2019年12月9日月曜日

株式会社サッポロライオン 代表取締役社長 三宅祐一郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社サッポロライオン 代表取締役社長 三宅祐一郎氏登場
本文より~

1964年、生まれ。

まだ、中心街にも空き地があった。学校が終われば、空き地で野球。これが当時のスタンダード。「仮面ライダーごっこも定番ですね。ちょっと高いところから『ライダーーーキーック』って」。
1964年、三宅氏が生まれたのは、昭和のど真ん中。この年、新幹線が開通し、1度目の東京オリンピックが開催されている。
「笑っちゃうんですが、小学生の頃から真剣に俳優になろうと思っていたんです。なんででしょうね。でも、割と真剣で、高校2年からプロダクションにも所属します」。
大学で柔道を教えておられた父親の影響なのだろう。小さな頃から柔道をはじめ、中学では主将も務めている。
「ところが、高校には柔道部がなかったんですね。親父は『わざとない学校を選んだんだろう』っていうんですが、たまたまなかっただけで。ともかく、それで柔道は卒業し、サッカー部に入ります。サッカーなんてやったことがないから、そちらも辞めて。2年になって、役者の道を選びプロダクションにお世話になります」。
どうでしたか? 役者の道は?
「当時だと、『中学生日記』とかですね。そういうドラマのエキストラはあるんですが。それ以上の役はなかったですね。17歳になってオーディションを受けまくるんですが、ぜんぶ落ちましたし/笑」。

役者を断念。新たな道が始まる。

それで役者の道は断念ですか?
「そうですね。大学に進んで、学費やら生活費やらで、バイトに専念しなくちゃいけなくなって。それが断念したいちばんの理由ですね。その時のバイト先が『名古屋ビール園 浩養園』です。じつは高校2年の時に半年ほどバイトしていたことがあって、それで、大学になってからもう一度、はたらかせてもらったんです」。
運命みたいな奴ですね?
「そうですね。長い道のりのはじまりです/笑」。
浩養園は、サッポロライオンが運営する大型レストラン。「ビール園」と謳っている。いまは道も整備されているが、三宅氏がアルバイトをしていた頃は、広大な園の道は、まだ砂利道だったそうだ。
「私がバイトしていた頃の先輩が、まだはたらいています。だいたいサッポロライオンは人も長くつづきますが、とにかく歴史的な資産が多いんです。こちらも、その一つです。ホームページを観てください。これだけの広い園ですからね。400名様以上の宴ができるのは、珍しい」。
ともかく、半年のアルバイトが、すべての始まりとなるから面白い。
けっきょく三宅氏は卒業後、サッポロライオンに就職している。役者じゃない、もう一つの道は楽しかったんだろうか?

銀座のライオン。

「大卒採用は、だいぶ昔からやっていたんじゃないですか? 私の時は、同期15名いましたね」。たしかに、サッポロライオンの歴史は古い。三宅氏は歴史的な資産と言ったが、現存する日本最古のビヤホール「ビヤホールライオン 銀座七丁目店」もサッポロライオンが経営している。
歴史の重みは、人の重みでもある。そういう観点からみれば、早くから新卒採用をされていたことにも頷ける。新たにライオンの意志を受け継ぐべく入社した15名は、どうなっていくんだろう?
最初に配属されたのは、名古屋ですか?
「いえいえ、それこそ東京のど真ん中、「銀座ライオン 銀座五丁目店」です。ともかく、でかい!/笑。こちらで、もう一度オペレーションをイチから勉強します。5年半こちらにいて、つぎに千葉に異動します」。
楽しかったですか?
「そうですね。最初はついていくだけで精一杯でしたが、配属されて2年目くらいから余裕もでてきたんでしょう。楽しくなってきます」。
アルバイトと正社員、やはりマネジメントなど、ずいぶん役割が異なるものらしい。
「最初の転機は、4年目に次席に昇格したことですね。次席になると、お金の流れもリアルに把握できるんです。だから、売上数字があがっていく流れも手を取るようにわかる。スタッフたちとの関係性もむろんかわります。主体的に関係をつくる側になるわけですからね」。
「でも、いっちゃまだ支配人にぶらさがっているわけですから、やはり、いちばんの転機は『神楽坂店』で支配人になったことですね。32歳の時です。2月に赴任し、翌年1月に表彰され、私の取り組みを発表します。これで初めて、上層部にも認知されたと思います」。
何を評価されたのだろう?

