2018年9月4日火曜日

株式会社エムピーキッチン 代表取締役 村上竹彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社エムピーキッチン 代表取締役 村上竹彦氏登場
本文より~

三宅島一周。

東京都といっても、本州から175キロメートル離れている。伊豆大島からでも57キロメートル南下しなければならない。今回、ご登場いただくエムピーキッチンの社長、村上 竹彦氏は1961年の5月5日に、この海の向こうに浮かんだ孤島、三宅島に生まれている。
両親は、ともに三宅島生まれ。父親は役場に勤務する役人だった。夏の間だけ、民宿も営んでいた。
村上氏は、3人兄弟の次男。兄とも弟とも一つ違い。
「私がはじめて東京に行くのは、小学4年生の時」と村上氏。10歳くらいの時だから1971年で、日本の中心である東京が、高度経済成長期の象徴として猛烈なスピードで発展していた頃である。少年の目に東京はどのように映ったのだろうか。ちなみに、村上氏がこの東京で暮らすようになるのは高校生から。
「中学校は三宅中学です」。三宅中学のホームページを観ると最初に、自然豊かな風景が飛び込んでくる。正式には「三宅村立三宅中学校」。当時、クラスは2クラスだけだったそう。
「競歩大会っていうのがあって、島を一周するんですが、そこで4位になりました。生徒会もやっていました。中学を卒業して、私は東京の高校に進むのですが、同様に東京の高校に進学したのは、わずかで3人しかいませんでした」。
島を離れる。東京に対する憧れか、それとも島を逃げ出すことが目的だったのだろうか。

東京暮らしは、ディスコとともに過ぎていく。

島を離れ進んだのは、都立千歳高校(現在は、東京都立芦花高等学校)といって、世田谷区にある高校だった。「私は下北沢に住んでいました。正直いって、カルチャーショックです。ファッションセンスって、そういう言葉自体、島じゃリアルじゃなかったですから」。
そりゃそうだろう。同じ東京都といっても、風景はまるで異なる。「割と硬派でね。長ランとか、短ランなどで決めていました。だから、そもそもファッションとは無縁だったんですが、高校生になって、カルチャーショックを受けて。基準がわからなくなって、1年の夏に、見事にディスコにハマってしまいました/笑」。
「学校にもあまり行かなかった」と村上氏は笑う。
「ディスコにハマったりして、実は、2学期からは学校にも行ってなかったんです。先生に諭され、なんとか踏みとどまることができました。それに、2年になると兄が上京してきたものですから、下北沢を離れ、登戸で兄といっしょに暮らすことになります。兄といっしょですから、そうそうディスコばかりも行けません」。
大学は、日本大学の法学部政治経済学科に進んでいる。ディスコは、早々と卒業し、勉強に明け暮れた証だろう。
「最初は、中央大学を狙っていたんですが、こちらはダメで、それで一浪して、日本大学に進みます。就職活動は、証券会社一本に絞っていました」。

1000万円プレーヤーの証券マン、36歳で牛丼屋の店長をめざす。

希望通り、立花証券に入社する。入社3年目で1000万プレーヤーになった。バブル経済で日本中が浮かれまくった時代も、破綻後、日本中が暗く沈んだ証券不況時代も経験した。
この証券会社を退職したのは1997年。証券不況の真っただ中。
「今でも、相談せずに転職したって、妻に責められるんです」と笑いながら、当時の話をしてくれた。「証券不況でしょ。潰れる会社もあって。証券会社の社員のリストが転職マーケットに出回っていたんでしょうね。私の手元にも一通のダイレクトメールがくるんです。その内容が、熱いっていうか、くさいっていうか。それで印象に残って、面接に行ったら、あの人のパワーに圧倒されるんです」。
「あの人」と村上氏がいうのは、現ゼンショーホールディングスの会長兼社長の小川 賢太郎氏のことである。以来、20年の付き合いになるとは、互いに想像もできなかっただろう。
「当時、私は36歳です。子どもも3人いました。証券不況だったこともたしかですが、もう少し地味な仕事もしてみたいな、という思いがあったんです。そう思っていた時に、小川さんからのDMです。縁でしょうね。36歳の牛丼屋の店長もいいかって/笑」。
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株式会社アイランズ 代表取締役 塚原和樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社アイランズ 代表取締役 塚原和樹氏登場
本文より~

