2025年2月10日月曜日

株式会社J-Connect 代表取締役社長 磯貝拓麻氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社J-Connect 代表取締役社長 磯貝拓麻氏登場。

本文より~

いい話のつづき。

同級生3人を誘って、創業。これが磯貝さんの始まり。設立は2015年。目標は100億円企業。まだまだ先の話だと思って聞いていたが、もうすでに20億円。加速すれば、あと数年でゴールテープを切るかもしれない。わくわくしながら、お話を聞かせていただいた。
磯貝さんが生まれたのは1994年。お父様は建築系の仕事をされている。
「姉が1人います。母は今も仕事をしていますが、人に好かれるタイプで、じつは母の知り合いが、今うちで働いてくださっています」。
母似だという磯貝さんも、周りの人に好かれるタイプ。同級生4人で創業して、10年近く経った今も全員一緒に仕事をしているのも、磯貝さんの人柄の表れに違いない。20億円企業の社長だが、謙虚で、話していて楽しい。
さて、その磯貝さんは小学生からサッカーを始め、中3まで続けている。区の選抜にも選ばれていて、強豪校のトライアルを受ける予定だったが、怪我をしてスポーツ推薦を諦めている。進んだのは、進学校。
「それから私は、建築設計を勉強するために中央工学校に進学します。彼女はアパレルのお店で就職。でも、半年で退職しました」。
<磯貝さんが?>
「いえ、彼女です。19歳の時に子どもを授かったんです」。
その時のお子さんは今、10歳。2人は結婚することになる。
「大きな反対はされなかったです」。
それ以来、いい話の続きを、2人でつむいでいくことになる。

起業と、プレッシャーと。

19歳、専門学校生。定職があるわけでもない。
<結婚生活は?>
気になって聞いてみた。
「最初はお金がないので、うちの実家で両親と同居です」。
<磯貝さんのご両親と一緒に?>
「ええ、だから、彼女は大変だったと思います。しかも、起業してからは、なかなか家にも帰れなかったもんですから」。
話を聞くと「なかなか」どころか、まったく帰れなかったらしい。
あらかじめ磯貝さんからいただいた自身のプロフィールによると、「中央工学校へ進学し建築設計を学びながら同級生を引き連れ居酒屋にアルバイトとして勤める。学生の傍ら前記の店舗にてバイトリーダーを経て、店長を任される中で同級生と起業を志し、中退を決断。株式会社J-Connectを設立する」とある。
思い切った選択だ。
「捨て身の覚悟です。仲間の1人は、親に勘当までされています。私が誘ったわけですから、もちろん、プレッシャーはハンパないです。それに、私には妻も、子もいましたから」。
「退路などなかった」と磯貝さんは笑う。
<1号店は運営を受託されたんですよね?>
「そうです。屋号はそのままでオペレーションを任せていただきました」。
経験といえば、バイトと、創業当初に手伝ってくれた料理人から教わっただけ。
「実質、経験者は1人もいなかった」と笑う。
ただし、そこから手探りの快進撃がスタートする。
家では、両親と妻と子どもが待つ。だが、帰れない。パパ以上にママが頑張ってくれた。奥様の応援がなければ、もちろん、今の磯貝さんも今の会社もない。当時の話をもう少し。
「とにかく、食べさせていかないといけない。でも、食べられればいいってわけじゃない。じつは、3人のうち2人は、私と一緒に大学まで辞めていますから」。
プレッシャーは、今だけの話ではない。家族はもちろん、彼らの将来に対しても重圧がのしかかる。
「でも、性格的にそういうプレッシャーを楽しむタイプなので。それに、みんな腹を決めていましたから」。
「結束」。そんな言葉が頭に浮かぶ。
「業務委託でスタートしたのは、40席程度の海鮮居酒屋です。ランチからスタートし、24時まで。利益は少し。とにかく、創業メンバーが4人ですから、それだけで人件費がかかる」。
同級生は20万円程度、磯貝さんは5万円だけ。
みんなで店に泊まり込んだ。どんな会話がなされていたんだろうか?
語っていたのは、野心か、望みか。その一方、5万円という現実はきつい。「嫁さんからのプレッシャーもきつかったですね(笑)」。
それは、そうだろう。
「でも、もうスタートしてしまいましたから」。
どうなっていくんだろう。

東京→千葉→静岡→埼玉、つぎは。

「創業時のメンバーをとにかく食べさせていかないといけません」。そのためには早く出店しないといけない。だから、磯貝さんは自身の報酬を5万円のみにした。ほかのメンバーに給与を支給し、残った分は貯蓄する。そして、10ヵ月後に新店をオープンしている。
「当時は店舗開発の知識もないし、経験もない。お金もありませんから、とにかく、初期投資が少なくて済む居抜きの物件をネットで探し回って」。
<ちょうどいい物件があったんですね?>。
「ええ、我孫子だったんですが」。
<我孫子と聞いて、あの我孫子?>と反芻した。「ええ」といって、笑う。
「創業店は大塚ですから、距離があります。行き来するとしたら大変です。ただ、うちには創業メンバーがいたので人手はあるし、当時は泊まり込みでしたから、二手に別れれば問題がありませんでした」と磯貝さんはこともなげにいう。
我孫子の店舗のスケールは40坪で80席。空中階。「当時は宴会需要を狙っていました。業態は総合居酒屋で客単価3500円。ただ、好調というわけではなく苦戦はしています。それでも、初期投資が安く、家賃も20万円程度だったので、創業の店と合わせて100万円くらいはキャッシュが残りました」。
ふんだんに資金があったわけではない。でも、未来へのプレッシャーか出店を急いだ。「3号店は、その2ヵ月後です」。東京、千葉、そして、3号店はなんと静岡。
「地方がいいぞって、そういう噂を鵜呑みにして(笑)」。距離はあったが、創業メンバーの誰かが行けばいい。
「静岡っていうとみんな驚かれるかもしれませんが、うちの戦略にはマッチしています。とにかく、初期投資が少なく、家賃も安いのでランニングコストも少なくて済む。それに実際、静岡に行ってみてびっくりするんです。さすが、新幹線が止まる駅があるだけあって、我孫子より人が多い!って」。
こちらは20坪、家賃20万円、450万円程度を売り上げた。さらに、春日部へ。わずか1年と少しで、4都道府県を制覇している。その後も、年間4~5店舗のペースでオープンを続ける。しかも、10店舗まで自己資金のみというから、それにも驚かされてしまった。

・・・続き

株式会社J-Connect 代表取締役社長 磯貝拓麻氏

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よね蔵グループ 有限会社島/株式会社いかの墨 代表取締役 中島敬二氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”よね蔵グループ 有限会社島/株式会社いかの墨 代表取締役 中島敬二氏登場。

