2020年9月18日金曜日

『自信をつける』、一番大事なこと。

『自信をつける・つけさせる』のが一番大事なこと。
その自信つけるために、これだけやってるという仕事量(練習を繰り返す)にこだわる。
なかには、根拠のない自信を持ってる人材もいる。
ただ、年月経つと根拠のない自信を持ってる人材は、その後努力しないと実力伴わないプライド人間になる。
過去にもそんな社員いたな・・・・。努力してたら、りっぱな営業マンに成長したのに勘違いしちゃったみたいです(笑)
今頃、きっと気づいてると期待しています。

また、部下に自信をつけさせること、上司は必須である!!
「山本五十六語録」

2020年9月16日水曜日

東京食彩株式会社 代表取締役 山寺昭彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”東京食彩株式会社 代表取締役 山寺昭彦氏登場。

本文より~

高校までの話。

いろどり。
ホームページの料理をみて、社名の意味を理解できた気がした。赤と緑と青。光の三原色が重なって、社名の通り、食を彩っている。
今回は、この社名のような料理を生みだしてきた東京食彩株式会社の代表取締役、山寺昭彦氏にご登場いただいた。
山寺氏は1982年生まれ。父親は大手メーカーで勤務する、いわゆる転勤族。「小学校で3回転校している」と山寺氏は笑う。
「自分がリニューアルされるようで、案外楽しみだったし、元々ひょうきん者で、ものおじしない性格だったので、どこにいってもすぐに友達ができた」と言っている。
「兄がいるんですが、兄に影響されて、私も中学からバスケットボールをはじめます」。そのバスケットボールはもちろん、スポーツ全般、できは悪くなかったが、勉強は今一つ。
「勉強が嫌いだったので成績はクラスでビリでした。でも、高校受験前の3ヵ月間は猛勉強しました」。なんでも、好きだった女の子と同じ高校に進むためだったそう。大人になれば、微笑ましい話と笑って言えるが、当時は、そりゃ、真剣。
「彼女が行くと言っていた高校が県内の進学校で偏差値が高かったので、試験までの3ヵ月は本気モードです。生れてはじめてまじめに勉強というものをやりましたね。ただ、私は合格したんですが、彼女が落ちてしまいました。人生、うまくいかないことも勉強できた受験でした/笑」。

料理の道へ。

「うちの父は大手の製薬会社に勤務するサラリーマンでした」。話をうかがうと、かなりやり手。「ただ、突拍子もなく『蕎麦屋をオープンしたい』と言ったりしていました。成績が優秀なサラリーマンであったため、頑張るなら自身に全て責任がありリターンも大きい独立開業のみちを考えていたのだと思います。
じつは山寺氏は中学生の頃から、その父親に『料理人になれ』と言われて育ったそう。「だから、大学に行くつもりなんて全然ありませんでした」とのこと。せっかく進学校に進んだのにもったいない話だ。
「大学に行かないと決めていましたから、高校時代は好きなことをしていたかった。だから、勉強も部活もせず、アルバイト三昧の日々です」。
むろん、バイト先は飲食。フランス料理店でアルバイトをしていました。
料理人になれと育てられたわけですが、抵抗はなかったですか?
「全くありませんでした。元々素直な性格で先ず飲み込んでしまうので。笑。高校を卒業する時には、いよいよだと。ついに、その道がはじまる的な」。
「それで、進んだ学校が『辻調理師専門学校』です。卒業後は当時日本一と言われたイタリア料理店で修業を5年間しました。特段料理が好きで始めたわけではなかったけど、それが逆に良かったのかもしれない。好きで始めると期待値が高いから嫌な事があるとすぐに逃げ出したくなっちゃったり、現実とのギャップに悩んだりしちゃうのかもしれないけど、全然期待してなかったから途中からめちゃめちゃ楽しくなっちゃった。どんなに大好きだっていたって毎日やってみてくださいよ。ましてや修行となるとつらいことの方が多いでしょ?(笑)今から色々な業界に入っていく若い夢のある方たちに伝えたいんです。何でもいいからはまってやり抜く事が大事だと思うんですよね。プロになるまではどんなお仕事も大変ですけどプロになっちゃえば突然世界が開けて周りからも承認されて楽しいライフワークになりうると思うんです。それにしても業界自体ですが修業時代はコンプラのかけらもない本当にありえない恥ずかしい業界だったので、この業界も成熟してきて本当に良かったと心から思います/笑」。
単身、イタリアへ。
その後当時の修業時代の同期の仲間数人と独立。
特別、興味がなかったという「料理の世界」にすっかり魅了された証かもしれない。だから、料理の世界は奥が深い。

