2015年12月24日木曜日

松平みなさん著書の『穣の一粒』完成。

今夏、オーストラリア・シドニー在住の松平みなさんが来られお話されていた著書『穣の一粒』が愛媛新聞社の協力のもと遂に完成となりました!!
日豪を結ぶ懸け橋となったオーストラリア米のパイオニアの高須賀穣の生きざまを描いた書籍だけに、TTPを前に心配されてる農業関係者の方、また海を越え海外に挑戦される方など多くの人に読んでもらえる様、キイストンは全面支援していきます!
松平さん、そして鱒屋・定松社長、藤山さん、おめでとうございます。
(キイストン・シドニー準備室より)
http://www.sunricejapan.jp/takasuka.html

株式会社T・Sコーポレーション 代表取締役 徳山哲大氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”にステーキ听の株式会社T・Sコーポレーション 代表取締役 徳山哲大氏登場。
本文より~

やんちゃな奴は、ラグビー部に入れ。中学時代に流した汗と悔し涙。

今回、ご登場いただく株式会社T・Sコーポレーションの代表取締役、徳山哲大氏は1977年、京都市南区に生まれる。
「父は、建築関連の会社を細々とやっていました。社長1人、従業員1人というような会社です。兄弟は3人。私が末っ子で、長男と長女、そして、私です」。
末っ子ということもあったのだろう。小さな頃から好き勝手に何でもやる性格だったそうだ。
「これは、兄もいっしょなんでしょうが、とにかく負けずキライでした。目立つのも大好き。運動神経も悪くなく、陶化中学校に進学してからは、ラグビーを始めます。陶化中学校は京都府内でも有名なラグビーの強豪校だったんです」。
ポジションは、スタンドオフ。あの有名なラグビーの、平尾誠二氏とおなじポジションである。ちなみに、平尾氏も京都市南区出身である。
「当時、『やんちゃな奴は、ラグビー』っていう風潮があって、私もラグビー部に入れられてしまったわけです(笑)。練習ですか? そりゃきつかったですね。『お前らは、勉強しなくていい。ラグビーをしろ』って。そういう学校でしたから、練習も朝・昼・晩。今と違って水も飲めない。練習地獄です。でも、それだけ練習しても、私たちの代はパッとしなかったですね。いち学年うえにはタレントが多く、ベスト2までいったんですが、私たちはベスト8が最高でした」。
徳山氏の代になって、監督が一時不在になったことも、いい成績を残せなかった理由だろう。
しかし、それとは別に、徳山氏にはいまも悔いが残っている。
「練習で、膝が折れてしまったんです。病院に行ったら、即入院と言われ、最後の試合に出られなかったんです」。
負けずキライの徳山氏にとって、あまりに悔しい思い出でもある。

泣きながら、乗ったトラック。兄弟3人の戦い。

「高校になって足も治ったんですが、もうラグビーはいいかな、という気分になって、サッカーに転向します。進学したのは、今夏(2015年の夏)、甲子園に出場した鳥羽高校です」。
当時の徳山氏の学力から言えば、「鳥羽高校」は高いハードルだったそうで、たまたま、受かってしまったそうだ。
とにかく、学業のレベルもあげつつ、高校を卒業した徳山氏は、父の下で建築関連の仕事を開始する。
「私たちは、兄弟3人で助け合って、励まし合って父がはじめた事業を拡大し、京都でも名の知れた会社にしていくですが、最初に入ったのは末っ子の私だったんです」。
当時の話も聞いてみた。
「最初は、給料もでませんでした。でも、歯をくいしばって。給料がないから、夜はショットバーでバイトをしました」。
ちょうど、この頃、父にとっても、兄弟3人にとっても最愛の、母親が亡くなった。
「これが、ひとつのきっかけですね。兄弟みんなが一つになったのは。兄も、姉も、いっしょにやろうと」。
徳山家の挑戦がはじまった。
もちろん、いばらの道であることは、だれの目にもあきらかだった。2人だけでも、食べていくのに精いっぱいの会社である。
「兄も姉も、社会人だったんですがもどってきてくれました。とにかく、『いっしょにやろう』って。『兄弟3人、ちからを合わせればなんとかなる』って」。
徳山氏にとっては、何より心強い援軍だったはずだ。「私は、ラグビーで鍛えた体があったから、きつくても大丈夫。だから、作業担当です。兄は、頭もいいから、営業です」。
負けずキライな兄が、頭を下げているのを何度もみた。その度、徳山氏のエンジンが点火する。
「兄が獲ってきた仕事は、『何でも引き受けてやる』って思いました」と徳山氏は当時の心境を語っている。
兄は、京都府内にある、ゼネコン、工務店を片っ端から回った。契約をもらうまで何度でも、頭を下げつづけた。
経営のことがわかっているわけではない。許可についても詳しくは知らなかった。只々、頭を下げ、只々、利益を確保できるように仕事に没頭した。「泣きもって、トラックに乗った」のも、この時である。
ひと息ついた時には、10年が経っていた。会社は、京都でも、少しは知られる会社となっていた。
「事業が安定したもんですから、そろそろ、ええんちゃうかと思って、私自身、昔からやりたかった飲食店をやろう、と思ったんです」。
姉のご主人であり、現在、副社長でもある竹村氏と2人、新たな旅が始まる。

・・・続き

株式会社T・Sコーポレーション 代表取締役 徳山哲大氏
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1泊2日の中国上海弾丸出張。

12月22~23日中国上海へビジネスため滞在時間約24時間という弾丸出張行ってきました。
時間は短かったですが、いい仕事に発展しそうです。
仕事に関する内容は極秘のため上海の夜景のみ。
なんと私を迎えるような『I  SH(昇市・細見)』(笑)

2015年12月16日水曜日

株式会社トマトアンドアソシエイツ 代表取締役社長 小花良一郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”すかいらーくグループの株式会社トマトアンドアソシエイツ 代表取締役社長 小花良一郎氏登場。
本文より~ 

