2018年9月4日火曜日

株式会社エムピーキッチン 代表取締役 村上竹彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社エムピーキッチン 代表取締役 村上竹彦氏登場
本文より~

三宅島一周。

東京都といっても、本州から175キロメートル離れている。伊豆大島からでも57キロメートル南下しなければならない。今回、ご登場いただくエムピーキッチンの社長、村上 竹彦氏は1961年の5月5日に、この海の向こうに浮かんだ孤島、三宅島に生まれている。
両親は、ともに三宅島生まれ。父親は役場に勤務する役人だった。夏の間だけ、民宿も営んでいた。
村上氏は、3人兄弟の次男。兄とも弟とも一つ違い。
「私がはじめて東京に行くのは、小学4年生の時」と村上氏。10歳くらいの時だから1971年で、日本の中心である東京が、高度経済成長期の象徴として猛烈なスピードで発展していた頃である。少年の目に東京はどのように映ったのだろうか。ちなみに、村上氏がこの東京で暮らすようになるのは高校生から。
「中学校は三宅中学です」。三宅中学のホームページを観ると最初に、自然豊かな風景が飛び込んでくる。正式には「三宅村立三宅中学校」。当時、クラスは2クラスだけだったそう。
「競歩大会っていうのがあって、島を一周するんですが、そこで4位になりました。生徒会もやっていました。中学を卒業して、私は東京の高校に進むのですが、同様に東京の高校に進学したのは、わずかで3人しかいませんでした」。
島を離れる。東京に対する憧れか、それとも島を逃げ出すことが目的だったのだろうか。

東京暮らしは、ディスコとともに過ぎていく。

島を離れ進んだのは、都立千歳高校(現在は、東京都立芦花高等学校)といって、世田谷区にある高校だった。「私は下北沢に住んでいました。正直いって、カルチャーショックです。ファッションセンスって、そういう言葉自体、島じゃリアルじゃなかったですから」。
そりゃそうだろう。同じ東京都といっても、風景はまるで異なる。「割と硬派でね。長ランとか、短ランなどで決めていました。だから、そもそもファッションとは無縁だったんですが、高校生になって、カルチャーショックを受けて。基準がわからなくなって、1年の夏に、見事にディスコにハマってしまいました/笑」。
「学校にもあまり行かなかった」と村上氏は笑う。
「ディスコにハマったりして、実は、2学期からは学校にも行ってなかったんです。先生に諭され、なんとか踏みとどまることができました。それに、2年になると兄が上京してきたものですから、下北沢を離れ、登戸で兄といっしょに暮らすことになります。兄といっしょですから、そうそうディスコばかりも行けません」。
大学は、日本大学の法学部政治経済学科に進んでいる。ディスコは、早々と卒業し、勉強に明け暮れた証だろう。
「最初は、中央大学を狙っていたんですが、こちらはダメで、それで一浪して、日本大学に進みます。就職活動は、証券会社一本に絞っていました」。

1000万円プレーヤーの証券マン、36歳で牛丼屋の店長をめざす。

希望通り、立花証券に入社する。入社3年目で1000万プレーヤーになった。バブル経済で日本中が浮かれまくった時代も、破綻後、日本中が暗く沈んだ証券不況時代も経験した。
この証券会社を退職したのは1997年。証券不況の真っただ中。
「今でも、相談せずに転職したって、妻に責められるんです」と笑いながら、当時の話をしてくれた。「証券不況でしょ。潰れる会社もあって。証券会社の社員のリストが転職マーケットに出回っていたんでしょうね。私の手元にも一通のダイレクトメールがくるんです。その内容が、熱いっていうか、くさいっていうか。それで印象に残って、面接に行ったら、あの人のパワーに圧倒されるんです」。
「あの人」と村上氏がいうのは、現ゼンショーホールディングスの会長兼社長の小川 賢太郎氏のことである。以来、20年の付き合いになるとは、互いに想像もできなかっただろう。
「当時、私は36歳です。子どもも3人いました。証券不況だったこともたしかですが、もう少し地味な仕事もしてみたいな、という思いがあったんです。そう思っていた時に、小川さんからのDMです。縁でしょうね。36歳の牛丼屋の店長もいいかって/笑」。
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株式会社アイランズ 代表取締役 塚原和樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社アイランズ 代表取締役 塚原和樹氏登場
本文より~

格闘技に魅了され。

総合格闘技イベントであるPRIDE(プライド)をみて育ったと、今回ご登場いただいた株式会社アイランズの塚原和樹氏は笑う。高校時代には高田道場に毎日のように通った。高田延彦、桜庭和志といったTVでみたヒーローたちがそこにはいた。 「社会人がたいはん。高校生はわずかでしたが、PRIDEのアマチュア大会にも出場させてもらいました」。格闘技熱が落ち着いた3年後の大学時代。「格闘技は続けるんですが、それ以上に海外というキーワードが私のなかでウエイトが増していったんです」。
きっかけは、ワーキングホリデービザを取得しカナダ・バンクーバーに渡った事だった。格闘技の本場である北米だった事がカナダ・バンクーバーを選択した理由だった。
「向こうでも柔術を学びました。日中は英語を勉強しながら、夜はジムで柔術を学ぶという繰り返しです」。
実は、この時、塚原氏はカナダのテレビやラジオに登場している。「CNNに取材されたんです。有名な詐欺師とたたかう日本人として/笑」。
どういうことだろう。
「何度目かの引っ越しの際に騙されたんですね。それで腹が立って。私自身の被害はわずかだったんですが、相手が、実は有名な詐欺師で。ま、そのおかげでCNNに取り上げられたし、私にとってはラッキーだったかもしれませんね。これで貴重な経験がひとつ増えましたからね/笑」。
バスに揺られ続け、初めてアメリカ大陸を一周したのもこの時期。その後大学3年時に帰国したが、海外熱は加速していく。長期休暇にはバックパッカーとなって、海外を駆けずり回る。「世界200都市は行った」と塚原氏。留学時代に出会った仲間達が、世界中にいたからだ。南米はコロンビア、メキシコ。ヨーロッパならイタリアやフランス、スペインなど世界中を渡り歩いた。
世界は思ったより小さかった。