イタリア。

「最初は、向こうで修業するつもりだったんです」。
最初は?
「そうです。最初は、わくわくしていたんです。ローマの空港に着いた時には、『これがローマの空気か』って/笑。もちろん、いさんで料理店に行くわけですが、『あれ?』って」。
なにかがちがう?
「北から南まで旅をつづけながら、いろんな店に行くんですが、結局わかったのは『そうでもないな』ということでした。修行先だった先輩たちが長い年月をかけてものすごい前情報で僕の期待値をあげすぎちゃっていたんですね(笑)。一番おいしいと思ったのが、知り合いの店で僕らの為に出してくれた山奥の小さなレストランで食べた子羊なんですが、それは生後間もない小さな小さな子羊で、、日本だと生産の規格に、流通に無いものだったんですね。今日はお前らが来るから、まだ早いけど羊締めちゃったんだって。その気持ちがうれしくって。それを食べたときに、あれ?これ日本でも出来るし結局料理って食材とか人に対する気持ちなんじゃないかなって。基本的なイタリア料理は勿論、最先端のものまで既にすべてとっくに日本に入ってきてましたね/笑」。(
それで帰国するんですか?
「そうです。日本のイタリア料理は、既に成熟しており、かつ独自の進化すら遂げていたんですね。まぁ、それに気づけただけでも収穫でした」。
これが、山寺氏、25歳の時の話。
「帰国してからは、『一緒にやろう』と言ってくださった方がいらして、あるレストラン・バーの立ち上げを経験します。独立するにしても、立ち上げの経験がなかったもんですから、いい勉強をさせていただきました」。
むろん、独立は既定路線。
「起業したのは、27歳の時です。父に資本をだしてもらって、兄と、レストラン時代の同僚といっしょに中目黒に『コロッセオ中目黒』をオープンします」。
雑居ビルの2Fだったんですよね?
「固定費を下げるには、路面店ではなく2階がいいだろうと。 兄は、もともと星付きのフランス料理店で働いていました。兄以外の創業メンバーは、僕の修業時代の同僚で、計7名でのスタートでしたが、現在もそのうちの5名は在籍しています」。
休みなく働いた。修行時代から同僚とはもはや運命共同体だ。1年後、山寺氏たちは、神楽坂に新たな店をオープンしている。

逆に生まれた副産物。

現在、東京食彩は16店舗を出店している。いずれの店も評価が高く好調だ。とりわけ感心するのは、これだけ出店を重ねても無借金経営ということ。
しかも、つぎの戦略ももうスタートしている。
転機というのはありましたか? という質問に山寺氏はつぎのように回答する。
「もともと、うちのレストランは想定単価が高かったんです。単価8000円~9000円くらい。ある時、元同僚の結婚したての、お子さんが出来たばかりの知り合いが来てくれたんですが、メニューを見てオーダーを躊躇しているんですね」。
たしかに、気軽なレストランとは言いにくい価格。
「転機といえば、その時です。『え、』って思うわけです。だれにでもおいしく食べてもらいたいという想いで働いていました。それが料理人です。なのに…」。
「これでは、だめだ」と言葉がでる。
「翌日から、今まで最低価格がアラカルトで1500円だったのですが全てを500円にしました/笑」。
お客さんの反応はいかがでしたか?
「ありがたいことに、それまで以上にご好評をいただきました。経営的にもプラス効果です。ただ、一つ問題があったのも事実です。さすがに1500円の時と、500円の時におなじ食材というのは、無理な話です/笑」。
とはいえ、それでは料理のレベルが下がる。通常なら、価格を上げるか、食材のレベルを下げるかだが、山寺氏はもう一つの道を選択する。
「私たちは修業時代、いい食材を贅沢に使用させてもらってきました。だから、食材のレベルは下げたくない。これで、いったん行き詰まるんですが、逆に副産物が生まれました」。
どういうことだろう?
「独自の仕入れルートを作ることができたんです。たしかに、料理人は料理が仕事ですが、じつは、それだけじゃない」。
いい食材をどう仕入れるか。 たしかに、これもまた料理人のスキルなのだろう。ただし、それに気づく人、気づかない人がいるのも事実。むろん、気づいたとしても、実行する人はそう多くない気がする。
僕らは今までキッチンで包丁しか握ったことが無いのに乗ったことのない大型なトラックの免許をとって運転して船から魚を買い付けしたり、船の免許をとって夜通し釣りをしたり、またある日は海女さんと潜ったり、これらはほんとに極僅かな一例ですがいろんなダイレクトチャレンジとトライ&エラーを繰り返しお客様に良い食材をリーズナブルにお求め頂くすべを学習しました。
僕はそれも「料理」だと思っています。現場に出れなくなっていく日が当然に増えていきますが、食材の交渉や開拓、発見などでも沢山のお客様に毎日お料理を作っている感覚でいることはとても大事にしている心構えの一つです。
・・・続き

