in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社Drapocket 代表取締役社長 塩川紘一氏登場。
社長になるか、ジョッキーになるか。少年が導き出した答え。
ジョッキーになるには、パイロット同様、視力がよくないといけないらしい。今回は、そんな話から始まった。今回、ご登場いただいたのは株式会社Drapocketの代表取締役、塩川社長。
塩川さんは1985年、福岡県若宮市で生まれている。塩川さんによれば、若宮市はかつて炭鉱で栄えた町だったそう。地図で観ると福岡市と北九州の真ん中。炭鉱の名残りは今、炭鉱跡や資料館で観ることができる。
「うちの祖父は炭鉱が盛んだった頃に区画の整理などを行っていて、その時の功績が認められて石碑が建っています。まだ、健在なんですが。叔父は今、若宮市の市長を務めています」。
お父様は建設会社を興し、塩川さんいわく「今も細々とつづけている」とのこと。仕事が好きなんだそう。姉弟は4人。塩川さんは3番目で、長男。
祖父や叔父をみていたからだろうか。小さな頃から社会をみる目が育っている。
「小学2年生の時、世界には学校にも行けない、ご飯もたべられない子がいることを初めて知りました」。
貧困な子どもたちの映像が、ピュアな少年を奮い立たせた。貯金箱をあけ、お正月にもらったお年玉をそっくりそのまま寄付。
「ユニセフだったと思うんですが、機関を通して寄付をしました」。その額、3万円。大金だ。
「ただ、いいことをしたという思いはあり、お礼の手紙もいただいたんですが。具体的にどう使われたのかがわからないから不完全燃焼っていうか」。
なぜ、彼らは貧困なのか?
少年は、そこに目を向けた。
「根本的な原因は教育だとわかったんです。じゃあどうしたらいいか。学校をつくろうと」。
結論が早い。頭の回転が早い証。
「でも、それにはお金がかかるでしょ。それくらい子どもにもわかります。じゃあ、今度は、どうすればお金持ちになれるか」。
頭のなかで、ぐるぐると思いが走り回る。
「社長になるか、ジョッキーになるか」。
これが、少年が導き出した答え。
ジョッキー、断念。残されたのは。
<ジョッキーってあの競馬の?>
「そうです。中学生のときに、友達と将来について話していたんです。私は背が低かったし、体重も軽い。『だったら騎手がいいんじゃないか』って話になって。小倉競馬が近くにあったんで、その影響もあったんでしょうけど」。
「引くに引けなくなった」と塩川さん。
「『塩川が騎手になりたいと言っている』と学校中に広がって。先生が何を思ったのか資料を一杯集めてくださって」。
「否定できる雰囲気じゃなかった」と苦笑する。本人も、その気になっていく。寄付の時もそうだが、こうだと決めたら突き進むタイプ。
「うちの両親は反対どころか、母親に至ってはノリノリでした」と笑う。
ただし、簡単にジョッキーになれるわけがない。道も狭い。そこをこじ開けるのも塩川さんらしい。
「たまたまですが、うちから自転車で30分のところに乗馬クラブがあったんです。そちらで、トレーニングさせていただきます。ただ、お金がかかるんです。だから、お願いして、厩舎の手伝いをする代わりにトレーニングを積ませていただきました」。
朝8時に出勤。馬の世話を一通りして、昼ご飯を食べて、トレーニング。
<進学はされなかったんですか?>
「定時制の高校に進学しました。トレーニングが終わって、夕方6時頃から学校です。カリキュラムを自由に組める学校だったので、トレーニングと学校を両立することができました」。
馬の背に乗ると、どんな風景が望めるんだろう?
