2016年7月29日金曜日

一般紙の社長記事の取材もお手伝いさせてもらっています。

飲食経営者550社連載の“飲食の戦士たち”のおかげで飲食経営者様との接点増えました。
それならさらに飲食の企業様の役立つためにと、一般メジャー紙の社長記事の取材もお手伝いさせてもらっています。
7月にはずんどう屋のZUNDの橋本社長、それに創業40年以上お店にも立たれている駒八の八百坂社長の取材させてもらいました。
 (ZUNDの橋本社長)
(駒八の八百坂社長)
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2016年7月26日火曜日

パンケーキ王子こと株式会社Ms. 代表取締役 杉本 悟氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”にパンケーキ王子こと株式会社Ms. 代表取締役 杉本 悟氏登場。
本文より~

京都府福知山市生まれ。

「パンケーキ王子」というらしい。「パンケーキのお店を紹介しているうちに、そう呼ばれるようなった」と株式会社Ms. 代表取締役、杉本悟氏は笑う。国内外で年間200軒以上のパンケーキを食べ歩く、パンケーキ大好き人間だ。
杉本氏が生まれたのは、1968年、京都府福知山市。祖父が乾物の卸を行い、後を引き継いだ父が総合食料品卸へと拡大していた。
「祖父や父のDNAの成せる業か、昔から商売っ気があって…」と杉本氏。中学時代に考えたビジネスの話もしてくれた。本の貸し借り。教師にバレそうになって、終了したらしいが、プロデューサーの片りんを伺わせるような話だった。
中学卒業後は、公立の福知山高校に進んでいる。「高校では、真剣にテニスをしていました。京都大会で3位という成績も収めました」。真剣にやれば、テニスはかなりハードなスポーツだ。肉体的にも、精神的にも鍛えられた。

学生時代。1500人参加のイベントをプロデュース。しかし、スポンサーが次々、いなくなる。

大学は、福知山を離れ、大阪の近畿大学に進学する。「父の影響もあり、私自身も起業を志していました」。中学時代に早くも才能の片りんをみせた杉本氏であるが、大学時代に、それが本格化する。
「とにかく2年まで単位をすべて取得して、2年生の終わりにイベントサークルを立ち上げました」。法人化こそしていないが、一般的に言えばイベント企画会社である。
「どのイベントも盛況だったんですが、ある時、大掛かりなイベントで、予期せずピンチに立ちました」。
話はこうだ。
「大型の船を借り切り、有名な芸能人を招いたイベントを企画しました。参加するのは学生1500人。莫大なお金がかかりますが、当時はバブルだったもんですから、いろんな会社がスポンサーになってくださって、資金的にはぜんぜん問題がなかったんです。しかし、昭和天皇が崩御されて、お願いしていた会社が、次々とスポンサーを降りると言い出したんです」。
資金のめどが立たなくなった。スポンサーの資金を前提にしていたため、主催者である杉本氏らが思わぬ借金生活を強いられることになりそうだった。それを救ってくれたのが、大阪のミナミを根城にしたある不動産会社だった。
「その時、スポンサーになってくれたばかりか、いろんな事業を体験させてくれました」。
会社もつくった。
「大学の先輩が社長で、私がいわば実務の責任者でした。飲食店もこの時数軒つくっています」。バブルの時代である。金は底をつくことがなかった。才覚さえあれば儲けることができた、頭と度胸の時代でもある。
就職するつもりはなかった。どう波に乗っていくか。それが関心事だったに違いない。しかし、株式会社パソナの創業者である南部靖之氏に出会って、杉本氏の考えはいっぺんする。

・・・続き
株式会社Ms. 代表取締役 杉本 悟氏
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2016年7月25日月曜日

映画『ディアスポリス』×飲食店とのコラボ。

飲食業界のネットワークがあるおかげでいろんな依頼が入ってきます。
今回は、映画『ディアスポリス』9月3日全国ロードショーに先駆けた案件です。
8月から飲食店とコラボが表に出てくるのが楽しみです!
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2016年7月23日土曜日

営業支えるスタッフは10年選手ばかりなんで…。

社長である私が不在であったとしても、営業以外のスタッフは10年選手ばかりなので実務的には何も心配していません!

