2018年3月20日火曜日

株式会社熱血 代表取締役 横田晃一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社熱血 代表取締役 横田晃一登場。
本文より~

獣道は、下界につづく唯一の道。

いつまでもバスに揺られつづけた。 野球でも有名なその高校は、高知空港からバスで数時間。山間にあり、「コンビニに行くにもタクシーで1時間かかった」という。今回、ご登場いただいた横田氏が、この高校に進学したのは、もうずいぶん前だから今とは異なっていることも多いだろうが、横田氏のなかにある風景は、今も山間のなかにある、収容所のような建物だ。
「当時は、インターネットもない時代でしょ。バスに揺られながら、『どこまで行くんだ』って/笑」。当時、そのスポーツ高校は、次のスポーツの目玉としてバスケットボールに注力しており、選りすぐりの選手が全国から集められた。横田氏もその一人である。
出身地は、藤沢市。その市のバスケットボール関係者で、横田氏の名を知らない人はいなかった。身長は当時から184センチ。バスケの選手としては飛びぬけてはいないが、それなりの背丈である。スピードは群を抜いていた。小学校でも、中学校でも、チームは横田氏の名をもって語られた。
「合宿に参加して、特待生のAで入学します。1人息子だから両親も淋しかったと思いますが、背中を押してくれました。でも、今になって思えば、あれが挫折の始まりかな、とも」。
下界から隔離されていた。生徒の90%以上が寮に住み、大半が何らかのスポーツで名をあげた選手だった。校則はきびしく、学校を抜けだすとそれだけで「停学」。食事も、全員で。「収容所みたいですね」というと、「まさに、そんな感じです」と笑う。食事は「カラアゲと大盛りの飯」と決まっていた。タンパク質と糖分をブロイラーのように摂取させられた。ただ、選りすぐりの選手のなかでも、横田氏は群を抜いて期待されていた。神奈川のレベルが、相当高いことを証明している。
「バスケのほうは、よかったんですが、生活のほうがたいへんで/笑」。最初にぶち込まれた4人部屋には、名主のようにふるまう柔道部や相撲部の先輩がいた。
「獣道っていうのがあって」。「獣道?」「そうです。文字通り獣しか通らないような道があって、それが唯一の抜け道なんです。夜中こっそり、獣道を使って抜け出してタクシーでコンビニまで行く。片道1時間。そうやってコーラとかを買ってくるんです。もちろん、買いに行くのは1年生。行くではなく、『行かされる』ですね」。
横田氏も何度か、獣道を駆け下りた。

退学。その道はどこにつづく?

「まぁ、そういうこととか、いろいろあって。実は、夏が過ぎる頃に学校から脱走しました。友人宅に逃げ込み、そこがバレ、2日くらい野宿して、藤沢に逃げ帰ったんです」。
朝の点呼の最中。窓から抜け出したらしい。
「いちばんの理由は、朝の点呼に間に合わず学校を抜け出していたことがバレてしまったことです。それでも、ふつうなら一時の『停学』で済むんですが、私の場合は特待生のAクラスですから、『それで済ましてはまずかろう』と違約金を取られることになったんです」。
今でも、その額は申し訳なくて親に聞けないそうだが、「相当な額だったのは間違いない」とのこと。「シェフの父親はもともと寡黙な人でこの時も何も言われなかったと思いますが、さすがに、こちらは申し訳ない思いでいっぱいでした」。
3週間後、横田氏は1度、その高校にもどっている。退学の手続きをするためだ。その手続きを終え、校舎を後にする時、横田氏はどんな気持ちだったのだろう。
負け犬。遠くから、そんな声が聞こえてきたかもしれない。

