2024年3月19日火曜日

株式会社バリューテーブル 代表取締役社長 佐藤光彦氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社バリューテーブル 代表取締役社長 佐藤光彦氏登場。

本文より~

氷川丸、船上のビアガーデン。

ハレの日は、ファミリーレストランにでかけた。「外食の記憶っていったらそれくらいですね」と子どもの頃の記憶を探る佐藤さん。株式会社バリューテーブルの代表取締役社長である。
「小さな頃はやんちゃなタイプでした。べんきょうは好きじゃなかった。高校は私立なんですが、試験が2教科だけだったので(笑)」。
50人のクラスが20クラスあったというから、マンモス校。卒業生には、人気タレントの、あの出川さんもいらっしゃるそうだ。「インパルス堤下は同級生」と笑う。
残念だったのは、男子校だったこと。だからではないが、高校の夏から、舞台は飲食に移る。
「高校1年の夏に、ともだちと『バイトしよう』ってことになって、氷川丸のビアガーデンではたらき始めます」。
氷川丸は、山下公園に係留保存されており、夏になると、船上ビアガーデンがオープンする。
「これが、私にとって飲食との出会いです。ビアガーデンは夏だけなんですが、評価していただて夏が終わってからも、土・日だけバイトをさせていただきます」。
横浜、育ちは、バイト先もおしゃれだ。
「3年になってから、ちょっとちがったバイトも経験してみようと、コンビニでもバイトをしますが、氷川丸でサービス業の楽しさを刷り込まれたんでしょうね。大学じゃなくて、日本ホテルスクールという専門学校に進学します」。

シアトルのBARと、バーテンダーと。

日本ホテルスクールのホームページをみると、日本で唯一ホテルがつくった学校で、「国際感覚と英語をのばす」とあった。
「通常は2年で卒業なんですが、私は1年間、海外留学に行くコースに入ります」。
計3年。もちろん、印象に残っているのは、海外留学。
「アメリカのワシントン州シアトルにいきます。日本でいうと北海道と緯度がいっしょですから、寒いですね。ホームステイです。アメリカは、刺激的でした」。
ある日、ホームステイ先のアメリカ人にBARに連れていかれる。カウンターの向こうで、客と会話し、左右に動く。シェーカーをふり、カクテルをつくる。そんなバーテンダーの姿に、魅了されたという。
「今でも、目に浮かびますね。ホテルスクールなんで、基本は、ホテルに就職するのが既定路線なのですが、私はBARで仕事をしたいと、そちらに進みます。もちろん、明確なビジョンがあったわけじゃありません」。
帰国して、山下公園ちかくのBARでアルバイトを開始する。学校はあと1年。
「週末になると、横須賀のネイビーたちも来るようなBARでしたね」。BARと言っても100人くらい収容できるスケールだったらしい。
「実は、銀座のBARを希望していたんですが、色々あって、邪魔くせぇと思って、ふだん行かないパチンコに行くんです」。
10万円、勝ったらしい。
「こりゃ、すげぇ、と、ともだちを誘って、当時まだ20だったので、その年代がいくようなBARじゃなかったんですが、気が大きくなって(笑)」。
<それで運命の扉が開く?>
「そうですね。酒の勢いもあったんでしょうね。スタッフに仕事したいというと、親切な人で、オーナーにつないでくれたんです」。
「上質というより、やんちゃなBARだった」と佐藤さん。20歳の少年にとってはアメリカでみたBAR同様、キラキラしていたのではないだろうか。
「楽しかったですね。日本のBARも、アメリカに負けてはいません。客層も、さっき言ったようにネイビーたちも来る。人種も、語学も、一様ではない。そういう世界観にも魅了されていきます。もっとも当時は、将来の思いも漠然としたもので、学校を卒業してからも、流されるようにそちらでバイトをつづけます」。
シェイカーをふる。客と会話する。グラスをみがく。カウンターのなかを自在に動く。人脈もできる。「色々な出会いがあり、付き合いも広がっていきます。ちがうBARでもバイトをしたりして。本牧にあった、焼酎バーも印象に残っています。自分で焼き鳥を焼くんです。もう、こちらもなくなっているんですが」。
氷川丸からスタートした、飲食人生。ここまでが、第一章。

