2023年12月5日火曜日

株式会社Pay it Forward 代表取締役 宮﨑元成氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社Pay it Forward 代表取締役 宮﨑元成氏登場。

本文より~

父親と、野球の話。

目が覚めると父はもう仕事に出かけていた。
「父親は結構、波乱万丈の人生を送っています。水産関連の会社を起こし、現在はその会社をバイアウトして顧問を3社ほどやっています。私が小さな頃は、とにかく大変だったようで、午後10時くらいに帰宅して午前3時にはもう出かけるといった生活を送っていました。思い出は、日曜日の朝に一緒にコンビニに行ったくらいです(笑)」。
2023年11月のインタビュー時、お父様もまだ63歳というからお若い。
「もともと長崎出身で、裕福な家の出だったようです。ただ、祖父が人に騙され地元にいられなくなって上京したといっています。父は大学を中退し独立。父もまた人がよく、人に騙されるなどして苦労したそうです」。
ちなみに、お父様が通われていた高校は、長崎の海星高校。ヤクルトに入団し、サッシーの名称で親しまれた酒井圭一元プロ野球選手の出身高でもある。父親と交流があり、それが縁でヤクルトファンになったという。
ちなみに、お父様が創業した会社の社名は「かいせい物産」。祖父が批判され地元にいられなくなった際に、学校がかばい続けてくれた。その恩を忘れず社名に母校の名を付けられたそうだ。お父様の人柄がわかるエピソードでもある。
さて、父親が奮闘する一方、息子の宮﨑氏は、どうだったんだろう?
「野球は小学生の頃から始め、松坂大輔さんが所属していたチームでプレイします。中学生になるとクラブチームからオファーがあって入団。中2でベンチ入りもするんですが、3年になってなぜか3軍の子がいきなりレギュラーになったことに納得ができず、練習にも行かなくなってしまいました」。
大人の身勝手さ。理由を聞くとこちらまで、やるせなくなってしまう。
「周りから説得されて卒業までは続けましたが、もう野球を続ける気持ちはなくなっていました。高校は父の母校から声をかけていただくんですが、入部テストだけ受けて、進んだのは木更津の全寮制の高校です」。

逃亡先は、オーストラリア。

<大学時代の宮﨑さんを教えてください>
「アルバイトばっかりですね。色々、転々としていたんですが、大学2年の時に株式会社MUGENの内山正宏社長が経営されている『なかめのてっぺん』でアルバイトを始めます」。
<熱気ムンムンですよね? どうして、なかめのてっぺんに?>
「父が周りから『社長』と呼ばれていたこともあって、小さな頃からその響きに憧れていたんです。また、起業するなら飲食で、とも思っていましたから、そのために、アルバイトも飲食中心です。でも、アルバイトだからかもしれませんが、いずれもぬるい(笑)」。
<ひょっとして、厳しさを求めて、「なかめのてっぺん」に?>
「父親に、大学卒業までもう2年しかないので、ぬるい感じじゃなく、ちゃんと修業できるような店を紹介してくれって頼みます。それじゃぁと紹介されたのが内山社長だったんです」。
<たしかに、ぬるくはないですね(笑)>
「今度は、内山社長から店長に『宮﨑さんとこの息子だから、厳しく躾けてやってくれ』っておふれが回っていたんでしょうね。むちゃくちゃ厳しい指導が続きます。怒られているんじゃなく、叱られているんだとわかっていても、毎月、胃腸炎です(笑)。でも、言い出しっぺは私ですから、辞めるに辞められません。だから、悶々とした日々を送り、結局、オーストラリアに逃亡します」。
「海外に行きたい」というのが、逃亡の言い訳。逃亡さえできれば、オーストラリアでなくてもどこでもよかったに違いない。
「向こうでも飲食でアルバイトをします。1年半した頃でしょうか、日本人ですが、向こうで知り合った人とハンバーグレストランを共同でオープンします。私にとって、『飲食』=『なかめのてっぺん』でしたから、ショップをオープンすれば客が来ると思い込んでいたんです」。
<でも、来なかった?>
「ええ、ぜんぜん(笑)。20坪程度の小さな店だったんですが。結局、給料も支給されることなく、2~3ヵ月で潰れてしまいます」。
<異国だから、どうすべきか悩みますね?>
「そうです。その時、父と一緒に内山社長がいらしてくださるんです。そして、顔をみるなり『大丈夫か』って」。

