2017年8月31日木曜日

文京学院大学よりインターンシップ来てくれています。

8月21日(月)から2週間のインターンシップで、
文京学院大学より3人のインターン生(大学2年生)が来てくれてます。
初めての営業体験をしてもらうため
弊社では“飲食の戦士たち”の社長取材を取るところから
スタートしもらいます。

まずは自らリストアップし、
自分が調べた企業様に対しての取材依頼の電話
慣れない学生には、
かなり大変でつらいと思います。

もちろん苦戦していますが、
1社の社長取材を取ることで大きく変わります。

インターンを通じて、
仕事の大変さと同時に営業のおもしろさがわかり、
自信付けて学業に戻ってくれれば本望です。
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2017年8月29日火曜日

8月29日発行の日刊ゲンダイに「梅の花サービス東日本」吉田訓社長の記事が掲載されました。

8月29日発行の日刊ゲンダイ『社長の私生活』に、「株式会社梅の花サービス東日本」吉田訓社長の記事が掲載されました。
(日刊ゲンダイより)

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すかいらーく創業者の株式会社高倉町珈琲 代表取締役会長 横川 竟氏登場。

本文より~

大陸の大草原。

「横川四兄弟」と言われている。「すかいらーく」の創業者である四人兄弟のことをそう言う。今回、ご登場いただいたのは、三男の横川竟氏。兄弟のなかでも、創業時に果たした役割はもっとも大きい。
「兄たちは頭のできもよくて、弟もよかったもんだから、ぼくばかりが目立っちゃった」と竟氏。勉強がキライで、中学を卒業すると同時に上京し、就職する。
「ぼくは3歳から6歳まで大陸で暮らしていました」。
竟氏が大陸というのは中国・満州のことで、竟氏が暮らしたのはロシアとの国境ちかくの町。山もなく、どこまで行っても平原。「360度、地平線が広がっているんです。そんな大草原のなかで、羊や山羊や豚といっしょに暮らしていました」。
竟氏が大陸に渡ったのは、教育者でもあった父親が「横川中隊」という開拓団をつくり、大陸に渡ったからだ。しかし、竟氏が6歳の時、父親が亡くなり、両親の故郷である長野にもどる。勉強がキライというのは、帰国してからの話である。
「勉強はしませんが、仕事はしました。小学3年生から新聞配達をはじめ、そのお金で山羊や兎や鶏、一時期は牛も飼っていました。学校から帰って新聞を配ります。配り終えてから、今度は餌を積んで帰宅する。時間は、もう夜8時です」。
冬になれば、気温はマイナス7度。部屋に飾った花は、一晩で凍った。「ぼくは、中学を卒業してから上京して、東京の築地で仕事をするんですが、ぜんぜん苦じゃなかった。それまでと比べれば、白ご飯を腹いっぱい食べられるだけで、天国だったんです」。

1970年、1号店オープン。

採用の条件は、朝・昼・晩、従業員全員の飯をつくることだった。「独立するつもりだからね。食品は倒産する確率の低い商売だと思ったから、それを勉強するために築地に行ったんです。中卒で、学歴もないわけでしょ。できることも限られている。しかも、まだ小僧です」。
「ずっとオヤジの顔色をうかがっていた」と竟氏は言う。追い出されたらどこにも行くところがないとわかっていたからだ。言われたことは素直に吸収した。箸の上げ下げから、教えられたそうだ。「キホンの『キ』ですね。商売の原理・原則。そういうのもすべて叩き込んでいただきました」。
そういう意味では「すかいらーく」の源流は、築地にあると言っていい。
「私たち兄弟が、はじめて店を出したのは1962年、私が24歳の時です」。
4年間、築地で学んだ知識を総動員し、兄弟3人を集め、起業する。薄給のなかから、月々、貯めたお金が元手になる。店名は「ことぶき食品」。現在、すかいらーくのHPには、小さなひもの食品店とあるが、竟氏に言わせれば、いまのコンビニのリッチ版ということだ。オープンから、大量に客が押し寄せた。
「私たちは、ダイエーを追いかけていたんですが、スーパーには勝てなかった。それがわかったから、1970年に今度は飲食で勝負しようと、すかいらーくの1号店、国立店(府中市)をオープンするんです」。
1970年といえば、大阪で万国博覧会が開催された年である。ちなみに翌1971年には、銀座に日本マクドナルドの1号店が誕生している。
「なぜレストランだったかといえば、ビジネスとしていちばん遅れていたからです」。キャバレーか、レストランか、最終的にはこの2つの選択肢が残ったそうだ。「それで、キャバレーはちょっとなっていうことで、レストランになったんです(笑)」。
「当時から日本一を目指されていたんですか」と伺うと、首をふり「それは違う。日本一になるために、遅れていたレストランビジネスに的を絞って打って出たんです」と、こちらを諭すように語る。レストランビジネスを選択した時点で、竟氏のなかでは、すでに「日本一」が既定路線だったのかもしれない。
ともかく、それが「すかいらーく」の始まりである。

