2022年5月25日水曜日

5月20日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、シノバズブルワリーひつじあいすをリニューアルオープンされた『長岡商事』様を取り上げました。

5月20日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は自家醸造クラフトビールと羊肉料理の店「シノバズブルワリーひつじあいす」としてリニューアルオープンされた『長岡商事』様を取り上げました。

4月22日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は微アルコールのマッコリ「発旺山」を輸入されてる『COCOA』様を取り上げました。

4月22日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は微アルコールのマッコリ「発旺山」を日本に初上陸させた日韓の架け橋役『COCOA』様を取り上げました。


5月6日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は山口県・広島県エリア限定で展開されてる『MIHORI』様を取り上げました。

5月6日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は有機野菜を丸ごとペーストにされる技術を全国に広めたい、山口県・広島県エリア限定で展開されてる『MIHORI』様を取り上げました。

5月13日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は『インターナショナル青和』様を掲載しました。

5月13日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は小笠原伯爵邸も運営されてる『インターナショナル青和』様を掲載しました。

2022年5月24日火曜日

もぢょい有限会社 代表取締役 牧元利行氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”もぢょい有限会社 代表取締役 牧元利行氏登場。


本文より~

5歳のときに抱いた「社長になりたい!」という大志。

『少年よ大志を抱け』という有名な言葉がある。
今回、ご登場いただいた牧元氏は、5歳にして「社長になりたい!」という「大志」を抱いた。大人が考えれば「社長になる」ということは、相当の覚悟が必要だが、そこは5歳、無邪気というか「カワイイ!」という言葉のほうがマッチしている。しかしながら、結果的には幼い頃に抱いた大志を実現、「初志貫徹」の見本のような人生を歩んできている。

社長に憧れたワケは、叔父が社長だったから。

幼いながらも「社長になりたい!」と思った動機、きっかけは実に他愛にないことだったと語る。
「母方の叔父が、内装業の社長だったんです。よく遊びにいったりしていたんですが、大きな家に住んでいましたし、子どもの目にも、なんとなく“いい生活”をしているように映ったんです」。
当然といえば当然だろう。子どもには企業にとって「社長」とはどのような存在なのか、どのような仕事をするのかは分からない。むしろ“憧れ”で十分だし、“憧れ”があったから、現在の牧元氏がある。

「大志」実現を睨んで、商業高校へ進学。

5歳にして「大志」を抱いた牧元氏は、1976年、千葉県茂原市に生まれた。ご両親はともに鹿児島出身とのこと。両親が知り合ったのは奈良県で、その後、千葉県茂原市へ。5歳年上の姉との4人家族。
「父は革細工の職人でした。父なりの考えもあったと思いますが、茂原に引っ越し日立製作所に勤めました。基本的には工場ですから三交代勤務でした」。
「田圃と山に囲まれた土地でした。小学校は3クラスでした」。どんな少年だったのか。
「やんちゃでもなかったですし、どちらかといえば、地味だったと思います。ただ、人を笑わせるのは好きでしたね。スポーツに夢中になったことはありませんでしたけれど、バドミントン部に所属していました」。やがて進学。
「中学校は7クラス、高等学校は4クラスでした。ただ、高校は将来のことを考え商業高校に進みました。ここで学んだ簿記や決算書などの知識は役に立っていますね。あっ!生徒会長ではないけれど生徒会にも所属していました」。

アルバイトにいそしんだ高校時代、母との離別。

子どもの頃、両親から「勉強しなさい」と言われたことはなかったと振り返るが、父親には本を読むことを薦められた。「松下幸之助、本田宗一郎の著書や自己啓発関連の本を読みました。ただ、読むとお小遣いをくれたんですよね」。
「高校時代、学校はアルバイト禁止でしたが、“社会の営みを学びたい”“社会経験を積み重ねたい”“世に出たい”といった意識、願望があったのでアルバイトをしていました」。その勤務実態は、ハードそのもの。
「朝5時から8時までコンビニで働いた後、登校。授業が終わって夕方からコンビニと寿司屋とで週5日、働いていました。両親とも応援してくれました。ただ、母親は厳しかったですね。疲れて休もうとしたり、遅刻したりするときつく怒られました」
当時、時給600円で月収は10万円前後。どれだけハードだったかは容易に想像できる。高校生にとっては、いや、大人にとっても10万円は大金だ。「そのお金ですか?カラオケや友人に奢ったりして遣いましたね」。
家族の応援、叱咤激励を得てアルバイトにいそしんでいた日々、牧元家を不幸が襲う。母親が「胃癌」で他界した。高校3年の時だった。「ショックでしたね」。

