2016年12月6日火曜日

株式会社麺庄 代表取締役 庄野智治氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社麺庄 代表取締役 庄野智治氏登場。
本文より~

教科書は、「料理マンガ」。

海老とトマトの鶏白湯スープ/生姜スープ。スープは、このいずれかをチョイスする。この2種類のスープ選びから始まる「ベジつけめん」は、麺と、チャーシューなどの具材が、絵画のように美しく盛られた目にも楽しい「つけめん」である。
「ベジつけめんは、3号店目となる、新宿1丁目の『gotsubo』でお出ししているラーメンです。店名通り、5坪の小さなお店ですが、女性客も多く、高い評価を頂戴しています」とのこと。2016夏限定メニューは、更に独創的で、「冷たいトウモロコシのラーメン(890円)」は月・火は長芋とオクラのスープ、水・木はトマトとキュウリのスープ、金・土はキノコのスープと、2日毎にスープも入れ替わる。
「上質でワクワクするようなラーメン」と社長の庄野氏はそう表現するが、実際に目の当りにすると、パスタに近い。というか、ラーメンとパスタが融合した新たな食のカテゴリーという気がしなくもない。
さて、今回ご登場いただくのは、この「ベジつけめん」をはじめ、独創的なラーメンを生み出し、いまやサンフランシスコに海外1号店をオープンするまでとなったラーメンクリエーターであり、株式会社麺庄の社長、庄野智治氏である。
庄野氏は、1980年2月12日、生まれる。なんでも、ラーメンというか、食に熱烈な興味を持ったのは、庄野家では庄野氏だけだった。
「小学3年生の頃から、剣道をはじめます」。理由は、「剣道場に一目ぼれした」とのこと。結局、中学2年生までつづけ、区大会や県大会で入賞したこともあるそうだ。
「次男ということもあったんだと思いますが、両親は、とにかく何でも自由にさせてくれました」。
「私がつくった料理も、いつもほめてくれました」。
実は、庄野氏。子どもの頃から、食べ歩きが大好きだった。とくにラーメンがお気に入り。食べるだけではなく、つくることも大好きだった。好きな漫画は「クッキングパパ」。「クッキングパパ」「美味しんぼ」漫画に出てくるレシピが、教科書だった。父や母や兄が褒めてくれたのは、その時につくった料理の数々である。
「家ではもちろんですが、友人宅でも、冷蔵庫を開け、なかにある食材で料理をつくっていました」とのこと。少年たちが、口々に、「庄野は、料理の天才だ」といったのは、この頃のことである。早くも、料理人の片鱗がうかがえる話でもある。

高校生、ラーメンを自作。

高校生からバイトをする人は少なくない。庄野氏も、高校3年から居酒屋でアルバイトを開始している。しかし、高校生の時から、骨を炊いてラーメンを自作するなんていう人は少ないのではないか。
「コロッケ屋さんが骨をわけてくれたんです。それをうちにあった小ぶりな寸胴で、じっくり炊いて…」。キッチンは、小学生の頃から、庄野氏の縄張りでもあった。
この時も、出来上がったラーメンをふるまうと、みんなからお世辞抜きで「天才だ」と称賛された。
「そりゃ、旨くて当然です。原価もまったく気にしていないわけですから。しかも一杯入魂ですからね(笑)」。
決断も、早い。
もっとも、すぐに独立というわけにはいかない。ラーメンづくりには、素人ながらも、いや正しくいえば素人だからの、自信があったが、資金もない。
社会というものも勉強しなければならなかった。
「それで、知り合いに、飲食店の工事を請け負っている会社があったので、そちらに厄介になりました」。営業もしたし、現場にも入り、汗を流したそうだ。
「いつ、もしくは何歳になったら、独立すると決めていましたか?」と聞くと、「そういうのは、決めてなかったんですが、とにかく資金が貯まったらと思っていました」。
結局、3~4年で、独立資金を貯めた。短い期間で用意したのは、意思の表れである。
ところで、高校生からラーメンを自作するようになっているが、そもそもラーメンだと思ったのは、なぜなんだろう。
「『ラーメン巌流島』っていうテレビ番組があったんです。その番組を観たのが、ラーメンに興味を持つようになったきっかけですね。当時は、荻窪の『春木屋』さんや『丸長』さん、『大勝軒』さんに良く通っていました。専門学校に進んでいたら、フランス料理を専攻するつもりだったんですが、大学に進みましたから、ラーメンはもちろん、料理はすべて独学です。だから、店をやるには、かつて『天才』と言われたラーメンでと、甘い考えでスタートしたわけです」。
大学2年で中退して、3年だから、1年浪人を入れて、24歳の時である。
「資金も貯まった頃に、いい物件もあって、よし、ってことで、オープンしました」。その店が1号店である「麺や庄の」である。
「たまたま、当時ブレイクしたカレーハウスの創業店の跡地だったんです。10坪、10席です。人気店を生み出した創業の地ですから、そこでやってだめだったら、飲食店の経営は向いていないことになる。だめだったら、ぜんぶ捨てて、ふつうのサラリーマンになろうと思っていました」。
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2016年12月5日月曜日

