2018年1月9日火曜日

“飲食の戦士たち”初の1990年代生まれの株式会社まんぷくむすび 代表取締役 西中拓也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”に“飲食の戦士たち”初の1990年代生まれの株式会社まんぷくむすび 代表取締役 西中拓也氏登場。
本文より~

その道は瀬戸大橋につづく。

1位「紅鮭」、2位「ツナマヨ」、3位「鶏そぼろ」。 これ、まんぷく人気ランキングの上位3傑。個人的には、「葉唐辛子味噌」「ネギ味噌」「京菜」あたりにも食指がうごく。
今回、ご登場いただくのは、株式会社まんぷくむすび、代表取締役、西中拓也氏。1990年生まれだから、このインタビュー時には、まだ27歳。若き経営者の1人である。西中氏が生まれたのは、岡山県倉敷市の児島という町だ。「瀬戸大橋線」が走っていて、上空から観れば、やがて高速道路と一つになり、まっすぐ四国までつづいている。
「うちも、海には車で10分程度でした。ただ、父が、山が大好きで(笑)」。なんでも、週末になると、夏でも海ではなく山に登ったそうだ。「冬はスキーですね。ボーイスカウトにも入っていました」。
西中氏の姉弟は3人。4つと2つ離れた姉がいる。「そういう環境で育ったからでしょうか。同年代より、年上や先輩のほうが、自然体で話せるんです」。たぶんに、負けず嫌いも、影響しているかもしれない。同年代には、負けたくない、と。
「とにかく、負けず嫌いでした。中学はバレーで県3位に。高校からバスケットを始め、こちらは全国でベスト8まで進みます。とにかく練習量では負けたくなくって、朝4時に起き、帰宅は23時。そんな生活を送っていました」。通学にかかったのは1時間半。それでも3年間、無遅刻無欠席。一度だけ電車をのがしてしまった時には、母に頼み、高速道路を走り、連れていってもらったそうだ。
「中学も、それなりにたいへんでしたが、やっぱり高校ですね。辛いこともあったし、楽しいこともあった。でも、やり抜いたという思いがいちばん大きいし、いまの自信にもなっています」。

岡山から東京へ。大東文化大学、入学。

岡山から東京まで距離は、800キロ程度だろうか。もっとも西中氏は、父親の仕事の関係で小学2年~5年までを群馬県で過ごしているから、それほど遠い町ではなかったかもしれない。
「指定校推薦で大東文化大学に進学します。3~4年は板橋にあるキャンパスなんですが、1~2年は埼玉の東松山です。電車は東武東上線。ぼくは、川越で独り暮らしです」。
最初は、バスケットボールのサークルに。2年の終わりからは、ダンスサークルに所属した。「ロックダンスって知っていますか?」と逆に問われ、まったくわからないので、調べてみると、ストリートダンスで、名前のロック (Lock) は錠を意味し、激しい動きから突然静止し、ポーズを取る(ロックする)スタイルが特徴とあった。なるほど、これならみたことがある。
「けっこうハマりましたね。大学時代は、このサークルとアルバイトです」。
「アルバイトは1年の時から、3年まで同じレストランで仕事をしていました。ただ、3年の時に閉店されることになって」。
高校時代のイメージ、そのままにアルバイトにもまじめに精をだす。3年間で、生活費以外で100万円以上貯蓄もしている。「奨学金とバイト代で生活をしていました。仕送りはなかったです。ぼくからいらないといったんです」。
父親はだれもが知る学生服メーカーの、関連会社とはいえ社長をされている。経済的には、恵まれているはずだ。「とにかく、ぼくが決めたことをさせてくれる、そういう両親でした」。
ところで、バイト先が閉店する。西中氏にとっても大事件だ。「そうですね。それで、『スターバックス』のバイト募集を観て面接に行くんですが…」。

