2025年5月14日水曜日

営業未経験、2~3人採用したい。

私も最初は営業未経験でした。


キイストンは創業当時から営業マンはほぼ9割が営業未経験者の採用してきました。

営業未経験者の人たちは、学ぼうと一生懸命頑張ってくれるので教えがいもあり、また一人前なるのが早いです。

今期も黒字で4期連続となりました。

基盤はしつかりしてるので、営業未経験者中心に2~3人採用したいです。

キイストン採用ページ→こちら

キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン


一世風靡したステーキけんの創業者、株式会社TWENTY NINE 会長 井戸 実氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社TWENTY NINE 会長 井戸 実氏登場。

本文より~

ロードサイドのハイエナ。

「ロードサイドのハイエナ」という二つ名をつけられた。メディアはこぞって、そのハイエナを追いかけた。「飲食の戦士たち」にも、ご登場いただいている。
「あれはたしか」。
今回のインタビューはそんな昔話から始まった。
<2009年の3月3日に掲載させていただいています>
「そうでしたね。エムグラントフードサービスを設立したのが2006年ですから3年経った頃ですね」。
<井戸さんは、まだ32歳。ご自身でも「ロードサイドのハイエナ」というブログを綴られていて。さぁ、いくぞ、と>。
「ただ、今だから言うと、あのときは3期目で、まだ赤字だったんです(笑)」。
<そうだったんですね。アクセル全開というイメージでお話をうかがっていました>
「全開だったのは、たしかで、あるファイナンスから2億円までの融資枠をいただいたんで、使い切るまで、いくぞ、と(笑)」。

「ど根性ガエル」の「梅さん」に憧れた少年。

井戸さんは1978年、3人兄弟の末っ子として生まれている。小学時代、アニメの「ど根性ガエル」に登場する佐川梅三郎こと「梅さん」に憧れ、寿司職人をめざす。
<これが、始まりですね?>
「『梅さん』とはずいぶんちがう世界に来ちゃったなと思いますが、『梅さん』がまちがいなく私の原点です」。
情に厚く、どこかおっちょこちょい。生きる世界はたしかにちがうが性格はどこか似ている。かつてハイエナと厳つい2つ名をつけられたが、イメージは、むしろ「梅さん」だ。
高校を卒業した井戸さんは「梅さん」になるべく、寿司の修業を開始する。
<たしか、異例のスピードでカウンターに立たれたんですよね?>
「そう。20歳でカウンターに立たせていただきました」。
<12名いた同期は、1年で2人になったと話されていました。16時から朝の4時まで勤務して、その日の午前中には、もう店にいたというお話が印象的でした>
「とにかく、少しでも早く、腕を磨いて独立する。その思いだけで突っ走っていた頃です」。
<方向転換されたのはいつでしたっけ?>
「22歳です。薄給だったこともあって、このままでは独立資金が貯まらないことに気づくんです(笑)」。

「けん」は、「けんちゃん」の名だった。

当時、井戸さんのプランでは独立資金は2000万円。たしかに寿司職人にとっては天文学的な数字。
「それで、牛角のレインズインターナショナルに転職します」。
その頃の話をかいつまんで紹介すると、「レインズインターナショナル」で寿司職人とはまったく異なる店舗開発の仕事に従事。立地開発とフランチャイズビジネスのノウハウを獲得する。とある会社で業態開発を経験したのち、「店舗流通ネット」に転職。
<「ステーキけん」は2006年の7月が創業ですね?>
「店舗流通で出会った上司が会社を立ち上げ、私は取締役として参画します。その後2006年1月に、取引先の肉屋さんの支援をいただき、郊外のロードサイドで運営されていた『ステーキ&ハンバーグ いわたき』の経営権を引き継ぎます。その際、経営権はOKだが、商標はダメっておかしな話だったんです(笑)」。
「創業者が『いわたき』の4文字に思い入れがあって』と井戸さん。
「創業した4人の頭文字をとって名付けられたそうなんです。そんな話を聞くと無下にできないでしょ。だから、どうしようって」。
<メディアでは、当時、もっとも有名だったステーキハウスがひらがなの2文字だったので、それを真似たと言われていましたね>
「あとづけでそうなっちゃったんで、パクったって思われても、まぁ、いいかって黙っていたんですが、実はステーキ事業のトップだったスタッフが小林けんと言って、その名を借りて『けん』でいいじゃんって。それが、店名の由来。『ステーキみのる』より響きがいいでしょ」。
<その話も今回、初めて聞きました(笑)>
井戸さんは前回のインタビューとかわらない。言葉の一つひとつに想いが乗ってくる。ただし、挫折を知った今は、当時より、心が底が深くなった印象を受ける。

