2021年3月28日日曜日

「七海ひろき×サルバトーレ」コラボカフェ、OPEN!!

「七海ひろき×サルバトーレ」コラボカフェ、OPEN!!

緊急事態宣言解除後に無事スタートされました。

こちら

SALVATORE CUOMO & BAR 心斎橋 期間:3月23日(火)~4月18日(金)

SALVATORE CUOMO & BAR 天神 期間:3月26日(金)~4月18日(金)

The Kitchen Salvatore Cuomo  GINZA  期期間:3月26日(金)~4月18日(金)

2021年3月25日木曜日

株式会社ジャックポットプランニング 代表取締役 中川洋氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ジャックポットプランニング 代表取締役 中川洋氏登場。


本文より~

高校に通う、キャバレーのドアボーイ。

16歳で家をでて、最初に働いたのは戸塚のキャバレー。ドアボーイだった。「昼間、学校に行かせてくれて、寝泊まりできて、ごはんも食べられたからね」と、中川氏。
中川氏が生まれたのは1950年。「生まれは、静岡の沼津。小学3年から中学までは川崎です。高校にはいったん入学したんですが、1回中退し、もう一度、入学して卒業したのは23歳の時。昔は、気が短くって、硬派だった...つもり。負けるのも大嫌い/笑」。
父親は観光会社など、複数の会社を経営されていたそう。ただし、家を飛び出した中川氏に支援はない。「中学時代は電気製品をいじるのが好きでした。放送機械とかね。それで放送部に入っていたくらい。あの頃は、大学で原子力を学ぼうと思っていた。ぜんぜん違うところに来ちゃったよね/笑」。
いったん入学したのは、通学に一時間かかる高校。「徒歩通学できる高校にも受かったがやっぱり電車通学がしたかった」。
中川氏の飲食歴はインタビュー時(2020.11)で、はや54年になる。半世紀以上。「16歳でこの道に入ったからね。ただ、好きだったからじゃない。食べていくには、これしかなかったから」。
キャバレーは、数か月で辞める。「飲食では、自由ヶ丘たんぽぽが最初。当時の洋食っていうのは、ハンバーグやエビフライ、カニクリームコロッケとかだった」。
まだ、1966年。ケンタッキーも、マクドナルドもない時代。

マグロ漁船と高校卒業と、独立。

「17歳後半、マグロ漁船に乗ってオーストラリアにも行った。とにかくハードで、おかげで体つきも倍ちかくになりました」。
クルーは18名。案外、少ない。
「釣れたらすべて船底で冷凍します。私がいたのは、11月くらいから翌年の5月くらいまで。いろんな年代の人がいました。なかには18歳でマイホームを建てたという人もいたから、お金にはなった」。
オーストラリアまでマグロを追いかけ南下する。南十字星が素晴らしく、きれいに輝いていたそうだ。
「仕事は、いろいろやったなぁ。帝国ホテルでも仕事をした。すぐに、やめちゃったけど。中卒という肩書きがイヤだったから、さっきもいったように、社会人になってから再受験して、23歳で卒業しています。マグロ漁船に乗ったのも、じつは、学費をねん出するためだったんです」。
長い人生の分岐点はいつか、一つ挙げてもらった。
「そうだね。23歳で高校を卒業した時かな。選択肢は2つしかなかった。帝国ホテルにもどるか、飲食以外に行くか。結局どっちにも行かず、ある先輩から『キッチンくろんぼ』という洋食店を引き継ぎます」。実質的な独立。ただ、1年半経った頃に物件の事情で撤退。狛江で再出発する。
「ヒットしたのは、いまでいうデリバリーを始めてから。洋食のデリバリーなんてなかったから。大ヒットって言ってもいいんじゃないかな」。
「お客様が何を食べたいか」を考えて、メニューを作り続けた。ちかくに大企業や医大、都営団地があったのも幸いした。「ありがたいことに、毎日たくさん注文をいただきました。そして25歳になってキッチンくろんぼの裏にパブレストランをオープン。年齢の割には大きなお金を動かせるようになりました」。
下北沢で「ジャックポット」を始めたのは26歳。1976年11月のこと。

友人と師匠。

「TVを観ないので、最初は、わからず、あとになって一緒にいると周りが騒ぐからわかるのですが、芸能界の方に結構来ていただいていました」。
「あの人、この人」と、名前が出るたびに驚いた。女優、俳優、歌手、映画監督。なんともかっこいい。
「『ジャックポット』が5店舗になった頃、若い社員のためにと思って、法人化します。ビストロをはじめたのは30歳の頃です」。
起業してから、もう47年になる。目標とした人について教えてもらった。
「飲食の師匠は2人かな?。1人は、キッチンフライパンの小畑社長。まだ、どこも使っていない時に、最新の電子レンジを導入して料理をつくっていた人。もともとアメリカでくつみがきをしていたんだそうです。私が、見習いの頃、かわいがってもらいました。もう1人は、マストミの北城寺社長、キッチンフライパンから、マストミに転職してから知り合います。レスラーみたいな社長だった。北城寺さんからは、アメとムチを教わりました。私は素晴らしい先輩師匠に巡り合いました」。
いい経営者には、いい師匠がいる。師匠、先輩の良いところを見極めることが大切だ。

