2024年7月27日土曜日

周りに20〜30代の優秀な社長が増えてきました。

ここ最近の20〜30代のベンチャー社長は、本当に優秀な方が多いです。

気合いと根性、そして元気だけの私たちの時代とは大違い(笑)

そんな私と年齢では三回りくらい違うのに、まだ必要とされ仕事できるのはとても幸せです。

弊社が運営してる「飲食の戦士たち」を通じていろんな出会いとご縁が生まれました。

キイストンしかできない、キイストンならではの強みを活かして、飲食業界に貢献出来れば嬉しいです。

キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~


戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2024年7月23日火曜日

株式会社NFI 代表取締役 中谷俊文氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社NFI 代表取締役 中谷俊文氏登場。

本文より~

スポーツ少年時代。

小学校の頃は剣道、野球、ソフトボールの三刀流。剣道では、大会で優勝している。そんなスポーツ少年が、今回ご登場いただいたNFIの中谷さん。大阪府八尾市の出身。2人兄妹で、3歳下に妹がいる。
「剣道は6年生までつづけましたが、陸上をやっていた親父の影響もあって、中学からは陸上部に入り、長距離ランナーに転向します」。
運動神経に恵まれていたんだろう。サッカー部の顧問から誘われたこともある。「休み時間に長距離は走れないんで(笑)。暇があればサッカーをやっていたんです。それを観て、顧問の先生が誘って下さったようです」。
<それで、高校からサッカーですか?>
「そうですね。多少は影響しているんでしょう(笑)。とにかく、高校からはサッカーを始めます」。
高校は、体育学科がある高校に進んでいる。
「体育学科っていうんで、期待していたんですが、特別、何かがあったわけじゃなくて。体育の授業が多少、多かっただけで(笑)」。
高校時代を総括すると、部活とバイトと、ほんの少しの夜遊びと。
「最初のアルバイトは、叔母がパートをしていたガスト。あとは、地元のお寿司屋さんだったり、カニ料理のお店だったり。オーナーやバイトの先輩たちにも可愛がってもらいました。今、振り返ると、人に恵まれていたように思いますね」。
「アルバイト代ですか? アルバイト代は…クラブで遊んだり、洋服を買ったり(笑)」。
ファッション、そして、それ以外にも色々と、目覚めていく。

美容師のたまご、飲食へ進む。

「高校を卒業して、美容師の専門学校に進みます。夜間の学校です」。
日中は、美容室でアルバイト。夕方学校に行き、授業を聞いたあと、ふたたび美容室でアルバイトをする。「1日中、美容と葛藤しているからほかの生徒より実習もできて…。できる奴だと思い込んで。やらかしたっていうか、舐めちゃって、授業もちゃんと聞かなくなってしまいます」。
2年制だったので、学校には通い、美容師の免許も取ったが、アルバイトは4ヵ月程度で辞め、美容以外のアルバイトを始めるようになる。
「これが一つの転機ですね。ちゃんと2年は通いましたが、もう少し真面目に取り組んでいたら、人生、かわっていたんちゃうかな。もっとも、そのおかげで、FI(フロンティアイノベーションズ)に出会うことができたわけですから、それはそれでよかったんですが」。
なんでもできる中谷さんのことだ。美容師として進んで、カリスマと言われるようになっていたかもしれない。とにかく、美容師のたまごは孵化することなく、終わる。
<ところで、FIというのは?>
「NFIの親会社です」。
<たしかに、Nがあるかないかのちがいですね?>
「そうなんです。FIに、中谷の頭文字のNをつけて、NFI。もちろん中谷ファクトリーイノベーションじゃなく、ネクストファクトリーイノベーションです(笑)。2014年にNFIを立ち上げていますから、私が、32歳の時です」。
<FIに就職したのは、美容師の専門学校を卒業してですよね?>
「そうです。今、思うと、よう、あんな若造を採用してくれたもんやな、と、当時の社長、今の会長には感謝しきりです。人に恵まれていると言いましたが、その代表がうちの会長ですね」。
入社当時は、叱られるようなことを何度もやらかしたが、会長は、中谷さんを高く評価されていたのだろう。中谷さんは、20歳、入社8ヵ月で店長にも抜擢されている。

