2024年5月19日日曜日

好きな言葉「キイストンしかやらない」、「キイストンだからできる」。

 こんなこと「キイストンしかやらない」、「キイストンだからできる」をどんどんやってほしい。

これもその一つです。

社長取材がキッカケで、ハイデイ日高の創業者神田会長に熱い気持ちでお願いしたら快諾頂き実現しました。

それが、なんとYahooニュースにも取り上げて頂きました。

弊社の江川(ミストラル取締役社長も兼務)が中心となりキイストンの若手が同世代の飲食経営者を動かしてほしい。

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/7f4aaf2a0d42967b3eae1cbbf60060b1d0034b00

今日のYahooニュースにうちの江川、集合写真で登場しました!

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/7f4aaf2a0d42967b3eae1cbbf60060b1d0034b00

前列向かって左からBIRCH高橋社長、サブコン野田社長、ハイデイ日高神田会長、RC・クリエイティブグループ中村社長

後列向かって左から弊社江川、sommet farm大塚社長、KIWAMI阿波社長、おすすめ屋加藤社長、Chompy大見社長


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~


戦略型総合人材採用サービス会社キイストン


2024年5月14日火曜日

16年の月日をかけた「飲食の戦士たち」、いよいよ大台に。

 「飲食の戦士たち」

1,000連載までラスト1回!!

キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~


戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

株式会社まるたかや 代表取締役 嶋田秀之氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社まるたかや 代表取締役 嶋田秀之氏登場。

本文より~

富山のソウルフード。

ローソン限定のカップ麺、「まるたかや監修 醤油豚骨ラーメン」。黒と赤の、ガツンとくるデザイン。キャッチフレーズは「富山のソウルフード」。
今回、ご登場いただいたのは、この富山のソウルフード「まるたかや」の代表、嶋田社長。3代目になる。
「創業者の祖父は、東京の三越で料理長をしていたそうです。その祖父が、昭和23年に、高岡市で、おでんの屋台をひらいたのが『まるたかや』の始まりです」。
屋台でもうけたお金でお店をオープンしようとしたところ、「お金を預けた不動産屋にトンズラされた」という。
「それで、高岡市はだめだっていって、富山市で、もう一度、ゼロからスタートします。研究熱心だったんでしょうね。いろいろ回ったみたいですよ。静岡とかも。おでんが有名でしょ。そのときに、韓国人からラーメンのつくり方も習ったそうです」。
「まるたかや」では、祖父の代から醤油も脂もオリジナル。
「うちのオリジナルのトッピングに『背油揚玉』があるんですが、あれは、豚脂を130度で揚げた時に、ラードと脂かすにわかれるんですが、その脂かすをラーメンにいれたのが始まりです。もともと脂をつくってなかったら生まれてなかったトッピングですね」。
ちなみに、チャーシュー、メンマ、脂かす(背脂揚玉)など、すべての具がオリジナル。これが、富山のソウルフード「まるたかや」のラーメンを構成している。
実際、食べてみると、脂かすがいい仕事をしている。ニンニクもきいていて、パンチがある。ローソンのおかげでローカルから、全国区になったが、それだけのパワーをもっている。

アメリカ、ファッション、ものづくりがキーワード。

「私は直系ではないんです」と嶋田社長が口をひらく。「じつは、妻のほうなんです。妻の祖父が創業者で、父親が2代目、私が長女と結婚して、『まるたかや』をつぎます」。
奥様とは高校2年生からのお付き合いとのこと。
「私は1972年に高岡市で生まれます。4人姉弟の3番目。きょうだいの影響でアメリカが好きになります。高岡市は工場が多く、城下町の名残りもありますが、ものづくりが盛んな町です」。
アメリカ、ファッション、ものづくりが、少年の頃のキーワード。
「アメリカが好きになったのは、姉や兄の影響ですね。3番目でしょ。おさがりをもらうんです。リーバイス501とかをもって、これ、いるか?って聞かれて。いらんとはなりませんよね(笑)。でも、ボロボロだから、穴を縫ったりしていました。ものづくりが好きだから、縫製もけっこう巧いんです。ジェームズディーンも大好きです。かっこいいでしょ」。
高校は、ものづくりの延長で県立高岡工芸高校に進学。
「高校時代もね、制服をかっこよくリフォームしたりしていましたね。ファッションが大好きだったし、料理も、基本、うちの兄弟はみんなできます」。
ちなみに、アメリカ好きはいまも健在。好きなのは、多分だが、1960年代のアメリカ。駐車場には、キャデラックやフォードなど、古いアメリカの車がならんでいる。

