2024年11月26日火曜日

株式会社asoviva 代表取締役 藤田貴道氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社asoviva 代表取締役 藤田貴道氏登場。

本文より~

僧侶の資格と、藤田社長。

赤坂駅近くで牡蠣をいただくならasovivaが運営するショップがオススメ。「大衆サカバ 牡蠣る。」「クラブ シュリンプ&オイスター赤坂」「牡蠣と和牛の奴隷」「赤坂元気」。いずれのショップも牡蠣を美味しくいただけると評判。
デートにオススメするなら「クラブ シュリンプ&オイスター赤坂」。「オマール海老」「天使の海老」「永遠の海老」のプリッぷりのお刺身、「ディープシーレットクラブ」や「ソフトシェルクラブ」もいただけて、主役の「牡蠣」はいうまでもなく、旨い。
のんべぇには「大衆サカバ 牡蠣る。」がオススメだろう。焼酎、飲み放題で、100種類以上のオリジナルサワーが楽しめる。牡蠣好きの店長が厳選した牡蠣に心奪われつつ、オリジナルサワーをグイグイいけばいい。
さて、今回、ご登場いただいたのは、この罪深いショップを運営するasovivaの代表、藤田社長。
話は、予想外にお寺の話から始まった。
「私は1984年、長野県松本市に生まれました。うちの実家は浄土真宗のお寺で、私は寺の次男坊です。今は、兄がお寺を継いでいますが、私も(お寺を継げる)僧侶の資格をもっています。京都にある龍谷大学に進み、そちらで資格を取得しました。みなさん、僧侶というと修行僧をイメージされがちですが、浄土真宗は、それほど厳しくありません。学生生活も一般の学生さんとおなじで、私も授業がない日は焼鳥屋でアルバイト三昧です」。
「こちらの店は、お客さんとして食べに行った時にスタッフに可愛い子がいて。それで、バイトさせてくださいって。煩悩まみれですよね(笑)」。
女の子の話は置いておいて。実は、この時のアルバイトが飲食のはじまり。この時の「縁」によって、今の藤田社長があるといってもいい。あとで教えていただいたが、これも一つの「縁起」と解釈すればいいのだろうか?
「ともかく、飲食のバイトにハマったわけですが、就職はまた別の話です」。
なんでも、お兄さんが継がない場合は藤田社長が継ぐことになっていたそう。2人のうちいずれかが継がない場合、お寺が存続できなくなるからだ。
「兄がなかなか心を決めないもんですから、私は私で、専門学校に進むことを検討していました」。
「一般には知られていませんが、僧侶のための専門学校っていうのがあるんです。お経をはじめとした実技を主に勉強する学校です。大谷大学の卒業生も少なくありません。ただ、兄が寺を継ぐ意思を固めたもんですから、急遽、別の道を探さなければならなくなりました」。
藤田社長は、あるベンチャー企業への就職が決まり、東京へ向かう。僧侶の有資格者、藤田社長は大都会にどう染まっていくんだろうか。話を前へ、進めよう。

一つ目の勲章、MVP獲得。

「私が就職したのは渋谷などでヨガ教室を運営していたベンチャー企業です。社内ベンチャーを推奨しているタイミングで、キャッチフレーズは『好きを仕事に』でした。そのフレーズに惹かれ、就職。23歳で私も社内ベンチャーの1人となって飲食店をスタートします。私が23歳ですから、2007年の話ですね」。
8月に神田に、10月に渋谷にショップをグランドオープン。
「290円均一の居酒屋です。大手の飲食チェーンが、私のあとに『290円均一』のブランドをつくって大宣伝しますが、実は、私のほうが早かったんです(笑)」。
 藤田社長は、このベンチャー企業に5年勤めている。300人の社員がいるなかでMVPも獲得している。
「最初の飲食店は、うまくいきませんでした。ただ、それで終わるのではなくて、今度は、弁当事業にチャレンジします。弁当の訪問販売です(笑)」。
「最初は店頭で販売していたんですが、15時くらいになるとどうしても売れ残りがでてしまう。残り3個とかになったら買いにくいと思って、最初から多めにつくっていたからです。でも、そのまま廃棄は忍びないでしょ(笑)。それで、ある日から、売れ残りのお弁当をもってオフィスに突撃して、『お弁当入りませんか?』って始めたんです」。
ビルに飛び込み、オフィスのトビラを叩く。エリアは渋谷、赤坂に広がっていく。
「最初は『?』の人も、『え、もってきてくれるんだ!』『じゃぁ一つ』ってなり、今度は二つ、三つ、四つと広がります」。
最終的な社数を聞いて驚いた。なんと、1500社。1日に配達するお弁当は1300~1600食にのぼり、東中野にセントラルキッチンまでつくっている。そりゃ、MVPにも選ばれるわけだ。

