2016年4月26日火曜日

株式会社うる虎ダイニング 代表取締役 片瀬真一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社うる虎ダイニング 代表取締役 片瀬真一氏登場。
本文より~

うる虎ダイニング」

社名がいい。
「うる虎ダイニング」。凝っているわけではないが、すんなり頭に入ってくる。今回、ご登場いただくのは、この「うる虎ダイニング」の社長、片瀬 真一氏である。
片瀬氏は、1972年6月18日、東京都葛飾区に生まれる。子どもの頃から運動神経が良く、父親の仕事の関係で世田谷区に引っ越すことになった時もスグに転校先に馴染めたそうだ。運動ができれば、仲間もできる、そんな時代だった。
スポーツは野球。ショートなどを守っていたが、どちらかと言えば、父親にやらされていたというのが正直なところだ。一方、本人がやりたかったのは空手で、物心ついた頃から「空手がしたい」と直訴していたという。なぜやりたかったのか?と問えば、「ケンカがつよくなりたかったから」と素直な回答。
引越しを機に許しが出て、それからは空手一筋。道場に通い、中学3年の時には全国まで勝ち上がって、組手で1位、型で2位となっている。高校は空手の名門「目黒高校」からお呼びがかかった。始発から終電まで、練習漬けの日々が始まる。しかし、弱音はいっさい吐かなかった。こちらでも全国大会に出場。団体で優勝。組手や型でも2位という成績を残している。
大学は、駒沢に進学する。「セレクションに通り、進学しましたが、その秋に退部し、大学も退学しました」。
それから、半年くらいは何もしなかったそうだ。空手を辞めたことで空いた心の穴の大きさを証明している。

飲食へ。新たなスタートを切る。

半年間、何もすることがなかった。しかし、いつまでも遊んでいるわけにはいかない。「牛鉄という、牛角のモチーフになったようなお店で、アルバイトを始めたのは、ちょうど半年くらい経った頃です」。
きっかけは「友人に誘われて」とのこと。「別段、飲食に興味があったわけではありません」。興味や関心がないかわりに、誘いを断る理由もなかった。むろん、牛角のモチーフになるような店だったと知ったのは、ずいぶん後の話である。
「最初は、なんとなく仕事をしているって感じだったんです。特に目標があるわけではないし、飲食が好きってわけでもない。ところが、あることがきっかけで、アルバイトから社員に昇格しました」。
なんでも、社員になる予定だった片瀬氏の友人が、両親の反対で社員になることを断念。店側もそれを予定していただけに、「代わりの正社員を募らなければならなくなった」のだという。
それで片瀬氏が手を挙げた。19歳の時である。
「少しずつですが、飲食に惹かれていたのは事実です。でも、それ以上に、やるからには負けたくない、そういう思いが強かったんだと思います」。
やるからには負けたくない。このシンプルな思いが、片瀬氏を飲食という仕事に立ち向かわせる原動力になった。思えば「勝ち、負け」の世界で生きてきた。勝つか負けるか。もっとも空手の時のように、上手くはいかなかった。それがかえって、仕事に没頭させる要因となったのではないだろうか。「負けたくない」、片瀬氏は、誰よりも真剣に仕事に取り組んだ。
「飲食」という新たな道がスタートする。

「店長に」と直訴。20歳の思いは、3年後に結実する。

「周りの人間に負けたくない、という思いだけで必死にやってきたわけですが、はたらいているうちに、飲食という仕事が好きになっていること気づくんです」。
何名もの「飲食の戦士たち」をインタビューしていると、「飲食」はつくづく幅が広く、奥が深い職業であることに気づく。
何気なく始めた人たちが、「『ごちそうさま』の一言に魅了され、奥深さに触れ、熱中した」という話を何度となく伺ったからだ。
片瀬氏も、その1人だろう。飲食が好きだと気づいた片瀬氏は、それまで以上に、からだを動かし、頭を使った。どうすればもっとお客様が喜んでくれるのだろう。店の運営にも関心を持つようになった。
拍車がかかる。1年後には、「店長になりたい」と、会社に直訴するまでになっている。「ところが、この時はまだ若いってことで、受け入れてもらえませんでした(笑)」。
店長になったのは、23歳の時。「牛鉄本店」の店長に就任している。20歳で願ったポストを3年後に勝ち取ったことになる。
責任者となった片瀬氏は、それまでの3年間の思いをぶつけるように仕事に励んだ。売上額は、あっというまに最高額をオーバーした。

