2019年8月19日月曜日

7月20日(土)からの日刊ゲンダイの“グルメ企業社長の食い倒れ日記”4連載は南国酒家・宮田順次社長でした。

7月20日(土)~8月10日(土)の4連載の日刊ゲンダイ“グルメ企業社長の食い倒れ日記”は南国酒家・宮田順次社長でした。
(7/20掲載分) 
(7/27掲載分)
(8/3掲載分)
(8/10掲載分)
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

夕刊フジ「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」にて珈琲館様を掲載させて頂きました。

8月2日(金)8月9日(金)8月16日(金)の3連載で珈琲館様を掲載させて頂きました。
(8/2発行 電子版/カラー)
(8/9発行 電子版/カラー)
 (8/16発行 電子版/カラー)
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2019年8月14日水曜日

8月13日(火)発行の日刊ゲンダイにT.H.Sの金本正彦社長(64歳)の記事が大きく取り上げられました!

8月13日(火)発行の日刊ゲンダイ・『社長の私生活』にT.H.Sの金本正彦社長(64歳)の記事が大きく載りました!
なんと理髪店(ヘアーサロン カルダン)、飲食店(百年味噌ラーメン マルキン本舗他)、そして高級食パン専門店「純生食パン工房HARE/PAN」も展開されております。
今年度で「純生食パン工房HARE/PAN」の出店数50店舗くらい狙っておられます!
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2019年8月13日火曜日

ピカチュウ大量発生チュウ!2019 in みなとみらい

ピカチュウ大量発生チュウ!2019 in みなとみらい。
みなとみらいはいろんなイベントがあり、楽しいところです。

有限会社かんながら 代表取締役 大舘 誠氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社かんながら 代表取締役 大舘 誠氏登場
本文より~

愚痴を聞いて、奮い立つ。やっぱり「独立」だ。

大学は亜細亜大学。「進学して、すぐにお寿司屋さんでバイトを開始して、卒業するまではたらきます」。
小さなお店だったが、繁盛していた。
「店主も、板前さんも、面倒見がいい人で、私だけではなく、バイトはみんな長く勤めました。もっとも私の場合、長くつづいただけではなく、定休日以外に休んだのは4年間で2~3日だけ。社員と何らかわりません/笑」。
勤務は、18時~22時まで。時間は4時間だったが、休まない。
「サラリーマンのお客さんが多いお店だったんですね。彼らは、お寿司をつまみながら、陰口や愚痴ばかり。どうしても、うちの店主と比較してしまうんです。雇われている人と、そうでない人はこんなにも違うのか、と。私が独立しようと思ったきっかけです」。
もっとも、独立はそう簡単にできるものではない。
それくらいはわかっている。

関西へ修業の旅。

「本社のある『大阪』に行く、その1日前に両親にはじめて話ました。反対されるのがわかっていたから」。就職先の話である。「当時、飲食っていったらまだね、大学生の就職先じゃなかったんです。しかも、大阪にある会社でしょ。まだ8店舗だけでしたしね」。
反対の声を奇策で封じ込めた。その企業を選択したのは、「独立」の約束があったから。
「いまでは独立を支援する会社も少なくないですが、30年前の当時は少なかった。私が就職した会社は、その少ない会社の一つで、『全員を独立させる』っていうのが理念でしたし、そもそも独立を希望する者しか採用しない会社だったんです」。 ただ、関西にしか店舗がない。だから、大舘氏は、関西に向かう。単純なようだが、1人、関西へ。相当な覚悟がいったんじゃないだろうか。選択肢は、それだけでもなかったわけだから。

