2018年4月19日木曜日

株式会社創業新幹線 代表取締役 陳 建(Chin Ken)氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社創業新幹線 代表取締役 陳 建(Chin Ken)氏登場。
本文より~

どんぶり勘定が許された幸せな時代。

子供の頃、裕福な家庭だったそうだ。中国、福建省。今回、ご登場いただいた株式会社創業新幹線の陳 建(Chin Ken)氏は1976年12月21日、この福建省に生まれている。陳氏によれば、福建省は事業家が多く、海外に渡る人も多いエリアらしい。たしかに陳氏の父親も事業家だし、陳氏もまた日本に渡り、事業を興している。
「父親が経営していたのは食用油の会社で、事業が傾き始めたのは1997年くらいからでしょうか。東南アジアから密輸入した安価な油が大量に出回りはじめたのです」。
同時に政府による金融の引き締めもスタートした。父親が手がけるファンドの運用がうまくいかなくなる。陳氏は、高校を卒業し、いったん父の会社に入社するのだが、2年後には事業が立ち行かなくなったと言っている。
「たしかに外的な問題もありました。それは事実です。ただ、父親の経営にも問題があった。厳しくいえば『ザル経営』だったのです」。
当時の中国はどんな時代だったのだろう。香港返還と世紀のイベントがつづき、自由経済が促進され、世界の工場から消費大国になりはじめた頃だろうか。しかし、日本もかつては、そうだったように、どんぶり勘定の経営がまかり通っていたようだ。それでも、利益が確保できていた幸せな時代だったとも言える。
しかし、状況はいっぺんし、「経営専門知識」なきものは、淘汰される時代となる。

長男が背負った一家の未来。

「父親の会社が倒産し、私がいろんなものを背負って来日したのは24歳の時です。法的な意味での借金は完済できたのですが、道義的な意味での借金が残っている。私はすでに結婚し、子どもいたのですが、妻子を残し、1人、最新の経営を学ぶために日本に向かいました。当然、借金の返済も目的です。長男ですから、妹や2人の弟の学費や留学の面倒もみなければなりません」。
当時、購入していたマンションを売って、渡航費用を捻出した。
「日本に来て、まず日本語学校に入学します。それからダイエーの中内さんが創立された『流通科学大学』に進みます。学費はほとんど奨学金でまかないました」。
アルバイトで得た収入はほとんど仕送り、借金の返済に充てた。借金返済まで、来日してから丸々6年かかったいう。その額を聞いてびっくりした。
奥様もやがて来日されるが、それまでは「1年に1度しか会うこともできなかった」という。どれほど苦労されたことだろう。「どうでした? たいへんでしたか?」そう尋ねると、陳氏は笑いながら首をふった。

夢を持つだけで、人間は幸せになれる。

「小さな頃の性格ですか? 一言でいえば負けず嫌い、それは間違いないですね。実家も当時は裕福でしたから、長じてからも、なかなか人に頭を下げられなかったですね。姉のご主人が裁判官だったこともあって、もともと私は弁護士を目指したかったが、父に家業を継ぐようにと言われ断念しました。だから、向こうでは大学にも進んでいないんです」。
アルバイトに精をだす一方で、授業で学んだことをバイトで実践する。そこで得た成果を今度は、授業にフィードバックする。経営学が陳氏のなかで色彩を濃くする。まさに覚悟のたまものだろう。今どきの日本人の学生と比較することすら、申し訳なくてできない。
「日本に来てからも、たいへんだったのはたしかですね。でも、私はそう思ったこともないんです。だって、毎日、眠ることができたし、何より希望がありましたから。中国にいた頃、そう最後の3年間くらいは、もう夢を持つこともできませんでした。『これからどうなるんだろう』。そう考えると夜も眠れない。それから考えれば、夢を持つことができるだけで、人間は幸せになれるんです。それを知ることができたのですから、向こうにいた苦しかったあの3年間にも意味があったような気がします」。