現実を知った青年の覚悟と宣言。

「内山社長が『3ヵ月したら戻って来い』って言ってくださいます。『ただし、戻ってくるならアルバイトのような立場じゃないぞ』って」。
<それでどう答えられたんですか?>
「NOという返答はもちろんありません。オーストラリアでは、ほんとうの意味で『飲食の厳しさ』を知りました」。
<それと比較すれば、『なかめのてっぺん』も、厳しいうちに入らない?>
「そうです。父親のように社長になるんだろうなと思っていただけで、覚悟がまったく足りなかった。逃亡先のオーストラリアで初めて現実を知って、何が足りなかったかを知ります。ただ、それで凹むことはなかったです。厳しすぎる現実が、逆に、私のなかで闘志を生みます。その意味では、オーストラリアでの経験も、私にとってはいい経験でした」。
覚悟を決めた宮﨑氏は、内山氏に宣言している。
「社員にしてください。最短記録で店長に昇格します」。
お父様の宮﨑成人氏は、あるインタビューを受け「困難は人を成長させるからこそ、諦めてはいけない」とおっしゃっている。そういう意味で、息子の宣言を聞き、目を細めておられたのではないだろうか。わざわざオーストラリアまで出かけた価値もあったというものだ。

最年少、最短の新記録と、独立。

宮﨑氏は、宣言通り、最年少、最短で店長に就任している。「もちろん、昔と同じようにハードでしたが、ハラが決まれば、見える風景も、言葉の受け止め方もぜんぜん違ってきます」。
罵声を受けても、それが気付きにつながれば、罵声が、貴重なアドバイスになる。
「内山社長の下で4年お世話になり、28歳の時に卒業します。ただ、コロナ禍が始まり、起業は先送りです。沖縄や川崎で知り合いの新店の立ち上げをサポートしたり、出前館などでエリアの調査もしました。実は、もう一度、サラリーマンに戻るか、でも、戻ったら、次はないな、と思っている時に、内山社長から背中を押していただいて、29歳、2021年の3月に炉端焼きを錦糸町にオープンします」。
<コロナ禍の只中ですね?>
「補助金も下りませんでしたから、通常営業をするしかなかったです。SNSで地元の方を中心にフォローして、通常営業をピーアールしていきました」。
<コロナ禍のオープンです。戦略はあったんですか?>
「戦略という意味では、コロナ禍かどうかは関係なく、地元の人をお客様にと思っていました。価格帯は、当時、錦糸町にはなかった4000円~5000円です。ちょっと高めだけど、それ以上に価値があることをコンセプトにオープンします」。
<難しいロケーションですよね>
「そうですね。錦糸町のオーナーに聞いたら、全員、『あそこはやめておけって』。『12月でも500万円が精一杯』という腰を折るようなアドバイスもいただきました(笑)」。
ただ、無理と言われると、逆に闘志がわくタイプ。
「東京といっても、錦糸町は下町なんです。ここらで育った人は街を出ない。それを知っていましたから。SNSで彼らをフォローし、発信していきました」。
<どうでしたか?>
「18坪だったので、損益分岐点は330万円に設定していました。ところが、オープン初月から1000万円をオーバーです」。
コロナ禍の下の飲食難民を救った格好だが、すべてがちゃんと計算されている。
コロナ禍で打って出たことも、結果としては幸いした。

・・・続き

株式会社Pay it Forward 代表取締役 宮﨑元成氏

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2023年12月1日金曜日

中学校の同窓会ありました。

先日、中学校の同窓会あり、京都に日帰りで行きました。

同窓会は7年前に小学校以来ですが、雰囲気変わってても会うと直ぐ記憶が蘇りますね。
皆の集合写真載せたいのですが、出したくない人もいると思うので無で…(笑)
幹事の一瀬夫婦、服部夫婦、東夫婦の皆さんご苦労さまでした。

2023年11月28日火曜日

エス・フィールド株式会社 代表取締役 菅原尚也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”エス・フィールド株式会社 代表取締役 菅原尚也氏登場。