役者。まだ人生の答えはでない。

もともと県内にも「来い」と誘ってくれていた高校があった。公立だったが相談したら、1年遅れだが入学できた。しかし、横田氏は、その学校も3ヵ月程度で退学してしまう。もう、好きなバスケットボールもつづけられない。
「役者の道に入ったのは、そのあとです。母親がプロダクションに勝手に写真を送って。1次選考を通過したもんですから、『オーディションに行って来い』と/笑」。
役者のことなど何もわからない。しかし、今度は逃げ出さなかった。「9年くらいですね。ただ、生活は極貧です。月数万円。アルバイトもするんですが、急に仕事が入ったりするわけで。そうそう融通がきくバイトもなく、だんだん夜のバイトが中心になるんです」。
どこまでいけば、役者として独り立ちできるのか?
「もうそろそろ限界かな、と思ったのが25歳の時です。その頃にはもう、夜の仕事ばかりだったので、そういうのもまずいんじゃないかなって」。
高校を逃げ出してから、およそ10年。将来を誰より期待されていたバスケット選手は、夜のとばりに立って途方に暮れていた。 
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2018年3月13日火曜日

VIVO PRODUCTION TOKYO株式会社 代表取締役 鈴木健太郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”VIVO PRODUCTION TOKYO株式会社 代表取締役 鈴木健太郎氏登場。
本文より~

三重県出身。

愛知県の伊良湖岬に、いいホテルがあった。中学までは、毎年、家族で泊まった。父は工務店を経営していたから、どちらかといえば裕福だった。鈴木氏は、小学校ではサッカー少年団に入り、中・高は、ハンドボール部に入った。「できたばかりだったので弱かったですね」と笑う。
高校は、三重県でも進学校の県立「川越高校」に進んでいる。「あの頃は、将来、飲食事業をしているイメージはまったくなかったですね」。
「1ミリもなかった」そう。
大学は「京都産業大学」に進んだ。住まいは、銀閣寺のそばに決めた。最初は4万円のマンションだったが、「もったい」と1万円の風呂なしの木造アパートに移り住む。
大学時代の思い出はアルバイトと旅行。

中国と旅のご褒美。

写真を観て、中国にひかれた。高校時代の話である。「大学生になったら行こうって、その時から決めていました」。京都産業大学に進み、独り暮らしをはじめる一方で、中国に向かう準備も整えた。もっとも、所持金は10万円。夏までに資金がたまり、長い休みに突入すると、すぐに船に乗った。
「神戸港から、天津に向かいます」。天津は、渤海を奥深く入ったところにある都市だ。「天津から北京に進み、電車でパキスタンとの国境にあるウイグルまで行きました」。
2ヵ月。バックパッカーだ。宿泊するのは、1泊100円の宿。「食べ物ですか、まぁ、いけましたね。ただ、毎日、下痢です。下痢が常態化しているっていうか(笑)」。
翌年もまた中国に向かった。今度は、上海から入った。チベットまで行って、ヒマラヤを超えてネパールに入り、インドまで向かったそうだ。
「アジアは物価が安いから、学生にとってはいちばんいいんです」。中国は、漢民族がたいはんを占めているが、少数民族が多数存在していることでも知られている。
「少数民族系の料理も食べました。日本料理とは、ぜんぜん違うわけですが、抵抗はなかったですね」。好奇心も旺盛だ。中国だけではなく、ヨーロッパへも向かった。
「この大学の時の旅を通じて、やりたいことが明確になりました。一つは、日本のマンガや音楽などのコンテンツを海外に向け、輸出すること。そしてもう一つは、スペインでみたバールですね。あれを、日本でやりたいと思ったんです」。
この2つのプランは、旅がくれたご褒美かもしれない。