格闘技に魅了され。

総合格闘技イベントであるPRIDE(プライド)をみて育ったと、今回ご登場いただいた株式会社アイランズの塚原和樹氏は笑う。高校時代には高田道場に毎日のように通った。高田延彦、桜庭和志といったTVでみたヒーローたちがそこにはいた。 「社会人がたいはん。高校生はわずかでしたが、PRIDEのアマチュア大会にも出場させてもらいました」。格闘技熱が落ち着いた3年後の大学時代。「格闘技は続けるんですが、それ以上に海外というキーワードが私のなかでウエイトが増していったんです」。
きっかけは、ワーキングホリデービザを取得しカナダ・バンクーバーに渡った事だった。格闘技の本場である北米だった事がカナダ・バンクーバーを選択した理由だった。
「向こうでも柔術を学びました。日中は英語を勉強しながら、夜はジムで柔術を学ぶという繰り返しです」。
実は、この時、塚原氏はカナダのテレビやラジオに登場している。「CNNに取材されたんです。有名な詐欺師とたたかう日本人として/笑」。
どういうことだろう。
「何度目かの引っ越しの際に騙されたんですね。それで腹が立って。私自身の被害はわずかだったんですが、相手が、実は有名な詐欺師で。ま、そのおかげでCNNに取り上げられたし、私にとってはラッキーだったかもしれませんね。これで貴重な経験がひとつ増えましたからね/笑」。
バスに揺られ続け、初めてアメリカ大陸を一周したのもこの時期。その後大学3年時に帰国したが、海外熱は加速していく。長期休暇にはバックパッカーとなって、海外を駆けずり回る。「世界200都市は行った」と塚原氏。留学時代に出会った仲間達が、世界中にいたからだ。南米はコロンビア、メキシコ。ヨーロッパならイタリアやフランス、スペインなど世界中を渡り歩いた。
世界は思ったより小さかった。

格闘技と、海外。

塚原氏が生まれたのは1987年。川崎市幸区の出身である。祖父、叔父、父、母と周りの大人は地元に根付いた会社や商店の経営者だったため、自分もいつか起業したいと幼い頃から考えていたという。
「祖父は商店街の会長も務めていました。川崎駅もそうですが、うちの周りもずいぶん変わってしまいました。そんな中で自分を育ててくれた地元に、いつか自分も貢献したい」。
小学生中学生時代は野球。さらに中学では、相撲大会にも出場している。「練習もしないのに、大会でもいい成績を残しました。先生からは、レスリングの強豪校に進めば全国を取れるとさんざん勧められたんですが、結局、都内の私立高校に進みます」。
レスリングじゃなく、総合格闘技に魅了されていたからだろうか。進学したあとは、すでに書いた通りである。

最大手インテリアメーカーに就職、個人売上で全国一位となる。

「幼い頃から起業という思いはあったんです。ただ、革新的で画期的はアイデアがなければ、起業できないと思い込んでいました。今考えれば、現実から逃げていたんだと思います/笑」。
就職先は誰もが知る大企業。「アメリカへの出店などを見据えて、グローバル採用を行っていたんです。海外経験では誰にも負けないと思っていましたが、周りは、海外の大学出身者ばかり。国内組も一流大学出身ばかりです。まさか就職できるとは思っていませんでした」。
塚原氏は国内で奮闘することになる。「最初の配属先は全国2位の売上高を叩き出す大型店。2年目にして家具担当となり個人売上で、その年に全国1位を獲得しました」。
結果で示した。ただし、上司は選べない。「配属時の店長と働いて感じた事。たいしたことない人に、たいしたことないって評価されたのが納得できなかったですね。ダメな上司に自分の人生を左右されるなんて最悪だと思いました。それで、自分の人生これじゃないな、と思って1年半で退職しましたよ」。
思い切ったものだ。
そして、 退職後、さらに思い切った行動にでる。

貿易会社、設立。1年後には飲食事業がスタートする。


なんと、経験もないまま1人で貿易会社を設立したのである。もっとも、海外との距離感は人一倍近い。
「最初に始めたのがスリランカで水揚げされたマグロを電話で買い付けて、2日後には築地でセリにかけて販売できる仕組みを作りました。その後、スリランカから日本では出回らないレベルの高級紅茶を輸入販売を開始しました。アイランズはその時につけた社名です。スリランカ人を雇って現地とのやり取りをしてもらいました」。
飲食事業を開始したのは、設立から1年が経った頃。
「これだけ世界中を周っている中で本場のステーキに出会って、当時は私が現地で感動したようなステーキハウスが日本にほとんど無くて。だからそれを自分でやろうと思っていたんです。さらに家の近くにラウンジがあったらいいな、と。そういう発想で、自分が育った地元に本場のステーキが食べられるラウンジを作りました」。
それが、「California Lounge Grill&Bar」。「鉄板でジュージュー食べるようなモノではなく、肉本来の旨味を味わえる本場のステーキハウス」である。ワインも安くて、旨い。別会社で酒販免許をもっているため、質の高い美味いワインを安く仕入れる事ができるのだという。
それにしても、なんとも大胆な発想である。どこから、その自信はでてくるのだろう。無謀と背中合わせのような気もしなくはないが、なんとも塚原氏らしい。
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 株式会社アイランズ 代表取締役 塚原和樹氏
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株式会社インセプション 代表取締役 西田雅之氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社インセプション 代表取締役 西田雅之氏登場
本文より~