日本一、うまいハンバーグ。

「すかいらーくが、大ヒットしたのは、簡単です。アメリカのシステムを採り入れたジャパニーズレストランだったからです」。
レストランのメイン料理はハンバーグ。
「日本一おいしいハンバーグをつくろうってね。みんなでがんばったんです。いまの人は、うそだと思うでしょうが、当時、スーパーに並んでいるハンバーグの中身は、ウサギやウマの合いびき肉です。そういうのが主流の時代に、うちは、ちゃんとした豚と牛の合いびき肉でハンバーグをつくりました。しかも、380円です。ホテルの有名シェフを口説き落として、最高のソースもつくりあげ、メニューの幅も広げました。お客様が来ない方がおかしいでしょ」。
「1日1000人は来た」と竟氏はいう。
「用意しておいたランチが、15分でなくなちゃう。うちは11時からオープンするんですが、11時30分からランチのお客様でごったがえすんです。お客様らからすれば、早くいかないとランチがなくなっちゃうから」。
大げさな話ではない。当時、ファミリーレストランは子どもたちの憧れだった。休日になれば、ファミリーが大挙して押しかけオープン前から列をつくった。
「お金がなかったから、たんぼのなかにつくった」と竟氏は言うが、モータリゼーションを見越した戦略だったに違いない。広い駐車場を設けたレストランは、ファミリーレストランとも言われ、巨大なマーケットをつくり、自らそのマーケットを押し広げた。
「日本一の300店になったのは、昭和56年です。それまで赤字店はゼロです」と竟氏は胸を張る。
「すかいらーくが成長できた最大の要因を探ろうと思えば、昭和48年までさかのぼらなければなりません。当時、オイルショックでインフレが起こり、景気は逆に落ち込んでいた。その時、すかいらーくは『5年間、価格を上げない』と宣言します。人件費だけで18%上がる時代です。価格に転嫁しないとやっていけない。それでも、すかいらーくは380円のまま。しかも、味も一切、落とさなかった。それが評価されました。いうならば、これがすかいらーくの流儀です」。
お客様のため。
それが原点であり、商売の原理、原則である。
「私の好きな本田宗一郎さんは、汗をかきながら自転車を漕ぐ人をみて、カブをつくりました。私も、商売はそうあるべきだと思うんです」。
・・・続き

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2017年8月24日木曜日

朝日。

部屋からの朝日です!
1日のスタート。
朝からパワーもらってます。

2017年8月23日水曜日

新人N、Q目標(7〜9月)個人達成!

5月末に採用したNが、頭角を表してきました。
それもあり、計画通り新たに1人営業マンを増員します。

いくら経験あっても、営業資質の無い人材採用するとお互い不幸になります。
ダイヤモンドの原石と出会うため、前回はDODA、そして今回はマイナビ転職にてオプション等入れ200万ほどかける様です。

おかげで、その分経費節約でタクシーにも乗れず毎日1万3,000〜1万5,000歩歩いてます…(涙)
マイナビ転職 撮影風景
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2017年8月22日火曜日

