2019年7月31日水曜日

SRSホールディングス株式会社 代表取締役執行役員社長 重里政彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”SRSホールディングス株式会社 代表取締役執行役員社長 重里政彦氏登場
本文より~

怖い父と、次男と。

大阪市浪速区恵美須町は難波や日本橋から少し外れる。日本橋からは、天王寺の方向に向かえばいい。「まさにTHE大阪だった」と笑うのは、「和食さと」などを運営するSRSホールディングス(株)の3代目社長、重里政彦氏である。
「父が、当社の前身である『株式会社尼崎すし半本店』を設立したのは、私が生まれた1968年のことです」。お父様の印象は?とうかがうと、「とにかく、怖い人だった。仕事一本っていうか。私は、子どもの頃からできるだけ父に近づかないようにしていたくらいです」との返答。
仕事一本。重里氏が小学生になる頃には、すでに100店舗を出店されていたようだが、住まいにも無頓着だったようだ。「ネズミが走り回っていた」と重里氏は笑う。
「父が怖いと言いましたが、小学生の頃は、それ以外では結構自由にさせてもらっていました。あの頃がいちばん賢くて、中学生の頃は医者になろうと思っていました。職業にも惹かれていましたが、いちばんは父から口出しされないだろうと思ったからです」。
釣好きの父は、釣りに向かうたびに重里氏を連れだした。怖い父とわがままな少年。2人の距離は、近くない。次男ということもあったのだろう。事業を継ぐつもりも、さらさらなかったようだ。
高校3年の時、父親に医学部への進学を打ち明けると、猛反対されたそう。戦略を立て、医学部への進学を試みたが、けっきょく、父親の思いが勝った。それで、東大? 「そうです。理3はさすがに無理だったんで、理2で受験し、獣医学を専攻します。父ですか? ええ、東大へ行ってもらいたかったんでしょうね。大はしゃぎしていました」。
父親は乱舞したが、息子はうかなかった。「京都府立医大に合格していたんで、そちらに進もうかとも思ったんですが、それはやばい、父が何をするかわからない、とみんなに諭されて」。
強烈な父親像と同時に創業者像が思い浮かぶ。「ああいう人じゃないと、創業者にはなれないんでしょうね。私には、独立や起業など思いも寄らないことですから/笑」。
どこかで理解し、どこかで反発する。それが、父と子というものなのだろうか。ともかく、そういう風にして、重里氏は赤門が待つ東京へ向かった。

兄と弟と。

東京大学に進んだ重里氏は、大学時代6年間を、ふつうかなと表現している。将来の目標を失ったこともあり、特別なことは、とくになかったということだろう。ところで、6年というのは、むろん獣医学科だったからである。
大学を卒業した重里氏は、畑違いの商社に就職している。
「私は、総合商社のトーメンに就職します。その1年目ですね、親父が亡くなります。箱根で社員研修をしている最中でした。突然でしたから、それはもうたいへん。兄が社長となるわけですが、なんの準備もしていなかったから尚更だったようです」。
突然の交代。以降、兄の重里欣孝氏がどれだけ奮闘されたかは想像に難くない。その奮闘にも興味はあるが、今回の主役は弟の重里氏の話である。重里氏自身は意図して、兄とも会社とも距離をおいていたようだ。むろん、商社の仕事も面白い。 30歳の時には、海外勤務も経験している。
海外勤務は5年間に及んだ。経験にも、財産にもなった。もっとも、重里氏が帰国するタイミングでトーメンと豊田通商が合併する。表面上は対等合併だが、実質的には豊田通商による救済合併だった。少なくとも、その色合いが濃い。
「私がいた部署は、救済どころからファンドに売却されてしまいます。ファンドの下で仕事をするのも経験にはなりましたが、だんだん数字のみの仕事に疲れて、40歳になって初めて転職活動を開始します」。兄と2人っきりで話をしたのは、この時がはじめてだったそう。
兄と弟は年齢が離れていることもあってか、すれ違いが多かった。重里氏が40歳になって、ようやく2人は、おなじテーブルにつく。どんな会話がなされたのだろうか?