陳氏が手繰り寄せた未来の糸。

大学を卒業した陳氏は、ソフトブレーン株式会社に入社する。アルバイト先で仕入れた話が、そのきっかけ。「当時は、いつか中国に帰って父の事業を再興したいと思っていました。でも、大学で学んだだけでは実践がともなっていませんから、いったん日本の会社に就職しようと考えていたんです。その時に知ったのが『宋文洲さん』です。みなさんもよくご存じだと思います。TVにもよく取り上げられていますし、『やっぱり変だよ日本の営業』などの本も出版されていますからね。私も、そのアルバイト先で宋さんの話を聞き『やっぱり変だよ日本の営業』という本があるのを知りました。せっかく日本に学びにきたのに、『日本の営業がおかしい?』ってどういうことだろうって。宋さんに興味を持って、彼が創業したソフトブレーンに入社しようと決意したんです」。
ソフトブレーン株式会社は、営業支援システム(CRM/SFA)やコンサルティング、教育などのサービスを行う、いまや東証一部上場企業である。ちなみに、その創業者、宋文洲氏は、成人後に来日した外国人として初めて日本の証券市場(東証マザーズ)に上場を果たした人物でもある。
エントリーした学生は2400人。うち採用されるのはわずか40名足らず。しかも、新卒者と言っても、陳氏は年齢も高い。しかし、そういったハンディをもろともせずに、見事、狭き門をくぐり抜け、陳氏は実力で未来の糸を手繰り寄せた。
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株式会社創業新幹線 代表取締役 陳 建(Chin Ken)氏
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2018年4月11日水曜日

株式会社テアトルダイニング 代表取締役社長 石見 淳氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社テアトルダイニング 代表取締役社長 石見 淳氏登場。
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少年、石見。

京都はいうまでもなく、日本を代表する観光都市である。今では鮎も遡上するという鴨川が街の真ん中を流れ、歴史的な建造物も数知れずある。石見氏が生まれた東山区は鴨川の東側に位置し、「音羽山 清水寺」もこの東区にある。生まれは1968年。東京オリンピックが開催されたのが1964年で、当時は高度成長期の真っただ中と言っていいだろう。
兄弟は3人で、弟と妹がいる。小学校で野球をはじめ、中学ではいったん断念。高校から再デビューを果たしている。その理由を伺うと「風呂上り、鏡に映るやせっぽちなからだを観て、これはやばいと思って」とこちらを笑わせる。身長が高かったから余計にそう映ったのだろう。
長髪を丸め、入部した野球部は土日の休みもなし。そもそも中学時代、スポーツをやっていなかったから体力もない。ついてくだけで最初はふらふらになったそう。それでも粘り強く3年間つづけている。それが自信になったことはいうまでもないだろう。「でも、野球漬けでしょ。ガタイは、デカクなりましたが、勉強のほうが/笑」。就職する友人も少なくなかったが、石見氏は大学進学を志す。もっとも勉強していなかったぶん「初挑戦の年は受かる気がしなかった」らしい。
浪人1年目、予備校に入る。「でも、入って満足しちゃうんですね。当時、その予備校に入れば四流大学なら合格したようなもんだという噂があって、それを鵜呑みにしてしまったんですね」。その結果、浪人2年目に突入。「おふくろの暗い表情をみて、さすがにまずいと。もう浪人2年目だから、それなりの大学にも進まないとシャレにならないと、はじめて受験勉強っていうのを始めます」。
いやいや今まではなんだったのか?
「それで、どこに進学されたんですか?」「関西大学です。入学が決まってさっそく1年早く進学している友人に、楽勝で、単位が取れるのはどの授業だって聞きまくって」。進学が決まれば、あとは無事4年で卒業するだけ。要領よく、楽勝に。
「最初はテニスのサークルに入るんですが、2年浪人しているでしょ。みんなに気を遣われて。それがイヤになって。そこからですね。スキーにハマったのは」。大学生活を一文で表現するなら、バイトに、スキー。そしてもう一つ、毎年夏に行った北海道めぐり。授業に向かうスタンスは「卒業できればそれでいい」だった。関西大学を入学し4年後、とりあえず手にしたのは、「関西大学卒」という肩書き。

映画小僧の就職。

「つぎは就職です。実は、これもぜんぜんやる気がなくって。ノウハウ本を買って、ステレオタイプの志望動機を言うわけです。そりゃ、わかりますよね、向こうも。こっちだって、受かる気がしなかったですもん」。
ある大手での面接。「ぶっちゃけ、やる気がない」といった。面接官も「だろうね」と。その会話で開き直った。「そうなんですよね。それで、改めてどうするかとジブンに問いかけた時に、はじめてジブンをみつめなおして、何が好きか思い出してみたんです」「それが、映画ですか?」「そうです。小学生の頃から映画を観るのが大好きで。だから、映画の会社を受験してみようと思ったんです」。
実は石見氏、根っからの映画好き。映画小僧でもあった
。 そして、東京テアトル。「ふつうなら、あかんかったと思うんですが、ちょうど関西で事業を拡大しようとしていた時期だったもんですから、その枠で採用してもらいました」。
好きな映画。映画通という自負もあった。だが、入社したら、好きのレベルがぜんぜん違った。

