2020年4月1日水曜日

株式会社平田牧場 代表取締役社長 新田嘉七氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社平田牧場 代表取締役社長 新田嘉七氏登場
本文より~

養豚、平田牧場の始まり。

すべては、たった2頭の豚からはじまった。ホームページを観ると、そんな文字が浮かんでくる。
今回、ご登場いただいた新田嘉七氏は、平田牧場2代目社長である。創業者は父、新田嘉一氏。嘉一氏は米作りの農家の跡取りだったが、「暮らしが豊かになれば、食の嗜好はたんぱく質に移るはず」と周囲の反対を押し切り、養豚業をはじめ、養豚の世界を広げてきた人である。
平田牧場の創業は昭和39年、1964年のこと。
「ちょうど私が小学校に上がる頃ですね。法人化したのは、昭和42年です。もともと、うちは山形県庄内地方の旧平田町ではじまります。米農家としては、父で17代目です。そりゃ、養豚をはじめると言いだせば、反対もされますよ。それでも、父は『これからは養豚だ』と反対意見も聞き入れず突っ走るわけですが、最初は値崩れとか、いろいろな問題があったそうです」。
「農家ですからね。どんな問題があったかは知りませんが、私ら子どもも仕事に駆りだされます。ただ、それが当たり前だし、日課ですからね。辛いなんて思ったことはなかったですね」。
ちなみに、新田氏が生まれたのは1957年5月30日。新田氏のちかくには、いつもペットではない「いきもの」がいた。

息子の選択。

「当初は、ダイエーさんと取引をしていたんですが。その頃のダイエーさんって言えば超大手ですからね。うちにはなんともできないような要求もされてきたようです。取引額は大きかったんですが、親父は取引を停止します。それで、額は少なかったですが生協との取引をはじめます。これが、ちょっとした話題になって、のちに親父はカンブリア宮殿にも出演しています」。
「私が、うちの会社を意識しはじめたのは高校生くらいからです。親父からは何も言われなかったんですが。なんとなく、というか」。
さすが、牧場の息子である。小学生の頃は健康優良児で、表彰もされていた。中学の最初までは野球をしていたが、急激に体が大きくなり、体調を崩して辞めてしまったと笑う。
「高校は工業高校に進みたかったんですが、親父から『大学に行け』と言われて、それでふつうの進学校に進みます。自転車で10km離れた高校に通っていました」。
「私の一つのターニングポイントは、高校時代ですね。人生には限りがあることを知るんです。祖父や祖母がいて、亡くなったり、20歳で亡くなった知人を見たりして、やりたいことをやろうと思ったんです」。
やりたいことをする。言葉で表せば簡単だが、もっとも難しい。
そんな命題を持ち、新田氏は大学に進む。進んだのは成城大学だ。
「大学ではゴルフです。親父のススメですね。同好会でしたが、部長も経験しました。スコアですか? スコアは70台で回るくらいですよ」。
大学卒業後、本来はドイツで修業する予定だったが、様々な理由で断念し、大手食品会社が運営する全寮制の学校で半年間学んだ。もちろん、いずれ平田牧場に入社するためだ。これが、息子の選択。

いのちをつなぐ。とんかつ専門店、オープン。

「『とんかつ』をはじめたのは、15年前からです。最初は、洋食系だったんですが、『とんかつ』をはじめると、これが好調で。ええ、飲食では、牛角や温野菜のFCもやりました。ただ、方針が合わずにこちらは辞めました。いまは直営です」。
平田牧場が、直営店をオープンしたのは2000年代に入ってからだ。15年前というから、「とんかつ専門店」として、ブレイクするのは2004年のことだろう。
豚を育て、直営店で食べてもらう。生産者としては、最高のシチュエーションだ。当然だが、消費地にもちかづくことになる。東京に初出店したのは調布だったらしい。
「現在は生産部門も合わせると、従業員は800人くらいです。20万頭を取り扱っています。今では当たり前になっていますが、行政と協力して、お米を豚に食べさせる仕組みをいっしょにつくりあげたのも平田牧場です。今後はもっと社会貢献をしていきたいですね」。
「たとえば、平田牧場の料理を食べたら残さない、残したくないと思えるような物を提供していくのも、私たちの使命だと思っています」。
今後のテーマは、「健康」だという。糖分や塩分にこだわるのも、その一つかもしれない。「いのち」の生産者。だから、新田氏の言葉は重く、深い。
「いちばん丁寧なブランドになろう」。ホームページには、そんな一言も添えられている。この言葉は、まさに「いのち」の重みを表している。
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株式会社平田牧場 代表取締役社長 新田嘉七氏
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株式会社Sunrise 代表 菊池厚志氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社Sunrise 代表 菊池厚志氏登場
本文より~