改革者、現る。

「和食さと」は、関西のファミリーレストランの雄である。東の「すかいらーく」や「デニーズ」と比較すればわかりやすい。実は、これらのレストランには「ファミリー」という以外にも「セントラルキッチン」という共通項がある。故渥美俊一氏が提唱したチェーンストア理論から生まれた戦略だ。
「うちの親父はだれの言うことも聞きませんでしたが、渥美先生にだけは絶対服従でした/笑」。
故渥美俊一氏については、いうまでもないだろう。ちなみに、渥美氏が創設した「ペガサスクラブ」には、いまも錚々たる企業が名を連ねている。むろん、現在の「SRSホールディングス」も会員だし、渥美氏の論理・思考はいまも息づいている。
とはいえ、時代がかわれば、発想もかわる。主要な戦略だった「セントラルキッチン」を不要とする企業が現れているのも事実だ。とくに、リーマン・ショックから始まった不況下で、飲食の経営スタイルは何度目かの再考を迫られることになる。 「サトレストランシステムズ」もまた、埒外ではなかった。
ちなみに、サトレストランシステムズでも2012年に工場部門を閉鎖している。
ともかく、重里氏が、サトレストランシステムズに入社したのは、ちょうど、その時。重里氏は、いきなりきびしい状況に立たされることになる。「不安がなかったとは言いませんが、畑違いの飲食といっても経営はおなじです。私は、兄のサポートを行うという思いで入社します。当初は、海外戦略が、私の主戦場になるはずでした」。ところが、リーマン・ショックで、国内の立て直しが急務になる。入社した翌年には、重里氏はメインブランドである「和食さと」の事業トップに立つことになる。
ある意味、タイミングがよかったというのは、乱暴な物言いだろうか。ただ、この不況下に入社したことは、重里氏にとっても、会社にとっても、幸いだった気がする。改革が必要な時は、ピンチの時だ。改革者、現る。それも、こんな時だ。重里氏は、大胆な改革案を口にした。

部外者があげた号砲。


「最初は、兄も私を海外戦略のなかで役立てようと思っていたようです。しかし、そういう余裕もなくなってしまう。それで、私は、メインブランドである『和食さと』の事業トップに就きます。すぐに現金を生む仕事です」。
重里氏の改革案は大胆だった。10億円の経費削減。部外者があげた号砲である。調べてみると、当時の売上は全体で約250億円。目標とした削減幅は対売上4%以上の数字となる。
「チームをつくって、最初に取り組んだのは販促方法の改善、キッチン内の業務改善です。その一方で商品開発にも着手しました。『さとしゃぶ』は、その時に開発した新メニューです」。
そもそも鍋は、「和食さと」が得意なメニューだった。このメニューにアレンジを加え、食べ放題にする(詳細は、HPにて)。この「さとしゃぶ」を起爆剤に「和食さと」がV字回復を果たす。同時に、この結果は、重里氏の実力を内外に示すことになる。
とはいえ、まだまだ全体では業績好調とは言い難い。その時、新たなブランドとして「かつや」がスタートする。サトレストランシステムズ初のFCブランド。「ジー」、つまり、加盟店としてのスタートである。
「うちの会社は昔からそうですが、とにかく自前主義なんです。だから、この時も、『なんでFCに』って話がでたのは事実です。しかし、兄の欣孝社長が押し切ります。これは2010年のことです」。
リーマン・ショック以降の、デフレのど真ん中。専門業態がにわかにクローズアップされ、低価格が一段と進む。ハレの日を楽しむ余裕がある人は少なかった。
「これが、もうひとつの改革ですね。ここから『さん天』のプロジェクトも生まれ、現在第二のブランドに育っています」。むろん、「さん天」は自社ブランドあり、重里氏が、兄、欣孝氏のもと、指揮をとって進めた事業である。
「私自身は、外部で育った人間です。親父にもできるだけ近づかなかったから、飲食とはなにか、なんて話をされたこともない/笑。でも、外部で育った人間だからできることもある。兄は、そんな私に賭けてくれたんだと思うんです」。
脱、自前主義。老舗企業がかわり始める。
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有限会社RICCO 代表取締役 関口孝男氏登場。

本文より~

未来のプロテニスプレーヤー。

「大阪」駅から環状線にのると、しばらくして「天満」駅に着く。この天満、いまやディープな食の街として知られている。飲食店が肩を寄せ合うようにして軒を連ねているのが印象的。
昔からの立飲みも多いが、近ごろは、お洒落な店も少なくない。むろん、大阪である。格好が良くても、マズイと勝負にならない。
今回、ご登場いただくのは、この呑み倒れの街に颯爽と登場したピッツァリア&バールのオーナーシェフ関口氏。2017年の世界大会で、世界2位になったピザ職人が焼く、マルゲリータにも絶賛の声が寄せられている。
オーナーの関口氏は、1972年、香川県高松市生まれる。
「父親は新聞記者で、母親は県会議員です。私自身は2人兄弟の長男で、小学校からテニスをはじめ、テニスで食べていくことを誓った少年です」。
テニスは小学校から、硬式。その腕前は、四国全土に知れ渡っていたほどだ。もっとも、テニス人口はそう多くない。
「私自身も、プロのテニスプレーヤーになれると信じて疑わなかったんですが、中学2年の時に、肩を壊してしまって。腕がもう、あがらなくなってしまいました。そうですね。特待の話は、もちろんいただいていたんですが、それも、なくなってしまいます」。
なんということだろう。ただ、関口氏は、たんたんと語るだけである。
「高校はもちろん、テニスではなく、ふつうに『寒川高校』という香川にある高校に進学します。野球は何度か、甲子園に出場しています。私自身は、部活をやるでもなく、ともだちと群れて遊んでばかりです。当時、バンドブームだったことあって音楽にはハマりました。高校1年から週4日、朝の3時までライブハウスでバイトをしていました」。
朝の3時まで? 
「そうですね。授業時間は、睡眠時間です/笑。ただ、遊んでばかりでしたが、実は、バイト代はちゃんと貯金していました。早く親元を離れ、独立したかったからです」。

