2015年10月27日火曜日

なすび亭 店主 吉岡英尋氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”なすび亭 店主 吉岡英尋氏登場。
本文より~

若き日本料理のリーダー。なすび亭、店主 吉岡英尋。

2013年12月4日、「和食」がユネスコの無形文化遺産に登録された。
ただし、「和食」とは何かの定義が難しいように思う。
もっとも「日本人の伝統的な食文化」が登録されたのであり、「和食」という料理のカテゴリーが登録されたわけではないそうだ。
ともあれ、ここでは料理のカテゴリーである「和食」についてである。「和食」や「日本料理」と言われるとアッパーな日本料理店を連想してしまいがち。
その意味では、庶民にとって「和食」料理は高嶺の花である。
もちろん、我が家でつくっても「和食」には違いないのだが、レシピ本と格闘しつつ、作った料理を「和食」と呼ぶのは気がひけてしまう。
なぜなら「和食」には厳しい修業を重ねてきた「職人たちの矜持」が詰まっていると思うからだ。少なくとも、現代に至るまで和食、また日本料理が脈々と受け継がれてきたのは、この「職人たちの矜持」があったからだろう。
今回、ご登場いただく「なすび亭」の店主、吉岡英尋氏も、その矜持を胸にした1人。TVにもたびたび登場している「旬」の料理人でもある。

幼少期から、進路を決めるまでの日々の話。

吉岡は1971年2月6日、東京都清瀬市に生まれる。2人兄弟。吉岡が1歳の時に両親が離婚し、弟の吉岡は母の元に引き取られた。
母の兄夫婦、弟夫婦との3世帯同居。総勢11人というから驚き。もっとも吉岡は「従兄弟全員男だったので、仲が良くって楽しかった」と語っている。
夏休みになると、愛媛県の小さな島にある祖父母の別荘に預けられた。テレビはあったが、映るのはNHKのみ。だが、不便とは思わなかった。吉岡らは毎日、海に出かけて泳ぎ、糸を垂らして釣りに興じた。釣った魚は、もちろんその日のうちに食卓に上った。
「だから毎日、魚ばかり食べていた」と吉岡。むろん、旨い。
「外食ですか? 外食は『すかいら~く』一本でした。入学式のお祝いも『すかいら~く』(笑)」。
一方、父については、「死んだと言われていた」という。しかし、小学校も高学年になると墓も無いのにおかしいと気づき、離婚したと何となくわかったそう。だが、意識して聞かないようにしていた。子ども心に母への思いやりがあった。
小学校の頃は、弱小少年野球チームに所属。中学になってバスケットボールを始め、高校生では、硬式野球部に入った。ポジションは、セカンド。
「中学の時は、勉強もできてバスケも私なんかより断然巧い従兄弟と比較もされるもんですから、劣等感を抱いていました。勉強やスポーツだけではなく、従兄弟は女の子にもモテたから。それが、高校生になって、自分はダメなほうではなく、「普通」ということに気付いたんです。悪くもなく良くもなくいわゆる「凡人」なんではないかと」。
「当時は、料理人なんて全然頭に無かったです。何をしたいかもわからず、高校卒業の時も、進路をなかなか決められなかった。やりたいこともないくせに、大学進学にも漠然とした抵抗感があって…。それで、大学に行かなくても将来、一流大学に行った人と肩を並べられる仕事がないだろうかって考えたんです」。
「手に職をつけよう」。
技術職が頭に浮かんだ。ただし、技術職といっても、幅は広い。リクルートが発行する雑誌で調理師学校をみつけ、「料理なら頑張れる」「何とかなる」と調理師という技術職に目を向けた。いったん「こうだ」と思うと、決意は揺るぎない。母親の反対を振り切って、新宿にある調理師専門学校に進んだ。
これが、いまや日本料理の若手料理人の代表でもある吉岡の、調理もしくは飲食との出会いだった。