25歳のビジョン。

「25歳の頃ですね。このくらいになって初めて、将来を真剣に考えるようになりました。飲食は楽しい。だから、この道を進むと決めていたんですが、楽しいだけでは将来がちゃんと描けない。とくに、数字ですね。経営に関することもいる、と薄々感じていたんですが、おざなりになっていました」。
漠然としていた将来像が、焦点を結び始める。
「それで、一念発起して、東京の飲食店で仕事をしようと一人暮らしを始めます」。
横浜生まれの佐藤さんにとっても、東京はキラキラしていたそうだ。そして、当時まだベンチャーだった会社のトビラを叩く。
「実は、そちらは3日でやめているんです(笑)」。ベンチャーで、体制がまだ整っていなかった、と笑う。
<そのあと、どうされたんですか?>
「飲食人生の第二幕があがるはずだったんですが、いったん、ちがう道に進もうかな、と。ただ、もう、ちがう道というのも、たいへんでしょ。それで、ワンダーテーブルに転職します。こちらは2年。これは計画通りです」。
面接で「2年で辞める」と、言ったそうだ。つまり、2年で独立するということ。
「ワンダーテーブルさんで、P/Lなどの数値も勉強できました。それで26歳の時ですね。退職し、1年間、物件探しを始めます」。
もちろん、物件探しも、事業計画書作りも初めて。
「結婚もしていたのですが、1年間、奥さんといっしょに私の実家で生活をします。何しろ、お金を遣いたくなかったので。奥さんには、感謝ですね」。
公庫にも借り、父親にも援助してもらい、27歳でイタリアンカフェをオープンする。
「横浜から3駅いったところに南太田っていう駅があって、住宅街なんですが、そちらで創業します。ほぼスケルトンからなんですが、ともだちにサポートしてもらったので、比較的、安く、オープンできたと思います」。
13坪18席、初期投資1000万円。
「いまウルフギャングで料理長をしているやつがいて。由比ヶ浜のダイニングで知り合ったのですが、彼をさそってスタートします。ただ、1年半くらいで海外にいっちゃったので、そのあとは私が料理をつくっていました」。
<いかがでした?>
「業績は、想定通りでした」。
<つまり、悪いわけではないが、特別、いいわけでもない?>
「そうですね。地域密着で、食べるのに困るようなことはなかったんですが、このままつづけても、物足りないと思うようになって。実は、3年目の更新の時に、クローズしてしまうんです」。
<それはもったいない!>
「ただ、まだ若かったですし。当時、スペインバルが流行りだしていたんです。もともと私の飲食人生は、BARに憧れてスタートしていますから、そちらをやってみたいな、と」。
<それでクリエイト・レストランツですか?>
「そうです。ちょうど30歳の時ですね。まだ、岡本さんが社長だった頃で、今、思うと、まだまだ始まりの頃でしたね。こちらで8年間、修業させていただきます」。
私が今あるのは、クリエイト・レストランツのおかげ、と佐藤さんは言う。濃密な8年間だった。ネットワークも広がる。しかし、本格的な葛藤ははここからスタートする。

・・・続き

株式会社バリューテーブル 代表取締役社長 佐藤光彦氏

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株式会社ハイデイ日高 代表取締役会長(執行役員会長) 神田 正氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ハイデイ日高 代表取締役会長(執行役員会長) 神田 正氏登場。

本文より~

高萩村いちばんの、

1941年2月20日生まれで、現在83歳になる。
「村いちばんの貧乏で、住む家もなくってさ。親戚の家を転々としていたから、じつは出身地も正確にわからない」という。
ただ、会長が村というのは高萩村で間違いなさそう。ウイキペディアで調べると「高萩村(たかはぎむら)は、かつて埼玉県入間郡に存在した村」とある。日高市の東部と言えば、およそ位置が想像できる人もいるだろう。
会長は4人兄弟の長男。「兄弟全員、中卒」と、苦笑する。戦争で負傷したお父様に代わって、お母様がゴルフのキャディをして兄弟四人を育てられている。
母を真似て、長男の会長もキャディのバイトをした。
キャディをしたおかげで、人間をみる目ができたらしい。
「だって、朝初めて会った人と4時間もいっしょにいて、その人たちの様子を観て、どうしたらいいかを判断するんだよ。チップをくれるかどうかも、大事だからね」と笑う。
人生初のコーラは、アメリカ人のお客さんからいただいた気の利いたチップだったらしい。
1941年生まれだから、中学生になっても戦争の跡は残っている。戦闘機の格納庫だったところで勉強したこともあるそうだ。そういう話を聞くと、思い浮かんでいた映像が、とたんにモノクロになった。