働いてくれる社員こそ「宝」。

ジャックポットプランニングでは、コロナによる飲食店の営業時短要請よりも前に、営業時間を22時までにしている。全ては、社員が安心して、健康に働ける環境を作るためだ。
社員を大切にする。その背景をお聞きしてみた。
「20年以上前ですが、立て続けに大事な社員が事故や病気で亡くなってしまった時があり衝撃的だった!ショックでした!」。
退職後の元スタッフの方が亡くなっていたこともあったそうだ。
中川氏の思いは「社員の心と身体の健康」に意識が向く。
10年以上勤めている社員には、「中古でもいいからマンションを買った方がいい、ただし場所は選ばないと!」。
と伝えている。収入の一つにもなり、いざという時の助けにもなるからと。
現在、従業員が中古マンションを購入できる環境や制度も整えているそうだ。
他にも年に1回行っている健康診断に社員全員がきちんと行ってくれるような環境整備も整えている。
全ては、社員を大切にしているからこその発想だろう。

・・・続き

株式会社ジャックポットプランニング 代表取締役 中川洋氏

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2021年3月20日土曜日

コロナ禍で大幅に有効求人倍率が大きく変化しました!

コロナ禍で大幅に有効求人倍率が大きく変化しました!

優秀な人材が採れるチャンスでもあり、リストラされるピンチでもあります。

有効求人倍率が下がると総じて年齢で判断されるのが多くなりますが、年齢重ねてきた50代に優秀な人も多いんです。

(資料キイストン・マーケティング部)

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2021年3月19日金曜日

夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」にてGOSSO様を3月5日(金)、12日(金)、19日(金)の3連載で掲載しました。亭

夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」にて0秒レモンサワー 仙台ホルモン焼肉酒場ときわをFC展開されているGOSSO様を3月5日(金)、12日(金)、19日(金)の3連載で掲載しました。

(3月5日 電子版カラー)
(3月12日 電子版カラー)
(3月19日 電子版カラー)

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

株式会社バーチャルレストラン 代表者 牧本天増氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社バーチャルレストラン 代表者 牧本天増氏登場。


本文より~

高校1年生、来日する。

今もじつは大学生だそうだ。
今回、ご登場いただいた株式会社バーチャルレストランの代表、牧本 天増氏のこと。「起業したのが、大学時代で、今も完全には辞めていないというのが正解です」とのこと。はじめて起業したのは「中国人留学生向け」の塾だったそう。話していても、そうだとは気づかないが、牧本氏もじつは、中国出身。
「私は1997年の北京に生まれました。それから上海で暮らし、来日したのは高校1年の時です」。中国人が来日すると、中国人のコミュニティに参加するのが一般的なようだが、牧本氏は最初から違ったそう。
「日本のコミュニティにガッツリ」と笑う。
おかげでチンプンカンプンだった日本語も、数ヵ月でマスターすることになる。入学したのは、横浜市立東高校の帰国子女枠。
「授業は中国のほうが進んでいましたから、勉強それ自体は難しくはなかったです。私が日本に来たのは母親が再婚することになったから」。
牧本氏が3歳の頃に両親が離婚。父は、北京で成功。母は、日本に渡っていた。来日するまでは、独り暮らしをしていたそうだ。

「初」尽くし。

改めて整理すると牧本氏は、1997年生まれ。中国出身。高校1年の時に来日。このインタビュー時点(2020年)でまだ23歳だ。
「小さい頃は、学校を転々としていました。あれも、いい勉強になった気がします。観察力もつきましたからね。イジメですか? 中国には、日本でいうようなイジメは全然ないですね。ただ、日本より、はるかに実力主義です。日本では、部活で力をもっている人がリスペクトされているのを知って、部活をがんばりました。バスケットボールです」。
なんでも、彼女をつくれば日本語も上達すると思ったそうだが、はたして、そちらのほうはどうだったんだろう?
「私の母親は、中国の村出身です。3000人に1人の枠に入り、大学に進学した人。我のつよい人ですが、母としても、今では、経営者の先輩としても尊敬しています」。
日本も「初」、高校生も「初」、日本の部活も「初」。「初」尽くし。だが、たじろがない。母親のDNAかもしれない。

