2019年4月19日金曜日

株式会社麦酒企画 創業者 取締役 能村夏丘氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社麦酒企画 創業者 取締役 能村夏丘氏登場
本文より~

「案山子」を聞いて感動するのは、ピュアな性格の表れか。

「元気でいるか。町には慣れたか」。
さだまさし氏が歌う「案山子」に親子で感動したのは、15歳の時。「たまたま親父と紅白歌合戦を観ていて…」と能村氏。ブラスバンド部。フルート担当だったが、音楽で感動したのは、これが初めて。
むろん、さだまさし氏のファンにもなった。
「うちの高校が新宿の牛込にあったもんですから、早稲田に案外、ちかかったんですね」。その早稲田に「さだまさし研究会」なるものがあると聞いて、キャンパス内をさがし歩いた。
「そしたらね、ほんとにあったんです。もう、感動しまくりで…」。
ただ、大学は早稲田に合格したものの、上智大学に進んでいる。「上智っていう響きがオシャレだったから」と能村氏。たしかに、ピュアな能村氏らしい選択でもある。
「それにね。中・高男子校だったから、バンカラなイメージの早稲田よりも」と。早稲田ではなく、上智。いわば、贅沢な話である。

上智大学に合格。その日にバイト先を決める。

能村氏が生まれたのは、1981年のこと。板橋区出身。父親は一級建築士で、今も「能村設計事務所」を経営されている。「親父は旅行が大好きで、私が小学6年生の時に週休2日が導入されるんですが、以来、毎週のように家族ででかけます」。裕福でもあったんだろう。中学から中・高一貫の私立「成城学校」に進んでいる。
進学校と聞いていたが、比較的、のんびりした生徒や先生が多かったそう。中学では、陸上やテニスをやり、3年には「鉄道研究会」へ入部している。その時の影響で、今でも鉄道が大好き。いわゆる「乗り鉄」なんだそう。
「いろんな部を転々としていますね。つづかない性格なのかもしれません。高校でも、いったん『吹奏楽部』に入部するんですが、フルートがきつくて、きつくて退部しています」。
大学はすでに記載したが上智。
「上智の理工学部ですね」。
しかし、こちらも長つづきせず2年で退学している。
「両親には当然、反対されました。親父は、私の意思が固いと最終的にはOKしてくれましたが、母親は泣いて、反対のまま。2~3年は、会うたびに復学を迫られました/笑」。
そもそも1年の秋には、大学にもいかなくなっていた、という。
「バイトですね。いままで経験がなかったし、大人の世界を観たかったんです。だから、上智大学を合格したその日に、目についた赤提灯のお店に電話を入れて。ハイ、そちらで、はたらかせていただきました」。
何でも、応募の電話をすると、「この番号ですね。すぐ折り返しますから」という店長の気遣いに心を打たれたそう。今もじつは、その店長を慕っている。むろん、バイトは「めちゃめちゃたのしかった」そうである。

広告代理店とビールの夜。

「大学を2年で辞めて、それからも2年バイトをして、同年代の仲間が就職する時に合わせて、私も就職しました。広告代理店の会社です」。
小さな会社だったが、クライアントはでかかった。
「そうですね、キリンビバレッジさんやローソンさん、キリンビールさんなどもお取引先様でした。仕事はクリエイティブだったし、楽しかったです。むろん、相当な時間、仕事をしていましたが…」。
終電で帰れると、深夜1時を超えている。
「なんででしょうね。そんな時間なんですが、1杯だけ、飲のみたくなるんです。旨いビールを。たまたま『鳥貴族』さんが、駅前にあって。お通し代もないし、安いでしょ。しかも、この店は…」。
ビールが美しく注がれていたらしい。「泡もいい状態です。ほかでは、なかなかないクオリティでした。私も、取引先の関係でビールはたくさん飲んでいますが、1杯300円弱。それでいて、このクオリティでしょ。いつも、感動をもらっていたんです」。
セールスプロモーションとビールの夜は、5年2月で幕を下ろす。
「私のチョンボが原因っていえば、原因なんですが、その時の上司の対応もあって、すーっと波がひくように興味がなくなったんです」。
話を聞いていると、わからなくもないと思った。しばらくぶりに取れた奥様との休日。その日まで、台無しにする、上司の一言。「帰りの電車で、彼女の涙をみてね。これって、いい仕事じゃないなと。あばたも笑窪っていうでしょ。私の場合は、その反対。笑窪があばたになっちゃった/笑」。
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株式会社サクラブルーコーポレーション 代表取締役 南垣佳秀氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社サクラブルーコーポレーション 代表取締役 南垣佳秀氏登場
本文より~