格闘技と、海外。

塚原氏が生まれたのは1987年。川崎市幸区の出身である。祖父、叔父、父、母と周りの大人は地元に根付いた会社や商店の経営者だったため、自分もいつか起業したいと幼い頃から考えていたという。
「祖父は商店街の会長も務めていました。川崎駅もそうですが、うちの周りもずいぶん変わってしまいました。そんな中で自分を育ててくれた地元に、いつか自分も貢献したい」。
小学生中学生時代は野球。さらに中学では、相撲大会にも出場している。「練習もしないのに、大会でもいい成績を残しました。先生からは、レスリングの強豪校に進めば全国を取れるとさんざん勧められたんですが、結局、都内の私立高校に進みます」。
レスリングじゃなく、総合格闘技に魅了されていたからだろうか。進学したあとは、すでに書いた通りである。

最大手インテリアメーカーに就職、個人売上で全国一位となる。

「幼い頃から起業という思いはあったんです。ただ、革新的で画期的はアイデアがなければ、起業できないと思い込んでいました。今考えれば、現実から逃げていたんだと思います/笑」。
就職先は誰もが知る大企業。「アメリカへの出店などを見据えて、グローバル採用を行っていたんです。海外経験では誰にも負けないと思っていましたが、周りは、海外の大学出身者ばかり。国内組も一流大学出身ばかりです。まさか就職できるとは思っていませんでした」。
塚原氏は国内で奮闘することになる。「最初の配属先は全国2位の売上高を叩き出す大型店。2年目にして家具担当となり個人売上で、その年に全国1位を獲得しました」。
結果で示した。ただし、上司は選べない。「配属時の店長と働いて感じた事。たいしたことない人に、たいしたことないって評価されたのが納得できなかったですね。ダメな上司に自分の人生を左右されるなんて最悪だと思いました。それで、自分の人生これじゃないな、と思って1年半で退職しましたよ」。
思い切ったものだ。
そして、 退職後、さらに思い切った行動にでる。

貿易会社、設立。1年後には飲食事業がスタートする。


なんと、経験もないまま1人で貿易会社を設立したのである。もっとも、海外との距離感は人一倍近い。
「最初に始めたのがスリランカで水揚げされたマグロを電話で買い付けて、2日後には築地でセリにかけて販売できる仕組みを作りました。その後、スリランカから日本では出回らないレベルの高級紅茶を輸入販売を開始しました。アイランズはその時につけた社名です。スリランカ人を雇って現地とのやり取りをしてもらいました」。
飲食事業を開始したのは、設立から1年が経った頃。
「これだけ世界中を周っている中で本場のステーキに出会って、当時は私が現地で感動したようなステーキハウスが日本にほとんど無くて。だからそれを自分でやろうと思っていたんです。さらに家の近くにラウンジがあったらいいな、と。そういう発想で、自分が育った地元に本場のステーキが食べられるラウンジを作りました」。
それが、「California Lounge Grill&Bar」。「鉄板でジュージュー食べるようなモノではなく、肉本来の旨味を味わえる本場のステーキハウス」である。ワインも安くて、旨い。別会社で酒販免許をもっているため、質の高い美味いワインを安く仕入れる事ができるのだという。
それにしても、なんとも大胆な発想である。どこから、その自信はでてくるのだろう。無謀と背中合わせのような気もしなくはないが、なんとも塚原氏らしい。
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 株式会社アイランズ 代表取締役 塚原和樹氏
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株式会社インセプション 代表取締役 西田雅之氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社インセプション 代表取締役 西田雅之氏登場
本文より~

逃げ出したいと思っていた、少年時代。

母親は朝から深夜まで働き詰めだった。まだ、西田氏が子どもの頃の話。父親が居なくなったからだ。蒸発した、と西田氏は乾いた声で、笑う。
「僕ら4人兄弟を育てるために、母はパートを掛け持ちしていました。子どものことですから、それがどれだけ大変なのか分かりません。子どもたちには、大変な顔を見せない人ですから、とくに。ただ、何度か引っ越して。いま思えば、あれは夜逃げだったのかな、と/笑」。
それでも、小学校低学年までは、特別、意識したことはなかった。ただ、高学年にもなると、いろいろ分かってくるから辛い思いもした。その分、勉強や運動をたくさん頑張った。中学になってからは陸上部に入り、ハードル・幅跳びでは、区大会で2位や3位になった。
「そうですね。兄弟4人と母1人です。小さなアパート。僕は、早く逃げ出したかった。そういう生活からです。電気も、水道も、ガスも止まった。でも、そんな中でも、母は、僕たちに、人に『感謝』することを教えつづけてくれました。今の僕がいるのは、あの教えがあったからです」。
「かあちゃん」と呼ぶ母親と同年代となった今、西田氏は昔を思いだし、背筋を伸ばすようにして呟いている。「かあちゃんは、誰かを、何かを恨むことがなかった」と。
なんと、母は、まだ、子どもに教えつづけているのだ。