とんでもないこと。

「昔から起業が頭にありました。ただ、痛い目にもあっています」。
なんでも、大学入学した頃、コロッとマルチ商法に騙された、という。おかげで親からもらった学費すべてなくなってしまったとのこと。
「結局1年生の時に、1000万円の借金を背負い込んでしまいました」。
むろん、1000万円の借金も「初」。
「一時は、学費を払えず除籍されかけたんですが、なんとか大学に籍はあります。私のターニングポイントを一つ挙げるとすれば、この時、背負った借金ですね。大変だったですが、このおかげで、いろいろな人と接することになります。セミナーなどにも通いだして、まっすぐになろう、と起業を真剣に志すきっかけにもなりました」。
「母からは、じつは猛反対されました」と牧本氏。
これは、起業の話である。
「就職してからにしなさい」という母。
しかし、牧本氏はもう走り出している。
「最初は、不良品の回収ですが、そのあと、留学生向けの塾をはじめます。最大で90名くらいいたでしょうか? 1年と少しでバイアウトし、その資金をもとにタピオカショップをオープンします」。
創業店は、明大前。タピオカがブームになる前だったそう。このショップが氏いわく、「とんでもない利益」をだしたとのこと。「4坪、家賃10万円で、月商1000万円です」。たしかに、とんでもない。
ただ、ほんとうに、とんでもないのは、それからわずか1年半で80店舗まで出店したことかもしれない。

・・・続き

株式会社バーチャルレストラン 代表者 牧本天増氏

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2021年3月16日火曜日

夕刊フジ・ロック酒場が復活!「ライブともつ焼屋」の 衝撃的な再合体を果たす。

3月12日(金)情報解禁!
夕刊フジ・ロック酒場が復活!
期間: 3月20日〜4月10日
もつ焼きでん(水道橋店)+夕刊フジ・ロックPLUS3(3月28日コンサート)
(PR動画)

このライブと酒場は、
すごいことになる―。 
大衆酒場の人気店「もつ焼でん」と、
大衆紙の雄「夕刊フジ」との異色タッグが蘇る。
3月28日(日)の恵比寿ザ・ガーデンホール
「夕刊フジ・ロックPLUS3 40 NOVELA~broke off~&EARTHSHAKER FES」
ライブ開催に先駆け、
夕刊フジ・ロック酒場として「ライブともつ焼屋」の
衝撃的な再合体を果たす。

「夕刊フジ・ロックPLUS3」をテーマにした店内では、
ノヴェラとアースシェイカーの轟音が鳴り響き、コンサートビジュアルを演出したポスターを展示するなど、来店したロックファンたちを盛り上げる。
「もつ焼でん」ファンも満足の数量限定メニュー「夕刊フジ・ロック☆セット」(※1日30セット)は、
レモンサワー(シャリキン&強炭酸)と定番の煮込み(旨味濃厚)、
ればトロ刺(鮮度バツグン)、マカロニサラダ(スモークチーズ&黒胡椒)の名物料理(通常約1480円《税込》)を約630円値引き。
さらに、夕刊フジを加えて1000円(税込)で提供。
また、夕刊フジ・ロックPLUS3特別先行予約者の特典、
ノヴェラとアースシェイカーのコラボTシャツが抽選で当たるプレゼント企画も実施する。

《夕刊フジ・ロック酒場概要》
【期間】3月20日(土)~4月10日(土)
【場所】もつ焼でん 水道橋店(東京都千代田区神田三崎町2-12-7、電話03-6674-1321)
【地図】店舗サイト参照( http://www.den-inc.net/suidobashi.html )

 <飲食業界専門の雇用支援>「飲食業界の雇用を守る!!」在籍型出向や海外企業でのスキルアップをサポートし飲食業界からの人材の流出を防ぐ策を発表


「飲食業界の雇用を守る」飲食店向けに人材採用総合サービスを提供する株式会社キイストン(代表取締役:細見昇市、所在地:東京都港区)が、新型コロナウイルス感染症の影響により雇用が維持できない状態となった企業を対象に、在籍型出向や海外企業でのスキルアップなどをサポートし「飲食業界」からの人材の流出を防ぐ支援策に取り組む
◼️背景
新型コロナウイルス感染拡大防止のための緊急事態宣言の延長により、営業時間短縮の継続を求められる飲食店などは一段と厳しい状況に追い込まれ新型コロナ関連の解雇や雇い止めは2月1日時点で8万4883人。コロナ禍は既に1年に及び、飲食業界を中心に「我慢は限界」と悲鳴が上がっています

キイストンは飲食業界専門になってからの10年以上の年月を飲食企業の皆様とともに人材の確保に携わってきました。特に、ここ数年の人手不足では試行錯誤を繰り返し、全力で人員確保に取り組んできました

しかしこのコロナ禍で、そのような大変な努力の元に育てられた大切な人材が他業界へ流れ出ようとしています
航空業界では社員を家電量販店やスーパーなどに一時的に勤務させる方針を示しており、2021年春までに400人以上を送り出す計画がニュースになりました

そこで、キイストンでは飲食企業の人材採用で培った横のネットワーク駆使し飲食経験者の方には「飲食企業」へ誘導したいと考え『飲食業界専門の雇用支援』を打ち出しました。


キイストンオリジナル雇用支援プラン①
<FROM 飲食 TO 飲食>(雇用シェア)
社員として会社に在籍しながら別の会社に出向して仕事をする、いわゆる「雇用シェア」を支援する制度を政府が創設することになりました。すでに多くの企業で、雇用シェアの試みが行われています
しかしながら、グループではない企業に従業員を出向させるというのは簡単なことではありません。また労働契約の内容にも大きな違いがあり調整が必要です
そこで、弊社キイストンのネットワークを駆使し、雇用過剰となっている企業が、従業員の雇用を守るため、新規出店などで一時的に人手不足などの企業との間で「雇用シェア」(在籍型出向制度)の活用
を提案し、双方の企業に対して出向のマッチングを行います。