獅子、吠える。

「じつは、赴任してから20ヵ月、前年対比で100を割らなかったんです。これで、社内で年間表彰を2年連続でいただきました」。
舞台は、全国の支配人が集まる年に1度の大きな会議。
「役者になりたかったくらいですから、人前で話すことは大好きです。そりゃ、相当なベテランもいるわけですから、気も遣います。ただ、私がそういうベテランを差し置いて2年連続で選ばれたのは、結果もありますが、表彰することで私を刺激剤に使ったんだと思います」。
それにしても、20ヵ月はすごい。最初の1年は、前任者とのたたかいだが、2年目からはいうならば自身とのたたかい。2年目ともなれば、新たな発想も思いつかない。
「そうですね。20ヵ月はそうない記録です。そういうことも評価していただいたんだと思いますが、つぎに川崎にあった中華ブランドに異動します。こちらでも、2年間業績をアップしつづけました」。
いわば、破竹の勢いである。結果を残すことで、つぎのチャンスが回ってくる。これは、一般の会社でも、飲食でもおなじ。「そうですね。ただ、チャンスと言ったらチャンスですが、課題ですね。『課題をやるから、乗り越えてみろ』みたいな」。
渋谷の店だったそう。
「13年経営してきたんですが、当時は赤字がつづいていました。私への指令はこうでした。『あと3ヵ月で閉店して、新しい店をオープンする』。ここまでなら、わかりますよね。でも、つづきがあるんです」。
「どんな店をやるか、お前が考えろ」。
そう言われたらしい。コンセプトも一切決まっていなかった。いわば、白紙の小切手。「チャンスって言えばそうですが、もうチャンスを超えているでしょ。わずか3ヵ月だし。その間の営業もあるわけですからね。でも、『好きにやれ』って言われて引き下がれないでしょ」。
「やってやろうじゃないか」。
獅子は吠えた。

新ブランド、PRIVATE DINING 点(ともる)、大ブレイク。

「毎夜、毎夜、街に繰り出します。代官山や青山…、そうですね。ひたすら、食べ歩きました」。料理やサービスはもちろんだが、ユニフォーム、食器、音楽、内装…、いいも悪いも、すべてが教科書だった。情報をインプットし、三宅流に再構築する。
「当時のビヤホールは、サラリーマンのメッカなんですね。だから、思い切ってライオンじゃなくしよう、というのが最初の発想です。そう、若い人たちをターゲットにしたわけです」。
それで、生まれたのが「点(ともる)ですか?」
「そうです。でも、最初の試食会では『任す』と言っていた上司も黙っちゃいましたね。だって、サッポロライオンなのに、ビールは1種類だけ。グラスサイズも大も中も小もない/笑。ビヤホールの定番料理の枝豆もやきそばも、ピザもない」。
「ランチ営業もしない」と言い切ったそうだ。「どうして、ランチをしない?」。ある上司がきつい口調でたずねたが、「仕込みができないからだ」といい放った。
「まるで今までと違います。まったく新たなコンセプトです。いうならば、脱サッポロライオンですね」。実際、三宅氏は、従来の客をしめだしている。「もちろん、狙ったわけではないですが、結果的にそうなってしまいました。だって、今までのメニューもない。ライオンなのにビールも1種類」。
老舗のビヤホールチェーンが、何を思ったかプライベートダイニングをはじめた。この噂は、すぐに雑誌社やTV局の知るところになり、取材が殺到する。
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2019年12月6日金曜日

株式会社でですけ 代表取締役 十河弘幸氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社でですけ 代表取締役 十河弘幸氏登場
本文より~

バレー部キャプテンの溜息。

父親は大工の棟梁だった。四国、高松。「四人、家族です。姉が1人。じつは『株式会社でですけ』は、この姉といっしょに興すんです」。
十河氏が生まれたのは1955年。十河という苗字は高松に多いらしく、学校にも「十河くん」「十河さん」が何人かいたそうだ。
「私がこどもの頃は、親父の仕事もうまくいっていて、習い事もいろいろさせてもらいました」。
中学ではバレー部、キャプテン。
「私がキャプテンの時に、大会でボコボコにされちゃうんです。キャプテンなのに何もできなくて…。私は姉と2つ違いなんですが、姉は学校でも人気者で優等生、賢くて、スポーツも万能。そりゃ、比較されちゃいますよね。キャプテンになってばんかいしようと思っていたのに、何にもできなかった/笑」。
「それ以来、コンプレックスを抱え、だらだらと、それをひきずった」と十河氏。キャプテンの溜息の理由は、深いところにあったようだ。