みんなといっしょに。

「いまも、むかしもそうですが、『だれかといっしょに』『みんなといっしょに』が好きなんです。だから、いま、この仕事をしているんでしょうね」。
今回、ご登場いただいた株式会社Sunriseの代表、菊池氏はそう言って笑う。「愛らぶ川崎」というコンセプトにも、その思いが表れているのかもしれない。
「川崎のみんなといっしょに」。
菊池氏が生まれたのは、1990年。きょうだいは3人で、菊池氏がいちばん下。父親は、菊池氏が生まれた年に「蕎麦屋」を開業している。
「小学校から高校まで、ずっと川崎です。ただ、高校は退学して、あとで通信の高校に進みます。スポーツは、小学校では剣道と水泳、中学ではバスケットボールです。このバスケのときに、みんなでやることの楽しさを知った気がします」。
勝つことより、楽しい?
「そうです。楽しい。いまもじつはそうなんです。もちろん、仕事ですから、勝つこともまた大事なんですけどね/笑」。むろん、そうだろう。とはいえ、「仲間といっしょにいること、それが目標でもかまわない」。菊池氏は、そういうことを思わせてくれる人だ。

20歳、飲食業で独立を志す。

「一つの転機はやっぱり高校を辞めたことですね。バイトしたり、あそんだり。バイトでいえば、とび職に、ペンキ屋、飲食店…、そうですね。20歳になるまで無数に経験しています」。
「そういう意味では、18からの2年間ですね。私が18歳の時に、2つ下の後輩が事故死するんです。昨日までいっしょにあそんでいたのに。人の死を経験したのははじめてでしたし、急に人がいなくなるなんてね。その時から人生観もかわりました」。
「フリーターを卒業したのは、20歳の時です。周りの人間が就職するんで、それにも多少は影響されたんだと思います」。
その時、選択したのが飲食店だった。
「バイトでいちばん楽しかったからです。私に合っているんでしょうね。親父も、そうだし、じつは祖父も飲食店を経営していたそうですから」。
なるほど、祖父も、父も、飲食の戦士。飲食の世界で菊池氏は、ある意味、サラブレッドだ。菊池という名馬は、どんな道を進んでいくのだろう?

新世界で観た未来。

当時、つまり、飲食で行くと決めた、その時から「独立をめざしていた」と菊池氏はいう。だから、狙いを定めて「串亭 リアルテイスト」で仕事をはじめたそうだ。
「一度、大阪の新世界に行ったことがあるんです。その時、あの独特の世界観に圧倒されたんです」。
 新世界といえば、串かつが有名だ。
「そう、その串かつにも、その調理法にも驚いたんです。野菜、肉、魚…、食材は、なんでもありでしょ。揚げるだけなら、オレでもできる。その時のことを思い出して、やるなら、『串かつだ』と、『串かつ』にロックオンです/笑」。
それで、串亭?
「そうです。『串亭』は、新世界のように『こてこて』じゃない。おしゃれで、恰好いいんです/笑」。
「店長は50代の女性です。かわいがってくださいましたし、キッチンには口出ししないようにされていたので、私も自由にさせていただきました。私は、キッチンで『揚げ』を担当し、勉強するのが狙いだったんですが、キッチンの先輩もいい人で、素人の私に『あれをやってみろ。これやってみろ』と勉強させてくれました。おかげで、1年半で自信がつき、その店で知り合った先輩の1人といっしょに独立します」。
じつはいったん2人で独立したが、売上が思ったようには上がらず、連日、朝11時から深夜3時までつづく仕事で心労も重なり、けっきょく言い出しっぺの菊池氏が、店を離れることになる。
「『串揚げ花火』って、いう店名です。私は、1年でこの店を離れます。無駄骨だったといえば、そう映るかもしれませんが、じつは、この店をやったおかげで、今があるんです」。
どういうことだろう?

