2024年4月26日金曜日

4月25日ガーデン川島社長、東京理科大と東工大大学院にて講義。

4月25日東京理科大&東工大大学院にて教授されてる北澤氏のゼミに屋に家系の壱角家ラーメンや山下本気うどんなどの飲食店経営されているガーデン川島社長の講義に、キイストンの営業マンと一緒に同席させていただきました。
東京理科大にて登壇
後列より事業風景を撮影
熱量が違いますね。
上段の講義が東京理科大、下段の講義が東工大大学院
この日2講義目、もう慣れられた。
キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~


戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2024年4月24日水曜日

株式会社トーヤーマン 代表取締役 當山鯉一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社トーヤーマン 代表取締役 當山鯉一氏登場。

本文より~

15歳。マックでのアルバイトが飲食業初体験。

「沖縄県那覇市の出身です。ただ、厳密に言うと戸籍は世田谷区の池尻大橋なんです」と出身地を語る當山氏だが、余談ながら付け加えると「池尻大橋」というのは駅名であって、地名も橋もない。おそらく世田谷区池尻もしくは目黒区大橋、東山だと思う。
「5歳までは千葉県の松戸で暮らしていたのですが、両親の離婚に伴い父親と妹は沖縄に、1年後、ボクも沖縄に移転しました」。
―「鯉一」というお名前ですが、どう読むんですか?―
「“りいち”と読みます。鯉の滝登りの諺からきている言葉のようです」。
離婚後、2人の子どもを引き取って沖縄に移り住んだ父親。職を転々とし、おにぎりの移動販売や沖縄そば店を開業するなどに挑んだが残念なことにどれも上手くいかなかったようだ。ただ、決して裕福な環境ではない状況下にあって父親は苦労を重ねながらも、2人の子どもたちに愛情を注ぎ慈しみ育てた。
「実家は古い平屋で隙間風が吹き抜けるような住まいでしたが、年に1、2回ほど回転寿司に連れていってくれたり、凄く嬉しかったですね」と思い出を拾い集める。
幼くして味わった両親の離婚。再婚を躊躇し結局は断った父親。それぞれに“大人の事情”があったのだろうが當山氏は多くを語ろうとしないし、ましてや訊くことでもない。
小学校から中学へ、そして高校へ。
「思い出というほどではありませんが、小学校4~5年生の頃は野球をしていました。また、いわゆる反抗期というのも記憶にありませんね」。
中学卒業後、地元の県立高校へ進学。そして、高校進学と時を合わせるかのように、地元のマクドナルドでアルバイトを始めた。

時給590円。働き収入を得る喜び。

「求人誌をみて“すぐ稼げる”ということで応募、採用されました。時給は590円でした。収入は、平均的には6万円くらい、夏休みは10万円ほどになりました」。働く=収入を得る。アルバイトを通して「稼ぐ喜びを知った」と當山氏。
―6万円であれ10万円であれ、大金です。特に高校生にとっては大金だったのではないかと思いますが、差し支えなければ使用先を……―
「高校の授業料、お弁当代、洋服を買ったり、交際費~未成年ながら主に飲み代ですが~に費消しました」。マクドナルドでのアルバイトは高校1年の4月から高校3年の卒業ギリギリまで3年間続けた。
「最終的にアルバイトの上の地位、トレーナーレベルまで昇格したんですよ。卒業後、進学はまったく考えていなくて就職するという選択でした」
「そう遠くないうちに、卒業のタイミングで沖縄を出てみたいと思っていたので愛知県の会社で働くことにし、応募しました」。

東京への思いを叶える資金を確保。

20人ほどの仲の良い友人とギリギリで卒業。進学の意識はなく働くことを優先的に考えていたが、学校で就職斡旋はなく自分で探すことになった。
―どのような方法で探したのですか?―
「職探しのために友人と職業安定所(ハローワーク)に行きました。希望を伝え紹介されたのが、愛知県刈谷市に本社を置く自動車メーカーのトヨタグループに属する自動車部品メーカー『デンソー』という会社でした。ボクらは西尾市の西尾製作所に配属されました」。
―どんな生活でしたか?―
「いわゆる季節工になるのかなぁ、仕事自体は単純作業でしたし交替制の勤務で寮生活でした。部屋は個室があてがわれ、食費以外の生活費、家賃とか水道光熱費などは全額会社負担でしたから、それなりに貯金することができました」。
―収入は?―
「月収35万円くらいだったですね」。
半年間働き沖縄へ戻ったのだが、東京への思いが立ち切れず、資金を確保するために再度、愛知県へ二度目の出稼ぎに故郷を離れた。
「結局、二度の出稼ぎをしたのですが、一度目は自身の欲求を満たす私利私欲のため、二度目は東京に行くための資金確保のためでした」。資金は溜まった。
いざ、東京へ!

