2019年11月5日火曜日

10月15日(火)発行の日刊ゲンダイに「世界の山ちゃん」率いる株式会社エスワイフード山本久美社長の記事が載りました。

10月15日(火)発行の日刊ゲンダイ・『社長の私生活』に会長兼社長(夫)急逝で「世界の山ちゃん」率いる株式会社エスワイフード山本久美社長の記事が大きく載りました!
PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

11月1日(金)発行の夕刊フジ「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」はシーウェイズ山本社長にFC加盟のメリット語って頂きました。

11月1日(金)発行の夕刊フジ「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」にて酒屋からコンビニ、そして飲食FC(牛角、串カツ田中、肉汁餃子製作所ダンダダン酒場、大衆ビストロ煮ジル)を4業態6店舗されてるシーウェイズ山本社長からFC加盟のメリットと成功体験を語って頂きました。
PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

株式会社ミナデイン 代表取締役 大久保伸隆氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ミナデイン 代表取締役 大久保伸隆氏登場
本文より~

末っ子に、注がれる愛情。

「兄妹の愛情がすごかった」と大久保氏は笑う。姉と兄、計4人。大久保氏だけが、ポツンと歳が離れている。
「正直に言うとね。ちょっとほっといて欲しいなって思った時があるくらいです/笑」。
小学生の頃はサッカー、中学は帰宅部、高校でもう一度サッカーをはじめている。
ともかく、一番下の弟は、愛情いっぱいに育てられる。
「大学は、渋谷に近く、遊びにも苦労しないだろうって理由で『駒沢大学』に進みます。高校3年から、ボクシングも始めています」。
大学なかばまで、プロを目指していたそうだ。実際、ジムの関係者から「プロになれる」と太鼓判も押されていたという。「でも、だんだんビジネスに興味関心が移るんですね。だから、ここは就職だと。そうですね。あのままボクシングを続けていたら、どこまで行けるかわかりませんが、それなりにいい成績は残せていたんじゃないかなって思いますね」。
じつは長兄も、運動神経が良く、野球を続けていればプロにも行けたのではないかという。末っ子の贔屓目ではなく、大久保家の人は、だいたいが運動神経に恵まれていたようだ。

飲食と大久保氏をつなぐ決定打となった、その日の出来事。

ボクサーではなく、就職に舵をきった大久保氏は、「最初に内定をもらった」という理由で、とある大手不動産会社に就職している。
「その時には、すでに飲食に興味をもっていたんですが、すぐに飲食ではなく、いったん一般の会社に就職してみようと。だから、最初からずっとやっていくつもりはありませんでした」。
飲食に興味をもったのは、いつ頃?
「よくあるケースだと思うんですが、私も飲食に興味をもったのは大学時代のアルバイトです。『幸楽苑』さんや『マルバラーメン』さん、『しちりん』さんでもアルバイトをしました。どれもたのしかったですが、とくに『しちりん』さんですね」。
このしちりんで、初めて尊敬できる先輩にも出会った、と大久保氏。仕事の取り組み方から、遊びまで、全て教えてもらったそうだ。
そんな先輩が退職することになる。大久保氏も、就職が決まり、同じ日に店を辞めることになった。
その日、サプライズが起こる。
常連が次々とやってきて、その日はすぐに40席が埋まったそうだ。挨拶に立つと、花束を贈られ、名刺入れをもらったそう。頭を下げる大久保氏に、常連たちは、どんな言葉を投げかけたんだろうか。
「あの時ですね。心底、飲食って素晴らしいと思ったのは…」。この日の出来事を、飲食に入る決定打だったと大久保氏は語っている。

偶然の出会い。エー・ピーカンパニーと大久保氏と。

とはいえ、最初に就職したのは不動産会社だった。「結局在籍は、1年間だけなんですが/笑」。不動産といっても仲介などではなく、土地オーナーへの営業、会社の中でも一番ハードな部署だったらしい。
「1年間ですが、走りつづけたといっていいと思います。業績は同期で一番です。退職のきっかけは、1年目の2月ですね。ダイヤモンドダイニングの記事を読んで、飲食店の経営に興味がわくんです。もともと飲食はいいなと思っていましたからね」。
それで、退職?
「そうです。3月末には退職しています」。
「小さいベンチャー企業を10社ほど受けた」と、大久保氏。ある企業の採用担当者から、「グルメキャリー」という飲食専門の求人誌を読むように勧められた。そのなかに、エー・ピーカンパニーが載っていた。