さらば、香川。

「大学は、大阪電気通信大学に進みます。念願の独り暮らし、スタートです」。
高校時代から深夜バイト。一人で生活するちからはある。貯金もあるから、親にも頼らなくていい。ところが、私立だし、お金もかかる。入学したのはいいが、後期の学費がどうもねん出できそうになかった。
「それが、分かったんで、1ヵ月で早々に退学です。意味がないし、香川を出るっていう目的はもう果たしたわけですから。しかも、親にはお金も頼っていないですし」。
大学進学は、いうならば、香川をでる口実だったし、カムフラージュだったのかもしれない。大学からも、解放されて、晴れて、独り。何者にもしばられない。
「最初は、ともだちのコネで製薬会社に就職します。でも、1ヵ月くらいで、すまん、と。速攻で、退職しました。次に、勤めたのが『天狗』という居酒屋のチェーンです」。
「天狗」はチェーンで、大型店だ。
「飲食は、言えばこの時が、はじめてでしたが楽しかったですね。とくに料理が面白かった。このバイトをきっかけに飲食に進みます。その時、知り合ったともだちが『オレは、(当時、有名なイタリアンの)ピアノピアーノに修業に行く』なんていって。それに、もろに影響されて。『じゃぁ、オレは、和食だ!』って、歓楽街、ミナミの鮨屋で修業を開始します」。
まだ、10代。
「その時の経験は、いまも生きています。給料はそう良くないですが、バブルの時代だったし、チップもいただけたし。在籍したのは、1年半です。生意気なこといって、半分、追い出されたようなもんです/笑」。
話を聞くと、関口氏の言い分のほうがまともだった。ただ、これは、記事にしにくい。「回転すし」まで、敵に回してしまいそうだから。

イタリアへ。

「このあと、ともだちの紹介で、イタリア、ローマに行きます。ただ、知っているのは、紹介されたお店の名前だけで、料理はもちろん、イタリアの知識も何もかもゼロです。だいいちお金もない。当時、片道のチケット代が15万円だったんです。私の所持金は、チケット代を含めて25万円。ええ、もちろん、帰ることができません/笑」。
むろん、イタリア語も話せなかった。それでも、青年は、ローマに渡る。
「たしかに、ローマのピッツアは旨かったですね。でも、正直いうと、それ以外の料理が塩っ辛くて、話になんない」。
塩辛い?
「ええ、そうなんです。イタリア料理って、うまみ成分が少ないから、塩で決めてくるんです。だから、どうしても味が濃くなる。もちろん、私も、その濃い料理をつくっていました。向こうでは住み込みで半年です。それから南フランス、スペインにも、出かけ帰国します」。
「それから、2年間は、イタリアレストランではたらき、スペインバルに移り、ダイニングバーと転々とするわけですが、このダイニングバーが長くて7年です。『梅田』の東通りにあるお店でした」。
ところで、イタリアでの修業はどうだったんだろう。「もちろん、勉強になりました。ただ、私がイタリア料理に魅せられたのは、実は、帰国してからなんです」。
どういうことだろう?

天才たち。

「天才としか言いようがない、イタリアンのシェフがいたからです。1人は『IL GHIOTTONE』のオーナーシェフのササジマさんです。単純に、めちゃめちゃ、旨い。もう1人が、『ラ・ルナ』のコツカさんです。この方はもう『天才』です。そういう言葉しか思いつかないですね。料理の味の決めかたって、料理人にもよりますが、たいてい1つか、2つなんです。でも、彼は7つ以上もっていました。それが、天才たる所以です」。
むろん、関口氏も、天才肌でもある。数字が、実力を証明する。
「ダイニングバーの話ですね。ハイ、私は、統括という役割で入社します。そう、梅田の東通りです。1年目は正直、たいへんでした。結果が現れるのは2年目くらいから。朝9時まで、営業を延長したんです。すると、同業の人が来るんですね。もう、朝ごはんの時間ですが、彼らにしたらちゃんと食べたい」。
「だから、朝もちゃんとした料理をお出ししました。たちまち『9時までやっている旨い店がある』って評判になって。もともと月商180万円だったのが、平均して600万円をオーバーします。そりゃそうですよね、朝5時からまだ3回転するんですから/笑」。
全盛期にはメディアの取材も毎月のようにあった。合計、7年。32歳で、独立し、「西天満」でイタリアレストランをオープンする。いよいよ、もう一人の天才シェフの登場だ。
・・・続き
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2019年7月28日日曜日