調理師専門学校に入学。修業の旅の始まり。

調理師専門学校への進学は、吉岡の人生を決定するターニングポイントとなる。友人とも出会った。同じクラスに「オステリア・ルッカ」のオーナーシェフ桝谷周一郎氏もいた。同氏とは、調理実習で一緒のグループ。野球部にも一緒に入った。卒業制作も、共同で行ったそうだ。
「最後の学生生活と思い、悔いの無いよう毎日遊びまくった1年間だった」と吉岡は振り返っている。卒業を間近に控え、進路を聞かれた時、吉岡は「給料が低くてもいいので、技術がつくところへ」とそう告げたそうだ。
紹介されたのは、静岡にある有名ホテル「つるやホテル」だった。
「東京で皿洗いをするより、静岡で沢山魚を触ったほうがいい、3年も経てば魚も下ろせるようになるから」というのが先生の推薦理由だった。
ホテルでの修業の日々が始まった。
朝、6時には調理場に入った。200人ほどの朝食を準備するためである。数をこなすことはある意味、大きな力となる。
不平を言わず、吉岡は黙々と仕事をこなした。「料理漬けの生活で、実家に帰ることもできなかった」と言っている。3年。思い決めていた月日が過ぎた。
たまたまホテルの客として来られていた、とある店の料理長に紹介され、鎌倉に移ったのはそれからしばらくしてから。

流転、修業。まだまだ旅の最中。

紹介されたのは、「鎌倉山に鬼がいる」とまで言われた店主がいる店だった。鬼の気迫に若い連中はすぐに逃げ出す、というのが定説だった。
それでも吉岡は「お前は3年働いていたが、それは3年間の遅れを取ったと同じこと。本当に技術のあるその店で1年でも働ければ遅れを取り戻せる」と言われ、覚悟を決めて暖簾を潜った。
「やっぱり怖かった。半端なく仕事ができる人で、隙がまったくないんです。私が動く度に怒られていました(笑)」。
1年続けばと言われていたが、残念なことに1年も持たなかった。店主が怖いからではない。些細なことで、当時の2番手と喧嘩してしまったから。
「もう東京に戻るしかないと思ったんですが、とりあえずゴールデンウィークも近かったので、その期間だけどこかで働こうと、『るるぶ』に載っていた温泉宿に電話をしました。一度は断られたのですが、強引に押し掛け、その店の料理長に湯河原のホテルを紹介してもらったんです。そして再度そこから紹介され、結局、熱海の旅館に行くことになりました(笑)」。
流転といえばいいのか、これもまた修業といえばいいのか。もがくように、吉岡の旅は続く。
熱海の旅館で1年働いた吉岡は、ついに東京に戻り、永田町の「瓢亭」や新宿の日本料理「蝦夷御殿」、銀座のふぐ料理「山田屋」で腕を磨いていくことになる。
料理の世界につきものといえば語弊があるかもしれないが、厳しい徒弟制度のなか、理不尽な思いをしたこともあった。
賭け事はしない吉岡が競馬を覚えたのも、先輩の目を気にしてのこと。ただし、いくら徒弟という制度が幅を利かせても、吉岡は料理という一点から目を離すことはなかった。
いっさいの付き合いをリセットし、再出発もしたのも、料理を追及するためである。

「なすび亭」オープン。もう一つの旅の始まり。

吉岡の足跡を辿れば、料理人のひとつの軌跡が見えてくる。
料理人の良し悪しはやはりセンスですか? というこちらの問い掛けに、吉岡は首を振った。
「センスのあるなしということよりも、ちゃんと続けることのほうが大事です」。どの店でも、料理から逃げず真っ直ぐに進んできた吉岡だから言える貴重な一言だ。
ただし、吉岡は「オレは天才だと思っていた」という一言も語っている。独立を前に、ともかくそういうだけの自信が付いていたことの表れでもある。
「独立の前に、ふぐ料理の名店で働きました。ふぐの季節が終わるのを待って、退職し、独立しました」。
2000年、恵比寿に店を構えた。最初から大々的にアピールするつもりはなかった。それでも客は来る、という自信があったからだ。
しかし、「笑っちゃうほど、ですね。1週間に、3組って時もあった。近所の子がバイトに来てくれたんですが、暇すぎて辞めていきました(笑)」。「リピートしてくださるお客様は少なくなかった。そりゃそうですよね。お客様が少ないから、1組、1組のお客様に全力投球です。それでも、なかなか食べていけるだけの売上を上げられませんでした」。
「夫婦2人でやっていたから、なんとかなった、というのが正直なところです」。
当時のコースは、3800円。のれんを潜りやすい価格帯である。
この価格帯はある意味功を奏し、ある意味、なかなか浮上できない原因もつくった。「ようやく、一息つけるようになったのは3ヵ月目ぐらいです。雑誌の取材も受けるようになりました。しかし、思ったほど売上が上がりませんでした。何しろ、3800円ですから」。
そんな時に、子どもを授かった。貴重な働き手である奥様が店に出られなくなる。かわりのスタッフの人件費を払うためにランチをはじめた。

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第4回外国人留学生新卒説明会を実施!!

