2019年6月16日日曜日

シニアの方をどう活かすか。

60歳、70歳過ぎても今までその方がやられてきたキャリアを活かしたり、新たな働ける環境を整えたり、老後も働ける環境を作ることが大事。

今回、書籍の取材・ライディング、それに記事の連載を70歳の土金さんにお願いしてるが、私たちがやるよりもきめ細かく、若い時から鍛えられ基礎がしっかりされてるので、超安心してます。

そんなキャリアお持ちの方々が、キイストンを通じて仕事が増えたら最高に嬉しい!

経営革新計画進めています。

より業務に幅広げるため、経営革新計画進めています。
新たな業務もコツコツと実績作って、大きな柱になれば…。

2019年6月9日日曜日

身体をフル充電!

土日の休みにしっかり身体の充電。
ハイチャージNEOと酸素カプセルでフルチャージ!!
そして天然温泉に…。


2019年5月29日水曜日

阪神食品株式会社 代表取締役 檜谷 進氏登場。

本文より~

島根県益田市匹見町。

「昔は、雪も1メートルは積もった」と、今回ご登場いただいた檜谷進氏は笑う。1949年生まれ。出身は島根県益田市匹見町。檜谷氏いわく、「中国山脈のど真ん中」。
地図で調べてみると益田市は島根県の西部で一部が山口県と接している。海にも面しているが、中国山脈のど真ん中というから、檜谷氏が育ったのは山間部のほうなのだろう。
「うちは、檜谷板金工作所っていう看板を掲げていました。もっとも堂々たる看板を掲げていても、社員は、社長の親父とお袋と、私です」。
檜谷氏は、7人きょうだい。「兄もいたんですが、兄は勉強ができたから、そっちは兄に任せて、私はうちの手伝いです/笑」
坂道を駆け上がったり駆け下りたり、海や川での素潜り山での収穫物体験自然のいとなみを十分堪能していました、記憶は曖昧と言いながらも、そのいくつかの思い出は、今も檜谷氏の財産だ。
「貧しかったですが、それを苦に思ったことはなかったですね。やがて、地元の工業高校に進むんですが、うちの手伝いは高校になってもつづけます。だいたい昼の3時くらいに学校が終わるでしょ。走って帰って、6時くらいまで仕事をしていました。手先は器用ではなくやらなければならないのでやっていました。
いま、益田市を写真でみると地方都市という風情だが、当時は檜谷氏がいう通り片田舎だったのだろう。高校を卒業した檜谷氏は、集団就職で都会にでる。「昔は、集団就職っていうのがあってね。文字通り、集団で都会に出て就職するんです。会社は予め決められています」
蒸気機関車。ボーと汽笛が鳴る。益田を離れる同級生と2人、何をしゃべって就職先がある大阪に向かったのだろう、覚えている事は「一旗上げんと帰れんのうと!!」。

プロボクサー。生涯ファイトマネー、4000円。

「ボンベに水素ガスなどを充填する仕事に就きました。2年くらいその仕事をつづけて、つぎはカフェでアルバイトです」。
「じつは、私、プロのボクサーだったんです」とこちらを驚かす。
「もっとも、リングに上がったのは25歳の時。ただ、それ一回きり。そう、一戦で、引退です。ファイトマネーは4000円でした/笑」。
奥様と出会ったのは、21歳の頃。リングを下りた檜谷氏、すでに子どもがいた。
「正直いうと、怖かったんです。後輩の顎が割れたのも、観ていましたし。でも、男の子どももいたでしょ。だから、一回は、プロのリングに上がらんと親としての格好がつかんと。で、上がったもんだから、もういいだろうって。それで、当時のバイト先だった株式会社加ト吉(現テーブルマーク株式会社)に就職します」。
「マネキン」といったそうだ。
「じつは、加ト吉でエビフライの試食販売の売り子(これがマネキン)のバイトをしていたんです。案外、これがうまくいって。アルバイトの時から一目置かれていました。その加ト吉を8年半で退職します。理由ですか?転勤できなかったんです。転勤したら、大好きなソフトボールを辞めなければならなかったから/笑」。
ジョークかとも思ったが、そうでもないらしい。ソフトボールは29歳から56歳までつづけ、「なみはや国体」にも出場されている。つまり、筋金が入っていたわけだ。
「そうですね。子どもの頃から勉強は苦手だったけれど、スポーツは万能でしたね。何しろ、中国山脈を根城にした野生児ですから/笑」。

