2020年2月21日金曜日

なんとカナダ・トロントから!!  Zen Sanuki Udon オーナーシェフ 柏原清一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ヴィガー 代表取締役 手嶋雅彦氏登場
今回は、なんとカナダ・トロントからTORJA様経由です。

本文より~

白バイ隊員か調理師か。

生まれは東京、育ったのは神奈川県の逗子市。父親は普通のサラリーマンで、祖父は床屋だった。「兄弟にサラリーマンはいないんですよ。」弟たちは床屋と、病院食を作る仕事だという。
昔から体を動かすのは好きだった。中学時代は陸上と水泳、高校時代は山岳部に所属していた。興味があるのは、体育、図工、理科など。「正直、勉強は好きではなかったです。」
また一方で、高校時代からオートバイにはまっていた。「友達のお兄さんがHONDAの250ccのバイクに乗っていて、それに乗せてもらってからですね。」もの凄いパワーに衝撃を受けた。バイクを買うために借金をして、その借金を返すために、週末は飲食店でアルバイトもしていた。
進路を決めるにあたって、最初は父親に「警察官か調理師か」と言われ、オートバイは好きだったが「白バイ隊員になったらみんなに嫌われるよ」という父親からの一言に加え、食べることが好きだったこともあり、調理師学校への進学を決めた。特に昔からの夢、という訳でもなかった。「免許も取れて手に職をつけられる、そういう考えが親父にはあったんじゃないかなと思います。」
仕事が終わると、箱根の山に登ってオートバイを走らせた。50cc,70cc,オフロード,125cc,250ccと色んなバイクに乗った。行動範囲も広がるのが、楽しく大好きだった。調理師学校を卒業した後は数年間、地元の寿司屋で修行を積んだ。

もともと海外への憧れはあった。カナダ・オタワへ。

「子供の頃、親父はシカゴで駐在をしていたのもあって、もともと海外への憧れはどこかにあったと思います。」
海外へ行くきっかけとなったのは先輩だった。彼は、寿司屋の板前としてハワイで働いていた。寿司職人として「海外で仕事ができる」ということを知った。柏原氏の行動は早かった。海外へ行きたいということを父親へ相談した。すると、父親の知り合いから「カナダのオタワで寿司屋の板前を探している」という情報を貰った。その頃、「ビザの取得は今ほど難しくなくて、英語が得意だった親父が書類も用意してくれて。移民ビザを取ってカナダに渡ったのが25歳の時ですね。」
そこから2年間、寿司シェフとしてオタワで働いた。「給料が安く、一緒に働き出した人は続々と辞めていきました。」父親の知り合いの紹介だったため、すぐに辞めることはできず3年ほど働いた。「それからオタワで一緒に働いていた人の紹介で、トロントにある『笹屋』という日本食レストランに移りました。」そこでも数年働いた。そして同じくトロントにある老舗の日本食レストラン『まさ』へ移る。その店はトロントの中でも老舗として知られ、忙しい店だった。「なんで忙しいのか知りたい気持ちもあって。」そこで10年間働いた。「実はその間に、中国人のお客さんに誘われて、別の店でも1年ほど働いていたことがありましたが、ほぼ騙されたと言っても過言でないことも経験しました。これもひとつ勉強だ。と思って、再び『まさ』に戻りました。」思い立ったら動くのが、柏原氏の行動力だ。

いざ独立。

オタワで働いていた時から「自分で店をやりたい」という思いが強まっていったという。「興味のあることは、勉強していました。繁盛店へ移ったこともそうだし、夜中まで働いているマネージャーからお金についても教えてもらいましたね。」ヘッドシェフとしてキッチンを任されるまでになっていたが、店主が亡くなってことで『まさ』は閉めることに決まった。当時は仕事を探そうにも、トロントで寿司を扱うレストラン自体がそんなに多くなかった。そんな時に、トロントのスカボロ地区にあった別のお店の店主から「リタイヤしたいが、仕事のできる人に店を譲りたい。」という話が、柏原氏に舞い込んできた。
メニューは当初、そのまま受け継いで徐々に変えていった。「家賃を払いながらだったので、要はビジネスを買った状態でした。『お金がなくて出来ないと言っている人は、お金があっても出来ない』という言葉もあるように、今こそやる時と決めてやりました。」

カナダでの日本食。

こちらにきた当初は、魚が全然なかった。あったのは冷凍のハマチ程度。「鮮度の良い、生簀に入った獲れたての魚を見て、喜んでいる夢まで見るほどでした。」それが次第に流通が良くなってきて、トロントにも入ってくるようになった。「それを積極的に仕入れて使うようになったのは私たち『ZEN』が最初だと思います。」日本食へのこだわりは強い。「日本人が、日本のモデルを作っていかないと。日本と同じものを提供していきたいですね。そうでなければ日本食が変な方向にいってしまう。日本食の伝統文化を正しく伝えることもひとつの使命だと思っています。」

