2021年9月15日水曜日

sync オーナー 森 敬貴氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”に“sync オーナー 森 敬貴氏登場。

本文より~

北の町のりんご園。

果樹園が広がっている。りんごと聞いて「北海道でりんご?」とつい口にでた。すると、森氏は笑いながら「りんごといったら青森ってイメージですよね」とこちらを気遣う。森氏によると、北海道でも森氏の出身地である余市町では、りんごの栽培が盛んらしい。ウイスキーづくりも盛んで、りんごとウイスキーが2大産業だという。
「ウイスキーでいえば『ニッカウイスキー』の工場があるんです。昔も多かったですが、今は、りんご園とワイナリーだらけ」。
「あ、だらけっなんていったら怒られそう」と爆笑する。
森家も、りんご農家。広い園をもっていた。「10ヘクタールはあった」と森氏。10ヘクタール。調べると約3万坪、東京ドーム2つがスッポリ収まる。つまり、東京ではイメージできない、でかさと広さ。
「小さな頃から手伝いはしていました。ただ、どうやって逃げ出すかばかり考えていましたから、好きじゃなかったんでしょうね。笑」。
りんご園の繁忙期は収穫時だけではないらしい、いったら1年中、いそがしい。従業員さんも常時4人いたそうだが、それでも手がたりなかったのだろう。
姉弟は姉が3人。
「父親から継げと言われたことはなかったですが、長男ですから、子どもの頃からなんとなく父親の背中は意識していました」。
言われなかったんですか?
「オレも好きでりんご園をやっているから、お前も好きなことをやれ、と」。祖父はカーディーラーだったそう。「でも、そう言われるとね。好きなことってなんだろう?って、子どもながら思案にふけっちゃうんです」。
りんごが熟すのをみて、さて、オレは?と悩みつづけた。

好きなことをやれ、という呪文。

「小学校の同級生はたった7人。東京ではイメージもできないでしょ。全生徒の9割はりんご園の子ども。スポーツですか? スポーツっていっても同級生7人ですからね。だいたいのスポーツができない。笑」。
中学は4キロ先。バスケットボールを始める。高校は進学校。向かう先は北大というところだろうか?
「そうですね。ただ、私は大学に進む意味がわからなかった。何が向いているのかも、どの道を進みたいのかも漠然としていた。バスケも入部したのはいいんですが、けっきょくすぐ辞めてしまいましたし」。
憂鬱?
「そうですね。もちろん、勉強もそんなにしていないし、部活もないから、ほかの人より謳歌していたといえるかもしれませんが」。
高校2年になって、一念発起。交換留学に手を挙げ、オーストラリアへ行くことになった。「姉も留学していましたから、だいたいイメージもつきましたし。でも、事務局側のミスで流れてしまうんです。残念でしょ。ただ、一度行こうと思うと、その道だけしかみえなくなって」。
それで、ニューヨーク?
「ええ、3年生の9月から1年の予定で留学します。当然、大学受験はパス。笑」。
思い切りましたね?
「もやもやしていましたから、大学に行くより、すっきりすると思ったんです、学校には1年休学ということで参加させてもらいました」。
ニューヨーク。さて、どんな日々がはじまるのだろう。

答えは「YES」。

「ニューヨークっていったら、みなさんマンハッタンを想像するじゃないですか。でも、私が行ったのはニューヨークでも郊外の工場も多い田舎町です。ニューヨーク以外にも候補はあったんですが、ピンとこない。だって、ニューヨーク以外知らないから。それにニューヨーク州ってりんごでも有名なんですよ」。
なんでも、スーパーなどでよくみかける「ジョナゴールド」は、ニューヨーク生まれの品種なんだそう。
ところで、森氏の留学は、ロータリークラブが主催のプログラム。「3ヵ月に1度、ホームステイ先がかわります。ロータリークラブに所属されている人だから、みなさん裕福でインテリジェンスです。ホストファミリーは旦那さんが専業主婦や、小さな子どもがいる新聞記者、議員さん、それと、IBMのセールスマンでした」
ホストファミリーとの交流以外にも、同じ高校生同士、言葉はちがっても打ち解けた。
「1ヵ月に一度、食事会があって、その時、スピーチをしたりもするんですが、旅行にも連れて行ってくださって。今思うと、とんでもなく恵まれていましたね。私の場合はとくに、語学学習ではなく、自身でもわからない何かを探しにいくのが目的でしたので、観るもの、聞くもの、交わるものの、その一つひとつに意味があったと思います」。
まる1年。秋がもう一度まわってくる。
帰国。
「今思えば、やはり私のいちばんのターニングポイントですね」。
1年の留学で、何かみつかりましたか?
「YES」。

