2019年11月22日金曜日

キイストン、いよいよ出版社の顔も待ちます。

11月18日、キイストンから書籍出すため書籍JANコード取得しました。
プロデュース業務からいよいよ出版社の顔も待ちます。
この12月に1冊、来年1月と3月に各1冊出します。
あともう1冊動かせば自分が目標にしてた年度内5冊に到達。
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

株式会社アイロム 代表取締役 森山佳和氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社アイロム 代表取締役 森山佳和氏登場
本文より~

昔は、「水を飲むな」が、鉄壁ルール。

子どもの頃は、時間があれば弟とボールを蹴っていたそうだ。「サッカーを始めたのは、小学3年生です。私に影響されて弟も始めます。2人ともスジが良かったんでしょうね。私は小学5年生の時に、2週間、浦和代表としてメキシコにサッカー留学させてもらいました」。
サッカーもうまかったし、リーダー気質も、だれもが認めるところだった。「昔から自然とリーダーをやることが多かったですね。小学校は児童学長で、中・高は学級委員長。ただ、サッカーのほうは高校1年の時、練習がきつくて辞めちゃいました」。
せっかく才能があったのに?
「私が進学した西武台高校はインターハイで全国2位になるような高校です。だから、練習もハンパない。その一方で、私自身は中学の頃からだんだんとサッカーに賭ける思いが薄らいでいたんです」。
スポーツをつづけるのは、案外、難しい。トップレベルになれば、尚更なのだろう。周囲も期待を注ぐ。それがうっとうしく思えることもあったのではないか。
「練習がとんでもなく、きつかったですね。小学生の頃から『水を飲むな』です/笑。私もそうですが、それで辞めたって人は少なくないんじゃないですか?」。
ともかく、高校1年でサッカーをいったん卒業する。
小学3年から始まったサッカー人生も、これでいったん終止符を打った。才能があっただけに、もったいない話である。
「ただね。サッカーは好きでいまもチームをつくってやっています」。
難しい話でもある。
今は「水を飲まない」と怒られる時代。
ルールは、当事者抜きに、案外、簡単にかわってしまう。
どちらがいいかは、むろん、わからない。

デザイナー、デビュー?

森山氏は、大学には行っていない。最初から、進むつもりはなかったそうだ。
「この頃には、デザインに興味があったんです。それで、デザインの専門学校に進みます。学校を卒業して、一度は、デザイン関連の会社に就職するんですが、すぐに辞めています。ま、私が、というより、ちょっと会社に問題があったんです/笑」。
それで、デザインとは無縁に?
「いえいえ、今でもお店のデザインや、そうそうホームページの写真なども私が撮影しています、でも、当時からそうですが、没頭するまではいかなかったですね」。
それで、トラックに?
「そうなんです。それから半年間、トラックに乗るんですが、今度は1人で運転しているのがさみしくって辞めてしまいます/笑」。

社員になれば休めるという、甘い計算。

「就職するつもりはなかったんですが…」と森山氏。
トラック時代、当時、川口市で独り暮らしをしていた森山氏はトラックから降り、上京する。都内の飲食店でアルバイトをはじめたのは、この時だ。
そのアルバイトが縁で、飲食業に進むことになる。「最初は、仕事をさがす間だけと思っていたんです。でも、楽しくなって、そのまま就職です/笑」。じつは、アルバイト時代、働きすぎていたらしい。「それで、思ったんです。社員になれば、少しは休めるだろうって」。
むろん、そう計算通りにはいかない。だいたい就職といっても1年だけと思っていたらしい。
「そうなんです。面接でも『1年で辞めます』って。堂々と言っちゃうんですね」。
しかし、辞めなかった?
「なんだかんだで…。仕事も面白いですしね」。
ちなみに、その時、就職した会社は、すでに倒産している。「飲食事業は黒字だったんですが、もう一つの事業が赤字だったんです。私が、独立したのは、そのタイミングです」。
つまり、1年どころか、長く勤務することになる。