「6年4組」。

会社は辞めたが、加ト吉との付き合いはつづいた。「取引先として、独立させていただくんです。独立1年目に1億円の売り上げを上げることができました。現在、39期目です」。
余談だが、1年目1億円をあげたときは、奥様と2人。売上額は異なったが、まるで昔の父親と同じだ。翌年、奥様の弟が参加。以降1年に1人は採用したが、じつは赤字つづきだったそう。
「交際費を年に300万円くらい使っていました。給料はちゃんと支給しました交際費が原因だってわかっていましたから。でも、10年間、そんな具合だった」。
数年経てば、社員は辞めた。つづかない。檜谷氏のかみなりが落ちるからだ。「私の問題です。ついつい、いらないことまでいってしまって創業者にある共通点です。今は、もうぜんぜん違うんですがね」。
まだまだ校長になれていなかった頃の話だ。
さて、今回、飲食の戦士たちにご登場いただいたのは、メディアなどにも度々取り上げられている「6年4組」のお話しもお伺いしたかったからである。
「これはね。親と子が教室で食事をするイメージで出店した居酒屋です。ノスタルジーというのか、小学生の頃にもどって楽しめるわけです」。
モデルは12歳のとき、父親の仕事を手伝いながら休憩時間に眺めていた益田市の岩倉分校だという。調べてみると、もう、廃校になっていたが、たしかに、昭和の温もりがあった。
ちなみに、「6年4組」は東京、大阪、名古屋、福岡にも分校がある。ホームページにある「皆さんの通学区域にあわせて、分校がたくさんあります」という一文も、なかなか気が利いている。
じつは、今、飲食事業も、阪神食品グループの一つの柱だ。
「6年4組」以外にも、「元祖343鮨」「割烹焼肉 松永牧場」「堺筋本町給油所(注意/ガソリンスタンドではない)」島根県浜田市と提携した「山陰浜田港」などユニークな店を展開されている。
・・・続き
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株式会社シゲキッチン 代表取締役 間宮茂雄氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社シゲキッチン 代表取締役 間宮茂雄氏登場
本文より~

ボンボンと言われた少年。中3で夜逃げを体験する。

別荘も箱根と静岡にあったし、30フィートの大型クルーザーもあった。夏休みの行事は、クルージングや海外旅行が、定番だった。欲しいといえば、何でもすぐに買って貰えた。
「かなりのボンボンでした」と、間宮氏は笑う。父親は「家具店」を経営されていたそう。従業員が50名くらいいたから、相当な規模である。「3人きょうだいの3番目なんですが、上2人が女ですから、私が長男。男だから、当然、チヤホヤされます。しかも、従業員の人らからは『若社長』っておだてられたりしていました」。
何不自由ない。間宮氏の子どもの頃は、まさにその言葉通りだった。お金もあるし、頭もいい。スポーツもできた。若社長と言われる少年。本人も、その気になっていたそう。実際、小学生の文集には「社長になる」と断言している。
「中学では、テニス部に入り、市内の大会で優勝しました」と間宮氏。何もかも、巧く行く。「しかし、それも中学3年生の夏までの話です。親父の会社が、倒産してしまいます。それで、夜逃げです」。
まだ、箱根に所有するホテルがあった。だから、箱根に向かい、そのホテルに滞在し、1週間、みんなで姿をくらました。
「父と母と姉2人と私の5人です。気晴らしだと、ゲームセンターにも連れて行って貰ったんですが、ぜんぜん楽しくない/笑。そりゃそうですね。ただ、そう悲壮感もなかった。何しろ、尊敬する親父がいるんですから。いう通りにすればいい、と」。