本文より~

高校時代からアルバイト、開始。

「兄も、弟も母に似て芸術関係なんです」と、今回、ご登場いただいたエス・フィールド株式会社の代表取締役、菅原さんは笑う。兄は写真家で、芸術大学で客員教授もされている。弟も、芸術の道を進んでいる。ご自身はそうではないらしい。
「音楽は好きなほうだったと思います。とくに中学時代はハードロックにハマっていました。もっとも音楽の才があったわけじゃありません。高校時代ですか? 高校時代は、コンビニや生協でアルバイトをしていました。私にとっては、アルバイトがクラブ活動のようなもんでした」。
<大学は武蔵工業大学ですね?>
「車が好きだったんです。ホンダがF1で頑張っていた頃に育っていますから、その影響もあって。大学3年の時には中古車ですが、ホンダのインテグラを買ってもらって乗っていました」。
「大学時代もアルバイトは色々しました。ピザショップのデリバリーとかですね。ほかにも、これが今の原点だと思うんですが、ホテルや飲食店で配膳の仕事をします。当時でも、フレンチだと時給1800円くらいあったかな。結婚式場では、新郎新婦のメインテーブルはベテランがするんですが、私は学生なのに、その仕事を任されます」。
月に20~30万円になったというから、アルバイトの域を超えている。
「大学時代からスキーにはハマリました。夏はテニス、冬はスキー。スキーには一時期、毎週、出かけるほどハマっていました」。
スキーはそれなりにお金がかかるが、アルバイトで資金は潤沢だったんだろう。
絵に描いたような青春である。

F1メカニック、改め、清水建設へ。

<就職はホンダじゃなく、清水建設ですね?>
「そうですね。もちろん、最初は自動車メーカーに就職し、F1のメカニックになることを目指し、武蔵工業大学に進んですが、4年間、理系にいて、私は根っ子からの技術屋じゃないと気づくんです。だとしても、就職はしないといけません。F1のメカニック以外で興味があるものといえば再開発事業だけで」。
<スケールが大きいですね>
「実をいうと、TV局もいいかな、と。でも、けっきょく、清水建設に入社しました。その時、飲食をするとはもちろん思っていなかったです」。
少しだけ、当時の菅原さんを追いかけてみよう。
無事、清水建設に就職した菅原さんだったが、配属先は、土木本部。担当は機械電気設計や施工管理業務だったそう。菅原さん曰く、希望とかけ離れていたこともあって、開発の部署への異動を願いでる。
希望が通り、2003年にエンジニアリング事業本部へ異動となった。
「こちらでは、土壌環境本部という部署に所属します。再開発には土壌調査をすることが法律で定められていますので、直接ではありませんが、開発に関わることができるようになりました」。
<いいキャリアですね>
「そうですね。わざわざ飲食をすることもなかったですね。家族に最初に言った時には、バカじゃないのって一言です(笑)」。家族じゃなくても、誰でもそう言うだろう。実際、融資を受ける際、銀行員にもおなじことを言われている。

人生賭けた、転職。

「会社に対する不満というより、マネジメントの楽しさを知ったというか。実は、清水建設で部署長になってメンバーをまとめて、おなじ目標に向かって組織を動かす仕事をするんですが、それに、たいへんやりがいっていうのを感じるんです」。
<やりがいは分かりますが、どうして、飲食に結びつくんでしょう?>
「もちろん、学生時代の経験も大きいですし、あと一つ。実は、私を動かす存在があったんです」。
<存在?>
「はい。清水建設の同僚で、現在、ケーズカラナリーブランニングという会社の社長を勤めている越野氏という男性です。彼は事務系だったんですが、なぜだか気があって。プライベートでもしょっちゅう2人でつるんでいました。彼は、清水建設をすぐに退職し、マネックス証券などを経て、32歳で独立します。実は『いっしょにやらないか』とも言ってくれたんですが、その時は、さすがに準備も何もできていませんでしたから」。
<それで、先に、越野氏が飲食店をオープンされるんですね>
「彼の性格は知っていますから、起業すると聞いても驚きませんでした。ただ、うらやましいな、と(笑)」。
<独立の相談は、越野氏にもされましたか?>
「私が独立したのは42歳です。家族には、以前、反対されましたから事後報告です。もちろん、普通の人からみたら、正気の沙汰じゃないんですが、人生やりたいことをやろう、と、それだけは決めていましたから。越野氏にはもちろん相談しました。その時、彼のブランドである『MADOy』のフランチャイズをしないかって提案されたんです」。
42歳。思い切った、人生賭けた、転職でもある。

・・・続き

エス・フィールド株式会社 代表取締役 菅原尚也

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2023年11月22日水曜日

店舗ナンバーワンホールディングス株式会社 代表取締役 三浦正臣氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”店舗ナンバーワンホールディングス株式会社 代表取締役 三浦正臣氏登場。