ヤンチャ坊主、東京の夜に何をみたか。

進学したのは、高松商業。
玉石混交の高校だったそうだ。
「優秀な生徒はそれこそ東大とかね。でも、ビリになると、もう行く大学もないような。成績でクラスが分かれて、私は、いちばんアホなクラスです。いや冗談じゃなくて。運動ばっかりしている奴がいて、『そんなじゃ、どうしようもなくなるぞ』って、そう奴に言っていたんですが、いつの間にか、私のほうが下に/笑」。
ヤンチャだったらしいですね?
「あの頃は、そういう時代だったんですね。私もまぁ、ヤンチャだったんですが、身の危険はなかった。なぜかっていうと、いちばん悪くてヤバいのといっしょにいましたから/笑」。
「そういう意味では、社交性があったんだろう」と十河氏は、当時のヤンチャぶりを笑い飛ばす。
「だいたい悪ガキっていうより、ませガギですね。高松の田舎にも、当時からビリヤードやディスコがあって、入りびたりです」。
神戸にも何度も遊びに行った。昼より夜が、楽しみなる。
「両親は、理解がありましたね。私が不良でも、愛情を注いでくれました。ただ、2年の時かな。母と姉がみかねて、母から『一度、東京行ってこい』って送りだされるんです。いくらませていても高松の田舎もんでしょ。東京なんて、未知の世界。当時、姉が代々木上原に住んでいましたので、それだけが救いです。冬休みに、東京へ向かいました」。
どうでしたか?初めての大都会は。
「いやそれが…」と十河氏。
十河氏を案内してくれたのは、姉の友人の華やかな女子大生たち。。彼女たちは、友人のかわいい弟を、六本木や青山へと連れまわす。
「いやもう、ドキドキですよね。東京だけじゃなく、女子大生にも。あの人たちのおかげで『東京に行こう。しかも、学生じゃないと意味がない』と東京の大学に進学することを決心します。私の最初のターニングポイントですね。いうならば/笑」。

ラジオ講座で、ぶっちぎる。

むろん、決心したところで、成績が浮上するわけじゃない。
「ラジオ講座聞きなよ」って、弟の決意を知った姉は、そう助言する。
「私にとっては、偉大な姉の一言ですからね。ええ、素直にラジオ講座を始めます。講座が開校する時に、早稲田大学の西尾先生っていう先生がいらして、こういうんですね。『君たち青年には、無限の可能性がある』って。もう、この一言ですね。そうだよな。オレには無限の可能性があるんだよなって」。
世界がかわったようだった。
「初めて猛勉強です。それまでは、勉強しても姉にはかなわない、なんてどこかで思っていたんでしょうね。でも、もう、私にも無限の可能性があるわけです。ラジオ講座ですか? 英語の講座もあったし、社会も、ぜんぶありましたよ」。
その成果はどうだったんだろう?
「私の定位置は350人の生徒のなかで2位だったんです。ビリからね。でも、ラジオ講座を始めて6ヵ月くらい経った7月の模試で、学年7位になるんです。今度は、頭からです。人生初の、ぶっちぎりです」。
すごいですね?
「ただ、現役の時はアウトで、2年目に法政大学に進みます。浪人して予備校に行くんですが、東京の予備校に行っちゃうんですね。もう、ご想像通りです。けっきょく私はラジオ講座1本で、大学に進学したようなもんですね/笑」。
法政大学進学。
予備校時代を想像するだけで、だいたい進学したあとの話もイメージできる。

