2017年3月21日火曜日

ラムチョップで有名な長岡商事株式会社 代表取締役 前川弘美さん登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”ラムチョップで有名な長岡商事株式会社 代表取締役 前川弘美さん登場。
本文より~

始まり。

「あいつが男ならよかった」と、生前、創業者で当時、会長だった父は、常務にそう呟いていたそうだ。とはいえ、男なら良かったと言われた本人の前川弘美氏は「最後まで怒られてばかりだった」と笑う。前川氏は5人兄妹の末っ子。末っ子の前川氏が生まれた翌年、父は東京・上野に小さな喫茶店を開業する。それが長岡商事株式会社のはじまりである。
「父は早くに祖父を亡くし、15歳で1人、下関に引っ越します。旅館の丁稚奉公からスタートし、盛岡で財をなし、家族を呼び寄せました。戦争が大きな影を落とした時代でした。『塩を舐めて暮らした』と母は当時の様子をそう語っていました」。

盛岡でいくばくかの財をなした父は、前述通り、前川氏が生まれた翌年、つまり1963年に東京・上野に喫茶店を開業する。「上野は喫茶店発祥の地なんだそうです。当時若者の憩いの場は喫茶店になり、かなり繁盛したと聞いてます。喫茶店だけではなく焼肉店や、そうそうトリスバーも大ヒットしたそうです」。
敗戦から立ち直ろうとする時代が生んだ活力が、高度経済成長の時代を生み出した。上野は時代の象徴の一つとなっていく。上野の山に桜が咲くと人が集い、上野公園にパンダがやってくると人盛りができた。アメ横にも、たくさんの人が行き来した。
前川氏は、そういう上野をみて育った。
「不忍池でザリガニを釣ったりして、小学生の頃はわんぱくだったですね。末っ子で、兄たちの影響も少なくなかったと思うんです(笑)」。
大好きな兄、姉。「母も大好きでした。でも、父は苦手だった。怒りだすととまらないし…。」

反抗していた時代も長かったそう。「何度も家を出て行ってやろうと思ったこともあったんですが、そうすると母が怒られるから、思い切ることができなかった」とも語っている。
だから、子どもの頃には、いや社会に出てからも、父の仕事を引き継ぐとは思いもよらなかったそうだ。

服飾デザイナー

兄たちの影響もあり、中学から音楽をはじめた。高校では男子バスケット部のマネージャーを務めるかたわら、仲間といっしょにバンドを組んだりもした。
「子どもの頃は、かなり成績も良かったんですよ。でも、高校になるとぜんぜんだめ。勉強もしていないんですから、そりゃそうですよね。大学受験に失敗して、もういいやと思っていたんです。そうしたら、のちに医者になる一つ上の兄が、どうしても『受験しろ』といって。受験票を試験会場まで持ってきてくれたんです。私はディスコで朝まで踊って、しかたなく直行です(笑)。それで受験し、合格したのが『杉野女子大学』です。意に反した服飾系の大学に行くことで私の運命が動くんですから、わからないものですよね(笑)」。
卒業する頃には、デザイナーになろうと思っていたそうだ。実際、前川氏は服飾デザイナーとして6年、アパレルメーカーで勤務している。「最初は受付からのスタートです。でも、すぐに認めてもらうことができて、晴れてデザイナーの仕事をすることができました。私が手がけた作品がヒットし、ご褒美でヨーロッパ視察に行かせてもらいました」。
22歳からの6年間。前川氏は大好きなデザインの仕事に従事する。大学では、あそび専門だった彼女が、仕事を開始すると人がかわったように仕事に打ち込むようになる。
もっとも、「真夜中まで仕事をして、それから飲みに行くのが日課だった」と笑う。退職したのは、からだをこわし、それを知った父が激怒したからだという。前川氏のことを心配してのことなのだろうが、父の気持ちは前川氏にうまく届かない。
「それから、転職し、月刊誌の編集を手がけます。化粧品もつくっていた会社だったので、最初はパッケージのデザインからスタートしたんですが、編集も手がけるようになって」。映画監督など、いままで付き合ったことがないような人とも交流がはじまったのはこの時だ。「編集の仕事が面白くて、周りの人は5時にはさっさと引き上げるんですが、私はいつも10時、11時まで残って仕事をしていました」。
その仕事を辞めて、一度行ってみたかったという、チベットを訪れカイラス山を登山し、ネパールへと約1ヶ月旅に出る。出かける前に知り合ったご主人と結婚し、専業主婦となり、2人の子をもうける。
父と娘は、ひとつの線をひきながら、微妙な関係を保っていたのかもしれない。「主人が父に挨拶するために我が家にやってきた時、彼にも激怒するんじゃないかってびくびくしていたんですが、拍子抜けするくらい好意的な対応でした。宜しくお願いしますって。結婚しろ!と散々怒鳴られてはいたが、本当に結婚を望んでいたのだなとわかりました(笑)」。
父親の愛情をはきちがえていた、照れ隠しにも聞こえなくもなかった
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2017年3月14日火曜日