コカ・コーラの、経験。

「高校を卒業して、北陸コカ・コーラボトリングに就職します。奥さんは、おなじ高校だったんですが、資生堂の専門学校にいって、東京で美容師を8年くらいやっていました」。
嶋田社長は、高岡市でコカ・コーラをつくる仕事に従事する。
「コカ・コーラをつくる水は世界共通なんです」と嶋田社長。「それだけ水を大切にしていることの表れで、どの国でも、おなじ水になるよう調整しています。飲料だけでなく、じつはラーメンも水がいのちです。そういう意味では、立山から流れてくる富山の水は最高ですね」。 それは、まちがいない。
「北陸コカ・コーラボトリングでは、最初、製造部で、そのあと営業です。こちらに就職したのは、ペプシのロゴが好きだったからだし、あのコカ・コーラって描かれた真っ赤な車に惹かれたからなんです。会話も好きで、営業になってからは、辞めるまでトップセールスを爆走していました」。
「営業はもちろん製造部にいたことも役立っている」という。
「今はすべてオートメーションだと思いますが、当時はまだハンドの部分が少なくなかったんです。アナログな時代ですね。そのアナログな仕事が、いまのラーメンづくりに似ているんです」。
もちろん、当時、ラーメンを仕事にするとは思っていなかったはず。ちなみに、北陸コカ・コーラボトリング時代の給料をきいて、驚く。「24歳で手取り29万円。ボーナスは年間で250万円ほどもらっていた」とケロリという。

「まるたかや」は、奥様の実家の仕事。

「いま、『まるたかや』で仕事をしているのは、もちろん、奥さんと結婚したからです。結婚したときに、2代目の義父から『継いでくれ』と言われました。社長になったのは、45歳の時です」。
北陸コカ・コーラボトリングのトップセールスから、ラーメン店のスタッフへ。いくら妻の実家と言っても、思い切った選択に映らなくもない。だが、料理が好きで、ものづくりが大好きだった嶋田社長にとっては、案外、簡単な選択だったのかもしれない。
「結婚したのが25歳の時。同時に『まるたかや』に転職します。当時、直営が2店舗、フランチャイズが3店舗ありました」。
祖父がオープンした『まるたかや』。それを継いだ2代目社長。2代目はどんな人物だったんだろう?
「とにかく、頭がよくて、やさしい人」と嶋田社長。もともとは、あるメーカーでエンジニアをされていたようだ。だから、サラリーマンの気持ちも理解できる。そのぶん、サラリーマンから転職してきた、娘婿を、巧くリードできたのかもしれない。