大学卒業。就活せず。

「スターバックス」。かっこいいな、と思っていた。しかし、いきなり「入社したら、あなたは何ができますか?」と問われるとは思ってもいなかった。「だから、頭が真っ白になってしまって」。
かろうじて『やってみないとわからない』と答えたが、面接官の表情には、すでに不合格のサインが灯っていた。「そのことがあって、改めて、『ぼくという人間を見詰め直そう』と、そういう思いに駆られるんです」。
幸い、貯蓄したお金もあったし、奨学金もあったから、バイトはせずとも暮らしていけた。
「そうですね。それからぼくがやったのは、経営者とお会いすることですね。セミナーとかにともかく参加して。ネットワークを広げて。年上の人のほうが、自然体で話ができるといいましたが、そういう性格も役立ったかもしれません」。
尊敬できる人が何人もできる。「起業」の二文字は、当然のようにして頭に浮かぶ。「だからぼくは、就活っていうのをやってないんです。経営者にたくさんお会いしていたこともあって、どこかで、『俺は違う』とうそぶいていました」。大学を卒業してからは、『無印良品』でアルバイトを開始。
「1年目の契約更新が済んだ翌日に、羽毛田と出会いました」。
ここで、西中氏が、「羽毛田」というのは、「健康」をテーマに事業を展開されているラーフオーバーフロー株式会社の代表取締役である羽毛田昌寛氏のことである。「株式会社まんぷくむすび」は、2017年1月、このラーフオーバーフロー株式会社から分社独立して誕生している。
「まんぷくむすび」の創業は2009年。創業者は、むろん、羽毛田氏。羽毛田氏はなにかにつけ、西中氏を、高く評価している。それが、分社後の社長就任につながったのだろう。
ところで、羽毛田氏とはどんな縁で結ばれたんだろう。

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株式会社まんぷくむすび 代表取締役 西中拓也氏

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2017年12月26日火曜日

株式会社ローカルダイニング 代表取締役 榊原浩二氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ローカルダイニング 代表取締役 榊原浩二氏登場。
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100年品質。その源流。

静岡県清水市は、富士山を望む港町である。この港町に代々つづく、ふぐ料理の名店がある。「いま5代目の長兄が継いでいて、およそ100年の歴史があるお店です」。今回、ご登場いただいた株式会社ローカルダイニングの代表取締役、榊原浩二氏の実家である。
榊原氏は子どもの頃から「将来、社長になる」と言っていた。理由は「社長が、いちばん偉いと思い込んでいたから」だそう。
「社長になる」と宣言した少年榊原氏は、静岡の港町ですくすくと育ち、進学校の一つである「清水東高校」に進学する。
幼少期を振り返り、ホームページでは<実家が料理屋で、幼い頃から祖母や両親がはたいている姿をみてきた><仕込みや清掃時間等の裏方の仕事ばかりみていたせいか、本当にたいへんな仕事だなと感じた>と書かれている。
100年つづく、由緒あるお店。それはいうまでもなく榊原氏の源流でもあるのだが、当時は、まだ、その流れに気づいてはいなかったということだろう。

いちばん苦手な仕事をしよう。

1年浪人して、上智に進学。「進学したのはいいんですが、勉強はしないし、何かに打ち込むわけでもない。最低な無気力人間でした」。
自分をそう評する榊原氏にひとつのターニングポイントが訪れる。
「やりたいことがみつからず、自分探しの旅に出かけました。アメリカ、メキシコ、べトナム、インド。そうそう、メキシコにいた時に9.11があって、3日間足止めを食らいました」。
海外はトラブルも多く、何かあっても1人で対処しなければならない。初めての町は知らないことばかり。不安もなくはない。
「窮地に追い込まれるでしょ。トラブルも起こる。日本にいたら、出会わないシーンでしょ。でも、そういうことを一つひとつクリアして、少しずつ何かがみえてきた。周りの人たちにいかに支えられているかということも、みえてきたことの一つでした」。
自称、無気力な人間が少しずつ変化する。
ただし、何かをしたいというコアはまだなかった。「就職の時も、『これをしよう』『これをやりたい』ってことはなかったですね。ただ、一つのルールを課したんです。『いちばん苦手な仕事をしよう。そして、3年つづけて、成果をだそう』って」。榊原氏がいちばん苦手な仕事と思ったのは、営業職だった。

