2018年7月10日火曜日

蒙古タンメン中本の株式会社誠フードサービス 代表取締役 白根 誠氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”蒙古タンメン中本の株式会社誠フードサービス 代表取締役 白根 誠氏登場。
本文より~

「中国料理 中本」、閉店は、終わりの始まり。

「中本」のなかでも、「冷し味噌ラーメン」は群を抜いている。極度の辛さのためだろう。メニューには「初めての方はご注意ください」と警告文が添えられている。それだけ辛い。
「オレね、辛党じゃないんだけど、こいつにはハマっちゃった。ヤミツキです。あの頃の、オレの食生活は、『中本』と、それ以外が1対1。つまり、『中本のラーメン』で暮らしているようなもんだった。朝、昼、晩って日もあった」。
今回、ご登場いただいた、「中本」二代目店主、白根氏が「あの頃」というのは、長い期間を指す。「そうだね。20歳から39歳までだから20年くらい」と笑う。それだけ、通いつづけた。
もっとも、最初から2代目に手を上げようと思っていたわけではない。そりゃ、つくるより、たべるほうが楽だ。
「でもね、あれはオレが39歳の1998年だね。『中本』が12月に閉店するっていう噂が流れてさ。『え、どうすんだよ』って。何しろ、オレの半分は『中本のラーメン』でできているようなもんでしょ」。
真相を確かめるため、当時の店主の中本正氏に「おじさん、店、閉めるってほんとですか?」と声をかけた。かけたが、曖昧な返事しか返ってこない。
「立場はちがうけど、20年来の付き合いだ。『そりゃねぇだろう』って思った。中本さんは、店閉めたら、それで済むんだろうけど、オレたちはどうなんだ。結局、噂はほんとうで、1998年の12月に『中国料理 中本』はいったん幕を閉じます。オレたち中本フリークは、もうジプシーになるしかない/笑」。

激辛、激旨ラーメン。最初の印象は、「なんだこれ」。

白根氏は1960年、埼玉の熊谷に生まれている。日本でいちばんの猛暑を記録した町だ。小さい頃から野球が大好きで、長嶋選手に憧れる。いまでも「3」は、白根氏のキーナンバーだ。小・中・高と進み、中学から空手をはじめ、高校ではバイクにハマった。高校を卒業してからは、いろんな仕事に就いた。「中本」に出会ったのは、前述通り、20歳の頃で、最初は友人に連れられてのれんを潜ったそう。
「最初はなんじゃこりゃ、って感じ、旨いなんてぜんぜん思わなかった。でも、それがすべての始まりだから、人生って不思議なもんだ」。
「中国料理 中本」についても少し触れておく。「中国料理 中本」は、1968年9月、板橋区にオープンする。創業者は故中本正氏。オープン当初は、当時、どこにでもある中華料理店だったそう。ところが、中本氏自身が辛いモノが好きで、「辛い」メニューが「中国料理 中本」の代名詞となる。代表作は、一味唐辛子を大量に加えた激辛スープと太い麺のラーメン。白根氏が、好物だった「冷し味噌ラーメン」は、なかでもランキング1位の辛さだった。
「毎日、行列で、中本さんもたいへんだったろうけど、食べるこっちもたいへんだった。おくさんと中本さんだけで運営されていたんだけど、昼の2時でクローズ。でも、行列がつづいているから、最後尾の客がラーメンを食べて店をでるのは4時くらいだったかな。それだけ、長い行列でした」。そうまでして食べたい「ラーメン」。白根氏以外にも大量のファンがいたことがわかる。どれだけ惜しまれて閉店したかも、想像できるというものだ。

「そりゃだめだな」。冷徹な一言。

「で、閉店してしまったわけでしょ。でも、『中本』のラーメンはやっぱり『中本』でしか食べられない。それで3ヵ月くらい経った頃、もうがまんできなくなってさ。電話をかけたんです」。
幸い、電話番号は以前のままだった。
「20年も通いつづけていたでしょ。中本さんも、声でオレってわかったみたい。それで、『少しお話があるんですが』って切り出したわけ。頑固な親父さんなのに、その時は、向こうから出向いてくださいました。そして、うちの近くの喫茶店で再会したんです。目的ですか? 『中本』をオレにやらせて欲しかったんです」。
何と大胆な発想だろう。それまでの白根氏に飲食の経験はない。まして、料理の経験もない。
話は2時間に及んだそうだ。白根氏は「中本」に対する熱い思いを語る。中本氏が「うんうん」「そうだね」と頷くたびにテンションが上がった。「これは、いけるんじゃないかなって。でも、最後の最後に、『そりゃだめだな』って」。
茫然とした。脈があると思いかけていただけに、落胆もした。「だめだな」の一言は、有無を言わさないほど、冷徹な響きを含んでいた。
「あとで聞いた話だけど、当時、オレみたいな奴がたくさんいたそうなんだ。みんなに『ノー』と答えている。たぶん、大手の企業さんからも声がかかったはず。でも、頑固もんだから、お金を積まれても『ノーは、ノーだ』っていったんでしょうね。昔の職人さんだから、大企業だって敵わないわな/笑」。
「それから少したって、今度は無性に『冷し味噌ラーメン』を食べたくなるわけです。このメニューは、春分から秋分までの限定メニューで、ちょうど春分の頃だったから、思い出しちゃったんだろうね。それで、もう一度、電話番号をプッシュしたんです」。
丁寧に、丁寧に、話した。ただ、今度は断られないだろうと思っていた。「だって、1杯、よぶんにつくるだけだから」。
話の流れはこうだ。中本氏も「冷し味噌ラーメン」が好き→今もつくって食べているはず→その時、よぶんに1杯つくってもらって、それをいただけないか→むろん、これならOKがでるだろう→もちろん、お金はいくらでもだす。しかし、返答は「そりゃだめだねぇ」、前回とおなじ結末。
「あの時は、正直カチンときたね。ケチって/笑。でも、あとで聞くと、これもオレみたいな奴がたくさんいたそうで、1人だけ特別扱いはできないってことだったらしい。でも、こっちは、電話を叩き切りたくなるくらい腹が立っている。それでも、あの時は、ぐっと受話器を握りしめて、『おじさん、お酒は好きですか?』って切り出したんだ」。

「半端ないって」社長取材の数。

もうすぐ650連載となる“飲食の戦士たち”ですが、
新人営業マン2人が頑張ってくれ、
なんと社長取材数がこの2ヶ月で50社ほど入ってます。
ほんとこれこそ、「半端ないって」。
96x96