なまず店長の、金言。

十河氏、20歳。西暦でいえば1975年である。
ディスコが流行り、ハンバーガーが日常食になり、サーフィンもブームになる。砕けた世代でもある。「学生運動がにぎやかな時代ですね。私は、大学に、じつは6年行っています。法政大学って中核派の巣って言われていて、当時は講義どころじゃなかったもんですから、だれでも進級できるような時代だったんです。それでも私は6年。じつは、卒業もしていないんですけど/笑」。
アルバイトとディスコとサーフィン。サーフィンはのちに、週に3回、繰り出すほどになる。アルバイトはもちろん飲食。
「そうですね。最初から決めていたんです。『アルバイトは、青山で』って」。
アルバイトの求人雑誌をみて応募したのが、「ガスコン」。当時の表現を借りれば、もっともトレンディなレストランだったそう。
「有名なアーティストや、女優さんもいらして。店長が、また面白い人で、あだ名が『なまず』。スキンヘッドで、お客さんに『なまずさん』『なまずさん』て。でも、面白いだけじゃなくって、『飲食でいちばん大事なのは、お客様とのミュニケーションのちかさなんだ』って、いいことをいうんですね」。
入店当日の話だそう。
「それで、店のなかをみわたして、『だから、ぜんぶのお客様にあいさつしてこい』って」。
なかには、TVで観た人もいる。
「トーク力もないでしょ。だから、『大学1年生です。アルバイトも、学業もがんばります』っていいながら、テーブルを回るんです。すると、ある人がニックネームは? っていうから、アウトロー時代を思い出して『ヒロです』っていうんですね。すると、みんなが『ヒロくん』って言ってくださるようになり、しばらくすると定着しちゃうんですね」。
なまずさんとヒロ君。
ところで、どんな人が「ヒロ君」って言っていたのかと聞くと、錚々たる名が挙がった。一流アーティストしかり、有名な女優さんしかり。
「なんにしても、あの店長の一言は金言ですね。いまでも、いちばん大事なところにしまっています」。アルバイトを開始し、店長にも、飲食にも、すっかり魅了された。
もっとも飲食の本質を知るのは、このあとの話かもしれない。

宴のあとに残った自信。

十河氏がもうひとつの原点に挙げるのが、軽井沢にオープンしたレストランの話だ。夏の1シーズンだけの限定レストラン。店のお客さんだった広告代理店の人から、相談され、引き受けたそうだ。
「これも、20歳の時です。興味があったもんですから『ガスコン』を辞めさせてもらって。ハイ、ぜんぶイチからです。ショップのデザインから、人の採用、メニューもそうですし、レコードの選定もすべてやりました。広告代理店の人がオーナーって言えば、オーナーなんですが、口出しもなかったですし、代わりにアドバイスも一切なかったですね/笑」。
その店が繁盛する?
「そうですね。観光客もたくさんいらして。オーナーもびっくりしていましたが、ちゃんと利益もでました」。
十河氏は、「ちっちゃな成功体験」と笑う。しかし、十河氏にとって痛快なことでもあっただろう。中学時代からひきずったコンプレックスも吹っ飛ばせたにちがいない。
そのあとも、アルバイトに、ディスコに、サーフィンの、そんな日々がつづくが、やがて、転機が訪れる。母親が亡くなり、田舎にもどっていた姉が結婚してふたたび上京する。25歳になった頃には、十河氏にも結婚話が持ち上がり、それをきっかけにアルバイト生活を卒業する。
「結婚するのにアルバイトはまずいでしょ。だから、ちゃんとはたらかないといけないと思って、独立を決意するんです」。
かなり、ぶっ飛んだ発想だ。
「今思えば、そうですね。まだ、学生でしたしね」とさらりと言い放つ。

創業店、開業。とにかく、フル回転。

1980年、十河氏は青山にダイニング・バー「JAILHOUSE」をオープンする。14坪。開業資金は父親に保証人になってもらって借り入れた1500万円。
「そうですね。とんでもないチャレンジですよね。有名店出身のシェフも採用させてもらって、意気揚々、開業するんですが…」。
うまくいかなかったんですか?
「そう、軽井沢での、ちっちゃい成功体験なんかすぐに吹っ飛びます。バラ色だと思っていたものが、ぜんぶ、コテンパンにやられました」。
とはいえ、やられっぱなしというわけにはいかない。何しろ、背中に1500万円がのっている。
1年経った頃には、さらに銀行から借り入れ700万円かけ、改装もしている。
「シェフを解雇し、素人の専門料理で勝負しようと思ったんです。言ったら、開き直りですね。だって、もう人件費もないんです。だから、私ともう1人のバイトだけ。カクテルもつくるし、料理もするし、レコードもかけるし、洗い物もぜんぶ、やります。平日はランチからスタートです。それで、毎日、深夜まで、休みはもちろんなしです」。
やるしか、なかった。しかし、保証はない。
「そうですね。相当時間がかかりました。なんとか、長いトンネルを抜け出せたのは2年経った頃ですね。月商は当初の倍以上の500万円までになっていました」。
それからも業績は、悪くない。ただ、外因もあった。
「バブルになるんですね。日本中で宴がはじまります」。