きょうだい3人の暮らし。

「親父が『オレは責任を取るために旅にでる』と言い出しました。保険金の話です。私だって、親父が何を言っているか理解できました。母も『なら私も』と言い出し、私も、上の姉も『なら、いっしょに』って話になったんです。もし、あの時、いちばん上の姉が『私は、1人でも生きる』と言わなければ…」。
いちばんうえの姉の一言で、みんなの目がさめたという。「それで、子どもたちだけでも逃がしてやろうってことになって、私たちきょうだいは住んでいたマンションに戻ります。1ヵ月くらいいたでしょうか。毎日、取り立てが来て」。
風呂も夜中2時に、入らなければならなかったそう。「それで、私が賃貸を探してきて、子どもら3人で暮らし始めます」。親戚にも胸倉をつかまれ、「オヤジをだせ」と凄まれたらしい。むろん、相手も意味ないことと知りながら、そうでもしなければ、気が済まなかったのだろう。
家賃は7万円の3DK。みんなのアルバイト代で、支払った。3~4年、暮らした。
「いったん、ゴルフを始めます。お金もないから、大学も行けない。だから、『ゴルフをしろ』って。あれは、父親の作戦だと思うんです。あれがなければ、グレていたかもしれません。ただ、高校に入って、ゴルフの練習場に行くのにバイクを買うと、今度は、そっちにハマってしまって。もちろん、暴走族じゃない。白バイにも憧れたんですが、高卒だと白バイに乗れない/笑」。
大学に行く、頭はあったが、お金がない。
今度はないない尽くしとなる。
「最初は、公務員がいいなと思っていたんです。白バイもその延長です。でも、学歴社会なんですね。大学に行っていないとどうしようもないカベがあることを知りました。じゃ、どうすればいいか、それが起業。結局、親父のあとを追いかけます」。

間宮氏の磁力。


二十歳まで店をだす、と決めていたそう。ハンバーグショップからスタートしたが、ある時、父親に、ある焼肉店に連れていかれ、方向を定める。
「それから、すぐに焼肉店で修業を始めます。ハイ、目的がありましたから、誰よりも早く店にでて、包丁を研いで。そういうのをちゃんとみてくれていたんでしょうね。上司からも可愛がってもらいました。ただ、二十歳で起業しようと思っていたので、1年半くらい経った時に辞めさせてくださいっていうんです。でも、期待されているぶん、なかなか許していただけない/笑」。
真剣にはたらく、目標を追いかける人は、強烈な磁力を放つ。それが、出会いも生む。
「たまたま社長の知り合いという、ある会社の社長が店をだすというので、私が出向くことになったんです。実は、その店が、ここなんです」と、間宮氏は店内を見渡す。
「おわかりだと思うんですが、立地がよくありません。だから、ぜんぜんだめでした。ランチをやっても暇なんで、私は別の会社にアルバイトに行き、そちらでも修業させていただきました」。
昼、夜、深夜。本業以外でも、いい出会いがあった。
「株式会社ニュールックの金本社長です。今もぜんぜん頭が上がらない人です。私が、前オーナーから、この店を買い取ってスタートした時も、毎日のように金本さんのオフィスにお邪魔し、指導していただきました」。
オーナーがかわったって、突然、流行るわけはない。
「そうなんです。だから『どうしよう』『どうしょう』ばかりです。でも、金本さんは、『やっていることは間違っていないんだから、そのままでいい』と。ただし、『くさった肉は出すな。捨てる勇気をもて』と、いいつづけてくださいました。結果、1年はかかりましたが、給料も取れるようになり、天狗になれるくらいは、利益もでるようになりました/笑」。
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2019年5月22日水曜日

株式会社ブーランジェリーエリックカイザージャポン 代表取締役社長 木村周一郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ブーランジェリーエリックカイザージャポン 代表取締役社長 木村周一郎氏登場
本文より~

木村屋總本店の、御曹司。

木村屋總本店。大看板に描かれた「木村家」の三文字は、幕末の偉人、山岡鉄舟の筆によるものだそう。創業は明治2年。明治7年に創業者の木村安兵衛が「酒種あんぱん」を考案、発売。この時に、日本のパンの歴史がはじまったと言っていい。今回、ご登場いただいた木村氏は、この木村屋總本店の6代目当主のご子息である。
幼稚舎から大学まで、慶應義塾。俗にいうエリートコースだ。小さな頃から活発な少年で、小学校からラグビーをはじめ、学外ではリトルリーグに所属。野球、ラグビーだけではなく、水泳もやっていたそう。そればかりか、実は5歳からスキーもやっている。このスキーは、高校でもやり、新潟にあるスキーのレーシングチームに入っている。
「中学生は、野球部です。思い出という意味では、中学の時に担任から『夏期講習に参加しろ』と言われて、実際に、参加したことですかね。『早慶開成コース』って奴です。最初は、断トツのビリ/笑。でも、10日間の講習が終わる頃には上位3分の1には入っていました。だからどうなんだ、って言われると困るんですが、もともと担任に言われていたのは、講習に参加して『自分を知る』ことだったんです。そういう意味では、少しは己を知ることができたと思いますね」。
高校では、前述した通り、スキーのレーシングチームに入り、雪山を滑りつづける。「大学も、スキーですね。いや、もうスキー一色でした」。1年~4年まで、監督の教え通り、スキー三昧。
実は、就職も、スキー部の先輩に誘われて、大手の生命保険会社に進んでいる。