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2016年4月23日土曜日

大親友の安田、忙しい合間のなか。

京都のど田舎の高校時代からなんで、もう37年来の大親友の安田、東京出張で会社に顔出してくれ、一緒に駅までのたった10分程度でしたが、忙しい合間来てくれました。
前職時代からいつも「細見はすごい細見はすごい!」って自信付けてくれたな…。
それがあったから営業1位も数回獲得でき、アルバイトから正社員に駆け上がれたのかもしれない…。
                  (JR田町駅にて)

2016年4月21日木曜日

株式会社ポトマック 代表取締役 金指光司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ポトマック 代表取締役 金指光司登場。
本文より~

少年の知恵。

貧乏だった、と金指光司氏は子どもの頃を振り返って笑う。だから、大きくなったら、貧しい思いはしたくないというのが少年の素直な思いだった。
お金はなかったが、才能には恵まれていた。なかでも、絵がとても上手だった。
「美術や作文のコンクールでいろんな賞をいただきました」。絵を描く、作文を書く。お金はかからない。少年は、小さな画用紙のなかで、いくつかの文字のなかで、世界を描いた。
「旅行とかは行ったことがない。やっていたことっていえば、そうですね、小学生高学年の時から音楽にハマって。それがいま思えば、良かったんでしょう。そのおかげで道を外すこともなかったから」。
音楽を始めた頃、一つのエピソードがある。
「ギターを弾きたかったんですが、買うお金がない。それで、ギターみたいなのを手づくりして練習していたんですが、それをみた母が、たまりかねたんでしょうね。大事な化粧箱を売って、ギターを買って来てくれました」。
「当時、うちにはレコードがたくさんあったんですね。シャンソンとか。そういうのを聞いていました」。
ラジオにも釘付けになった。夜になればラジオのスイッチを入れ、流れてくる洋楽に耳を傾けた。
「興味を持ちだすとハマるタイプなもんですから、本を買ってきて、いろんなアーティストがいることを知りました。お金ですか? バレて、母親に物凄い剣幕で怒られてしまうんですが、当時、流行っていた仮面ライダーカードやスパイ大作戦手帳を転売して、やりくりしていたんです」。
少年の知恵である。

サブカルチャーと金指氏。

高校はデザインで有名な工業高校に進学した。美術教師でもあった担任から、薦められたからだ。
「この学校がいい、と薦めていただいたもんですから素直に進学するんですが、私と同じような生徒がたくさんいて、それで私のオタク度も加速するんです(笑)」。
全員が、サブカルチャー好きだった、と金指氏。主流ではない、亜流の文化に惹かれるということだろうか。
「当時、MTVが始まって、音楽やファッションのムーブメントが動き始めたんです。新鮮な思いでした」。
1枚の絵を描く才能は、新たな文化も、時代の流れも敏感にキャッチした。「感度」という言葉に凝縮されるかもしれない。高校の教師も、そうした金指氏の一面を的確に捉えていたのだろう。
教師は、シャープの子会社「デザインモデルセンター」を薦め、金指氏は今回もそれに素直に従った。
「いまでは世界規模ですが、当時はまだ50人くらいの会社でした。寮生活です。楽しかったですね。4畳半に2人です。何もしないとつまらないんで、押し入れに隠れて相手を驚かせたり、トイレットペーパーで蜘蛛の巣をつくったり。水遁の術で風呂に隠れたこともありましたっけ」。
「デザインモデルセンター」には、1年くらい勤めた。もう、貧しくはなかったが、まだ何をしたいかは明確ではなかった。

