2020年8月12日水曜日

ライブコーヒー株式会社 代表取締役 大塚 徹氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” ライブコーヒー株式会社 代表取締役 大塚 徹氏登場。

本文より~

空襲を聞く。

好きになることは以外と難しい。コーヒーも一緒かもしれない。今回、ご登場いただいたのは、コーヒー豆の老舗ショップ、ライブコーヒー株式会社の代表取締役、大塚徹氏。
大塚氏が生まれたのは、1940年。その翌年に日本は、英米に対し宣戦布告している。
「私の両親は、神戸でぜんまいのつくりかたを教える仕事をしていました。国内はもちろん海外でも行っていたようです。戦後は、組合の長にも就いていました」。
父親は180センチ、体重100キロの堂々たる体躯の人だったらしい。「怖かったですね」と大塚氏。「もっとも父も怖かったが、母もまた怖かった。母は、聖路加国際病院の初代看護婦なんです」。
3歳の頃の思い出は、空を飛ぶ敵機。音が近づく度に、空襲警報がなる。太平洋戦争は1945年に終戦するから、大塚氏が5歳の時。街は焼け野原になるが、のち強烈なスピードで、復興を遂げ、近代国家の道を進む。
「父からは勉強せず好きなことをしろと言われ育ちます。私が大学に進んでいないのも、それが理由です。父から商売をしろと言われ、大阪の、赤いダイヤ、これ、小豆ですが、そういうのや、ゼンマイやらを扱っている店で丁稚奉公をはじめます。住み込みで、月給3000円。朝4時起きです」。
丁稚奉公だったが、大学に進むよりいい経験ができたにちがいない。この頃すでに、「コーヒーのビジネスをしたいと思っていた」と語っている。

20歳、東京に参上。

「東京のど真ん中は中央区でしょ。だって、そういう名前だし。でも、そうじゃないんですよね。中央区といったって、ど真ん中じゃない」と、上京した当時の話を伺うと、そう言って笑う。
大阪で2年間の丁稚奉公をしたのち、高い志を抱き、東京進出。「仕事をするなら、東京のど真ん中」。だから、中央区で仕事を探す。
「友達の寮でお世話になって、中央区の中を歩きます。その時、就職したのが『ライブコーヒー』とともに先代がされていた、もう一つの事業である『とらや商店』です。先代とはもちろん、そこで出会います。私が20歳の時です」。
先代はどんな人でしたか? と伺うと、「厳しい人だったが、なんでも自由にやらせてくれる人だった」とのこと。無論、商売人の鏡。どんなお客さんに対しても、謙虚な人だったそう。海外に何度も行かせてくれたのも、先代。感謝は尽きない。
とにかく、大塚氏、20歳。コーヒーを追いかける大塚氏の旅がスタートする。

コーヒー豆の味は、大地の味。

「コーヒーは、深煎りだとしても甘みが残っているかどうか。ブラックといっても、ただ、苦いだけではない」と教えてくれたのは、3代目となることが決まっている川島氏。大塚氏と同様、社長の大塚氏とは何の血縁もなく、「アルバイトからスタートした」という。
「私だって、血縁もなにもなく、社長に抜擢いただいたんですから。彼が社長になっても、うちでは普通。伝統かもしれませんね」と大塚氏。ただし、コーヒーを嗜む流儀はちゃんと伝わっている。
「コーヒー豆の味は、大地の味」と大塚氏はいう。だから、国ごとに味が異なる。「あと大事なのは、太陽」。収穫後の乾燥でも豆の味が決まるそうだ。
「綺麗な水、肥沃な大地、雨期乾期も大事」という。だから、赤道直下、またその周辺にある国が、栽培にも適しているのだろう。
直接、それぞれの国に行き、コーヒーを飲み、吟味する。それが、大塚氏の仕事でもある。
「私は、砂糖を入れる派なんですが、1日に何十杯も飲むわけで、それだけ飲んで砂糖を入れていたらからだに悪いでしょ。だから、10杯目以降は、ブラックかな/笑」。
好きな豆はどこの国の豆ですか?
コーヒーを知り尽くしている人には、誰もが聞いてみたい質問だろう。即答されると思ったが、大塚氏は、聞かれたくないのか、しばし答え方を探し、沈黙する。

