2018年5月25日金曜日

今期2人目の新人営業マンが入ってきます。

6月4日、営業経験ある27歳新人営業マンA君が入社してくれます。
不動産営業やってたのである意味即戦力です。
会社設立26年目ですが、営業マンの平均年齢は27歳です(笑)
ちなみにスタッフの平均は43歳ですが・・・。

年度内であと営業マン1人増員できれば嬉しいです。
そのためにももっとワクワクすることし、会社も社員も成長してくれれば・・・。
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

今年で7年目を迎える青山学院大学・堀内ゼミにフードイズムの跡部美樹雄社長が講義されました。

今年で7年目を迎える青山学院大学・総合文化政策学部・堀内ゼミでの飲食経営者のゼミ講義がスタートしました。
今期最初は昨日24日、株式会社フードイズム跡部社長でした。
実はこのフードイズム様は明治大学との産学連携事業により、日本初の新製造技術、発酵熟成肉製造技術「エイジングシート」を開発され、ご自宅でも、熟成肉がつくれる科学が生んだ魔法のシートの展開もされています。
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2018年5月23日水曜日

5月22日発行の日刊ゲンダイに「株式会社SSS」中山俊士社長の記事出ました。

5月22日発行の日刊ゲンダイの“社長の私生活”に株式会社SSS-スリーエス」の中山俊士社長の記事掲載されました。
(日刊ゲンダイより)

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2018年5月22日火曜日

株式会社フードイズム 代表取締役 跡部美樹雄氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社フードイズム 代表取締役 跡部美樹雄登場。
本文より~

勉強ギライ。家庭科の授業で何を学ぶ。

9×9を諳んじられるようになったのは、小学6年生の時と跡部氏はいう。勉強にはまったく興味がなかったようだ。「兄貴は大学まで進みましたが、父親も、母親も中卒。私も専門学校卒です」。
跡部氏によれば、勉強しなくても怒られたことがなかったそう。「何をしても、文句は言われない。自由奔放。ただし、人の道に外れたことをした時は烈火のごとく、怒られました。そんな時の親父はハンパなく怖い。だって、ジャリトラの運転手でパンチパーマです。怒ると、そりゃ、むちゃくちゃ怖い」。
跡部氏が育ったのは、東京都のベッドタウン、千葉県野田市。跡部氏が進んだ公立小学校は生徒数、3000人のマンモス校。途中で分校したが、それでも生徒数は多かった。「生徒数が多いですから、頭のいいのも、悪いのもたくさんいます」。
もともと、ガラがいいエリアではなかった、と跡部氏。跡部氏自身は、中学からバレーボールをはじめ、部活に熱を入れるのだが、そうでなければどうなっていたかわからない。
こどもの頃の思い出を聞くと、小学校の家庭科の話が登場した。「授業で、りんごの皮をむくっていうのがあったんですが、私は1回でできちゃった。それで、ちょっと料理に興味がでて、小学生から天ぷらを揚げたりしていました」。もっとも当時から料理人になろうとは思ってもいなかったらしい。ただ、高校を卒業する際、「料理人」を選択した背景の一つであることは間違いない。さて、家庭科の授業は、どんな料理人を生み出すのだろうか。

就職前のモラトリアムと、寿司割烹で知った現実。

高校に進んだ跡部氏は、やはりバレー部に所属。「偏差値は県内でも下から数えたほうが早い高校です。しかも、私自身、高校生になってもまったく勉強しない。大学には行きたくないと思っていたし、そもそも合格できる大学もないと思っていたんですが、だからと言って、就職も頭になかった。もう少し自由でいたかったんです。実は、ただそれだけの理由で、専門学校に進みます」。
これは、卒業時の話。
専門学校は、都内にある「服部栄養専門学校」。「1年制の学校です。和・洋・中とあるなかで、私が選択したのは『和食』です。どうして、『和食』だったのか、今でも謎です。たぶん、フレンチも、イタリアンも知らなかったからでしょうね」。 専門学校でも熱心な生徒ではなかった。
「学校を卒業すると、就職です。私が進んだのは、立川で100年以上歴史のある寿司割烹の名店です。以来、数年、私の言葉は、基本『はい』だけです」。
めちゃめちゃ厳しかったと、跡部氏。給料は手取りで7万円。寮費3000円。朝8時から深夜まで仕事がつづく。むろん、失敗すれば罵声がとぶ。それでも、なんとか貫き通した。
「どうしてでしょうね。ただ、どこかで逃げちゃだめだって思っていたんでしょう。勤め始めて、3年。オヤジさんから初めて指令があって、『これからは、この店ではたらけ』と。ま、和食の職人はそうやって進んでいくのはわかっていましたし、そもそも『はい』としか言えないので、言われるままです」。
これが、社会に出て知った跡部氏の現実世界。一般的にみれば、特殊で、極めて厳しい世界だ。