子会社、社長に就任。

「仕事は当時のことですから、かなりハードでした。15時~27時まで。その分、給料も悪くはなかったです。もっとも、いろんな店を食べ歩きますから、それなりのコストもかかります。ただ、食べ歩くことで、気づきも多く、参考にさせていただくことも少なくありません。マーケティングリサーチは、飲食にとっても大事なことだと思っています。もちろん、今もつづけています」。
<独立志向はなかったんですか?>
「独立は頭になかったですね。 FIに入社したのも、じつは、知り合いに勧められて、『ヒゲを剃らんでいいし』くらいの理由で。ほかの社長さんがおっしゃっているような立派なモチベーションはありません。何もかもゼロからのスタートです(笑)。ただ、そんなええ加減なやつを評価して、育ててもらって。飲食も、立派に好きになりました。だからだと思いますが、社長(現会長)の影響が大きく、いっしょにFIを大きくしたいという思いだけで、突っ走ってきたって感じです」。
<子会社の社長になると言うプランもなかった?>
「そうですね。『子会社をつくるから代表をしろ』って言われたのが、2014年。『まる勝 寺田町店』が最初の店です」。
「FIって会社はほかの外食企業さんと関わることが少なく、鎖国的な武闘派集団ってイメージだったんです。私自身もそうだったんですが。じつは、あることで知り合った同い年の経営者7人と会をつくって、今ではいろんな情報を共有しています」。
会の名称は「五十六(いそろく)会」。
「自然発生的にスタートしました。年齢もおなじですし、全員、飲食の経営者ですから、素直にいいことも悪いことも共有しやすいです」。

・・・続き

株式会社NFI 代表取締役 中谷俊文氏

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キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)   

株式会社UNI 代表取締役 岡本直也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社UNI 代表取締役 岡本直也氏登場。

本文より~

小学生の頃、子どもなりに飲食業に憧れを抱いていた。

国宝・姫路城で知られる兵庫県姫路市。山陽姫路駅から徒歩10分程、本町商店街に『アイスは別腹』という店がオープンした。2021年11月19日のことだ。このユニークな名で開業したのは、株式会社UNIの代表取締役で2024年4月、25歳になったばかりの岡本直也氏。
―“UNI”という社名の由来は……?
「比類のない、独特なという意味を持つ“UNIQUE”と、連結する、統合するという意味の“UNITE”の頭3文字からとり、個性的でユニーク、さらに面白い人たちと働きたいという意味を込めて命名しました」と岡本氏。
「生まれは兵庫県姫路市大津区で、姉が一人いますが、双子の兄弟なんです」。双子の兄の拓也氏は現在、株式会社SIROという会社を起業し『クレープは別腹』というクレープ専門の店舗を運営している。兄との関係は後述するが、基本的には兄弟の強みを活かしたといえなくもない。
「父親は従業員が20~30人ほどの製造業を経営しています。双子だからってことではないのでしょうが、よく兄弟喧嘩をしましたね。お互い意志が強いのか、よく衝突しました。そのたびに父親には叱られましたが……」。
―どんな教育方針だったのですか?
「特に厳しく育てられたわけではないです。ただ放任ではないのですが、『好きにやっていいよ』とは言われていました」。
考えようによっては、両親は“自立”“自律”して生きることを暗に教えてくれていたのかも知れない。そんな教育を施された直也氏、学生時代に起業した。
「幼い頃から料理、飲食が身近にありました。というのも、父方の母がお好み焼き屋を営んでいたのですが、よく“好きなもの、食べたいものを作っていいよ”と言われ、調理というか、飲食の虜になっていたんです。小学校の頃ですが、当時から飲食業に憧れてもいました」。
「食に関する興味があったので、高校卒業後に食に関する幅広い知識、スキルを身に付けようと大手前大学 の健康栄養学部管理栄養学科に進学しました。2017年のことです」。
学びの意欲を抱え入学した大学時代、思いもよらぬ、回避することもできない事態、不測の出来事に遭遇した。新型コロナの流行だった。