・・・続き

ライブコーヒー株式会社 代表取締役 大塚 徹氏



2020年8月5日水曜日

MAJIMA株式会社 代表取締役社長 眞島充友氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” MAJIMA株式会社 代表取締役社長 眞島充友氏登場。
関西エリアは私と同じくらいインパクトある(笑) 天川が取材させてもらっています。

本文より~

充友。名は体を表すか。

ともだちで充たされるように「充友」と名付けられたと眞島氏は笑う。小学3年生になると、名前の通り、ともだちが周りに充ちるようになる。当時は、サッカー選手。「親父も長嶋世代で、私も野球が好きだったんですが」。案外、流されるタイプだったらしい。
「野球は中学になってからですね。高校は、登美ヶ丘高校と奈良では真ん中くらいでしょうか。その高校に進みます」。新設校で、眞島氏は4期生。勉強はできないほうじゃなかったが、いつのまにか、眞島氏のあとには、成績順でいえば1人の生徒がいるだけだった。「そりゃ、大学進学もままなりません/笑」。
プロ野球選手をめざしたこともあったらしい。しかし、普通の公立校ではなかなかそのレールには乗れない。「1浪して進んだのが、近畿大学です」。
近畿大学といっても夜学。かろうじて滑り込んだ格好だ。だが、多少なりとも、それが人生にプラスになっている。「仕事をして、勉強もしようという人たちです。そこらへんの学生とは、いろんな意味で違います」。
眞島氏も、勉強とバイトに打ち込んだ。

ロン毛で、ピアス。

「私の人生の、最初の師に出会うんです」。バイトの話をうかがっている時に、師の話がでた。師は、ロン毛で、ピアス、推定50歳。「植木屋の大将です。この人がとにかく、格好いい。ロン毛で、ピアス。たばこではなく、パイプです/笑」。
大学3年時の話。師に倣って、眞島もたばこをやめパイプにしたそうだ。
「なにが格好いいかって、スタイルもそうなんですが、生き様ですよね。植木屋なんですが、塀などの外壁もやっていたんですね。ある時、ようやく一つの塀が完成したんです。私らが、『できたぁ~』と一息ついていたら、『コワセ!』です。いい意味でも、悪い意味でも職人のなかの職人ですよね。それでいて、ロン毛で、ピアスっていうのが、ギャップがあって、またいい/笑」。
仕事がある日は、昼飯も、風呂も、晩飯と晩酌までもいっしょだったらしい。当然、大将のおごり。「もともと私は公務員になりたいと思っていたんです。なんたって、楽ちんそうでしょ。でも、言われちゃうんですね。『白シャツして、いやな上司に従って、それでええんか』って」。
師は心の自由を語ったのだろう。眞島という人間を、同類と思っての一言だったのかもしれない。もっとも大学3年生の時に、眞島氏は、夜間から通常の学部に編入。白シャツをめざしたわけではないが、ちゃんと就活もしている。

コネも効果なしだった就活戦線。

「植木屋のバイトもそうなんですが、バイトを通してだんだん社会っていうのも理解できるようになるんですね」。父親に勧められ、はじめたスナックの仕事も、社会勉強になった。
「ついでにいうと、そのスナックに通っていたお客さんが、会社も紹介してくれたんです」。最初に受けたのは、関西電力や中部電力など3~4社。公務員ほどではないが、安定志向である。
「でも、ぜんぶ落ちちゃって。そしてら、スナックのお客さんらが紹介してくれるんです。えっと、ね。たしか、ライオンとアサヒペイントと、キーエンスだったかな」。
ぜんぶ、落ちた? 
「ええ、そうなんです。当時は、コネがあれば、受かったりしそうなもんなんですが…」。紹介してくれた人に悪いことをした、と眞島は笑う。
「仕方がないので、ともだちがやっていた建築系の会社に就職します」。ダンプを動かしたりもしたそうだ。「植木屋の時もそうなんですが、ものづくりが楽しかったんですね。とはいえ、大卒でしょ。周りからしたら、それだけで気に入らないっていうかね。精神的には、しんどかったです。ただ、3年したら会社が潰れちゃって。仕事も、なくなってしまいました」。
眞島氏、25歳。