7月19日(金)、7月26日(金)で奴ダイニング様の肉バルBKS(ビーフキッチンスタンド)についての記事を2週にわたり掲載させて頂きました。
(紙面7月19日発行)
(電子版/カラー)
 (紙面7月26日発行)
 (電子版/カラー)
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2019年7月24日水曜日

株式会社omnibus 代表取締役 新澤聖樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社omnibus 代表取締役 新澤聖樹氏登場
本文より~

熱血教師と、陸上と。

小学6年生の時、両親が離婚する。母親は、スナックではたらく。兄は、もともと荒れていた。
「もともと親父は酒飲みで。中日新聞社ではたらいてはいたんですが。いっつもお金がない人で、私のブタの貯金箱も狙われいました/笑。兄は、親父にも歯向かいました。離婚することで、生活はきびしくなりましたが、親父がいなくなったことで落ち着いたのも事実ですね。もっとも、まだ、怖い兄が残ったままでしたが…」。
兄は、3つうえ。新澤氏が中学に進学する時には、入れ替わるように中学を卒業する。
「入学してクラスわけってあるでしょ。最初というか、初日は1年9組のおとなしそうな女性が担任のクラスだったんです。たしかに、そうだったんですが、一夜明けた2日目に通学するともう1クラス増えていて。なんなんだ?と思っていたら『お前は、ここのクラスだ』と。なんでも、うちの兄を担任していた加藤っていう先生が『弟が入ってきたのなら、オレに任せろ』って。入学式の翌日になって、もう1クラスつくっちゃたらしいんです。その加藤先生っていうのが、陸上部の監督で。もちろん、クラブも陸上とハナから決められていました/笑」。
陸上部の監督であり、担任でもあった加藤先生は恩師の1人。
「とにかく、『走れ』です。他人がトレーニングしていない時にも『走るんだ』と。そりゃ、もう、練習の練習です。遊ぶ時間もない。でも、じつは練習だけじゃないんです。ちょっとでも派手なガラシャツを着てきたら、着替えさせられますし、髪型をキメてきたら水をぶっかけられて。悪くなるチャンスが、そもそもないんです。兄貴は、どうやって、この力から逃れたんでしょうね/笑」。
ともかく、中学時代は、熱血教師と陸上で、始まり、終わる。

神奈川県で10指に入るが、怪我とともに栄光の日々も終わる。

「最初は、なかなか成績が上がらなかったです。でも、卒業するくらいには、神奈川県でも10位以内に入るようになっていましたから、相当、走りこんだ証拠ですよね/笑」。
陸上王国でもある神奈川県で10位以内とは相当、すごい数字でもある。
「高校からはたくさん推薦をいただきました。でも、お金がないでしょ。それで、陸上が強い県立高校に進みます。勉強もそれなりにできたから、トップにちかい点数で合格しました。むろん、入学後は、すぐさま陸上部です」。
高校からは、長距離。5000メートルを主戦場にする。高校1年の時には横浜で1位になっている。しかし、高校2年になり、長距離の部長になった時、腰を怪我し、これが引き金となって、クラブを辞めることになる。
「いろんなことが重なったんだと思います。怪我をしていたこともあって、年末年始にアメ横でバイトをして、ちょっとそっちに行きたくなるんですね/笑」。
そっちとは、ちょっと不良な世界である。
「怪我も治って、復帰するんですが、今度はブランクが埋まらない。いままで楽勝だった奴に勝てなくなっちゃって。先生は『完全に復活するまでは、それで当然だ』と励ましてくれたんですが…、私的には、挫折っていうか。そのうえ、私が部長だったその年に、うちの高校の駅伝シードが獲れなくって、連続記録が途切れてしまうんです」。
もうなにがなんだか、わからなかったのではないか。それから、新澤氏は長距離を走ったことがない。むろん、部は辞めた。慰めてくれたのは、新澤氏が12歳の時、兄が拾ってきた猫だけだった。

え、入学金が振り込まれていない!?