本文より~

親子2人の安アパートと、6+9=と。

「私の曽祖父は黒澤明さんと同期で、映画『ゴジラ』の初代監督です。祖母は女優で、父は自由人。私が生まれたのは、父が18歳、母が14歳。母の両親が猛反対するなかで私は生まれ、育ちます。ただ、私が2歳の時に母がでていってしまったので、育ての親は父だけです」。
親子、2人の安アパート。
「私が、中学3年の時。帰宅すると父がアパートで亡くなっていました」。
生前の父と同じく、引越し業者で仕事をしながら、定時制の高校に通った。
「大変でしたが、働かないと食べていけないし、アパートも追いだされる。だから、仕事で手を抜くことはできませんでした」。
仕事では、遅刻をしたことがない。
学生時代はどうだったんだろう?
「小・中とまったく勉強どころかノートを取ったこともありません。もちろん、高校でも。でも、高校入試には合格していますよ」と三浦氏。種明かしは、こう。
「だってね。数学の問題1)が、6+9=ですからね(笑)」
高校では三浦軍団ができ、卒業式では生徒代表を務めている。その時、披露されたスピーチも気になるところだが、先を進めよう。

「おめでとう。うかったよ」

「高校を卒業してから、いい金になると誘われて穴掘りをはじめます。危険な仕事でしたが、日当1万5000円、悪くありません。でも、アホだから、命をかけても月50万が限界でした」。
当時、三浦氏はギャングのボスに憧れていたそうだ。
「オールバックで、スーツをバッチリきめて。ワインを飲んで、みたいな笑。でも、オレはっていうと、爪の中まで真っ黒。指をみる度、なんだかなって。春になると仕事がなくなり、プータローになっちゃうような仕事でしたし」。
指をみては、ため息をついていたある日のこと。後輩が、お菓子とジュースと求人誌をもって部屋にやってくる。「違う仕事をしましょうよ」っていう後輩の言葉を聞きながら、何気なく、ページをめくっていた三浦氏の手が止まる。
「『18歳以上。学歴不問。やったら、やった分だけかせげる」って、コピーが載っていたんです」。
「やったら、やった分」、文字が頭のなかを駆け回る。
「無知だから、ベンチャー? 上場?って、なに言ってんのか、ぜんぜんわかんないんです。でも、ひょっとしたら50万円のカベを超えられるんじゃないかって。ソッコーで電話をかけました」。
その後の話を少し。
「『来週木曜日16時に面接をします』ってことになって。向かったのは池袋北口。都内に行くのも初めてだから、当時の彼女について来てもらって。着いたところは8階建のでっかいビルです、『デケェ』ってつぶやくと、彼女に背中をドンと押されます」。
「行ってきな」。
成人式で買ったスーツを着て、ロン毛の青年がエレベータに乗る。ふりむけばわかるが、眉毛は1本もない。
「部屋に通され、履歴書をだしたとたん爆笑されました」。
特技は「アーク溶接」と「玉掛け」。
「『そうなんだ、玉掛けができるんだ』って」。
「ブルーカラーとかホワイトカラーとか、相手が何言ってんのかわかんなかったんですけど、とにかく、赤裸々に話をさせてもらって。帰りには新宿に寄って、人生初のスターバックスです。好きでもない珈琲を飲みながら、洒落込んで、ね。これで、オレも山手線のなかの住人になるのかなって、ドキドキしながらね」。
「合否の通知がくる日のことです。当時はPHSで、穴掘りしているとなかまで電波がとどかないんです。で、PHSを彼女に託して仕事にでます。その日に来るのがわかっていましたから、仕事が終わって一目散に帰ります。でも、きったねぇから、一旦、風呂に入んないと部屋に上がらせてもらえません」。
「服ぬいで、頭と体を大急ぎで洗って。パンツ一丁で、ガラガラと障子を開けたら、彼女がケーキをもって待っていてくれて。『おめでとう、うかったよ』って」。
2人して、ケーキを頬張る。甘い未来が口のなかに広がる。

