2017年11月14日火曜日

株式会社TonTon 代表取締役 今川博貴氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社TonTon 代表取締役 今川博貴氏登場。
本文より~

伊豆の白浜。

父親の実家は、総理にもなった故橋本龍太郎氏の実家と隣同士だったそう。「ひいじぃちゃんは竜太郎さんのお父さんと一緒に貴族議員になったそうです」。それで「いまでも橋本家とはご縁がある」という。今回、ご登場いただいた株式会社TonTonの代表取締役、今川氏は1985年岡山県倉敷市に生まれる。
小学生時代、何度か転校し、横浜に定住するようになる。スポーツはサッカー。小学生からはじめ、中学3年までつづけている。
面白いのは、高校1年の時の話。名付ければ、「ナンパ大作戦で、仙人に出会う」的な、そんな感じ。
「あれは高校1年の夏休みです。なんもしていないから、暇なんです。で、ともだちと、『ヒッチハイクしねぇか』って話になって。『それなら、静岡駅まで行こう。オレ聞いたんだよ。静岡駅は日本一のナンパスポットらしいんだ』って話が進んで」。
ともだちと2人。町田インターに立ち、「静岡」と書いた画用紙を掲げ、ヒッチハイクするも、スルーの連続。「1時間半やってもダメだったんで、いったん万葉の湯って温泉に寄ってから、どうするかってトボトボ歩いていたら、カーショップのおっちゃんが、『坊主たちどこ行くんだ』って声をかけてくるんです。ヒッチハイク用の画用紙をもっていたからでしょう。それで正直に『ぼくたち、日本一のナンパスポット、静岡駅に行くっす』と答えたら、『ちげぇよ、いま伊豆の白浜がいちばんなんだ』って」。
「作戦変更です。今度は海老名インターまで行って。そしたら、すぐにトラックが止まってくれて。最終的には『伊豆まで行く』っていう、ヘンなおっちゃんに乗せてもらって、無事到着。もっとも、その人はひげが長くって、その人もヘンなんですが、弟さんが、どうも『仙人』なんだそうで、なんかだんだん山のなかまで入っていくし。ちょっとしたサスペンスでした。でも、仙人なんて、うそだと思っているでしょ。ぼくらも、そうだったんですが、なんでか、真実を知りたいっていうか。その人といっしょに道なき道を上り、人間より大きな石を登って。すると、ある時、視界が急に広がって、眼下に小屋が観えるんです。そこは仙人さんの住まいで、民族衣装をきた仙人が、ほんとにでてきました。ぼくらもう、びっくり仰天です」。
車に乗せてくれた兄のほうは、六本木でトゥモローと言われているらしく、弟のほうは、仙人というより、ヒッピー文化を継承している人だった、そうだ。
ともかく、そうして伊豆に流れ着く。目的のナンパは、まだ先の話。「初日は駐車場で、ゴロ寝です。2日目に、いろいろあって、向こうの旅館の息子と知り合って、そいつの旅館で世話になりました。結局、これがきっかけで23歳まで夏になる度、伊豆に行って海の家で仕事をするんです。ぼくの人生にとって、伊豆の白浜は、消すことができない砂浜になりました」。

ビジネスなんてちょろい?という素敵な勘違い。

「今まで暮らしていたのは、ホント『小さな村のなかだった』と、伊豆で仕事をするようになって悟ります。白浜というか、海には、いろんな奴がバイトに来るわけで。性格もそうですが、出身も違う。そりゃ、視野が広がります」。
同年代の奴らとも先輩と慕う人にも出会った。海の家のバイトも今川氏に向いていた。売り子で「ナンバー1の記録を持っている」という。なんでも一杯600円のやきそばで、合計180万円という記録をつくったらしい。営業の才覚は、当時から頭一つ抜けていた。
「で、高校を卒業して、ケーブル工事の会社に就職するんですが、9ヵ月で退職。DJの仕事をやったりして」。
実は、高校を卒業したら、先輩たちが立ち上げるクラブに就職する予定だった。しかし、確約されたわけでもなく、結局、話は立ち消えになり、消去法的に就職したのが工事会社。その会社を辞め、DJを始め、こちらは10年つづけている。
「もっとも、一方でスカウトのバイトなども始め、小銭ができたんで、ともだちみんなでお金を出し合って、洋服のブランドを立ち上げたんです。『これを着てクラブに行けばイケてる』って言われるような服です。先輩が経営するセレクトショップのブランドとして販売してもらうんですが、これが、バカあたりで。同い年なんで、みんな、23歳くらいの時だったかな」。
初月から、200~300万円も儲かった。通帳にはみたことのないような数字がならんでいく。「案外、ちょろいじゃん」。そう思っても、まぁ、仕方ない。
「初月からロケットスケート、あれが勘違いの始まりっすね。そして、もう天狗でしょ。10ヵ月くらい経って、それ以上に甘い話が転がりこんできて、のっかっちゃったんです」。
「世話になった先輩を裏切ることになるとは思っていなかった」そうだが、結局、裏切り者のレッテルを貼られる。「それで気づくんです。これは、ちょっとヤバイことをしてしまった、と。それで、ビジネスを立ち上げたともだち5人、全員で抜け出すんです。お金も、ブランドも置いてきちゃいました」。
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2017年11月10日金曜日

