2018年11月13日火曜日

株式会社NATOMICS 取締役社長 関 斉寛氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社NATOMICS 取締役社長 関 斉寛氏登場
本文より~

チャンネル登録数、1万人オーバー/2018年8月現在

インタビューさせていただいてから、この記事を書くまで1ヵ月程度、空白があった。その間、関氏の動画のチャンネル登録数は1000以上アップし、9月現在、1万人をオーバーしている。
「動画を作成し、アップしたのは2018年からです。実は、昨年、中国の蘇州にある調理師学校にお招きいただいて、その時、動画という手もあるなと思ったのがきっかけ。動画なら何万人もの人を相手にお料理を教えて差し上げられる。その一方で、実は私も楽しんでいるんです。和食の料理人がつくるイタリアンとかね。お店とは違ったアイデアを盛り込んだりして。リクエストも楽しみの一つなんです」。
たしかに、画面に登場する関氏は、楽しくてしかたがないように観えるし、関氏の人間性も、よく表現されている。
「ただ、これでは利益がでないでは?」と貧乏性のこちらは心配になるのだが、「利益じゃないんです。お料理の楽しさをたくさんの人に伝えていきたいんです」と、キラキラした目でいう。たいしたものだ。
今回は、そんなユーチューバー?でもある関氏に話をうかがった。

小学2年、まぐろの漬け丼をふるまう。

父親は、工学博士。人口雪の研究をされていたそうで、現在も大学で教鞭をとられているという。母親は、大手重工メーカーで事務をされていたが、調理師の免許もお持ちだったそうで、関氏も少なからず影響を受けている。
関氏が生まれたのは1984年。小学1年生の時に、厚木から千葉県佐倉市に引っ越している。小学1年生から母の料理の手伝いをし、小学2年生には『まぐろの漬け丼』をつくっていたそう。ともだちが来ると、得意の料理をふるまったというから、筋金入りだ。
スポーツはサッカーにのめり込んだ。スポーツ推薦で高校にも進んでいる。
「でも、高校生になってからは、ぜんぜんサッカーはしなくって。ちょっと悪ぶっていた時代ですね。そっちのほうがもてるかなって/笑」。
軽い気持ちだったのだろうが、一度、悪い方向に進むと、なかなかもとにもどれない。「実は、高校3年になった時には、卒業まで怪しくなって/笑。さすがに焦ります。とにかく『高校だけはでてくれ』と母親に泣かれたこともあって…」。
なんとかしなくっちゃ。ただ選択肢は、そう多くない。
「そのままでは、卒業もできそうになかったもんですから、通信制の『翔洋学園高等学校』に転校しました」。通信制といっても、校舎があった。そちらにも通いつつ、この頃から料理と真剣に向き合いはじめる。

「おいしかったよ」「ごちそうさま」に、魅了されて。

関氏の歩みを伺っていると、まさに「ザ・飲食の戦士」である。
とにかく、料理をはじめた年齢も若く、キャリアも長い。しかも、何より料理が大好き。
料理の前では「無垢」になれる人なのだろう。今日は、どんなふうにお客様が喜んでくださるだろうか。料理をしている間、関氏の頭にあるのは、ただ、それだけのような気がする。
関氏が小学校の頃から友人に料理をふるまっていることはすでに書いた。母親の影響が大きい。
高校1年。サッカーの推薦で高校に進学した関氏だったが、サッカーはそっちのけで、悪ぶるなどしたことも、すでにお話した。ただ、まだお話していないことが一つある。
高校1年からはじめた飲食の仕事である。
「高校1年から、ガソリンスタンドでバイトをはじめるんですが、やっぱりその頃からお料理が好きだったんでしょうね。中華料理店にチェンジして。ハイ、最初はホールでしたが、まかないでチャーハンをつくらせてもらって、それで『キッチンにはいってもいいよ』と。高校3年から通信制の学校に転校したこともあって、べつのお店で仕事をしていたんですが、こちらのお店の店長がお休みの時には、私が臨時で、店長をしていました」。
「おいしかったよ」「ごちそうさま」。料理をつくらせてもらって、そのうえ、感謝も、お金もいただける。こんないい仕事ほかにない。この仕事でやっていこう。
バイトだったが、心は、料理人へ、まっすぐに動きだす。
・・・続き
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2018年11月11日日曜日

キイストンだから出来ることを追求していきます。

「飲食の戦士たち」で社長取材させていただいたおかげで
経営者と経営者とのセッティングを今年はたくさんやっております。

キイストンとしてどれだけ関係する企業様に役立つことが出来るか、またそのセッティングの質の高さはどうか検証しています。

おかげさまで自分が思っている以上のセッティングができてるので、これはキイストンの付加価値になりそうです。

今後のキイストンを考え、「キイストンみらいプロジェクト」も私のブレーンと一緒に社内で取り組んでいきます。

平成から次の新元号になるのでキイストンも時代のニーズにあわせ成長していきたいです。
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11月9日発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」は、トーホーエージンシー様(山崎社長)です。