理不尽な鉄拳。

「1年で辞めると言ってはいたんですが、1年後には、店長の辞令が下りるんですね。辞めるとは言っていましたが、特別な理由があったわけでもないので、そのまま店長になります。当時は、今思えば何も考えてなかったですね」。
まだ、若い。店長は無事務まったのだろうか?
「最初は、ぜんぜんダメでしたね。私以外のスタッフは全員年上です」。
社歴も長い?
「そうです。だから、私の言うことなんてだれも聞かない/笑。私も、だからって怒るわけでもなく、ま、そんなもんだろうくらいに思っていました。でも、ある日、事件が起こるんです」。
その事件が、奮起のトリガーになったそうだ。
「社長が、私の店にいらしていたんですね。でも、私も若かったからかヘンな正義感があって、相手が社長だからって特別扱いを一切しなかった。そしたら『わかってない』って殴られたんです/笑」。
「店にいらしたら社長であろうが、一般のお客様だって一緒でしょ。むしろ、社長より、一般のお客様、優先ですよね。
だから、なんだこの人は、と思いましたね」。
それで、火がつく?
「そうです。辞めて欲しくない人材になって、見返して、それで辞めてやると誓ったんです」。
これが、20歳の時の話。

辞めることをやめにする。

奮起した森山氏は、なんとわずか2ヵ月で店の売上を倍にする。口だけではなく、結果を残す人だ。
「店のなかでは、年上だって同じプレイヤーだと気づいたんです。サッカーだって、ピッチにでれば上下なんて関係ない。あれと、一緒なんだと」。
目指すべきゴールも、ある。走って、走って、パスをつないで、シュートすればいい。
「半年に1回行われる社員総会で、登壇します。優良店、店長に選ばれたからです」。突然の指名だったそう。登壇し、発表したのは、いうまでもなく、売上を倍にすることができた理由であり、その取り組みだった。急いで書いた手書きの原稿を読む。
「私の発表が終わると、いつもは、そんな会じゃないんですが、拍手が起こりました。いちばん年下だったから、よくやったって素直に拍手をしてくれたのかもしれませんね」。
スポットを浴びながら、壇上で頭を下げる森山氏の姿が目に浮かぶ。
でも、拍手だけでは終わらなかった。
「私のあとに社長が登場されるんですが、マイクに向かったまま、言葉がでないんですね。私の発表を聞いて、感動してくださったようで、その時は、言葉も忘れ、号泣されました。その姿を観て、『辞めて欲しくない人材になって辞めてやる』ことは、やめにしました/笑」。
それで10年ですか?
「そうです。ただ、10年で辞めようと思ったわけじゃないんです。さっき言ったように会社がつぶれてしまって」。
会社はつぶれたが、むろん、貴重な経験を積むことができた。自信もついた。何しろ、ある店舗では、40ヵ月、前月を上回るという奇跡を起こしている。
過去最高の売上を36ヵ月以上続けたことは、歴代月間最高記録であり、言うまでもなく大記録である。
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株式会社マニアプロデュース 代表取締役 天野裕人氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社マニアプロデュース 代表取締役 天野裕人氏登場
本文より~

韋駄天、駆ける。

平日でもなかなか予約が取れないそうだ。2017年、誕生した「GYOZAMANIA」のこと。「ミシュランガイド東京2019」では、ビブグルマンにも選ばれている。この「GYOZAMANIA」の創業者が、今回ご登場いただいたマニアプロデュースの天野裕人氏。天野氏といえば、エー・ピーカンパニーで役員になり、同社をリードしてきたことでも知られている。
「私は1981年、東京都八王子市に生まれます。父親の転勤で、幼稚園の年長から埼玉に引っ越し、高校まで埼玉で暮らしました。高校は春日部東高校です」。
中・高は、陸上選手だったらしい。400メートルが主戦場だったそう。全国大会にも出場しているというからすごい。
とにかく、早い。
韋駄天がグラウンドを駆ける姿は、女子生徒だけではなく、高校の教師の目も引いたのだろう。高校進学時には「推薦」の話が来る。
「推薦で進学校に進み、そちらでももちろん陸上です」。
これが高校の話。大学生になって、親元を離れ1人、八王子に戻る。
「大学は教師になるつもりだったんで、日体大に進みます。埼玉からだとしんどいので、八王子にあった祖父宅に住み、通いました」。
エー・ピーカンパニーとの出会いは、その時?
「そうです。当時、ダーツBRAが流行っていまして。八王子のダーツBRAによく通っていたんです。好きが高じてってわけじゃないんですが、4年生になってから、そのダーツBRAでバイトを始めます。ハイ。そのBRAを経営していたのがエー・ピーカンパニーだったわけです」。
エー・ピーカンパニーの、まだまだ創業期の話である。