2020年9月15日火曜日

訃報  


 日刊ゲンダイで大変お世話になってた柳生さんが、12日(土)突然お亡くなりになられたとの訃報頂きました。(享年73歳)

2012年8月掲載の「社長の私生活」からご縁あり、出会ってから早くも8年経ってました。
飲食の経営者をもっとメディアに!とその必要性を柳生さんにお伝えし、ここ4年はずっと取材先を全て任せて頂いてました。

おかげさまで、延45社ほどの飲食の社長様を出して頂きました!
柳生さんの飲食業界への貢献度は計り知れません。
会う度に「キイストンは社長との関係が素晴らしい、キイストンの姿勢はさすが」とお褒めの言葉頂戴してました。
もう
「細見さん、時間ある? 珈琲でも行かない?」が今世で聞けないのが残念でなりません!
本当にありがとうございました!
心よりお悔やみ申し上げます。

2020年9月8日火曜日

8月28日(金)より夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」にて”新時代”運営のファッズ様を掲載しました。

8月28日(金)より夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」にて2連載で”新時代”運営のファッズ様を掲載しました。

株式会社2TAPS 代表取締役 河内 亮氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社2TAPS 代表取締役 河内 亮氏登場。
本文より~

専門学校進学時に上京する。

ホームページには「人と人を繋ぐ酒場」とある。三軒茶屋で人気の三茶呑場「マルコ」の話。「マルコ」のマルは、「円」であり、「縁」も表しているそうだ。
ページ内にある料理の写真、店内の写真を観ると、たしかに「縁」をかんじる。写真のような、料理、サービスに惹かれる人たちが、マルコで出会い「縁」が繋がれていくと思ったから。
創業は6年前の2014年2月。今回、ご登場いただいた株式会社2TAPSの代表取締役、河内氏が、友人と2人で「たくさんの方が繋がっていく酒場やりたいね」とはじめたという。
さて、その河内氏は、1982年、新潟県村上市で生まれる。村上市は、新潟県の最北に位置する市。地図で観ればわかるが、日本海に接し、面積は広い、広い。
「両親が忙しかったので、小学3年生くらいから料理をしていました。いわばこれが、いまの源流ですね。もっとも、当時は飲食を仕事にするなんて思ってもいなかったわけですが/笑」。
どんな料理が得意だったんだろうか。料理は好きだったが、中学にあがると河内氏にも料理をする時間がなくなった。「野球をしていたんですが、中学の部活は、結構きつくて朝から晩まで練習漬けでした。ピッチャーでキャプテンだったのもあり、尚更、たいへんでした」。
「その反動ってわけじゃないんですが、」と笑いながらつづける。「高校ではサッカーに転向します。野球よりモテそうだと思って」。実際に、モテたかどうかはおくとして、「モテそう」というのが、転向したいちばんの理由だったのは間違いなさそうだ。 だんだんと色気づく。ファッションにも興味をもち始める。大人になるとは、そういうことだろうか。
「高校を卒業して上京します。専門学校に進学するためです。ファッションに興味があったので、進んだのは服飾専門学校です」。
料理学校としても有名な学校だそう。「高校3年になると進路の話とかになりますよね。その時、いいなと思っていた専門学校の営業さんが、測ったようなタイミングで学校に来られたんです。それで、体育の授業を抜けだして、直接、話を聞きました」。
行動力があるのは、昔からだ。「そうですね。専門学校の料理のほうは、3000~4000人いましたが、服飾のほうは300~400人くらいです。それでも、いい勉強はできたと思っています」。