青年社長に憧れて。

この時、眞島氏ははじめて本を読んだという。題名は「青年社長」。ワタミフードサービスの創業者、渡邉美樹氏のサクセスストーリーを追ったノンフィクションである。
「衝撃を受けました。でも、その時は、感動しただけで、いつのまにか忘れかけていたんですが」。
偶然だったそう。「2000年の8月です。そろそろ職に就かないと、と、就職情報誌を買ったんです。で、開けたページが。なんだったと思いますか?」
ひょっとして、「和民」の募集のページとか。
「正解です。偶然でしょ。あれ、これどっかできたことがあるなって/笑」。聞いたことがあるな、と眞島氏がいうのも無理もない。当時、奈良はもちろん、関西にまだ「和民」はなかったからだ。
「つまり、あの渡邊さんの会社の関西進出。その1号店の募集だったんです。直接、渡邊さんともお会いできるかもしれないでしょ。青年社長って、どんな人なんだろうって。そりゃ、興味津々です」。
父親がめずらしく猛反対したそう。「夜の仕事でしょ。それに、サービス。そういうのが気に入らなかったんでしょうね」。
しかし、反対を押し切り、入社。最初の配属は、横浜。

ワタミフードサービス、入社。部長に駆け上がる。

先を急ぐと、眞島氏はワタミフードサービスで頭角を現し、あの大所帯で部長職に登り詰めている。
「大阪に帰りたい一心でがんばったのが功を奏したんでしょうか。関西1号店の立ち上げのメンバーに抜擢いただきました」。
部長が店長、課長が副店長を務めるという異例の人事だったそう。「それだけ、ちからを注いだわけですね。もちろん大繁盛です」。「こんなに流行るんや」、はたらきながら、そんな感想を口にしたそう。
「それから、2号店の店長をさせてもらって」。
その当時の仕事ぶりを、評価してもらうと「5点満点で2点」とのこと。何より、初めてのマネジメントに苦労したそう。しかし、それを乗り越え、エリアマネージャーに昇格。こちらを2年つづけ、30店舗を統括する部長に。じつは、九州エリアの立ち上げも、眞島氏が行っている。
しかし、好調だった業績にかげりも生まれ、先輩たちが次々、会社を離れる。独立支援制度を利用した先輩たちも多い。
「それに倣ったわけではないですが、私も最初に店長を務めた関西2号店で、委託の店長を務め、翌年35歳で正式に独立します」。
ホームページの沿革から抜粋すると、<2010年6月1日、語らい処「坐和民」淀屋橋店フランチャイズ契約スタート>ということだ。
「3年でお金貯めて買い取りなさい、というのが会社のスタンスでした。そして、始めたのが『炉暖』です。独立するオーナー向けのパッケージでした。夫婦2人でも独立できる小箱。既存のメニューを6割程度というルールはありましたが、あとは自由だし、店名だって、自由。私は、あったかみのある店名にしたくて、暖炉をひっくり返して店名にしました。そうです。だから、『炉暖』」。

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 MAJIMA株式会社 代表取締役社長 眞島充友氏


7月3日(金)より夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」にて3連載で“ゆで太郎システム”様掲載しました。

7月3日(金)より夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」にて3連載で“ゆで太郎システム”様掲載しました。
(7月3日発行 電子版カラー)

(7月10日発行 電子版カラー)
(7月17日発行 電子版カラー)

2020年7月30日木曜日

株式会社スマイルリンクル 取締役社長 須藤 剛氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社スマイルリンクル 取締役社長 須藤 剛氏登場。
本文より~

冷めた、野球熱。

小さな頃から畑仕事をしていた。ものづくりの原点は、ここにあるのかもしれない。

将来の職業は、コックさん。

「それでいいと思っていたんですが…」。人生は、面白い。何がきっかけになってかわるか、わからないからだ。

3日目、辞めようと心に決めた。

手取り18万円。家賃5万5000円。残り12万5000円。そのなかでやりくりする生活がスタートした。「私は新卒でスマイルリンクルに入社します。もちろん、上京して。浦安に住みます」。

創業者、森口氏との距離。

何年くらい経った頃だろうか。いつしか2人の距離はなくなっていた。
・・・

2020年7月22日水曜日

株式会社Key table 代表 周郷 海氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社Key table 代表 周郷 海登場
本文より~