株式会社ブランニュー 代表取締役 織野敏一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ブランニュー 代表取締役 織野敏一氏登場。
本文より~

国民食で勝負。

日本でもおなじみのカーネル・サンダース氏がケンタッキー・フライド・チキンを創業したのは65歳の時だそうだ。今回、ご登場いただいた織野氏は、カーネル氏より10歳若い55歳で「鶏唐揚専賣店」を創業した。
「おしながき」をご紹介すると、定番のしょうゆ、塩、にんにく入りのスパイシー、カレー、チーズ、甘だれ…、すべて100グラム、210円。お弁当もあり、こちらは税別で500円。毎日でも足が向く種類の数と値段だ。
ある調査によれば、「鶏の唐揚げ」は、人気ナンバー1の定番おかず。スーパーに行っても数十種類の「唐揚げ粉」が置いてある。それだけ、人気が高いということだ。
織野氏も「唐揚げは国民食でしょ。だから、勝負できると思ったんです」と語っている。
とはいえ、競争相手は少なくない。織野氏の経営手腕が問われる点だ。
では、その話に移る前に、いつも通り織野氏の足跡を追いかけてみよう。

テニス、スキー、飲み会、バイト、時々、勉強。

織野氏が生まれたのは1960年2月。品川で生まれ、横浜で育っている。2人兄弟の長男。
少年の織野氏は、当時は誰もがそうだったように野球が大好きだった。特定の球団はなく、とにかく強いチームが好きだったそうである。中学に進んでからはテニスを始め、高校時代には関東大会にも出場している。学業のほうも優秀で、高校は県内でもトップクラスの進学校に進んでいる。ところが、学業のほうは、高校入学後、徐々に順位を落としていったらしい。
「進学校ですから、ランク分けされるんです。AからEまで。このすべてにランクされた生徒はそういないんですが、私はAからEまで、すべて経験しました。学年トップクラスから、その逆まで。高校に進学してから、ぜんぜん勉強しなかったものですから/笑」。
高校時代はとにかくテニスと遊びに没頭した。学業はそっちのけ。
「大学は日本大学です。専攻は経済。こちらでも勉強より、テニスやスキーに飲み会やバイトっていう生活です。この時のバイトがきっかけで、大学卒業後、『ウエラジャパン』に就職します」。
どういうことだろう。
「バイト先の貸衣装店の社長が紹介してくれたんです。『君にピッタリのいい会社がある』と」。
織野氏が就職したのは、氏が22歳の時だから、1982年。「ウエラジャパン」が設立したのが、1972年だから設立から10年経過している。(ちなみに、2010年P&Gジャパンに統合され、現在、コンシューマー向けのウエラ製品は、コティ・プレステージ・ジャパンから発売されているそうだ)。
ともかく、バイト先の社長が、織野氏を紹介したのは、当然、織野氏を見込み、織野氏の性格も知ってのことだろう。
外資というのも、織野氏にとっては幸いしたのではないか。
こののち、織野氏はヘッドハンティングなどで転職を繰り返すが、当時の日本流の「はたらきかた」を知る者からすれば、枠にはまらない生き方自体が新しい。
ともかく、織野氏は、この「ウエラジャパン」で、織野氏はめざましい活躍をつづける。

打ち立てた金字塔。

入社しておよそ10年間、「社内の表彰を総なめにした」と織野氏は語る。入社、以来8年、つまり96ヵ月、連続で目標を達成しつづけたそうである。唯一、達成しなかったのは、入社1ヵ月目のみ。いまでも、そうそう破られることのない金字塔に違いない。
その活躍が、スカウトの目にとまる。
「ヘッドハンティングされて、ペットフードのメーカーに転職しました。そちらでも目標は常にクリア。1年後には東京支店の支店長に抜擢されました」。
独立採算制だったそうである。
「だから、そちらで経営全般を学ぶことができました。とくに流通や物流を学んだことが、そのあとの人生に役立ちます」。
やがて、二度目の転機を迎える。「また、ヘッドハンティングです/笑。今度は、美容室のチェーン店の本部です。そちらで110店舗の統括部長になります」。入社3年で31店舗のFC店をオープンし、敏腕ぶりを発揮する。
「こちらには8年いて、そこからまた引き抜かれて、大手の美容ディーラーに移ります」。
なんともはや。引っ張りだことは、こういうことを言うのだろう。
・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2018年6月26日火曜日

有限会社プロスパー 代表取締役 伴 克亘(ばん かつのぶ)氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社プロスパー 代表取締役 伴 克亘(ばん かつのぶ)氏登場。
本文より~

部屋に残された、6本の哺乳瓶。

首から下げた紙のボードには、母の字で行き先が書いてあった。幼稚園から小学校の低学年まで、長期の休みとなれば、初日から親戚宅に行くのがルールのようになっていた。「休みの初日に新幹線に乗せられて、登校日の前日に帰宅。それが定番」と、今回ご登場いただいた有限会社プロスパーの代表取締役 伴 克亘氏。
長期休暇になれば、京都駅のホームで1人、伴少年はボードを下げて新幹線を待っていた。それを「ヘンだ」と思ったことはない。「こどものことですからね。親戚の家に行くのも楽しみだし。なかには『ぼっちゃん1人でどこ行くの?』って言いながら、お菓子とかをくれたりする人もいたし…」。
親戚宅に向かう理由は、ご両親が仕事で忙しかったから。だが伴氏は「貧乏だったからだ」と表現する。「こどもの頃はぜんぜんそんな風には思っていなかったんです。でも、私の姉は、養女にだされていますし、住まいだって6畳一間。トイレ、風呂なし、です」。
伴氏は、生まれた時から「かぎっ子」だったらしい。両親は、6畳一間に伴氏と哺乳瓶6本を残して仕事にでたそうだ。おむつは、朝から母親が帰宅するまで、おなじもの。むずかって泣いても、だれも手を差しのべてはくれない。
「たまたま、哺乳瓶に気づいて飲んでいたんでしょうね。ごっつい生命力ですよね。我ながら/笑」。
むろん、哺乳瓶を一人で抱えて飲んだ記憶はない。しかし、「自立」という意味では、象徴的な話である。
「うちの両親は、親戚がやっている着物の染工場ではたらいていました。小学校の高学年になる頃には、私も手伝っていました。私の仕事は、親戚や工場のスタッフみんなで食べる晩御飯の用意です」。学校が終わると買い物籠を抱えて、商店街に向かう。肉に、魚に、野菜に。つまりは、買い出し部隊。
たいへんですね、というと、「ぜんぜん」と伴氏。馴染みになった肉屋のおばさんが、コロッケをくれたりしたそう。だから、せっせと買い物に向かった。もっとも近所の悪ガキにみつかり、せっかく貰ったコロッケを取り上げられたりもしたそうだが。
ところで、伴氏が購入した食材がテーブルにならぶと、とたんに争奪戦がはじまったそうだ。「はよ食べな、なくなるでしょ。16人くらいおるからね。そら、戦争ですわ」と伴氏は笑いながら、当時を思い起こした。