愉快な試み。

「『花火』をオープンしたのは、学芸大学だったんです。その店に、川崎から、ともだちがたくさん来てくれたんですね。すると、ほかのお客さんからも『川崎って、面白いよな』みたいなね。そういう話がでるんです。川崎を離れて、改めて『川崎って、いいよな』って気づいたわけです。それだけでも『花火』をオープンした意味があったと思っています」。
 「川崎のポテンシャル」と菊池氏は表現する。
「これが、23歳の時です。川崎にもどって。今度は1人で起業をめざします」。
といっても、資金もなかったのでは?
「そうなんです。だから、最初に向かったのは、川崎の信用金庫です/笑」。
「うすっぺら」だったという事業計画書をもち、銀行の行き、頭を下げること、50回。出直すたびに、計画書はあつくなっていく。ついには信用金庫の担当者が折れたらしい。
「融資が下りたのは800万円。それを資金に、8坪17席でスタート。メインは、もちろん『串かつ』です」。
この時、24歳。
じつは、オープンしたとたん連日、盛況。菊池氏のともだちもせっせと顔をだしてくれたおかげで、通帳にはみたことがない数字が印字される。
一方、最初は1人でやるつもりでいたが、菊池氏を慕い、就職を希望する新人を受け入れ、8坪の店は、すぐに4人の社員でいっぱいになった。
「学芸大学の時の失敗がありますからね。最初は慎重だったんですが、だんだん『飲食ってこんなに簡単だったんだ』って。人間って、そうなっちゃいますよね。いまのナンバー2も、この時の社員なんです。よし、あいつのためにも、もう1店舗だそうって」。
それでつくったのが、川崎の超隠れ家である「華金」。知らなければ、絶対、たどりつくことができないそう。あまりに隠れ家すぎて、なかなか客が来なかったが、現在では、悪くても楽々、損益分岐点を超え、いい時には、2倍にもなるそうだ。
もっとも、いい時もあれば、悪い時もある。
「もう、6年(2020年現在)になるわけですが、『やっぱり、飲食は難しい』と改めて思い知らされたこともありますし、いま『居酒屋甲子園』で理事をしているんですが、すごい経営者がたくさんいらっしゃることも知りましたし、そうですね、『川崎』ともう一つ、『世界』って、キーワードもできました。海外で出店する店はもう決めているんです。『そうま』っていう蕎麦屋です。祖父の店、父の店とおなじ店名です/笑」。
もっとも海外に進む前に川崎でやりたいことがある。
「川崎って町全体を『食』の横丁にしたいんです」。
それが、育ててくれた恩返しだという。「食」で川崎を元気にする。それが狙い。
「川崎って、歓楽街だし、工業の町だし、雑多といえば雑多で、たしかに今もにぎやかな町なんですが、まだ、眠っているエネルギーがあると思うんです。『食』を通して、このエネルギーをひきだす、それが我々のミッションかな、と」。
なるほど、町の真ん中に「食」がある。面白い「町」になりそうだ。
菊池氏の構想は、日本各地の「食」をあつめた横丁をつくること。たしかに、日本各地の食文化が、「川崎」という横丁にならぶというのは、なんともスケールが大きく、なんとも愉快な試みだ。その時を期待しよう。
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株式会社Sunrise 代表 菊池厚志氏
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キイストンプロデュース書籍第4弾!「夢中になれ!快楽を愉しめ! 『本気力』 大誠テクノ株式会社取締役会長 柴墻宗良」が納品されました。

3月30日(月)キイストンプロデュース書籍第4弾
「夢中になれ!快楽を愉しめ!『本気力』大誠テクノ株式会社取締役会長 柴墻宗良」

わたしたちの日常生活に欠くことのできない代表的な公共交通機関である鉄道。
利用者にとって身近な出札、改札、運賃精算などの駅務や安全で安心、
快適な運行をもたらしてくれる車両のメンテナンスなどを手掛けている「大誠テクノ株式会社」取締役会長・柴墻宗良の69年の人生を辿ったものである。
大阪に生まれた柴墻だが、仕事にも趣味(いわば遊び)にも夢中になってしまう性格のようだ。
言い換えれば、仕事にも趣味にも「遊び心」満載で取り組んでいる。
本書は、思わず微笑んでしまう「遊ぶ高齢者=柴墻宗良」の愉快さや痛快さ、夢中になることの愉しさを描きながらも明日を担う後身を暖かい目線で見守り、
69年の歳月で体現した「何事にも本気であれ」という心構えや人生観を「柴墻の言葉」で綴ったものである。

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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2020年3月30日月曜日

