2015年9月30日水曜日

『辞めても来れる、また辞めても来てくれる』関係。

キイストン元社員(卒業生)の大半は他社で通じ重宝されております。

さすがに辞めた時は寂しいですが、活躍して会社に遊びに来てくれると
自分がやってきたことが間違いでなかったと自信になります。

よく来てくれる元社員も居れば、絶対に来れない元社員もいます。
『辞めても来れる、また辞めても来てくれる』こんな関係は、その時その時一生懸命やってきたからこそお互い認められると思います。

2015年9月29日火曜日

キリンシティ株式会社 代表取締役社長 村田 毅氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”キリンシティ株式会社 代表取締役社長 村田 毅氏登場。
本文より~

群馬県群馬郡箕郷町。いたずらっ子、村田少年。

群馬県群馬郡箕郷町。この地名はもうない。平成の合併により2006年に高崎市に編入されたからだ。この田舎町に代々続く商店があった。それが今回、ご登場いただくキリンシティ株式会社、代表取締役社長、村田毅氏の生家である。
村田氏が生まれたのは昭和36年。3月21日の早生まれだが、同級生のなかでも背が高く、ガタイがいい少年で、小学校の頃は柔道の道場に通っていた。
「柔道をはじめたのは、父の影響です。学徒出陣でビルマに出征していたということもあって、とにかく厳格且つ真面目で、酒も飲まず、ギャンブルも一切しない人でした。男ばかりの3人兄弟で、私は次男。3人共厳しく育てられましたが、特に私は親父に殴られて育ちました(笑)」。
兄も小学生から柔道をはじめ、中学でも柔道を選択したが、次男の村田氏は軟式テニスに転向。高校でラグビーを始め、その後そちらに熱中するようになる。
「元来、お調子者で、いたずらっ子。小学生の頃は女の子のスカートめくりが私の得意技だったような子供でしたから、女子からはあまり好かれていませんでした(笑)。当時は男女共学だったのに惜しいことをしました。というのは、高校は男子校だったため、結局、学生時代に浮いた話はあまりありません(笑)」。

ラグビーに熱中した高校、大学時代の話。

村田氏が進学した男子校は「高崎高校」と言って、群馬県では有数の進学校である。東大に進学している生徒も少なくない。公立の進学校だったが、ラグビーの強豪校でもあった。
「当時の群馬県では、いちばん強い学校でした。ただ、今と違い『花園』に行くためには、あと1勝しなければなりませんでした。隣の埼玉県の優勝校と戦って、2県で1校の代表校が決まるのですが、その1勝が遠かった。ぜんぜん歯が立たない。だから、いくら群馬県で勝っても、花園には行けなかったんです」。
村田氏はフォワード。とにかく、ガタイがデカかったからだそうだ。
大学は、1年浪人して「慶應義塾大学」に進んだ。
「大学でも引き続き、ラグビーです。部員は100人くらい。同級生は、入部当初30人以上いたのですが、うち10人くらいはすぐに辞めてしまいました。鉄拳? う~ん、慶応はそういうのはなかったです。ただ、練習はとんでもなく厳しかった。全体練習もさることながら、その前後にジュニア練習というものがあり、また更に就寝前のジュニア体操というのがあって、兎に角ハンパなかった」。
「うちは1年、2年がジュニアで、3年、4年がシニアという制度で、このジュニア練習とかジュニア体操はその名のとおりジュニアが対象です。特にジュニア体操は『体操』とは名ばかりで、毎日毎日門限(23:00)後に、腕立、腹筋、スクワット等を延々と…そうですね、1時間半はやらされるんです」。さすがにガタイのいい村田氏でも、へたばったそうだ。
そんなこともあり、村田氏は、1年時に単位が足らず留年している。
「親父に怒られました。なかなか許してくれなかった。でも、2年目、と言っても留年したのでまだ1年生ですが、2年目から試合にも出るようになって、親父も秩父宮ラグビー場や国立競技場に観戦に来てくれました。新聞の記事も小まめにスクラップしてくれていたようで。そういう意味では若干親孝行できたし、留年したことも少しは許してくれていたんじゃないでしょうか」。

