2019年3月15日金曜日

3月8日(金)発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」は、福しん様です。

60代・70代で頑張ってる人、働きたい人を応援!(キイストン寄稿)
高橋社長「シニアの方は定着率が高く、トレーニング期間も短くて済むメリットがありますが、それ以上に経験から学んだことを仕事に生かす創意工夫の能力が高いです。」ということで、実際に豊島区公会堂前店に勤務している67歳の平川和夫氏と70歳の大田太郎氏(仮名)に、仕事ぶりを聞いみました。
  (夕刊フジより)
「over60(ロクマル)世代応援企業30」の取材を70歳の元編集プロダクション社長の土金さんにお願いしております。

【氏名】土金哲夫(ツチガネテツオ)
【生年月日】昭和23(1948)年9月25日
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

「飲食の戦士たち」を通じて・・・。

外部から3月より新入社員研修として、飲食店経営者へ「飲食の戦士たち」の取材依頼から取材同行で1人4日間・計6人受け入れました。
さすがに4日間では成果上がるのかな?って不安はありましたが、結果取材先6社を確定させてくれました。
また、社長取材の同行も各人1〜2社行くことができました。。

まったくやったことないリストアップを自ら行い、そこに対し社長にアポイント入れ、依頼する。
そして取材した社長から社長になったその経緯や生き様を聴きくという、まさに営業の基本中の基本をやることで、皆さん成長を感じてくれました。
今回研修に来てくれは皆さん、誰一人営業職はいません。
しかし、この研修を通じ、アポイント取れた嬉しさ、社長からのヒアリング等仕事のおもしろさも味わえ、楽しかったと・・・・・・。

改めて、外部からの受け入れ、ビジネス研修、営業研修としても出来る!!という確信得ました。

4月中旬には「飲食の戦士たち」も700連載突破します!!
「飲食の戦士たち」はキイストンにとっても人材育成にとっても大きな財産となってます。
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2019年3月12日火曜日

株式会社zans 代表取締役 水谷大輔氏登場。

(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社zans 代表取締役 水谷大輔氏登場
本文より~

高校までの、水谷少年。

長野の高原は、風が透明で天空はどこまでも青かった。
「経験したアルバイトは種類だけでも30種以上」といって、今回ご登場いただいた株式会社zansの社長、水谷大輔氏は笑う。長野の話も、じつは農家のバイトの話。
水谷氏が生まれたのは、1974年12月7日。京都市の南区出身。父親は、友人と共同でプラスチック製造の会社を経営されていた。母親もはたらいていので、かぎっ子だったそう。
5歳離れた妹がいる。
「小学校の頃から、活発なほうでした。スポーツは苦手だったんですが、小学生の頃は野球もやっていました」。
中学は、地元の洛南中学。全校で生徒3000人ほどのマンモス校だ。そのなかでも、成績は常にトップクラス。超名門の洛南高校にも、70~80%の確率で入学できる成績だったというから、すごい。しかし…。
「じつは、成績がいいのは中学2年までの話なんです/笑。3年からちょっと道を外したっていうのか/笑」。高校にも進学はしたが、2学期になる前に卒業してしまっている。

人生初の師と、放浪と漂流。

「それからですか? 大工を3年くらいやって、親父の会社でもはたらきました。こちらは4~5年です」。
父親が経営する会社の取引先は、京都の大手メーカーが主。業績は悪くない。
「共同経営者が、岩崎さんって人で、私の最初の師です。親父が営業で、岩崎さんが技術。私は、岩崎さんから様々な思考やアプローチの方法を教えていただきました」。
ぜんぜん、人をほめない方だったらしい。「でも、たまーに『いいな』、なんて言われる時があって。ふだん、ほめられないもんだから、その一言がうれしくて。ハイ、自信を生む魔法の一言でした」。
4~5年も務めたのに、会社を継ぐ意思はなかったのだろうか?
「ぜんぜんなかったですね。まだ若かったし。5年目でも、まだ23歳です。高校を辞めてから、大工も経験しましたが、いっても小さな世界です。それで、23歳だと思うんですが、外の世界をみてみようと。長野で百姓をしたのも、その時です」。
28歳になるまでの、およそ5年間。流されるように、渡り歩いた。ただし、この5年は無駄ではなかったはず。人は、そうやって人間の幅を広げるから。しかし、水谷氏はどこにたどり着くのだろう。

