通なら、もう断念しちゃうわけですが、父に相談して2年間アメリカの航空専門学校に進むことになります。セスナからジャンボへ。そういう段取りでした」。
なるほど。それで、アメリカへ?
「そうです。でも、進んだのは、ビジネススクールです」。
「多少わけがあった」と宮南氏。
要約すると、こうだ。当時付き合っていた彼女が反対する。アメリカに行くなら「籍だけ」でもとなる。それまでは、彼女の父親が何をしているか知らなかった。むろん、松葉屋の娘だとも知らない。
「むこうは娘3人です。彼女は長女。つまり、私は、跡取り婿の候補だったわけです。だから、アメリカくんだりまで行くのなら、『その前に籍を』ということでした」。
跡取り、つまり養子という話である。宮南氏は、両親と相談し、籍を入れた。アメリカの2年間は許されたが、「松葉屋」の跡取りに、パイロットの免許はいらない。だから、ビジネススクールに進んだ。彼女、つまり、奥様といっしょに渡米する。
その2年後、帰国した宮南氏は、次代の店主候補として、義理の父母が待つ「松葉屋」に就職。結局、セスナには乗れず仕舞いである。
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株式会社遊ダイニングプロジェクト 代表取締役 和田成司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社遊ダイニングプロジェクト 代表取締役 和田成司氏登場
本文より~

激安、ハイボール。

角ハイボール50円、サワー、カクテル、焼酎99円、生ビール280円。生ビール280円は聞いたことがあるし、飲んだこともあるが、角ハイボール50円は飲んだこともないし、初めて聞いた価格である。
ついでにいえば、同社は加盟店を募集しているが、加盟金50円。誤植ではない。正確に書いて「50円」。ついでに言えば、ロイヤリティも50円。
この型破りな店を展開しているのが、和田成司氏。1982年生まれの敏腕経営者だ。
「高校まではずっと地元で育ちます。高校1年から3年まで焼肉屋でバイトをしていて、その時にバイト仲間だった親友と『いっしょに焼肉屋をやろう』って語り合っていました。でも、その親友は、バイクで遊んでいる時に亡くなってしまうんです」。 数週間はなにもできなかったそう。
「でも、涙が乾いてきた時に、改めて誓うんです。約束だから。そう、約束だから、私1人になっても焼肉屋をしようと。そして、いつも笑っているような、楽しい社長になろうって」。

200万円貯めて、独立。

高校を卒業した和田氏は、調理の専門学校に進む。むろん、焼肉屋を開業するためだ。そちらの学校を卒業してからは、いよいよ実践。有名な焼肉店「鳴尾」に就職する。
「私は21歳で結婚するんですが、その頃から現実的に独立をめざすようになります。同期には、『子どもがいるんだから独立なんて無理』って言われるんですが、社長の佐藤さんからは、逆に『だからこそやれ!おまえみたいなアホが成功したら他の人達の夢になる!』って激励していただきました。ええ、社長は、私にとって師匠の一人です」。
6年間、在籍した。
「鳴尾の佐藤社長は、きびしさのなかにも、やさしさがある人です。そうですね。ずっと、本を読めと言われていました。気づきや学びも、社長から教わったことです」。
日雇いのバイトもして、200万円を貯めた。そして、独立。

全くうまくいかず。

「独立して、もちろん焼肉屋をはじめます。親友との約束をようやく果たすことができたわけですが…」。1店舗目はそこそこ、うまくいったものの、亀有に2号店を出店するが、こちらは全くうまくいかず、3か月で撤退。
「3店舗目に居酒屋業態を立ち上げるのですが、こちらも、あきらかに失敗。さらに同時期に350万円、横領されてしまいます。とにかく、生活もギリギリです。独立してからはうちにもなかなか帰れなかった。でも、奥さんは何一つ文句をいいませんでした。いまあるのは彼女のおかげです。ええ、感謝しています」。
チャンスは、ふいにやってきた。
「知り合いの肉屋が経営していた居酒屋を辞めるから、『どうだ』って話をふってくれたんです。松原団地駅近くにある100席のお店でした。もちろん、新たに出店するといっても資金はカツカツです。だから、ホームセンターで資材を購入し、看板も拡大コピーしてつくりました」。
拡大コピーした用紙を両面テープで貼り付けながら、広いフロアを見渡して、「1度でいいから満席にしてみたい」とつぶやいた。
たしかに、100席が満席になれば、和田氏の人生、初の快挙だ。
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同級生の一瀬とのツーショット!

