2015年3月31日火曜日

株式会社サンマーフィー 代表取締役 鈴木 博氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社サンマーフィー 代表取締役 鈴木 博氏場。
本文より~

バスケットボールと少年、鈴木。

茨城県取手市は、千葉県とほぼ隣接している。地図で観れば、利根川を越えることで、県を行き来できそうな位置関係にあった。
鈴木博氏が、この取手市に生まれたのは1967年7月13日。ご両親は米農家をされていた。「兄の影響で小学5年生からバスケットを始めるんですが、それまでは目立たない少年だったと思います」と鈴木氏。
4年生の時。鈴木家は、同じ取手市だが、市内より田舎のほうに引っ越すことになった。1学年、1クラス。少人数の学校だったことも、多少は影響しているかもしれない。バスケットボールを始め、氏の性格は、いっそう明るくなっていった。
バスケットボールで頭角を現した鈴木氏は、クラスでも、学校でも否応なく目立った存在になった。競争意識もこの頃から高まったそうだ。
生徒数の多い中学に進学してからもバスケットボールを続けた。「いったん野球部に入るんですが、兄がキャプテンだったもんですから、『こっちにこい』と(笑)。それでまた、バスケを始めることになるんです」。
当時からバスケットボールは人気のスポーツの一つで、1学年に50人くらいの部員がいたそうだ。そのなかで鈴木氏は1年の終わりにはレギュラーに抜擢されている。ついでに言うと、足も速かったそうだ。とくに長距離。学校代表で、駅伝に出場したこともある。
「兄貴は、私よりもっとスピードがあった。バスケも巧かったし…」。
鈴木氏の話を聞いていると、よく「兄」という言葉がでてきた。「もっとも影響を受けた1人であり、兄の背中を追っかけてきたと言ってもいいくらいですね」と言って笑う。たしかに、鈴木氏にとって「兄」は特別な存在だったようだ。
兄がやれば、弟の鈴木氏もやる。兄が進む道は、鈴木氏の進む道でもあった。ところが、高校は、別々の学校に進んだ。「兄は、県でも有名なバスケットボールの強豪校に進学します。しかし、練習がきつく、夜も遅いんです。そんな兄を観ていて『これは、たいへんだな』と。それで私は、無名の学校に進学しました」。
バスケは好きだったが、兄と違って、もっと楽にという思いがあったのだろう。しかし…、バスケの神は、そう簡単に鈴木氏を手放さなかった。

最強教師、赴任。クラブ活動がいっぺんする。

「無名高校の生徒だったんですが、私は県の代表にも選ばれます。私の時には、無理でしたが、のちに県南の大会で優勝するチームになるんです」。
楽をするはずだったのではないか? どういうことだろう。
「高校2年の時です。全国大会でも優勝の常連校の顧問がうちの高校に赴任します。当然、うちの部を指導することになって。緩かった空気がいっぺんしました。生徒たちも、できるかどうかは別にして、『全国優勝』を意識するようになっていきました」。
「リーダーが替わるだけで、こうも全体がかわるのか」と鈴木氏は驚いたに違いない。
「店長がかわれば、店全体がかわる」と信念を持って語る背景には、この時の体験も少なからずはベースになっているはずだ。
「先生からは基本的なことをおろそかにせず、基本的なことが着実にできるようになりなさいと指導されました」。
こちらの発想も、いまに生きている。いい先生との出会いだった。「やればできる」という自信もまた植え付けられたのではないだろうか。バスケットボールも一段と巧くなった。プロを意識したこともなくはない。
「大学進学も考えたんですが、親に反対されて。膝がもうボロボロだったんです。そういう私のからだを気遣ってくれたんだと思うんですが、とにかく反対され、それで、就職。兄貴の後をもう一度、追いかけはじめました」。

・・・続き

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あぺたいと様、30日放映の日テレ系『有吉ゼミ』に出ましたね。

30日放映の日テレ系『有吉ゼミ』にあぺたいと様、出られましたね。
現在、『なんでんかんでん』のラーメンを提供されています。
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2015年3月30日月曜日

営業未経験者がほんと頑張ってくれています。

キイストンは
正社員は営業未経験者を採用します。
アルバイトは好奇心&向上心ある学生を採用します。

やはり未経験でも若い奴らはスゴいです。

ちょっと教えただけで、コツつかむと早い早い。
やはり経験よりも素直が一番!!
また、学生時代なにかに打ち込んだ体験持った人材は宝ですね。

いろんな人材入社しましたが、
屁理屈だらけの固定概念強い人材、
少なくても私はこりごりです(笑)