アパレルと金指氏。


「最初になりたいと思ったのは、シェイパーです。シェイパーとは、オーダーメードのサーフボードを作る職人なんですが、波乗りをしていたもんですから、ああいう仕事がいいな、と」。
ところが、そう思っていた矢先、あるアパレル会社の社長から声をかけられた。金指氏の時計が、動き始める。
「20歳の時です。その社長さんに誘っていただいて、彼が経営するアパレル会社に就職するんです。結構、お金持ちで、豪遊も好きな方だったもんですから、今まで行ったことがないようなお店に連れて行っていただいたりして、世界が一気に広がります。お酒の味を知ったのも、この頃です」。
最初は販売職だったが、そのうち、商品開発へ。デザイン企画にも携わり、デザインの方法も学んだ。もともとファッションや音楽に傾倒していた金指氏である。デザインという仕事は、適正だったのではないだろうか。

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2016年4月20日水曜日

キイストンスタッフ全体、力付けてきたな〜!

この1年で営業はもちろん、全体的に組織が良くなってきました。
皆で考え頑張ってくれてるので、私も以前みたいに、なんでやらんのか?なんでフォローしないのか?なぜ小さな会社なのに自分中心やねん!といったストレスもなくなり、
今は感謝の気持ちでいっぱいです。

私たちは企業様の採用を成功させる、転職者と企業様とのベストマッチが仕事。
業界ナンバーワンになるために、ココは曲げない!
実力をこのまま蓄積すれば、それも不可能ではないところまでは来た感じです。

本当に組織は、人で変わりますね。
誰を採るか!
これは大きいです!

2016年4月19日火曜日

さざれ石、頂戴しました!

さざれ石と言えば国歌「君が代」にも出てきますが、元焼肉のさかいの創業者で現在さかい珈琲のオーナーでもある坂井 哲史社長より頂きました。
坂井社長、いろんなが経験されてきた方なんで、人材経験談も含め話がためになりました!
また、お昼ご馳走にもなり、本当に気遣いが自然に出る人情味ある社長です。
※余談ですが、さざれ石の販売もされております。

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2016年4月13日水曜日

4月12日発行の日刊ゲンダイに「スタイルスグループ」の佐々木浩史社長の記事が取り上げられました!

佐々木浩史社長の記事が4月12日(火)掲載の日刊ゲンダイに取り上げられました!
先日、うちの担当営業マンも仙台本社に行ってきました!!
いい会社の採用をお手伝いさせて頂くのはうれしいですね。
飲食の戦士たちの佐々木社長の記事はこちらです。→佐々木浩史社長
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2016年4月12日火曜日

株式会社とりとり亭 代表取締役 北川民生氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社とりとり亭 代表取締役 北川民生氏登場。
本文より~

三河湾に浮かんだ小さな島。

今回、ご登場いただいた北川氏の生まれは、三河湾に浮かぶ小さな島である「日間賀島(「ひまかじま」と読む)」。いまでは観光客も大勢訪れる人気スポットだが、北川氏が生まれたのは、1960年12月31日。昭和35年のこと。まだまだ「離島」という表現がぴったりだったのではないだろうか。
「祖父も、父も、海運業を行っていました。海運と言っても運送業のようなもので島に必要な生活用品を輸送する仕事です。母方は、島で金物屋を営んでいました。人口もそう多くない、小さな島です。仲間意識の強い風土で、育ちました」。
北川氏は、高校まで、この「日間賀島」で過ごしている。

名古屋へ。風呂もないアパート暮らしが始まる。

名古屋に出てきたのは、蕎麦屋に就職したからである。「風呂もないアパートです。そのアパートに先輩と寝食をともにしながら住み込みではたらきました」。
オーナーがいい人だったと北川氏。
このオーナーから社会人の基礎を学んだそうだ。
「こちらで勤務した2年半は、貴重な経験でした。しかし、もともと人の下ではたらくことに向かない性格だったんだと思います」。
2年半勤務して、退職。北川氏は、ふたたび「日間賀島」に向かう船に乗った。