厳しかった寮生活。

生まれも育ちも、大阪の天満橋。毎年サクラの季節には「造幣局の通り抜け」で有名な場所だ。小学生のときはもっぱら「少年野球」に明け暮れていた南垣氏だったが、4年生のときに母親がガンで亡くなってしまう。「あまり母親の記憶がない」ということだが、その出来事がきっかけで、少しずつ素行が悪くなり始める。当時父親は祖父母が建てたマンションの1Fで大衆食堂を営んでおり、なかなか子どもの相手をしてやれなかった。そういった事情もあって、中学は全寮制で中高一貫の、PL学園に入学する。「当時父親から、『野球で有名な学校に入って、もっとプレーしたいやろ?なら一生懸命勉強せなあかんな』と言われ、勉強をすごく頑張ったんですよ。結果倍率3倍の中を見事突破できました。ただ、今考えたら、素行の悪さを直すのと、自分が面倒見られないからということで、全寮制の学校に入れられたようなもんです。うまく丸め込まれましたね」。
体育会系の学校の寮生活は、それは厳しいものがあった。朝は6時15分起床。隅々までキチンと清掃し、先輩のユニフォームや下着の洗濯、食事の準備など。先輩に「水が飲みたい」と言われれば、冷水器までダッシュして汲みに行くこともしょっちゅう。「男子寮なんて雑然としていて汚い、と思うじゃないですか。でもね、ウチの寮はピカピカ。チリひとつ落ちてないです。それだけ厳しく掃除をやらされたんですよね」。また、無断で寮の外に出ると、即丸坊主。「男女交際禁止」のルールがあったので、女子と2人で会話しているところが発見されると、これまた丸坊主。女性との付き合いはもちろん、デートすらできない状況だった。中学・高校とこんな毎日。「そんな中でも、上下関係やルールを守るということの大事さが身についたので、それはそれでよかったなと思っています」。
ところが、野球は続かなかった。周囲のレベルがあまりにも高すぎたのだ。これではレギュラーは難しいと思い、野球部を諦めてサッカー部に入部。ここではレギュラーの座を射止めるだけでなく、キャプテンにも就任。みんなをまとめあげていく存在となった。高校でもそのままサッカー部へ。相変わらず全寮制の生活ではあったが、体育科である野球部と違ってサッカー部は「普通科」。だから、野球部ほど厳しい寮生活ではなかったという。とはいえ、寮生活をしていない人の毎日と比べれば、自由度はまったくなかったといっても過言ではないだろう。
その反動は、大学生になって現れる。いうなれば「大学デビュー」。今まで抑えられていたものがイッキに解放されるのである。「学生時代はとにかく遊びまくりました。『こんな世界があるのか』ってかんじでしたね。中古車買って、サーフィンしてスノボやって…。おかげで半年間留年してしまいました」。
大学卒業後は就職をせず、旅行会社と契約をし、栂池高原で2年間アルバイトを続けた。「朝と夜は到着するお客さん、出発するお客さんの手続きや手配をし、昼間の空き時間でずっとスノボしてました。あの頃がいちばん楽しかったですね」。

そして飲食の道へ。

何不自由のない大学時代、そして卒業後のフリーター時代を過ごした南垣氏。一方で「こんな生活をずっと続けてたらダメになってしまう」と危機感も感じていたという。
「親戚からも『いつ働くねん』と言われ、プレッシャーを感じていたのもありました」。それもあって、本格的に働くことを決意する。「日本の会社に入っても、2年も遅れてるので新卒には勝てない。だから、実力主義の外資系の会社を選びました」。入社したのは、外資系のたばこメーカー。ルート営業としてたばこ店やスーパー、施設内のお店などを営業して回った。もともとあったコミュニケーション能力がここで花開き、営業として立派に活躍する。しかし、約9年間働いたところで退職。
「父の影響もあり、自分は最終的には飲食の道に進むんだ、という思いがあったんですね。それに僕自身、カフェをやってみたいとも思っていた。今の会社でもそれなりに楽しく仕事できてたんですが、将来的なポジションのことを考えたときに、いけたとしてもここまでだろうなぁ、と先が見えたんです。それなら、将来カフェを開くために、どこかのお店で修行しようと思い立ちました」。
転職したのは、おしゃれなカフェを多数展開する、業界でも有名な会社。営業時代に60万円の給料をもらっていたのが、転職後は13万円にまで落ちた。「当時結婚もし、子どもも一人いたので、大丈夫かな?と不安にもなりましたが、幸いこれまでの蓄えがあったし、そのときは実家に住んでいて家賃もかからなかったので、まあ大丈夫だろうと笑」。この会社で飲食に関するノウハウを吸収するために頑張ったが、1年弱で退職する。「最終的に独立するつもりだったんで、同じ会社にずっといる考えはありませんでした。最初から辞める前提で入ったんです」。次に入社したのは、梅田に本社を構える、コーヒーの輸入専門商社。3ヶ月ほどで店長に抜擢され、その後4店舗を束ねる統括マネージャーに。自らの希望で新規出店を2店舗手がけるなど、華々しい活躍を見せる。
「この会社には5年ほどいました。様々な経験ができたことで、独立が現実的に見えてきました」。退職後、いよいよ独立の準備を始めるのだが、その最中に父親がガンで亡くなってしまう。「7年ほど前から闘病していたので、ある程度覚悟はしていたのですが、飲食店を始める前でよかったです。始めた後だったら立ち上げの時期と重なってたので、葬儀もままならなかったかもしれません」。