2015年3月28日土曜日

3月27日発行の夕刊フジ・波乱万丈起業家列伝は、「立ち呑み“晩杯屋”(アクティブソース)」の金子源社長登場。

3月27日発行の夕刊フジ“波乱万丈起業家列伝(細見連載中)”は立ち呑み“晩杯屋”の「アクティブソース」の金子源社長を取り上げさせて頂きました。

夕刊フジの『波乱万丈起業家列伝』ですが、3月末で一旦連載終了します。
約1年半、計75社の飲食経営者を取り上げさせて頂きました。
誠にありがとうございました。
現在、次の展開考えております。
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2015年3月24日火曜日

株式会社アクティブソース 代表取締役 金子 源氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社アクティブソース 代表取締役 金子 源氏場。
本文より~

お金を払えず、幼稚園、中退。

金子源は、1976年8月5日 群馬県新里村(現、桐生市)に生まれている。兄弟は7人で、金子は下から2番目。子沢山の両親は鉄工所を経営していたが、オイルショックで会社を解散。金子が物心ついた頃には、「赤貧」という言葉がぴったりな生活だったそうだ。
住まいは、プレハブ小屋。風呂はもちろん薪で炊き、便所も、俗にいう「ボットン便所」である。アウトドアで楽しむならいいが、いうまでもなく我が家である。電気やガス、水道は通っていたが、それも数ヵ月に一度、止められた。「水道を止められても、メーター横の蛇口を開けたら水は出るんです。でも、何度も繰り返すと今度はメーターを外される。そうするともう水はでない。で、今度はどうすると思います? 地面を掘ってバイパスでつなぐんです」。まさにサバイバルだ。
「私は、幼稚園を中退しているんです」と金子は勲章であるかのように言って笑う。代わりに小さな頃から畑仕事や、父が解散後も細々と続けていた鉄工所の仕事を手伝った。当時、ファミリーコンピューターが流行っていたが、金子がコントローラーを手にしたのは「2~3回だけだ」と言う。それでも、すねた様子はない。将来の目標は何でした?と伺うと、「金持ちになること」とためらいのない声が飛んできた。

天才、かもしれない。

中学に上がっても生活はかわらなかった。代わりに、新たな勲章ができた。勉強がやたらできたのである。「勉強はする暇もないし、実際、全然しなかったんですが、テストの結果はつねに学年5位以内。通知簿はオール『5』でした」。周りは、天才かもしれないと思ったはずだ。
それでも父親の手伝いは続いたし、畑仕事も続いた。「しいたけ」のバイトにも精をだした。時給換算すれば200円にもならない時もあったが、それも貴重な収入源だった。たしかに勉強をしている暇はない。
ともかく、金子の話を聞いているとたくましい生活力を持った少年像が浮かび上がる。
生活力があり、成績優秀な金子少年は、県内でも有数の進学校に進み、「いずれ東大へ」というレールに乗ることになる。

めざすは、東京大学。

クラスの半数が東大をめざすような学校だったから、当然、金子もそう思っていた。「でも、高1まで」と笑う。「上には上がいることを初めて知った」のもこの時だそうだ。
「それで、楽しくやろうと思って」。とある本にも影響を受けたそうだ。「遊びまくって、予備校に行くって内容で、純粋にそうかと思って実践しました(笑)。高校卒業後、きっちり新聞配達の奨学生となって予備校に行くんですが、こちらでも遊びまくり。結局、東大はおろか、大学進学もあきらめなければならなくなりました」。
大学進学を断念したのは、「パイロットになろうと思った」ことも関係する。しかし、パイロットになるための倍率は大学進学よりきびしい。4900人が受験して、合格するのは70人。つまり70倍の狭き門。
「これが、なんと合格するんです。でも、入隊の直前、新聞配達の最中に事故に合い足首を粉砕骨折。夜行列車で山口まで行き入隊検査は受けたんですが、最終関門でアウト(笑)」。
次年度も果敢に狙おうとしたが、年齢制限に引っかかってしまったそう。
「それで、もう一度、予備校に行きましたが、7月に一般隊員として海上自衛隊に入隊しました。海上に思いを馳せたんですが、私が配属されたのは市ヶ谷。オペレーターという仕事ですが、まぁ、雑用係のようなもんです。なんだか、ガッカリでしょ」。
一時は、東大に入学し、エリートコースに乗るはずだったが、いつの間にか片隅に追いやられた感じである。市ヶ谷の次には、六本木の防衛庁に異動。24時間勤務し、開け休みもいれて3日間休み。「手取りは12~13万円。休みが多いから全部、飲み代で消えてしまいます。昇級試験も受けたんですが、勤務態度が悪かったからか、全然通らない。そのうち、鹿児島にある喜界島に異動になるんです」。「なんにもないところで。できることといったら飲むぐらいですね」。その喜界島で、自衛隊を退職を決意することになる。

・・・続き

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2015年3月20日金曜日

3月20日発行の夕刊フジ・波乱万丈起業家列伝は、「ブルームダイニングサービス」の加藤弘康社長登場。

3月20日発行の夕刊フジ“波乱万丈起業家列伝(細見連載中)”は「ブルームダイニングサービス」の加藤弘康社長を取り上げさせて頂きました。
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はなまるうどんが3月20日発売する現役大学生と一緒に共同開発した商品の試食会!!

