2026年3月31日火曜日

2026年度始動。キイストン、大きく舞台を変える一年に。

2026年4月1日、キイストンの新年度がいよいよ幕を開けました。
今年度は、私たちにとって「真の価値」が問われる、大きな転換点になると確信しています。
緊迫するイラン情勢やエネルギー危機など、世界経済は予断を許さない状況にあります。

飲食業界においても、倒産やM&Aといった厳しい再編の波が押し寄せることが予測されます。しかし、こうした不透明な時代だからこそ、確かな「人材」へのニーズはこれまで以上に高まります。
私たちはこの数年、少人数でも高いパフォーマンスを発揮できる「強い組織」へと進化を遂げてきました。今、私たちが求めているのは、経験の有無ではありません。

「向上心」を持ち、周囲を照らす「明るさ」を備えた同志です。
逆境をチャンスに変え、昨年度の2倍の成長を目指す。
「言霊」を信じ、キイストン一丸となって、新たなステージへと突き進んでまいります。


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)   

2026年3月26日木曜日

3月25日(r水)、産経デジタルzakⅡにて、ソムリエ様の「ラトリエ・デュ・パン」2号店が大井町トラックスにOpenを取り上げました。

産経デジタルzakⅡ「ここだけの外食産業ニュース」にて、再現ショートドラマ第9話に登場された株式会社ソムリエ様の「L’Atelier du Pain(ラトリエ・デュ・パン)」2号店が3月28日に開業するJR大井町駅直結の複合施設「OIMACHI TRACKS(大井町トラックス)」内に出店!

食べログの「百名店」に何度も選出されてます。
キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

株式会社WaltStein 代表取締役 森岡 嵩氏登場。

 “飲食の戦士たち”株式会社WaltStein 代表取締役 森岡 嵩氏を取り上げました。

本文より~

中学卒業まで。転校生と、たった2人のバレー部員と。

集団生活は苦手。子どもの頃にはイジメにもあったそう。今の森岡さんをみていると、どちらも不釣り合い。
「イジメといっても小学校1~2年のときだけ。親が学校に来て、それからすぐになくなったので、長くつづいたわけではありません」。
おなじ学校に3つ離れた兄がいたから心強かった。
「父親が転勤族だったので、小学校の1~2年は静岡、3~4年は福岡、5~6年の時に熊本、そして、中学1年から東京の町田と転々としました」。
「大人しかった」と幼少期を振り返る森岡さんだが、空手を習い、ちょくちょく優勝もしたそうだ。
一方、転校に話をふったが、「転校はそう苦にならなかった」と笑う。
「母は過保護、父は見守るタイプ」。
ご両親の話を聞くと、そんな回答だった。なんでも、母方の祖父はスズキベンチレーターを開発した人だという。相当な資産家だったとのこと。
ともかく、小学校は転校を繰り返した森岡さんだが、中学から町田に住み、そちらがホームになる。
「案外、素直だったんでしょうね」と森岡さんは目を細める。
話は、中学生の森岡少年の話に移った。
「2年生の担任に言われるままバレー部に入ります。部といっても、その先生がつくった部で、部員は、私と、もう一人」。
 <つまり、2人?>
「そう(笑)。部員2名ですが、1人じゃなくてよかったです。2人だったら、『トス!』とか、『スパイク』とか!って、練習もできますからね」。
空手で優勝していることからもわかるように運動神経はいい。ただし、バレー部では大会にでることもなく、卒業する。

桜美林へ。バイトをしすぎて、就活に乗り遅れる。

高校は、地元の町田を離れ、世田谷区の学校まで電車で通学した。「転校を何度も経験したからでしょうか。ポジティブに新たな出会いをもとめて、地元の仲間がいない高校を選択しました」。
ともだちは、だれもいない。だから、新たにつくればいい。といっても、集団生活は、やはり苦手。
「それで、けっきょく学校も行きましたが、ちかくのキックボクシングのジムに通います」。
空手からキックボクシングへ。格闘技は今も好き。
高校2年になって、もう一つの「好き」ができた。
「桜美林大学に進むんですが、高校2年のときに好きな子ができて、彼女が『CAになるために桜美林に進む」といったからなんです」。
彼女は、学年でも5位以内に入る才女だった。森岡さんはオール3。行くといってもハードルが高かった。
「最初は、ぜんぜんダメだったんですが、彼女に英語を教えてもらって、受験の作文では、頭のいい兄のちからを借りて。無事、合格。彼女といっしょに桜美林に進み、じつはいっしょにカナダへも留学しています」。
大学生活は、バイトもいい思い出の一つ。
「『びっくり寿司』ってお寿司屋さんでバイトしまくりました。留学も、そのバイトでためたお金で。もっとも、カナダでのカジノで使っちゃうんですが(笑)」。
帰国後もバイトをした。「お金を稼ぐことが面白かった」と森岡さん。ただ、面白すぎて就活に、出遅れる。