流行に乗る前から、パンケーキ。

父の死を乗り越え、2010年に「サクラブルーコーポレーション」を設立。
「社名の由来ですか?サクラは、天満橋は桜の通り抜けで有名だから。ブルーは、僕サッカーが好きなので、サッカー日本代表の愛称、サムライブルーとかけました。『天満橋から日本を代表する企業へ』という意味がこもっています」。そして会社設立から2年後の2012年に心斎橋のアメリカ村にパンケーキ&スープダイニング「elk」をオープン。カフェではなく、パンケーキ。なぜなのか?「最初はカフェで、と思っていましたが、独立前に働いていたカフェのオーナーがアメリカの方で、アメリカで流行しているものを日本に持ち込んでは、僕が作ってお店に出すということをしていたんです。たとえばコンビーフハッシュとか、エッグベネディクトとか。その中のひとつにパンケーキがありました。10年ぐらい前からお店ではパンケーキを出し始めていたんですが、そのときから『これはイケる!』と思ってたんです」。
それでも周囲からは「2、3年で廃れるだろうから、気をつけや」などと言われたという。「周りはそう言うんですけど、自分はそうは思わなかった。仮にブームが去ったとしても、いいものを作り続けていれば、残り続けると確信していましたから」。事前にいろんなパンケーキ店に通い、研究もし尽くした。薄いパンケーキを焼いていたときに売上が落ち始めると、さらに研究を重ねてふわふわのスフレパンケーキを開発し、メニューに投入。すると業績は瞬く間にV字回復した。「当時流行に乗ってアメリカ村周辺に10店舗ほどパンケーキ店ができたんですが、当時からのお店で残っているのは、ウチだけです。売上は平均月600万円ぐらい。家賃が月45万円ぐらいでしたから、10%を切ってるんです。周りと比べて一人勝ち、だったのかもしれませんが、まだまだいってやろう!と思いましたね」。
その後順調に店舗数を伸ばし、現在はパンケーキ店以外にも、念願だったカフェ業態であるBURN SIDE ST CAFEなど、全国に12店舗を展開。うち11店舗は直営店だという。「今後FCもやっていくつもりなんですが、やっぱり飲食店で実績のある会社と手を組みたいです。なによりも、飲食店をやっている者同士で話が合いますから。逆に飲食業をやらず、おしゃれだから、流行だからという理由でFCをやりたいという方の申し出は、お断りしています」。
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2019年4月18日木曜日

株式会社T.K-BLOCKS 代表取締役社長 木下威征氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社T.K-BLOCKS 代表取締役社長 木下威征氏登場
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お爺さんは、神戸牛の生みの親。