3月20日より、はなまるうどん 御茶ノ水明大通り店、赤坂一ツ木通り店、秋葉原昭和通り店で販売されます。
その前日、『みんレポ未来会議 修了式』兼ね新商品の試食会でした。
協力: 株式会社ドコモ・インサイトマーケティングが提供するみんレポ未来会議』

3月20日、現役大学生×はなまるうどんコラボメニュー発売決定!


はなまる

2015年3月19日木曜日

2015年3月17日火曜日

いよいよ動き出すぞ!

『飲食の戦士たち』も夏には500社掲載達成します(取材29社すでに取材済み)。
『飲食の戦士たち 英語バージョン』もコツコツ作成しました。
『キイストン書籍プロデュース』(求人サポートツールの一つ)も5月までに計5冊完成予定です。
『採用PR動画』(求人サポートツールの一つ)8社進行中。

さあ、次の求人体制の準備は整いました。

いよいよ飲食企業様に
本当に喜んでもらえる時が来ました!

4月からのスタート出来る様に着々と下準備を急ごう。



株式会社泰斗 代表取締役 浅井航一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社泰斗 代表取締役 浅井航一氏場。
本文より~

転校回数、11回。

山口県で生まれ、佐賀県で育った。「転校が日常だった」と今回、ご登場いただく浅井氏は語る。転校回数はなんと11回。「父が航空自衛隊のパイロットだったんです。父の転勤に合わせて、私たち子どもも一緒に転校です。おかげで、物おじせず、誰とでもすぐに打ち解け合えるようになったんだと思います(笑)」。ちなみに、長女は30回という記録を持っているそうだ。
とにかく転勤が多い。そんな父を浅井氏はどういう風に見詰めていたんだろう。「父親のことは尊敬していましたが、私は父親のようになりたくないと思っていました。会社勤めというより、小さな頃から独立して商売をしようと思っていたんです」。

中央大学進学。

浅井氏は、二年浪人して中央大学に進学する。大学時代はアルバイトと麻雀に明け暮れた。それでもなんとか4年で卒業することができた。案外、要領が良かったのだろう。
「学校に行くのは、試験の時だけ。頭のいい奴をみつけて、『わりぃ』って言って答案を見せてもらいました。卒業できたのは彼らのおかげです(笑)。ただ、貿易には関心があって、その勉強だけはしていました」。
「実は、大学進学もいったん断念しようと思っていた時期があったんです。進学はやめてカナダに行こうと。『カナダで農業体験』という国のプログラムに参加して。でも、両親の反対もあって、結局、断念しました。そのことからも分かるように、元々海外志向が強かったんです。就職も、海外を意識し、貿易会社1本に絞りました」。

就職試験、軽々合格のはずが。

「合格間違いなしと人事の担当者から太鼓判を押されていた」という。就職試験の話である。そう言われていたものの、いくら待ってもなしのつぶて。思い切ってこちらから連絡すると、「う~ん、申し訳ない」との返事が返ってきた。担当の甘い言葉もあったのだろう。元々、これだと思えば、ほかに目を向けないタイプだったのかもしれない。しかし、絞っていた1本の糸が、切れた。
「あわてて、学生時代にアルバイトをしていた時の先輩に紹介してもらって、あるメーカー系商社に就職します。それが、私の社会人、第一歩です。この会社では、いろんなことを勉強させてもらいました。部署も転々とし、最終的には営業もやりました」。その会社で奥さまと知り合い、結婚。通常なら、退職という選択肢はないはずだが、浅井氏は4年で退職してしまう。

佐川急便。荷物を持って、走る、走る。

「退職したのはいいんだけど、子どもも生まれることになって。とにかく職がないし、お金もない。それでなんとか出産の費用くらいはと思って、佐川急便です(笑)」。
「月50万円」。それが当時の佐川急便のキャチフレーズだった。朝から晩まで勤務して、とにかく50万。浅井氏は佐川急便で、「はたらくという意味を知った」と語っている。とにかく、はたらいた。荷物を持てば走り出す。そうしないと、終わらないからだ。走りつづけて1年。なんとか、出産費用も、生活していける資金も貯まった。それで、退職する。多少、金は貯まったが、むろん無職のままではいられない。前職の部長に、ある会社を紹介してもらう。「飲食店だが、それでもいいか?」の一言に浅井氏は、頷いた。それが「大戸屋」との出会いだった。