こんな時だからワクワクすることも・・。

新型コロナウィルスでどこもが大変厳しい時ですが、
気持ちだけは前向きにと、ロト6&ロト7を会社で各社員が個々選んだ数字のもの人数分買います。
些細なことですが、ワクワクすること積み重ねれば大きな元気発信パワーになります。
来期4月から野スタート頑張ります。

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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2020年3月24日火曜日

有限会社STPDファーストゲート 代表取締役 金井秀樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社STPDファーストゲート 代表取締役 金井秀樹氏登場
本文より~

生まれは亀戸、育ちは江戸川。

金井氏は1967年、亀戸に生まれる。
「祖父は、和菓子店を経営していました。親父は自衛隊に入隊し、除隊したあと、アパート経営をやり、個人タクシーの運転手もしていました。父はとても厳しく、おかげで反骨精神が育ちます/笑」。
母親もクリーニング店やお好み焼き店を経営されていたそうだから、経営者一家でもある。ちなみに、金井氏には姉が1人いるのだが、その姉は今、占い師をされているそう。本を出すなど、著名な人らしい。
父と母、そして、姉と金井氏の4人家族。住まいは都内だが、都内といっても当時はまだ街が復興・再生する時代。いうなら昭和のど真ん中である。
「私は亀戸で生まれ、江戸川区で育つんですが、今とは全然違いますね」と金井氏。お父様の話も出たので、「どんな父親でしたか?」とたずねると、「怖い父だった」と一言。
「今じゃ、ちゃっと、ヤバイくらい」と笑う。
「ただ、当時はタクシーの運転手でしたから、私たちとタイムスケジュールが違うんです。だから、一緒に過ごすことは少なかった。ただ、休みの時などは、外食が好きな人だったんで、みんなでよく出かけましたね」。
ただ、外食に出かけたとしても、マナーが悪いといって怒られていたのかもしれない。
ところで、金井氏が高校生になると、母が店をだす。
「『ローンがあったから』と母は言います。ただ、もともとクリーニング店をやっていましたし、ある意味、商売が好きだったんでしょうね」。
金井氏も、勉強、部活の合間に仕事に駆りだされたそうだ。住宅街の、12坪の小さな店。はたして、売上はどうだったんだろうか?
それはともかく話を戻す。
金井氏、中・高の話。青春時代だ。「私は、中学から私立に進みます。進んだのは日大付属。ええ、中・高とも男子校です。どちらかといえば、勧めてくれたのは母ですね。父親は、学歴なんか、『くそくらえ』って人でしたから」。
どんな学生だったんですか?
「もう、卓球ばかり。私は、中・高の6年間を卓球に捧げています/笑」。

無駄ではなかった、大喧嘩。

「野球で言えば、PL学園」と金井氏は表現する。高校時代の、卓球部の話。
何でも、中学時代は一番巧かったそう。だから、「高校でも」と何も考えず入部したそうである。しかし、それが苦難の始まり。トレーニングは朝7時から始まる。勉強をはさみ、昼の3時から練習は再開され、夜の9時、10時までつづく。盆も正月も、むろんない。最初25人いた仲間は1年で4人になったそう。
「相当、きつかったですね。でも、私も東京都の代表にもなりましたし、この6年は、大きな財産ですね。ただ、卓球ばっかりだったでしょ。引退すると、急に、何をしていいのやらわからなくなって/笑」。
大学からは推薦の話もきたが、続けるつもりはなかったそうだ。ともかく進学したのは、日大の法学部。しかし、すぐに退学している。
どうしてだろう?
「受験シーズンの時に、ですね。じつは親父と大喧嘩してしまったんです。親父にしたら、私が高校生になってもバイトもしないでしょ。勉強はしていますが、だらだらしているように映ったんでしょうね」。
「なんだ」「なんだよ」
売り言葉に、買い言葉。だんだん喧嘩は、エスカレートする。結局、金井氏は、この騒動で家を出ることになる。
「27歳までに父さんを超えてやる」と泣きながら、啖呵を切って。
「だから、大学に進学したものの、授業料は自腹です。これが、大学を中退する引き金となりました」。むろん、ゆっくりしている時間がないというのが、最大の理由。勝負は、27歳まで。のんびりしてられない。
「今では親父とも和解しているんですが、当時は私も若かったですからね」と金井氏は笑う。
「和解」とは、よかった。しかし、相当な時間がかかったのも事実だろう。ともあれ、「父を超える」決意が、今につながっているのは、間違いのないこと。そういう意味では、仲良く青あざをつくった、あの大喧嘩も無駄ではなかったことになる。それが、親子というもんだろうか。