本文より~

美容師になりたい息子と、調理師になって欲しい母親と。

細長いかたちをしている新潟県のほぼ中央に位置しているのが燕市。洋食器の生産で世界的なシェアをもっている。今回、ご登場いただいた中島敬二社長は1965年に、この燕市に生まれている。
お父様は洋食器の会社を経営されていたそうだが、業績が低迷。中島社長が中学1年の時に、それがもとになって両親は離婚されている。
「父と離婚してから母はスナックを経営して、それが現在の会社に生まれかわっていきます」。中島社長は、2人兄妹。妹さんは今、事業パートナーの1人。
「もともとスナックだったんですが、1989年、私が23歳のときに割烹をはじめます」と中島社長。ホームページの沿革には<1998年1月 有限会社 島 設立 【日本料理 島】 オープン>と書かれている。
「私の少年期ですか? ごくふつうかな。中学からともだちに誘われて柔道をはじめました。進学した高校に柔道部がなかったので、ラグビーに転向。最初は同好会だったんですが、すぐに部に昇格し、試合にもでていました。高校を卒業して調理の専門学校に進みます」。
<忙しいお母さんに代わって料理などはされていましたか?>そう質問すると「いえいえ」と苦笑する。
「当時は母をサポートしないといけないっていう感覚がなかったですね」。
それでも、調理の道に進んだのは母の願いを聞き入れてのこと。
「じつは小さな頃から美容師になりたかったんです。当時は人気でね。かっこいい仕事だったんです」。
<でも、あきらめた?>
「母親がスナックをやっていたでしょ。でも、夜の仕事。私らも大きくなったし、業績もかなりよくって。資金はけっきょく銀行から借り入れたんだけど。とにかく、スナックをやめて割烹をしたいっていいだしたんです」。
母は、息子をみる。
「割烹をするんだったら、もちろん料理人がいるでしょ。だから、私に料理人になって欲しいっていうんです。そりゃ、苦労もかけてきたしね。『美容師になりたい』なんて言ったら、『だったら、そうしなさい』っていうに決まっているから、そこは黙ってね」。
今でも「美容師がよかった」というような口調で、そう語る。

8時間のシフト勤務。楽すぎて退職?

「専門学校を卒業して最初にはたらいたのは『美濃吉』さんです。3年くらいお世話になりました」。
配属は東京。ただし、東京といっても仕事漬け。観光する時間もないまま時が流れていく。
「最初の2年間は朝7時に出勤して、夜の10時過ぎまで。ハードワークですが、当時はそういう時代でしたし、私らもそれがふつうだって思っていました。ただ、3年目になって、たぶん上場したからだと思うんですが、空気がガラっとかわってね」。
長時間労働が改められて、8時間のシフト勤務になったそうだ。その一方でとかく効率が重視されるようになる。
「修業中の私からすれば、効率だけじゃ物足りない。最初を知っているから余計です。今じゃ、あの時、効率化のプロセスを勉強しておいたらよかったかなと思いますが、料理をマスターするために就職した当時の私からすれば、やっぱり効率じゃなったんですよね」。
<それで、退職?>
「そう、それで、退職させてもらって新潟に帰ります。今度も、学校から紹介してもらった割烹で勤めるんですが、ここは半年くらいしかいなかったですね」。
「ちょっと暇すぎた」と笑う。

「日本料理 島」オープン。ただし、視界不良。

3社目は結婚式場。
「ただね。入社する時に、母親に改めて『お店やりたいから一緒にやろう』と言われたんです」。
お母様にすれば、念願の店をつくるという思いと、息子に残してやろうという思いがあったんだろう。
「私は小さな割烹をイメージしていたんだけどね(笑)」。
お母様は大胆にも融資を受け、営んでおられたスナックの斜め前に土地を買い、3階建ての立派な店をつくられた。「100席以上あった」というからたしかにスケールがでかい。
「でね。その結婚式場ではたらいていた時の先輩にも相談して、調理人を紹介してもらって」。
<お店は無事オープンしたんですか?>
「そう。昔、母親がいっていたように、私が高校を卒業して5年後にね」。
1989年、親子の思いを乗せて、「日本料理 島」が華々しくオープンする。
母と息子と、そして、調理人1人。
「最初の、1、2ヵ月は繁盛しました。ただ、そう上手くいきません(笑)。だってね。母親に商才はあったけど、スナックの経営とはさすがにスケールがちがう。100席以上だもの」。
「たいへんだった」と中島社長。「母親とも言い争いがたえなかった」と苦笑する。
「母親のやりたかったのは宴会場もあるようなスケールの大きな割烹料理店です。でも、私はもう、そういう時代じゃないんだと」。最初からボタンのかけちがいがあったそう。
宴会シーズンは、それなりだったが、シーズン以外は客が思ったように入らない。親子にとって、険悪な日々がつづく。
「保険として残しておいたスナックがあったのでなんとか食いつないだ」と、中島社長は、もう一度苦笑いした。
視界、不良。
「5年くらい経って、もうだめかなと思った時に、あるお誘いがあったんです」。

息子のチャレンジ。

「ある時にね。スナックの常連さんに上場企業の役員がいらしたんだけど。その人からゴルフ場のレストランのテナントのお話をいただいたんです。若かったしね。店もうまくいってなかったでしょ。だから、二つ返事でやらしてくださいって」。
ゴルフ場のレストラン。ランチはカツカレーやラーメンセット、おつまみはホルモン焼。割烹とはちがう。だが、意に介さない。
「お店のほうは流行ってないから、料理人も1人で十分。最初に誘った料理人にお願いして、私はゴルフ場のレストランで、調理師をもう1人採用して」。
<そちらが繁盛したんですね?>
「いやぁ、それがね」。
「新潟のゴルフ場は12月から2月まではだいたいクローズするんです」。スタッフは冬期解雇となり、その間はほかでアルバイトなどをするそうだ。
「でも、そのゴルフ場は日本海側にあったから、雪が降っても積もらない。だから、フルシーズンオープンしているんです。ただ、オープンしているといったって、すごく晴れた日にしかお客さんは来ません(笑)」。
クローズしないから冬期解雇もできない。スタッフを抱えたまま。
「だから、たいへんだった。でもね。そのゴルフ場の支配人に、勉強させてもらうんです。原価を意識するようになったのも初めてでした」。
経営を意識して、そのノウハウを叩き込んでいただいた。
「あの人のおかげ。今があるのは」と、中島社長は感謝の言葉を忘れない。
<オフシーズンの人件費はどう捻出されたんですか?>
「そう、なんとかしないといけないでしょ。お客さんがいなくてもスタッフはいるから人件費だけかさむ」。
立派なキッチンも、無用の長物。1人で悶々とした日々だったにちがいない。また、うまくいかないんじゃないか、と。
「そう、でも、もう失敗はできない」。頭がぐるぐる回転する。「ある日、キッチンをみて、そうだ、ここで料理をつくって、と。セントラルキッチンだよね。そういうふうに利用させてもらおうとひらめいて。もともとあった自宅を改装して居酒屋をオープン。料理は、セントラルキッチンから送ります」。
<それが沿革にある「よね蔵 吉田店」ですか?>
「そうです。1999年です。これが思った以上に繁盛するんです。最初はゴルフ場のキッチンを活用するためくらいに考えていたんですが、思った以上になって。ゴルフのキッチンだけじゃ、回らなくなって。それで、じゃぁ、こっちを本業にしようと、思い切って舵を切ったんです」。
中島社長が「思った以上」というように、連日連夜、歓声が上がる。
中島社長が大きな手応えをつかんだのは、この時が初めてだったかもしれない。2年後に「よね蔵 燕三条店」をオープン。繁盛店と、それを仕切る息子をみて、お母様はさぞ喜ばれたことだろう。この時、東京ではたらいていた、娘。つまり、中島社長の妹を呼び戻しておられる。
その後も好調をキープ。2003年にはJR新潟駅の南口に「葱ぼうず」をオープン。この時、地場の食材をつかった和のテイストに舵を切り、さらに知名度を上げていく。