キリンビール一筋。39歳で支社長に抜擢。

慶應のラグビー部。就職に困る要素はまったくない。元々メーカー志望であった村田氏は、「キリンビール」に進んでいる。1浪、1留しているから就職したのは1985年。当時、「キリンビール」は、ガリバーというより、モンスターだった。
「ナンバー1ですよね。絶対的な。私は、物流からスタートし、半年後に営業に異動。それから8年くらいデパートやスーパー、コンビニなどの量販店を担当。その後2年間、内勤で営業企画をやり、更にエリアの営業も経験し、39歳で鹿児島の支社長になります。ただし、もうこの時のキリンは絶対じゃない。アサヒスーパードライ発売から、アサヒビール社がシェアをのばし、キリンの牙城を次々、奪っていったんです」。
アサヒスーパードライが登場したのは、実は、村田氏が「キリンビール」に入社した2年後の1987年のことである。スーパードライが登場すると、それまで「キリンビール」の牙城であったエリアも含め、日本のあらゆるエリアが、オセロの色がかわるように次々とアサヒ色に塗り替えられていった。むろん、キリンビールも黙ってはいない。シェアを奪回するため奔走する。村田氏は、先頭に立って奔走した。
それが、村田氏のキリンビール人生でなかったか。さて、2015年3月、村田氏自身、思いもしなかった辞令が下りる。それが、キリンシティ、代表取締役社長就任」という辞令だった。

・・・・続き
キリンシティ株式会社 代表取締役社長 村田 毅氏
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2015年9月22日火曜日

“飲食の戦士たち”第500回 掲載達成!!


2009年9月1日、第1回もくち(ガッツフードサービス)の鬼塚社長からスタートした“飲食の戦士たち”。
今回のジャパントータルブロスのYocco社長で第500回 掲載達成しました!!

弊社の国谷、そしてライターの冴木さん、そしてアポイント取ってくれた社員やインターンの皆さんありがとうございました。

2015年9月17日木曜日

あることから、進展しました。

たまたま、小学校・中学校時代の同級生のU君が会社に訪ねてくれました。
実に37年ぶりの再会です。
一緒に飲みに行き、昔話してたら「そう言えば、俺たちの小学5年生の時に当時の担任の先生が記録を残そうと記録映画作ってくれたなあ〜」となり
今どきもう映写機もないから、それならDVDにしようかとなり、併せて同窓会やろうとなりました。

不思議!
物事は進む時はほんと直ぐ進むんですね。

2015年9月15日火曜日

第500回掲載 ジャパントータルロブロス株式会社 代表取締役社長 Yocco氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”ジャパントータルロブロス株式会社 代表取締役社長 Yocco氏登場。
本文より~

「Yocco’s Kitchen Bake & Cafe」オープン。

Yocco’s Kitchen Bake & Cafeは北海道の食材を厳選し、“Tasty, Healthy, Happy”にアレンジしたメニューが揃う、北海道がテーマのカフェレストランだ。同店はオープン初日から軽快な足取りでスタートし、今も尚、話題を集めている。
「このお店は、私が初めて全面プロデュースしたお店です。イスの高さや座り心地、スプーンの口当たりひとつに至るまで、女性の感覚や視点を大切にして選び抜きました」、とYoccoさんは話す。
店内に入ると、オープンキッチンが真っ先に目に入る。「料理のライブ感をお客様に楽しんで欲しくて」、とYoccoさんはほほ笑む。
何より驚いたのは、北海道の食材を開拓するために部長をわざわざ北海道に移住させたという話を聞いた時だ。
「北海道は食の宝庫なので、以前からずっと気になっていました。何度か視察を重ねるうちに、本気で食材や生産者の方々と向き合うには移住しかないと、元料理人の部長に白羽の矢を立てました。部長が移住して2年経ちますが、有り難いことに今ではLOBROSだからと特別に分けていただいている食材がほとんどです」。
部長は月の半分が北海道、もう半分が東京という生活らしいが、そこまでして「食材」にこだわる理由はYoccoさんの生い立ちを伺うと自然と理解できた。

