2020年10月27日火曜日

AGTK株式会社 代表取締役 宮村栄宏氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”AGTK株式会社 代表取締役 宮村栄宏氏登場。

本文より~

大学進学までの話。

小さい頃は叔父の歯医者を継がそうと親族は考えていたそうだが、本人にその意思はなく、子どもの頃を一言で表せば「ガキ大将だった」と笑う。高校は、東京工業大学付属高校に進む。高校時代は、バスケットボールの選手。大学は、青山学院大学。
「うちの祖父は、灯台の光の部分をつくる会社を創業し、業績は文句なかったそうです。父親は、いったんそちらを継ぎますが、私が中学の頃に独立して起業します。ただ、私が19歳の時に事業がうまくいかなくなります」。
ただ、末っ子の宮村氏は、ちがっていた。行動を開始する。
「当時の私は、浪人です。だから、時間もあった。スーパーのアルバイトなんかをしながら、月に25万円くらい儲け、生活費にあてていました」。
月25万円。そりゃ、勉強する時間もなかったろう。離婚騒動も起こったそうだ。
「母が離婚を決めて、兄も姉も母と一緒に家を出るというんですね。それで、私に『あなたは、どっちについていくの?』って。当然、母と一緒に行くと思っていたんでしょうね。ただ、私の返事は違った。頑固なところもある親父ですが、みんな母親についていくのも、さすがにと思いました。だから、『オレは親父の面倒をみる』って言ったんです。そしたら、まったく予想外だったんでしょう。離婚そのものがなくなった/笑」。
離れ離れになるところを、宮村氏の一言が救った格好だ。しかし、父親は、宮村氏が21歳の時に他界されてしまっている。

グローバルダイニングとの出会い

「進んだのは青山学院大学の経済学部です。ただ、学校には全然行ってなかったから、単位はいつもギリギリでした。お金の問題も理由の一つですが、始めたバイトが、あのグローバルダイニングの恵比寿ゼストのオープニングスタッフだったので」。
もう、なにを言いたいかだいたい分かった。
ハマってしまったわけですね?
「そうです。すっかり魅了されちゃいます。本当はバーテンダー志望だったんですが、最初はカウンターの中にも入れず、瓶片付けばかりでした。それだけでもうヘトヘト/笑」。
ヘトヘトというのもうなずける。なにしろ、ゼストの月商は1億円ちかい。1日だけでも、相当数のアルコールの瓶が空いたはずだ。
飲食は、アルバイトと正社員の垣根が低い。料理長やマネージャーになれば、違いは明らかになるが、ホールスタッフの時代は、違いを見つけにくい。ではプロとは、何か?
「正社員とアルバイトっていうのではなく、プロかどうかは、ひとつひとつが全然違います。そもそも熱意も違いますし、プロ意識があるかどうかだけで、お客様への対応も変わります」。
「もちろん、プロは厳しいですよね。私は、さきほど言ったようにバーテンダー志望だったんですが、カウンターにも入れず、瓶片付け係です。なんでだよって話ですよね。ですがその当時は、ジントニックっていうのが何かも知らなかったから、当然なんですけどね/笑」。
ただし、それで終わるのは、宮村氏がいうプロではない。
「なんとか、とびらをこじ開けて、カクテルを勉強して…。結局その後、部下を29人もつようになって、バーのリーダーになりました。もちろん、大学時代の話です」。

