2018年2月14日水曜日

とんきゅう様がとんかつとんQ つくば本店に『つくば とんかつ様』を開設!!

つくばに本社のあるとんきゅう様がなんと受験生応援フェア(1月22日~3月31日)としてとんかつとんQ つくば本店(茨城県つくば市東新井13-12)に神社でご祈祷された必勝・合格祈願の守り神「つくば とんかつ様」を設置されました。

うちの永野君、拝んでました(笑)
そのおかげか、営業実績が絶好調に売れに売れています。
永野が売れてるのはこのおかげか・・・(笑)
店頭の絵馬も増えすぎて第一陣は裏側に・・・


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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

千葉商科大学池田ゼミ生へのお礼にと・・。

昨年、千葉商科大学池田ゼミ生による、24時間居酒屋『酔っ手羽』プロジェクトM様の事前課題発表会のお礼にと村山社長に食事招待してもらいました。


やはり学生からの目線でお店やメニューを見ることって大事ですね。
村山社長含めたプロジェクトM、またキイストンの担当も大変勉強になったようです。

池田先生ありがとうございました。
(ゼミ学生の半分以上がバイトや用事変更して参加してくれました)
(酔っ手羽小岩店にて 村山社長と一緒に)
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2018年2月13日火曜日

2018年2月6日火曜日

株式会社エヌクリエート 代表取締役 山本敦之氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社エヌクリエート 代表取締役 山本敦之氏登場。
本文より~

孤独な少年。

4歳の時に、両親が離婚。その時の記憶はまだ鮮明だ。それ以来、育ての親は、祖父と祖母だった。祖父からもぶん殴られて育った。「父からも、好かれてはいなかった」という。
4歳から剣道を習った。全国大会出場の常連になる。中野区の大会では優勝は、いつも山本氏のものだった。いまも中野区では名前が残っているそうだ。「認められたかったんだったと思う」と山本氏はもらす。
2つ違いの兄と比べられたことも少なくない。「お小遣いも、明らかに違った」と笑う。いま思えば、それらすべてがバネになった。
中・高は、ケンカの日々だった。目立っていたのだろう。なにがあっても、山本氏が原因と決めつけられた。
「私にとって、祖父が大きなカベでした。いつか超えてやると思っていました。どうしてでしょうね。たぶん理不尽だったんです。たとえば私が、剣道でいくら優勝してもぜんぜん認めてくれない。そういうことに対して、反抗していたんだと思います」。
心のなかに、いつもモヤモヤと何かがくすぶっていた。
高校を卒業してからは、外国語の専門学校に進んだ。昔から英語が得意で、商社で勤務しようと思っていたからだ。ただ、道は違う方向につながっていた。

結婚を転機に、無謀なチャレンジを開始する。

「18歳からサーフィンを始めたんです。これが、楽しくて、そちらが主になっちゃうんです。サーファーなのにサラリーマンのヘアスタイルっていうのは、どうかなって(笑)。それで、当時、バイトをしていた内装業者に、そのまま就職することにしました」。
商社と内装業者。失礼な話だが、まるで異なる職業だ。「でも、若い時って、そんなもんでしょ」と山本氏。選択が間違っていたという思いはないようだ。
「ただ、しばらくして転職します。小さな会社だったもんですから。22歳の時に、規模の大きなゼネコンに移りました」。
職人をつづけながら、「監理」の仕事もするようになった。給料は悪くなかった。その一方で、サーフィンはつづけた。サーフィンをするために、海外まで出かけたことがある。
「あの頃、頭のなかはサーフィンのことで埋め尽くされていました。でも、どこかで、こういう生活をつづけていてはいけないなと思ってもいたんです。そんなときに、ひとりの女性と知り合いました」。
それがいまの奥様だ。
ふつう結婚ともなれば、そうそう転職はできない。しかし、山本氏は、真剣に仕事をするために、もう一度ステージを回転させた。
無謀といえば無謀だろう。山本氏が選んだのは、ラーメン。むろん、料理の経験はない。真っ白な素人である。