好きなことの、しっぽ。

「IBMのセールスマンがいたといったでしょ。彼は大学に営業に行くのが仕事だったんです。それで、車に乗っけてもらって、いろいろな大学に連れていってもらいます」。
日本とは違いますか?
「私は日本の大学には行ってないのでわからないんですが、大学めぐりは楽しかったですね。そのなかの一つに、レストラン系のマネジメントやシェフ学部がある州立のコミュニティカレッジがありました」。
なんでも、マンハッタンで働く人たちがバケーションを楽しむような場所だったので、そういう学問が盛んになったんだろう、ということだった。
「面白いなと思いました。アメリカは飲食だけじゃないですが、アメリカの飲食のカルチャーってとくに面白いし、この大学で勉強すれば、そういったカルチャーをもって帰ることもできるんじゃないかな、と」。
ビジネスですね?
「そうです。わりと小さな頃から、商売には関心がありましたから」。
1年遅れ、後輩たちといっしょに机をならべる。これが帰国後の話。「高校3年の秋から再スタートです。翌年春卒業し、ふたたびアメリカに渡ります」。
面白いこと、好きなこと、やりたいことのしっぽをつかんだ、あのコミュニティカレッジへ。「アメリカを離れる時に、もどってこようと思っていましたから、再度、アメリカに渡った時はじーんときましたね」。
自分との約束通り、その大学に進む。

オーナーはマフィアの末裔。

「スピーディにいったら2年で卒業できるんですが、私は4年きっちりいました。トップはフランス人。実地になると1日7~8時間。サボったらアウトです。笑」
日本のように甘くはない。というか、日本が不思議なのかもしれないが。
「バーでパートタイムもします。差別ですか? そうですね、まだ昔のことですから。ただ、私の場合、いっしょに学んでいた学生に年上の人がいて、差別というよりアジア人だってことを面白がってくれていいバイト先を紹介してくれたんです」。
アメリカらしく、雑多な客層だったそう。
「テイクアウトもできる、レストラン・バー。140人くらいは入れたんじゃないかな。オーナーはマフィアの末裔。面白いでしょ。楽しかったですね」。
飲食に進もうと思ったのは、この時ですか?
「そうですね。まだ、飲食一本で行こうとは思っていなかったですね。ほかの国をみてみたい、まだここにいたいとも思っていました」。
再度、帰国したのは、23歳の時。ベーカリーショップに就職する。これが、飲食のはじまり。

東京へ。

「パンって、つくれるようになって損はないでしょ。我が家じゃ旨いパンはなかなか焼けないし。こちらでは、2年間、お世話になりました」。
ベーカリーショップに勤務しながら、高校時代の、自身とおなじようなアウトローたちと、チームでつるんだ。「そんなアウトローチームで、海にあそびに行った時に、事故でルームシェアしていた親友を亡くしてしまいました。いちばんの親友です」。
森氏、26歳。
「それがきっかけといいますか、北海道にいても意味がないと思って上京します、ただ、東京にでてきたものの、仕事はダム工事。余市よりへんぴな山奥にこもります。笑」。
どこまでも落ちていくような気がしたそうだ。
無気力?
「そうですね。浮き上がる力がでなかったんです」。
そんな森氏を救ったのは、当時の彼女。つまり今の奥様だ。
「たまたま、彼女が観ていた就職雑誌の裏表紙にシェフの求人があって。今はもう日本にはないんですが『ピッツアエクスプレス』っていうイギリス本社の世界的なレストランです。英語がしゃべれること、イギリス研修に行けることが条件だったんですが、私にすれば、え? これオレのこと?みたいな」。
肩をわしっとつかまれた気がした。
面接は英語で行われたらしい。「今何をやっているんだと聞かれ、モルタルを詰めていると答え、笑われた」という。むろん、やりとりはイングリッシュ。
人生なにがつながるかわからない。
「たしかに、語学目的じゃなかったのに、語学が役立ったわけですからね」。
パン職人から、シェフ森に。新たな道が広がった。