「大学には進学しようと思っていたんですが、もちろんお金もないし、3年の担任の先生が『何もすることがなくて大学行ってどうするんだ』って。そうだよな、と。ハイ、それで、大学には進まず、手に職をつけるために大阪の調理師学校に進みました。お金ですか? この時は、母と別れた親父に電話して。ハイ、最初は『だしてやる』って言っていたんです。でも、高校を卒業して、そろそろ大阪にいこうかなって時に、専門学校から電話があって『入学金が入金されていないので、このままでは』って。え?って」。
 名古屋で暮らしていた父親のもとまで行き、詰問する。
「なんでだ?」
「最初に『だす』って言っていた時は、酒を飲んでいい気になっていたんでしょうね。でも、酔いが醒めれば、そんなお金はない、と。『とにかく、50万円だけだしてくれ。あとはオレがなんとかするから』って」。
 入学金と授業料でほぼ200万円。それだけではない。家賃もあれば、生活費もある。「もう、住めればいいわけですから、いちばん安いところに住んで。飯は、バイトの賄いと、調理の実習でつくる料理です。もう、今思い出してももどりたくないですね/笑」。
 1年制。卒業して、横浜にある有名ホテルで中華料理のコックになる。それが、また地獄の始まり。

ホテルの理不尽と、独立と、派遣の調理人と。


「ぜんぜん、つづかなかったですね」。本人のことではなく、入社する後輩の話。「もうね。なんの生産性もないイジメです。冷凍庫のなかに放り込まれたり、ゴミ箱に突っ込まれたりね。ホテルの厨房ですよ。もう、私の時代で終わらせてやろうって。でも、ぜんぜんだめ。いくらカバーしても、だれもつづきませんでしたね」。
新澤氏本人は、そういう、悪い伝統をぶち壊してやるという目標もあって、気づいたら2年経っていたそうだ。「もうだめだ」とサジを投げたのが2年後だったとも言える。
「先輩らの憂さ晴ら。低いですよね。次元が…」。「ホテルでもこれかよ」と幻滅し、いったん飲食から離れたが、1年で舞い戻りる。「やっぱり、自分には飲食しかないなって思ったんです」。
それから、地元の居酒屋で2年勤務する。「独立を真剣に考え始めたのはこの頃です」と新澤氏。いよいよ、独立への道がスタートする。
その頃になると、母親も独立し、スナックを経営していた。「25歳の時に、居酒屋を辞めて独立します。母のスナックが24時で終わるんですが、それから朝の7時ですね。月6万円、家賃を母に払って」。
家賃が負担になっているのを知っていたから、わざと借りた。そうすれば母も楽になるだろう、という算段だった。「でもね。ぜんぜん、お客さんがいらっしゃらなかったんです/笑」。
月6万円も払えない。「それで、ちょっとは料理もできますから、派遣で調理の仕事をはじめます。今思えば、いちばんちからがついたのは、あの時ですね。とにかく、派遣ですから、どんな料理もいきなり任されるんです。『○×△つくっといて』みたいなね。しかも、和・洋・中、全ジャンルです。で、その時、調理したのを、夜というか、深夜ですね、うちの店で、再現するんです」。
実践と、実践の繰り返し。新澤氏の料理にかける思いと、その腕前に少しずつ客が吸い寄せられる。そのうちの1人に背中を押され、バーの跡地を新たに借りて正式な1号店をオープンする。
それが2003年の話である。
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株式会社猿屋一家 代表取締役 藤野裕章氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社猿屋一家 代表取締役 藤野裕章氏登場
本文より~

1人だけの卒業式。

高校生の時、休んだことはほぼなかったが、遅刻の回数は200回に及んだ。時には朝6時に到着し、朝練だけ済ませて、雲隠れした。もっぱら、デニーズが隠れ家だったそう。
「遅刻がもとで、卒業を認定してもらえなかったんです/笑。なんとか許しがでたのは、卒業式もとっくにすぎた3月20日。残された道はなく、進める学校も限られていました。それで、私は、夜間の専門学校を選択したんです」。
「ちっちゃな頃からサッカー少年でした。マラソンが得意で、中学時代には駅伝に出場してく大会で1位を獲りました。サッカーは高校に進んでからもつづけます。もっとも、ちかくで帝京高校サッカー部の、二軍ですが、選手たちが練習していて。ええ、二軍でも、私たちからすれば十分、怪物です/笑。だから、サッカーで食べていくなんて、思いもできません」。
高校は、当初、私学に進みたいと思っていたそうだが、結局、都立高校に進学する。自転車で15分。それが選択理由だった。にもかかわらず遅刻の常習犯になるのだから、わからない。
「当時から、ちょっと、かわり者だったんだと思います。集団行動が苦手で。遅刻も、もしかすると集団生活に馴染めなかったからかもしれないですね/笑。ともかく、高校を卒業し、夜間の専門学校に進みます。『調理師』と『ホテルマン』の養成学校です」。
選択したのは、ホテルのほう。「ホテルのドラマが流行っていて、ちょっと影響されました」と笑っている。