職を転々と。

「とにかく、お金がないから、早くはたらかないといけない。だから、中学を卒業して、就職します」。県をまたぎ、板橋区にあった小さな工場に向かった。面接に行くにも、電車はつかわない。お父様と、自転車を漕いで向かったそう。
「3時間はかかったんじゃないかな」と笑う。
お父様にも苦労をかけて就職したが、1ヵ月後、会長は実家にいた。
「住み込みだったんだけどさ。実は、逃げだしてしまったんです」。今や大会社の会長といっても、当時は、まだまだ少年だ。
「つぎに就職したのは、ベアリングの工場です。時給15円」。こちらは、1年でリタイア。大手のメーカーに勤めて、バイクをつくったのは、そのあと。
「夜勤のアルバイトだったんですが、工場長から『正社員の試験を受けてみなさい』って勧めていただいて、学歴がないから受からないと思っていたら合格しちゃって。でも、どこか冷めていて、やっぱり飽きちゃうんです」。
仕事は転々としたが、だからと言って下を向いたことはない。
「転職は悪くない。だって、1度きりの人生でしょ。我慢して一つの仕事をつづけても、つまらないだけ。私は、色々な職を経験して正解だったと思っている」。
会長はニヤリと笑う。

オープンしたラーメン店は、1年でクローズする。

「ともだちが暇なんだったらラーメン店で仕事をしてみないかと誘ってくれたのが20歳の時。だから、20歳の時に初めてラーメン店で仕事をします」。
「それまでは?」とうかがうと、会長はつぎのようにいう。
「キャバレーのボーイってわかるかな? バーでもはたらいた。当時は、『水商売』って言ってね。イメージはよくなかったね」。
まだまだ青二才。仕事もそうつづかない。だが、今度は少し様子が異なった。
「ラーメンもそうだし、チャーハンもそう。みんなこちらで教えてもらいました。でも、それだけじゃなくって、ツケを、初めて知るんです」。
「ツケのからくりを知って、その頃から、キャッシュフローに目をつけていた」と会長はいう。現金ビジネスのストロングポイントを若いなりに見抜いたっていうことだろうか。
スーパーの警備員から声をかけられたのは、このラーメン店で働いいていた時。
「ラーメン店をやるから手伝ってくれないか」。
「向こうさんがお金をだして、店は私がきりもりします。ただ、ロケーションが悪くて、申し訳ないことに1年でクローズしちゃいました」。
会長の前に、大家さんがひょっこり現れたのは、その頃のこと。

キミが店をやらないか、天からの声。

「私らにしたら、大家さんなんて金持ちでしょ。だから、好きでもなかったんだ。挨拶だってろくにしない。だけど、どこかで、向こうは私の仕事をみてくれていたんだろうね。『店をやらないか』って誘ってくださったんです」。
青天の霹靂。
「そう、思ってもいなかったからね。ただ、いい話だけどさ。そもそもお金がない(笑)」。
「でね。正直に『お金がありません』って言ったら、大家さんがなんと保証人になって銀行からお金を借りてくださったんです。私が27歳で、大家さんが50歳くらいの時かな。でもさ、おんなじラーメンなんだから、私がオーナーになったって、急に流行るわけがない(笑)」。
リニューアルオープンしたものの、やはりうまくいかない。
「待っているだけじゃダメだ。デリバリーだね。それをやろうと思って。1人じゃ無理だから」。弟さんをスカウトされたそうだ。
「弟が、市役所に御用聞に行ってくれたりしてね」。
市役所からの注文は、日によってかわったが、「タンメン1杯」「チャーハン1つ」だったそう。売上は、タンメン1杯分、チャーハン1つ分だけ、改善した。
<弟さんと二人三脚ですね?>
「そうだよね。私ら兄弟はみんなそうだけど、さつまいもだけで、育ったからね。逆境にもつよいんだ。さつまいも1つあれば、食いつないでいける(笑)」。
その後、会長は深夜営業に活路をみいだし、売上は上昇。ただ、勧められるまま、始めたスナックが大失敗。「妹まで呼んだのに失敗したって噂が広がって。恥ずかしくなって。ラーメンもいっしょ辞めちゃいました」。