資金を手に沖縄を発ち、1900㎞離れた東京へ。

沖縄県那覇市から東京までの距離は、約1900㎞弱。この距離を乗り越え、手にした資金を携えて高校時代の友人3人と上京。住まいは西東京市の田無に3人それぞれ部屋を借り東京での生活がスタートした。20歳のときだった。
「上京して驚いたのは、ヒトの多さでした。渋谷駅前のスクランブル交差点の人の波にビックリしカルチャーショックを受けましたね」。ちなみにこの交差点を渡る人数だが、正確に数えたわけではないので大雑把な数字になるが、一説によれば約3000人が一度に行き来をするらしい。
「アパレル関係の仕事に就きたかったんです。ただ、コトは簡単ではなく上京後、半年くらい、貯金が200万円ほどあったので、ほぼ毎日、友人と飲んでいましたね。上京した動機でもあるアパレルの仕事もなかなか見つからなくて……」。
―仕事がなければ収入もないわけで、いくら200万円あっても目減りしたのでは?―
「コンビニのアルバイトや美顔器のキャッチセールスなどで収入を得ていましたが、田無に友人と一緒にいても何も変わらない“東京のなかの沖縄”だと思って、環境を変えようと思いました」。
―どうされたのですか?―
「思い切って下北沢に引っ越しました」。
単独で生活拠点を構えた當山氏に、少しずつ「光」が見えてきた。念願だったアパレルでの仕事に就くことができた。
「アクセサリーショップの仕事、これはマルイのメンズ館でしたし、東京駅丸の内の新丸ビルにオープンしたブランドのオープニングスタッフとしてのアルバイトなどでした。ただ給与など待遇は決して良くなかったし、苦労していましたね。そこで得られた結論は“アパレルでは稼げない”ということでした」。
一方で、経済的に不都合な問題も抱えていて、環境を変えたいとも思っていた。

「好きなことしたら……」。飲食の道へ繋がった友の言葉。

逃げるようにして横浜に住んでいた友人の部屋に転がり込んだ。そこで友人がかけてくれた言葉が、飲食業へ進み生涯の生業(なりわい)となるきっかけになったと當山氏は振り返る。
―どんな言葉をかけてくれたのですか?―
「基本的には甘やかしてくれました。そして、こう言ったんです。『好きなことに取り組んでいるキミでいて欲しい』と……」。友の言葉に揺さぶられた。
―具体的にどんなアクションを起こしたのですか?―
「横浜のクラブのオープニングスタッフとして採用されました。その後は中目黒や神泉のカフェやレストランで働きました。大したことをした記憶はないのですが、この時期に“飲食業の楽しさ”を知りましたね」。
4~5年経ってカフェの店長に。27歳になっていた。
「飲食業の面白さ、楽しさを体感して飲食業で独立することを考え出しましたね。ただし、
すぐに独立したかったのですが、無謀なことは避けたかったので、ご縁のあったアドバイザーに相談しました」。
―アドバイザーはなんと?―
「『独立するなら29歳か31歳が良い』とアドバイスいただきました」。

・・・続き

株式会社トーヤーマン 代表取締役 當山鯉一氏

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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで) 

株式会社FANG DREAM COMPANY 代表取締役 孫 芳氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社FANG DREAM COMPANY 代表取締役 孫 芳氏登場。