有限会社ハレノヒ 代表取締役 高野昌宏氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社ハレノヒ 代表取締役 高野昌宏氏登場。


少年時代から、大学時代まで。

5月は空が高くて、青い。1971年の5月3日。その日の相馬市も、きっと晴れやかだったに違いない。「私は3人兄弟の末っ子でした。兄とは11歳、姉とは7歳と、ずいぶん年が離れています。私が生まれたのは、1971年の5月3日。生まれは、福島県の相馬市です」。
ご両親は、元々、クリーニング店や茶店、布団屋などを手広く経営されていたそうだが、高野氏が生まれた1971年、医療ミスによって、父親が半身不随となってしまう。「母1人でしょ。だから、クリーニング店だけを残し、あとは店じまいしたそうです」。

高野氏にとって、母はきびしい人だったらしい。高野氏は、1人、年の離れた末っ子だった。かわいいに違いないが、1人店を切り盛りする母にも、やさしく接する余裕がなかったのだろう。
代わりに兄がいて、姉がいた。2人は、兄弟だが、喧嘩相手ではなく、親代わりだった。
「私は、小学校の頃からバレーボールをはじめました。私もそうですが、チームのみんな筋が良くって、全国大会にも出場します。バレーボールは中学でもつづけますが、こちらは県大会でベスト8くらい。小学校の頃のように、真剣に取り組んではいなかったんで、中途半端な結果で終わってしまいました(笑)」。
それでも、バレーボールは、特別で、勉強は二の次だった。ところが、本人いわく、「高校に入って、勉強に目覚めた」そうだ。「高校に入って、ちょっとまじめに勉強を始めると、コツがわかったんです。コツがわかると、問題もスラスラ解けるようになって、学年で3番くらいに入るようになりました。それでも、そうたいした大学に進学したわけではないんですが(笑)」。
大学は「神奈川大学」に推薦で進学する。「特別、大学に進学するつもりもなかったんですが、母から『お金のせいで大学に行かせられないのは私の本意じゃない』と言われ、母に対する感謝の気持ちもあったもんですから、素直に言葉に従いました」。
大学生活がスタートする。

彼女にフラれて、スイッチON。


「飲食に出会ったのは、大学時代です。1年の10月になってアルバイトを始めます。学費は、私が払うことになっていましたから、のんびりしているわけにもいなくなって。応募したのは、居酒屋を少しおしゃれにしたカフェ・バーのオープニングスタッフでした。初めてのバイトでしたが、楽しかったですね。大学を卒業してからも、フリーターとなってバイトをつづけます。でも、結局、その店はクローズしてしまいました」。
その後も、飲食店を転々とする。正社員として就職したのは24歳の時で、入社したのは『モンテローザ』。「でも、『モンテローザ』時代は、長くありません。25歳の時、地方への人事異動みたいな雲行きになって、それがイヤで退職したんです」。
当時、付き合っていた彼女がいたそうだ。転勤がイヤだった理由の一つかもしれない。「でも、彼女にもいいかげん愛想を付かされて、フラれてしまうんです」。
それが、奮起をうながした。「あの時、初めて真剣になったかもしれません。人に言えば笑われそうですが、私にとっては、それだけ大事な出来事だったんです」。
「30歳までに社長になって、見返してやろう」と思ったそうだ。炎が灯った。今思えば、その炎は、高野氏の奮起を願いつづけた彼女の置き土産だったかもしれない。
30歳。5年あれば、できると思っての数字だったかもしれない。しかし、現実的に言えば5年しかない。5年間で何ができるのか。
「30歳までに起業する。それを前提にすると、料理の技術も、従業員の質も、そう必要としないホルモン焼きの店がいいだろうと思って、その道に進みました」。
当時はまだ、ホルモン焼きの店は少なかったそうだ。「大阪の鶴橋にあるような、ああいう店は少なかったんです。もっとゴージャスな焼肉店ばかりです。ホルモンの専門店はほとんどありません」。
そのようななかで、予約も取れない店があった。「あらちゃん」という。「偶然ですが、うちのそばにあったんです。7坪の、けっしてきれいでも、おしゃれでもない店です。ダクトもなく、匂いは外に流れ放題。店員は外国人です。これは、いい、と門を叩きました。これなら、技術も関係ないだろう、と思ったからです」。
手に職をつける選択肢もないではなかったはずだ。だが、5年。このしばりを考慮すれば、遠回りはできなかった。それだけ、30歳の起業にこだわった証だろう。もちろん、起業しただけでは、意味がない。ちゃんとした男となり、見返すのが目的である。どうすれば人気店をつくれるのか。
ハングリーな青年は、事業のすべてにむしゃぶりついた。
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2017年3月8日水曜日