好きのレベルがまったく違い、映画小僧の名を返上する。

「私だって年間100本くらいは観ていたんです。でも、上司とかは年間365本。それも、すべて映画館です。話にならないと思いました。私は言ってもTVやビデオで、観るくらいでしたからね」。
好きの尺度が違った。もっとも、最初に配属されたのは六甲にあった遊園地。阪神淡路大震災でクローズされるまで、こちらで勤務する。
「それから、宇都宮にある、宇都宮最大の映画館勤務です。希望を聞かれたんですが、宇都宮ってあんなに遠いなんて思ってもなかったもので。関西の私からすれば首都圏みたいなイメージだったんです」。東京から東北新幹線で1時間。宇都宮最大の映画館を観て、あ然とした。
「宇都宮にはオリオン通りっていうメインストリートがあるんですが、そこが半ばシャッター通り化されていて、その向こうにデンと古ぼけた映画館があって、娯楽の伝統なんて書いてある。映画が好きで入社したんだからと、気持ちを落ち着けるのがたいへんでした/笑」。
昔々、映画事業はドル箱事業だったらしい。ドラム缶に札束を投げ込み、あふれる札束を押し込んでいたような時もあったそうだ。しかし、石見氏が入社した当時、映画事業はすでに斜陽産業の仲間入りを果たしていたらしい。配属された宇都宮の映画館でも、各席に備え付けられた自慢のスーパーウーハーが、ところどころで潰れてしまっていた。「直す資金もなった」と笑う。
「2年程度つづけるんですが、映画館のスタッフって、当時はやることもなくって。毎日、おなじルーティンで飽きてきちゃったんですね。それで、本社に異動願いをして、一時は経営企画に入り、予算の編成などもしていました。そして、もう20年になりますが、飲食事業に進みます」。
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有限会社ウェルバランス 代表取締役 黒田将嗣氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社ウェルバランス 代表取締役 黒田将嗣氏登場。
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中学生に、群がる客たち。

銚子という地名は知っているが、「千葉のどこにある?」と質問されて、すぐに回答できる人は案外、少ないのではないか。銚子市は関東平野の最東端に位置し、利根川を越えれば茨城県となり、太平洋に突き出した格好をしている。その銚子は醤油でも有名だが、漁業も盛んで、銚子漁港は現在、水揚げ高、日本一だそうだ。実は、今回、お話を伺ったウェルバランスの代表、黒田氏は、この銚子市の出身。この銚子の漁港で仲買を行っている幼なじみとタッグを組んで飲食事業をスタートしたという。黒田氏は、1970年生まれ。2018年現在。もっとも脂がのりきっている年代でもある。
黒田氏は、中学1年生の時から魚屋で仕事をしている。寿司屋を経営する両親は貧しくもなかったので、その理由を聞いてみると、「一度やると仕事が楽しくなって」とのこと。なんでも客受けも良く、店の業績アップにも貢献したそうだ。
「観光客が来て、魚を選んで買って帰ることもできるし、2階の食堂で調理してもらうこともできるお店ってあるでしょ。私がバイトをしていたのは、そんなお店です」。
春休み。夏休み、冬休み。黒田氏が店頭に立つことで、店はいつもより繁盛した。中学生ながら「月給10万円くらいあった」と笑う。
中学1年からスタートしたこのアルバイトを、黒田氏は高校を卒業するまでつづけているから、かなり気に入っていたのだろう。いまの原点をつくったのも、この時期に違いない。
「東京に出たかった」のは、美容専門学校に進んだ理由の一つである。もう一つは、単純に「姉がその道に進んでいたからだ」という。「親も『美容専門学校に進むならお金をだす』と言ってくれていたんで」。お金をだしてもらうぶん「テクニックはマスターしようと思っていた」と律儀なことをいう。
目的は、そう明確ではなかったが、東京への旅立ちで「起業」に向けて走り出したと表現してもいいだろう。もっとも、この時、銚子とふたたび縁ある仕事をしようとは思っていなかったはずだが。

手取り3万円の美容師時代。

「美容学校は1年です。卒業して、当時人気の美容室に就職しました。芸能人やTV関連の方なども良くいらっしゃるようなお店です。そちらに5年ほどいて、それから一時、TV局の方に誘っていただいて、ADの仕事をします。はい、どちらもかなりきつかったですね/笑」。
5年というから、美容師を辞めたのは24歳の時だろう。その理由を聞くと「お客さんがついたんです。それを一つの区切りにしようと思って」とのこと。普通なら、逆のように思えるが、それまでの苦労話を聞くと納得できる点もある。「月給は7万円くらいで、いろいろさっぴかれて手取りは3万円くらい。それで仕方なく、アルバイトも掛け持ちです。ただ、親に授業料をだしてもらっているぶんの元はとらないといけないと思って」。
客がつくことで、一人前。そこまでくれば、元は取れたという理屈である。だから、美容師を辞めた。いくらなんでも、月3万円はきつい。「それからADの仕事を、そうですね、1年くらいやって。もう一度、美容師をはじめます。もっともこの時は、アルバイトです。私にとって時給のいいアルバイトが美容師だった、理由はそれだけ」。
実は、当時、黒田氏は脚本家の勉強をしていたそうだ。そちらで食べていくのが黒田氏の、当時の野望だった。先生にもついて学びもした。しかし、そう甘くない。
「もともと起業も視野にありました。それで、もう17年前になるんですが、中目黒で、起業します。ええ、最初は美容室です。知人を誘いオープンし、美容師の道を先に進んでいた姉も合流してくれます。ちっちゃなスペースの美容室ですが、芸能人もいらっしゃるようになり、今も、たくさんのお客様がいらしてくださっています」。
なんでも、今現在も「週に2回は店にでる」という。美容師でありながら、飲食店の経営までする。タレント顔負けの凄腕である。

