2018年7月10日火曜日

蒙古タンメン中本の株式会社誠フードサービス 代表取締役 白根 誠氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”蒙古タンメン中本の株式会社誠フードサービス 代表取締役 白根 誠氏登場。
本文より~

「中国料理 中本」、閉店は、終わりの始まり。

「中本」のなかでも、「冷し味噌ラーメン」は群を抜いている。極度の辛さのためだろう。メニューには「初めての方はご注意ください」と警告文が添えられている。それだけ辛い。
「オレね、辛党じゃないんだけど、こいつにはハマっちゃった。ヤミツキです。あの頃の、オレの食生活は、『中本』と、それ以外が1対1。つまり、『中本のラーメン』で暮らしているようなもんだった。朝、昼、晩って日もあった」。
今回、ご登場いただいた、「中本」二代目店主、白根氏が「あの頃」というのは、長い期間を指す。「そうだね。20歳から39歳までだから20年くらい」と笑う。それだけ、通いつづけた。
もっとも、最初から2代目に手を上げようと思っていたわけではない。そりゃ、つくるより、たべるほうが楽だ。
「でもね、あれはオレが39歳の1998年だね。『中本』が12月に閉店するっていう噂が流れてさ。『え、どうすんだよ』って。何しろ、オレの半分は『中本のラーメン』でできているようなもんでしょ」。
真相を確かめるため、当時の店主の中本正氏に「おじさん、店、閉めるってほんとですか?」と声をかけた。かけたが、曖昧な返事しか返ってこない。
「立場はちがうけど、20年来の付き合いだ。『そりゃねぇだろう』って思った。中本さんは、店閉めたら、それで済むんだろうけど、オレたちはどうなんだ。結局、噂はほんとうで、1998年の12月に『中国料理 中本』はいったん幕を閉じます。オレたち中本フリークは、もうジプシーになるしかない/笑」。

激辛、激旨ラーメン。最初の印象は、「なんだこれ」。

白根氏は1960年、埼玉の熊谷に生まれている。日本でいちばんの猛暑を記録した町だ。小さい頃から野球が大好きで、長嶋選手に憧れる。いまでも「3」は、白根氏のキーナンバーだ。小・中・高と進み、中学から空手をはじめ、高校ではバイクにハマった。高校を卒業してからは、いろんな仕事に就いた。「中本」に出会ったのは、前述通り、20歳の頃で、最初は友人に連れられてのれんを潜ったそう。
「最初はなんじゃこりゃ、って感じ、旨いなんてぜんぜん思わなかった。でも、それがすべての始まりだから、人生って不思議なもんだ」。
「中国料理 中本」についても少し触れておく。「中国料理 中本」は、1968年9月、板橋区にオープンする。創業者は故中本正氏。オープン当初は、当時、どこにでもある中華料理店だったそう。ところが、中本氏自身が辛いモノが好きで、「辛い」メニューが「中国料理 中本」の代名詞となる。代表作は、一味唐辛子を大量に加えた激辛スープと太い麺のラーメン。白根氏が、好物だった「冷し味噌ラーメン」は、なかでもランキング1位の辛さだった。
「毎日、行列で、中本さんもたいへんだったろうけど、食べるこっちもたいへんだった。おくさんと中本さんだけで運営されていたんだけど、昼の2時でクローズ。でも、行列がつづいているから、最後尾の客がラーメンを食べて店をでるのは4時くらいだったかな。それだけ、長い行列でした」。そうまでして食べたい「ラーメン」。白根氏以外にも大量のファンがいたことがわかる。どれだけ惜しまれて閉店したかも、想像できるというものだ。