僧侶の深い思考と、大先輩の話。

「業績は拡大していきましたが、セントラルキッチンをつくるなど、投資もしましたので黒字化までに2年かかりました。私自身、飲食に対する思考が深まった2年間です。飲食は食材コスト、人件費などの経費を抜いて利益は10%と言われていますよね。でも、それって一つの指標にすぎないと思いませんか」。
たしかに、P/Lは固定観念の一つかもしれない。ただ、飲食店を経営する上で、大事な羅針盤であるのも事実だ。藤田社長の話は、その決められた指標と、どう向き合うかということだろうか。僧侶の発想は、奥深い。
「実は、この2年間、私は大先輩にサポートいただくんです。その先輩はコールセンターの事業部のエースだった人なんですが、不遇な私をみかねて飲食の仕事をサポートしてくださいました。当時の会社はボーナスの原資が、事業部の利益の15%と決まっていました。コールセンターは儲かっていましたからエースだったその先輩のボーナスは500万円はあったと思います。でも、そういうのを捨てて、利益ゼロ、つまり、ボーナスゼロの飲食事業部へ異動してくださったんです。私がP/Lの改善などに努めることができたのも、この先輩のおかげです」。
仕事が終われば、カフェやバーで、先輩と頭を突き合わせた。自然と経営の指南を受けていたことになる。P/Lという飲食の指標に対するアイデアは、僧侶の深い思考だけではなく、この大先輩の影響で生まれたのかもしれない。
たしかに、飲食の売上高/利益率は高くない。P/Lコストでは10%が指標となっていて、今現在、これが、もっともポピュラーな数字だ。
「10%あればいい」ではなく、「なぜ10%あればいいのか」。今の指標を疑問視する経営者がでてこないと、飲食の未来は明るくならないのかもしれない。
「いずれにしても、今の私があるのは、その大先輩のおかげ」と藤田社長は目を細める。大先輩と話し合ったシーンが頭に浮かんだんだろう。
「最初は結果を残せませんでしたが、弁当事業で会社にも財産を残すこともできましたので、27歳になって会社を卒業させていただきます」。
このあと藤田社長は『ぐるなび』に転職。1年だけだったが、営業の世界にどっぷりつかっている。
「飲食」×「プロモーション」の世界を知るためだった。

・・・続き

株式会社asoviva 代表取締役 藤田貴道氏

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株式会社タケノ 代表 竹野 孔氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社タケノ 代表 竹野 孔氏登場。

本文より~

スパルタな父と竹野少年。

ハーレーダビットソンを駆る。
「32歳で降りて、52歳で復活した」という。今風にいうとイケおじ。父親のあとを継いで、飲食の世界に入る。ただし、大学は商学部に進み、税理士か、会計士になろうと思っていたそう。「確実に飲食はやってなかった」と笑う。
今回、ご登場いただいたのは、福岡を中心に「博多竹乃屋」などの飲食店を多数展開する株式会社タケノの代表、竹野 孔さん。1955年生まれだから、インタビュー時で69歳。
1955年といえば、終戦から10年。「当時の記憶はもちろんないですが、その頃は、饅頭屋をやっとったみたいですね。そのあと食堂をはじめます」。
とにかく、お父様はスパルタで、なにかあればビンタがとんできたんだそう。小学2年生の頃から出前の器の回収が竹野さんの仕事。
「食堂はもちろん記憶にあって、最初は小さなお店でしたが、やがて大きくなって席数も100席になって、従業員さんも10人は住み込みではたらいていました」。
さぞ、にぎやかだったことだろう。ちなみに、竹野さんは、小学校から空手を習っている。中学・高校は柔道。中学・高校ではキャプテンを務めている。市の大会では3位にもなっている。

小学校の先生は、人生の恩師。

竹野さんに、恩師の話もうかがった。
「恩師といえば、小学5年、6年の担任の先生です。のちに市会議員になられた方で、じつは私の結婚式では仲人を務めてくださいました」。
どんな先生だったんだろう。
「親父といっしょで、とにかくスパルタです。私なんか窓枠に正座させられたことがあります。ただ、理不尽なことはけっしてされなかったですね」。
拳骨はくらったが、「深い愛情が込められていた」という。残念ながら、今では、たぶんめったにお目にかかれない、昭和の先生像。
「先生は10年前に亡くなられたんですが、奥様とは今でもお付き合いがあって、お中元やお歳暮はお送りしています」。
先生に叱られるやんちゃぶりと同時に、恩師と慕う、その様子に竹野さんの人柄が浮かび上がる。
先生は、子どもたちにこう言われていたそうだ。
「100冊の本を読むより、1人の人間に出会え」と。
正鵠を得ている。その一言からも「実」を大事にする教師の姿が浮かび上がってくる。「先生から、負けん気や根性、そしてただしい行いを叩き込まれた」と竹野さんは、目を細める。
同窓会には、先生も毎回、出席されていたという。
竹野さんは、スポーツだけではなく、勉強もできたから、先生にとっても自慢の生徒だったにちがいない。

「百姓をなめるな」、父の一喝。

中学でもいい出会いはあった。柔道部の顧問。小学校同様、スポーツも勉強もできる少年は、やんちゃだが可愛がられたにちがいない。
高校は、福岡でもトップクラスの高校に進んでいる。
「でも、そこは第一志望じゃなかったんですよね、じつは」。
<どういうことですか?>
「じつは、農業高校に進みたかったんです」。
<農業ですか?>
「めずらしいでしょ。でも、当時は、真剣にそう思っていたんです。30年くらい前にはうまくいかなかったけど、まいたけの栽培もしていましたし、今も養鶏所をやっています。親父のほうの本家が農業をやっていた影響もあったんでしょうね」。
ただ、話をうかがうと、その本家を知っているお父様が反対されたそうだ。「これから農業では食べていけない」。諭すのではなく、「百姓をなめるな、とお茶をぶっかけられた」と笑う。
<それで、進学校ですね>
「そう、でも、進学校にいくとみんな頭のいい奴ばかりでしょ。もう、勉強もしないし、けっきょく2浪してね。21歳の時に起業しています」。

