2015年12月24日木曜日

松平みなさん著書の『穣の一粒』完成。

今夏、オーストラリア・シドニー在住の松平みなさんが来られお話されていた著書『穣の一粒』が愛媛新聞社の協力のもと遂に完成となりました!!
日豪を結ぶ懸け橋となったオーストラリア米のパイオニアの高須賀穣の生きざまを描いた書籍だけに、TTPを前に心配されてる農業関係者の方、また海を越え海外に挑戦される方など多くの人に読んでもらえる様、キイストンは全面支援していきます!
松平さん、そして鱒屋・定松社長、藤山さん、おめでとうございます。
(キイストン・シドニー準備室より)
http://www.sunricejapan.jp/takasuka.html

株式会社T・Sコーポレーション 代表取締役 徳山哲大氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”にステーキ听の株式会社T・Sコーポレーション 代表取締役 徳山哲大氏登場。
本文より~

やんちゃな奴は、ラグビー部に入れ。中学時代に流した汗と悔し涙。

今回、ご登場いただく株式会社T・Sコーポレーションの代表取締役、徳山哲大氏は1977年、京都市南区に生まれる。
「父は、建築関連の会社を細々とやっていました。社長1人、従業員1人というような会社です。兄弟は3人。私が末っ子で、長男と長女、そして、私です」。
末っ子ということもあったのだろう。小さな頃から好き勝手に何でもやる性格だったそうだ。
「これは、兄もいっしょなんでしょうが、とにかく負けずキライでした。目立つのも大好き。運動神経も悪くなく、陶化中学校に進学してからは、ラグビーを始めます。陶化中学校は京都府内でも有名なラグビーの強豪校だったんです」。
ポジションは、スタンドオフ。あの有名なラグビーの、平尾誠二氏とおなじポジションである。ちなみに、平尾氏も京都市南区出身である。
「当時、『やんちゃな奴は、ラグビー』っていう風潮があって、私もラグビー部に入れられてしまったわけです(笑)。練習ですか? そりゃきつかったですね。『お前らは、勉強しなくていい。ラグビーをしろ』って。そういう学校でしたから、練習も朝・昼・晩。今と違って水も飲めない。練習地獄です。でも、それだけ練習しても、私たちの代はパッとしなかったですね。いち学年うえにはタレントが多く、ベスト2までいったんですが、私たちはベスト8が最高でした」。
徳山氏の代になって、監督が一時不在になったことも、いい成績を残せなかった理由だろう。
しかし、それとは別に、徳山氏にはいまも悔いが残っている。
「練習で、膝が折れてしまったんです。病院に行ったら、即入院と言われ、最後の試合に出られなかったんです」。
負けずキライの徳山氏にとって、あまりに悔しい思い出でもある。

泣きながら、乗ったトラック。兄弟3人の戦い。

「高校になって足も治ったんですが、もうラグビーはいいかな、という気分になって、サッカーに転向します。進学したのは、今夏(2015年の夏)、甲子園に出場した鳥羽高校です」。
当時の徳山氏の学力から言えば、「鳥羽高校」は高いハードルだったそうで、たまたま、受かってしまったそうだ。
とにかく、学業のレベルもあげつつ、高校を卒業した徳山氏は、父の下で建築関連の仕事を開始する。
「私たちは、兄弟3人で助け合って、励まし合って父がはじめた事業を拡大し、京都でも名の知れた会社にしていくですが、最初に入ったのは末っ子の私だったんです」。
当時の話も聞いてみた。
「最初は、給料もでませんでした。でも、歯をくいしばって。給料がないから、夜はショットバーでバイトをしました」。
ちょうど、この頃、父にとっても、兄弟3人にとっても最愛の、母親が亡くなった。
「これが、ひとつのきっかけですね。兄弟みんなが一つになったのは。兄も、姉も、いっしょにやろうと」。
徳山家の挑戦がはじまった。
もちろん、いばらの道であることは、だれの目にもあきらかだった。2人だけでも、食べていくのに精いっぱいの会社である。
「兄も姉も、社会人だったんですがもどってきてくれました。とにかく、『いっしょにやろう』って。『兄弟3人、ちからを合わせればなんとかなる』って」。
徳山氏にとっては、何より心強い援軍だったはずだ。「私は、ラグビーで鍛えた体があったから、きつくても大丈夫。だから、作業担当です。兄は、頭もいいから、営業です」。
負けずキライな兄が、頭を下げているのを何度もみた。その度、徳山氏のエンジンが点火する。
「兄が獲ってきた仕事は、『何でも引き受けてやる』って思いました」と徳山氏は当時の心境を語っている。
兄は、京都府内にある、ゼネコン、工務店を片っ端から回った。契約をもらうまで何度でも、頭を下げつづけた。
経営のことがわかっているわけではない。許可についても詳しくは知らなかった。只々、頭を下げ、只々、利益を確保できるように仕事に没頭した。「泣きもって、トラックに乗った」のも、この時である。
ひと息ついた時には、10年が経っていた。会社は、京都でも、少しは知られる会社となっていた。
「事業が安定したもんですから、そろそろ、ええんちゃうかと思って、私自身、昔からやりたかった飲食店をやろう、と思ったんです」。
姉のご主人であり、現在、副社長でもある竹村氏と2人、新たな旅が始まる。