バブルが始まり、そして、弾ける。

このあとの1986年、十河氏はチャイニーズレストラン「HARDEN TIGHTEN」を青山にオープンする。この店には、超大物アーティストも、しばしば顔をだしたそうだ。
「こちらも最初の半月くらいは閑古鳥が鳴いていたんですが、『アンアン』が表紙に取り上げてくれ、4Pの特集まで掲載してくれたんです」。
いろんな縁が結ばれる。「当時の『アンアン』編集長と仲良が良くって、周富徳さんとも仲良くさせてもらって。じつは周さんには顧問もしてもらっていたんです」。
3号店もチャイニーズレストラン。「西麻布にオープンしたCT・ダイアモンドです。さきほどのアーティストさんは、こちらにもよくいらしてくださいました」。
芸能人も訪れる。それだけで、価値は上がる。
業績は順調にアップする。
「そりゃぁ、飲食店ですから、そんなに手放しでは喜べないわけですが、この時は、最高潮ですよね。もっとも、そういうのは、うちだけじゃなかったんですが」。
たしかに、当時は、毎夜、毎夜、宴だった。だが、バブルが弾けると、状況はいっぺんする。十河氏も旗色が悪くなった。それだけではない。タイミングが悪く、相続した土地の相続税が高く、10億円の借金が残った。天文学的な数字である。
・・・続き
株式会社でですけ 代表取締役 十河弘幸氏
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2019年11月22日金曜日

キイストン、いよいよ出版社の顔も待ちます。

11月18日、キイストンから書籍出すため書籍JANコード取得しました。
プロデュース業務からいよいよ出版社の顔も待ちます。
この12月に1冊、来年1月と3月に各1冊出します。
あともう1冊動かせば自分が目標にしてた年度内5冊に到達。
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

株式会社アイロム 代表取締役 森山佳和氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社アイロム 代表取締役 森山佳和氏登場
本文より~

昔は、「水を飲むな」が、鉄壁ルール。

子どもの頃は、時間があれば弟とボールを蹴っていたそうだ。「サッカーを始めたのは、小学3年生です。私に影響されて弟も始めます。2人ともスジが良かったんでしょうね。私は小学5年生の時に、2週間、浦和代表としてメキシコにサッカー留学させてもらいました」。
サッカーもうまかったし、リーダー気質も、だれもが認めるところだった。「昔から自然とリーダーをやることが多かったですね。小学校は児童学長で、中・高は学級委員長。ただ、サッカーのほうは高校1年の時、練習がきつくて辞めちゃいました」。
せっかく才能があったのに?
「私が進学した西武台高校はインターハイで全国2位になるような高校です。だから、練習もハンパない。その一方で、私自身は中学の頃からだんだんとサッカーに賭ける思いが薄らいでいたんです」。
スポーツをつづけるのは、案外、難しい。トップレベルになれば、尚更なのだろう。周囲も期待を注ぐ。それがうっとうしく思えることもあったのではないか。
「練習がとんでもなく、きつかったですね。小学生の頃から『水を飲むな』です/笑。私もそうですが、それで辞めたって人は少なくないんじゃないですか?」。
ともかく、高校1年でサッカーをいったん卒業する。
小学3年から始まったサッカー人生も、これでいったん終止符を打った。才能があっただけに、もったいない話である。
「ただね。サッカーは好きでいまもチームをつくってやっています」。
難しい話でもある。
今は「水を飲まない」と怒られる時代。
ルールは、当事者抜きに、案外、簡単にかわってしまう。
どちらがいいかは、むろん、わからない。

デザイナー、デビュー?