飛田柑橘園にてみかん狩りを堪能しました。

11月の3連休天候も良かったので、湯河原にみかん園を経営するキイストン卒業生の飛田君の飛田柑橘園に行き(押しかけ)、特別にみかん狩りを堪能させてもらいました。
飛田君作った季彩オイル(香味オリーブオイル)はなんと「おもてなしセレクション2017」金賞を獲得しました。
 (湯河原にある飛田みかん農園にて)

2017年11月8日水曜日

株式会社オリエンタルフーズ 代表取締役 米田勝栄氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ドラムカンパニー 代表取締役 竹下大介氏登場。
本文より~

都ホテル時代。1年目にして、銅メダル獲得。天才、現る?

東京都日野市。今回、ご登場いただいた株式会社オリエンタルフーズの米田社長は、1974年、この日野市に生まれる。父親は、ゴルフ関連の商社に勤め、のちに起業。兄は地元で飲食店を経営。兄弟は3人で、兄、姉、米田氏という順番。「末っ子だから甘やかされた」と米田氏は笑う。
専門学校を卒業し、進んだのは有名な「都ホテル」。
「当時、『HOTEL』っていうTVドラマがあって、そのドラマに影響されてホテル業界に進もうと専門学校に入りました。ただ、ホテルといったって、そう詳しくなかったもんですから、先生に『ココとココを受かったんですが、どっちがいいですか?』ってたずねているんですね。先生は、『そりゃこっちの、都ホテルだろ』って」。
米田氏にとって、ホテルにバーがあることを知らなかった。手に職をつけたかった。ただし、都ホテルの配属は希望制ではなかった。だから、バーに配属されるように、いろんな手を駆使したそうである。
「当時、都ホテルのバーは、都内でも5本の指に入るといわれていました。にもかかわらず教育方針は、ほかのバーとは異なり、若い頃からカウンターに入れて、やらせるというスタイルで進められました。私も1年目からカクテルをマスターし、実は、1年未満のキャリアで全国大会にも出場させていただき、銅メダルを獲得しました」。
米田氏は淡々というが、凄いことである。会場として選ばれたのは、帝国ホテル。その会場に集まったのは、選りすぐられたキャリアあるバーテンダーばかり。しかも、応募総数全国2000名。ふつうなら1年目の小僧など出番がない。かたい扉が閉ざされている。しかし、米田氏は、その門を1年足らずでこじ開け、しかも堂々3位に入賞し、銅メダルを獲得している。天才、登場である。しかし、本人は「あの時は、結構、緊張しました」というばかりだ。

オーストラリアで、関西弁の社長にまくしたてられる。

「都ホテルからスタートし、実はいろんな仕事についています。バーテンダーですか? そうですね。最初の1年でそれなりの結果を残すことができたことと、どうしても海外で生活経験をしたくて、それで、『都ホテル』を去りました」。
「それから、オーストラリアに渡りました。ええ、ワーキングホリディです。もともと、私は桜美林高校なんですが、その学校に進んだのも、英語が好きだったからなんです。いつか、英語が公用語の世界で生活したいと思っていたもんですから、この時、思い切って」。
思い切りすぎて、所持品はトランク一つ。知り合いもおらず、準備もないまま、オーストラリアに飛び立った。「いま思えば、あの時の1年がぼくを育ててくれたと思うんです。あれがなければ、いまこうしていることもないような気がします」。
「凝縮した1年だった」と米田氏はいう。知り合いもいないから、店の裏口をノックし「はたらかせてくれないか」と聞いて回った。そのうち、一つの店が、快諾してくれたそうである。その店は「YUTAKA」という日本料理店だった。
「オーナーが関西の人で、ぼく以外スタッフも全員、関西人です。関西弁と関西のノリに圧倒されました(笑)。ただ、みなさん、あたたかくて。生き様もそうですし。あの店で学んだことは、いまもぼくの一つの原点となっています」。
人の優しさも、味わった。シェアハウスを転々とし、慣れない土地での暮らしが、いつしかからだに馴染むようになっていた。
「今、うちの会社では、バングラデシュの人や、バリの人にはたらいてもらっているんです。あの時の、ぼくを助けてくれた人たちと同じように、彼らをサポートしてあげたくて。だって、ぼくといっしょでしょ」。
勇気をだして、異国の街に来た。たしかに、行為は、おなじ。国は違っても、人間はたぶん根っこはみんないっしょなのだ。