・・・続き

よね蔵グループ 有限会社島/株式会社いかの墨 代表取締役 中島敬二氏

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株式会社ダイニングエッジ 代表取締役 及川裕樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ダイニングエッジ 代表取締役 及川裕樹氏登場。

本文より~

奄美大島と、攻玉社と。

奄美大島といっても、12月は、さすがに寒いらしい。それでも、観光案内を観ると、シュノーケリングなどのアクティビティは楽しめるそうで、冬になっても青い空に、青い海は、健在だった。
今回ご登場いただいた株式会社ダイニングエッジ、代表取締役の及川裕樹さんは、小学5年生まで、年2回、この奄美大島に渡っている。お母様が奄美大島出身。
「奄美大島で祖父母は大きなショップを経営していました。奄美大島の子どもたちの制服は、すべて、そのショップに置いてありました。正月になると、私も店頭に立って初売りを手伝いました。それが、今の私の原点かもしれません」。
ちなみに、東京から奄美大島に行くには、飛行機で約2時間31分かかるそうだ。「当時は、パイロットもおおらかで、子どもはコックピットで空の旅をたのしめたんです」。
上空から観る、果てしない大海原。少年には、どう映っていたんだろうか。
子どもの頃の及川さんの話をもう一つ挙げると、勉強ができたこと。
「中学受験前の模試で、100位以内に入ります。腕試しのつもりが、それで自信をつけてしまって中学を受験して、攻玉社中学校に進みます」。
攻玉社中学校で検索すると、創立160周年と出てくる。偏差値は高く70前後。「マジメな子が多かったですね。帰国子女も多く、私が入ったバスケットボール部では、半数以上が帰国子女でした。株式会社カオカオカオの新井勇佑社長は、先輩です(笑)」。
新井さんは、中学時代、医師をめざしておられたはずだ。そういう生徒もいる。ちなみに、新井さんもこの飲食の戦士たちにもご登場いただいている
中・高とその攻玉社ですごし、早稲田に進学。ちなみに、とある人気女優とご近所で同い年。一緒にご飯を食べ、お風呂にも入ったそう。それが縁でテレビにも招かれている。

日本最大の学園祭と、実行するメンバーたちと。

「早稲田祭をやりたくて、早稲田に進学します。高校の時から文化祭の実行委員会をやっていて、楽しかったから。慶応も受かったんですが、早稲田祭のために早稲田を選択します」。高校の文化祭と比較すると、大学の学園祭は、スケールがまったくちがう。なかでも早稲田祭は、2日間で20万人ちかい人が訪れる日本最大級の学園祭だ。むろん、大人の事情もからんで来る。
「開催するコストも莫大ですからね。私は早稲田祭でいちばん大きなイベントを企画する広告研究会サークルに入ります。このサークル自体、大所帯で、1つ下では、400人がサークルに入ります。入会金と年間8000円。年会費だけで320万円」。
協賛企業もつく。協賛企業への営業活動は、サークルメンバーの大事な仕事。及川さんは早稲田祭の運営スタッフにも所属することになるのだが、「2つでたぶん、3000万円以上は集金している」と笑う。さすがに早稲田ともなれば、スポンサーがだす金額も桁がちがう。
「リクルートさんとのお付き合いもありました。リクルートさんも大事なスポンサーの1社です。その縁で、リクルート出身の経営者の方に縁ができ、刺激をいただきました。いずれにしても、私の人生のなかで貴重な4年間でした。もっとも、大学には行っていても、授業にでた記憶はあまりない(笑)」。

不夜城は、今日も眠らない。

「就職は大手証券とベンチャーリンク2択でした。もちろん、両親はベンチャー・リンクは猛反対です。なんだ、その会社は?って感じです(笑)」。
<及川さんはベンチャー・リンクをご存知だったんですか?>
「いえ、私もまったく(笑)。ただ、ご縁をいただいた経営者から勧めていただいて。もちろん、その時は外食っていう頭はまったくありません。ただ、ベンチャー・リンクに入社して、外食事業本部を希望し、気づいたら外食にどっぷりハマっていたって感じです」。
2007年4月、及川さんは両親の反対を押し切り、ベンチャー・リンクに入社する。
<ベンチャー・リンクさんはいかがでしたか?>
「激務という言い方がいいのかどうかわかりませんが、当時は事務所に段ボールを敷いて泊まっていました。名称は不夜城です。そこからだいたいイメージいただけると思います(笑)」。
入社直後には、九州にも飛ばされている。

とまらない。あきらめない。行動、あるのみ。

「当時、ベンチャー・リンクは経営的に厳しい状況に追い込まれていました。なかでも、まいどおおきに食堂が、シミュレーション通りに立ち上がらないということで、フランチャイズ加盟店からご批判をいただいていました。私は、ある日、辞令を受け、福岡のまいどおおきに食堂の立て直しに向かいます」。
辞令を受けた翌朝、いちばんの便で、九州に入る。
「当初のシミュレーションでは月商800万円だったんですが、そのお店は400万円。上司から言われたミッションは月商100万円アップです」。
<できるもんですか?>
「時間もかけられませんから、弁当の販売をスタートさせます。させると言っても、店長も、オーナーも半信半疑です。だから、私が朝6時から店に入って、ご飯を炊いて、弁当をつくって。スタッフは11時出勤ですから、たった1人です。むちゃくちゃさみしいし、たいへんでした。ただ、『50万円アップしたら、みなさんもお願いします』とそういう約束でスタートしていますので、たいへんでも目指せ50万円です(笑)」。
1食500円×1000食。1人ではむろんたいへん。ただ、これは次の長崎でも同じだが、少しずつ周りの目もかわる。「3ヵ月はかかりましたが、50万円はもちろん100万円アップし、ミッションコンプリートです」。
長崎では、アルバイトを採用し、朝6時から店の前で旗を振らせた。「大型の工場もあったので、そちらにも弁当の営業に行きました。長崎でも、なんとかミッションをコンプリートさせて、それで、今度は、人事に異動します」。
ベンチャー・リンクとともに、及川さんも、まだまだ波乱の渦に巻き込まれていく。むろん、大学の4年間のように恵まれてはいない。それでも、逃げることなく、たたかいつづけることで、及川さんのちからは確実に育まれていく。
あきらめないからこそ、「どうすればいいか」が生まれる。行動は、何よりも重要。机上で学んだ経営者じゃない。だから、つよい、つよい。