「そりゃだめだな」。冷徹な一言。

「で、閉店してしまったわけでしょ。でも、『中本』のラーメンはやっぱり『中本』でしか食べられない。それで3ヵ月くらい経った頃、もうがまんできなくなってさ。電話をかけたんです」。
幸い、電話番号は以前のままだった。
「20年も通いつづけていたでしょ。中本さんも、声でオレってわかったみたい。それで、『少しお話があるんですが』って切り出したわけ。頑固な親父さんなのに、その時は、向こうから出向いてくださいました。そして、うちの近くの喫茶店で再会したんです。目的ですか? 『中本』をオレにやらせて欲しかったんです」。
何と大胆な発想だろう。それまでの白根氏に飲食の経験はない。まして、料理の経験もない。
話は2時間に及んだそうだ。白根氏は「中本」に対する熱い思いを語る。中本氏が「うんうん」「そうだね」と頷くたびにテンションが上がった。「これは、いけるんじゃないかなって。でも、最後の最後に、『そりゃだめだな』って」。
茫然とした。脈があると思いかけていただけに、落胆もした。「だめだな」の一言は、有無を言わさないほど、冷徹な響きを含んでいた。
「あとで聞いた話だけど、当時、オレみたいな奴がたくさんいたそうなんだ。みんなに『ノー』と答えている。たぶん、大手の企業さんからも声がかかったはず。でも、頑固もんだから、お金を積まれても『ノーは、ノーだ』っていったんでしょうね。昔の職人さんだから、大企業だって敵わないわな/笑」。
「それから少したって、今度は無性に『冷し味噌ラーメン』を食べたくなるわけです。このメニューは、春分から秋分までの限定メニューで、ちょうど春分の頃だったから、思い出しちゃったんだろうね。それで、もう一度、電話番号をプッシュしたんです」。
丁寧に、丁寧に、話した。ただ、今度は断られないだろうと思っていた。「だって、1杯、よぶんにつくるだけだから」。
話の流れはこうだ。中本氏も「冷し味噌ラーメン」が好き→今もつくって食べているはず→その時、よぶんに1杯つくってもらって、それをいただけないか→むろん、これならOKがでるだろう→もちろん、お金はいくらでもだす。しかし、返答は「そりゃだめだねぇ」、前回とおなじ結末。
「あの時は、正直カチンときたね。ケチって/笑。でも、あとで聞くと、これもオレみたいな奴がたくさんいたそうで、1人だけ特別扱いはできないってことだったらしい。でも、こっちは、電話を叩き切りたくなるくらい腹が立っている。それでも、あの時は、ぐっと受話器を握りしめて、『おじさん、お酒は好きですか?』って切り出したんだ」。

「半端ないって」社長取材の数。

もうすぐ650連載となる“飲食の戦士たち”ですが、
新人営業マン2人が頑張ってくれ、
なんと社長取材数がこの2ヶ月で50社ほど入ってます。
ほんとこれこそ、「半端ないって」。
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株式会社ブランニュー 代表取締役 織野敏一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ブランニュー 代表取締役 織野敏一氏登場。
本文より~

国民食で勝負。

日本でもおなじみのカーネル・サンダース氏がケンタッキー・フライド・チキンを創業したのは65歳の時だそうだ。今回、ご登場いただいた織野氏は、カーネル氏より10歳若い55歳で「鶏唐揚専賣店」を創業した。
「おしながき」をご紹介すると、定番のしょうゆ、塩、にんにく入りのスパイシー、カレー、チーズ、甘だれ…、すべて100グラム、210円。お弁当もあり、こちらは税別で500円。毎日でも足が向く種類の数と値段だ。
ある調査によれば、「鶏の唐揚げ」は、人気ナンバー1の定番おかず。スーパーに行っても数十種類の「唐揚げ粉」が置いてある。それだけ、人気が高いということだ。
織野氏も「唐揚げは国民食でしょ。だから、勝負できると思ったんです」と語っている。
とはいえ、競争相手は少なくない。織野氏の経営手腕が問われる点だ。
では、その話に移る前に、いつも通り織野氏の足跡を追いかけてみよう。