様々な、寄り道。

オーストラリアに向かってから、1年が経ち、帰国する。
「帰国してから、西新宿の新宿アイランドタワーにある『SPICE ROAD』という多国籍の料理店で勤務します。私は、フロントとバーを担当していました。勤務したのは2年半です。それから、半年ばかり親父の仕事を手伝ったりもしましたが、次に選んだ道は、恵比寿にあるカフェの立て直しです。そちらを半年くらいで立て直し、五反田のレストランで、4年勤務しました」。
その後、義理の兄の会社でも勤務している。「IT会社です。最初はサラリーマンもやってみたいと思って入社させてもらったんですが、半年もしないうちに、合わないなって」。
飲食にカムバックしたくなったそうだ。
「その時、義兄に『辞めるのはいいが、飲食に戻るなら1億円くらい売る仕事をやれ』ってハッパをかけられるんです。ええ、いまでもよく覚えています。あの言葉が、励みにもなりましたしね」。
飲食か、それ以外か。義兄の一言で、米田氏の迷いは吹っ飛んだのではないか。しかし、飲食といっても、どうカムバックすればいい?
「まず、知り合いから、バーを任せてもらって。ハイ、業務委託です。そのあと、これが起点にもなるんですが、東洋大学の学生食堂のなかにあるある店舗の経営が思わしくないので、『立て直して欲しい』というオーダーをいただくんです。それで、深夜の2時までバーをしながら、早朝から大学に行って、という生活がスタートします」。
米田氏が、担当すると魔法がかかったように、とたんに店は再生した。「いえ、特別なことはしていないです。ただ、ハンバーガーやサンドイッチ、ピザがメインだったのを、米モノにしたんです。学生は、いっても米です。米なら大盛りも有ですからね(笑)」。簡単にいうが、結果は凄まじい。それまで最低3万円だった日商が、最高15万円になったそうである。
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株式会社ドラムカンパニー 代表取締役 竹下大介氏

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2017年11月2日木曜日

株式会社ドラムカンパニー 代表取締役 竹下大介氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ドラムカンパニー 代表取締役 竹下大介氏登場。
本文より~

竹下ブラザー。めざすはメジャーデビュー。

ドリンク150円。ビールは250円。つまみは100円から、高くても300円まで。センベロと言われる店は、おしなべてコスパが高いが、群を抜いている。まさに、のんべぇの天国である。
今回は、この、のんべぇの天国、立ち飲み居酒屋「ドラム缶」で、いま注目の敏腕経営者、竹下 大介氏にご登場いただいた。
「私は、1978年7月生まれです。出身は千葉の行徳。父親は不動産業に勤務していまして、母親は、不動産会社に勤めていました。2つ下に弟がいます」。
なんでも小学生の頃から両親のレコードをひっぱりだし、耳を傾けていたらしい。好きだったのは、ドラマの影響もあって「長渕剛」。中学生時代からはギターをはじめ、かなり真剣にパンク・ロックに酔っていたそうだ。
「2つ下の弟も私に刺激されて、パンクにハマって」
兄弟2人でメジャーデビューをめざすようになる。ちなみに兄がギター、弟がボーカル担当だった。