Yahoo!ニュースにも記事が出ました。

銀座の400席・フード150品目のブッフェレストランが大盛況 40歳中国人女性経営者の手腕とは

本文より~

アニメを観て触発され、親近感が醸成された。

2002年、ひとりの中国人女性が成田空港に降り立った。女性の名は、孫芳。ここから日本での歩みの第一歩が始まった。
「中国内陸部に位置している河南省の出身です。内陸部とはいえ奥深い地ではありませんが、北京や上海と比べると、さほど裕福な地ではありません」。
広大な中国にあって河南省の面積は日本の約半分、人口は一億人ほどだ。重要な農業生産地域でもあり“中国の食糧庫”と称される地である。また中国古代文明の発祥地のひとつであり、先史時代の裴李崗文化や仰韶文化などの遺跡があるためか「現在は旅行業、観光業が発展しているようです」とのこと。
実家は飲食業を営んでいたという。
「父親が料理人でしたから一店舗ですけど、いわゆる中国の“B級グルメ”と呼ばれる店を経営していて母親が手伝っていました。飲食が身近な世界だったですね」。この小さな経験が日本で花開くことを、当時本人は自覚していない。
「生まれたのは国が推奨する“一人っ子政策”の時代でしたけれど、妹と二人の弟の四人でしたから、ちょっと恥ずかしかったですね」。
日本と同じ中学校までの9年間の義務教育を経て高校へ進学。その頃から日本に興味を抱いたようだ。
―きっかけになったことでも?
「アニメですよね。ドクタースランプやクレヨンしんちゃんなどのアニメが刺激になりました。日本て、どんな国なんだろう、行ってみたいなと思うようになりましたね」。
小さな好奇心から始まった日本への興味。やがて小さかった興味は大きく膨らみ、日本の大学へ進学することを決意。日本語学校で一年、英語専門学校で同じく一年、そして昭和女子大学で二年学び、目白大学への進学を果たした。
「日本語は、N1レベルまで学びました」。“N1レベル”というのは、日本能力試験の最高難度、ビジネスレベル以上である。かなりの努力家であることが伺える。

異国の生活の苦労やホームシックを乗り越え、新しい自分に目覚める。

「四人で来日し、住んだのは新大久保です。これは、中国を立つ前から確保していました。ただ新大久保への行き方が分からなくて迷っていたとき、親切な男性が、交通機関の案内や乗り換えなど教えてくれたんです。とても助かりました。日本人て、親切だし優しいなぁと感じましたよ」。
―日本の生活で不慣れな点など、ありましたか?
「最初は不慣れなことが多く、一年目はしばしば帰りたいと思いました。ホームシックっていうやつでしょうね。ただ二年目になると日本語も上手になったし、友だちもできて慣れてきました」。
―生活費などは、どうしていたのですか?
「中国語の先生や居酒屋でのアルバイトなど、複数の仕事で得た収入で暮らしていたんですが…」。
―「が…」とは?何か問題があったのですか?
「一緒に日本に来た四人とひと部屋で暮らしていたんですが、行き違いもあればコミュニケーションが上手くいかないことや何気ないことでも軋轢がありました。時々、喧嘩もしましたし…」。こうした生活は長くは続かず、結局は一年で解消した。ちなみに孫さんを除く三人は、その後、帰国したという。
ひとりになった孫さん。僅か短期間だったが、自分が変わったこと、変われたことを実感したという。
「大人になったように感じました。中国にいた頃はわがままでしたが、両親への感謝も芽生えましたし、自立すること、自律することなど、しっかりするようになりました。言ってみれば独立心が旺盛になったと感じましたね」。そして、こう口にした。
「日本に来て変わったと思います」。

銀座に高級中華料理を低価格で提供できる店を開業。

「大学を卒業して、メディア関係の会社に就職しました」。
4年間ほど勤めた頃、会社に不満があったわけではないが、独立したいという思いで退職。飲食業を開業しようと決心。中国人留学生として来日してから11年、29歳のときのことだ。
「元々は飲食業を目指したわけではないんですが、飲食業を始めようと決めたのには、三つの理由がありました」。
―ひとつ目は?
「会社勤めの頃ですが、取引先との会食で銀座の高級中華料理店に行く機会がありました。高級なだけあって味は素晴らしいんだけれど価格の高さが気になったんです。同じレベルの食材を使った高級中華料理を低価格で提供できないかと考えたことです」。
―ふたつ目は?
「飲食店に慣れ親しんでいた、ということです。先ほども話しましたが両親が小さいながらも大衆食堂を営んでいました。そこに集まる近所の人やお客さんの楽しそうな振る舞いや一生懸命に働く両親の姿を日常的に目にしていましたから……」。
―最後のみっつ目は?
「留学中に飲食店でアルバイトをしたことがあったのですが、上司が優しい人で、かつ仕事の取り組み方など丁寧に教えてくれたことが、自分の生き方の指針にもなったことです」。
―飲食業として独立・開業するための資金の準と開業場所は?
「資金は来日してから貯めていた自分の貯金と実家からの援助で準備し、場所は銀座。7丁目に『銀座芳園』をオープンしました。ちょうど10年前の2014年1月です」。
「ただ物件探しは苦労しました。なかなか貸してくれなかったんですよ。どうにか借りられたのが9階建てビルの6階、30坪ほどの広さでした。コンセプトは、開業前から考えていた“高級食材を使ってリーズナブルな価格で提供する”でした」。
比較的短期間で経営は軌道に乗ったが、最初の半年は苦労したと創業当時を振り返る。
「ただ、“高級食材を使ってリーズナブルな価格で提供する”というコンセプトが口コミで広がったり、メディアで紹介されたこともあって、認知度が一気に高まりました」。