仲買人の幼なじみといっしょに走り出したもう一つの事業。

現在、黒田氏は、美容室のほか、飲食事業として「魚屋さんじゅうまる」など5店舗を経営している。なかには数坪の店もある。小さいからこちらは「丼」のお店。いずれもメインは、魚。「鮮度が違う」というのは、某グルメサイトに載っている評価の一つ。
「会社を設立したのが、12年前で、1号店を出店したのは11年前です。銚子で仲買人をしている幼なじみといっしょにスタートしました」。
「仲買人」といっしょということは、中間業者を通さず市場から直接、仕入れ、販売するころができる。これが黒田氏が始めたビジネスモデルである。今でいう「6次産業」の走りともいえるだろう。根っこにあるのは、やはり中学の頃からはじめた魚屋のアルバイトである。
「そうですね。その頃、漠然としていたものが一つのかたちになったような気がします」。鮮度の違いを知り、鮮度のいい魚がどれだけお客様に喜ばれるかを知っていたから進んだ道でもあるのだろう。
鮮度のいい魚はたしかに旨い。しかし、そうそう気軽に食べることはできない。わざわざお客さまが、三軒茶屋の「さんじゅうまる」までやってくるのも頷ける。
そうやって、特段の修業もすることなく、スタートした飲食事業だが、美容室同様、こちらも人気になり、TVの取材なども受けている。理由はやはり鮮度のいい魚の旨さだろう。
ただ、口コミをみるとそれだけではなく、サービスのポイントも高い。ここにも、実は、黒田氏という人間の本質が表れている気がしてならない。
それで思い出すのは、やはり中学1年生で大人たち顔負けの売り上げをたたき出した黒田氏の過去である。
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株式会社ウインドウ 代表取締役 臼井大士氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ウインドウ 代表取締役 臼井大士氏登場。
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交野市出身。

大阪府交野市出身。小学校ではソフトボール、中学ではバレーボール。いずれでもキャプテンを務め、運動神経も、勉学の面でも秀でた少年がいた。それが今回、ご登場いただく臼井氏である。生年月日は1977年8月14日。
「父親も、母親も松下電器(現パナソニック)で勤務していました。父親は松下電器が運営する高校に進み、卒業後も事務方としてずっとあゆんできた人です。鳥取に6年、台湾にも単身赴任していました。そういうこともあって、たまに帰ってくる父が大好きでした」。
中学でバレーボールをはじめたのは、姉の影響。高校も実は姉の勧めで、公立ではなく有名私立「東海大付属仰星高校」に進んでいる。「できればバレーボールをつづけたかったのですが、スポーツ科と進学科は、そもそも授業時間から違っていて、つづけたくてもつづけられなかったんです」。
スポーツでも、進学でも有名な高校に、よくあるといえばあるコース分けである。「高校2年の時ですね。母が病気で倒れ、幸いなことに全快したんですが、それがあって医学の道を選択します。今までは、どちらかといえば方向性がなかった私ですが、一念発起して医学部をめざしました」。
医学部をめざすというのだから、学力は相当高かったはずである。ただ、進んだのは京都の龍谷大学。希望の大学には進むことができなかったらしい。
「コネがないと、選択肢は国公立しかありません。推薦で、ある大学の薬学部も受けたんですが、数点足らずで」とのこと。「それで、思い切って文転して、経営学部に進んだんです」。
医師は諦めたが、経営という観点からも人の役に立つ仕事ができると思ったから。「そもそも経営にも興味があった」と話している。