テニス、スキー、飲み会、バイト、時々、勉強。

織野氏が生まれたのは1960年2月。品川で生まれ、横浜で育っている。2人兄弟の長男。
少年の織野氏は、当時は誰もがそうだったように野球が大好きだった。特定の球団はなく、とにかく強いチームが好きだったそうである。中学に進んでからはテニスを始め、高校時代には関東大会にも出場している。学業のほうも優秀で、高校は県内でもトップクラスの進学校に進んでいる。ところが、学業のほうは、高校入学後、徐々に順位を落としていったらしい。
「進学校ですから、ランク分けされるんです。AからEまで。このすべてにランクされた生徒はそういないんですが、私はAからEまで、すべて経験しました。学年トップクラスから、その逆まで。高校に進学してから、ぜんぜん勉強しなかったものですから/笑」。
高校時代はとにかくテニスと遊びに没頭した。学業はそっちのけ。
「大学は日本大学です。専攻は経済。こちらでも勉強より、テニスやスキーに飲み会やバイトっていう生活です。この時のバイトがきっかけで、大学卒業後、『ウエラジャパン』に就職します」。
どういうことだろう。
「バイト先の貸衣装店の社長が紹介してくれたんです。『君にピッタリのいい会社がある』と」。
織野氏が就職したのは、氏が22歳の時だから、1982年。「ウエラジャパン」が設立したのが、1972年だから設立から10年経過している。(ちなみに、2010年P&Gジャパンに統合され、現在、コンシューマー向けのウエラ製品は、コティ・プレステージ・ジャパンから発売されているそうだ)。
ともかく、バイト先の社長が、織野氏を紹介したのは、当然、織野氏を見込み、織野氏の性格も知ってのことだろう。
外資というのも、織野氏にとっては幸いしたのではないか。
こののち、織野氏はヘッドハンティングなどで転職を繰り返すが、当時の日本流の「はたらきかた」を知る者からすれば、枠にはまらない生き方自体が新しい。
ともかく、織野氏は、この「ウエラジャパン」で、織野氏はめざましい活躍をつづける。

打ち立てた金字塔。

入社しておよそ10年間、「社内の表彰を総なめにした」と織野氏は語る。入社、以来8年、つまり96ヵ月、連続で目標を達成しつづけたそうである。唯一、達成しなかったのは、入社1ヵ月目のみ。いまでも、そうそう破られることのない金字塔に違いない。
その活躍が、スカウトの目にとまる。
「ヘッドハンティングされて、ペットフードのメーカーに転職しました。そちらでも目標は常にクリア。1年後には東京支店の支店長に抜擢されました」。
独立採算制だったそうである。
「だから、そちらで経営全般を学ぶことができました。とくに流通や物流を学んだことが、そのあとの人生に役立ちます」。
やがて、二度目の転機を迎える。「また、ヘッドハンティングです/笑。今度は、美容室のチェーン店の本部です。そちらで110店舗の統括部長になります」。入社3年で31店舗のFC店をオープンし、敏腕ぶりを発揮する。
「こちらには8年いて、そこからまた引き抜かれて、大手の美容ディーラーに移ります」。
なんともはや。引っ張りだことは、こういうことを言うのだろう。
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2018年6月26日火曜日

有限会社プロスパー 代表取締役 伴 克亘(ばん かつのぶ)氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社プロスパー 代表取締役 伴 克亘(ばん かつのぶ)氏登場。
本文より~