新型コロナ禍。逆風だったから思い切ることができたかも。

「大学2回生のとき、2019年ですが、新型コロナが流行しました。得体の知れない感染症で収束が見えず、社会の動きや経済活動が停滞したのですが、その動きに合わせるように学校は休校に、アルバイト先も休業になり、一人で考える時間が増えました」。
休校、休業という不都合な状況だったが、その一方で“思考する”という時間が持てたことは、有意義な時間でもあったことだろう。
「将来、飲食店を開きたいと思っていたので、この“空き時間”を利用し、起業できないかと調べ始めました」。
「親の教育なのかどうか、学生時代から自身の才覚で稼ぐことが多かったこともありましたし、調べたり、考えたりした結果、“やりたいことをやろう!”と決断して在学中でしたが淡路島でカフェを開業したんです。この時が飲食業のスタートになりますね」。
-学生生活を送りながらカフェを運営することに支障はなかったのですか?
「当時、大阪に住んでいたのですが、再開した授業がオンラインでしたから通う必要はなく、 別の場所でも授業を受けることが可能でした。であれば淡路島で出店してみようと考えました」。
―開業に要した費用は、どのように工面されたのですか?
「総額で200万円ほど。半額は用意できましたが、残り半額は父からの援助で賄いました」。
―どのようなお店でした?
「スイーツからランチまで、幅広い料理を提供するお店です。意欲はありましたが知識もコネもないゼロからの状態で、内装やメニューまですべて僕が考えました」。
―業績は?
「ところがオープンはしたものの、新型コロナの影響は深刻でした。開業して間もない頃は、お客さんが来ませんでしたから……。学生時代、大阪でグルメ・インフルエンサーのようなことをしていてフォロワーもいたものですから、それなりにお客さんが来ると思ったのですが……」。
ただ、手をこまねいていても好転するわけではないので、メニューの内容など改善していくうちに、徐々に来客が増えるようになったという。夏が訪れた。
「夏に向かってアイスを作ったところ、お客さんが増えたんです。季節的にもマッチしたのか評判になり、“これならイケるっ!”と確信が生まれ、自信のあることに特化しようと決断したんです。それが、“アイス”でした」。
『アイスは別腹』の誕生だ。