社会が、学校。

高校には進学するにはしたが、交通費もなく、学費も払えずスグに自主退学している。働いて家にお金が必要だったからだ。
「ええ、今もまだコンプレックスです。でも、僕は決してそれがマイナスだと思ったことはないんです。逆にバネになった、苦労をした分我慢や辛抱ができ、忍耐強くなれて人にやさしくなれるようになった。特にハングリーに貪欲にもなった。自分が成長するエネルギー源。そういうことです」。
ただ、今だから明るく、語ることができるが、当時は、這いつくばるようにして生きてきた。アルバイト先の同じ十代の学生が親のお金で学校で学び、仕送りで生活して遊んでいるのを横目で見て羨ましかった。貧乏で学歴がないというコンプレックスと向き合うのは、辛いことだったに違いない。
「16歳でしょ。どこにいっても、仕事がないんです。数十社に、断られました。仕事は一生懸命やると言っても、相手にされない。辛かったです。だから、採用いただいたカレーショップでは、もう残業ウェルカムです。休みだっていらない。だって勉強もできてお金をいただけるんですもん。正直、僕にとっては雇ってもらえ仕事ができる、それだけで感謝だったんです」。
仕事をしていれば、コンプレックスなど感じなくていい。たしかに、仕事は、ある意味ではコンプレックスから解放される息抜きの時間だった。
「カレーショップで2年くらいバイトをさせていただいて、その店で知り合った先輩の紹介で、パソコンを使う仕事をさせていただきます。ええ、エクセルやワード、イラストレーターなどのソフトの操作方法を勉強させていただいたのは、この会社です。当時からパソコン技能は必要とされる人間になる為の術の一つだと思っていました」。
当然、西田氏は、それを望んだ。
ただ、一方で、ある高級カラオケ・レストランで、もう一つのアルバイトを開始している。
「今はもうないんですが、昔、六本木に『ホテル アイビス』という有名なホテルがあって。そのホテルにあった『ラブネット』でアルバイトを始めます。当時、最先端のカラオケ・レストランで、芸能人の方も、沢山いらっしゃいました」。
2フロアで300坪。芸能人から政治家も利用して、連日賑わった。
昼前から夜までは、パソコン関連の仕事。深夜から朝まで、カラオケ・レストランで働く。「寝る時間はなかったですね。でも、それで、全然良かったんです、僕にとっては。お金も貰えるし、勉強もできるし。そんな成長ができる環境ほかにないでしょ」。
青年、西田氏の輪郭が、この言葉で浮かびあがる。

退職宣言。

この「ラブネット」で、西田氏は、恩師に出会っている。「当時の店長です。彼のおかげで、社員になり、実は、前職の『オペレーションファクトリー』に連れて行ってくれたのも、この店長なんです」。
「オペレーションファクトリー」は、大阪生まれの飲食会社だ。1998年、大阪堀江で創業。2001年、東京に「燈花(西麻布 個室和食)」を初出店している。
「ぼくが入社したのは、22歳。『オペレーションファクトリー』が東京初進出した頃で、ある意味、創業期です。約7年在籍し、最終的には数店舗を統括するディレクターとなります。ハイ、最年少でした」。
まさに創業メンバーの1人となった西田氏の中には、今も「オペレーションファクトリー」の鼓動が息づいている。
「デザイナーズレストランが、バーンといく時ですね。そういう意味ではとても恵まれていました。独立した今も可愛がっていただいていますが、社長や上司には本当に感謝です」。
とんがっている。時代を映しだすのではなく、時代のエッジに立ち、次の時代を先駆ける。そんな、レストランをいくつも携わる。
「29歳になった頃ですね。ちょっと、ぼく自身が天狗になっているのがわかったんです。給料も良かったですし、部下もたくさんいます。クライアントにも高く評価いただきました。でも、全て『オペレーションファクトリー』という会社に居るからなんですね。それが分かって、考えました。このままではいけないと、会社を辞めさせていただきました」。
まだ若い。西田氏は、こう思ったそうだ。
「人にちゃんと、頭を下げて、会社の役職や看板の無いところで、勝負する。そうして受け入れてもらわなければ、成長できないって。だから、社長に『あと1年で退職させてください』って言ったんです」。
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2018年8月17日金曜日

株式会社一期一会 代表取締役社長 本間儀彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社一期一会 代表取締役社長 本間儀彦氏登場
本文より~

就職先は、父親も勤めた「大手商社」。

本間氏が生まれたのは、1965年。前年には東京オリンピックが開催され新幹線も開通している。日本経済が再起動し、ちから強く歩み始めた頃だ。大手商社に勤めていた本間氏の父は、経済の発展の一翼を最前線で担っておられたことだろう。
「私は東京の世田谷に生まれるのですが、小学6年の時に神戸に移り住みます。ええ、父親の転勤です。一時、父親とともにニーヨークで暮らしたこともあるのですが、半年ほどで母と我々、子ども達は帰国しました」。
本間氏は、小学3年からリトルリーグに入団し、野球を始めている。荒木大輔と同い年。もっとも向こうは雲の上の存在である。神戸に引っ越ししてからは、中学でもシニアリーグに入るが、2年の時に退団。中学から私立大学の付属中学に進み、大学までストレートに進学している。ちなみに、私立に進んだ理由は、当時、公立高校はすべて坊主頭だったから。小学6年生にとっては、ヘアスタイルが一大事だったのだろう。
中・高一貫。高校時代には、大学生となった先輩の車に乗り、波乗りやスキーに明け暮れたそうだ。そのまま、大学に進学し、父親も勤めた大手商社に就職する。その一方、父親は本間氏が高校3年の時に独立し、大手商社から離れておられるから、同時に在籍とはいかなかったようだ。