株式会社丸道 代表取締役 丸山 忠氏登場。

本文より~

東京、あきる野市、生まれ。

丸山氏は1973年8月31日、秋川(現、あきる野)市に生まれる。父親は車関連の部品を製作する「丸山製作所」を経営。規模は小さいが、F1カーの部品も手がけた職人集団だ。
ところで、あきる野市といえば「東京サマーランド」が思い浮かぶ。その話をすると「そうですね、俺らの小さい頃からあったと思います。割引券とかもらって通っていましたから」と丸山氏。小さい頃を思いだすように目を細めた。
「親父は会社を経営する一方で、民謡の先生もしていました。お袋は踊りの先生です。俺もガキの頃から民謡を習っていました。子どもが民謡を歌うなんて珍しいでしょ。だから、じいさんやばあさんたちが、お小遣いをくれたりしてね。まだ、俺も可愛かったんでしょうね(笑)」。
小学校では空手。中学ではテニス。運動神経は良かったが、成績は体育と家庭科以外は、オール1。高校は2つ受けたが、2つとも落ち、結局、調理師の専門学校に進む。
「勉強がイヤというか、やる意味が見いだせなかったんですね。当時は、他校との抗争に追われていて、勉強どころじゃなかったのが、正直な話です」。
専門学校に進学してからは、暴走族にも入り、走り回った。警察に追いかけられたことは1度や2度ではないし、捕まったこともなくはないが、不思議なことに、免許は没収されなかった。
それだけ運転が巧かった証でもある。つまり、逃げ切ったわけだ。
盗んだバイクは、100台以上。
「いまは知りませんが、直結すれば取り放題です。自転車のカギはもっと簡単で、傘のポッチで、すぐに開けることができました」。なんでも、「足がいるなと思ったら、ちかくにあるバイクや自転車を物色し、カギを開けた」そうだ。

はたからすれば迷惑千万な話であるが、本人たちからすれば、至って、当然のことだった。

17歳の、金髪の少年がやってくる。

「調理師学校でも中学時代同様、授業に出てなくって、日数が足りなかったので、俺が卒業したのは、みんなより2ヵ月遅れの6月です。4月からの2ヵ月間、猶予をくれたんですね。代わりに、遅刻も欠席も許さないと。だから、調理師免許をいただくために、さすがにまじめに通いました」。2ヵ月間は、休まず通ったそうだが、それでも生活の中心は「仲間とバイクで走る」ことだった。
「卒業して『道とん堀』に就職するわけですが、なぜ『道とん堀』だったかというと、勤務時間が17時から22時だったんですね。それで、これなら朝までバイクに乗れるな、と。で、17時まで寝ていればいいと。こいつは最高だと思って(笑)」。
「17歳の選択なんてそんなもんだ」と笑う人もいるし、丸山氏も、たしかにそうだと頷くはずだが、1人だけ、人とは異なる思いで丸山氏をみていた人物がいた。「道とん堀」の社長だった。
「道とん堀」の社長は、17歳の、金髪少年を受け入れた。誰もつづかないと思ったが、社長は「あいつなら」と思ったそうだ。社長は、金髪の少年に賭け、その賭けは大きな宝をもたらすことになる。
ともかく、金髪の少年は、意外にも、素直で、まじめだった。
「寝ることもできたし、遊ぶこともできたわけで、俺にとっちゃ天国ですよね」。いまでは300店ちかくある「道とん堀」だが、当時はまだ2店舗。創業時である。「それで3店舗目の時、18歳で店長に大抜擢です。ただ俺が抜擢されたのは、俺しかいなかったから。入社して2年目でも、古株の1人だったんです。それから、更に1年経って、本部勤務を開始します。本部といっても、まだ6~7店舗しかない時だから、ちっちゃいです。フランチャイズを始めることになって、俺がその陣頭指揮を執ることになったんです」。