「シブヤ109」の裏手に「シブヤバル209」、デビュー。

最高で月給55万円の学生アルバイト。お金は、どうしたんだろう? 学費に遣っても、まだ残るはずだ。
そんな話をすると、「半分は、母に渡していた」と宮村氏は、当然のように言う。人間性が表れた一言だった。よく聞くと、お母さまにはどんなときにも、月5万円以上を送っているという。頭が下がる。結婚しても変わらないそう。奥様も、理解がある人だ。
「大学卒業後、グローバルダイニングに就職して11年半働くことになります。西麻布の権八にいた時は、当時、アメリカ副大統領のチェイニー氏や、歌手のジャネットジャクソンさんなどもいらっしゃいました」。
たしかに、濃厚な11年だった。
宮村氏が独立するのは、次に就職した飲食業界に在籍中のこと。
「就職というか、私はスペイン・バルをしたかったので、オーナーにその話をすると、じゃあここでやってみないか、ということで、最初は委託のようなスタイルでスタートするんです」。
それが「シブヤバル209」ですか?
「そうです。完全に独立したのは、私が33歳の時です」。
「シブヤバル209」は、「シブヤ109」の裏手の道玄坂小道にある。立地も悪くない。そのあとも、出店を重ねる。2015年5月には「アジアンバル209」をリリース。2018年にも「呑ん処二◯九」をオープンしている。
「1号店はスペイン料理がベースのスペイン・バルです。2号店はアジアン料理です」。台湾や上海、タイを旅行している時にコンセプトを決めたそう。
3店目は今までとは少し違う。
「渋谷は若者の街というイメージですが、実は大人も少なくない。ただ、若者向けのショップが多いから、そう映るんでしょうね。うちの店もそうですが、渋谷にはオシャレなバルやレストランはあっても、いわゆる、大人がちからを抜いて飲める店がない」。
「お客さんに、どの店で飲むのがおすすめ? と聞かれても、全然思いあたらなくて。だったら、オレが酒場を作ろう、と。これが、3号店『呑ん処二〇九』誕生秘話です」。
つまり、プロダクトアウトではなく、マーケットインというわけだ。
それにしても宮村氏は多彩だ。スペインのつぎはアジア、そして、ジャパン。内装デザインにも宮村氏のセンスが盛り込まれている。
さらに、「呑ん処二〇九」には、別の意味で、壮大な計画が詰め込まれている。
最後にその話を聞いた。

・・・続き

AGTK株式会社 代表取締役 宮村栄宏氏


2020年10月20日火曜日

がんこフードサービス株式会社 代表取締役 小嶋達典氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”がんこフードサービス株式会社 代表取締役 小嶋達典氏登場。

本文より~

剣道と、ラグビーと。

「小学校の時は、東大行って、寿司屋になると話していたらしい」という。
現、がんこフードサービス株式会社の社長、小嶋氏の話である。「幼少の頃より、十三で暮らしていました」。
<十三といえば、がんこ寿司の創業の地ですね?>
「そうです。がんこ寿司 は1963年、十三で4坪半の小さな店からスタートします。私の父の小嶋淳司が創業者です。姉はいますが、私が長男ですから、父はともかく、私はいずれ寿司屋になると思っていました」。
<だから、東大に行って、寿司屋になる?>
「ええ、東大っていうのが無茶無茶ですが。たぶん、大学いうたら、それしか知らんかったんでしょうね/笑」。
スポーツの話もうかがった。
「小・中は剣道です。剣道は小1から習いました。父とですか? そうですね。キャッチボールくらいはしてもらったと思いますが」。
<高校では、ラグビーだそうですね>
「それまで剣道一本です。高校生にもなったから、ちがうスポーツもいいだろうと、ラグビーをはじめます。最初は、アメリカフットボールと迷ったんですが、あっちは丸刈りだったもんですから/笑」。
丸刈りではなかったが、練習はハンパなかった。36人が入部して、1年後、残ったのはたった7人。小嶋氏もなんとかくらいついた。
「大学は、京都佛教大学に進みます」。もちろん、大学でもラグビー。ポジションはウイング。
「高校時代は、練習漬けでしたが、大学では自由な時間もそれなりにあって、バイトも経験しました」。
大学を卒業すれば「食」の道に進む。小嶋氏は、抵抗なく、その道を受け入れていたようだ。大学4年生の頃には、父の淳司氏を「社長と観るようになっていた」とも明かす。
むろん、父、淳司氏は、小嶋氏にとって飲食の大先輩でもある。

父親同様、修業の日々を送る。

「大学卒業後、板前になりたかった私は、京都の老舗料亭に就職します」。就職より、ただしくは丁稚奉公。1年目の給料が6万円。2年目になって8万円。
高校時代の部活より、ある意味、きびしい。
「2DKに6人くらいで暮らしていました。仕事では18時間立ちっぱなしです」。
以前、父親の淳司氏を取材させていただいた時、たしか、つぎように語っておられた。「寿司職人になるには5年はかかると言われました。ですが1年でやると決めたんです」。修行先に選んだのは、黒門市場にある寿司の名店。淳司氏27歳の時の話。ずいぶん、おそい修業開始である。「新聞を海苔の大きさに切って、残ったごはんとこんにゃくとで巻き寿司をつくるんです」。
親子は、ある意味、おなじ道を進む。
「ただ、私は、2年間、お世話になったあと、じつはある大手電機メーカーさんに就職します。うちの主要なお客さんである、『サラリーマン』の世界を経験しておいたほうがいいかなと思って」。
<組織の運営なども、勉強できたのではないですか?>
「いやぁ、スケールがでかすぎて。ただ、はじめて有給っていう制度を知ったのはよかったですね/笑」。