ハワイのヒルトンにいた、天才レセプショニスト。

「その専門学校では、2年次に留学のプログラムが組み込まれていて、私も、プログラム通り、海外に行きます。アメリカのシアトルでした。もっとも留学と行っても、生徒40人でいっしょに行くわけですから、みんなであそんじゃいますよね。もう、イチローもシアトルにいたし。何より当時の私は、ノストラダムスの大予言を信じていて、残りの時間をたのしく過ごさないといけないっていう強迫観念みたいなものがありましたから、尚更、たのしい方向に進んじゃいますよね/笑」。
シアトルから、ハワイへ?
「そうなんです。シアトルからもどり、残りの勉強をして、あとはハワイです。ハワイは、卒業生を対象にした研修プログラムの一つで、私は学校を卒業してから、1年間、研修生として『ヒルトン ハワイアン ビレッジ』で勤務します。それが、一つのターニングポイントです」。
フロントを希望したが、レストランサービスに配属される。
「今思えば、これが、始まりです。とくに、そのホテルにいたレセプショニストには、影響を受けました。彼女は、50代くらいの黒人だったんですが、すべてのゲストが彼女に魅了されるんです。彼女は、ゲストの名も、その時々の会話もすべて記憶します。もう、なんていうか。それまでサービスが何者かも知らなかったわけですから、そりゃ衝撃です。彼女は、天才か、天使かですね」。
ハワイで暮らそうと思ったそうだ。
「なんとかできないかなって。ビザのこともあるし、もちろん、お金の問題もある。それでもなんとかできないかと、研修が終わって帰国してからも、正式な仕事には就かず、コンビニで割りのいい深夜バイトを始めます」。
しかし、そう簡単ではない。
「ビザもいろいろあるでしょ。21歳の若造だったし、経験もないし、だんだん無理かなと。そうですね、8ヵ月くらいして断念します」。ハワイが急に遠くへ行った。

グローバルダイニングと、「猿」の始まり。

コンビニバイトを卒業した藤野氏は、まだフリーター生活をつづける。
「代官山にある『タグローズ』に面接に行きました。恰好いいのは、やっぱ代官山だろうな、って思って。当時、横浜に住んでいたんですが、一本だったし。でも、『タグローズ』はクローズが12時、片付けを入れると1時くらいになっちゃって、終電に間に合わなかったんですね。で、『だめですね』ってことになったんですが、担当者が、『ゼスト キャンティーナ 恵比寿』を紹介してくださったんです。『あそこは、朝までだから』って」。
たしかに、朝までなら、終電は関係がない。ところで、当時、藤野氏は「代官山で」とは思っていたが、「タグローズで」とは思っていなかったようだ、つまり、「タグローズ」が何者で、また、「ゼスト」が何者であるかもわかってはいなかったようだ。
「とにかく、紹介されたんで『ゼスト』に行くんですが、ドアを開けた時の解放感がもうハンパなかった。『なんじゃ、これ!』って」。
そりゃ、そうだろう。「ゼスト」はいうまでもなく、グローバルダイニングのコアダイニングの一つである。ドアを開けたとたん、異空間が広がる。息を飲むのは、こういう時をいうのだろう。
「当時、ゼストのマネージャーは、石田聡さんという人です。ヒルトンにいたレセプショニスト同様、石田さんも天才です。しかも、スタッフみんなをのせる天才。彼の下で、もう毎日が楽しくて。しかも、グローバルダイニングが、全盛期の頃です。私もバイトでしたが、バイトも正社員もかわりない。『年収1500万円』のバイトがいた時代です/笑」。
時給は自己申告制。
1日オープンな会議が行われ、それで、みんなが頷けば、めでたく時給がアップする。
「そんなしくみにも惹かれました。ともかく、何から何までけた違い。ふつうじゃない。『ゼスト』からして、ふつうじゃない。400席あって、月商7~8000万円。日々、目標をクリアする。チームの絆はつよかったですが、甘えは、一切なしです」。
言い遅れたが、「ゼスト」でも藤野氏の仕事は、レストランサービスだった。ちなみに、当時、上司に「猿」というニックネームをつけられた。それが、いまの「猿」の始まり。この頃にはすでに、「独立」の二文字を念頭に置いていたそうだ。
・・・続き
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2019年7月22日月曜日

今年の天候と『天気の子』。

『天気の子』封切になり観てきたが、今年の天候とこの映画まさにリンクしている。
新海誠監督、なにか別の能力もあるのかな・・・(笑)

2019年7月18日木曜日

グルメ杵屋レストラン様で新しい試み、『すごいお子様プレート』というお子様メニュー誕生!!