・・・続き

株式会社ダイニングエッジ 代表取締役 及川裕樹氏

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株式会社IFREA 代表取締役社長 曽根浩伸氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社IFREA 代表取締役社長 曽根浩伸氏登場。

本文より~

エンジニア×事業家。

子どもの頃からプログラミングと格闘した。ロボット工学やAIに惹かれたのは、お祖父様の影響とか。
「祖父は、鉄器や陶器が主流だった頃に、プラスチックの将来性にいち早く目をつけ、電気炉など、プラスチックを加工する機械を大学などに納入していました」。
「祖父は事業と不動産で財を成します。私は、小さな頃から事業を継ぐことを刷り込まれていました。その一方で、ものづくりの遺伝子を引き継いだんでしょうね。小さな頃からゲームが大好きで、プログラミングを組むような少年でした」。
「家電が大好きだった」と笑う。ただ、話を聞いていると、エンジニアよりも事業家の遺伝子をより色濃く受け継いでいるように感じる。では、その話をもう少しつづけよう。

事業家、デビュー。

曽根さんは、1991年、千葉県の幕張に生まれている。2025年のインタービュー時で、33歳。先進的な研究に惹かれ、東京電機大学の未来科学部に進む。在学中に起業し、2015年、イフリアジャパンを設立している。
<事業に目覚めたのはいつ頃?>と聞くと、少し思案したあと、そういえば、「小学校の頃には、ともだちから不要なアイテムを集め、フリーマーケットで気づいたら売っていました。」と笑う。
「ただ、ある程度、ちゃんと、という意味では、高校の時ですね」。
<どんなビジネスだったんですか>
「ネットでの流通事業です。昔からゲームやパソコンが好きだったといいましたが、高校になっても、大好きなままで、その周辺の商品を中国から仕入れ、ヤフオクで販売していたんです」。
「あるとき、中国人から連絡があって、『中国からパソコンやゲームのアイテムを送るので、さばいてほしい』と」。
悪い話ではなかった。ただ、つぎつぎと段ボールが送られてくる。部屋中に段ボールが溢れ、庭にも山積みにされた。
「父親も母親もそりゃ、カンカンです(笑)」。
そりゃそうだろう。
「とくに母は、『やめなさい』の一点ばりです。でも、そう言いながら、届いた段ボールはちゃんと受け取ってくれていたんですが(笑)」。
曽根さんの部屋からは、1日中、パソコンのファンの羽音がした。曽根さんは、荷物と荷物の間で眠った。
ご両親が「やめなさい」と叱る気持ちもわからなくもない。ただ、曽根少年は、立派に事業家としてデビューを切ったことになる。

大学生が奔走。業績、V字回復す。

前述通り、大学に進んだ曽根さんは、高校時代のビジネスを進化させる一方で、大学1年時、今にもクローズする飲食店をV字回復させている。
実は曽根さん、高校生の時に飲食店でアルバイトをしていて、その時も社長賞を受賞している。
ちなみに、曽根さんは小学校時代から様々なコンクールに応募し、毎回、賞をかっさらっている。校内では、生徒会長などを務めるなど、リーダー的な存在でもあったそうだ。パソコンやゲームにハマったが、ただのオタクではない。
「これは、私の一つのターニングポイントです。たまたまアルバイトを始めたお店が、業績不振だったんです」。
新宿の雑居ビル。
上階には某大繁盛店があり、店から溢れる客もいた。
「それがわかっていましたから、溢れたお客様に声掛けして、満席の場合はうちに来てくださいと呼び込みをしていたのです」。
曽根さん曰く、戦略は、某繁盛店の徹底オマージュ。
「そんなに大きなお店ではなかったので、声掛けをすると30分で満席になります。そうなってから、店に入り、今度は食事しているお客様に声をかけます」。
再現する。
「お料理いかがですか?」「美味しいね。来てよかったよ」。
「でしょ。つぎも絶対、使ってくださいね。今日、オーナーが来て、もう潰れるっていってたんですよ」。
あっけらかんな、青年の声は耳に響く。連絡先を交換し、「新宿に来たら使ってくれ」と訴える。
「もちろん、タダでとはいっていません。ファーストドリンクと、最初の料理オーダーをサービスします。はい、前回、いらした時のオーダーを全部、記憶していますから。席に座ると、黙って、ドリンクと料理がでてきます」。
そりゃ、人気にもなる。もう一度、曽根さんの表現を借りれば、「バンバン来るようになった」とのこと。ついには、2時間待ちまでできるようになり、月商は1,000万円をオーバーする。
5倍強のV字だった。

社員たちに背中を押され、起業する。

「業績は絶好調だったんですが、本部が買収され、アルバイトはもちろん従業員さんも一部クビになってしまいます」。
従業員たちが、曽根さんに声をかける。
「曽根ちゃんについていくよ」。
1回りも、2回りも上の、キャリアも長い、昨日までの先輩からの人生を賭けたお願い。もちろん、その声をスルーできる曽根さんではなかった。
ホームページには、<『株式会社アクトグループ』より『株式会社あみやき亭』へ事業譲渡のタイミングで、大学在学期間中に独立を決意し開業>とある。
これが、すべての始まり。
ちなみに、曽根さんは、飲食にのみ傾倒したわけではない。ある意味、飲食店を材料に、自身の戦略を実験していたようにも映る。
「子どもの頃、体が小さかったんです。サッカーをやっていたんですが、どうしても体格で負けてしまう。じゃあ、どうすれば勝てるかと、抜け道を探してきたんで、抜け道的な、戦略作りに長けているんです」と笑う。
「それを、ビジネスでも応用します。もともと大学でロボット工学を専攻していましたので、情報で、当時まだだれも戦略化していない仕掛けをつくります」。
曽根さん、曰く、「地の利を生かしたマーケティング、YouTubeやTikTokでチャンネルをつくり集客する戦略」である。
誤解のないように付け加えておくと、曽根さんは、現在「あそばれ新宿東口店」「KAMAKURA新宿 かまくら個室ビストロ」「億万鳥者 新宿本殿」など。新宿を拠点に、渋谷・錦糸町・町田・藤枝(静岡県)に飲食店を展開している。
集客だけではない。料理も本格的。グルメサイトの評価はいずれも高得点を叩き出している。
戦略だけでは、こうはいかない。クオリティへのこだわりもハンパない証。さすが、すべてのコンクールに入賞する曽根さんらしい。

・・・続き

株式会社IFREA 代表取締役社長 曽根浩伸氏

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2025年2月5日水曜日

新たな相談増えてきてます。

ここ最近、新たなサービススタートされる企業様や外資系企業様からの相談が増えました!