部屋に残された、6本の哺乳瓶。

首から下げた紙のボードには、母の字で行き先が書いてあった。幼稚園から小学校の低学年まで、長期の休みとなれば、初日から親戚宅に行くのがルールのようになっていた。「休みの初日に新幹線に乗せられて、登校日の前日に帰宅。それが定番」と、今回ご登場いただいた有限会社プロスパーの代表取締役 伴 克亘氏。
長期休暇になれば、京都駅のホームで1人、伴少年はボードを下げて新幹線を待っていた。それを「ヘンだ」と思ったことはない。「こどものことですからね。親戚の家に行くのも楽しみだし。なかには『ぼっちゃん1人でどこ行くの?』って言いながら、お菓子とかをくれたりする人もいたし…」。
親戚宅に向かう理由は、ご両親が仕事で忙しかったから。だが伴氏は「貧乏だったからだ」と表現する。「こどもの頃はぜんぜんそんな風には思っていなかったんです。でも、私の姉は、養女にだされていますし、住まいだって6畳一間。トイレ、風呂なし、です」。
伴氏は、生まれた時から「かぎっ子」だったらしい。両親は、6畳一間に伴氏と哺乳瓶6本を残して仕事にでたそうだ。おむつは、朝から母親が帰宅するまで、おなじもの。むずかって泣いても、だれも手を差しのべてはくれない。
「たまたま、哺乳瓶に気づいて飲んでいたんでしょうね。ごっつい生命力ですよね。我ながら/笑」。
むろん、哺乳瓶を一人で抱えて飲んだ記憶はない。しかし、「自立」という意味では、象徴的な話である。
「うちの両親は、親戚がやっている着物の染工場ではたらいていました。小学校の高学年になる頃には、私も手伝っていました。私の仕事は、親戚や工場のスタッフみんなで食べる晩御飯の用意です」。学校が終わると買い物籠を抱えて、商店街に向かう。肉に、魚に、野菜に。つまりは、買い出し部隊。
たいへんですね、というと、「ぜんぜん」と伴氏。馴染みになった肉屋のおばさんが、コロッケをくれたりしたそう。だから、せっせと買い物に向かった。もっとも近所の悪ガキにみつかり、せっかく貰ったコロッケを取り上げられたりもしたそうだが。
ところで、伴氏が購入した食材がテーブルにならぶと、とたんに争奪戦がはじまったそうだ。「はよ食べな、なくなるでしょ。16人くらいおるからね。そら、戦争ですわ」と伴氏は笑いながら、当時を思い起こした。

昭和の真ん中、その時代。

「貧乏だ」と言いながら、中学から私学に通っている。「そうですね。相当、無理したんとちゃいますか? 学校も大阪でしたし、私学に行くために、塾にも行かせてくれはりましたから」。
私学に進学はしたが、お金ができたわけではない。
「学校には食堂ってあるでしょ。うちの学校の食堂の食券は10円の綴りやったんです。で、端数がでるでしょ。それを貰いまくっとったんです。食堂のおばさんには『今日はきれいやなぁ』なんておべんちゃらを言うたりしてね。そういうたら、カレーを多目によそってくれはるんです/笑」。
食事にかかわる話は多い。
「ともだちの家に行くでしょ。そしたら晩御飯とか出してくれはるんです。その晩御飯が、もうぼくにしたら、レストランのディナーなんですよ。で、『むちゃむちゃうまいやんけ!』なんて言うてたら、お母さんが『毎日、食べにおいで』って。そりゃ、ありがたい話です」。
「そうですね。子どもの頃から誰彼なしに、可愛がって貰ったように思います。そういう才能はあったんだろうと思います。こいつちょっとかわいがったろか、みたいなね/笑」。
ともだちの弁当を分けてもらっていたら、翌日から2人分の弁当が用意されていたこともあったそうだ。昭和の真ん中は、そういう時代でもあったのだろう。