でも皆歳をとってきます。
今できる限り前進しておくことと、将来を担える優秀な人材の育成が必須です。
そのためにも足元固めて、大爆発させねば…。
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うちの営業マンに対して、次やることは…。

おかげさまで、現キイストンの営業マンたち(20代)は徐々に売れる営業マンに育ってくれています。
大変うれしいことです!!
この数年リーダーすら不在で弱体化してましたからありがたいものです。
素直に一生懸命頑張ってたら普通に売れるようには出来ます。
ただ、キイストンの次世代の人材に私が伝えていかないことはキイストンイズム!
うちの理念でもある『より多くの人・企業様に夢を与える』ため、求人会社ゆえ効果出すことが必須。
そのためにはもっと斬新な提案すること、もっとお客様の人事責任者の立場で仕事すること、もっと転職者の立場で仕事すること。

そのためには仕事に自信持つのは素晴らしいことですが、常に謙虚な姿勢で取り組むことを教えていくことが使命かもしれない。
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2016年7月20日水曜日

有限会社なんつッ亭 代表取締役 古谷一郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社なんつッ亭 代表取締役 古谷一郎氏登場。
本文より~

暴走、時代。

27歳で天職に出会う。その時までの日々を、古谷氏はホームページで次のように語っている。「それまでの僕は、何も目標を持てず、何をしたらよいかわからないまま、ただただもがいていました」。
古谷氏は。1968年、神奈川県秦野市に生まれている。「両親は、定食屋を経営していました。ですが、父が大の博打打ち。店より、賭博です。でも、博打の稼ぎが、定食屋の稼ぎを上回っていたというから、ある意味凄いですよね。そんな父親でしたが、私が生まれてからは、まるで別人になったそうです」。
古谷氏には姉がいる。「この姉が、とにかく頭が良くって、つねに学年でトップだったんです。比べられる私はたまったもんじゃなかった(笑)」。
それでも血は争えない。古谷氏自身、中学2年の時に猛勉強を開始し、有名な進学校に進んでいる。
「入学当初は、その流れで540人中70番くらいでした。しかし、すぐに後ろにだれもいなくなった。1人いた、と思ったら、風邪で休んだ生徒でした(笑)」。
つまり、どんじり。
やればできたが、やる気がでない。「何もすることがなかったので、暴走族になりました(笑)」と古谷氏。きっかけは、姉の、ヤンチャな彼氏だったそうだ。
「両親は、別段反対しなかったですね。どうせ、説得しても無駄だとわかっていたんでしょう。母は、唯一、『捕まるな』って、忠告してくれていました」。
母親は、特攻服にアイロンをかけ、2000円を渡し、「ガソリン満タンにしていきなさい」と古谷氏を送り出したそうだ。
古谷氏が、高校生の時の話だから、1980年半ばの話である。暴走族真っ盛りの頃だ。古谷氏が、参加したチームは、30名くらいだったが、連合傘下を結集すれば2000~3000人規模にも膨れ上がったそうだ。
改造車や改造バイクが、咆哮をあげた。車から身をのりだし、鉄パイプを夜空に突き立てた。いさましい咆哮と異なり、1人1人の心のなかはどうだったんだろう。「社会に対する不満が暴走を促した」と訳知り顔の評論家もいたが、「ただただもがいていた」というのが正解ではないだろうか。
ともかく、暴走の結果、古谷氏は2年で高校を退学している。