大手商社を退職し、カフェでアルバイトを開始。

「今思えば、アホな理由なんですが」と本間氏。「合コンするとするでしょ。大手商社っていえば、かっこういいじゃないですか」と、就職時の話をして笑う。
中学進学では、「ヘアスタイル」、就職では「合コン」が選択のキーワードとなっている。他人事であれば、何とも馬鹿らしく映るが、実は、時代の先端で仕事をする人には、その手の人が多い。
「そういう狙いもあって、大手商社に入社するのですが、3年目で、海外赴任することになって…。ぜんぜん合コンなんてできなかった。いっしょに酒を飲むのは、商売相手ばかりです/笑」。
毎晩、円卓を囲んで飲む。人と人のつながりが商社にとっては大きな価値なのだろう。美酒と美食を媒介として、話が進み、心がつながる。人を見抜くことに長けた商売相手に、本間氏は試されていったのだろう。たぶん、商売の胆力も鍛えられたはずだ。
「スポーツ・ファッションをメインにする子会社に異動したのは、このままだと何十年も中国にいることになると思ったからです。ええ、それで子会社です。しかし、転籍といっても会社を辞めることが前提でした」。
父親が会社を興していたのも、大胆になれた理由だという。精鋭がそろった父親の会社は、世界中の国にネットワークを張り巡らせていたらしい。
「もっとも、父の会社に就職するつもりはありませんでした。いざとなったら、くらいです」。
実際、本間氏は、退職後、先輩が経営するカフェでアルバイトを始めている。

アパレル×Eコマース。新たな事業を切り開く。

そのカフェにふらりと1人のオーストラリア人がやってきた。大手商社時代の知人である。カフェではたらく本間氏をみて、ゲラゲラ笑ったそう。似合っていなかったのだろうか。
「そのオーストラリア人にスカウトされ、日本法人の立ち上げに参加します。30歳の頃です。当時は、セレクトショップが勃興する頃で、私たちは主にヨーロッパからアパレルや雑貨を輸入し、卸していました。ただ、5年くらいです、つづけたのは。業績は良く、利益も上がっていたんですが解散することになりました」。
「今度は、証券会社の知人に相談され、ある会社の社長になります。ええ、いろんな経験をさせてもらいました。「資金をどう手にするのか」もその一つですし、Eコマースなど、今までとは異なった領域も経験します。ただ、なかなか利益がでなかったのも事実です。同業で、頭一つ抜けたのが『ZOZOTOWN』ですね」。
本間氏の話を聞いて、しくみのすべてを理解できたわけではないが、当時、ファッション・アパレルではSPAが主流となる。昔からの習慣だった委託販売の形式が崩れていった時代でもあったのだろう。
Eコマースは、そのなかで重要な役割を担っていたはずだ。運営会社がディベロッパーとなり、場を提供することでメーカーと消費者がダイレクトにつながる。これによって製造小売業、つまりSAPが成立する。
実は、本間氏は今も残るある百貨店のEコマース事業にも関与している。今考えれば、飲食とはまるで異なる世界で活躍されていたことになるが、本間氏にすれば案外、同じなのかもしれない。
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2018年8月13日月曜日

8月5日、大山の阿夫利神社本社登ってきました。

8月5日、大山の阿夫利神社本社登ってきました。
右足首骨折から約5ヶ月、リハビリ兼ねて登りましたが、暑さも
あり想像以上に険しい山でした。
ども
でも気持ちよかったです。

8月7日発行の日刊ゲンダイに「株式会社シゲキッチン」の間宮茂雄社長の記事出ました。

8月7日発行の日刊ゲンダイの“社長の私生活”に「株式会社シゲキッチン」の間宮茂雄社長の記事掲載されました。
(日刊ゲンダイより)

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2018年8月9日木曜日

日刊ゲンダイで好評の「グルメ社長の食い倒れ日記」第3クールは“赤坂璃宮”譚彦彬オーナーシェフでした。

日刊ゲンダイで4月からスタートした好評の連載記事「グルメ社長の食い倒れ日記」の第3クールは広東名菜“赤坂璃宮”譚彦彬オーナーシェフでした。



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株式会社ビープラウド 代表取締役 大山 淳氏登場。

本文より~

スポーツも、勉学も、よくできる少年、大山。

インド人と日本人のハーフなんだそう。「私がこどもの頃はまだハーフっていうのが珍しくって、イジメに遭ったこともある」と笑う。今回ご登場いただいたのは、「淡路島カレー」で有名な株式会社ビープラウドの代表取締役 大山 淳氏である。
「私は大阪の吹田市で生まれました。育ったのは豊中市です。父親がインド人で、母親が日本人。5つ離れた姉がいます。大山家のはじまりは、父方の祖父が貿易の仕事で来日したのがきっかけです。父親も貿易の仕事をしていましたので、その関係で私もよくアメリカに行っていました」。
もっともそれは、小学6年生までの話。小学6年生の時に父親が亡くなってしまう。「小学生の頃からサッカーをはじめ、中学に上がってからも、サッカーをつづけます。高校は、自宅からそうかからない家チカをキーワードにして選択しました」。「家チカ」。そうはいっても、校名を聞いてわかったのだが、大山氏が進んだのは、関西でも有名な超進学校だった。

アルバイトは、ヨーロッパをめぐるブランドもの、買い付けの旅。

「大学は、『関西大学工学部応用化学学科』に進みました」。なにやらむずかしそうな学科名だ。「進んだのはいいんですが、もっぱらバイトです。工学部ですから、勉強しなくっちゃいけないんですが/笑」。
なんでも、経験したバイト数は、50以上に及ぶそう。なかでも、「ブランド品の買い付けのバイトがいちばん面白かった」と語っている。
話を聞いていると、たしかにわくわくする。
「当時は、今以上にブランドものが高く評価されていて、私の仕事は、そのブランドもののバッグなどの買い付けです」。
およそ2週間、北欧からスタートし、イタリアまで南下。そのなかで、ブランド品を次々、購入していく。「ブランド品は、同じモノを何個も買えないんです。怪しまれるんですね。だから、いろんな方法を考えて」と大山氏。
旅費はもちろん食費もただ。収入はというと「2週間で40万円くらいになった」というからうらやましい。
「ところで、その当時から、起業すると思っていましたか?」。そんな質問を直截にぶつけてみると大山氏は、首を縦に振り、ちから強く答える。「たぶん、父親の背中をみていたからでしょう。それも、大きかったはずです。その一方で、人に使われるサラリーマンにはなりたくなかった。だから、答えは一つです」。
バイトもただ、バイト代確保のためだけではない。目的がある人はつよい。ただ、バイトに精を出しすぎて、卒業まで6年かかっている。