黙々と仕事する。すると、貼られたきらわれ者のレッテル。

「最初に勤務したのは、藤井寺市というところにあるショッピングセンター内のファミリーレストランです。朝から晩まで。わき目もふらず、黙々と勤務しました。評判になるくらいです。なかには、そんな私をみて、たいへんと思う人もいましたが、へんな話、私にとってはそっちのほうが楽だったんです。人と話さなくてもいい。話かけられもしない。そう、ひとみしりですから/笑」。
わからなくもない。
「ともかく、そんな仕事ぶりでしたが、上から高く評価してもらって、2年して、本店に異動することになったんです。でも、そこで評価がいっぺんするんです」。
いびつな上下関係もあった。
「私の部下となる子が、私よりも本店が長く、しかも、仕入れから、アルバイトやパートさんのシフトまですべて彼がやっている。つまり、彼が実権をにぎっていたわけです/笑」。
アルバイトやパートの評判も悪かった。
「もちろん、こちらでも朝から晩まで黙々とはたらきます。それしかできませんから。ただ、かえって、そういうのがいけなかったんでしょう。部下となった、その子から、『そんなにはたらいてもらっては困る』『朝も来なくていい』というきびしい言葉を叩きつけられるんです」。
だれよりも、無心に、熱心に、黙々と仕事をした。しかし、貼られたのはきらわれ者のレッテルだった。

「ひとみしり」からの脱出。

「性格ですからね。いまも昔とおなじ部分も少なくないです。でも、たしかにあの時は、少しだけかもしれませんが、私の性格はかわったと思います。重い殻を一枚、脱いだような」。
「社長のご子息が、その店の副店長だったんです。私が悩んでいることをご存知だったんでしょうね。一度、お茶に誘っていただいて、『どうしたんだ?』って聞いてくださったんです。で、事情を説明して、どうしたらいいでしょう?と伺った時に、『カーネギーなどを読んでみたら、どうだろう』って話だったんです。で、すぐに読んでみます/笑」。
ある意味、藁にも縋る思いだったのだろう。そこまで追い込まれていた、ともいえる。選択したのは、カーネギーの「人を動かす」。
「なにをやっても評判は悪いままだし。その時点で本店に異動して半年くらいは経っていましたから。どうにも、こうにも好転しない。その時に『人を動かす』です。もう、それ以上悪くはならないだろうから書いてある通りやってみようと思って、書いてある通りに実践するんです。いうならば、開き直り/笑」。
「それが不思議なほど、功を奏するんです。当然、もう『ひとみしり』なんて言ってられません。私から声をかけ、バイトを誘って飯にも行きました。そうすると、『大舘さんってあんな人やったんやね。聞いていたのとぜんぜん違う。ええ人やん!』なんて話になるんです」。
そのうえ、大舘氏を抑えていた部下が異動する。陰口を叩く者もいなくなった。「あの時は、私の心の革命みたいなもんです/笑」。
淡々と話すが、そうとう悩んでいたことがわかる。「観えた風景は、いままでとは、まるで異なるけしきだった」とも言っている。
むろん、それ以外にもいろいろあった。ありながらも、こちらの企業に合計8年半在籍する。

ぶれない独立心。

「邪魔者扱いされて、辞めようとは思わなかったんですか?」と直截に聞いてみた。すると「ぜんぜん」という言葉が返ってくる。
「だって、私は独立するために、この会社に来たわけです。志半ばで、逃げ出すわけにはいきません。高校時代に辞めて後悔しているでしょ。だから、逃げない。逃げれば、後悔することがわかっていましたから。だから、『独立』ということに関しては決死の覚悟だったんです」。
「合計8年半。どんな契約だったんですか?」
「勤務経験が8年以上で、店長経験3年以上です。それに、社長の経営講義を受け、試験に合格しないといけない。もちろん、人間性も試されます」。
「そういうのをクリアして、はじめてオープンをサポートいただけるようになります。ショッピングセンター内なんて、なかなか入店させてもらえませんから、ありがたい話です」。
自己資金は700万円。独立に向け、給料から自動で引き落とされていたものだ。「ほかに、銀行から融資を受けますが、会社が保証人になってくれました。1号店は、ザ・モール仙台長町に出店しました」。
看板は、もちろん、いままでといっしょ。「ポプリンキッチン」だ。「のれん分け」のようなスタイルだった。
・・・続き
有限会社かんながら 代表取締役 大舘 誠氏
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株式会社石川 代表取締役 石川敏樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社石川 代表取締役 石川敏樹氏登場
本文より~