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2015年10月20日火曜日

有限会社坊'S 代表取締役社長 加藤大輔氏登場。

東海エリア強化につき、今回から続々登場頂きます。
in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社坊'S 代表取締役社長 加藤大輔氏登場。
本文より~

19歳。飲食へ。軽い思いで、決断。

「赤貧」という言葉がある。特段、貧しく、何も持たないことを指す。その「赤貧にちかかった」と今回、ご登場いただく加藤氏は語る。
「私は、名古屋市で育ってきました。どちらかといえば冷めた目をした少年だったと思います。特別、スポーツにも、勉強にも熱中していませんし…」。
加藤氏が9歳の頃、サラリーマンだった父親が独立したが、失敗。1億以上の借金を抱えた。「赤貧」というのは、その頃のことを指すのだろう。
「借金の返済のために、今度は母親が会社を興して、借金までチャラにします」。
凄い、お母様である。
一方、加藤氏のほうは、高校を出てフリーター生活を開始。深夜にはコンビニスタッフ、昼は引越会社のスタッフ、夕方はラーメン店の出前係と1人3役をこなした。
多い月には40万円くらいあったというから、こちらも驚きである。
「それなりの収入があったのも事実ですが、当時は、『これだ』っていうものがなく、ただただ、その日暮らしです。19歳の時に、『飲食の道に進もう』と決意しましたが、それも、たまたま行ったある大手チェーンの店長が金髪で、『へぇ、これくらいの奴でできるんだったら、俺にもできるだろ』って。軽~いのりで、スタートしたんです(笑)」。

恩人との出会い。

19歳。決意をすれば動きは早い。
「ある居酒屋チェーン店で、バイトを開始します。それをきっかけに3~4ヵ月してから、名古屋でも有名な飲食グループに、今度は社員として入社するんです」。
この時、友人と2人で独立する計画も進めていたらしい。それで、一緒にその有名なグループに入社したそうだ。
「でも、私は、もう一度、もとの店にもどるんです」。
尊敬する先輩がいたのが、「その理由」だそうだ。
「当時の常務で、小池さんという人です。私にとっては父親代わり、兄代わりの存在。人も、飲食も大好きという熱い人でした」。
人生で影響を受けたのは誰か? そういう質問をすれば真っ先に小池氏の名が挙がることだろう。
ふたたび、前職の会社にもどった加藤氏はめざましい実績を残し、わずか3年で複数店舗を統括する「統括店長」に抜擢される。
むろん、そうなったのも小池氏の薫風のおかげである。
加藤氏は、誰よりも早く店に入り、その時間を利用して、真摯に教えを乞うた。打てば響くという関係だったのだろう。
やがて、加藤氏は、独立を宣言するまでになる。
「4年で独立すると言ったんですが、けっきょく、独立したのは5年目。タイミングの問題です」。
最後の半年は、「恩返し」だと半年間、休みも取らなかったそうだ。

・・・続き

有限会社坊'S 代表取締役社長 加藤大輔氏
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2015年10月19日月曜日

母校である北桑田高校・関東在住の交流会(懇親会)ありました。

16日(金)の11時30分より、母校である北桑田高校・関東在住の交流会(懇親会)ありました。
平成9年ごろからスタートした交流会。
当時50~60代の皆さんが中心になって立ち上げられたなので、現在70代が中心となっており私が断トツの最年少です。
多くの関東在住の北桑田高校卒の方がおられるとおもうので、30〜40代の方中心に30~50人規模にしたいと思います。
来年秋(土曜)開催予定ですので是非北桑田高校OBで関東にお住まいの方をご紹介またはご参加ください。
年齢重ねれば重ねるほど故郷の京都・旧北桑田郡LOVEになっていきます!!