現実逃避と、キックボクシング。

「ちょっとヤバいなってなって。でも、父親が転勤族だったこともあって、もともとサラリーマンはやだなとも思っていたんです。だからといって、サラリーマン以外になる、アイデアもありませんでした」。
<就職はしなかった?>
森岡さんは頷く。
「大学を1年休学して、もう一度、キックボクシングを始めるんです。就職できないのはカッコ悪いけど、キックボクシングでプロをめざすといったらカッコいいでしょ。まぁ、現実逃避なんですが(笑)」。
現実逃避と言っても、真剣だった。だから、逆にプロとの力の差を知った。
「もう一歩でプロってところまではいったんですが、さすがにプロで食べていくには、ちからが足りなかったです。びっくり寿司でバイトをしながらですが、むちゃくちゃ真剣にやっても、プロは遠かったです」。
<それで、復学ですか?>
「大学に戻るんですが、色々あって、今度は役者になります。オーディションで情熱を評価していただいて、いい役もいただいて。今度は6ヵ月休学です(笑)」。
「いつかTVに出て」と、妄想もしたが、こちらもけっきょく役者の道からも外れ、復学。そんなとき、偶然、「店舗流通ネット」という会社を知る。

店舗流通ネットと、新入社員がみた風景。

「びっくり寿司のパソコンがこわれちゃって、直しにきた人が店舗流通ネットの人で、『オレもう23歳なんですよ。サラリーマンにはなりたくないんですが、大学も5年生だし、どっかいい就職先ないですか?』なんて、半分、あいそ代わりにそういったら、『だったら、店舗流通ネットはどうだ』っていうんですね」。
<当時の店舗流通ネットと言ったら給料もハンパない時代の話ですよね?>
「そうです。びっくり寿司とも関係がある会社だったんで、店長に口をきいてもらって、無事、新卒で採用していただきます」。
<どうでした?>
「むちゃくちゃ面白かったです」。
森岡さんは声を弾ませる。
「サラリーマンはいやだったし、なかでも営業なんて、ペコペコするだけで、絶対、なりたくなかったんですが。店舗流通ネットの営業は、そんな私のイメージをいい意味で裏切ってくれたんです」。
1000万円以上の社員も、周りにゴロゴロいた。サラリーマンというイメージには、おさまらなかった。
「なかでも部長は、いい時計もしていて、むちゃくちゃカッコよかったです」。
部長を追いかけた。初契約こそ、遅れを取ったが、すぐに契約件数でトップに躍り出る。部長の指導通り、電車のなかでもテレアポをつづけた。
結果を残しつづけ、同期を部下にした。部長からの評価も高い、高い。
「辞めるなんて選択肢はなかったんですが、赤字を唯一垂れ流している横浜のオフィスにいくことになって、そこでむちゃくちゃがんばって、黒字化するんですが、サラリーマンのカベを知って、退職を決意するんです」。
<サラリーマンのカベ?>
「はい。ある契約で、支社長がOKといったので、話を進めていたら、支社長がおうかがいを立てたんでしょうね。部長がNOだと。それって、やっぱり、カベでしょ。OKをださなかったのは、私が好きで、リスペクトしていた部長だったんで、そのぶん、落胆したのかもしれません」。
森岡さんが、退職すると、2人の部下も辞めるといった。支社長を入れて4人だったから、支社長だけとなり、せっかく黒字になった支社がなくなった。
じつはお金もなかった。
「年収はいいんですが、部下にぜんぶ奢っちゃうから(笑)」。「旅行だって、ぜんぶ、奢り」だったそう。
「だから、ぶらぶらもできないでしょ。部下も、いっしょについてくるっていうし。それで、飲食店をスタートするんです」。
びっくり寿司7年のキャリアはあったが、飲食の経験はそれだけ。とくに飲食が好きというわけではなかった。それでも、やるしかなかった。
店舗流通ネットの在籍は、4年。けっして長くはないが、だれよりも奮闘した濃厚な4年だった。

「加盟金50円です」。部下の一言と、ツルハシと。

「最初は、1人でラーメン店をしようと思っていたんですが、部下もついてきたんで、じゃぁ、居酒屋でもと」。
ラーメンかなと思っていたが、業態は、じつは何でもよかった。
「私はお金を儲けるのが好きなだけで、飲食が好きってわけじゃなかったんです。だから、業態にはそう詳しくなかったんです」と、森岡さん。
「でも、部下は正反対で、飲食が大好き。その、飲食大好きな部下が、『鶏ヤロー』を教えてくれたんです」。
「鶏ヤロー」は、この「飲食の戦士たち」にも度々登場する。加盟金50円、ロイヤリティ50円。
「今はちがいますが、ちょうど7年前くらいだったんで、たしかに50円でした(笑)。ノウハウも、お金もない私らにはいちばん。ただ、いくら50円といっても、店は用意しないといけません」。
店舗流通ネットの経験があるから、相場もわかるし、どこがいいか、おおよそ、ロケーションの見当もつく。しかし、先立つものがなかった。
「税理士にも相談させてもらって。税理士は、とにかく、むちゃくちゃ稼いでください』っていうんです」。