日本のコンテンツを世界へ。

「就職したのはカルチャー・コンビニエンス・クラブです」。いわゆる「TSUTAYA」である。「大学時代に、コンテンツの輸出をしようと思っていたもんですから、私には最良の選択だったと思います。ただ、ちょうど上場準備の時と重なって、IPOのプロジェクトに参加することになるんです。すごくいい勉強はできましたが、コンテンツの輸出はできませんでした」。
IPOを果たしたあとは、渋谷にオープンする「TSUTAYA」の立ち上げを担当した。「そうですね。そういう意味では、とても貴重な体験をさせてもらった4年間でした」。
鈴木氏が言う通り、CCC時代は4年で幕を下ろす。
「それからひとつ会社を経て、D2Cという電通とNTTが共同出資した広告代理店に転職しました。昔は30名程度だったんですが、いまはでかくなっていますよね。そちらで4年です」。
28歳。鈴木氏は、会社を離れ、温めていたもう一つのプランを実現するために行動を開始する。スペインで観た「バール」のオープンである。
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VIVO PRODUCTION TOKYO株式会社 代表取締役 鈴木健太郎氏
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2018年3月8日木曜日

株式会社シティコミュニケーションズ 代表取締役社長 三田大明氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社シティコミュニケーションズ 代表取締役社長 三田大明氏登場。
本文より~

400人のBBQ。

牛一頭はおよそ400人分くらいなんだそうだ。
「ある時、『バーベキューをしよう』と誰かが言い出して。ええ、社内イベントです。うちは、社内イベント日本一ですから、スタッフにやろうと言われてやらないわけにはいきません」。
「おまけに奴らは、この時『社長、オレたちのこといつも家族って言ってんですから、オレたちの家族も呼んでもいいっすよね』って。結局、400人に膨らんで。正直、誰が、誰か。部外者が肉を食っていても、わからなかった(笑)」。肉は、「牛角」の本部にお願いする。FCをやっているから、そういうお願いも聞いてくれるらしい。
今回、ご登場いただいたのは、この「牛角」のFCも展開する株式会社シティコミュニケーションズ、代表取締役社長、三田大明氏。もっとも飲食だけではなく、事業の幅は広い、広い。一言でいうならば、エンターテインメントの祖国でもある「ラスベガス」のミニチュア版。三田氏自身は、こう表現している。
「もう20年前から言っているです。みんなで『ラスベガスのようなエンターテインメントな街をつくろうぜ』って。それが少しずつかたちになってきているんだと思います」。
売上高はすでに500億円を超える。ちなみに、グループを形成するのは、株式会社シティコミュニケーションズほか15社。そりゃ、みんながあつまれば、牛一頭も軽くなくなるはずである。

奇跡の子。

三田氏が生まれたのは、1972年。
母親は8人の子を宿したが、無事、生まれたのは三田氏だけだそうだ。「これは、ある意味、私の原点です。なぜ、私だけが無事、生まれたのか。その答えを探すのが、私の人生の始まりだったからです」。
たしかに、確率でいえば8分の1。医師からは「もう無理」と言われていたそうだ。この手で我が子を抱きしめたい、母の切なる思いが奇跡を起こし、この年、三田氏がちから強く、産声を上げたのである。
「母方の祖父は天才的な人で、尚且つ、無類の人好きだったそうです。戦後、食料がない時もトラック1杯分の魚を買ってきて、みんなに配ったりして。そういう武勇伝もある人です。祖父の、天才的な頭脳と性格は、息子たちに引き継がれます。つまり私の叔父2人ですが、祖父の熱い想いを受けて、1人は弁護士になって、もう1人は脳神経内科の世界的な権威です」。
なんともすごい話がでてきた。むろん、その血は三田氏にも引き継がれている。
一方、父方は事業家だった。祖父が不動産の仕事をはじめ、父がそれを拡大した。父親が経営者の時に、もっとも肥大化したのは言うまでもなくバブルの全盛期である。むろん、バブルはあっさりと弾け、爪痕は至るところに残った。三田氏、はたちの頃の話である。