「企業」の二文字にも惹かれ、ベンチャー・リンク入社。

起業という目標を高いレベルで実現するために、就職時に選択したのがコンサルタント会社の「ベンチャー・リンク」。「ベンチャー・リンク」については、改めて言うまでもないが、「サンマルク」や「牛角」などを大企業に育てた会社である。
 「ユニークなビジネスを探し出し、全国的なフランチャイズブランドに育成するのが、ベンチャー・リンクのビジネスモデルです。私は、赤字を抱えたフランチャイズ店をバックアップする部署にいました。勤務期間は、合計7年です」。
様々な経験ができた。聡明な大山氏のことである。フランチャイズビジネスを体験することで、本質を咀嚼し、強みも、弱みもすべて理解したのではないか。少し先走るが、それが今に生きている。
「今だから言えますが、月に480~500時間はたらいていました。勤務時間だけではありません。担当するのは、50代、60代の経営者です。生活がかかっています。若造の意見なんて、聞いてもくれない人もたしかにいました。だから、なにより結果にこだわりました。信じてもらわないと、サポートもできませんから」。
大山氏は大学卒業するまで6年かかっているから、7年で、30歳。
「そうなんです。30歳までに起業しようと思っていました。もちろん、そう簡単じゃないことはわかっていました。だから、初期投資は少なく。失敗しても大丈夫な額だと。そういう意味では腹をくくっていました」。
独立するにあたって、つい背伸びをして、大金を投じてしまう経営者は少なくない。ただ、リスクはそのぶん、大きくなる。そもそも、起業はギャンブルではあってはならないと思う。そういう意味でいえば、日本はまだそのあたりのセーフティネットが整備されていない。
「ともかく、お金をかけたくないので、スタートしたのは移動販売です」。リスクが少ないため、失敗しても、次のチャンスが残る。「ところで、移動販売って、目立つように車に商品名をバーンと描くでしょ。あれ、なんでかな、って思っていたこともあって、うちのは車体には手を加えず、看板に商品名をドーンと載せました。すると、看板をかえるだけで、いろんな商品を販売できます。今日は暑いからクレープ、今日は寒いからから揚げといった具合です」。
いいアイデアだった。だが、そううまくいかなかったのも事実である。
「私が起業したのが2009年です。この仕事の一方で、ベンチャー・リンク時代からの流れで、コンサルタントをしていました。こちらのフィーで、なんとかトントンといった感じでした」。
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2018年8月3日金曜日

祝 650連載 株式会社Picnic with Sugar 代表取締役 鶴野太郎氏登場。

祝 650連載

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社Picnic with Sugar 代表取締役 鶴野太郎氏登場
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セネガルで、偏食を治す?

じゃがいもと米が主食でおかずだった。お菓子も、ハンバーグも食べなかった。「とにかく、偏食だったから」と笑うのは、「Picnic with Sugar」の代表取締役、鶴野太郎氏である。
旅行代理店を経営していた父親がベジタリアンで食材や調味料についても注文が煩かったそう。ふつうの砂糖もだめだったらしい。
「だからでしょうか。母の料理はどうも旨くなくって、中学からは弁当なんですが、残す時も多くて。母に申し訳ないので、わからないよう捨てていたこともありました/笑」。
父親の会社は、東京、大阪、ジャマイカに支店があり、父親はジャマイカに行って、数ヵ月、滞在することも少なくなかった。鶴野氏も父親に連れられ、ジャマイカなどを旅したことがある。なかでも、中学2年の時、父親がセネガルを旅するツアーを企画し、鶴野氏も同乗したのだが、その時の印象がいまも鮮明に残っている。
「実は、セネガルで、それまでの偏食と潔癖症がいっぺんに治ったんです」と鶴野氏。「食べざるをえない状況下で、すべてが吹っ切れた」と笑う。ちなみに「セネガル」は、西アフリカ、サハラ砂漠西南端に位置する共和制国家である。中央アメリカにある「ジャマイカ」とは大西洋を経て、ほぼおなじ緯度にあるような国だ。太古の習慣が残るこの国で、偏食を治したのは、あとにもさきにも鶴野氏くらいだろう。
ところで、鶴野氏は、小さい頃から合気道とピアノを習っている。合気道は父親のススメ、ピアノは母親のススメである。もっとも、どちらも好きじゃなかった。中学から水泳をはじめ、高校でも、水泳部に所属する。偏食がなくなり、潔癖症も治った鶴野氏に、今度は恋心が動き出す季節が到来する。

映画「未来日記」の主人公に抜擢される。

「中学は公立ですが、高校は中央大学杉並高等学校に進みます。こちらでも水泳部で真面目にはやっていたんですが、ちょうど3年の時かな。『未来日記』っていうドキュメンタリー映画に出演して、一時、時の人になりました/笑」。
鶴野氏が出演した「未来日記」は、テレビで放映されていた「未来日記」の映画版で、3人の高校生の、ひと夏の体験がつづられている半ドキュメンタリー映画。調べてみるとキャストのいちばんうえに、鶴野氏の名があった。
「いちばんびっくりしたのは、私ですね。たまたま、理科の実験で気になる子がいて、その子が『未来日記』のことをいろいろ言っていたもんですから、オーディションにハガキを送って、会話のネタにしようと思ったんです。だから、そもそもオーディションに合格するつもりもなかったんです。でも、あれよ、あれよってうちに」。
「3000人くらいはいた」と鶴野氏。そのなかで、主演の3人、そのうちの1人に抜擢される。
「映画が放映されると、街を歩いていても声をかけられるんです。女の子から、あんなにモテたのは、あとにも、さきにも、あの時だけですね/笑」。
はっきりいって、「勘違いしていた時もあった」そう。