「飲食の戦士たち」で社長取材1,000社突破してからビジネスのステージが変わった気がします。

無駄を惜しまないスタンスが結果1番の近道かも。

怖いのは雑になる、ホスピタリティの質が落ちることなので経営理念取り組みの徹底をやっていかねば。

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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン 

2025年1月29日水曜日

株式会社鐘庵 代表取締役会長 大鐘正敏氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社鐘庵 代表取締役会長 大鐘正敏氏登場。

本文より~

父と零式艦上戦闘機と。

「零戦をつくっていた」と今回、ご登場いただいた株式会社鐘庵の大鐘会長。つくっていたのは、もちろん会長ではなく、会長のお父様の話。
「零戦のエンジニアだから戦地には赴いていないと言っていました」。零戦といえば、小説で読み映画でも観た「風立ちぬ」が思い浮かぶ。
「日本を転々として北海道までいったときに終戦だったそうです」。
お父様のエンジニア気質は、子である会長にも色濃く受け継がれている。冒頭でいうのもなんだが、会長は大学ではリニアカーの研究を行い、卒業後はトヨタ自動車に入社。トヨタ自動車ではお父様同様エンジニアとなり、開発を担当されている。
ただ、それだけじゃない。「ない」ものは「ない」で済ますのではなく、自作する。それも、お父様の影響。
「父は戦後、県庁に入るんですが、堅物というか、お酒も飲まない、すごく真面目な人なんです。ただ、かわりにというのもヘンですが、趣味で作業場をつくって、そこで色んなものを自作していたんです。それをみていましたからね。影響は大きかったでしょうね」。
ものづくりを通して父と息子はつながっている。ただ一つ、石橋を叩いても渡らないような慎重な父親と比べ、会長は、かなり大胆だ。
エンジニアとして円熟していく30歳で、トヨタ自動車をあっさり辞め、1人、リスクのある冒険の旅にでる。今回は、そんなお話から。

幼稚園児、電車に1人乗る。

「私は一人っ子なんです。だから、親の目が私1人に注がれるわけです」と会長は笑う。とはいっても話を聞いていると過保護だったわけではない。園児の頃から1人で電車に乗り、旅していたそうだ。
「冒険心というのか、それは昔からあったかな」。
学生時代には自転車で日本一周にもでかけている。
「じつは、このときね。ダンプに追突されたんです。ばーっと飛ばされたんですが、柔道の経験があったので、受け身をとって軽症で済みました。自転車は弁償してもらったけど、それだけで。何事もなかったように旅をつづけました」。
海外にも出かけている。いろんなことがあったが「なんとかなるもんだ」と会長は笑いとばす。
大学は名城大学の理工学部 。
「名城大学に進んだのは、リニアカーの研究をされていた教授がいらしたので」とのこと。高校を卒業する段階で、リニアカーの研究に興味をもつ学生はどれだけいるんだろう。一般の高校生にすれば、別世界の話。ただし、お父様をみてきた会長には、特別な選択ではなかったのかもしれない。
すでに書いた通り、大学を卒業し、トヨタ自動車に入社。開発の道を歩み、そして、その道を離れる。

30歳からの大冒険。

「独立心がないわけじゃなかった。ただ、仕事は面白かったし、不服があったわけじゃなかった。そのまま行けば、将来も、まぁ安泰。結婚し、子どもも生まれたときでしたから、なおさらですね。妻は何も言いませんでしたが、慎重派の両親は猛反対でした。それでも、若いうちじゃないとできないと30歳で脱サラを決断します」。
なんでも歳を重ねてしまうと、辞め難くなるばかりだし、自由が効かなくなると、30歳で脱サラ決行したそうだ。脱サラすれば、当然、トヨタ自動車という天下の肩書はなくなる。
「そこなんですよね。けっきょくトヨタって看板で仕事をしていたんです。そうじゃない世界で仕事をしてみたかった。つまり、大鐘正敏という1人の人間としてどこまでできるか試してみたかったんです」。
会長は話上手で、説明が丁寧だから決断の背景もよくわかった。ただ、トヨタ自動車を辞めてまでやりたいことがあるかというと、そうでもなかったようだ。
「最初は貿易会社をやろうと思っていたんですが、起業するにあたってお金がないでしょ。飲食なら現金商売だから、まずそこからだと思って。飲食の経験ですか?ありません。まったくの素人です。食べるのは好きでしたが(笑)」。
「妻の弟が喫茶店をオープンしていたので、そちらで少し修業して」と会長。
「経験したことがないから、ぎゃくになんとかなるだろうって簡単に考えてオープンしちゃうんですね」。
初期投資を聞いて、びっくりした。
「もういいと思うんですが、だまって実家を担保にしてね。金融機関から2000万円、融資していただきます。1階が駐車場で、2階と3階の一部が吹き抜けになっていて。融資いただいたといってもお金がないから、私も大工仕事を手伝いました」。
なんとデザインしたのは会長とのこと。「スイスのレマン湖でみた別荘をコピーした」という。
「ものづくりが好きだからでしょうね。図面を描くのも好きなんです。今でも、厨房の図面は私がすべて描いています」。
これが1980年のこと。店名は「羅比亜」。かくして、30歳からの大冒険がスタートする。

喫茶店とパスタマシンとイタリアン。

創業事業である喫茶店は3年。自動販売機に珈琲がならぶのをみて、あっさりクローズし、今度はイタリアンをオープンする。
「売上も利益もあったからなんでやめるんだ。バカじゃないのかって言われました(笑)。でも、時代の風を読むとそれが潮時だったんです」。
「それにね」と会長はニヤリと笑う。
「じつは、喫茶店時代にパスタマシーンを開発していたんです」。
<パスタマシン?>
「ええ、そうです。パスタって茹で時間がかかるでしょ」。
<そうですね>と相づちを打つと、「当時は太いパスタだったから茹で時間が15分もかかっていたんです。それで、パスタが1000円。なぜだかわかりますか?」。
<?>
「つまりね。リードタイムが長いから1時間に1回転しかしない。そのぶん、利益を取ろうとすると、どうしても高くなるでしょ」。
<なるほど。でも、それがどうパスタマシンとつながるんでしょう?>
「じつは、圧力をかけてやればパスタだって早く茹で上がるんです。それがわかっていたから、ちょうどいい1.5気圧をかけて茹でるマシンをオリジナルでつくったんです」。
熱源はガス。遠赤外線の釜で1分半で茹で上がったそう。当然、リードタイムが短縮できる。
「これはいける!って思った(笑)。だから、デモストレーションじゃないですが、そのマシンをつかってイタリアンを始めるんです」。
パスタマシンが売れまくるという絵を思い浮かべたが、思惑はあっさり打ち砕かれた。
「私がつくったマシンは300キロもあったんです。そのあとすぐに大手のメーカーがコンパクトなマシンをつくっちゃって」。
会長の話を聞いていると、頭がぐるぐる回転する。
<それでどうしました?>
「これじゃ太刀打ちできないと、あきらめて、そのマシンをつかったイタリアンを、そうですね。8店舗まで展開して。パスタだけじゃなく、ピザもやっていたから、宅配のオーダーがだんだん増えていって」。いただいた年表には、1987年、パスタ・ピザ宅配事業を開始とある。
<デリバリーですね?>
「そう、そのあとドミノさんとかが登場するんですが」。
<こちらも、さきがけですね?>
「そう。ただ、将来性がないと思ってね。やめちゃいます(笑)」。
なぜか。簡単にいうと、イタリアの食材が輸入できなかったから。
イタリアンの運営をはじめた会長はイタリアに渡る。向こうでみつけた食材をコンテナに積んで輸入しようとしたが、保菌検査で実質輸入できないと知った。
「だっておかしいでしょ。イタリアでは高価な食材でもないのに、日本ではバカ高い。イタリアにはもっと安くておいしい食材があるのに、輸入しようとすると、検査だけで1ヵ月かかるっていうんです。バカじゃないの?って話でしょ。1ヵ月もかかったら、みんなだめになる(笑)」。
<それで、撤退?>
「そうなんですよね。みんなからは、また『バカか』って言われました。だって、業績は文句なかったですからね。でも、つづけていても将来性がないと思ったんです」。見切り発車に、見切り停車。話についていくだけでたいへんだ。
このあと会長は、今までとは異なる食材で勝負する。それが、蕎麦。もう少しお付き合いいただきたい。