営業時代。

営業時代の榊原氏の仕事ぶりは、愚直でまじめを絵に描いたようなものだった。「もともと人と話すのが苦手でした。だから、営業には向いていない人間なんです。仕事ができる人は、数字を上げるプロセスを知っていますが、そのプロセスを知っても、私にはできませんでした。だから、『質より量だ』と飛び込みまくるというスタイルの営業をつづけました」。
「無駄なスタイルだ」と榊原氏はいうがけっしてそうではないだろう。血肉は、いつもいちばんたいへんなことをしてはじめて身になる。「私の実力というより、みんなのおかげで成果を残すこともでき、ルール通り、3年が終わって退職しました」。
このあと、榊原氏は飲食に進むのだが、その時の様子をホームページには以下のように綴られている。<異業種で働き、お客様の立場で自分が飲食店で食事をすることが増えていくにつれて、改めてサービス業、飲食業の魅力に気づき、自然とこの道でいきていこうと決心するようになりました>。
そう、榊原氏と飲食が重なる。偶然ではなく、必然。ようやく、方向が決まる。いったん向かうべき方向が決まれば、あとは突き進むのみ。目標は、30歳で独立すること。
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株式会社ローカルダイニング 代表取締役 榊原浩二氏

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2017年12月24日日曜日

なぜか勘がむずむずし初めて馬券(有馬記念)買いました!

大学の時に1度友だちが買う時「ほな、俺の分も買って」って少額買ってもらったことありましたが、

この年齢で初めて馬券買いました!


有馬記念というG1レースなんでテレビ等でもやってたせいか、勝つってのがイメージ出来てたので少額ですが買いました。


競馬等ギャンブルは全く興味ありませんが、自分の勘試しました。

他人から見たら勝って当然のを勝ったからって言われるでしょうが、やっぱり最近さらに勘が良いようです(笑)

2017年12月19日火曜日

12月19日、日刊ゲンダイに「株式会社グレートステージ」の張 玉龍社長が掲載されました。

本日12月19日発行の日刊ゲンダイの“社長の私生活”に本日、日刊ゲンダイに中国の浙江省出身で日本のアニメが好きで単身高校卒業後日本の大学院卒業し異国で独立された「株式会社グレートステージ張 玉龍社長の記事掲載されました。
少しでも応援できて嬉しいです。
(日刊ゲンダイより)

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株式会社梅の花サービス西日本 代表取締役COO 吉田 訓氏(旧姓 児玉)登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社梅の花サービス西日本 代表取締役COO 吉田 訓氏(旧姓 児玉)登場。
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小学6年生。4人でパーティを組み、300キロの旅にでる。