昭和の真ん中、その時代。

「貧乏だ」と言いながら、中学から私学に通っている。「そうですね。相当、無理したんとちゃいますか? 学校も大阪でしたし、私学に行くために、塾にも行かせてくれはりましたから」。
私学に進学はしたが、お金ができたわけではない。
「学校には食堂ってあるでしょ。うちの学校の食堂の食券は10円の綴りやったんです。で、端数がでるでしょ。それを貰いまくっとったんです。食堂のおばさんには『今日はきれいやなぁ』なんておべんちゃらを言うたりしてね。そういうたら、カレーを多目によそってくれはるんです/笑」。
食事にかかわる話は多い。
「ともだちの家に行くでしょ。そしたら晩御飯とか出してくれはるんです。その晩御飯が、もうぼくにしたら、レストランのディナーなんですよ。で、『むちゃむちゃうまいやんけ!』なんて言うてたら、お母さんが『毎日、食べにおいで』って。そりゃ、ありがたい話です」。
「そうですね。子どもの頃から誰彼なしに、可愛がって貰ったように思います。そういう才能はあったんだろうと思います。こいつちょっとかわいがったろか、みたいなね/笑」。
ともだちの弁当を分けてもらっていたら、翌日から2人分の弁当が用意されていたこともあったそうだ。昭和の真ん中は、そういう時代でもあったのだろう。

お客様は神さんです。

中学では卓球、高校ではアイスホッケー。「アイスホッケーなんて、大阪、ぜんぶ入れても3校しかありません。だから大阪大会では、絶対3位以内に入れるんです。うちは、弱かったから3位ばっかりでしたけど/笑」。伴氏はマネージャーだったらしい。
この頃は、「法律にも関心があった」と伴氏はいう。実際、大学も法学部に進んでいる。「そうなんです。法学部に進むのはええんですが、大学に進学して、初めてぼくは、うちが貧乏やと気づくんです。それで、迷惑はかけられへんから、学費も、生活費も、ぜんぶバイトで捻出し、仕送りまでしていました。だから、学生時代はバイト漬けなんです」。
当時の話を聞くと、バイトというイメージでは収まりきらない仕事ぶりである。「小さい頃から、勝手に料理をしていたんです。お袋が遅いとお腹が減るから。その料理を両親が食べて『旨い』ってホメてくれたこともあって。そういう原体験があったからでしょう。バイトは迷わず、飲食。当時、流行りだした『カラオケパブ』でバイトをはじめます。ぼくは、接客担当なんですが、そうですね、いちばんええ時には、月に40万円くらいもろてました」。
40万円。休みなくはたらいたのだろうと思っていたら、「自由出勤で、その額」という。なんでも、学生にもかかわらず、4店舗のマネージャーを務めていたそうだ。
「ぼく自身が楽しかったんやと思うんですわ。お客様ともいっしょに話もしますから、いろいろ教えてもらえる。啓発本っていう本があるのも初めて知りました。それに、話が盛り上がってきたらビールをぽんと開けて『のみぃや』でしょ。お金払ってもろて、いろいろ教えてもろて。なかには、休みの日に飲みに連れてくりゃはるお客さんもいたはりました。お客さんは、ほんま神さんです」。
「そうそう、思い出した」と言って、次のような話もしてくれた。「あいつにまけたくないとか、思うでしょ。でも、それって、勝ったら終わりやないですか。だから、『そんな仕事の仕方はあかん』って、お客さんに教えてもろたことがあって、ずいぶん長い間、ぼくの信念みたいになっていました」。
「なんのためにするか、ですよね。『お客様のためなら、一生やろ』って。そうですよね。たしかに、一生、終わることがない。貧乏もね。イヤヤ、イヤヤ言うてても、切りがあれへん。頑張って、貧乏やなくなっても、それで終わりでしょ。これ、真理ちゃいますか」。
・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2018年6月21日木曜日

6月から入社の新人A君、入社13日で大手2社の社長取材のアポイント10社!!

6月4日から入社の新人A君、大手2社から社長取材のアポイント取ってくれ既に10社です。
3週間目に入ってますが15社取れるかな・・・。
今期2人採用し、この1年は人材を育てる期間と考えています。
会社設立して26年目でスタッフはベテラン揃いですが、営業マンは平均年齢27.6歳と勢いあります。
企業の将来、また人の人生を左右する求人。
キイストンの理念を継承させ、少しでも早く権限委譲やっていくため社内改革も進めています。

96x96

2018年6月19日火曜日

有限会社トーホーエージェンシー 代表取締役 山崎一彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社トーホーエージェンシー 代表取締役 山崎一彦氏登場。
本文より~

妹の笑顔をみたくて。フライパンをふる。

角栄さんのお隣さんだったこともある。もっともこれは、羽振りがいいときのお話。6歳の頃、父親が事業を失敗してとたんに生活が苦しくなった。
2人いたお手伝いさんも、お抱え運転手ももういない。「私には8つ離れた姉と2つ違いの妹がいるんですが、母も仕事に出るようになってから、私が少しずつ妹のごはんを作るようになったんです。いま、思えばそれがすべてのスタートです」。
今回、ご登場いただいたトーホーエージェンシーの代表取締役 山崎一彦氏は、1970年、東京の深川に生まれる。父親方は、商売上手な人が多く、なかでも末っ子の父親は、経営のセンスで群を抜いていたそう。事業がいかに成功していたかは、上の話からも想像いただけるだろう。しかし、その父親が事業に失敗し、家を出ていくと、生活は前述通りいっぺんした。妹の笑顔をみたいと、せっせと料理をつくりだしたのは、それから。やがて山崎氏は、料理人になる。山崎氏が、妹のごはんづくりを指して、「それがすべてのスタート」というの頷ける話である。

