2016年8月23日火曜日

株式会社ESSENCE 代表取締役社長 酒井 クロード宏之氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ESSENCE 代表取締役社長 酒井 クロード宏之氏登場。
本文より~

パリっ子、江戸っ子たちと交わる。

酒井一之という料理人がいる。厚生労働大臣賞をはじめ、東京都知事賞、東京都最優秀技能賞(江戸の名工)を受賞するなど、日本国内のフランス料理界の頂点に立つ料理人の1人である。著名な料理人で結成した「グラン・デ・トラトン」の事務局長を務めたほか、クスクスやジビエ料理、シャルキュトリーなどを広めた料理人としても有名だ。一之氏が家族とともに長く滞在したフランスには、多くの門下生が訪れている。「ミシュラン」において最年少で1つ星を獲得した松島啓介氏も、その1人とのことだ。
この偉大なる料理人を父に持つのが、今回、ご登場いただいた株式会社ESSENCEの代表取締役社長 酒井 クロード宏之氏である。酒井氏が生まれたのは、1973年。出身地は、日本ではなくフランス、パリ。父親の一之氏の年表と照らし合わせると、一之氏が「フランス・ホテルムーリス」で勤務されていた時と重なる。
「私が、日本にもどったというか、来たのは、小学校1年の2学期です。日本語がまったくできなかったわけではありませんが、フランス語のように流暢にはしゃべれないし、漢字も読めない。教科書はもちろん授業はすべて日本語でしょ。ぜんぜんついていけませんでした(笑)」。当時、フランス語を流暢にしゃべれる人は、日本に何人くらいいただろう。少年、酒井は、そのうちの1人だった。代わりに、日本語がそううまくない。その事実からも、当時、酒井少年に向けられた周りの子どもたちの目は、ほぼ想像できる。
「パリにいた時は、ニホンジン。こっちに来たら、フランスジンって、バカにされるんです(笑)」。しかし、それも当初だけの話で、いつしか日本語を母国語のように流暢にしゃべっていた。パリっ子は、案外早く、江戸っ子たちに馴染んだのかもしれない。

一冊の本。

スポーツはサッカーも、スキーもしたが、なかでも空手が上手だった。高校にもなれば、フランス語は忘れ、日本語以外できなくなった。高校の頃からアルバイトにも、精を出した。大学に進学するつもりはぜんぜんない。
「私には、弟がいるんですが、彼は私よりも小さい時に、帰国したものですから、違和感はなかったでしょうね。日本語もすぐにできたし、私は授業にもついていけませんでしたが、彼は、成績も抜群だった。私たち2人は、母の影響もあって、2人とも映画好きになるんですが、弟は大人になってから、アメリカで会社を立ち上げ、3Dのアニメーションの制作などを行うまでになりました。世界的にヒットした作品にも、彼は参加しています」。
弟と比較されると、兄の立場がないように思えた。「そうですね。昔は、父親とも、弟とも口もききませんでした。でも、私の道を開いてくれたのは、この2人なんです」。
高校を卒業し、本人いわく、「ぷらぷらしていた」時のこと、ベッドで寝ていると、弟が、一冊の本を投げてよこした。「何もすることがないんなら、本でも読んだらどうだ」。
弟のジョルジュ眞之氏が、どういうつもりだったか、わからない。しかし、投げられた本は、酒井氏に明確な一本の道を示した。「熊手篤男さんのバーボン専門の本【オンリー、ロンリー、バーボン】です。彼は留学中にバーボンと出会って、帰国してゼロからバーを開きます。当時、トムクルーズのカクテルという映画も好きだったことも影響したんだと思います。本を読み進めていくなかで、『これだ!』『これだ!』と思って」。
その日のうちに、熊手篤男氏が経営する一つのバーの門を叩いた。場所は、渋谷。「たまたまですが、うちの父がやっていた店の隣のビルだったんです。熊手さんはいらっしゃいませんでしたが、店長が対応してくださって。そうですね、当時は、相当、流行っていました。30席で、ウエイティングがでるくらいでした」。すぐに採用された。しかし、殴る、蹴るが横行していた。
「鉄拳制裁もあるような店だったんですが、あの時、はじめて巧くなる喜びを、人生において初めて体験できすることができました。私にとって大きな、大きな体験です」。
もっと、巧くなりたい。向上心に火が付いた。そして、違ったバーも経験するために、いったん退職する。
「いま思えば、話は出来上がっていたんだと思います。その時、父から『どうせバーテンダーをするんだったら、バーテンダーをしながら世界一周したらどうか』って言われて。その話に食いついてしまったんです。世界一周するアスカって船のバーテンダーです」。
ところが、履歴書を持っていくとあっけなく断られた。「高卒じゃだめだということでした。父にそう、言われたと言ったら、じゃあ、専門学校に入ったらどうだ、と。ハナから専門学校に行かすためのしかけだったんです(笑)」。
専門学校では、父に習ってフランス料理を専攻する。しかし、授業中も、ずっとカクテルの勉強をしていた。「昼は専門学校でしょ。夜はバーで勤務していました。ほとんど寝ていません」。それだけのひたむきだったし、それだけエネルギーがあった証明だ。1冊の本との出会い、ともかく酒井氏は、走り始めた。