夕刊フジの記事で、祭りが始まる。

「全盛期は、2012年」と井戸さん。
「2009年10月に、夕刊フジに掲載されたのが引き金ですね。千葉県の松戸のデニーズの跡地に『ステーキけん』をオープンしたことが取り上げられ、新進気鋭の若手経営者と紹介いただいたんです」。
この記事がきっかけとなり、メディアがロードサイドの救世主と、なかば崇め、なかば「ハイエナ」と揶揄し、井戸さんを追いかけ回すことになる。
改めて当時のいくつかの記事をみたが、そのなかに「ハイエナ商法で会社設立から4年で売上高140億円」という印象的な見出しがあった。
たしか、そうだった。4年で140億円。だれが実現できた数字だろうか。
<1号店は千葉県の南柏でしたね?> 
「ジョリーパスタさんの居抜きです。それが、2006年の7月です」。
家賃45万円、60席。サラダ・バーをつくったことで300万円かかったが、初期投資はそれだけ。オープン初日、窓からパーキングをみる井戸さんの目が丸くなる。
「つぎからつぎってあのことですね。30分も経たないうちに広いパーキングが満杯になりました」。
その様子をみて「金脈を掘り当てた」と、井戸さんは小躍りした。
初月の売上、1200万円。
500万円いけばいいと思っていたが、予想はいいほうに大きくブレた。2号店、3号店、フランチャイズも含め、つぎつぎにロードサイドに「ステーキけん」がオープンする。
そして、夕刊フジの小さな記事で、「祭り」が始まる。
「3期まではまだ赤字だったんですが、4期目になり年商は47億円、5期目には165億円になります」。
<5年で100億円を軽くオーバーって、そりゃマスコミも放っておいてくれないですね>
「当時、ファミリーレストランをはじめロードサイドから撤退する郊外店が少なくありませんでした。『ステーキけん』は、居抜きで入り、内装から設備、什器までもらい受けてスタートしますから、出店コストの低さは段違いです。そのうえ、当時、ドル/円は90円程度だったんです」。
ステーキ肉はミスジ。全量輸入。
「円安になった今じゃ絶対、無理。消費税も5%だったから、ステーキ150gとサラダバー・カレー・フルーツ食べ放題で税込み1050円です」。
たしかに、かなり破格。当時でも、暴力的な価格だったにちがいない。
ファミリー4人で、ミスジのステーキを食べ、サラダバーとフルーツと、なんといっても子どもが大好きなカレーも食べることができて4200円。
ちなみに、とある大手ステーキレストランチェーンのメニューをみて、現在の価格を調べてみた。ランチだったとしても、ステーキなら1000円を軽くオーバー。ライス・パン・スープは食べ放題・飲み放題だが、サラダとカレーは追加料金がかかる。
時代がちがうといっても、やはり溜息がでる。当時、「ステーキけん」に行く機会が少なかったのが悔やまれる。「ステーキけん」も今では、ミスジ150gは2000円オーバーだ。