140キロとの別れ。

漁師町。祖父も若い頃は、漁師だったそう。いまの幕張からはイメージできない。「両親が離婚したのは、私が小学2年生の時。それからは母と妹と祖母の3人で暮らしました」。
野球が、うまかった。小・中の時には、選別にも選ばれた。友達のなかには、プロに進んだ者もいる。
高校は、市立船橋。スポーツの名門校だ。
「1年からレギュラーでした。ピッチャーです。球速は、140キロくらい。プロを目指していました。ただ、2年の秋にケガをして」。
140キロとの別れ。リハビリ生活が卒業まで続いたという。プロもあきらめた。これが、最初の挫折。ヒーローが、ヒーローになれなくなった時だ。
 大学は、大東文化大学の経営学部に進む。「経済的な問題があり、就職も念頭にあったのですが、先生の勧めで進学します」。
大学進学は、いままでとはまったく違う選択だった。プロというゴールに進む道から外れた選択。周りにいるのも、いわば、ただの学生。
「正直、温度差があった」と周郷氏。当然、目は、学内ではなく、学外に向いた。
「経営学を勉強したくて、指定校推薦で大東文化大学に進学したわけですが、大学には、全然行っていないっていうか」と笑う。
大学で出会ったのは、デール・カーネギーの「人を動かす」。
経営者を意識するようになる。

志は飲食へ。目標は「改革」の二文字。

「『人を動かす』には、かなり影響を受けました。ビジネスに関心があったから、在学中から株式投資をしていました。そんな中で飲食に興味を持つんですが、これはホテルで配膳のバイトをしている時です。だって、飲食って面白いでしょ。バイトの方が、時給がいいとか。ホテルで仕事をしていると分かるんですが、けっこうダークな面もあって」。
それを逆に、面白いと思った?
「そうです。私たちの時代でも、就職先としてみたら、飲食はやはり敬遠されます。労働時間が長く、給料が少ない。問題点は明白です。ちょうど大手の残業問題がクローズアップされて、社会的にも、益々評価が下がるんですが。私は、逆に、それが面白いと思ったんです」。
経営者の発想で?
「そうです。問題が明確なんです。でも、何年経ってもクリアできない。でも、だからこそ、チャレンジする価値があるのでは、と。私が経営者となって、どれだけのことができるか、試してやろうという」。
そうは決めたが、卒業ができない。半年、留年。就職先は、やはり飲食。当初の「志」は変わっていなかった。
「就職させてもらったのは、学生時代からバイトしていた飲食店です」。学生時代から早くも店長を務めていたそう。「それで、半年遅れで卒業し、そのままお世話になります。スーパーバイザーも経験させていただいて、そうですね。仙台から石川まで、17店舗の統括マネージャーをしていたこともあります」。
志は飲食へ。
目標は「改革」の二文字を実現すること。

つぎは北海道かも。

そして、2018年、独立。学生時代から始めた資産運用で貯めたお金も、ぜんぶ、つぎ込んだ。「現在(2020年6月)で、丸2年、3期目のスタートです」。快調なことは、出店ペースでも明らか。早くも、7店舗だ。
出店数もそうだが、周郷氏のユニークな点は、千葉の2店舗以外にも、福岡に3店舗、宮崎に2店舗を出店していること。しかも、全店、直営。さらに、いまからの出店計画をたずねると、「7月に福岡にもう1店舗、また、長崎にも1店舗」と、平然と言われ、驚いた。
青息吐息の会社が多いなかで、異彩を放っている。
「コロナの影響はなくはなかったですね。ただ、キャッシュアウトもしましたが、正直に言って、そんなにきつくはなかったですね。スタッフもみんなで頑張ろうと言ってくれていますし」。
いままでは、出店資金も借り入れなしでまかなっていたそう。だから、財務的にも健全で、融資も下りやすく、攻めの資金もできている。
「今回、福岡と長崎に出しますが、つぎは北海道かもしれません」と笑う。
ドミナント戦略など、まったく頭にないのだろうか?
「テーマは低投資なんです。創業時から、初期投資を抑えて負担を軽くしています。今回も、コロナの影響が軽微だったのは、家賃を低くしていたからです。東京のど真ん中に出店していたら、こうはいかなかった」。
たしかに、そうだ。家賃は、売上の10%が、適正範囲と言われている。売上100万円なら、家賃は10万円。しかし、いまや家賃比率が100%オーバーの店舗があってもおかしくない。
「長崎や北海道というのも、そこ。家賃が低いだけではなく、素材もいいものが入る。どっちがいいんでしょうね。家賃の高い東京で、頑張るのもいいですが」。
とはいえ、「いつかは、都内に出店するかもしれない」と言っている。ただし、あくまで、広告宣伝費のなかで。「渋谷にある…っていうと、それだけで宣伝効果につながりますから」。
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