エー・ピーカンパニー時代の幕開け。

「エー・ピーカンパニーには、第二新卒として入社します。それから11年間勤務します。取締役になったのは、2011年の27歳の時です」。
早い出世である。
「入社して、その7月に『わが家』葛西店の立ち上げに携わります。副店長を経て店長に就任。当時の上司は、今、『ギョウザ マニア』を経営されている天野さんです」。
大久保氏は、社長である米山氏はもちろん、この天野裕人氏にも影響を受けたと語っている。天野氏について補足すれば、エー・ピーカンパニーの黎明期から勤務され、中国進出統括部長や執行役員などを歴任されている。
「塚田農場がオープンしたのは、2008年です。八王子が1号店です。名刺のサービスや就職支援、アルバイトへの400円の権限移譲などは、私のアイデアです。そういう意味ではいくつかのことは、残せたかなと思います」。
控え目に語るが、大久保氏の業績は、エー・ピーカンパニー1社に留まらない。飲食店経営者には、「飲食店ができること」を再認識させ、アルバイトを育てるノウハウと戦略は、様々な企業の経営者にトレースされている。
ちなみに、大久保氏は31歳で副社長となり、様々なメディアで「カリスマ副社長」と語られるようにもなる。なかでもアルバイトに対する取り組みは高く評価され、「アルバイトをやる気にさせる」独自の経営モデルは「カンブリア宮殿」「ガイアの夜明け」といった有名なTVでも紹介されている。
話は違うが、私はいまだ「部長」止まりだ。部長まではスピーディーに駆け上がったが、最近、足が遠のいている。もちろん、こちらは名刺のサービスの話。私の周りにも部長級の人間が多い。まんまと、大久保氏の戦略にはまり、なおかつ、楽しませてもらっている連中だ。
我々が部長で立ち止まっている間に、大久保氏は、さっさと次のステージへと進んでいた。2018年6月、エー・ピーカンパニーを退職、同年7月にミナデインを設立し、社長に就任する。

独立、開業。「烏森百薬」、オープン。

大久保氏が独立し、新店をオープンするというニュースは、業界内外で注目を集めたに違いない。実際、様々なメディアで取り上げられている。
出店場所がまたいい。サラリーマンの聖地「新橋」。屋号は「烏森百薬」。
新橋を選んだ理由は?と質問すると、「この街が好きだから」というシンプルな回答だった。たしかに、この街の、雑然としていながらカオス的な表情には、隣町の銀座とはまた違った趣がある。
「うちの店があるのは、烏森神社の参道です」。
JR新橋駅、烏森口をでて広場を抜け、路地に入ると「烏森百薬」がある。シックな佇まいも「烏森」という響きに似合っている。
「今は新橋と、千葉県佐倉市のユーカリが丘で2店舗を運営しています。FCも3件決まっています」。
「烏森百薬」がカフェと居酒屋という2つの顔を持つのと同様に、この「里山transit」も、昼はファミレス、夜は居酒屋という2つの顔を持っている。二毛作といえばわかりよい。
「烏森百薬」にしろ。「里山transit」にしろ。大久保氏が打ち出す飲食店には明確なコンセプトがある。そのことをうかがうと、「お店の形態は出店する場所によって考えている」とのことである。
そういう意味では、最初に新橋を選択したもう一つの理由が浮かんできた。「新橋」という聖地でできること。それを、サラリーマンとOLたちと、そして愛すべき「のんべぇ」たちと、一緒に実現する。実際、大久保氏がオープンした「烏森百薬」には、面白い仕掛けが施されている。

今日もサラリーマンとのんべぇたちは、セレクトショップで、食と酒を堪能する。

「烏森百薬」に話を戻せば、食のセレクトショップなんだそう。最初は「セレクトショップ」と聞いてどういうことなんだろうと思ったが、詳しく聞いてなるほどと合点がいった。
「メニューのうち、うちが作っているのは、数点だけなんです。それ以外は、私がオススメのお店から仕入れています」。つまり、自前のモノが少ない。
「作業も効率的ですし、うちが頑張って作るより専門店が作ったモノのほうが旨い。それをセレクトして仕入れることで、いいサイクルが生まれます」。
もちろん、作り手が明記されているから、安心だし、仕入先の業績にも貢献している。エー・ピーカンパニーの六次産業的な発想とは異なるが、アプローチは似ていなくもない。
店の運営に関しては「少しだけ勝つこと」を意識しているという。定番の唐揚げや餃子にも、なんらかをプラスアルファするようにしている。それが少しだけ勝つことに繋がっているのだろう。
「料理のバリエーションもシレっと増やしている」といたずらっ子のように笑う。飲食の仕事が好きで仕方ないのだろう。
・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