夢を買いに有楽町に行きました!!

2016年もあと1か月、とうとう師走となりました。
最後に“夢を買い”に有楽町の「西銀座チャンスセンター」に行きました!!
まあ2時間近く並びましたね・・・。
そしてついに1番窓口でゲット!!

2016年11月29日火曜日

株式会社小松庵 総本家 代表取締役社長 小松孝至氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社小松庵 総本家 代表取締役社長 小松孝至氏登場。
本文より~

小松庵。

3代目である。「祖父が小松庵を創業したのは、大正11年です。祖父から、父へ。そして、私で3代目です。ただ、3人とも性格が違うし、方向も違います。小松庵のDNAは、たしかに継承してきましたが、表現はバラバラです」。
 職人堅気の祖父は、店舗展開に消極的だったが、父親はむしろ出店を積極的に行った。「ある意味、祖父に対するアンチテーゼだったかもしれません」。
蕎麦職人から、経営者へ。2代目の挑戦である。
1992年には、池袋メトロポリタンに出店。1994年には、恵比寿ガーデンプレイスへ。1996年には、新宿高島屋へ出店。2000年になってからも5店舗出店するなど店舗展開を図っている。
一方、孫である3代目小松氏は、先祖返りの部分もなくはない。「私自身、職人ではありませんが、『職人』の考えかたや、在りようにはつよくこだわっています」。
職人の仕事は、「文化をつくる仕事でもある」と考えているからだ。次の言葉からも、小松氏の考えが透けてみえる。
「蕎麦屋は、蕎麦をだしていればそれでいいのか。そんなことを考えているわけですから、やっぱり私も、先代たちとはちょっと違いますね(笑)」。
小松氏が生まれたのは、1953年である。生まれは、駒込。すでに、祖父は「小松庵」を創業されている。「祖父の時代は、とりわけ同族経営の時代です。母は、新潟から嫁いできましたが、祖父にすれば働き手が1人増えたくらいにしか思ってなかったんじゃないでしょうか」。
従業員ならまだしも、家族だから余計始末に悪い。「年間365日いっしょです。逃げられない。家族旅行っていっても、社員旅行でしょ。しかも、社員といっても親戚ばかり。母は、長男の嫁ですから、親戚からも冷たい目を向けられていました」。
創業者である祖父に反発できる者はだれもいない。孫の小松氏にとっても、怖い人だった。小松氏も、小学校に上がる頃には、母同様、働き手の1人となった。
「勉強していたら、祖父に殴られるんです。『頭が良くなったら、蕎麦屋をつがなくなる』というのが祖父の言い分。たしかに、あの時は蕎麦屋になんかなるものか、と思っていました」。祖父は、そんな小松氏の気持ち察し、はがゆい思いをしていたのかもしれない。
「ある日、母が『いっしょに逃げよ』といいました。でも、私たちは、逃げ出さなかった。どこかで、小松庵という店に惹かれていたんだと思います」。
祖父が亡くなり、父が2代目になってからも、母は店のために良く働いた。それをつぶさにみていたのは、小松氏ら子どもたちだけではなかった。「私が、銀行関係の方とお話しするようになった時に言われました。『あなたのお母さんは、ほんとうに良く働く人だ。小松庵を支えてきたのは、間違いなくお母さんだ』ってね」。
ちなみに小松氏母は、今もお店に出られることがあるそうだ。
時代は、大正から昭和、平成と移っている。新潟から嫁いできた母がみた当時と比べ、「駒込」の風景はもちろん、「小松庵」もまた、まったく違う姿をしているはずだ。