スープが澄んでいる、醤油豚骨ラーメン。これこそ、富山のソウルフード。

「私の最終目標は、100年の歴史をつくり残すことです。私が就任してから3店舗をオープンして、キッチンカーも始めて、売上を2億円から5億円にしています。今年も1店舗、資産価値の高いロケーションに出店する予定です。現在、5店舗は直営ですが、フランチャイズについても勉強したんで、今後は、フランチャイズも検討していきます」。
ただし、追いかけるのは店舗数ではない。歴史を積み上げていくこと。
「お店をデザインするのが好きで。だから、お店をつくりたいんですが。それはそれとして。歴史はつくりたいと思ってもつくれるものではないでしょ。だから、価値があると思うんです。私で3代目になりますが、歴史が大事だと思うからこそ、100年まで頑張って残していきたいんです」。
歴史の価値について、「たとえば、こういうこと」と一つのエピソードを教えてくださった。
「キッチンカーをつくって営業していたときの話です。飲み屋街で営業していると、そこに、スーパーの社長さんとかが飲みに来とるわけですよ。スーパーいうても、地元のスーパーですからね、社長さんも『まるたかや』のことは昔から知っているんです」。
「キッチンカーをしとるんやったら、うちのスーパーでも」となったらしい。「子どもの頃から食べている大好きなラーメンとおでんやからな」と。
「歴史がないと、そういうことにはならんでしょ。うちの味がからだに染み込んでいるです。ただ、なつかしいだけやないですよ。私も、いろんなラーメンを食べ歩きましたが、『まるたかや』のが、いちばん旨いです」。
「まるたかや」のラーメンは、『醤油豚骨』ラーメンだ。だが、スープの透明度が高く、醤油ラーメンのように澄んでいる。豚骨を煮込まずに、旨みだけを抽出しているためだ。合わせる醤油も、特製。トッピングは、いうまでもなく、旨い。
外販(キッチンカー)だけで、月商1000万円というのも頷ける。ラーメンだけではない。創業のおでんも、また、大好評。「サイドメニューでは、おでん豚串がナンバー1ですね。こちらもまさにソウルフードです」。
話をきいているだけで、食べてみたくなる。

・・・続き

株式会社まるたかや 代表取締役 嶋田秀之氏

PRバナー

キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで) 

しゃぶ禅株式会社 代表取締役社長 菅野雄介氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”しゃぶ禅株式会社 代表取締役社長 菅野雄介氏登場。

本文より~

マハラジャと、菅野家と、しゃぶ禅。

日本の男女が熱狂した。ディスコテック。マハラジャはドレスコードや黒服という言葉を、少年少女に教えてくれた。
源流をたどると、「檻の中」や「深海魚」「最後の20セント」「メビウス」」と言う名が上がる。こちらの話は、現会長にインタビューさせていただいたコチラをご覧いただくのがいいだろう。
さて、今回、ご登場いただいたのは、現会長の菅野晃さんの甥にあたる菅野雄介さん。現会長の兄であり、創業者、菅野諒さんの次男である。
「父ですか、父は、すごく厳しい人でしたね。『おはようございます』。子どもたちは、私も含めてですが、礼儀正しく挨拶しないといけません」。
何かあるとゲンコツがとんできたそうだ。
浮き沈みも経験されている。
「当時はバブル経済です。マハラジャはディスコブームをつくり、バブルの象徴のように言われていました」。
たしかにそうだった。毎夜、マハラジャのレジは入りきれない札束で溢れたという。
「全盛期だったんでしょう。その時は、うちの車もロールスロイスでした。ただ、あれ?と思ったら、ボロボロの車に代わっていました(笑)」。
栄枯盛衰がピッタリな表現かも知れないが、案外そうでもない。マハラジャがつくりだした宴は、もう一つの宴にひきつがれていく。
それが、今回の舞台となる「しゃぶ禅」。
2023年12月で創業から40年になる名店だ。
「マハラジャを運営する一方で、1983年に、六本木に『しゃぶ禅』をオープンします。『高級な和牛のしゃぶしゃぶをお腹いっぱい食べることが出来たら、お客様が喜んでくれるのではないか』と、スタートしたブランドです」。
どうすれば、お客様が喜んでくださるか。創業者の諒さんは、このテーマを追いかけつづけた。
「この頃は、ロールスロイスの時代だったんでしょうね。やがて、バブルがはじけ、マハラジャが幕を閉じます。そのあとに残ったのが『しゃぶ禅』でした」。
今や、外国人も日本旅行の楽しみの一つに挙げるジャパニーズレストランの一つ。
さて、つい長くなったが、いつも通り、今回の主人公、菅野さんを子ども時代から追いかけてみよう。