「世界の山ちゃん」の株式会社エスワイフード 代表取締役 山本久美氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”「世界の山ちゃん」の株式会社エスワイフード 代表取締役 山本久美氏登場
本文より~

キャプテンシーの源流。

「守山に引っ越したのは小学3年生の時かな」。静岡県生まれの山本久美氏が、愛知県名古屋市の守山に引っ越したのは、小学3年生の時というから1976年くらいのことだろうか。
「姉が1人いるんですが、大人しくて頭のいい姉とは違って、私は子どもの頃から大のお転婆でした」。じつは、久美氏の母の父、つまり母方の祖父は、プロゴルファーの先駆けだったそう。「祖父の隔世遺伝なのかもしれないんですが、私は子どもの頃から運動神経が良かったんです」。
スポーツなら何をやってもできたのだろう。負けたこともない。
バスケットボールでもそうだった。
「小学生からバスケットボールを始め、私がキャプテンだった時には区大会で優勝もしました」。
コートを自在に駆ける少女時代の久美氏が目に浮かぶ。背番号は「4」。いくつかの試合のプレーが中学の先生の目に留まり、引き抜かれる。
「引き抜かれるっていうと、ちょっと語弊があるんです。私学じゃなく、公立ですから。だけど、私はバレーをしたかったんですね。でも、あの手この手で誘われて」。
最初に言っておくと、彼女が通ったのは普通の公立中学だが、バスケ部だけ様子が違った。地区も、県も、東海というエリアでも勝ち抜き、全国で何度も優勝している。しかも、彼女が3年でキャプテンだった時には、練習試合を含め、敗北したことは一度もなかったそうだ。
「選手を育てるのがうまい先生でしたし、選手たちも公立にいるような子じゃない。私の時もクラブチームから優秀な選手が次々、入部しました。私が小学校の時に区大会で優勝したって言っても、まるで格が違います。入部したての頃は、彼女らがやっている練習が、何をしているのかもまったくわからなかったくらいです」。
負けん気が顔をだす?
「そうですね。小学校の時からスポーツは得意でしたからね。得意なことで負けたくない。そうは思いましたよね。でも、敵わないような子ばかりです」。
それでも結局、中学でもキャプテンに?
「ハイ、3年生ではキャプテンナンバーの『4』をつけて出場していました。ただ、私より巧い子はいました。入学して少しすると、その学年のキャプテンを先生が決める感じでした。ですから1年の時から学年のキャプテンをしていました。特に問題がなければ3年ではチームキャプテンとなります。キャプテンナンバーの『4』番をつけていました。じつは私は高校でも大学でも、バスケットボールを続けるんですが、ずっとキャプテンなんです/笑」
なんと、久美氏のキャプテンシーの源流は、ここにあったのかもしれない。
いずれにしても、中学時代から全国優勝を遂げるチームを背負い、つらい練習に耐え、キャプテンとして選手たちをまとめ、引っ張った。いまに通じる、これは事実である。