お客様は神さんです。

中学では卓球、高校ではアイスホッケー。「アイスホッケーなんて、大阪、ぜんぶ入れても3校しかありません。だから大阪大会では、絶対3位以内に入れるんです。うちは、弱かったから3位ばっかりでしたけど/笑」。伴氏はマネージャーだったらしい。
この頃は、「法律にも関心があった」と伴氏はいう。実際、大学も法学部に進んでいる。「そうなんです。法学部に進むのはええんですが、大学に進学して、初めてぼくは、うちが貧乏やと気づくんです。それで、迷惑はかけられへんから、学費も、生活費も、ぜんぶバイトで捻出し、仕送りまでしていました。だから、学生時代はバイト漬けなんです」。
当時の話を聞くと、バイトというイメージでは収まりきらない仕事ぶりである。「小さい頃から、勝手に料理をしていたんです。お袋が遅いとお腹が減るから。その料理を両親が食べて『旨い』ってホメてくれたこともあって。そういう原体験があったからでしょう。バイトは迷わず、飲食。当時、流行りだした『カラオケパブ』でバイトをはじめます。ぼくは、接客担当なんですが、そうですね、いちばんええ時には、月に40万円くらいもろてました」。
40万円。休みなくはたらいたのだろうと思っていたら、「自由出勤で、その額」という。なんでも、学生にもかかわらず、4店舗のマネージャーを務めていたそうだ。
「ぼく自身が楽しかったんやと思うんですわ。お客様ともいっしょに話もしますから、いろいろ教えてもらえる。啓発本っていう本があるのも初めて知りました。それに、話が盛り上がってきたらビールをぽんと開けて『のみぃや』でしょ。お金払ってもろて、いろいろ教えてもろて。なかには、休みの日に飲みに連れてくりゃはるお客さんもいたはりました。お客さんは、ほんま神さんです」。
「そうそう、思い出した」と言って、次のような話もしてくれた。「あいつにまけたくないとか、思うでしょ。でも、それって、勝ったら終わりやないですか。だから、『そんな仕事の仕方はあかん』って、お客さんに教えてもろたことがあって、ずいぶん長い間、ぼくの信念みたいになっていました」。
「なんのためにするか、ですよね。『お客様のためなら、一生やろ』って。そうですよね。たしかに、一生、終わることがない。貧乏もね。イヤヤ、イヤヤ言うてても、切りがあれへん。頑張って、貧乏やなくなっても、それで終わりでしょ。これ、真理ちゃいますか」。
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2018年6月21日木曜日

6月から入社の新人A君、入社13日で大手2社の社長取材のアポイント10社!!

6月4日から入社の新人A君、大手2社から社長取材のアポイント取ってくれ既に10社です。
3週間目に入ってますが15社取れるかな・・・。
今期2人採用し、この1年は人材を育てる期間と考えています。
会社設立して26年目でスタッフはベテラン揃いですが、営業マンは平均年齢27.6歳と勢いあります。
企業の将来、また人の人生を左右する求人。
キイストンの理念を継承させ、少しでも早く権限委譲やっていくため社内改革も進めています。

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2018年6月19日火曜日

有限会社トーホーエージェンシー 代表取締役 山崎一彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社トーホーエージェンシー 代表取締役 山崎一彦氏登場。
本文より~

妹の笑顔をみたくて。フライパンをふる。

角栄さんのお隣さんだったこともある。もっともこれは、羽振りがいいときのお話。6歳の頃、父親が事業を失敗してとたんに生活が苦しくなった。
2人いたお手伝いさんも、お抱え運転手ももういない。「私には8つ離れた姉と2つ違いの妹がいるんですが、母も仕事に出るようになってから、私が少しずつ妹のごはんを作るようになったんです。いま、思えばそれがすべてのスタートです」。
今回、ご登場いただいたトーホーエージェンシーの代表取締役 山崎一彦氏は、1970年、東京の深川に生まれる。父親方は、商売上手な人が多く、なかでも末っ子の父親は、経営のセンスで群を抜いていたそう。事業がいかに成功していたかは、上の話からも想像いただけるだろう。しかし、その父親が事業に失敗し、家を出ていくと、生活は前述通りいっぺんした。妹の笑顔をみたいと、せっせと料理をつくりだしたのは、それから。やがて山崎氏は、料理人になる。山崎氏が、妹のごはんづくりを指して、「それがすべてのスタート」というの頷ける話である。