ダーツBRAの神話。

天野シフトっていうのがあったんですね?
「そういうとちょっとおおげさですが/笑」。なんでも、天野氏のシフトは週3日。ダーツBRAの人気が陰りがちになるなか、すすんで路上に立ったそうだ。
今でいう呼び込みですか?
「そうです。当時、八王子にはいなかったですね」。月にして100万円を売り上げたそう。月商が400万円くらいだったから、1/3を天野氏がキャッチしたことになる。
「だんだん、私のシフトの時には、食材を多めに仕入れたり、スタッフを多めに配置したりするようになって、それが天野シフトと呼ばれました」。
天性の力があるのだろう。いうならば、ダーツBRAで生まれたはじめての「天野神話」である。「私の話が耳に入ったんでしょうね。社長の米山さんがやってきます。それまでは時給だったんですが、米山さんとお話してから歩合に変わりました」。 天野氏は、修士である。つまり、院卒。
「大学院を卒業する時に、米山さんに『一緒に働こう』と誘っていただきます。当時ですか? まだ2~3店舗で、社員数は10名くらいでした。親には、正直いうと猛反対されました。でも、米山さんの話を聞いて一緒にやりたいという思いが勝ちます。米山さんのようになるには、一緒にやるのが一番でしょ」。
米山氏に魅了される。
エー・ピーカンパニーというベンチャーに、天野氏が組み込まれることで、歯車がゴロリと音をたて回り始める。

こんなスープ、しょっぱくて飲めないよ。

天野氏のエー・ピーカンパニー在籍は、11年間に及ぶ。その間、「塚田農場」が生まれ、様々なサービスが脚光を浴び、同社は東証一部へと駆け上がっていく。国内だけではなく、海外にも進出。天野氏は、中国担当になる。
「2016年3月からですね。北京の『塚田農場』を担当します。当初は日本と同じメニューで勝負にでます。でましたが、受け入れられませんでした/笑」。
どうしてですか?
「たとえば、餃子です。日本では、鶏スープに餃子が入った『焚き餃子鍋』っていうのがヒットしていたんですね。ええ、お世辞抜きで旨かった。だから、オススメするんですが、クレームばかり。どうしてかというと、中国の人からするとむちゃくちゃ高かったんです」。
当時、屋台なら270円で25個くらいの餃子が食べられたそう。それに比べ、1000円する「焚き餃子鍋」の中に入っている餃子は5個だけ。「しかもね。中国の人って、日本の料理はしょっぱいらしくて、『スープがしょっぱくて飲めない』と言われてしまうんですね」。
この話は他でも聞いたことがある。食文化の違いという奴だろう。
「それで、すぐにそのメニューは中止した。最終的な決断をしたのは、米山社長だが、シンガポールで評価が高かった『美人鍋』をメインにして、サンフランシスコで運営していたラーメン店のラーメンを導入して。そうそれで、軌道に乗り始めます」。
売り上げアップの要因としてメニューもあるが、もう一つの要因は口コミだ。
中国人は中国の店を信用していないらしい。本当に客が入っているかや口コミサイトをよく見て決めるそうだ。
当時、まがい物が多い日本料理屋に本物の日本人がいると口コミで話題になっていた。中国では一日平均7件食べログのようなサイトで口コミが入る。その口コミのほとんどにサービスのいい日本人がいると書いてあり、それを見た中国人がたくさん来店した。
中国ではお金を払うと嘘の口コミがかけるそうだが、サービスがいい日本人がいるという嘘の口コミは、他の店は書き込めないので信頼性が高い口コミと判断された。
「日本でお客さんにモテた事はありませんが、中国ではジャニーズのような扱いを受け、一緒に写真を撮ってくれとか、メールの番号教えてとか、男女関係なく人気でした/笑」。
課題の明確化と改善、そして、スピーディーな決断。まさに、天野氏ならではの経営手腕だ。その結果、700万円だった月商が2000万円にはねあがる。これはもう一つの天野神話。しかし、この時、もう一つの神話がはじまろうとしていた。