カレーショップ「sync」オープン。

「イギリス研修を経て、日本で、そうですね、3年近く勤務して、もう一度パンにもどり、独立したのは、そのあとです」。
最初からカレーで勝負とは思っていなかったそうだ。
「カレーは趣味でつくっていた程度で。でも、いつか、カレーとビールでって、そんな話を知人にしていたら、じゃぁ、カレーショップをすればいいと言われ、そりゃ、そうかもと。笑」。
最初に出店されたのは、都立大学前ですよね?
「家賃42,000円。水道代込み。ただし、4坪」。
小さな一歩。しかし、森氏にすれば、それが原寸大だった。
「それまでの私って、いうなら、たとえばリムジンという大きなレストランを運転していたようなもんです。でも、リムジンのオーナーにはなれない。じゃぁ、どうすればいいか。原寸大で、そうだ軽自動車でいこうと。軽のフルスペックバージョンでいけばいいじゃないかって思ったんですね。なんであの森がカレーを、なんて言われてもいいじゃないかともね」。
ちなみに、森氏のカレーの原点は、あの北海道にある。
「子どもの頃、歳の離れた姉がお気に入りのカレーショップに、いつも私をいっしょに連れていってくれたんです」。
南インドのカレー。頼むのはいつもチキンとチーズのカレーと決まっていたそう。趣味で追いかけていたカレーもそうだった。「だから、あのカレーが原点なんです。もちろん、私なりのアイデアがプラスされ、オリジナルのテイストとなっていますが」。
ドロドロではなく、サラサラ&ヘルシー、ついでにいうと、店主がよくしゃべるというスパイス付き。syncのカレーは、もう、そうブランディグされてもいる。

・・・続き

sync オーナー 森氏

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

株式会社Bull Pulu 代表取締役会長 加藤二朗氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”に“株式会社Bull Pulu 代表取締役会長 加藤二朗氏登場。

本文より~

就職先は大手小売業企業。

お父様はハーネスを製造する工場を経営されていた。経営がうまくいっていたのだろう。「子どもの頃は裕福だった」、と加藤氏。
兄弟は兄1人。小学校から私立に通っていた。小・中は野球。中学は日大二中に進んでいる。「高校も日大付属だったんですが、成績が足りなくて日大に進学できなかった」と笑う。それで、今度はちゃんと勉強して成蹊大学に進学したというから、もともとやればできる。
父兄の影響もあったんだろう。高校からアメフト部に。「父も兄もアメフトでしたから。ただ、大学ではスキー部。学科はIT系。卒業生はみんなIT系に進むんですが、私はIT系の学科の学生だったのにパソコンが苦手で笑」。
パソコンが苦手?
「もう少し人間くさいというか。もともと日大に進んだら建築をしたいなと思っていたんです。ITも悪くはないんですが。じつは子どもの頃からショッピングセンターが好きで。わくわくするでしょ。通路がわけられていて、子どもにすれば迷路ですよ。何よりみんなで買い物や食事をするのが、楽しかったですね」。
なんとなく、わかる。
それで、就職はどこに?
「大手小売業企業です。小売にも興味がありましたから」。
日本の消費をひっぱるリーディングカンパニー。組織は巨大だ。

ラーメン店、オープン。

たしかにITとは無関係に思えるが、巨大な企業だからIT系の仕事も当然あるのだろう。
「あるには、ありますが、私は、いまでいうIT人材で入社したわけではありません。6年間はちゃんと店頭に立っていましたから。システム系に異動したのは、7年目。それからの4年間、在籍し、そのあとショッピングセンターをつくる開発部門に異動します」。
キャリアを順調に積んでいく。開発といえば、花形部門だ。
「じつは、去年(2020年)の2月に『BullPulu』の会長に就任するんですが、それまでは大手小売業企業にお世話になっていました、というか、おととしの12月までは籍がありました」。
どういうことだろう。
「私がショッピングセンターの開発チームにいた時に、父親の知り合いがフードコートにラーメン店をオープンする予定だったのがうまくいかず、父親がかわってオーナーになってオープンすることになります。いったら、これが加藤家の飲食のはじまりです」。
工場の方はどうされたんですか?
「工場はむろんそのままで、別会社を立ち上げオープンします。最初は兄が社長を務めていました。ただ、経験はないし、計画もしていなかったもんですから、そりゃ、うまくいきません/笑。いくらフードコートでといっても、さすがに難しい」。
たしかにノウハウなしでのスタートはきびしい。「結局、リンガーハットさんのフランチャイズとして再スタートします。これで、なんとか月商800万円くらいになったと聞いています」。