高校進学。ただし夏服、知らず。

「当時はロン毛だった」と竹下氏。音楽はファッションであり、生き様でもあったのだろう。
パンク的、生き様?
「そういうわけでもないんですが、ちょっとは突っ張っていました(笑)」。
話を聞くと、「ちょっと」どころではない。
なんでも、校内で起こった千葉VS横浜のバトルに竹下氏も参戦し、「合計30~40人の無期停学者のなかの1人になった」という。しかも、「停学中に関わらず、学校にいた」ことがバレて、竹下氏は退学になる。
「けっこう、怒られましたね。両親から」。
そりゃ、そうだろう。
「それまで好き放題でしょ。仲間もヤンチャな奴ばかりです。高校は茅場町の商業高校だったんですが、志望動機は東京にでたい。それだけ。で、私のように千葉から通っている生徒と、逆に横浜から通っている生徒が、それぞれ派閥をつくり、結局、バトルして、みんな仲良く無期停学になってしまったんです」。
それが、入学そうそうの話らしい。だから、夏服には一度も袖を通したことがない。
それもあって、この時ばかりは、さすがに反省した。そもそもバイクを駆って、ケンカに明け暮れるタイプではない。何より音楽。音楽さえあれば生きていけるタイプだった。
「それまでのヤンチャな仲間と別れ、まっとうに生きようと、『東京ディズニーランド』でアルバイトをはじめました」。「春に面接で落ち、夏にもう一度受け、拾ってもらった」そう。
「春と同じ面接官だったんですが、二度目だったにかかわらず『じゃ、今度はやってもらおうかな』って」。
「いい人だった」と竹下氏は当時の面接官を思いだし、目を細める。
恩は忘れない。
「結局、アルバイトのまま7年間、勤務しました。そう22歳まで。この間に、実は音楽のほうでも、いろんな出来事があったんです」。
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2017年10月24日火曜日

株式会社そら 代表取締役 都築 学氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社そら 代表取締役 都築 学氏登場。
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兄と競ったチョコレートの数。

愛知県豊田市はトヨタ自動車が本社を置く企業城下町である。人口は名古屋市に次いで多い。この豊田市で、都築氏のご両親は居酒屋を経営されていたそうだ。
「実家に併設したような居酒屋です。もともとこの店はお好み焼き店で、ほかに喫茶店も2~3店経営していたそうです」。
兄弟は2人。3つ離れた兄がいる。子どもの頃からスポーツも、学校の成績も悪くなかった。記憶にあるのは、バレンタイン・デーのチョコの数。兄にはいつも負けていたそうである。
人気者。親の影響で始めた空手を7年。定番の野球やソフトボールも巧みにこなした。
「そうですね。いろんなスポーツをやりました。中学ではテニス。高校ではソフトボール。初めてやる種目でも、そつなくこなし、すぐ飽きていました」。高校3年からはスノーボードにもチャレンジする。スキー用品を買いたくて、新聞配達やゴルフ場のボール拾いを始めたのもこの頃。
むろん、成績もいい。進学した高校は、今や豊田市のなかで2番目の偏差値の高校となっている。

チームアルペンにあこがれて。

「大学は愛知工業大学に進みます。豊田市からすぐなんで、うちから通っていました。専攻は電子工学です。電子レンジやオーブントースターなどを研究していました」。
大学には通っていたが、ホームグラウンドはキャンパス外。サッカーにスノボにサーフィンにバイト。これらが生活の中心。
「サッカーは市民リーグで、大学とは関係のないチームです。バイトはプールの監視員に、ユニクロやコンビニ、花屋さん…。大学3年の時、ふと『何をするために大学に来ているんだろう』『意味があるんだろうか』って、かなり真剣に悩みんだこともあるんです(笑)」。
大学の生徒たちと交わるチャンスが少なく、コミュニティはバイト先やサッカーチームのなかでできあがってしまっていた。それでも、なんとか大学は卒業。アルペンに入社する。
「アルペンといったら販売会社ってイメージが強いと思うんですが、実は製造業なんです。私はチームアルペンにあこがれて就職しました」。
チームアルペンとは、アルペンのなかでもよりすぐりの開発メンバーたちが、アスリートたちといっしょに世界を回ることを指すそうだ。
「スポーツではいろいろな意味で目立っては来ましたが、いつのまにかサポートする仕事に惹かれていたんです。だから、チームアルペンとしてアスリートをサポートし、世界を回る。悪くないと思ったんです」。
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株式会社そら 代表取締役 都築 学氏

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2017年10月17日火曜日

株式会社FS.shake 代表取締役 遠藤勇太氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社FS.shake 代表取締役 遠藤勇太氏登場。
本文より~