日本で修行を積んだ和食の職人が数多く働く。

食材だけではない、こだわりもある。「和食というのは見えないところにもお金がかかっているんですよ。寿司だけのほうがはっきり言って楽。え、これ捨てちゃうの?というようなものも、『美味しいところだけを使おう!』という料理人の気持ちがある。それを理解しないと。お皿もそう。自分が作った一品を、納得のいくお皿にもらなかったら価値が出てこないんですよ。魯山人の『器は着物』という言葉もあって、シェフを日本へ連れて行って、お皿を探しにいくこともしています。ひとつひとつ自分で作り上げた作品がお客様に喜んでもらえる、それが彼らの喜び、自信にもつながると思っています。」
さらに柏原氏は、移転を機に割烹、会席、おまかせのメニューなども考案していった。「食べたくてもなかったんですよ、うどんもそうでした。」と続ける。2019年には、粉と出汁にこだわった本格的な讃岐うどんの店もオープンさせた。「今後も、トロントにないもの、自分が食べたいと思うものを時間をかけても作っていきたいですね。」

独立前から支えてきてくれた妻・和子さんに感謝。

今でも現場でともに働く妻への感謝も忘れていない。「オタワで知り会い結婚、和子に知り会うことでどんなに助けられたかわからないです。オタワで大使館の会計にいたのでお店の経理を手伝いながらお店も手伝ってもらい、今があると思います。感謝しています。」

『ZEN』グループの未来。


「ジャパネットタカタの社長の言葉に『知らなかったら、ないのと同じ』というのがあって、その通りだなと思っています。」どれだけ自分が美味しいものを作って、満足できるものを作っても、誰も知らなければ来て貰えない。「自分たちがどういうことをやっているのかを知ってもらいたいですね。」と、雑誌などへの露出やSNSでの発信、さらには動画制作にも力を入れていこうとマーケティングが大事だと語る。
人材育成については「コック45で野垂れ死ぬ、という言葉もあるくらいなので。うちで働くシェフたちも独立はしたかったらすればいいというスタンスではいます。」とのこと。「任せて考えさせてやらせる。自分たちでやることによって、楽しさも出てくると思っています。」
・・・続き
株式会社ヴィガー 代表取締役 手嶋雅彦氏

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2020年2月17日月曜日

1月4日(土)から日刊ゲンダイ“グルメ企業社長の食い倒れ日記”の5連載は麺庄の庄野智治社長でした。

1月4日(土)~2月1(土)の5連載の日刊ゲンダイグルメ企業社長の食い倒れ日記は麺庄の庄野智治社長でした。




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夕刊フジの「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」にて食パン専門店の一本堂運営のIFC様を3連載させて頂きました。

夕刊フジの「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」にてIFC様(食パン専門店の一本堂を運営)を1月31日(金)、2月7日(金)、2月14日(金)で3連載させて頂きました。

株式会社ヴィガー 代表取締役 手嶋雅彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ヴィガー 代表取締役 手嶋雅彦氏登場
本文より~

博多ラーメンと、手嶋少年。

博多ラーメンの発祥には諸説あるそうだ。なかでも、有力なのが1941年創業の「三馬路(さんまろ)」。
今回、ご登場いただいた株式会社ヴィガーの代表取締役、手嶋雅彦氏にとっては、ある意味、家のルーツの一つとなっている。
「上海帰りの森堅太郎氏が、三馬路の創業者です。『三馬路』っていうのは、向こうでいう通りの名だそうです。この『三馬路』にうちの父と、父の義兄が弟子入りします。だからいうならば、『三馬路』が、うちの源流なんですね」。
のちに父と義兄は独立し、「五馬路」を開業する。それからしばらくして、父は義兄から「五馬路」を譲りうけることになった。
「小さな頃は、絶対、飲食なんかしないと思っていました。丸まった父の背中も、母の背中もみていましたからね」。
五馬路(屋台)は、福岡の祇園にあった。
「食卓に夕食が1人分置いてあるんですね。まだ、子どもだった頃はさみしてくってね。つい、屋台まで行ってしまうんです。それで、親父に怒られたりするんですけどね/笑」。
店を構えるようになっても、さみしさはかわらない。
「1階が店で、2階が住居です。よくあるやつですね。そうなっても、やっぱり飲食はイヤだった。トイレは店だし、ね。母親もあいかわらず仕事をしていましたし…」。
ちなみに、手嶋氏は1958年生まれ。昭和のど真ん中で生まれ、育っている。
「当時、私が暮らしていた祇園は、商売をしている家の子ばかりでした。サラリーマンの子なんて、いなかったんじゃないかなぁ。ま、祇園が飲食街っていうこともあったんだと思いますが」。
手嶋氏は、大学2年までこの祇園で暮らしている。
祇園や福岡という街を通して、高度経済成長期をみた1人にちがいない。