大学時代に、先輩たちと起業し、カフェをオープン。

平穏な生活がもどってきたのは、いつ頃だろう。高校3年から大学1年までもてはやされたそうだ。むろん、未来日記には、そこまでの人生は書かれていない。
「高校3年の時に、インドに友だちと旅行します。デリーから南下し、ゴアのあたりまで。ええ、1ヵ月5万円くらいで生活できますから、安い旅です。大学生になっても、何度かインドを旅しています。向こうにいる時は、もう2度と来ないと思うのに、また、時間が経てば足が向いてしまうんです」。
旅好きは父親の影響もあるのだろう。大学ではユースホステル研究会なるサークルに入っている。そんな大学時代にも、新たな旅を始めている。
「大学の3~4年の時です。ゼミのテーマであるマーケティングやプロモーションをリアルに体験してみようってわけで、私たち学生だけでカフェをオープンするんです。これが、なかなか儲からなくって。ほかでバイトして補填するみたいな/笑」。
なんでも、花屋さんから夜だけスペースを借りて運営していたそう。「だいたい家庭のキッチンレベルでしたし、ノウハウもない。だから、当初目的としていたマーケティングやプロモーションを実践するまでにも至りませんでした」。
ただし、何も手に入らなかったわけではない。
「飲食業ってたのしい、そう思ったのはこの時です」。
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2018年7月31日火曜日

東湖株式会社 代表取締役 徐 耀華(ジョ ヨウカ)氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”東湖株式会社 代表取締役 徐 耀華(ジョ ヨウカ)氏登場。
本文より~

16歳の大学生。

湖北省は、揚子江の中流に位置する。かつては、楚の国でもあった。今回、ご登場いただく東湖株式会社の代表取締役、徐氏が生まれたのは、この湖北省の省都である武漢市。生年月日は1962年3月27日。徐氏は、4人姉弟の長男。姉2人、妹1人。長女は、やがて医師になり、国立病院の院長になられた。
長男の徐氏も、負けてはいない。「勉強に興味を持ったのは、小学生の後半」と徐氏。中学に進むと、いっそう勉強に注力し、なんと高校1年で、大学の受験資格を獲得。中国の重点大学の一つである「武漢大学」に進んでいる。いわゆる飛び級という奴だ。
「高校1年の時に、コンテストがあって上位3位に入りました。3位までに入れば、大学の受験資格が獲得できるんです。えぇ、それで私はおなじ武漢市にある武漢大学に進みます」。
高校1年、日本ならまだ15歳。その15歳の少年がいきなり、大学のキャンパスに現れる。何を専攻することにしたのだろう。「最初は、父親がエンジニアだったこともあって、ドイツ語を勉強したかったんですが、大学の方に日本語を勧められて、『日本の近代文学史』を専攻しました」。
なんでも、卒論は「芥川龍之介の小説の美学」だそう。大学院を卒業しても、まだ23歳。「当時の中国の大学は、授業料は全部国が負担していた。ただ、大学院を卒業すれば、進む道も自由に選択できます。私には南に進んで、今、IT都市としても有名な深センに行くか、北に進んで政府機関に入るかの2つの選択肢があって、それで、北に向かいます。そう、北京です」。

日本へ。23歳の外交官。

「私が23歳の時、1986年です。中国は様々な改革、開放が進んで、政府機関も人材不足の時代でした。私は文化部、日本でいう文部省に入省し、半年後に日本に派遣されました」。外交官の3等書記官となった徐氏は、元麻布の中国大使館に勤務するようになる。
「大学時代は日本の近代文学を専攻していましたが、日本に来て仕事をするとは思っていませんでした。当時の中国が今とまったく異なっているように、当時の日本は、バブル経済の真っ最中。今も先進国の一つですが、ぜんぜん異なる国のようでした。何しろ、世界を買ってしまうんじゃないかって言われていた時代です」。
文化も、テクノロジーもまったく異なる2つの国。東京で、見上げる摩天楼には、両国の経済力の差が映し出されていたのではないだろうか。

雲南料理。

「私が、外交官を辞め、いったん中国にもどり、民間で、中国と日本の橋渡しのような仕事ができないかと、90年に日本に再び来て、貿易やツアーの仕事を始めました。」徐氏、29歳の時である。「政治を離れて何ができるかが、日本での私のチャレンジです。起業した会社で、文化交流企画展や雲南省の有機食材を日本に輸入していたんです。それで、当時、珍しかった『雲南省の料理』を日本に紹介したいと思って、はじめたのが『御膳房』です」。
「雲南省」をネットで検索してみた。雲南省は、南西部にあり、ミャンマーなどにも隣接していることがわかった。漢族が60%くらいで、それ以外に、ペー族、タイ族、イ族、ナシ族などの少数民族が40%くらいを占めていて、これが料理にも影響しているようだ。「雲南料理は、日本で有名な四川料理系の漢族の料理と、ペー族などの少数民族料理からなっています。酸味、甘み、辛みが、混然一体となっている。食材では茸類が有名です」と徐氏。
実際に、雲南料理とはどんなものか、徐氏がオープンした「御膳房」のページをググった。
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2018年7月21日土曜日

青山学院大学にてサーフキャップの水口憲治社長が講義されました。

6月28日、青山学院大学・総合文化政策学部・堀内ゼミでサーフキャップの水口憲治社長がゼミ講義されました。

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「下町バルながおか屋」ラムチョップ100万本達成予想日募集キャンペーン。 

「下町バルながおか屋」を運営されている長岡商事様が、ラムチョップ100万本達成間近となり、ラムチョップ100万本達成予想日募集キャンペーンを実施されました。

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株式会社野乃鳥 代表取締役 野網厚詞氏登場.