大喧嘩の翌日、現れたのは。

浪人時代は「夜警室で、1年半生活した」と竹野さん。その経緯がふるっている。「高校を卒業してですね。中洲って繁華街があるんですが、そこでね。大喧嘩をやらかすんです」。
<竹野さんがですか?>
「そうです。でも、相手が悪かった」。
<悪い?>
「あちらの人で」と竹野さんは苦笑する。
あちらとは、ヤクザさんのことだった。ボコボコにしてしまったらしい。
「歯も何本か折れとったからね」と竹野さん。
<どうなったんですか?>
「その翌日、黒塗りの車が5台、うちの前に。事務所に連れていかれました。まぁ、やばい状況ですね。それで、そっち系の先輩がおったんで、電話貸してもろて。話をつけてもらいました。ただ、治療費は払えって言われて。当時のお金で15万円。こっちも痛かったですよ」。
<それで夜警室?>
「そう、それでね。親父が、さすがにこいつはろくな奴にならんと。私が、頭があがらん高校時代の先輩のことを知っとったんで、相談にいったんです。その先輩が夜警室で司法試験の勉強をしとったんですね。で、今日から竹野も、ここで勉強しろ、と」。
とんだエピソードだが、小学生の恩師の言葉が思い浮かぶ。100冊の本より、1人の人間。その金言通り、人との出会いを大事にしてきたからこそ、みんなが手を差し伸べてくださったんだろう。
今もまたそうかもしれない。

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株式会社タケノ 代表 竹野 孔氏

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2024年11月22日金曜日

11月20日、「2024年度 文京学院大学インターンシップ報告会」にて・・・。

「2024年度 文京学院大学インターンシップ報告会」にて弊社の営業責任者で教育担当の永野がインターンシップ受け入れ企業を代表して話しました。

今年もインターンシップ実施して素晴らしい学生さんを受け入れ、永野たちが『仕事とは…』を教えてくれました。
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2024年11月20日水曜日

株式会社エムアンドエムフーズ 代表取締役 大橋正伸氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社エムアンドエムフーズ 代表取締役 大橋正伸氏登場。

本文より~

1947年、大阪府庁にできた喫茶室が創業店。

「大海原には、信号もなにもない」と大橋さんは、ジェットスキーの魅力を語る。腕前は、プロクラスだったそう。「18歳の時に大学のともだちの兄貴に誘われて、琵琶湖で乗ったのが最初」とのこと。
社会人になって、証券会社に就職したのも、ジェットスキーをしたかったから。もっとも、その証券会社でもトップクラスの営業成績を残している。
仕事でも、遊びでも、結果を残す敏腕ビジネスマンというイメージが浮かび上がる。
「私は1971年、大阪市内に生まれました。私で3代目になります。私の祖父が大阪府庁に喫茶室を始めたのが始まりです」。
ホームページをみると創業は1947年となっている。戦後すぐの話。「もちろん、私は生まれていません。3人兄弟だった父が、祖父のお店を引き継ぎます」。
大橋さんが生まれたのは1971年。俗にいう第二のベビーブーム。「ぜんぜん勉強はしなかったですね」と大橋さんは笑う。地元の中学を卒業し、私立高校に進学。
「部活とかは無縁で、とにかく、バイクが欲しくて、たこ焼き屋でバイトをしまくっていました」。それで、HONDA CBX、15万円を購入している。

人生を動かした200ドル。

「証券会社には、3年間勤めました。毎週末、海に向かってジェットスキーを楽しみます」。仕事で一定の結果を残し、退職。退職金100万円を握りしめ、ロサンゼルスに向かった。
<どうしてロスだったんですか?>
「昔からロサンゼルスの空気を吸って暮らしたいという思いがあったんです。きっかけは、大学の卒業旅行でロサンゼルスに行ったこと。むちゃくちゃ楽しかったんです」。
<英語はできたんですか?>
「いえいえ、全然できませんでした。最初は、アメリカの知識もなく、土地勘もないので大変で笑」。
<ロスにはどれくらいいたんですか?>
「日本と行き来して合計1年ちかくです。語学学校にも行ったし、アメリカの文化にも触れますが、それ以上に、私の人生に影響があったのは、向こうで人気だった寿司屋ではたらいたことです。そこで、運命のトビラが開きます」。
大橋さんは、いう。
「英語がぜんぜんできないでしょ。4人のアメリカ人が席に座って、私をたぶんからかっていたんです。でも、私はからかわれていることもわからない笑。ひたすら一生懸命、対応していると、だんだん彼らの表情がかわって。向こうはチップの文化でしょ。私に興味をもってくれたのか、私へのチップは200ドルで、過去最高だったんです」。
200ドルが大橋さんの運命のトビラを開ける。「お金の多寡じゃなく、相手に喜んでもらうこと。そんな仕事をしてみたい、と思うんです」。
大橋さんの人生が、動き出す。

ユニバーサル・スタジオ・ジャパン開業。

「人前で話することはもともと苦手だった」という大橋さんは自己啓発セミナーにも通っている。そこで得た体験をもとに講演を行い、本も出版している。
「ロスから帰国。父親の会社に就職し、父を手伝います。これが27歳の時です」。
ちなみに、祖父から店を引き継がれたお父様は事業を拡大し、当時、日本で3店舗、香港にも4店舗をオープンされていたそうだ。
  「私は、エムアンドエムフーズの前身でもある『喫茶議員倶楽部』に専務として就職します。しのぶ庵のユニバーサル・シティウォーク店がオープンしたのは、2001年です」。
ユニバーサル・シティウォーク大阪は、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに隣接するエンターテインメントショッピング施設。
「裏舞台ですったもんだがあったんですが、無事、しのぶ庵がオープンする運びになります。USJが無料でお客様を招くプレオープンがスタートするんですが、その時は、80席の店に連日800人がいらっしゃいました」。
「ホールが7名、キッチン5名という体制でした。ただ、プレオープンが過ぎたあとに、『渋滞でUSJには行けない』『むちゃむちゃ混雑している』といったマイナスのニュースが流れ、お客様がいっきに減りました」。
<USJにお客様が来ない?>
「そうです。1ヵ月半くらいだったでしょうか? オープンのために金融機関から1億円借り入れていましたからね。眠れない日々がつづきました。もちろん、USJにお客さんがいらっしゃらないので、どうしようもありません」。

