2021年9月15日水曜日

sync オーナー 森 敬貴氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”に“sync オーナー 森 敬貴氏登場。

本文より~

北の町のりんご園。

果樹園が広がっている。りんごと聞いて「北海道でりんご?」とつい口にでた。すると、森氏は笑いながら「りんごといったら青森ってイメージですよね」とこちらを気遣う。森氏によると、北海道でも森氏の出身地である余市町では、りんごの栽培が盛んらしい。ウイスキーづくりも盛んで、りんごとウイスキーが2大産業だという。
「ウイスキーでいえば『ニッカウイスキー』の工場があるんです。昔も多かったですが、今は、りんご園とワイナリーだらけ」。
「あ、だらけっなんていったら怒られそう」と爆笑する。
森家も、りんご農家。広い園をもっていた。「10ヘクタールはあった」と森氏。10ヘクタール。調べると約3万坪、東京ドーム2つがスッポリ収まる。つまり、東京ではイメージできない、でかさと広さ。
「小さな頃から手伝いはしていました。ただ、どうやって逃げ出すかばかり考えていましたから、好きじゃなかったんでしょうね。笑」。
りんご園の繁忙期は収穫時だけではないらしい、いったら1年中、いそがしい。従業員さんも常時4人いたそうだが、それでも手がたりなかったのだろう。
姉弟は姉が3人。
「父親から継げと言われたことはなかったですが、長男ですから、子どもの頃からなんとなく父親の背中は意識していました」。
言われなかったんですか?
「オレも好きでりんご園をやっているから、お前も好きなことをやれ、と」。祖父はカーディーラーだったそう。「でも、そう言われるとね。好きなことってなんだろう?って、子どもながら思案にふけっちゃうんです」。
りんごが熟すのをみて、さて、オレは?と悩みつづけた。

好きなことをやれ、という呪文。

「小学校の同級生はたった7人。東京ではイメージもできないでしょ。全生徒の9割はりんご園の子ども。スポーツですか? スポーツっていっても同級生7人ですからね。だいたいのスポーツができない。笑」。
中学は4キロ先。バスケットボールを始める。高校は進学校。向かう先は北大というところだろうか?
「そうですね。ただ、私は大学に進む意味がわからなかった。何が向いているのかも、どの道を進みたいのかも漠然としていた。バスケも入部したのはいいんですが、けっきょくすぐ辞めてしまいましたし」。
憂鬱?
「そうですね。もちろん、勉強もそんなにしていないし、部活もないから、ほかの人より謳歌していたといえるかもしれませんが」。
高校2年になって、一念発起。交換留学に手を挙げ、オーストラリアへ行くことになった。「姉も留学していましたから、だいたいイメージもつきましたし。でも、事務局側のミスで流れてしまうんです。残念でしょ。ただ、一度行こうと思うと、その道だけしかみえなくなって」。
それで、ニューヨーク?
「ええ、3年生の9月から1年の予定で留学します。当然、大学受験はパス。笑」。
思い切りましたね?
「もやもやしていましたから、大学に行くより、すっきりすると思ったんです、学校には1年休学ということで参加させてもらいました」。
ニューヨーク。さて、どんな日々がはじまるのだろう。

答えは「YES」。

「ニューヨークっていったら、みなさんマンハッタンを想像するじゃないですか。でも、私が行ったのはニューヨークでも郊外の工場も多い田舎町です。ニューヨーク以外にも候補はあったんですが、ピンとこない。だって、ニューヨーク以外知らないから。それにニューヨーク州ってりんごでも有名なんですよ」。
なんでも、スーパーなどでよくみかける「ジョナゴールド」は、ニューヨーク生まれの品種なんだそう。
ところで、森氏の留学は、ロータリークラブが主催のプログラム。「3ヵ月に1度、ホームステイ先がかわります。ロータリークラブに所属されている人だから、みなさん裕福でインテリジェンスです。ホストファミリーは旦那さんが専業主婦や、小さな子どもがいる新聞記者、議員さん、それと、IBMのセールスマンでした」
ホストファミリーとの交流以外にも、同じ高校生同士、言葉はちがっても打ち解けた。
「1ヵ月に一度、食事会があって、その時、スピーチをしたりもするんですが、旅行にも連れて行ってくださって。今思うと、とんでもなく恵まれていましたね。私の場合はとくに、語学学習ではなく、自身でもわからない何かを探しにいくのが目的でしたので、観るもの、聞くもの、交わるものの、その一つひとつに意味があったと思います」。
まる1年。秋がもう一度まわってくる。
帰国。
「今思えば、やはり私のいちばんのターニングポイントですね」。
1年の留学で、何かみつかりましたか?
「YES」。

好きなことの、しっぽ。

「IBMのセールスマンがいたといったでしょ。彼は大学に営業に行くのが仕事だったんです。それで、車に乗っけてもらって、いろいろな大学に連れていってもらいます」。
日本とは違いますか?
「私は日本の大学には行ってないのでわからないんですが、大学めぐりは楽しかったですね。そのなかの一つに、レストラン系のマネジメントやシェフ学部がある州立のコミュニティカレッジがありました」。
なんでも、マンハッタンで働く人たちがバケーションを楽しむような場所だったので、そういう学問が盛んになったんだろう、ということだった。
「面白いなと思いました。アメリカは飲食だけじゃないですが、アメリカの飲食のカルチャーってとくに面白いし、この大学で勉強すれば、そういったカルチャーをもって帰ることもできるんじゃないかな、と」。
ビジネスですね?
「そうです。わりと小さな頃から、商売には関心がありましたから」。
1年遅れ、後輩たちといっしょに机をならべる。これが帰国後の話。「高校3年の秋から再スタートです。翌年春卒業し、ふたたびアメリカに渡ります」。
面白いこと、好きなこと、やりたいことのしっぽをつかんだ、あのコミュニティカレッジへ。「アメリカを離れる時に、もどってこようと思っていましたから、再度、アメリカに渡った時はじーんときましたね」。
自分との約束通り、その大学に進む。