ターゲットは、ルーズソックスの女子高生。

ちなみに、イタリアンは橡麺坊(とちめんぼう)というネーミングだったそう。漱石の「吾輩は猫である」にでてくる。
「たぶん、読めないけどね」と会長は笑う。
<ところで、その後はどうされたんですか?>
「喫茶店にも、イタリアンにも将来がないと思うわけでしょ。イタリアンのケースは食材に光がなかった。だから、なにか将来に光をさす食材はないかって」。
<それで蕎麦だったんですね?>
「そうです。昔からあって、日本の食文化の一つ。そのベースがあるから、将来にも光がとどく。ただね。私、蕎麦が好きじゃなかったんです(笑)」。
「ラーメン派だった」と会長。「私だけじゃなく、マーケットでも大きいのは上から順にラーメン、パスタ、うどんで、蕎麦はいちばん下。大好きって人がいるにはいるんですが、私には、その気持がわからない(笑)」。
「でもね、そんな私が食べたいという蕎麦をつくればいいじゃないかと、蕎麦で勝負しようと決意するんです」。
「でね。また、バカと言われた」と会長は笑う。
「蕎麦は大きく2つのカテゴリーにわけられるんです。立ち食いそばで食べる大衆のお蕎麦と、老舗のようなお蕎麦屋さんで食べる高価なお蕎麦です。後者で仕事をしている蕎麦職人たちに、パートやアルバイトメインの専門店をつくるといったら、彼らはパートやアルバイトにできるわけがない。バカかっていうんです」。
「そりゃそうですね。でも、私はいうんです。『蕎麦の専門店と言っても私が相手にするのはルーズソックスを履いているような高校生なんだ』って。いうなら和のファストフード、蕎麦の原点です。でも、旨い蕎麦は職人たちがいうように、そう簡単にはできないのはたしかです」。

蕎麦職人たちも唸るオートリフト。

では、その難問を会長はどう解決したんだろう?
「オートリフトです。オートリフトがあれば、パートさんでも旨い蕎麦が簡単にできるんです」。
<オートリフト?>
「今はふつうにあるでしょ。みたことがないかな? ザルに棒がついていて、ザルに麺を入れて時間が立つと、棒といっしょにザルがあがってくる…」。
「あるでしょ。あれを最初につくったのは私なんです。熱伝導を高めるために熱源にはトタン板のように波をつくって。気泡がないといけないから、気泡が逃げる穴をつくって、気泡といっしょに対流をつくる。そういうふうにすればね。蕎麦職人といっしょと言ったら失礼だから言わないけども、アルバイトやパートさんでも旨いお蕎麦をつくることができるんです」。
まるでメーカーのエンジニアのように説明してくれる。その一方で、お蕎麦のマーケットに対しても、するどい目を向けていたことがつぎの話でわかる。
「旨い蕎麦屋ってレトロな店って決まっているでしょ。でも、私はカジュアルなお店があっていいと思っていたんです。それに、蕎麦ってほかの麺と比べ、のど越しが今一つだし、何より、賞味時間が短くて、数分で劣化します。オペレーションも難しいから、大手は手をださない。茹でたらすぐに召し上がっていただかないといけないですしね。ただ、そういうハードルがあるから、私にすればぎゃくに面白いと思えたんです。ニッチだけど、そこにチャンスがあるって」。
今度は、蕎麦が、主。
「オートリフトのほうはね。パスタマシンで失敗した経験があったんで、自作はあきらめて、特許も何もいらないからって、アイデアだけだしてメーカーにつくってもらいました」。
新たな発明で、旨い蕎麦が気軽な値段で食べられるようになる。昔ながらの和のファストフード。蕎麦職人たちも唸ったに違いない。

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株式会社鐘庵 代表取締役会長 大鐘正敏氏

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株式会社梅の花 代表取締役社長COO 鬼塚崇裕氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社梅の花 代表取締役社長COO 鬼塚崇裕氏登場。

本文より~

ピュアな少年と座右の銘と。

奈良出身。いまでもイントネーションに関西弁が残っている。今回、ご登場いただいた株式会社梅の花の代表取締役社長COO、鬼塚さんの話。
小学校は奈良女子大学文学部附属。奈良女子大学は奈良公園にちかく鹿も学内を闊歩しているらしいが、ネットで調べてみると附属の小学校は少し離れたところにあった。
中学校もおなじ女子大附属に進学したが、中学2年の時に父親の転勤で兵庫県西宮市に引っ越している。
姉弟は姉が1人。
小学生時代は「積極的なのか、消極的なのかよくわからない子どもだった」と鬼塚さん。「内弁慶」とも表現されているが、野球チームを作り、練習のスケジュールや内容を決めていたというから、大人しい少年というイメージではない。
「当時の担任の先生から教わった 『人のふり見て我がふり直せ』が座右の銘」と鬼塚さん。
「中学進学時は東大寺学園を受験しましたが惨敗。それで、そのまま女子大附属に進み、野球部に入部します。その後2年生になる時に西宮の市立中学に転校しました」。
転校先の中学では野球部ではなく、水泳部に入っている。
「マンモス校だったこともあって部員が100名もいたんです。何より坊主頭にしなくっちゃいけなかったので。それがいやで。水泳部にしたのは、どう見ても一番ぬるかったもんですから(笑)」。
どんな中学生でしたか?と質問すると、鬼塚さん曰く、「ごく普通の中学生だった」とのこと。
鬼塚さんは「普通」というが、子どもの頃から「良いことは真似、良くないことは戒めとする。そして、 相手の立場で考える」ようにしていたというから、普通のレベルがちょっと高い。
ここまでが、鬼塚さんの少年期。話のなかで、ピュアな鬼塚少年が何度も姿を現した。