2代目、店長デビュー、その結果は。

がんこフードサービスに転職し、最初に配属されたのは「高瀬川二条苑」。下足番からのスタートだったそう。
「二条苑」は、梅の花、鴨川の水音、紅葉など、京都の四季折々が楽しめる、がんこフードサービスの代表的な店舗でもある。
「二条苑では2年ですね。スタッフと親しくなって、京都の寮にも泊まらせてもらいました。そのあと、三条店に行き、六地蔵でオープンから店長として仕事をさせてもらいます。しかし、オープンは初めてで、不安だらけでした」。
 初のオープン店長。業績は、どうだったんだろう?
「1日1000人のお客様が、2~3ヵ月つづきました。オープンするとたちまち200席が満席です。業績は悪くなかったけど、ぜんぜんあかんかったですね。料理も、ドリンクもぜんぜんでぇへん。段取りが悪かったんです。今なら、そう思えるんですが、波のようにいらっしゃるお客様をみたら、なにもでけへんかったというのが、正直なところとちゃいますかね」。
ただ、ひたすら動く。がむしゃらに。むろん、いい経験になった。自信にもなった。その後、小嶋氏は、現場から少しずつ離れることになる。
「営業企画や、メニュー開発といった仕事から、業態の開発までを経験します。コリアン料理とカフェが融合したショップなども開発しますが、なかなか思うようにはいきません」。
その時、小嶋氏は、ほかの飲食をひんぱんに訪れることになる。
「オペレーションファクトリーさんって会社があって、よく行きました。格好いいなぁ、と参考にもさせてもらっています」。
この素直さも、小嶋氏は真骨頂。「バカ正直」、これも、父、淳司氏ゆずりだ。

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がんこフードサービス株式会社 代表取締役 小嶋達典氏


2020年10月13日火曜日

株式会社JACKALMAN 代表取締役 金 栄釱(キム・ヨンデ)氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社JACKALMAN 代表取締役 金 栄釱(キム・ヨンデ)登場。


本文より~

目標は、東大進学。

ほんとうは東大に行っているはずだった。
金 栄釱氏。日本を代表するラガーマンの1人。ラグビーファンでなくても、個性的なヘアースタイルを観れば、思い出す人も多いだろう。楕円形のボールを追いかけてきた、どちらかといえば野性的な風貌と、「東大」とは落差があった。
「ハハ、中学進学の時の話です。その時の目標は、灘高校に進学し東大に入り弁護士になる、だったんですね。それで上宮中学という中・高一貫校に進学します」。
上宮中高は、有名大学への進学率だけでなく、スポーツでも高く評価されている。「私が進んだのは、むろん、進学コースです」。
いつからからだが大きくなったのか聞き忘れたが、当時から大きかったとすれば、窮屈な椅子に座り、熱心に本を読む。そんな少年のすがたが目に浮かぶ。めざすは、東大。
「ところが、1つ上の先輩が、ラグビー部を創部されたんですね」。
で、やったら、ハマった?
「そうです。もう、勉強どころじゃない/笑」。

金 栄釱という、ラグビー選手誕生まで。

金氏が進んだのは、スポーツではなく進学コース。授業のコマ数も多い。「勉強に追われ、ラグビーがでけへんことに気づくんです。だから、中学2年になる時に、思い切ってラグビー部がある別の中学に転校しました」。
「不良の巣窟だった」と笑う。金氏にすれば、ラグビーができれば、なんの巣窟であろうが、かまわない。
そのあとの経緯を簡潔にトレースすると、高校は、当然、灘ではなく島根県の江の川高校(現石見智翠館高校)に進む。高校では、いじめにもあったそう。高校から逃走した金氏を、父親が首根っこを捕まえ、連れ戻したこともあるそうだ。
大学は大阪産業大学。ただし、2部リーグ。「これが功を奏した」と金氏。実際、1年目から金氏のプレーは際立った。その結果、2部リーグから異例のプロ契約に進むことになる。
2005年、近鉄ライナーズに入団。2年在籍したのち、オーストラリアにも渡る。
「向こうでトライアウトを受けたりもしたんですが、ピザの関係もあって、いったん帰国します。この時、ホンダヒートに2年半、リコーブラックラムズで2年、NTTドコモレッドハリケーンズで2年プレーします」。
ポジションは、フランカー。どんな相手にもひるむことなくタックルする、あのポジションだ。ラグビーファンなら、金氏のタックルを記憶しているにちがいない。