就職して5年。いきなり「パンの世界に入れ」という指令が下った。

生命保険会社では、法人営業を担当した。300名以上の従業員がいる大手企業が対象だ。「1年間、研修があって、残り4年が営業ですから、計5年勤務したことになりますね。仕事ですか? そうですね。なかいい成績は残せませんでしたが、楽しかったですよ。特に退職する前には、転勤も決まっていましたから、ひそかに楽しみにしていたんです」。
退職理由は一つだけ。実家から突然「パンの世界に入れ」という指示が下ったから。
「突然のことですし、楽しみにしていた転勤ももうすぐでしょ。それで、当時の部長と、親父を誘って3人でゴルフに行ったんです。それが、いけなかったというか。あるラウンドでラフに打ち込み、グリーンにもどってきたら、部長がいきなり、『そういうことで、お前、会社を辞めることになったから…』って。こっちにすれば、『そういうこと、って…。おい! 何か意見を言ってくれるはずじゃなかったのか!』ってなるわけですよ。もちろん、口にはできませんが/笑」。
それで、パンの世界へ?
「そうです。ただ、パンの世界へ、ってことではなくて大きなプロジェクトが動いていたんです」。

アメリカ、カンザス州にある『米国立製パン研究所(AIB)』へ。

「当時、私は27歳でした。いうまでもなく、パンづくりは素人です。『素人に英才教育をしたら、どうなるだろう?』っていう、ある意味、無茶苦茶な試みを業界の重鎮たちが企画して、それで、私に白羽の矢が立ったんです。遺伝子という意味では、日本でも最高のパン職人のDNAを持っていますからね/笑」。
歴史も長い!
「そう、うちは、いうなら、日本のパンの歴史ですから」。
ともかく、「素人に英才教育をしたら、どうなるか」の、プロジェクトがスタートする。舞台は世界にも広がっていた。
「素人ですからね。まず、横浜のベーカリーでパン生地に慣れ、それからアメリカに渡り、カンザス州にある『米国立製パン研究所(AIB)』でパンづくりを基礎から勉強しました。学生時代、勉強なんかしたことがなかったんですが、ハイ、こちらでは猛勉強です。こちらで2年半滞在します。『米国立製パン研究所(AIB)』は、米食品医薬品局(FDA)唯一の研究機関で、パンづくりを理論的解析します。いっしょに学んでいるのは、理系の博士号を持っているような人たちでした」。
まったく、意味がわからない。ふつうなら、有名なベーカリーショップへ、入るはずだ。わざわざ小難しい、国立の製パン研究所とは? パン職人の修業、そのイメージからかけ離れている。
「もちろん、このあと、ニューヨークのベーカリーで仕事もするんですよ。ただ、治安も悪い時で、ホールはアメリカ人でも、裏方はスパニッシュばっかり。英語が少しわかりかけていた時に、今度は、スペイン語です/笑」。
言葉の違い、文化の違いには、ポジティブな木村氏といえども悩まされたようである。
重ねてと、なるが、ここまで木村氏が、経験したのは一般的にいう修業のアプローチとは異なる気がする。パンをみつめ、ロジカルな答えをだす。日本にない、発想だったに違いない。重鎮たちの狙いも、案外、そんなところにあったのかもしれない。ロジカルに語れるパン職人。ただ、その職人は、すでにフランスにいた。