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株式会社ESSENCE 代表取締役社長 酒井 クロード宏之氏
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2016年8月18日木曜日

アトム株式会社 代表取締役 花田利喜氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”アトム株式会社 代表取締役 花田利喜氏登場。
本文より~

たくましい、少年の選択軸。

福津市は、北九州市と福岡市のほぼ中間に位置する。政令指定都市にはさまれた格好である。北部は海に面している。「山と海があって、静かなところだった」と今回ご登場いただいた花田氏。花田氏は1957年に、この福津市に生まれている。
「福津市っていうのは静かなところで、産業といっても農業くらいしかなかった。うちも専業農家で、私は百姓の長男です。母方の祖父は、馬喰だった。馬喰っていうのは、牛の仲介人のことです」。
トマト、イチゴ、お米と、父の畑やたんぼでは、なんでも採れた。山も、食材の宝庫である。「春になると、『金になる』っていってね。山に、わらびやつくしを採りに行くんです」。仲間連中を引き連れて、山に行く。わらびやつくしを採り、それを父親にJAに持ち込んで、換金してもらっていたそうだ。なんとも、たくましい話である。
中学生から土建屋で、アルバイトもしている。
中学ですでに身長は177センチ。ちなみにピーク時には、体重も92キロあったそうだ。
「大学に進学するつもりもぜんぜんなかった。進学する奴は多くいましたが、それより、お金が欲しいから就職を選択します」。早く給料もらって遊びたい、それが本音だった。
次のエピソードもおもしろい。「最初に就職したのは、業務用の厨房機器の総合メーカーです。船舶で使う厨房機器の分電盤をつくるエンジニアでした。でも、半年で、転職します。いっしょに社会に出た同級生1人1人に、いくら給料もらっているのかを確認して、いちばん高い会社に転職したんです」。職種は、営業だった。「ま、職種は、なんでも良かった。大事なのは、どれだけ給料がいいかだったんです」。
豪快な選択である。

セリに立ち、未来を広げた、20代の話。

「転職したのは、ローカルではいちばん大きな食肉卸の会社でした。月13万円。独立までの9年間、この会社にいました」。
仕事は、ルートセールス。車に食材を積んで、肉屋やスーパーに運び、営業した。
「まだまだ小僧だったんですが、入社してスグに現場を仕切るようになりました。とにかく、先輩にも『あれせぇ、これせぇ』って生意気な奴です。でも、私が段取りしたほうが早く終わるから、みんな言うことを聞きます。16:45になったらタイムカードの前にならばせて、17時にはオフィスは無人です(笑)」。
「遊びに行かなあかん」。だから、花田氏も必死だった。もっとも、花田氏が仕切るようになって、業績もアップした。朝は早くから働いた。学校給食も担当していたから、朝7時前には荷物を積んでオフィスを出発する毎日だった。
「とにかく早く終わって遊べるようになったから、それは、それで良かったんですが、大手だから、拠点も少なくない。だから、転勤する先輩も少なくなかった。そういうのが、だんだん見えてくるんです。このままいけば私もいつ転勤させられるかわからなかったから、セリに立ったんです。本社近くに市場があり、セリに立てる人間は、転勤はまずさせられないことがわかったからです」。
もちろん、すぐにセリに立てるわけではない。昼休みを利用して、毎日、セリを見学した。「観ているだけでしたが、毎日、少しずつですが、理解できてくるんです。半年くらいしたら、セリに立って肉を買うまでになっていました」。
セリに立つ。あの喧騒とスピードにひるまない、度胸も、判断力もいる。むろん、判断するには、いい目をしていなければいけない。花田氏にはもともと、天賦の才があったのだろう。セリに立っただけで、肉質までわかった、という。だから、顧客の要望通りの肉を仕入れることができた。
「それまでは、セリに立つ人間が、自分がいいと思う肉だけをセリ落としていたんです。でも、私は逆で、顧客が欲しいと望む肉をセリ落としました。それが評判になって、指名されるケースが増えて最終的には部署のお客様のほとんどが、私の顧客なってしまいました」。
当時の社長も元気な新人の、花田氏をかわいがってくれたそうだ。21歳の時には、「視察だ」と言って、渡米した。費用はでなかったが、休みはもらえた。
「そうですね。当時は4階建の工場だったんですが、やがて、工場全部、私の傘下におさめました(笑)」。24歳の時には本社の課長職に、その若さで抜擢されている。異例の人事だったはずだ。
「社長にすれば若返りという狙いもあったはずです」。ともかく花田氏は、みるみる頭角を現し、地位を固める。社長とも直に話ができる立場になった。そして、入社して9年が過ぎた。
「独立のきっかけは、社長の代替わりです。でも、顧客もぜんぶ、私の客でしょ。なかなか認めてもらえません。それで営業所をだす感覚でどうですか? と言って、それでようやくOKがでました」。
花田氏が立ち上げたのは、食品機械の販売会社。「肉をさわれば、すぐに儲かる」とわかっていたが、1年間は、手をださなかった。育ててもらった恩義もあったし、花田氏自身のこだわりでもあった。

