2011年1月11日火曜日

今度はカナダから人材供給ルートできるかも・・・。

ワーキング・ホリデー制度は、二国間の協定に基づいて、最長1年間異なった文化の中で休暇を楽しみながら、その間の滞在資金を補うために付随的に就労することを認める特別な制度(日本国籍の日本に在住している18歳から30歳までの人/一部の国は18歳から25歳まで)だが、新たにオーストラリア以外にカナダからのワーキングホリデー帰りの人材供給ルートができるかも・・。


トロント 
(カナダ・トロント)


ワーキングホリデー制度実施国


・オーストラリア(1980年12月1日開始)
・ニュージーランド(1985年7月1日開始)
・カナダ(1986年3月1日開始)
・韓国(1999年4月1日開始)
・フランス(1999年12月1日開始)
・ドイツ(2000年12月1日開始)
・イギリス(2001年4月16日開始)
・アイルランド(2007年1月1日開始)
・デンマーク(2007年10月1日開始)
・台湾(2009年6月1日開始)
・香港(2010年1月1日開始)



株式会社どん 代表取締役社長 南 慎一郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社どん 代表取締役社長 南 慎一郎氏登場。


どん 
本文より~


「人に動かされる人間ではなく、人を動かす人間になりたい」


きっかけは、ホテルマンを描いた一冊の本だった。その本に南は引き寄せられる。就職活動の最中だった。「それで、単純にホテルマンになろうと思って」。ホテルを受け、内定までもらうが、その後、調べていくうちに思い描いていたことと現実の違いに気づき始める。「ホテルの場合、下積みがかなり長いんです。いろいろな職種を経験しなければなりませんから。これはちょっと主人公のようになるにはたいへんだな、と。それで、ほかに同じ可能性があるような仕事はないだろうか、と探し始めたんです。4年生最後の年が明け、卒業まであと少しの頃です」。ここで少し説明がいるかもしれない。南が大学を卒業した1980年は、外食産業の黎明期だった。チェーンオペレーションという言葉が使われだしたのもこの頃。「外食産業」という言葉も一般化し、飲食業が一つの産業と認知されつつあった時代でもある。その産業の先頭を走っていたのが、ファミリーレストランである。しかし、就職先としてはまだまだ敬遠されていた。そのため慢性的な人不足に陥っていた。「一人でも多くの学生を採用したい」と人事担当者はシャカリキになっていたはず。南は、関西で有名なファミリーレストラン「サト」の扉を叩くのだが、もちろん即合格の判定が出た。「外食産業がこれから伸びそうだ」と気づき、「人に動かされる人間ではなく、人を動かす人間になりたい」と考えていた南にとっては朗報以外何者でもなかった。・・・。


株式会社どん 代表取締役社長 南 慎一郎氏



株式会社バンブーインターナショナル 代表取締役 広瀬智也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社バンブーインターナショナル 代表取締役 広瀬智也氏登場。


バンブー 
本文より~


独立を追いかける。


広瀬は日商岩井を5年で退職している。理由は?と尋ねると「将来、起業するためには、営業も経験しておきたかったのですが、法務部ということもあってか、申告しても、会社側がそれはダメだと。ならば、転職するしかない。それで、事業用の不動産賃貸を専門に扱っている(株)エリアクエストの求人広告をみて応募したのです。当時は、まだ100名程度。まだ出来て2年目のベンチャーです。若いスタッフも多く活気がありました。そこで初めて営業を経験するのです」。営業といっても広瀬が最初に経験するのは、営業マネージャーの仕事。マネージャーとして部下を動かすのが、初の営業の仕事となった。「企画書をカラーで作成したり、読むだけで会社のことがわかるような資料を作成したり。効率的な方法を求めいろいろな工夫を重ねました」と広瀬。こういう点では、営業経験がないことが幸いしたのかもしれない。「どうすれば売れるのか」を客観的に追及することができたからだ。広瀬チームの業績はもちろんのこと、会社の業績も急角度で上昇する。広瀬は取締役に顔を連ねるようになり、株式の上場をリードしていくことになる。・・・。