「こだまく~ん」。グランドにいると校舎の窓から歓声が降ってきたのは、高校時代の話。中学は卓球部。恋の話もある。仲間といっしょに自転車で300キロの旅をしたのは、小学6年生の時。
「いま、こうしてお話しているといろんなことを思い出しますね」と、今回、ご登場いただいた株式会社梅の花サービス西日本、代表取締役COO、吉田訓氏。ちなみに、吉田氏は旧姓を児玉という。戦国武将である毛利家の末裔なのだそう。冒頭と、以下は、そちらの児玉の姓で話を進める。
「父方の祖父は、下関で学校の校長などを務めた人です。父は、生命会社で勤務」。父親の仕事の関係だろう。広島県の福山市に落ち着くまでは、転勤もそれなりにあったそうだ。
「もう1人の母方の祖父は、国鉄で勤務。福岡では要職にも就きますが、48歳で早期離職したと聞いています。私はこの福岡の祖父に溺愛されて育ちました/笑」。
初孫なのだという。記憶にはないが0~3歳の頃は、特別に新幹線の運転席にも座ったことがあるそうだ。当然、鉄道が大好きになる。
「小学校に上がってからは、夏休みになると決まって1人で新幹線に乗って、母方の祖父の家に向かいました」。駅では、祖父が今か今かと待っている。そして、児玉氏は、丸々、1ヵ月、祖父の家で過ごした。
「小学校時代のいちばんの思い出は、仲間4人でパーティを組んで、自転車で300キロの旅をしたことですね。そうです。福山から下関まで。パンクして泣くわ、帰るといって駄々をこねる。そういうのをなんとかなだめすかして」。
高速道路ならわずか3キロの道のりが、一般道のため15キロ。アップ・ダウンの坂を上り下りしついた先の、高速道路の出口には自転車70円と書かれていた。そんな笑い話もある。
「とにかく、そうやってですね。祖父の家につくんですが、最初、みんなでやったことは風呂に入って、尻が3つに割れていないかどうかを確認することでした/笑」。
尻はサドルにこすられ、ヒリヒリしていた。
中学は、1人の少女に憧れ、彼女とおなじ卓球部に。しかし、「好きだ」という思いを口にすることなく、卒業する。
「中学の時は、ちょっとくすぶった時代ですね。だいたい、児玉っていえばこういう奴ってイメージがついていて」。なかなかはっちゃけることができなかったそうだ。5歳からピアノを習っていて、学校で演奏もした。なんとなく、児玉氏がいわんとすることがわかる。「そう、それで高校はみんなとはちがう、離れたところにある学校に進学しました。イメージ一新ですね/笑」。

突然、目覚めた。「オレは医学部にいく」。

高校時代の児玉氏は、バイクに、バンドに、バイトに忙しい。もっともバイクといっても暴走するわけでもなく、バンドといっても、時々、ボーカルで歌っただけ。しかし、入学早々、かっこいい男子2位というランキングがつけられたほどのスタイルとルックス。ボーカルで歌うだけで、校舎から歓声が降ってきた。
バイトは、ファーストフード店で。「3年つづけ、3年生の時に店長が倒れられたので、かわって3ヵ月ですが店長の業務をしていました」。
高校3年といえば、まだ16~17歳である。彼からすれば20代でも、おばさん。そんな子どもが、同年代はもちろん、20代以上のアルバイトやパートを動かす。
「いい勉強になりました。いま、思えばね。ただ、まさか飲食の道に進むなんて思ってもいなかった。人間ってわかんないですね/笑」。
「表向きは、高校を卒業してすぐ、梅の花となっている」と児玉氏。隠しているわけではなく、説明するのが面倒だから。で、今回は、その面倒をお願いした。
「高校自体は進学校だったんですが、ぜんぜん勉強もしていませんでした。高校を卒業してからも何をするわけでもなく、ただ、ぷらぷら。時々、ファーストフード店でバイトしたりして。ええ、お店からも『うちに就職しないか』と勧めていただきました。でも、その気にもなれない」。
もともと内向型なのだという。「プラモデルをつくったり、映画をみたり、1人でいるのが好きなタイプ」。そういう一面もあるのだそう。
それが1年つづき、2年目の春に突然、「医者になる」と思い立つ。福山の親元を離れ、下関の大好きな祖父の下へ向かい、相談する。
「国立の医学部です。とんでもないですよね。それまで勉強なんかしてこなかったわけですから。でも、祖父は、否定せず、逆に背中を押してくれました」。寮のある予備校に進む。それくらい追いこまないと追いつけないと思ったから。
「成績ですか。最初は偏差値も下のほうだったんですが、最終的には、高校時代にもやっていなかったから独学なんですが、生物が80以上で、トータルでいえば70には迫っていました」。
センター試験は9割、取れた。しかし、医学部。それで当然だ。「二次試験であがっちゃって。数学の試験なんか、どうだったのか記憶にもないんです/笑」。
第二志望の、工学部には合格した。しかし、本位ではなかった。それで、2年で大学を辞めた。
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2017年12月12日火曜日