「マハラジャ」の終わりと「しゃぶ禅」の始まりと。

「私は1974年、目黒に生まれます。大田区や世田谷など転々とした記憶もありますね。小学校は池袋にある立教小学校 。中学校も立教です。うちは、父も兄も立教です。ただ、私は高校進学時にエスカレーターからこぼれ落ちます(笑)」。
「案外、厳しくて、中学から高校に進めるのは全校生徒の1/3。私は2/3に入り、東海大学の附属高校に進学し、ここでも下から2割のなかに入り、進んだのは別の大学で、帝京大学です」。
もっとも卒業はしていないらしい。
「父が『お前じゃ、どこにいっても無理だろうから、うちに入れ』と。そう言われたので、留年することなく、友達といっしょに、大学を離れました」。
「子どもの頃は、通知表が悪いと殴られた」と、菅野さんは目を細める。
「中・高にもなると、だいたいの子が遊びに行くようになるでしょ」。
ディスコは、当時の中・高生にとって憧れのステージ。父親の仕事を知っている少年たちが、マハラジャを話題に挙げることも少なくなかった。
「ただ、私自身は興味がないというか」と菅野さん。
熱狂する人たちを、どこかさめた目でみていたのかも知れない。
「マハラジャが幕を閉じたのは、私が大学生頃です。所有していた不動産もバブルといっしょに弾けたもんですから、借金は30億円くらいあったんじゃないですか」。
大学生の頃から「しゃぶ禅」で皿洗いなどのアルバイトをしていたそう。大学を離れ、就職したのは、グループ企業の不動産部門。
「もっとも大変だった部門の一つですね。ただ、残った『しゃぶ禅』もしんどかった。人件費がないので、私は18時まで不動産部門ではたらき、18時から23時まで『しゃぶ禅』で仕事をしました。仕事といっても、サポート程度ですが、もちろん、無給です」。
マハラジャの宴をつぐはずの「しゃぶ禅」はどうなっていくんだろうか?

独立。しゃぶ禅のフランチャイズ店をスタートする。

「じつは、私、25歳で独立しているんです」と菅野さん。独立?と驚くと、「独立と言っても、そうしないと融資を受けられなかったから」と種明かしをしてくださった。
「今の四谷店ですが、もともとは『叙々苑』さんが、そこでしゃぶしゃぶのお店をされていたんです。ただ、うまくいかず、私どもに話をもってこられました。チャレンジしたいお話でしたが、なにせ、お金がない(笑)」。
「しゃぶ禅」では銀行融資もままならなかったそう。
「それで、私が会社をつくり、そちらに融資してもらおうと。そういうスキームにして、無事、1500万円の融資をうけて、『叙々苑』さんのあとで『しゃぶ禅』のフランチャイズ店をスタートしたんです」。
菅野さんの意思ではない。「だって店長の経験もなかったんですよ」と笑う。父親から「やれ」と言われ、やるしかなかったというのが、本音。
むろん、状況が、状況だ。失敗は許されない。だからこそ、父の諒さんは、だれでもなく、息子の菅野さんに託されたにちがいない。だとしたら、その賭けは、まちがっていなかった。
しゃぶしゃぶ食べ放題は、四谷でも人気になる。「ロケーションが悪くなかったから」と謙そんするが、むろん、菅野さんの仕事も評価されるべきだろう。とにかく、店舗は連日連夜、賑わい、月商は1000万円をオーバーする。
「『しゃぶ禅』は6Fだったんです。おなじビルの地下も空いたので、今度は、そちらで焼き肉食べ放題『牛禅』をスタートします。こちらも、好調です。少しずつ、私にも自信がついてきます」。
ただ、このあと、貯金通帳の残高が62円となってしまう。