株式会社INGS 代表取締役 青柳誠希氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社INGS 代表取締役 青柳誠希氏登場。
本文より~

父のホームグラウンドは、ゴールデン街。

新宿ゴールデン街の夜は、昼より明るい。闇にいくつものネオンが浮かび上がるからだ。文壇バーなど、個性豊かな店も多い。作家、編集者、映画監督、俳優といった文化人が通う街としても知られている。今回ご登場いただいた青柳誠希氏の父は、このゴールデン街でカウンターバーを20店舗ほど経営されてきた凄腕経営者である。
「父が初めて店を開業した時には、もう姉がいたといいますから、1970年代です。全店、直営というわけではなく、のれん分けのような店もあったと思います。ゴールデン街のほかにも、新宿3丁目にも店を持っていました。私が生まれた時には、すでに多店舗あったはずです」。
青柳氏が生まれたのは、1984年。バブルにより東京が世界でもっとも光る頃である。繁華街の代表である新宿もまた、バブルの坂を駆け上がる。
「小・中は、大久保小学校、大久保中学校です」。ネットで調べてみると、都心だが、案外、周辺には学校も多い。すっかり繁華街だと思い込んでいたが、少し高度を上げ、俯瞰すれば早稲田大学もあるし、有名な高校も数多くあった。青柳氏が、卒業した大久保小学校もまだ健在だ。
「昔から運動はできたほうです。中学ではサッカー部でした。高校は、拓殖大学の付属高校に進学し、ラグビーを始めました」。「足が速いんです」と青柳氏。頼めば、すぐにも走り出しそうだった。ただし、いまではすっかり治ったが、大学に進学して2年、怪我がもとで、ラグビーを断念している。「拓殖大学は、いうまでもなくラグビーの強豪校です。からだのバカでかい外国人の選手もたくさんいた。そんななかでラグビーができたのは、ラグビー好きの私にとって最高の経験でした」。
ラグビーを辞めた息子に父が声をかける。「どうせ、アルバイトするなら、うちの店でどうだ?」

父が託した、ラーメン店。


青柳氏には、9つ離れた姉と6つ離れた兄がいる。青柳氏が大学2年だから、兄はもう就職している。6つ離れているが、飲食に就いたのは、弟の青柳氏のほうが早い。父から声をかけられた、この時のアルバイトが、きっかけだ。
「すっかり飲食に興味を持ちました。父親のバーはどれも、小さなバーですが、そのぶん、お客様とも濃厚なお付き合いができた気がしますね。就職は飲食1本です(笑)」。
むろん、この時は、「父といっしょに」とは、考えてもいなかった。
「いろんな飲食の会社を受けて、内定もいただきました。しかし、タイミングですね。うちの店の近くにあったラーメン屋がたまたまクローズすることになって、その場所を昔から欲しかった父はすぐさま『貸してくれ』とオーナーに頼むんです。すると『OKだが、ラーメン屋じゃないとだめだ』と。ラーメン店なんて、父も経験がありません。クローズするラーメン店と交渉し、味も、そのまま、数ヵ月、研修もしてもらうことになったんです。で、誰がするか。白羽の矢が、私に刺さりました」。
「だから、うちの会社はここからスタートしています。最初は友人と2人です。もちろん、2人とも素人。前の店のスタッフが頼りですが、それでも、そう長くいてもらえるわけはありません」。
正確に言えば、研修してもらったのはたった2ヵ月だった。2人にとっては、あっという間だったろうし、途方もなく長く感じた2ヵ月だったに違いない。
13坪、20席。「もともと、運営がうまくいってなかったんですが、けっして人気がなかったわけじゃない。むしろ、人気はあったほうだと思います。ただ、ちゃんとやっておられなかった(笑)」。営業時間は、きっちり営業するなど基本をまっとうするだけで、すぐに売上は回復。月商は550万円にもなった。
「これもまた飲食のパワーですね。旨いラーメンとちゃんとしたサービス。それだけで、人が来る。これは、逆に怖いことでもありますが、お客様は、しっかりみておられるんですね。私たちが何もいわなくっても」。
これが、青柳氏22歳の時の体験である。見事なV字回復に、経営者の大先輩でもあるお父様も、舌を巻かれたそうだ。