もう1人の師、山口氏との出合い。

「リゾートバイトってあるでしょ。その時、知り合った子といっしょに東京に行きます。そして、飲食店を紹介してもらって。ハイ、その店のオーナーが、私のもう1人の師である山口氏です」。
水谷氏が、紹介された店というのは、株式会社エヌイーエスの運営店である。その会社のオーナーであり、代表取締役が山口義成氏。和食、ワイン酒場、沖縄料理、鉄板料理、創作ダイニングなど、バラエティ豊かな店舗展開を行っておられる敏腕経営者だ。現在、店舗数は、30数店舗オーバー。
 そして、弟子である水谷氏のほうはというと、現在、おなじく業態の異なる飲食店を6店舗運営している。「かいかぶり」や「えんなすび」などとネーミングにもヒネリが利いていて、面白い。もっとも、店名は、山口氏やスタッフが名付け親だそうだが。
「ともかく、今の原点になるのが、エヌイーエスですね。山口社長に採用いただいて、すべてがスタートします」。
最初の1年間。休みも返上した。何も知らないから、時間でカバーするほかない。明るく、楽しく。何ヵ月経った頃だろうか。月商は、過去最高に。
「あの頃は、やるしかなかったですね。エヌイーエスも出店攻勢をかけていましたから、店長、マネージャーに昇格。2年半で、私自身は独立しました。最初は業務委託です」。
いよいよ、水谷ワールドが始まる。しかし、水谷氏が偉いと思うのは、けっして独りよがりにならず、ちゃんと山口氏の方法論をトレースしている点だ。ちなみに、山口氏とは今でもファミリーとして付き合う仲だそうだ。
・・・続き
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シュマッツ・ビア・ダイニング クリストファー・アックス氏、マーク・リュッテン氏 共同経営登場。

(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”シュマッツ・ビア・ダイニング クリストファー・アックス氏、マーク・リュッテン氏 共同経営登場
本文より~

小さな起業家2人。

マーク氏は、ドイツのもっとも優秀な大学の一校。European Business School, Oestrich-Winkelを首席で卒業している。しかも、最年少というオマケ付き。クリス氏は、マーク氏より年長で、彼の母親は経済学者であり、作家。日本のクラフトマンである「職人」たちを取材されたこともあるそうだ。
ちなみに、マーク氏の父親はサラリーマンで、母は銀行員。クリス氏の実家は、オーガニックファームである。
「ちかくに美術館があって、日本人はもちろん、日本語を聞くことが多く、その響きに興味をもったのが日本を意識するようになった始まりです。当時は、日本語とスペイン語を勉強しました」とマーク氏は、利発そうな表情で語る。
「マークは、はやく仕事がしたいと言ってインターナショナルスクールを2年で卒業し、飛び級して大学も19歳で卒業しています。じつは、日本の名古屋の大学にも留学していたんです」。
マーク氏とクリス氏は、きょうだいのように仲がいい。小さい頃から一緒だった。
「そうですね、ぼくらが小さな頃から、ファミリー同士が付き合っていました。互いにきょうだいもいるわけですが、なかでも、ぼくたちは波長があったのでしょう。小っちゃい頃から連絡を取り合って、海外へも一緒に旅行しています」。
気もあった。
「小さい頃から、2人とも起業しようと思っていました。『起業するか?』と、6歳の頃に聞かれても、ぼくらは同じように『イエス』と答えていたでしょうね」。
ただし、歩む道は、違った。
「クリスは、ファイナンスの世界に進んだし、ぼくは、ベンチャーキャピタルへと進んだ」とマーク氏。マーク氏はベルリン、クリス氏はメキシコシティ。
「2人が再会するのは、ニューヨークです。ぼくが先で、マークがあとから赴任してきました」。時間が許す限り、語りあった。志が高い2人。話は当然のこととして、起業の話に向かう。
「ぼくらはよく似た業界で仕事をしていたんですが、結果へのアプローチはまったく異なっていました。ぼくは、オペレーションだし、クリスは、ファイナンスやマーケティングが得意です。ある時に、ぼくらは気づきます。経験が異なるから、一緒にやれば、互いを補い合うことができるはずだ、と」。
「そう、それで、『じゃぁ何をするか』と話し合った時に、『フード』と『日本』が、ぼくらのキーワードになったんです」。