株式会社バンブーインターナショナル 代表取締役 広瀬智也氏


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2011年1月10日月曜日

1年のスタートは明治神宮から。

やはり、1年のスタートは明治神宮からだ。


キイストン創業近い時からずっと行ってるので、もう15年以上になる。


今年ははじめて寒川神社に行き八方除けし、明治神宮で“社運隆昌”を願い参拝したんで


運気が良くならないはずがない。


明治1 明治2
明治3 



2011年1月6日木曜日

2月、オーストラリアに仕事で行く予定。

2月中旬に、オーストラリアのシドニーとメルボルンに仕事で行くことがほぼ決定した。


そこで、皆がWin・Winになるため、3つある案件を無事決めてこよう。


今、いろんな情報網といい商材、それに人的なネットワークを構築中だが、ようやく7合目まできた。


その一つであるオーストラリアルート。


あと少しで完成!!


シドニー 



2011年1月4日火曜日

株式会社D.F.C. 代表取締役 阪田浩子氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社D.F.C. 代表取締役 阪田浩子氏登場。


DFC 
本文より~


学生時代に友人と起業。その後のコンパニオン時代まで。


「明星大学人文学部心理教育学科中退」、これが阪田の履歴だ。大学2年時に、友人たちと並行輸入の会社を興し、その後、コンパニオンのアルバイトに精を出すようになる。「300万円で株式会社がつくれる最後の年だったのです(注:その後、1000万円に引き上げられる)。300万円なら、なんとかなると会社を興したのですが、結局、設立が目的だったので、スグに空中分解してしまいました。私といえば、ホテルのコンパニオンのアルバイトがたのしくて、そちらに没頭してしまいます。政治家や芸能人のパーティーはもちろん新商品の発表もみんなホテルで開かれていましたから、まるで時代の動きを見ているような感じでした。お客様も錚々たる顔ぶれでした。政財界を動かしておられるような方々のお話を目の前でお聞きできるのですから勉強にならないはずがありません」。結局、彼女は大学を中退し、コンパニオンの仕事に傾倒していくことになる。時代はバブルに向かって真っすぐ突き進んでいた頃。阪田は、女性として最高に輝いていた。ところで、著名な人たちとも出会ってきた彼女に、「成功する人に共通していることは何か」と聞いてみた。すると2つの答えが返ってきた。「どんな小さな約束も破らないこと」「どんな目上の人にでもちゃんと気遣いができること」。どちらも単純なようで、これほど難しいことがないのも事実だ。・・・。


株式会社D.F.C. 代表取締役 阪田浩子氏



株式会社パッションアンドクリエイト 代表取締役 豊島堅太氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社パッションアンドクリエイト 代表取締役 豊島堅太氏登場。


P&C 
本文より~


商売人の家系。


商売人の家系なのだろう。父もそうだが、次男も、豊島本人も、すでに起業している。そのうえ、タイまでキックボクシングの武者修行に行った長男も起業するとなると、親子全員、経営者だ。ただし、子どもの頃に話を戻せば、将来、社長になるとは兄弟のうち誰も思っていなかったに違いない。豊島は、中学に上がると冒頭に書いたように、スキーにハマった。天与の才があったのだろう。すぐにトップランクのプレイヤーになっていく。ところで、スキーは傍からみれば華麗なスポーツだ。だが、プレイヤー本人たちにすれば、極めて過酷なスポーツとなる。「からだ全体を鍛えなければいけないうえに、無酸素の練習もきつい。特に私の場合は、スポンサーが付いていましたから結果を求められる。それが辛かった。海外遠征に向かう飛行機に乗った瞬間、帰りたくなったほど」と当時の厳しさを振り返る。だが、トッププレーヤーとして肉体的にも、精神的にも追い詰められた経験が、その後の豊島を支えたのは間違いない。それだけではなく、このとき、「頂」を見たことが、いまの壮大な目標を平気で追いかける強い意志を生んでいるような気がしてならない。・・・。


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