タピオカドリンク、デビュー。

もともと飲食に興味があったのかとも伺ってみた。
「いまはメインの『Bull Pulu』をはじめ、レストランも4店舗出店しています。フードコート以外にも出店していますが、もともと私はショッピングセンターが好きで、ショッピングセンターを、もっと楽しく、おいしくしたいという思いからスタートしていますので、料理や接客が好きではじめたオーナーさんとは出発点がちがっています」。
お父様の知り合いがラーメン店を計画されたのも、きっかけですよね?
「それはそうですね。当時、私はショッピングセンターの人間ですから、父が代わりにやってくれたことで空きをつくらず済みホッとしたんですが、たしかに、これがスタートといえば、スタートです」。
ショッピングセンターを運営する人の目からみると、つぎにどんなブランドがくるか、わかるものですか?
「ショッピングセンターをつくる側、つまり開発部門に異動になって、いろんなオーナーさんに出会います。それまで社長といったらうちの親父しか知らなかったわけですが、そういう、たくさんのオーナーに出会ってアンテナは広がった気がしますね。ただ、タピオカをはじめたのは、もっとシンプルで、私自身がタピオカドリンクを飲んでおいしいと思ったからなんです」。
加藤氏は、若い頃に衝撃を受けたドリンクとして、スタバのフラペチーノ、スイカジュース、タピオカを挙げている。
「もちろん、初めはショッピングセンター側の人間として、ショッピングセンターにいらしたお客様に、タピオカという日本ではまだめずらしいドリンクを飲んで、楽しんでいただきたいと思いスタートします。ハンドドリンクのショップがなかったことも、『Bull Pulu』をオープンするきっかけになりました」。
オープンは2010年。タピオカブームのずっと前ですね。
「そういう意味では、先駆けです。当時は、フランチャイズをしているショップもなかったし、タピオカも台湾から直接仕入れるしかなかったですからね。これには父親のネットワークが役立ちます」。

・・・続き

株式会社Bull Pulu 代表取締役会長 加藤二朗氏

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2021年9月6日月曜日

9月3日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、『ZOO 』様を取り上げました。

9月3日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、象の耳揚げパンを展開されてる『ZOO 』様を取り上げました。
社長の小泉さん、紆余曲折ありながら、現在50以上の特約店まで持って来られてます。
私的には、この象の耳揚げパンの特約店は大いに期待してます。


PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

「月刊人材ビジネス」に2連載で、ミストラルの新社長になった江川広太の記事が掲載されました。

「月刊人材ビジネス」8月号、9月号と2連載で、7月1日よりミストラルの新社長になった江川広太の記事が掲載されました。
取材対象に選んでいただきありがとうございました。
仕事のスピードとイズムもしっかり伝承してくれてるので頼もしくなりました。
どんどん前に出て、業績伸ばしてくれれば嬉しいです!
うちは営業未経験から力付けてくれてるので、次はNに大きな期待してます。
Nは運を誰より持ってますから楽しみ。

(月刊人材ビジネス8月号)
(月刊人材ビジネス9月号)


2021年9月1日水曜日

8月27日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」で『CLASSICINC.(クラシック)』様を取り上げました。

8月27日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、スイーツ開発や弁当プロジェクトでファンを獲得の『CLASSICINC.(クラシック)』様を取り上げました。



PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

パラリンピックの父の言葉より

「失ったものを数えるな、残されたものを最大限生かせ」

“パラリンピックの父”であるルードウィッヒ・グットマン博士の言葉ですが、会社も同じで心に響きます!