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株式会社エムアンドエムフーズ 代表取締役 大橋正伸氏

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ヴァリオ株式会社 代表取締役社長 利川邦浩氏登場。

  in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”ヴァリオ株式会社 代表取締役社長 利川邦浩氏登場。

本文より~

少年、利川。

今回、ご登場いただいたヴァリオ株式会社、代表取締役社長、利川邦浩さんは1974年生まれ。東大阪市出身。男ばかりの4人兄弟。おじい様は地元大蓮の名士と言われていて、なんでも鉄工所、養鶏、建築、不動産と手広く事業をされていたそうだ。
ちなみに、これは父方の話で、母方のほうの祖父も輸入商社をされていたらしい。両家とも事業家一家である。
利川さんのターニングポイントは? と質問すると、その一つに高校時代が挙がった。
「中学は地元の公立です。高校は私学に進学するんですが、2年生に上がるタイミングで、向こうから辞めてくれ、と(笑)」。
<いろいろあったんですね?>いうと、「そうそう」と笑う。
「母親に相談すると、母は祖父に相談して、母方は頭がいい人ばっかりですから、『うちの家系から高校を卒業しないような人間をだすわけにはいかない』と一喝されて帰ってきます」。
もちろん、手ぶらではなかった。
「祖父はネットワークも広いですから、とある学校の理事長に連絡してくれて、裏技でその学校に2年から編入させていただきました」。
そのおかげで、退学勧告を受けた少年は、大学まで進んでいる。ただし、本州の、端の端の大学だったが。

高校2年生の店長。

「そこしか受からなかった」と、利川さんは笑う。試験日が4月、入学式は5月。雪がまだ大量に残っていた。
「これもターニングポイントですね。やんちゃ盛りの時に、大阪から離れられましたからね。刑務所に入るつもりで、青森に行きました」。
利川さんは、不自由な生活を強いられたようにいうが、当時、ハマっていたスノーボードでの写真には、満面の笑みの利川さんが映っている。
ちなみに、利川さんは大学でバイトをした記憶がないそう。バイトは、高校時代がはじめて。「カラオケです。ともだちの面接に付き添って行ったら、君も来なさいってことになって(笑)」。
「オーナーにむちゃくちゃ気にいってもらった」と利川さん。実際、1ヵ月後にはアルバイトながら店長に就任。言っておくが、高校2年生。「お客様からの評判もよかったですね。あの時くらいからサービス業が天職だとわかりはじめるんです」。
当時、カラオケがまだ少なかったこともあって、利川さんは、TVや雑誌のインタビューに受け答えしている。

2013年、39歳で創業する。

大学を卒業した利川さんは、親戚が経営する不動産の会社に就職。ただし、27歳で退職している。
その後、兄の事業の経営に参画し、年商50億円の到達に寄与。のちに独立。
<独立は、39歳の時だとうかがっています>
「そうです。創業は2013年です」。
<社名のヴァリオというのは、どういう意味ですか?>
「イタリア語で、バリエーションという意味です。ひとつの業態だけで運営するのではなく、様々な業態を展開していくという私たちの想いを表しています」。
<イタリア料理店につづき、粉もんのテイクアウト専門店をスタートされています。これも、バリエーションの一つですか?>
「『てこや』ですね。私は長く飲食の仕事をしていますが、やはり関西人ですからね」。
<「てこや」は、大阪の主要な駅でみかけます>
「南大阪や東大阪、大阪市内、北摂、神戸や東京にも出店しています」。
駅があれば、そこが出店エリアとなる。ホームページで数えてみると50店舗(2024年6月現在)、つまり、50の駅前に、「てこや」があることになる。
メニューのページをひらくと、関西人には定番中の定番、「たこ焼」と「お好み焼」「焼そば」の御三家が現れる。なんでも、ソースは3年の月日をかけて開発したオリジナルソースということ。
たしかに、ソースは、粉もんの決め手。
「それだけじゃないんです。高級真だこを使用したたこ焼や、最上級一等粉を100%使用した極太麺の焼そばなど、素材に妥協はいっさいしていません」とのこと。
さらに、「それだけでもない」と利川さんは笑う。どういうことだろう。

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ヴァリオ株式会社 代表取締役社長 利川邦浩氏

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2024年11月18日月曜日

GOLDEN EYE SPARK株式会社 代表 鶴 洋輔氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”GOLDEN EYE SPARK株式会社 代表 鶴 洋輔氏登場。

本文より~

佐賀県の靴屋。

佐賀藩は、鍋島藩とも言われている。鍋島藩の菩提寺である高伝寺の住職だった曾祖父が、鍋島藩の藩主から土地を下賜され百姓をはじめたのが、鶴さんが知る鶴家のルーツ。
祖父は一転、東京に上京し、大学に通いながら、今回1万円札の顔になった、あの渋沢栄一翁の書生を務めていたとのこと。東京で生まれた父は戦時下、祖父とともにルーツがある佐賀に疎開。やがて、鶴さんが生まれる。
「私が生まれた頃にはすでに佐賀県で靴屋を経営していました。もともと祖父がはじめ、父の代で福岡にも進出して、大規模になっていきますが、大店立地法にのまれ、縮小していきます」。
「私は3人兄弟で、1つちがいの兄と、3つ下に弟がいます。今兄はJR東日本系列の日本ホテルに、弟は整形外科医としてそれぞれの道に進んでいます」。