・・・続き

株式会社T・Sコーポレーション 代表取締役 徳山哲大氏
PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

1泊2日の中国上海弾丸出張。

12月22~23日中国上海へビジネスため滞在時間約24時間という弾丸出張行ってきました。
時間は短かったですが、いい仕事に発展しそうです。
仕事に関する内容は極秘のため上海の夜景のみ。
なんと私を迎えるような『I  SH(昇市・細見)』(笑)

2015年12月16日水曜日

株式会社トマトアンドアソシエイツ 代表取締役社長 小花良一郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”すかいらーくグループの株式会社トマトアンドアソシエイツ 代表取締役社長 小花良一郎氏登場。
本文より~ 

静岡県藤枝市。

小花氏は1955年2月26日、静岡県藤枝市に生まれる。藤枝市は、静岡県の中部に位置する都市で人口は少なくない。
「代々農家で、私で13代目です。もっとも何代か前から兼業となり、祖父は校長で、父は農林水産省の役人。今は、残念ながら農業はしていません」。
それでも、昔からの実家はあるそうで、築160年という。「煤が天井にへばりついて、時々落ちてきますが、まだしっかりしていますよ」とのこと。前は囲炉裏があり、平屋だが、広い部屋が8つもあるそうだ。
「父が、農林水産省の役人だったこともあって転勤が多かったんです。私は、すぐに馴染めるタイプだったもんですから苦にならなかったんですが、中学に進学する時に『さすがに、転々とするのは良くない』と、姉と一緒に祖父母のもとに送られました」。
だから、中学からは祖父母の住まいがある静岡県藤枝市がホームグランドとなった。

ノーと言える人間になれ。

中学生になった小花氏は野球を開始する。運動神経が良く、こちらでもすぐに人気者になった。高校でも野球をつづけた。進学したのは「藤枝東高校」。サッカーファンの方なら、学校名をご存知かもしれない。
「そうなんです。サッカーの強豪校で、私がいた3年間だけでも全国優勝を2回。ちょうど私らの代が準優勝でした」。
小花氏が所属する野球部は、どうだったんだろう?
「こちらは、ぜんぜんだめ(笑)。そもそもメンバーも少なかった」。
監督も元々は部外者の方だったそうで、サッカーと比べるまでもなく、先生方の期待も薄かった。とはいえ、中・高の合計6年間、グランドで汗を流したのは、事実である。
この頃、祖父から「ノーと言える人間になれ。イヤと言えることがほんとうの勇気だ」と教わった。これが小花氏の人生訓となる。
「祖父は、アメリカ人みたいになれといったわけじゃありません。戦争体験を通し、その後悔から、長いモノに巻かれるのはいけない。『はっきりとノー』と言うことが大事なんだと言いたかったんです」。
 胸に響いた。ただ、この時、「ノー」と言うむずかしさをどれだけ理解できていたかは、わからないが…。

専修大学進学、アルバイト三昧の日々が始まる。

大学は、専修大学に進学。本命の大学に落ち浪人するつもりでいたが、母の「大学で何をしたいの?」という一言で進学の目的をつかみ、専修大学に進学した。同時に、東京での独り暮らしもスタートする。
東京に行くからには、「生活費も含め、自分なんとかする」と言った手前、アルバイトも早々に開始しなければならなかった。
「新宿にあるパブで、5月からアルバイトを開始しました。それから4年間、バイト三昧」と小花氏は笑う。
生活費や学費だけではなく、バイトに明け暮れるもう一つの目的は、旅費だった。
「石垣島出身の友だちができたのがきっかけで、夏休みだけじゃなく、春休みも、冬休みも石垣島に出かけました。東京から船で47時間。それで沖縄に着き、そこからプラス16時間です。向こうでも、アルバイトをして暮らしました。この時、できた友人たちとは今も親交があります」。
年齢も、出身も違う。
「そういう奴らと、男女も関係なく夜な、夜な、泡盛。楽しくないはずはないですよね」と小花氏は語っている。
それにしても行くだけで、63時間。この行動力も、ある意味、小花氏のちからの源泉かもしれない。