グルメ杵屋レストラン様が新しい試みを。
なんと令和式『すごいお子様プレート』というお子様メニュー誕生!!
かえつ有明中学校・高校の調理部と一緒にコラボしてメニュー開発されました。

告白編

思い出編
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株式会社飲ミュニケーションズ 代表取締役 中村 建(なかむら たつる)氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社飲ミュニケーションズ 代表取締役 中村 建(なかむら たつる)氏登場
本文より~

「ニコバー」。


年1回、放映される27時間の特番は50万ビューもあるそうだ。「飲ミュニケーションズ」のニコバー通信の話である。
「ニコバー通信っていうのは、隔週で放映している私たちの番組です。ツイキャス・YouTube・FRESH!の同時放送で生放送しています」。こちらも1回あたり3万ビューくらいはあるそうだ。
今回、ご登場いただいた中村氏がニコバー通信のもととなるニコバーをオープンしたのは2009年のこと。学生時代にアルバイトで知り合った熊谷氏と二人で共同経営というスタイルで立ち上げたダイニング・バーである。
「最初は、『ブレイク&BARケセラセラ』って店名だったんですが、お客様が『ニコバー』『ニコバー』って言いだして。ネット検索でも『ニコバー』が優勢になって、それでもう観念して、ぼくらも『ニコバー』っていいだしたんです/笑」。
「動画をみながら、飲食できる」のがコンセプト。
いままでなかったタイプの飲食店だ。

秀才、アルバイトに没頭する。

札幌市西区。「区と言っても、熊がでる」と中村氏は笑う。中村氏が、この西区に生まれたのは、1981年。兄弟は2人で、6歳下に弟がいる。
小学生の頃から学力はつねに学年トップクラス。高校は、北海道でもナンバー1の「札幌北高校」。高校では、あまり勉強しなかったというが、現役で「北海道大学」に合格している。
「もっとも、5年通って、3回生のまま退学」と笑う。
「Boys, be ambitious」。青年、中村はどんな大志をいだいたのか?
「大学を退学することになった理由はシンプルで、単純に授業に出なかったからです/笑」。
じつは、中村氏。19歳から、家庭教師派遣の大手企業で営業をはじめ、学生代表という肩書きまでもらっている。なんと、おなじ立場でもある学生アルバイトの時給まで決めていたというから、すごい。
「正社員とおんなじです。ネクタイもちゃんと絞めて、週6日は営業。大学行くヒマもないわけです/笑」。
たしかに、大学には行かなかったが、ある意味、大学に通うより勉強になったのではないだろうか。大事なビジネスのパートナーにも出会っている。
「そうなんです。この会社で、いまの共同経営者の熊谷と出会うんです」。じつは、熊谷氏は、その家庭教師派遣の会社で部長にまでなっている人だ。
「当時は、まだ部長ではなかったんですが、『中村、ちょっと手伝ってくれって』、何度か誘われて、夏の1ヵ月だけとか、千葉では8ヵ月、彼の下で仕事をしました。その頃から2人で起業しようと話あっていたんです。ハイ、それで2009年に会社を設立して。ぼくがたまたま社長になっただけで、共同経営です」。

100×100の公式。

現在、ニコバーは全国に15店舗ある。うち10店舗が直営。残り5店舗がフランチャイズである。中村氏は早々にフランチャイズを20店舗まで拡大していきたいとしている。そういう意味では、今からが加速期間となる。
「将来的には、飲食でシェア№1の会社になろうと。それが、一つの我々の目標です。ただ、いますぐじゃない。30年後くらい先をゴールにしています」。
その時、つまり30年先には、1000店舗を展開するようなメガブランドは生き残っていないだろうと、中村氏は読む。では、どうすべきか。どうあるべきか。
その答えを中村氏は、「100×100」という公式でみちびきだす。
「いま急いでいるのは、全国各地で経営者を育成することです。全国展開しているのも、その理由の一つ。1人1人の経営者を核にして、ビジネスを進めていきたと思っています」。
「いま、東京、大阪にそれぞれ直営店が3店ずつあるんですが、3店舗あるといろんな意味で安定します。だから、ほかのエリアでも3店舗の出店を考えています。ただ、ニコバーだけではなく、異なったブランドがあれば、もっといい訳で、いまそういったことも模索しています。最終的には100ブランドをつくり、それぞれ100店舗以下ですが、出店する。それが、いまの構想です」。
「ぜったい、そんな時代がくる」と中村氏は強くいう。時代がかわれば、飲食もかわる。しかし、かわることがわかっていても、どうかわるかは、別の話。「インスタ」や「フォトジェネック」が、キーワードになるとは、だれも想像しなかったはずである。
だが、いまは、和食の料理人でさえこういう。「この料理は、インスタ映えを狙っている」と。
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株式会社丘里 代表取締役 中村康彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社丘里 代表取締役 中村康彦氏登場
本文より~