逃げ出さなかったのは、それだけラーメンに惹かれたからかもしれない。

それから山本氏は4年半に亘り、永福町にある、都内でも、最もきびしいと評判のラーメン店で勤務する。
「ラーメンが好きだったんです。真剣に仕事に打ち込むなら、これだと。いくつかあるなかで、最高の一杯だったラーメン店の門を叩きます」。
面接はなんと7回を数えたそうだ。
「それくらいは、当然の店です。だって、みられているのは、根性だけですから」。
休みは、ない。
「月に3日。休みがあるにはあったんです。でも、休みの日も『4~5時間は、はたらくもんだ』と言われて」。むろん、拘束時間は長い。1日15時間。
新婚なのに、山本氏が、妻と過ごす時間は限られていた。しかも、自宅でも、山本氏はラーメンをつくった。食材を調べては、新たな味の掛け合わせを追求する。奥様とはすれ違いの日々。一心不乱にラーメンづくりに没頭する山本氏をみて、奥様はどう思われていたんだろう。
「きつかったですね。あの頃は相当。私もだし、女房も」。いつのまにか、食卓には、離婚届がおかれるようになっていたそうである。
「どうしてでしょうね。あの頃は、根性だけはだれにも負けないと思っていたもんですから、折れることができなかったんです。それに、結婚して、逃げ道もなかった。だから、やるしかなかったし、ラーメンが、それだけ私を惹きつけたとも言えるじゃないでしょうか」。
・・・続き
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2018年2月1日木曜日

大和串Planning株式会社 代表取締役社長 多々納大展氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”大和串Planning株式会社 代表取締役社長 多々納大展氏登場。
本文より~

「しんどなって、やめました」。

大阪、難波は雑多な街である。心斎橋筋、宗右衛門町、戎橋、御堂筋。バブルの頃は灯りが消えることはなかった。多々納氏の実家は、40年以上、この街で飲食店を経営されている。
多々納氏が生まれたのは、1972年8月22日。大阪府吹田市で万国博覧会が開催されてから2年。高度経済成長期、真っ只中でもある。第二次ベビーブームはちょうどこの頃だろうか。
「運動神経はいいほうでした。小学校の時は、陸上で短距離。中学・高校では硬式テニスをしていました」。たしかに、巧かった。大学は「テニスで行けるのでは」と思っていたほど。しかし、スカウトも観に来たが、最終的には声がかからなかった。推薦で受験したものの不合格。「しんどなって、やめました」。「やめた」というのは大学進学のことである。

「後悔せぇへんこと」。

「テニスをしていた時に1回だけやらかしたことがあるんです。最後の大会の団体戦。私が勝てば、相手に勝って、より大きな大会に進める、そんな試合でした。マッチポイントです。相手がミスショットして、ボールがネットに当たったんです。いつもなら、最後まで走りぬくというのが信条だったんですが、その時は『勝ったぁ』って思いこんでしまって」。
ボールはネットをくるりと反転させ、こちらのコートにぽろりと落ちた。「人前であんなに泣いたことはない」と多々納氏はいう。いろんな思いが胸をよぎり、それが嗚咽となった。小さい頃から何事にも動じない少年が、見事に泣いた。泣き切ったというのが正しいかもしれない。
「悔しかったですねぇ。あれからです。もう、後悔するようなことはしないって。だから、大学に進まなかったことも、飲食を始めたことも、ぜんぜん後悔していないんです」。