「FC。なんじゃそれ」が、メガフランチャイジーの始まり。

最初、フランチャイズと聞いて「なんじゃそれ」と思ったそうだ。「しくみもわかりませんが、とにかく、社長の言う通りやりゃいいと思って。FC1号店は、あきる野市にオープンしました。あきる野市の、お偉いさんがオーナーだったんです」。
コピー紙に文字を綴り、写真を貼り、レシピを解説した。マニュアルも手作り。もっとも丸山氏が乗り込んで陣頭指揮を執るのだから、マニュアルもあってないようなもんだった。そろそろ暴走族も引退かと思っていた時期だから、タイミングも良かった。朝から晩まで指揮を執りつづけた。
店は、既存の「道とん堀」同様、快調にスタートする。
そんなある日のこと。
「オーナーさんにも感謝してもらって。とてもいい仲になれたんですが、ある日、オーナーがPLをみせてくれて。今度は、『なんじゃこれ』ってなって(笑)」。
「朝から晩まで指揮を執る俺の給料が20万円で、なんにもしないオーナーの取り分が10倍の200万円。それをみて、俺は社長になるって決めたんです」。
・・・続き

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2017年8月21日月曜日

横浜に引っ越ししました。

品川から横浜に引っ越しし横浜人になりました!!
東京来て29年なりますが、初めての神奈川、初めても横浜ですが、
生活しやすさにビックリしています。

また、ゆったりした気分になり、パワー充電できますね。
バリバリ、仕事と生活のメリハリつく環境整いました!!

35年の時を超え、オーバーホールし蘇らせました!!

大学入学祝いにと
昨年他界した父親に買ってもらった
SEIKOのダイバーズウォッチを
引っ越しで荷物整理してたら偶然見つけました。

確か81年か82年製なんであれからもう35~36年、
社会人になって最初はたぶん付けてたと記憶してますが
ほぼ使ってませんでしたから
電池の液漏れ含めねじも劣化して使えないと思ってました。

SEIKOの有楽町に修理・サポートの相談室を見つけ持っていき
みごとオーバーホールし蘇らせました!!
買ってもらった時、鮮明に想い出します。
でも初めて知りました、これ女性用のボーイズサイズって・・・・・(笑)

2017年8月8日火曜日

株式会社グルメブランズカンパニー 代表取締役社長 石井克二氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社グルメブランズカンパニー 代表取締役社長 石井克二氏登場。
本文より~

野球、水泳、そしてボート。

東京、札幌、門司、広島、東京。今回ご登場いただく、株式会社グルメブランズカンパニーの社長 石井克二氏の足跡をトレースすれば4つの街が登場する。
小学6年生になるまで過ごした東京。小学6年生から高校1年まで暮らした札幌。大学に進学するまで生活した北九州市門司。そして大学4年を過ごした広島。
「父の仕事の関係です。父はサッポロビールで勤務していました。東京から札幌、門司と転々としました。中学までは野球。高校では水泳、大学ではボート部です」。
街がかわるたびに、スポーツも異なった。「大学ではもう気楽なサークルでいいと思っていたんです。ところがボート部の勧誘にコロリとだまされてしまって」。
「夏休みも、冬休みもある」が誘い文句だった。「それならサークルよりいいかって入部したんですが、入ってみれば休みは、年間5日だけ。正月も2日から練習です(笑)」。
当時の話を少し伺った。
「海での練習は、早朝か、夕方以降です。波が静かな時がいいんです。うちの大学は4人で漕ぐ種目にチャレンジしていました。漕ぎ手4人と、舵手1人です。ボートっていうのは、乗っているだけでバランスを取るのが難しいんです。それを4人で漕ぐわけでしょ。チームワークも大事になってきます。腕力も、体力もいります。私らも、いやというほどからだをいじめ抜きました。でも、たとえば六大学の選手たちと比較すると体格からして子どもと大人くらい違う。私らは170センチ、70キロくらい。でも、向こうさんは190センチ、100キロですからね。そういうのがゴロゴロいるわけですから、そりゃかないません」。
なんでも、距離は2000メートルもあるそうだ。それをおよそ7分で駆け抜ける。「漕ぎだすでしょ。1分もすれば止めたくなります。それほどハードなスポーツなんです」。
一時、膝を悪くし、部を離れるが、卒業するまで仲間とちからを合わせてボートを漕ぎまくった。それが広島時代の思い出。社会人になるまでの、足跡の集大成ともいえる。