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2017年2月28日火曜日

株式会社SSS(スリーエス)代表取締役 中山俊士氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社SSS(スリーエス)代表取締役 中山俊士氏登場。
本文より~

仲間と別れ、改心するために、向かった四国。

中山氏が香川県で生まれたのは、まだ父親が修業中のことだった。
「讃岐ですから、うどんの修業です。私が5歳の時に、父の実家があった茨城県結城郡に引っ越し、念願の店をオープンします。そうですね。かなり大きなお店でした。バブルが終わったあとですが、それなりに儲かっていたように記憶しています」。
中山氏は3人兄弟の次男で、兄と妹がいる。「兄は結構マジメだったんですが、私は中学の頃から周りにもたくさん悪友がいて、学校にもあまり行かない悪ガキでした」。
両親は仕事でいそがしい。中学の頃から早くも親離れである。しかし、いつまでも周りの悪友と付き合っているのも、性に合わなかったそうだ。
「だいたい人からとやかく命令されるのがイヤな性格なんです。にもかかわらず、周りの奴らといっしょにいると、だんだん先輩たちがいろんなことを指図するようになってきて、組織を抜け出そうと思ったんです。ですが、ご想像通り、縁を切りたくても、そうは簡単にはいきません(笑)」。
ヤキの一つでは済みそうもなかった。
「それで、逃げ出したんです」。
逃亡先は、四国。
「逃げ出したもう一つの理由は母親です。母は、私がどんなことをしても、陰であの子は『いい子なんだ』と、私をかばいつづけてくれていたんです。そんな思いをさせるのが、もう苦しくなって。だから、改心する意味もあったんです」。
父は、修業のために瀬戸内海を渡った。息子も、また、目的は違うが、そのあとを追った。

逃亡先でみつけた、音楽の魅力。

「四国では、母の知り合いの店ではたらかせてもらったんですが、逃げ癖がついていたんでしょうね。最初は、『はたらいては、辞める』の繰り返しです。ぐーたらが染みついていたのかもしれません」。
初めての社会である。きびしいことにも、理不尽なことにも慣れなければならない。「指示」という「命令」も、当然ある。それでも、母の知り合いのラーメン店からスタートし、会社は替ったりしたが、ともかく2年間、四国で暮らした。
「四国で暮らしてから、独り暮らしのわびしさっていうんでしょうか。それを紛らわせるためもあって、音楽に傾倒していきます。好きだったのは、XJAPANです。だんだん、音楽に対する思いが膨らみ、今度は東京にある音楽の専門学校に進みました」。
もともと音楽が好きだったわけではないらしい。楽器の経験があったわけでもないそうだ。にもかかわらず「専門学校」に進む選択をする。それなりの自信があれば別だが、かなり勇気もいり選択ではなかったか。
「ちょうど18歳の頃ですね。学校に通いながら、バンドも組んでいました。音楽活動一本です」。
実は、中山氏は専門学校も途中で辞めている。だが、今度は逃げるためではなかった。むしろ、アーティストになるために、進んで「専門学生」という肩書を捨てたと表現したほうがただしい。
「私は学校も辞めて『デビューにまっしぐら』と思っていたんです。メンバーたちと温度差があったのは事実です。彼らは、趣味のレベルを少し超えたくらいだったんです。彼らは、だんだんかけていきます。年齢も、もう25歳くらいの人もいましたから、仕方ないといえば仕方ないですよね。現実と向き合う、そういう選択を迫られていたわけですから」。
理屈ではわかっても、心では理解できないこともある。「結局、2年くらいで私自身ギターを置くようになりました。それ以上、バンドをつづけることができなかったからです」。