生粋の飲食人人生

Yoccoさんは東京都立川市で、代々続く小料理屋の娘として生まれ育った。「祖母の代から私の実家は料理店です。父は大工でしたので、店は母が運営していました。私は幼い頃からこのお店が大好きで、いつもお店の手伝いをしていました」。
何より聞いていて面白かったのは、その家庭のあり方だった。当時を知る、会長であり夫の坂井克郎氏は一つのエピソードを教えてくれた。
「彼女の家に遊びに行った時のことです。台所の床にブルーシートが敷いてあって、その上をみんなが足踏みをして、何度も何度も行き来しているんです。僕はてっきり雨漏りか何かをして修理しているのかと思ったら、実はうどんを踏んでいた(笑)裏庭には梅や大根が干してあって、彼女の家はそれが自然だったんです」
Yoccoさんは続ける。「祖母の代から料理店をやっていたこともあって、お付き合いの幅が広かったんだと思います。家にはカギをかけた記憶もなくて、家族がいない時でも誰かが我が物顔で家にいました。知らない人まで勝手に入ってきて、気づいたら宴会が始まっている、そんな賑やかな家でした。私はそこでツマになるものを作っていました。」
「たまに自宅に知人や友人を招いてちょっとしたパーティーをするのですが、彼女がそこで本当にちょっとしたものでも振舞うと、大絶賛の嵐なんです」と、坂井氏は話す。料理のコツは食材の切り方や厚みだったりするんですけどね、と、Yoccoさんはさらりと教えてくれた。きっと幼少からの経験が、自然と彼女を料理の天才にしたのだろう。

天真爛漫な魅力

姉妹は姉と弟の3人。しかし実家の料理店に頻繁に出入りしていたのは、真ん中のYoccoさんだけだったそうである。「どうしてでしょうね。私は料理も大好きになったし、人と接することも大好きになった。人好きな母や祖母の性格を兄弟のなかで一番私が受け継いだのかもしれません。そして、こういう環境で育ったことは私にとって、大きな意味を持っていると思います。誰とでも気兼ねなく会話できるようになったのもそうだし、だいたい、誰と会話してもストレスがないし、抵抗も感じない。これってとっても『飲食向きの性格』だと思いませんか?」
「彼女が年末年始に手伝いに行くと、大金を持って帰ってくるんです。どうしたのか聞くと、お客様たちがお年玉をくれたと。それくらい彼女はみんなから慕われていたんです」と、坂井氏もその魅力を惜しみなく話すのだった。
その中でも特に、Yoccoさんの人柄を裏付けるエピソードがあった。

伝説のロイヤルホスト

Yoccoさんは高校を卒業後、ロイヤルホスト株式会社に就職し、立川店に勤務する。
「近くに米軍の基地があるのですが、彼女が勤務している日には彼女に会いに来る米軍の隊員たちで行列ができるんです。こんな店員、見たことないと度肝を抜かれましたね。しかも彼女は広い店内を一人で回しているんです。そこにも驚きました。彼女は僕が勝てない存在の一人です」と、坂井氏は話す。
Yoccoさんがいるだけでお店の雰囲気が変わると言われるほど、Yoccoさんは自然と誰とでも打ち解け、空気感さえも変えてしまう。そんなYoccoさんの明るさが、彼女のファンを増やしていったのだろう。
「ロイヤルホストでは7年くらい勤務していました。その後、お声掛けいただいてイタリアンジェラートの『ドナテロウズ』に転職しました。こちらでは作り手の気持ちを知りたくて、販売のみならず製造も担当しました。その後も様々な経験を通して飲食店経営のノウハウを学び、会長と一緒にLOBROSを立ち上げたのはこの後です」。

・・・続き

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2015年9月10日木曜日

2015年9月9日水曜日

株式会社メティウスフーズ 代表取締役 松澤 俊氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社メティウスフーズ 代表取締役 松澤 俊氏登場。
本文より~