60代〜70代で頑張ってる人を応援!(キイストン寄稿)

11月9日発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」第6回(6/30社)は、トーホーエージンシー様(山崎一彦社長)で、パート45人中8人がシニア世代が在籍されています。
取材は弊社の元編集プロダクション社長で70歳の土金氏です!
(夕刊フジより)
「over60(ロクマル)世代応援企業30」の取材を70歳の元編集プロダクション社長の土金さんにお願いしております。
ライター


【氏名】土金哲夫(ツチガネテツオ)
【生年月日】昭和23(1948)年9月25日
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2018年11月6日火曜日

イートアンド株式会社 代表取締役社長 仲田浩康氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”イートアンド株式会社 代表取締役社長 仲田浩康氏登場。
本文より~

インベーダーと大阪王将。

その昔、大阪では、国鉄の環状線はもちろん、私鉄のどの駅を降りても、駅前には「大阪王将」があった。メニューは、たしか餃子とビール。当時、高校生だった私は、友人といっしょに頻繁に餃子を食べに行った。「10人前食べれば、無料」。一度は、挑戦してみたかったが、いまだ出来ずじまいである。
ところで、以前、2代目社長である文野直樹氏を取材した際、昭和50年前半ばになって、業績が下降した要因としてインベーダーゲームの登場を挙げられていた。興味深い指摘だったので、いまも記憶している。
文野氏の言う通り、インベーダーゲームをはじめ、アーケードゲームの登場によって、「食」は、身近なレジャーの座を奪われたと言っていい。
ちなみに、当時、餃子1人前が100円。インベーダーゲームも100円。いままで100円玉をにぎって大阪王将に向かっていた学生たちが、同じように100円玉をにぎりゲームセンターへ向かった。いまになって思えば、インベーダーたちは、大阪王将のファンを狙い撃ちしたかのようである。
さて、その「大阪王将」。
いまではご存じのように、餃子とビール以外にも、バラエティ豊かな料理の数々がある。郊外に出店するなど、駅前というイメージも薄れてきているのではないか。その「大阪王将」を運営してきたイートアンドは、「大阪王将」以外にもラーメン店の「よってこや」など多数のブランドを展開している。
ただ、それだけではない。
文野氏を取材した際、今後は食品メーカーに舵を切るようなお話しをされていた。具体的には「中食」と「内食(冷凍食品)」を挙げられていたはずだ。
その一つ、「冷凍食品」がいまや外食と匹敵する規模に育っていると伺った。立役者は、ダイエーで勤務されてきた仲田浩康氏。今回、ご登場いただいた飲食の戦士である。

高卒、巨大な流通企業で暴れる。

仲田氏は、1964年4月26日、大阪の豊中市に生まれる。3人きょうだいの長男。父親は印刷会社を経営していた。少年時代は、だれもが慕うリーダー的存在。
運動はできるほうだったが、勉強は「まぁまぁだった」と笑う。
「旅行に行った記憶は少ないですが、外食は多かったですね。昔ですからね。外食はそれほど、日常的ではなかった。そういう意味では、珍しいほうだったと思います」。もっとも、レストランと言えるようなシャレた店ではない。「ごはんやさんです/笑」と仲田氏。
「躾は、きびしくなかったんじゃないかな。ノビノビ、放任主義です」。少年野球ではキャプテン。人気者だった。
中・高は、仲田氏曰く、「なんちゃって」野球部。高校卒業後は大学に進学せず、はたらきはじめた。就職先は、当時、流通業界のトップランナーだったダイエーである。
「配属されたのは、魚売り場でした。いちおうサラリーマンなんですが、商売人ぽい仕事です」。実は、仲田氏。「父親をみていたから、経営者ではなくサラリーマンになりたかった」そう。経営の難しさを、理解していたからだろう。
「ただ、その一方で、商売に興味があったのは事実です」。
もともと、やんちゃな性格である。型にハマるのがいやだった。だから、お世辞にも態度がいいとは言えない。しかし、結果で周りを黙らせた。
23歳で主任に昇格。異例中の異例だったそう。学歴など関係なかった。商売人の素地が群を抜いていた証でもある。それからも目をひくように出世し、27歳でシニアマネージャー、31歳で課長、32歳で副支配人になっている。
「人生のターニングポイントを挙げると、3つです。一つは、ダイエーという巨大な流通会社に就職できたこと。そして、そのダイエーで経営のノウハウを吸収できたこと。もう一つはイートアンドの面接をうけたことです」。
副支配人といっても、巨大なダイエーからすれば、末端である。できることは、少ない。ならば、と転職を決意しても不思議ではない。
仲田氏のダイエー時代が幕を閉じる。