なくした指標とみつけた志。

バンドを組んで、メジャーになる。人生の羅針盤は、その方向に向いていた。しかし、メンバーがかけていくこともあって、いつしか、その思いへの磁力がなくなった。
「バンド活動は、週2~3日。結構、マジメにやっていました。もちろん、バンドだけでは生活できません。当時、勤務していたのは、貿易会社の社長が趣味と言っては怒られるかもしれませんが、片手間で経営していた居酒屋です。だから、好きなことをさせてもらえました」。
もともと飲食を仕事にすることに抵抗はない。逃亡先の四国でも飲食の仕事をしていただけに、即戦力になれるくらいの自負もあった。
「もっとも最初は、バンドがメインで、こちらも片手間のアルバイトです。その店でアルバイトを始めたのは、バイトなのに寮までついていたからです。ま、代わりにバイトでも週5日は入らなければいけなかったんですが(笑)」。
最初は、たしかにバンド優先だった。しかし、バンドへの思いがなくなってからは、飲食が第一になった。いい店長に出会えたことも大きかった。
「当時の店長が経営のことが好きで、いっしょに株主総会とかに連れて行ってくれたり、『ビジネス本を読め』ってハッパをかけてくれたりして。あの頃は、レコード会社をつくるつもりだったもんですから、私自身、前向きに勉強しました。言い方をかえれば、そのおかげでレコード会社はつくれませんでしたが、飲食会社はつくることができました」。
バンドを辞めて、みつけた志。それは「独立」という二文字に凝縮される。

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株式会社SSS(スリーエス)代表取締役 中山俊士氏
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2017年2月21日火曜日

株式会社エスクリ 代表取締役 社長 渋谷守浩氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社エスクリ 代表取締役 社長 渋谷守浩氏登場。
本文より~

4代目。

奈良県桜井市は、奈良県の中部に位置する都市。歴史は古く、ヤマト王権の中心地とも言われている。今回ご登場いただいた、株式会社エスクリ代表取締役社長、渋谷守浩氏が、この桜井市に生まれたのは1966年のことである。渋谷家は、代々事業家であり、創業者でもある曾祖父は、郵便を山間部の人たちに届ける飛脚業をされていたそうだ。
「曾祖父から数えて私で4代目です。2代目の祖父は、曾祖父の事業を、木材を運送する事業にシフトします。山間部では吉野杉という有名な杉が採れますから、郵便よりこっちが儲かると判断したからです」。
儲かると言っても危険で、当時のように牛や馬で木材を運ぶことは、それ自体が命がけだったそうである。
「私の父の代になってからは、運送より林業家のほうが儲かると、今度は製材業にシフト・チェンジです。とにかく現状に甘んじない、変化をし、進化をし続ける、これが、たぶん、うちの一族の正体なんです(笑)」。
いまはもう、渋谷氏の代になっている。「私は、製材業から建設業にシフト・チャンジします。4代かけ、だんだんと進化をしてきたわけです。さらに、私の代でパラダイムシフトを行いました。挙式・披露宴の企画・運営を行う、上場企業、株式会社エスクリのグループ会社となったんです。
建設業へのシフトは父親も賛成だったが、エスクリの傘下りについては猛反対。父親だけではなく、親戚一同からも猛反発をくらったそうだ。しかし、すでに社長になっていた渋谷氏は反対の声を押し切った。

少年に起きた、奇跡。

渋谷氏は、3歳の時に大怪我をした。父親が製材業を開始した直後、フォークリフトの下敷きになったのだ。
「足切断のピンチだったんです。医師からは切断を勧められたそうなんですが親父がまったく納得しません。医師が黙って切断しないように、手術室まで入って見張っていたそうです」。
手術はとりあえず終わったが、切断しなかったことで状況は以前より悪くなる。「そうなると親父も観念したのか、有名な医師を連れてきて、『これでだめなら』という話に落ち着いたそうです」。
つまり、だめなら足切断。だれもがあきらめていたそうだ。
ところが最後の最後になって父親の思いが天にとどいたのだろうか。