人生を開くカギとなった、「ルクセンブルク」。

「ルクセンブルク」は通称で、ただしくは「ルクセンブルク大公国」という。ドイツとフランス、ベルギに囲まれた小国だ。面積は神奈川県と同規模にすぎず、人口も10分の1に満たない。とはいえ、ヨーロッパのなかでも経済的に恵まれた国で、豊かさは「世界最高水準」と言われているそうだ。
「ルクセンブルクは、移民の国なんだそうです。なかでもドイツ人が多くを占めていましたので、料理はドイツ料理。そう、ソーセージとかです(笑)」。
今回、ご登場いただく松澤 俊氏が、単身「ルクセンブルク」に渡ったのは、氏がまだ21歳の時である。
「母や、世話になったチーフに背中を押された」とのことだが、21歳の青年にとっては、大きな決断である。
滞在はわずか1年だったが、この1年が松澤氏の人生を開く一つのカギになったことは疑いない事実である。
ところで、松澤氏が21と言えば1993年のことである。バブルが崩壊し、日本経済が長いトンネルの入り口にたたずんでいた時である。

「チューバ」を吹きながら、独立を考えた少年時代。

松澤氏が、生まれたのは1972年3月28日。
「生まれは、東京都の杉並区ですが、北海道の『さまに』町でも暮らしていました」と松澤氏。「さまに」は漢字で「様似」と書くそうだ。初めて聞く地名だったので、調べてみると、「日高本線」の終着駅が「様似」駅だった。北海道の「襟裳岬」にある町と言えばイメージが湧くだろうか。
中学生になった松澤氏は、様似ではなく、東京の多摩にいた。そして、「チューバ」を吹いていた。
「チューバ」は、トランペットを大型にしたような金管楽器である。金管楽器のなかでは、もっとも大きいそうだ。この「チューバ」を少年、松澤は、吹いた。チューバ独特の低音が、流れ出す。
「中学生の頃は、吹奏楽に没頭しました。演奏していたのは、チューバ。そう、あのでかい奴です(笑)」。「吹奏楽に没頭した」と松澤氏は言うが、「時折、サッカー部にも顔をだしていた」そうだ。たんなる「気まぐれ」かもしれないが、「音楽」と「スポーツ」の両方に才能があったのは確かである、
ちなみに、松澤氏は中学を卒業後、就職する。そのあたりの理由を知りたくて、「独立志向はその頃からですか?」と質問してみた。中学時代から「独立」を具体的にイメージしていたという経営者とも少なからずお会いしてきたからだ。
「そうですね。私も中学くらいにはもう、『独立しよう』と決めていました。だから、中学を卒業してすぐにはたらくつもりだったんです」。
両親に反対されたそうだが、松澤氏の意志は固かった。中学卒業と同時にはたらき始める。むろん、道はそれほど多くない。飲食は、独立志向の強い松澤氏にとって、格好の選択肢だったはずだ。
就職先は、東京駅八重洲口にある「ホテル龍名館東京」。ちなみに、今も健在で、ミシュランガイドに4年連続(2012 年~2015 年)で掲載されている。外国人にも人気のホテルだという。