リアルに感じたこともある。プロ野球の世界。

小学校の頃からだれからともなく慕われるタイプだった。あだ名は、会長。実際、生徒会長も務めている。作文を書いては、文部大臣賞を受賞。頭も良く、運動神経も群を抜いていた。野球をはじめるとすぐに注目され、中学ではシニアに進む。「でも、うちにお金がないでしょ。どうしても遠征なんかがあるわけです。だから、そのたびに風邪を引いたりして」。お金がないことを隠したかったわけではないだろう。たぶん、母親にも、チームメイトにも、気を遣わせないためだ。
山崎氏はそういう人である。
「高校はセレクションで、阿部選手も通った安田学園高等学校に進みました。最初は、『プロへ』という思いもあったんですが、それこそ、どこのチームでも四番、ピッチャーをやっていたような奴ばかりで。背番号は『3』でレギュラーでしたが、プロレベルでないことは、すぐに気づきました。大学進学ですか? ええ、進学せずに、就職です」。

かつての会長、就職する。

高校でも、山崎氏の周りには人がいつもいた。「不思議とどこにいても慕われた」と山崎氏。いまの山崎氏をみていると、当時のことが自然とイメージできる。「ええ、そうですね。オレが、オレがじゃないですね。どちらかというと周りを気遣う性格です」。
いま山崎氏は、アルバイトを含め、全スタッフの給料明細の裏側に気づいた一言を書き記している。もう、何年も前からつづけているとことだ。先輩、経営者を真似たわけではないらしい。はじめた理由をうかがうと、「ただ、『ありがとう』を伝えたくて」という返答。なんとピュアで、素敵な思いだろう。
この思いは、いまや山崎流の経営の背骨となっている。
ところで、話をもどすと就職の話である。
「うちの親父が8人兄弟の末っ子ってこともあるんですが、20歳くらい年の離れている従兄弟がいて、居酒屋を経営していたんです。そこに就職しました」。
従兄弟と言っても、特別扱いされたことはない。それがよかった。山崎氏は甘えることなく、修業をつづけ、ある人物と巡り合って、独立を果たす。これが、就職して17年経った35歳の時。その時、創業したのが、いまや大人気店の「鳥一代」だ。

お客様の心をわしづかみにした、オリジナル参鶏湯。

いまは本店となっている創業店は、JR田町駅(芝浦口)から徒歩2分の、ビルの2Fにある。「そうですね。路面店ではないので、『どうだろう』と思ってもいたんですが…」。
当初から、評判となった。特に参鶏湯をメニューに加えるようになってからは、TVや雑誌にもひんぱんに取り上げられるようなった。
そして、いまや参鶏湯専門店の様相だ。
「ありがたいことに、女優の川上麻衣子さんがいらして、絶賛いただいたんです」。
参鶏湯については、「実は、本をみて知ったんです。私は料理人ですから、鶏もさばけますし、鶏というのは、さばくと、とれる肉も少ないんですね。それで食材を無駄にしない方法を模索していた時に出会ったのが、この参鶏湯という料理だったんです」と語っている。
もっとも、山崎氏の参鶏湯には薬膳臭がない。薬膳は、当然、からだにいい要素の一つだが、あの独特の臭いが苦手という人も多いのではないだろうか。そういう人にとっても、山崎オリジナルは、受け入れられる。
グルメサイトの高得点も、このオリジナル性が評価されてのことだろう。
・・・続き
有限会社トーホーエージェンシー 代表取締役 山崎一彦氏
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2018年6月18日月曜日

女性セブンの表紙裏にまたまた、うちの武田が出ました。

6月14日(木)発売の女性セブンの表紙裏(表2・表2対向)にうちの武田がDHCの広告出てます。
武田から聞くところによると髪が洗練された色に染まり、持ちも抜群みたいです。
表紙裏とはすごいな。

日刊ゲンダイの『グルメ社長の食い倒れ日記』、デジタル版でも掲載。

日刊ゲンダイの『グルメ社長の食い倒れ日記』デジタル版でも掲載。
紹介された店舗、紹介する飲食社長、そして携わられる編集の皆さん。
まさに三方良しです。

PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

東大クイズ王伊沢VSとんかつ専門店“とんきゅう”クイズ対決動画アップされました。

東大クイズ王伊沢VSとんかつ専門店“とんきゅう”のクイズ対決動画が16日19時にアップされましたが、なんと丸2日で再生数10万超えました。
今、最も旬な伊沢君とつくば本社(元マイクソフト事務所)で17店舗展開しておられるとんきゅう様の動画作成に関係させてもらいました。
縁をつないでくれた現役医学生・ドクターNこと乗杉君に感謝!!
(伊沢君ピンチ?!)
 
                (日刊ゲンダイにも記事が・・・)
(弊社永野、風景撮ってます)
96x96

2018年6月12日火曜日

株式会社ISSEI 代表取締役 浅田一世氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ISSEI 代表取締役 浅田一世氏登場。
本文より~

中学でスポーツの名門校に進学。

サッカーで有名な三都主アレサンドロや相撲で有名な朝青龍ともおなじ寮だった。調べればわかるが、ともに明徳義塾に留学。つまり、今回、ご登場いただいた浅田氏も、高知にある明徳義塾出身である。
浅田氏の生まれは京都。小学6年生まで京都で暮らす。中学に進学する際、独り高知に向かい「明徳義塾」に入学する。浅田氏は「海と海、山と山に囲まれた陸の孤島」と表現する。
中学時代は野球に専念していたが、高校で断念。カラテ部に進む。
「だれもかれもスポーツ選手でなきゃだめな学校なんです。私は中学から野球でしたので、そのまま野球部に進もうと思っていたんですが、1週間で心が折れて(笑)。だって、段違いの奴らばかりで。『あぁ、こういう奴らがプロに行くんだな』って。でも、野球部を辞めても、どこかの部に入らないといけない。唯一ウエルカムだったのが、空手部だったんです」。
これが、地獄のはじまり。二度とあの頃には戻りたくない時間がスタートする。