祭りのあと始末。

「最盛期の2012年には『ステーキのけん』238店、『フランス亭』30数店、『ヴォーノイタリア』を含めると300店以上はあった」と井戸さんは振り返る。
すべて井戸さんが失ったものだ。
<聞きにくい話ですが、原因はなんだったんでしょう?>
「虎の尾を踏んだんでしょうね(笑)」。
<虎の尾?>
「うちは、所詮、ハイエナ。相手はファミリーレストランのガリバー企業です。競争だから仕方がないし、そりゃ、怒ると思うんです。いきなり小僧が、主戦場のロードサイドに現れて、ワーワー騒いでマーケットを食いあらしていくんですから。でも、最初は、逆に、飲み込んでやろうと威勢のいいことを言っていたんですがね」。
<相手にならなかった?>
「参りました。たたかうレベルじゃなかった」。
話をきいて、<そこまで、する?>と言ってしまった。
「そういいたくなりますよね。でも、これがリアルです。近隣のファミリーレストランを、うちとおなじステーキレストランにしていくんです。サラダバーも、カレーもいっしょ。1店舗できれば、そのぶん競合しますから、売上が数百万円単位で下がります」。
道路沿い、左右、数キロ先にある同系列のファミリーレストランが、「つぎつぎとステーキレストランに衣替えされていった」という。
「スパイまで送り込まれた」と苦笑いする。
「ビジネスって、そこまでしないといけないんだと、私の甘さを思い知らされた格好ですね。しかし、スパイまでとは(笑)」。
<巻き返すことはできなかったんですか?>
「じつは、その時、M&Aにからむ案件で6億円を取られてしまったんです。詐欺とまではいいませんが、ギリギリのひどい手口です。巻き返そうにも軍資金がない」。
「あれで、終了した」と井戸さん。
2012年をピークに業績は右肩下がり。防戦一方のハイエナに、巨大な虎は容赦なく襲いつづけた。井戸さんがジー・コミュニケーションに事業を売却したのは2019年。
自己破産も経験する。
最盛期には、肉の輸入で相場を動かすほどだったが、もう、何かを動かすお金も残っていなかった。
「昔、『100億円で買う』って言われたことがあったんですが、その時は、100億積まれても『なんだよそれ』って息巻いていたんです。ビジネスの怖さがわかった今だったら、3秒で売却しちゃいますね(笑)。若手の経営者には『いいときばかりじゃないんだぜ』って、体験者として心からいいたいです」。
お金は失ったが、信用は失わなかった。これが井戸さんのすごいところ。じつは、訴訟合戦も少なくないフランチャイズビジネスを行っていながら、加盟店から訴訟は1回も受けたことがないそうだ。
「笑い話なんですが、うちが逆に訴えたい会社はあったんです。『ステーキけん』の加盟店だったんですが、『けん』ではなく、自社で経営するほかの業態で赤字をだして、『けん』の仕入業者への支払いが遅れて。それで、契約を解除したんですが、ある時、業者さんが写真をもってきて、『あの店まだつづけてます』っていうんですね。『そんなはずはない』と言って写真をみると、たしかに『ステーキけん』って看板がでているんです。『おいおい』『…』『うん?』。でもよくみると、『けん』の下に小さく『しろう』ってあって『けんしろう』になっとるやん!」。
爆笑してしまったそうだ。
「こんな事で裁判沙汰にはしたくなかったんで、まぁ、いいかって。笑って済ますことにしたんですが」。
甘いといえば、甘いという人がいるかもしれないが、これが井戸実という人。なんとかつづけたいという相手の想いまで笑うことができない人なのだ。

・・・続き

株式会社TWENTY NINE 会長 井戸 実氏

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キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)   

2025年5月8日木曜日

いつの間にか求人部門含め8部門(商材は複数)動かしてます。

キイストンはコロナ禍のあと求人部門だけでなく、全部で8部門(商材は複数)を動かしています。

コロナ禍の時は超ピンチがでしたが、逆転の発想でチャンスに転じ、今に繋がりました。

今考えたら、コロナがなかったら逆に厳しかったかもしれません。

もちろんマイナス面も多かったです。しかし今までやってきたことがプラスに働き、プラス面が多かった気がします。

そのプラス面の1つに「食べログ」があります。

コロナ禍後に、「食べログ」は現在正規代理店38代理店のうち、トップ10に入りできるほどになりました。

また「飲食の戦士たち」は2008年からスタートし、昨年5月30日で1つの大きな目標の1,000連載突破しました。そこで潮目が変わった気がします。

そしてこの5月には早くも1,100連載達成します!

時間はかかってますが、全てコツコツ積み上げてきた結果なので、そこは自信持ってます。

今期は特に求人部門を伸ばしたいと考えてますが、もちろん決めた全部門目標達成に向け頑張ります。

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2025年5月3日土曜日

今期、新たな部門にトライ!

 今期のキイストンはまたまた新たな部門にトライ!

電気代が高騰してるので、その“電気代削減“にも力入れたいと思います。

やるなら圧倒的な削減額目指し、実績作りのため先ずは店舗数の多い飲食企業様に限定して案内していこうと考えるます。

そしてより多くの飲食企業様のサポート出来れば…。

「キイストンに任せたら安心」を浸透させたいです。

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2025年5月2日金曜日

「書籍は武器になる」2025年は企業様の書籍を5冊は出版します!