「ハイカラな爺さんだった」。今回、ご登場いただいた株式会社T.K-BLOCKSの代表、木下威征氏は、そう言って目を細める。
「95歳になっても、サングラスをかけハーレーダビッドソンを運転していました。『まだ目も悪くないわ』なんてつっぱって/笑」。
木下氏の祖父は、資産家でもあったそう。「淡路島のどれくらいでしょうか。かなりが爺さんの土地だったらしいです。のちに『金なんていらん』といって、兄弟らにあげちゃったらしいんですが…」。
木下氏の祖父が、成功したのは、戦後淡路島に広大な土地を買い、米軍と組んで「神戸牛」を生みだしたことによる。いうならば、「神戸牛」の生みの親。調べてみると、淡路島は和牛の一大生産地だった。
「小さい頃は年1回、親父といっしょに爺さんのうちに行きました。私が料理に目覚めるのは、もっと先なんですが、源流は、この時かもしれません」。
どういうことだろう? 
「実は、親父の妹、つまり叔母が淡路島の老舗旅館に嫁いでいたんです。親父は、当時、弁護士を辞めて会計士の仕事をしていましたので、叔母の旅館の財務などをみてあげていたんでしょうね。私は、親父が仕事をしている間、キッチンで遊んでいた。その時見た、料理人がかっこ良かった。いま思い出したんですが、そういう『かっこいいな』って思いが、私の頭にずっと残っていたのかもしれませんね」。
淡路島行は年1回の楽しみ。祖父の武勇伝を聴くのも、楽しみだった。祖父も、木下氏を溺愛したことだろう。ちなみに、木下氏は1972年、東京都の多摩市に生まれている。

「いちばんになれ!」父との約束。

「小学校の頃は、リトルリーグで野球をしていました。ピッチャーで、四番で、キャプテン。漫画みたいでしょ」。クラスでも人気者。将来はプロ野球選手。そういう選択肢がないわけではなかったが、中学で野球は辞めてしまう。といっても運動神経はあいかわらず抜群。イケメンだけに、目立っていた。
「当時は、ビーバップハイスクール全盛期ですからね。不良が、アイドルだったんです/笑」。木下氏も、ある時期、やんちゃな世界で活躍する。
「料理の世界に入るきっかけは、一冊の本です。題名は『料理王国』。その本をペラペラめくっていると、偶然ですが、辻調理師専門学校の広告があって。それをみて『おれは、ここに進もう』と直感的に、そう思うんです」。
もちろん、きっかけもあった。
「昔、母の真似事でチャーハンをつくって、仲間にふるまった時があって。その時、みんなが口々に『旨い』っていうんですね。その時のうれしさが心に残っていました。これも私が料理人を志す最初のきっかけだったんだろうと思います」。
それで、辻調理師専門学校?
「親父にもハッパをかけられ、『辻調理師専門学校に行くならいくで、それでいい。学費もだしてやる。しかし、ぜったい1番になれ。それが、約束だ』って」。

料理の東大を首席で卒業。

「私は辻調理師専門学校の東京の1期生です。MVPを獲ればフランス校への留学費用が免除になるという制度があって、私は親父との約束にも背中を押され、MVPをめざします。辻調はご存じの通り、料理界の東大と言われていました。ハイ、1年制です」。
いちばんになると言っても、木下氏に調理の経験はない。周りは旅館や料亭の息子。かないっこない。しかも、中・高と勉強とは縁遠かった。
「笑い話にもならないんですが、『アイハブ』がわからなくて、『先生に何ですか?それ?』って。すると、先生が『君はぼくをバカにしているのかね?』って/笑」。
ただ、その先生が、いい先生だったらしい。「事情を話すと、『そうか、わかった。オレも昔は…』っていって特別授業をしてくれるんです」。
「その方のおかげもあって」と木下氏。
 当初は、下からいちばんだった成績が、卒業する時には、約束通り上から1番になる。全教科、満点。「首席」となって卒業する。むろん、MVPにも選ばれ、晴れてフランス留学をいとめる。
「今度は、フランス校です。各地域からMVPに選別された優秀な生徒たちがやってきます。そのなかで1位を取れば、三つ星レストランで研修を受けることができました。こちらでも1位になって権利をゲット。三つ星レストランに研修生として送り込まれます」。
辻調理師専門学校を「首席」で卒業。フランスの三つ星レストランで、研修。一度、帰国し、再度、フランスに渡っている。箔がつく。もっとも、まだ10代。いまから本格的に修業を積み重ねることになる。
以前、著名なシェフに「料理にもやはり天賦の才ってあるんですか?」と直截にたずねたことがある。「ある」とそのシェフは言下にそう呟いた。むろん、いくら、天賦の才といっても、なにもせず花開くわけではないだろう。問題は、どこで、どんな修業をしたのか。ホームページで、話のつづきを追ってみた。