「大阪王将」に転職。

「まさか、私が社長になるとは思っていなかったし、打診された時も、実はお断りしたんです。文野会長とは5歳くらいしか離れていないし、禅譲なんてイメージでもなかったですからね/笑」。
本人がどう思ったとしても、文野氏は、もう決めておられたのだろう。食品事業の立役者である仲田氏以外、いまからの「大阪王将」の舵を取れる人間はいない、と。
すでに書いた通り、今では、外食事業と食品事業の事業比率は50対50となっている。仲田氏が仕掛けた「冷凍食品」、なかでも、<水も油もいらない羽根つき餃子>が急速に市場に浸透したからだ。(現在では<油・水・フタもいらない羽根つき餃子>へと進化している)
「ダイエーを退職して、イートアンドに転職したのは36歳。2000年の8月です。ええ、紹介やヘッドハンティングとかではなく、ふつうに転職雑誌をみて」。
給料も大幅に下がったそうだ。大阪王将では、一兵卒。経験でひいきもされなかったから、当然といえば当然だ。とはいえ、具体的な数字を聞いてわかったが、相当な落差があったのは事実。何が、それほどまでに仲田氏を惹きつけたのだろう。
「一口で言えば、『大阪王将』という会社の可能性かもしれません。私自身、一兵卒で入社するんですが、入社1年ぐらいで部門長に就任します。会社に、可能性があるからですね。当時の社長、文野からは『外食以外を大きくしてくれ』と言われます。当時は、外食が60億円、食品が5億円。外食以外を大きくするのが私のミッションですから、まずは、この5億円をどう大きくするか、です」。
実は、仲田氏は、イートアンドの株式上場にも貢献している。当時、常務だった仲田氏は、プロジェクトリーダーとなり、上場まで導いている。この上場においても、「食品事業」に対する評価はカギになったはずである。
「我々にとって大きな転機だったのは、生産事業に舵を切ったことだと思っています。外食事業も、食品事業も出口という発想です。つまり、収益の源泉がどこにあるかというと、外食でも、食品でもなく、生産機能なんです」。
むろん、「大阪王将」という絶対的なブランドがある。そのブランドによって、食品事業が成り立っているのは間違いない。つまり、「大阪王将」というブランドが、収益の根源でもあるのだ。このちからを、外食だけではなく、食品にも展開し、押し広げたことが仲田氏の功績だろう。
もっとも、いかに「大阪王将」のブランドをもってしても、「最初は、まるで相手にされなかった」と仲田氏はいう。いくぶんか怒りのニュアンスを含んだ、その口ぶりから、当時、第一線で奮闘した仲田氏の姿が思い浮かぶ。
ともかく、仲田氏の話を聞いていると、何度も「生産事業」というキーワードが登場する。この言葉が、ユニークだ。そもそも、外食企業が「食品事業」の比率を、これほどまでに高めた例はほかにないし、この言葉自体が「大阪王将」の原点回帰を表しているような気がするからだ。
・・・続き
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2018年11月5日月曜日

NewsTVに、武田あかねが出演。

NewsTVにうちの武田あかねが出演し、ドクターシーラボCEO城野氏と、アクアコラーゲンゲルについて語ってます。
↓ 

11月2日発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」)はビープラウド様(大山社長)です。

60代〜70代で頑張ってる人を応援!(キイストン寄稿)

11月2日発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」第5回(5/30社)は、ビープラウド様(大山社長)とそこで活躍されてる猿田留美子さん(60)です。
35歳から70歳までの男女から応募あり選考の結果、猿田さんが採用されました。

http://www.zakzak.co.jp/eco/news/181104/eco1811040001-n1.html

取材は弊社の元編集プロダクション社長で70歳の土金氏です!

(夕刊フジより)
「over60(ロクマル)世代応援企業30」の取材を70歳の元編集プロダクション社長の土金さんにお願いしております。
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【氏名】土金哲夫(ツチガネテツオ)
【生年月日】昭和23(1948)年9月25日
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2018年11月1日木曜日

株式会社パズルフードサービス 代表取締役 奥村 啓氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社パズルフードサービス 代表取締役 奥村 啓氏登場