自分の著書があるので書籍の強さ・メリットがわかってますから言えますが、「書籍は武器になる」です。

それを実感してもらうように、2025年はキイストン出版から5冊企業様の書籍出版させる予定です。

既に3月末に1冊目を出版、6月末に2冊目の出版を予定で、いずれも飲食経営者の書籍です。

あと3冊の書籍出版に向け営業提案を開始しよう。

といっても、無理にではなくお客様の武器作りのお手伝いって感じかな。

今ならブレーンの方もしっかりいるので年内7〜8冊は可能かな。

是非ともキイストンにご相談ください。

https://www.keys.ne.jp/keystone-publishing/

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2025年5月1日木曜日

『 Rocket Now(ロケットナウ)』凄いわ!!。


“Rocket Now(ロケットナウ)”運営の『coupang(クーパン)』様凄いわ~!!。
年商45兆ウォン(4兆5千億円)
フードデリバリー“Rocket Now(ロケットナウ)”
配送料0円、サービス料0円!

【詳しくはこちらから】

営業マン2,000人採用も凄い!!

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2025年4月28日月曜日

株式会社バルニバービ オーガスト 代表取締役社長 田中亮平氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社バルニバービ オーガスト 代表取締役社長 田中亮平氏登場。

本文より~

世界大会2位の大仕事。

警察官だったというだけで異色のキャラだが、大学生時代に柔道で世界学生2位になったというから驚きだ。見た目はシャープで、スタイリッシュ。柔道で世界の強者たちとたたかった姿は思い浮かばない。
柔道と田中亮平。その両者のつながりを探るところから、今回のインタビューはスタートした。
「物心ついた時から柔道着を着ていましたから、柔道をはじめたきっかけを聞かれても困っちゃうんですよね」。
今回、ご登場いただいたのは飲食業界をリードする「バルニバービ」のグループ会社「バルニバービ オーガスト」の代表取締役社長、田中亮平さん。
話はつづく。
「オリンピックを意識したのは、中学3年生の時です」。
個人戦で全国優勝したそうだ。
「まさか優勝するとは思ってなかったから、びっくりした」と田中さん。じつは、全国大会に出場できただけで満足していたそうだ。
それが、結果、全国でいちばん。決め技については聞きそびれたが、この優勝が田中さんの人生の決め手となったのはたしか。
「優勝したことで推薦をいただき、産大高校という、兄も通った関西では名門の高校に進みました」。大学ももちろん、柔道で進学。軽量級が強かったという「京都産業大学」に進学し、全国2位が2回、3位が1回という好成績を挙げている。
「大学になると強制されることもなくなって練習も手を抜くからだんだん弱くなって。いままで負けたことがない相手に負けちゃいました」。
いままでは柔道が日常すぎて、特別な思い込みはなかったのかもしれない。
熱心に柔道を語ることはない。
「だけど、やっぱり、負けたら負けたで悔しくて。なんで負けたのか。はじめて自分の柔道について考えるようになったんです。 力・技・スピード。自分の長所・短所を分析して、改めて相手に向かっていくことで、勝ち負けとはまた異なる世界を楽しめるようになったんです」。
田中さんはトップレベルの選手になると、力の差はそうないという。これも、大学になって気づいたこと。
バンカラとは言わないが、恋とか、ファッションとかとはちがったもう一つの世界。大学を卒業した田中さんは、まっすぐに警察に就職する。
「私たちの世代は氷河期だったもんですから、民間で柔道をするのはむずかしかったです。それで、警察に就職したんですが。私の場合は大阪府警の看板を背負って試合をするのが、本業というか」。
もちろん、その本業で、大仕事をやってのけた。