駄目だ、の一言に救われた料理人、人生。

跡部氏の次の店は、砂町にある『割烹』。店主と奥様、そして兄弟子がいた。「ところが、兄弟子がしばらくして退職してしまうんです。すると、店主と奥様と3人です。新たなオヤジである店主には気を遣っていただいていたんですが、ある時、ふと、『俺って何をしているんだろう』って思っちゃうんです。朝から晩まで仕事です。昔の知り合いが、年齢給くらいもらっているに、20万円にもならない。そういうので頭が一杯になって、店にいるのが息苦しくなって。そして、涙を流しながら、店主に『辞めさせてください』っていって」。
頭を下げた。下げつづけたが、答えは『駄目だ』の一言だった。「涙まで流してお願いしたんですが、店主に『駄目だ』って言われると反論できません。そういうのがもうからだに染みついていて、条件反射です。ただ、そのあと、店主がうちの父親と母親を店に呼んで謝ってくれたんです。もうこれは裏切れないと、強烈に思いました。今でも、あの時の、店主の「駄目だ」の一言には感謝しています。あの一言のおかげで今があるんですから」。
実は、跡部氏、オートバイが好きで、整備工にでもなろうと思ってもいたそうだ。しかし、店主の言葉とやさしさが、跡部氏を料理の世界に引き留めた。
結局、和食の世界に跡部氏は10年いた。次に門を叩いたのは竹橋にある「うなぎ割烹」の名店。料理もそうだが、「熱」を知ったという。「私は、二番手として採用いただいたわけですが、その時の料理長が、たまらなく格好いい人で。初対面では、とても怖く気合いの入った職人という方でした。しかし、気持ちが熱く人を大切にする方なんだ」と、時間を共有する毎にわかってきた。
この時の料理長もまた、今でもリスペクトする1人。24歳から26歳まで、その先輩の下にいたことが「いちばん大きな経験であり、財産だ」と跡部氏は語っている。

脱、料理人。今度は、どこに行く?

「最後は、新橋にある和食店で、頭をはらせていただきました。給料も30万円。年齢給以上になりました」。頭となって、自由度を得た跡部氏は店の売上をとたんに伸ばした。「魚をずっとやってきたでしょ。だから、目利きもできる。それでオーナーに頼んで仕入れを任せてもらったんです。私自身が『これだ』と思う魚を仕入れて、さばいて、お出しするわけでしょ。お客様も、喜んでくださいますよね。それで、どんどん売上が伸びていったんです」。
たしかに売上は好調。ただ、その一方で、跡部氏は料理長になって、初めて「料理人」という仕事に対して疑問を抱いている。今度は、どうしようもない思いだった。
「ある常連さんが2人で来られた時の話で、連れの子がアパレルで働いていると聞くと、その常連さんは洋服は売るものじゃなくて着るものだぞとおっしゃていたんです。その時、あれ?おれも料理を作りたいのも事実だけど、食べることの方が好きだ!と気づいたんです」。
さらに、その頃デザイナーズレストランが流行りだし、老舗が廃業していく流れに時代は移り変わっていくタイミングだった。
「今までの師匠のように料理一本で生きていける時代ではなくなるのでは?このまま料理人でいいのか?と疑問を持つようになりました」。
「常連さんにオムライスのお店を経営されている人がいらっしゃったんです。話を聞いて、耳を疑いました。一杯500円のオムライスで、1日30万円だっていうんです。あるわけないでしょ。いや、あって欲しくなかった。だって、こちらは朝から晩まで仕事しているのに、ぜんぜん儲けがちがう。それで、考え方を変えたんです」。
考え方を変えたといっても、「食」にはもちろんかかわった。
「ちょうど、そのオムライスのオーナーが中国に出店するって話があって。私も海外に興味があったもんですから、手を挙げるんです。それが、27歳の頃です」。料理人の道は、ひょんな方向につながっていた。
・・・続き
株式会社フードイズム 代表取締役 跡部美樹雄
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2018年5月16日水曜日

1年前から練っていた新企画、次のステージに・・・・。

「飲食の戦士たち」に続くキイストンの強い武器作りのため、1年以上前から考えていたことをいよいよ形にする手前まで来ています。
皆さんに力になって頂き、世に役立つことしていきます。