本文より~

高校生まで。

今回はご登場いただいた奥村氏は、1967年2月7日、愛知県の東部に位置する新城市(当時は南設楽郡鳳来町/2005年に編入合併)に生まれる。
ご両親と兄と妹の5人家族。少々、複雑な家庭で、実母は、奥村氏が生まれた頃に他界されている。当然、今の母は義母で、その親子の関係が、多少なりとも奥村氏の人生に影を落としている。
「兄が頭のいい人で、その兄とことあるごとに比較されて育ちました。でも、べつに兄弟の仲が悪いわけでも、義母との関係が悪いわけでもなかったんですが/笑」。
奥村氏が生まれた頃の、新城市はどんな街だったのだろう。
「今は、新城インターができたんで、もっと近いですが、昔は豊川インターが最寄りで、40分くらいかかりました」。
「小学校は、全校で生徒80人」とも言っているから、都会から離れた街だったのだろう。
この街で、義母は、実母の仕事も引き継ぐようにして、祖母といっしょに衣料店を経営した。父は、上場企業である「トピー工業」の豊川支店で勤務されていた。
奥村氏と言えば、とにかく、引っ込み思案で、素直だったそうだ。
ただ、引っ込み思案と言いながらも、小学生時代から副児童会長を務めている。
「中学からテニスをはじめました。私とテニスがマッチしたんでしょうね。副キャプテンを務め、なかりいい成績を残しました。でも、いい成績を残したのに、高校に進学してもテニス部から声がかからない。『アレ?』って感じで。ハイ、高校からは卓球です/笑」。
テニスや卓球をやりながら、実は、中・高でも生徒会の役員を務めている。みんなから推薦されるタイプなのだろう。ちなみに、高校での成績は入学当初13位。卒業する頃は30位。卓球や生徒会に奔走しながら、成績をちゃんとキープしているからすごい。
「すごいですか? なんだかんだいって、この頃がいちばんしんどかったですね。兄と比べられる。そのプレッシャーもハンパなかったですし、勉強の意味もわからなかった。親からも、みすてられていましたし…」。
「みすてられていた」と、奥村氏は辛辣な言葉を遣う。「高校時代には、もうもどりたくないですね」。その一言は、あながち、うそではないようだ。体より、心が疲れた3年間だったのかもしれない。

銀行、退職まで。

「高校を卒業したら、東京へ」と思っていた。
もっとも、父親からは「愛知大学へ行け」と言われていたそうだが。とにかく、早稲田、中央、明治を受け、なんとか明治の経営学部に滑り込む。
住まいは、三鷹に設けた。ちなみに、仕送り100,000円。当時なら、充分な額だ。
「そうですね。バイトはあんまりしてないですね。しないっていうか、できなかったというのが正直なところで」。
大学に進学すると、誘われるまま、すぐに合気道部の門を叩いた。女子もたくさんいたが、上下関係は、一般の部活動以上にきびしかった。返事に「NO」はない。
「私は、2年から明治大学の全部活43部をまとめる本部会に役員として参加します。たまたま輪番制でうちの部から1人ださないといけなかったんですね。それで、『奥村、行け』と/笑」。もちろん、「NO」はない。
有無もなく、参加した本部会だったが、ある意味、これが奥村氏の人生のターニングポイントとなる。
「学園祭などのイベントの企画・立案・実行。学園祭ともなれば大学全体ですから、予算もかなりの額です。また、各部のキャプテンとマネージャーで行う合宿を企画・実行したのも、いい思い出ですね」。
思い出だけではない。社会にでてからも、そうそう経験できない大規模なイベントの企画や立案、実行を通して、ちからと自信を育てた。それは、独りで生きていくという自信を生み出したのではないだろうか。
やがて明治大学を卒業した奥村氏は、都市銀行に就職。融資課に配属され、高い成績を残したが、お役所的な上司をみて興味をなくし、2年で、その銀行を退職している。
・・・続き
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2018年10月31日水曜日

プロレスラー藤波辰爾選手と・・・・。

プロレスファンの私としては最高の1日でした。
夢をドリームハーバーの小林社長に叶えてもらいました。
(プロレスラー藤波辰爾選手と)
(サインもらいました)

親戚の鳥居さんと・・・。

親戚の鳥居さん、東京出張で事務所に立ち寄ってもらいました。
話のテンポが合うので話してたら、あっという間でした。
 (キイストンの前から)
(駒八・八百坂社長と)

10月30日発行の日刊ゲンダイの“社長の私生活”に「REED 」の樺山重勝社長の記事出ました。

10月30日発行の日刊ゲンダイの“社長の私生活”に「REED 」の樺山重勝社長の記事出ました。
樺山さんとは長く深いお付き合いです。
それもうちの当時の担当がチョンボしてくれ、いろいろあったおかげかも・・・(笑)
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2018年10月29日月曜日

株式会社ドリームハーバー 代表取締役 小林正治氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”元プロ競輪選手の株式会社ドリームハーバー 代表取締役 小林正治氏登場
本文より~