サラブレッドの場合、馬の肩までがおよそ170センチメートル。座高が加わるから2メートルを超えることになる。
走らせれば、当然、スピードもでる。TVで騎手目線の映像を観たことがあるが、トップギアに入れば、風景が後ろにぶっとんでいく。
塩川少年は、障害のトレーニングを積んでいた。
「トレーニングを始めてから半年。大会に出場して優勝します」。
<優勝ですか?>
「大阪であった大会なんですが。将来はオリンピック選手になんて話もいただきました。じつはこの時、競馬の関係者の方とお話することができて」。
「騎手になるのを断念した」という。
冒頭の話だが、騎手になるには視力も問われる。だから、視力を矯正するために、塩川さんはわざわざ東京まで行っている。
「関係者の方と色々お話させてもらって、『騎手になりたい』というと『難しいだろう』って言われたんです。倍率が高い。それだけだったらいいんですが、騎手は『縁故の世界だ』って言われるんです」。
<つまり、外部からはむずかしい?>
「そうです。その話を聞いて、急に冷めてしまって」。
華やかで自由な世界が、急に束縛された色褪せた世界になった。
「ジョッキーになって、お金持ちになって学校をつくって貧困をなくす、というプランは、これでなくなります」。
<残すは、社長になるプランだけですね?>
「そうなりますね(笑)」。
キッチンカーの幸せ。
「父親を継ぐ、というのも選択肢の一つでした。実際、実家でバイトをしながら建築系の専門学校にも進みます。父親は設備系の仕事をしていたんですが、私はデザイン設計をしたかったので。資格を取るには、実務経験もいるとわかり、設計会社に就職します」。
「ただ、」と塩川さん。「ある大きな事件に、そちらの会社もかかわっていたようで、倒産してしまうんです」。ある大きな事件とは、姉歯事件のことだそう。
「そのあとフリーで現場監督を、3年くらい仕事をつづけました」。
<今とはまったくちがう業種ですね?>
「180度ちがいますね。建設関係の仕事もけっこうしがらみがあるんです。職種も、内装業者から空調や電気工事業者など、もう様々です。そういう人たちが、それぞれの思惑で仕事を進めるわけですから」。
どこの世界にもあることだ。だが、交錯する様々な思惑を整理する現場監督の仕事は、たしかに骨が折れる。「そんな時に、偶然、キッチンカーをみたんです」。
たのしそうにはたらくスタッフ。笑顔で商品を受け取るお客様。その世界観に、いっぺんで惹かれた。
現場にはないシンプルな「幸せ」を観たんだろう。
「キッチンカーの周りには、現場にはなかったピュアな世界が広がっていたんです」。
いったんやると決めたら、行動が早い。今度もおなじ。フリーだったことも幸いしたんだろう。
「福岡にはキッチンカーっていう文化がなかったもんですから、勉強するなら東京だと思って」。
所持金わずか30万円。塩川さんは、30万円を握りしめ新幹線に乗り込んだ。ちなみに、やるなら、あの甘い世界をつくるクレープと決めていたそうだ。
幸福のキャッチボール。キッチンカーの世界。
話を加速させるとこうなる。塩川さんは26歳で上京。原宿でみつけた一つのキッチンカーの会社に就職。1年半後、務めた会社を辞め、独立している。
「そちらの会社に決めたのは、キッチンカーが牽引式だったからなんです」。
<一般のキッチンカーと牽引式ってどうちがうんですか?>
「みなさんが一般的にイメージされるエンジン付きだと思うんですが、牽引式はエンジンがついていなくて、車高が低い分、お客さんと同じ目線で接客ができるんです」。
お客様と同じ目線の高さ。オーダーいただいたクレープをお渡しすると、それだけで笑顔の花が咲いた。
「今、私はクレープじゃなく、スムージのお店をしているんですが、じつは、そこにも一つのきっかけがあるんです」。
そのきっかけを聞いて、何かが一つにつながった気がした。塩川さんという人の輪郭が明瞭になったというべきだろうか。
「毎日、来てくださる常連さんがいらっしゃったんです。クレープとタピオカをオーダーいただいて、毎日、クレープを食べ、タピオカを飲まれていたんです。もちろん、ありがたいお客様です。車高のあるキッチンカーだったら気づかなかったかもしれません。でも、私はすごく近い距離で、お客様と接していたからでしょう。最初は、ありがたいだけだったんですが、少しずつ、心配になってきたんです」。
<心配ですか?>
「決して悪いものが入っていたわけじゃないんですが、毎日、毎日ですからね。体に良いとは言えない気がしたんです」。
<それで体に良いスムージーですか?>
「毎日飲んでも飽きない。そして健康にいい。うちのスムージーには砂糖もつかってないんです。だから、とてもナチュラルで、体を内側から綺麗にしていきます」。
<おいしいうえに、からだにいい。もう無敵ですね?>
塩川さんが、力強く頷く。
・・・続き
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