寿司屋に就職。半年で辞めることに。

高校卒業し就職。選んだのは、親戚の知人が経営していた原宿の寿司屋だった。
「就職先として飲食業という意識は特にはなかったですね。ただ、寿司屋になったら独立できるのではないかと思いました。住み込みでした」。が、あえなく半年で辞めることに。
「仕事が終わってから連夜、クラブ通いの日々でした。当然、仕事に影響が出ますよね。いわば挫折です」。
辞めたあと、具体的な考えや就職先も計画もなく、地元に帰った。

警備員、ディズニーランドを経て、23歳で「焼鳥屋台」開業。

具体的な目標もなく地元に帰った牧元氏は、とりあえず警備員の仕事に就いた。その一方、「芸は身を助く」ではないが、思わぬチャンスが訪れた。当時は思ってはいなかったのだろうけれど、ある選択が、振り返ってみれば牧元氏にとってはターニングポイントになった。
「ダンスが好きだったんです。それでディズニーランドのオーディションを受けて採用されました。園内の掃除、清掃から園内を彩るキャストとして来園者の老若男女を楽しませる仕事を4年、続けました」。ここで運命的な出会い、副社長兼感動プロデューサーの多田氏と知り合った。
「独立しようと考え出したのは、この頃ですね。4年間で約200万円、貯めました」。
独立の意思は固めたものの、どんな職種で独立するかまでは決めていなかったが、「FC展開している企業にFC加盟店として独立することを考えました。いろんなFCを見てきたんですが、結構、冷たいんですよ。そんななか、“大吉兆”という焼鳥屋を運営している企業が親身になって相談にのってくれ、熱心に勧めてくれました」。
こうした経緯を経て“焼鳥屋台”を開業、23歳のときだった。

「心を籠める」。お客さまに愛されることがイチバン!

初期投資は400~500万円。今はなき千葉県東金市内の「スーパーセイフー東金店」の店頭で開業した。
「地域に愛される焼鳥屋を目指し、4年間、雨の日も風の日も、15時から24時まで吹きっ晒しの店頭で休みなく営業を続けました。初めのころの売上は1日10000円くらいでしたかね。その後、平均売上が140万円くらいにまで増えましたね」
お客さまに喜ばれた、愛された理由は「味」にあった。
「屋台の場合、普通は「半焼き」状態から仕上げるのですが、私の場合は、あえて「イチ」から、つまり「生」の状態から焼くので時間がかかるんだけれど、このほうが、断然、美味しいですよ」。お客さまはシビアです。
そして28歳。次へのステップへ飛び立つ。居酒屋業態「本千葉駅前の串屋横丁」を開業した。

居酒屋で接客の難しさを思い知った。

「ドリーマーズという企業の中村さんがFC店を募集していたので、早速、門を叩き、ディズニーランドで同僚だった多田と、中村さんの店、「串屋横丁」に修業にいきました」。
多田氏に参加してもらうのには、極端に言えば「一緒にやれるのは、お前しかいない!」という牧元氏の熱意以外のなにものでもない。『三顧の礼』という、中国・三国志の有名な言葉がある。ある武将がある参謀役が戦いには欠かせないと判断し、三度にわたって口説いたという故事だ。牧元氏は多田氏を口説いて口説いた結果だった。
ただ居酒屋は甘くはなかった。接客ができなかった。「屋台とは違うんだ、ということが身に沁みました。鳥を焼くことはできるのですが、接客がまるでダメ。叱られてばかりの半年でした」。
お酒、料理を提供するだけ居酒屋が成り立つわけではない。お客さまにとって「心地よい時間」を過ごしてもらえる、「また来よう」と思ってもらえる接客が肝心だ。
半年、接客のノウハウを叩きこまれた牧元氏と多田氏。満を持して「本千葉駅前の串屋横丁」を開業。牧元氏28歳、多田氏27歳のときだった。