青春の香りは、シャンプーとリンス。

明徳義塾では、ほぼ全員が、寮生活を送ることになっている。むろん、浅田氏も、寮生だ。寮生活は6年間に及ぶ。中学の時は、それなりに楽しかったが、高校に進学してからは、「ヤバイ」の一言だったそう。
「なんていったって陸の孤島です。しかも、きびしい監視下に置かれての生活です。そのうえ、高校に進学する前、食堂から酒を盗んで飲んだことがバレちゃって。要注意人物のレッテルが貼られました」。
要注意人物だったが、かなりの人気者でもあったそう。当然、目立つぶん、上級生からも何かにつけ、可愛がられた。とくに寮の先輩たちは、ひどかった。いろんな先輩がいるなかでも、いちばん悪い奴に目をつけられた。空手部の2年上の先輩。
「ちっちゃかったんです。だから、からかうにはもってこいだったんでしょうね。いまでは、その先輩とも親しいんですが、当時といったら」。
先生たちの監視下に置かれ、先輩たちには、顎で使われたた。それでも、青春の1ページはあった。「洗剤っすね。俺たちの青春は」と浅田氏。「服も決まっているし、恰好つけようと思ってもできるアイテムがないんです。頭はみんな丸坊主だしね。唯一の楽しみが、洗髪の時のシャンプーやリンスなんです。あれのええ奴で、ね。ええ匂いがするでしょ、それが、唯一のおしゃれで」。
実は、禁断の山にも登ったことがあったそうだ。山の上にあるのは、女子寮。どうやっても、侵入できなかったらしい。こちらも青春の1ページ。ブランド物のシャンプーとリンスでキメて、頂をめざしたのはいうまでもない。
ちなみに、奥様も、実は明徳義塾の出身。1つ下らしい。「まぁ、いろいろあった中・高ですが、卒業する時には、さすがにウルウルきちゃいました」。
ところで、浅田氏は、空手でインターハイにも出場している。先輩が目をかけてくれたおかげでもある。「あんだけいじめられたら、そらぁ、つよなりますよ」。
浅田氏はそう言って笑う。卒業することで、たしかに少しだけ、笑い話となった。

肉が食えるんちゃうかな。未来の取締役は、そう思ってバイトを始めた。

「卒業したら駒沢大学に進学する予定だったんです。空手部のルートです。でも、それってヤバイでしょ。だって、そんな大学に行こうもんなら、あの、イヤな先輩たちがいるわけですから」。
それで、進学を断念し、「吉本」に入った。「吉本ってあの『よしもと?』」 「そう、あの『よしもと』です。1年間は関西、2年目に東京進出です。進出っていったって、時々、舞台にでるくらいです。アルバイトしないと生活もままならない。トラジのバイトをスタートしたのは、東京に行って1年が終わろうとしている頃ですね。それまで、どっちかっていうと、アルバイトっていっても独りできるような奴ばかり。だんだんさみしぃなってきて。みんながしているような『ふつうのバイトしてみよかな』って思うようになった時に出会ったのが『トラジ』です」。
貼り紙をみて、ココだと思ったらしい。「何しろ焼肉屋でしょ。肉、食べられるんちゃうかなって」。単純な動機だが、それで人生が決まるのだから不思議なものだ。
「ほんまですね。アレが俺のはじまりですもんね。それから、いうたら、ずっと肉です」。
ちなみに、浅田氏はトラジで取締役まで昇進。代表取締役社長 金 信彦氏の懐刀にもなる。

独立するも、独学でつくったラーメン、マズし。

「トラジを辞めたのは27歳の時です。その時には、取締役で、営業本部長も兼務していました。すると、会議ばっかりで、いうたら、会議室で缶詰です。そんなん、ぜんぜんおもろないでしょ。それで、社長に『辞めます』っていうんです。でも、なかなか辞めさせてくれへんかったけど、ある日、金さんから『飯でも食いに行こうかって、言われて』。そこで『わかったって』はじめていうてもろたんです。だいたい半年くらいかかりましたっけ」。
「それで独立?」
「そう、それで独立です。でも、焼き肉はあかんわけですよ。義理もありますから。それで、ラーメンです。インターネットで調べて、つくったんですが、みんなが『めっちゃマズい』って(笑)」。
「でも、まぁ、客はいないこともなかったんです。とくに深夜は。ただ、『ラーメン』はマズいからだれも食べない。つまみと、酒で、みんなとしゃべりに来て、帰らはるんです。ま、そんなわけですから、赤字です。それで、金さんにも了解してもらって、焼肉屋をはじめます。こっちは、俺のフィールドですからね。失敗するわけはない」。
実は、トラジからの支援はいまも受けている。トラジのセントラルキッチンを利用させてもらっているのは、その好例。1号店には、金氏も出資してくれているそう。
「あれがなければ、独立なんて無理だったですね。いま、資本は50%・50%です。金さん抜きでは、考えられないです。いまも感謝がたえません」。
むろん、金氏の行動は、期待の表れでもあった。しかし、目をかけ育て、独立も支援してきた浅田氏が途方にくれていたことは、どれだけご存知だろうか?
つい3年前、つまり2015年の話である。
・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2018年6月11日月曜日

巨匠“篠山紀信”×ビオレの「肌」プロジェクトに武田が・・・。

うちの武田あかねが、あのカメラマンの巨匠“篠山紀信”に撮ってもらったのが出ました!
テーマは肌。隠さない素顔の瞬間です。

日刊ゲンダイで好評の「グルメ社長の食い倒れ日記」。

日刊ゲンダイで4月からスタートした好評の連載記事「グルメ社長の食い倒れ日記」の第2クールは物語コーポレーション治社長でした。

PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

今年も大学生と飲食店とのコラボ始めます!!

昨年に続き、今年も大学生と飲食企業とのコラボのサポートします。
今年は2社同時開催とやったことない企画です。

先生と企業様との顔合せも終え、さあ来年1~2月頃の発表までサポートしていきます。
96x96

2018年5月29日火曜日

ハイライトインターナショナル株式会社 代表取締役 和田高明氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”ハイライトインターナショナル株式会社 代表取締役 和田高明氏登場。
本文より~