2008年に「AU GAMIN DE TOKIO/オー・ギャマン・ド・トキオ」を開店。

ホームページには<帰国後は、レストラン業界で話題となった「AUX BACCHANALES/オーバカナル」で5年、その後9年白金台「MAURESQUE/モレスク」で料理長を経て独立し、2008年に「AU GAMIN DE TOKIO/オー・ギャマン・ド・トキオ」を開店>となっている。
現在地は、むろん、言うまでもないだろう。
ホームページを追いかけると<「GAMIN/いたずら小僧」の名のように、枠に囚われず、フランス料理店の常識を覆す全対面オープンキッチンでライブ感溢れる中、お客様との距離感、お客様へのおもてなしの心に重きを置き、「一食入魂」の想いを胸に日々厨房にて腕を振るっている>とある。
TV出演も多く、雑誌にも度々登場されている。ちなみに、海外の雑誌では「世界で活躍するシェフ」と紹介されたこともあるそうだ。
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株式会社日と々と 代表取締役 山本拓三氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社日と々と 代表取締役 山本拓三氏登場
本文より~

1977年。堺市に生まれる。

山本氏は1977年9月、大阪府堺市に生まれる。両親がアパレルで働いていたため、服と靴は良いものを着ていたそうだ。
「私が住んでいた頃の堺は下町で、ちょっといい服を着ているだけで目立っちゃうわけです。そういうのがイヤだった。目立ちたがり屋の父親に抵抗があったのも、そういうことがあったからかもしれませんね。父親が独立したのは、私が小学生になる頃です。日本経済が、いい頃ですね。」。
山本氏は小学生からカラテをはじめ、中学までつづけ、中学ではバスケもするが、こちらは、すぐに幽霊部員。仲間と連れ立って遊ぶのが大好きだった。
両親が離婚していたのは、この頃。ただ、正式に「そうだと知った」のは高校に入ってからだ。
「父親は、私が中学の頃から、もううちにいなかった。音信不通でした。だから、その頃は、経済的にも、たいへんだったと思います。私も学費のために、高校1年からアルバイトです」。
肉体労働がメインだった。もっぱら、土方や引っ越し、魚市場でもはたらいた。
「その時が、たぶん、私の一つのターニングポイントです。肉体労働しながら、『もう、たくさんだ』と。でも、勉強もしてないですからね。このままじゃ、まっしぐらにそっちだって/笑」。
「じゃぁ、どうすればいいか?」。「少なくとも、大学は出ておかないといけないだろう」が、結論だった。「それで、高校3年になってからは、真面目に勉強をはじめます」。
もともとやればできるタイプ。
現役で、大学に進学。
「大学ですも、バイト三昧ですが、今回は、ちょっと小ぎれいなホテルで仕事をはじめました/笑」。

転職して、1年後に株式上場。

大学を卒業した山本氏は、商社に就職。「けっこうブラックな会社でした。ま、当時は、どこもそういうものだったのでしょうけど/笑」。
山本氏は、この商社に経理担当で入社している。これも、一つのターニングポイントだろう。経理という立場で、数字と経営を観ていくことになるからだ。
「社会人3年目になって、株式会社アイディユーというベンチャー企業に転職しました。まだ小さかったんですが、すでに、注目されていました。私は、この会社に経理の責任者として入社します」。
入社して1年で、東証マザーズに上場したそう。
「私が入社したのが、ちょうど上場準備の時です。タイミングがよかったんでしょうね。経理のトップでしたし、そう、何より、この時に、創業者である社長のちかくで仕事ができた、これが財産です」。
経理といっても、電卓を叩きつづけていたわけではない。買収やM&Aにもかかわった。社長が描く、成長戦略をサポートする。
「ホテルはゼロからですね/笑。当時、私たちがやっていたのは、インターネットと不動産です。不動産事業の下に、ホテルや、ゴルフ場、飲食店がぶら下がっています。この会社は、もう残念ながらないです。私の次の幕は、じつは、不動産事業を行っていた飲食事業部をバイアウトしてスタートするんです」。