なんとか、なんとか、大学卒業。

「高校は関西学院高等部に進みました」。もちろん、有名校だ。「苦手な英語の長文問題がなかったからラッキーだった」と鬼塚さん。
「高校に入学して両親が離婚します。これも一つのターニングポイントだった気がします。それと高校1年の秋くらいから楽器に目覚めて吹奏楽部に入ったことも、ターニングポイントだったかもしれません」。
「吹奏楽部での担当はパーカッションだった」そうだが、鬼塚さんは、「じつはドラムがしたかった」という。
「でも、軽音楽部がなかったから、吹奏楽部でしたし、マンションだったからさすがにドラムは置けないでしょ(笑)。それで、ベースギターを購入して、高2の時に山下達郎のコピーバンドに加入して」。
ライブハウス、学祭などで演奏したそうだ。つまり、かなり巧い。念願かなって軽音楽部に入ったのは大学に進学してから。
「ただ、しばらくして所属する意味がわからなくなって幽霊部員になりました(笑)。大学ですか? エスカレーターで関西学院大学商学部に進学しています」。
関西学院大学といえば、関西のなかでもトップの大学の一つ。仁川の阪神競馬場からちかいらしい。
「大学には原付で通っていました。ただ、あんまり行かず、勉強もしなかったですね」。
「先輩から『大学は勉強しなくてもやっていける』と言われていて、鵜呑みにしちゃったんです(笑)」。
かわりにアルバイトは熱心だった。
「『シェーキーズ』でしょ。『宝塚ホテル』のコーヒーショップ、『神戸オリエンタルホテル』ではフレンチレストランで働きました」。
当時の時給は、「シェーキーズが500円、ホテルが800円だった」という。いまと比較すれば半値程度。「それでも、ほぼ毎日、仕事をしていましたから10万円くらいにはなりました。ただ、バイトに専念していたおかげで、3年生で留年が確定。卒業には140単位がいるんですが、4年終了時点で残り、40単位」。
「さすがに5年の時には大学に通いました。なんとか、なんとか卒業できたって感じで、それから15年くらい『卒業できない』『卒業試験に間に合わない』って夢を見てうなされました(笑)」。
今や、大会社の社長にもそういう学生時代があったと知ると、人生、何をしてもマイナスはない。そして、社会も捨てたもんじゃないと思えてくる。

就職先は、阪神百貨店。

<就職はいかがでしたか?>
「時代は悪くなかったんですが、1年留年していますからね。それでも、まぁ、落ちたところもありましたが、阪神百貨店に就職することができました。これが1989年のことです」。
<百貨店と決められていたんですか?>
「大学時代、ホテルでアルバイトしていたでしょ。英語ができないんでホテルは除外して(笑)。ただ、ホテルで身についたホスピタリティがあったんで、百貨店がいいんじゃないかって。単純な発想ですね」。
いただいたプロフィールをみると、入社して3年後に経理部に。10年後に経営企画室に異動。
2005年には経理部経理課マネージャー、2006年には経営企画室マネージャーに昇格。
「もう一つのターニングポイントは2007年に『阪神百貨店』が『エイチ・ツー・オーリテイリング』の傘下に入ったことですね。そちらで経営統合推進室・部長を拝命します」。
阪神百貨店は大阪の中心地である梅田にあり、阪急百貨店と道路をへだて、ならんで建っている。2つの百貨店は今もそうだが、長らく大阪のランドマークだった。
もともと資本は異なっていたが、2007年、株式交換により「エイチ・ツー・オー リテイリング株式会社」の完全子会社となり、阪急百貨店と経営統合している。
「おなじ百貨店と言っても、言語が違っていて最初は戸惑いました」。経営統合と一口に言っても、現場では一言では済まされない苦労がある。混乱もあったに違いない。
その後も鬼塚さんは昇格を続け、2009年には経営管理室・関連事業担当部長、2010年には経営企画室・予算計画部長になっている。
だんだんと、経営の中枢にちかづいている。

出向、そして「梅の花」へ。

「今まで資本がかわったと言っても、阪神百貨店というブランドの下で仕事をしてきたんですが、初めて外にでるというか、2011年に『家族亭』に出向します」。
<ご自身で希望されたとお伺いしています>
「そうなんです。当時私はM&Aの業務に関わっていて『家族亭』さんもそのうちの1社だったんです。いろいろとお話しているうちに惹かれて、社長さんにお願いして」。
<出向を希望されたのは、家族亭を買収されたからではないんですね?>
「買収したからではなくって。もともと飲食に興味があったのと、会社から少し距離を置いてみたかったんです」。
<それで「家族亭」の社長にお願いされたんですね?>
「そういうことです」。
プロフィールでは2011年10月「家族亭」経営企画室・執行役員、IR・広報部長となっている。
「ただ、出向期間は1年ちょっとと短かったです。その後『エイチ・ツー・オーリテイリング』と『梅の花』が資本提携することになって、今度は『梅の花』に出向になりました」。
2013年1月「梅の花」経営計画室部長。2015年12月「梅の花」取締役経営計画室長。
「出向期間は2013年1月から2016年3月のほぼ3年間。出向が終わるタイミングで今の会長ですが、本多さんから『残らないか』とお誘いいただいたんです。ちょうど私が50歳の時です」。
「梅の花」の本社は福岡県の久留米市にある。単身赴任。「子どもが中学進学ということもあって連れて行けませんでしたから」。
2015年12月、正式に「梅の花」に取締役として経営に参加。以来、経営の中枢を担って来られたことになる。
プロフィールをもとに簡単に触れておくと、2017年には「梅の花」にて取締役経営計画室長を務め、子会社である「古市庵」の代表取締役COOを兼務。2019年には「古市庵」の代表取締役CEOとなり、その1ヵ月前には同じく子会社の「三協梅の花」代表取締役を兼務。
同年「梅の花プラス」代表取締役CEOも兼務。「梅の花」では子会社を含めたグループのハンドリングを担当。そして、2024年7月「梅の花」のCOOに抜擢されている。

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株式会社梅の花 代表取締役社長COO 鬼塚崇裕氏

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2025年1月23日木曜日

株式会社Drapocket 代表取締役社長 塩川紘一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社Drapocket 代表取締役社長 塩川紘一氏登場。

本文より~

社長になるか、ジョッキーになるか。少年が導き出した答え。

ジョッキーになるには、パイロット同様、視力がよくないといけないらしい。今回は、そんな話から始まった。今回、ご登場いただいたのは株式会社Drapocketの代表取締役、塩川社長。
塩川さんは1985年、福岡県若宮市で生まれている。塩川さんによれば、若宮市はかつて炭鉱で栄えた町だったそう。地図で観ると福岡市と北九州の真ん中。炭鉱の名残りは今、炭鉱跡や資料館で観ることができる。
「うちの祖父は炭鉱が盛んだった頃に区画の整理などを行っていて、その時の功績が認められて石碑が建っています。まだ、健在なんですが。叔父は今、若宮市の市長を務めています」。
お父様は建設会社を興し、塩川さんいわく「今も細々とつづけている」とのこと。仕事が好きなんだそう。姉弟は4人。塩川さんは3番目で、長男。
祖父や叔父をみていたからだろうか。小さな頃から社会をみる目が育っている。
「小学2年生の時、世界には学校にも行けない、ご飯もたべられない子がいることを初めて知りました」。
貧困な子どもたちの映像が、ピュアな少年を奮い立たせた。貯金箱をあけ、お正月にもらったお年玉をそっくりそのまま寄付。
「ユニセフだったと思うんですが、機関を通して寄付をしました」。その額、3万円。大金だ。
「ただ、いいことをしたという思いはあり、お礼の手紙もいただいたんですが。具体的にどう使われたのかがわからないから不完全燃焼っていうか」。
なぜ、彼らは貧困なのか?
少年は、そこに目を向けた。
「根本的な原因は教育だとわかったんです。じゃあどうしたらいいか。学校をつくろうと」。
結論が早い。頭の回転が早い証。
「でも、それにはお金がかかるでしょ。それくらい子どもにもわかります。じゃあ、今度は、どうすればお金持ちになれるか」。
頭のなかで、ぐるぐると思いが走り回る。
「社長になるか、ジョッキーになるか」。
これが、少年が導き出した答え。