リアルに感じたこともある。プロ野球の世界。

小学校の頃からだれからともなく慕われるタイプだった。あだ名は、会長。実際、生徒会長も務めている。作文を書いては、文部大臣賞を受賞。頭も良く、運動神経も群を抜いていた。野球をはじめるとすぐに注目され、中学ではシニアに進む。「でも、うちにお金がないでしょ。どうしても遠征なんかがあるわけです。だから、そのたびに風邪を引いたりして」。お金がないことを隠したかったわけではないだろう。たぶん、母親にも、チームメイトにも、気を遣わせないためだ。
山崎氏はそういう人である。
「高校はセレクションで、阿部選手も通った安田学園高等学校に進みました。最初は、『プロへ』という思いもあったんですが、それこそ、どこのチームでも四番、ピッチャーをやっていたような奴ばかりで。背番号は『3』でレギュラーでしたが、プロレベルでないことは、すぐに気づきました。大学進学ですか? ええ、進学せずに、就職です」。

かつての会長、就職する。

高校でも、山崎氏の周りには人がいつもいた。「不思議とどこにいても慕われた」と山崎氏。いまの山崎氏をみていると、当時のことが自然とイメージできる。「ええ、そうですね。オレが、オレがじゃないですね。どちらかというと周りを気遣う性格です」。
いま山崎氏は、アルバイトを含め、全スタッフの給料明細の裏側に気づいた一言を書き記している。もう、何年も前からつづけているとことだ。先輩、経営者を真似たわけではないらしい。はじめた理由をうかがうと、「ただ、『ありがとう』を伝えたくて」という返答。なんとピュアで、素敵な思いだろう。
この思いは、いまや山崎流の経営の背骨となっている。
ところで、話をもどすと就職の話である。
「うちの親父が8人兄弟の末っ子ってこともあるんですが、20歳くらい年の離れている従兄弟がいて、居酒屋を経営していたんです。そこに就職しました」。
従兄弟と言っても、特別扱いされたことはない。それがよかった。山崎氏は甘えることなく、修業をつづけ、ある人物と巡り合って、独立を果たす。これが、就職して17年経った35歳の時。その時、創業したのが、いまや大人気店の「鳥一代」だ。

お客様の心をわしづかみにした、オリジナル参鶏湯。

いまは本店となっている創業店は、JR田町駅(芝浦口)から徒歩2分の、ビルの2Fにある。「そうですね。路面店ではないので、『どうだろう』と思ってもいたんですが…」。
当初から、評判となった。特に参鶏湯をメニューに加えるようになってからは、TVや雑誌にもひんぱんに取り上げられるようなった。
そして、いまや参鶏湯専門店の様相だ。
「ありがたいことに、女優の川上麻衣子さんがいらして、絶賛いただいたんです」。
参鶏湯については、「実は、本をみて知ったんです。私は料理人ですから、鶏もさばけますし、鶏というのは、さばくと、とれる肉も少ないんですね。それで食材を無駄にしない方法を模索していた時に出会ったのが、この参鶏湯という料理だったんです」と語っている。
もっとも、山崎氏の参鶏湯には薬膳臭がない。薬膳は、当然、からだにいい要素の一つだが、あの独特の臭いが苦手という人も多いのではないだろうか。そういう人にとっても、山崎オリジナルは、受け入れられる。
グルメサイトの高得点も、このオリジナル性が評価されてのことだろう。
・・・続き
有限会社トーホーエージェンシー 代表取締役 山崎一彦氏
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2018年6月18日月曜日

女性セブンの表紙裏にまたまた、うちの武田が出ました。

6月14日(木)発売の女性セブンの表紙裏(表2・表2対向)にうちの武田がDHCの広告出てます。
武田から聞くところによると髪が洗練された色に染まり、持ちも抜群みたいです。
表紙裏とはすごいな。