サッポロライオンに就職。

「父に勧められてサッポロライオンに入社します。これが昭和63年4月のことです。いわば、縁故入社。最初は『石井』ではなく『九州支店長の息子』と呼ばれていました(笑)」。
「サッポロライオン」は、いうまでもなく「サッポロビール」の関連会社である。「サッポロビール」が銀座につくった日本初のビヤホール「恵比壽ビヤホール」は、「サッポロライオン」の創業を意味していると言っていい。
「当時、大卒はひと握りですから、私たち大卒は全員、幹部候補生です。私が最初に配属されたのは新宿センタービルにあるビヤレストランでした」。
飲食。石井氏が就職した昭和63年当時、飲食はいまだ「水商売」という言葉でひとくくりにされていた。「大学まで出て、どうして飲食に」と首を傾げる人もいた時代である。
たしかに、好きで飲食を選択する学生もいたが、石井氏のように、ほかに行くところがなく、ただ何となく選択したという人も少なくなかったはずだ。ただ、前例の少ない、ある意味勇気ある選択をした当時の大学生たちが、いまの飲食をつくっていると思うと感慨深い。
「飲食の経験は学生時代に『ちゃんぽんの店』でバイトをしたくらいです。別段、飲食に進む気もなかったものですから、ぜんぜんちからも入んなくって。実は、半年で寮も追い出されてしまうんです」。
ビヤホール。仕事が終わるのは深夜ちかく。そこから酒を酌み交わす。「あの頃は、毎晩、歌舞伎町に繰り出していました。そんな生活をしていたから、半年で追い出されてしまうんです」。
祖父の住まいが東京にあったから、しばらく厄介になった。しかし、深夜に帰宅する生活は、一般の人たちとリズムがまったく異なる。
「後輩に住まいをみつけてもらって、一人暮らしをはじめます。店も新宿から銀座に移って。そう、それからです。飲食にどっぷり漬かり始めるのは…」。

日本最古のビヤホールで、教えられたのは全身全霊のちから。

銀座七丁目に、現存する日本最古のビヤホールがある。
「1階から6階まであって、規模・売上はもちろんですが、ともかくサッポロライオンのなかでも最重要なビヤレストランです。私が29歳の時、ちょうど構造改革が進み、若返りが図られました。サッポロライオンを象徴する、このビヤホールでも、それまでの体制が見直され、支配人3人体制から総支配人1人、副支配人3人となり、そのうちの1人に選ばれたんです」。
むろん、親の七光りではない。いまだ飲食の仕事にハマってはいなかったが、石井氏は労働組合に専従するなど、さまざまな経験を積んでいた。幹部候補というのは、間違いではなかったのだろう。
「たしかに労働組合も経験して、全国の店を回り、20代後半にして会社に知らない人がいないくらいになりました。だからといって、飲食の仕事に心底、目覚めたわけじゃありません。私に飲食の醍醐味を教えてくれたのは、現存する日本最古のビヤホール『ビヤホールライオン銀座七丁目店』であり、私と同時期に若くして、このビヤホールの総支配人になられた方なんです」。
いまも親交がある、という。「総支配人がいたから、いまの私があるといっていい」と石井氏はいう。「これだけ私の人生に大きく影響した人はほかにいません。なんと言ったらいいんでしょう。彼は、全力なんです。全力でお客様と向き合っておられました」。
夏になれば、ビヤホールも、ビアガーデンも人で溢れる。スタッフだけでも500人を超える時があったそうだ。それだけの人たちをコントロールする。醍醐味も石井氏を魅了した。
「総支配人は『いつもありがとうございます』と大きな声で、お客様を迎えられます。オーバーアクションなんです。でも、イヤミがない。だから、総支配人のファンがどんどん増えていきます。みなさんどう思われているかわかりませんが、銀座はいまも下町で、とても人情味がある街なんです。歴史のある、うちの店は、そのコミュニティのなかにしっかり組み込まれていました。総支配人は、そのコミュニティのなかで、うちの店が果たすべき役割を見事に演じておられたのだと思います」。
磁力のようなものだろう。「ビヤホールライオン銀座七丁目店」は、銀座で暮らす人たちにとってもかけがえのない店だったにちがいない。
総支配人の薫風を受け、やがて石井氏は、この店で総支配人の片腕ともいえる支配人代理となる。
つぎにめざすのは、支配人の席である。