・・・・続き


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2015年3月12日木曜日

株式会社MGホールディングス 代表取締役社長兼CEO 松野克成氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社MGホールディングス 代表取締役社長兼CEO 松野克成氏場。
本文より~

高校までの松野少年の話。

松野の父は日本を代表する大手家電メーカーで部長職を務められていたそうだ。「海外勤務ばかりで、日本にいるのはそう多くなかった」という。「厳しい人で、私たちは男ばかりの4人兄弟なんですが、兄弟喧嘩をしようものなら、全員、父親にベルトで叩かれました(笑)」。
怖い父だが、もちろん自慢の父でもあった。「親父は中卒なんです。中卒なのに、家電メーカーの部長まで登り詰めた人です。ほんとうは、もっと上までいけるんだけれど『学歴がないから、部長止まり』と言っていました」。自宅から会社に行く時は、決まって自転車。雨の日も、雪の日も、それで通われていたそうだ。
むろん、家計は苦しくない。祖父がアパートを経営していて、そちらに住んでいたから尚更だ。とはいえ「昔のアパートでしょ。すきま風が吹いて、寒かった」と松野は笑う。
何度も日本と海外を行き来し、部長にまで昇格したエネルギッシュな父だったが、ある会議の前に突然、心不全で倒れ、亡くなってしまった。
松野、16歳。父はまだ52歳だった。
「突然、親父を亡くしたわけです。母親も心の整理がつかなかったのでしょう。何年も泣きつづけていました。私たち兄弟はそれぞれ『なんとかしなけりゃ』と思って、私もすぐに『退学を』と考えました。でも、親父が学歴で苦労していたでしょ。だから母親が、『せめて高校は卒業して』と。それで、奨学金を受けてなんとか卒業することができたんです」。
学業にもちゃんと向き合ったし、クラブ活動にも手を抜かなかった。「中学では野球をやっていたんです。でも、高校ではサッカー。最初はリフティング一つできなかったんですけどね」と笑う。
ただ、負けずキライでもある。すぐにどこかに飛んでいってしまうボールを何度でも拾いつづけた。ジブンだけではなく、同じ未経験たちを募り、一緒になってトライした。「そしてみんなで、県大会に出場するまでになったんです」と松野は誇らしげに言う。
これは、高校時代の一つの勲章。
「努力は、報われる」。松野は、そう心に焼き付けたに違いない。

独立したばかりのラーメン店で、修業開始。

「もともと独立しようと思っていたんです。それに、父を亡くしてからは貧乏だったわけで、母への仕送りと、兄弟の生活費を考えたら『月に100万円はいるな』と計算したんです。『月100万円』、独立するしかないでしょ」。
しかし、急ぎはしなかった。「住まいの近くのラーメン店に転がり込みます。『修業をさせてくれ』と。最初は、断られました。オープンしたばかりだったし、正直、お客様も入っていなかったから(笑)。でも、『無給でもいいから。ラーメンだけ食べさせてくれたら、それでいいから』と言って雇っていただいたんです」。
「全然、ダメでした。私じゃなく、店のことです。スタッフは、店主と店主の奥さん、そして私の3人です。それで、日商4~5万円。いくら全員無給で、人件費はかからないと言っても、さすがに4~5万だときつかったと思いますよ」。ただ、店主も若く、松野はそれ以上に若かった。2人して熱心に味を改善した。
数年経った時には、店の前には列ができていた。「味が、良くなったんです。それだけで、最初の頃の数倍の月商を達成したんです。当時の月商は700万円です。毎日、列ができていた証拠です。お客様が来ない時に、店主も、私も相当、研究しました。この体験が、私の強みともなっていくんです」。ラーメン店、1店舗で月商700万円。相当な売上である。
もっとも松野の給料は、月商700万円の時でも20万円弱。そのなかから母に12万円くらいを渡していた。給料は少なかったが、今も店主には感謝している。勤務したのは計4年。店主とともに、最高の一杯を追いかけた日々だった。

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2015年3月11日水曜日

『はなまるうどん』が現役大学生と一緒に共同開発した商品がついに3月20日発売決定!!

3月20日、現役大学生×はなまるうどんコラボメニュー発売決定!

 だし香る海鮮親子茶漬け    
だし香る海鮮親子茶漬け(うどん付)
鍋焼きチーズカレーうどん     
牛肉鍋焼きチーズカレーうどん


商品になるまでの道のり
株式会社はなまる 本社に約60人の学生が集まり『現役学生が考える夢のうどんメニュー』を考える第5回みんレポ未来会議を開催しました。
“夢のうどんメニュー”を考えてもらった現役大学生の方々に
再度株式会社はなまる 本社に集まり商品化に向けて企画会議実施。
学生の生み出したアイデアが形になる試食会。





さあ、商品化本番直前の最終試食会で皆納得のメニュー完成!!


はなまる