京都から京北銘木生産協同組合で偉いさんやってる同級生の一瀬君がビックサイトに仕事で来たので、会ってました。
爪楊枝に名前入れる特許の商材、これ使えるな。
飲食企業様にもきっと喜ばれそうです。

この一瀬には、実家の植木の手入れや自宅で採れたての野菜も送ってくれたり、大変助けてもらってます。

2019年2月4日月曜日

2月1日(金)発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」は、ユサワフードシステム様です。

60代・70代で頑張ってる人、働きたい人を応援!(キイストン寄稿)

2月1日(金)発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」第17回(17社/30社)は、ユサワフードシステム様です。
60歳以上のシニアが10%を超えるそのひとりが大船店の厨房で腕を振るっている67歳の竹越昇氏です。   竹越氏の料理好きは幼少の頃からのようで「小学校に入る前から、包丁を握っていました。父親が釣り好きで、釣ってきた魚をさばくためでしたけど」と語る。そのせいか、料理が好きになり、現在まで40年以上も続いておられます。
  (夕刊フジより)
「over60(ロクマル)世代応援企業30」の取材を70歳の元編集プロダクション社長の土金さんにお願いしております。
ライター

【氏名】土金哲夫(ツチガネテツオ)
【生年月日】昭和23(1948)年9月25日
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2019年2月1日金曜日

株式会社キングファクトリーグループ キング軒代表 渡部 崇氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社キングファクトリーグループ キング軒代表 渡部 崇氏登場
本文より~

広島県廿日市のベットタウン。

広島県廿日市は、広島県西部にあり、有名な宮島も廿日市にある。南を向けば海が広がり、北には中国山脈がつらなっている。今回、ご登場いただいた「キング軒」の代表、渡部崇氏が、この廿日市に生まれたのは1977年。
小学校は14クラスあったというから人口も多かったのだろう。調べてみると、大手の工場も少なくなかったが、主にベッドタウンだったようだ。
「小・中も地元です。高校は地元の工業高校に進みました。就職先は、みんなマツダ関係です」。
もっとも渡部氏の進路は違った。
「私は就職ではなく、アパレル関連の2年制の専門学校に進みます。でも、当時、就職先がなくって、京都にあるハーレーダビットソンのショップに整備士として就職しました。アメリカにも工場があったくらいですから、それなりに大きな会社でした。こちらで2年勤務し、広島にハーレーのショップを出店するんです」。
のれん分けだったそうだが、無謀に思えなくもない。どうだったんだろう。

22歳、ハーレーダビットソンのショップを経営す。

「22歳です。若気の至りというんでしょうか。結構、私も尖がっていて。当時ハーレーを買おうなんて人は、たいていお金持ちです。でも、私は、お金があるからじゃなく、『ハーレーが好きだから』って人に買ってもらいたかった。正確にいうと、そういう人にしか売らなかった/笑」。
一理あるが、ビジネスは、それではうまくいかない。
「そうなんです。全くうまくいきませんでした。本部とももめちゃって。で、ショップを閉めて、残ったのは1200万円の借金だけ/笑。いまだから笑えますが、笑うに笑えません」。
バイトをかけもちしたが、そう簡単に返済できる額ではない。1年後には、元気で明るい性格で、だれにも愛された渡部氏の、心がへしゃいだ。
「だれにも言ってなかったんです。親父にも、爺ちゃんにも。ただ、仲のいい先輩が私の異変に気づいてくれて。『商売の借金は、商売でしか返せないよ』とアドバイスしてくれたんです」。
たしかに、アルバイトで、それなりの金利がつく1200万円を返すのは、ちょっと困難だ。不可能にちかい。「それで、商売をはじめて、なんとか合計3年で借金を返済するんです。この時にお金に詳しくなった。そういう意味では、いい経験だし、財産ですね」。
「スタッフを恨んだこともあった」と渡部氏は正直に明かしてくれた。借金返済のために開始したのは、「健全」とは言い難い、夜の事業だった。しかし、それも隠さない。社員にも、ちゃんと明かしている。
壮絶な覚悟だった。だから、心の底では、だれも笑わない。「うちの代表ってな」って、だれかに自慢しているかもしれない。ともあれ、渡部氏最初の事業は、失敗に終わる。

人間、丸くなる。

「借金を返済できたので、事業をたたみ、30歳になるまで5年間、青果市場ではたらきました」。昼と夜が逆転する。その頃から性格も丸くなって、「ぜんぜん怒らなくなった」という。
角が落ちた? 「いろいろ、きつい経験をすると、丸くなるんですね、人間は」そう言って、渡部氏は笑う。たしかに、柔和な笑みだ。「そのあと、青果市場の社長が、ファッション系の広告代理店を紹介してくれて、そちらで2年です」。
思えば、いろいろやってきた。角が取れ、人間的にも色合いを深めた。それからもう一度、転職する。「広告代理店の社長の知り合いで、ワインの会社で働いてる方がいて、そちらで営業を中心に3年間勤務します」。
人間、丸くなる。ただ、祖父、父とつづく、渡部家の商売人のDNAは、そう簡単に角を隠さない。「ワインの会社で勤務していた頃に、カフェ・バーをオープンします。これが、けっこうあたって。サラリーマンとオーナーの二足のワラジです。ワインも、会社のワインを卸せましたから、一石三鳥ですね/笑」。
うまい具合になっている。しかし、それがなぜ、「汁なし担担麺」につづくんだろうか。
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