「来々軒」創業。

もちろん、これで幕が閉じるわけはない。第二ラウンドの幕があがる。いや、むしろこれが第一章の始まり。
<つぎにオープンしたのが、創業の「来々軒」ですね?>
「5坪の小さい店だったけど、大宮のちかくだから、ちかくに風俗店もあってね。デリバリーの注文もいただいて。でも、1人じゃできないでしょ。だから、さ」。
ふたたび、弟さんが、仕事を始める。
「今度はさ。お袋が弟に『やめておけ』って言っていたらしいです(笑)」。
<でも、来てくださったんですよね?>
「そう、兄弟のきずなですね。そこに、もう1人、ラーメンの修業をしたいという人がはいって、3人になる。そうなると、さすがにキツキツになって。で、来々軒2号店をオープンします」。
ちなみに、ラーメンの修業にきた高橋という青年が、のちに会長とともに社長を務めている。
「弟もいたんだけど、資金繰りからスタッフの募集まで、ぜんぶ私1人でやっていました。今でいう店舗開発も、仕事の一つです。ある日、初めて蕨駅に降りた時かな。貸店舗って貼り紙があって。最初はラーメンはだめだって言われたんだけど、ピンと来たから交渉してさ」。
「その店は今でも、やっている」と会長は笑う。
ところで、会長曰く、「当時は、ラーメン店が株式を公開するなんて、だれも思っちゃいなかった」そう。「だから、みんな独立するんだな。弟も、独立するって言ってたからね。でも、私は3人でやれば、絶対、大丈夫だって。絶対、時代はかわるからって」。
「『騙そうとしている』っていうからさ。大宮駅まで連れて行って。駅からでてくるサラリーマンを観察させます。どうだって。だれもが手ぶらだろって。昔は10人降りてきたら、3人は弁当をもっていたんです」。
<もってないとしたら? どこかで食べますよね?>
「そう、そういうこと。もうさ、時代は動いてたんだよ」。

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株式会社ハイデイ日高 代表取締役会長(執行役員会長) 神田 正氏

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2024年3月15日金曜日

「飲食の戦士たち」の社長取材は日々勉強。

何連載と「飲食の戦士たち」の社長取材をやってきてますが、いつも勉強させて頂いてます。

取材の場面は多くの人に聞かせたいな・・・。

「飲食の戦士たち」

「飲食の戦士たち」再現ドラマ版

戦略型総合人材採用会社キイストン

2024年3月13日水曜日

株式会社プレコフーズ 代表取締役 髙波幸夫氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社プレコフーズ 代表取締役 髙波幸夫氏登場。

本文より~

報酬は、30円。

「創業は私の両親です。私が生まれた時には、すでに創業していました。私の父は新潟生まれ。15歳で上京して、米軍基地でアルバイトしたあと20代の時に新宿にある鶏肉専門店に丁稚奉公に入り、鶏を解体する技術を修得します。母ともそちらで出会い、そして、2人して独立したそうです」。
父が24歳、母が21歳の時。
「母の実家は豪農で、ブドウや桃、プラム、スイカなどを育てる広大な畑をもっていました。私も、夏休みや冬休みになると、母の実家に行き、養豚場や養鶏場を走り回っていました。じつは、父が就職した鶏肉店の社長夫人の妹が母でした。独立した2人が大井町で『鳥利商店』を創業したのが、昭和30年。その3年後に長男の私が生まれます」。
髙波さんが生まれたのは1958年。当時の大井町は、どんな町だったんだろうか?
「ニコンが拠点を構え、その従業員が通勤する道が”光学通り”と呼ばれるほど、サラリーマンの町でした。創業当時は、私らが住む住居と合わせても8坪ほどの店だったそうです。両親ははたらき者で、朝は遅くても7時には仕事をはじめていました。夜の9時にご飯を食べて、またそこから11時くらいまで仕事をつづけていました」。
髙波さんを連れてどこかに行く時間もなかった。代わりに手伝いは子供の頃からさせられたそう。
「『30円やるからアルバイトしろ』と言われ、店頭で焼き鳥を焼いたり、少し大きくなると解体もさせられました」。
言うなら、これが親子のコミュニケーション。
「中学受験をして、暁星に進みます」。暁星といえば、むろん、名門。エリートの子どもたちが通う学校だ。もっとも、髙波さんの第一志望は麻布中学。こちらは不合格。
「麻布に行けなかったんで、私じゃなく、父がショックを受けます。私を麻布に入れて、東大に入れることが父の目標だったみたいです。だからか、大学受験の相談をした時「もうお前には諦めている」と言われました(笑)」。
もちろん、髙波さんにはどうすることもできない。暁星で青春を謳歌する。
念のため確認してみたが、ご本人は、東大をめざしたことはないそうだ。