2020年には、多業態飲食店を約300店運営する飲食企業から相談いただき、
そば店を中心に数十店舗運営する企業様へ20名程の出向を実現させました。


経験職種・期間を限定した雇用シェアは
一時的に人手が不足している企業は、教育の手間がほとんどかからず即戦力となる人員が一気に充足し
今現在、人員が余剰している企業には、最小限の資金でスタッフの雇用を保持できるうえ
何より働く側にとっても、慣れ親しんだ仕事をし続けられるこの取り組みは
三方良しの雇用支援として好評です。




キイストンオリジナル雇用支援プラン②
<海外スキルアップ>(飲食の仕事を海外で)
海外には渡航が制限され、働き手が激減している地域があります
特に観光が産業のメインとなっている国では観光地をすぐにでも再開し、経済を立て直す必要がある企業が何社も存在します。そこで、キイストンは他民族国家であり各国の食文化や接客に合わせた『グローバル』な経験も出来るオーストラリアに着目

オーストラリア シドニーに拠点を持つ現地企業と協力体制を強化。

ワーホリビザの発行が復活し、渡航が可能になった際、若手の従業員を休職扱いで、海外での”スキルアップ”の経験を提案します。 

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

株式会社N・I 代表取締役 河村則夫氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社N・I 代表取締役 河村則夫氏登場。


本文より~

20歳の大法螺。

小学2年生から野球をはじめ、小・中・高とキャプテンを務めている。
高校は、渋谷高校。公立だが、甲子園出場経験もある名門高校だ。入学当初は部員数も多かったが、「1週間で1/2になった」と河村氏は笑う。
河村氏は早くから試合にも出場し、前述通りキャプテンも務める。だが、河村氏が3年生の時、暴力問題で、出場停止になる。けっきょく、3年時の公式戦はゼロだったそうだ。
就職は、最大手デジタル製品の販売会社へ。「お金がないから、大学進学は最初から頭になかったし、だいたい何も考えてなかったですね。この会社に進んだのは、監督のつながりがあったから。軟式野球部があって、入部するのが条件。野球はともかく、サラリーマンはぜんぜん性に合わなかったですね/笑」
けっきょく、2年で辞めている。
野球をつづけたかったが、限界も感じた。だからといって、下を向かないのが河村氏という人だ。「会社を辞める時には30歳までに独立すると言いふらしていました」と笑う。
「大法螺」と笑う人もいたかもしれない。しかし、本人はちがう。言ったからにはうそつきになりたくない。だから、本人にとっては、大法螺が原動力。これが、河村氏の流儀。とにかく、20歳の時の決意は、「約束」という二文字でロックオンされた。

体力・気合・根性。

「ホームページにも書いていますが、居酒屋で独立したいと、20歳で飲食業界に飛び込みます」。20歳、料理人を志すには、けっして早いほうではない。河村氏も、16歳や17歳の兄弟子に顎でつかわれる様子を想像していたそうだ。ただ、ほかの選択肢がなかったのも事実だし、やりたい思いがつよかった。
「やるからには野球といっしょ、基本が大事だと思いました。それで、お世話になったのが、和食割烹です。こちらで6年、修業させていただきます」。
給料は10万円あるかないか。薄給に映るが、ひと昔前は、これがスタンダード。
「夜は、大手チェーンの居酒屋でアルバイトです。あの頃は1日中、仕事ですね。体力・気合・根性。野球を経験していなかったら、根を上げていたかもしれませんね」。
深夜のバイトは週3日。朝まで仕事をつづけ、その日は、寝ない。2日に一度の睡眠だったが、アドレナリン、全開。「ちからのない奴は、時間を遣うしかない。だから、そうしてきた」と河村氏。
独立という約束に向け、ひた走る。

店長に抜擢されるも、大失敗。

「転機になったのは26歳の時ですね。バイト先の社長から『店を出すから、店長やらへんか?』と声をかけていただきます」。むろん、答えは、「イエス」。割烹を退職し、バイト先に勇んで就職。ただし、店長の経験はない。
「大失敗をやらかします」。
どういうことだろう?
「私が経験してきたのは、野球部だし、割烹の世界です。上下関係はきついし、言葉もきつい。だから、ぜんぜん人がついてきません。アルバイトにも、真剣に怒るもんですから、つづかない」。
それで、大失敗?
「そうです。ただ、いったん外されるんですが、ちがう新店でもう一度、チャンスをもらいます。そちらで起死回生。再度、最初の店にもカムバックし、けっきょく2つの店舗、いずれも大繁盛させることができました」。
「失敗せな、大きくならへん」と河村氏はいう。「わずか、1年でしたが、この1年で経営者としての自信も深まりました」。
失敗を通し、自信といっしょに、人を動かす術も会得した。ちからがないから、時間を遣ったとするなら、濃厚な1年だったにちがいない。