奇跡が、起こる。
「切断しなければいけないと言われていたのに、やがて格闘技も習いますし、高校ではレスリングの国体強化選手に選ばれました。足は奇跡的に治り、治ったどころか、それだけ動かせるようになったんです」。
いつの時の運動会だっただろうか。渋谷氏が出場するというので、親族も集い、固唾を飲んで渋谷氏の走りを見守っていてくれたそうだ。果たして、うまく走れるんだろうか? しかし、渋谷氏は、そんな心配もどこ吹く風というかのように、観戦する親族の前を駆け抜けた。あとから大歓声が追いかけてきたそうだ。
「みんなが泣いてくれていて、あのシーンはまだ記憶しています」。
足が完治する。もともとわんぱく小僧だ。しかし、小学校ではイジメにもあったそうだ。
「『お金持ちやろ』って。金持ちがええかっこしぃにみえた時代だったんです。昔のイジメはカラっとしていたっていう人もいますが、あいつらは、けっこう陰湿やったんちゃいますか」。
いまとかわらない陰湿なイジメ。しかし、当時はいまと違って登校拒否などできなかった。
「最初は、からかわれるたびに落ち込んでもいたんですが、段々、言われっぱなしっていうのが我慢できなくなって。でも、ケンカしても体格が違うし、敵いそうありません。実はそれで、格闘技を習い始めたんです」。
4代かけ、4つの事業を行い、上流工程に上り詰めたように、これも渋谷家の伝統か、とにかく長い目でものをみる。いまは敵わないが、いつかきっと。
格闘技のセンスがあったのだろうか。それとも目的があったからだろうか。ともかく渋谷氏は、みるみる上達する。体格で劣っても、もう負けないと思うまでになった。
2年生になった時にはメキメキと頭角を現した渋谷氏は、イジメの筆頭だったクラスメイトとも対等な関係となるどころか、上回る存在になっていた。
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2017年2月17日金曜日

株式会社富士達 代表取締役社長 川上富達氏登場。

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本文より~

鹿児島県最南端の島。

与論島は、沖縄にもっとも近い鹿児島県最南端の島である。地図で確認いただければ、日本の領土の広さを再確認できる。南の海のはてに、鹿児島県の小さな島があることがわかるからだ。
さて、今回ご登場いただいた川上氏が、この与論島に生まれたのは1956年で沖縄返還以前。だから与論島は異国と接していたと言える。
0歳から5歳までは、与論島で暮らし、教師だった父の赴任にともなって、いったん与論島より2,3倍大きさのある島に渡り、小学5年生の2学期になって与論島にふたたび戻りました。沖縄が返還されたのは、私が中学2年生の時です」。
腕っぷしが強かったのだろう。中学生時代、柔道の団体戦で群の大会で準優勝し、個人でも3位に入っている。ところで今では観光スポットの一つだが、当時の様子はどうだったんだろう?
「いまは飛行機がありますが、当時は、島を出るには船しかありません。だから、私も高校までは家族旅行など以外では島をでたことがなかった。もっぱら海が遊び相手でした」。
いまでも美しい島だが、当時は、いまよりも尚、美しかったに違いない。その美しさに憧れ、やがて多くの人たちがやってくるようになり、観光名所の一つとなる。しかし、島に憧れるのは都会の人間で、島で暮らす住民にとっては、便利で、近代的な都会に憧れていたはずだ。川上家の兄弟も、みんな島を出た。

千数百キロ離れた街へ。

「高校生の時に、東京の立川で電気店を経営していた兄を頼って初めて上京します。東京は、それこそ憧れなんですが、一方では怖い街だっていう刷り込みがあって。笑い話ですが、お金を取られないように靴下にしのばせておいたほどです」。
島の高校生が初めて都会にでる。立川といえば23区外だが、それでも少年には目がくらむような街だったに違いない。
「あの頃から、漠然と起業を意識していたと思います。兄の影響もあったんだと思いますが。むろん、私だけではなく、みんなそういう風に何かを求めて島を出ます。島を出る最大のチャンスはいうまでもなく大学進学です」。
川上氏は、校長の推薦で法政大学の短期学部に進んだ。無事、島、脱出。千数百キロ以上離れた都会へと旅立った。観るものすべてが新鮮だった。
東京での暮らしは、少年を青年にする。大学を出ても島に帰るという選択肢はない。「大学を卒業して、求人誌をみて『吉野家』に就職します。『海外へ』と書かれていた求人誌の広告のキャッチフレーズが、心に響きました。もちろん、吉野家がダメだった時のために、他社も検討していたんですが、無事、合格。面接で人事の方にかなり褒めていただいて、『よっしゃ!』って感じです」。
「よっしゃ!」のはずだったが、入社してみると、全員、いたく褒められていた。川上氏だけが、特別だったわけではなかったようだ。
「ちょっとがっかりだった」と川上氏は、笑う。ともかく、社会人生活がスタートする。