渡米。

「一浪して、法政大学には入るんですが、3ヵ月で辞めてアメリカに行く準備を開始します。7月から営業の仕事を始め、8ヵ月はたらき160万円貯めて、海を渡りました」。
向かった先は、カリフォルニア州ロサンゼルス。
「アメリカに行く目的ですか? それはアメリカのビジネスをみたかったから。私が学生時代だった1970年代は、マクドナルドの日本1号店のオープンや、「アメリカンドリーム」という言葉がもてはやされたり、ビジネスと言えばアメリカでした。私も商人の子。本場アメリカのビジネスを自分の目で見てみたい、と思いました。父の跡を継ぐつもりは全くなかったんですが、いずれは自分で商売をしようと決めていたんです」。
出発3日前。父にアメリカに行くと告げた。「お前のことは諦めている」と言われたあの日から、親子の仲が悪くなり、どうせ反対され喧嘩するならその期間は短い方が良いと考えた。お父様は一言、「そんな行き方をするなら日本に帰ってくる所はないと思え」とおっしゃったそうだ。
誕生日の3日後にアメリカに向かったと言っているから、帰るところがなくなったのは、誕生日だったはずである。
「ロサンゼルスに友人のお母様がレストランを経営しており、そこで働かせてもらっていました。しかしそれでは、そのレストランのビジネスは分かっても、アメリカのビジネスは分からなかった。その時、もう一度学校に行く必要性を感じました。とはいえ、働きながら卒業できるほど甘くはありません。そこで、「日本に帰ってくるところはない」とまで言われた父に、その場しのぎで、『帰国したら家業を継ぐから、支援してほしい』と手紙を書きました。父はお金を工面してくれ学校に入学しました」。
「読み書きはできましたが、スピーキングやヒアリングがてんでできない。日本の英語学習のウイークポイントですね(笑)。向こうでは、ロングビーチにあるブルックスカレッジっていう2年制の大学に入るんですが、言葉がわからないから話すこともできません。それでも毎日睡眠時間は3時間で猛勉強し、1年後には、夢も英語でみるようになっていました」。
すっかり、アメリカに慣れた証。学校を好成績で卒業し、ニューヨークに2年。「当時のニューヨークは、ファッション、ビジネス、ミュージックすべてが街中にあふれていました」。
ウエイターや、リムジンのドライバーで生計を立てていたらしい。
「あの頃は、永住権を取って、アメリカ人になるつもりでした。物価は、当時からむちゃくちゃ高かったですね。西では、アパートにプールっていうのもふつうでしたが、東だと、それが許されるのは超金持ちだけです。当時私が暮らしていた街は、見るからに怖そうな人も多く、物騒な目にあったこともあります」。
日本の青年がアメリカで、アメリカンドリームにチャレンジする。その絵を想像すると、エールを送りたくなる。

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株式会社プレコフーズ 代表取締役 髙波幸夫氏

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株式会社傑さく 代表取締役社長 田中 傑氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社傑さく 代表取締役社長 田中 傑氏登場。

本文より~

コンビ名は「ヒキガエル」

浪人中、漫才コンビ「ヒキガエル」を結成する。「お笑いは、ぼくらが最初だったんですが、モデル事務所にスカウトされて。マネージャーもついたりして。テレビにも出演していました」。
今回ご登場いただいたのは、「株式会社傑さく」の代表取締役社長を務める田中傑さん。小・中・高とサッカーをつづけたサッカー少年。高校時代は、サッカーに熱中しすぎて、在学中から浪人を覚悟してボールを追いかけていたと笑う。ただ、その浪人期間も半年で終了。お笑いの道に進む。
「母は猛反対でした。そりゃ、お笑い芸人で食べていけるのか、親だったら心配になりますよね。相方のほうもそうでした。そのなかで父は比較的、がんばれっていってくれたように思います」。
「スカウトしていただいたのは、モデル事務所で、お笑いはぼくらが初めて。だから、マネジメントの方法も手探りだったんでしょうし、ぼくらもぼくらで、先輩がいないんで、どういう方向に進めばいいかわかんなかったんです。一般のお客様には、笑っていただきましたが、芸人からの評価はきびしかったように思います」。なんだかんだ2年くらいで、コンビを解散する。