背番号4の涙。

「2年生の時、3年生へのお仕置きに、先生が2年生と3年生のユニフォームを取り替えさせ、私達2年生が若い背番号をつけたことがあるんです。私は2年生のキャプテンだったので『4』番のユニフォームを着せられました。4番なので、チームキャプテンになるわけです。2年で背番号『4』をもらった時は泣きました。だって、先輩たちにしたら『なんであいつなんだ』ってなるわけですよ」。キャプテンだから指示を出さなければいけないのだが、指示をだそうとすると、先輩たちに怒られ、ださないでいると、また文句を言われた。
「辛かったですが、今思えばいい経験ですね。でも、もう一度経験したくはないですけどね/笑」。
バスケと久美氏の関係は、じつは、大学を卒業してからも続いている。
「私は教師になりたくて、愛知教育大学に進み、卒業します。就いたのは、小学校の教師です。じつは、赴任した小学校にバスケットボール部があって、コーチをするんです。その時、結構、できる子っていうか、運動神経がいい子どもが多くって」。
だんだん彼女自身、前のめりになっていく。
「それで、ちょうど私が受け持った時に、市では優勝してしまうんですね。5年生たちがすごく巧かったんです。それで、昔の恩師にクラブチームに誘われて。でも、クラブチームって言ったって、昨日まで普通の小学校の生徒たちです。『愛知県だけみても、強豪なんていくらでもあるんだからね』って。そうハッパをかけながら、私自身は、県大会でも勝ち抜くのは無理だと思っていました。でも、親御さんも盛り上がっちゃって」。
結果は、久美氏の予想のはるか上。こちらでも、市も、県も、東海エリアも、勝ち抜き、全国に進んで優勝までしている。負けることはなかった。クラブチームのコーチ就任1年目のことというから、頭が下がる。
「私もエキサイトしていましたね。たぶん、きついことも言ったんでしょうね。相手は男の子だったし…」。子どもたちからすれば、オニだったかもしれない。
「でも、その子たちとは、今も食事をしたりするんです」。

怒らないけど、許さない。教育の流儀。

教師は11年続けた。退職したのは「世界の山ちゃん」の創業者である山本重雄氏と結婚したからだ。でも、先生という仕事は精神的にハードだと聞く。辞めたいと思ったことはないんだろうか?
「一度だけ、あるんです。ある学校に赴任した1年目の話です。5年生の担当でした」。
それまでのやり方がまったく通用しなかったという。
「だって、子ども達の反応がぜんぜん違うんです。勉強だけなら、教え方を変えればいいですが、大変なのは生活指導ですね。接し方を間違えると子ども達は私の話を聞かなくなり、学級崩壊に発展しかねません。1人の男の子がいて、その子が特にね。でも、私は、その子に教師というか、大人とはっていう、何か大事なことを教えられた気がしているんです」。
怒らないけど、許さない?
久美氏から聞いた言葉を投げかけた。
「そう。怒らないけど、許さない。私はそれを一貫して行いました」。
「たとえば…」と久美氏。
「給食でトウモロコシが出るとしますよね。食べ終わった後に、ナイロン袋を回して芯を捨てていくんです。彼は、袋を待つのがイヤだったんですね。面倒だから。そこで横の子の、机の上に置いちゃうんです。それを取り上げて、もう一度、彼の机に置きます。ええ、私がです。すると今度は、床に落とす。今度も拾います。だって、絶対、妥協してはダメだから。それから、ゴミ箱に入れるんですね。でも、『生ゴミだから、そこじゃない』って、戻します」。
廊下にも捨てられ、校舎の外のサンにも投げられた。それをぜんぶ取り、生徒の机に戻した。許しはしないが、怒らなかった。絶対。そう心に決めていたから。
「彼は、最後に4階の窓から校庭まで投げますが、それも、私が取りに行きました。心を少しずつ開いてくれたのは、あの時からでした」。
教室の運営はうまくいったんだろうか?
いや、そういう次元ではないんだろう。運営だけなら、もっと上手な方法があるはずだ。久美氏の生徒たちへの思いが、この話に凝縮しているように思う。
「でも、その頃の子達とはもう今は会ってないんですよね」。
最後の一言は少しさみしそうなトーンだった。
ともかく、先生という職業はいつの時代も尊いということを、久美氏の話を聞いて改めて知った。いわば、ここまでが、久美氏の第一章である。

名古屋で世界を知る。

「『世界の山ちゃん』を知ったのは、大学生の時です。就職しているお友だちが『面白いお店があるから行こうよ』って。ええ、そのお店が『山ちゃん』だったんです」。
「う~ん、印象ですか? そうだなぁ。ほうれん草をナマで食べさせたり、ね。ちょっと変わったお店かなっていう印象ですね。 まさか、その店のオーナーと結婚するとは思ってもいなかったですけどね/笑」。
そりゃぁ、そうだろう。
恋の軌跡も聞いてみたかったが、話は、3年前。つまり、2016年まで進む。夫であり、「世界の山ちゃん」の創業者であり、当時は会長だった重雄氏が亡くなり、妻の久美氏がバトンを受けた年である。
「最初は、何が何だかわからなかったのが本音です」。
重雄氏が亡くなったのは突然のことだったらしい。
「そうですね。突然だったから、尚更ですね。会長(重雄氏)が、やってきたことをどうすれば守れるか。私だって、結婚してから専業主婦だったわけですから、仕事のことなんてわからない。だけど、今守れるのはあなたしかいない、なんて言われて」。
葛藤も、あったそうだ。だが、決意する。
友達に誘われ、初めて知った「世界の山ちゃん」。何十年かけ、その「世界の山ちゃん」の真ん中に立つことになる。「やるからには、夫の遺志を受け継ごう」。久美氏は、そう誓った。
・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