株式会社コムサ 代表取締役社長 麻生直美氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社コムサ 代表取締役社長 麻生直美氏登場。
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漫画大好き少女が進んだファッションの世界。

漫画が大好きで、小説も大好きだった。漫画をむさぼり読んでも、通知簿には「5」がならんだ。小学校から高校まで、何度も学級委員長に推された。生徒会の副会長を務めたこともある。評判も、高い。中・高の時は、バレー部。「へたっぴだった」とこちらを笑わせる。
部活動が終わって家に帰れば、ご飯を食べて、お風呂に入って、宿題をとっとと済ませ、それから2時間は漫画の世界にどっぷり漬かった。
「高校の頃は、『読む』より、『描く』ですね」。机に向かっていたのは、漫画を描くためだった。それでも成績は、学年2位だったらしい。
勉強しなくても、できる。たまに、こういう人たちがいる。学問の神様に愛された、うらやましい人たちだ。なかには、それをハナにかける人もいるが、麻生氏は、ひかえめに笑うだけ。
イヤミにも、聞こえない。
「大学は、お茶の水女子に進み、『漫画研究会』に入りました。東大ですか? う~ん、そこまではね(笑)」。お茶の水女子大学は、いうまでもなく東京にある。
「親元から離れたのは初めて。漫画はもちろんですが、音楽も好きで、バイト先は、ロック喫茶。ディスコにも週2~3回通いました」。
1980年に入ると、日本はそれまでとは異なった様相を呈するようになる。女性の社会進出が声高に語られ始めるのも、この頃だ。人気の職業の一つに「ハウスマヌカン」が登場するのも、この頃ではなかったか。
「いまの子たちに、ハウスマヌカンといってもピンとこないですよね。簡単に言うと、ファッションの販売員です。当時は、憧れの職業だったんですよ」。
大学を卒業した麻生氏は、その花形職に就く。それも、当時もっとも人気があったアパレルメーカーの一つである「ファイブフォックス」に入社して。
「DCブランドのブームが起こり始めた頃です。もともと私の周りには、教師をしている人が多くって、私もいずれ栃木に戻って教師をするんだろうなって思っていました。でも、せっかく東京に出てきたんだから、もう少し遊んでからでいいかなって(笑)」。
仕事選びのモノサシは憧れで、その目的は、もう少し遊ぶことだった。ともかく、そうやって、麻生氏の「ファイブフォックス」時代がスタートする。