オーナーはマフィアの末裔。

「スピーディにいったら2年で卒業できるんですが、私は4年きっちりいました。トップはフランス人。実地になると1日7~8時間。サボったらアウトです。笑」
日本のように甘くはない。というか、日本が不思議なのかもしれないが。
「バーでパートタイムもします。差別ですか? そうですね、まだ昔のことですから。ただ、私の場合、いっしょに学んでいた学生に年上の人がいて、差別というよりアジア人だってことを面白がってくれていいバイト先を紹介してくれたんです」。
アメリカらしく、雑多な客層だったそう。
「テイクアウトもできる、レストラン・バー。140人くらいは入れたんじゃないかな。オーナーはマフィアの末裔。面白いでしょ。楽しかったですね」。
飲食に進もうと思ったのは、この時ですか?
「そうですね。まだ、飲食一本で行こうとは思っていなかったですね。ほかの国をみてみたい、まだここにいたいとも思っていました」。
再度、帰国したのは、23歳の時。ベーカリーショップに就職する。これが、飲食のはじまり。

東京へ。

「パンって、つくれるようになって損はないでしょ。我が家じゃ旨いパンはなかなか焼けないし。こちらでは、2年間、お世話になりました」。
ベーカリーショップに勤務しながら、高校時代の、自身とおなじようなアウトローたちと、チームでつるんだ。「そんなアウトローチームで、海にあそびに行った時に、事故でルームシェアしていた親友を亡くしてしまいました。いちばんの親友です」。
森氏、26歳。
「それがきっかけといいますか、北海道にいても意味がないと思って上京します、ただ、東京にでてきたものの、仕事はダム工事。余市よりへんぴな山奥にこもります。笑」。
どこまでも落ちていくような気がしたそうだ。
無気力?
「そうですね。浮き上がる力がでなかったんです」。
そんな森氏を救ったのは、当時の彼女。つまり今の奥様だ。
「たまたま、彼女が観ていた就職雑誌の裏表紙にシェフの求人があって。今はもう日本にはないんですが『ピッツアエクスプレス』っていうイギリス本社の世界的なレストランです。英語がしゃべれること、イギリス研修に行けることが条件だったんですが、私にすれば、え? これオレのこと?みたいな」。
肩をわしっとつかまれた気がした。
面接は英語で行われたらしい。「今何をやっているんだと聞かれ、モルタルを詰めていると答え、笑われた」という。むろん、やりとりはイングリッシュ。
人生なにがつながるかわからない。
「たしかに、語学目的じゃなかったのに、語学が役立ったわけですからね」。
パン職人から、シェフ森に。新たな道が広がった。

カレーショップ「sync」オープン。

「イギリス研修を経て、日本で、そうですね、3年近く勤務して、もう一度パンにもどり、独立したのは、そのあとです」。
最初からカレーで勝負とは思っていなかったそうだ。
「カレーは趣味でつくっていた程度で。でも、いつか、カレーとビールでって、そんな話を知人にしていたら、じゃぁ、カレーショップをすればいいと言われ、そりゃ、そうかもと。笑」。
最初に出店されたのは、都立大学前ですよね?
「家賃42,000円。水道代込み。ただし、4坪」。
小さな一歩。しかし、森氏にすれば、それが原寸大だった。
「それまでの私って、いうなら、たとえばリムジンという大きなレストランを運転していたようなもんです。でも、リムジンのオーナーにはなれない。じゃぁ、どうすればいいか。原寸大で、そうだ軽自動車でいこうと。軽のフルスペックバージョンでいけばいいじゃないかって思ったんですね。なんであの森がカレーを、なんて言われてもいいじゃないかともね」。
ちなみに、森氏のカレーの原点は、あの北海道にある。
「子どもの頃、歳の離れた姉がお気に入りのカレーショップに、いつも私をいっしょに連れていってくれたんです」。
南インドのカレー。頼むのはいつもチキンとチーズのカレーと決まっていたそう。趣味で追いかけていたカレーもそうだった。「だから、あのカレーが原点なんです。もちろん、私なりのアイデアがプラスされ、オリジナルのテイストとなっていますが」。
ドロドロではなく、サラサラ&ヘルシー、ついでにいうと、店主がよくしゃべるというスパイス付き。syncのカレーは、もう、そうブランディグされてもいる。

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sync オーナー 森氏

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株式会社Bull Pulu 代表取締役会長 加藤二朗氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”に“株式会社Bull Pulu 代表取締役会長 加藤二朗氏登場。

本文より~

就職先は大手小売業企業。

お父様はハーネスを製造する工場を経営されていた。経営がうまくいっていたのだろう。「子どもの頃は裕福だった」、と加藤氏。
兄弟は兄1人。小学校から私立に通っていた。小・中は野球。中学は日大二中に進んでいる。「高校も日大付属だったんですが、成績が足りなくて日大に進学できなかった」と笑う。それで、今度はちゃんと勉強して成蹊大学に進学したというから、もともとやればできる。
父兄の影響もあったんだろう。高校からアメフト部に。「父も兄もアメフトでしたから。ただ、大学ではスキー部。学科はIT系。卒業生はみんなIT系に進むんですが、私はIT系の学科の学生だったのにパソコンが苦手で笑」。
パソコンが苦手?
「もう少し人間くさいというか。もともと日大に進んだら建築をしたいなと思っていたんです。ITも悪くはないんですが。じつは子どもの頃からショッピングセンターが好きで。わくわくするでしょ。通路がわけられていて、子どもにすれば迷路ですよ。何よりみんなで買い物や食事をするのが、楽しかったですね」。
なんとなく、わかる。
それで、就職はどこに?
「大手小売業企業です。小売にも興味がありましたから」。
日本の消費をひっぱるリーディングカンパニー。組織は巨大だ。