静岡県藤枝市。

小花氏は1955年2月26日、静岡県藤枝市に生まれる。藤枝市は、静岡県の中部に位置する都市で人口は少なくない。
「代々農家で、私で13代目です。もっとも何代か前から兼業となり、祖父は校長で、父は農林水産省の役人。今は、残念ながら農業はしていません」。
それでも、昔からの実家はあるそうで、築160年という。「煤が天井にへばりついて、時々落ちてきますが、まだしっかりしていますよ」とのこと。前は囲炉裏があり、平屋だが、広い部屋が8つもあるそうだ。
「父が、農林水産省の役人だったこともあって転勤が多かったんです。私は、すぐに馴染めるタイプだったもんですから苦にならなかったんですが、中学に進学する時に『さすがに、転々とするのは良くない』と、姉と一緒に祖父母のもとに送られました」。
だから、中学からは祖父母の住まいがある静岡県藤枝市がホームグランドとなった。

ノーと言える人間になれ。

中学生になった小花氏は野球を開始する。運動神経が良く、こちらでもすぐに人気者になった。高校でも野球をつづけた。進学したのは「藤枝東高校」。サッカーファンの方なら、学校名をご存知かもしれない。
「そうなんです。サッカーの強豪校で、私がいた3年間だけでも全国優勝を2回。ちょうど私らの代が準優勝でした」。
小花氏が所属する野球部は、どうだったんだろう?
「こちらは、ぜんぜんだめ(笑)。そもそもメンバーも少なかった」。
監督も元々は部外者の方だったそうで、サッカーと比べるまでもなく、先生方の期待も薄かった。とはいえ、中・高の合計6年間、グランドで汗を流したのは、事実である。
この頃、祖父から「ノーと言える人間になれ。イヤと言えることがほんとうの勇気だ」と教わった。これが小花氏の人生訓となる。
「祖父は、アメリカ人みたいになれといったわけじゃありません。戦争体験を通し、その後悔から、長いモノに巻かれるのはいけない。『はっきりとノー』と言うことが大事なんだと言いたかったんです」。
 胸に響いた。ただ、この時、「ノー」と言うむずかしさをどれだけ理解できていたかは、わからないが…。

専修大学進学、アルバイト三昧の日々が始まる。

大学は、専修大学に進学。本命の大学に落ち浪人するつもりでいたが、母の「大学で何をしたいの?」という一言で進学の目的をつかみ、専修大学に進学した。同時に、東京での独り暮らしもスタートする。
東京に行くからには、「生活費も含め、自分なんとかする」と言った手前、アルバイトも早々に開始しなければならなかった。
「新宿にあるパブで、5月からアルバイトを開始しました。それから4年間、バイト三昧」と小花氏は笑う。
生活費や学費だけではなく、バイトに明け暮れるもう一つの目的は、旅費だった。
「石垣島出身の友だちができたのがきっかけで、夏休みだけじゃなく、春休みも、冬休みも石垣島に出かけました。東京から船で47時間。それで沖縄に着き、そこからプラス16時間です。向こうでも、アルバイトをして暮らしました。この時、できた友人たちとは今も親交があります」。
年齢も、出身も違う。
「そういう奴らと、男女も関係なく夜な、夜な、泡盛。楽しくないはずはないですよね」と小花氏は語っている。
それにしても行くだけで、63時間。この行動力も、ある意味、小花氏のちからの源泉かもしれない。

ファミリーレストランの時代到来。

「大学3年時に、アルバイト先のマネージャーからロイヤルホストを紹介されたんです。これからは、ファミリーレストランの時代だと言って」。
小花氏が大学3年といえば1976年。まさにファミリーレストランが、時代の寵児へとかけ上がっていく頃だ。
「11時のオープン前から列ができた」と当時を知る人から聞いたことがある。「『これからはファミリーレストランの時代」とマネージャーが言ったことは、まことにただしい。
しかし、就職先として考える学生はまだ少ない時代だった。小花氏も「大学出て、コックをやるのか」と父親に一言、いやみを言われたそうだ。
ところで、当時のファミリーレストランといえば、「ロイヤルホスト」と「すかいらーく」が東西の双璧だったのではないだろうか。
「ロイヤルホスト」は北九州市に1号店をオープン。「すかいらーく」は、東京都府中市に1号店を出店する。「すかいらーく」の前身は「ことぶき食品」。創業者である横川4兄弟は、あまりに有名だ。
さて、小花氏は東の雄、「すかいらーく」に就職する。本部の活気に惹かれたからだ。ちなみに現在、株式会社すかいらーくの社長を務める谷真氏も小花氏と同期入社。谷氏は、当時の様子を「火の玉集団だった」と言っている。
ともかく、就職は決まった。同期は100名。彼らは「すかいらーく」8期生である。

出店につぐ、出店。

「私が、入社した時には42店舗でした。いまから思えば、『まだ42店』ですが、当時はもう42店舗かというイメージです。昇格スピードも早く、1年でキッチンチーフになりました」。
「ただ、忙しかったのは事実です。1週間に1回くらいは休むように心がけていたんですが…」。
しかし、本人たちは、それで当然と思い込んでいたようだ。
「辞めようとも、思わなかった」と言っている。
しかし、そんな小花氏だが、一度だけ、辞めようと思ったことがあったそうだ。

・・・続き

すかいらーくグループの株式会社トマトアンドアソシエイツ 代表取締役社長 小花良一郎氏
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2015年12月10日木曜日

2016年、キイストンは新たなことにチャレンジしていきます!!

飲食業界に特化した総合人材採用会社として一歩先を歩けるために、今までやってきたことをコツコツと継続しつつ、新たな試みにチャレンジします。
24年目に入った会社ですから、ベンチャー企業でもありません。
ただ、24年目にして若手の営業スタッフが力付けてくれてるので、さらなる成長のためいろいろ任していく予定です。
そこに加速付ける意味で今から新卒部門、外国人留学生部門、中途採用部門(なかでも独立支援と高齢者雇用)、ワーホリ帰国者に対しての取組みとサービス内容の深堀りしていきます。
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2015年12月8日火曜日

「KEISUKE MATSUSHIMA」の株式会社ACCELAIRE 代表取締役 松嶋啓介氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”「KEISUKE MATSUSHIMA」の株式会社ACCELAIRE 代表取締役 松嶋啓介氏登場。
本文より~