ファミリーレストランの時代到来。

「大学3年時に、アルバイト先のマネージャーからロイヤルホストを紹介されたんです。これからは、ファミリーレストランの時代だと言って」。
小花氏が大学3年といえば1976年。まさにファミリーレストランが、時代の寵児へとかけ上がっていく頃だ。
「11時のオープン前から列ができた」と当時を知る人から聞いたことがある。「『これからはファミリーレストランの時代」とマネージャーが言ったことは、まことにただしい。
しかし、就職先として考える学生はまだ少ない時代だった。小花氏も「大学出て、コックをやるのか」と父親に一言、いやみを言われたそうだ。
ところで、当時のファミリーレストランといえば、「ロイヤルホスト」と「すかいらーく」が東西の双璧だったのではないだろうか。
「ロイヤルホスト」は北九州市に1号店をオープン。「すかいらーく」は、東京都府中市に1号店を出店する。「すかいらーく」の前身は「ことぶき食品」。創業者である横川4兄弟は、あまりに有名だ。
さて、小花氏は東の雄、「すかいらーく」に就職する。本部の活気に惹かれたからだ。ちなみに現在、株式会社すかいらーくの社長を務める谷真氏も小花氏と同期入社。谷氏は、当時の様子を「火の玉集団だった」と言っている。
ともかく、就職は決まった。同期は100名。彼らは「すかいらーく」8期生である。

出店につぐ、出店。

「私が、入社した時には42店舗でした。いまから思えば、『まだ42店』ですが、当時はもう42店舗かというイメージです。昇格スピードも早く、1年でキッチンチーフになりました」。
「ただ、忙しかったのは事実です。1週間に1回くらいは休むように心がけていたんですが…」。
しかし、本人たちは、それで当然と思い込んでいたようだ。
「辞めようとも、思わなかった」と言っている。
しかし、そんな小花氏だが、一度だけ、辞めようと思ったことがあったそうだ。

・・・続き

すかいらーくグループの株式会社トマトアンドアソシエイツ 代表取締役社長 小花良一郎氏
PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2015年12月10日木曜日

2016年、キイストンは新たなことにチャレンジしていきます!!

飲食業界に特化した総合人材採用会社として一歩先を歩けるために、今までやってきたことをコツコツと継続しつつ、新たな試みにチャレンジします。
24年目に入った会社ですから、ベンチャー企業でもありません。
ただ、24年目にして若手の営業スタッフが力付けてくれてるので、さらなる成長のためいろいろ任していく予定です。
そこに加速付ける意味で今から新卒部門、外国人留学生部門、中途採用部門(なかでも独立支援と高齢者雇用)、ワーホリ帰国者に対しての取組みとサービス内容の深堀りしていきます。
96x96
戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2015年12月8日火曜日

「KEISUKE MATSUSHIMA」の株式会社ACCELAIRE 代表取締役 松嶋啓介氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”「KEISUKE MATSUSHIMA」の株式会社ACCELAIRE 代表取締役 松嶋啓介氏登場。
本文より~

コロンブスの伝記に魅了されて。

1977年12月20日、福岡市に生まれる。3人兄弟の次男で、兄と妹に挟まれて育った。「3歳違いの兄とよく喧嘩をした」と言って松嶋は笑う。
父は、旭硝子の関連子会社社長。父も母も大宰府出身である。
裕福な家庭だった。小さな頃から外食にもよく連れて行ってもらった。そのおかげもあるのだろう。「小さい頃から舌が肥えていた」という。
料理に対する思い入れも強く、「小学生の時には、すでに料理人になろうと決めていた」そうだ。理由はある。「漫画で描かれたコロンブスの伝記に感化されたんです。料理人だったらコロンブスのように海外へ行けると思ったんですね(笑)」。
海に出る、冒険心が少年の心をくすぐった。
当時の様子を伺うと、「勉強は並みだったけれど、できないスポーツは無かった」との返事。手先が器用だったと、料理人の卵だった少年時代の様子をそう語る。
中学生になっても、海外志向は薄れなかった。早く料理人になって海外へ飛び出したかった。「実は、高校にも行くつもりがなかったんです(笑)」。ご両親に説得され、やむなく高校に進学。