ゴールの向こうが、いちばんの勝負時。

「たまたま隣の駅にいい物件が出て、社長が『やるか』と言ってくださったので、二つ返事で、『やります』と。これが27歳の時です」。
目標より3年早く、ゴールテープを切ったことになる。もちろん、ゴールの向こうが、いちばんの勝負時。結果からいうと、当初は、一進一退というところか。河村氏いわく、きっちりと、コミュニケーションをとったのがいけなかったそうだ。いつかの大失敗と、ある意味、おなじ。到来したチャンスを、もう少しで手放すところだった。
「ある会社に、マネージャーで就職します。店は、つづけていましたから、経営者でありながら、他社のマネージャーになったわけです。給料は、比較にならないくらい下がりましたが、とにかく、様々な経営者にお会いでき、勉強になりました」。
この会社で、河村氏は4年勤めている。マネージャーとして、物件やメニューの開発、給料をはじめとしたさまざまな制度設計にもかかわっている。実践を通し、学んだことも少なくない。じつは、1年で役員にもなっている。
「この4年でできた、仕入先とのネットワークが、のちに大きな財産になります。このあと、こちらの会社を退職し、不良債権を買い取るように店舗をだしていくんですが、仕入れ価格がちがうので、最初から利益が改善することがわかっていました」。
株式会社N・Iを設立したのは、33歳の時。
「向こうの会社では、役員だったんですが、役員といってもやりたいようにはできない。だから、2009年の8月末で退職し、翌9月3日に改めて1号店をオープンします」。
11月には、買い取った3店舗を合わせ、合計4店舗に。「あと1店舗も合わせ、1年で計5店舗出店します」。それから、このインタビューまでおよそ10年。40店舗だし、残っているのは20店舗。スクラップアンドビルド。この数字は、経営判断の早さを示している。
ゴールテープを切ったあとを10年のスパンでみると、大成功といえるのではないだろうか。

・・・続き

株式会社N・I 代表取締役 河村則夫氏

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2021年3月11日木曜日

株式会社ジョージーズ 代表取締役 春名翔仁氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ジョージーズ 代表取締役 春名翔仁氏登場。


本文より~

ドレッドとアロハが、店長とキッチン。

「小さい頃から通知簿に協調性がないと書かれた」と笑う。なんでも、高校まで同様のコメントが繰り返されたそうだ。「ポケモンもやらんかったし、勉強もしなかった。やるのは、したいことだけ。サッカーはその一つ。ロベルトバッジョのPK外しの背中を観て、格好ええなぁと思ってはじめました」。
「そうそう、大学は子どもの頃から『行かへん』っていっていました」。
今回ご登場いただいた春名氏が生まれたのは、昭和61年。姫路城で有名な姫路市。好きなサッカーでは中学2年で初優勝。県大会でベスト8に進んでいる。高校にもサッカー部はあったが、弱小だったそう。試合の日と、バイト以外の日だけの部員だった。 兄弟は2人。「弟がいます。弟は、サッカーで兵庫県の代表になって、推薦で岡山の高校に進みました。私のほうは、高校になってもあいかわらず協調性もなくって/笑」。
パーマをかけ、派手な髪色をした高校生。「そんなんだから、アルバイトも全落ち。ただ、高校2年の時ですね、バイト募集の貼り紙をみて、ある店にとびこんだんです。社長がいらして、『おもろい奴や。夕方になったら またおいで』って。いわば、この一言が、私の飲食人生の号砲です」。
ドレッドにターバンを巻いた人、アフロヘアーはキッチンスタッフ。「オレなんかふつうやんって/笑」。
「就職である会社を受けに行ったんですが、『髪の毛きれますか?』『転勤できますか?』って矢継ぎ早に言われて…。その時に『料理がやりたいん』だって思うんです。それで、けっきょくバイトしていた店に就職することになるんですが、新しくやってきた店長に『料理したいなら、ここじゃないほうがいいよ』っていきなり言われて」。
なにがなんだかわからないなかで、飲食人生が動き出す。

24歳、軽いノリで、オープン。

元町のイタリアンに2年半。
「それなりのリストランテです。ただ、私が入社する2日前に、料理長がスタッフみんなを連れて辞めちゃいまして、料理をしたことがない私が、早くも3番手です。あの頃は朝の8時から深夜2時まで仕事です。休日もなくって、2年半でぶっ倒れました/笑」。
だから、勤務期間2年半。
「いったん姫路にもどるんですが、そのタイミングで、以前のオーナーがアメ村に店をだすから『来い』と言われて。その店で1年半、料理長をさせてもらいました。それから、堀江のカフェのオーナーに引き抜かれて、そちらで店長を務めます。そうこうしているうちに24歳に。高校の卒業文集に『店をやる』と書いた時の、年齢になりました。
じつは、私はすっかり忘れていたんですが、同級生に、『どうすんだ?』って言われて。じゃぁ、みたいな/笑」。
「あの頃はけっこう儲けていましたね。アメ村に行ってからずっと好調で、カフェの店長時代も周りの友達に比べると貰っていたと思います。だから、当時は飲食店を甘くみていたかもしれませんね。イタリアンもいいかな?と思ったんですが、けっこう他にもいい店があるし初期投資も高くなるんで、アジア料理に目を向け、2ヵ月間タイ料理店で修行して堀江で独立しました」。
24歳。希望の船出。ただ、明確な進路はまだ決まっていなかった。