銀座に、ラムしゃぶ金の目オープン。それまでのお話。

「私は、大阪本社の機械系の株式会社ワキタ(東証)という商社に入社します。ただ、商社でも海外に行くことがなく、大阪本社転勤を言い渡されたときに転職を決意し、アルテック株式会社(東証)というシステムの商社に就職します。こちらでは年に3~4回、輸入元のメーカーへの海外出張があり、主にドイツやベルギー、米国など欧米諸国にでかけていました。ドイツのハノーバーで毎年CEBITという展示会があって、そこで新規商権を見つけて日本の代理店の権利を得て、製品をローカライズして販売することが自分でビジネスを動かす実感があり楽しかったです」。
一方、大学時代に知り合い結婚したという奥様は日本エアシステムでCAになられ、大空で上質なサービスを行っておられた。その時の教官が現在の日本航空の社長である鳥取三津子さんだったとか。
「私も、妻も、仕事がいそがしく、結婚したのは私が34歳で、彼女が32歳のとき。そのときに彼女はCAを辞め、銀座本店の運営をサポートしていました」。
<銀座店?>
「ええ、そうです。今の『ラムしゃぶ金の目』の銀座本店で、創業店です」。
ホームページで沿革をみると2000年6月、東京都中央区銀座八丁目(現銀座本店)にて「ラムしゃぶ金の目」開業とある。これが、鶴さんがいう銀座の店のこと。
奥様は、北海道の名士の流れをくまれている。
「妻の実家は、創業1923年の山﨑火薬銃砲店という会社を経営し、花火の製造打ち上げ、建材商社を運営しています。今、うちの店でお出ししている『ラムしゃぶ』は、工場などでふるまわれていた北海道の郷土料理です」。
なんでも、山﨑火薬銃砲店の初代創業者、山﨑桑永さんが関係者に振る舞っていたことが始まりで、2023年でラムしゃぶも100周年となるそうだ。
奥様がCAを退職し、店の運営をサポートされていた話は聞いたが、創業者が気になる。「創業した初代の店長は、彼女の母親で、私の義母です」。
「もともと義母は富良野の出身です。以前から、銀座に店を出したいと言っていたそうで、妻の弟が大学を卒業したときに、長年の思いを実現されました。ただ、飲食店の経営ははじめて。接客もわからないから、娘の、つまり、私の妻をサポート役にしてスタートします。実質は、妻がゼロから店をつくった格好です」。
もう一度、オープンに目を向けると、2000年6月。鶴さんが27歳で、奥様が25歳のとき。まだ、結婚は先の話だが、鶴さんは、サポート役だった奥様をなにかと励まされたのではないだろうか。
華々しくオープンした「ラムしゃぶ金の目」は、オープンして2週間が過ぎると、まったくふるわなくなった。

芸能人もトリコにした「ラムしゃぶ」。

「最初の1週間は無料キャンペーンです。その翌週は半額キャンペーン。その2週間は、まぁ、当然ですが、順調でした。ですが、通常営業になると、ぴたりとお客さんがいらっしゃらなくなったそうです」。
ほぼ来店ゼロの日も何度かあったそうだ。ギリギリの状態で2年。2002年になって、雑誌の取材で俳優の阿藤 快さんが来られて好転する。
「阿藤さんのおかげですね。そのあと、彦摩呂さん、いとうまいこさんも来てくださって。水前寺清子さんは妻の実家にもお泊りになっています」。
<水前寺さんが、実家に?>
「そうなんですよ。妻は、接客はもちろん店の運営やサービス、メニューの開発などオールマイティに仕事をしていて、義母は宣伝マンというか、ホールですね。芸能人がおいでになっても、まったくいつもとおなじで(笑)」。すぐに、ともだちになられるそうだ。言葉だって、ため口。
「そういうオープンな性格だからでしょうね。来店いただいた水前寺さんともすぐに親しくなって。その意味では、やはり、『ラムしゃぶ金の目』を作っただけではなく、育てたのもまた、義母でしょうね」。
「ラムしゃぶ」という、めずらしい料理に、一定の評価がつき、珍しさが逆に興味を惹くきっかけになったのかもしれない。
その後結婚し、4人の子宝に恵まれる。

店舗管理システム「Gシステム」設計構築と満足サービス。

鶴さんがお店で一番始めにおこなったのが、店舗のシステム化、誰でも同様なお客様に満足いただけるサービスを目指して、システムを構築した。
先ずは開店準備から閉店までの通常運営で欠かせないオペレーションから、お客様が来店されて、お帰りいただくまでの満足サービス、そして閉店に向けたオペレーションの平準化。
お客様が滞在されてお帰りになる限られた時間の中でお客様に「また来よう」といっていただけるまで提供し続けるサービスを行っている。