リスクがあるから、しびれる仕事ができる。

「北京では当然ですが、日本と同じようにはいきません。すべてイチからです」。
それは、大変でしたね?
「そう、大変だったんですが、それが逆に楽しくて。日本にいると、もういろんな部署があって、業務も細分化されているわけです。それは、それでいいし、効率的なんですがね」。
入社した頃を思い出したそうだ。まだ、社員は10名程度。熱意はあっても、金はない頃のこと。
「そりゃ、イチからですからね。資金もバンバンというわけにはいかないし。だから工夫しなくっちゃいけないんですが、その工夫が面白い」。
いうならばPDCAなんだろう。プランを立て、実行して、検証して、改善する。面白くないわけがない。「それで、もう一度、チャレンジしてみたくなったんです」。
独立ですか?
「そうです。その時、頭に浮かんだのが、最初に中国で苦労させられた餃子です。だって、日本の餃子をもってきて敵わなかったんですからね。逆に言えば、それだけ、中国の餃子には力があるってことでしょ」。
たしかに、そうだ。決断すれば、なんだって早い。
「向こうで住んでいたマンションの下が飲食店があったのですが、ボロボロの屋台の餃子屋がありました。電気は電線からとり、ベニヤ板のうえで餃子を作ってました。その店をやっていた女性に餃子の皮づくりから教わります。本場ですからね。やっぱり違う」。
独立したのは35歳の時。
「米山さんには止めていただきました。『子会社でやれば』というお話もいただいたんですが、お断りしました。だって、子会社だとやっぱりリスクがないんです。もう一度、リスクと向き合い、ヒリヒリしながらやってみたかったんです」。
つけた社名が、株式会社マニアプロデュース。そして、店名が「GYOZAMANIA 西荻窪本店」。「マニア」が指すものとはなんだろう?
・・・続き
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2019年11月5日火曜日

10月15日(火)発行の日刊ゲンダイに「世界の山ちゃん」率いる株式会社エスワイフード山本久美社長の記事が載りました。

10月15日(火)発行の日刊ゲンダイ・『社長の私生活』に会長兼社長(夫)急逝で「世界の山ちゃん」率いる株式会社エスワイフード山本久美社長の記事が大きく載りました!
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11月1日(金)発行の夕刊フジ「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」はシーウェイズ山本社長にFC加盟のメリット語って頂きました。

11月1日(金)発行の夕刊フジ「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」にて酒屋からコンビニ、そして飲食FC(牛角、串カツ田中、肉汁餃子製作所ダンダダン酒場、大衆ビストロ煮ジル)を4業態6店舗されてるシーウェイズ山本社長からFC加盟のメリットと成功体験を語って頂きました。
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株式会社ミナデイン 代表取締役 大久保伸隆氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ミナデイン 代表取締役 大久保伸隆氏登場
本文より~

末っ子に、注がれる愛情。

「兄妹の愛情がすごかった」と大久保氏は笑う。姉と兄、計4人。大久保氏だけが、ポツンと歳が離れている。
「正直に言うとね。ちょっとほっといて欲しいなって思った時があるくらいです/笑」。
小学生の頃はサッカー、中学は帰宅部、高校でもう一度サッカーをはじめている。
ともかく、一番下の弟は、愛情いっぱいに育てられる。
「大学は、渋谷に近く、遊びにも苦労しないだろうって理由で『駒沢大学』に進みます。高校3年から、ボクシングも始めています」。
大学なかばまで、プロを目指していたそうだ。実際、ジムの関係者から「プロになれる」と太鼓判も押されていたという。「でも、だんだんビジネスに興味関心が移るんですね。だから、ここは就職だと。そうですね。あのままボクシングを続けていたら、どこまで行けるかわかりませんが、それなりにいい成績は残せていたんじゃないかなって思いますね」。
じつは長兄も、運動神経が良く、野球を続けていればプロにも行けたのではないかという。末っ子の贔屓目ではなく、大久保家の人は、だいたいが運動神経に恵まれていたようだ。

飲食と大久保氏をつなぐ決定打となった、その日の出来事。

ボクサーではなく、就職に舵をきった大久保氏は、「最初に内定をもらった」という理由で、とある大手不動産会社に就職している。
「その時には、すでに飲食に興味をもっていたんですが、すぐに飲食ではなく、いったん一般の会社に就職してみようと。だから、最初からずっとやっていくつもりはありませんでした」。
飲食に興味をもったのは、いつ頃?
「よくあるケースだと思うんですが、私も飲食に興味をもったのは大学時代のアルバイトです。『幸楽苑』さんや『マルバラーメン』さん、『しちりん』さんでもアルバイトをしました。どれもたのしかったですが、とくに『しちりん』さんですね」。
このしちりんで、初めて尊敬できる先輩にも出会った、と大久保氏。仕事の取り組み方から、遊びまで、全て教えてもらったそうだ。
そんな先輩が退職することになる。大久保氏も、就職が決まり、同じ日に店を辞めることになった。
その日、サプライズが起こる。
常連が次々とやってきて、その日はすぐに40席が埋まったそうだ。挨拶に立つと、花束を贈られ、名刺入れをもらったそう。頭を下げる大久保氏に、常連たちは、どんな言葉を投げかけたんだろうか。
「あの時ですね。心底、飲食って素晴らしいと思ったのは…」。この日の出来事を、飲食に入る決定打だったと大久保氏は語っている。