「知り合いは300万円の借金をつくって、トンブラです」。

大学に進まず就職したのは、法善寺「串の坊」。いうまでもなく、関西の名店だ。「3~4店舗くらいに絞って、食べに行っていちばんええなと思ったのが『串の坊』さんでした。こちらで4年、修業させていただきます」。
実家ではたらく選択肢はなかったんですか?
「なかったですね」と多々納氏。
「ただ、飲食に進んだのは親の影響があったからだと思いますし、高校時代から飲食でバイトをしていましたから、抵抗もありませんでした」。
「串の坊」の門を叩き、4年、経った。それがちょうど1995年。「私が『串の坊』を辞めた時、阪神大震災が起こるんです。あの時は、ちょうど無職で。やることも別になかったもんですから、すぐにボランティアに向かいました」。
「困ったことはないか」と聞いて回る役割が与えられた。「そのなかで『車をなんとか手に入れたいんやけど』、なんていうのがあって。それがきっかけで、実は、それから2年くらい車屋をするんです」。
オークションで車を仕入れ、販売する。差額が利益になった。「1人でしたから、贅沢さえしなければそれなりに食べていけました」。1台、販売すれば5万円、高い車になれば30~40万円の利益が出たそうだ。
「そうですね。車だけの時はよかったんですが、保険も扱うようになって。そのあと、知り合いと手を組むんですが、結局、その知り合いは300万円の借金をつくってトンズラです(笑)」。
・・・続き
大和串Planning株式会社 代表取締役社長 多々納大展氏
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2018年1月26日金曜日

とんきゅう株式会社 代表取締役社長 矢田部武久氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”とんきゅう株式会社 代表取締役社長 矢田部武久氏登場。
本文より~

あんこやのセガレ。

「横浜港から船でハバロスクに向かって、そこからシベリア鉄道に乗って、そうやって昔はヨーロッパの山を登りに行ったんだ。手をふりながら、『あぁ、オレも行きてぇなぁ』って」。
ヨーロッパの山に向かうともだちを見送った時のことはいまも鮮明に記憶している。
小学1年生の時。ボーイスカウトの仲間と山に登ったのが、山好きになったきっかけ。日本大学の商学部に進んでからはワンダーフォーゲル部に入り、次々と山を制覇した。その数は、もうすぐ100に達するという。
「いまで97。あと3つだね」。
山登り同様、アップダウンだった人生を、これからも楽しむように、まだ矢田部氏は前を向いている。
矢田部氏は、1948年、茨城県下妻市に生まれる。下妻市は内陸にあり、昔は人口も少ない都市だった。矢田部氏の実家は、この下妻市で、「あんこや」を経営されていた。
「姉弟は4人いたんですが、男は私だけです。父親は20歳の時に単身中国に渡り、ビジネスを起こしたりしたそうです。そういうことも含め、私は小さい頃から父親を尊敬して育ちます」。
「いずれ父親の店を継ぐもの」と思っていた。事実、小学6年から高校3年まで、「学校の時間以外は、あんこやの手伝いをさせられていた」と語っている。準備は、整っていたわけだ。
「大学を卒業したら店を継ぐ、というのが親父との約束で、既定路線です。でもね。ともだちを横浜で見送ったり、ワンダーフォーゲル部でいっしょだった仲間が、商社に入ったりしてね。なんだか、オレの人生それでいいのかなって。もちろん、一度はもどりました。朝4時に起きて、あんこをつくっていました。これが、あんこやのセガレの人生なんだとジブンに言い聞かせて」。

現実からの逃避行。

「合計、2年間くらいです。父親を尊敬しているでしょ。親の面倒もみなくちゃいけない。それでも朝4時から、夕方まで、黙々と仕事をつづけるわけです。食べていくには、困らない。でも、それでいいのかって」。
悩みに悩みまくった末、矢田部は、そっと家を出る。そうするしかなかった。
「現実から逃げ出したんです。でも、もうそれしかなかった。両親には申し訳ないって。何度も頭を下げながらです。でも、あれがすべてのスタートですね。私の、ホントの人生の」。
アメリカに渡るために、トラックに乗った。3ヵ月で80万円を貯蓄する。コーヒーの原液をはこぶ、重労働だったそうだ。
ところで、山登りの一方で、矢田部氏は、旅も好きだ。あんこやで勤務している時も、3ヵ月の休みをもらって念願のヨーロッパに出かけている。のちには、インドのカルカッタからドイツのフランクフルトまで、9ヵ月かけ1人でオートバイの旅をしている。
奥様は、イギリス人。こちらは東京で出会われたそうだ。奥様との出会いは、矢田部氏にとって、大きな人生の転機ともなった。その話は、のちにする。