2015年10月13日火曜日

有限会社いっとく 代表取締役社長 山根浩揮氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社いっとく 代表取締役社長 山根浩揮氏登場。
本文より~

広島県尾道に生まれた少年2人。

「コンビニもない時代だった」と「いっとく」の山根氏。コンビニもないその時代に、父親が持ち帰り鮨の店を開いた。広島県尾道市での話である。
 「オープンしてすぐに人気になって、行列もできたそうです。うちの家には、酢飯の匂いが漂っていました(笑)」。
兄弟は、兄が1人。1才違いである。「2人一緒に、朝から親父にたたき起こされ、市場に連れて行かれたりしました。そうやって、『中学を出たら鮨屋になれ』と脅かされていたんです(笑)」。
山根氏は、笑いながら言うが、結構、マジメな話でもあったようだ。
「電話に出ても、『いつもお世話になっております。山根でございます』って、ちゃんと言わないと怒られるんです。鮨屋の仕事を継がせるための、躾です」。
「そういうこともあって、私たち兄弟は、自然と『店を継ぐんだ』と思っていました。もっとも私は、次男だから兄の背中をそっと押していたんです。なるべく、こちらにお鉢が回ってこないようにと祈りながら(笑)」。
将来を父親に握られた格好の山根兄弟だったが、それでも2人は活発な少年で、近所では有名な、勉強もスポーツもできる兄弟だったそうだ。
「頭も良かったし、スポーツもできたからね。特に兄貴は足が速くて県大会にも出場しています。習い事もようしよったね。私は8つ掛け持ちしていました。公文が3つ。それにソロバン、ピアノ、習字、水泳、お絵描き教室にも通っていた。兄貴はたしか7つだったから、習い事の数なら兄貴に負けてなかったんやね」。
兄ほどではないが、山根氏本人も足が速く市大会には毎回出場していたそうだ。その快足を活かして、中学からサッカーを始めている。
「結局ね、勉強はせんようになってしまうんですが、それでもヤンチャにもならず、まっとうな学生時代を送れたんはサッカーのおかげやと思っています。親父が亡くなっても、グレんかったしね」。
中学ではキャプテン、高校では副キャプテンを務めた。大学に進学していたら、もう一つ役職をもらっていたかも知れない。

大学進学、断念。

山根氏の父親が亡くなったのは、氏が中学2年生のことである。父が経営していた鮨屋は、母が引き継いだ。
だから、山根氏にとっては、母親が店の代表という時期のほうが長い。
「私が中2の時からおかんが代表です」と言って笑う。
いま、母から譲り受け山根氏自身が3代目の代表となっている。こちらは今回の「有限会社いっとく」とは別の話だが、つながってはいる。
 「子どもの頃から、店の跡取りのように躾られてきたこともあって、いつかはと思っていたんですが、母一人でも店は順調でした。だから、甘えていたんでしょう。サッカーは楽しいし、できればもうちょっと遊んでいたかった。それで、大学に進学しようと画策するんです」。
小学校の頃は、優秀な方だったが、サッカーに明け暮れ、勉強とはずいぶん遠ざかっている。学力で勝負しても勝ち目はない。
「だから、日本で偏差値がいちばん低い大学と2番目の大学を、サッカーの推薦もあって受けたんです。しかし、腹が立つことに2つとも不合格です。信じられず、当時は、『この、バカヤロー』と叫んでいました。いま考えると、落としてくれて『ありがとう』なんですがね。そのおかげで道も広がったわけですから」。

・・・続き

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2015年10月8日木曜日

山国小学校5年当時に作成された記録映像『山の子の詩』。

今から42年前の1973年、
小学校(山国小学校)5年の時の担任・磯部洋先生が発案され
親や教育委員会も巻き込み作成された
記録映像「山の子の詩」を
8mmフィルムからDVDとして復活させました。

41年前なんで、
同級生の両親も登場されてますが亡くなった方もいますので、
今のうちに関係者が観れればと思い形にしました。

おかげさまで同級生は皆健在ですが、
なによりも磯部洋先生や同級生の親が元気なうちに
観てもらえればと思っています。
(41年前作成された8mmフィルムをDVDに)
(授業風景/一部抜粋)
(体育授業/一部抜粋 2番目が私)
(当時の実家では和牛飼ってました/若き頃の両親です)

2015年10月6日火曜日

株式会社一歩一歩 代表取締役 大谷順一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社一歩一歩 代表取締役 大谷順一氏登場。