新たな試合。

田中さんは1976年、大阪府門真市に生まれている。お父様は大阪市内で問屋を経営されていた(現在は、お兄様が継がれ、30億円の売上を上げておられるそうだ)。
「警察に3年間務めたあと、その実家の仕事に参加します。ただ、父と兄が2人で経営していて、私は社員のなかでもいちばん下っ端です」。
<世界学生2位も、父や兄には頭があがらない?>
「そうですね。実家にいたのは2年くらいで、色々あって、追い出されてしまうんです。バルニバービに転職するきっかけと言えば、きっかけですね(笑)」。
27歳の時だったそう。
「それまで、アルバイトもしたことがないでしょ。警察に就職しましたが柔道が本業でしたし、そのあとは実家。そういうこともあって」。
じつは、田中さん。実家の仕事を辞めたあと、3ヵ月間、ニート生活を送っている。
その時を振り返り、「自由ってむちゃくちゃしんどいのがわかった」と笑う。
柔道で鍛えた筋肉が「何かをしろ」と、田中さんの背中を押したのかもしれない。
ともかく、27歳。はじめて、きらびやかな世界へ、踏み入る。田中さんの、新たな試合が始まった。

アルバイトから正社員、へ。配属先は旗艦店「GARB」。

<初めての仕事はいかがでしたか?>
そうたずねると「イジメられた」と笑う。
「もう27歳、正社員になったのは28歳でしたから、年下の子から煙たがられたのか、イジメられて。私自身が勝手にそう思い込んでいたのかもしれませんが」。
飲食は未経験だったが、社会人経験は長い。警察という大組織も経験している。
「初めて、代表の佐藤(バルニバービの現会長、創業者の佐藤裕久さんのこと)のセミナーを受講したあとに、感想みたいなのを書くんです。はっきりと覚えてはないんですが、飲食というのは組織が弱いと生意気なことを書いたような(笑)。ただ、それをみた佐藤が『あいつを正社員にしろ』と。そういう意味では、評価されたのかもしれませんね」。
かくして、正社員へ。配属先は、当時の旗艦店、南船場の「CAFE GARB」。
「GARB」は1995年に創業。田中さんと同世代のトレンドに敏感な人は、だれもが知っていたんじゃないだろうか。カフェという文化をつくったのは、まちがいなく「GARB」である。
「最初はドル箱だったんです。ただ、私が配属されたのは、カフェってだれでもできるから競合もつぎつぎできて業績が落ち込んでいた頃です。たしか、7年目くらいだったかな」。
4階建、4フロア。3階、4階に客の姿はなく、2階は稼働するのも、週末のランチだけ。「GARB」の名だけが、残る。へたをすれば伝説になっていたかもしれない。
「業績が悪いから、当然、給料も安いです。労働時間はぎゃくに長い(笑)。とにかく、当時は終電が終わっても帰してもらえないから、車通勤です。でも、パーキングを利用してたら給料がそれで飛んじゃう。もと警察官ですから、だからどうしたかは、内緒ということで(笑)」。
給料の額を聞いて、驚いた。たしかに、顔をしかめたくなる。
<辞めようとは思わなかった?>
思わず、そう聞いてしまった。
「たしかに、そういう選択肢があったと思いますが、私の場合は辞めるというよりどうすれば給料が上がるのか、そっちを考えました。売上と利益、シンプルですが、まずそこだな、と」。
現実と向き合い、そこから逃げない。世界と戦ってきた人の発想は、やはりちがう。もっとも、飲食の経験は少ない。言うは易く、行うは難しである。しかし、田中さんは、その難しいことをやってのけてしまう。

GARB、ふたたび。

「たまたま、高校時代のともだちが通信系の営業をしていて。まだ、ガラケーの時代だったんですが、彼と、戦略を色々立てて、今でいうWEBでマーケティングを仕掛けます」。
「GARB」という資産を活かした戦略的なアプローチを取る。「GARB」の魅力が改めて拡散されていく。それが功を奏したんだろう。最盛期にはウエディングのパーティーで、4フロアが各4回転することになったという。
「1000万円いくかいかないかだった利益が、8000万円くらいになった」と田中さん。とんでもないV字回復。いや、もはや、以前の「GARB」を追い抜いていたにちがいない。
田中さんの給料も、もちろん、うなぎのぼり。スタッフの給料は、田中さんの権限だったから、そちらも、改善した。
ちなみに、「GARB」はバルニバービが子会社化を進めるきっかけとなる。
この「GARB」で田中さんは9年連続、前年比の売上・利益をクリアしたと言っている。10年目はさすがに、売上はクリアできなかったが、利益ではクリアした。
なにが、それだけ、田中さんの背中を押すんだろうか?
・・・
続き

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