FC店スタート、2年後にFC2号店。3号店はオリジナルブランド。

「ラーメン屋さんの居抜き物件で、1号店の“本千葉駅前の串屋横丁”を開業しました。開業当時は“順調なスタート”とはいえず日商7~8万円くらいでしたけれど14~15万円、ほぼ倍になりました」。
一方で、FC展開の弱点を知り、次なる展開はオリジナルブランドを考えた。
「FC店というのは、その仕組み上、どうしても大きな利益は望めません。やっぱり自社ブランドを持ちたいと思いました」。2年後、「元々、お客さまとして来てくれていた、サンマーフィーの鈴木氏の店で修業し、「オリジナルブランド」として3号店を開業した。
こうした積み重ねの結果、現在は、千葉市、蘇我、幕張で7店舗、1工場(セントラルキッチン)までに拡大した。
「昨年5月、コロナ禍でしたが、千葉市中央に焼肉店を開業しました。初めての試みですが、今後、焼肉業態も2~3店舗、拡大したいと考えています。場所ですが、千葉県愛が強いのか東京に進出する考えはなく、千葉市から東の東京より、市川とか船橋を考えています」。

・・・続き

もぢょい有限会社 代表取締役 牧元利行氏

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2022年5月19日木曜日

EDGE 代表 平井悠太氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”EDGE 代表 平井悠太氏登場。

本文より~

生まれ故郷を抜け出して一人東京へ。

平井氏は北海道網走市生まれ。父が民間の土木事業の会社に勤務していたことから、旭川市、深川市と転勤し、家族もそれに伴って転居した。今実家は深川市にある。兄弟は5歳上の姉、3歳上の兄の3人兄弟。自分は末っ子である。
子供の頃は一人遊びが得意のおとなしい子供だった。中学2年の時にお年玉でスノーボードを購入、バスで20分の所にあるスキー場に通っていた。雪のない季節は自転車で街中や周辺を走り回ることを楽しみにしていた。
姉、兄共に高校を卒業してから介護の専門学校に進んだ。兄は現在、旭川で介護の仕事に就いている。姉は難病に認定され道半ばで闘病生活となった。この「介護」の道に進むことは、きょうだいの間で暗黙の内に定まっていた。高校時代はアルバイトをして過ごして、高校2年生の当時“反抗期”を自覚した。高校の先輩と付き合ううちに自分も粗暴になっていた。そして、高校を卒業してから旭川の専門学校に進んだ。
専門学校に入学して、早速当時人気のミニバン「ホンダS-MX」を購入(約90万円)。心が躍る毎日だったが、2週間ほどしてバスと接触、廃車になってしまった。理由は自分の不注意。ローンだけが残った。これが人生最初の大きな挫折感となった。半ば自暴自棄となり、学校を卒業したら「ここから抜け出そう」と考えていた。
就職は神奈川・横浜市内の老人ホームに決まった。東京方面の縁は高校時代に修学旅行で行ったことがあるだけで、親戚はおろか知人も誰もいなかった。それがかえって地元と決別することに都合がよかった。
介護職は恒常的に人手不足で、面接もなく電話だけで就職が決まった。入所してから同期の男子と二人部屋で寮生活が始まった。職員の中には同世代の人が少なく、職場の中での交流はなかった。仕事が休みの日には東京の渋谷や原宿に出て過ごしていた。
仕事は安定していたが単調だった。だんだんと「今は介護ではなく別の人生をやろう」と考えるようになった。そして、東京に出ることを決断。当時21歳で「30歳になって、まだ自分がやりたいことが定まっていなかったら介護の仕事に戻ろう」と自分に誓った。

一生懸命に働いてホームレスから抜け出す。

この時に移り住んだのは外国人が経営する原宿のシェアハウス。二段ベッドが二つ設けられているだけで、平井氏以外の住人はみな外国人。原宿の居酒屋と歌舞伎町の量販店のアルバイトを掛け持ちするようになり、寝るためにシェアハウスに帰ると住民が変わっていた。このように複雑な環境にあって、住民とコミュニケーションを取らずに3カ月ほどが経過した。
このシェアハウスは禁煙だったにも関わらず、みな喫煙していた。自分もそれに倣って喫煙していた。ある日、アルバイトから部屋に戻ると、ベッドに「あなたは禁煙のルールを破ったので、明日の朝までに出ていってください」と張り紙がされていた。誰かが自分のことを密告したのだろう。そのタイミングでこのシェアハウスを抜け出した。
そこからホームレスとなり2カ月間を過ごした。寝る場所は電車の中。友人はいなく、アルバイトの掛け持ちで忙しく過ごした。お金も貯まり、父に保証人になってもらって東京・中野にアパートを借りた。ユニットバス付で家賃4万5000円。家具は布団だけ。毎日18時間働いて後は寝るだけ。月の収入は30万円を超えていた。
だんだんとアルバイト仲間の友人ができるようになり、あちらこちらに遊びに出かけた。週に一度は友人たちと居酒屋で過ごした。このようなある日、下北沢が地元という友人に誘われて下北沢の街を探索した。
友人たちの交流が楽しくなった。北海道で過ごしていた友人たちと比べ、東京の友人たちとの方が付き合いやすいと感じるようになった。下北沢は街の雰囲気そのものが自分になじんでいた。下北沢にいて、下北沢の人たちと話している時に“自分らしさ”を感じるようになった。