からだづくりの相棒だった、赤身肉。

さて、そんな金氏と飲食。これが、ここではテーマだ。「2014年にNTTドコモで引退表明し、その年の8月に、『ステーキ食堂BECO』をオープンします。これが、1号店です」。
ここから、金氏と飲食の関係がスタートするのだが、じつは源流は、もっと昔にあった。「親父が、ある会社の飲食事業部の責任者だったんです。そんな親父を観てかっこいな、と。あの頃から『飲食はかっこいい』とからだのどこかに刷り込まれていたんでしょうね」。
東大からはじまり、ラグビー、そして、今度は飲食。オープンした「ステーキ食堂BECO」は、現役時代、からだづくりの相棒だった赤身肉がメインのステーキハウスだ。
赤身のステーキは、ヘビーなイメージもあるが、金氏に言わせると、「ヘルシー」でもあるそうだ。たしかに、霜降りの肉は旨いが、脂っこい。比較して、赤身は、「いまオレは、肉を食べている」という、人のなかに潜む、野生まで刺激する。

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株式会社JACKALMAN 代表取締役 金 栄釱(キム・ヨンデ)


最強野菜ベジマカ登場 生のマカが食べられるお店登場。

栄養ドリンクやサプリメントなどでおなじみの「マカ」。

栄養価が高く古くから南米ペルーで愛用されてきた食材ですが、実は日本でも栽培されており、今月10月から東京都内の飲食店で日本産マカを活用した飲食メニューが登場しているのをご存じでしょうか。

食欲の秋に、疲れ切ったサラリーマンの活力をアップさせる「最強の野菜」のベジマカ、是非とも一度食べてみてください。

最強野菜ベジマカ登場 生のマカが食べられるお店

「ローズ&クラウン」「ワイン倶楽部」「魚盛」などを展開するダイナック様、「カレーうどん専門店 千吉」を展開する千吉様)、「ステーキハウスB&M」などを展開するビーエム様の3社です。

(ダイナック様)
(カレーうどん 千吉様)
(ステーキハウス B&M様)

10月2日(金)よりて夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」にて2連載でビープラウド様を掲載しました。

10月2日(金)〜9日(金)の2週に渡って夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」にビープラウド様を掲載しました。

(10月2日発行 電子版/カラー)
(10月9日発行 電子版/カラー)




2020年10月12日月曜日

株式会社シュゼット・ホールディングス 代表取締役社長 蟻田剛毅氏登場。

  in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社シュゼット・ホールディングス 代表取締役社長 蟻田剛毅氏登場。

本文より~

高校までの話。

HENRI CHARPENTIER/アンリ・シャルパンティエ。フィナンシェのセールスで、ギネス世界記録™(※)をもつことでも知られている洋菓子店だ。2020年9月1日には、6年連続で達成という快挙を成し遂げた。お菓子部門で「世界初」となる記録だそうだ。
(※)The Best-selling plain financier (cake)company- current (2017年10月1日~2018年9月30日 29,089,988個)
今回ご登場いただいたのは、4代目社長、蟻田氏。創業者、蟻田 尚邦氏の長男である。
「アンリ・シャルパンティエのオープンは1969年ですから、私が生まれる5年前の創業です。とにかく、忙しかったんでしょうね。父が家にいた記憶は余りないし、これは、母も一緒なんですが、両親からアレコレと指図された記憶もないですね」。
ご自身はどんな少年だったんですか?
「私ですか。私はといえば、とにかく凝り性というか。ウルトマランが好きになればずっと、ウルトラマン。小さい頃は巨人のファンだったんですが、毎試合かじりついていました。だから、勉強する時間もない/笑」。
「ただ、一応『お受験』はしました。小・中学校受験です。もっとも、勉強もしていないので、合格するわけはありません。通ったのは公立の小・中です」。