生まれて初めて、ツルハシをふるう。朝も、夜も。「あのときが人生でいちばんきつかった」と森岡さん。
手を休めれば怒号がとぶ。朝8時からスタートし、17時に終了。3時間休憩し、森岡さんは、夜のローテーションに入る。
「20時から朝5時です。5時からまた3時間休憩して、8時から」。
寝る時間も惜しんだ。どうして、そこまでできたんだろう。「気合と根性」と森岡さん。
もう大人しい少年の姿はどこにもなかった。
「半年たった頃に、『大和でいい物件がでた』って連絡が入るんです。その物件を押さえて、現地調査をして。そういうのは前職で経験していますから得意です。よし、これなら月商300万円はいけるだろうと」。
寝ずにはたらきためたお金、100万円をぜんぶ、ぶちこんだ。もちろん、それだけじゃ雀の涙だ。
「2フロアで25坪、家賃は20万円。でも、スケルトンからですから、造作も含め、ぜんぶで1300万円。幸い、金融機関から融資が下り、晴れて、私たちの『鶏ヤロー』がオープンします」。
飲食店の経験なし。1200万円の借金を抱えて、気合と根性だけで「鶏ヤロー」がオープンする。
これが2019年7月のこと。初月200万円、ギリギリ利益がでた。低空飛行がつづくが少しずつ利益ものびた。しかし、年が明け、2020年になると、状況が一変する。

コロナと、コロナ後と。

2月になって緊急事態宣言が発出される。コロナ禍の幕があけた。
「でも、状況は一変しても、ぜんぜんお金がなかったから閉めるわけにはいかなかったんです。鶏ヤローの社長の和田さんにも了承していただいて営業をつづけさせていただきました」。
当初は、助成金もなにもなかった。ただ、「営業するな」と、飲食店は悪者にされた。
「2~3週間したくらいでしょうか。だんだんお客さんがいらっしゃって。なかには、応援してくれるお客さんも現れて。居酒屋なのに50人待ちの行列までできて。もう、泣いちゃいそうでした」。
「のちのち和田さんの本体も営業を開始して拡大していくんですが、最初から営業をつづけたのはうちくらいじゃないですか?」。
気合と根性、それしかなかった証。幸い、感染者もでなかった。
「コロナのおかげではありませんが、利益もでるようになり、大和の鶏ヤローは今も好調です」。
2026年現在は、業態も広がり、鶏ヤローに、均タロー、豚ギャングなど11店舗を展開している。
「そのうち直営は2店舗だけで、あとは、部下だった人間に業務委託で店を任せています。この手法で、バンバンみんなで儲けていく予定だったんですが、最近は、家賃も上がり、原価もむちゃくちゃ高くなったから、計画通りうまくいかなくなってきました」。

・・・続き

株式会社WaltStein 代表取締役 森岡 嵩氏


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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2026年3月18日水曜日

食べログは2025年度最終的に10位で締めくくれそう。

 2026年3月時点で「食べログ」代理店では10位と2025年度はスタッフが本当に頑張ってくれ10位をずっとキープできた。

これも7月に退職したH君が基盤を作ってくれたおかげ。

2026年度は1つ順位を上げ9位に浮上したい。

この1つ上に上げるのはかなり至難の業ですが、コツコツ積み上げます。


また、「飲食の戦士たち」再現ショートドラマも第9話が初の2万再生超えしました。

キイストンにとってはめちゃくちゃ大きな出来事です。

前監督の後を引き継ぎ、制作スタッフの人たちはよく頑張ってくれました。

「飲食の戦士たち」再現ショートドラマもちょっとしたキッカケでバズる気がしてなりません。

年内にあと2〜3本やりたいです。

なんでもそう、コツコツ積み上げてたら必ず良いことあります。

頑張ろう。



キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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2026年3月17日火曜日

有限会社D&Cクリエート 代表取締役 本山雄貴氏登場。

“飲食の戦士たち”有限会社D&Cクリエート 代表取締役 本山雄貴氏を取り上げました。

本文より~

社会人になるまでの本山さん。

なんとなくだが、ターフの記憶があるそうだ。
「ちっちゃな頃の記憶です。競馬好きの父親に連れられて観たんだと思います」。
お父様は、その頃すでに「焼肉もとやま」をオープンされていた。
「もともと喫茶店をオープンして、そのあと、焼肉をはじめたそうです」。
破天荒な人で、酒と、ギャンブルが大好き。
競馬の賞金で、家族みんなで、ハワイ旅行に行ったりもした。
「勝てばいいんですけどね」と苦笑するのは、今回、ご登場いただいた本山さん。「ターフの記憶がある」といった、破天荒な父のご子息である。
本山さんが生まれたのは1977年。東京都台東区。なんでも、「当時は今よりにぎやかだった」そう。事業をしている家庭が多く、その多くが零細だったが、そのぶん、あったかく、にぎやかなコミュニティをつくっていた。
「もとやま」にも、その零細企業の社長さんや従業員さんが来られていたんじゃないだろうか。
<本山さんは、どんな少年でした?>と、シンプルな質問をすると、にっこり笑って「小学校高学年までは普通の子だった」と回答。
つまり、それからは、普通じゃなかったということだ。
小学校から空手をはじめ、高校までつづけている。高校になるとバイクの免許を取り、バイクに乗った。18歳になると、今度は普通車の免許を取り、「たまに学校まで車で乗り付けていた」と笑う。
だいたいこのくだりで、どんな少年だったかが想像できる。
空手と、バイクと、車と。
父同様、破天荒で、仲間思い。スポーツは得意だったが、勉強は苦手。
大学進学は頭になく、専門学校へ進むが、1年で退学。マスコミに行きたいと、フジテレビの子会社に就職。番組の制作会社で、本山さんの仕事は営業だった。
<社会にでてどうでした?>
「いままでチャランポランな人生を送ってきて。たまたまフジテレビの子会社に就職できただけで、特別なスキルなんて何一つありません。しかも、高卒で、周りは大卒ばかり」。
「でも、負けたくはないし、自分が劣っているって認めたくもない。だから、とにかく働いて、働いて(笑)。そしたら、1年半くらい経った頃ですね。さすがにからだを壊して、入院して、そして」。
<退職?>
「ええ」と本山さんは頷く。
まだ、なんの実績も残していない頃の話。