下北沢で飲食業と出合いご縁に恵まれる。

下北沢が実家の友人の祖父は地元で飲食店を展開していた。それらの物件の一つが空くことになり「そこでみんなでカフェをやろう」と話が立ち上がった。平井氏は「これは面白そうだ」と参画した。メンバーは下北沢の友人、自分、もう一人の友人の3人。
そこで下北沢に住むことを決意。この時彼女がいて、一緒に住むことになっていた。独り住まいにしてはちょっと広い。家賃はちょっと高いが二人で住めば安かった。しかし、彼女とは3カ月で別れた。「下北沢のカフェで頑張ろう」と決意を新たにした。
このカフェの経営は、開始して一年も経たず異変が起きた。まず、下北沢の友人が抜けた。そして、もう一人の友人も抜けて、自分がオーナー(つまり下北沢の友人の祖父)の元で働く、雇われ店長となった。アルバイトを採用して、売上をつくり利益を管理して、経営を安定させることに一生懸命に取り組んだ。そしていつしか7年4カ月が経った。
その店を辞めることになったのは、再開発によって店が立ち退くことになったから。2021年11月のこと。しかしながら、幸運にもこのタイミングで現在の物件で商売ができることになった。新しい物件のオーナーは、カフェの店長をしている当時に知り合った人物で、それ以来交流があった。この物件を借りることができたのは、オーナーが「知らない人に貸すのではなく、知っている人に貸して頑張ってほしいと考えたから」という。
独立開業となるこの店はこの3月26日にオープン、店名は「HITOHITO」。下北沢駅から30秒のビルの3階、8坪でカウンターを含め23席。居酒屋営業(18時~24時)とバー営業(24時~5時)の二毛作で、日中は友人に貸してカレーショップが営まれている。
物件取得費は60万円。内装施工を知人に依頼してほぼスケルトンで8坪を250万円で仕上げてもらう。この他備品の購入に100万円。初期投資額は450万円で収まった。運転資金を含めて日本政府金融公庫から一部借りることを想定していたが、これまで年金を支払っていなかったことから日本政府金融公庫からの融資は得られなかった。とは言え、立ち上がりは好調となり、今にしてお金を借りる必要がなかった。
家賃は月額22万円。「HITOHITO」は深夜営業であることから、日中は友人に貸し出してカレーショップが営まれていると述べたが、これに際して友人と「初期費用は平井氏が全額支払い、家賃負担は折半」と取り決めた。そこで、平井氏から友人から家賃11万円を受け取っている。自分が払っている家賃は11万円となる。「HITOHITO」のスタッフは基本的に自分と料理人の2人。深夜のバー営業では、アルバイト2~3人で回している。忙しくなる金土の深夜には、これらに1人加わる。

・・・続き

EDGE 代表 平井悠太氏

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2022年5月2日月曜日

2022年、求人部門(求人広告と人材紹介)以外に6つの柱になる部門を設けました。

本業は人材採用に関する代理店、人材紹介、コンサル業務。

コロナ禍で大ピンチでしたが、常日頃綱渡りの経営なので厳しい時パワーが出ます。

ピンチをチャンスに変え、業務範囲が幅が広がりました。

PR業務に加え、販促サポートやFC加盟サポート、食材卸の提案、顧問業務も新たに加わりました。

2022年、求人部門(求人広告と人材紹介)以外に6つの柱になる部門を設けました。

あと2つも今期中に売上立ってくれば柱になるかも・・・。

なんでもそう、他社よりも多く、他社よりも長くその分野で続けてたらいずれ形になり認められる。

“あきらめないこと”、そして“継続すること”大事です。

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