ジャイアン、大谷。

「商店街のみんなに育てられた」と株式会社一歩一歩の大谷社長はいう。団子屋さん、パチンコ店…商店街の店は、たいてい大谷の標的となり、餌食となった。「今でも帰るでしょ。すると、商店街のみんなが『ジャイアン』ってぼくのことを呼ぶんです」。
 友人たちが誘ってもいないのに、大谷の周りにたむろするようになる。外からみれば、大谷がメンバーたちを引き連れているように観えたのだろう。だから、「ジャイアン」。
とにかく、亀有のジャイアンは行為がひどかったそうだ。本人がちゃんと認識しているから救われるが、新築マンションができた時にも、マンション内に秘密基地をつくってしまったという。「商店街のおじさんやおばさんたちに怒られ、怒鳴られてぼくは大きくなった」。言葉のトーンから大谷の感謝の心が伺えた。「父という存在をぼくは知らないんです。ぼくが4才の時にいなくなったから」。大谷にすれば、町のみんなが大谷の保護者が代わりだった。まだ、そういう時代でもあったのだろう。

ブレない、成績。

「まったくブレなかったね」と大谷は笑う。中学3年間の成績のことである。「英語が『1』。それ以外は『2』。3年間、まったくブレなかった(笑)」。成績など本人はまったく意に介していない。母親もそうだったようだ。「母方は、商売家系なんです。だから、親戚の叔父さんたちも学校の勉強なんてできなくていい、という考えかたで、たぶん、うちの母もそうだったんだと思います」。
ともかく、中学になっても自由奔放。ただ、だれかに迷惑をかけるようなタイプではなかったそうである。ともあれ3年間、低空飛行ながら、飛びつづけた。ということは、卒業である。
「周りの奴らが推薦でポツポツ決まっていくんです。でも、ぼくには推薦が全然、こない。先生に文句言ったら、『一つだけ、あるにはある』という返事でした。『なんだ、あるんじゃないか』って喜んだんです。でも、高校名を聞いて、『う~ん』ってなっちゃった。だって、当時、ここらあたりではもっともヤバイ私学の高校だったからです。しかも、先生がいうには『そこだって、絶対とはいえない』って」。
結局、親戚の叔父さんからも「その高校だけはやめておけ」と待ったがかかり、断念。推薦以外では、進学できっこなかった。
「それで、苦肉の策というか。一計を案じて、ぼくよりできる友人を巻き込んだんです。『いっしょにあの高校を受けようぜ』って。『あいうえお』順でいえば、ちょうどぼくの前」。計画通り、受験会場でも前後になり、見事、合格。「いま思えばおなじ答案が2つあったんですが…。先生たちも目をつぶってくれたんでしょうか(笑)」。
授業の成績は悪かったが、戦略を立てるのは昔からうまかった。

問題児、大谷。

高校には進学したが、もちろん学業に専念する生徒ではなかった。とはいえ、高校生になったジャイアンは、案外真面目に人生を考えていた。「ぼくは16歳から叔父さんの八百屋でバイトを始めています。うちの家系は商売人が多いから、商売人というのが格好いいなと思っていたんです。だから、なるなら、ぼくも商売人いなって社長になろうと決めていたんです」。
だからといって、商売の勉強をする大谷ではない。いきなり無期停学にもなったこともある。
「修学旅行の時の話です。夜行列車で、京都に向かったんですね。酒を持ち込んでいて…。そうヘロヘロになって、女子のところにという話になって。向かっている時に、先生たちと衝突したんです」。
大谷自身は「まったく記憶にない」というが、いきおいで先生を殴ってしまったそうだ。それで無期停学。もっとも退学という話もあったそうだ。
「でも、その時、ぼくが殴った先生が『あいつはいい奴だから、退学は許してやって欲しい』っていってくれたそうなんです」。この時の先生たちとも「今は、飲み友だち」と言って大谷は笑う。飲んだ席で、不思議に思っていたことも聞いてみたことがあったそうだ。
「なんで、ぼくはちゃんと進学も、卒業もできたんですか?」。すると先生たちは大谷を不思議そうにみつめ、「だって、お前。お前が留年したら、こっちがたいへんだろ。とにかく、はやく追い出したかったんだ。お前、そういうオレたちの気持ちわかってなかったんだ?!」と言われたそうである。
もし、大谷が単なる不良だったとしたら、どうだったのだろう。
成績も素行も褒められたものではなかったが、大谷は間違いなく、先生たちの心を捉えていたに違いない。逆にいえば、さすが先生である。人を見抜く力を持っておられると感心もさせられた。

・・・続き
株式会社一歩一歩 代表取締役 大谷順一氏
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