双子だから尊敬し合うし、苦労も乗り越えられると思った。

淡路島での経験を踏まえ開業した『アイスは別腹』。開業にあたって岡本氏は、現在、株式会社SIROの代表を務める双子の兄、拓也氏に協力を仰いだ。
 「兄は兄で独自の仕事をしていたのですが、“姫路でお店を始めるので一緒にやらないか”と誘いました。兄からは“店舗経営は素人だけれど、お店以外のこと、サイトを作ったり、SNSで集客したり、そういった面でサポートできるから協力できるよ”と返事がありスタートしました」。
そもそも双子経営って珍しく話題になることを目論んでいたし、二人で力を合わせれば成功するという自信もあったという。
「お互いがお互いの能力を尊敬していましたし、何があっても二人なら乗り越えて行けるという確信がありました」。
「父に打ち明けたとき、“とにかく喧嘩はするなよ”と、笑いながらですが釘を刺されました。幼い頃、よ~く喧嘩していましたからね」。ただ、喧嘩はすれど強い味方であることに変わりはない。でも、喧嘩は避けられない。
「どんなに仲が良くても他人ならどこかに遠慮があると思うんです。ところが身内、双子の兄弟となると話は別で容赦しないですから、必要以上に争ってしまうことも分かったんです。喧嘩というほどではなくても言い合いはしょっちゅうでした。だからこそ、最高のものができると……。ある意味では強みですね」。
「メニューひとつ決めるのさえ簡単じゃなかったですね。最大に意見が違ったのは『アイスは別腹』という店名です。兄には兄なりのイメージがあったのでしょう、“そんな店名にするんなら、一緒にはできない”と言われましたが、僕としても譲れない」。
―とは言え、かなり珍しい店名だと思うのですが……。
「どちらかと言えば、直感で閃いた名でしたが、インパクトがあるし、印象に残るだろうと思いました。そんなこんなで“絶対に成功するから”と口説き落としました」。兄と侃々諤々のバトルを繰り返し、紆余曲折を経て2021年11月、無事に開業。
「順調にTakeOffすることができました。新型コロナ禍だったからテイクアウトできるものを考え提供し、それがお客さんのニーズにマッチしたのだろうし、コンビニ感覚で寄れる店でしたし……。振り返ってみれば成功だったと思いますね。予想以上にね。もちろん、『アイスは別腹』とい店名の訴求力とでも言うのか、好意的に受け取られたと思いますよ」。
メニューも豊富で、定番商品、こどもあいす、大人の深酔いパフェなど多彩で、新商品の開発にも余念はない。
「地元の食材を使うなど、地元が潤い、産業が盛り上がればいいかな、と思っています。スタッフはほぼ同世代で、1店舗10~20人ほどで運営しています。運営にはそれぞれ細かなマニュアルがあり、就業前に本部で研修を受けることになっています」。
2021年11月の開業から2年半ほど(取材時)にしかならないが、商いは順調に推移し店舗数も増えているようだ。
「現在、直営店とFC店を合わせて全国で20店舗展開しています。仕事の内容はマニュアル化されていて誰でもが取り組める仕組みになっていますから、FC店運営は未経験でも可能です」。

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株式会社UNI 代表取締役 岡本直也氏

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2024年7月22日月曜日

7月19日(金)更新のフードリンクニュースで取り上げていただきました。

7月19日(金)更新のフードリンクニュースで取り上げていただきました。

「外食経営者の”生き様”エピソードにスポットを当てたドキュメントコラム「飲食の戦士たち」が、連載1,000回を達成。衰えを知らないキイストン代表の細見氏にインタビュー
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

株式会社サムライフードカンパニー 代表取締役 高城直弥氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社サムライフードカンパニー 代表取締役 高城直弥氏登場。

本文より~

お母さまがつくったお菓子の、効力。

お母様の影響もあって料理人に興味をもったというのは、今回、ご登場いただいたサムライフードカンパニーの代表、高城さん。うちにたんぼがあったから、兼業農家のようなものだったという。
「母親は私が小さい時からお菓子とかをつくってくれていたんです」。高城さんも、わからないながら、手伝っていたそうだ。それが、最初のクッキング。
「料理人になろうと真剣に思ったのは、高校3年の時で、あべの辻調理師専門学校に進みます。上京したのは、そのあと。東京のほうが最先端の料理が勉強できるだろうし、寮もあるにちがいないと思って」。
専門学校を卒業した舞浜の「シェラトン」に就職し、合計で2年くらい勤務している。「そのあとに、アルポルトという町場のイタリアンに転職します」。
ところで、高城さんは、運動神経もいい。小学生の時は陸上、中学は陸上部はなかったのでバレー部に入り、高校までつづけているが、小6・中1の時には100メートル走で県大会で3位に入賞している。
とにかく、快速ランナーだった。