コロンブスの伝記に魅了されて。

1977年12月20日、福岡市に生まれる。3人兄弟の次男で、兄と妹に挟まれて育った。「3歳違いの兄とよく喧嘩をした」と言って松嶋は笑う。
父は、旭硝子の関連子会社社長。父も母も大宰府出身である。
裕福な家庭だった。小さな頃から外食にもよく連れて行ってもらった。そのおかげもあるのだろう。「小さい頃から舌が肥えていた」という。
料理に対する思い入れも強く、「小学生の時には、すでに料理人になろうと決めていた」そうだ。理由はある。「漫画で描かれたコロンブスの伝記に感化されたんです。料理人だったらコロンブスのように海外へ行けると思ったんですね(笑)」。
海に出る、冒険心が少年の心をくすぐった。
当時の様子を伺うと、「勉強は並みだったけれど、できないスポーツは無かった」との返事。手先が器用だったと、料理人の卵だった少年時代の様子をそう語る。
中学生になっても、海外志向は薄れなかった。早く料理人になって海外へ飛び出したかった。「実は、高校にも行くつもりがなかったんです(笑)」。ご両親に説得され、やむなく高校に進学。

小さな冒険の始まり。

高校を卒業した松嶋は、初志貫徹、東京にある「エコール辻東京」に進学する。1年制の専門学校である。
海外への切符を獲得するために、地元を離れて小さな冒険に出た格好だ。本格的にアルバイトを開始したのも、この時から。バイト先は、渋谷のレストラン「ヴァンセーヌ」。人気のレストランである。
「1年間、『ヴァンセーヌ』でバイトをしながら、学校に通いました。その時からフレンチと決めていたんです。卒業後は、そのまま、『ヴァンセーヌ』に就職しました」。
これが、松嶋の第一歩。「『ヴァンセーヌ』で2年勤務して、「親戚からお金を調達して、なんのあてもないままフランスに向かいました(笑)」。
大胆と言えば大胆。松嶋の海外に対する想いは本物だった。

20歳、渡仏。あてもない冒険に出る。

無謀といえば無謀だが、若さの特権でもある。20歳から松嶋はフランスで暮らすことになる。
単語を紡ぎながら、会話することで言葉はなんとか通じた。
さまざまな店を回り、仕事をもらった。
「向こうは日本のように上下関係というのが無くってフレンドリーです。合計、十数軒のレストランを転々として、シェフも任されました。料理はできる、できないかではなく、やりきるより他無かったですね」。
給料についても伺ってみた。
「日本より良かったですね。だから休日には他の店に視察に行くこともできました」。日本の青年が1人あてもなくフランスで修業の日々を送る。
「日本は出る杭を打つ文化。当時、そういう文化を持つ日本という国には正直興味が無かったんです」と松嶋は言う。そういう松嶋にとってフランスは、ある意味で対極の文化を持つ国と映っていたに違いない。
一方、松嶋のフランス生活を支えた人がいる。JALのスチュワーデスだった奥さまである。
「飛行機の中で知り合ったんです。彼女は私より14歳年上でした。私が24歳の時に結婚しました。ただその後、フランスのビザも取れていない状況で、今後やりたいこともあり、このままでは相手に迷惑をかけると思っていたんです。そして離婚の話を自ら切り出しました」。
ところが奥さまは、松嶋にそれまで貯めていたお金を渡し、「お店の開店資金に使って。その代わりに家は買ってね」と言われたそうだ。店をオープンすることで、フランスで暮らす足場を固めることができる。それは2人にとって最良の選択肢だった。
2002年12月20日、松嶋は25歳の誕生日にレストラン「Kei's Passion」を本場フランスのニースにオープンさせた。奥様の決意と愛情が松嶋の野望を支えたのだった。

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これからの人材は誰を採るかを重視する!

いくら指導者が同じように教えても、
伸びる人と伸びない人はもともとの資質が大きく左右する。
資質の中には、今までの育ってきた、また生きてきた環境もともと大きい。
なんで、今後のキイストンの採用は誰を採るかを重視したい。
ただし、資質はいい学校(大学)卒業、裕福な家庭、大手企業からの転職ではない。

社会経験のほぼ無い人は最初から輝いてる人材は少なく、原石を見つけることである。

・好奇心あり、吸収する力がある人
・コンプレックスがあまりない人
・コミニケーション能力高い人
・勝ち癖ある人
・素直な人

このあたりかな、キイストンで見極めたいのは…。
合わせてベンチャー体質に合う人材の見極めが大事である。

2015年12月4日金曜日

『boys be ambitious』…少年よ大志を抱け!!

ミシュランで星を獲得された石垣吉田の吉田オーナーシェフの社長取材のため、うちで頑張ってくれてた細見塾生(笑)の2人が取材サポートに来てくれました。
ちなみに向かって左側の大柄な横谷君は、あの五郎丸選手のラグビー部後輩で11月30日よりオーストラリアに、右側の南雲君は11月22日よりベトナムに飛び立ちました!
この1年で海外でどれだけ成長してくれるか楽しみです。
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2015年12月1日火曜日

大東企業株式会社 代表取締役社長 北尾拓也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”大東企業株式会社 代表取締役社長 北尾拓也氏登場。
本文より~

3代目、当主、逃げ出す。

戦後、焼け野原の東京のあちらこちらで、小さな飲食店が生まれた。今回、登場いただいた大東企業株式会社、代表取締役社長、北尾拓也氏の祖父が銀座に開いた喫茶店も、そうした店の一軒だった。
「元々、祖父はバスの運転手、祖母がバスガイド。それが縁で結婚したらしく、バスガイドを辞めた祖母が喫茶店を開いたのが、始まりだそうです」。
 北尾氏の話によれば、店は流行り、2号店、3号店も出店したそうである。
「そのあと、私たちの父の代となり、今度は、イングランド風の洋風パブに挑戦しました。こちらは100メートルほどの列をつくる人気だったそうで、このパブもすぐに4店舗ほどになったと言います」。
北尾氏が誕生したのは、この頃。
「貧しくはなかったですが、父も母もいそがしく、食卓を囲むこともなかった気がします。兄弟は、男ばかりの3兄弟で、長男が私。いそがしい父母を観ていたからでしょうか、家業を継ぐ気はまったくありませんでした」。
これには、もう一つわけがあって、子どもの頃の北尾氏は、親に反発していた節がある。中学時代には一度、家出もした。
「子どもの頃から、勉強、勉強です。TVゲームで遊んだこともありましたが、早くから塾にも行かされ、とにかくスパルタ教育です」。
勉強を強いられることよりも、期待をかけられていることが、息苦しかった。反動で、中学からはまったく勉強もしなくなったそうだ。
「弟たちは、私と違って、まったく自由です(笑)。それを観て、長男に対する期待がわかっても、私にとって、期待は重荷以外何ものでもなかったんです」。