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2016年8月12日金曜日

オリンピック日本代表の快進撃の裏には猛練習あるのみ!

リオ五輪の日本代表の活躍をテレビで観てるが、感動もらってる!!
やはり、メダル獲得の裏には猛練習に次ぐ猛練習である。
世界は違えど、これはビジネスでも同じこと。
一流の営業マンになるためには人一倍お客様と会い、人一倍新規もアプローチし、誰よりも多くの経験をを積まないとなれない。
営業は天性のセンスよりも日々の努力が全てなんで!
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ブレーンの皆さんも増えました。

“飲食の戦士たち”によって飲食関係者はもちろん、
それに付随する各業務関連の皆様、
また&求人に関係する様々な分野の皆様が
ブレーンとなり力になってもらっています。

求人メディア関係も求人の同業他社、とりわけ飲食業界に特化した広告代理業務ではどこよりもブレーンが多いと思います。。

また、飲食業界を相手にされている各部門の商材扱っておられるところにも関係強化しているのでこちらもブレーンの方多いです。

おかげで営業マンも他社とは違った差別化がある程度ですが出来上がってるので自身もって営業してくれています。
最近は同行も一緒に顔合わせで行くことも増えましたが、お客様といい関係作れています。
営業会社としてはうれしいことです。

やはり、お客様に評価いただき、関係者皆がWin・Winになればキイストン&ミストラルの存在価値あります。
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2016年8月9日火曜日

AFURI株式会社 代表取締役 中村比呂人氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”AFURI株式会社 代表取締役 中村比呂人氏登場。
本文より~

高校進学までの中村比呂人。

ホームページを観て、いいなぁ、と感嘆する。観ているだけで、気持ちが満たされるホームページに出会うのは、めずらしい。純白な背景に鮮明なラーメンの写真がならぶ。文字の大きさにも、コピーの内容にもイヤミがない。ラーメン同様、こちらのデザインも淡麗系である。
今回、ご登場いただいたのは「AFURI株式会社」の中村比呂人氏。二人兄弟の長男で、次男はTVにも何度も登場している「麺処 中村屋」店主の中村栄利氏である。
「祖父は、鮮魚や青果も扱う商店を営み、父の代でセブンイレブンを経営し、その後、不動産事業も始めました。母は、バスガイド出身で、歴史好き。骨董や、書が好きで、父が事業家とすれば母は文化人でしょうか」。
少年時代の中村氏は、子どものくせに分析好きな、「小憎たらしい子どもだった」らしい。
もっとも、素直な一面もあったようで、小学6年生から通いだした学習塾には、休まずに通っている。
教えることが上手な講師たちから、学ぶことの楽しさを学んだ。様々な学校から集まる優秀な生徒達との競争も楽しかったそうだ。
いったん好きになれば、素直に耳を傾ける。そういう意味では、小さな頃から独自の判断軸をもっていたとも言えるだろう。高校は、「海老名高校」に進んだ。