森山氏は、大学には行っていない。最初から、進むつもりはなかったそうだ。
「この頃には、デザインに興味があったんです。それで、デザインの専門学校に進みます。学校を卒業して、一度は、デザイン関連の会社に就職するんですが、すぐに辞めています。ま、私が、というより、ちょっと会社に問題があったんです/笑」。
それで、デザインとは無縁に?
「いえいえ、今でもお店のデザインや、そうそうホームページの写真なども私が撮影しています、でも、当時からそうですが、没頭するまではいかなかったですね」。
それで、トラックに?
「そうなんです。それから半年間、トラックに乗るんですが、今度は1人で運転しているのがさみしくって辞めてしまいます/笑」。

社員になれば休めるという、甘い計算。

「就職するつもりはなかったんですが…」と森山氏。
トラック時代、当時、川口市で独り暮らしをしていた森山氏はトラックから降り、上京する。都内の飲食店でアルバイトをはじめたのは、この時だ。
そのアルバイトが縁で、飲食業に進むことになる。「最初は、仕事をさがす間だけと思っていたんです。でも、楽しくなって、そのまま就職です/笑」。じつは、アルバイト時代、働きすぎていたらしい。「それで、思ったんです。社員になれば、少しは休めるだろうって」。
むろん、そう計算通りにはいかない。だいたい就職といっても1年だけと思っていたらしい。
「そうなんです。面接でも『1年で辞めます』って。堂々と言っちゃうんですね」。
しかし、辞めなかった?
「なんだかんだで…。仕事も面白いですしね」。
ちなみに、その時、就職した会社は、すでに倒産している。「飲食事業は黒字だったんですが、もう一つの事業が赤字だったんです。私が、独立したのは、そのタイミングです」。
つまり、1年どころか、長く勤務することになる。

理不尽な鉄拳。

「1年で辞めると言ってはいたんですが、1年後には、店長の辞令が下りるんですね。辞めるとは言っていましたが、特別な理由があったわけでもないので、そのまま店長になります。当時は、今思えば何も考えてなかったですね」。
まだ、若い。店長は無事務まったのだろうか?
「最初は、ぜんぜんダメでしたね。私以外のスタッフは全員年上です」。
社歴も長い?
「そうです。だから、私の言うことなんてだれも聞かない/笑。私も、だからって怒るわけでもなく、ま、そんなもんだろうくらいに思っていました。でも、ある日、事件が起こるんです」。
その事件が、奮起のトリガーになったそうだ。
「社長が、私の店にいらしていたんですね。でも、私も若かったからかヘンな正義感があって、相手が社長だからって特別扱いを一切しなかった。そしたら『わかってない』って殴られたんです/笑」。
「店にいらしたら社長であろうが、一般のお客様だって一緒でしょ。むしろ、社長より、一般のお客様、優先ですよね。
だから、なんだこの人は、と思いましたね」。
それで、火がつく?
「そうです。辞めて欲しくない人材になって、見返して、それで辞めてやると誓ったんです」。
これが、20歳の時の話。

辞めることをやめにする。

奮起した森山氏は、なんとわずか2ヵ月で店の売上を倍にする。口だけではなく、結果を残す人だ。
「店のなかでは、年上だって同じプレイヤーだと気づいたんです。サッカーだって、ピッチにでれば上下なんて関係ない。あれと、一緒なんだと」。
目指すべきゴールも、ある。走って、走って、パスをつないで、シュートすればいい。
「半年に1回行われる社員総会で、登壇します。優良店、店長に選ばれたからです」。突然の指名だったそう。登壇し、発表したのは、いうまでもなく、売上を倍にすることができた理由であり、その取り組みだった。急いで書いた手書きの原稿を読む。
「私の発表が終わると、いつもは、そんな会じゃないんですが、拍手が起こりました。いちばん年下だったから、よくやったって素直に拍手をしてくれたのかもしれませんね」。
スポットを浴びながら、壇上で頭を下げる森山氏の姿が目に浮かぶ。
でも、拍手だけでは終わらなかった。
「私のあとに社長が登場されるんですが、マイクに向かったまま、言葉がでないんですね。私の発表を聞いて、感動してくださったようで、その時は、言葉も忘れ、号泣されました。その姿を観て、『辞めて欲しくない人材になって辞めてやる』ことは、やめにしました/笑」。
それで10年ですか?
「そうです。ただ、10年で辞めようと思ったわけじゃないんです。さっき言ったように会社がつぶれてしまって」。
会社はつぶれたが、むろん、貴重な経験を積むことができた。自信もついた。何しろ、ある店舗では、40ヵ月、前月を上回るという奇跡を起こしている。
過去最高の売上を36ヵ月以上続けたことは、歴代月間最高記録であり、言うまでもなく大記録である。
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株式会社マニアプロデュース 代表取締役 天野裕人氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社マニアプロデュース 代表取締役 天野裕人氏登場
本文より~