大学、そして、電通時代。

「大学は付属高校から関西学院大学です。じつは、こちらで野球をやります。もっとも部ではなく、サークルのほうですが、ゲームをつくるのが大好きな、私の本領が、ちょこっと顔を出します」。
どういうことだろう?
「リーグ戦をつくって、戦います。打率もぜんぶデータ化して、広報します。子どもの頃、食い入るように観ていましたからね。得点圏打率はこうだ、みたいな/笑」。
凝り性の証ですね?
「そうなんです。私は電通に就職しますが、電通ではフットサル部に入り、野球の時と同様にチーム運営の仕組みづくりなんかもしています。つまり、ゲームプランナーでいたいんですね。ただ、」
ただ?
「大学の時はやりすぎて、チームメイトと言いあいになって。そうなったら、絶対ひかない性格ですから、ついにはサークルを出禁になっちゃっうんです」。
「何事も、ほどほどがいい」と、むろん、当時は思わない。
「先数年前にサークルの同窓会があったんですが、出禁以来、はじめて参加させてもらいました。誰かが、『あいつも、どうだ?』と言ってくれたんでしょうね/笑」。
ちなみに、電通時代に作ったルールが、面白い。「練習に遅刻したら、試合で使わない」というシンプルなルール。このシンプルさのなかに、蟻田氏の性格が表れている。

「オレ1位だから」。

「もともと、うちには四大に進んだ人がいないし、父も、母も、『就活』と聞いてもピンとこない人でした。私ももちろん、そうです。進路って、なんだ? ってタイプ。4年になった時かな。スーツを着ている友達を観て、『何やってんだ?』って/笑」。
それでも、電通に就職するんですよね?
「最終的にはそうですが、1浪しているんです/笑」。
1浪?
「1年目に落ちて。たまたま、ある方とお知り合いになり、そのツテをたどって・・・と安易なことを始めた。それで1年就職浪人です。カナダにちょっと留学しています」。
結果、合格だったんですね?
「いえ、不合格です/笑。考えが甘過ぎました。ただ、あとにも、さきにも、この年だけですが、年に2回、受験のチャンスがあったんです。で、2回目でついに合格をいただきます」。
なんでも、全内定者の中で筆記テストが、2位だったそう。蟻田氏、人生の大逆転である。
「でね。入社してから、横にいた奴に、『オレ、このなかじゃ成績2位だったんだよな』、なんて言ったら、『あ、それ。それ、オレ1位だから』って」。

「入り口が、ゴール」と、「10年かけてつかんだ答え」と。

電通には計10年、在籍。
「みんな広告がしたくて、入社するでしょ。私も1浪しているくらいだから、電通1本だったんですが、みんなとはちがって。いちばん難しい会社に入ってやろう、が動機。いうならば、入り口が、ゴールだったんです/笑」。
    だから、なかなか仕事に没頭できない。成績も、ふるわない。「たぶん、諦めていたんです。ただ、3年目になって、コンビニエンスストアのスイーツを担当することになって。うちが洋菓子店ということもあって、昔から、お菓子が大好きだったんです。そういう『好き』の掛け算で、仕事にも興味がわきましたし、将来、お菓子にかかわる仕事がしたいな、と思うようになりました」。
電通、在籍中に早稲田大学大学院に入学。アジア太平洋研究科国際ビジネスコースを専攻し、無事、修了もしている。
年表で追ってみると、<1998年4月、電通入社><2002年9月、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科、国際ビジネスコース入学><2004年8月、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科、国際ビジネスコース修了><2006年7月、電通退職><2007年10月、株式会社アンリ・シャルパンティエ(現:株式会社シュゼット・ホールディングス)入社>となる。
好きなお菓子に関わる仕事に就く。それが、入社の目的。社会に出て、10年かけてつかんだ答えでもある。

好きが仕事で給料も出る、最高やん!

「菓子のことを一生懸命考えていたら給料が出る、最高やん!」と蟻田氏は、すぐにそう思ったと笑う。
「アンリ・シャルパンティエに転職したわけですが、最初は、アルバイトからのスタートです。工場も経験したし、ショップにも立ちました。いやぁ、楽しかったですね。お菓子づくりもそうですし、ショップでも、そう。ただ、職責は限られてますからね。ただただ、楽しめたのかもしれません/笑」。
アルバイト生活を1年半くらいつづけ、アンリ・シャルパンティエのブランド監修を行っていたグループの企画会社、「クールアース」に異動。
1年ほどマーケティングを経験している。
じつは、もし社長をするなら、このクールアースかなと思っていたそう。
「アンリ・シャルパンティエは、親族以外の人が社長をされていましたからね。そういう意味では、まだ私は気楽な立場だったんだと思います」。
しかし、創業者の息子が気楽でいられない事態になる。業績の悪化だ。