焼肉の聖地、大阪・鶴橋へ。

仕事を辞めた本山さんは、家業を手伝い始める。
「飲食の戦士」への第一歩と言いたいが、本山さんが希望したわけではなく、お父様から強くプレゼンされ、しぶしぶ手伝い始めたそうだ。
熱心に誘ったお父様だったが、いざ親子で始めると、口ゲンカが絶えなかった。
「それでも、2年くらいかな。それくらいは親父といっしょに仕事をして。私自身も、だんだん飲食の面白さにハマり始めたんです。ただ、そうなったらそうなったで、今まで以上に口を出すことが多くなって」。
お互い似ている。破天荒な者同士。ついに、本山さんは実家をでる。
お父様のプレゼンは、2年後、空を切ったことになる。
「なんかね。父親ともそうですし、それ以外の人ともつながっていることが億劫になって、いったん線を引こうと、単身、知り合いもいない大阪へ向かいました」。
「パチンコで生活しようと思っていた」と本山さんは笑う。何の取り柄もないといったが、さすが父親譲りのギャンブラーである。
「だけど、規制がかわっちゃっていて。ぜんぜん、うまくいきませんでした。パチンコがダメになると、また、何も思いつかない(笑)」。
空手と、TV番組制作と、ギャンブルと…。
「そう、一つだけあったんです」。
<焼肉?>
「そう」。
本山さんの声が弾む。
「大阪には、『鶴橋』っていう焼肉の本場があるんです」。
やるならと、そのなかでも「トップを争う焼肉店の門を叩いた」そう。
「飲食は楽しいと感じていましたし、実際、働くと厳しいことも言われましたが、仲間もできて、めちゃくちゃ楽しかったですね。将来、店を継ぐかですか? それは、まったく考えてはいませんでした。ずっと働くつもりだったんです」。
<つもりだった?>
「そう、何事も希望通りにはいきません」。
「BSE」と本山さん。
マスコミがこぞって、BSE問題をピックアップし、そのたびに客はいなくなった。
「実家も、大打撃を受けました。その時、唯一、信頼している叔父がいるんですが、その叔父から『帰ってこい』と言われて」。

閑古鳥はまだ鳴いている。

「閑古鳥鳴いていた」と、本山さんは笑う。
実家のフロアに立ち、驚愕する。
「月商は、100万円いくか、いかないか、くらい」。
本山さんは、いったん「焼肉もとやま」をクローズして、本山さんが買い取り、新たにスタートする。
<「焼肉もとやま」新バージョンですね? いかがでした?>
「焼肉の聖地『鶴橋』仕込みですから、『そりゃ、』と大きなことを言いたいんですが、BSEになんて勝てるわけがありません(笑)」。
今なら、笑い声もでる。淡々と語ることもできるが、たいへんな苦労をされていることがつぎの話からわかった。
「当時、私は25歳です。とにかく、私が経営者になって、父と母と3人で新バージョンの『もとやま』を運営します。従業員はいません。3人だけです」。
客は来ても数名。月商は80万円。レジをシメるたびに、ため息がでた。生活もカツカツだったし、借金も少なくなかったから、なおさらだ。
「営業中」の看板を下ろすと、本山さんは夜の街に向かった。遊ぶためじゃない。アルバイトのためだ。
「5年間は、うちの仕事とバイトの毎日でした。バイトで稼いだぶんは、借金の返済にあてました。当時、妹もいれて家族4人で、1週間の食費が1万円でした」。
昭和の話じゃない。
ギャンブルはしなかったという。かわりに生き様がギャンブルになった。せっせと働いたが、だからといってなんとかなる保証はなかった。
そう、5年経っても、まだ閑古鳥は店に居座ったままだった。