バイアウト。社長、就任。ただし、解散が予定されている会社の。

サブプライムローンの問題が表面化するのは、2007年夏くらいだろうか。そして、翌年、リーマン・ショックが起こる。「そうですね。うちの業績も悪化します。縮小しなければいけないんですが、ただ、この時、不動産事業を行う事業部ではビッグなプロジェクトが進行していて投げ出せない状態だったんです」。
「ええ、それで、ファンドから出資を受け、その事業部を、私たちがバイアウトしてプロジェクトを遂行します。私は、バイアウトした会社で取締役管理役本部長に就任し、しばらくして社長に就任しました」。
ファンドとの間では、プロジェクトが終了すれば、解散することで話がついていたそう。だが、解散する前に、今度は山本氏が会社を買い取る。
「さっきもいいましたが、会社のなかには、飲食とか、そういうのもあるわけです。飲食だと東京に2店舗、大阪に2店舗だったかな。もちろん、飲食を含め残る事業は、不採算な事業ばかりです。でも、ね。解散って無責任だし…。それで、私が買い取らざるを得なかったわけです。1億円の借金を背負いました」。
山本氏は「やらざるを得なかった」と表現している。当時、山本氏は31歳。最初から、途方もない額でもある。
「リースとかも残っていましたし、最初は、残務処理だと思っていたんです。店舗を売却すれば、それなりに借金も減るだろうと。その先まで、計画していたわけではないんですが」。
ある意味、無謀で、リスキーな戦いだ。それを承知しながらも尚、逃げ出すわけにはいかなかった。それが真実だろう。「ま、どうにか、なるか」。
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株式会社フロムフォティ オーナーシェフ 石塚和生氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社フロムフォティ オーナーシェフ 石塚和生氏登場
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高校2年。独り立ちという選択。

父親に引き取られたのは、5歳の時。ただし、石塚氏には「寿がきやのおじさん」としか知らされていなかった。「私は私生児で、母は私が5歳の時に亡くなります。それ以来、私を育ててくれたのが、寿がきやのおじさん」。
もっとも育てたと言っても、あちこちの知り合いに預けられただけ。
「7回は、家族がかわった」と石塚氏は笑う。「なかには情が移って『父や母と言いなさい』って言ってくれる方もいたんですが、そうなるとおじさんが来て、ちがう家族に連れていかれるんです。親戚をたらい回しってよく聞くけど、他人の家たらい回しってきついですよね~/笑」。
いまでも記憶しているシーンがある。ある家族といっしょに遊園地に行った時のこと。「帰りにはその家族はいないんです。そしてその足で新たな家族のところに連れていかれた。刑務所で釈放と言われて喜んでついて行ったら死刑執行みたいなものですよ」。笑顔も、やすらぎも、はく奪されるためにあった。ただ、少年には、その感覚もなかったかもしれない。ただただ、そういうもんなんだ、と。
そんな生活が、小学4年生までつづく。時には、施設にも入れられた。
「もっとも施設がいちばん心やすらいだ」と石塚氏は笑う。
「食事もみんないっしょでしょ。ぼくのだけが、特別じゃない/笑」。
「寿がきやのおじさん」が、実の父親と知ったのは小学6年生のときだった。知ったところで、何かが好転するわけではなかった。ただ、4年生になると初めて血のつながった祖父母のところに預けられ、久しぶりに心から人の温もりを知ることになる。
「でも、高校進学という時に祖父母といっしょに「寿がきやのおじさん」、つまり、実の父親の自宅に移り住むことになるんです」。
「もう、隠しようがなくなったのでは」と石塚氏はいうが、石塚氏にしても、いい迷惑である。とたんに居場所がなくなった。きょうだいは、石塚氏を含め4人。石塚氏がいちばん下。高校2年生。石塚氏は書置きを残して、自宅をでる。どうみても「自宅」と映らなかったからだ。
「もともと自分に自宅なんてなかったんですよね/笑」。

レストラン勤務。選択肢は、それしかなかった。

「これからは独りで生きていきます」と書いた。16歳の少年の文字は、けっして上手ではなかったろう。しかし、それは、物心ついた頃からの結論であり、決意を立派に示していた。
「最初は、お金もないわけです。とにかく、コック見習いでレストランに潜り込みます。当時は、ほかに選択肢がなかったんです。だからコックになりたいと思ってスタートしたわけじゃない。そんなカッコイイ話じゃないんです」。
仕事は決まったがお金はない。「そうなんです。アパートを借りるお金もない。だから、半年くらいホームレスでした。井の頭公園のベンチやトイレ、そして雨の日は始発電車のなかで眠っていました」。
横須賀線に乗って終着駅まで行く。往復の間が、石塚氏の睡眠時間だ。
「僕の場合、休憩時間に銭湯に毎日行ってましたから、ホームレスと言っても本当に家がなかっただけ。こんなことは生死をさまよった子供時代を考えれば大したことじゃ…。むしろいい思い出ですよ」。と石塚氏は言う。
「17歳になってアパートを借りて。もう、自由です。だれの顔色もうかがわなくていい」。
職場という居場所もあった。学校には、それでも通っていたが、高校3年の3学期。ついに退学してしまう。「決めたらすぐ実行なんですよね/笑。生きていけるって初めて思ったから。レストランは朝10時~夜10時まで。ありがたいことに賄いもある」。
しかし、いつまでもというわけにはいかない。将来のこともある。すべて1人で答えをだすしかない。アドバイスを聞く人ももちろんいない。
「3年くらい。そう20歳まで、高校時代からお世話になったレストランで勤務します。20歳で、パルコにあったカフェレストランに転職し、こちらでも3年くらい勤務し、新宿西口にあったNSビルの29階のレストランに移ります。独立は26歳の時です」。
先輩にさそわれた。当初は、先輩がオーナーとなり、石塚氏が現場で指揮を執ったらしい。前職のレストランから石塚氏を慕って8人がついてきた。「そんなにいらないですよね。みんなの部屋も借りなくっちゃいけないし。たぶん、じぶんの店をだせると舞い上がり、じぶんの家族ができたことに酔っていたんでしょうね」。
石塚氏を慕ってついてきたメンバーたち。初めての家族。疑似家族であっても、1人1人の笑顔がいとおしい。