27歳で降りた天啓。

「22歳になって、定時制高校に入り直しました。やっぱり、高校くらいはと思って、です。定時制というのは、いろんな学生がいるんです。おっさんもいる。もちろん、私のようなやり直しもいる。先生は、たいへんです。でも、熱血漢の先生が多かった。私の担任も、熱心な人で、その人の勧めで、夜間の大学に進学しました」。
しかし、長くつづかなかった。というより、すぐさまという表現のほうがいいだろう。
「大学に進んで、ちょっとまじめに勉強したら、いきなり成績トップです。久々の勉強だったんですが、自分はやはり、『やればできる奴』だということが再認識できたんで、退学しました(笑)」。
何をしに、入ったのか。目的は、惰性にかわった。24歳から27歳までは、「パチンコ、カツアゲ、ヒモ生活です(笑)」。その時、お金をだしてくれた彼女が今の奥さん。いい話である。さすが特攻服、である。無骨で、案外、一本気なのだろう。
そして、27歳で天啓が下りた。
「27歳の時ですね。TVでラーメン特集をやっていて、行列ができていたんです。これだ、と」。冒頭で引用したように、何も目標を持てず、何をしたらよいかわからないまま、ただただもがいていた古谷氏の前に道が広がったのは、この時である。
しかし、ひらめいたといっても、ラーメン店の経営は簡単ではない。むろん、出店するにも経験がいる。「これだ」と思うのはいいが、いまだスープひとつつくれないのだ。
「それからは、行列ができるラーメン店を食べ歩きました。でも、旨くないんです。なんでだろう、と思うんです。根が単純ですから、俺ならもっと旨いのができる、と思っちゃうんです」。
「俺ならもっと旨いラーメンをつくれる」と、算盤を弾く。「週1日は休みがいるでしょ。だって遊びたいから。でも、週休1日で計算しても楽勝なんです。だって毎日100杯売れば、ベンツだって買えるわけですから(笑)」。

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2016年7月16日土曜日

さあ第2Qスタート!

さあ第2Qがスタート。
本当にキイストンの営業マンは頼もしくなりました!
ずっと求人営業マンと社長の兼務でしたが、ようやく社長らしい仕事が出来てきました。
そうは言っても、営業マンもスタッフも頑張ってくれてるので会社に大きな利益をもたらさなければ…。
昨年より今年。今年より来年がもっと大きく躍進させたいです。
そのためにも若い世代にバトンタッチして、新生キイストンとして永続なぜなければ…!
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2016年7月12日火曜日

有限会社ウィルビー 代表取締役 真瀬浩彰氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社ウィルビー 代表取締役 真瀬浩彰氏登場。
本文より~

何度も呼ばれた「転校生」と。

サラリーマンだった父親の仕事の関係だろう。学校を転々とした。「3歳まで練馬で、それから茨城。小学3年から鎌倉で、中学2年からは関西です。高校で鎌倉に舞い戻ってようやく落ち着いた感じです(笑)。小さな頃は、何とも思ってなかったんですが、中学2年の時は思春期ってこともあって、さすがにイヤだなと思いました。それでも、向こうに行ったら行ったで、すぐに関西ののりにも馴染めました(笑)」。
小学校の頃は、剣道やスイミングなどを習ったりもしたが、熱中するものは特になかった。鎌倉の高校では、バンドもやった。「当時はバンドブームだったんです。ヘヴィメタルやハードロックを聴いていました」。
仲の良い友人たちとバンドを結成。公民館を借りて、演奏もしたそうだ。「高校時代、勉強はどうでした?」と質問すると、「まったくしていない」という答えが返ってきた。

脱サラ、オーナーとの出会い。

「早稲田に行きたかったんです。高校の同級生も多かったもんですから。でも、現役では届かず、結局2浪しても、早稲田のカベに阻まれ、結局、日大に進みました」。この日大時代、真瀬氏は初めて飲食と出会う。
「そうですね。いちおう4年で卒業していますが、勉強より、バイトや遊びに全力投球でした。学生時代の4年間、ずっとバイトしていたのは、30歳くらいの、脱サラでお好み焼きを始めたオーナーのお店でした」。オーナーの気さくな人柄もそうだが、そのふるまいも格好良く映った。
「自由っていうんでしょうか。アルバイトとも、ほんと気さくに話をして。そうですね。飲食が楽しいと思ったのは、あの時のオーナーがいたからだと思います。そういう意味では感謝です」。
大学生活の最後には友人と2人、はじめて海外旅行も経験した。視野が広がった。