偶然の出会い。エー・ピーカンパニーと大久保氏と。

とはいえ、最初に就職したのは不動産会社だった。「結局在籍は、1年間だけなんですが/笑」。不動産といっても仲介などではなく、土地オーナーへの営業、会社の中でも一番ハードな部署だったらしい。
「1年間ですが、走りつづけたといっていいと思います。業績は同期で一番です。退職のきっかけは、1年目の2月ですね。ダイヤモンドダイニングの記事を読んで、飲食店の経営に興味がわくんです。もともと飲食はいいなと思っていましたからね」。
それで、退職?
「そうです。3月末には退職しています」。
「小さいベンチャー企業を10社ほど受けた」と、大久保氏。ある企業の採用担当者から、「グルメキャリー」という飲食専門の求人誌を読むように勧められた。そのなかに、エー・ピーカンパニーが載っていた。

エー・ピーカンパニー時代の幕開け。

「エー・ピーカンパニーには、第二新卒として入社します。それから11年間勤務します。取締役になったのは、2011年の27歳の時です」。
早い出世である。
「入社して、その7月に『わが家』葛西店の立ち上げに携わります。副店長を経て店長に就任。当時の上司は、今、『ギョウザ マニア』を経営されている天野さんです」。
大久保氏は、社長である米山氏はもちろん、この天野裕人氏にも影響を受けたと語っている。天野氏について補足すれば、エー・ピーカンパニーの黎明期から勤務され、中国進出統括部長や執行役員などを歴任されている。
「塚田農場がオープンしたのは、2008年です。八王子が1号店です。名刺のサービスや就職支援、アルバイトへの400円の権限移譲などは、私のアイデアです。そういう意味ではいくつかのことは、残せたかなと思います」。
控え目に語るが、大久保氏の業績は、エー・ピーカンパニー1社に留まらない。飲食店経営者には、「飲食店ができること」を再認識させ、アルバイトを育てるノウハウと戦略は、様々な企業の経営者にトレースされている。
ちなみに、大久保氏は31歳で副社長となり、様々なメディアで「カリスマ副社長」と語られるようにもなる。なかでもアルバイトに対する取り組みは高く評価され、「アルバイトをやる気にさせる」独自の経営モデルは「カンブリア宮殿」「ガイアの夜明け」といった有名なTVでも紹介されている。
話は違うが、私はいまだ「部長」止まりだ。部長まではスピーディーに駆け上がったが、最近、足が遠のいている。もちろん、こちらは名刺のサービスの話。私の周りにも部長級の人間が多い。まんまと、大久保氏の戦略にはまり、なおかつ、楽しませてもらっている連中だ。
我々が部長で立ち止まっている間に、大久保氏は、さっさと次のステージへと進んでいた。2018年6月、エー・ピーカンパニーを退職、同年7月にミナデインを設立し、社長に就任する。

独立、開業。「烏森百薬」、オープン。

大久保氏が独立し、新店をオープンするというニュースは、業界内外で注目を集めたに違いない。実際、様々なメディアで取り上げられている。
出店場所がまたいい。サラリーマンの聖地「新橋」。屋号は「烏森百薬」。
新橋を選んだ理由は?と質問すると、「この街が好きだから」というシンプルな回答だった。たしかに、この街の、雑然としていながらカオス的な表情には、隣町の銀座とはまた違った趣がある。
「うちの店があるのは、烏森神社の参道です」。
JR新橋駅、烏森口をでて広場を抜け、路地に入ると「烏森百薬」がある。シックな佇まいも「烏森」という響きに似合っている。
「今は新橋と、千葉県佐倉市のユーカリが丘で2店舗を運営しています。FCも3件決まっています」。
「烏森百薬」がカフェと居酒屋という2つの顔を持つのと同様に、この「里山transit」も、昼はファミレス、夜は居酒屋という2つの顔を持っている。二毛作といえばわかりよい。
「烏森百薬」にしろ。「里山transit」にしろ。大久保氏が打ち出す飲食店には明確なコンセプトがある。そのことをうかがうと、「お店の形態は出店する場所によって考えている」とのことである。
そういう意味では、最初に新橋を選択したもう一つの理由が浮かんできた。「新橋」という聖地でできること。それを、サラリーマンとOLたちと、そして愛すべき「のんべぇ」たちと、一緒に実現する。実際、大久保氏がオープンした「烏森百薬」には、面白い仕掛けが施されている。