「私は、同期のなかでいちばん支配人になるのが遅かったんです。でも、それだけ時間をかけて育ててもらったわけで、とっても意味のある経験をたくさん積ませていただいたと思います。
石井氏が支配人になったのは入社して10年目。初めて責任者として乗り込んだのは、田町にある小さなビヤレストランだった。
・・・続き

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2017年8月1日火曜日

株式会社福しん 代表取締役社長 高橋 順氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社福しん 代表取締役社長 高橋 順氏登場。
本文より~

クリスマス3年分のプレゼント。

高橋は1973年1月、東京に生まれる。姉は一人いたが、8歳違い。「互いに一人っ子状態だったね」といまではそう語り合うそうだ。高橋が生まれた頃には、父もまだ1店舗の店主にすぎなかったが、すぐに出店を重ね、「物心がついた頃には3店舗になっていた」そうだ。父はもちろん母も仕事に追われ、家にいることが少ない。幼稚園が終わると、高橋は友人の家で遊び、母が迎えにくるという生活が続いた。「PC好き」のスイッチが入ったのは、あるクリスマス。「3年分だ」とサンタが、大きな包みを抱えて帰ってきた。パーソナルコンピュータだった。当時はまだIBMが主流で、OSもUNIXに限られていたのではなかったか。いずれにせよ、小学生には扱い切れない代物だったはずだ。ところが高橋は独学で当時の主要言語であるベーシックを習得し、プログラミングを組み始めた。一人で家にいることが多かったが、その時間がプログラミングで埋め尽くされていくことになる。後に高橋は、「パソコン通信」の大手企業からプロデューサー的な仕事を請け負うほどになるのだが、その実力は、小学生時代から育まれたといっていいだろう。むろん、ロジカルな思考も、プログラミングと戦うことで養われたはずだ。

経理専門学校を卒業し、上場子会社に。その後、パチスロと戦うシビアなプロの世界へ。

中学になるとさらにPC熱は加速する。お年玉を貯め、新たなPCを購入。ゲームを開発するなどして楽しんだ。その頃「福しん」は6店舗になっている。高校生の時の記憶で一番印象に残っているのは「文化祭の委員長を務めたこと」だという。大学祭に匹敵するような、1週間にわたるロングランの文化祭を高橋はきっちり取りまとめた。当時、高橋は「福しん」でアルバイトを始めているが、「将来、事業を引き継ぐ気持ちはなかった」ようだ。その後、経理の専門学校に進み、2年間勉強した後、ある建設会社に入社。上場企業の関連会社だっただけに、厳密な決算を教わり、学べることも少なくなかった。ただ、建設会社につきものの、独自の「商習慣」には、なかなかついていくことができなかった。社会には、表もあれば、たしかに裏もあった。24歳で高橋は退職。その後、1年間、パチンコ店で勤務し、今度は「パチスロ」のプロになった。シビアな世界だ。高橋は、「強い信念で勝てると思い、冷静に打ち続けることを学んだ」といっている。ちなみに「スロットマシン」は、あらかじめ設定が数段階に分かれているそうだ。むろん客は知ることができないのだが、決まった絵柄の出現頻度から、割り出すことができるという。これが勝ち負けのカギを握る。いったん「これだ」と思った台があれば、後は根気と信念の勝負。予測の「精度」を限りなく高め、「信念」で揺れる心を抑えきる。小さなマシンとの戦いだが、それこそ弱い自己との戦いでもあったようだ。高橋に、休みの日は何をしているのかと聞いた。すると「パチスロですかね」という答え。「こちらは趣味でやっているから、楽しめた」という。プロの厳しさがこの一言からも伺えた。ちなみに年収は数百万円にもなったという。そのような生活をしている時、父から「『福しん』に入るように」と頼まれた。社長含みなら断っていたかもしれないが、上場を控え、組織の内部を固めるためと言われ快諾した。だがこれが、とんでもない話だった。
・・・続き

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