高校卒業、就職へ。

中学ではバスケットボールの選手だった。いちおう、学校には通学していたが、前述通り、勉強とは無縁。ギリギリ、入れる高校をみつけて進学した。
「目黒にある高校でした。卒業後は、しばらくは家でぶらぶらしていたんですが、お父さんの目が段々鋭くなってくるのがわかって、それで、しかたなく藤沢にある、とあるおもちゃ関係の会社に就職したんです。もちろん、通うことはできないので、独り暮らしのスタートです」。
これが、北尾氏の社会人の始まり。正確に言えば、サーフィンの始まりでもあった。

サーファー、社員。社長になりたいと思う。

「従業員5~6人の会社だったんですが、とにかく、ゆるい会社でした。休憩時間になると、みんな波乗りに行ってしまうんです。私は、サーフィンは知らなかったもんですから、最初は戸惑っていましたが、そのうち、みんなといっしょにサーファー社員です(笑)」。
 サーファー社員といっても、仕事はきっちりしていたそうで、社長とも親しく、口をきいてもらっていた。
「そうですね。まだ30代だったと思うんですが、社長と話をしているうちに、私も社長業というのをやってみたくなったんです」。
その会社にいたのは、合計6年。当時の社長に刺激され、社長業に、憧れた。
「社長になるには、父親の跡を継ぐのがいちばん手っ取り早いと、思って、お父さんに会って、『会社に入れてくれ』と頼んだんです」。
日焼けした、息子が帰ってきた。動機はどうあれ、ご両親は、ひと安心されたことだろう。

社長の、試練。

両親の思いとは別に、突然、帰ってきた3代目への、社内の風当りは、相当きつかった。掃除や雑用が、北尾氏のメインの業務だったことからも、当時の様子をうかがい知ることができる。
一方で、北尾氏は、弟2人も会社に入れ、父親ともひんぱんに、会話をするようになった。
「弟を引き込んだのは、淋しかったからかもしれません。お父さんと会話するようになったのは、職場で、だれからも尊敬される父をみたからかもしれません。とにかく、そうやって少しずつ、私は、社長にちかづいていきました」。
ところで、会社の事業の話は、「洋風パブ」で止まってしまっていたが、その後も、居酒屋ブランドを出店するなど、挑戦をつづけ、いずれも好成績を残す。
その後、「個室会席 北大路」というアッパーなブランドが主流となる。「日本料理 うるわし」「個室居酒屋 番屋」も、その流れを受け継ぎ誕生した。
「アッパー路線は、料理人たちのことを思って、進んだ道です。彼らの待遇を上げるための、秘策でもあったんです」。
もちろん、アッパーな店になればなるほど、経営は難しい。
実際、経営危機にさらされたこともある。
「私が社長になって2年くらいの時です。2008年の世界的な同時不況。接待需要も、落ち込み、売上は30%ダウンしました」。
しかし、北尾氏はうつむかなかった。
「ピンチをチャンスに、という言葉があるでしょ。とにかく、いろんな方法を試し、ネットならリスティング広告も盛んに出しました。そういう、努力が、いま実を結んでいると思います」。
時代はかわって、アベノミクス。状況はいっぺんした。接待などで訪れる客がふえたうえに、いまや海外からの旅行者も少なくない。
時代はパッとかわった。しかし、時代の恩恵を、すべての店が受けているわけではない。

・・・続く
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2015年11月25日水曜日

本日11月24日、日刊ゲンダイにアイネットグループの岩田社長が全面カラーで掲載。

本日11月24日、日刊ゲンダイにアイネットグループ岩田社長が全面カラーで掲載されました。
なんとこの岩田社長はスター誕生で山口百恵と同じ大会で一緒に合格されました。
それが今では飲食店舗40店の経営者に・・・。



なんと“近江の国の子守唄”というCDも出されます!!

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2015年11月24日火曜日

11月24日、千葉商科大学・池田ゼミは株式会社そらの都築社長の講義でした。

11月24日、今年度最後の今年度最後の大学講義は、千葉商科大学・ サービス創造学部の池田ゼミは株式会社そらの都築社長の講義でした。
前回好評だった事前課題で学生参加型の講義でした。
大学生(19〜21歳)の意見は、新鮮で斬新かつ、非常に面白かったです。

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LA BETTOLA da Ochiai オーナーシェフ 落合 務氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”LA BETTOLA da Ochiai オーナーシェフ 落合 務氏登場。
本文より~

別荘で、産声をあげた落合氏。

1947年、落合氏は祖父が所有する鎌倉の別荘で生まれた。別荘を所有していたことからも想像できる通り、祖父はかなりの資産家だったそうだ。
「鎌倉生まれ、足立区育ちです」と落合氏。「当時、祖父はメッキ工場を営んでいて、かなり裕福でした。私の父と母が結婚したのは18歳の時で、母は19歳で私を生んでいます。一児の父になっても、父は定職に就かなかったそうで、私も含めて家族3人が、祖父に扶養されているようなものだったと聞いています」。
日曜日になると親子3人、自転車で浅草や上野に遊びに出かけたそうだ。「そんな贅沢をしても大丈夫な幸せな時代だったんです」と氏は語っている。

子どもの頃、なりたかったのは商社マン。

いままでインタビューしてきたシェフたちは、たいてい「子ども時代から手先が器用だった」といった。落合氏にも聞いてみたが、氏は「釘も打てず、ノコギリも上手に使えず、絵もへたくそだった」と笑い声をあげた。料理にも特段、「関心はなかった」という。
成績は優秀。小学校5年生から四谷大塚に通い、日大付属中学に進学している。
「将来は、商社マンになりたいと思っていたんです。父のように慕っていた叔父も『それがいいぞ』と言ってくれていたし…。商社マンという仕事を正確に把握していたわけじゃないんですが」。
落合氏と同年代の人に、子ども時代の話を聞けば「海外生活など思いもつかなかった」という答えが返ってくるだろう。それほど当時、「海外」は遠い存在だった。落合氏にしても、「海外で暮らす」ためには、商社で働くという手段しか思い浮かばなかったのではないだろうか。
ともかく「いい大学に入り、大きな商社に入って、海外へ羽ばたく」。落合氏の夢は、未来へと広がっていた。