将来の競輪選手、3歳からバイクに乗る。

競輪は、公営ギャンブルであると同時にスポーツでもある。平均時速は60キロ前後で、ゴール前には70キロにもなるそうだ。トップクラスの選手になると、賞金額は年間億単位となり、実は、今回ご登場いただいた小林氏も、選手時代には数千万円の賞金を叩き出していたそうだ。
小林氏が生まれたのは1973年で、千葉県柏市出身。父親は牛乳屋を営んでいた。当時、牛乳は新聞同様、各家庭に配達されていた。朝、牛乳瓶を受け取る箱のふたを開けると、いつもの牛乳が配達されているという格好だ。
「ぼくは3歳からバイクに乗り、モトクロスを始めるのですが、そのきっかけとなったのが、うちの仕事。当時、バイトをしていた人に触発されて、スタートするんです」。
少年にはバイクに乗って牛乳を配る姿も格好良く映ったのだろう。
「小学校に上がってからも、モトクロスをつづけ、大会では結構、優勝もしていました。関東大会でも、ブイブイ言わせていた、と思います/笑」。
結局、大学2年までモトクロスをつづけている。

首席で卒業し、デビューから、怒涛の11連勝。

「中学になると、さすがに『親から勉強しろ』って言われますが、もちろん、モトクロス中心です。東洋大学付属高校に進み、こちらでもモトクロス。そして、立正大学に進学してからも、モトクロスがぼくの生活の中心だったんですが、知り合いの1人に競輪選手がいて、彼に誘われるようにして競輪選手をめざすようになります」。
同じ2輪だ。しかし、駆動力は別物。片やガソリンエンジン、片や人力。そう簡単に、転向できるもんなんだろうか。
「2年の終わりの、3月から本格的にスタートします。そして、22歳の時に競輪学校に入学しました」。競輪選手になるためには、競輪学校を卒業しなければならないからだ。期間は1年。
翌年、つまり、23歳の卒業時、小林氏は、首席で卒業という快挙を残し、23歳でプロになっている。その後の躍進がめざましく、卒業記念レースで優勝してから、11戦連勝。競輪界に突然、ヒーローが現れる。ちなみに、競輪にはランク付けがあるのだが、小林氏はすぐに最上級の「S級」に昇格している。
「いい時には、年収は数千万円単位になった」ともいう。引退は38歳の時。退職金は、億に達した。資金も豊富である。
今度は、競輪選手から経営者に、今度も華麗な転向を遂げるのだろうか。

飲食店「めんこや」オープン。

いまも小林氏は様々なスポーツを楽しんでいる。「いまはちょうどゴルフにハマりだしたところ」と笑う。
では、スポーツはひとまずおいて、小林氏と飲食の関係も綴っていこう。
「私が飲食店をオープンしたのは、実はまだ現役だった30歳の時です。もちろん、オーナーが私で、お店は人に任せていした。ハイ、当時からお酒が飲めるうどんのお店がコンセプトです」。
メニューは『肉汁うどん』など、「当時、そうなかったつけ麺のスタイルがうけて」、大ヒットしたそうである。
「アレ? 簡単じゃん、みたいなね/笑」。
競輪も、そうだった。モトクロスだって、最初から巧かった。ついでにいえば、いまになってはじめたというゴルフだって、初のコースでいきなり105を叩き出している。
1号店は、15坪。家賃30万円。月商は1000万円に迫った。初期投資は、2000万円くらい。半年以内に投資額は回収したそうだ。
ただ、店を任せいていたスタッフとの間が、うまくいかなくなった。
・・・続き
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2018年10月22日、創業して丸26年経ちました。

10月22日は創業記念日です!!
創業してから早いもので、丸26年経ちました。
いつも創業した初日の気持ち忘れずです。
(三竹さんより贈ってもらいました。)

今年は皆で、食事含め会社行事をやりました。
これからも、この10月22日だけは大事にしたいので来年も
会社行事入れる予定です。
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

10月26日発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」は、ベルギービールの輸入・卸等展開されている「EVER BREW」様です。

60代〜70代で頑張ってる人を応援!(キイストン寄稿)
10月26日発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」第4回(4/30社)は、ビア・ガーデン、ベルギービールやワインの輸入・卸などを展開している「EVER BREW」(菅原社長)のベルギービール事業で営業を担当している黒田重喜氏(76)です。
新しいモノへの好奇心や柔軟性が豊富で、黒田氏は若い社員にも人気があります。
また、社員の飲み会などにも積極的に参加され、若い世代の方とも気軽に会話されています。
(夕刊フジより)
「over60(ロクマル)世代応援企業30」の取材を70歳の元編集プロダクション社長の土金さんにお願いしております。
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2018年10月26日金曜日

株式会社ポッカクリエイト 代表取締役社長 上野 修氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ポッカクリエイト 代表取締役社長 上野 修氏登場
本文より~