大日本印刷に就職するも、3年で退職する。

就職は、大日本印刷。超大手である。2浪しているから、入社時には24歳。
「大日本印刷に就職して、まずは良かったんですが、どうもサラリーマン生活が肌に合わない。1年くらいで辞めようと思いました。でも、その時は、同期に『1年じゃ、何もわからず辞めてしまうことになる。それは、だめだ』って諭されまして」。
それで結局、石の上にも3年と、同期の助言に従って4年目で退社している。
「私は営業だったんですが、同期の中では成績も評価も良い方でした。仕事も、つまらないというわけでもなかった。ある意味、不満もなかったんです。それでも、このままではという気持ちがあって、それで退職。次の仕事の予定はありませんでした。ハローワークにとりあえず行こうくらいですね。予定していたのは(笑)」。
当時の有り金は、300万円。
もうひとつ、もう一度、海外に行こうと決めていたそうだ。
「私が大日本印刷を退職したのは、27歳の時です。30歳まで何かしたいなというのが、漠然とあっただけです。その漠然とした思いが、輪郭を持つのが、この時の旅でした」。
東南アジア。「シンガポール、マレーシア、タイの屋台でで、食事をしていた時に、これだって思ったんです。この屋台を参考にしたアジア料理のお店をやってみたい、と思ったんです」。

・・・続き
有限会社ウィルビー 代表取締役 真瀬浩彰氏


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2016年7月11日月曜日

うちの江川、テレビ・デビューしました。

うちの人材紹介責任者している江川、7月6日放映のテレビ東京『ソレダメ!』にちょこっと出ました。
テレビ・初デビューです(笑)
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2016年7月6日水曜日

有限会社BOND OF HEARTS(ボンドオブハーツ) 代表取締役 塚田兼司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社BOND OF HEARTS(ボンドオブハーツ) 代表取締役 塚田兼司氏登場。
本文より~

貧しさにも気づかなかった少年時代。

塚田氏が生まれたのは、長野県の県庁所在地である長野市である。生年月日は、1971年2月12日。2016年に行ったこのインタビュー時にはすでに45歳になっている。
「私は長野生まれですが、父が大蔵省(現財務省)で勤務していたものですから、育ったのは、東京と長野の両方です。5歳の時に父を亡くします。母は、美容師だったんですが、父が亡くなってからは、『給食のおばさん』をはじめ、私たち兄弟を養ってくれました。給料は8万円。そのなかから 祖母に食いぶちとして5万円を渡していたものですから、兄を含め、私たち家族3人の生活費はたった3万円でした(笑)」。
貧しさには慣れっ子である。
「ずっと貧しかったから、当時は、貧しいことにも気づかなかった」と塚田氏は笑う。
「私は小さな頃から、いたずらっ子で、とてもひょうきんな子供でした。 それでも、まじめなところもあって、小学生の頃から新聞配達をはじめ、植木屋をやっていた叔父の手伝いなどをして、自分で小遣いを稼いでいました」。
自立と自律。「近所の人から良く怒られた」というが、少年の頃から塚田氏は、すでに自立し、自分をコントロールしていた気がする。
「長野という土地柄もあると思うんですが、城や武士というのが好きで、中学生の頃には模造刀まで持っていました。もちろん、お金をためて買った貴重品です(笑)」。
貴重品というが、その刀でケンカ相手である「兄をぶった切ってやろう」と思っていたそうだ。