「もうやってられるか」と吠えた日のこと。

「成績が良かった」と書いたが、これは周りの期待に応えようと健気に努力した結果だったかもしれない。氏は、高校時代のことと言いながら、「私は成績が優秀だったので、みんなから期待されていたんですよ。当時は、その期待に応えようと、私も頑張ってきたわけですが、だんだん『どうでもいいや』って思うようになっていくんです」と語っている。
落合氏が高校に上がる頃には、すでに祖父が事業を失敗していたこともあって、以前のように裕福というわけにはいかなかった。それでもまだ動産、不動産は沢山あった。「父が食べ尽くすのに、一生かかったくらいにはね」と落合氏は、苦笑する。
「もっとも堪えたのは、祖母が亡くなったことです。特に、父の3回目の離婚が、祖母の死に直結していたこともあって、かなりショックを受けたんです」。
落合氏にとって祖母は、特別な存在だった。裕福な環境だったが、父が何度も離婚を繰り返すなど複雑な家庭環境のなかで、いつも落合氏を支えてくれていたのが祖母だったからである。落合氏と落合家を結ぶ糸がプツリと切れてしまったようだった。
「もうやってられるか」。
落合氏は、空に向かって吠えた。

高校、中退ス。

高校1年、落合氏は、中退を決意する。親に轢かれたレールを走るのはもう懲り懲りしていたから。もちろん、「いい子」も卒業だ。「ただ、目標もなく、中退なんていうのが悔しくてね。それで職人だ、コックだって言ってね。実は、口実が欲しかっただけなんだ」。
父が、日本橋にある、知り合いのレストランオーナーを紹介してくれた。とりあえず、目指すはフレンチの料理人。動機はともかく、自ら決めた初めての道だった。

ホテルニューオータニの厨房に立つまでの話。

「初めてですから、比較はできなかったんですが、『何か違うな』と思ったんです」。父が紹介してくれた店での話である。
「素直にその気持ちをオーナーに伝えました」と落合氏。すると、オーナーは落合氏の思いをしっかり聞いて、別のレストランを紹介してくれたのだという。
「紹介してもらったのは、『トップフード』というお店です。幸いにも私は人にとても恵まれました。この店の方々もみんないい人ばかりで。しかし、この店もあとにすることにしました。そして、最終的に『ニューオータニ』に落ち着きました」。
「ホテルがいい」という知人のアドバイスが決め手だったそうである。ともかく、落合氏の人生の前半を彩る「ホテルニューオータニ」時代が幕を開ける。

・・・続く
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2015年11月19日木曜日

ビッグカメラ有楽町店に武田の出てるPOPやパンフレット、動画が・・・。

ビッグカメラ有楽町店の美容家電コーナーのTESCOMのPOPやパンフレットに武田あかねがたくさんいました(笑)

また、1階のスマホ・ケータイコーナーではSONYのXperiaのVPがたくさん流れてますが、キメの「だから私はXperia」にも武田あかねが出てます。

11月19日、青山学院大学にて濃厚鶏そば 麺屋武一 (テイクユー)の大澤武社長の講義されました。

11月19日、本日は青山学院大学・堀内ゼミにて、濃厚鶏そば 麺屋武一 (テイクユー)の大澤武社長の講義されました。
数あるラーメン店店主のなかでも異例の経歴の持ち主。大手企業の社員と飲食店経営者の二足の草鞋を10年近く履き続けたうえに、その経験をもとに講師やプロデューサー的な仕事も行い、起業家のためのノウハウ本も数冊出されています。
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2015年11月17日火曜日

東海エリアが熱い!! 株式会社AJドリームクリエイト 代表取締役 蓮川昌実氏登場。

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小さな頃から「飲食」を志した少年。

蓮川氏が生まれたのは、1973年。出身は、愛知県日進市である。蓮川氏の父親が30歳の時にこの市に「焼鳥居酒屋」をオープンする。
「もともと母方の祖母が焼肉やホルモンの店をやっていたこともあったんでしょうね。それに感化されたのか、30歳の時に父が脱サラして焼鳥居酒屋をオープンするんです。それまでは、トヨタ系列のディラーで勤務していたそうです」。
「オープン当時から繁盛していたそうです。私も小さな頃から店に行き、小学校の頃には手伝いもしていました。この頃から、将来は『飲食』と思っていました」。
「親がたのしく働いているのをみて」「ものづくりにも興味があって」「直接、お客様に喜ばれる仕事だから」。
「どうして、飲食を好きになられたんでしょう?」と質問すると、蓮川氏は、飲食に惹かれた理由を前述通り3つ挙げた。いずれも純粋な動機である。観察眼もまた鋭い少年だったに違いない。
ともあれ、小さな頃から飲食に馴染み、店に溢れる笑顔に惹かれた少年は、大人になっても「志」を忘れず飲食への道をあゆむことになる。

個人経営ではなく、組織にして。少年の希望は広がる。

「飲食という事業に惹かれる一方で、たいへんさも、もちろんわかっていました。夏休みもありませんしね(笑)」。
蓮川氏自身、夏休みになっても、どこにも連れて行ってもらったことがないから、その点がクローズアップされる。
「それで、考えたのが企業化です。父親も、祖母も個人店だったんで、それはそれで楽しいんでしょうが、自由がきくようで、きかない。だから、私は、そうじゃなくって、ちゃんと休みも取れるように企業化すればいいと思ったんです。それで、大学を出て、名古屋市内の居酒屋チェーンに就職しました。チェーン店なら企業としてもしっかりしている。そのノウハウも盗めると思って…」。
話は就職時までいっきに飛ぶ。