1961年、生まれ。

ポッカクリエイトは、1994年、株式会社プラザクリエイトとポッカコーポレーションの合弁で誕生する。主力ブランドは「カフェ・ド・クリエ」。「いっぱいのしあわせ」をブランドコンセプトにしたカフェチェーンである。店舗数は2018年8月現在で201店舗を数える。
さて、今回、ご登場いただいたのは、このポッカクリエイトの代表取締役社長、上野 修氏。1961年、大阪市の生野区で生まれている。
1960年代の大阪市内は大気汚染がひどく、その影響からか幼少の頃は病弱で、家に籠ることが多かった。母親の実家である倉敷に帰省する汽車に乗ることが楽しみで、鉄道好きなのもこの頃から。小学校に上がってからも本や地図が好きな、どちらかといえば大人しい子どもだった。
母親は教育熱心で、1年からそろばん、3年から習字、4年から英語を習わされた。当時、小学生から英語を習う少年は少なかった時代である。正直いずれも身に付いていない。人から「やらさせる」のは本意ではなく、これは今の仕事の考え方にも通じている。
体の方は、小学3年生の時大阪郊外の枚方市に引越したお蔭で、元気な体になった。枚方は府内とはいえ、自然豊かな丘陵地で住みやすかった。
スポーツ少年が多い飲食の経営者の中にあっては、珍しいタイプである。とはいえ、中学に入ると1年間とはいえバスケットボール部に所属。その後もワンダーフォーゲル部に所属している。
面白いのは、「落語研究会」にも所属したことだろうか。中学に、いわゆる「落研」があるというのは、初めて聞いた話である。

交野には、邪馬台国がある。

高校は、自宅よりさらに山に近い交野高校に進学した。こちらでも部活動はちょっとかわっていて「郷土史研究部」に入部している。さらに、「郷土史研究部」の先輩が立ち上げた「鉄道研究部」にも所属していたそう。
「交野や枚方のある北河内地方って歴史のある土地なんです。うちの高校も古墳の上に建っていて。裏山に行けば石窟もあって、畑からは土器の破片や矢じりも出てくるんです。それも、ふつうに/笑」。
「郷土史研究部」の新入生の勧誘がふるっている。
「邪馬台国は交野にあったかもしれない。一緒に探そう」だ。「いやそれはないだろう」と、絶対的に否定できないのが、歴史のロマンである。
「そうですね。邪馬台国で釣っても、部員は全部で10人くらいです。もっとも、もう一方の鉄道研究部は、最初は先輩と2人でしたから、10人でも多いですよね/笑」。
アルバイト先も変わっていて、「文化財研究調査会」という、なんとも歴史的な響きがする団体だった。
「日当は1000円、弁当付き。いくら昔とはいえ、こんなバイトってないですよね。でも、私たちには充分でした。仕事は何かというと、畑での土器の破片や矢じり探しとか古墳発掘のお手伝いです。アルバイト代としては安かったですが、当時同志社大学の考古学専攻を目指したのも、このゼミ出身の職員や先輩たちの影響です。中学の時はあまり勉強した記憶はないのですが、高校では先生にもめぐまれて。ハイ、勉強も楽しくなって、学年の上位になりました」。
周囲の意見もあり、結局同志社には行かず、1浪してキャンパスの美しさが気に入って関西学院大学に進んだそうだ。ちなみに、大学でも所属したのは「歴史探訪会」。この頃には鉄道の趣味が高じて、アルバイトをしては全国を鉄道で旅行した。今でいう「乗り鉄」。北海道は夏と冬各1周、九州・四国なども回った。鉄道と歴史好きは今も変わらない。
就活では食品メーカーを中心に、鉄道会社、テレビ局、公務員など受けた。だが、思うようにはいかない。最終的に選択したのは、内定をくれた「ポッカコーポレーション」だった。
「当時全く、社会人になるという就職観っていうのがなかったですね。今思うと、そりゃ、通りませんよ。今当社に面接に来る学生さんたちの中にも、いますね。昔の私そっくりな子が/笑」。
「私にそっくり」という言葉には、まだ就職観のない学生たちへの「励まし」が含まれている気がしなくもないのだが、どうなんだろう。ともかく、そうして、上野氏はポッカコーポレーションに入社する。