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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2018年5月15日火曜日

株式会社GRAST 代表取締役 和田賢次氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社GRAST 代表取締役 和田賢次氏登場。
本文より~

やんちゃな力持ち。

むかつくと、スグに手が出た。小学生の頃の話である。担任からは「あなたはもう大人のちからなんだから、加減しなさい」と注意されたそう。いま身長は180センチだが、当時から背が高く、ちからが人一倍、強かった。そのうえ、とにかく喧嘩ぱやい。
「小学3年で埼玉に引っ越すんですが、転校初日から、むかつく奴がいたんで殴っちゃいます。そういうこともあって、一時期、仲間外れにされてしまうんです。あの時は、さすがに参りました。誰もいないって、こういうことなんだって。それで反省して、だんだん大人しくなっていったような(笑)」。
喧嘩では大人しくなったが、3年生からはじめた野球では、試合の度に大暴れした。「小学校の時は、それなりに評価されていたと思います。もちろん、小さなエリアで評価されていただけですが」。

大逆転劇。

「そう、小学校では、少しばかり評価はされていたんですが、中学になるとぜんぜんです。ピッチャーで、四番。あ、一時期、センターも守っていましたが、だいたいピッチャーです。もっともノーコンなんですが」。
野球が人より巧いかどうかでいえば、少し、巧かった。ただ、少しのレベル。にもかかわらず、突然、「甲子園へ行こう」と思う。
「私の2つ上に近鉄に行かれた吉岡さんがいらっしゃるんです。甲子園に出場した帝京の試合で吉岡さんを観て、『これだ』って思うんですね。だから、めざすは甲子園。進むのは、帝京です」。
その話を聞いて耳を疑った。帝京高校といえば、スーパースターばかりのはずである。目立たない、野球少年が入れるはずがない。「そうなんです。セレクションではもちろん落ちます。セレクションを『落ちる』というのは、入学も『あきらめろ』ってことなんです。だって、一般入学となると偏差値60です。とんでもないカベです」。とんでもないのは、野球のレベルで言ってもおなじではないのだろうか。だが、和田氏はそうは思わない。
「それで、生まれてはじめて猛勉強です。私にとって偏差値60なんて、ぜんぜん手が届かない。それでも、あきらめなかった。結果、一般で合格して、野球部に。そしたら、私を落とした監督が目を剥いて、『なんで、お前がいるんだ』みたいなね。ええ、大逆転勝利です」。
たしかに、大逆転である。しかし、まだ帝京に進んだだけ。いまからが本番だ。甲子園。セレクションにも落ちた選手になにができるんだろうか。

エースで、四番。帝京高校の伝統をつぐ。

「中学時代にもおなじチームに私より、巧い奴はたくさんいました。でも、あいつらは有名な高校に進まなかった。もちろん、私なんて、声がかかるような選手じゃない。高校に入れば、さらに巧い奴ばかりです。でも、なんでしょう。動揺もしなかった。相手が巧いかどうかっていうのも、ピンとこなかったんでしょうね」。
「そりゃ、練習はしました。練習は8時くらいに終わって、そこから筋トレです。通学は1時間少し。授業中が、睡眠時間です」。
名もない選手が、実は、2年から控え投手となって春・夏の甲子園でベンチに入り、3年の秋大会ではエースで四番となった。「私らの代がいちばん、あかんかったんです。エースで四番っていうのは、帝京の伝統なんですが、そのエースで四番の私がだめなんですから」。
秋大会では国士館に、13対6という大差で負ける。和田氏の世代は、これで、終焉である。「スピードは、140キロは出てなかったですね。コントロールもよくなかった。打つのはいい。たしかに打ったらとぶ。それでも、ホームランは20本くらいです」。充分である。しかし、和田氏の高校野球は、幕を閉じる。ただ、それでも、ふつう考えれば凄いの一言である。名もなきところから、トップまで登り詰めたのだから。結果だけではない。何より凄いのは、心を折らなかったことだ。
「あの時くらい、しんどく、辛かったことはないですね。練習だって、そうです。あれ以上、辛いと思ったことは、まだないです。もちろん、国士館に負けた時もそうですね。べつに不調じゃなかった。好調なのに、どこに投げていいかわからなくなってしまった。そんな経験もはじめてでした。辛い経験です。でも、そのおかげで、何があっても、もう心は折れない」。
大会で負けたその日、ベランダで、1本の「たばこ」を吸った。はじめて吸った「たばこ」は、どんな味がしたのだろう?
・・・続き
株式会社GRAST 代表取締役 和田賢次氏