反則的、でかさ。

すれちがった誰もが小学生とは思わなかったのではないか。小学6年生の時には、182センチの堂々たる体躯となっていた。野球ではエースで四番。球速は最速136キロだったというから驚く。高校進学前には、スカウトが鈴なりになったそうだが、当然のことだろう。
「小学生当時の住まいはUR住宅だったかな。そう、裕福でもなかったですね。兄弟は2人。私が弟です。小学1年の頃は、運動が得意だったんですが、だんだん太っちゃって。3年生のマラソン大会では、後ろから4番目。翌年もだめで。それが悔しくて、毎日、走っていたら、マラソンでは1位になるし、野球でも四番でエースになっちゃった。当時は電車も好きで、母の実家がある静岡の菊川まで各駅停車で行ったりしていました。こんなヘンな奴は、そういないですよね/笑」。
石川氏はいまも110キロとでかいが、小学6年生で180センチオーバーとは…。子どものなかに、大人がいるようなものだ。
「そう、ですね。4年生の時にはもう160センチあって、5年で170センチ、6年で182センチです。さっきも言ったように5年くらいから、体格がひきしまり、野球でもパフォーマンスをだせるようになりました。そうなると、軟式で130キロオーバーですからね、中学生レベルでは、もうだれも打てません。進学前にスカウトがきましたが、そういうのは断って、兄が通った公立高校に進学します。兄もこちらでエースだったんですね。ええ、当然、野球部です。でも、すぐに肩を壊しちゃうんです」。
絶対的なエースになるはずが、肩を壊して思い通りの投球ができなくなった。「人生のなかでも、トップクラスの挫折ですね/笑」。
それでも、1年半は野球を続けた。「だけどね。ベンチ外です。いま思えば、あの立ち位置はいい経験になったんじゃないかな」と石川氏。むろん、それは、いま思えば…、の話である。

みとれた。どこまでも高い、コック帽。


野球の代わりに始めたバイトで、大人の世界を垣間見る。17歳。新宿二丁目ではたらいた時には、間一髪の状況から逃げだしている。
銀座のスナックでもはたらいた。当時、月給が15万円。使い道がわからないから、財布にはいつも20万円くらいあった。「ファミレスくらいしか知らないから、たらふく食べても5000円くらいでしょ。そりゃ、なくならないです/笑」。
秋になると、仲間たちも野球を卒業する。「で、その時に、仲間4人で記念旅行をするんですが、その旅行で、俺たちの人生が決まるんです。え? なんでかって?」。
なんでも、いちはやく部活を卒業した石川氏はバイト生活を送りつつ、大学は無理だが、専門学校なら大丈夫だろうと進学先を調べていたそう。取り寄せたパンフレットのなかに「大阪あべの辻調理師専門学校」があり、「1日体験、交通費支給」と書いてあったらしい。
「でね。『いいじゃん、これ!』ってなるわけですよ。バカばっかりだから。何をするのか知らないけど、1日体験したら、とにかく往復料金がただなわけでしょ。料理なんて、だれ一人興味がなかったのに、『いいね、いいね』ってなって/笑」。 もちろん、石川氏も興味のない1人だ。
4人のうち3人はまだ、いがぐり頭。それでも、「通天閣」「なんば」「たこ焼き」…、なにわの夜が、頭のなかを駆け巡る。
「俺たちにしてみたらさ。体験なんてうっとうしいだけ。だりぃな、なんて思いながら、何がはじまんだろうって観てたらさ」。
一瞬だったらしい。「そう、一発でノックアウト。『すげぇ』って。心を鷲掴みにされるって、あるんですね。びっくりしちゃった/笑」。
もう、なにわの夜どころじゃなくなった。
「埼玉にもどった時には、料理は男子一生の仕事だって、4人が4人とも関西弁でまくしたてていたんです/笑」。
実際、石川氏ともう1人が「辻調理師専門学校」に入学し、残り2人も料理人のトビラを叩いている。
「オレは、コックになる」。
今度は、志高く、新幹線に乗り込んだ。和・洋・中。選択したのは、どこまでも高くつづくコック帽に憧れ、フレンチ。もっとも、いくら高い帽子でも、石川氏からすれば目の下にあったかもしれないが。
そして、1年が経つ。
・・・続き
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2019年8月9日金曜日

創業50周年「珈琲館」来年から新型FC契約を導入 確立された収益プランで安定利益!!