家族団らん。テレビはNHKと決まっていた。

今回、ご登場いただいた和田氏が生まれたのは1982年。出生地は東村山だが、すぐに町田市に引っ越している。兄弟は男子ばかりの3兄弟。父親はNTTの開発部長を務めた技術者。母は小学校の教師。英才教育と思いきや、案外、自由奔放な家庭だったそう。もっとも、父親の方針でバラエティ番組は禁止。7時からTVのチャンネルはNHKとなり、7時30分からは「クローズアップ現代」が定番だったという。「そういえば、ゲームも買って貰えませんでした。だから、自分で絵を描いて、当時は流行っていた『ストリートファイター』のオリジナル版をつくっていました。サイコロを投げて『1』がでれば『波動拳』みたいな/笑」。
ないものは、つくる。「ない」で終わらない。「そうですね。ゲームを買って貰えなかったおかげで、さみしい思いもしましたが、自分で工夫したり、発想したりすることはできるようになりました。そういう意味では、親父にも感謝です」。
TVは、NHK。ついでにいうと新聞は日経。だから、中学に上がる頃にはBSやPLを読むことができたそう。「だからといって、学校の成績がいいってわけではなかったです。テストはそう悪くなかったのですが、教師からみればやっかいな奴だったので/笑」。
「気に入らない奴は、殴った」と和田氏。高校に進むと、拍車がかかり、3年になって「退学をさせない」と謳う学校だったにもかかわらず、退学寸前まで追いやられた。真面目な父親に対する反抗もあったんでしょうか?と聞いてみた。「どうでしょう。子どもの頃って悪い奴に憧れるじゃないですか。私が16歳の頃は、ヒップホップやレゲエが流行っていたんです。『ボブ・マーリー(ジャマイカのレゲエミュージシャン)』の映像を観て、彼に憧れます。私がちょっと危ない道にそれたのも、そういう憧れの延長だったと思うんですが、たしかに、やりすぎました/笑」。
高校時代、和田氏の餌食になったのは、10人くらいに及んだ。素行と態度をみかねた当時の担任が、3年生の2月になって「大学に進学しろ」と迫った。大学進学か、退学かの二者択一だったかもしれない。
「そうですね。あの、先生の一言がなかったら、ちょっとヤバイ社会の方向に進んでいたかもしれません」。いまでも、その先生には感謝している。

新人が、1割以上の値上げを勝ち取る?

大学を卒業し、和田氏が入社したのは、米久株式会社という静岡県沼津市に本社がある一部上場の畜産メーカー(2016年に伊藤ハムと経営統合し、現在は「伊藤ハム米久ホールディングス」となっている)。むろん、和田氏が入社した頃は、ずいぶん前の話。この「米久」で、和田氏は1年目から頭角を現す。
「ふつう1年間はアシスタント的な仕事で、直接営業はさせてもらえないんですが、アシスタントっていうのが、どうもつまらなかった。だから、支店長にお願いして私だけ2ヵ月目から営業に出してもらいました。ええ、ぜんぜん、だめです。だって専門用語一つ知らないんです。それで、注文されたのと違う商品を納品したりして『ふざけんな、てめぇ』みたいな/笑」。それでもめげない?「そうですね。当時から独立しようと思っていましたから。やるからには、これくらいでめげていちゃだめで、少なくとも、『いちばん』を取るまで辞められないと思っていたんです。でも、なかなか売上数字は上がらないんです。それで」。
子どもの頃から、「ない」ものはつくってきた。「ある」ものは、それをもとに工夫してきた。実は、学生時代も、誉められたものではないが、いままでのしくみをアレンジし、独自のビジネスを行っていたことがある。その発想が、ここでも活きた。
「売上はどうしようもない。でも、利益だったら勝負できるんじゃないかなと。それで、当時、1キロ800円だったウインナーを100円、値上げしてみたんです」。
いきなり1割以上の値上げだ。乱暴すぎなかったのだろうか。「でもね、先輩に『何で800円ですか』って聞いても、みんな、『そういうもんだから』ってしか答えない。基準がないなら言ったもん勝ちかもしれないと、あるお得意さんに『900円になりました』って言ってみたら、『いいよ』って」。
なんのことはない。いままでが安すぎただけだった。何も知らない新人だからの、快挙である。これ以来、ウインナーの値段はキロ900円がスタンダードになる。
利益に目を向けた和田氏の快進撃はつづく。1年目から担当した顧客からの利益を2倍にする。翌年には3倍に。3年目には「大口顧客」を担当させて貰えるようになった。

めざすは、いちばん。

営業を4年やって、本部に2年。営業時代は、当初、目標とした「いちばん」を手放さなかった。「営業だけで1500人くらいいましたから、全指標でっていうのは無理でしたが、とにかく何かで「いちばん」になろうと、がむしゃらに頑張りました」。
米久時代を振り返って、「とっても勉強になった6年間だった」と和田氏はいう。長時間労働を改善する為に入社半年くらいで、当時の支店長を始めとする支店幹部に売上、利益を下げずに改善する提案を行ったそうだ。「本来ならば相手にされない、社会人に成り立てのド新人とも言うべき私の提案にも関わらず、当時の支店長をはじめとする幹部の方々は話を聞いてくださり、採用していただきました。とはいえ、それらは長年続いてきた慣習でしたので、変わるまでは2年かかりましたが/笑。ただ、そういった提案を受けてくださる風土、何より幹部のかたがたにすごく感謝していますし、それらが現在の弊社の風土のひとつでも活かされています」(生産性を高めて、短時間で最大の利益を追求する風土)。
また、仕入れと販路のつくりかた。いうならば「入口と出口の戦略を学んだ」という。
本部に行ってからは鶏肉を担当し、仕入れはもちろん、販売企画なども担当するようになる。「もっとも」と和田氏。「いちばん勉強になったのは、『へこたれない精神』だったかもしれません。何しろ、年末ともなれば激務です。休みも、ちょっとしかない。現在は労務環境が劇的に改善されているので、今じゃ考えられないですけど/笑。でも、私はあのおかげで、仕事の本質まで知った気がしています。だから、感謝です」。
5年目から本部に異動させられたくらいだから、和田氏に対する評価は高かったのだろう。しかし、和田氏は、そもそも会社という枠にはおさまらないタイプ。本人曰くは、「組織に属するのが、苦手なタイプだ」そうだ。
・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2018年5月25日金曜日

今期2人目の新人営業マンが入ってきます。

6月4日、営業経験ある27歳新人営業マンA君が入社してくれます。
不動産営業やってたのである意味即戦力です。
会社設立26年目ですが、営業マンの平均年齢は27歳です(笑)
ちなみにスタッフの平均は43歳ですが・・・。

年度内であと営業マン1人増員できれば嬉しいです。
そのためにももっとワクワクすることし、会社も社員も成長してくれれば・・・。
96x96

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

今年で7年目を迎える青山学院大学・堀内ゼミにフードイズムの跡部美樹雄社長が講義されました。

今年で7年目を迎える青山学院大学・総合文化政策学部・堀内ゼミでの飲食経営者のゼミ講義がスタートしました。
今期最初は昨日24日、株式会社フードイズム跡部社長でした。
実はこのフードイズム様は明治大学との産学連携事業により、日本初の新製造技術、発酵熟成肉製造技術「エイジングシート」を開発され、ご自宅でも、熟成肉がつくれる科学が生んだ魔法のシートの展開もされています。
96x96