ラーメン店、オープン。

たしかにITとは無関係に思えるが、巨大な企業だからIT系の仕事も当然あるのだろう。
「あるには、ありますが、私は、いまでいうIT人材で入社したわけではありません。6年間はちゃんと店頭に立っていましたから。システム系に異動したのは、7年目。それからの4年間、在籍し、そのあとショッピングセンターをつくる開発部門に異動します」。
キャリアを順調に積んでいく。開発といえば、花形部門だ。
「じつは、去年(2020年)の2月に『BullPulu』の会長に就任するんですが、それまでは大手小売業企業にお世話になっていました、というか、おととしの12月までは籍がありました」。
どういうことだろう。
「私がショッピングセンターの開発チームにいた時に、父親の知り合いがフードコートにラーメン店をオープンする予定だったのがうまくいかず、父親がかわってオーナーになってオープンすることになります。いったら、これが加藤家の飲食のはじまりです」。
工場の方はどうされたんですか?
「工場はむろんそのままで、別会社を立ち上げオープンします。最初は兄が社長を務めていました。ただ、経験はないし、計画もしていなかったもんですから、そりゃ、うまくいきません/笑。いくらフードコートでといっても、さすがに難しい」。
たしかにノウハウなしでのスタートはきびしい。「結局、リンガーハットさんのフランチャイズとして再スタートします。これで、なんとか月商800万円くらいになったと聞いています」。

タピオカドリンク、デビュー。

もともと飲食に興味があったのかとも伺ってみた。
「いまはメインの『Bull Pulu』をはじめ、レストランも4店舗出店しています。フードコート以外にも出店していますが、もともと私はショッピングセンターが好きで、ショッピングセンターを、もっと楽しく、おいしくしたいという思いからスタートしていますので、料理や接客が好きではじめたオーナーさんとは出発点がちがっています」。
お父様の知り合いがラーメン店を計画されたのも、きっかけですよね?
「それはそうですね。当時、私はショッピングセンターの人間ですから、父が代わりにやってくれたことで空きをつくらず済みホッとしたんですが、たしかに、これがスタートといえば、スタートです」。
ショッピングセンターを運営する人の目からみると、つぎにどんなブランドがくるか、わかるものですか?
「ショッピングセンターをつくる側、つまり開発部門に異動になって、いろんなオーナーさんに出会います。それまで社長といったらうちの親父しか知らなかったわけですが、そういう、たくさんのオーナーに出会ってアンテナは広がった気がしますね。ただ、タピオカをはじめたのは、もっとシンプルで、私自身がタピオカドリンクを飲んでおいしいと思ったからなんです」。
加藤氏は、若い頃に衝撃を受けたドリンクとして、スタバのフラペチーノ、スイカジュース、タピオカを挙げている。
「もちろん、初めはショッピングセンター側の人間として、ショッピングセンターにいらしたお客様に、タピオカという日本ではまだめずらしいドリンクを飲んで、楽しんでいただきたいと思いスタートします。ハンドドリンクのショップがなかったことも、『Bull Pulu』をオープンするきっかけになりました」。
オープンは2010年。タピオカブームのずっと前ですね。
「そういう意味では、先駆けです。当時は、フランチャイズをしているショップもなかったし、タピオカも台湾から直接仕入れるしかなかったですからね。これには父親のネットワークが役立ちます」。

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株式会社Bull Pulu 代表取締役会長 加藤二朗氏

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2021年9月6日月曜日

9月3日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、『ZOO 』様を取り上げました。

9月3日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、象の耳揚げパンを展開されてる『ZOO 』様を取り上げました。
社長の小泉さん、紆余曲折ありながら、現在50以上の特約店まで持って来られてます。
私的には、この象の耳揚げパンの特約店は大いに期待してます。


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「月刊人材ビジネス」に2連載で、ミストラルの新社長になった江川広太の記事が掲載されました。

「月刊人材ビジネス」8月号、9月号と2連載で、7月1日よりミストラルの新社長になった江川広太の記事が掲載されました。
取材対象に選んでいただきありがとうございました。
仕事のスピードとイズムもしっかり伝承してくれてるので頼もしくなりました。
どんどん前に出て、業績伸ばしてくれれば嬉しいです!
うちは営業未経験から力付けてくれてるので、次はNに大きな期待してます。
Nは運を誰より持ってますから楽しみ。

(月刊人材ビジネス8月号)
(月刊人材ビジネス9月号)


2021年9月1日水曜日

8月27日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」で『CLASSICINC.(クラシック)』様を取り上げました。

8月27日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、スイーツ開発や弁当プロジェクトでファンを獲得の『CLASSICINC.(クラシック)』様を取り上げました。



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パラリンピックの父の言葉より

「失ったものを数えるな、残されたものを最大限生かせ」

“パラリンピックの父”であるルードウィッヒ・グットマン博士の言葉ですが、会社も同じで心に響きます!

2021年8月31日火曜日

“象の耳揚げパンを展開されている株式会社ZOO 代表 小泉智博氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”に“象の耳揚げパンを展開されている株式会社ZOO 代表 小泉智博氏登場。


本文より~

エポックメーキングなできごとは、人形劇で起こる。

商品名が、そのままキャッチフレーズにもなる。「象の耳」。16年でおよそ1354回の改良を重ねた新食感の揚げ焼きパンだ。揚げているのに、カロリーは低い。トッピングで色んな味が楽しめる。何よりネーミングが可愛い。
アメリカに行った時に知った「エレファント・イヤー」がモデル。今回はこの「象の耳」の生みの親、株式会社ZOOの小泉智博氏に話を伺った。
「私は1972年生まれ、神奈川県の相模原出身です。父親は建築関係の仕事をしていました。1人っ子です。小学校では野球をやっていましたが、中学では部活をせず、もっぱらマージャンばっかりしていました/笑」。
「当時、うちの学校は部活が盛んで、部活をやっている奴が偉いみたいなヒエラルキーがあったから、部活をしない私たちは最下層です。ただ、中学3年の時、ヒエラルキーの逆転が起こるんです」。
どういうことだろう?
「文化祭の時に、担任の先生に指名されクラスのリーダーになって『人形劇』をやったんですね。そうしたら」。
盛り上がった?
「そうなんです。開校以来の最大の客入りだったそうで。リーダーの私は俄然、注目されるようになります。これが、私の一つの転機ですね」。
やればできる。自信がつく。「じつは、高校になって空手を始めるのですが、この時があったから始められたのかもしれません」。