一発大逆転。

「一発大逆転」。ギャンブルなら、そうなる。
「地域の情報誌の小さい記事がきっかけだった」と本山さん。
「夜はあいかわらずでしたが、その頃には、ランチの評価が高く、満席になることも少なくなかったんです。それで記事になったんですが、そのあと、TVも取り上げてくださって」。
<一気に?>
先を急いで、口をはさんでしまった。
「そうなんです」。本山さんが笑う。
5年間、「儲かる、儲からない」じゃない。お金をバイトで補填しながら、仕事にはちゃんと向き合ってきた。肉のレベルも落とさなかったし、掃除もした。笑顔も絶やさなかった。
「おかげでというか、TVで取り上げられてからはランチも、ディナーも満席になって。従業員も採用できるようになりました」。
レジもたいへんなことになっていたはず。
なにしろ、日々の売上は、今までの10倍以上になっていたからだ。
<一発逆転ですね?>というと、本山さんは頷く。
ただし、ラッキーな逆転劇ではない。5年間、本山さんを試した飲食の女神が、ついにふりむき、微笑んでくれたのだ。
本山さんは「焼肉もとやま」を再構築する。
「両親には、引退してもらって、若いスタッフを採用していきます。工場も新設して、そこでは、鶴橋の店で同僚だった肉のプロが2人、目利きを担当してくれています」。
<現在、何店舗ですか?>
「6店舗です。2号店は白山、そして3号店は新宿にオープンします。とにかく、凡事徹底で。恵比寿にもオープンして、いま現在、直営で6店舗を経営しています」。
「工場も好調だ」という。
「2人が焼肉店出身でしょ。だから、目利きはもちろんですが、焼肉店仕様の加工ができるんです。そのおかげで、当社の店舗以外にも卸させていただいています」。
家族4人、1万円生活の時と風景はまるでかわっている。
じつは、飲食があくまでメインだが、デイサービスなど様々な事業へ進出。その理由をうかがうと、やはり、お父様が倒産されたことが根底にあった。
「一本足打法だと、どうなるかわからないから」と、経営者の顔になった本山さんがいう。
多彩な才能があるわけではない。そのぶん、愚直にできることをする。それが、少しずつ事業の多角化となっている。将来は?と聞くとやはり、本山さんらしい答えが返ってきた。

・・・続き

有限会社D&Cクリエート 代表取締役 本山雄貴氏


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2026年3月11日水曜日

ホノルルコーヒージャパン株式会社 代表取締役社長兼CEO 萩原利貴氏登場。

 “飲食の戦士たち”ホノルルコーヒージャパン株式会社 代表取締役社長兼CEO 萩原利貴氏を取り上げました。

本文より~

山手線に揺られて。

大人たちにまじって、少年が1人、満員電車に揺られていた。少年というには、まだ幼い。「小学校にあがる前の話」と、今回、ご登場いただいたホノルルコーヒージャパンの代表、萩原さんが笑う。
1978年、萩原さんは杉並区に生まれる。
5歳で練馬区に引っ越したが、幼稚園はそのまま。だから、電車に乗った。
<園児の電車通学。たいへんでしたね>と笑いかけると、「そうですね」と相槌を打ち、話をつづけてくれた。
「小学校では、1年生からサッカーのクラブチームに入ります。通学もそうですが、小さい頃から割と自立していたように思います」。
お父様は大手外資系企業の取締役、お母様は保険会社のトップセールスウーマン。
「父親は、私が小学4年生のときに独立します」。
国際航空貨物の会社だったから、「うちにもしょっちゅう外国人がいらっしゃいました」と萩原さん。
外国人と、いっしょに食卓を囲んだこともある。
目の前で意味不明の言葉が飛び交った。萩原少年は、料理を口に運ぶふりをして、聞き耳を立て、大人たちの表情を盗み見していたにちがいない。
海外にも何度も行った。
「愛情は注いでもらっていましたが、子育ては、放置状態(笑)。おかげで、自立心が育った」と笑う。

サッカーと海外と。

小学生の頃から、「頭一つ抜きんでていた」という。こちらは、サッカーの話。小・中とチームトップのプレイヤーだった。
当時、Jリーグが発足。
三浦カズ、ジーコ、中山ゴンなど、人気選手が現れた。
小・中学生もサッカーに熱中。地元チームのトッププレイヤーだった萩原さんには、ファンクラブができた。
「あのときが絶頂期」と萩原さんは笑う。バレンタインデーともなれば、チョコを渡そうと自宅前に長い長い行列ができた。
その列をみて、世界的な企業で取締役まで務めておられた、お父様が目を丸くされていたそうだ。
ただし、萩原少年は、恋より、サッカー。
「カズさんを真似て、ブラジルへ」。
少年は、サッカーに心を奪われていた。
「でも、当時のブラジルは治安が最悪で、結局、行くことができなかった」と苦笑する。ただし、中学2年の時、北イタリアに1人で渡っている。3週間のサッカー留学。
<中学2年? ご両親からよくOKがでましたね?>というと、苦笑しながら答える。「そうですね。私だったら絶対行かせない(笑)」。
そういう萩原さんだが、本人は、高校生になって、今度はアメリカに留学している。

テネシー州と、少年と。

「テネシー州の日本人学校に留学するんですが、学校や寮を一歩でれば、差別が渦巻く世界だった」とのこと。それと同様に、洗濯が高校生の萩原さんにとっては、こちらも大問題だった。
「だって、洗濯なんかしたことがなかったから(笑)」。
<サッカーはどうしました?>
「アメリカはサッカー熱が下火。だから、メキシコ人とサッカーボールを追いかけたりして」。
<メキシコ!>と絶句した。
ブラジルではなかったが、今度は、メキシコ人とピッチに立ち、ゴールをめざす。まるで、サッカー漫画に登場する少年のようだ。
「でもね。その頃、私のサッカー熱も少しずつ冷めていたんです」。
<そうなんですか?>
「ええ。ただ、帰国後は、桐蔭横浜大学に進学して、大学でもサッカーをつづけます」。
桐蔭横浜大学はのちに、大学チャンピオンにもなりサッカーの名門校となる。
「当時は、日本中からトッププレイヤーを集めて、強くしていこうというフェーズでした」。
萩原さんも、その1人。だが、正確にいうと、同期は、トップオブトップばかりだった。
「元Jリーガーや海外でのプロ経験を持つ選手がふつうにいるんです」と萩原さん。「じつは、同じフィールドでプレーした仲間たちの多くはプロに進んでいます」。
<萩原さんは?>と聞くと、小学校1年生から始めたサッカーも大学の途中で周囲の選手に圧巻され完全に社会へ出ることに気持ちが決まったのかもしれないと苦笑する。
テネシーに渡ってから7年、少年は、もう大人になっていた。