パクチー鍋とパクチー食べ放題。

「1店舗目は楽勝でしたね。赤字になったこともない」と春名氏。「アルバイトと2人だけです。高校の時に、書いていたからスタートしただけで、そうですね、3年くらいは、ふつうです。やる気もそうないから、3年間メニューもおんなじ/笑」。
やる気になったのは、27歳の時。結婚したことで、スイッチONになる。「たまたまも、重なるんですが、東京に行った時に、向こうはもうパクチーブームだったんですね。もちろん、パクチーは知っていましたが、『パクチー鍋ってなんだ』と。大阪では、やっている店がなかったんですね。だから、じゃぁ、それだと」。
ボルテージが上がる。
「食べ放題も、台湾料理の店が1店舗やっているだけで、まだぜんぜんない。それで、パクチー鍋とパクチー食べ放題のお店をはじめます。これが、爆裂ヒット。予約だけで、2回転です」。
お鍋のスープはトムヤンクンと、グリーンカレー。パクチーは、これでもかというくらい器に盛った。「当時は、大阪でいちばんパクチーを買っていましたね。月間70キロ。農家さんにお願いして直取引をさせてもらっていました。料理ってたいてい自宅で食べたほうが安いんですが、パクチーに関するかぎり、うちの店で食べたほうがぜったい安かったですね」。
パクチーブーム。ただ、ブームは長くはつづかない。

・・・続き

株式会社ジョージーズ 代表取締役 春名翔仁氏

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2021年2月25日木曜日

三本珈琲株式会社 代表取締役社長 山本 聡氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”三本珈琲株式会社 代表取締役社長 山本 聡氏登場。


本文より~

琲が、育てた少年。

大学時代は紅茶党だったが、今では日に、7~8杯は珈琲を飲むそうだ。今回、ご登場いただいた三本珈琲の代表取締役社長、山本聡氏のこと。珈琲をこよなく愛する人だ。
「両親は2人とも(株)木村コーヒー店(キーコーヒー株式会社の前身)で勤務していまして、そこで出会って結婚します。父親が同社を辞め、独立したのは26歳の時だと聞いています。祖父は、小田原の農家。母親は、住職の娘です」。
長男の山本氏が生まれたのは、1961年。兄妹は3人。弟と妹がいる。
「親父はとにかく、厳しかったですね。怖いくらい。ずっと敬語でした。もっとも一番下の妹には、まるで態度が違っていましたが/笑」。
父親が独立し、初出店したのは、1957年。横浜市中区宮川町に、有限会社三本コーヒー店として創業されている。当時は、ラーメン一杯と、珈琲一杯が同じくらいの値段だったそう。
「タクシーの初乗りも同じくらいだったと聞いています。当時は、珈琲が嗜好品の一つとして、嗜まれるようになった時代だったのでしょうね。弊社も、順調に業績を拡大していきます」。
ホームページの沿革を見ると、工場の建設や、名古屋、大阪への進出など、事業拡大の様子がうかがえる。
一方、山本氏のほうもまたスクスクと育つ。「小学校は関東学院です。中・高は浅野学園。大学は明治。本当は同時に合格していた関西学院大学に行きたかったのですが、親に反対されて/笑」。
どんな子ども時代だったのだろうか?
「そうですね。部活はやらない。続かないから/笑。運動も、勉強もそこそこできたほうですね。今振り返るとリーダーシップもあって、割と目立った生徒だった気がしますね。組長なんかもしていましたし。そうそう、中学時代に、親に勧められてですが、1ヵ月アメリカでホームステイします。実は、結婚してからも1年間、ニューヨークで暮らしています」。
入社してからニューヨーク? 中学生のホームステイも斬新だが、ニューヨーク滞在も、ユニーク。目的は、海外の大学を卒業することだったそう。