ジョッキー、断念。残されたのは。

<ジョッキーってあの競馬の?>
「そうです。中学生のときに、友達と将来について話していたんです。私は背が低かったし、体重も軽い。『だったら騎手がいいんじゃないか』って話になって。小倉競馬が近くにあったんで、その影響もあったんでしょうけど」。
「引くに引けなくなった」と塩川さん。
「『塩川が騎手になりたいと言っている』と学校中に広がって。先生が何を思ったのか資料を一杯集めてくださって」。
「否定できる雰囲気じゃなかった」と苦笑する。本人も、その気になっていく。寄付の時もそうだが、こうだと決めたら突き進むタイプ。
「うちの両親は反対どころか、母親に至ってはノリノリでした」と笑う。
ただし、簡単にジョッキーになれるわけがない。道も狭い。そこをこじ開けるのも塩川さんらしい。
「たまたまですが、うちから自転車で30分のところに乗馬クラブがあったんです。そちらで、トレーニングさせていただきます。ただ、お金がかかるんです。だから、お願いして、厩舎の手伝いをする代わりにトレーニングを積ませていただきました」。
朝8時に出勤。馬の世話を一通りして、昼ご飯を食べて、トレーニング。
<進学はされなかったんですか?>
「定時制の高校に進学しました。トレーニングが終わって、夕方6時頃から学校です。カリキュラムを自由に組める学校だったので、トレーニングと学校を両立することができました」。
馬の背に乗ると、どんな風景が望めるんだろう?
サラブレッドの場合、馬の肩までがおよそ170センチメートル。座高が加わるから2メートルを超えることになる。
走らせれば、当然、スピードもでる。TVで騎手目線の映像を観たことがあるが、トップギアに入れば、風景が後ろにぶっとんでいく。
塩川少年は、障害のトレーニングを積んでいた。
「トレーニングを始めてから半年。大会に出場して優勝します」。
<優勝ですか?>
「大阪であった大会なんですが。将来はオリンピック選手になんて話もいただきました。じつはこの時、競馬の関係者の方とお話することができて」。
「騎手になるのを断念した」という。
冒頭の話だが、騎手になるには視力も問われる。だから、視力を矯正するために、塩川さんはわざわざ東京まで行っている。
「関係者の方と色々お話させてもらって、『騎手になりたい』というと『難しいだろう』って言われたんです。倍率が高い。それだけだったらいいんですが、騎手は『縁故の世界だ』って言われるんです」。
<つまり、外部からはむずかしい?>
「そうです。その話を聞いて、急に冷めてしまって」。
華やかで自由な世界が、急に束縛された色褪せた世界になった。
「ジョッキーになって、お金持ちになって学校をつくって貧困をなくす、というプランは、これでなくなります」。
<残すは、社長になるプランだけですね?>
「そうなりますね(笑)」。

キッチンカーの幸せ。

「父親を継ぐ、というのも選択肢の一つでした。実際、実家でバイトをしながら建築系の専門学校にも進みます。父親は設備系の仕事をしていたんですが、私はデザイン設計をしたかったので。資格を取るには、実務経験もいるとわかり、設計会社に就職します」。
「ただ、」と塩川さん。「ある大きな事件に、そちらの会社もかかわっていたようで、倒産してしまうんです」。ある大きな事件とは、姉歯事件のことだそう。
「そのあとフリーで現場監督を、3年くらい仕事をつづけました」。
<今とはまったくちがう業種ですね?>
「180度ちがいますね。建設関係の仕事もけっこうしがらみがあるんです。職種も、内装業者から空調や電気工事業者など、もう様々です。そういう人たちが、それぞれの思惑で仕事を進めるわけですから」。
どこの世界にもあることだ。だが、交錯する様々な思惑を整理する現場監督の仕事は、たしかに骨が折れる。「そんな時に、偶然、キッチンカーをみたんです」。
たのしそうにはたらくスタッフ。笑顔で商品を受け取るお客様。その世界観に、いっぺんで惹かれた。
現場にはないシンプルな「幸せ」を観たんだろう。
「キッチンカーの周りには、現場にはなかったピュアな世界が広がっていたんです」。
いったんやると決めたら、行動が早い。今度もおなじ。フリーだったことも幸いしたんだろう。
「福岡にはキッチンカーっていう文化がなかったもんですから、勉強するなら東京だと思って」。
所持金わずか30万円。塩川さんは、30万円を握りしめ新幹線に乗り込んだ。ちなみに、やるなら、あの甘い世界をつくるクレープと決めていたそうだ。

幸福のキャッチボール。キッチンカーの世界。

話を加速させるとこうなる。塩川さんは26歳で上京。原宿でみつけた一つのキッチンカーの会社に就職。1年半後、務めた会社を辞め、独立している。
「そちらの会社に決めたのは、キッチンカーが牽引式だったからなんです」。
<一般のキッチンカーと牽引式ってどうちがうんですか?>
「みなさんが一般的にイメージされるエンジン付きだと思うんですが、牽引式はエンジンがついていなくて、車高が低い分、お客さんと同じ目線で接客ができるんです」。
お客様と同じ目線の高さ。オーダーいただいたクレープをお渡しすると、それだけで笑顔の花が咲いた。
「今、私はクレープじゃなく、スムージのお店をしているんですが、じつは、そこにも一つのきっかけがあるんです」。
そのきっかけを聞いて、何かが一つにつながった気がした。塩川さんという人の輪郭が明瞭になったというべきだろうか。
「毎日、来てくださる常連さんがいらっしゃったんです。クレープとタピオカをオーダーいただいて、毎日、クレープを食べ、タピオカを飲まれていたんです。もちろん、ありがたいお客様です。車高のあるキッチンカーだったら気づかなかったかもしれません。でも、私はすごく近い距離で、お客様と接していたからでしょう。最初は、ありがたいだけだったんですが、少しずつ、心配になってきたんです」。
<心配ですか?>
「決して悪いものが入っていたわけじゃないんですが、毎日、毎日ですからね。体に良いとは言えない気がしたんです」。
<それで体に良いスムージーですか?>
「毎日飲んでも飽きない。そして健康にいい。うちのスムージーには砂糖もつかってないんです。だから、とてもナチュラルで、体を内側から綺麗にしていきます」。
<おいしいうえに、からだにいい。もう無敵ですね?>
塩川さんが、力強く頷く。

・・・続き

株式会社Drapocket 代表取締役社長 塩川紘一氏

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