蕎麦屋の3代目の挑戦。

大学時代まで、ぱっとしなかった。外交的でもない。女子とわいわい騒ぐということもできないタイプだった。「大学で初めて、生涯の友ができた。それが、今の妻です(笑)」。
小松氏は、青山学院に進学。青学で始めたオーケストラで知り合ったそうだ。「それまで、何か楽器をしていたかというと、ぜんぜんそんなことはなかったんですが、突然、やろうと思ったんですよね。なぜか」。踏み込んだ先に、奥様がいた。音楽にもむろん惹かれた。文化への傾倒も、この頃に始まったのかもしれない。
「怠け者だが、凝り性」と小松氏は自己分析する。怠け者のほうはともかく、凝りだしたらとまらない。余談だが、30歳から始めたテニスでは、コーチを務めるまでになっている。その頃には、だれかれともなく言葉を交わす外交的な性格になっている。これも、たぶん奥様のおかげである。
小松氏は、1977年、同大学の理工学部、物理科を卒業している。大学出身の飲食経営者は少なくないが、理系というのはめずらしい。「ものごとを論理的に考える癖がついてしまっている」と笑う。だから、知り合った頃には、偏屈な奴と思われる時もあるそうだが、交流が深まれば、たいていの人は小松氏に好意を持つ。「経営者の多くは、現象を観る。私が観るのは、原理です」。
心ある人は、小松氏の言葉にいつか耳を傾けるようになる。ある会合に参加した時もそうだった。最初は、言葉がまるでかみ合わなかった。ただ、「2年で本質的な議論ができるようになった」と小松氏はいう。
「旨ければいい」。それでは「旨い」という現象にしか、目が向いていない。店は、存続しなければならないし、儲からなければならない。そうしなければ、文化を継承する職人も、生まれない。
「蕎麦屋は、少なくなっているんです。『それは、なぜか』を根本から考えないといけない。つまり、減少という事象のみに目を向けるのではなく、原理から考えないといけない。労働環境もそうでしょう。でも、それだけではない。文化や、時代背景など、実は、社会の体制にまで手を突っ込んでいかなければ、解決できない問題なんです」。
むろん、蕎麦屋が自らできることは限られている。だからといって、放っておくことはできない。3年前リニューアルした「総本家 小松庵 駒込本店」は、小松氏のひとつの挑戦だ。
ネットなどで確認いただきたいが、蕎麦屋という外観ではない。小松氏自ら「蕎麦屋っぽくないようにした」と豪語する。外観は、高級レストランに近い佇まいである。「つくりたかったのは、非日常」。けっして安くはない。ランチでも3500円。それでも、客は溢れる。
「蕎麦っていうのは、旨いだけでは経営が難しいです。旨いのはもちろんですが、それだけではだめってことです。安ければいい、でもない」。では、どうすればいいのか。その答え探しのために、小松氏は、新たな挑戦を開始したに違いない。


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株式会社小松庵 総本家 代表取締役社長 小松孝至氏
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2016年11月25日金曜日

11月24日、青山学院大学堀内ゼミにて楽観の伊東良平社長の講義でした。

11月24日、青山学院大学堀内ゼミにて楽観の伊東良平社長の講義でした。
20代前半時にピースボート内の調理スタッフとして世界一周旅行の経験が今の伊東良平社長を形成されてるようです。
これからの海外展開がとても楽しみです。
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株式会社石はら 代表取締役 石原誠二氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社石はら 代表取締役 石原誠二氏登場。
本文より~

石原家の話。

蕎麦屋といえば、古風な造りが頭に浮かぶが、蕎麦「石はら」は和モダンなイメージで、なかでも3店あるうちの1店舗でもある学芸大学店は、「蕎麦カフェ」といった趣だ。旨い蕎麦はもちろんだが、蕎麦前と言われる「だしまき玉子」や「蕎麦がき」などのつまみも、これまた旨い。
つまみで一杯やりながら、蕎麦で〆る。これが、江戸っ子の流儀なのだ。
さて、今回、ご登場いただくのは、その粋な蕎麦「石はら」の店主であり、株式会社石はらの代表でもある石原誠二氏である。
石原氏は1966年、東京都世田谷区で生まれる。
「兄が生まれ、1歳違いで、私が生まれました。お金がなかったから、2人も育てられないと、私は一時、捨てられる運命にあったそうです(笑)」。
むろん、そんな親の事情を知っていたわけではないが、「父親がオレをみる目が、兄を見る時とは違う」と思っていたそうだ。望まれなかったわけではないが、石原家に、それだけの余裕がなかった頃の話である。
「事実を知ったのは、ずいぶん大人になってからです。知ったからといって、何かがかわるわけもなかったですが、なんとなく、それまでのことが腑に落ちたのは事実です」。
親子で好きな球団がわかれていた。最初は、石原氏だけが巨人ファンで、父母兄は、阪神ファン。石原氏1人が違う球団を応援していることを知って、母は、石原氏とおなじ球団を熱心に声援するようになる。
1対3という構図は、母にとっても辛い構図だったのかもしれない。