「お菓子を通じて、お客様に“喜び”と“驚き”を。」

「オーナーの父から指名されました。社長交代ですね。業績が悪くなると、社長の椅子も、座り心地がいいもんじゃなくなる」。
時系列でいうと、転職してから3年目の2010年に、副社長に就き、翌2011年に代表取締役社長に就任している。
蟻田氏が社長に就任したことで生まれた危機意識がうまく作用したのか、業績はV字回復。以来、9年、蟻田流の経営で、黒字経営を維持している。
ブランドは、創業ブランドでもある、「HENRI CHARPENTIER (アンリ・シャルパンティエ)」。1987年、誕生の「C3 (シーキューブ)」、2018年にリリースした「casaneo (カサネオ)」、新たに仲間入りすることになった「back haus IRIE (バックハウスイリエ)」の4ブランド。いずれも、好評だ。
 この経営にも、蟻田氏らしい、ルールづくりや、ゲームづくりが活かされているのは、間違いないだろう。それは、どんなルールなのだろうか。案外、シンプルかもしれない。
「練習に遅刻したら、試合で使わない」と、電通時代につくったルールのような。
「お菓子を通じて、お客様に“喜び”と“驚き”を。」
このシンプルなメッセージも、ルールのひとつかもしれない。好きを仕事に。もちろんこれもルールの一つにちがいない。好きを仕事にすれば、お菓子を食べた時のように、人生が、豊かになる。

・・・続き

株式会社シュゼット・ホールディングス 代表取締役社長 蟻田剛毅氏


株式会社StyLe 代表取締役 石川瑛祐氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社StyLe 代表取締役 石川瑛祐氏登場。

本文より~

1983年、生まれ。

今回ご登場いただいた株式会社StyLeの代表、石川 瑛祐氏は1983年、栃木県馬頭町(現那珂川町)に生まれる。兄弟は2人。7つ違いの兄がいる。
ご両親はもともと東京で公務員をされていたらしいが、石川氏が生まれた頃には、父親の出身である栃木県に戻り、ダスキンのフランチャイズショップを経営されていたそうだ。
ところで、「馬頭町」という町名がユニークだったので調べてみると、驚いたことに日本で最初に金が発見された町だそう。奈良時代から金山の開発が進み、奈良の大仏の建立にも用いられたということだ。もちろん、これは古代の話。2005年、隣町の小川町と合併し、「那珂川町」となり、馬頭町は消滅している。
子どもの頃の様子をうかがうと、スポーツも、勉強もできる少年だったという回答。たしかに、スポーツも万能で、高校まで野球をつづけている。
「両親が自営だったからでしょうか。父母の仕事を観ていて、人を使う仕事はしたくないと子ども心に思っていました。使われるのは、もちろんイヤです」。
高校の卒業シーズンになると、そうはいっても、やりたい仕事もないことに気づく。「だから、実は、高校を卒業してからは、大学進学もせず、就職もせず、プータロー生活を送ります/笑」。

東京へ。

栃木県から東京までどれくらいの距離があるんだろうか? そもそも何故、東京だったのだろうか? 高校を卒業し、プータローのような生活を送っていた石川氏は、突然、東京に向かう。
「東京では、住み込みで、新聞配達の仕事を始めます。ただ、半年で、そちらを辞め、今度は、改めて大学に進学しようと勉強を開始しました」。
勉強といっても、ほぼ独学。にもかかわらず早稲田大学に合格している。
すごいですね?というと、本人はそうでもないらしく、実際、たった3ヵ月で大学生を辞めてしまった話もしてくれた。
強烈な心の高まりは、東京という大都会にも、大学にも感じることができなかったということだろうか。
「東京に来れば、どこかに面白い人がいると思っていたんですが、ぜんぜん、そんな人はいない。大学を辞めて、バイト生活を始めるんですが、実際、仕事もつまらない」。
ただ、その一方で、野心はやはりあったし、やれば、できると思いつづけていたのも事実。「オレは、やれば、できる」。しかし、なにをやるべきか、それがわからない。

