2020年7月9日木曜日

株式会社和僑ホールディングス 代表取締役社長 坂田敦宏氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社和僑ホールディングス 代表取締役社長 坂田敦宏氏登場
本文より~

看護師とリハビリの先生の言葉に、号泣す。

死ぬかと思った。43歳の時のこと。
「マンションで倒れました。脳幹出血です」。
幸い、命は取りとりとめたが半身不随は免れない。「2年間くらいはリハビリに専念しました。仕事はすべてキャンセルというか、かかわっていた事業をいったん、ぜんぶリリースしました/笑」。
借金も、残ったそうだ。半分、詐欺にかけられた結果。とはいえ、ひるんでいる暇はない。「治る」「治す」。目標はそれ。「倒れてから2週間はひたすら落ち込んでいました。そりゃそうですよね。言語障害と半身不随ですから。医者だって、治るとはいわない。でも、そんな私をみて、看護師さんとリハビリの先生が、ね。『かならず治るから』と励ましてくれたんです」。
嬉しくて、号泣した。それからだ。何もかも忘れ、治療だけに専念した。「かならず治るから」。その言葉を嘘にしないために。
看護師をはじめ、理学療法士など、様々な人が、けんめいに治療に専念する坂田氏を励まし、サポートした。「感謝しかないですよね」と、坂田氏は目を細める。表情は、いたって普通。言葉も明瞭。身体も観ているかぎり、不便なところはなさそうだ。
「ここまで回復するのは、珍しい事らしいです。数年前にNHKから取材も受け、珍しい症例としてテレビ出演しているんです」。奇跡かどうかは別にして、坂田氏を励ました看護師とリハビリの先生の言葉は、嘘にはならなかった。

恩返しのため、経営者に復活。

「たまたま、あの時は人生の休憩中だったんです。22歳に起業してから、40歳まで働き詰めです。働きづめの20年でしたから。それでいったん経営から手を引いて、事業家から投資家みたいな仕事をしようと。そんな矢先のことでした」。
リハビリ生活は2年間にわたった。「2年間、ひたすらリハビリに専念し、それから、もう一度、事業を開始します。リハビリをサポートしてくれた人たちに、恩返しする事業です」。
2014年「訪問看護ステーションリカバリー」を運営するRecovery International株式会社設立。
「今も(この取材は2020年6月に行っている)そうですが、看護師さんやリハビリの先生たちは、わたしたち一般人がわからないところで頑張っている。そんな人たちにもっとスポットをあてたい、と思ってスタートしました。そこで訪問看護ステーション事業です。私自身が利用者でしたので、在宅医療の必要性を知っていたからです」。
起業から3年間、取締役会長を務めている。
「訪問看護ステーションリカバリーに在籍しているのは、看護師や理学療法士など、すべてのスタッフが国家資格をもっています。150名くらい在籍していますから、これは、日本の訪問看護事業の中ではすでに大手の訪問看護ステーションですね」。
坂田氏自身は、現在、株主という立場だそう。設立から6年だが、はやくもIPOが視野に入ってきたらしい。それ以外にもリハビリが明けてからいままで様々な事業を生み育てている。
アパレルを起業したほか、出資し、経営をサポートしている会社も少なくない。「1時間ごとにミーティングの内容がかわる。医療だったり、アパレルだったり、そして、飲食だったりね」。
多彩な人はいるが、1時間ごと異なるテーマの話を聞き、判断できる人も、また珍しいのではないだろうか。

永ちゃんの本を買う。

坂田氏が生まれたのは、1968年。東京都の東村山市。父親は早稲田大学に勤務されていた。
「今になっちゃね、親父を尊敬するしかないんですが、昔は親父みたいになりたくないって。私は15歳、つまり、中学を卒業してから、働き始めます。それも、サラリーマン的な父親への反抗からと言ってもいいでしょうね」。
父親にすれば、「なんでだ」となるが、ナイーブな少年には、父親はもっとヒーローでなければいけなかったのかもしれない。愛情が、歪な形を結ぶ。
「中学3年の時に日雇いのバイトをして、それが1日3000円だった。普通に就職しても、給料は全然無い。だったらバイトの延長で、と、それで建築の仕事をスタートします」。
「でもね。あの頃は、仕事を長く続けられるような人間じゃなかった。とび職とか、そうですね。日払いのバイトで食い繋いでいました/笑」。
そんな日々を送るなか、現場に行くダンプの中で毎日のように親方が語りかける。「坂田さぁ、学歴がない奴が金持ちになろうと思ったら、独立するしかないんだぜ」。
「その話に刺激されたのか、今まで漫画本しか買ったことがなかった私が本屋に行きます」。手にしたのは「成り上がり」。ご存じ、矢沢永吉氏のベストセラーだ。チョイスが、当時の若者らしい。
「それで22歳で、独立ですか?」
「そうです。それから40歳まで、走り続けます」。
正確にいうと、22歳でハウスクリーニングの会社を設立。26歳までひたすら働き、オフィスを設立。バブル崩壊の、影響は軽微だった。
そして、冒頭で書いたように、40歳でビジネスの世界から一線をひき、43歳で病に倒れる。起死回生は、45歳の時。