創業50周年「珈琲館」来年から新型FC契約を導入 確立された収益プランで安定利益

「一杯のコーヒーに心をこめて」という企業ポリシーのもと、直営店とFC加盟店とを合わせて253店舗を運営する「珈琲館」(東京都渋谷区)が、創業50周年を迎える来年、新しい形のFC契約を導入する。

「ビジネス・ファシリティー・リース(BFL)といい、具体的には当社から既存の直営店を丸ごとリースし店舗運営を委託する契約のことです」と友成勇樹社長。

店舗があり、かつ設備が整っているためイニシャルコストが少なくて済むのは大きなメリットだ。その上、「実績のある既存店の運営ですから売り上げや利益など収益プランも確立されていますし予測も立ちやすく、リスクを抑えて開業することができます」(友成氏)。
BFL契約に必要な初期費用(加盟金と保証金の合計)は、新規加盟の場合か既存のFC加盟店の2号店としての場合かでは若干の違いがあるが、300万~350万円。契約期間は3年で条件によっては更新も可能だ。また加盟金は、2号店では100万円、3号店以後は50万円と段階的に低くなり、複数店舗経営のハードルも低くなる。

次に収益面をみてみよう。
「売り上げ総利益から人件費を含む店舗発生経費、BFLマージンやロイヤリティー、BFL料などの本部請求を差し引くと、通常は15万円、人件費のコントロールなど状況によって30万円以上の営業利益が確保できます。ということは、初期費用も早ければ1年未満で回収できることになります」(同)
「さらに複数店舗を展開することで事業として拡大していくことも決して夢ではありません」と語る。
小さなリスクと約束された安定的な利益。BFLは、魅力にあふれた方式だ。
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2019年8月6日火曜日

DISH株式会社 代表取締役 清水洋輔氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”DISH株式会社 代表取締役 清水洋輔氏登場
本文より~

祖母と卵焼きと。

父と母が離婚したのは、小学2年生の頃。「まだ小さかったですからね。ま、しないほうがいいと思っていたくらいです。その時から、母といっしょに祖母のうちでやっかいになります」。祖母といっても母親が清水氏を生んだのは17歳の時。だからか、まだ祖母も若く、現役で飲食店を経営されていたそうだ。
「祖母は70過ぎまでスナックをしていました。スナックっていっても、刺身がでてくるくらいですから、料理も旨い。私は、そんな祖母の料理で育ちます」。
じつは、小さい頃にいまの源流がある。「うちで卵焼きをつくったんですね。すると、みんなが『旨い、旨い』ってほめてくれて。今思えば、あれが料理に興味をもつきっかけだった気がします」。勉強も、スポーツも、そう得意ではなかったが、家庭科だけには「はなまる」がついた。
「小学校の頃は野球ですね。中学でも野球だったんですが、先生がこわくって。いったんスポーツは辞めるんですが、2年からまた、今度はサッカーをはじめます。義父の影響はそうなかったですね」。
じつは、母親は再婚し、中学の頃には義父といっしょに暮らしはじめている。
「両親の離婚や再婚。それはもう、私がどうすることもできない問題ですし、だから、私がどうなった、ということでもないと思うんです。ただ、離婚したことで祖母の下で暮らすことになったのは大きいかもしれませんね。料理に関してもそうですし、祖母が経営者でなければ、経営に関心がなかったかもしれないからです」。
高校に進学する頃には「起業」が頭にあった。たしかに、祖母の影響もあったに違いない。だから、正直いうと高校はどこでもよかった。