日本×ドイツ料理。

「ぼくは子どもの頃からの日本贔屓だし、名古屋の大学に留学した経験があって。クリスも、昔、東京の国際弁護士事務所に勤務していましたから、もともと2人とも、『日本』という国とは親和性があったんです」。
なるほど、わからなくはないが、広い世界のなかから、彼らが日本を選択したのは、それだけが理由だろうか?
まして、フードビジネスは2人にとって無縁の世界でもある。
「ぼくのお祖母さんがホテルを経営していて、昔から『食の仕事』をみてきたこともフードビジネスを選択した理由ですね。それに、マークは、とってもグルメで世界中のおいしい店を知っています/笑。それともう一つ、日本には『気軽に食べられるドイツ料理がまだ入ってきていない』というのが、日本を選択した理由です」。
まだ日本にないドイツ料理?
「そうです。バイエルンの伝統的なドイツ料理ですね。ぼくらは、ハンブルグで海もちかいからシーフードも食べます。そういう、いまの若者たちが好むドイツ料理、これが日本にはないな、と」。
面白い話がある。これも、彼ら2人が日本で起業する背景である。
「マーケティングをしているマーカスって知り合いが、日本にいた時に、マーケティングのため、中目黒の『桜祭り』に小さいソーセージ店をだしたんです。そうしたら、たちまち60~70人の行列ができて。送られてきた写真をみて、笑ってしまいました。ドイツでもソーセージにそんな行列ができない/笑」。
「でも、そこに、ぼくたちはビジネスの未来をみつけたんです。日本なら間違いなく、ぼくらのドイツ料理が受け入れられるって」。
そして、マーク氏21歳、クリス氏26歳。かくして2人は、2013年、新たな未来を拓くために、日本に渡る。

桜祭りの行列は再現できる?

「もともと資金もそうないので、できるだけお金をかけないというのがテーマでした。もちろん、初めてのチャレンジですし、日本のことも、いってもまだ知らないわけですから、小さくやろうよ、と」。
「そうですね。資金も200万円くらいしかなかったかな。志はでっかくても、お金があるわけじゃない。それで、フードトラックです。ペイントも2人でして。寝泊まりは、もっぱら倉庫で、実は住むところもなかったんです」。
「お金も、時間も、ぜんぶフードトラックに使いました。メニューですか? メニューは、ビールとソーセージです。ただ、とにかく本物にこだわって、レシピは有名なホテルのドイツ人シェフにお願いしました」。
初日から、桜祭りが再現されたそうだ。
販売方法にも工夫を重ねる。「マーケティング、販促、ディスカウント、何をしたら、リピーターになってくれるのか、試行錯誤する日々だった」と2人は当時を振り返る。
「お客さんは、タクシーの運転手から、OL、工事現場の人もいました。いろいろな人に来ていただいて、自信もでました。もっともすべてが順調だったわけではないです。フジロックフェスタにも出店しましたし、週末に開催される青山のファーマーズマーケットにも参加しました」。
 そして、1年半後に、「246 COMMUNE」にビアスタンドを出店し、赤坂に1号店となる「シュマッツ ビアダイニング赤坂」をオープンさせる。

「ドイツ料理」の将来性。

現在、マーク氏とクリス氏が経営する店は、12店舗、2019年3月には15日に東京ドームシティ、22日には中目黒に旗艦店がオープン。
このページがアップされる頃には、すでに14店舗になっている予定だ。
今後も月に2~3店舗も出店する計画というから、今後の展開が楽しみだ。
マーク氏とクリス氏という、2人のドイツ人が仕掛けた、ドイツの若者の食文化は、日本でも、旨いビールと旨いソーセージと一緒に広がっている。
「シュニッツェル・パルミジャーナ」「特製ドイツソーセージ5種盛り」「シュマッツ・ジャーマンポテト」「ドイツ風シャルキュトリボード」「マッシュルームのクリーミーリゾット」…。
シェアするなど食べ方は自由だ。
「日本人がいう『和・洋・中』の『洋』のイメージは、フランス料理やイタリア料理で、ドイツ料理ってないでしょ。そのイメージを僕たちが変えたいんです」 。
最後に2人が「困った」という一例を挙げる。
  「ランチですね。ドイツ人にとっては『じゃがいも』が、日本人のいう『お米』なんです。ともに主食です。日本の、『お米とおかず』のように、ドイツでは『じゃがいもとおかず』なんですね。でも、これが、理解されず…」。
「そうですね。どうしても、日本人はお米がないとだめなんでしょうね。ぼくたちドイツ人には考えられませんが、『じゃがいも』をおかずに『ご飯』を食べる人もいるくらいですから。それが、ある意味、カルチャーショックでしたね」。
  たしかにそうだ。「パン」は主食になったが、「じゃがいも」いまだ主食にならず。言い方をかえれば、そのぶん、未来があるとも言える。
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2019年3月5日火曜日