空手と、

「空手を始めた理由は格闘技が好きだったから。ジャッキーチェンも好きだったし/笑。それに、中学に無い部活ならば高校入学時でもハンデなく始められると思って。ただ、入部したのが県でも強豪の空手道部だったもんですから、聞いてはいたんですが練習は相当きつかったですね」。
組手が得意だったと小泉氏。
高校から始めたにも関わらず関東大会に出場、2年時から主将も務めている。「顧問の先生と出会えたのが私にとっては2度目の転機です。厳しい先生でしたが尊敬できる先生でした」。
いい指導者に出会うことで、人生は変わる。
「大学からも推薦をいただきました。でも、ちょうどその頃、怪我が重なって。一度は辞めようと思ったほどなんです」。
でも、辞めなかった?
「大学は早稲田と決めていたのですが、2浪の末、結局滑り止めの東海大学に進みます。空手は辞めて音楽サークルに入ろうと思っていたんです」。
でも、やっぱり空手が好きだった?
「そうなんです。空手道部の演武をみて、またやる気になっちゃいました/笑」。
その後は流派の大会で全国ベスト8にもなったとの事。
「将来を考えた時に当時、K-1もまだ無く格闘技にはプロの世界もなかったので大学3年の時に、今度はホントに部活は辞めました」。
辞めたといっても、高校時代の恩師とのつながりで母校の空手道部の監督に就任。
「空手道部を辞めた時に、ほかの大学の音楽サークルに入って、今度はマイクをにぎってボーカルをはじめます。親からは『卒業したらサラリーマンになれ』って言われていたわけですが、音楽にハマってしまって。ええ、就職活動もしないまま音楽の道へ」。
こちらはプロがある。ただし、その確率は低い。

音楽と、

「25歳の時は、渋谷のレストラン&バーで働いていました。むろん、アルバイトです。音楽サークルの先輩がペンションをやっていて、そちらでアルバイトをした縁で、渋谷の店で働かせてもらうようになりました」。
有名なミュージシャンたちが常連のお店だったそうだ。
「いつのまにか親しくなり、酒を飲み語るようにもなります。いつか同列になって、この人たちと旨い酒を」と思ったそうだ。
「1年くらいそちらで仕事をしたのですが、朝10時から翌朝5時すぎまで働いて月2の休日で給料も月15万円くらいだったかな。料理の勉強もできたし、感謝はしているのですが、さすがに」。
そのお店を辞め、ボイストレーニングのため専門の学校にも通いだした。昼は発声練習の為に車の運転の仕事を、夜はカラオケのあるお店で働き、音楽にすべての時間を捧げる生活を送る。
「親からは勘当されて、うちをでました。定職もないわけですから、大変でしたが音楽の関係者とも知り合うことができたりして楽しかったですね」。
ただ、いつまでもとはいかない?
「そうですね。CDも出しましたが、バイトなしでは生活できない。ただ、憧れていたアーティストとおなじステージに立てたのは、うれしかった。私の財産ですね」。
音楽を卒業したのは年齢のせいではなく、耳を壊したからだそう。「音程が取れなくなってしまった」といっている。
これが、32歳の時の話。

オレゴン州のお祭り。

「音楽にケジメをつけ卒業できたのは、起業を視野に入れていたからかもしれません」。
それがZOOの始まりですか?
「じつは、30歳の時にバイト先が同時に2つ無くなり無職になったので、バンドを休んでアメリカへ旅に出ました。その時、友達のいたオレゴン州にも行くんですが、友達がオレゴンには何もないからといって、ふつうのお祭りに連れていってくれたんです」。
もしかして、そこで「エレファント・イヤー」に出会ったとか?
「そうなんです。日本でいえば屋台ですね。この時食べた揚げパンが忘れられなくて」。
日本に帰ってからも食べたくてしようがなかったそう。でも、どこにもない。「検索してもないんですね。それなら自分が始めれば日本初になれるぞ!と」。
つまり、自分が食べたかった?
「そうですね。出発点はそこです/笑」。
ちなみに、「エレファント・イヤー」でいま検索すると、いくつか、オレゴン州で出会ったような記事がでてきた。

始まりと、躓き。

パンづくりはどこで勉強されたんですか?
「独学です。もう一度、エレファント・イヤーがあったオレゴン州にも行って給料いらないから修行させてくれと頼んだのですが。ただ、オーナーじゃないから、製法はみんな知らなかったんです。だから、」。
当時は、パンの勉強と、音楽を平行してやっていたそう。
パンと音楽と。
「さっき、耳が、という話をしましたね。当時、起業をサポートしてくれる人が現れたこともあって、無職のまま、パンづくりに専念していたんです。生活はキャッシングでしのいでいました。贅沢はぜんぜんできません。なんとか象の耳を完成させなきゃいけない事情もあって、朝・昼・晩、食事は象の耳の失敗作のみでした/笑」
パンばかりだとさすがに、きつい。
「ある日、朝起きたら布団も持ちあげられない位に具合が悪くなり、医者に行くと栄養失調でした/笑。でも、その夜、ライブで歌うことが決まっていたので点滴を受けてステージにはなんとかあがるんですが、体調が悪いなかでライブをやったからでしょうね。ハウリングした音で左耳が半分くらいしか聞こえなくなってしまいました」。
それで、ミュージシャンを諦めた?
「そうですね。音がわからないんですから。それ以外方法はありません」。
ということは、今度はパン一直線ですね。起業の話はどうなりましたか?
「それが、サポートしてくれるはずだった人が『やっぱりしない』といいだして。ええ、もう真っ暗です。キャッシングで生活していましたから、借金も150万円くらいになっていましたし。お店が開けないと返済も進められません」。
はしごを外されたというのは、こういうことを言うのだろう。始まりと、躓き。ただしくいうと、まだ何も始まっていないのだが。