台風一過。

「もともとは落語家になりたかった」と手嶋氏はいう。
「ただ、ある時、紅テントの公演があって、友人と観に行くんですね。今もなんで行ったのか、ハッキリしないんですが」。
とにかく、すごい熱気だったそうだ。
これが、手嶋氏の人生の方向を決める。
座長はご存知、唐十郎氏。脇を固めるのは、根津甚八氏、小林薫氏など、今でも語り継がれる錚々たる面々だ。
「舞台も、凄かったんですけどね」と手嶋氏は、目を細める。
その日の福岡は、台風の影響で空が荒れていたそう。
「だから、テントの外で濡れながら待っていたんです。ようやくテントに入っても、なかなか舞台が始まらない。台風で準備が整っていなかったんでしょうね」。
観客は200人ほど。
「そのうち、しびれを切らした観客が『はやくしろよ』って怒鳴るんです。そうしたら、ドーランを顔半分だけ塗った唐十郎さんが、舞台に駆け上がってきて、『いま、いったのはどこのどいつだ』なんて。ええ、もう、喧嘩ごしです」
客も黙っていなかったらしい。
『おれだ。文句あんのか。さっさとやれ』
『なんだと、てめぇ』
「そうしたら、今度は、根津甚八さんとか、小林薫さんとかも次々でてくるんですね」。
舞台が終わった時には、深夜の12時を回っていたそうだ。終電を逃した人もいたようだ。ただ、手嶋氏は、終電などを気にすることもできなかった。あまりの衝撃だったからだ。
「あの、数時間で私の人生は決まったというか。そういう意味では、私の心のなかでの台風一過ですね。ものすごい嵐だった。おかげで、大学も2年で辞め、上京することになります。ええ、役者になるための、長い旅のはじまりです」。

ラーメンの匂いが立ち上がる。

「役者」という位置づけは、難しいと思う。はっきりとした線引きがないからだ。手嶋氏はどんな役者人生を歩むんだろうか?
ともかく、20歳で上京した手嶋氏は、無事、「劇団青年座」の研修生に合格する。
「青年座っていうのは、西田敏行さんがいらした劇団です。こちらの研修生としてスタートするんですが、正式な団員には採用されませんでした。それから、いろんな芸能事務所を転々として。TVのレポーターとか、ドラマのちょい役とか、そうですね、役者だけじゃ食べていけないから、結婚式の司会とか、飲食店の仕事もしました。なかなか役者で独り立ちはできなかったわけです」。
しかし、役者であったのも事実だ。辞めなければ、役者だといいつづけることもできる。
「奥さんも、元々タレントだったんです。私よりは、仕事があって、それで、5年くらいかな、彼女の世話になっていました/笑」。
何でも、最後の事務所は、有名なスポーツ選手が立ち上げた事務所だったらしい。
「35歳になった時ですね。当時、お世話になっていた事務所も自然消滅したりと、いろんなことがあって。もう、役者らしいことはしていなかったのに、『役者は辞めよう』って決意するんです」。
20歳から15年追いかけてきた役者という背中を、もう追いかけないことにした。気力も、気概もなくなっていた、という。
「でも、そうすると、何もないんですね。追いかけるものが…。どうしようか? もう、奥さんと結婚もしていましたし。そんな時、ふと、うちの店が、頭のなかに登場するんですね。なんなんでしょうね、アレって/笑」。
ラーメンの匂い、焼鳥の匂いまで、立ち上がる。目線は小さな頃だから、まだ低い。見上げると、酒の匂いをプンプンさせた大人たちが屈託なく笑っている。父親もまた、笑っている。
「飲食をやろう、と思ったのは、その時です。父も私が店を継ぐなんて思っていなかったから、そろそろ廃業しようと思っていたそうなんです。だから、タイミングも良かったっていえるかもしれませんね」。

ラーメン店、店主は、ソムリエ。


35歳になった時、手嶋氏は、福岡の祇園にあるラーメン店をつぐ。
「世の中のことをぜんぜん知らない。これが、仕事をはじめて最初に気づいたことです。役者の頃は、そういうことを勉強するもんじゃないと思っていましたからね。だから、お客様と話すのが新鮮で、接客がたのしくてしかたなかったですね。でも、最初は戸惑いました。嫁もいっしょに連れて帰ったわけですよ。でも、店の売上は、父と母が食べていくだけで精一杯。社員も、1人いましたしね」。
連日、満席とは言わないが、繁盛していたはずだ。いや、そういう記憶だっただけかもしれない。
「父親とは5年、いっしょにやるんですが、喧嘩ばかりでしたね。私は『ビジュアルだ』、というし、父は『味だ』と譲らない/笑」。
ただ、もめていても、客が来るわけがない。どうなっただろうか?
「話題になったのは、ワインのおかげ」と手嶋氏はいう。ワインのおかげ?ともう一度、質問すると役者時代の話になった。
「じつは、役者の頃、食べられないんで、ホテルで司会とかの仕事をしていたって言ったでしょ。その時、親しくなったホテルの人から『ソムリエ』って資格があるのを聞いていました。そこで福岡に戻ってラーメン屋をやりながら。独学で勉強しソムリエの資格を取ったんです。お金はなかったんですが、ワインには割と詳しくなっていきました。それで、当時の祇園にはまだないような、ヴィンテージ物のワインなんかをお出ししたんです。そうです。これが、バカ当たりするんです」。
父の店は10坪とけっして大きくなかった。しかし、それまでは空席が目立っていた。だか、ワインをだすようになってからは、逆に席がなくなった。外に列ができたのも、この頃。
手嶋氏が、商売人として、独り立ちした時と言えるだろう。
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2020年2月11日火曜日