解散したヒキガエルの、新たな道の始まり。

「千葉県の船橋にある焼肉店でアルバイトを始めます。これが、ほぼ23歳の時で、10年間こちらでお世話になりました。船橋では有名な焼肉店です」。
アルバイトからスタートし、3ヵ月で社員に昇格。のちに営業部長のような存在になるから、人生、わからない。
「10年間、こちらのお店で勉強させていただきました。今も感謝しています。私が入社した時は1店舗でしたが、退職するまで3店舗をオープンし、合計4店舗にすることができました。経営者のちかくで仕事をさせていただき、評価も頂戴しました。有名なコンサルティング会社もはいっていたもんですから、研修も多く、その点でも貴重な勉強ができたように思います。その焼肉店の経験を、今の会社の経営に活かしています」。
「小学生からサッカーをはじめて、中学でも、高校でも、それなりに評価され、高校の文化祭で笑いを取って、高校を卒業して、大学に進まず、漫才師になって。漫才だって、人気になるのは40くらいになってからでしょ。ぼくらは、さっさとあきらめちゃう。そういう軽い人生に、重みがくわわったのが、こちらでの10年だった気がします」。

日本学校開校。

「創業店は焼肉じゃなく、ラーメンです。市川塩浜に条件付きでしたが、1号店をオープンします。これが、33歳の時ですから2009年の11月です。2012年には東京の中央区に2号店をオープンします。以降、2015年までは1年に1店舗出店しています」。
3店舗目はイタリアン、4店舗目は馬肉専門店、5店舗になって焼肉店をはじめて開業。その一方で、2015年にはコンサルティング事業も開始している。
「外国人向けの日本語学校も開校しています。今は100人くらいの生徒がいます。主にフィリピンやネパール、モンゴル、スリランカなど東南アジアの子らが対象です」。
ホームページをひらくと、2018年に、フィリピンルソン島に株式会社フィリピンサンカルロス日本語学校を設立。韓国カンナム地区に株式会社コルチャを設立とある。
アイデアが浮かんでも、現実にするのはむずかしい。
「ぼくは、経営者というものはスタッフに対するやさしさ、思い遣りをもっているべきだと思います。じつは、日本語の学校も、ぼくの隣で仕事をしていた青年がきっかけなんです」。
ラーメン店のアルバイトの青年だ。
「海外から来たその青年は、日本語はたどたどしいし、日本についても知らない。でも、日本でがんばろうと来日したわけです。そういう青年は、ほかにもたくさんいるわけで、彼、彼女らをサポートするにはどうしたらいいかと、行きついたのが日本語学校だったんです」。
学校を卒業し、傑さくに入社してくれてもいい。もちろん、そうじゃない道も支援する。ちなみに、2016年には船橋市にらーめん学校を開校(のちに富里市七栄に移転)している。
これも志のある若者を支援するためだ。
実はこれだけではない。田中さんの思いは、様々な方向に広がっている。

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株式会社傑さく 代表取締役社長 田中 傑氏

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2024年3月7日木曜日

「焼肉ホルモンたけ田」の株式会社ミナモト 代表取締役 細田源太氏登場。

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本文より~

目立つ少年と幸運な出会い。

小学校の低学年から、とにかく目立つ少年だったそうだ。何より背が大きい。小学6年生で170センチを超えていたというからさぞ目立ったことだろう。
「目立つっていいことばかりじゃないんです。なにかあるとみんながこっちを見て、あいつがやったんだろうって。良いことをしてるつもりなのに、悪く言われたり、疑われたり」。
小学生高学年になってからはさすがにひねくれた時期もあったそうだ。それでも学校には通い続けた。
「暗黒期でしたね。でもどこかでちゃんとブレーキをかけてくれる人たちと出会うんです。友達もそうですし、先生たちもそう。今も感謝しています」。
やがてコンプレックスだった身長が、自信につながる。
「小学校の最後の数ヵ月で背がさらにのび、体型もスマートになったんです。なぜか足も早くなって、すこしいい意味で目立つようになりました笑」。
<では中学は順調に過ごしたんですか?>
「まだひねくれてましたね笑。でもそれを危ういと感じてくださったんでしょうね。入学当時から校長先生と担任の先生が、事あるごとに気にかけてくれて、自信をつけさせてくれて。そのおかげもあって楽しく過ごせるようになったように思います」。
<勉強のほうはどうだったんですか?>
「悪くないというか、いいほうでしたね。中学に上がると、相性の合う英語の先生がいて、英語の成績が爆上がりします」。
なんでも、全国模試で満点を取り、1位になったそう。
「今思い返せば、要所要所で、大事な人に出会っています。あの状態から悪い方に転がずにいられたのは、親身になって接してくれた人たちのおかげです」。
たくさんの出会いを経験して、細田少年は歩む道を探しはじめる。