小さな冒険の始まり。

高校を卒業した松嶋は、初志貫徹、東京にある「エコール辻東京」に進学する。1年制の専門学校である。
海外への切符を獲得するために、地元を離れて小さな冒険に出た格好だ。本格的にアルバイトを開始したのも、この時から。バイト先は、渋谷のレストラン「ヴァンセーヌ」。人気のレストランである。
「1年間、『ヴァンセーヌ』でバイトをしながら、学校に通いました。その時からフレンチと決めていたんです。卒業後は、そのまま、『ヴァンセーヌ』に就職しました」。
これが、松嶋の第一歩。「『ヴァンセーヌ』で2年勤務して、「親戚からお金を調達して、なんのあてもないままフランスに向かいました(笑)」。
大胆と言えば大胆。松嶋の海外に対する想いは本物だった。

20歳、渡仏。あてもない冒険に出る。

無謀といえば無謀だが、若さの特権でもある。20歳から松嶋はフランスで暮らすことになる。
単語を紡ぎながら、会話することで言葉はなんとか通じた。
さまざまな店を回り、仕事をもらった。
「向こうは日本のように上下関係というのが無くってフレンドリーです。合計、十数軒のレストランを転々として、シェフも任されました。料理はできる、できないかではなく、やりきるより他無かったですね」。
給料についても伺ってみた。
「日本より良かったですね。だから休日には他の店に視察に行くこともできました」。日本の青年が1人あてもなくフランスで修業の日々を送る。
「日本は出る杭を打つ文化。当時、そういう文化を持つ日本という国には正直興味が無かったんです」と松嶋は言う。そういう松嶋にとってフランスは、ある意味で対極の文化を持つ国と映っていたに違いない。
一方、松嶋のフランス生活を支えた人がいる。JALのスチュワーデスだった奥さまである。
「飛行機の中で知り合ったんです。彼女は私より14歳年上でした。私が24歳の時に結婚しました。ただその後、フランスのビザも取れていない状況で、今後やりたいこともあり、このままでは相手に迷惑をかけると思っていたんです。そして離婚の話を自ら切り出しました」。
ところが奥さまは、松嶋にそれまで貯めていたお金を渡し、「お店の開店資金に使って。その代わりに家は買ってね」と言われたそうだ。店をオープンすることで、フランスで暮らす足場を固めることができる。それは2人にとって最良の選択肢だった。
2002年12月20日、松嶋は25歳の誕生日にレストラン「Kei's Passion」を本場フランスのニースにオープンさせた。奥様の決意と愛情が松嶋の野望を支えたのだった。

・・・続き

PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

これからの人材は誰を採るかを重視する!

いくら指導者が同じように教えても、
伸びる人と伸びない人はもともとの資質が大きく左右する。
資質の中には、今までの育ってきた、また生きてきた環境もともと大きい。
なんで、今後のキイストンの採用は誰を採るかを重視したい。
ただし、資質はいい学校(大学)卒業、裕福な家庭、大手企業からの転職ではない。

社会経験のほぼ無い人は最初から輝いてる人材は少なく、原石を見つけることである。

・好奇心あり、吸収する力がある人
・コンプレックスがあまりない人
・コミニケーション能力高い人
・勝ち癖ある人
・素直な人

このあたりかな、キイストンで見極めたいのは…。
合わせてベンチャー体質に合う人材の見極めが大事である。

2015年12月4日金曜日

『boys be ambitious』…少年よ大志を抱け!!

ミシュランで星を獲得された石垣吉田の吉田オーナーシェフの社長取材のため、うちで頑張ってくれてた細見塾生(笑)の2人が取材サポートに来てくれました。
ちなみに向かって左側の大柄な横谷君は、あの五郎丸選手のラグビー部後輩で11月30日よりオーストラリアに、右側の南雲君は11月22日よりベトナムに飛び立ちました!
この1年で海外でどれだけ成長してくれるか楽しみです。
96x96
戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2015年12月1日火曜日

大東企業株式会社 代表取締役社長 北尾拓也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”大東企業株式会社 代表取締役社長 北尾拓也氏登場。
本文より~