「1年で辞めて、再就職」が描いたシナリオ。

「もともと1年で辞めるつもりだった」と上野氏は笑う。「にもかかわらず、もう30年以上ですからね」と苦笑いしてから、理由を語ってくれた。
「ポッカは名古屋の会社で、関西の出身者が少なく、勤務地は大阪だろうと思っていたら、いきなり東京です。根っからの関西人にとってイヤだなと思ったんですが、初めて住んだ東京は魅力的で、また素晴らしい上司に恵まれました。それに当時、ポッカは業績が絶好調で、私が入社した2年目には上場も果たした頃で、毎日が充実していました」。
会社の売上も、上野氏が入社して5年で倍増したそう。その業績を牽引していたのが、何を隠そう上野氏が配属された東京支店の営業部だった。主力商品は、ポッカコーヒー。通称、顔缶もしくはショート缶。
たしかに当時、ポッカの缶コーヒーを街のあちこちでみかけるようになった気がする。
「当時は、UCCさんの缶コーヒーがトップブランドだったんですね。そのUCCさんのコーヒーをうちのコーヒーが猛追したんです」。
「時代背景も良かったんだと思います。コンビニが出店攻勢をかけ、自動販売機が次々、設置されていく時代です。私たち営業からすれば、正直、置けば売れていくような時代でした」。
だからといって、甘やかされたわけではない。
「同じ課の先輩からは、『食品メーカーの社員なんだから、食のプロでなければならない』『世の中で美味しい言われるものは何故か、身銭を切って考えろ』『東京は流行の最先端の都市だから、日々の変化を体感しろ』とか言われました」。
先輩の言に従って、身銭を切って食べ歩き、流行の発信地でもある渋谷や銀座などの街をせっせと歩きまわった。
「何ヵ月も続けていると、だんだん嗅覚っていうのかな、感度が鋭くなって。次にどんな店が流行るかもわかるようになるんです」。ネットもなくグルメ雑誌なども少ない時代に、自分の舌と足で得た体験や情報は自信にもなった。
そして、営業として7年が経ち、本社のマーケティング部門(食品部)に異動する。
「スープを2年、レモンを2年」と上野氏。
ご存知のようにレモンは、ポッカコーポレーションの創業からの主力製品であり、スープは飲料に次ぐ新たな柱を目指すカテゴリーだった。「こちらに異動してから、創業者の谷田利景社長から直接、薫陶を受けることができました。『あるべき姿を常に考えろ』『サラリーマン根性ではいけない』などなど。これらは今社長になった私にとって、何よりも大きな教訓となっています」。
たしかに、そうだろう。谷田氏といえば、バーを経営する時代にレモン液を開発し、一代で、上場企業を築き上げた人物だ。財産にならないわけがない。
「熱量がハンパじゃなかった」と上野氏は、そう語っている。
とにかく、その創業者から直接、薫陶を受けることができた。もっとも上野氏は「薫陶」といってから、「バトルだったかな」と言い直しているのだが。
「本社での4年間は内容の濃い期間でした。当時飲料全盛だったポッカの社内にあって、食品事業が将来の柱になると見据えて、当時は赤字事業だったスープ、創業の製品ではありながら注力されていなかったレモンのマーケティングに関わり、その後主力事業になっていったのはいい経験で、自信にもなりました」。
・・・続き
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2018年10月23日火曜日

2018年10月22日月曜日

青山学院大学にてソラノイロの宮崎千尋社長が講義されました。

10月18日、青山学院大学・総合文化政策学部・堀内ゼミにてソラノイロの宮崎千尋社長の講義スタートしました。
99年青山学院大学卒で、一風堂卒業され、ミシュラン3年連続獲得され、現在5店舗のラーメン店経営されております。
何故、他のラーメン店に無いベジソバ始められたか、奥深い内容です。

2018年10月20日土曜日

10月19日発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」は、ゼネラルマネージメント様です。

60代〜70代で頑張ってる人を応援!(キイストン寄稿)
10月19日発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」第3回(3/30社)は、ムーブ様(江戸社長)含めた3社が出資のゼネラルマネージメント様とそこで活躍されてる鳥原隆義担当部長(67)です。
取材は弊社の元編集プロダクション社長で70歳の土金氏です!
ライター
【氏名】土金哲夫(ツチガネテツオ)
【生年月日】昭和23(1948)年9月25日
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2018年10月16日火曜日

株式会社BE FREE 代表取締役 林 卓氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社BE FREE 代表取締役 林 卓氏登場
本文より~

14歳、旅のはじまり。

ある年の夏。三重県の伊賀上野市にある、近鉄線の駅のホームで1人の少年が電車を待っていた。「中学2年の夏のことです」。向かうのは、終着駅でもある「近鉄難波」駅。
「夏休みですから、旅行者だと思う人もいたと思いますが、ぜんぜんちがいます。大阪で暮らそうと思っていたんです。ハイ。あては何もありませんでした/笑」。
貼り紙でみつけた中華料理店に住み込みでやとってもらった。
「正体は、薄々、気づいていらしたようですが、黙認してくださったようです。仕事はホールじゃなく、キッチンでした」。この時から、料理の世界に入るのだが、それは、たまたまの話。異なる貼り紙をみつけていたら、違う仕事をしていたかもしれない。
「私が大阪に来たのは、音楽がしたかったからです。小さな頃は野球が好きで、小学3年くらいからは、四番でエース。実は、中学でも評価していただいて、1年の時から四番で、エース。スカウトの目にもふれていたようです。私自身も、プロ野球選手にって思っていたんですが/笑」。
何気なく観ていたテレビで、「X JAPAN」を観る。それが、すべてのはじまりだった。「YOSHIKIさんを観て、突然、何かが弾けて。まだ、野球もつづけていましたが、小学6年生からドラムも独学ではじめます。音楽への思いが、だんだん大きくなって」。
その思いを抑えきれなくなったのが、中学2年の時。
「このまま『伊賀上野』ではあかんだろうと、大阪に出るんです」。
それが、14歳。旅のはじまりである。