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2018年5月9日水曜日

株式会社鷹丸 代表取締役 相原正孝氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社鷹丸 代表取締役 相原正孝氏登場。
本文より~

私の運をぜんぶあなたにあげるから。

馬から落ちた。いい具合に落ちないと怪我をする。「あれって、前に落ちちゃうとだめなんです。だって、馬にふまれて、ボロボロになっちゃうから」。
今回ご登場いただいた相原氏が、まだ20歳前後の時の話である。兵庫県の尼崎から上京した相原氏は、ジャパンアクションクラブのオーディションに一発合格。もっぱら時代劇に出演し、切られ役や落馬役を演じていた。
「千葉真一さんにも何度か会いましたよ。なけなしで上京しましたが、採用いただいたおかげで生活には困りませんでした。給料は月8万円でしたが、寮も飯もありましたからね。もっとも貰ったのは、ちょい役ばかり。だから、給料はぜんぜん上がらない。実は、オレが23歳のときに、同じジャパンアクションクラブにいた今の奥さんと知り合って、彼女はTVにも出ていたりしてたんですが、『オレがいいって』いってくれて。それで、2人して辞めたんです。月8万じゃ、まともな生活ができませんから。それからいっしょに住んで、籍も入れて。オレのほうは水産会社に転職して。2人の生活が始まるんです」。
相原氏は、むろん、奥様に生い立ちからの話をされている。
「うちの奥さんは、とにかく強運で、TVに出てもすぐにいい役をもらうような子で。そんな強運の彼女が、オレの話を聞いて『わかった。私の運をぜんぶあなたにあげるから』って、いってくれたんです。そうだね。運かどうかはわからないですが、彼女と出会ってからオレの人生は確かにかわりました。くすぶってばかりの目の前が急に開けたような」。
そんな大事な奥さんが仕事ばかりに熱中する相原氏に愛想をつかして、出て行ってしまった時には、さすがに相原氏も途方に暮れるしかなかった。
「そう、あの時は、オレもヤバイな、と思って。彼女の故郷の北海道に行ったりして。ええ、もちろん、彼女は子どもといっしょに無事、帰ってきてくれたんですが、代わりに1週間くらい、その時、世話になっていた水産会社の仕事をさぼったから、クビになっちゃっいました。いや、正確にいえば、オレが『辞めてやる』っていったんだった/笑」。

少年、独り。

相原氏が生まれたのは、1972年1月25日。複雑な家庭環境だったそう。それでも、父親が経営する会社が傾くまでは仲のいい家族だったという。「うちの親父はとにかく酒飲みで。酒飲んで仕事をするような人で、オレもさんざん殴られて育った。それでも、小学校3年までは飯も食べることができたし、幸せでした。でも、それからは借金取りが来たりして」。
正義感が強かったのだろう。小学3年生の相原氏は、木刀を持って借金取りたちに立ち向かったそうだ。「親父が逃げて、おふくろがオレたちを育ててくれました。でも、いつだったかな、オレが14歳の時に、おふくろが問題を起こして姿を消すんです。最後にオレたちにつくってくれたのは、白ごはんとにぼしを醤油で炒めただけのおかず」。
当時、相原氏は14歳。年の離れた弟は施設に引き取られたが、相原氏は頑なに拒み、住み込みで仕事ができる居酒屋を転々として暮らしたそうだ。どうやってだか思い出せないが、中学校にも何度か行ったことがある。
「あの頃は、暴走族で。あかんこといっぱいしていましたね。でも、ふつうだったら、中卒で終わりなんでしょうけど、オレは、友だちが通っている塾に潜り込んで、3ヵ月くらいやったかな。ただで勉強させてもらって、尼崎産業高校って高校に進学します。授業料とかは、奨学金かなんかで、なんとかなったんやったと思いますが、制服を買うことができなかったから、そやね、1ヵ月くらいで卒業してしまいました/笑」。
高校を退学したあとも、就職もせず、その日暮らしのような日々だった。独りになってから4年。18歳の時。「友だちに伊藤って奴がいて、そいつがダンサーになるために上京するいうんですね。で、『じゃぁ、オレは役者になるわ』いうて、土方をして1万円もらって、それを財布に仕舞って新幹線に飛び乗ったんです」。
行いはけっしてほめられたものではなかった。しかし、奥様には「運」がないように映ったのだろう。だから「運をあげる」といった。
・・・続き
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