アフリカ、南アフリカ、ケニア、南米、ピースボートで地球2周半。

「人生のトビラが開けたのは、イタリア旅行です。ともだちと料理の勉強をかねてイタリアをめぐっていました。そのとき、ローマのレストランで話しかけた日本人がピースボートのシェフで、まさかのホテルもおなじだったんです。今もお付き合いがあるんですが、とにかく意気投合して、私もピースボートに乗り、世界を旅することになります。旅するといってもピースボートでは料理人として勤務します」。
世界一周船の旅。乗務員をあわせ、800~1000人くらいが乗船するそうだ。「半分は若い子で、残りは、おじいちゃんとおばあちゃん。クルーは外国人だったので英語も勉強できました」。
なんでも100日で世界を1周するそうだ。高城さんは、1年間で、地球を2週半している。
「豪華客船とはちがって、主にアフリカ、南アフリカ、ケニア、南米など貧民国も回るんです。ケープタウンで、いっしょに船ではたらいている乗務員と、タクシーで観光していたとき、黒人のドライバーがスラム街の黒人居住地に連れていってくれたんです」。
窓は開けるな、写真は撮るなと、くぎを刺されたそうだ。
「南アフリカっていったらアフリカで唯一、道路がアスファルトで舗装されている国だったんですが、シティから一歩外にでると、まるで異なった世界が広がっていました」。
アフリカでも、南米でも、どこにいても、ストリートチルドレンたちがいた。
「あのとき、ふと、想像したんです。日本とはたぶん環境がぜんぜんちがうこの国で生まれた彼らは、生まれたときに人生のてっぺんが決まってしまっているのかもしれないって」。
「日本人に生まれたことが、無性にラッキーに思えた」と言っている。

「世田谷バル」オープンと、恩人の大家さん。

「ワインを飲むのは、世田谷区民だって勝手にイメージしていて。当時の彼女、あ、今の奥さんですが、彼女がみつけてくれたんです」。
今度は物件探しの旅。初日は京王線沿線を歩いて、翌日は小田急線に乗って、世田谷、代田から歩いて環七にでる。バス通りを歩いてるときに当時の彼女、今の奥様が、あれは?とつぶやいた。
「4坪で4万円。すぐに話を聞きに行きました。最初は、飲食はダメって断られたんですが、料理の盛り合わせと簡単な事業計画書を持って行って、『家賃も払えなかったら昼間アルバイトをして払います』と頭を下げたら、『気に入ったわ』っておっしゃっていただいて許可してもらいました。むちゃくちゃありがたい話です」。
内装は手作り。電気やガスは知り合いに頼んで、200万円しかかかっていない、と笑う。
<いかがでした?>
「バルブームの走りだった。そういう意味ではタイミングもよかったんでしょうね。雑誌に取り上げられたバルもみにいきました。すごいなと思ったんですが、ぜんぜん負けてないというのが正直な気持ちでした。オレなら500円でワインも、食事もだせる」。
ワンコインで、ワインが飲めて旨い料理が食べられる。ヒットしないほうが、おかしい。「5杯どり」という、独自のシステムも考案したそうだ。
「周りには、年配の方も多く、かわいがってもらった」と微笑む。「料理王国」の取材が来て、取材時のノウハウを教えてくれる。
「それから、東京カレンダーやハナコをはじめ、いろんな雑誌の取材が入るようになり、大繁盛します」。
高城さんはホームページに「週末には足の踏み場もないほどの客で埋まった」と表現している。しかし、人気になると問題も浮上する。なにしろ、何もない住宅街。
「そりゃそうですよね。繁盛すればするほど『うるさい』と苦情が入るんです。大家さんにもクレームが入っていたにちがいありません。ある日、夜の12時を回ってもお客さんでにぎわっていて。やばいな、と思っていたら、案の定、大家さん、80歳くらいのおばあちゃんなんですが、向かいから様子をみていたんです」。
すぐに謝りにいったそうだ。すると、おばあさんの口から江戸っ子のような気っぷのいい一言が、でてきた。「まだ宵の口じゃない、まだまだやりなさい」。
恩人と高城さんは、言っている。ひょっとすれば、だれより高城さんの応援団だったのかもしれない。そして、その応援団の一言に高城さんは、どれほど勇気づけられたことだろう。
ちなみに、この物件をみつけてくれた天使のような奥様とは、25歳からの付き合いだったそう。「ピースボートの時のお客さん」といって笑う。いっしょに物件を探したのは、28歳の時。28歳で独立し、29歳の時に結婚、2人の娘さんがいる。