創業者、高取宗茂氏からのオファー。

「和僑」との接点もうかがった。
「う~ん、どういうかな。一本のやきとりかな/笑。当時病気になる前、私の住まいは麻布十番で美味しいものを食べるのも好きで、割とアッパーな、芸能人も来るようなところで食べていました」。
退院後、実家の東村山で数か月療養、その後西新宿へ引っ越しリハビリをしながら過ごしていた。
「そんなある時ですね。知り合いに紹介され、新橋の『ヒノマル食堂』に連れていってもらい、やきとりを食べるんですね。新橋だから、もちろん安い。でも、味はぜんぜん負けていないんです。私の行きつけの、高いやきとりと比べて」。それに衝撃を受けたのが、はじまりだったそう。
無論、創業者の高取宗茂会長とも親交が生まれた。「高取さんっていうのは、料理の達人なんですが、実は彼の曽祖父さんは炭鉱王と言われた人で、曽祖父さんが建てた旧高取邸は、いまや国指定の重要文化財になっています。岩崎弥太郎と交流が深かったようです。さらにその後高取一族は九州で一番大きい料理学校を設立するんです。だから高取は幼いころから最高の味に触れて育っているので、絶対舌感を持っているんです」。
「旧高取邸」。調べてみたら簡単にヒットした。一般の入場料が520円。「すごいですね?」というと、「そう、すごいんです。そんな彼から手伝ってくれないかって相談を受けるんです。これが、実質的な『和僑』との接点のはじまり。ちょうど日本橋茅場町『不二楼』をオープンする前の年ですね」。
ひょんなことから、飲食の戦士になる人もいる。坂田氏も、ひょっとすれば、そんなひょんな人の、1人かもしれない。とはいえ、経営という観点からいえば、外食とて同じということになる。
「私が社長になるまでは、割と採算度返しで味にこだわるという店もあった。それを、そうですね。直営からフランチャイズにするなどして、経営のスリム化を進めます。いまは、直営は『不二楼』と『ヒノマル食堂』『新潟発祥ラーメンなおじ』の3つです」。
「これが、今回のコロナ騒動の中では幸いした」と坂田氏はいう。
・・・続き

2020年7月1日水曜日

株式会社フードアソシエイツ 代表取締役 幾田陽也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社フードアソシエイツ 代表取締役 幾田陽也氏登場
本文より~

ネバダ州の砂漠の真ん中で起業家を助ける。

「アメリカで中古車を購入し、3ヵ月かけ様々な州と国を横断した」と今回、ご登場いただいた幾田氏は笑う。「ネバダ州の砂漠で立ち往生している3人の日本人を助けて、それが縁で、贅沢な思いもさせていただきました」。
そのうちの1人が起業家だったようで、幾田氏は、その起業家に影響を受け、「志」をみつけている。
「私は1979年、神奈川県の二宮町で生まれます。父親の転勤で、2年近く仙台で過ごしましたが、それ以外は、こちらがホームです。小学3年生まで軟式野球、中学からはスラムダンクを観て、バスケットボール。高校時代からは、特別じゃないと思いますが、都内まででかけてクラブ通いです/笑」。
父親は、日本を代表する大手メーカーで勤務されていた。
ところが、幾田氏は、案外、冷たい目を向ける。「私自身は大手という響きには昔から関心がなかったです。 むしろ、父親の姿をみていましたからサラリーマンという仕事に抵抗を感じていたといったほうがいいと思います」。
幾田氏が、社会を意識するようになった10代後半から20代前半は、ネットバブルと言われた時代である。才覚のある若者は「起業」の二文字に惹きつけられる。幾田氏も例外ではなかったようだ。
「そうですね。私も、起業というものを漠然と考えていました。ネバダで知り合った社長に影響をうけたのは、そういう背景があったからだと思います」。
高校を卒業した幾田氏は、アメリカのコミュニティ・カレッジで2年間過ごしている。冒頭の話は、その時のこと。漠然とした起業への思いが明確な意思をもって屹立したのも、この時である。
帰国した幾田氏は、さっそくITベンチャーでインターンを開始する。