歴代の新人記録を塗り替えた営業力。

「プロに進むなら大学名で箔がつきますが、一般社会で就職するとなると、当時の知名度はかなり低かったですからね」。
「でも、どこかで、プロになっていく同期たちに負けたくなくて、とにかく、いい会社に入らないと」。
猛勉強もした。対策も練った。
「ありがたいことに大学の知名度にとらわれず実力を見てくださる企業も多く、次々と内定をいただきました」。
難関のマスコミでも、最終関門まで残った。結果、40社以上から内定を獲得。
「入社した化粧品メーカーは約3万人の応募に対し、採用は145名という狭き門でした。化粧品メーカーですが、社員の約半数は男性でした。(笑)」。
入社前から新入社員に課せられた売上レースで1位を目指して結果を残した。
「私につぐ2位は、女性社員でした」。
<2位?>
「ええ、最初の2ヵ月、新入社員は自身で化粧品をセールスして売上を競います。私が1位の333万3400円で、2位の女性が約200万円だったかな」。
<145名中、1位?>
「それが145名中じゃなくって、じつは、このコンテストが始まって24年目だったんですが、過去入社された方の実績を全員、抜いちゃったんです」。
食堂のおばさん、夜の街で働く女性たち。
彼女らが援軍となって、萩原さんの売上をサポートした。1人で販売網を構築してしまった。萩原さんが、だれより人を魅了するちからをもっていた証である。

出世レースに勝ち続けていたけど、退職。

ベテラン顔負けの結果を残した萩原さん。最初に配属された大宮を皮切りに、青山、銀座、そして、盛岡、青森と転勤を重ね、青森で支店長に就任。
29歳の若き支店長の誕生だった。
その後も仙台、福岡、大阪、神戸と転々とする。
<でも、社長にはならなかったんですね?>
「じつは」と萩原さんは、当時の葛藤を口にする。
「出世競争にも疲れたわけじゃありません。ただ、海外赴任の内示をお断りしてから、急に、会社が遠い存在になってしまったんです」。
会社からの期待が、プレッシャーになったことは一度もない。20年間、どこに行っても社内記録を更新。
すべてに、結果を残してきた。期待と結果が、会社の経営陣と萩原さんを結びつけてきた。
誰よりも働き、結果を出し続けたが、今後先々まで、サラリーマンとしてたたかうことをやめた。
一人の少年が描いた大企業で社長になるという夢はここで断ち切れた。
でも、「もっともね。退職は決めたんですが、そのときはまだホノルルコーヒーを経営しようとは思ってもいませんでした」。

・・・続き

ホノルルコーヒージャパン株式会社 代表取締役社長兼CEO 萩原利貴氏


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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2026年3月9日月曜日

2026年3月5日の最強開運日に「飲食の戦士たち」再現ショートドラマ『第9話株式会社ソムリエ守川敏社長 編』をアップしました。

2026年3月5日(最上級の吉日・天赦日と何かを始めるのに最適な一粒万倍日、それに金運に縁がある・虎の日、縁起の良い・大安と4つの吉日が重なる今年の「最強開運日」)
「飲食の戦士たち」再現ショートドラマ第9話株式会社ソムリエ守川敏社長編をアップしました。

人生を止められるたびに、次の柱が生まれた!〜命の危機すら、未来を大きく動かす力に変えた1人の経営者の物語〜
株式会社ソムリエ 代表取締役・守川 敏氏の“人徳と強運”、そしてワインとの出会いを描く最新作、配信開始!
1年振りの再現チームで仕事できて楽しかったです。
新・製作メンバーで作り上げでもらいいいのが完成して嬉しいです。
また同時にソムリエ様関係者の皆様のご協力あってのこと、感謝申し上げます。


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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ANDDINING株式会社 代表取締役 桜井仁天氏登場。