12億円のパビリオン。

「人生のターニングポイントを一つ挙げるとするなら、ニューヨークでの1年と、そのニューヨークから帰国することになった時のことですね」。
どういうことだろう? 実は、三本珈琲は、1989年に開催された「YES’89(YOKOHAMA EXOTIC SHOWCASE '89)横浜博覧会」に「MMCコーヒー地球体験館」を出展している。山本氏がいう、ニューヨークから1年で帰国することになった理由だ。
「パビリオンをつくるなど、総事業費12億円の事業です。その事業の指揮をとるために帰国します。準備1年、開催1年、計2年。普通はできない体験です」。
12億円とは、相当な額だ。当時、パビリオンを出展した企業を調べてみたが、日本石油や日本IBM、東京ガス、日立や松下の各グループなど、錚々たる顔ぶれ。ちなみに、この時、三本珈琲が出展した「地球体験館」は熱帯雨林や南極、砂漠などを疑似体験できるパビリオンだったそうだ。
「新卒のタイミングで、弊社の東京支社という位置づけでエムエムシー株式会社を設立してもらいます。友人3人と1人番頭をつけてもらって営業を開始しました。その後はニューヨークを経て、横浜博覧会のため、帰国したのが27歳の頃。東海大学さんに監修をお願いするなど、スケールとしても初めて体験することばかりでした」。
むろん、結果は大盛況。子どもたちに、地球という、天体のスケールを教えることができたに違いない。しかし、当時の売上高は20億円程度。12億円の投資は財政にも影響したことだろう。実際、影響は、しばらく尾を引いたそうだ。
それでも、3代目となる山本氏を育てた投資とみれば、どうだろう。当時、山本氏が、わずか1年で帰国させられた理由も理解できる。山本氏は「父から会社を継ぐようにとは言われたことはない」というが、お父様の頭には、もうこの頃から山本氏を社長にする青写真が描かれていたのかもしれない。

機動力は、ショップ事業。

「けっして、いい時ばかりではなかった」と山本氏はいうが、カフェやレストランのショップ事業だけではなく、本業である珈琲豆の卸事業があるぶん、業績の揺らぎは少ない。
その事業の卸先を伺うと、日本はもちろん、外資系の有名なホテルの名も次々と挙がった。ただ、その一方で、機動力となっているのは、店舗事業である。
人材ビジネスの大手企業「リクルート」で勤め、4年前に入社した山本氏の長男は、店舗事業が、この数年で変わったと言う。
「韓国では、当時スターバックスより店舗数の多かったカフェチェーン『カフェベネ』とフランチャイズ契約を結び、日本法人としてスタートします。おかげで、羽田や成田といった空港内好立地に出店できました。最初に出店したのも、羽田と成田、そして赤坂です」。
韓国の俳優も来たということだ。
「当時、弊社の主要ブランドの『三本珈琲店』は、ロケーションは最高だったのですが、メニュー、オペレーション、デザインなど改善の余地が大いにありました。それもまた『カフェベネ』のおかげで、すべて刷新することになりました。残念なことに、『カフェベネ』は韓国の本社が民事再生されてしまいますが、それでは、私たち独自でやろう、と。私が、本格的に店舗事業部に関わることができるようになったタイミングでもありましたので」。
店舗事業が、改めて、機動力となった瞬間。出店にも拍車がかかった。2020年、現在、総店舗数は、34店舗だが、ここ数年の伸びがとくに目覚ましい。羽田に13店舗、成田に4店舗。横浜CAILや小田原ミナカなど商業施設内にも出店してきている。日本の玄関口に、三木珈琲のショップが並んでいる。しかも、おしゃれな。
「事業のターニングポイントを挙げるとすれば、『カフェベネ』のフランチャイズになったこと」。そう分析しているようだ。

・・・続き

三本珈琲株式会社 代表取締役社長 山本 聡氏

2021年2月20日土曜日

夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」にてサガミホールディングス様を3連載で掲載しました。

夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」にてサガミホールディングス様を2月5日、12日、19日の3連載で掲載しました。

取材は千葉哲幸氏によるものです。

(2月5日発行 電子版/カラー)
(2月12日発行 電子版/カラー)
(2月19日発行 電子版/カラー)

2021年2月17日水曜日

有限会社レストランバンク 代表取締役 林 秀光氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社レストランバンク 代表取締役 林 秀光氏登場。

本文より~

スノボにハマり、プリンスホテル退職。

「大学も、専門学校も頭になかった」と高校時代を語ってくれたのは、有限会社レストランバンクの代表、林 秀光氏。1975年生まれの44歳(2020年のインタビュー時)。
「早く自立したかったですね。なりたかったのは、パティシエか、庭師か、料理人か。けっきょく、『守口プリンスホテル』に就職します。周りは、大卒ばかりでびっくり」。1人暮らし、開始。「守口プリンスホテル」の、正確には製菓部に就職したそうだ。
これで、大好きな「苺のショートケーキ」が、好きなだけ食べられるが、志望動機。製菓部といっても、料理人。ホテルといっても、きびしさはハンパないはず。うまく、スタートできたんだろうか?
「めっちゃめちゃ面白かったです。その頃の私は、料理も、菓子づくりも無縁な、どこにでもいる高校3年生といっしょ。びっくりしますが、『ボール』がわからなかった」。
ボールって、あのボール?
「そうです。『ボールを取ってくれ』と言われて、『?』です/笑。さすがに怒られましたね。とにかく、そんな風に、マイナスのマイナスからのスタートだから、逆に面白かったんだと思います。フランス語もそう。なにもかも新しい」。
林氏は、こちらで、3年半修業する。ちなみに、「守口プリンスホテル」は松下電器が経営元だったそう。つまり、林氏も、松下の社員。松下幸之助氏の著書も読んでいる。
ところで、めちゃ面白かったのに、どうして辞めたんですか?
「じつは、スノーボードにハマって。21歳の時ですね。山ごもりしたくなって辞表をだしました/笑。で、長野の山にこもって2日目に鎖骨骨折です。アホでしょ/笑」。
鎖骨骨折で、1シーズン棒にふることになる。だけど、のめり込んだら止まらないのが、林氏の性格。「日本じゃ無理だから、アメリカに行って、雪山へGOです。雪山を追いかけ、行ったり、来たりの、スノボ人生。悪くなかったですね」。