レインズインターナショナル、入社。

「ITのスタートアップ企業で、インターンをさせていただきました。きついことも少なくありませんでしたが、楽しかったし、いい経験にも財産にもなりました。何より、起業という言葉がまだ息づいているような会社でしたから、そういう意味でもインターンをしてよかったと思っています」。
インターンを終了したあと、幾田氏はレインズインターナショナルに入社する。「起業家排出機関」というキャッチフレーズに惹かれたからだそう。
「牛角」や「土間土間」など。当時の、レインズインターナショナルは、それらのブランドをメインに「食」という事業に新たな価値観をもたらした会社の一つだったように思う。「起業家排出機関」という位置づけも、その表れだ。
「レインズには、2年半在籍します。そりゃぁもう、たいへんでした/笑」。たいへんだが、そのぶんちからもつく。「レインズをやめて1年半、温野菜のFCを経験し、26歳で独立します」。
いつ頃から、飲食で独立と考えるようになっていたんだろうか? 「26歳というタイミングですが、これは不動産会社に店を紹介されたからなんです。お金はありませんが、体力も、気力もある時に独立できたのは幸いだった気がします」。
1号店は、2006年、上野の御徒町に出店している。当時は、家も借りず、オープン後一カ月は店で寝泊まりしていたそう。たしかに、若くなければできないような生活だ。
「10坪で、居酒屋店を始めます」。

下町、上野にて。

6ヵ月後には2号店を、今度は高田馬場に出店。ただし、こちらは、焼肉。「1号店が順調だったので出店し、油断をしていたわけじゃないんですが、私はこちらの店にばかり出勤していました。そうするうちに、1号店の売上が下がります。横領事件なども起こって。ええ、それで2号店は、売却し、上野に帰りました」。
高校時代から慣れ親しんだ東京である。とはいえ、上野は下町。プレイヤーとなった幾田氏は、上野でどんな店を作り出していくんだろう。
会社の沿革を覗いてみた。それによると、2006年9月に1号店の居酒屋をオープン。半年後の2007年3月、高田馬場にもつ鍋屋をオープン。この店は売却したが、同年9月には「やきとん縁 御徒町店」をオープンしている。2008年4月には「炙り酒場 縁 -yukari- 本郷三丁目店」をオープン。以降、2010年に「炙り酒場 縁 -yukari- 西浅草店」、2012年に「炙りDining 縁 -yukari- 三ノ輪店」、2014年に「唐屋 錦糸町店」と次々オープン。むろん、それ以降も1年ペースで、新店をオープンしている。

もう一つの冒険。

「ペリペリチキンって知っていますか?」 逆に質問されたのは、インタビューも後半に入った時。「これは南アフリカの料理なんですが、じつはオセアニアや東南アジアではすっかり定着している料理なんです」。なんでも、スパイスをかけ、直火焼きしたチキンに、特製のソースをかけた料理のことらしい。調べてみると、南アフリカ発祥のレストランは、すでに各国に店を展開するまでになっている。
「いち早く、取り入れて日本にも広めていきたいです」と幾田氏。目の付け所がいい。「今後は、業態を集中して、居酒屋業態とチキンの2業態で、店舗展開を図っていくつもりです」。
2019年現在、幾田氏、39歳。いよいよ本格的な展開を果たす時期だ。来年にはフランチャイズ本部となり展開してく計画がある。ホームページで幾田氏は、1000店舗という目標を掲げ、「壮大な冒険」と謳っている。
最後に幾田氏は「この仕事は社員の幸福度が上がらないと継続しないビジネスだと思っている。なので社員の様々なキャリアパスを真剣に考えている。」と語っていた。
壮大な冒険。
ネバダ州からはじまった、もう一つの冒険は、まだまだ楽しみに充ちている。ちなみに、ネバダ州にはラスベガスがある。知り合った日本人と、カジノに興じたのは、もうはるか昔。しかし、道はつながっている。
・・・続き


2020年6月25日木曜日

役員人事に関するお知らせ

キイストンは、2020年6月23日開催の定時株主総会及び取締役会において、下記のとおり決議いたしましたので、お知らせいたします。


役員選任
代表取締役 細見 昇市(重任)
取締役 武田 あかね(重任)
取締役 山本 美代子(重任)
執行役員 江川 広太(新任)
執行役員 国谷 淳平(新任)
監査役 渡邊 武(重任)

前から今期スタートに役員昇進決めてました。
まさかのコロナですが、このタイミングも新任役員にとっては成長のチャンスかもと思ってます。
キイストンはこれから組織力を強め、さらに業務拡大に努めます!