 “飲食の戦士たち”ANDDINING株式会社 代表取締役 桜井仁天氏を取り上げました。

本文より~

得意料理は、野菜炒め。

キャベツとたまねぎを切る。熱したフライパンに放り込むと、音が弾む。
晩飯は、手が空いた者がつくるのが暗黙のルールだった。母と、おばあちゃんと姉ふたりとの暮らし。桜井さんが、手が空いたときにつくるのは、決まって簡単な野菜炒めだった。
「やっぱり、母の料理がいちばん旨かったですね」と笑う。
朝は食パン。ただ焼いてバターを塗るだけ。ジャムがあるときは、ジャムが加わる。姉たちの朝飯を真似て、小学一年生からパンとコーヒー。年間365日、かわらずそのメニューだった。
今回、ご登場いただいたのはANDDININGの代表、桜井 仁天さん。現在、ANDDININGは幅広い事業を行っている。飲食店経営はもちろん、鮮魚の卸と小売、加工食品の販売、飲食起業家の開業支援まで、まさに飲食のオールラウンドプレイヤーである。
ANDグループでは、高級仕出し弁当の販売会社や障がい者福祉事業会社なども運営し、地域・社会とともに歩む姿勢を鮮明に打ち出している。
「父と母は、19歳で結婚して20歳で長女を産んでいます。私の小さな頃は、両親は鉄板焼店を経営していました」。
姉が3人。
「長女とは10歳離れていて、次女が年子。少し離れて、三女と私。両親は、私が小学1年生のときに離婚します」。
飲食店は、知らないうちに閉店していた。
「長女は父と暮らし、私と姉ふたりは母と一緒に夜逃げのようにして、母の実家に移りました。6年間はおばあちゃんも一緒に暮らしていたと思います」。
まったく裕福ではなかった。
母は、仕事。年が離れた次女が母親代わりだった。冒頭に記載した通り、桜井さんも料理をした。小学1年生がフライパンをふり、野菜炒めをつくっている。今思えば、料理人、桜井の原点でもある。
「当時『料理の鉄人』がテレビでやっていて。好きで、よく観ていたんです。なんだかんだいって、小学1年生から料理と付き合っています。今は、仕事ということもあるんですが、たぶん、鉄人たちもそうなんでしょうが、私も食や料理が好きなんだと思います」。
もちろん、料理だけじゃない。地元のクラブチームでサッカーに熱中した。高学年からは、スケートボード。
中学生になってからは、サッカーはやめて、スケボーに没頭。
ストリートで、スケボーに乗る。車輪が路面をかむ音が響き渡る。アスファルトの細かな凹凸がダイレクトな振動となって伝わってくる。
その時間は、なにもかもから、自由だった。
そこには、ご両親のお店でかき氷を食べていた少年の姿はもうなかった。

バイトと料理と。学業、少々。

中学卒業後、桜井さんは高校に進学する。だが、すぐに中退。定時制高校に編入する。
「高校に上がったときから『仕出し弁当店』や『居酒屋』『バー』等で朝も夜もバイトをしていたんです」。
「だから、学校どころじゃなかった」。
定時制に移ったことで仕事と学業が両立した。もっとも、授業にはでていたが、好きな歴史以外は決まって爆睡していた。
「仕出し弁当店で仕事をはじめると、学校より、そっちが楽しくて。高校を中退、そして、定時制に編入。和洋中の職人さん達がいて、調理のアルバイトは僕だけ。毎日色々な事を教えてもらいとにかく楽しかった。朝からバイトをして、学校で爆睡して、そのあとはバーで」。
「朝5時までのときもあった」と桜井さん。
バイト代だけが目的ではなく、「働くこと」が好きだったし、性に合っていた。
ピュアでまだ幼い桜井さんを職人たちは可愛がった。定時制の4年間で、桜井さんは料理の基礎を教えてもらっていた。Barでは大人に混じってカクテルを覚え、大人の世界を少しみた。
当時を思い浮かべて「あの頃が最初ですね。食の世界へ進もうと思ったのは」といった。
「ただね」と笑う。
「ただ、すぐには食の世界へ進まず、最初に日本一周の旅にでようと思ったんです」。

こつ然と消えた400ccと日本一周。

日本一周、長旅にでるため就職することなく、バイトをつづけた。バイト代が高いコンビニエンスストアの深夜バイト。
マット交換の営業も1年間つづけた。
準備万端。
「笑い話にもならないんですが」と言って桜井さんは、日本一周の顛末を話す。
「明日出発ってとき、整備しようとガレージに行くんです。そしたら、盗まれていました」。
嘘のような本当の話。日本一周の相棒、YAMAHA SR400が跡形もなかった。
「参りました」と桜井さん。バイクはみつからない。
思わずどうしたんですか?と聞くと、桜井さんらしい、痛快な答えが返ってきた。
「バイクは盗まれたんですが、旅行するためのお金は残っています。それで、中国に渡りました」。
中国ですか? 
「ええ、そうです。ただ、特別な理由はないんです。本当に適当に、文化大革命とか、毛沢東とか、なんとなく授業で聞きかじっていたのを思い出して。じゃあ、行ってみるか、と」。

北京の夜と、万里の長城。

中国は、北京。
「12月だったので、そりゃそうなんですが、北京の夜が、あんなに寒いって知らなくて。路上で寝るつもりだったから、とにかくデパートに行って寝袋を買ったんです」。
すると、ひと騒動が起こる。
「日本円で1万円くらいだったと思います。たぶん、むちゃくちゃふっかけられたんでしょうね。『あいつ1万円で寝袋を買ったぞ』って。フロア中が大騒ぎになったんです」。
あちこちで、声があがる。もちろん、なにを言っているかはわからない。小走りでデパートをあとにした。
「たぶん、24~5年前だった当時のレートで1万円というと、中国では相当な額だったんでしょうね」。
もっとも、せっかく買った高価な寝袋も、北京の冬には役立たなかった。
日本一周では、経験できないことばかりだった。
最初の宿は、中国人の労働者と相部屋。途中から北京大学に留学していた日本人学生と知り合い、日本人や韓国人が暮らす学生寮に潜り込み、自転車も購入。毎日色々な国の留学生と、色々な場所へ出かけた。 万里の長城には、中国人の女性と出かけた。
「友人の彼女がガイド役を買ってでてくれたんです」。会話はできないので身振り手振りでなんとかコミュニケーションをとった。
歴史的な建造物や悠久の歴史をみて、刺激的な経験や食文化と出会い桜井さんは心を決める。
「戻ったら食の世界へ進もう。そして、必ず自分の店を持とう」。