卒業後、もう一度医学の道を志すが。

「大学に入って、やっぱりスポーツをしたくなって、それではじめたのがアメフトです。もっともサークルで練習は週2回。大会では、いつも最下位か、最下位の一つうえが定位置でした。それでも、いい経験ができたと思います。アルバイトもできたし、フィールドを思い切り駆けることもできましたから」。
ポジションはランニングバック。
ところで、臼井氏は「料理に天賦の才がある」と姉にほめられていたらしい。「う~ん、なんでしょうね。もちろん、飲食の道に進むとは思っていませんでしたが、小学校の頃からTVの料理番組をみて、なんとなく。もっとも、つくっていたのはチャーハンとかですね。大盛りの/笑」。
だから、母が入院した時も困らなかったそう。料理は姉ではなく、臼井氏の担当だったようだ。
大学を卒業すれば、ふつう就職ということになる。しかし、臼井氏は時間を巻きもどそうとする。
「やっぱり、医学というのが頭のすみっこにあって。それで、臨床検査技師になるために3年制の医学関係の専門学校へ進みました」。再度、一念発起。ただ、思いはそう長くつづかなかった。「周りの生徒とは年齢も違うわけで馴染めなかったというのが正直な気持ちですね。3ヵ月で退学してしまいました」。
医学部をあきらめ、龍谷大学に進むとき、友人から「すぐにあきらめるんだ」と言われた。その言葉も、どこかわからないが心のすみにずっとひっかかっていた。だから、改めて医学の道に進みはじめたが、再度、挫折。「ひきこもりになってしまった」と笑う。

飲食へ。

家に居座りつづけること数ヵ月。「だんだんお金もなくなるわけで。そうですね。そのおかげで、次の道に進めました」。お金のために「なか卯」」でアルバイトを始めたのは、この時。年齢は23歳。「このなか卯で、飲食の仕事を始めてから、いままで一筋といえば一筋。一時、生命保険会社でも1年半勤務しているんですが」。
アルバイトで入社し、半年後には、正社員となり店長に昇進する。「学歴も何も関係がない」という一言に惹かれたそうだ。どこかに学歴のコンプレックスがあったのだろうか。龍谷大学卒といえば、悪くはないのだが。医学部をめざしていた本人には肯定できる学歴ではなかったのかもしれない。もっとも、仕事を始めてから、臼井氏に対する評価は極めてたかかった。実家を後にし、主に名古屋で勤務している。
「なか卯にいたのは、5年くらいですね。辞めた理由は、自分を曲げられなかったからです」。「なか卯」を退職し、いったん生命保険会社で勤務をスタート。1年半後、今度は、飲食事業の経営支援サービスなどを行う会社に転職した。社名は、リンク・ワン。臼井氏によれば、業績はすでに下降線をたどっていたらしい。それでも社員数200名。経営する飲食店も少なくなかった。
もともと経営学にも興味があった臼井氏である。「飲食」と「経営」と言う言葉が、文字通り「リンク」するはずだった。しかし、当時、東証マザーズに上場していた会社は、民事再生の道をたどる。
「いま、私どもが行っているスープカレーや海鮮居酒屋といったブランドも、リンク・ワンから譲り受けたもの。親会社は、コンピュータのメーカーでもある株式会社マウスコンピューターを擁する株式会社MCJ。国産で、高性能なコンピュータということで、ご存じの方も多いのではないでしょうか。とにかく、その株式会社MCJが受け皿になってくれたんです。私も、その時に、転籍します」。
カレー食堂「心」、大阪鶴橋お好み焼き「わっはっはっ風月」、地魚屋台「浜ちゃん」。この3つが現在の主力業態である。
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2018年3月20日火曜日

株式会社熱血 代表取締役 横田晃一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社熱血 代表取締役 横田晃一登場。
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獣道は、下界につづく唯一の道。

いつまでもバスに揺られつづけた。 野球でも有名なその高校は、高知空港からバスで数時間。山間にあり、「コンビニに行くにもタクシーで1時間かかった」という。今回、ご登場いただいた横田氏が、この高校に進学したのは、もうずいぶん前だから今とは異なっていることも多いだろうが、横田氏のなかにある風景は、今も山間のなかにある、収容所のような建物だ。
「当時は、インターネットもない時代でしょ。バスに揺られながら、『どこまで行くんだ』って/笑」。当時、そのスポーツ高校は、次のスポーツの目玉としてバスケットボールに注力しており、選りすぐりの選手が全国から集められた。横田氏もその一人である。
出身地は、藤沢市。その市のバスケットボール関係者で、横田氏の名を知らない人はいなかった。身長は当時から184センチ。バスケの選手としては飛びぬけてはいないが、それなりの背丈である。スピードは群を抜いていた。小学校でも、中学校でも、チームは横田氏の名をもって語られた。
「合宿に参加して、特待生のAで入学します。1人息子だから両親も淋しかったと思いますが、背中を押してくれました。でも、今になって思えば、あれが挫折の始まりかな、とも」。
下界から隔離されていた。生徒の90%以上が寮に住み、大半が何らかのスポーツで名をあげた選手だった。校則はきびしく、学校を抜けだすとそれだけで「停学」。食事も、全員で。「収容所みたいですね」というと、「まさに、そんな感じです」と笑う。食事は「カラアゲと大盛りの飯」と決まっていた。タンパク質と糖分をブロイラーのように摂取させられた。ただ、選りすぐりの選手のなかでも、横田氏は群を抜いて期待されていた。神奈川のレベルが、相当高いことを証明している。
「バスケのほうは、よかったんですが、生活のほうがたいへんで/笑」。最初にぶち込まれた4人部屋には、名主のようにふるまう柔道部や相撲部の先輩がいた。
「獣道っていうのがあって」。「獣道?」「そうです。文字通り獣しか通らないような道があって、それが唯一の抜け道なんです。夜中こっそり、獣道を使って抜け出してタクシーでコンビニまで行く。片道1時間。そうやってコーラとかを買ってくるんです。もちろん、買いに行くのは1年生。行くではなく、『行かされる』ですね」。
横田氏も何度か、獣道を駆け下りた。