韋駄天、駆ける。

平日でもなかなか予約が取れないそうだ。2017年、誕生した「GYOZAMANIA」のこと。「ミシュランガイド東京2019」では、ビブグルマンにも選ばれている。この「GYOZAMANIA」の創業者が、今回ご登場いただいたマニアプロデュースの天野裕人氏。天野氏といえば、エー・ピーカンパニーで役員になり、同社をリードしてきたことでも知られている。
「私は1981年、東京都八王子市に生まれます。父親の転勤で、幼稚園の年長から埼玉に引っ越し、高校まで埼玉で暮らしました。高校は春日部東高校です」。
中・高は、陸上選手だったらしい。400メートルが主戦場だったそう。全国大会にも出場しているというからすごい。
とにかく、早い。
韋駄天がグラウンドを駆ける姿は、女子生徒だけではなく、高校の教師の目も引いたのだろう。高校進学時には「推薦」の話が来る。
「推薦で進学校に進み、そちらでももちろん陸上です」。
これが高校の話。大学生になって、親元を離れ1人、八王子に戻る。
「大学は教師になるつもりだったんで、日体大に進みます。埼玉からだとしんどいので、八王子にあった祖父宅に住み、通いました」。
エー・ピーカンパニーとの出会いは、その時?
「そうです。当時、ダーツBRAが流行っていまして。八王子のダーツBRAによく通っていたんです。好きが高じてってわけじゃないんですが、4年生になってから、そのダーツBRAでバイトを始めます。ハイ。そのBRAを経営していたのがエー・ピーカンパニーだったわけです」。
エー・ピーカンパニーの、まだまだ創業期の話である。

ダーツBRAの神話。

天野シフトっていうのがあったんですね?
「そういうとちょっとおおげさですが/笑」。なんでも、天野氏のシフトは週3日。ダーツBRAの人気が陰りがちになるなか、すすんで路上に立ったそうだ。
今でいう呼び込みですか?
「そうです。当時、八王子にはいなかったですね」。月にして100万円を売り上げたそう。月商が400万円くらいだったから、1/3を天野氏がキャッチしたことになる。
「だんだん、私のシフトの時には、食材を多めに仕入れたり、スタッフを多めに配置したりするようになって、それが天野シフトと呼ばれました」。
天性の力があるのだろう。いうならば、ダーツBRAで生まれたはじめての「天野神話」である。「私の話が耳に入ったんでしょうね。社長の米山さんがやってきます。それまでは時給だったんですが、米山さんとお話してから歩合に変わりました」。 天野氏は、修士である。つまり、院卒。
「大学院を卒業する時に、米山さんに『一緒に働こう』と誘っていただきます。当時ですか? まだ2~3店舗で、社員数は10名くらいでした。親には、正直いうと猛反対されました。でも、米山さんの話を聞いて一緒にやりたいという思いが勝ちます。米山さんのようになるには、一緒にやるのが一番でしょ」。
米山氏に魅了される。
エー・ピーカンパニーというベンチャーに、天野氏が組み込まれることで、歯車がゴロリと音をたて回り始める。