高校進学で一波乱。

「兄も、私もそうですが、小学校の頃から番長みたいな存在でした。兄は、あることがきっかけで、中学から性格がかわるんですが、私はそのまま。野球もつづけ、中学時代には区の大会で準優勝しました。私はキャチャー5番です」。
遊んでもいたが、部活にもまじめに取り組んでいた。高校でもつづけるつもりだったが…。
「ぜんぶ、すべっちゃったんです(笑)。3校くらい受験したんですが、ことごとく(笑)。そうなると、中学浪人です。あの時は、ちょっとやばかったですね。でも、最終的には2次募集で、ある私立高校に合格します。それが、実は、たいへんな高校だったんです」。
入学したのは、2次募集の石原氏らをいれて350名。たばこの煙がもうもうとたち込め、授業にでてくる生徒も少なかった。「野球部もあるにはあったんです。でも、グラウンドが小さかったのと、戦績を聞いて辞めました。弱すぎなんです(笑)」。
学校の成績は、最初だけトップテン入りした。2次募集で進学しただけに、最初からその高校を狙っていた生徒たちとはさすがに差があった。
「最初の頃だけ」と笑うが、もともと石原氏は、頭の回転が早いほうだ。
「親父がばくちばっかりやっていたもんですが、子どもの頃からいろいろつき合わされて、そのおかげで計算はめっぽう早くなったんです。小学生の時は、クラスでいちばん頭がいいって子にも、算数だけは負けませんでしたから」。
しかし、むろん、勉強はしなければだめになる。卒業時には「真ん中くらい」になったのは、勉強をせずに済ましたからだろう。大学には、進む気もなかった。

居酒屋が専門学校だった。

「兄はいろいろ買ってもらっていたと思いますが、私はぜんぜんでした。だから、中学3年の頃からアルバイトをはじめ、そうですね、高校を卒業する時には7~80種類のバイトを経験していました(笑)」。賭け事も経験する。なかでも麻雀は得意だった。
ところでバイトでもらったお金はどうしたんだろう。貯金とかしたんだろうか。
「それがぜんぜんです。もらったぶんだけ使っちゃいます」。江戸っ子は宵越しの金を持たないというが、子どもでもそうなのだろうか。
「私は結局、大学にはいかず、専門学校に進むんですが、こちらも、なかなか気が入りません。とくに居酒屋のバイトを始めてしまったもんですから、朝3時に帰宅という日がつづいて、正直にいえば、1年で学校にいったのは10回くらいで、結局、退学してしまいました」。
今思えば、居酒屋が専門学校だったのかもしれない。「この時、お客様から、『この仕事に向いているね、キミ』って言われるんです。あの一言がいまに生きていると思うんです」。

・・・続き

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2016年11月18日金曜日

うちの石毛が飲食企業の経営幹部の皆さまの前で堂々たるセミナー講師させてもらいました。

11月16日、うちの石毛も30人強の飲食企業の経営幹部の皆さまの前でセミナー講師させて頂けるようになりました(感涙)
この1年でかなり頼もしくなってくれているので、私が表舞台から裏のフィクサーの道に進んで行けそうです(笑)

来年2017年は、もっともっと表舞台に出し、本人の母校でも講演したり、大学生対象、また人事担当者向け等々セミナーさせていこうと策略しています(笑)
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2016年11月17日木曜日

11月15日、千葉商科大学にてネオ・エモーションの桑田士誉社長が講義されました。

11月15日、千葉商科大学・サービス創造学部池田ゼミにてネオ・エモーションの桑田士誉社長が講義されました。
事前課題「6つの事例検証」を7チーム(2〜3年生30人強)に分かれて学生たちが自分たちの考えを発表し、桑田社長がそれに関して説明されました。
濃いです。
(池田ゼミの学生さんと桑田社長)
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