「司法書士に見切りをつけ、雪山にこもる」。

「大学は法学部に進みました。ただし、勉強よりサーフィンやスノーボードに明け暮れました。大学生の時にしか中々出来ないことを出来るだけやろうと。約2ヶ月ある夏休みと春休みには、カリフォルニアやバリへサーフトリップをしたり、雪山のペンションでアルバイトをしたり。とにかく色々な経験をしたかったのです」。
しかし、しゃぶり尽くすように徹底的に遊んだのも、大学3年の夏まで。秋からはスイッチを入れ替え、司法書士を志し、しゃにむに勉強を開始する。1日平均10時間のハードワーク。これを2年間つづけた。
「でも、本試験の前になって、気が付いてしまったのです。司法書士は、自分が本当にやりたい仕事ではないと。それで、全てキッパリとやめました」。2年間の努力をあっさり捨てられる。それだけ、真剣に仕事について考えたとも言えるし、急に違う何かが、舞い降りてきたとも言える。
その後、「やりたい仕事とは何か」を考える為に、今度は、雪山にこもった。
北海道の有名なリゾートホテルで勤務しながら、中村氏にとっては、文字通り、「こもる」だった。
「屋内プールの監視員をしました。中は暖かいのですが、外は、雪。ガラス張りの天井から見える雪を眺めながら、自問自答し続ける日々でした」。
「いろいろ考えた結果、すとんと腹に落ちたキーワードは、“ものづくり”でした。しかも自分は、飽きっぽいので、“ものづくり”の中でも、毎回違うモノをつくらないといけない仕事をと考え、映像の世界に飛び込みました」。

AD時代から、人気のレストランでのバイトまで。

映像の仕事は、人気職種である。にもかかわらず、中村氏は、民放キー局で勤務を開始する。中村氏自身も、「ラッキーだった」。と回顧するのも頷ける話だ。
ともかく「男子一生の仕事」と決意を固めて飛び込んだ。しかし、1ヶ月ほどで違和感を感じ始める。
「1ヶ月くらいで、これはオレのしたかった“ものづくり”はこういうものではない、と思うようになるんです。もう少し規模の小さなもので良いから、一つのものを細部の細部まで作り込んでゆける仕事がしたかった。でも、『男子一生の仕事だ』と決意してスタートしたものですから、流石にまだ早いと。最低でも1年は続けてみようと心に決めて頑張りました。で、1年間目一杯やったのですが、当初に感じた想いは変わることなく、1年半で辞めるのですけど」。
ADの仕事は、文字通り過酷な日々だった。1年のなかで、4時間以上眠れた日は、数える程しかない。「何日も徹夜の編集作業が続き、一度、ちゃんと家に帰ってシャワーを浴び、暖かい布団で4時間眠れる日があった。あの布団に入った時の幸福感は今でも忘れられない」。と真顔で語っている。「でも、いまになって思えば、いい経験です。あの時を思い出せば、大体のことは乗り越えられます。そして、ここでは「仕事とは何ぞや」という社会人としての根本の根本を学ばせてもらったと思います」。
ADを辞めたのは、24歳の時。
24歳でTV局を退職し、その後、飲食に興味を抱き始める。
そして、レストランで勤務した理由は、飲食もまた、ものづくりであるということ。しかし自身の性格からいって、生涯キッチンに立って、料理をし続けることは難しい。であればどうするか。
「経営者になろうと思ったのは、その時です。ただし、経営者になるには、現場もわからないといけない。ちゃんと現場にモノを申せる経営者になるためには、現場を知らなければいけない、と思ったんです」。
クレバーな中村氏らしい一言である。
「どうせやるなら、好きな店で思って、当時、流行っていたレストランでキッチンのアルバイトをしました。当時人気の店で、面白い先輩や後輩もが沢山いました」。
この店で、多くの才能ある若者と出会った。この「飲食の戦士たち」でも、同店出身の経営者を何人か取材させていただいている。
「そうですね。才能ある人が多かったです。私といっしょに、『ZUND-BAR』の立ち上げに参加してくれた長谷川氏と出会ったのも、この時です」。
「彼がいたから、うちのいまがある」と中村は長谷川をそう評する。

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株式会社アッカ・エンタープライズ 代表取締役 水落大稔氏登場。