今日もサラリーマンとのんべぇたちは、セレクトショップで、食と酒を堪能する。

「烏森百薬」に話を戻せば、食のセレクトショップなんだそう。最初は「セレクトショップ」と聞いてどういうことなんだろうと思ったが、詳しく聞いてなるほどと合点がいった。
「メニューのうち、うちが作っているのは、数点だけなんです。それ以外は、私がオススメのお店から仕入れています」。つまり、自前のモノが少ない。
「作業も効率的ですし、うちが頑張って作るより専門店が作ったモノのほうが旨い。それをセレクトして仕入れることで、いいサイクルが生まれます」。
もちろん、作り手が明記されているから、安心だし、仕入先の業績にも貢献している。エー・ピーカンパニーの六次産業的な発想とは異なるが、アプローチは似ていなくもない。
店の運営に関しては「少しだけ勝つこと」を意識しているという。定番の唐揚げや餃子にも、なんらかをプラスアルファするようにしている。それが少しだけ勝つことに繋がっているのだろう。
「料理のバリエーションもシレっと増やしている」といたずらっ子のように笑う。飲食の仕事が好きで仕方ないのだろう。
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「世界の山ちゃん」の株式会社エスワイフード 代表取締役 山本久美氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”「世界の山ちゃん」の株式会社エスワイフード 代表取締役 山本久美氏登場
本文より~

キャプテンシーの源流。

「守山に引っ越したのは小学3年生の時かな」。静岡県生まれの山本久美氏が、愛知県名古屋市の守山に引っ越したのは、小学3年生の時というから1976年くらいのことだろうか。
「姉が1人いるんですが、大人しくて頭のいい姉とは違って、私は子どもの頃から大のお転婆でした」。じつは、久美氏の母の父、つまり母方の祖父は、プロゴルファーの先駆けだったそう。「祖父の隔世遺伝なのかもしれないんですが、私は子どもの頃から運動神経が良かったんです」。
スポーツなら何をやってもできたのだろう。負けたこともない。
バスケットボールでもそうだった。
「小学生からバスケットボールを始め、私がキャプテンだった時には区大会で優勝もしました」。
コートを自在に駆ける少女時代の久美氏が目に浮かぶ。背番号は「4」。いくつかの試合のプレーが中学の先生の目に留まり、引き抜かれる。
「引き抜かれるっていうと、ちょっと語弊があるんです。私学じゃなく、公立ですから。だけど、私はバレーをしたかったんですね。でも、あの手この手で誘われて」。
最初に言っておくと、彼女が通ったのは普通の公立中学だが、バスケ部だけ様子が違った。地区も、県も、東海というエリアでも勝ち抜き、全国で何度も優勝している。しかも、彼女が3年でキャプテンだった時には、練習試合を含め、敗北したことは一度もなかったそうだ。
「選手を育てるのがうまい先生でしたし、選手たちも公立にいるような子じゃない。私の時もクラブチームから優秀な選手が次々、入部しました。私が小学校の時に区大会で優勝したって言っても、まるで格が違います。入部したての頃は、彼女らがやっている練習が、何をしているのかもまったくわからなかったくらいです」。
負けん気が顔をだす?
「そうですね。小学校の時からスポーツは得意でしたからね。得意なことで負けたくない。そうは思いましたよね。でも、敵わないような子ばかりです」。
それでも結局、中学でもキャプテンに?
「ハイ、3年生ではキャプテンナンバーの『4』をつけて出場していました。ただ、私より巧い子はいました。入学して少しすると、その学年のキャプテンを先生が決める感じでした。ですから1年の時から学年のキャプテンをしていました。特に問題がなければ3年ではチームキャプテンとなります。キャプテンナンバーの『4』番をつけていました。じつは私は高校でも大学でも、バスケットボールを続けるんですが、ずっとキャプテンなんです/笑」
なんと、久美氏のキャプテンシーの源流は、ここにあったのかもしれない。
いずれにしても、中学時代から全国優勝を遂げるチームを背負い、つらい練習に耐え、キャプテンとして選手たちをまとめ、引っ張った。いまに通じる、これは事実である。