本格的な修業時代、到来。

「パンづくりには、センスも大事ですが、まず、気配りがなくてはなりません。もちろん、体力もいる。『ちょっと、小麦粉もってこい!』で、1袋25キロですから/笑。私は、ニューヨークのあと、フランスに渡ります。いまパートナーであるエリック・カイザーに出会うのは、この時です。エリック・カイザーは、当時、『INBPフランス国立製パン学校』の指導員でした。50年に1人の天才と言われていた人です。私は彼に師事します。早朝から日が暮れるまで仕事をしました」。
海外で「木村屋」の名は通用しない。「木村屋の御曹司」と言っても、だれも意味がわからなかっただろう。のちに、木村氏は、このエリック・カイザーに認められ、「いっしょに日本でショップをやろう」と誘われるのだが、これは純粋に木村氏を評価してのこと。まざりっけは、何一つない。
「海外は合計3年半くらいですね。フランスから、イスラエルにも渡りました。やはり、印象的だったのは、エリック・カイザーですね。彼は、経験則でモノを言わないんです。『なんで?』というと、理論的な言葉が返ってきます。それだけパンのことを研究しているんですね。じつは、彼がつくる、つまり、うちも当然そうですが、パンの製造方法はほかとはまったく異なるんです。そもそも発酵から違いますから」。
むろん、その違いが、「旨いパン」のもとになる。
話はとぶが、いま、木村氏の店では小麦粉も、バターも特注品だ。すべて、究極のパンをつくるため、メーカーにオリジナルなものをつくってもらっている。このこだわりも、また、エリック・カイザー譲りかもしれない。
「彼は、私より5つ上です。質問に対して、理論的に解説できる職人はそういないんです。彼は、いうまでもなくその1人。ハイ、リスペクトしています」。
エリック・カイザー氏は、現在、株式会社 ブーランジェリーエリックカイザージャポンの取締役である。修業を通して、尊敬できる人との絆が生まれたということだろう。
素敵な出会いでもある。ただし、この出会い。偶然ではなく、必然と思うのは、私だけだろうか?
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2019年5月21日火曜日

株式会社ロイヤルストレートフラッシュ 代表取締役 類家令奈氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ロイヤルストレートフラッシュ 代表取締役 類家令奈氏登場
本文より~

ボンボン、裕福な少年時代を送る。

東京の赤羽に広い屋敷があった。
「子どもの頃は、とにかく裕福でした。父親は日産自動車から独立し、内装の会社を興します。会社もうまくいっていましたし、祖父の代からの資産もありましたから」。
なんでも、マンションも都内に2棟所有されていたそうだ。
「内装の仕事では飲食店も担当していて、あのグローバルダイニングやスターバックスも手がけていました。それもあって、グローバルダイニングの長谷川社長も何度かうちでおみかけしました。ええ、恰好いい人でした」。
長谷川幸三氏と言えば、モンスーンカフェなど、当時、もっとも斬新なブランドをリリースし、コンセプトレストランの道をひらいた人である。この長谷川氏のアイデアを、名料理人同様、形にしたのが、内装のスペシャリストである類家氏の父親だったのだろう。内装以外にも1店舗だが自身で飲食店も経営されていたそうだ。
ちなみに、父親の弟も、埼玉で飲食業を営んでいる。やがて、この叔父が類家氏の道をひらいてくれる恩人の1人になるのだが、それはまだ先の話。類家氏の子どもの頃に話をもどす。

ボンボンの定番。ゴルフとスキー。

「小学校は公立でしたが、中学からは私学に進みます。中学ではゴルフ、高校はスキー部です。部といっても、私ともう1人の2人で創部した、部員2名の小さな部です」。
小さいといっても、2人して海外にも遠征している。
「長野や新潟で合宿したり、フランスに渡ったりもしました。私はジャイアントスラロームという種目で、南関東大会で優勝しています」。
ただ、じん帯を切りスキーは辞めた。
「そうですね。このあたりまではボンボンまっしぐらですね/笑」。
たしかに、お金に困ったことがないし、困るということがピンとこなかった。
「大学に進学してからもマージャン、パチンコ…三昧です。ところが、私が21歳の時、親父が自己破産します。それから風景がいっぺんするんです」。

スパイ活動、はじまる。

独り小さなアパートに移った。何不自由ない暮らしが、一転。何かをするモチベーションもなくなった。
「就職活動もしません。気力がないというか。そんな時ですね、叔父がみかねて声をかけてくれるんです。『うちの会社で仕事をしないか?』って。ええ、叔父は親父と違って飲食で成功していましたから」。
高校時代に、スキー部を創設したことからもうかがえる通り、もともと創造的で、活動的でもある。だから、会社に入れば戦力化できるのは間違いない。
ただ、叔父はそう考えなかったようだ。
「ええ、与えられた仕事がちょっとかわっていて…。はい、それが、ずばり、スパイの始まりです/笑」。
スパイ?
「そうです。直接、叔父の会社に就職するのではなくって、ほかの会社でアルバイトをして、会社の様子やしくみなどを叔父に報告するんです。最初に潜入したのが、親父もかかわったグローバルダイニング。やるなら、いちばんの店だと思って」。
報酬は月10万円。バイト代とは、当然、別だから、22歳の青年には悪くない額となる。それ以上に、影の仕事は、ふさいでいた類家氏の心を動かした。
「いろんなミッションがあるんです。下っ端では、情報も入ってこないでしょ。だから、はやく上にならないといけない/笑。これも、ミッションの一つでした」。
「グローバルダイニング」が、アルバイトでも認めてくれる会社だというのはわかっていた。だから、仕事が終ってからも、仕事に没頭した。
「包丁もさわったことがないでしょ。ぜんぜん、ついていけない。だから、バイトが終わってからも、先輩たちの仕事ぶりをじっとみていました。これが、もう一つの仕事で、いうならば、これが私の修業でした」。
狙いはともかく、たしかに日々、業務を盗み、文字に起こす作業は、類家氏の言う通り貴重な修業となったことだろう。
多くの貴重な人脈も、この時にできている。