株式会社幸楽苑ホールディングス 代表取締役社長 新井田 昇氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社幸楽苑ホールディングス 代表取締役社長 新井田 昇氏登場
本文より~

憧れの職業は、会社員。

祖父は近衛兵として天皇陛下にお仕えしていたそうだ。その後、祖父が「幸楽苑」の源流となる「味よし食堂」を創業したのは1954年。むろん、こちらは昭和の話である。
6坪の店がはじまり。ホームページに当時の料金が載っている。うどん「20円」、天ぷらうどん「25円」。そして、ラーメン「35円」。
「私の父で、今の会長が、大学浪人の時だと聞いています。店の手伝いをしていると、散々、悪口を叩かれたそうなんです。店名に偽り有ってわけですね。そういう言葉を聞いた父は、大学に進学している場合じゃないと、進学を辞めて東京へ修業にでかけます。それが、いわば『幸楽苑』の始まりです」。
今回、ご登場いただいたのは3代目社長、新井田昇氏。1973年生まれ。父の代で「幸楽苑」となり、第二の創業を実現してから、だいぶ経つ。「小学校の時は、親が自営業っていうのがイヤだったんです。友達や先生から『食べに行ったよ』って言われるのもイヤだったし、友達のお父さんはみんな会社員でしょ。だから、当時の私の、憧れの職業は、会社員だったんです」。
憧れただけじゃなく、会社員になるために猛勉強もした。
「とにかく、いい会社に入らなければいけないと思って、小学校の頃には中学の、中学の時には高校の勉強をしていました」。
先取りという奴だ。おまけにトイレのなかにも参考書を持ち込み、信号待ちの間にも、問題を解いた。父親や母親が外食にさそっても、行かなかったというから筋金入りだ。
ゴールは、だれもが知る「〇×電気」「〇×自動車」。
言いかえれば、それくらいしかまだ知らない。

三菱商事で、自営業を知る。

大学を卒業した、新井田氏は三菱商事に入社する。ついに憧れの会社員だ。
どうでしたか?というと、苦笑する。
現実の世界は、憧れの世界とは、どうやら異なっていたようだ。
「とにかく、上司がね。きっつい人だったんです。もちろん、今では感謝していますが、当時は、会社を何度、辞めてやると思ったことか。だってね。毎日、怒られるんです。そりゃ、イヤになりますよね。会社に行くのもつらかった/笑」。
今なら、パワハラとなるのかもしれないが、怒るだけではなかったから性質が悪い。「そうなんです。本来はむちゃくちゃやさしい人で。私のことを思って怒ってくれている。それが、だんだんわかってくるんですね。大人になるって、こういうことなんでしょうね。今、私があるのは、三菱商事にいた愛がある先輩たちのおかげです」。
「愛情と厳しさ」と新井田氏は表現している。
「これも新人の頃ですが、今、サントリーホールディングスの社長をされている新浪剛史氏とお会いし、可愛がっていただきました。経営者になりたいと思ったのは、たぶんに新浪さんの影響ですね/笑」。
いっしょにランチを食べたりしたそうだ。むろん、新浪氏もまだ若い。しかし、当時から頭一つ抜けていたようだ。「新浪さんから教えていただいたのは、勉強とネットワークです。それが大事だと。ええ、今も私の大事な羅針盤です」。
様々な先輩諸氏から薫陶を受けた三菱商事時代、長いようだが、じつは在籍期間は、わずか5年。小学生から憧れの職業も、5年でいったんピリオドを打つ。
どうして、ですか?と聞いてみた。
「私が、三菱商事に入社した時に、父の会社、つまり『幸楽苑』が上場します。そういうのを間近で観ているわけでしょ。もちろん、自営業って意味は、もうさすがにわかっています。そうですね。会社で仕事をしているうちに、今度は、だんだんと父親というか、独り立つことに惹かれていくんです」。
結局のところ、サラリーマンと自営業者どちらがいいかではなく、新井田氏に、新井田家、とりわけ、創業者の血が流れていたということかのかもしれない。

幸楽苑、入社。出向で向かった先は?