“禍を転じて福と為す”。コロナ禍だったからこそ、チャンスを掴めた。

認知度の高まりは、次の拡大、展開の起爆剤としてプラスの機動力を発揮する。
「2016年、四川料理が好きだったこともあり、同じく銀座に2号店として創作四川料理の店をオープンしました。お陰さまで盛況でした」。
「中華料理を知ってほしい」という孫さんのイズムが受け入れられ、3号店を銀座に、4号店を本郷に出店、そこに“新型コロナウイルス禍”が襲い掛かった。
「“新型コロナウイルス禍”は、3号店も4号店もオープンしてから間もない頃でした。家賃が高く銀行から借り入れして維持していましたが、結局は撤退しました」。
当時、政府が飲食業だけではなく、新型コロナウイルス禍でダメージを受けた企業に補助金を用意したが申請が遅かったために受けられず、資金面を考え、止む無く撤退したという。
「お客さんが来なくなり2店舗を閉鎖しましたし、スタッフも出勤できなくなり営業に支障を生じました。振り返るととても辛かったですね」。
だが、苦境の中に、ひと筋の光が差し込んだ。
「大家さんから自身が所有するビルのテナントがすべて撤退してしまったので、家賃は無料(!)でいいから一年間、借りてくれないか、という好条件の話があり快諾しました」。居抜き物件だったため什器備品が揃っており、費用が看板を変える程度の費用で済んだ。
「この店は、高級中華料理店とは真逆のスタイル、つまり人との接触を減らすためにセルフ方式を採用し、低価格を前面にした大衆酒場として開業しました」。
こうした経験、それは賃料を下げても早く貸したい貸主と安く借りたい借主との需要とが合致すれば、好条件で居抜き物件を使えることを教えてくれた。
「この方式で取り組んだことが、店舗拡大の大きな要因でしょうね」と孫さん。
以後、2022年9月、高田馬場に『孫二娘 潮汕牛肉』をオープンしたのを皮切りに、『孫二娘 潮汕牛肉火鍋』(上野)、『乾杯500酒場』(新橋、船橋)、『ホルモン専門店 乾杯500酒場』(蒲田)<『北京ダック専門店 銀座芳亭』(銀座)と短期間で出店を重ね、創作レストラングループへと変貌を遂げた。
そして2024年2月、高級食材を目玉にした大型ビュッフェレストラン『海鮮ブッフェダイニング銀座八芳』が銀座にオープンした。

・・・続き
株式会社FANG DREAM COMPANY 代表取締役 孫 芳氏

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2024年4月23日火曜日

いろいろ動きあり。

今期は「飲食の戦士たち」1,000連載達成!があるためキイストンの認知度アップのチャンスです。
新人が営業しやすいように、いろんな形で動いていきます。
現在ネタを仕込み中。
早く社員が育ち、後ろで支えるフィクサーになりたい(笑)

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2024年4月22日月曜日

金沢八景にて、海釣り参戦!!。

海釣り参戦!!
金沢八景にて・・・。
妻の友だちの人たちで釣りクラブ主催に連れてい行ってもらいました。
至れり尽くせりで、沢山アジ釣れました。
最高の釣り日和でした。

 

森浩美さん主宰の朗読劇「家族草子」、の最終日に行ってきました。

 昨日は森浩美さん主宰の朗読劇「家族草子」、の最終日に行ってきました。

いつも感動もらってます!
朗読劇と言っても「家族草子」は、台本を手にしながら演技をするという、朗読と芝居を融合させたもので、家族愛にホロっとします。

主宰者の森浩美さんプロフィール
作詞家・作家。
田原俊彦「抱きしめてTonight」・森川由加里「SHOW ME」・SMAP「青いイナズマ」「Shake」「ダイナマイト」・Kinki kids「愛されるより愛したい」・ブラックビスケッツ「タイミング」等、作品総数約700曲。
また、家族を題材にした「家族の言い訳」「こちらの事情」「夏を拾いに」「ほのかなひかり」「こころのつづき」等のロングセラー小説多数。近著に「家族連写」「終の日までの」。

2024年4月17日水曜日

クリーンライフ大野宗社長が、タイトル『営業をしなくても仕事がやってくる G駆除業者のすてきな話』の書籍を出版!!

私どもが応援してる完全ゴキブリ駆除の掲げ「駆除技術日本一」へ邁進されている“クリーンライフ”大野宗社長が、『営業をしなくても仕事がやってくる G駆除業者のすてきな話』を出版されました!!

【各プレスからのニュースリリース
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