退学。その道はどこにつづく?

「まぁ、そういうこととか、いろいろあって。実は、夏が過ぎる頃に学校から脱走しました。友人宅に逃げ込み、そこがバレ、2日くらい野宿して、藤沢に逃げ帰ったんです」。
朝の点呼の最中。窓から抜け出したらしい。
「いちばんの理由は、朝の点呼に間に合わず学校を抜け出していたことがバレてしまったことです。それでも、ふつうなら一時の『停学』で済むんですが、私の場合は特待生のAクラスですから、『それで済ましてはまずかろう』と違約金を取られることになったんです」。
今でも、その額は申し訳なくて親に聞けないそうだが、「相当な額だったのは間違いない」とのこと。「シェフの父親はもともと寡黙な人でこの時も何も言われなかったと思いますが、さすがに、こちらは申し訳ない思いでいっぱいでした」。
3週間後、横田氏は1度、その高校にもどっている。退学の手続きをするためだ。その手続きを終え、校舎を後にする時、横田氏はどんな気持ちだったのだろう。
負け犬。遠くから、そんな声が聞こえてきたかもしれない。

役者。まだ人生の答えはでない。

もともと県内にも「来い」と誘ってくれていた高校があった。公立だったが相談したら、1年遅れだが入学できた。しかし、横田氏は、その学校も3ヵ月程度で退学してしまう。もう、好きなバスケットボールもつづけられない。
「役者の道に入ったのは、そのあとです。母親がプロダクションに勝手に写真を送って。1次選考を通過したもんですから、『オーディションに行って来い』と/笑」。
役者のことなど何もわからない。しかし、今度は逃げ出さなかった。「9年くらいですね。ただ、生活は極貧です。月数万円。アルバイトもするんですが、急に仕事が入ったりするわけで。そうそう融通がきくバイトもなく、だんだん夜のバイトが中心になるんです」。
どこまでいけば、役者として独り立ちできるのか?
「もうそろそろ限界かな、と思ったのが25歳の時です。その頃にはもう、夜の仕事ばかりだったので、そういうのもまずいんじゃないかなって」。
高校を逃げ出してから、およそ10年。将来を誰より期待されていたバスケット選手は、夜のとばりに立って途方に暮れていた。 
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2018年3月13日火曜日

VIVO PRODUCTION TOKYO株式会社 代表取締役 鈴木健太郎氏登場。

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三重県出身。

愛知県の伊良湖岬に、いいホテルがあった。中学までは、毎年、家族で泊まった。父は工務店を経営していたから、どちらかといえば裕福だった。鈴木氏は、小学校ではサッカー少年団に入り、中・高は、ハンドボール部に入った。「できたばかりだったので弱かったですね」と笑う。
高校は、三重県でも進学校の県立「川越高校」に進んでいる。「あの頃は、将来、飲食事業をしているイメージはまったくなかったですね」。
「1ミリもなかった」そう。
大学は「京都産業大学」に進んだ。住まいは、銀閣寺のそばに決めた。最初は4万円のマンションだったが、「もったい」と1万円の風呂なしの木造アパートに移り住む。
大学時代の思い出はアルバイトと旅行。