渋谷のつぎは、福岡だ。

2号店は、渋谷駅すぐにかかわらず8坪15万円。これが、2024年で14年目になる「リゾットカレースタンダード」。
じつは、高城さん。2017年には、福岡に15坪35席の店舗を出店している。
「うちが、近江黒鶏を使った地鶏料理をメインにしていたからだと思うんですが、九州の人が視察に来ることが多くて、むこうは、ホラ、鶏文化でしょ。その文化に、私も興味があって、ぎゃくに福岡を偵察してやろうと」。
お客様から、福岡の経営者を紹介してもらった。「行ったら、もうみなさんいい人ばかり。コネクションも一発でできました」と高らかに笑う。
じつは、この笑い声が人を魅了する。取材の受け答えも明確。雑誌社のライターも、つい、高城さんが経営する店を取り上げたくなるにちがいない。経営者同士のつながりもつよい。「世田谷バル」での話だが、思いも寄らないような著名な人が数多くいらっしゃったそうだ。
福岡でも、多くの方々が支援してくれたそう。
<それが「かしわビストロ バンバン今泉店」ですね?>
「そうです。みなさんが応援してくれたおかげで、オープン当初はバーンといったんですが」。
<想定外だったんですか?>
「そうなんです。当初は月商を700~800万円と設定していたんですが、最初だけで、ガクンと落ちちゃって、結局初月が、300万円くらいで、、」。
「福岡は、鶏文化ってことを思い知らされました。安い店も多かったですしね。味はいいとしても、かっこつけすぎで入りにくい。そういう声も聞こえてきました」。
毎月、ショートか、ギリギリの低空飛行。コロナが追い打ちをかける。高城さんは、舌を噛む。いままで味わったことのない経験だ。どうなっていくんだろう。

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株式会社サムライフードカンパニー 代表取締役 高城直弥氏

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株式会社DAN 代表取締役 畑中 尚氏登場。

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本文より~

善意から生まれた縁。

お父様とお母様の馴れ初めは?と尋ねると、少し長くとなると前置きしたうえで…
「母方の祖母が詩吟の先生だったんです。祖母も、母も北海道で、札幌出身です。その日、祖母は東京に来たらしくて。荷物には詩吟の道具などが入っていたそうです」。
重そうに荷物を持つ高齢の女性をみかねて1人の青年が近づく。
「そうなんです。父が祖母の荷物を持ってて。それが縁で、うちの娘を紹介するという話になったそうです(笑)」。
まるで、ドラマのような話。
「その時、母は札幌でいくつかの事業をしていたそうなんですが、それが縁となって事業で貯めたお金をもって東京にでて父と暮らすようになったそうです」。
父親は韓国済州島出身。26歳のときに、単身来日されている。一つの荷物を持ったことがきっかけで縁が結ばれたという素敵な話。
もちろん、そのお二人のご子息が、今回ご登場いただいた株式会社DANの代表取締役、畑中尚さん。1989年11月11日生まれ。

ランチをやめる→給料5万円ダウン。どうする?

畑中さんが育ったのは東京の綾瀬。子どもの頃からムードメーカー。スポーツは陸上で、中学生の時は短距離と投擲の選手だったらしい。
高校は校舎がリニューアルされたばかりの学校へ。
「リニューアルされたばかりの校舎に惹かれ、進学しました。ただ、学校で勉強したというより、1年生から飲食でバイトばかりしていました。中華料理店などでホールの仕事です。学校とは違って、こちらは楽しかったです」。
「大学にも行くには行った」と笑う。
「進学するつもりはなかったんですが、父が『行け、行け』と煩かったもんですから」。
仕方なく浪人して、帝京大学に進んだそう。
「大学に行くなら小学校の先生になろうと思っていましたから、教育学部に進みます。でも、結局2年で辞めてしまいます」。
「大学生になってからも飲食店でアルバイトしていたんですが、またまた、そちらのほうがはるかに楽しくて。勉強にも身が入らず、ずるずると2年間通って、もういいかな、と」。
飲食店の給料はランチも、ディナーも働いて月25万円。悪くはなかったが、ランチはやめるとオーナーが言いだし、給料が20万円になる。
5万円の差はバカにはならない。どうする?