とんかつ店「とんQ」オープン。

「25歳で運転手やったあと、会社を立ち上げました。商社です。仲間と2人で。それで実は、3000万円の借金をつくっちゃうんです」。
当時、付き合っていた奥様のビザも、もう更新できないまでになっていた。「それで籍を入れて親父に頭を下げて、2人ではたらかせてもらうんです。これが私の転機ともなりました」。
最初は反対されていたんだろうか。一時は、奥様を東京のアパートに残したまま、矢田部氏1人、実家にもどり、父親が経営する「あんこや」に通い、仕事をしていたそうだ。そして、奥様が店に入られるようになると、夫婦2人の、あんこづくりが始まった。その姿をみて、ご両親も結婚を許された。
「とにかく、この時、3000万円も借金があったわけで。だから、『なんとかしなくっちゃ』と思って。それで『とんかつ』の店をオープンします。当時、つくばも、まだまだ小さな町でした。しかし、筑波大学ができ、デパートができ、日本でも屈指の都市になるのがわかっていたから、そこに賭けてみようと」。
ただ、「あんこ」はつくったことがあるが、「とんかつ」はない。知り合いに紹介してもらった横浜の名店で修業する。たった3ヵ月だが、人生を賭けた修業である。血肉もなった。
ただ、矢田部氏は、面白いことを言っている。
「ふつう料理がうまい人は、安い素材からでも旨い料理をつくるでしょ。でも、私はそれができないから、素材でカバーしたんです」。
いまも「とんかつとんQ」は、日本のトップブランドである、農林水産大臣賞を受賞した国産ブランド『やまと豚』を使用している。
ともかく、33歳の時、矢田部氏は「とんかつとんQ」をオープンする。夫婦2人。オープン初日からイギリス人のおかみさんが、お客様を魅了する。
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで) 

株式会社ゴンチャ ジャパン 取締役社長 兼 COO 葛目 良輔氏登場。

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大学時代までの葛目氏。

小学6年生の秋、東京の下町「深川」に移り住んだ。
父方も、母方も、比較的裕福な家庭育ちであったが、その父母がつくった葛目家は慎ましやかな家庭だった。
「勉強しろとは言われなかったですね。兄は、親父の影響で柔道ですが、私は、野球です。その野球がいちばん面白かった6年の秋に引っ越しですからなんでかなぁって」。
深川に転居するまでは、茨城県の取手で暮らしていたそうだ。
一つ違いの兄は、いい意味で友人でもあり、ライバルでもあった。
「高校は、それなりの進学校に進み、高校でラグビーをはじめました。高校でデビューするなら、多くの選手がはじめて取り組むラグビーがいいかなと思っていましたし、友人が『いっしょにやろうぜ』って、誘ってくれたこともあって」。
「それで、大学3年までです(笑)」。

One for all, All for one。

大学は明治大学。ラグビーは同好会だが、バイトの時間が取れないほど真剣にラグビーと向き合った。「今振り返れば、私の人生のなかでラグビーは大きな意味を持ちます。スポーツとして楽しんだということもありますが、人間教育という意味で、私の価値観はラグビーによってつくられたといってもいいんじゃないでしょうか」。
「One for all, all for one.(1人はみんなのために、みんなは1人のために)」。
ラグビーの精神だ。
「私はフランカーといって、泥臭く、いちばんグランドを駆け回らなければならないポジションでした。その分トライするチャンスもあるわけですが、決して派手ではない。誰かのためにという自己犠牲が強いられるポジションです。そういう役割だったから、余計に人間的な幅が広がったのかもしれません。一方で、試合が終われば、敵味方関係なく『ノーサイド』。この考えは今も私の基軸となっています」。
ちなみに、やかんの水は魔法の薬だったそうだ。やかんの水をかければ、捻挫だってなんだって治る。信じられていたわけではないが、実際にやかんの水は、何かある度に選手たちにぶっかけられた。大学3年時に副主将となった葛目氏は、いいかわるいかわからない、そういったラグビーの伝統とも折り合いをつけながらも、みんなを率いた。グランドを離れてもフランカーの役割はそう変わらなかったのかもしれない。