通帳の残高62円。

「調子に乗ってやってみようってことになった」と菅野さん。
「京都のマハラジャがあったところで、焼鳥ブランドをスタートするんですが、こちらが大ゴケ」と苦笑する。
「2年で撤退しますが、1億円くらいの借金が残りました」。またまた、借金生活。追い打ちをかけるように、BSEが、起こる。せっかく好調だった「しゃぶ禅」「牛禅」を直撃。
「あの頃、月末になると、所持金は1円玉、3枚、通帳の残高をみたら、たったの62円なんて時がありました」。
それでも、前を向きつづけた。
父であり、カリスマ創業者だった諒さんが他界。諒さんのあとを受け、現会長の晃さんが、社長に就任する。晃さんは、菅野さんからすれば叔父となる。
「その頃からですね。いずれ私が『しゃぶ禅』を継ぐことになると、そういうことを意識しはじめたのは」。
むろん、所持金3円からの大逆転も果たす。神楽坂にオープンした「しゃぶ禅」も大ヒット。2016年には、晃さんが会長に、菅野さんが社長に、という人事が発表される。
その時点で、「しゃぶ禅」には、すでに30年以上の歴史があった。負債も少なくなったが、この歴史は大きい。今までいちばんたいへんだったのは?と聞くと、コロナという回答。
業態が、業態だけに、たしかに厳しい。ただ、この時、菅野さんを励ましてくれたのは「しゃぶ禅」の長年のファンたち。「歴史」という財産が、明らかになった瞬間だ。
「社長に就任して、それまでの体制を改めて、いよいよって時にコロナだったんで、そりゃ、落ち込みます。でも、なんとか従業員の給料も下げることなく維持できたのは、従業員はもちろんですが、そういうファンの皆さんのおかげですね」。
もちろん、2024年になり、客足は完全に戻っている。

・・・続き

しゃぶ禅株式会社 代表取締役社長 菅野雄介氏

PRバナー

キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで) 

2024年5月10日金曜日

飲食業界に特化して16年経ち・・・。

キイストンは飲食業界に特化して16年経ちましたが、この数年で食材卸(食肉や鮮魚、青果)だけでも、そこそこの売上作れるようになりました。

今期は前年対比1.5倍狙ってます。

キイストンの業務領域をもっと多くの人に知ってもらわねば・・・・。

キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~


戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2024年5月7日火曜日

BIRCH様、Yahoo!ニュースがキッカけで・・・。

BIRCH様、Yahoo!ニュースがキッカけで“”BEMA的ニュースショー”に取り上げられたようです。

今年30歳の高橋社長、これからブレイクしそうな予感!!

Yahoo!ニュースはこちら

BIRCH高橋光基社長の「飲食の戦士たち」はこちら

PRバナー

キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで) 

株式会社ケンティーズキッチン 代表取締役社長 橋口賢人氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ケンティーズキッチン 代表取締役社長 橋口賢人氏登場。

本文より~

からあげグランプリ『最高金賞』受賞。

ホームページの一文から話を始めるのほうが、話が早い。ホームページには、つぎのように書かれている。
<沖縄県座間味島で始めたからあげ専門店>
<沖縄の離島にもかかわらず、多くの方から『美味しい』と暖かい声をいただき、第10回日本唐揚協会からあげグランプリ『金賞受賞』、第11回日本唐揚協会からあげグランプリ『金賞受賞』、第12回日本唐揚協会からあげグランプリ『金賞受賞』、3度の金賞を経て、4年目にして『最高金賞』をいただくことができました>
そして2022年には、2年連続の素材バラエティ部門『最高金賞』受賞とつづいている。
これを聞いただけでも、だれもが、一度は食べてみたくなる唐揚げだ。
ちなみに、唐揚げに用いる鶏肉は、大半の宗教が禁じていない世界でもっともポピュラーな食材の一つである。この話も念頭に置き、『ケンティのからあげ』の生みの親である、ケンティーズキッチンの橋口社長の話を聞いていく。
話はまるでちがう方向から始まった。
「父方の親族は、私以外、ほぼ全員、医療にかかわっています。一族、みんなドクターと言っていいかもしれません。私自身も、都内の歯科大学に進んでいます」。
異色の経歴が浮かび上がる。
ドクターとからあげ。共通項はどこにある? では、いつも通り、その謎も含め、少しずつ紐解いていこう。
橋口社長は、1987年10月14日、東京で生まれている。「生まれも、育ちも東京」。東京、育ちの橋口社長が、なぜ、沖縄県座間味島でからあげ専門店を始めることになるのか、ストーリーの奥は深い。