3月1日(金)発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」は、J・ART様です。

60代・70代で頑張ってる人、働きたい人を応援!(キイストン寄稿)
82歳の最高齢者を筆頭に、今回、仕事内容を聞いた河合芳雄氏(71)と朝日浩氏(72)を含む19人のシニアが活躍されています。
  (夕刊フジより)
「over60(ロクマル)世代応援企業30」の取材を70歳の元編集プロダクション社長の土金さんにお願いしております。
【氏名】土金哲夫(ツチガネテツオ)
【生年月日】昭和23(1948)年9月25日
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アイエムエムフードサービス株式会社 代表取締役社長 河村征治氏登場。

(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”アイエムエムフードサービス株式会社 代表取締役社長 河村征治氏登場
本文より~

高校1年生、ロスに渡る。

「高校の時から、飲食店をしたいと思っていた」と、今回ご登場いただいた河村征治氏は語る。「実をいうと、『起業する』ことがまず先にあって、業種については『これだ』というものがなかったんです。いくつもある選択肢のなかから飲食業を選んだのは、店内に1-2時間滞在してもらえるレストランであれば差別化できると思ったからです」。
高校生で、この発想。できるもんじゃない。できたとしても「手っ取り早いから」となるのではないか。
高校1年の冬休み。ともだちと2人で出かけたアメリカ・ロサンゼルスの1週間の旅が、何かしらの化学反応を起こしたのだろうか。
「そうですね。なんとなくですがサラリーマンになりたくないと思ったのは事実ですね」。
河村氏は、1977年、石川県金沢市に生まれる。3人きょうだいの長男である。父親はNTT、母親は銀行に勤めておられた。「子どもの頃から要領がいいほうでした。下に弟と妹がいたこともあって/笑。家族で、登山やスキーにでかけました。学校の成績は中の上って奴ですね」。
河村氏の実家は、金沢駅から10分の立地。中学は8クラスあり、ともだちに影響を受けてバスケットボール部に入部している。
「高校も10クラス。こちらは、進学校です。バスケットボールはつづけるんですが、2年の時に退部します。だんだん音楽に惹かれ、バンドを組み、私は主にギター担当していました」。
「ただ」と河村氏、実は演奏よりも、ライブを企画運営するほうが楽しかったそう。当時から、経営者的なことに興味があったのかもしれない。

じゃ、フランスに行くか。

「高校3年生の夏休み、もう1回、アメリカに渡ります。今度は1ヵ月の短期留学です。高校は進学校だったんですが、進学は考えず、卒業後もまたアメリカに向かいました/笑」。
3週間に亘り、カリフォルニアやマイアミを旅したそうだ。アメリカは、河村氏に何を教えてくれたのだろう。
「日本とアメリカ、意外に近いと感じはじめていました。高校卒業後は先ずフランスに渡るんですが、料理でナンバー1はフランス料理と思っていたので、じゃぁ、フランスに行くかと」。
3ヵ月、語学学校に通い食べ歩き。「そうです。その時に、まだ修業中の下村浩司さん(現・「エディション・コウジシモムラ」オーナーシェフ)にお会いし、アドバイスをいただきます。『東京なら、このレストランがいいよ』と6店舗挙げてくださって、私自身も帰国後に食べ歩き、四ツ谷にある北島亭の門を叩きます」。
叩くというのは、文字通り、4回門を叩いて、最後に開いたという意味。つまり、3回、面接で落ちた。「やっぱり、北島亭がいちばんだったんです。だから、落ちても、ほかで、という選択肢はなかったんです」。
「北島亭」については、いうまでもないだろう。「当時からナンバー1でしたね」と河村氏。それだけ著名なフレンチレストランだ。その後「当時、2番手だった先輩が、知り合いの店を立ち上げるというので、ついていきました。」。