アパレルの向こうにあった飲食という世界。

「接客が好きだった」と、河内氏はいう。専門学校を卒業した河内氏は、大手セレクトショップのビームスに就職。アパレルの先端で仕事を始めることになる。
ビームスでは3年。それ以降もアパレル中心に転々とし、営業として合計8年間はたらき、最終的に管理職に昇格している。「ビームスを退職したあと、小さなブランドにも転職します。規模の小さなところで勝負したほうが、ちからがつくと思ったからです。当時、業績は良かったですね。うちだけじゃなく全体的にですが」。
リリースすれば、売れるという時代だったらしい。アパレル全盛期。
「ただ、私としては会社に行って、パソコンで数字をみて、展示会に行って、予算立ててっていうルーチンが、どうも面白くなかったんです」。
現場派?
「そうですね。接客が好きでしたし。数字で語るようになったら、ファッションっていうものが、ファッションじゃなくなるように感じてしまいました。その頃からだと思いますが、頭のどこかで飲食もいいかなと、チラつき始めます」。

給料は4分の1に減り、寝る暇もなくなった。修業時代の話。

それで思い切って転職ですか?
「そうです。私が26歳の時ですね。新潟にもどって、和食の店をしているかつての先輩の下で修業をはじめます」。もともと料理は、好き。小学3年生から、フライパンもふっている。
「専門学校の時も、バイトはぜんぶ飲食でした。鮨屋とか、日本料理屋とか」。ともだちを招いて、料理をふるまってもいたそうだ。
「だから、多少は自信があったんですが、むろん、コテンパですね。後悔はまったくしませんでしたが、それまでがいかに天国だったかに気づきます/笑」。
「ええ、とっても貴重な2年半でした。あの時、飲食という仕事に向き合ったおかげでいまがあるわけですからね」。

三軒茶屋に三茶呑場『マルコ』オープン。


「私は32歳で独立するんですが、先輩の下から離れ、再度、上京。約5年間、株式会社上昇気流のフードサプライサービス事業で勤務します。むろん、こちらでも、いい勉強をさせていただきました」。
そこから、独立ですか?
「そうです。物件を探しに7ヵ月かかりました。その時オープンしたのが、『三茶呑場マルコ』です」。その7ヵ月間、築地でもはたらき、仕入れや食材についても勉強している。オープンに向け、一直線だ。
では、その結果はどうだったんだろう?
「12月にオープンするんですが、3ヵ月間、お客様は知人のみが多く、本当にありがたかった。売上がアップしたのは、4ヵ月目くらいからですね。だんだん認知されてきたんだと思います。実際、たいへんでしたが、独立して、改めて飲食は楽しいなと思いました」。
人と人とが繋がるからでしょうか?
「まさに、そうです。私たちとお客様のつながりもあれば、お客様同士もある。その一方で、私とスタッフ、スタッフ同士という繋がりもあると思うんです」。
マルコのマル(円)は、半径を広げ、「縁」を繋いでいく。
「おかげ様で、創業から5年。4店舗になり、スタッフも多くなりましたが、負の理由で辞めた子はいません。これも、縁を大事にしているからだと、思うようにしています」。
河内氏は、そう言って笑う。
「円」の真ん中にいるのは、そんな表情の河内氏にちがいない。
・・・続き

2020年9月5日土曜日

コロナに台風に、地震に、インフルエンザ…

もっと元気に元気発信企業!!と商標登録までして、元気というかワクワクを提供してますが、今回のコロナは終わりが見えそうでまだ見えないので、いろんな経営者の心を蝕む気がしてます。

私の場合は、嫌なことも辛いことも会社を長くやってるので少しは免疫力あると思います。
いいイメージを妄想し、まずはアクション起こし、ダメなら次とダメ元精神で挑戦してきてますが、独立間無しや失敗・挫折経験が少ない経営者には、今回のコロナはそこが深いので堪えると思います。

キツい時こそ、頑張ってる従業員がいるだけで元気もらえます。
売れなくても頑張ってる営業マンやなんとか役立とうとしてくれてるスタッフは宝物です。
厳しいときこそ、自分だけって殻にこもらず、一緒に戦ってくれてる従業員、声かけてくれる仕事関係者、そして家族がいるのを感謝する機会になると思います。

頑張れや負けるなとは言いませんが、「絶対あきらめない」気持ちは忘れずに。