「ホテル龍名館東京」から「ルクセンブルク」へ。

「当時、いくつか内定はもらっていたんですが、お断りして、『ホテル龍名館』でお世話になろうと決めました。面接官が料理部門のチーフで、それが決め手になりました。同期は3人。中卒は、むろん私1人。私がもちろん最年少です(笑)」。
中卒。まだ15歳である。しかし、社会はそうはみてくれない。
「そうですね。中卒であろうが、まだ子どもだろうが、就職すれば、ほかの人とおなじ扱いです。ただし、素直な性格が幸いしてか、結構、可愛がっていただけました」。
仕事は朝7時に始まり、深夜1時にまで及んだそうだ。それでも月収は10万にも満たなかった。住み込みでなければやっていけない金額だろう。
「当時は、どこもこんなもんでしょ。比較するだけの知識もなかったし。それに、貯まりはしなかったですが、お金が足りないということもなかった。そもそも、暇もないし、お金を使った遊びなんて、知らないわけですから」。
松澤氏は、「ホテル龍名館東京」で6年間、勤務している。下地のすべてがここでつくられた。6年後、21歳になった松澤氏は、冒頭で書いた「ルクセンブルク」に渡るのだが、そのチャンスを拾ったのも、このホテルのなかだった。
「『龍名館』に勤めていた時ですね。同僚から、『オレの身内が、向こうで日本料理店を経営していて、料理人を探しているから、どうだ?』と誘われたんです。ホテルがイヤだったわけじゃないし、仕事もキライだったわけじゃない。そもそも、海外なんて頭がなかった。でも、母に相談してみたら、めずらしく強い口調で『行きなさい』っていうんです。普段、そういう言い方はしない人なんで、これは何か意味があるのかなと思って。それで、ルクセンブルク行を決意したんです」。
「龍名館」に入社した時、面接官として出会い、その後も世話になったチーフも背中を押してくれた。
「もっとも、同僚の話では『経営している』だったんですが、行ってみたら経営者ではなく、『店長』だったんですが(笑)」。
海の向こう。「ルクセンブルク」での生活がスタートする。

イタリアで食べた、パスタの味。

人気店だった。「ルクセンブルク」で勤務した料理店のことだ。
「日本料理店です。お客様は、日本人だけじゃなく、向こうの人も少なくなかったですね。経済的にも豊かな国ですから、『食』に関心がある方が多かったのでしょう」。
アメリカもそうだが、ヨーロッパ諸国も「チップ」の国である。その点も伺ってみた。「そうですね。チップはスタッフにとって貴重な収入源なんです。私もチップが主な収入源でした(笑)」。
1日3000円~4000円のチップをいただけたそうだ。しかし、それが主な収入源とは、心もとなくなかったのだろうか。
「だいたい、そういう薄給には慣れています(笑)。ちゃんと寝るところはあったし、食事にもお金がかからなかったから、別段、問題はありませんした」。
「おかしかったのは、日本にいた時は洋食部門にいたでしょ。だから、外国の料理をつくっていたわけです。で、こちらに来てからは、日本料理でしょ。向こうの人からすればやはり外国の料理です。食だけではなく、異国の文化を、料理を通して紹介する。そういうミッションを、いつのまにか私が担っていたんです」。
「にもかかわらず、言葉はまったくできなかった。日本人は、店長と私の2人だけ。あとはフィリピン人とかね、そういう人たちだったんです。結局、1年いて、相手にギリギリ伝わるかどうかくらいまでしか上達しませんでした(笑)」。 すでに書いた通り、「ルクセンブルク」での料理は主に、ドイツ料理である。
「ドイツ料理はどうも旨いとは思わなかった。でも、イタリアに寄った際に、食べた一皿のパスタ、アレにすっかり参ってしまって。当時、日本にもスパゲティはありましたよ。でも、日本のとは、ぜんぜん違ったんです」。

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ダイヤモンドダイニング東証一部上場&熱狂宣言出版記念パーティー。

 ダイヤモンドダイニング東証一部上場&熱狂宣言出版記念パーティーに松村社長より招待頂きました。
620人の出席者松村社長を支える盟友も檀上でのコメントなど最後まで感動的なパーティでした。
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2015年9月1日火曜日

センゴクダイニング株式会社 代表取締役 鵜山康宏氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”センゴクダイニング株式会社 代表取締役 鵜山康宏氏登場。
本文より~

館山に生まれた少年の話。

鵜山氏が生まれたのは、1981年10月18日。房総半島の突端にちかい千葉県館山市が、生まれ故郷であり、氏のホームグラウンドである。
「父も、祖父も、叔父もみんな大工。鵜山家は、大工の家系なんです」。
父母と姉との4人暮らし。
「家では、親父の天下です。母にも手をあげたもんですから、ぼくら姉弟は父を嫌っていました。父が帰ってくると、家のなかが急に落ち着かなくなるんです。早く帰ってきて欲しくないのに、大工でしょ。暗くなったら仕事ができないから、毎晩早く帰ってくるんです」。
鵜山氏の両親が結婚したのは、父が21歳、母が20歳の時である。長男の鵜山氏が生まれた時も、まだまだ「若い」と言われる年齢である。
「若かったこともあったんでしょうね。とにかく、あの頃の父は短気でした。金銭的には、それほど恵まれたほうじゃなかった。ファミコンは持っていますが、スーパーファミコンはついに買ってもらえなかった(笑)。もちろん、館山は海もあれば、山もある。ゲームより楽しいことは一杯ありましたから、スーパーファミコンがなくてもぜんぜん問題なしだったんですが」。