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本文より~

東京、福岡、熊本、佐賀、福岡、広島、そして、東京。少年の旅。

東京の築地生まれだが、記憶はない。父の転勤にともなって、生まれてすぐ福岡に引越したからだ。「私の父は、生命保険会社に勤めている典型的な転勤族でした。幼稚園の時に、熊本に引越し、佐賀でも暮らします。小1から小3までが福岡で、小4から中2まで広島です。ようやく生まれ故郷の東京に戻って来たのは、中学3年生になってからです」。
絵が上手く、コンクールで入賞することも少なくなかった。スポーツは水泳。いろんなところで暮らしたが、水泳はずっとつづけていた。印象に残っているのは、広島。なんでも、生徒たちがバイクに乗り校内を走り回っていたらしい。
「あれに比べると、東京は、まともだなと。不良でも、いちおう勉強していましたから(笑)」。

方言のおかげで、バカにされたこともあった。何より、生意気な奴が来たぞ、と軽いいじめにもあったそうだ。どうやら生まれ故郷は、手放しで歓迎してくれなかったようだ。
「それにもう一つ驚いたのは、進学が当たり前だったこと。向こうでは、就職もふつうの選択肢だったもんですから、『え、みんな進学するんだ』みたいな。そういう意味でいえば、私は、広島的な人間だったんでしょうね。何しろ、小4から中2まで、暮らしていましたから。ハナから進学するつもりもありませんでした」。

美容師になろう。

「進学せずにどうするかというと、『美容師になろう』と漠然と考えていました。ところが、教師から『とにかく高校には進学しろ』と言われて、ラグビーも少しやってみたかったので、ラグビー部のある高校に進学しました。とはいえ、結局、ラグビーはしなかった。ほかに楽しいことが一杯あったからです」。
3年後、高校を卒業する時も「美容師になろう」と思って、教師に相談する。「ところが、『だめだ』って、言われて。『それじゃぁ、料理人は?』というと、『それならいい』と、教師が背中を押してくれました。それで専門学校に進むんです」。
美容師には進んでなろうと思っていたが、料理人は、どちらかといえば消去法での選択である。「子どもの頃、料理人の山高帽を観て、かっこいいなと憧れたことがあるには、あるんです。そういう経験があったから、料理人が、次の選択になったのかもしれません」。
しかし、この単純な選択は、けっして楽な道にはつづいてはいなかった。

料理人に世界に飛び込んで最初に、出会ったのは「徒弟」という制度。

高校生を卒業した水落氏は、料理の道に進むため「調理師学校」に進学。学校ではフランス料理を勉強していたそうだ。専門学校を卒業した水落氏は、「シェラトンホテル」で勤務する。
「当時は、ホテルと言っても料理人の世界は、とにかく殴る、蹴るという完璧な徒弟制度でした(笑)」。ヒエラルキーでいえば、新人がいちばん下。水落氏も、何回も「辞めよう」と思ったそうだ。「それでも結局、1年半つづけ、上司の転職に相乗りするかたちで、私も『ホリデーイン豊橋』に転職します。私だけではなく、上司の下ではたらいていた料理人みんなでの大移動です」。
師がいうことには、逆らえない。この「ホリデイインホテル」で3年半勤め、今度は、水落氏が後輩を引き連れて、「出光御津マリーナ」に転職する。オープンニングで、用意されたのは、料理長のポストだった。
「でも、ちょっと話が違ったんですね。マネージャーも兼務するはめになって、心身ともに疲弊してしまうんです。それで、連れてきた連中を、また引き連れて退職します。彼らの就職を斡旋し、私は1人、東京の実家に戻り、引きこもりました」。
料理人という仕事をはじめ、合計6年半。ということは、24、25歳の頃の話である。料理人の世界には、馴染めたが、その一方で、会社組織に対し、納得できない部分が少なからずあったのだろう。このような不満が、やがてイタリアへ、水落氏を向かわせる。
「そうですね。そのあとシェラトン時代の上司の下で勤務したりもするんですが、そこでも、納得ができなかった。それで、イタリアにつてができたこともあって単身、イタリアに渡りました。もちろん、イタリア語なんて何一つわかりません」。

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うちの営業マンは皆企画書書けるようになってきてる!

求人広告の営業マンとして必須でもある企画書の作成を皆が出来るようになりました。
この数年前はリーダーが不在で、キャリアある営業マンが書けなかっただけに、今の営業メンバーたちはたいしたもんです!
一つ一つ、いい形に育ってきてくれてます。
今後のキイストンを担う次世代が活躍できる土壌作りとキイストンイズム持った人作りが私の使命です。
ちなみにキイストンイズムとは、常に挑戦、他社にないオリジナル企画を生み出す、手を抜かないです。
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