有名なチェーン店に就職。しかし、半年でリタイア。家業の立て直しに奔走する。

就職したのは、名古屋でも有名なチェーン店舗。名証2部上場の企業でもあった。ところが、およそ半年で退職してしまう。
「半年と言っても、 がむしゃらにやっていたのでかなり勉強もできましたし、当時、うちの店の調子が悪かったものですから、立て直しに向かいました」。
当時、蓮川氏の実家の焼鳥居酒屋は、低迷を余儀なくされていた。バブルが弾けたとたん、600万円だった月商が半分程度に落ち込んでしまったそうだ。
「バブルの時は良かったんです。どんな店でも、繁盛しましたから。でも、バブルが弾け、選別の時代が始まった」。
客が減ったのは、バブルが崩壊したせいばかりじゃない。理由も、薄々わかっていた。
BGMは、昔通りの演歌。マグロは、近所のスーパー購入した代物。それでいて「焼きなす」600円。たしかに、高いし、こういってはなんだが、素人にも低迷の理由がわかる。
蓮川氏はそれらを次々見直していく。
「いちおう、仕入れも勉強していましたので、市場まで行って新鮮な魚を買い付けてきました。料理にもこだわると、お客様も元通り増え、雰囲気もいっぺん。元の600万円の月商にもどるにもそう時間がかかりませんでした」。

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2015年11月15日日曜日

父親が脳梗塞に…。

父親が9日の月曜日、初期の脳梗塞で入院しました。
いつもとあまり変わらない様子だったのですが、水曜朝に急に容態が悪化し、意識がなくなり、酸素マスク付け、瞳孔が開いた状態になってしまいました。

脳の腫れがひどいらしく、意識もなく呼吸してるだけですが、父親の手を握ってたら生命力感じるんで、奇跡を信じてます!

病院に2日付き添って泊まってましたが、仕事のアポイントも複数入ってるため一旦東京に戻りました。
少しだけ呼吸が安定してきただけなので、まだどうなるか予断を許しません!

2015年11月10日火曜日

有限会社サンカンパニー 代表取締役 山川大輔氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社サンカンパニー 代表取締役 山川大輔氏登場。
本文より~

高校卒業までの話。

深谷市は、埼玉県の北部にある。この市に山川が生まれたのは1975年のこと。父は料理人で、山川が小学6年生の時にこの地に中華料理店を開業している。
「私は長男で、妹が2人います。男は私だけですが昔から跡取りということは考えていませんでした。ただ、料理人の父の背中をみて育ちましたので料理には関心があった。といっても、料理を勉強しようと思うのは、まだまだ後の話です」。
小学校の頃の山川は、サッカー少年だった。中学生になってバレーボールに転向する。学業の成績は、平均レベル。つまり、真ん中くらい。「高校生を卒業する時期になって初めて、父といっしょに店をやろうということになったんです」。

父と店を開業するが、意見が合わず、衝突。

高校を卒業後は静岡にある、大手メーカーに就職し、1年間勤務した。
「別にどこでも良かったんです。親父が2人で始める新しい店をみつけるまでという期限付きの就職でしたから」。
1年後、父から「店がみつかった」と連絡が入った。親子2人、ちからを合わせてスタートした。
「でも、親父は職人気質です。料理の腕は凄いんですが、経営にはそれほど関心がなかった。それで、衝突することも多くなって、結局、私は店を離れます」。
思い入れもあった。父を立てなければいけないことも理解していた。でも、店のことを考えると、意見を曲げられなかった。「それで、いったんすべてをリセットしようとオーストラリアに向かいました。一度、行ってみたいと思っていたんです」。

オーストラリアで、20代の起業を決意する。

山川が向かったのは、オーストラリア大陸の北東岸にある、海に面するケアンズという港湾都市である。
「たくさんお金があったわけじゃないから、アルバイトしながら生活していました。現地の人たちと交流したことも、海外から日本という国をみたことも、いい経験になりました」。
滞在したのは1年ほど。山川は「オーストラリアで20代での起業を決意した」と言っている。
数ある転機のうちの一つ。「帰国し、とりあえず『資金だ』と思って、食料品の移動販売を始めました」。
1年間、海の向こうで存分にリフレッシュした後である。やる気も、満々。「人の3倍は働く」と決意し、目標に向かって、がむしゃらに突き進んだ。
2年間で2000万円貯蓄したというから驚きだ。
「そのうち1000万円は結婚資金に充てて、残り1000万円で開業する腹積もりでいました」。この時、山川はまだ23歳である。

父から店を譲り受けて。

結局、山川は27歳で独立する。父の店を引き継いだ格好である。
「移動販売を辞めてから、数ヵ月、いろいろな料理店を食べ歩きました。イタリアンにも興味があったものですから、都内にもひんぱんに出かけました。でも、ここだと思ったのは都内ではなく、熊谷にあるイタリアレストランでした」。
「そちらで3年間、修業させていただきました。ちょうど3年経った頃、親父が『店を建てた時に借りた融資もすべて返済した』というんです。それで『店を手放して農業をしたい』と。ただ、契約を解除するには、いったんスケルトンにしなければなりません。それだけのお金はなかったんですね。で、私にどうだ、と」。
「タイミングが良かったです。幸い、資金もあったので、『じゃぁ、そうするよ』って。もともと親父と2人でやろうと思って作った店です。私が、ちゃんとするまで親父が守り抜いてくれていたのかもしれません」。
うがった見方をすれば、父は、息子に譲るために「農業をしたい」と言ったのかもしれない。同じ店に2人いれば、また衝突するかもしれないと考えて。
ともあれ、山川は父から店を譲り受けた。もっとも大半は改装した。山川27歳、2002年のことである。店名は「楽食空間 山」。中華とイタリアンの創作料理店である。

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2015年11月6日金曜日

今回自社人材募集、妥協しません!

キイストンの次世代を担う人材(ダイヤの原石)を見つけるため、
妥協しない自社求人やってます!

面談も20代ながら営業幹部たちの視点と人材感、そして意思に任せ面談させています。
最後の面談に私が会うって感じですが、厳選して人材を選んでくれてるのでなかなか社長面談まで来ません!

どうでしょうか、20代のみに限定募集してますが約100人以上応募あります。
これ、普通に年齢制限なければ軽く300〜500人は来てますね!