やんちゃ坊主たちの青春。

「小学校からサッカーをはじめ、中学卒業までつづけました。ずっと副キャプテンです。サッカーはチームのなかでもいちばん巧かったんじゃないかな。当時の目標はサッカー選手でした」。
それがいつしか、『学校の先生』という現実的な目標となる。
ただし、当時の鵜山氏にとっては、「学校の先生」も現実的な目標とは言いにくい。破天荒な学生生活が、それを物語っている。
「とにかく、私たちの時代はやんちゃ坊主が多かった。当時は、やんちゃでフツーだったんです」。
私自身は不良のつもりも全くなかったんですが…電車の中でタバコ吸うのも、授業中にトランプで賭けをやったりするのも普通でした。万引きで捕まってみたり、喧嘩で無期停学になってみたり、ユンボー運転して捕まったり(笑)悪い事をしてると言うより面白いことをしてる感覚でしたね。
ただの中途半端な小僧って感じで、もっともっと酷い友達は沢山いましたが…」。
ある事柄がきっかけで、このまま地元にいたら絶対に駄目だ、と地元を出ることを決意する。俺は成功できる。その想いだけで、進学も就職も決まらず東京に出ることにしたのである。

雇われない生きかた。

「改心した」と鵜山氏は言う。言葉通り、当時鵜山氏は鎌ヶ谷に引っ越し、家賃4万円のボロボロの家で人生の再スタートを切る。生活を支えるためバイトをしつつ、将来ともちゃんと向き合った。
「看護師」をめざしたのも、将来を考えてのことだった。半年、勉強しただけで願書を出したすべての学校に合格。もともと頭も良かったのだろう。そのなかから「神奈川県立衛生看護専門学校」を選択し入学した。
「だけど、4ヵ月しか通わなかった」という。「4ヵ月しか通えなかった」というほうが正しいかもしれない。性格的に我慢できなかったのである。
その性格に、ジブンながら途方に暮れた。「その時ですね。人に雇われるのは辞めよう、と。人の言うことを聞くことがでない性格だと心底わかったからです」。
半年、勉強して入学した専門学校を早々と退学した。苦労して入学したことよりも、将来に思いをはせ、決めた道からすぐに離脱したことが心に影を落としたのではないか。だが、それは己と素直な心で向き合うきっかけにもなったはずだ。だから、「生きかた」を決めるきっかけともなったのである。
この後20歳の時、鵜山氏は生涯の恩師に出会い、勉強をしながら自営業で営業代行業を開始する。
「この人と出会わなければ俺の人生はどうなっていたものか…」。
ビジネスは順調に進み、稼げない月でも同年代の給料の5倍、多い時には10倍を稼ぎ出すようになる。
「当時は、金銭感覚も麻痺していました。駅前のタワーマンションに住み、どこにいってもチヤホヤされ、無敵だと思っていました。その時稼いだお金で23歳でエステサロン、24歳でオーダースーツ屋をオープン。そして25歳で飲食業を本業として生きていくきっかけになった中目黒の「bar LEGEND」をオープンしました。もはや何屋なんだろうって感じですよね(笑)20代前半で稼いだ事により調子に乗りましたね。なんでも成功するって勘違いしてました」。
結局失敗し、エステサロンは親友に買い取ってもらい、スーツ屋は閉店。でも大好きな飲食店だけは辞められなかったそうだ。

・・・続き
センゴクダイニング株式会社 代表取締役 鵜山康宏氏
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