22歳の平社員に送られた貢物。

「私は、基本、猪突猛進のタイプなんです。いったん『こうだと思ったら、突き進む』奴なんです。社会人になって、それが少し変わりました。価値観が変わったと言ってもいいかもしれません」。
大学卒業後、葛目氏が進んだのは大手電機メーカー。大学時代に広告・マーケティングを専攻していたからか、いきなり宣伝部に配属された。花形部署である。
「『どんなコネがあったんだ』って同期社員に言われました。そりゃそうです。会社の中でもエース級ばかりの部署ですから。いきなり新人が配属されるような部署じゃなかったんです。でも、配属されてしまった」。
葛目氏が就職したのは、1993年。一般的な認識では、バブルが弾けてから1年後となる。「それでも、会社に勢いがあったし、宣伝部はその恩恵を受けていました」。
広告代理店の営業マンが、すり寄ってくる。お歳暮、お中元には、貢ぎ物が山となった。展示会を開いたあとは、コンパニオンとの食事がついてきた。アメリカ出張にも、行った。遊びがてらとは言わないが、それに近かった。
「もともと、20代の時はいろんな仕事を見てみようという思いがあったんです。それもあって3年で転職するんですが、あの時は、それ以上に『このままこの部署にいたら、人間がダメになる』って、それが怖かったんです」。
ある日、本社1Fのロビーで、同期の営業がお客様に深々と頭を下げているのを見た。その向こうでは対照的に、取引先の営業とふんぞり返って話す、部署の先輩の姿があった。転職のきっかけになったのは、そんな先輩の姿だった。

レジを打ったこともない人間が、経営を語れるのか?

「あれを見た時、ああはなりたくはないと心底思ったんです」。普通なら、取引先から致せり尽くせりの、だれもがうらやむ宣伝部だ。自ら、退職を願い出る人間はそういない。ただ、葛目氏という人は、そういう人なのだ。「One for all, all for one」。大事なのは、やはり、それだった。
「それから、偶然なんですが、CCCの求人広告をみて、すぐに応募しました。採用していただいて、本部のフランチャイズ事業を推し進めることになります。これは、宣伝部の時なんですが、年に何回かは、店頭に駆り出されるんです。なんといっても私が一番若いですから。その時、『小売』という仕事に何かしら興味を覚えていたんです。だから、CCCはある意味、ぴったりだったんです。ところが、いきなりスーパーバイザーでしょ。店舗を運営した経験がない。いわば、野球を知らない人間が、野球のコーチをやるようなもんです。加盟店の店長さんから『レジもできないんだろ』って、はっきり言われたこともありました。悔しかったですね。でも、そのような辛辣な言葉も含め、すべてが私を育ててくれたのも事実です。えぇ、前職とはまったく違います。何のバックもない。だれかに責任を押し付けることもできない。まさに、つねにボールを求めて、走り回るフランカーです/笑」。

「これだ」。スターバックスに突き進む。

CCCでは、計4年過ごしている。2年間は本部で。それから2年間は、直営店の店長。転機はアメリカ研修の時に出会った一軒のカフェによってもたらされた。
「流通でもアメリカは最先端なんです。カリフォルニアに行って、まだ『トイザらス』も絶好調の頃ですね。本屋内に併設された一軒のカフェがあったんです。店名は『スターバックス』。これだ、って。TSUTAYAとカフェですね。そういうのが電撃的に頭の中を駆け抜けたんです」。
帰国後、すぐにスターバックス コーヒー ジャパンに電話を入れる。「結局、スターバックスでは6年ですね。時間と空間を提供する、そういう元々やりたかった仕事が堪能できました。それからもう一度CCCに戻り、スターバックスのFC事業の責任者を5年、新規事業推進の責任者を2年、務めます」。
電機メーカーから始まって、CCC→スターバックス→再度CCC。しかし、まだ終わらない。
・・・続き

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