爆睡の高校生活と、眠れない日々。

「朝。そうですね、5時くらいから起きだして仕事をして。学校に行って、教室で爆睡。そして、4時からまた仕事です。ほんとうはいけないんですが、時には12時くらいまで仕事をしていました。それでも、月にすれば200時間くらいかな。給料は平均10万円。最高で14万円。生活していけないとかそういうんじゃないんですが、たしかに当時からハングリー精神はありましたね」。
飲食は、面白い。これは祖母が教えくれたことの一つ。実践すると、やったぶん給料になったから、益々、面白く、楽しくなる。
「デニーズのバイトは週3~4日。それとは別に、老舗レストランの『せいとう』でも、アルバイトを開始します。これが、一つのターニングポイントですね。始めたのは高校2年で、高校3年の時には就職してしまうんです。それで、学校にも行かなくなって。ええ、実は、高校は卒業していないんです」。
たしかに、ターニングポイントだ。
「デニーズとはちがって、といったらデニーズさんに怒られますが、こちらは本格派ですから。たちまち仕事にも魅了されます。とはいえ、当時、キッチンは私を入れて2人です。パートさんとかはいたんですが、ランチだけで150人プラス弁当30~40人分ですからね。15時間拘束。初任給16万円。つまり、仕事はきつかったわけです/笑」。
この「せいとう」に清水氏は、25歳まで勤務している。20歳にはキッチンの責任者、つまり料理長になり、のちに店長にもなる。この7年間はいうまでもなく、清水氏を育てた貴重な時間である。
ちなみに、この時、清水氏はもう一つの仕事を掛け持ちしている。「給料が16万円だった頃です。仕事がはけてから、カラオケでバイトをしていました。16万円じゃ手取り10万円ちょっと。だから、カラオケでもバイトをして、それで30万円くらいですね。ええ、当時はぜんぜん寝ていないわけですが、割とそういうのに慣れているんです」。
高校を卒業してしまったので、爆睡の時間はなくなってしまった。ともかく、眠れない日々は、清水という少年を大人にした。起業は、もうまじか。

創業。2009年。

「25歳で、『せいとう』を卒業させていただいて、それからいろいろな店で修業をします。『新橋で勝負しよう』と思ったのも、じつは、この時。新橋の餃子の店ではたらいたのがきっかけで、そう思うようになりました。3年、いろんな店で修業させていただいて、それで起業したのが28歳、2009年です」。
起業を思い立ったのは16歳の時だから、もう10年以上、起業に向かって歩んだ計算になる。
「新橋ですからね。家賃もそれなりです。創業店は5.95坪。それでも取得費や内装費、備品代で計450万円くらいで済みました。済んだといっても、かつかつですから、赤字がつづくとアウトです。その時はその時で、ほかでバイトすればいいか、みたいなことも思っていました」。
450万円。借り入れゼロで済んだのは、大きい。
それで、どうでしたか? と聞いてみた。
「だいたい昼の1時くらいから仕込みをスタートして、5時からオープン。クローズは翌日の2時か、3時です。MAXは翌朝10時っていうのもありました。業績は初月からまずまずで80万円。最初は平均して100万円くらいだったんですが、2階も借りることができて11坪になり、月商でいえば500~600万円くらいになっていきます」。
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株式会社ビー・フェイス 代表取締役 浅尾圭介氏登場。

本文より~

1971年、生まれ。

今回、ご登場いただいた浅尾氏は、1971年の12月、山口県の光市で生まれている。1971年といえば、万国博覧会が開催された翌年。日本の経済成長に拍車がかかり、走り出す頃だ。
「私は高校まで山口に住み、大学で上京します。そうですね。東京には憧れがありました。もっとも私が上京した頃は、バブル真っ最中です」。
東京は眠らない。若者たちは、夜な夜な宴を楽しむ。しかし、浅尾氏は少し違っていたようだ。「大学1年の時から、コンビを組んでお笑いの世界へ入ります。高校の時、先生に『漫才師になれば』なんて言われていたんです」。
じつは、小学生の頃から、目立つのも、しゃべるのも大好き。中学は一転、おしゃべりどころじゃなくなるが、高校では、ともだちからも、先生からも「芸人になれば」と言われていたらしい。その話のつづきは、のちほど。まずは、中学の話を少し。