株式会社goonies 代表取締役 鈴木正史氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社goonies 代表取締役 鈴木正史氏登場
本文より~

飲食に進むまでの歩み。

父親は、川崎で魚の卸をされていたそう。母親は、保険の外交員。ともに忙しい。
「親父は深夜に仕事に行き、母は夜遅くまで外交員の仕事をしていました。私は3人きょうだいの真ん中です」。
姉と弟。
「両親が忙しいこともあって、自分の食べるものは自分でつくるのがうちのルールでした。そういう意味では、昔から料理に慣れ親しんでいます。今と違い、当時は料理が好きではなかったですが(笑)」。
小学校の低学年から剣道をはじめ、4年から中学1年まで野球をつづけ、中学2年からサッカー。「高校からは帰宅部です」と笑う。
スポーツは好きで、今でも野球は大好きだが、勉強は好きになれなかった。
「高校は野球の強豪校に行きたかったんですが、学力がない/笑。それで、一般校に進み、帰宅部というわけです」。
なるほど。好きといっても、そうそううまい具合にはいかない。
「じつは、ファッションが好きで、高校卒業後にはアパレルメーカーで仕事をしていたのですが、折からのアパレル不況で服が売れません。26歳の時、アパレルの先は暗いといわれ、転職を決意します。といっても、つぎの仕事は銀座のクラブのボーイ。将来をしっかり見据えていたかといわれると『?』なんですが」
ただ、この選択で、人生の道がみつかる。

赤羽に、おしゃれな肉バルがオープンする。

「最初の独立は30歳の時です」。
最初の独立?
「そうなんです。最初は、幼馴染を含めた数人で独立して、レストランをはじめます。じつは銀座でばったり幼馴染に出会って、彼に誘われ、飲食の会社ではたらいていたんです。それで、彼を含め、数名でいっしょに独立です」。
しかし、なかなか思うような業績は上げられなかった。「立地がよくなかったですね。2年経って、クローズします。今考えると当然のなりゆきです(笑)私自身は、それからも知人の紹介で居酒屋ではたらきます。今度は料理も勉強しました。最後に就職したのが、もつ鍋の会社です」
株式会社アキナイ。もつ鍋の名店「もつ福」を展開されている会社だ。
「この会社に在職していた時に、もう一度独立を考えます。資金も貯め、37歳の時に2度目の独立を果たします」。
それが、赤羽ですか?
「2011年の7月ですから、震災の年ですね。当時の赤羽は、思っていたより活気がなかった。治安も、今一つです。今では飲食店も多いですが、うちがオープンした当時は、それもごくわずかです」。
たしかに、いまの赤羽は、昔の赤羽とは様子が異なる。
「ただ、うちはオープン初月から600万円を売り上げます。赤羽のこのあたりには、ワイン業態がなかったんですね。好調な理由は、それもあったと思います」。
奥様も貢献している。「妻の前職の関係で、何人かの芸能関係の人からお花をいただいたんですね。あれは、インパクトがありました」。
名前をうかがうと、たしかに、赤羽の住人はびっくりしたはずだと、へんに納得する。
・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

夕刊フジの「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」にてTHS様の純生食パン工房HARE/PAN (ハレパン)掲載しました。

夕刊フジの「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」にてTHS様の純生食パン工房HARE/PAN (ハレパン)10月18日(金)、10月25日(金)で2連載させて頂きました。


2019年10月24日木曜日

9月21日(土)から日刊ゲンダイ“グルメ企業社長の食い倒れ日記”は5連載でコジマ笑店・小嶋崇嗣社長でした。

9月21日(土)~10月19(土)の5連載の日刊ゲンダイグルメ企業社長の食い倒れ日記はコジマ笑店・小嶋崇嗣社長でした。
(9/21掲載)
 (9/28掲載)
  (10/5掲載)
   (10/12掲載)
   (10/19掲載)
96x96

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン