2025年11月11日火曜日

株式会社サン・ルート 代表取締役 原 光範氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社サン・ルート 代表取締役 原 光範氏登場。

本文より~

父との別れと、飲食への本格的な一歩。

今回、ご登場いただいた株式会社サン・ルートの代表、原 光範さんが生まれたのは1988年7月31日。3人兄弟の長男である。
小学生の頃の将来像は、サッカー選手か本屋の主人。
本屋とはめずらしいですね?というと「今もそうなんですが、小さな頃から本が好きで」と原さん。文学少年をイメージしたが、「活発で、気性が多少荒かった」とのこと。
岸壁を作る仕事をされていたお父様は、学校の先生や医者といったかたい職業についた兄弟のなかでは、異端だったのかもしれない。その血を継いでいる。
小学校でサッカーをはじめた原少年は、3年生でサッカーを辞め、中学からはテニス。高校では1年程度、硬式テニス部に所属する。その一方で、レジやガソリンスタンドでアルバイトを経験。
「大学は福岡のFラン大学」とのこと。実家の北九州から福岡の大学に通った。すでにご両親は離婚されていた。
「父と母は、私が小学3年生の頃に離婚。子どもは、3人とも母に連れられ出ました。でも、1キロ程度しか離れていなくって、父とも週に1回程度は会っていました。母とケンカして、父のところに逃げ込んだこともあって、離婚したあとも父とは付かず離れずといった感じで。その父が他界したのが、私が大学3年のときです」。
原さんは大学を辞めて、当時、アルバイトをしていた飲食店に就職する。
経済的な問題を優先してのことだった。
「その時、勤めていた飲食店の上司が事情を知って誘ってくださったんです。今もお付き合いがあるんですが、その後も、ずっとお世話になっています」。サン・ルートの生みの親の1人でもある。
結果として、その誘いが、原さんを飲食に導くことになる。

独立と3人の部下。

「独立志向はあったが、飲食でと決めていたわけではなく、ただ、「漠然と経営者になろうと思っていただけ」と原さんは話す。
実際、就職した飲食店では独立は頭になく、日々の仕事に没頭した。経営者の右腕となって、奔走する日々。「上が抜けていくんで」と原さんは笑うが、実力が評価されて、就職して2年で部長に抜擢されている。
「オープンも多く、刺激もありましたし、部長になったあとも、当然ですが、会社をのばそうと全力投球していました」。
店舗数は3店舗から、11店になった。24歳の若さで、事業を牽引する原さんは、部下の憧れだったのではないだろうか。
「ただ、」と、原さん。
「部長となって、組織の核心にちかづくと、理想とはかけ離れた現実がみえてくるんです。みえてきたのは、人として、商売人として、どうしても受け入れることのできない一線でした」。
原さんは批判するのではなく、去ることを選択する。「恩義もある人でしたから、批判するのはちがうかな」と。それが原さん、24歳のこと。苦悩の末、原さんは退職するのだが、苦悩していたのは原さん1人ではなかった。同年代の部下の3人が「辞める」といいだした。
ほっておくわけにはいかなかった。

サラ金、4人分と、もう一つの苦悩と。

「その3人と、いっしょにスタートしたのが、北九州の小倉にオープンした『うわさの小鉄』です」。
「うわさの小鉄」は、和食ベースの創作居酒屋。初期投資、500万円。42坪で家賃は28万円。
「4人でやるとなると、ある程度のスケールがないと計算が立ちません。リスクは高くなりますが、前職での経験があったもんですから、居抜きで出店コストを抑えればなんとかなるだろうと」。
ただし、資金がない。
「若いし、実績もない。銀行の融資も受けられません。私と共同経営者となる料理長で100万円ずつ。残りは4人、それぞれが消費者金融から50万円ずつ借り入れて。あと100万円は、さきほどいった転職先の社長からお借りした分+色々集めてなんとか500万円を用意することができました。運転資金もなく、すべてギリギリでした」。
資金はなかったが、自信はあった。
「家賃が安いのはロケーションがよくないからです。じつは、今も人通りがありません」と原さん。
人通りがなくても、原さんには広告戦略という、前職で経験済の強力な戦略があった。狙い通り、広告を打った2ヵ月目から予約も増え、月商も800万円をオーバーすることになる。
「やればできると喜ぶというより、サラ金に借りているんで、とにかく、いちばん年下から50万円ずつ返済していきました」。
全員が完済したのは数ヵ月のち。その頃から、共同経営者である料理長と意見が合わなくなる。
「料理長は2人の社員ともぶつかるようになり、けっきょく、話し合って辞めていただくしかなかったです」。
「ぼくたちをとるか、料理長をとるか」と、社員2人に迫られたそうだ。
仲間を大事にする原さんにとっては、これもまた、苦渋の決断。その一方で気になることがある。料理長というキーマンが抜けたことで業績はどうなったんだろう?
「3人で今まで以上に結束するしかありません。料理長がいなくなったからといって業績を落としたくなかったんで役割を再構築して。とにかく、お客様に喜んでいただこうと」。
結果として、1円も業績を落とさなかった。これが、つぎへの弾みと自信となった。2年後の2014年11月「百舌のしわざ」を、おなじ小倉にオープンしている(この時期に、3名のうち一人は独立するために巣立ち、今は人気店のオーナーとなっているそうだ)。
「百舌のしわざ」は「うわさの小鉄」のスケールをさらに大きくして、60坪、120席。コース料理を全面に打ち出し、宴会需要に特化した和食居酒屋としてオープンする。
「百舌のしわざ」は初月から大当たり。いきおいそのままに、翌月には個人事業主から株式会社サン・ルートへと法人化を果している。原さんは20代半ばにして、2店舗の繁盛店を率いる若き経営者となった。
創業メンバーの2人に、新たな仲間が加わり、風景もかわる。
・・・
続き

株式会社サン・ルート 代表取締役 原 光範氏

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2025年11月4日火曜日

株式会社LDFS 代表取締役 車田 篤氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社LDFS 代表取締役 車田 篤氏登場。

本文より~

神宮前で輝くアメリカンカルチャーの象徴。

グルメ、ファッション、カルチャーがカラフルに交差する神宮前。その一角にある、2007年のオープン以来行列の絶えない店――「THE GREAT BURGER」。
南カリフォルニアをイメージした空間に、アメリカンビーフ100%のパティと自家製天然酵母バンズ。アメリカンテイストなインテリアやグッズに加え、店内表示もほぼ英語のみ。「料理だけでなく、空間すべてを楽しんでほしい」というオーナーのコンセプトが、訪れる客の気分を引き立てる。
その仕掛け人は、株式会社LDFS代表取締役・車田 篤氏。一年の3分の1を渡米で費やし、“アメリカの今”を東京に持ち帰る男だ。

母から受け継いだ舌と鼻、父から受け継いだ感性。

専業主婦だった母は料理上手で、パンもお菓子も日常的に手作り。幼い車田氏は、母と一緒にパンをこねながら自然に料理の基礎と味覚を身につけた。10歳のころ母が喫茶店を開業、車田氏と飲食の絆はすでにこのあたりから芽生え始めていた。
「僕、味覚と嗅覚が異常に鋭いんです。喉を通った時に味が爆発するっていうか。友達には“鼻探知機”って言われてます(笑)。母からの最高の贈り物ですね」。
両親は高校の同級生同士。父は機械製造・販売会社から独立した合理派で、洋画やラジコン飛行機を始め趣味にとことんのめり込む人だった。
そんな父の影響か、子どものころから洋画に触れる機会が多く、ドライブインシアターではハリウッドのスケール感に心を奪われる。カラフルな街並み、自由なファッション、活気あるダイナーの雰囲気──これらの直感的な経験はすべて、自らの店をつくる際の土台になっているという。

迷走と挫折を経て上京。「東京、やべぇ!」

小学校までは野球一筋。中学では軟式テニス部でレギュラーを獲得するも、高校入学後に競技ルールが大幅に変更され、その違和感から帰宅組に。一浪して入った大学も、あまり興味が持てず2年の夏に中退。動物関連の専門校に進むため一旦帰郷するが、入学直前にその学校が倒産、21歳で上京し専門学校に通う。
「友達もいないし“東京コワイ”って思ってたのに、来てみたら『東京、やべぇ!』って(笑)」。
東京の専門学校でも、理想と現実のギャップに悩んだ車田氏は、就職への意欲も湧かず、卒業後はフリーター生活に。自分の未来図を描けずに、日々焦燥感だけが募っていった。

2000年のカフェブームが心に火をつけた。

そんな中、ミレニアムの幕開けと共に“東京カフェブーム”が花開く。その火付け役となったのは、専門学校時代に足しげく通った駒沢公園そばの「バワリーキッチン」だった。
「それまで飲食店と、インテリアやグッズ、カルチャーって言う概念は、ほとんどリンクしてなかったんですよね。それが全部ミックスされているのが“カフェ”で。『こういうの、いいよね。自分もやりたいな』って友達に言ったら、そいつが『やればいいじゃん』って」。
母は専業主婦から自分の店を始めた。父もサラリーマンから独立した。起業は何も特別なことではない。「自分だってやれるんじゃないか」。
アメリカ文化への憧れと自分の理想が心の中でやっと重なった。それからおよそ1年半の間、時給800円で月に450時間は働き、飲食の知識と経験を蓄えていった。
「親に、『店をやってみたい』って相談した時、賛成も反対もされませんでした。これまでのことから、どうせ無理だろうって思ったんでしょうね。これはヤバいって思って、もう一度事業計画を練り直しました」。
ある程度貯金も貯まったところで、再度親に自分の想いを打ち明けた。息子の変化を感じ取った両親は真摯に向き合ってくれた。父親が保証人になり、おかげで資金も調達できた。

原宿の地下15坪からのスタート。

2002年6月6日、原宿・京セラビル地下にカフェ「ease by LIFE」をオープン。15坪で家賃35万円のスケルトン、内装にこだわり開業資金1600万円をほぼ使い切ってしまった。運転資金ゼロでのスタートは想像以上に厳しく、どれだけ働いても一銭も残らなかった。オープン半年で資金はショート寸前、定休日をなくし朝9時から翌朝5時までぶっ通して働くという地獄の日々が始まった。
「朝9時に店に出て、家に帰るのが朝5時みたいな、そんな生活を365日続けました。それでも数万円残るかどうか。給料を払ってるスタッフに、僕が奢ってもらうような状態で」。
店から自宅のある曙橋まで、自転車で約20分。明け方、大型トラックとすれ違うたびに「このまま自転車ごと吸い込まれたら楽になるんじゃないか……」と思ったという。
─ そんなに辛かったのに、なぜ頑張れたんですか?
「やっぱりお客さんの反応ですね。『美味しかった』とか『ご馳走さま、また来ますね』とか、『頑張って下さい』とか。そういう言葉に救われました。仲間もいたし、スタッフもついてきてくれた。そういうのですかね」。
SNSや地図アプリもない時代。ビル地下の店は、その存在が認識されるまで時間を要したが、インターネットの普及に伴い、ブログで店を紹介してくれる人が徐々に増えた。来てくれるお客様の反応はいい。味や空間、接客の良さには自信がある。自分を信じ、仲間を信じて働き続けたことで少しずつ、しかし確実に店の評判は広まっていった。

・・・続き

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