中国と旅のご褒美。

写真を観て、中国にひかれた。高校時代の話である。「大学生になったら行こうって、その時から決めていました」。京都産業大学に進み、独り暮らしをはじめる一方で、中国に向かう準備も整えた。もっとも、所持金は10万円。夏までに資金がたまり、長い休みに突入すると、すぐに船に乗った。
「神戸港から、天津に向かいます」。天津は、渤海を奥深く入ったところにある都市だ。「天津から北京に進み、電車でパキスタンとの国境にあるウイグルまで行きました」。
2ヵ月。バックパッカーだ。宿泊するのは、1泊100円の宿。「食べ物ですか、まぁ、いけましたね。ただ、毎日、下痢です。下痢が常態化しているっていうか(笑)」。
翌年もまた中国に向かった。今度は、上海から入った。チベットまで行って、ヒマラヤを超えてネパールに入り、インドまで向かったそうだ。
「アジアは物価が安いから、学生にとってはいちばんいいんです」。中国は、漢民族がたいはんを占めているが、少数民族が多数存在していることでも知られている。
「少数民族系の料理も食べました。日本料理とは、ぜんぜん違うわけですが、抵抗はなかったですね」。好奇心も旺盛だ。中国だけではなく、ヨーロッパへも向かった。
「この大学の時の旅を通じて、やりたいことが明確になりました。一つは、日本のマンガや音楽などのコンテンツを海外に向け、輸出すること。そしてもう一つは、スペインでみたバールですね。あれを、日本でやりたいと思ったんです」。
この2つのプランは、旅がくれたご褒美かもしれない。

日本のコンテンツを世界へ。

「就職したのはカルチャー・コンビニエンス・クラブです」。いわゆる「TSUTAYA」である。「大学時代に、コンテンツの輸出をしようと思っていたもんですから、私には最良の選択だったと思います。ただ、ちょうど上場準備の時と重なって、IPOのプロジェクトに参加することになるんです。すごくいい勉強はできましたが、コンテンツの輸出はできませんでした」。
IPOを果たしたあとは、渋谷にオープンする「TSUTAYA」の立ち上げを担当した。「そうですね。そういう意味では、とても貴重な体験をさせてもらった4年間でした」。
鈴木氏が言う通り、CCC時代は4年で幕を下ろす。
「それからひとつ会社を経て、D2Cという電通とNTTが共同出資した広告代理店に転職しました。昔は30名程度だったんですが、いまはでかくなっていますよね。そちらで4年です」。
28歳。鈴木氏は、会社を離れ、温めていたもう一つのプランを実現するために行動を開始する。スペインで観た「バール」のオープンである。
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VIVO PRODUCTION TOKYO株式会社 代表取締役 鈴木健太郎氏
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2018年3月8日木曜日

株式会社シティコミュニケーションズ 代表取締役社長 三田大明氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社シティコミュニケーションズ 代表取締役社長 三田大明氏登場。
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400人のBBQ。

牛一頭はおよそ400人分くらいなんだそうだ。
「ある時、『バーベキューをしよう』と誰かが言い出して。ええ、社内イベントです。うちは、社内イベント日本一ですから、スタッフにやろうと言われてやらないわけにはいきません」。
「おまけに奴らは、この時『社長、オレたちのこといつも家族って言ってんですから、オレたちの家族も呼んでもいいっすよね』って。結局、400人に膨らんで。正直、誰が、誰か。部外者が肉を食っていても、わからなかった(笑)」。肉は、「牛角」の本部にお願いする。FCをやっているから、そういうお願いも聞いてくれるらしい。
今回、ご登場いただいたのは、この「牛角」のFCも展開する株式会社シティコミュニケーションズ、代表取締役社長、三田大明氏。もっとも飲食だけではなく、事業の幅は広い、広い。一言でいうならば、エンターテインメントの祖国でもある「ラスベガス」のミニチュア版。三田氏自身は、こう表現している。
「もう20年前から言っているです。みんなで『ラスベガスのようなエンターテインメントな街をつくろうぜ』って。それが少しずつかたちになってきているんだと思います」。
売上高はすでに500億円を超える。ちなみに、グループを形成するのは、株式会社シティコミュニケーションズほか15社。そりゃ、みんながあつまれば、牛一頭も軽くなくなるはずである。

奇跡の子。

三田氏が生まれたのは、1972年。
母親は8人の子を宿したが、無事、生まれたのは三田氏だけだそうだ。「これは、ある意味、私の原点です。なぜ、私だけが無事、生まれたのか。その答えを探すのが、私の人生の始まりだったからです」。
たしかに、確率でいえば8分の1。医師からは「もう無理」と言われていたそうだ。この手で我が子を抱きしめたい、母の切なる思いが奇跡を起こし、この年、三田氏がちから強く、産声を上げたのである。
「母方の祖父は天才的な人で、尚且つ、無類の人好きだったそうです。戦後、食料がない時もトラック1杯分の魚を買ってきて、みんなに配ったりして。そういう武勇伝もある人です。祖父の、天才的な頭脳と性格は、息子たちに引き継がれます。つまり私の叔父2人ですが、祖父の熱い想いを受けて、1人は弁護士になって、もう1人は脳神経内科の世界的な権威です」。
なんともすごい話がでてきた。むろん、その血は三田氏にも引き継がれている。
一方、父方は事業家だった。祖父が不動産の仕事をはじめ、父がそれを拡大した。父親が経営者の時に、もっとも肥大化したのは言うまでもなくバブルの全盛期である。むろん、バブルはあっさりと弾け、爪痕は至るところに残った。三田氏、はたちの頃の話である。