逃げ出したいと思っていた、少年時代。

母親は朝から深夜まで働き詰めだった。まだ、西田氏が子どもの頃の話。父親が居なくなったからだ。蒸発した、と西田氏は乾いた声で、笑う。
「僕ら4人兄弟を育てるために、母はパートを掛け持ちしていました。子どものことですから、それがどれだけ大変なのか分かりません。子どもたちには、大変な顔を見せない人ですから、とくに。ただ、何度か引っ越して。いま思えば、あれは夜逃げだったのかな、と/笑」。
それでも、小学校低学年までは、特別、意識したことはなかった。ただ、高学年にもなると、いろいろ分かってくるから辛い思いもした。その分、勉強や運動をたくさん頑張った。中学になってからは陸上部に入り、ハードル・幅跳びでは、区大会で2位や3位になった。
「そうですね。兄弟4人と母1人です。小さなアパート。僕は、早く逃げ出したかった。そういう生活からです。電気も、水道も、ガスも止まった。でも、そんな中でも、母は、僕たちに、人に『感謝』することを教えつづけてくれました。今の僕がいるのは、あの教えがあったからです」。
「かあちゃん」と呼ぶ母親と同年代となった今、西田氏は昔を思いだし、背筋を伸ばすようにして呟いている。「かあちゃんは、誰かを、何かを恨むことがなかった」と。
なんと、母は、まだ、子どもに教えつづけているのだ。

社会が、学校。

高校には進学するにはしたが、交通費もなく、学費も払えずスグに自主退学している。働いて家にお金が必要だったからだ。
「ええ、今もまだコンプレックスです。でも、僕は決してそれがマイナスだと思ったことはないんです。逆にバネになった、苦労をした分我慢や辛抱ができ、忍耐強くなれて人にやさしくなれるようになった。特にハングリーに貪欲にもなった。自分が成長するエネルギー源。そういうことです」。
ただ、今だから明るく、語ることができるが、当時は、這いつくばるようにして生きてきた。アルバイト先の同じ十代の学生が親のお金で学校で学び、仕送りで生活して遊んでいるのを横目で見て羨ましかった。貧乏で学歴がないというコンプレックスと向き合うのは、辛いことだったに違いない。
「16歳でしょ。どこにいっても、仕事がないんです。数十社に、断られました。仕事は一生懸命やると言っても、相手にされない。辛かったです。だから、採用いただいたカレーショップでは、もう残業ウェルカムです。休みだっていらない。だって勉強もできてお金をいただけるんですもん。正直、僕にとっては雇ってもらえ仕事ができる、それだけで感謝だったんです」。
仕事をしていれば、コンプレックスなど感じなくていい。たしかに、仕事は、ある意味ではコンプレックスから解放される息抜きの時間だった。
「カレーショップで2年くらいバイトをさせていただいて、その店で知り合った先輩の紹介で、パソコンを使う仕事をさせていただきます。ええ、エクセルやワード、イラストレーターなどのソフトの操作方法を勉強させていただいたのは、この会社です。当時からパソコン技能は必要とされる人間になる為の術の一つだと思っていました」。
当然、西田氏は、それを望んだ。
ただ、一方で、ある高級カラオケ・レストランで、もう一つのアルバイトを開始している。
「今はもうないんですが、昔、六本木に『ホテル アイビス』という有名なホテルがあって。そのホテルにあった『ラブネット』でアルバイトを始めます。当時、最先端のカラオケ・レストランで、芸能人の方も、沢山いらっしゃいました」。
2フロアで300坪。芸能人から政治家も利用して、連日賑わった。
昼前から夜までは、パソコン関連の仕事。深夜から朝まで、カラオケ・レストランで働く。「寝る時間はなかったですね。でも、それで、全然良かったんです、僕にとっては。お金も貰えるし、勉強もできるし。そんな成長ができる環境ほかにないでしょ」。
青年、西田氏の輪郭が、この言葉で浮かびあがる。

退職宣言。

この「ラブネット」で、西田氏は、恩師に出会っている。「当時の店長です。彼のおかげで、社員になり、実は、前職の『オペレーションファクトリー』に連れて行ってくれたのも、この店長なんです」。
「オペレーションファクトリー」は、大阪生まれの飲食会社だ。1998年、大阪堀江で創業。2001年、東京に「燈花(西麻布 個室和食)」を初出店している。
「ぼくが入社したのは、22歳。『オペレーションファクトリー』が東京初進出した頃で、ある意味、創業期です。約7年在籍し、最終的には数店舗を統括するディレクターとなります。ハイ、最年少でした」。
まさに創業メンバーの1人となった西田氏の中には、今も「オペレーションファクトリー」の鼓動が息づいている。
「デザイナーズレストランが、バーンといく時ですね。そういう意味ではとても恵まれていました。独立した今も可愛がっていただいていますが、社長や上司には本当に感謝です」。
とんがっている。時代を映しだすのではなく、時代のエッジに立ち、次の時代を先駆ける。そんな、レストランをいくつも携わる。
「29歳になった頃ですね。ちょっと、ぼく自身が天狗になっているのがわかったんです。給料も良かったですし、部下もたくさんいます。クライアントにも高く評価いただきました。でも、全て『オペレーションファクトリー』という会社に居るからなんですね。それが分かって、考えました。このままではいけないと、会社を辞めさせていただきました」。
まだ若い。西田氏は、こう思ったそうだ。
「人にちゃんと、頭を下げて、会社の役職や看板の無いところで、勝負する。そうして受け入れてもらわなければ、成長できないって。だから、社長に『あと1年で退職させてください』って言ったんです」。
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