「5000万回、辞めようと思った」。時代はDCブランド華やかな頃の話。

「当時、DCブランドっていったら、それは高価な服でした。私のアルバイト代も大半が服に化けていたほどです(笑)」。念のため言っておくと、DCブランドとは、デザイナーズ&キャラクターズブランドの略である。「ファイブフォックス」はどちらかといえば、キャラクターズなのだそう。
麻生氏の腰掛け程度の新たな人生は、池袋のパルコで始まる。むろん、職業は「ハウスマヌカン」。「ファイブフォックス」の8期生だそうだ。
「だいたい真剣に就職を考えていたわけじゃない。ファイブフォックスに決めたのも、実は面接に行った翌日に合格通知をいただいたから」。
ある意味、志望動機は軽い。「その程度で入社できるなんて」と、就職氷河期の学生が聞くと悔しがるだろう。しかし、入社後「5000万回、辞めようと思った」という通り、それからというもの、麻生氏もまたいくつもの波乱にあっている。
「当時はブームになる時でした。私が配属されたのは、メンズです。お客様の数が半端なかったですね。セールの日になると夕方4時にはもう、ショップのなかはカラに。そんな事態になっていました」。
まさに、飛ぶように売れ、「ファイブフォックス」の業績は、猛烈ないきおいで空を駆け上がった。腰掛け程度で入社した麻生氏もやがて中途半端な気持ちではいられなくなる。半年で店長。1年半後には、ブロック長に就任。「ブロック長になるとトレーナーとなって複数店舗をマネジメントします。私の場合は、新宿や池袋などの8店舗を担当しました」。
部下ができる。誰よりも、高い販売力と技術が求められる。むろん、部下の管理も大事な仕事である。「我々、ファイブフォックスが絶好調だったのは、私が入社して10年目くらいですね。乱暴な言い方ですが、ロゴがついていれば売れる、そんな時代です」。
すでにこの時、麻生氏は、ブロック長をたばねるヘッドトレーナーとなっている。「私が、ヘッドトレーナーになったのは26歳です。コムサには3人のヘッドトレーナーがいましたが、それ以外は一つのブランドに1人だけ。私は26歳でメンズのヘッドトレーナーになりました。そうですね。最年少です。それから、入社7年半の時に、メンズからレディースに異動します。だから、ピーク時にいたのは、レディース、つまり、コムサです」。
コムサはいうまでもなく、「ファイブフォックス」のトップブランドである。
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株式会社コムサ 代表取締役社長 麻生直美氏

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2017年12月6日水曜日

株式会社べラヴィータ 代表取締役 中村雅彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社べラヴィータ 代表取締役 中村雅彦氏登場。
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地元スキーヤーにはぜんぜん敵わない。心に炎が宿る。

「荒木大輔がいた調布リトルから勧誘された」と、今回ご登場いただいた中村雅彦氏はいう。株式会社べラヴィータの代表取締役である。生年月日は1957年10月16日。「荒木大輔」というあたりからも、年代がわかろうというものだ。 生まれも、育ちも東京都世田谷区成城。「成城というだけで、金持ちと間違われる」と笑う。父は画家。兄は建築家。芸術的な家系である。
「兄貴は昔から勉強家だったんですが、ぼくは違ってスポーツばかり。小・中はずっと野球。中学3年から部員数が足りないといって駆り出されたラグビーにハマりました」。
中村氏は、ウイング。花のポジションである。トライを積み重ねた結果、チームは関東大会で優勝したそうだ。
スポーツマン。
競技を問わず、なんでもできた。「高校も最初は野球だったんですが、1回戦で負けて、それからスキー部に入るんです」。
スキーは当時、最先端のスポーツである。流行に敏感な若者が、板を担いで山にでかけた。「ぼくが始めたのは、競技スキーです」。スキー部に入部したのは、夏の盛り。スキーとは無縁のシーズンだと思っていたら、そうじゃないそう。
「富山県の立山に行けば雪渓があってね。だから、ぼくも入部したその夏から滑りだしたんです」。
「当時、競技スキーっていうのは、まだ始まったばかりだった。ぼくも多少は滑れたほうなんですが、雪山のある地元のスキーヤーと比較すれば、まるで大人と子供。ぜんぜん、敵わない。それがいけなかったんでしょうね。元来、負けず嫌いだから、心に火がついちゃった」。
そこからはスキー一本。高校2年で、関東大会に出場し、3年では念願のインターハイに出場する。インターハイの東京都の予選会では、スラロームで3位、大回転で5位という成績を残している。何でも、東京生まれ、東京育ちで、東京都の予選会を通過したのは初の快挙らしい。