「『幸楽苑で働かせてください』と言った時、父は見たことがないくらい大喜びでしたね。何度も『ほんとか?』って聞いてきて。その度に、『ほんとうです』って/笑」。
親子の会話を想像すると微笑ましくもある。
「三菱商事」と「幸楽苑」。
規模はむろん、比較にならない。「幸楽苑」では、できる仕事も限られている。父親はだから、重ねて問うたのかも知れない。「ほんとか?」「それでいいのか?」と。
言葉が親子の思いを一つにする。
「そういう風にして、『幸楽苑』に入社します。ただ、『幸楽苑』に入社してから、一度、出向しているんです。出向先は、まったく異なるIT会社です」。
どういうことだろう?
「ホント、偶然なんですが、六本木ヒルズの道路で偶然、三木谷さんとばったりお会いするんです。ええ、もちろん、三木谷さんが私を知っているわけはありません。ただ、私はかなり前から注目させてもらっていたんです。だから、三木谷さんだと思った時には、走りだしていました/笑」。
かけていく。頭を下げる。言葉をつむぐ。
「新浪さんと三木谷さんは親しいんですね。それで、新浪さんの話を切り口にして/笑」。
インターネットとリアルショップの融合を熱く、熱く語ったそうだ。
「この時は、連絡先を交換しただけだったんですが、後日、もう一度、お会いします。その時、三木谷さんから『楽天に来ないか』と言っていただいたんですが、そんなことをすると、さすがに父が怒る(笑)と思って。ただ、そのあと『東北楽天ゴールデンイーグルス』の立ち上げにご協力させていただくんです。それで、今度は、三木谷さんのほうから食事に誘っていただきました。その時、出向の話をさせていただきました」。
新井田氏は、出向の狙いを語る。
「外食産業においても、ITはキーになると思っていたんですね。楽天といえば、ネットショップの先駆けですし、巨大なECサイトをつくりあげている業界の巨人ですからね。勉強するなら、楽天が一番だと思っていましたし、何より三木谷さんの下で仕事がしたかった/笑」。
営業やECコンサルタントという仕事を経験する。営業時代には、楽天賞も受賞している。「幸楽苑」とは、まったく畑違い。しかし、新井田氏はとまらない。
「結局、約3年間、出向します。『幸楽苑』の次期社長というレッテルを貼られるような仕事はしていません。それが、力になったんだと思っています」。

社長就任。


「『幸楽苑』では、取締役海外事業本部長という役職でした。当時、タイ王国に出店していましたからね。でも、これが、うまくいっていなかったんですね。だから私が最初にやったのは、この事業の尻ぬぐいというか、ま、そういう仕事です。私自身は、海外に興味があったもんですから、会長にも『インドネシアはどうでしょう?』などと海外の話をしたんですが、会長は首を縦にふらない。会長にすれば、海外ではなく、全体をみて欲しかったんでしょうね。つまり、跡継ぎの仕事です」。
父親の傳氏が、息子の決断を聞いて大喜びしたのは、もう何年も前だったが、その時から構想を練られていたんだろう。事業継承。新井田氏も、むろん、そのつもりだ。しかし、父親の存在が大きいだけに、そう簡単に継承も行えない。社長になるまでのいきさつを伺った。
「じつは、2016年のことです。あってはならないことですが、店舖で異物混入事件が起こります。報道でも大きく取り上げられました」。
たしかに、その事件はあった。ブランド価値が毀損する。その影響もあり、たしか、赤字決算になったはずだ。
「その年はもちこたえましたが、翌年に赤字になりました。。たしかに、異物混入事件の影響は大きかったですが、それだけではありませんでした。2015年に看板の290円ラーメン(税抜き)を値上げしています。その影響もあり、既存店の前年割れもつづいていました」。
けっしていいことではないですが、それが社長就任のきっかけとなったわけですか?
「そうですね。決心がついたというか、オレがやらなければと。社長になるのは、まだ先ですが、その頃から私が実質的に経営を担います。ステーキチェーン店の『いきなり!ステーキ』さんや焼肉チェーン店『焼肉ライク』さんのフランチャイズを開始したのは、この頃ですね」。
ある意味なりふり構わぬ戦略に映る。だが、したたかな計算があってのことにちがいない。仕事で大事なことは、ともかく、勉強とネットワーク。新浪氏の言葉が頭に浮かぶ。
「あの時は、とにかく走りつづけましたね。業績は少しずつ改善し、昨年(2018年)の8月、9月からぐっと上向きます。そして、その年の11月に社長に就任しました。ありがたいことに業績は、この1年、順調に推移しています」。
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株式会社幸楽苑ホールディングス 代表取締役社長 新井田 昇氏

2020年1月31日金曜日

株式会社ひょうたんや 代表取締役 中嶋和義氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ひょうたんや 代表取締役 中嶋和義氏登場
本文より~

近江八幡にて日本料理「瓢箪屋」開業。それが、すべての始まり。

0.8ミリの豚腹肉をお湯に浸すと「ちりちりっ」と白い花が咲くという。
「『ちりちりっ』となるのは高品質の豚肉を0.8ミリに薄切りスライスした特別製法によるもの」と解説してくれるのは、「つゆしゃぶ」の生みの親、ひょうたんやの2代目店主、中嶋氏。
たれも「ポン酢」や「ごまだれ」ではなく、ひょうたんや特製五段仕込みの和風のつゆでいただくのが特徴だ。湯にくぐらせることで、適度に脂が抜けた豚バラ肉は甘く、口のなかでとろける。「ダイエットにも効果的」というから、女性にもうけがいいのだろう。
ちなみに、特製五段仕込みの和風のつゆのなかに、白ネギ、柚子唐辛子を入れていただく。丁寧に作られた「つゆ」を薬味が引き立てる。
もともと、「ひょうたんや」は、滋賀の有名料理店だった。ホームページの沿革によれば、1949年、創業者である中嶋泰蔵が、終戦後、近江八幡にて日本料理「瓢箪屋」を開業したことから始まる。2代目の中嶋氏は1972年に修業先から帰郷し、12代目社長に就任している。
創業者であり、父親でもある泰蔵氏について、中嶋氏は、とても怖い父だったと話している。「酒が大好きな人でした。ただ、素面の時でも勉強していたらカミナリが落ちるんです。『お前は修業に行くんだ』っていって。修業に行くんだから勉強なんかしなくていい、と、そういうことです」。
当初から、2代目にと決められていたんだろう。ただ、父親と過ごした思い出はほとんどない。「周りに見習いの人とかがいっぱいいましたからね」。
話はつづく。