吉野家、倒産。

余談ではあるが、「吉野家」についてである。
「吉野家」の創業は明治32年まで遡る。チェーン展開を開始するのは、1968年。「新橋駅前店」が2号店目である。7年後の1975年には、米国デンバーにも進出。積極出店をつづけた。
ところが、海外進出から5年後の1980年には会社更生法の申請を行い、事実上、倒産する。無理な拡大路線と、輸入牛肉の制限などが引き金となったようだ。
1980年と言えば…。
「そうなんです。私が入社して2年目です。2年目に倒産してしまうんです。もっとも倒産の理由は、客離れもというより、負債が最大の原因で、店自体は、それなりに繁盛していました。そういうこともあって、私は『吉野家』のフランチャイズをされていた会社に仲間8人で転職。ただ、色々あって、2年後の1982年の6月に退職し、『どん亭』大井町店をオープンします。こちらが創業店です」
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2017年2月7日火曜日

有限会社アール.アンド.ビー守破離 代表取締役 増田 昭氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社アール.アンド.ビー守破離 代表取締役 増田 昭氏登場。
本文より~

両親の焼鳥屋さん。

「日本でいちばん給与が高い会社を作る」とスタッフにとっても嬉しい目標を掲げるのが、今回ご登場いただいた、有限会社「R&B守破離」の増田昭社長である。同社の看板メニューの「ローストビーフ丼」は、TVでも何度となく取り上げられているので、ご存じの方も少なくないはずだ。
 増田氏が生まれたのは、1958年。兵庫県の神戸市出身である。
「父は淡路出身で、母は高知出身です。父と母は、2人で屋台の焼鳥屋をしていました。小学校の頃は、好き放題。勉強もあまりした記憶がありません(笑)」。
ご両親の屋台は繁盛していたようで、屋台も2連結だったそうである。増田氏が、好き勝手できたのも、ご両親の目が、忙しい仕事に向けられていたからだろう。
ともかく昔の少年は、増田氏に限ったことではなく、ともかく奔放だった。TVゲームの代わりに、メンコやビー玉で遊んだ時代である。増田氏も、その1人だったに違いない。
 「中学でハンドボール部に入りました。ほんとは野球部とかが良かったんですが、何分、グランドが狭くって、そういう部活がなかったんです。でも、ハンドボールをやったのは正解でした。高校も、スポーツ推薦で、進むことができましたから」。
 高校時代には、ハンドボールでインターハイにも出場している。増田少年は、ともかく運動神経、抜群の少年だった。

息子は、焼鳥BAR。


「高校を卒業してからは、知人の紹介で東京にも行きました。遊び半分でしたが、和食の店に住み込んで1年半くらいは向こうにいました」。
増田氏は、「面白かった」と表現するが、住み込みに逃げ道はない。給料は安く、それでいて長時間労働が当たり前の時代の話である。
 「1年半くらいで神戸に戻ってきます。家の手伝いも少しはしました」。
実は、増田氏。1度だけ、サラリーマンの経験がある。「この時、知り合いに頼まれて、創業してすぐの会社に就職しました」。
着慣れぬスーツ、カッターシャツにネクタイをまき、革靴を履いた。
しかし、3日で、断念したそうだ。
「いやぁ、ぜんぜんあきませんでした。向いてないって思って、それで3日目に『辞めます』っていったんです」。
 「相性が悪かった」と増田氏。親和性という意味では、やはり飲食だったのだろう。
「両親が飲食店だったことも影響していると思いますが、私自身が昔から、『好き』だったんだと思います。起業しようと思い立って、最終的に独立したのは、私が25歳の時です」。
9坪で20席くらいの「焼鳥BAR」だった。

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