TV出演。

練馬区にイタリア料理「La Pasta」をオープンしたのは、1987年。石塚氏、27歳。つぎに、エノテカ「Vino Rosso Italiano」、オステリア「フィレンツェ食堂」などをオープンし、計6店舗を展開する。イタリアンブームも到来。石塚氏も「いい時には、5億円になった」と言っている。ただ、利益は充分にでていなかったようだ。
「経営者としての私の甘さですね。FLもPLもわからない。ただ、料理人たちの気持ちだけはわかるんです。当時、イタリア料理は、ただ焼くだけのような素材を重視するスタイルになるんです。だから、うちのシェフたちも、そういうので勝負したくなる。だから、1本1万円もするスズキをつかうんですが、高い立地なんかに店は出せないし、麻布六本木みたいな、お客様いないんです/笑」。
41歳まで頑張った。しかし、そこで、ちからが尽きた。「店を閉めたのは、私が41歳の時です。そして、ちょうどその頃ですね。TVに出演したのは」。
実は、石塚氏、TBS系TV「ガチンコ!ラーメン道」に出演している。番組を仕切ったのは、ラーメンの鬼とも呼ばれた「支那そばや」の佐野実氏だ。
「たまたま、TV局の人がきて、『ラーメン道』いう企画が進んでいるんだけれど、『だれか紹介してくれませんか』っていうから、じゃ、オレがって/笑」。
何を思って、手を挙げたのだろう。
ラーメンが好きだったわけではない。敢えて好きというなら、「チャルメラ」と「サッポロ一番」だった。ただ、イタリア料理とは、パスタという共通項がある。
ともかく、この番組はラーメンの鬼である佐野氏の下で参加した料理人たちがラーメンづくりを競うのだが、何しろ、テーマが「ガチンコ」。仕切るのが佐野氏である。ハンパないバトルが繰り広げられる。
「お前の20年は、なんだったんだよ」と佐野氏から罵声が飛んだ。
「いろいろ言われてる番組ですが、結構ガチでしたよ。ぼくの役割は、冷静なタイプの、いわば進行役です。ええ、いってもTVでしょ。そういう役割が、それぞれにね」。商魂をためすために、大阪に向かったこともある。
「なにわ」のこわもてのおじさんたちに難題を突き付けられ「あの時だけは、マジにガチでしたね。カメラが回ってなかったら、どうなっていたんでしょう/笑。人情ある人達だったなあ」。
TVでは、悪戦苦闘しているのだが、実際、ラーメンづくりが難しかったどうかは聞きもらした。ただ、「佐野実」という「鬼」に出会えたのは、大きな収穫だった。「なにもかもが新鮮です。佐野さんのラーメンにかける思い。横にいるだけで、ビリビリと伝わってきました」。
イタリアンからラーメンに舵を切り、石塚氏が再スタートしたのは2009年のことである。
以来、2018年現在で、9年が経つ。
「佐野さんからも、石塚のオリジナルで勝負したらどうかと言われていたんですが、私は教え通り、しょうゆと塩で勝負しました。それを5年くらいつづけ、ようやく私自身が納得できたので、はじめてオリジナルに、更に舵を切ったんです」。
ラーメンを和食とすれば、和食とイタリアンの融合。それがいまの、石塚氏のラーメンの真骨頂である。イタリアンレストランで、いったん挫折したのは事実だが、復活は見事の二文字に尽きる。
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S.H.N株式会社 代表取締役 髙橋竜太氏登場。