厳しい修業を経て、2代目経営者へ。新たな道が始まる。

「高校は八幡高校に進学し、サッカー部に入ります」。
八幡高校は、滋賀のなかではトップクラスの進学校である。
「べつにしたいわけじゃなかったんですが、先生に目をつけられて入部しました。しんどかったですが、いまでも関係がつづいているのは、この時の仲間たち。いい財産です」。
高校2年の時、中嶋氏は父親を亡くしている。店主である父が亡くなったあと、母と姉がおばんざいのお店として、父が残した瓢箪屋を守ってくれたという。
「私にはまだちからがなかったから。だから、進学せず料理の道に進みます。昔、父親がそうしたように、です」。修業先は大阪の名店に決まる。修業期間は2年半。長いか、短いかは月日の数だけではないだろう。どれだけ高い志をもって臨んだかで結果はかわる。
「料理が終わった鍋は、見習いの間で奪い合いなんです。鍋の底に残ったものを舐めることができるからです。そうです。当時の先輩たちは何も教えてくれませんから」。
罵声といっしょにフライパンが飛んできた。包丁の切っ先を突き付けられた。当時を知る料理人たちからは、そんな話を何度も聞いた。それから思えば、今はたしかに修業のあり様も、当時とはずいぶんかわっている。
「2年半で修業が終わったわけではないんです。まだ、これからだったんですが、姉が結婚することになってタイミング的には今だろう、と」。
「瓢箪屋」にもどれば、一介の料理人というわけにはいかない。2代目店主、つまり、経営者としてのちからも試される。中嶋氏は、どんな店主になっていくのだろうか?

一か八かの大勝負。

最初に中嶋氏が取り組んだことをうかがって、目を丸くした。思い切ったことをしたものだ。
「店を改装しなければとは思っていたんです。父がつくって年数も経っていましたし、日本料理店だったのがおばんざいの店のようになってもいました。瓢箪屋とは何か、それを改めて確立したかったんです。アイデンティティみたいなものですね。そういうことから始めないと未来がないと思ったんです」。
中嶋氏21歳。借入金は3000万円に及ぶ。
「ただ、当時の金利は15%でしたから、たいへんな決断でした」。たしかに、借入額3000万円は、大きな決断だ。いまなら1億円くらいだろう。いうなら一か八か。
「ただ、この時の改装はのちに大きな意味をもちます。結婚式ブームに乗ることができたんです。売上は倍増しました。ただ、それで今度は違った問題が起こるんです」。
営業停止。
「じつは、うちのちかくに大きな農協会館が建設され、5Fに披露宴会場ができたんです。その披露宴の料理を注文する店の一つに『ひょうたんや』も入れてもらったんですが、だんだんと、指名がうちだけになるんです」。
「料理はひょうたんやで」と次々に、指名がくる。たまらなく面白かった、と中嶋氏も回顧している。
「そりゃそうです。滋賀のなかでも料理人はトップクラスですし、何より、うちは会館にいちばんちかいから、あったかいうちにお届けできます。2年間、正直いうて儲かりに、儲かりました。ただ、周りのお店が反発して、それで2年間、営業でけへんようになったんです」。
2年間は長い。
それを乗り越え、平成元年に2店舗目(姉妹店「ひょうたんから駒吉」)を出店するまでになる。こちらも流行りに、流行る。

一度、食べれば、

「いまのメイン料理である、『つゆしゃぶ』は、『とんしゃぶ』の組合から豚でおいしい料理をつくれないかと相談されたことがきっかけでした。当時はというか、今もそうですが近江牛が主流です。その一方で、豚のおいしさを広げるにはどうしたらいいかと。それで生まれたのが、つゆで食べる『つゆしゃぶ』です」。
「ちりちりっ」となるあれだ。
「今思えばなんですが、最初はぜんぜん相手にされませんでした。『なんで、近江牛やないんや』と。そりゃ、さんざんでした。ただ、そう言っていた人も、一度、『つゆしゃぶ』を食べるとぜんぜん違う表情になり、箸がとまらないんです/笑」。
「つゆしゃぶ」は、いうまでもなく、いまや日本人だけではなく、海外からの観光客の間でも大人気だ。その足跡を追うと中嶋氏という人物の輪郭が明瞭になる。いわば、近江商人の発想をベースに日本料理界にイノベーションを起こしてきたる料理人であり、経営者である。それが、中嶋和義という人なのだ。
そんな中嶋氏にいまからのビジョンについて、伺った。