28歳の宣言。

「正社員にならず、バイトを転々とします。そんな生活が28歳まで続きました。きっかけというわけではありませんが、ある人から、あるすごい経営者の話を聞かされて…」。
それが、刺激になったわけですね?
「そうです。帰宅して早速、その人のことを調べます」。
強烈に惹かれた。
「私ももう28歳でしたし、さすがにいつまでもバイト君ではいけないと思っていましたし」。
スイッチがONになる。
もともと飲食には興味があったそう。仲間と一緒に独立したら楽しそうだとも思ったこともあったらしい。「とにかく、野心はあった」と石川氏。しかし、それ以外、何もないことの裏返しでもあった。
スイッチがONになったといっても、つまりは、野心を語るだけの一点勝負。
結局、その野心をぶつけたのは、当時、株式会社subLimeの代表取締役社長だった花光雅丸氏。面談で「1年で独立する」と宣言している。
「花光さんのブログに、社員募集の記事があったんです。それを観て、これだと思って、早速メールを送ったら、首尾よく採用していただけることになり、上井草の新店舗の店長からスタートします」。
バイト経験しかない28歳。はたして、宣言通りうまくいくんだろうか?

野心は、誰にも負けない。

石川氏のストロングポイントは、強烈な野心だと思う。その野心が、頭と体のギアとついにかみ合った。突っ走るのみ。
「ただ、頑張っても、売上はぜんぜんダメでした。なにか抜けていたんでしょうね。それでも私の頑張りをみていてくれたんでしょう。今度は、並木橋の『ととしぐれ』の店長に抜擢されます」。
この『ととしぐれ』で、開花する。「石川、ここにあり」の狼煙があがる。
「結局、9ヵ月目です。業務委託というスタイルで、独立します」。
9ヵ月。結局1年もかかっていない。しかし、驚くのは、まだ早かった。独立することはゴールでもなんでもない。
野心も大きくなっていく。
「独立して、3ヵ月後に2店舗目を出店します。業務委託ではなく、オリジナルブランドを出したのは5店舗目から。独立して1年でオリジナルブランドを含め、合計6店舗を出店しました」。
「ちょっと、待て」と言いたくなる。しかし、話にはまだ続きがあった。「無理な出店はぜんぜんしていないんですが、7年間で80店舗を出店することができました」。
subLimeの卒業生のなかでも、群を抜いているのではないか。むろん、店舗数は「経営者の力」を表す一つの指標でもある。

・・・続き
株式会社StyLe 代表取締役 石川瑛祐氏


2020年10月7日水曜日

10月5日(月)より、日本初!生で食べられる日本産マカ「ベジマカ」が期間限定で飲食店3社で販売開始されます!

「飲食業界のために!」第一弾!

10月5日(月)より「株式会社ダイナック」、「株式会社千吉」、「株式会社ビーエム」にて、日本初!生で食べられる希少食材、日本産マカ「ベジマカ」が期間限定で販売開始されます!

株式会社千吉 全16店舗
ステーキハウスB&M 2店舗
株式会社ダイナック 「ローズ&クラウン」 「ワイン倶楽部」「魚盛」など18店舗

是非、お近くのお店で味わってください!

千吉 ニュースリリース(←クリックしてください)
ダイナック ニュースリリース(←クリックしてください)


ダイナック様
(炙りたて鰹 ベジマカと香味野菜)
(くじら赤身刺し ベジマカ添え)
(ベジマカと食べるイチボステーキ)
(桜肉の漬けとベジマカのアテ寿司)
(ベジマカチョコ)


千吉様
(ベジマカ入り牛肉カレーうどん)


ビーエム様
(黒毛和牛ロースステーキ・ベジマカと共に)
(コールドビーフとベジマカのランチセット)
(SPFポークのサラダ仕立てベジマカ添え)

2020年10月1日木曜日

弊社の武田あかねが美STに出ました。

弊社の武田あかねが美STに出ました。
【美ST 11月号(9月17日発行)】

武田が紹介した“ベジマカ”、もしかしたらブームになるかも。。。。
10月5日(月)からダイナック様18店舗、カレーうどん 千吉様16店舗、ステーキのB&M様2店舗にて一斉に 『 ベジマカ 』 メニューが販売もされるようです。



(ベジマカ協会より)
スーパーフード=ベジマカ
4,000メートルを超える南米ペルーの高地が原産のマカ。
1990年代に日本に伝わり、30年近い栽培の試行錯誤の末、
ペルー産をはるかに上回るスーパー野菜=ベジマカに進化しました。
アブラナ科のマカ(ベジマカ)は凄い可能性を秘めた野菜です!