料理人、河村。経営者を目指す。

河村氏の人生において、「北島亭」に就職した意味合いは大きい。仕事のベースは、いまも、すべて「北島亭流」だからだ。高校を卒業してから25歳まで、24時間、365日、頭を占めるのは「料理」の二文字だった。
日本での修業を終え、ふたたびヨーロッパへ。フランスで修業し、帰国。グローバルダイニング等レストランで働く一方で、アイスクリーム製造卸事業を開業している。
「アイスクリーム事業は、仲間4人とはじめます。アイスクリームが評価されて、都内のカフェに卸したりイベントを行ったり。ただ、経営者としての、私のちからがなく解散することになりました。あの時、職人ではだめだ。経営者にならなければ仲間を守れないとそう思ったんです」。
その後、河村氏は、縁あって、大手商社にて商品開発のコンサルタントをはじめる。
「数社のコンサルを勤めた後、グローバルダイニングに正社員として入社しました」。このグローバルダイニングで、副社長にまで上り詰めている。この一つの事実からも河村氏の力量がわかるというものだ。
そこを辞めて、金沢ですか?
「ええ、33歳のときに独立します。『東京で』とは考えなかったですね。あの頃、頭にあったのは地方発でブランドをつくるということでした、それで、故郷の金沢をスタートの場所に選びました」。
・・・続き
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株式会社新和 代表取締役 宇野辰雄氏登場。

(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社新和 代表取締役 宇野辰雄氏登場
本文より~

父はギャンブラー、それとも起業家?

北海道富良野。母は、その富良野出身。おなじ北海道の北見出身の父と出会い結婚。やがて、娘と息子を生む。その息子が、今回ご登場いただいた株式会社新和の代表取締役、宇野 辰雄氏である。
「親父は絵に描いたようなギャンブラーで、もともとは北海道でパチンコ店を経営していたんですが、私が生まれる頃にはそちらをたたんで東京に。たぶん、逃げるようにして出てきたんだと思います。はっきりと聞いたことはないですが、たぶん、ギャンブルの問題が根っ子にあったんでしょう」。
好きこそものの上手なれというが、ギャンブルばかりはそうはいかない。「博才」があるといっても勝ちつづけるのは、難しい。もっとも「博才」があったかどうかはべつとして、会社を興す才覚はお持ちだったのだろう。東京に移ってからもまた、宇野氏の父は会社を興されている。それが、いまの「新和」のベースとなるパッケージ会社である。
「姉はいたんですが、10歳も離れていましたし、彼女はうちにあまりいなかったもんですから、小さな頃から一人っ子で、かぎっ子のような暮らしです」。
パッケージの工場は、自宅の下にあったから正確にはかぎっ子ではないが、料理も掃除もアイロンかけまでできる少年だったそうである。
父は、儲かるとそのお金をもって、ギャンブルに走った。なんでもやられたそうだが、競馬は特にお気に入りだったそうである。何かの本で読んだが、競馬に没頭しているギャンブラーは百万円を1本というそうだ。宇野氏の父もまた、1レースに1本、2本と賭けられたに違いない。
「そうですね。それでも私が小さい頃は、うちも少し裕福になったんでしょうね。夏休みとか、いろんなところに連れて行ってくれました。私は私で、べつに父が大好きだったわけではないんですが、小学生の頃から家業を継ぐと思っていました」。
まだ小さな会社だったが、宇野氏にとっては価値ある会社と映っていたのだろう。