見据えるのは、大廃業時代。

「日本の現状は深刻です。今まで日本経済の中心だった団塊の世代が引退し、人口減少、少子高齢化が進むなかで、2025年には大廃業時代が訪れると言われています。そのなかで我々はどうあるべきか。それが今の、私のテーマの一つです」。 「いつの時代でも残る、日本料理」と中嶋はいう。
「昨今の人手不足も、かなり深刻です。幸いなことに、うちはまだ深刻とまではいきませんが、今から手を打っておかなければいけない課題の一つです」。
「つゆしゃぶCHIRIRI」のアルバイト時給は1600円。これだけの高時給なら、人には困らないだろう。
「そうです。でも、今はよくても、今から手を打たないといけない。だから、我々は『CHIRIRI』にかわるもう一つのブランドを立ち上げようとしているんです」。
それが、「和蔵義」ですか?
「そうです。宴会業を中心とした『つゆしゃぶCHIRIRI』に対して『和蔵義』は高単価の接待業です。一つ星を狙っています」。
なるほど。しかし、それがなぜ、人手不足の解消につながるか?
「わかりやすく言えば、量より質ということです。職人が少数で回すことができ、一方ではちゃんとお客様にもご満足いただける店、それがカギになると思っています。実際、『和蔵義』は、職人1人で、ほかには調理補助レベルが数人いれば回せる割烹スタイルです」。
「ただ、これを実現していくには、日本料理のルーツと地域ブランドを掛け合わせたストーリーが必須です。その時、キーコンテンツとなるのが、我々では、滋賀のブランド牛である『近江牛』となるかもしれません」。
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2020年1月31日金曜日

株式会社ひょうたんや 代表取締役 中嶋和義氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ひょうたんや 代表取締役 中嶋和義氏登場
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近江八幡にて日本料理「瓢箪屋」開業。それが、すべての始まり。

0.8ミリの豚腹肉をお湯に浸すと「ちりちりっ」と白い花が咲くという。
「『ちりちりっ』となるのは高品質の豚肉を0.8ミリに薄切りスライスした特別製法によるもの」と解説してくれるのは、「つゆしゃぶ」の生みの親、ひょうたんやの2代目店主、中嶋氏。
たれも「ポン酢」や「ごまだれ」ではなく、ひょうたんや特製五段仕込みの和風のつゆでいただくのが特徴だ。湯にくぐらせることで、適度に脂が抜けた豚バラ肉は甘く、口のなかでとろける。「ダイエットにも効果的」というから、女性にもうけがいいのだろう。
ちなみに、特製五段仕込みの和風のつゆのなかに、白ネギ、柚子唐辛子を入れていただく。丁寧に作られた「つゆ」を薬味が引き立てる。
もともと、「ひょうたんや」は、滋賀の有名料理店だった。ホームページの沿革によれば、1949年、創業者である中嶋泰蔵が、終戦後、近江八幡にて日本料理「瓢箪屋」を開業したことから始まる。2代目の中嶋氏は1972年に修業先から帰郷し、12代目社長に就任している。
創業者であり、父親でもある泰蔵氏について、中嶋氏は、とても怖い父だったと話している。「酒が大好きな人でした。ただ、素面の時でも勉強していたらカミナリが落ちるんです。『お前は修業に行くんだ』っていって。修業に行くんだから勉強なんかしなくていい、と、そういうことです」。
当初から、2代目にと決められていたんだろう。ただ、父親と過ごした思い出はほとんどない。「周りに見習いの人とかがいっぱいいましたからね」。
話はつづく。

厳しい修業を経て、2代目経営者へ。新たな道が始まる。

「高校は八幡高校に進学し、サッカー部に入ります」。
八幡高校は、滋賀のなかではトップクラスの進学校である。
「べつにしたいわけじゃなかったんですが、先生に目をつけられて入部しました。しんどかったですが、いまでも関係がつづいているのは、この時の仲間たち。いい財産です」。
高校2年の時、中嶋氏は父親を亡くしている。店主である父が亡くなったあと、母と姉がおばんざいのお店として、父が残した瓢箪屋を守ってくれたという。
「私にはまだちからがなかったから。だから、進学せず料理の道に進みます。昔、父親がそうしたように、です」。修業先は大阪の名店に決まる。修業期間は2年半。長いか、短いかは月日の数だけではないだろう。どれだけ高い志をもって臨んだかで結果はかわる。
「料理が終わった鍋は、見習いの間で奪い合いなんです。鍋の底に残ったものを舐めることができるからです。そうです。当時の先輩たちは何も教えてくれませんから」。
罵声といっしょにフライパンが飛んできた。包丁の切っ先を突き付けられた。当時を知る料理人たちからは、そんな話を何度も聞いた。それから思えば、今はたしかに修業のあり様も、当時とはずいぶんかわっている。
「2年半で修業が終わったわけではないんです。まだ、これからだったんですが、姉が結婚することになってタイミング的には今だろう、と」。
「瓢箪屋」にもどれば、一介の料理人というわけにはいかない。2代目店主、つまり、経営者としてのちからも試される。中嶋氏は、どんな店主になっていくのだろうか?