ラッキーボーイ。

「たぶん、選択肢は色々あったと思いますが、私の場合は、じゃあ独立するか、と(笑)。父も母も商売をしていましたから、そのDNAを引き継いでいたんでしょうね。それに若かったから、大胆に行動できたんだと思います。もっとも父も母もやめておけ、と心配していたようです」。
父母のアドバイスを頭に入れつつも、畑中さんは22歳の時、綾瀬で串カツ店をオープンする。
「綾瀬には友だちがたくさんいますからね。みんなのたまり場になればいいな、って」。
大胆かつ、軽いノリ。だが、狙い通り。たまり場になり、繁盛する。
「基本はワンオペだったんですが、妹や雀荘の友人が無償で手伝ってくれたりして。内装も出世払いで、その道のプロが手伝ってくれました」。
開業資金は?とうかがうと、「父親が大学進学のために用意してくれていた150万円と、パチンコで儲けた70万円と」との回答。
ギャンブルで儲けたお金も投入された、その結果は、初月から100万円近く利益が残ったらしい。ラッキーボーイ。畑中さんも、「私は運がいい」と笑う。
もちろん、俯瞰すれば運だけではないことが明らか。畑中さんをサポートしてやろうというネットワークがあったからこそ。かつてのムードメーカーは飲食店のオーナーとなって、みんなの真ん中で、笑い、しゃべり、青春の1ページを飾ることになる。

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株式会社DAN 代表取締役 畑中 尚氏

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2024年7月16日火曜日

株式会社元天コーポレーション 代表取締役社長 水野起業氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社元天コーポレーション 代表取締役社長 水野起業氏登場。

本文より~

看板メニューはネギ蛸。

たこ焼きは、旨くて、定番。だから、浮き沈みがない。むかしはソース味だけだったが、今は、しょうゆ、マヨネーズ、ポン酢、塩と、進化している。
ねぎと蛸。たこ焼きの主要なパーツは、やはり、このふたつ。ねぎは、彩りにもいい。「だったら、ねぎをあとから、ふりかけたらインパクトもあって、ええんちゃう?」。
青々したねぎが、たこ焼きにたっぷり散りばめられる。
「乗せ放題にしとったからね。ねぎをいっぱい仕入れて、最初は店で切っとんたんです。そりゃ、たいへん。評判になって、切る時間もなくなって(笑)」。
今ではねぎがトッピングされたタイプのたこ焼きもめずらしくない。
「絶対とは言えませんが、あれを最初に始めたのは、たぶん、私。もともと素人やから、できたんちゃうかなと思っています(笑)」。
たしかに、ねぎのトッピングは、異次元の進化。
今では、このスタイルも定番のひとつになっている。
「うちは、この『ねぎ蛸』が看板メニューです。ほかになかったからインパクトもあったんですが、いまは『ねぎかかっているだけやん!』みたいな(笑)」。
「それだけちゃうで、うちは、といいたいんですが」。
その後も、笑いながら、いろいろな話をうかがった。
社名の話になると、「中国の会社と間違われます」と、こちらの笑いを誘ってくる。さすが、関西人。で、「それだけちゃうで、うちは」のつづきはこうなる。
水は電解還元水、小麦とネギはもちろん、国産。主役の蛸は、新鮮な生蛸。「生の蛸をつかっているのは、めずらしいです。こっちのほうが断然、うまいんです」。
ただし、材料を厳選するぶん、原価が高くなる。「みなさん、粉もんやから、利益率が高いと思ったはるでしょ。でもね、うちみたいに水からこだわっていたら、原価は、想像以上に、高いんです。でも、そのぶん、おいしいって、いうてくれはるからね」。
関西弁が、耳にここちいい。飾らない人柄が、声にのってやってくる。さて、遅くなったが、今回は、「ねぎ蛸」が旨い、元天コーポレーションの代表、水野さんにご登場いただいた。