ラムしゃぶ金の目、新宿店オープン。しかし、ふたたび。

改めて、年表を綴るとつぎのようになっている。
2000年6月「ラムしゃぶ金の目」銀座にオープン→2010年11月新宿店オープン→2016年5月六本木店オープン→2017年4月渋谷店オープン→2018年5月目池袋店オープン→2019年8月初のFC店舗「銀座ラムしゃぶ金の目千葉柏店」オープン。
鶴さんが経営に参加したのは新宿店がオープンする半年前の2011年のこと。「義母の他界がきっかけになった」と鶴さん。鶴さんは、入社して1年かかることなく、新宿店のオープンにこぎつけている。もちろん、鶴さんにとっても飲食店の経営は初めて。
「最初は、グループ会社としてスタートし、のちに私個人の会社として出店を重ね、今、いっしょになっています。だから、じつは妻と私の共同代表なんです」と鶴さん。
<新宿店は、鶴さんの仕事ってことですね?>
「そうです。グループの会社ということで資本をわけてスタートします。鉄板焼だったお店を居抜きで、取得。キッチンを3分の1にするなど改修もして1000万円くらいかけてオープンしました」。
<いかがでした?>
「それがですね。狙いが外れたというか、ぜんぜんダメで(笑)」。
<今の繁盛ぶりからは、イメージしにくいですね>
鶴さんは「やるからには『ラムしゃぶを広げたい』という義母の願いを実現したかった」という。「そして、ラムしゃぶのカテゴリーで、金の目をいちばんにしていこう、と。そういう思いが強かったですし、私自身、実績を残したかったのも事実です」。
「ラムが珍しいというのは、新宿店でもいっしょですね。だから、業績も銀座店をトレースします。うちのラム肉はまったくクセがないんですが、一般的にラム肉はクセがつよいと、そういう思い込みがあったんでしょう。

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GOLDEN EYE SPARK株式会社 代表 鶴 洋輔氏

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株式会社エレキング 代表取締役 瀬山剛史氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社エレキング 代表取締役 瀬山剛史氏登場。

本文より~

父はイタリアレストランのオーナーシェフ。

「カエルの子は、カエル」と今回ご登場いただいた株式会社エレキングの社長、瀬山さんは笑う。なんでもレストランのオーナーシェフだったお父様をみて「飲食店の経営者だけにはなるまい」と思っていたそうだ。
「父親は私が3歳の時に大和証券を脱サラして、イタリアレストランを開業したそうです」。レストランは繁盛して、ご両親ともに仕事に追われていたそう。
「キャッチボールをしてもらったことがない」と瀬山さん。瀬山さんはサッカー少年だったが、試合を観戦してもらったこともないそうだ。ただ、年に数回、旅行には連れて行ってくださったようだ。もっとも瀬山さんに言わせるとそれも「罪滅ぼし」となる。
とはいえ、旅行先はハワイやグアムなどだったそうだから、贅沢な話。
「イタリアンと言っても、呼び方がパスタじゃなく、スパゲッティだった頃です。当時としてはなかなか珍しい本格的なイタリアンレストランでした」。
レストランは幹線道路沿いにあったそう。ともあれ、カエルの子は、親カエルの下でスクスクと育っていく。

大学時代、飲食店出アルバイト開始。

「高校も、大学も12月には決まっていた」と瀬山さん。瀬山さんが進んだのは日本大学の準付属の高校。
「中学時代は生徒会もしていました、サッカーでもけっこういい成績を残していたんで、実は推薦で公立にも行けたんですが、そこが父親と一緒の高校だったので。だったら日大の付属高校でいいやって(笑)」。
お父様にすれば、少々、残念な話かもしれない。
ちなみに、瀬山さんは高校1年までピアノを習っている。音楽祭で演奏もしたことがあるそうだ。
高校を卒業した瀬山さんは、そのまま日大に進学する。
「大学は水道橋校舎です。志村坂上に住んで飲食店でアルバイトをしていました」。
「飲食店は賄いがあるから」と笑う。大学2年になって、新たに神保町でバイトを始める。「洋風居酒屋で、こちらでオタマジャクシがだんだんと孵化します(笑)」。
なんでも、洋酒にも興味が出て、本人曰く「すっかり飲食にハマってしまった」そうだ。だから、気づいた時には「就活の時期も終わりにちかづいていた」と笑う。
当時は笑い事ではなく、「やべぇ」と思わずつぶやいたそうだ。

銀座のネオンの下、酒と、笑いと、コミュニケーションと。

「バイトでお酒に魅了されたこともあって、酒造メーカーに就職します。ただ1年足らずで退職し、大学時代のバイト先に戻ります」。
瀬山さんが就職したのは1998年4月。就職先の酒造メーカーは、今では有名な酒造メーカーの一つ。
「ただ、当時は今ほど知られていません。私は、長野県を担当するように言われました。当時の長野県はオリンピック直後でフリーズしたような状態でした。だから、全然、仕事も面白くない。もう一つ言うと、酒造メーカーですからね。私自身がおいしくないと思っているお酒でもセールスしないわけにはいかないでしょ」。
そういうことが重なって、その年の12月には退職の道を選択する。結果的には大学時代のバイト先の仕事が楽しかった反動でもある。
銀座のど真ん中。カウンター越しに、お客様の心を掴む。面白くないわけがない。
「昔のバイト先に2003年までいて、そのあと、ある内装工事の会社に転職します。内装工事の会社と言っても、私が応募したのは飲食部門です。2号店がオープンする時に採用していただきます」。
なんでも、面接は不合格だったそう。だが、社長から直接、電話が入り、不合格と伝えられたあと「2号店をオープンする時には声をかけたい」と言われたそうだ。
「本当にかかってくるとは思ってなかったから、びっくり。すでに違う会社に就職していたんですが、二つ返事で『お願いします』と言いました」。
瀬山さんは、この時の社長を、人生の中でもっとも影響を受けた人物の1人に挙げる。