一か八かの大勝負。

最初に中嶋氏が取り組んだことをうかがって、目を丸くした。思い切ったことをしたものだ。
「店を改装しなければとは思っていたんです。父がつくって年数も経っていましたし、日本料理店だったのがおばんざいの店のようになってもいました。瓢箪屋とは何か、それを改めて確立したかったんです。アイデンティティみたいなものですね。そういうことから始めないと未来がないと思ったんです」。
中嶋氏21歳。借入金は3000万円に及ぶ。
「ただ、当時の金利は15%でしたから、たいへんな決断でした」。たしかに、借入額3000万円は、大きな決断だ。いまなら1億円くらいだろう。いうなら一か八か。
「ただ、この時の改装はのちに大きな意味をもちます。結婚式ブームに乗ることができたんです。売上は倍増しました。ただ、それで今度は違った問題が起こるんです」。
営業停止。
「じつは、うちのちかくに大きな農協会館が建設され、5Fに披露宴会場ができたんです。その披露宴の料理を注文する店の一つに『ひょうたんや』も入れてもらったんですが、だんだんと、指名がうちだけになるんです」。
「料理はひょうたんやで」と次々に、指名がくる。たまらなく面白かった、と中嶋氏も回顧している。
「そりゃそうです。滋賀のなかでも料理人はトップクラスですし、何より、うちは会館にいちばんちかいから、あったかいうちにお届けできます。2年間、正直いうて儲かりに、儲かりました。ただ、周りのお店が反発して、それで2年間、営業でけへんようになったんです」。
2年間は長い。
それを乗り越え、平成元年に2店舗目(姉妹店「ひょうたんから駒吉」)を出店するまでになる。こちらも流行りに、流行る。

一度、食べれば、

「いまのメイン料理である、『つゆしゃぶ』は、『とんしゃぶ』の組合から豚でおいしい料理をつくれないかと相談されたことがきっかけでした。当時はというか、今もそうですが近江牛が主流です。その一方で、豚のおいしさを広げるにはどうしたらいいかと。それで生まれたのが、つゆで食べる『つゆしゃぶ』です」。
「ちりちりっ」となるあれだ。
「今思えばなんですが、最初はぜんぜん相手にされませんでした。『なんで、近江牛やないんや』と。そりゃ、さんざんでした。ただ、そう言っていた人も、一度、『つゆしゃぶ』を食べるとぜんぜん違う表情になり、箸がとまらないんです/笑」。
「つゆしゃぶ」は、いうまでもなく、いまや日本人だけではなく、海外からの観光客の間でも大人気だ。その足跡を追うと中嶋氏という人物の輪郭が明瞭になる。いわば、近江商人の発想をベースに日本料理界にイノベーションを起こしてきたる料理人であり、経営者である。それが、中嶋和義という人なのだ。
そんな中嶋氏にいまからのビジョンについて、伺った。

見据えるのは、大廃業時代。

「日本の現状は深刻です。今まで日本経済の中心だった団塊の世代が引退し、人口減少、少子高齢化が進むなかで、2025年には大廃業時代が訪れると言われています。そのなかで我々はどうあるべきか。それが今の、私のテーマの一つです」。 「いつの時代でも残る、日本料理」と中嶋はいう。
「昨今の人手不足も、かなり深刻です。幸いなことに、うちはまだ深刻とまではいきませんが、今から手を打っておかなければいけない課題の一つです」。
「つゆしゃぶCHIRIRI」のアルバイト時給は1600円。これだけの高時給なら、人には困らないだろう。
「そうです。でも、今はよくても、今から手を打たないといけない。だから、我々は『CHIRIRI』にかわるもう一つのブランドを立ち上げようとしているんです」。
それが、「和蔵義」ですか?
「そうです。宴会業を中心とした『つゆしゃぶCHIRIRI』に対して『和蔵義』は高単価の接待業です。一つ星を狙っています」。
なるほど。しかし、それがなぜ、人手不足の解消につながるか?
「わかりやすく言えば、量より質ということです。職人が少数で回すことができ、一方ではちゃんとお客様にもご満足いただける店、それがカギになると思っています。実際、『和蔵義』は、職人1人で、ほかには調理補助レベルが数人いれば回せる割烹スタイルです」。
「ただ、これを実現していくには、日本料理のルーツと地域ブランドを掛け合わせたストーリーが必須です。その時、キーコンテンツとなるのが、我々では、滋賀のブランド牛である『近江牛』となるかもしれません」。
・・・続き
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2020年1月30日木曜日

夕刊フジの「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」にてポッカクリエイト様の2連載させて頂きました。

夕刊フジの「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」にてポッカクリエイト様(カフェ・ド・クリエを運営)を1月17日(金)、24日(金)で2連載させて頂きました。
(1/17発行 電子版カラー)
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(1/24発行 電子版カラー)
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