こんなスープ、しょっぱくて飲めないよ。

天野氏のエー・ピーカンパニー在籍は、11年間に及ぶ。その間、「塚田農場」が生まれ、様々なサービスが脚光を浴び、同社は東証一部へと駆け上がっていく。国内だけではなく、海外にも進出。天野氏は、中国担当になる。
「2016年3月からですね。北京の『塚田農場』を担当します。当初は日本と同じメニューで勝負にでます。でましたが、受け入れられませんでした/笑」。
どうしてですか?
「たとえば、餃子です。日本では、鶏スープに餃子が入った『焚き餃子鍋』っていうのがヒットしていたんですね。ええ、お世辞抜きで旨かった。だから、オススメするんですが、クレームばかり。どうしてかというと、中国の人からするとむちゃくちゃ高かったんです」。
当時、屋台なら270円で25個くらいの餃子が食べられたそう。それに比べ、1000円する「焚き餃子鍋」の中に入っている餃子は5個だけ。「しかもね。中国の人って、日本の料理はしょっぱいらしくて、『スープがしょっぱくて飲めない』と言われてしまうんですね」。
この話は他でも聞いたことがある。食文化の違いという奴だろう。
「それで、すぐにそのメニューは中止した。最終的な決断をしたのは、米山社長だが、シンガポールで評価が高かった『美人鍋』をメインにして、サンフランシスコで運営していたラーメン店のラーメンを導入して。そうそれで、軌道に乗り始めます」。
売り上げアップの要因としてメニューもあるが、もう一つの要因は口コミだ。
中国人は中国の店を信用していないらしい。本当に客が入っているかや口コミサイトをよく見て決めるそうだ。
当時、まがい物が多い日本料理屋に本物の日本人がいると口コミで話題になっていた。中国では一日平均7件食べログのようなサイトで口コミが入る。その口コミのほとんどにサービスのいい日本人がいると書いてあり、それを見た中国人がたくさん来店した。
中国ではお金を払うと嘘の口コミがかけるそうだが、サービスがいい日本人がいるという嘘の口コミは、他の店は書き込めないので信頼性が高い口コミと判断された。
「日本でお客さんにモテた事はありませんが、中国ではジャニーズのような扱いを受け、一緒に写真を撮ってくれとか、メールの番号教えてとか、男女関係なく人気でした/笑」。
課題の明確化と改善、そして、スピーディーな決断。まさに、天野氏ならではの経営手腕だ。その結果、700万円だった月商が2000万円にはねあがる。これはもう一つの天野神話。しかし、この時、もう一つの神話がはじまろうとしていた。

リスクがあるから、しびれる仕事ができる。

「北京では当然ですが、日本と同じようにはいきません。すべてイチからです」。
それは、大変でしたね?
「そう、大変だったんですが、それが逆に楽しくて。日本にいると、もういろんな部署があって、業務も細分化されているわけです。それは、それでいいし、効率的なんですがね」。
入社した頃を思い出したそうだ。まだ、社員は10名程度。熱意はあっても、金はない頃のこと。
「そりゃ、イチからですからね。資金もバンバンというわけにはいかないし。だから工夫しなくっちゃいけないんですが、その工夫が面白い」。
いうならばPDCAなんだろう。プランを立て、実行して、検証して、改善する。面白くないわけがない。「それで、もう一度、チャレンジしてみたくなったんです」。
独立ですか?
「そうです。その時、頭に浮かんだのが、最初に中国で苦労させられた餃子です。だって、日本の餃子をもってきて敵わなかったんですからね。逆に言えば、それだけ、中国の餃子には力があるってことでしょ」。
たしかに、そうだ。決断すれば、なんだって早い。
「向こうで住んでいたマンションの下が飲食店があったのですが、ボロボロの屋台の餃子屋がありました。電気は電線からとり、ベニヤ板のうえで餃子を作ってました。その店をやっていた女性に餃子の皮づくりから教わります。本場ですからね。やっぱり違う」。
独立したのは35歳の時。
「米山さんには止めていただきました。『子会社でやれば』というお話もいただいたんですが、お断りしました。だって、子会社だとやっぱりリスクがないんです。もう一度、リスクと向き合い、ヒリヒリしながらやってみたかったんです」。
つけた社名が、株式会社マニアプロデュース。そして、店名が「GYOZAMANIA 西荻窪本店」。「マニア」が指すものとはなんだろう?
・・・続き
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2019年11月5日火曜日

10月15日(火)発行の日刊ゲンダイに「世界の山ちゃん」率いる株式会社エスワイフード山本久美社長の記事が載りました。

10月15日(火)発行の日刊ゲンダイ・『社長の私生活』に会長兼社長(夫)急逝で「世界の山ちゃん」率いる株式会社エスワイフード山本久美社長の記事が大きく載りました!
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11月1日(金)発行の夕刊フジ「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」はシーウェイズ山本社長にFC加盟のメリット語って頂きました。

11月1日(金)発行の夕刊フジ「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」にて酒屋からコンビニ、そして飲食FC(牛角、串カツ田中、肉汁餃子製作所ダンダダン酒場、大衆ビストロ煮ジル)を4業態6店舗されてるシーウェイズ山本社長からFC加盟のメリットと成功体験を語って頂きました。
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