50メートル6秒1。

「小学校からずっと慶應」と三田氏。祖父譲りの明晰な頭脳を持ち、しかも、運動神経も抜群。なかでも足がはやく、中学1年で50メートル6秒1を記録している。背は170センチ以上あったそうだ。
「慶應は、小学校からラグビーにちからを入れているもんですから、足が速い奴は自動的にラグビー部に、という雰囲気なんです(笑)。私は、そのなかでも特別枠に入れられたもんですから、練習もハンパなくって。それで、椎間板ヘルニアになって。」。
椎間板ヘルニアになってからも、医者と「中学3年。この1年だけ」の約束で、楕円形のボールを追いかけた。出る試合、出る試合、勝利をもぎ取った。しかし。宣言通り、その年でラグビーは卒業した。スポーツは断念したが、それでも、頭の方が残っている。
「成績は高校にいっても、なんとかトップクラスです。ただ、高校になると、勉強より遊びばっかりで(笑)」。なんとか成績は維持したが、学校にいるより遊び回っているほうが多かった。「親にもいちばん迷惑をかけたのは、あの頃」と三田氏。しかし、遊びも突き詰めると一つの動機を生むことがある。それが次の話の始まり。

毎日が学園祭。

「大学まで親に言われたとおり進みました。大学卒業後、母から勧められたのは、ある都銀です。でも、なんだか違うような気がしてくるんですね」。
言うならば、父や母が敷いたレール?
「そう。だから、今回も母の勧め通りに、都銀に行ってしまったら、オレの人生って誰の人生なんだ?って。それで、『遊び三昧の日々の延長戦』をやってやろうと思って。そうです、都銀ではなく、株式会社セガ・エンタープライゼスに就職します。当時、もっとも勢いがあった時代じゃないですか。ゲームセンターの出店ラッシュの時です。私は、このゲーセンの店長になるわけです」。
面白くてたまらなかったそうだ。
「みなさんは、ゲームセンターに『遊びに行った』と思っているでしょ。でも、私らからすれば逆なんです。私たちの思い通り、お客様を動かしているんです。アテンションさせて、店内に入れ、1000円を崩してもらって。そう、そこから私たちがしかけたトラップに沿って、次々、ゲームを楽しんでもらう」。
三田氏は、たった100円の重みという。
「たった100円。でも、100円なんです。崩した10枚の100円玉をいかにぜんぶ使っていただくか、それが私たちのゲームなんです。毎日が学園祭みたいなもんで、そりゃ、楽しくないわけはないでしょ。当時は、運営方法もすべて店で決めることができましたら、面白さはハンパないわけです」。
ただ、いくら楽しい言っても、ゲームだから勝敗はある。

格闘ゲーム。

「これは、私が店長をしていたある横浜のゲームセンターのことなんですが。当時は格闘タイプのゲームが流行っていて、それがどこでも、いちばん人気だったんですが、その辺りはちょっとガラが良くなかった。格闘ゲームをやりに来たはずの高校生らが、バーチャルからすぐにリアルな戦闘モードに入ってしまって(笑)」。
「私たちは、その度にすっとんで止めるわけですが、営業時間中常に社員がいるわけにもいかない。アルバイトに対応させるのも無理があって。それで、エリアの責任者に相談して、結局、そのゲームを取っ払ったんです。私はそれ以外の方法で対処したかったんですが、そちらは聞いてもらえなかった。人気ゲームを取っ払ったおかげで、売上は5割減。それでも、とっても平和なゲームセンターになったんです。それは、それは平和な日々だったんですが、ある時、その平和を乱す男が1人、関西からやってくるんです」。
「バリバリのエース」と三田氏は表現する。関西からやってきたのは、群を抜く成績を上げたたしかにエース中のエースだった。赴任して初めての店長会議で、エースが関西弁でまくしたてる。
「リアルファイトに怖気づいて、売上の核となるあの格闘ゲームを取っ払ってしもうた超ヘタレがおるらしいな」。
店長たちの顔を次々、観ていく。たまらず「オレです」と手を挙げた。ののしるような、侮蔑するような眼を向けられる。正確に言えば、敗者に向ける目だった。
事情を知る仲間たちは、三田氏をかばってくれたそうだ。「決めたのは、三田ではない」と。しかし、そんなことでエースは動じない。エースにはエースの事情がある。いうまでもなく、半分に落ち込んだ売り上げを改善させることだ。
・・・・続き
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