上場企業、最年少、役員。

「アホですからね。『髪の毛を切ってこい』って言われていたのに、ちょっとだけ切って。自己紹介でアホをさらけだすんです。『え、あ~』って言いながら、一瞥をくれてやって、『だれにも負けないんで、よろしく~』って」。
合格をだした面接官が、オフィスの端っこで縮こまっている。
「なんでヤンキーを採用するんだよ」。
うん? どうなっている?
「仕事はテレアポです。給料は15万円。名刺交換もしたことがないし、FAXも使ったことがない。いまだったら、絶対、採用されてませんよね。ある日、朝礼で社長が『三浦くん、前でてください』っていうんです。で、みんなのほうを向かされて。『みなさん、こいつの格好と髪型をどう思いますか』っていうんです。そうしたら『よくないと思います』って。デキレースですよね」。
「カーッと来ちゃって、ムスーとしていると『よくねぇんだよ。その格好も、頭も。来月トップ取れなきゃ、頭、丸めて、リクルートスーツ着て来い」って社長が怒鳴ります。そのあと『国歌斉唱だ』っていうんです。口を閉じていると『どうしてお前は、歌わねぇんだ』って凄むから、ちからいっぱい言い返します。『国歌を知りません』って。本当に知らなかったんです(笑)」。
翌日。
「もう、腹も立つし、凹むし。くそめんどくせぇなって」。
つよがってみせるが、オレにはやっぱり無理かな。ギャングのボスも、都内でスーツも、と心のなかで、弱音を吐く。
「でも、仕事は休まないっていう、昔からの習性で、翌日も会社にはちゃんと行くんです。出勤すると社長が呼んでいるっていうんで、『上等だ』って思って、社長室に乗り込みます。そうしたら『いやー』って。えびす顔で(笑)」。
「『昨日は、くやしかっただろ』っていうから『はい、ぶん殴って辞めてやろうと思いました』って、正直に言いました。そしたら、やっぱり怖い顔になって、『勘違いすんなよって。町田で、いくら喧嘩がつよくって、有名でも、会社では通用しないんだよ。いきがりたきゃ、結果で周りを黙らせてみろ』って」。
結果として、尻を叩かれた格好だ。期待の表れでもある。社長は、当然、恩人の1人。
しかし、当時は、そうは思わない。
「上等じゃねぇか」と腹が座る。
テレアポの件数は、日に800件を超えた。1人、真っ暗なオフィスに残った。
「最初にアポイントをもらったのはゼンショーさんです。ロイヤルホストさんにもアポが取れたんですが、こちらでは2時間ちかく説教されます笑。でも、それがトークを磨くきっかけになり、いまも感謝しています」。
ちなみに、社長の指令は翌月から果たしている。翌月から23ヵ月連続営業成績トップ。三浦氏の成績がダントツすぎて、成績争いは、実質、2位争いだった。壇上に上がるたび、社長が「またお前か」と言って笑った。
この当時、三浦氏は、1人で月1億円の利益を叩き出している。
「役職も、給与も、天井知らずです。24歳の時、店舗流通ネット株式会社が名古屋証券取引所セントレックス株式を上場し、私は、当時最年少で、上場企業の役員になりました」。

・・・続き

店舗ナンバーワンホールディングス株式会社 代表取締役 三浦正臣氏

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花は心を癒すます。

うちの母親は、花が大好きで、戒名にも華を入れまてます。
なので私もなかなか飾れてませんが、花や植物は好きです。

余裕がないとなかなか飾れませんが、今日入口に 二輪の花を飾りました。

コロナ禍では皆が集まる機会なかったですが、ちょっとほっこりしたり落ち着きます。

併せて神棚も造花をやめ、日々の感謝の気持ちを込め榊を飾りました。

こんなちょっとしたこと大事ですね。


戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2023年11月16日木曜日

「飲食の戦士たち」の社長取材、続々と。

2人の若手 新人営業マンの加入に伴い、皆頑張ってくれ「飲食の戦士たち」の社長取材が十数社と続々と入ってきてます。

顧問業務もかなりの数やらせて頂きながら、こなしていきたいと思います。

「飲食の戦士たち」悲願の1,000連載早まりそうです!!