おかげさまで、社長面談に来た人材は素直でホスピタリティある人材。

やるね、うちの若手営業幹部は。
キイストンを1から10、または1から100にしてくれる人材育ってくれ社長交代出来れば…。

社長候補は複数いても別会社作ればいいし…。

2015年11月4日水曜日

2015年11月2日月曜日

東海エリアが熱い!! 株式会社オー・エム・フードサービス 代表取締役 山本義之氏登場。

東海エリアが熱い!!
in-職(いんしょく)ハイパー
“飲食の戦士たち”株式会社オー・エム・フードサービス 代表取締役 山本義之氏登場。

本文より~

目立つことも大好きな少年、山本。

山本氏が生まれたのは、1975年。父は、公務員。兄弟は男ばかりの3人で、山本氏は次男。小さい頃から、運動も勉強も人並み以上だったそうで、「家に近い」という理由だけで受けた高校は、地元でも有数の進学校だった。
「父と母がケンカをしているのをみたことがないんです。父は、温厚で、子どもたちに対しても怒ったことがありません。私は、高校在学中に『起業しよう』『社長になろう』と決めていましたから、大学に進学するつもりはぜんぜんなかったんですが、それに対しても何も言わず、温かく見守ってくれる人でした」。
「どうして、そんなに早く社長になりたかったんですか?」と直裁に聞いてみた。
「音楽をやっていたこともあって、ミュージシャンになろうと思っていたんですが、冷静に考えれば無理だな、と(笑)。でも、人に使われるのはイヤだったんで、残された道は社長しかないと思ったんです」と言って笑う。
目立つことも大好きだった少年の選択は、「社長」と言う職業を選択するに至った。ちなみに、その高校から、就職を希望・選択した生徒は400名中、数名だったそうだ。

100万円超の月収と、小っちゃいお山の大将という危機感。

「最初に就職したのは、建設関係の会社です。就職情報誌で、いちばん給料が良さそうな会社を選びました」。
雑誌には20~50万円以上という風に書かれていたらしい。面接に行くと「もちろん、最初は20万からだ」と言われた。それで、「50万円になるのはいつ頃かと」聞く。
「資金を貯めるのが目的だから、聞かずにはおれなかったんです。すると、2~3年くらいと言われ、よし、だったら俺は半年で50万円もらえるようになってやろうと思ったわけです」。
資金を貯めるという目的もあったが、金遣いもハンパではなかった。カマロをキャッシュで買ったのも、この頃。
「有言実行通り、仕事を徹底的に覚え、半年で親方の立場になり、50万円程稼げるようになりました。更に2年後には、独立して仕事を請け負うというかたちで、100万円を超える月も少なくありませんでした」。
たしかに、収入は高かった。20歳で、100万円。天狗になっても可笑しくない。しかし、山本氏は、危機意識を持ち続けていたそうだ。
「このままでは、小っちゃいお山の大将にしかなれない」。

文字通り、人の3倍やり抜いたディベロッパー時代。

名古屋でも有数のディベロパーに転職したのは、もう少しダイナミックな仕事をしたかったからだ。「ディベロッパー」という言葉には、山本氏が求める大きさがあった。
「23歳の頃です。営業という仕事は、やったこともない。だから、一度挑戦だという思いもあったんです」。
驚くことに、このディベロッパーでも、すぐに頭角を現す。サポートは仰いだが、1ヵ月目に初契約をいただいてから、退職するまでのおよそ3年。一度も契約がゼロの月がなかったそうだ。むろん、記録的な実績である。
「給与は、固定給が16万円。あとは、歩合です。私の場合は、契約をたくさんいただけたんで、給与もそれなりに良かったです」。才能というのもあったのだろう。ただし、それだけではない。陰の努力もある。
「ほかの営業マンが、300枚のチラシを刷っているところを、私は1000枚刷って撒いていました」。夜、1000枚のチラシを持って、ポストに向かう。いわゆるポスティング。
 地道な努力は、お金になって返ってきた。
3年後の25歳、「飲食」と心に決め、独立のため会社を辞めた時には2000万円くらい貯まっていたそうだ。

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2015年10月27日火曜日

なすび亭 店主 吉岡英尋氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”なすび亭 店主 吉岡英尋氏登場。
本文より~

若き日本料理のリーダー。なすび亭、店主 吉岡英尋。

2013年12月4日、「和食」がユネスコの無形文化遺産に登録された。
ただし、「和食」とは何かの定義が難しいように思う。
もっとも「日本人の伝統的な食文化」が登録されたのであり、「和食」という料理のカテゴリーが登録されたわけではないそうだ。
ともあれ、ここでは料理のカテゴリーである「和食」についてである。「和食」や「日本料理」と言われるとアッパーな日本料理店を連想してしまいがち。
その意味では、庶民にとって「和食」料理は高嶺の花である。
もちろん、我が家でつくっても「和食」には違いないのだが、レシピ本と格闘しつつ、作った料理を「和食」と呼ぶのは気がひけてしまう。
なぜなら「和食」には厳しい修業を重ねてきた「職人たちの矜持」が詰まっていると思うからだ。少なくとも、現代に至るまで和食、また日本料理が脈々と受け継がれてきたのは、この「職人たちの矜持」があったからだろう。
今回、ご登場いただく「なすび亭」の店主、吉岡英尋氏も、その矜持を胸にした1人。TVにもたびたび登場している「旬」の料理人でもある。

幼少期から、進路を決めるまでの日々の話。

吉岡は1971年2月6日、東京都清瀬市に生まれる。2人兄弟。吉岡が1歳の時に両親が離婚し、弟の吉岡は母の元に引き取られた。
母の兄夫婦、弟夫婦との3世帯同居。総勢11人というから驚き。もっとも吉岡は「従兄弟全員男だったので、仲が良くって楽しかった」と語っている。
夏休みになると、愛媛県の小さな島にある祖父母の別荘に預けられた。テレビはあったが、映るのはNHKのみ。だが、不便とは思わなかった。吉岡らは毎日、海に出かけて泳ぎ、糸を垂らして釣りに興じた。釣った魚は、もちろんその日のうちに食卓に上った。
「だから毎日、魚ばかり食べていた」と吉岡。むろん、旨い。
「外食ですか? 外食は『すかいら~く』一本でした。入学式のお祝いも『すかいら~く』(笑)」。
一方、父については、「死んだと言われていた」という。しかし、小学校も高学年になると墓も無いのにおかしいと気づき、離婚したと何となくわかったそう。だが、意識して聞かないようにしていた。子ども心に母への思いやりがあった。
小学校の頃は、弱小少年野球チームに所属。中学になってバスケットボールを始め、高校生では、硬式野球部に入った。ポジションは、セカンド。
「中学の時は、勉強もできてバスケも私なんかより断然巧い従兄弟と比較もされるもんですから、劣等感を抱いていました。勉強やスポーツだけではなく、従兄弟は女の子にもモテたから。それが、高校生になって、自分はダメなほうではなく、「普通」ということに気付いたんです。悪くもなく良くもなくいわゆる「凡人」なんではないかと」。
「当時は、料理人なんて全然頭に無かったです。何をしたいかもわからず、高校卒業の時も、進路をなかなか決められなかった。やりたいこともないくせに、大学進学にも漠然とした抵抗感があって…。それで、大学に行かなくても将来、一流大学に行った人と肩を並べられる仕事がないだろうかって考えたんです」。
「手に職をつけよう」。
技術職が頭に浮かんだ。ただし、技術職といっても、幅は広い。リクルートが発行する雑誌で調理師学校をみつけ、「料理なら頑張れる」「何とかなる」と調理師という技術職に目を向けた。いったん「こうだ」と思うと、決意は揺るぎない。母親の反対を振り切って、新宿にある調理師専門学校に進んだ。
これが、いまや日本料理の若手料理人の代表でもある吉岡の、調理もしくは飲食との出会いだった。