3代目、当主、逃げ出す。

戦後、焼け野原の東京のあちらこちらで、小さな飲食店が生まれた。今回、登場いただいた大東企業株式会社、代表取締役社長、北尾拓也氏の祖父が銀座に開いた喫茶店も、そうした店の一軒だった。
「元々、祖父はバスの運転手、祖母がバスガイド。それが縁で結婚したらしく、バスガイドを辞めた祖母が喫茶店を開いたのが、始まりだそうです」。
 北尾氏の話によれば、店は流行り、2号店、3号店も出店したそうである。
「そのあと、私たちの父の代となり、今度は、イングランド風の洋風パブに挑戦しました。こちらは100メートルほどの列をつくる人気だったそうで、このパブもすぐに4店舗ほどになったと言います」。
北尾氏が誕生したのは、この頃。
「貧しくはなかったですが、父も母もいそがしく、食卓を囲むこともなかった気がします。兄弟は、男ばかりの3兄弟で、長男が私。いそがしい父母を観ていたからでしょうか、家業を継ぐ気はまったくありませんでした」。
これには、もう一つわけがあって、子どもの頃の北尾氏は、親に反発していた節がある。中学時代には一度、家出もした。
「子どもの頃から、勉強、勉強です。TVゲームで遊んだこともありましたが、早くから塾にも行かされ、とにかくスパルタ教育です」。
勉強を強いられることよりも、期待をかけられていることが、息苦しかった。反動で、中学からはまったく勉強もしなくなったそうだ。
「弟たちは、私と違って、まったく自由です(笑)。それを観て、長男に対する期待がわかっても、私にとって、期待は重荷以外何ものでもなかったんです」。

高校卒業、就職へ。

中学ではバスケットボールの選手だった。いちおう、学校には通学していたが、前述通り、勉強とは無縁。ギリギリ、入れる高校をみつけて進学した。
「目黒にある高校でした。卒業後は、しばらくは家でぶらぶらしていたんですが、お父さんの目が段々鋭くなってくるのがわかって、それで、しかたなく藤沢にある、とあるおもちゃ関係の会社に就職したんです。もちろん、通うことはできないので、独り暮らしのスタートです」。
これが、北尾氏の社会人の始まり。正確に言えば、サーフィンの始まりでもあった。

サーファー、社員。社長になりたいと思う。

「従業員5~6人の会社だったんですが、とにかく、ゆるい会社でした。休憩時間になると、みんな波乗りに行ってしまうんです。私は、サーフィンは知らなかったもんですから、最初は戸惑っていましたが、そのうち、みんなといっしょにサーファー社員です(笑)」。
 サーファー社員といっても、仕事はきっちりしていたそうで、社長とも親しく、口をきいてもらっていた。
「そうですね。まだ30代だったと思うんですが、社長と話をしているうちに、私も社長業というのをやってみたくなったんです」。
その会社にいたのは、合計6年。当時の社長に刺激され、社長業に、憧れた。
「社長になるには、父親の跡を継ぐのがいちばん手っ取り早いと、思って、お父さんに会って、『会社に入れてくれ』と頼んだんです」。
日焼けした、息子が帰ってきた。動機はどうあれ、ご両親は、ひと安心されたことだろう。

社長の、試練。

両親の思いとは別に、突然、帰ってきた3代目への、社内の風当りは、相当きつかった。掃除や雑用が、北尾氏のメインの業務だったことからも、当時の様子をうかがい知ることができる。
一方で、北尾氏は、弟2人も会社に入れ、父親ともひんぱんに、会話をするようになった。
「弟を引き込んだのは、淋しかったからかもしれません。お父さんと会話するようになったのは、職場で、だれからも尊敬される父をみたからかもしれません。とにかく、そうやって少しずつ、私は、社長にちかづいていきました」。
ところで、会社の事業の話は、「洋風パブ」で止まってしまっていたが、その後も、居酒屋ブランドを出店するなど、挑戦をつづけ、いずれも好成績を残す。
その後、「個室会席 北大路」というアッパーなブランドが主流となる。「日本料理 うるわし」「個室居酒屋 番屋」も、その流れを受け継ぎ誕生した。
「アッパー路線は、料理人たちのことを思って、進んだ道です。彼らの待遇を上げるための、秘策でもあったんです」。
もちろん、アッパーな店になればなるほど、経営は難しい。
実際、経営危機にさらされたこともある。
「私が社長になって2年くらいの時です。2008年の世界的な同時不況。接待需要も、落ち込み、売上は30%ダウンしました」。
しかし、北尾氏はうつむかなかった。
「ピンチをチャンスに、という言葉があるでしょ。とにかく、いろんな方法を試し、ネットならリスティング広告も盛んに出しました。そういう、努力が、いま実を結んでいると思います」。
時代はかわって、アベノミクス。状況はいっぺんした。接待などで訪れる客がふえたうえに、いまや海外からの旅行者も少なくない。
時代はパッとかわった。しかし、時代の恩恵を、すべての店が受けているわけではない。

・・・続く
PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)