レインズインターナショナルと、ベッドのうえと。

ふらふらと3ヵ月ちかい中国での暮らしを経て、改めて「飲食に進む」ことを決意した桜井さんは帰国後すぐにパソコンに向かう。
出会ったのは一本のキャッチフレーズ。「起業家輩出企業」。レインズインターナショナルが掲載していた求人広告のキャッチフレーズだった。
ここだと思い、さっそく、応募ボタンをクリックした。
水が合った。すぐに店長に昇格。1年目には統括店長に抜擢された。
「当時のレインズは飛ぶ鳥を落とす勢いでした。私は一般社員から店長に。すぐに数店舗を統括する立場も頂きバリバリ働いていたのですが、ある日、バイク通勤の途中で大きな事故にあってしまって。幸い、命には別状なかったんですが、1ヵ月程度、入院を強いられました」。
レインズインターナショナルに就職してから仕事を追われつづけていた。仕事は何より大好きだったから、長時間労働も苦にならなかった。
「仕事はむちゃくちゃ楽しかったし、飲食店を経営するうえでのロジックを学ぶこともできました。ただ、病院のベッドで、天井を見上げながらふと思うんです。『オレがしたかったのは、なんだっけ?』って」。

トイレ掃除とオペレーション。

立ち止まることで、みえてきたものは、命を受けた桜井さん自身がやるべきことだった。
「改めて料理の世界へ!自分の店を出す為!と思って、転職活動を開始しました」。
ふたたび、パソコンに向き合った。料理ができること、飲食をさらに深く学べること。
「レインズは、経営のパッケージが一級品でした。だから、あれだけのフランチャイズの展開が可能でした。肉も、野菜もカットされたものがくる。職人いらずで、再現性を極限まで高めたオペレーションは極めてシンプル。だけど、私がやりたかったこと、やるべきことは、手造りの温もりがある飲食だったんです」。
「そのとき出会ったのが、手羽先唐揚げや鳥料理の専門店を運営している会社でした」。
ちなみに、広告のキャッチがふるっていた。
「『昼はサーフィン、夜は仕事、メリハリ付けてはたらいています』。面白い会社だなって。本店にも食べに行って料理のレベルも確認しました。当時は、料理は出汁から引いて作り、店長になれる人材が育ったら出店をしますと謳っており、料理長候補も募集していましたから言うことはなかったです」。
調理スタッフで入ったものの、すぐにフロアも兼任するようになった。
レインズインターナショナルのときは、イメージ先行だったが、今回は、慎重だった。
「一番落ち着いてなくて忙しい店にして下さい。と人事担当者へ伝え、配属先へ。幸いなことに、私が思い描いていたやり甲斐のある環境で、いい上司にもめぐまれました。1人は、最初の担当スーパーバイザーです。ある日、店に来て私が清掃したばかりのトイレで『もう少しきれいにしたほうがいいな』っていいながら、スーツ姿で便器を磨き始めました。しかも素手で。すみません代わりますと伝えても、決して怒らず笑いながら『お客様が素肌で利用するとこだからな~。ここで生活できるくらい綺麗にしないとな~』と掃除を続け、やらせてくれないんです。とにかく衝撃を受けた出会いでした。色々と仕事のチャンスをくれた人で、私にとって社会人として必要な事はこの方から全て教わったように思います」。
「もう一人は最初の店長で、伸びてたつもりはありませんでしたが、鼻っ柱をバキバキに折られました(笑)。その方と出会うまで、オペレーションや指示指導、店舗のコントロールなら負けないと思っていたんです。実際、前職でも高い評価をいただいていました。でも、大間違いでした」。
今まで経験してきた50~100席程度の店とは桁違いの大箱。300席以上はあった。
「その人は、かげになっている部分までイメージして指示を出しお店を動かしていくんです。起こる事に対処するのではなく、想定して先回りして、何が起こっても対処できるように、時間の貯金を作るような営業スタイルでした。当時の私では、何がどうなっているのか、イメージもついておらず。その人は何を見ていて、何を考えているのか、当初は全くわからなかったんです」。
この人からは、飲食店における分業、各職責における責任の範疇、仕事の棚卸から優先順位等を教わり、飲食店運営における考え方に多大に影響をもらった。
今でも心から尊敬する2人だそうだ。
当時、桜井さんは20代前半。2人は若い桜井さんを可愛がり、同時にきびしく指導してくれた。その結果、桜井さんは20代で店長に抜擢されている。
30代、40代が主流だった当時では考えられない抜擢人事だった。自分で経営しているつもりで1店舗1店舗を担当していった。会社の期待に応えるように、業績をあげる桜井さんは貴重な人材に育っていった。
   しかし、その一方で、会社が大きく変化する。

・・・続き

ANDDINING株式会社 代表取締役 桜井仁天氏


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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