戦略型総合人材採用サービス会社キイストン


2023年11月14日火曜日

株式会社CHIYO 代表取締役 千代谷崇史氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社CHIYO 代表取締役 千代谷崇史氏登場。

本文より~

モデルで活躍。高校時代の話。

読者モデルだった。
「あの当時は、読者モデルの全盛期。私が高校1年生、2年生の頃のことです。付き合いで、派手なグループのメンバーに所属していたのも、この頃。そういえば、今、TVで人気の女子アナもメンバーの1人でした」。
雑誌名をたずねると「egg」「ポップティーン」などの名が挙がる。
ホームグラウンドは渋谷。ラジオでDJとしゃべっていたとも言っている。千代谷氏にとっても全盛期。
この話からは、その昔、千葉に引っ越し、カルチャーショックを受けたナイーブな少年の姿は想像できない。
千代谷氏は1977年東京都目黒区に生まれる。父親の仕事の関係で幼稚園から小学4年生の1学期までは福岡。千葉に引っ越したのは、小学4年生の2学期からで、この時にカルチャーショックを受けている。
「子どもの頃は、いい子ちゃんだったと思いますね。ただ、周りを察知することに長けていたんでしょうね。相手によって顔を使い分けていたように思います」。
走るのがはやく、野球が巧い。たぶん、明るい少年だったんだろう。
「勉強はぜんぜんしなかったですね。あれは、性格的に合わない笑。親から『勉強しろ』とは言われましたが、結果についてはとやかく言われなかった。だから、まぁ、やったふりというか笑」。
とにかく、「やりたいことをやらせてくれた」と、ご両親には感謝しているとのこと。
「小学校で野球をはじめ、中学でも野球部です。高校の時の、モデルの話はもうしましたが、じつは、もう一つ、高校時代から、マーケティングの仕事もしていました」。
月20万円くらいになったというからびっくりする。

グローバルダイニングへ。人生の舵が飲食に向く。

2浪人して進んだのは、大学ではなくマーケティング会社。「とくにやりたいこともなかったんで進学を希望していたんですが、2浪目になってマーケティングをしたいと思いはじめたんです」。
それで就職?
「そうです。今は、かなり大きなイベント会社になっていますが、私が就職した頃はまだ5~6名の小さなマーケティング会社でした。高校生のネットワークをつかって、マーケティングするのが主な事業でした」。
やりたいと思ってはじめた仕事だったが、色々あって、ストレスもたまる。
「ある人の紹介で、当時の、グローバルダイニングのトッププレイヤーにお会いして、新しい道がはじまります」。
それが飲食の始まりですね?
「当時、いちばんやりたくなかったのが飲食です笑。けっきょく、グローバルダイニングで仕事をするようになって、大好きになるんですが」。
ウェイターを補佐するバスという役割だったそう。「デザートだけはオーダーを取ることが許された」と笑う。

バイト時代のスター、店長になって輝きを失う。

千代谷氏が仕事をはじめたのは、ラ・ボエム。グローバルダイニングの基幹ブランドの一つ。26歳で、店長にも昇格している。要因は「おそらく人材がいなかったから」とこちらを笑わせる。
「バイトの時は、スターだったんですが、店長になったとたんなにもできない。マネジメントができなかったんです。クレームの嵐。社長にまで、わざわざ大クレームをいれた人までいました」。
凹みますね。
「マネジメントなんてしたことがないですからね。空回りばかりしていました。ただ、ある時からスタッフを信じて任せる方針に転換。社長にも、店長職にとどまるように言っていただいたこともあって、店長をつづけていくと、ある時から状況が一変し、売上はもちろん利益率でもトップになります」。
26歳から27歳までのわずか1年だったが、何年にも匹敵したのではないか。濃厚な日々。会社の評価も上がり、27歳でエリアマネージャーに昇格している。

40代、50代の,はたらき盛りがいない事実。

「グローバルダイニングを退職したのは29歳の時です。もともとは、もっと早くやめるつもりだったんですが」。
ホームページで千代谷氏は「一般企業でいう、はたらき盛りの40~50代が飲食店の現場には少ないことに気づいた」と言っている。
たしかに、その通り!と膝を叩きたくなった。千代谷氏の指摘は、飲食の問題にズバリ切り込んでいる。じつは、これが起業の背景だともいう。
「飲食というのは、若い人中心のビジネスなんですね。色々な要因がありますが、私は、その問題に切り込んでいかない限り、飲食の未来ないと思うようになるんです」。
その話にも頷ける。
「それで、私が選択したのが、運営代行というスタイルです。経験を積んだスペシャリストたちが、オペレーションすることで高品質のサービスをお客様に提供できると考えたんです」。
「もちろん、資金がなかったことも、運営代行を選択した理由の一つ」と言っている。

・・続き

株式会社CHIYO 代表取締役 千代谷崇史氏

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