ロボットから飲食。

島根県の安来市は県の東端に位置し、鳥取県との県境にある。遠藤氏が、この安来市に生まれたのは1983年。3人兄弟の長男。
「親戚も含め、みんなお堅い仕事をしています。祖父が国鉄、父も普通のサラリーマン。叔父さんの1人が飲食をやったそうですが、失敗して店をたたむことになって。だから、私が飲食の道に進むのは、みんな反対。とくに祖父が大反対していました」。
子どもの頃は、優秀な生徒だった。父の勧めで剣道をする。中学時代のスポーツは、テニス。理数系が好きで、ロボットに興味津々。高校は、松江工業高等専門学校に進んだ。5年制のいわゆる高専である。
「そこを4年で辞めちゃったんです。ロボットより、興味がわくものができてしまったから」。
それが飲食だった。
「3年時にモンテローザさんの白木屋で調理のアルバイトを始めました。その時のエリアマネージャーに憧れるんです」。
もともと料理好きだったこともあってか仕事も楽しくなってくる。「こりゃ、飲食がいいや」。それで、モンテローザに就職。とたんに、大反対を受ける。しかし、反対を押し切った。

彼女の怒り。

「入社したとたん転勤です。岡山とか、いくつか回りました」。
店長にもなる。ハタチの時には給料も30万円を超える。
「そうなっても、祖父とかからは反対されていました。『いまからでも遅くはない。消防士になれ』って(笑)」。結局、アルバイト時代を含め3年。退職のきっかけは、その時のエリアマネージャーと合わなかったからだそうだ。
「それからいったん島根に帰ります。その時、母から『それだけ料理が好きなら本格的にやってみたら』と言われて、『服部栄養専門学校』へ進みます。ただ、『服部栄養専門学校』を選択したのは『東京に行きたい』という下心があったからなんです」。
島根から東京。距離で言えば1000キロくらいは離れているだろうか。
「東京ではむろん、独り暮らしです。1年間、『服部栄養専門学校』で勉強して、有名な割烹に就職しました。ただ、心が定まってなかったんでしょうね。1年で、逃げ出してしまいました」。
それから、転々とする日々がスタートする。入社しては、数日で辞める。そのたびに、なにか言い訳を探した。
「そういうのをみかねて、今のカミさんで、当時、付き合っていた彼女に真剣に怒らるんです(笑)」。
彼女の怒りで、お尻に火がついた。

師匠は、本の中にいる。

「ちゃんと怒られたことで、奮起して『外食計画株式会社』へ就職します。こういっては外食計画さんに申し訳ないんですが、当時、気づいたのはどこでもいっしょだってことでした。つまり、私自身の問題ってことに気づいたんですね。それで、逃げずにちゃんとやっているうちに、5年半が経ちます」。
もともと飲食で独立とは思ってもいなかった。しかし、いつしか30歳で独立と思うようになっていたそうだ。「外食計画さんには感謝しています。飲食の面白さはもちろんですが、何もできなかった私にいろいろなチャンスをくれた会社だったからです」。
最初は、魚もちゃんと下せなかったらしい。それでも、料理長にしてくれた。「とにかく『やってみろ』っていうタイプの会社だったんです。ま、バックに総料理長がいましたから、そういうこともできたんでしょうが」。
有名な割烹で勤務したと書いたが、仕事といえば「野菜を洗う」ことと、「煮物をタッパーに詰める」ことだけだった。それで1年で辞めた。だから、正直、何もできない。
「でも、なんとかしないといけないと思って。ええ、総料理長にも助けていただきましたが、独学です。実は、スッポンの下し方まで、私は本から学んでいるんです」。
独学は、ある意味つよい。試行錯誤しながら、独自の「水炊き」も開発する。これが、独立後のメイン料理となる。
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2017年10月16日月曜日

夕刊フジの“トップ直撃”に「株式会社プロジェクトМ」村山 有志社長が掲載されました。

本日10月16日発行の夕刊フジの“トップ直撃”に24時間居酒屋酔っ手羽など経営されている「株式会社プロジェクトМ」村山 有志社長が掲載されました。
(夕刊フジの“トップ直撃” by著 細見昇市)

夕刊フジと酔っ手羽がコラボ! 
夕刊フジとのコラボメニューとしまして10月より酔っ手羽でコラボセット販売中。

夕刊フジ+ビールorサワー+酔っ手羽餃子+伝説の手羽先+冷やっこの5点セットで
何と合わせて980円なんです!
一人で飲みに来ても、読みながら飲めるのでダンディーな人になれます (笑)
更にお得なコラボこれだけじゃないです!


さらに電子版の夕刊フジを購読してる人は・・・・
酔っ手羽の世界一お得なクーポンをGETできます!
世界一というぐらいなので本当お得な内容!
何とビールが何杯飲んでも10円なんです!
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コレを気に是非!
是非とも夕刊フジ電子版を購読してください。
尚、夕刊フジ1部も単品販売中~です。

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