50メートル6秒1。

「小学校からずっと慶應」と三田氏。祖父譲りの明晰な頭脳を持ち、しかも、運動神経も抜群。なかでも足がはやく、中学1年で50メートル6秒1を記録している。背は170センチ以上あったそうだ。
「慶應は、小学校からラグビーにちからを入れているもんですから、足が速い奴は自動的にラグビー部に、という雰囲気なんです(笑)。私は、そのなかでも特別枠に入れられたもんですから、練習もハンパなくって。それで、椎間板ヘルニアになって。」。
椎間板ヘルニアになってからも、医者と「中学3年。この1年だけ」の約束で、楕円形のボールを追いかけた。出る試合、出る試合、勝利をもぎ取った。しかし。宣言通り、その年でラグビーは卒業した。スポーツは断念したが、それでも、頭の方が残っている。
「成績は高校にいっても、なんとかトップクラスです。ただ、高校になると、勉強より遊びばっかりで(笑)」。なんとか成績は維持したが、学校にいるより遊び回っているほうが多かった。「親にもいちばん迷惑をかけたのは、あの頃」と三田氏。しかし、遊びも突き詰めると一つの動機を生むことがある。それが次の話の始まり。

毎日が学園祭。

「大学まで親に言われたとおり進みました。大学卒業後、母から勧められたのは、ある都銀です。でも、なんだか違うような気がしてくるんですね」。
言うならば、父や母が敷いたレール?
「そう。だから、今回も母の勧め通りに、都銀に行ってしまったら、オレの人生って誰の人生なんだ?って。それで、『遊び三昧の日々の延長戦』をやってやろうと思って。そうです、都銀ではなく、株式会社セガ・エンタープライゼスに就職します。当時、もっとも勢いがあった時代じゃないですか。ゲームセンターの出店ラッシュの時です。私は、このゲーセンの店長になるわけです」。
面白くてたまらなかったそうだ。
「みなさんは、ゲームセンターに『遊びに行った』と思っているでしょ。でも、私らからすれば逆なんです。私たちの思い通り、お客様を動かしているんです。アテンションさせて、店内に入れ、1000円を崩してもらって。そう、そこから私たちがしかけたトラップに沿って、次々、ゲームを楽しんでもらう」。
三田氏は、たった100円の重みという。
「たった100円。でも、100円なんです。崩した10枚の100円玉をいかにぜんぶ使っていただくか、それが私たちのゲームなんです。毎日が学園祭みたいなもんで、そりゃ、楽しくないわけはないでしょ。当時は、運営方法もすべて店で決めることができましたら、面白さはハンパないわけです」。
ただ、いくら楽しい言っても、ゲームだから勝敗はある。

格闘ゲーム。

「これは、私が店長をしていたある横浜のゲームセンターのことなんですが。当時は格闘タイプのゲームが流行っていて、それがどこでも、いちばん人気だったんですが、その辺りはちょっとガラが良くなかった。格闘ゲームをやりに来たはずの高校生らが、バーチャルからすぐにリアルな戦闘モードに入ってしまって(笑)」。
「私たちは、その度にすっとんで止めるわけですが、営業時間中常に社員がいるわけにもいかない。アルバイトに対応させるのも無理があって。それで、エリアの責任者に相談して、結局、そのゲームを取っ払ったんです。私はそれ以外の方法で対処したかったんですが、そちらは聞いてもらえなかった。人気ゲームを取っ払ったおかげで、売上は5割減。それでも、とっても平和なゲームセンターになったんです。それは、それは平和な日々だったんですが、ある時、その平和を乱す男が1人、関西からやってくるんです」。
「バリバリのエース」と三田氏は表現する。関西からやってきたのは、群を抜く成績を上げたたしかにエース中のエースだった。赴任して初めての店長会議で、エースが関西弁でまくしたてる。
「リアルファイトに怖気づいて、売上の核となるあの格闘ゲームを取っ払ってしもうた超ヘタレがおるらしいな」。
店長たちの顔を次々、観ていく。たまらず「オレです」と手を挙げた。ののしるような、侮蔑するような眼を向けられる。正確に言えば、敗者に向ける目だった。
事情を知る仲間たちは、三田氏をかばってくれたそうだ。「決めたのは、三田ではない」と。しかし、そんなことでエースは動じない。エースにはエースの事情がある。いうまでもなく、半分に落ち込んだ売り上げを改善させることだ。
・・・・続き
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