調理師専門学校に入学。修業の旅の始まり。

調理師専門学校への進学は、吉岡の人生を決定するターニングポイントとなる。友人とも出会った。同じクラスに「オステリア・ルッカ」のオーナーシェフ桝谷周一郎氏もいた。同氏とは、調理実習で一緒のグループ。野球部にも一緒に入った。卒業制作も、共同で行ったそうだ。
「最後の学生生活と思い、悔いの無いよう毎日遊びまくった1年間だった」と吉岡は振り返っている。卒業を間近に控え、進路を聞かれた時、吉岡は「給料が低くてもいいので、技術がつくところへ」とそう告げたそうだ。
紹介されたのは、静岡にある有名ホテル「つるやホテル」だった。
「東京で皿洗いをするより、静岡で沢山魚を触ったほうがいい、3年も経てば魚も下ろせるようになるから」というのが先生の推薦理由だった。
ホテルでの修業の日々が始まった。
朝、6時には調理場に入った。200人ほどの朝食を準備するためである。数をこなすことはある意味、大きな力となる。
不平を言わず、吉岡は黙々と仕事をこなした。「料理漬けの生活で、実家に帰ることもできなかった」と言っている。3年。思い決めていた月日が過ぎた。
たまたまホテルの客として来られていた、とある店の料理長に紹介され、鎌倉に移ったのはそれからしばらくしてから。

流転、修業。まだまだ旅の最中。

紹介されたのは、「鎌倉山に鬼がいる」とまで言われた店主がいる店だった。鬼の気迫に若い連中はすぐに逃げ出す、というのが定説だった。
それでも吉岡は「お前は3年働いていたが、それは3年間の遅れを取ったと同じこと。本当に技術のあるその店で1年でも働ければ遅れを取り戻せる」と言われ、覚悟を決めて暖簾を潜った。
「やっぱり怖かった。半端なく仕事ができる人で、隙がまったくないんです。私が動く度に怒られていました(笑)」。
1年続けばと言われていたが、残念なことに1年も持たなかった。店主が怖いからではない。些細なことで、当時の2番手と喧嘩してしまったから。
「もう東京に戻るしかないと思ったんですが、とりあえずゴールデンウィークも近かったので、その期間だけどこかで働こうと、『るるぶ』に載っていた温泉宿に電話をしました。一度は断られたのですが、強引に押し掛け、その店の料理長に湯河原のホテルを紹介してもらったんです。そして再度そこから紹介され、結局、熱海の旅館に行くことになりました(笑)」。
流転といえばいいのか、これもまた修業といえばいいのか。もがくように、吉岡の旅は続く。
熱海の旅館で1年働いた吉岡は、ついに東京に戻り、永田町の「瓢亭」や新宿の日本料理「蝦夷御殿」、銀座のふぐ料理「山田屋」で腕を磨いていくことになる。
料理の世界につきものといえば語弊があるかもしれないが、厳しい徒弟制度のなか、理不尽な思いをしたこともあった。
賭け事はしない吉岡が競馬を覚えたのも、先輩の目を気にしてのこと。ただし、いくら徒弟という制度が幅を利かせても、吉岡は料理という一点から目を離すことはなかった。
いっさいの付き合いをリセットし、再出発もしたのも、料理を追及するためである。

「なすび亭」オープン。もう一つの旅の始まり。

吉岡の足跡を辿れば、料理人のひとつの軌跡が見えてくる。
料理人の良し悪しはやはりセンスですか? というこちらの問い掛けに、吉岡は首を振った。
「センスのあるなしということよりも、ちゃんと続けることのほうが大事です」。どの店でも、料理から逃げず真っ直ぐに進んできた吉岡だから言える貴重な一言だ。
ただし、吉岡は「オレは天才だと思っていた」という一言も語っている。独立を前に、ともかくそういうだけの自信が付いていたことの表れでもある。
「独立の前に、ふぐ料理の名店で働きました。ふぐの季節が終わるのを待って、退職し、独立しました」。
2000年、恵比寿に店を構えた。最初から大々的にアピールするつもりはなかった。それでも客は来る、という自信があったからだ。
しかし、「笑っちゃうほど、ですね。1週間に、3組って時もあった。近所の子がバイトに来てくれたんですが、暇すぎて辞めていきました(笑)」。「リピートしてくださるお客様は少なくなかった。そりゃそうですよね。お客様が少ないから、1組、1組のお客様に全力投球です。それでも、なかなか食べていけるだけの売上を上げられませんでした」。
「夫婦2人でやっていたから、なんとかなった、というのが正直なところです」。
当時のコースは、3800円。のれんを潜りやすい価格帯である。
この価格帯はある意味功を奏し、ある意味、なかなか浮上できない原因もつくった。「ようやく、一息つけるようになったのは3ヵ月目ぐらいです。雑誌の取材も受けるようになりました。しかし、思ったほど売上が上がりませんでした。何しろ、3800円ですから」。
そんな時に、子どもを授かった。貴重な働き手である奥様が店に出られなくなる。かわりのスタッフの人件費を払うためにランチをはじめた。

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