2020年6月23日火曜日

株式会社バンズダイニング 代表取締役社長 塙 良太郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社バンズダイニング 代表取締役社長 塙 良太郎氏登場
本文より~

東京進出と、不動産事業の本格始動。

前回(2011年)、ご登場いただいてから9年が経つ。すでに50歳を超えたが、益々、意気軒昂だ。2011年、当時と比べ、事業も格段に厚みを増している。
2013年、ホームグラウンドの千葉から離れ、東京に初進出。「湯島にある不動産を買いました。おなじ年の9月には日本橋に2つの大型不動産を購入し、以前からやりたいと思っていた不動産事業を本格的にスタートさせます」。
飲食では9月に「FRENCH BAR KOUZO」、10月に「BISTRO KOUZO」、11月に「炙りや幸蔵」を次々、オープン。翌2014年1月には、社名も現在の「株式会社バンズダイニング」に変更する。
「バンズは『絆』という意味です。お客様との絆、従業員との絆、地域やお取引先様との絆を大事するという、我々の事業理念を表現しています」。
グループの事業は、前述の不動産に加え、製造業も行い、飲食と合わせて、三本柱の構成となっている。
「ストックビジネスの不動産事業を行っているから、飲食事業のアクセルも思い切り踏み込める」と塙氏。いわば、これが、塙氏のビジネススタイルである。
「飲食にとって、家賃は大きなコスト。千葉で飲食をやっていた頃から、もったいないと思っていたんです。でも、ビルを所有していると、家賃の意味も違ってきます。無駄にならない。たとえば、融資を返済する原資になるわけです。だから、多少の無理もできる。フローとストックをぐるぐる回すことで、事業的にも、経営的にも安定成長が実現できる。それが、うちの戦略です」。
いまや30物件以上の不動産を、都内や仙台を中心に所有しているというから驚かされる。経営者であると同時に、すでに自他ともに認める資産家でもある。
飲食店でいえば、現在合計22店舗。うち9店舗が、自社物件で営業を行っている。むろん、オーナーの意向に左右されず。フリーハンドで経営できるのも大きなメリットだ。
それにしても、2013年から現在(2020年)まで、7年しか経っていない。大胆な戦略が功を奏した結果だが、そう簡単にできるものではない。実際、この7年の軌跡の向こうには、塙氏が「東京のおじさん」という師匠の存在がある。
「母方の親戚で、仲人でもあり、うちの会社の会長です。私の人生にとって、いちばん大きな存在ですね」。たしかに、この「東京のおじさん」がいなければ、「塙スタイル」のビジネスは、とっくにとん挫していたかもしれない。