神の助けと、

「一度は道を閉ざされたわけですが、ビッグサイトで神がかりのようなことが起こります。さつま揚げのキッチンカーを出されていた人と知り合いになり、その方が車を貸してくれることになったんです」。
まさに、神の助けですね。「象の耳」のデビューはいかがでしたか?
「あるお祭りにキッチンカーで出店したのですが、ほぼ完売です。祭りの間、『象の耳っておいしいよ』って言葉を何度、聞いたことか。もう、うれしかったですね」。
揚げたてアツアツ。旨くないわけがない。お祭りにはもってこいだ。
「そう、祭りにはもってこいなんです。ただ、このあとスーパーで店頭販売をするんですが、こちらはぜんぜんだめでした。祭りのように、その場で食べないから味が落ちるんです。それから、改良につぐ、改良がスタートします」。
その後、沢山の方々の助けの元に揚げてから焼くという新製法の開発に成功。
光明は、ガラス1枚分の小さなショップに映し出された。「改良を重ねて、これならいける!と思って、法人化し高井戸で小さな工場兼店舗をオープンします。謳い文句は、世界初製法のパン、です。これが、TVにピックアップされて、テレビ東京、埼玉TV、王様のブランチ、スッキリ、ぶらり途中下車の旅、ちい散歩など6ヵ月連続でオンエアされました」。
「ただ、何故かあまりリピートしてもらえなかったんです」と苦笑する。
「どうしてだろう?と悩みまくって、でもわからない。ただ、耳を澄ましてお客様の感想を聞いていると、『おいしいけど、世界初ってほどじゃないよね』みたいな。そこから謳い文句を変えたり見せ方の研究などを繰り返し、色々と試行錯誤しました。ただ、TVのおかげもありフランチャイズは、うまくスタートできました」。
FCの出店も重なり、事業は拡大する。社員も数名だが採用し、アルバイトも受け入れた。「ただ、震災が起こって、ぜんぶ白紙にもどります」。
どういうことだろう?
「震災の影響でイベントが一斉になくなり、業績が急速に悪化します。象の耳はFCもキッチンカー中心でしたから、売上がゼロになりました。それでも数ヵ月はなんとか貯金を切り崩して、社員にも給料を渡していたんですが」。
最初に、会社の口座からお金が尽き、個人の口座も、容赦なく減りつづける。家財もすべて金に換えたが、焼け石に水。ついには、住む家もなくなった。
神も小泉氏を見放したのだろうか?

ホームレスと、一台のキッチンカー。

「一番しんどかったですね」とホームレス時代を振り返る。資産は底をついていた。どれくらいかかっただろう。今度は、努力だけではなんともできない。
「あの時、一台だけキッチンカーは売らずに残していたんです。材料もあるにはありました。どれくらい経った時でしょうか。イベントが少しずつ開催されるようになって、ようやく出店依頼を頂けたのですが。」
ただ、いざ出番という時に、材料が一つだけ足りなかった。
「小麦粉です。その時の私の全財産が214円。文字通り、全財産をかけた戦いです」。
スーパーで小麦粉を1キロだけ買えたので生地を約30コ作ってイベントまでかけつけ、完売して日商1万円。その売上のうち支払い分を引いた残金で材料を仕入れて今度は60コ作って翌日も完売し日商2万円。
毎日その繰り返し。綱渡り。「ギリギリって、ああいうことをいうんでしょうね。でも、必死だったし、楽しかった」。
再スタートの地は、自由が丘。全財産214円からの、奇跡の逆転劇。一台のキッチンカーが生んだ奇跡だ。
ところで、「象の耳」は名前通り、象の耳にかたちが似ている。ホームページをのぞくとわかりやすいが、象の顔を描くと、ちょうど耳にパンをレイアウトできる。
トッピングで味がかわると書いたが、メニューは色々ある。プレーンからシナモンシュガー、黒ゴマきなこ、カカオチョコ、このあたりは定番だろうが、クリームチーズ&ブルーベリーやカルボナーラ、欧風デミグラスカレーなどもある。ホームページには19種類が掲載されていた。
しかし、デザートパンから、食事パンまで、この幅広さが、面白い。揚げ焼きパンのサクサク感と、トッピングの楽しさ。これがいい。
「再スタートが加速したのは、そのあと『全国キッチンカーグランプリ』に参加して、『軽食部門』で準優勝してからですね。『象の耳』を食べた方が、埼玉スタジアムで行われる選手権に参加しませんか?と誘ってくださったんです。今思えば、これも神の声ですね」。
食べれば、旨い、感動する。
「真似はできないと思いますよ。うちの製法は、私だって素人だから思いついただけで。ほかの人には思いもつかないと思いますね」。
改良を重ねたうえの、自信だ。
ホームレス時代が終わると、ふたたび「象の耳」は快走する。
「杉並区のイベントに参加したら、100メートル位の列ができました。また、JR東日本さんが、阿佐ヶ谷から高円寺につづく高架下にオープンする『阿佐ヶ谷アニメストリート』に出店しないかとオファーをくれました。この時はじめて、銀行から融資を受けました。JRさんがバックにいたからでしょうね。はじめて銀行が相手にしてくれたんです/笑」。

・・・続き

株式会社ZOO 代表 小泉智博氏

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2021年8月30日月曜日

宮迫博之の超大型料理番組『有頂天レストラン』第四弾「ガチ5分料理&赤一色バトル」がYouTubeにて配信されました。

8月28日(土)、宮迫博之の超大型料理番組『有頂天レストラン』第四弾がYouTubeにて配信されました。
ガチの5分料理&赤一色バトルです。
モンスター竹村竜二シェフ×チャレンジャー細貝駿シェフ