世界へ連れ出してくれたスノーボードと、世界で出会った唐揚げと。

「私は、歯科医師の息子として生まれます。幼稚園から高校までミッション系の一貫校ですごし、日本歯科大学に進学。当時は医療人になりたいと思っていました。小さな頃からからだが弱く、親族のなかでも、私だけ身長が低い。重度のアトピーも患っていました」。
「スノーボードを始めたのは8歳の頃からです。スノーボードは、からだの弱い私にピッタリなスポーツでした。雪の上では、みんな対等です」。
雪山に行くと、みるものすべてがキラキラしていた。滑り始めるとコンプレックスから解放された。からだが小さいことも忘れた。
「からだが弱い私を、スノボーが世界に連れだしてくれました」。国内でプロのライセンスを取り、メディカルコーチとして1シーズン、トップ選手たちとワールドカップに帯同したこともある。
それが一転、バックパッカーで亜熱帯を回るようになる。これが29歳の時の話。
海外を転々とするなかで、心が揺れ動いていく。
スノーボードと唐揚げ。
「じつは、学生時代から日本の伝統文化を海外に発信する仕事に就きたいと考えていた」と橋口社長。大学、在学中から、唐揚げレシピの研究を始めている。
全国から醤油を取り寄せ3年がかりで専用のたれを開発したという。歯科医師は遠のくが、日本の伝統文化を海外へという壮大なミッションが、生まれ、育まれていく。
「偶然ではなく、必然だった」と橋口社長はいう。

ボーダーのない鶏肉は、世界一ピースな食べ物である。

「鶏肉って、ボーダーのない、ピースな食材なんです」と橋口社長はいう。
「多くの宗教が鶏肉を禁止していません。鶏肉が唯一の動物性タンパク質という国が少なくないのは、そのためです。亜熱帯では『揚げる』という文化が根付いています。魚も揚げます。日本では、漬け、干すが保存性を高める一般的な方法ですが、亜熱帯では『揚げる』だったんです。そういうことにも気づき、世界に通用するだろう唐揚げの可能性を追求してみたくなります」。
唐揚げは、唐というだけあって中国が起源と言われている。中国の普茶料理のなかに現在の唐揚げに似た食べ物が入っていたそう。もっとも、現在、私たちが食べる唐揚げは、立派な和食なんだそうだが。
「ともかく、起源が中国でしたので、じつは私も、中国に渡っています。唐揚げを奥深く、研究するためです」。
 2017年、橋口社長は中国に渡り、深圳(しんせん)のデパートで唐揚げ専門店を開業している。
「オープン当初は、向こうではたらく日本人に好評で、業績も順調だったんですが」。
日本の大手企業が撤退して、一斉に日本人がいなくなったらしい。
「私には、何があったかわかりませんが、日本語をしゃべらないように注意されました。客足が落ち込み、クローズを余儀なくされてしまいます。もっとも、そこでの経験が今にもつながっているので無駄ではなかったし、自信もついたので収穫は多かったです。ただ、帰国以外に選択肢がなかったのも、事実です」。
橋口社長の中で、ピースの3文字が、ちがった形になったのではないだろうか。
「沖縄に渡ったのは、中国から帰国してからの話です。友人の1人が、突然、沖縄の座間味島という小さな島に帰らなければならなくなり、その友人をみんなでサポートしようと、有志が沖縄に渡ります。私もそのなかの1人です」。
2018年8月とのこと。
ともだちのダイビングショップを手伝いながら、島人たちとも親交を深めたそうである。ちなみに、このとき、橋口社長が滞在した座間味島は、沖縄本島から西へ約40キロの離島。
ランニング程度のスピードで走っても、1時間で周りきれる小さな島だそうである。そして、この島で様々な賞を総なめする「ケンティのからあげ」が誕生する。

・・・続き

株式会社ケンティーズキッチン 代表取締役社長 橋口賢人氏

PRバナー

キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)