「大学を辞めてくれ」。

中学ではバレーをやり、高校では居合道をやっている。居合道は、刀の居合である。担任からほぼ強制的にやらされた。空手か、居合かどちらかを選択しろと言われ、空手はどうみても、怖そうな先輩がいたので、消去法でもう一方を選択した。進学したのは、帝京高校。
「大学までストレートだったし、何よりうちに近かったから」というのが、こちらの選択理由である。
「大学を卒業したら2~3年同業ではたらいて、そのあとうちに戻るというのが当時のプランです。ええ、会社を継ぐというのが、前提でした」。だから、大学に進学するといってもさしたる理由がなく、大学に入ってからも、特にこれといった勉強はしない。もっぱら、遊びに軸を置いた。進んだのはいうまでもなく、帝京大学である。
「ただ、私が20歳の時に、転機が訪れます。実は、うちの工場長が会社を辞めると言い出したんです」。なんでも、スキーから帰ったら、深刻な顔をしたご両親から「大学を辞めてくれ」と言われたそう。理由はその工場長の代わりとなるような人が誰一人いなかったから。つまり、ご両親は、息子の宇野氏に白羽の矢を立てられたわけだ。
「突然ですから、びっくりはしましたが、卒業できるかどうかも怪しかったもんですから、『ま、いいか』と。元々、継ぐつもりでいましたしね。ただ、工場長はいわば職人で彼しかできないことがあったんです。小さな頃から工場の手伝いはしていましたが、当然のこと、いきなり彼の代わりはできません」。
当時、パッケージの製造には、職人のわざが欠かせなかったようだ。
「最初の1ヵ月で、5キロは痩せました。だって、できないでしょ。でもやらなければ上達しない。でも、やればやったで材料が無駄になるばかりで/笑」。
ものになるまで半年から1年かかったそう。それでも、「それくらいでできるようになった人は、ほかにいないんじゃないですか」と胸をはる。
もっとも家業の命綱だったから、必死だったのだろう。当時、社員は3~4人くらいだったそうである。彼らの生活も含め、2代目候補の宇野氏は、20代の若さで会社の命運をにぎったわけである。

「社長」と「従業員」はどちらも欠けてはいけないピースだった。

さて、結論を急ぐと「何か父と違うことを」と、やがて宇野氏が飲食業を興す。それを前提としたうえで、父と宇野氏の関係を読むと、話がわかりやすい。
宇野氏が工場長となり、職人のわざも手にしたことで、元の工場長がいた時のように、工場内はにぎわい、事業は順調に進むようになる。
やがて周りのみんなを大事にする二代目候補は、社員やパートさんたちにとっても大事な存在となる。やがて、今の専務や取締役も入社し、宇野氏を核とした体制が徐々に出来上がっていった。
しかし、父はトップに君臨したままだった。
「ぼくは、親父を経営者として尊敬していません」と宇野氏はきっぱりという。
「何かあればやくざのところにも乗り込んでいくような人ですが、親父はギャンブル、それだけが大事な人だったんです。息子のぼくが、会社で存在感を示せば示すほど、父は苦虫を潰します。ぼくに負けたくなかったというより、『会社という財布』を失いたくなかったんです。父は」。
「財布?」「そう財布です。当時の小企業ですから、会社のお金はオレのものっていう人は少なくなかったと思うんです。ただ、うちの親父はひどかった。勝手に会社の金を持ち出して、競馬です。工場長が辞めたのも実は、父のせいです。ぼく自身、何度辞めてやろうか、と思ったことか」。
そんななか、30にもなっていなかった頃、ある事件が起こる。
「親父がいきなり、『今回は賞与がないから』って言いだしたんです。賞与がない?耳を疑いました。業績はけっして悪くなかったもんですから。でも、理由はすぐにわかります。案の定、『なぜだ?』って問うと、『原資がない』と。つまり、社員に渡すための賞与の原資は、府中かどこかで馬券になり、紙屑になったんです。あの時は、『もうだめだ、この人の下では』って心底、そう思いました。でも、社員たちのことがありますから、ぼくが何とかしようと奔走するんですが、若造にそう簡単にお金はできません」。
母親にも頭を下げたそうだ。だが、耳を貸してもらえなかった。しかし、到底、納得できないことだった。
「だから、みんなを集めて『賞与がないらしい。でも、俺がなんとかするから』っていったんです。そうしたら、古参の、ぼくを小さい時から知っている社員が、『無理せんで、いいです。私たち今回は我慢します。我慢しますから、早く社長になってください』と」。
もし、今の宇野氏を知る人がいたら、この事件というか、古参の社員の一言が今の宇野氏をつくっていることがわかるだろう。
「この時、ぼくは初めて、社員たちとの関係を、ぼくなりに理解し、定義することができました。社員はけっして経営者の使用人ではないんだ、と」。
どちらもかけてはいけないピース。そのことを宇野氏は気づいた。今も、この思いはいささかもかわってはいない。
父が会社を財布としたこととの違いは、明白である。むろん、どちらがいいかの判断を第三者がすべきではないのだろうが。
・・・続き
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