こちらのチャレンジャー細貝駿シェフ(26歳)、弊社より推薦しました。
細貝シェフは麻布十番にある中華料理の“シーファン”の総料理長です。

おもしろいので是非ご覧ください。
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2021年8月26日木曜日

祝 850連載 H VIEW株式会社 代表取締役 中田 匠氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”H VIEW株式会社 代表取締役 中田 匠氏登場。

本文より~

天才、スキーヤー。

標高1275メートル。
「清里」駅はJRグループの駅のなかで、日本で2番目に標高が高く、山梨県ではいちばん標高が高い駅として知られている。今回ご登場いただいた、中田氏のご両親が経営しておられたコテージに通じる最寄駅でもあり、清里の文字が示す通り、清里高原の主要駅でもある。
八ヶ岳の中腹だったと中田氏。
標高が高いからか、冬になれば雪が積もった。中田氏が5歳からスキーをはじめたのは、自然な流れ。アルペンスキーでインターハイ入賞、ジュニア五輪にも出場した中田氏だが、本人曰く、注目されはじめたのは高校に進学してからだそう。たしかに、高校3年時に日本で2位になっている。
小学校は全校で100名程度。中学、高校も生徒数は少ない。「スキーといったら盛んなのはやはり長野とか、新潟ですね。山梨はそうポピュラーじゃない。私が進んだ高校には部もなかったくらいですから」。
どうしたんですか?
「ないならつくろう、というわけで創部します。顧問の先生はいるにはいましたが、指導してもらったことはありません。私の場合は、すべて独学です」。
独学? 専門的なトレーニングなし? と聞くと「ええ」と平然と回答する。
トレーニングコーチはいなかったが、この天才アスリートには高校2年生からスポンサーがついたそう。スポンサーのおかげで、カナダやニュージーランドにも遠征している。
「オリンピックは小学生の頃からめざしていました。いつのまにか山梨には敵なしになって。高校では全国でもそれなりの成績を残すことができました。大学は推薦をいただき國學院に進みます」。
間違いなく、将来を嘱望されたスキーヤーの1人だった。だったと言ったのは、大学2年であっさりとスキーを辞めてしまっているからだ。

日本一でも、食べていけない。

「大学2年時に、ある著名な、元アスリートの講演を聞きます」。
名前を聞くと、タレントでも有名な人だった。
「彼はマイナーなスポーツでは、いくら日本でトップになってもアルバイトをしないと食べていけないっていうんです。スキーもむろん、マイナーなスポーツです。そういうことは今まで思いもしていなかったんですが、そう言われると、たしかになって/笑」。
「もちろん、『だからマイナーなスポーツは辞めておけ』って話ではありません。トレーナー向けの講演だったので、スポーツとお金の関係を理解して指導すべきだというお話だったと思います。ただ、私には教訓というよりも、リアルな未来の話でした」。
熱が冷めたと、中田氏はいう。当時の成績は、真ん中くらいか。
「私の場合は単位も怪しくて、そのままでも卒業できたかどうかわかんないんですが、熱が冷めてしまったので、スキーを辞め、推薦で入っていましたから大学も辞めました。スポーツのこれも、厳しい一面ですね」。
ご両親には反対もされたが、本人に未練はなかった。
飲食に進むきっかけもうかがった。
「やはり、アルバイトですね。バイト先は新宿や渋谷にある個室居酒屋。うちの家もコテージを経営していたので、飲食もしていますが、山梨の山奥です。比較するまでもなく、こちらはきらびやかですね/笑」。
じつは、中田氏、このバイト先に就職している。
白銀の世界が、ネオンの世界になった。
興味がわいて、調べてみた。
新宿駅は海抜40メートル。標高と海抜では若干違いがあるが、それでも清里駅との違いは1200メートル以上になる。清里は銀世界というより、雲の上の世界だったのかもしれない。

残り5000円、しかし、望みはある。

「24歳の時に大学時代の友人らと3人で起業します。私は現場を担当し、店舗の立ち上げもすべて行ってきました。結局3年くらい一緒にやって離れます」。
離職の理由は、目指す方向が違ってきたこと。
「私は現場がメインだったこともあり、互いの意識がズレてしまったのかもしれません。仲が悪いわけじゃない。とにかく、そういうこともあって27歳で辞めて、28歳で起業しました」。
独立自体は26歳から意識していたという。「でも、準備はぜんぜんしてなくて、貯金をはじめたのも退職する3ヵ月前/笑」。
本人の貯金は50万円。起業するには雀の涙。「なんとか自己資金を600万円工面して、金融機関から1200万円を借り入れスタートします」。
それが、神保町「Mr,Happy」ですか?
「はい、そうです。40坪、家賃は82万円、社員6名、アルバイト2名でスタートです」。
いかがでしたか?
「白状すると最初はきつかったですね。オープンしたのは日本酒バルです。2月オープンです」。
想定通りにはいかなかった?
「ですね。ただ、売上は悪くなかったんですが、返済がきつかったです。人件費もかかりますから。自己資金600万円で開業したわけですけど、550万は半ば無理やり親族から集めたお金で、毎月100万は返済にあてる約束で借りました。どんな手段を使ってでもお金を集めることは運でもあり努力でもある。
2月にオープンして、3月末の私の預金残高は5000円でした/笑」
ギリギリ、でも理念は曲げない。
「ハッピービュー。それがうちの理念です」。だれもが幸せをビューできる。たぶん、「ビュー」を漢字でいうなら「望」だろう。
とはいえ、どう軌道に乗せるのだろうか?