念願のインターハイ出場。

「いちばん得意なスラロームでは、全日本のナショナルチームのメンバーと滑っても遜色ない時があった」と中村氏。スキーに出会ったことで、生活の大部分をスキーが占めるようになった。「正確に言えば、アルペンスキーという奴です。1日でも、1時間でも雪の上で過ごしたくて、高校1年の時からスキー場でアルバイトをしました」。
夏・冬の長期の休み。合宿が終わっても中村氏は、まだ1人、雪上にいた。
「日給700円」と笑う。かわりに3食、宿付き。たこ部屋とくさい飯だが、休憩の合間には滑走することができただけで充分だったそうである。
「秋田県出身のコーチもいて、その人にもずいぶん可愛がってもらった」とのこと。「とにかく、負けん気ですね。絶対、インターハイにでてやろうって」。
念願かなってインターハイに出場。しかし、その晴れ舞台で、いっしょに出場する選手たちの滑りをみて、中村氏はぼうぜんと立ち尽くす。
「なんでこいつらこんなに巧いんだ」。
ただ、それで歩みを止めないのが、中村氏の流儀だ。まったく敵わないと思っていた相手との差をつめる。大学、そして社会人。それが、「スラロームでは、全日本のナショナルチームのメンバーと滑っても遜色ない滑り」につながる。

イタリアへ。スキーの旅はまだつづく。

インターハイのショックを糧に、さらなる高みをめざすべく、大学を卒業後、スキー場を経営する会社に入社する。同期のなかに、天才スキーヤーがいた。
「彼と大の仲良しになってね。彼はのちにナショナルチームにも入るし、プロスキーヤーにもなるくらいだから、断然、ぼくより巧かったんですが、彼を真似、教えてもらっているうちに遠くからみればどちらが滑っているかわからないって言われるようになった。うれしい一言ですよ」。
選手として、スキーに寄り添う。そういう道もあったかもしれない。しかし、スキープレイヤーとして世界と戦っていくには、高いカベがある。好きというだけではできない。
「私がこの会社にいたのは5年くらいです。結婚も経験したし、離婚も経験した。イチからやり直そうと思って、イタリアに渡るんです。それがちょうど29歳の時でした」。
イタリアには、新婚旅行でも訪れている。なんと滞在期間、1ヵ月。「新婚旅行なのにスキーばっかりで1ヵ月でしょ。そういうので愛想つかされちゃったんじゃないかな」と苦笑いする。
何でもスキーには、いくつかのスタイルがあって、中村氏が好きなのは、当時、流行っていたフランスやオーストリアではなく、イタリアスタイルだったそうだ。
ただ、スキーのスタイルだけではなく、イタリアという国やイタリアの人々にも魅了されていたようだ。むろん、目的はスキー技術の向上である。
「とてもいいコーチに教えてもらって、彼らといっしょに日本にスキーの学校をつくりました。冬のシーズンには、イタリアからコーチを招いて。逆に夏のオフシーズンには、生徒たちであるスキーヤーをめざすジュニアたちをイタリアに連れていくといったスタイルです。かれこれ、10年つづけました」。
実は、中村氏。イタリアのスキー場で知り合った女性と二度目の結婚もしている。ファッションの街、イタリア・ミラノでバッグショップを経営していたこともある。
ともかく、スキーを通して、日本とイタリアを結ぶ。我々にとって当時のイタリアは知っているはいるが、観たこともない半ば想像の国だった。
「そうですね。日本人にとっては、地中海のどちらかといえば、あったかい国ってイメージだと思います。ただ、北は、アルプスなんです。南と北じゃ、ぜんぜん違いますね。気候も、風土も」。
最初に渡った時には、言葉もろくにしゃべれなかったそうだ。むろん、異境である。「恐怖とか、そういうのはなかったですね。それを感じられないほど一生懸命だったんでしょう」。
「選手をつづけるのは無理だ」と思ったのも、この頃だという。「レストランやホテルに興味を持ったのも、この頃です。いつか、ヨーロッパにあるような小さくても質のいいスキー場を日本につくりたいと思ったのがきっかけです」。
イタリアと日本を中村氏も行き来する。コーチたちイタリア人とのつながりも濃くなる。かたわらにいるのは、イタリア人の奥様だ。
・・・続き

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