約束より早く、父超え、達成するも。


大学を退学した金井氏は、日本料理店に就職する。多少なりとも、母親の影響があるのかもしれない。「就職したのは、秋葉原にあった、ある割烹です。こちらで2年、勤めました。ただ、2年やっても、もちろんお金は貯まりません。それで焦るんですね。父を超えるには、とにかく店をださないといけない。店をだすには、とにかく資金がいると/笑」。
何でもするつもりだったそう。
「とにかく資金を貯めないと何も始まらない。それで朝は弁当屋、夕方から居酒屋、夜はBARと、アルバイトを3つ同時に始めます。弁当屋では、アルバイトなのに営業に回されて、営業成績は言ってはなんですが社員を入れてもトップクラスでした」。
とにかく、働いた。
アルバイト開始から2年くらい経った頃だろうか。すでに通帳には、500万円がたまっていた。「遊びの誘惑にも負けなかった」と金井氏。とにかく、目標は「父、超え」。
「いつのまにか、自分との約束になっていたんです」。だから、目もくれず走りつづけた。ただ、最初に辿り着いたのは、12坪の、母の店だった。
「私が25歳の時です。母が体調を崩して、店を他の人にお願いしていたんですが、この店を、私がやることになるんですね」。
駅から離れた住宅街の、小さな12坪の店。
「普通だったら、やっていないと思います。でも、母がやっていた店でしょ。愛着もある。もちろん、親子といっても、取られるものは、きっちり取られます/笑」。
けっきょく、大事な軍資金の500万円が消える。
「全盛期には月商300万円になった時もあったと聞いていますが、私が引き継いだ頃は120万円で、精一杯。だいたい息子がやるっていっても、だれも知らない。母の時のお客さんは、みんなもう離れていましたからね」。
「だから、なんでもやった」と金井氏はいう。
「スーパーマーケットを回って、ビラを撒くのは当然で。そうそう、発泡スチロールにお好み焼きをいれて、工場に持って行ったこともありました。『これ、食べてください』って。ヘンな目でみられましたよ、最初はね。メニューも、見直します。そういうことを2年やって、月商は400万円になります。大変でしたが、いい意味で、これも財産になりましたね。やれば、できるというのも含めて」。
当時の年収は、1000万円を超えていたそうである。もちろん、「父、超え」達成だ。とはいえ、この店は結局、義理の兄に譲ることになる。
「いろんなことが重なり、またゼロからです。神楽坂にも店を出していたんですが、こちらも、全然だめで。どうしようか、と」。
父を超えることはできたが、その向こうには、それ以上に高いカベが用意されていた。
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株式会社ピエトロ 代表取締役社長 高橋泰行氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ピエトロ 代表取締役社長 高橋泰行氏登場
本文より~

ピエトロ交響曲。

「頭の中がピエトロで埋め尽くされた」と笑うのは、ピエトロ代表取締役社長の高橋泰行氏である。
大学時代はボート部。その時の先輩に誘われて、運輸関係の大手企業に就職する。
「ピエトロに転職したのは34歳の時です。飲食とはまったくちがう仕事をしていましたから、まったくの畑違いの会社からの転職組なんです」。
知人を通じ、創業者である村田邦彦氏と出会う。
「当時、村田社長は59歳で、ピエトロは、創業20年。海外展開を志向されていた時です。社長の野心的な話を聞き、人柄に触れるうちに、だんだんと頭の中がピエトロばかりになってしまいました」。
転職するなら、年齢的にもこれが最後だと思ったそう。しかし、そう簡単に決断できない。「子どももまだ小さかったですしね。ただ、妻は薄々気づいていたようです」。転職の話を切りだすと、奥様はためらうことなく賛成してくれたそうだ。「でも、親の説得が大変でした。当時は今とちがって転職は稀なことでしたから。まして、畑違いの飲食業でしょう?」。
ただ、いかに反対されても、ピエトロという会社と、その創業者が指揮する「ピエトロ交響曲」は、頭から離れなかった。