2018年5月23日水曜日

5月22日発行の日刊ゲンダイに「株式会社SSS」中山俊士社長の記事出ました。

5月22日発行の日刊ゲンダイの“社長の私生活”に株式会社SSS-スリーエス」の中山俊士社長の記事掲載されました。
(日刊ゲンダイより)

PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2018年5月22日火曜日

株式会社フードイズム 代表取締役 跡部美樹雄氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社フードイズム 代表取締役 跡部美樹雄登場。
本文より~

勉強ギライ。家庭科の授業で何を学ぶ。

9×9を諳んじられるようになったのは、小学6年生の時と跡部氏はいう。勉強にはまったく興味がなかったようだ。「兄貴は大学まで進みましたが、父親も、母親も中卒。私も専門学校卒です」。
跡部氏によれば、勉強しなくても怒られたことがなかったそう。「何をしても、文句は言われない。自由奔放。ただし、人の道に外れたことをした時は烈火のごとく、怒られました。そんな時の親父はハンパなく怖い。だって、ジャリトラの運転手でパンチパーマです。怒ると、そりゃ、むちゃくちゃ怖い」。
跡部氏が育ったのは、東京都のベッドタウン、千葉県野田市。跡部氏が進んだ公立小学校は生徒数、3000人のマンモス校。途中で分校したが、それでも生徒数は多かった。「生徒数が多いですから、頭のいいのも、悪いのもたくさんいます」。
もともと、ガラがいいエリアではなかった、と跡部氏。跡部氏自身は、中学からバレーボールをはじめ、部活に熱を入れるのだが、そうでなければどうなっていたかわからない。
こどもの頃の思い出を聞くと、小学校の家庭科の話が登場した。「授業で、りんごの皮をむくっていうのがあったんですが、私は1回でできちゃった。それで、ちょっと料理に興味がでて、小学生から天ぷらを揚げたりしていました」。もっとも当時から料理人になろうとは思ってもいなかったらしい。ただ、高校を卒業する際、「料理人」を選択した背景の一つであることは間違いない。さて、家庭科の授業は、どんな料理人を生み出すのだろうか。

就職前のモラトリアムと、寿司割烹で知った現実。

高校に進んだ跡部氏は、やはりバレー部に所属。「偏差値は県内でも下から数えたほうが早い高校です。しかも、私自身、高校生になってもまったく勉強しない。大学には行きたくないと思っていたし、そもそも合格できる大学もないと思っていたんですが、だからと言って、就職も頭になかった。もう少し自由でいたかったんです。実は、ただそれだけの理由で、専門学校に進みます」。
これは、卒業時の話。
専門学校は、都内にある「服部栄養専門学校」。「1年制の学校です。和・洋・中とあるなかで、私が選択したのは『和食』です。どうして、『和食』だったのか、今でも謎です。たぶん、フレンチも、イタリアンも知らなかったからでしょうね」。 専門学校でも熱心な生徒ではなかった。
「学校を卒業すると、就職です。私が進んだのは、立川で100年以上歴史のある寿司割烹の名店です。以来、数年、私の言葉は、基本『はい』だけです」。
めちゃめちゃ厳しかったと、跡部氏。給料は手取りで7万円。寮費3000円。朝8時から深夜まで仕事がつづく。むろん、失敗すれば罵声がとぶ。それでも、なんとか貫き通した。
「どうしてでしょうね。ただ、どこかで逃げちゃだめだって思っていたんでしょう。勤め始めて、3年。オヤジさんから初めて指令があって、『これからは、この店ではたらけ』と。ま、和食の職人はそうやって進んでいくのはわかっていましたし、そもそも『はい』としか言えないので、言われるままです」。
これが、社会に出て知った跡部氏の現実世界。一般的にみれば、特殊で、極めて厳しい世界だ。

駄目だ、の一言に救われた料理人、人生。

跡部氏の次の店は、砂町にある『割烹』。店主と奥様、そして兄弟子がいた。「ところが、兄弟子がしばらくして退職してしまうんです。すると、店主と奥様と3人です。新たなオヤジである店主には気を遣っていただいていたんですが、ある時、ふと、『俺って何をしているんだろう』って思っちゃうんです。朝から晩まで仕事です。昔の知り合いが、年齢給くらいもらっているに、20万円にもならない。そういうので頭が一杯になって、店にいるのが息苦しくなって。そして、涙を流しながら、店主に『辞めさせてください』っていって」。
頭を下げた。下げつづけたが、答えは『駄目だ』の一言だった。「涙まで流してお願いしたんですが、店主に『駄目だ』って言われると反論できません。そういうのがもうからだに染みついていて、条件反射です。ただ、そのあと、店主がうちの父親と母親を店に呼んで謝ってくれたんです。もうこれは裏切れないと、強烈に思いました。今でも、あの時の、店主の「駄目だ」の一言には感謝しています。あの一言のおかげで今があるんですから」。
実は、跡部氏、オートバイが好きで、整備工にでもなろうと思ってもいたそうだ。しかし、店主の言葉とやさしさが、跡部氏を料理の世界に引き留めた。
結局、和食の世界に跡部氏は10年いた。次に門を叩いたのは竹橋にある「うなぎ割烹」の名店。料理もそうだが、「熱」を知ったという。「私は、二番手として採用いただいたわけですが、その時の料理長が、たまらなく格好いい人で。初対面では、とても怖く気合いの入った職人という方でした。しかし、気持ちが熱く人を大切にする方なんだ」と、時間を共有する毎にわかってきた。
この時の料理長もまた、今でもリスペクトする1人。24歳から26歳まで、その先輩の下にいたことが「いちばん大きな経験であり、財産だ」と跡部氏は語っている。

脱、料理人。今度は、どこに行く?