背番号4の涙。

「2年生の時、3年生へのお仕置きに、先生が2年生と3年生のユニフォームを取り替えさせ、私達2年生が若い背番号をつけたことがあるんです。私は2年生のキャプテンだったので『4』番のユニフォームを着せられました。4番なので、チームキャプテンになるわけです。2年で背番号『4』をもらった時は泣きました。だって、先輩たちにしたら『なんであいつなんだ』ってなるわけですよ」。キャプテンだから指示を出さなければいけないのだが、指示をだそうとすると、先輩たちに怒られ、ださないでいると、また文句を言われた。
「辛かったですが、今思えばいい経験ですね。でも、もう一度経験したくはないですけどね/笑」。
バスケと久美氏の関係は、じつは、大学を卒業してからも続いている。
「私は教師になりたくて、愛知教育大学に進み、卒業します。就いたのは、小学校の教師です。じつは、赴任した小学校にバスケットボール部があって、コーチをするんです。その時、結構、できる子っていうか、運動神経がいい子どもが多くって」。
だんだん彼女自身、前のめりになっていく。
「それで、ちょうど私が受け持った時に、市では優勝してしまうんですね。5年生たちがすごく巧かったんです。それで、昔の恩師にクラブチームに誘われて。でも、クラブチームって言ったって、昨日まで普通の小学校の生徒たちです。『愛知県だけみても、強豪なんていくらでもあるんだからね』って。そうハッパをかけながら、私自身は、県大会でも勝ち抜くのは無理だと思っていました。でも、親御さんも盛り上がっちゃって」。
結果は、久美氏の予想のはるか上。こちらでも、市も、県も、東海エリアも、勝ち抜き、全国に進んで優勝までしている。負けることはなかった。クラブチームのコーチ就任1年目のことというから、頭が下がる。
「私もエキサイトしていましたね。たぶん、きついことも言ったんでしょうね。相手は男の子だったし…」。子どもたちからすれば、オニだったかもしれない。
「でも、その子たちとは、今も食事をしたりするんです」。

怒らないけど、許さない。教育の流儀。

教師は11年続けた。退職したのは「世界の山ちゃん」の創業者である山本重雄氏と結婚したからだ。でも、先生という仕事は精神的にハードだと聞く。辞めたいと思ったことはないんだろうか?
「一度だけ、あるんです。ある学校に赴任した1年目の話です。5年生の担当でした」。
それまでのやり方がまったく通用しなかったという。
「だって、子ども達の反応がぜんぜん違うんです。勉強だけなら、教え方を変えればいいですが、大変なのは生活指導ですね。接し方を間違えると子ども達は私の話を聞かなくなり、学級崩壊に発展しかねません。1人の男の子がいて、その子が特にね。でも、私は、その子に教師というか、大人とはっていう、何か大事なことを教えられた気がしているんです」。
怒らないけど、許さない?
久美氏から聞いた言葉を投げかけた。
「そう。怒らないけど、許さない。私はそれを一貫して行いました」。
「たとえば…」と久美氏。
「給食でトウモロコシが出るとしますよね。食べ終わった後に、ナイロン袋を回して芯を捨てていくんです。彼は、袋を待つのがイヤだったんですね。面倒だから。そこで横の子の、机の上に置いちゃうんです。それを取り上げて、もう一度、彼の机に置きます。ええ、私がです。すると今度は、床に落とす。今度も拾います。だって、絶対、妥協してはダメだから。それから、ゴミ箱に入れるんですね。でも、『生ゴミだから、そこじゃない』って、戻します」。
廊下にも捨てられ、校舎の外のサンにも投げられた。それをぜんぶ取り、生徒の机に戻した。許しはしないが、怒らなかった。絶対。そう心に決めていたから。
「彼は、最後に4階の窓から校庭まで投げますが、それも、私が取りに行きました。心を少しずつ開いてくれたのは、あの時からでした」。
教室の運営はうまくいったんだろうか?
いや、そういう次元ではないんだろう。運営だけなら、もっと上手な方法があるはずだ。久美氏の生徒たちへの思いが、この話に凝縮しているように思う。
「でも、その頃の子達とはもう今は会ってないんですよね」。
最後の一言は少しさみしそうなトーンだった。
ともかく、先生という職業はいつの時代も尊いということを、久美氏の話を聞いて改めて知った。いわば、ここまでが、久美氏の第一章である。