一冊の本との出会い。

「当時、大学生をみて、大学に行く意味はないって決めつけていました。でも、だったら、どうすればいいかがわからない。17歳の時からが第二の暗黒期ですね」。
毎号、アントレプレナーを生み出す情報誌「アントレ」を読み、進む道を探していた。
「10代の頃から、社長になりたいと思っていました。いや、正確にいうと、求人誌をみても就職するハードルが高かったんですね。でも、事業を興せば、学歴がなくても社長にはなれますよね笑」。
フリーターをしながら、模索はつづく。
「21歳の時に、ある会社とフランチャイズ契約を結んで、はじめて事業をスタートします。アパートをオフィスにして。加盟金は50万円。でも、まったくシミュレーション通りにはいかないんです。言われた通りにやっても、だめで」。
どうしようもない。ただ、文句を言っても始まらない。
<それでどうしました?>
「実は、この時、本部の言う通りにしても業績が上がらないから、独自のスキームに改良します。同時に、あるマーケッターの本を読み、その通り実践します。すると、問合せが急増して、21歳で50~60万円はコンスタントに儲けられるようになります」。
<本との出会いにも救われたわけですね?>
「そうですね。うん、その通りです。この時、学んだマーケティングは、私のビジネスの背骨になっていきますからね」。
もともと頭がいい。アナログより、デジタル派。多少廻り道もしたが、根はまっすぐ。人にも、本にも、愛される要素をもっている。
「ただ、マーケティングはうまくいったんですが、仕組みづくりはできなかったですね。スタッフも採用しましたが、私しか売上を上げられない。教育を含め、事業の仕組みができていなかったんです」。
車のブローカーからスタートした事業は、飲食にも広がる。
「仕組みづくりができないなかで、もう一つの事業をはじめました」。
暗黒期は、乗り越えている。いったん、乗り越えればエネルギーは尽きない。広告代理店やデザイン会社もつくったそうだ。
「ただ、本格的に飲食を開始したのは、それから5年後の31歳になった時ですね。焼鳥屋をスタートします」。

株式会社ミナモト 代表取締役 細田源太氏

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株式会社ソムリエ 代表取締役 守川 敏氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ソムリエ 代表取締役 守川 敏氏登場。

本文より~

マンガ「六本木騎士ストーリー」の主人公。

「父親はエンジニア、母親は高校の教師」と、マンガ「六本木騎士ストーリー」の冒頭で、作者の弘兼憲史さんは主人公にそう言わせている。その主人公が、今回ご登場いただいた株式会社ソムリエ代表の守川さんだ。
「弘兼先生とはたまたまご縁があり、お願いしたところ快諾いただけたんです」と守川さん。守川さん自身、「まさか快諾いただけるとは思っていなかった」と笑う。
実は、弘兼さんと守川さんは、高校の先輩と後輩。学年は離れている。社会人になってから、校長先生の紹介で縁ができたそう。
作中、弘兼さんは、ある人物に「将来、この業界で、六本木の帝王になるかもしれん」と、語らせている。
では、「六本木騎士ストーリー」からはいったん離れ、いつも通り、守川さんを生い立ちから追いかけてみよう。六本木の夜が、リアルに浮かび上がる。

山口県岩国市。

守川さんは、1968年、山口県岩国市に生まれている。守川さん曰く、「米軍基地と、石油コンビナートの町」。父親は、石油コンビナートではたらくエンジニアだった。
岩国市は、山口県と広島県の境にある。年に1回、こどもの日に、米軍基地で子どもたちを招くイベントが行われたそうだ。守川さんも、ご両親に手をひかれ、航空ショーをみた。
青空は、少年時代の象徴だったのではないだろうか。
「小さな頃は、ごくふつうの少年です。小学校は野球、中学でバスケットボール。ただし、後者はタバコがみつかって、クビになってしまいました(笑)」。
ちなみに、中学から中・高一貫の有名な私立に通っている。タバコ1本で退部させられているから、校風がきびしかったのかもしれない。高校では教師の母が教鞭を取っていた。
「母がいる高校に進学するんですが、1年の2学期に、父の転勤があって、私たち一家は東京に移ります」。岩国と東京といえば、700キロメートル超、離れている。
「距離もそうですが、東京は、やっぱりちがう。高校生だって、ちゃんと仕事ができるんですから」。守川さんは、そういって目を細める。