「最後は、新橋にある和食店で、頭をはらせていただきました。給料も30万円。年齢給以上になりました」。頭となって、自由度を得た跡部氏は店の売上をとたんに伸ばした。「魚をずっとやってきたでしょ。だから、目利きもできる。それでオーナーに頼んで仕入れを任せてもらったんです。私自身が『これだ』と思う魚を仕入れて、さばいて、お出しするわけでしょ。お客様も、喜んでくださいますよね。それで、どんどん売上が伸びていったんです」。
たしかに売上は好調。ただ、その一方で、跡部氏は料理長になって、初めて「料理人」という仕事に対して疑問を抱いている。今度は、どうしようもない思いだった。
「ある常連さんが2人で来られた時の話で、連れの子がアパレルで働いていると聞くと、その常連さんは洋服は売るものじゃなくて着るものだぞとおっしゃていたんです。その時、あれ?おれも料理を作りたいのも事実だけど、食べることの方が好きだ!と気づいたんです」。
さらに、その頃デザイナーズレストランが流行りだし、老舗が廃業していく流れに時代は移り変わっていくタイミングだった。
「今までの師匠のように料理一本で生きていける時代ではなくなるのでは?このまま料理人でいいのか?と疑問を持つようになりました」。
「常連さんにオムライスのお店を経営されている人がいらっしゃったんです。話を聞いて、耳を疑いました。一杯500円のオムライスで、1日30万円だっていうんです。あるわけないでしょ。いや、あって欲しくなかった。だって、こちらは朝から晩まで仕事しているのに、ぜんぜん儲けがちがう。それで、考え方を変えたんです」。
考え方を変えたといっても、「食」にはもちろんかかわった。
「ちょうど、そのオムライスのオーナーが中国に出店するって話があって。私も海外に興味があったもんですから、手を挙げるんです。それが、27歳の頃です」。料理人の道は、ひょんな方向につながっていた。
・・・続き
株式会社フードイズム 代表取締役 跡部美樹雄
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2018年5月16日水曜日

1年前から練っていた新企画、次のステージに・・・・。

「飲食の戦士たち」に続くキイストンの強い武器作りのため、1年以上前から考えていたことをいよいよ形にする手前まで来ています。
皆さんに力になって頂き、世に役立つことしていきます。

96x96

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2018年5月15日火曜日

株式会社GRAST 代表取締役 和田賢次氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社GRAST 代表取締役 和田賢次氏登場。
本文より~

やんちゃな力持ち。

むかつくと、スグに手が出た。小学生の頃の話である。担任からは「あなたはもう大人のちからなんだから、加減しなさい」と注意されたそう。いま身長は180センチだが、当時から背が高く、ちからが人一倍、強かった。そのうえ、とにかく喧嘩ぱやい。
「小学3年で埼玉に引っ越すんですが、転校初日から、むかつく奴がいたんで殴っちゃいます。そういうこともあって、一時期、仲間外れにされてしまうんです。あの時は、さすがに参りました。誰もいないって、こういうことなんだって。それで反省して、だんだん大人しくなっていったような(笑)」。
喧嘩では大人しくなったが、3年生からはじめた野球では、試合の度に大暴れした。「小学校の時は、それなりに評価されていたと思います。もちろん、小さなエリアで評価されていただけですが」。

大逆転劇。

「そう、小学校では、少しばかり評価はされていたんですが、中学になるとぜんぜんです。ピッチャーで、四番。あ、一時期、センターも守っていましたが、だいたいピッチャーです。もっともノーコンなんですが」。
野球が人より巧いかどうかでいえば、少し、巧かった。ただ、少しのレベル。にもかかわらず、突然、「甲子園へ行こう」と思う。
「私の2つ上に近鉄に行かれた吉岡さんがいらっしゃるんです。甲子園に出場した帝京の試合で吉岡さんを観て、『これだ』って思うんですね。だから、めざすは甲子園。進むのは、帝京です」。
その話を聞いて耳を疑った。帝京高校といえば、スーパースターばかりのはずである。目立たない、野球少年が入れるはずがない。「そうなんです。セレクションではもちろん落ちます。セレクションを『落ちる』というのは、入学も『あきらめろ』ってことなんです。だって、一般入学となると偏差値60です。とんでもないカベです」。とんでもないのは、野球のレベルで言ってもおなじではないのだろうか。だが、和田氏はそうは思わない。
「それで、生まれてはじめて猛勉強です。私にとって偏差値60なんて、ぜんぜん手が届かない。それでも、あきらめなかった。結果、一般で合格して、野球部に。そしたら、私を落とした監督が目を剥いて、『なんで、お前がいるんだ』みたいなね。ええ、大逆転勝利です」。
たしかに、大逆転である。しかし、まだ帝京に進んだだけ。いまからが本番だ。甲子園。セレクションにも落ちた選手になにができるんだろうか。

エースで、四番。帝京高校の伝統をつぐ。

「中学時代にもおなじチームに私より、巧い奴はたくさんいました。でも、あいつらは有名な高校に進まなかった。もちろん、私なんて、声がかかるような選手じゃない。高校に入れば、さらに巧い奴ばかりです。でも、なんでしょう。動揺もしなかった。相手が巧いかどうかっていうのも、ピンとこなかったんでしょうね」。
「そりゃ、練習はしました。練習は8時くらいに終わって、そこから筋トレです。通学は1時間少し。授業中が、睡眠時間です」。
名もない選手が、実は、2年から控え投手となって春・夏の甲子園でベンチに入り、3年の秋大会ではエースで四番となった。「私らの代がいちばん、あかんかったんです。エースで四番っていうのは、帝京の伝統なんですが、そのエースで四番の私がだめなんですから」。
秋大会では国士館に、13対6という大差で負ける。和田氏の世代は、これで、終焉である。「スピードは、140キロは出てなかったですね。コントロールもよくなかった。打つのはいい。たしかに打ったらとぶ。それでも、ホームランは20本くらいです」。充分である。しかし、和田氏の高校野球は、幕を閉じる。ただ、それでも、ふつう考えれば凄いの一言である。名もなきところから、トップまで登り詰めたのだから。結果だけではない。何より凄いのは、心を折らなかったことだ。
「あの時くらい、しんどく、辛かったことはないですね。練習だって、そうです。あれ以上、辛いと思ったことは、まだないです。もちろん、国士館に負けた時もそうですね。べつに不調じゃなかった。好調なのに、どこに投げていいかわからなくなってしまった。そんな経験もはじめてでした。辛い経験です。でも、そのおかげで、何があっても、もう心は折れない」。
大会で負けたその日、ベランダで、1本の「たばこ」を吸った。はじめて吸った「たばこ」は、どんな味がしたのだろう?
・・・続き
株式会社GRAST 代表取締役 和田賢次氏

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)