創業者・村田邦彦氏の未来図。

いろいろ不安もあったとおっしゃいますが、そうはいっても高橋社長のなかには、飲食の世界で広がる未来図があったんじゃないですか?と問いかけてみた。
「もちろん、そうですね。希望観測的な…。ただし、入社まもない頃は、創業者である村田社長がつくった未来図を観ていただけかもしれませんね。なにしろ、村田社長は、最初にお会いした時から、私にとっては英雄だったんです」。
村田氏は、いうまでもなく日本を代表する経営者の1人で、いち早く、スパゲティに魅了され、その料理に可能性を見出し、さらに、レストラン生まれのドレッシングを世に送り出した人でもある。
「村田社長も私と同じサラリーマンの経験者なんです。ただ、それ以前が料理人だったんですね。ピエトロのレストラン1号店をオープンしたのは、39歳の時だったとおっしゃっていました」。
むろん、創業シェフは、村田氏本人。
始まりは、1980年。福岡市・天神に創業したパスタ専門店「洋麺屋ピエトロ」である。翌1981年には、早くもレストランで提供していた手作りのドレッシングの店頭販売を開始している。
「当時はスパゲティといえばまだミートソースかナポリタンの時代ですね。そんな時代に、高菜や明太子、納豆などの「和」の具材で、「洋」のスパゲティにチャレンジしていきます。当初から海外にも目を向けていました。海外1号店は、ホノルルにオープンした『アンジェロピエトロホノルル店』。1992年のことです」。
高橋氏が転職したのは、34歳の時、1999年のこと。企業力はあったが、まだ、東証二部上場も果たしていない。
「それでも、村田社長の頭のなかには、壮大なスケールの絵があったんです」。
むろん、当時、村田氏に惹かれたのは高橋氏だけではないだろう。店舗や工場で仕事をするスタッフたちも、きっと、そうであったはずだ。

創業者の宿題。

「私は、社長の秘書として、ピエトロに入社しました。出張がある度に、ご一緒させていただきました。正直にいうと不安もありましたが、昔から一度、心が動いてしまうともう止まりません」。
高橋氏をそこまで動かしたのはなんだったんだろう? 改めて聞いてみた。
「事業の将来性とかそういうのもありましたが、何より英雄の下で仕事ができることですね。村田社長に心をわしづかみにされ、動かされてしまったわけです」。
時代を切り開く、英雄。立身出世という言葉が適切かどうかわからないが、村田氏もまた一介の料理人から経営者となり、日本を動かした人である。その英雄の下で、高橋氏は仕事の喜びを見出したにちがいない。村田氏の発想は、空を駆けた。それを、高橋氏が追う。
「怒られることばかりだった」と高橋氏は、当時のことを懐かしそうに語る。
「秘書からスタートして、まずは海外事業、それから通信販売部門や食品部門、製造部門の役員なども経験しました」。
村田氏による英才教育?
「う~ん、そうかもしれませんが…」。
それから、社長ですか?
「そうですね。村田社長が急逝されて、会長と、専務と私の3人が代表取締役となり、私が社長に就任します。村田社長が現役の時に、東証二部から一部に上がったのは大きな喜びだったと思います。ずっと望んでいらっしゃいましたから」。
村田氏はどんな人だったんですか?
「創業者ですからね。パワフルだし、厳しかった。でも、スタッフをことのほかかわいがった。私も、かわいがっていただきました」。
ところで、社長に就任されてからレストラン部門を立て直されていますね。
「ドレッシングなどの食品部門は好調だったんですが、レストラン部門は、赤字が続いていました。レストラン事業は、我々の創業事業ですし、そこから商品開発など食品事業にフィードバックされることも少なくない。だから、この部門が元気でなきゃいけないんです」。
村田氏が残された宿題かもしれませんね? そういうと高橋氏は、「そうかもしれませんね。社長として出席した最初の株主総会では、株主のみなさんに『もう少し時間をください』と言いましたしね」といって笑う。
創業者の宿題ともいえるレストラン部門の再生に向けて、スタッフと一丸となって動き始め、手応えをつかんでいる。社長に就任した翌々年には6期ぶりに黒字化となった。
2019年3月期の短信では、レストラン事業のセグメント利益は32百万円。前期は、72百万円の損失だったからV字回復だ。
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2020年3月20日金曜日

事業継続緊急対策(テレワーク)助成金申請します!

東京都は、新型コロナウイルス感染症等の拡大防止対策として、令和2年3月6日より都内企業のテレワーク環境整備を支援する助成金の募集を開始しました。

枠が限られてるのでキイストンも早速申請の用意をしました。
申請間に合えば嬉しいな〜。

もし東京都に事業所ある企業様はお勧めします!
限定100社なので急いでください。

事業継続緊急対策(テレワーク)助成金
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000080.000052467.html

中小企業は、自分たちで知恵絞り、ここ乗り切らないと!