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社野乃鳥 代表取締役 野網厚詞氏登場。
本文より~

大学で選択した「行動科学」。

行動科学という学問があるらしい。調べてみると「人間の行動の法則性を科学的に解明しようとする学問」だそう。今回ご登場いただいた野網氏は、大学時代、これを学んでいる。「大阪工業大学に進み、行動科学を勉強しました。もっとも、勉強したのは興味のあるこれだけで、あとはバイト漬けが正直なところです/笑」。
野網氏が、とくに興味をもったのは、モチベーションサーベイ。仕事に対するモチベーションだ。理由がある。「当時から25歳で起業しようと思っていました。やるなら事業化したいとも。だから、私はもちろんスタッフをマネジメントしていくうえで、モチベーションの正体を知るのは大事なことだったんです」。
当時は、デール・カーネギーの「人を動かす」「道が開ける」などが愛読されていた。野網氏も、もちろん読んでいる。「私自身は、このような先人たちの理論を実証してみるというもう一つのテーマを掲げていました。いわば、私の人生を通して行動科学という学問を実証してみようという試みです」。
自身のモチベーションは、25歳での起業。バイト先で芽生えたモチベーションだ。そんな話をまずしてみる。

3人兄弟の長男、バレー部ではキャプテンを務める。

野網氏が生まれたのは、1973年。出身は、大阪市阿倍野区。3人兄弟の長男である。父親の勧めで小学1年生から少林寺拳法を習い、中学2年生までつづけている。一方、中学からバレーボールをはじめ、キャプテンに。高校に進学したあともバレーはつづけ、近畿大会でベスト16まで進んでいる。
「寄せ集めのような部でしたが、なんとかベスト16まで進めたのは、ひそかな勲章です」。
家庭でも3人兄弟の長男。弟2人はもちろんだが、野網氏の背中を追いかけた人も多かったのではないだろうか。ちなみに、1つ下の弟は飲食店を起業し、6つ離れた弟はいま専務として、野網氏の会社ではたらいている。会社をいっしょに育てた人物は、中学時代の同級生だ。
「高校時代はバレー漬け。おかげで、入学時、300人のなかで8番だった成績が、一時、260番に急降下です。なんとか80番まで修正して、大学の推薦を手に入れました。そして、大阪工業大学に進んだわけです」。

大吉1号店、勤務。起業を志す。

「あの頃、親父の会社がなかなかうまく回っていなかったんです。設備関連の会社です。独立して、いち早くCADなども導入したんですが、うまくいきません。そのあたりのことも長男の私には語っていました。ええ、私も、時々、駆り出されました/笑」。
野網氏は「職人気質」という言葉を遣っている。職人仕事がCADによるコンピュータの仕事に置き換わる時期でもあったのだろう。CADを採り入れるなど先進的な父親と、職人気質のスタッフの間に溝が生まれても不思議はない。事業がうまく進まなかった一因かもしれない。
「大学時代は、うちの仕事以外に、いろんなバイトを経験しました。車も、服も買いたかったですしね。その時、そう大学2年生の時です。『やきとりの大吉』でアルバイトをはじめるんです。結果的には、大吉でのバイトが、私に起業というモチベーションを与えてくれました」。
なんでも、野網氏がアルバイトをはじめた大吉は「大吉1号店」だそう。それも、一つのモチベーションリソースとなっている。

25歳で独立。つくった工程表。

「やきとりの大吉」は、ご存じの方も多いと思うが、カリスマ経営者、辻成晃氏によって生み出された「独立支援システム」を軸とした事業体だ。正式社名は、ダイキチシステム株式会社。創業当時から直営店を1店ももたず、FC店のみで巨大な店舗網をつくりあげる。「大吉」を運営する独立心旺盛な人たちにも影響されたのだろう。飲食というビジネスにハマるとともに「25歳で起業」という目標をもつに至る。野網氏のそれまでを知れば、これは偶然ではなく、ある意味、必然だった。
「どうせなら、若いうちがいいだろうと。失敗するにしてもそのほうがリカバーできますしね/笑」。もちろん、志はハンパなものではなかった。当時から「やきとりで」とは決めていたが、料理を学ぶため、知り合いが経営する小料理屋で修業もしている。
「理系脳なんでしょうね。ゴールを設け、そこに進むためにどうすればいいか、というのをロジカルに考えます。かりに大吉で独立するにしても、料理の基礎は学んでおかないといけないと思っていたんです」。
大学時代に学んだ、行動科学。その科学を実証する手段も、次第に明確になっていく。
「私は23歳で結婚するんですが、大学時代から、独立を考えていたんで、お金もためていました。そして、25歳の時ですね。小さなお店ですが、池田に1号店をオープンするんです」。
・・・続き
株式会社野乃鳥 代表取締役 野網厚詞氏
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2018年7月11日水曜日

7月10日、千葉商科大学にてドリームリンク村上社長の講義でした。

7月10日、千葉商科大学・池田ゼミにてドリームリンクの村上社長の講義でした。
「もっと飲食業界に興味を持っていただこう」という思いでスタートし今年で7年目です。
私は参加できませんでしたが、次につながる大変いい内容だったようです。

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2018年7月10日火曜日

蒙古タンメン中本の株式会社誠フードサービス 代表取締役 白根 誠氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”蒙古タンメン中本の株式会社誠フードサービス 代表取締役 白根 誠氏登場。
本文より~