「日間賀島」でみつけた新しい道。

「島に帰って、しばらく『やるべきこと』をみつけようと思っていた」と北川氏。充電期間というところだろうか。ところが、腰かけ程度のつもりでお世話になった「旅館」が、新たな道につながっていた。思いもしなかったところに広がっていた道だ。
「旅館を経営されている社長が、とても魅力的な方だったんです。アイデアマンで、『日間賀島』は今、観光の島になっていますが、そういう島のベースを考えたのも、その社長さんです」。
社長に惹かれ、社員として勤務するようになった。
「人軸」でものを考える北川氏らしい話である。
もっとも仕事はハード。「人がいないから、サービスからフロント、調理場まで、なんでもこなしました(笑)」。オールラウンドプレイヤーである。社長にとっても頼りになる存在だったに違いない。北川氏はさらにフィールドを拡大する。

オーベルジュ、オープン。軌道に乗る。

「私が24歳の時です。オーベルジュを出店することになったんです」。
北川氏が支配人に抜擢された。もっとも、会社にも、北川氏にもオーベルジュの経験はない。
「それどころか、フレンチなんて食べたこともなかったですからね(笑)。まったくゼロからのスタートです。いまならインターネットで検索すれば、情報も簡単に入手できますが、当時はそういうわけにもいかないでしょ。フレンチって言葉も、一般的ではなく、文献を探そうとしてもわずかしかありません。とにかく、フレンチのお店があれば、お店に行って話を聞かせてもらいました」。
行動力も、北川氏の魅力の一つだ。しかし、この時は、切羽詰まった思いが北川氏の行動に表れていた気がする。
努力が実ったのか、狙いが良かったのか、初挑戦のオーベルジュは、上手い具合に軌道に乗った。

・・・続き

株式会社とりとり亭 代表取締役 北川民生氏
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2016年4月8日金曜日

株式会社鯖や 代表取締役 右田孝宣氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社鯖や 代表取締役 右田孝宣氏登場。
本文より~

大阪市西淀川区、生まれ。

今、注目されている「とろさば」を仕掛けたヒットメーカーである株式会社「鯖や」代表取締役、右田孝宣氏に登場いただいた。
右田氏は1974年、大阪市西淀川区に生まれている。2つ上の兄と双子の弟の3人兄弟。実家は代々続く、和菓子店だった。
「兄は、真面目な性格でしたが、私たち双子は小っちゃい頃から、やんちゃでした。2人とも好奇心が旺盛で、トラックのへりにつかまって信号から信号まで移動するなんていたずらもしょっちゅうしていました」。
次の信号で止まるはずが、運転手にとっては運よく青信号がつづき時速は80キロくらいになったこともあったそうだ。むろん、振り落とされれば大怪我必至である。
中学生になってもやんちゃな性格はそのままで、一言でいえば「ヤンキー」だったそうだ。もっとも、「ヤンキーといっても、うしろについて歩くだけの小ヤンキーだった」とこちらを笑わせてくれる。
やんちゃなぶん、運動神経も良かったそうで中学時代はバレーとサッカーを掛け持ちしている。
中学は3年で済んだが、高校は4年、通った。
「1年の時に、ダブってしまって」と右田。一時は、退学しようとまで考えたが、母と双子の弟の励ましで、無事、卒業できたそうだ。

苦手な魚を克服?