スパイ大作戦の終了と、もう一つの大作戦のはじまり。

「1つの会社に、1年くらいです。サントリー関連の店にも潜入しました。そして、最後が『てっぺん』です」。
潜り込んだのはよかったが、バイト4日目にして社長の大嶋啓介氏から「お前がいると周りまで腐るから辞めてくれ」と言われたそうである。思い切った一言だ。いまの経営者なら、放てない矢かもしれない。
「そうですね。きつい一言でしたが、薄々、私も合わないと思っていたんです。ただ、スパイの一件がありますからね。『わかりました』とは言えない。この時は、幸いというか、先輩がとりなしてくれたおかげで、なんとか乗り切ったんですが…。じつはそれが、地獄のはじまりだったんです/笑」。

スパイ活動、辞退す。

地獄という言葉が正しいかどうかわからないが、「てっぺん」を多少でも知っている人なら、類家氏が言わんとすることは想像できるだろう。つまり、命がけでないとついてはいけない。
「ともかくなじめない。何しろ、あの熱量でしょ。私は大きな声もだせないほうでしたから。それでも、スパイ活動のために『やる』と決めたからには、合う合わないなんて言っていられません。殴られるなんてしょっちゅう。朝から朝まで。月に5回、休めるかどうかではなく、うちに帰れるかどうかでした/笑」。
じつはそうこうしているうちに、目的まで見失ってしまったそう。次第に、大嶋氏に惹かれ、それ以上に「てっぺん」の朝礼にも魅了されてしまったからだ。スパイのはずが、すっかり取り込まれてしまった。
その頃になると、背中を押され、無理やり声を吐き出していた類家氏ではなくなっていた。「私は1年半で店長になります。記録的なスピードです。それだけかわったということです。写真でみれば明らかなんですが、入社した頃と比べれば、おなじ人間じゃない/笑」。
スパイ活動もつづけていけなくなった。叔父に「スパイを辞めたい」と告白すると、笑いながら「ようやく、みつけたか」と言ってくれたそう。
その時、初めて本来のミッションを知った。ともかく叔父が仕掛けた「スパイ大作戦」は、無事、コンプリートする。そして、ここからは、類家氏自身の大作戦の始まり、始まり、となる。

独立、たたかいの火蓋が切って落とされる。

「店長だった期間は7ヵ月と案外短いんです。8ヵ月目から、韓国に進出するための別会社『てっぺんコリア』の副社長に就任します」。
副社長といっても、第一線で仕事をする営業マンのようなものだそう。韓国にはむろん、何の縁もない。模索がつづく。「別会社だから、『てっぺん』からは給料もだせない」と大嶋氏から釘も刺されている。
「もう、やるしかないでしょ。とにかく日本と韓国を行き来しました。『てっぺん』の朝礼の話も盛り込みながら、コンサルも行いました。結局、お店をオープンするまでは1年半くらいかかりました。ただ、オープンしてからは爆発です。芸能人もいらっしゃるような店になり、新たな出店も行います。それで、計3年くらいで帰国します。ハイ、独立のために、です」。
いよいよ、次なる大作戦が開始する。28歳の8月。降り注ぐ、太陽に照らされながら、類家氏は、帰国する。そして、同年10月に1号店をオープン。「六本木なんかに出店すれば恰好よかったんですが、最初は、とにかく失敗できないですから」。「家賃第一」で、出店したそう。いちおう新宿エリアだが、離れの離れ。「ここでは、失敗する」とみんなから忠告されたそう。なかには、嘲笑する者もいた。それでも、火蓋は切って落とされた。
・・・続き