宴が終わり、生活費は1日300円。

塙氏は、第一回の東京オリンピックが開催されてから3年が経った1967年、千葉に生まれている。小・中は勉強と部活、生徒会に明け暮れ、成績はいつも校内で1、2を争っていたそうだ。
大学は、慶応義塾大学。卒業後は、大好きな千葉に役立ちたいと、千葉県の県会議員の、議員秘書になっている。将来は、政治家という目標があったのかもしれない。
秘書時代は5年に及ぶ。ただし、この間、バブルが弾け、宴が終わる。多くの企業が行き先を失うなかで、今まで躍進をつづけていた父親の事業もまた破綻する。
「私は秘書をつづけながら、父の事業を継ぐんですが、その時、会社にあったのは総額8億円の借金と揉めごとだけでした/笑」。
8億円。いくら坊ちゃんだったといっても、20代の若者にイメージできる額ではない。社長になり、最初にしたのは、「金融機関詣」と塙氏。ひたすら頭を下げ、返済猶予をお願いしたという。
「でもね、頭をさげても、うまくはいくわけじゃない。当時の会社は年間4000万円の赤字を垂れ流していました。利払いだけで月360万円です。生活費も捻出できなくなり、1日換算300円です」。
缶コーヒー3本も飲めない。
「でもね。昔から人が大好きだったんですね。だから、救われた。経営していたお店に出るとイヤなこともぜんぶ忘れることができたからです」。
塙氏、25歳の時の話である。
秘書の仕事もおろそかにできない。もちろん、継承した事業もだ。
「心を込めた」と塙氏はいう。
「飲食店も、父の事業の一つです。学生時代からバイトをしていたもんですから、ある意味、バイトの延長です。だから、こんな事態にならければ、お客様がいかに大事な存在か気づかなかったかもしれませんね」。
「『おー、がんばっているな』。お客様からいただく、その一言がどれだけ私のパワーになったことか」とも語っている。
とはいえ、店をでれば、現実が襲いかかる。
不安と将来のビジョンを描けない長く厳しいトンネルの中で、もがき苦しんだ。
しかし塙氏は「泥水をすすり、ゴキブリにでもなってやる」と強い意志を持って、爪に火を燈しながら身を粉にして働き詰めに働いたそうだ。
その結果、4000万円の赤字を垂れ流していた会社が、翌年には3000万円の黒字を叩きだすまでに回復している。このパワーもまた凄い。
数年をかけて借金の返済も進み、2002年には銀行が融資をしてくれるまでになったそうだ。
資金もそうだが、何より諦めない心や経験、そしてお客様や人材、人脈という大事な財産ができたのが大きかったのではないか。「絆」の始まりは、この時かもしれない。ともかく、このようにして8億円の債務超過を抱えスタートした塙氏の苦難の第一幕は閉じる。以来、塙氏の店は、千葉でもっとも愛される店に育っていく。
そして、冒頭の2013年の話につづく。

「眠れない日々の話」のつづき。

窮地を脱し、快進撃を始めた塙氏だが、その裏では、眠れない日々がふたたび始まった。
「2013年ですね。冒頭でも言いましたが、不動産事業を本格化させる一方で、新たに飲食店も6店舗出店しました。この投資で、7億円の借金が追加されました」。
25歳の時の8億円に匹敵する額。「のるか、そるか」の一大勝負を挑んだのは、むろん、塙氏自身。
「あの時は人生でいちばん、きつかったですね。励ましてくれるのは、おじさん1人です。成功者の言葉ですから信じないわけではないんですが、返済しようにもお金がない。だから、また借りる。借金が、どんどん膨らみます。おじさんがいくら『大丈夫だ』って言ってくれても、このまま破綻してしまうんじゃないかって」。
夜も眠れない。
「実は、2番手だったスタッフが辞めてしまうんです。追い打ちですね」。何につけ、口うるさくなったからだと塙氏。今では、冷静に反省もできるが、当時は、そんな余裕もなかったはずだ。
どうなる、どうすればいい。
「5年くらいつづいたかな。ただ、慣れってあるんです/笑。案外、大丈夫じゃないかなって。そんな風になっていた時かな。テレビを観ていて…」。
IOCの総会でTOKYOと宣言される。2020年、東京オリンピックが決定した瞬間だ。経験者である「東京のおじさん」の言葉は正しかった。
「もう、狂喜乱舞ですね」。ついに、ストックビジネスの花が開く。「これで、助かった。もう大丈夫だ、と。奥さんを起こして、もう大丈夫だから、と/笑」。
いうまでもなく、不動産価格が上昇する。
・・・続き

2020年6月18日木曜日

6月16日(火)発行の日刊ゲンダイに千房ホールディングスの中井貫二社長の記事が掲載されました。

6月16日(火)発行の日刊ゲンダイ「社長の私生活」に千房ホールディングスの中井貫二社長の記事が掲載されました。
本来なら3月か4月の掲載予定でしたが、日刊ゲンダイ編集サイドが、コロナの影響を考慮し、全面解除されたタイミング見て今回の掲載になりました。

武井港区長からお礼状頂きました!

休校中の先生方にお弁当のデリバリーさせてもらった港区立の幼稚園・小学校・中学校(全40校)に、
製造元の阿賀テック株式会社様(代表取締役:森桂一、所在地:新潟県阿賀町)と連名で、
新潟県阿賀町の廃校を利用して製造されている微酸性次亜塩素酸水「agaキレナーレ」を合計400リットルを寄付させて頂きました。
創業以来ずっと港区で経営やってますので少しでも港区のお役に立てば・・・・。

うちの江川、役員としての初仕事です!
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000009.000007856.html
(左より弊社・江川、阿賀テック・蔭山様、赤坂中学校統括校長・高松様)