高校を卒業した右田は、水泳教室のインストラクターになった。卒業して1年くらい経った頃だろうか。19歳の時に、友人に誘われ、魚屋に就職する。
「もともと私は、魚が食べられなかったんです。魚屋の仕事は匂いもするし、からだもキツイ。最初は、すぐに辞めてやろうと思っていたんですが、友人の顔を潰すことはできない。ところが、だんだん楽しくなってきて、魚も見事、克服。お客様にお勧めするのも楽しくなってきて。そうなると、料理方法も探求するようになるから不思議です。で、私が魚を食べられなかった理由もだんだんわかってきます。うちの母親は魚の臭みを引き出す名人だったんです(笑)」。
22歳で、転職。同じ魚屋だが、規模が大きな魚屋に移った。
 だが、まだ若い。気持ちも揺らぐ時期である。
「転職したものの、このままでいいんだろうかって。将来が不安になる頃ですよね。その時、会社の後輩のお兄さんが、貿易関係の仕事をされていて、海外の話を聞いて憧れるんです」。
一言でいえば「かっこいいな」と思ったそうだ。それで、いきなり海を渡った。オーストラリアのシドニーへ、である。
英語ができなかったから、付け焼刃で対応した。高校の先生に頼み込んで1ヵ月半だけ英語を習っている。

シドニーにて。

付け焼刃の英語で、3ヵ月かけオーストラリアを一周した。向こうの環境に慣れるためである。職もみつけた。
「シドニーでは、寿司屋で勤務しました。魚もさばけますし、目利きもできます。けっこう重宝いただいて、2年弱のうちに、向こうでは社長の次のナンバー2になりました。その当時の社長とはいまだお付き合いがあるんですが、とてもエネルギッシュな方で、いまのうちのビジネスモデルの原点も、この社長から教わったと言えるかもしれません」。
大恩人だが、むろん、いい時ばかりではない。「いつか、退職しようと思っていたんですが、それが2年少しという時期になったんです。子会社の社長に、って話をもらい、それをきっかけに退職しました」。
シドニーの寿司屋を退職し、帰国。英語も多少だが、覚えた。ビジネスの仕組みも覚え、経営のノウハウも学んだ。ナンバー2にもなった。俺にできないことはない。
少し、鼻も高くなった。

・・・続き
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2016年4月3日日曜日

新人営業マン、社会人インターンのおかげで3月は社長取材月20件以上。

新人営業マンのS君と社会人インターンU君のおかげで
なんとこの1ヶ月で社長取材通じて新たなご縁19社長と出来ました。
よく皆に話しています、『飲食経営者の生き様まで直接聞いてるネットワークは日本一』 と。
これも皆、現在・過去と営業マンのおかげです。
なんと上場会社も3社、たいしたもんです。

"飲食の戦士たち"も531連載。既に40社ほどは取材済みのため1,000連載への見通しは立ちました。
未知の2,000連載までは現役で取材する予定です(笑)

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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

HUB様2016年の新入社員の入社式、なんとイギリスで!!

入社式が行われたのは約300年の歴史を誇るロンドンのパブ「The George IV」。 
太田剛社長は「この地で『ハブ人生』のスタートを切られたことは意義深い」と新入社員を激励した。 

NHKニュースにも取り上げられたようです。
本場のパブを入社時から体験させていかれるとは、本当に素晴らしい会社です。
2017年新卒採用はコチラ→マイナビ2017  リクナビ2017

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願いは叶う!! 父親少しずつ少しずつ回復してきています。

昨年11月11日、父親が脳梗塞で意識が無くなり、一時は厳しい状態でした。
もちろん、瞳孔も開らいたままで、動くことも話すことも食べることもできませんでしたが、うちの父親はすごく生命力強いです。
意識はあり、手も少しだけ動くようになりました。
先週、うちの家内の提案で昔の写真をDVD撮ってベッドに置いてあげようと京都出張時に入院先に行ってきました。
すると週末姉が病院にいった際、姉がお父ちゃんわかる?』って聴くとわかる・・・』っ超えだしてくれたようです。
手足も以前と比べるとすごく細くなりました。
でも必死に回復しようとしてくれています!!
やはり、父親の好きな東京にあと1回最低でも連れてやらねば・・・。
願いは叶う!! 
 (日本刀持って満足げの父親)
(DVDに写っている写真を真剣に見てる父親)
(姉が言葉かけたら返事してくれた父親)
(若き頃の父親、お気に入りの1枚)