幸せ計画。

「WEBマーケティングを活用しました。当初はいろいろときつかったですが、結局、マーケティングが功を奏して、年商は1億円をオーバーします」。
5000円からの大ブレイクですね?
「ただ、ターゲットに設定していた27歳OLは、ぜんぜん/笑」。神保町はなかなかきびしいエリアだと聞く。「たしかにターゲットを設定するのが難しいエリアですね。だから、需要と供給がアンバランスになりがちなんです」。
その難しい神保町で1億オーバーは、自信になりますね。2店舗目はいつですか?
「1年後に立川です。1年後は想定通りでしたが、立川は、想定外でしたね。それでも、こちらの業績も悪くなかったです。3店舗目は蒲田。こちらは立地も最高でした」。
立てつづけに、オープンする。
ハッピービュー的にみて、オープンする意味って何ですか?とうかがった。
「まずは、業績の拡大ですね。オープンすることで業績はアップします。むろん、スタッフも採用でき、仲間もできる。風景はだいぶ変わります。ただ、うちの目標は有形ではなく、無形です」。
無形?
「何店舗とか、何十億とかといえば、たしかにわかりやすいし、共有もしやすい。でも、そういうことを追いかけたくて起業したわけじゃありません。難しいとは思うんですが、スタッフたちがうちにいて『幸せ』って言ってくれたらいい。追いかけるなら、そっちのほうが意味があると私は思っているんです。つまり、新たな舞台をつくり、幸せをつくるのがオープンする意味ですね」。
幸せ計画。それは、採用の時点からすでに始まっているらしい。
「うちはいま30名社員がいますが、まだ誰も辞めてはいません。今回、はじめて公募も行いますが、今まではリファラル採用かダイレクトリクルーティングかのいずれか。『こいつなら幸せにできそう』が唯一の採用基準です」。
数値にはしにくいが、数値にできないぶん、真剣。
「離職ゼロというと、みなさん、『待遇がいいんでしょ』とおっしゃってくださいますが、結果としてそうなっているだけで、最初から給料も高く設定しているわけじゃない。むしろ、評価して欲しいのは、そこ」。
みんなが成長している点ですね。
「そうです。まだ30名だからできるのかもしれませんが、私自身が、全スタッフに寄り添っています。希望、目標、そのすべてにです」。
じつは、社員に合わせ、就業スタイルもカスタマイズしているそうだ。なぜ、そこまでするのか? むろん、答えは、幸せな姿をみたいからである。

・・・続き

H VIEW株式会社 代表取締役 中田 匠氏

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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

8月20日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は『ファンゴー』様を取り上げました。

8月20日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、「北米のおばあちゃんの味」コンビニで浸透 5ブランド15店舗を運営する「グラニースミス」を展開されてる『ファンゴー』様を取り上げました。

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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

ありがたい、飲食FC加盟の武器。

飲食FC加盟に大きな武器が手に入りました。
きっと飲食企業様にもお役に立つはず。

本当にありがたいです。
これも夕刊フジ様からの連載「飲食FCで第二の人生」をやられてもらったこと、またライターの土金さんが取材と記事書いてくれたことのおかげです。

なんでもそう、「継続は力なり」と「諦めない・逃げないこと!」

コロナ禍で自由に動けない分、人との関わりをより大切に…。
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2021年8月23日月曜日

新たな大学のゼミ講義も動かそうです。

帝京大学でのゼミ講義も新たに太いパイプ出来たので、後期は飲食企業様2社推薦します。

帝京大学入れ、現在4大学と接点ありますが、さらに複数の大学ルート出来そうです

本当にありがたいことです。
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2021年8月22日日曜日

つながる・つながる。

以前にも増して、「企業と企業」・「社長と社長」を繋げ、新たな形が出来たらと動いてます。

この10月でキイストンは来年30周年、個人では58歳とコツコツと歳を重ねてやってきたので多少は信頼度も出てきたのかな(笑)

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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2021年8月20日金曜日

大学での飲食経営者のゼミ講義。

2012年5月が続けている各大学での飲食経営者のゼミ講義を数えてみました。
なんと延べ11大学、ゼミ講義66回実施してました。
これも全て各大学の先生たちに支援いただいたおかげです。
来年で10年、昔も今も無償のボランティアですがコツコツ続けてきます。

こういった継続は信頼=財産になります。
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2021年8月19日木曜日

先日、修行してきました。

前から行きたかったので、こちらで修行してきました。
門の向こう側が絵に見えるお気に入り写真です。

2021年8月17日火曜日

株式会社ゴーストレストラン研究所 代表取締役 吉見悠紀氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ゴーストレストラン研究所 代表取締役 吉見悠紀氏登場。


本文より~

■世界一周。

8ヵ月かけ、世界を一周したそうだ。しかも、基本、一人旅。8ヵ月とは長いですね。日本に帰りたいとは思わなかったですか?ときいてみた。
「さすがに、8ヵ月も海外にいると日本が恋しくなります。無性に日本っていいなって/笑。いちばん滞在期間が長かった国はメキシコです。何をするでもなく、1ヵ月半くらいいました。印象に残っているのはキューバですね。当時はまだカストロ政権です。いっちゃなんですが、日本より貧しくて、何もないのに、日本より幸せそうで、キューバの人たちのハッピーな表情が、やけに印象に残っています」。
今回ご登場いただいたのは、いま注目の経営者、株式会社ゴーストレストラン研究所の吉見社長(36歳/2021年現在)。
吉見氏は、高校時代に留学も経験している。
「中学までの話ですが、日本のカルチャーにまったく関心がなかったんです。音楽も、映画も、洋楽や洋画ばかり。映画はとくに好きで週に8本くらいは観ていました」。
興味をもつきっかけは、レッド・ホット・チリ・ペッパーズがつくってくれたそう。
高校時代の留学先はイギリス。
「ホームステイ先は、さすがにキューバとはちがいますが、そう裕福ではなかったんです。でも、すごく幸せそうだった。人生の楽しみ方を教えてもらった気がします」。
異国の文化にふれる。
「食」にも影響があったのでは?
「そうですね。海外で食べたものがいまのベースになっているかもしれないですね」。
日本より、海外と思い、そして、海外で日本を思う。人生観は、様々なシーンでかわると吉見氏はいう。世界一周をした人の言葉だから、その意味は重い。