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母の再婚と新たな兄弟。

サッカー仲間だった。「小学2年生の時に、母が再婚することになって。うちの兄弟と向こうの兄弟が、一つの家族になりました。ええ、そうです。向こうの兄弟ともサッカー仲間でした」。
不思議な縁もあるものだ。「最初はなかなかお父さんと言うことができなくて」と髙橋氏。母親はママ友の紹介で、再婚相手の義父と結ばれたそう。
「再婚してからのほうが、母はやさしかったですね。女で一つと育てていかなければいけないっていう重荷が取れたのかもしれません」。
兄弟2人がある日から兄弟4人になる。子どもたちもそうだが、ご両親も戸惑われたことだろう。もっとも、全員サッカー少年という共通項のおかげで話は弾んだはずだ。
ちなみに、髙橋氏は、小学校に上がる前からクラブチームに入っていた。チームでは主要な選手の一人だったそう。再婚は、髙橋氏が小学2年の頃。小学校では、もうすでに有名だった頃。
「そうですね。小学校の頃にはかなり目立っていたと思います。もちろん、目標はプロサッカー選手です」。

「0」行進。

「中学になってちょっとやんちゃなほうに走ってしまいましたが、特待生のなかでも、スペシャルといって、いちばん上位の特待生として、岐阜の中京高校に進学します」。
「1年の時からレギュラーでフォワードでした。背番号は2年からエースナンバーです」。
部員は120名いて、4軍まであったそう。しかし、つくづくサッカー一家だったのだろう。髙橋氏の弟もおなじ中京高校に特待生で入学している。
高校を卒業して進んだのは、群馬のJFLのチーム。「今で言うJ3です」と髙橋氏。いかに髙橋氏が巧いといってもJ1までの道は遠かった。
「1節目は半分くらいだしてもらったんですが、0ゴール、2節目も。なかには給料をもらっている選手もいましたが、私たちは、無給です。当然、アルバイトしないと生活ができません。その頃ですね。人生で初めてバイト代っていう自由になるお金をもらって。サッカーしかしらなかった少年ですから、ちょっと違った方向にも進んでしまいました」。
3節目も0ゴール。精彩をかいたのか、周りのレベルが高かったのか。
「3年半所属していたんですが、何度目かの監督交代時に、クビになりました。ただ、私も『もうやめたいな』と思っていました。負け惜しみではなく、それは事実です」。
楽しかったサッカーがいつしか楽しくなくなっていた。ゴールポストを揺らすことができないもどかしさもあったことだろう。
年齢は21歳になっていた。

起業へ。その一歩。

「それから群馬にいてもしょうがないので実家に戻ります。ずっと、サッカーでしょ。サッカーとは別の、第二の人生なんて考えもしていなかったです」。
だから、「3ヵ月くらいニートだった」と笑う。次の目標はなかなかみつからなかった。そりゃそうだろう。しかし、雌伏の時に、人は己を見つめ直し、次の一歩を踏みだすチャンスをつかむ。
「サラリーマンとかそういうんじゃなくて、私自身で何かやりたいという思いが強くなって起業を計画します」。
起業といっても、当然、資本もない。
「最初は、佐川急便です。8ヵ月くらいかな。もう、当時の佐川急便は、そう儲からなかったです。そのあと居酒屋でアルバイトを始め、社員になります。2年ちょっとで1000万円をためて独立しました」。
さらりと凄いことを言う。年間500万円を貯蓄したことになる。たぶん、昼夜関係なく仕事をした結果だろう。
「ただ、独立しようと退職したものの、最初は店舗がみつからなくて、たいへんでした。だれも、相手にもしてくれません。ようやく、貸してもいいと言われたのが、いまもある赤坂のお店です。条件ですか? 今思えば、けっして好条件とは言えません。ただ、当時は、もうそこしかなかった。ほかに選択肢がなかったんですね。ただ、このおかげでうちの『空中作戦』がスタートします/笑」。
・・・続き
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2019年4月10日水曜日

「飲食の戦士たち」、マンガームービー誕生!! 

「飲食の戦士たち」、マンガームービー誕生!!

飲食の経営者の生き様をまとめた「飲食の戦士たち」もおかげ様でこの4月で700連載突破します。
これもコツコツと積み上げてきた「飲食の戦士たち」のマンガムービーを時代の流れに合わせ誕生させました。
700連載を機にいよいよスタートします。
まずは上記のPR用のプロジェクトМ様ご覧ください。
こちらは「飲食の戦士たち」です。
プロジェクトМ村山社長(飲食の戦士たちより)
https://in-shoku.info/foodfighters/vol627.html 
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