12歳から、働く人生。

「ちっちゃい頃は、おやじが商売をしとったんです。従業員も10人くらい抱えていましたから、ええ時もあったんでしょうね。でも、私が小学生にあがってから倒産して、両親は離婚。兄妹は、姉と弟の3人。みんなで母親についていって、ちっちゃいアパートで生活します」。
アパートがあったのは、「今里」。大阪のなかでも、ディープな街の一つ。
「なんでかしらんけど、今里だけ物価が安い。私は、中学から新聞配達を始めるんですが、今里はバイト代も安かった(笑)」。
新聞配達は、朝5時から。ねむい目をこすりながら、走り出す。
「勉強は、アホやなかったけど、『できる』ほうでもなかった。ただ、スポーツはできた。小学生の頃は今でいうボーイズリーグで野球をしていました。ピッチャーで6番。けっこう強いチームで、甲子園にでた仲間もいます。私もそれなりやったんですが、何しろ金がない。私学の強豪にいかんと、プロにはなれへん。だから、ふつうの公立に行って、バイト1本です」、
好きな野球と離れ、どんな思いで朝の町を走っていたんだろうか。
「あのね、大人になってもそうなんですが、苦労を苦労と思わない性格なんです。鈍感いうたら、そうなんでしょうが、母親の苦労をみていましたから」。
バイト代は、月2万円。うち1万円を母親に渡した。
「残り? 残りはあそんでたんやろね」。月1万円、中学生にしたら大金だ。ちなみに、水野さん。「12歳から、働く人生」と言っている。

となりは、6坪のたこ焼き屋さん。

高校に進学してからも、もちろん、「働く人生」は続く。
「学校が終わって、夕方5時から晩の10時まで喫茶店で仕事をしていました」。時給600円。1日3000円。30日働けば、けっこうな額になる。
子どもが大きくなるにつれ、お母様も、楽になっていかれたことだろう。
「それは、どうでしょうね。少しは楽になったんかな。母から、弱音を聞いたこともない。だから、ようわからんですね。自分で仕事をしとったから。真面目な人で、私ら兄妹にも『人の3倍働かな、あかん』っていっていました」。
小学生のボーイズリーグ時代の話。
「最後の試合だけ観に来てくれた」という。大好きな息子が投げる豪速球を、お母様は、どんな風に観ておられたんだろうか。
高校を卒業した息子は、さらに遠い存在になっていく。
「ゲーム喫茶を経営している会社に就職します。当時で月給23万円。むちゃくちゃ高い。せやけど、さすがにちょっとやばいんちゃうかって思うようになって。給料と、天秤にかけたんですけど、やっぱり、やばいと逃げ出します」。
<それから、どうしました?>
「25歳で独立するまで、職を転々としました。営業職が多かったですね。最初に起業したのは、ゴルフ会員権を売買する仕事です。これを、13年続けます」。
ちょうど、バブルの頃、さぞ儲かっただろうと思ってうかがうと。「波にのれんかった」と笑う。なんでも、お金がなかったから、大きなビジネスはできなかったらしい。
「でもね。会員権を買い取って、おっきな仕事しとった会社は、みんなつぶれました。私らは、そのぶん、長く仕事ができたと思っています。まぁ、長くは続けたけど、借金もできて、また、新聞配達からやり直さなあかんようになってしまうんですが」。
新聞配達ではなく、縁があって、フードコートの飲食店を委託されることになる。「ラーメンから丼まで、なんでもある30坪の、わりと大きなショップです。その隣にあったのが、たこ焼き屋だったんです」。
たこ焼き屋は6坪。だが、やたら儲かっている。

・・・続き

株式会社元天コーポレーション 代表取締役社長 水野起業氏

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