唯一の贅沢。

高校生になるまでお年玉もすべて、母に没収された。でも、それがイヤだと思ったことがない。
「ラーメンは、ね。母が年に1回くらい連れて行ってくれた唯一の外食です」。最初の一杯は、「麺・ズ・テーブル亀屋」のラーメン。いまだ店名まで記憶している。裕福ではないが、裕福な子どもをみてひがんだことはない。
全員、公平。友達はいっぱいいた。「もともと、私たちの時って子どもが多いんです」と塚田氏。もっとも友達のほうからみたらどうだったんだろう。「中学に入学して5日目に大喧嘩をして、それから少しは怖がられていたかもしれません(笑)」。
高校に進学すると早速、バイトをはじめた。つけ麺「大王」だ。「この店で、運命の『オヤジ』と出会うんです。父を早く亡くした私にとって、この店の『オヤジ』は親父と同じ存在になっていきます」。
「親父の背中」という言葉がある。塚田氏にとって「親父の背中」は、このラーメン店の店主の背中だった。
「高校時代を二つの言葉でいえば、バイトとバンドです」。
バンドを組んで活動をしていく道もあったが、それについて塚田氏は次のように語っている。「バンドって、いつか解散とかするでしょ。あれがイヤだった。だから、解散せず一緒にいられる仕事を選択するんです」。
高校卒業時の話である。

独立、前夜。

今塚田氏は、「日本ラーメン協会」の理事を務めている。だからといって、最初からラーメンが大好きだったわけでもない。
「オヤジが違う仕事をしていたら、たぶん、そっちの仕事をしていたでしょうね。飲食でなかったかもしれません。オヤジと一緒ならなんでも良かったんです」。
「オヤジ」と慕う店主の背中を追いかけて今がある。それは間違いない。
「私がバイトを始めると、バンド仲間や友達がやってくるようになるんです。『俺もバイトしたい』って奴もいて、スタッフも勝手に集まってくるもんですから、私が入店してからは、1回も求人広告を出したことはありません。お前が来てから、人に困ったことがない、とそれだけはオヤジに褒められました」。
塚田氏が、高校を卒業して社員になる頃には、すでに店舗も拡大し、店名も「笑楽亭」となっていた。「当時、ラーメン専門店はあまりなく、だいたいのラーメン店は食堂みたいなもんでした。だから、うちの店も何でもあり。メニューもなんだってありです」。
20歳になって、オヤジから独立を勧められた。
「最初は、断ったんです。独立するなんて思ってもいなかったし、当時は40歳くらいになって一軒家が持てるくらいになればいいや、と、そういうささやかな目標しか持っていませんでしたから。それになにより、オヤジといっしょにはたらいていたかったんです」。
しかし、オヤジさんは、もう腹を決めていたようだ。
店名も、そのまま、味もそのままで店を塚田氏に譲った。「オヤジはもう少し小さい店をやるっていっていました」。むろん、買い取る訳だから、資金はいった。合計850万円。市や銀行からぜんぶ借りてまかなった。
むろん、それだけの投資である。採算ベースに乗らなければ、借金も返済できない。「とにかく勉強だ、と思って、4ヵ月くらい日本中を渡り歩いて、ラーメンを食べまくりました」。正確には、数えていないが「5~600軒は食べ歩いた」とのことだ。九州には1ヵ月半ほど滞在。昼は勉強をかね、タダ働き。夜は違った店でバイトし、生活費を稼いだ。当時の睡眠時間は、3時間。

・・・続き
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社長取材、今のキイストンの原点かも・・・!!

社長取材、やはりココが飲食業界に特化した現在のキイストンの原点かもしれません。

約600社の社長取材してきましたが、自分では全然多いと思わない。
しかし、飲食の戦士たちが毎週火曜更新で550連載となると、これは自分でもスゴいって感じます。
何よりも社長取材でパワーもらえます!

また、この社長取材からご縁を頂き、お仕事はもちろん、業者に関わる皆さんとのネットワークも構築させてもらってます。

当面の目標は、1,000社長取材!
イチローのように、コツコツヒットを積み重ねるようにご縁の拡大していきます!
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