名古屋で世界を知る。

「『世界の山ちゃん』を知ったのは、大学生の時です。就職しているお友だちが『面白いお店があるから行こうよ』って。ええ、そのお店が『山ちゃん』だったんです」。
「う~ん、印象ですか? そうだなぁ。ほうれん草をナマで食べさせたり、ね。ちょっと変わったお店かなっていう印象ですね。 まさか、その店のオーナーと結婚するとは思ってもいなかったですけどね/笑」。
そりゃぁ、そうだろう。
恋の軌跡も聞いてみたかったが、話は、3年前。つまり、2016年まで進む。夫であり、「世界の山ちゃん」の創業者であり、当時は会長だった重雄氏が亡くなり、妻の久美氏がバトンを受けた年である。
「最初は、何が何だかわからなかったのが本音です」。
重雄氏が亡くなったのは突然のことだったらしい。
「そうですね。突然だったから、尚更ですね。会長(重雄氏)が、やってきたことをどうすれば守れるか。私だって、結婚してから専業主婦だったわけですから、仕事のことなんてわからない。だけど、今守れるのはあなたしかいない、なんて言われて」。
葛藤も、あったそうだ。だが、決意する。
友達に誘われ、初めて知った「世界の山ちゃん」。何十年かけ、その「世界の山ちゃん」の真ん中に立つことになる。「やるからには、夫の遺志を受け継ごう」。久美氏は、そう誓った。
・・・続き
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株式会社goonies 代表取締役 鈴木正史氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社goonies 代表取締役 鈴木正史氏登場
本文より~

飲食に進むまでの歩み。

父親は、川崎で魚の卸をされていたそう。母親は、保険の外交員。ともに忙しい。
「親父は深夜に仕事に行き、母は夜遅くまで外交員の仕事をしていました。私は3人きょうだいの真ん中です」。
姉と弟。
「両親が忙しいこともあって、自分の食べるものは自分でつくるのがうちのルールでした。そういう意味では、昔から料理に慣れ親しんでいます。今と違い、当時は料理が好きではなかったですが(笑)」。
小学校の低学年から剣道をはじめ、4年から中学1年まで野球をつづけ、中学2年からサッカー。「高校からは帰宅部です」と笑う。
スポーツは好きで、今でも野球は大好きだが、勉強は好きになれなかった。
「高校は野球の強豪校に行きたかったんですが、学力がない/笑。それで、一般校に進み、帰宅部というわけです」。
なるほど。好きといっても、そうそううまい具合にはいかない。
「じつは、ファッションが好きで、高校卒業後にはアパレルメーカーで仕事をしていたのですが、折からのアパレル不況で服が売れません。26歳の時、アパレルの先は暗いといわれ、転職を決意します。といっても、つぎの仕事は銀座のクラブのボーイ。将来をしっかり見据えていたかといわれると『?』なんですが」
ただ、この選択で、人生の道がみつかる。

赤羽に、おしゃれな肉バルがオープンする。

「最初の独立は30歳の時です」。
最初の独立?
「そうなんです。最初は、幼馴染を含めた数人で独立して、レストランをはじめます。じつは銀座でばったり幼馴染に出会って、彼に誘われ、飲食の会社ではたらいていたんです。それで、彼を含め、数名でいっしょに独立です」。
しかし、なかなか思うような業績は上げられなかった。「立地がよくなかったですね。2年経って、クローズします。今考えると当然のなりゆきです(笑)私自身は、それからも知人の紹介で居酒屋ではたらきます。今度は料理も勉強しました。最後に就職したのが、もつ鍋の会社です」
株式会社アキナイ。もつ鍋の名店「もつ福」を展開されている会社だ。
「この会社に在職していた時に、もう一度独立を考えます。資金も貯め、37歳の時に2度目の独立を果たします」。
それが、赤羽ですか?
「2011年の7月ですから、震災の年ですね。当時の赤羽は、思っていたより活気がなかった。治安も、今一つです。今では飲食店も多いですが、うちがオープンした当時は、それもごくわずかです」。
たしかに、いまの赤羽は、昔の赤羽とは様子が異なる。
「ただ、うちはオープン初月から600万円を売り上げます。赤羽のこのあたりには、ワイン業態がなかったんですね。好調な理由は、それもあったと思います」。
奥様も貢献している。「妻の前職の関係で、何人かの芸能関係の人からお花をいただいたんですね。あれは、インパクトがありました」。
名前をうかがうと、たしかに、赤羽の住人はびっくりしたはずだと、へんに納得する。
・・・続き
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夕刊フジの「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」にてTHS様の純生食パン工房HARE/PAN (ハレパン)掲載しました。

夕刊フジの「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」にてTHS様の純生食パン工房HARE/PAN (ハレパン)10月18日(金)、10月25日(金)で2連載させて頂きました。