彼女の一言。

「当時、仕事をしていたのは、堀江の服屋さんの奥にあった小さなバーです。シーズンオフの間、店長をさせてもらっていました」。
仕事は面白かったですか?
「バーの仕事も、めちゃ面白かったですね。『お酒って、面白いやん』って。ケーキの時も、スノボの時もそうですが、一度、ハマると止まらない。勉強もしました」。
「妻と知り合ったのは、25歳の頃。北堀江のカフェで出会います。24時間営業のカフェで、私は19時~翌朝7時までの、夜の店長でした。店長といっても特別、経験を積んだわけじゃなく、ただ、マジメにはたらいていただけです。でも、マジメな人がぜんぜんいてなかったから、それだけで評価されました/笑」
「独立を決意したのは、27歳。決意できたのは、妻の強烈なプッシュがあったおかげです」。
どんなプッシュ?
「彼女は、起業家の娘なんですね。だからかもしれませんが、『私と結婚するんやったら、店もってこい』みたいな/笑」。そりゃたしかに強烈。しかし、そのおかげでいまがある。数多くのスタッフとの出会いも、この一言がはじまり。
「27歳で決意し、独立したのは28歳の時です。芦屋で『焼炉端ばたばた』をオープンしました」。なんでも、ケーキやシュークリームで、と思っていたらしいが、製菓は難しいとなって、炉端になったらしい。
その落差が、林氏らしくもある。

しかし、くすぶりはつづく。

「焼炉端ばたばた」は、どうだったんだろう?
「それが、まったくで/笑。2000万円かけたんですが、日商ゼロの日もふつうにあったくらい」。「あの時は、どうしようもなかった」と林氏。借金があったから、前に進んでいただけ。
「ただ、最低限の売り上げはありましたから、大きな赤字にはならなかった。だから、ぎゃくにやめられなかった」。少額といっても、毎月、赤字が累積する。「希望もなにもなかった。あったのは、絶望感だけです」。
相当、きびかったんですね?
「炉端は、初めてでしょ。最初から、無謀だったんです。知識も、経験もなにもないから、何もできない」。できることと言えば。
「お顔とお名前は、必死で覚えました。注文されたお料理も含めて。名刺をいただいたら、下の名前までインプットです」。それでも、簡単に売り上げアップとはいかない。ただし、あの時の模索は、貴重な財産になっている。
「そう思わないと、やっていられませんよね/笑」。
少なかったが、お客様のなかには、富裕層も、有名人もいた。何しろ、芦屋である。そのなかに、いまも「恩師」と慕う人もいた。
「『お前は目がいいからいける』と言いつづけてくれた人です。偶然なんですが、私が昔から憧れていたケーキショップのオーナーでした」。「すごく紳士だし、人柄がいい」と、べたぼれの様子。
「ショップも、いいんですね。ペンキのカラーもいい。そうそう、それで聞いたんです。『このペンキはどうしたんですか?』って。そうしたらね。『日本になかったから、フランスまで行って買ってきた』って。すごいでしょ」。
読書家で、あそびも格好いい人。こんな人になれたら、いい。人生の目標もできたにちがいない。しかし、くすぶりはつづく。

世界6位で、世界がかわる。

少し上向きになったのは、塚口にオープンした2店舗目の「アレグロ」をオープンしてから。林氏、初挑戦のイタリア料理である。「当時、イタリアンが流行っていたんですね。もちろん、シェフを採用する余裕はない。だから、料理担当は私です。もちろん、イタリア料理なんてしたことがない。でも、これがけっこううまくいって」。
ランチがいい。ただ、ディナーはイマイチ。
「パスタくらいしかちゃんとできなかったですからね。ディナーの料理は…、どうだったんでしょうね/笑」。
上向きはしたが、起爆剤とはいかなかった。3店目は、アレグロの前にだした「じんべえ」。
「じつをいうと、3店とも似たり寄ったりでパッとしなかった。閉店まではいかないけど、大儲けともいかない。でも、あれを境に一転します」。
あれって何ですか?
「天満に、4店舗目を出店します。ピッツァを窯で焼くことができる店を手に入れたんです」。
ピッツァ?
「ナポリのピッツァをやりたくてね。で、それも勉強して、じつは、私、世界6位なんです」。世界的なコンクールで、世界6位になったそう。
「あれは、33歳の時です。それまでギリギリだった数字が、翌日から2割アップ。しかも、全店です。ピッツァとまったく関係ない『じんべえ』まで/笑」。

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有限会社レストランバンク 代表取締役 林 秀光氏

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