「中国料理 中本」、閉店は、終わりの始まり。

「中本」のなかでも、「冷し味噌ラーメン」は群を抜いている。極度の辛さのためだろう。メニューには「初めての方はご注意ください」と警告文が添えられている。それだけ辛い。
「オレね、辛党じゃないんだけど、こいつにはハマっちゃった。ヤミツキです。あの頃の、オレの食生活は、『中本』と、それ以外が1対1。つまり、『中本のラーメン』で暮らしているようなもんだった。朝、昼、晩って日もあった」。
今回、ご登場いただいた、「中本」二代目店主、白根氏が「あの頃」というのは、長い期間を指す。「そうだね。20歳から39歳までだから20年くらい」と笑う。それだけ、通いつづけた。
もっとも、最初から2代目に手を上げようと思っていたわけではない。そりゃ、つくるより、たべるほうが楽だ。
「でもね、あれはオレが39歳の1998年だね。『中本』が12月に閉店するっていう噂が流れてさ。『え、どうすんだよ』って。何しろ、オレの半分は『中本のラーメン』でできているようなもんでしょ」。
真相を確かめるため、当時の店主の中本正氏に「おじさん、店、閉めるってほんとですか?」と声をかけた。かけたが、曖昧な返事しか返ってこない。
「立場はちがうけど、20年来の付き合いだ。『そりゃねぇだろう』って思った。中本さんは、店閉めたら、それで済むんだろうけど、オレたちはどうなんだ。結局、噂はほんとうで、1998年の12月に『中国料理 中本』はいったん幕を閉じます。オレたち中本フリークは、もうジプシーになるしかない/笑」。

激辛、激旨ラーメン。最初の印象は、「なんだこれ」。

白根氏は1960年、埼玉の熊谷に生まれている。日本でいちばんの猛暑を記録した町だ。小さい頃から野球が大好きで、長嶋選手に憧れる。いまでも「3」は、白根氏のキーナンバーだ。小・中・高と進み、中学から空手をはじめ、高校ではバイクにハマった。高校を卒業してからは、いろんな仕事に就いた。「中本」に出会ったのは、前述通り、20歳の頃で、最初は友人に連れられてのれんを潜ったそう。
「最初はなんじゃこりゃ、って感じ、旨いなんてぜんぜん思わなかった。でも、それがすべての始まりだから、人生って不思議なもんだ」。
「中国料理 中本」についても少し触れておく。「中国料理 中本」は、1968年9月、板橋区にオープンする。創業者は故中本正氏。オープン当初は、当時、どこにでもある中華料理店だったそう。ところが、中本氏自身が辛いモノが好きで、「辛い」メニューが「中国料理 中本」の代名詞となる。代表作は、一味唐辛子を大量に加えた激辛スープと太い麺のラーメン。白根氏が、好物だった「冷し味噌ラーメン」は、なかでもランキング1位の辛さだった。
「毎日、行列で、中本さんもたいへんだったろうけど、食べるこっちもたいへんだった。おくさんと中本さんだけで運営されていたんだけど、昼の2時でクローズ。でも、行列がつづいているから、最後尾の客がラーメンを食べて店をでるのは4時くらいだったかな。それだけ、長い行列でした」。そうまでして食べたい「ラーメン」。白根氏以外にも大量のファンがいたことがわかる。どれだけ惜しまれて閉店したかも、想像できるというものだ。

「そりゃだめだな」。冷徹な一言。

「で、閉店してしまったわけでしょ。でも、『中本』のラーメンはやっぱり『中本』でしか食べられない。それで3ヵ月くらい経った頃、もうがまんできなくなってさ。電話をかけたんです」。
幸い、電話番号は以前のままだった。
「20年も通いつづけていたでしょ。中本さんも、声でオレってわかったみたい。それで、『少しお話があるんですが』って切り出したわけ。頑固な親父さんなのに、その時は、向こうから出向いてくださいました。そして、うちの近くの喫茶店で再会したんです。目的ですか? 『中本』をオレにやらせて欲しかったんです」。
何と大胆な発想だろう。それまでの白根氏に飲食の経験はない。まして、料理の経験もない。
話は2時間に及んだそうだ。白根氏は「中本」に対する熱い思いを語る。中本氏が「うんうん」「そうだね」と頷くたびにテンションが上がった。「これは、いけるんじゃないかなって。でも、最後の最後に、『そりゃだめだな』って」。
茫然とした。脈があると思いかけていただけに、落胆もした。「だめだな」の一言は、有無を言わさないほど、冷徹な響きを含んでいた。
「あとで聞いた話だけど、当時、オレみたいな奴がたくさんいたそうなんだ。みんなに『ノー』と答えている。たぶん、大手の企業さんからも声がかかったはず。でも、頑固もんだから、お金を積まれても『ノーは、ノーだ』っていったんでしょうね。昔の職人さんだから、大企業だって敵わないわな/笑」。
「それから少したって、今度は無性に『冷し味噌ラーメン』を食べたくなるわけです。このメニューは、春分から秋分までの限定メニューで、ちょうど春分の頃だったから、思い出しちゃったんだろうね。それで、もう一度、電話番号をプッシュしたんです」。
丁寧に、丁寧に、話した。ただ、今度は断られないだろうと思っていた。「だって、1杯、よぶんにつくるだけだから」。
話の流れはこうだ。中本氏も「冷し味噌ラーメン」が好き→今もつくって食べているはず→その時、よぶんに1杯つくってもらって、それをいただけないか→むろん、これならOKがでるだろう→もちろん、お金はいくらでもだす。しかし、返答は「そりゃだめだねぇ」、前回とおなじ結末。
「あの時は、正直カチンときたね。ケチって/笑。でも、あとで聞くと、これもオレみたいな奴がたくさんいたそうで、1人だけ特別扱いはできないってことだったらしい。でも、こっちは、電話を叩き切りたくなるくらい腹が立っている。それでも、あの時は、ぐっと受話器を握りしめて、『おじさん、お酒は好きですか?』って切り出したんだ」。

「半端ないって」社長取材の数。

7月31日の更新で650連載となる“飲食の戦士たち”ですが、
新人営業マン2人が頑張ってくれ、
なんと社長取材数がこの2ヶ月で50社ほど入ってます。
ほんとこれこそ、「半端ないって」。
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