毎年、10万円の給料アップ。

「仕事もむちゃくちゃ楽しかったです。2号店がオープンしたのは銀座で、業態は『焼酎バー』です。給料は下がりましたが、そこじゃなかった。コンセプトは決まっていましたが、棚に置くお酒、お料理のメニューも全部、私に任されました。私自身は料理ができなかったので、前職で知り合った料理人を引っ張ります」。
「社会に出たら結果がすべて」。
これは初めて就職した会社で先輩から教えられた、社会のセオリー。結果をだすため、瀬山さんは夕方から朝まで休みなくはたらいた。
いったん下がった給料はまたたくまに上昇し、すぐに逆転する。1年ごとに10万円ずつアップしたそう。 
「2号店の店長からのスタートです。翌年には本部勤務になり、4年で40店舗ちかくをオープンさせました」。
業態も多岐にわたったが、そのほとんどの業態の立ち上げにかかわった。
業績は好調。ただ、好調な業績を背景に、オープンを急ぎすぎたのか、少しずつ歯車が狂い始める。このとき瀬山さんは、オープンと同時に、「クローズすることの重要性を知った」と言う。これもまた、瀬山さんの流儀の一つになっていった。

・・・続き

株式会社エレキング 代表取締役 瀬山剛史氏

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2024年11月5日火曜日

東京レストランホールディングス株式会社 代表 石川成秀氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”東京レストランホールディングス株式会社 代表 石川成秀氏登場。

本文より~

19歳の店長、24歳だと、サバを読む。

「19歳でレンタルビデオショップの店長になった」と笑うのは、今回ご登場いただいた東京レストランホールディングス株式会社の代表、石川成秀さん。
今回インタビューさせていただいたのは、2024年7月だから、57歳になられたばかり。初めて店長になってから、もう40年ちかく経っている。
「早く社会にでたかったのと、パソコンに興味があったので高校を卒業してすぐにパソコン関連の会社に就職しました。その会社の副社長がレンタルビデオショップを始められて、19歳だった私が店長に抜擢されたわけです」。
地域最大級の大きさで、駐車場を含めると100坪はあったというから、かなりでかい。
「ビデオを仕入れるだけで、数千万単位にお金がかかりましたが、レンタルビデオの走りで、大人気でしたから回収も早かったです。波に乗って、いっきに6店舗までオープンします」。
埼玉に3店舗、都内の足立区と墨田区に3店舗と、つぎつぎと新店がオープンしていったらしい。そのすべてを石川さんがコントロールしていた。その時で、若干、22歳。
ただし、27歳と思い込んでいたスタッフもいたかもしれない。何しろ、店長になったのは、19歳。「私より年上のスタッフばっかりだったから、24歳って誤魔化していた」そうだ。

レンタルビデオショップ。

「小さい頃は、生き物が好きだったので、そっちの仕事に就きたかったんですが、ちょっと食べていけるイメージがなかったので(笑)」。
石川さんは、やさしげな表情でそういう。出身は千葉県千葉市。4人兄弟の3男。お父様はスクラップの買取販売をされていたそうだ。
小・中はサッカー。「走ってばかりだから、高校からは陸上に転向した」と笑う。そして、高校卒業後、すでに記載した通り、パソコン関連の会社に就職し、副社長に気に入られ、1年後にレンタルビデオショップの店長に抜擢される。以来、42歳になって会社を退職するまで、石川さんは実質トップとして、このレンタルビデオショップの運営を行っていくことになる。
気になったので調べてみると、石川さんが店長になった1986年は、レンタルビデオのマーケットの黎明期。当時はオープンすれば、客でにぎわったそう。ただ、2000年代に入り、セルDVDの価格が下落したことなどを背景に、レンタルのマーケットは縮小していく。
今や、映画もネットで観られ、購入もできる。ずいぶん、時代も進化したものだが、その一方で、レンタルビデオショップは姿を消していく。ただし、石川さんが退職することになったのは、時代の移りかわりだけが理由ではないらしい。
「実は、私の母親がお好み焼きのお店をオープンするんです。それが一つの転機になりました。同時に、若い世代につぎのステージを渡してあげたくて、会社を卒業することにしたんです」。
お母様は60歳になってお店をオープンされたそう。会社を畳まれたお父様と二人三脚だったらしい。母の思い切った行動が石川さんの背中を押したのかもしれない。

いきなり、社長に抜擢される。

「ショップの運営を長くやってきましたが、飲食店の経営は初めてでしょ。それで、すでに飲食店を経営している知人に相談したんです。それが東京レストランホールディングスのオーナーだったんです」。
オーナーと石川さんは同年代。話も合い、石川さんは、すぐに社長に任命される。「最初は、ただ勉強させてもらうだけのつもりだったんですが」と石川さん。
すでに社長になって、15年になる。店長にも、社長にもいきなり登用された石川さんだが、そこに石川さんに対する評価が表れている気がする。
「最盛期は、焼肉店が10店舗。今は、焼肉、レストラン、ケーキショップで、実質8店舗ですね」。ホームページをみると、おしゃれなレストランが登場する。
「恵比寿 SO-TEN」。こちらは、和風モダンをコンセプトにした5階建てのレストラン。グルメサイトの評価点も高い、高い。「Mancy's Tokyo」。こちらは、ナチュラルなイタリア料理を楽しめるカフェレストラン。食事だけではなく、カラオケも楽しめる。
ホームページによると、「最新のカラオケをはじめとした様々なファシリティを備えたラグジュアリールームからなる、全く新しいTOKYOの『アソビバ』」が、コンセプトとのこと。
大人びたラグジュアリールームのイメージだが、本日のランチをみると、お子様用のボロネーゼ(鷹の爪、黒胡椒抜き)があって、なぜかほっこりした気分になった。もちろん、こちらも高得点を獲得している。
ちなみに、「Mancy's Tokyo」は、あのマハラジャの跡地にあるらしい。

・・・続き

東京レストランホールディングス株式会社 代表 石川成秀氏

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有限会社ケイキフードサービス 代表取締役 増田圭紀氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社ケイキフードサービス 代表取締役 増田圭紀氏登場。