暴走ティーチャー。

「中学の時はね。もう、むちゃくちゃだったんです」。
生徒が?
「いえいえ、先生です/笑」。
話を聞いて、笑った。たしかに、おしゃべりどころじゃない。
先生全員がパンチパーマで、竹刀持参。軽トラに拡声器をつけ、生徒を追い回す。時間内に整列できなければ、ビンタがとんだそう。
「あの頃は散々でしたね。私は野球部だったんですが、先生に殴られた3年が、2年に鬱憤をぶつけるんです。私らは1年だったんで、害はなかったんですが、だんだん、野球もいやになった」。
ちなみに、軍隊のような、その中学の生徒たちは、どんなスポーツをさせても優秀だったらしい。負ければ何をされるかわからなかったからだろいうか?
いまなら、むろん、TVニュースにもなっていてもおかしくない。つまり、笑い事では済まないというわけ。「先日、同窓会があって、当時の先生らもいらっしゃったんですね。あの頃はやりすぎたって。もう、笑うしかないですね」。これが、年月というものだ。
暴走ティーチャーたちも、丸くなっておられたようだ。

お笑い芸人。デビューもしたが。

さて、話を進め、芸人の話にむかおう。
「私が上京したのは、ちょうど吉本が東京に進出する時です。パートナーはかわっていますが、大学を卒業してからもフリーターをしながら、漫才をつづけました。1994年にできた銀座7丁目劇場でオーディションがあって。ハイ、私たちもオーディションを受けました」。
どんなコンビ名だったのだろう。有名なコンビ名が挙がる。これは、当時、デビューした漫才コンビの名をうかがった時のこと。「私らは事務所にも所属しましたが、なかなか芽がでなかったです。若い時はそれでもいいんですが、25歳過ぎから、ちょっと違ってくるんです」。「はずかしい」と思うようになったそうだ。「スベっても、若い時はなんともなかったんですが、だんだんはずかしいなと。若い子らが、ドカン!ときたあとに、スベった時なんかもう/笑」。
最初から30歳まで、と決めていたらしい。でも、だんだんとつづけることもできなくなる。「はずかしがって芸人はできないですからね。それで、27歳の時に芸人を辞めました」。
およそ8年。芸人生活は幕を閉じる。

もう、30歳、いまから、どうなる?

「その頃は、社長になろうと、思っていたんですね。だって、年齢が年齢でしたし、いまからサラリーマンっていうのもね」。
わからなくもないが、社長は、サラリーマンより難しいのではないか?聞くと、「目がいいほうだったんですね。私が『こいつ、いける!』と思ったら、間違いなく注目されるんです。すれ違っただけでもわかります。そういう特技っていうのがあったから、プロダクションの社長になろう、と。ええ、かなり、単純です」。
まずマネージャーだと、有名なタレントも所属するプロダクションで仕事を始める。およそ2年。29歳。芸能界から完全に抜け出した。
「なんででしょうね。だんだん、芸能界に興味がなくなっていったんです。もっとも芸能界に入りたいってわけじゃなかったから、当然ですね」。
ネタ帳に向かい悶々とする日も、ネタを仕込む時間もなくなった。芸能プロダクションの社長への道もなくなる。もう、30歳、いまから、どうなる?

社長、スーパーでキムチを売る。

「プロダクションの社長は断念しましたが、起業するつもりは満々です。当時、『カラオケ館』というカラオケボックスがあって。フリーターの時から仕事をしていたんですが、その店の店長に相談し、3年はたらき、そう、それで独立。だから、最初の事業はカラオケボックスなんです」。
こうして駒込に、小さなカラオケボックスが生まれる。
「5名くらいを仲間にしてスタートするんですが、もともと経営のことを知らないから、運転資金もなくって。それで、カラオケボックスは彼女らに任せて、私自身は、スーパーでキムチの売り子をはじめるんです/笑」。
早朝から、スーパーが閉まるまでキムチを売り、その後、駒込にもどる。「帰宅するのは、いつも、深夜。ほとんど寝てなかったですね/笑」。
キムチの売上でなんとか食いつなげた。やがて、浅尾氏が、彼女らとよぶスタッフも大学を卒業。故郷にもどる子もいて。今度は、浅尾氏1人とバイト2名で運営する。「儲かるとまではいいませんが、売上は立ちました。そうそう、ウェイティングルームでお酒を飲めるようにしてダーツを入れたんですね。そしたら、カラオケより、そちらに人だかりができて」。
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