14歳の、ドラマー。

中学2年。ご両親も、よく許してくれたものだ。
「長男ですからね。私も反対されると思っていたんですが、ぜんぜんOKでした。ほんまにええんか?ってこっちが心配になるほどでした。でも、『行くからには、一切援助しない。ぜんぶ1人でやれ』と言われました」。
きびしくされたのは、息子の覚悟を大事にしたかったからだろう。その一方で、一度、言い出したら聞かない性格も、わかっていらっしゃったはずだ。
「学校には、時々、顔をだしました。ええ、先生も公認です。無事、卒業はできて、卒業証書は郵送されてきました。もちろん、高校なんて考えません」。
肝心の音楽のほうはどうだったんだろう。
「こっちもライブハウスの貼り紙でメンバーを募集しているところをみつけて。そうですね。特定のファンの方はいらっしゃいましたが。まぁ、そんな感じだったですね。なんといっても、大阪ですから、音楽の世界ではローカルです。メジャーなんて話になるには、やっぱり東京だと、19歳の時に1人、新幹線に乗りました」。
当時のメンバーは5人いたそうだ。全員18歳、オーバー。
年下の14歳の林氏をみんなが、かわいがってくれた。林氏のパートは、ドラムと、ボーカルだったそう。練習は、真夜中から朝まで。「独学ですね。楽譜を買うお金もなかったですから、耳で聴いて、それで楽譜をつくって」。

メジャーデビューをめざして、上京。

せっかく出会ったメンバーと別れてまで、上京する。それが、19歳の時の覚悟。
「まず、新宿ですね。もともと大阪でも、中華以外に少しだけイタリアンをやっていたもんですから、新宿のウエディングイタリアンのレストランで。そうですね、1年半くらいはたらきます。1年もいると東京のこともわかってきて、そりゃ、やっぱり渋谷だろう、と、渋谷のイタリアンカフェに移ります。ここで、すべてがかわりました」。
どういうことだろう。
「あくまで仕事は音楽のためです。ただ、その一方で、料理が好きになっていきます。14歳から中華でしょ。そして、イタリアンです。キャリアも、それなりにあるわけですから、自信も少しばかり出てきます」。
そんなある日のことだったそう。
「1人のお客さんが、『このパスタをつくったのは、だれだって』って凄い剣幕でキッチンまでずかずかやってくるんです。もう、怖くって。渋谷っていうのは、こういう怖い客がいるんかって/笑」。
ただ、すぐにわかったことだが、林氏が「客」といったのは、そのカフェを経営する会社の部長で、2代目社長候補だった。しかも、その会社は、林氏いわく「でかい会社」で、実際、日本の食に大きな影響力をもつ食品会社だった。
「こわごわ、『ハイ』っていうと。『そうか。ちょっとうえに行って話そうか』と言われて」。
一口のパスタが、林氏の、もう一つの人生の、はじまりだった。「その部長さんは、なんでも私のいうことを聞いてくれました。音楽のことにも理解を示してくれて。そのうえで、いろんな便宜を図ってくださいました。1人ではいけない高級なディナーを食べに連れてくれたり。いや、とんでもない待遇でした」。
・・・続き
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2018年10月12日金曜日

母親十三回忌と父親の三回忌無事済ませることが出来ました。

足首骨折したので春に予定していた母親の十三回忌と父親の三回忌でしたが、無事済ませることが出来ました。
なかなか実家に帰れなかったのですが、よく実家の夢見ました。
墓参りしろって先祖から言われてたと思います。

無事終えた時、ふと見ると墓石に、なんとカエルが・・・。
もう両親はこの世にいませんが、なにかほのぼのしました。

夕刊フジ『 OVER60(ロクマル)世代 応援企業 30 』第2回はトリドールホールディングス様です。

60代・70代で頑張ってる人、働きたい人を応援!(キイストン寄稿)
社員とパート数合わせると延べ3万人が働かれてるこの会社は、定年は65歳ですが、健康に支障なく意欲あれば1年更新で70歳まで延長できます。
やはり通勤時間も年齢重ねてくると近い方が良く、今回取材した岡さんも自宅近くにあった丸亀製麺で頑張っておられます。
また、10年勤めると永年勤続を表彰する制度もあり、皆さんの励みになってます。
しかし従業員延べ3万人っていうことは、私の田舎の旧北桑田郡(京北の人口が5,600人、隣の美山の人口が4,000人)でも人口1万人の弱たがら、単純に3倍強!
スゴい雇用創出企業ですね。
ライター
【氏名】土金哲夫(ツチガネテツオ)
【生年月日】昭和23(1948)年9月25日
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