本文より~

少年時代に、はやくも独立を志す。

徳島県、出身。もともとお父様が徳島で和食店を経営されていたそうだが、増田さんが小学低学年の時に渡米。サンノゼで鮨屋をオープンされたそう。
父親の影響だろうか。少年時代から独立を志していたという。
「小学校の低学年の頃にはもう独立する気満々でした。算数や数学は独立に役立つと、それだけはちゃんと勉強していたくらいです」。
「高校はすぐに退学しています。このままだと流されてしまうと思ったからです。そのあと、居酒屋に就職します。父にも呼ばれてアメリカにも行きました」。
3ヵ月くらいいたそうだが、「アメリカはちっとも面白くなかった」と笑う。
「父は私にアメリカの店を継がせたかったようですが、言葉も全然、しゃべれないのに、そりゃ無理ですよね」。
数学だけじゃなく、英語もいるとは、さすがに想像外。もっとも心が動かなかったのは、父の店を継ぐつもりがなかった証。
ちなみに、徳島にあった和食店は、お母様が引き継がれたそうだ。
「小さい時は野球をしていました。ピッチャーかショート。キャプテンも務めていました。高校は、飲食の免許が取れるとの触れ込みだったので、そちらの高校に進んだんですが、さきほど言ったように、すぐに退学します。2週間しかいなかったです。入学してすぐに、この学校に3年通ったら、絶対、遊び人になってしまうと思ったからです(笑)」。
中退というレッテルは気にならなかった。中卒も、高卒も、大卒も経営者には関係がないからだ。

少年、東京へ。

海の向こうから、そんな息子をみて、お父様はアメリカに誘われたんだろう。増田さんが17歳の頃の話だそう。
ホームページで増田さんは、<私は実家が和食料理屋だったということから、自然な流れでこの世界に入りました。15歳から徳島、そして大阪で修行生活を送った後、ご縁があり19歳で東京に出てきました。>と綴られている。
大阪というのは、食い倒れの街のど真ん中、心斎橋。
「じつはその頃から、ちょくちょく東京に遊びに来ていたんです」。まだまだピュアな青年。「東京には、観たこともないようなレストランやカフェがあって、もう最高でした。それで、たまらなくなって、東京へ移住します。19歳の時です」。
<その時に出会ったのが「魚真」ですか?>
「そうなんです。有名な魚屋さんの飲食部門で、私はその『魚真』に就職します。父や母の背中をみて、飲食に惹かれ、独立を志しました。修業もしました。ただ、私の今の原点はというと、こちらの『魚真』です」。
増田さんが修業していた時から、かなり経つが、「魚真」さんは今も元気に経営されていて、都内に数店舗をオープンされている。さすが、魚屋の飲食部門、グルメサイトの評価点はすこぶる高い。

次の道探し。

「合計8年お世話になりました。社長が目をかけ、かわいがってくださいました。もう感謝しかないですね。『魚真』を選択した理由ですか? それは、たまたま下北沢を歩いていて。ちょうど魚を勉強したいと思ってたタイミングだったので、ここがいいかな、と。ほんと、偶然だったんです」。
<いかがでした?>
「むろん、勉強になりました。1年くらいで原宿に異動になります。東京なんて、徳島生まれの私からすれば、異国です。なかでも原宿ですからね。ただ、ネオン街の下でも、ちがった道に進まず、料理に真剣に向き合えたのは、やはり『魚真』だったからじゃないでしょうか。」
<それだけ仕事に魅了されたということですね?>
「そうです。『乾いたスポンジ』って、よくそういう表現をされると思うんですが、まさに、その通りで、吸収の8年間だったと思います」。
<少年時代から目標だった独立はどうなりましたか?>
「独立はもちろん、忘れていません。25歳で独立をめざしていたんですが、若くみられたのか、どこの不動産に行っても相手にされません。当時は、ネットなんかない時代です。だから、あっちの駅で降りて、こっちの駅でも降りて。まぁ、それも宝探しなんですが、みつけても若造だって相手にされない。それで、先に法人を設立しました」。

魚真からの独立。

さて、ここからが、今回の本番。
増田さんは28歳で、「魚真」から独立。自由が丘に創業店をオープンする。すると、初月から月商600万円を叩き出す。「600万円から翌月には700万円、さらに800万円となり、1000万円をオーバーするようになりました」。
22坪40席、家賃63万円。
「私のプランでは、2000万円は必要だったんですが、銀行、公庫を合計しても1000万円くらいしか貸してもらえませんでした。でも、もうあとにはひけなくて。じつは魚真の社長から800万円お借りしました」。
社長に相談すると、すぐに貸してくださったそうだ。もちろん、恩人からお借りしたぶん、プレッシャーはでかい。「半年は1日も休まなかったですね」。
<ふんばりどころですものね?>
「そうです。当時、自由が丘には、それほど多くお店がありませんでしたし、若い兄ちゃんが魚を巧みにさばいて、ライブでお出しするようなお店もなかった。それが、功を奏したんだと思います。社長にお借りした800万円はすぐに返済できました」。
<2年目には2号店をオープンしていますね?>
「55坪85席くらいで、個室を多くしました。家賃は150万円。ただ、私が新店をカバーすると、本店の業績が下がります」。
「月商300万円まで激減した」というからヤバイ。やはり、飲食はシステムではなく、人なのだろう。その一方で3店舗目を目黒にオープン。業績が落ち込んだ本店は、沖縄料理に業態変更する。
「最初は、さらに下がったんですが、しばらくしてV字に回復します」。
うまくいかなくても、ひるまない。類まれな行動力で突破する。

・・・続き

有限会社ケイキフードサービス 代表取締役 増田圭紀氏

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