漂流。

吉見氏が生まれたのは、1985年。バブル経済が、走りだす頃。
「父親も、母親も自営業です。私が小学低学年の時に両親は離婚しています。私は、母方で育ちます。小さな頃から好奇心は人一倍つよかったです」。
小学校から大学まで立教一筋。「高校2年の時に1年間イギリスに留学するんですが、それ以外は、そうですね、ずっと立教です。スポーツは陸上やサッカー。大学ではラクロスです。アルバイトですか? ビアガーデンやスペイン料理店で働いていました」。
料理は昔から、ほぼつくらない。
「もともと飲食に興味があったわけじゃないんです。大学を卒業して入社したのも、広告代理店ですし」。
1年目で早くも独立を意識し始めたそうですね?
「そうなんです。サラリーマンが、合わないとハッキリと悟りました/笑。父も母も自営業ですから、そういう星の下で育ったことが、影響しているかもしれないですね」。
海外の経験も、要因かもしれない。
「たしかに。ただ、そんなに格好のいいものじゃないです。大学に進んでもやりたいことはなく、正直いうと『いい会社に入れれば、それでいい』くらいに思っていたし、入社してからも、遊び歩いていた。いま思うともったいないですよね/笑」。
大酒を飲んで、ラクロスをやって、女の子と遊ぶ。就職しても、その延長。それが当時の、ステレオタイプといえなくもなかった気がする。
「就職した会社には、結局3年半いました。同期は20人くらいいて、そのなかにはクリエイティブ系の人もいました。彼らは芸大出身です。だから、最初からクリエイターをめざしている。大学時代の濃度もぜんぜん違うし。かっこいいな、って」。
「ちょっとくやしかった」とも笑う。

起業、前夜。

「アイデア=移動距離」という言葉が好きだという。マルチクリエイター高城剛氏の言葉なんだそう。「中学はリリーフランキーさんの本がバイブル。高校は高城剛さんの本がバイブルでした。ただ、そういうバイブルはあったんですが、『これがしたい』というのが、ぜんぜんない/笑」。
いま思えば、当然だという。
「だって、当時は、インプットの時代だったんです。まだ、アウトプットの段階になってなかっただけなんです。『やりたい気持ち』が現れたのは、社会人になってから。それが、私にとっては起業でした」。
27歳で起業されていますね?
「社内に面白い先輩がいても、話を聞くと『独立はしたいけど、守るものがある』っていうんですね。そうかぁ、と。守るものがないうちに起業しないといけないんだと納得するんですね。それで、とりあえず、その広告代理店を辞めます」。
まず、辞める?
「そうです。何の準備もしていなかったんですが、いろいろと準備をしているうちに守るものが増えちゃうと、できなくなっちゃうでしょ/笑」。
たしかに、先輩をみているとそうなる。しかし、うまくいくんだろうか?
「失敗しても、まだ30だったら、もう一度、サラリーマンができるだろうって」。
つまり、「えいや!」でスピンアウト。ただし、構想はゼロだったわけではなかったようだ。
これが、起業前夜の話。

「食」がキーワードになる。

「商圏って人の流れ、情報の流れ、モノの流れで決まると思うんです。その昔の、江戸と大阪と比較しても、いまや、日本と海外のほうがちかいんですね。だから、人も、情報も、流れている。でも、モノはどうなんだろう、って」。
会社を辞め、インドネシアやマレーシア、シンガポールを観て歩いたそうだ。
「その当時、LCCが流行りだしていたんです。人の流れはいっそ加速します。だって、国内を旅するより、安い。そんななかで、日本のモノ(食材)とアジアをつなぐサービスができないかと思い、マレーシアに食材の輸出をする事業を開始したんです。これは、計3年くらいやっていました。そのあとは、地方創生に関わり、シェフのマネジメントもさせていただきました」。
「食」という言葉がキーワードになったのは、輸出業を開始してから。そのあとも、じつは、「食」がテーマになっている。それにしても、いかにしてゴーストレストランが生まれるのだろうか?
「『食』にかかわり観えてきたのは、生産性の低さです。DX(デジタルトランスフォーメーション)の発想を用いて、何とかできないだろうかと思ったのが、ゴーストレストランの始まりです」。

食×DX。

参考にしたのは、Netflixだという。「DXを用いた映画の世界の改革というか、レンタルが、ネットの世界でできるようになった。そういう革命を食の世界でも起こせないかと思ったわけです」。
つまり、テクノロジーで、生産性を上げる?
「そういうことです。テクノロジーをつかった革命です。ただ、『食』というリアルはどうしようもない。だから、それ以外の、たとえば、キッチンの活用もその一つなんですが、テクノロジーをもちいて、キッチンという資産をフルに活用することができれば、そのぶん、生産性があがる、そういう発想です」。
なるほど。言い換えれば、テクノロジーを用いて、「モノの流れ」を創造しようという試みかもしれない。ところで、「ゴーストレストラン」という言葉を調べてみると、クラウドキッチン、バーチャルレストランとも言われているそうで、定義づけすると「電話やネットから注文を受け付ける、ショップをもたないデリバリー専門店」となり、ニューヨークが発祥とのことだ。
効率性だけではない。「お店に行くことなく、好きな料理をチョイスできます。これが、大事なアピールポイントです。『食事に行く』から、『デリバリーする』に意識をチェンジする消費者のメリットですね」。
たしかに、ゴーストレストランなら、様々なカテゴリーをチョイスすることが可能だ。たとえば、私は、ピザで、友人は、和食といった具合に。「個食」という流れもつかんでいる。
ちなみに、ゴーストレストランでは、2021年2月現在で、16ブランドがあるそうだ。

・・・続き

株式会社ゴーストレストラン研究所 代表取締役 吉見悠紀氏

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