16歳で新宿、17歳で六本木にデビュー。

転入したのは、都立調布南高校。
「ただ、学校には行ってない。もっぱらアルバイトです」。東京の高校に進んだ守川さんは、バイクが欲しくて、アルバイトを開始する。時給600円。「オープンの18時から、翌朝5時まではたらいた」と笑う。
16歳で新宿、17歳で六本木にデビューした。岩国では、タバコ1本で退部になったが、さすが東京はおおらかだ。無事、卒業。
もっとも高校は無事卒業したが、大学は3年で中退している。
「なんとか高校を卒業して、親戚のおばさんに諭されて、美容師になろうと決めるんですが、はたらいたその日にトンズラします(笑)」。
もちろん、許されるはずもない。だから、大学に行くといった。
「一浪して、なんとか日大の理工学部に進学することができました。偏差値36からですからね、相当、勉強したと思うんです」。
合格すれば、ミッション完了。「あとは、夜の世界へ、まっしぐらです(笑)」。
夜の世界を敬遠する人もいれば、ぎゃくに吸い寄せられる人もいる。
守川さんは、ネオンの下に吸い込まれた1人。
「私たちが大学生の時は、バブルに向かって日本が浮かれまくっていく頃です。私は、新宿の『ブスっ子くらぶ』でスカウトマン&ボーイとしてアルバイトを始めます」。
ネーミングが気になって、ググってみると、「ブスっ子くらぶ」はキャバクラのはしりだった。当時、女子大生がブランド化されていて、女子大生と話ができるというコンセプトが話題になったそう。「マスコミにも取り上げられた」と守川さんも言っている。
「私の仕事は、女の子のスカウトです。何も隠さず、スカウトしていったのがよかったのか、いい女の子が仕事をしてくれて、お店は大繁盛します」。
これが、1985年のこと。2年後の、1987年には、六本木の「わたりだこ」がオープン。守川さんは、弱冠21歳で、店長を務めることになる。

弱冠21歳、夜の六本木で、店長になる。

「オーナーに評価していただいて、店長に抜擢されます。でも、店長の仕事は、想像以上にたいへんでした」。
広い店内には、夜の街に選ばれた女性が、40人。統率することをイメージすると、「たいへん」という言葉がリアルな映像に置き換わる。
「当時は、六本木でいちばん繁盛していた」と、控えめな守川さんがいうくらいだから、これは事実だろう。守川さんの名も、六本木の世界に知れ渡る。
「名は多少、界隈で知れたと思います。ただ、毎日、なんらかのトラブルが起きる。そういう時代でしたし、それが六本木という街だったんでしょうね」。
客同士が揉める。
裏社会の人もいなくはない。
大人のシニカルな世界。芸能人も少なくない。お金がまかれれば、何かが動きだす。ケンカと、酒と女と。昼より明るい闇の世界の住人となった守川さんは、このあと、この街の主人公に、上り詰めていくことになる。
ここからの先の話は「六本木騎士ストーリー」を読んでいただいたほうがはるかにいいだろう。ただ、一つだけ。守川さんは、インタビューで、こうもらしている。
「ナイトビジネスを始めたきっかけはやはりお金です。父親がサラリーマンで、たいへんな思いをしていたので、サラリーマンにはなりたくないと思っていました。ただ、夜の仕事はいつかやめようと思っていました。でも、店長に抜擢いただいて、従業員もいるとなると、そう簡単には、さよならができません」。
一度、意を決して、大学に向かったことがある。
「もう一度、しっかりね、大学に行こうと、決意して。で、校門についてびっくりです。その日は、開校記念日でお休みだったんです(笑)」。
大学とは縁がなかったと、守川さん。校門で立ち尽くす、守川さんの姿を想像すると、笑ってばかりはいられない気がした。その日は、冬だったのだろうか、夏だったのだろうか。ネットに創立記念日は10月4日とあった。守川さんに取っては、夜の世界で生きると決めた記念日となる。

・・・続き

株式会社ソムリエ 代表取締役 守川 敏氏

マンガ「六本木騎士ストーリー」

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