14万人の古河市で、年間42万人が来店する名店の、そのはじまり。

昭和46年、両親が喫茶店を開業する。これが、株式会社丘里のはじまり。いまや人口14万人の古河市で、年間42万人を集客する会社となっているが、そのはじまりは、そう華々しくはなかったようだ。
「父も、母も、素人ですからね。しかも、喫茶だけではなく、料理もだしていました。もちろん、ちゃんとしたコックさんを採用して。でも、当時の料理人っていったら、経営者の話も聞かないような人ばかりでしょ。けっきょく、その人たちのおかげで経営もうまくいかない。どちらかというと落ち込んだ母や父をみて育ったようなもんです」。
当時の月商は200万円強だったそう。料理人もつかっている店だから、利益はわずかしか残らない。
「そうですね。うちにお金はなかったですね。もっとも、私は3歳から高校2年までピアノを習っていますから、それなりにお金を遣ってもらったんでしょうが…」。
高校2年まで、じつは音楽で生きていこう、と思っていたそうだ。「でも、うちにお金がないのがわかりましたから、『こりゃぁ、オレがなんとかしなくっちゃ』と。ええ、それで、大学に進学せず服部栄養専門学校に進みます。私が料理をできれば、両親がさんざん泣かされてきた問題が解決しますからね」。

ベルギーのブリュッセル。料理人、中村の生まれ故郷。

服部栄養専門学校に通い、卒業後、3年間、ベルギーのブリュッセルにある「レストラン田川」に勤めている。「う~ん、これはですね。音楽やっていたでしょ。ベルギーとかね。ヨーロッパには関心があったんです。それで、卒業の時に向こうではたらくチャンスをいただけたんで、まっさきに手を挙げて。ハイ、これは、両親にも相談しなかったですね」。むろん、いますぐ帰っても、役立たないことはわかっていたからの選択だろう。
どうでしたか? ブリュッセルは?
「いろいろな意味で、修業になりました。ブリュッセルにあるといっても、『田川』は、日本にある和食店とそん色ないんです。料理人も、たん熊さんや、吉兆さんからいらしているような人ばかり。ええ、もちろん、日本人です。しかも、日本のトップクラスの料理人です。そんな彼らの下で、料理の勉強ができたのは財産ですね。しかも、ヨーロッパなんで、和食にない食材、たとえば、フォアグラやキャビアもつかうんですね。日本では、到底できない経験です」。
もっとも朝8:30~夜の12:30までぶっ通し。長期の休みには、ヨーロッパの国々をめぐるなど、楽しみもなくはなかったが、修業漬けの日々。「じつは、私、むかしから不器用で、箸もちゃんともてなかったんです。だから、休憩時間には箸で米粒をつかむ練習をしていました」。1年間、みっちりやったそう。中村氏はとにかく、やりつづける。ちなみに3年間で、給料は35000円から115000円にアップしている。

帰還すると、すぐさま月商が3倍になる。しかし。

「ベルギーからもどり、赤坂の料亭『田川本店』で、今度も3年勤め、25歳の時に両親のもとで仕事をするようになりました。なんでも、私が店に入ることを知って、当時いた料理人は、辞めたそうです。経営者が料理のことがわからないから、たぶんやりたい放題だったんでしょうね。私が帰ると、それができなくなる/笑」。
店のいい悪いは、料理だけで決まるわけではない。ただし、「旨い」、これは間違いなくキーワードである。父親も素人ながら、料理をしたこともあったそうだが、素人の域はでなかったのだろう。
「そういう素人でもできる、というのがあったんでしょうね。私がもどった時は、スパゲッティやサンドウィッチなど、素人でもできるメニューもあった。でも、それじゃだめなんですね。だから、一切、止めて、和食に絞ります。すると、月商がいきなり3倍くらいになり、造りも改めると月商1000万円をオーバーするようになりました」。
息子の仕事にご両親もさぞ目を細められたことだろう。しかし、そんなできる息子だから、躓くことになるから、人生はわからない。
「月商が1000万円オーバーした頃ですね。2号店のお話をいただいて。そうですね。あの頃がいちばん辛かったかな」と中村氏は独白する。
「原因は、人です。2号店をだしてからしばらくして、6人いた板前のうち5人が一斉にいなくなったんです」。アルバイト・パートだって、辞めていく。店も開けられない。「原因は私です。だって、当時、料理人は私の道具でしかないと思っていたくらいですから」。
過去のことがある。泣かされてきた父母への思いもある。だから、尚更、すべてが上から目線だったのだろう。母がこっそり退職の理由を聞くと、決まって「板長がイヤだから」という返事だったそう。板長とはいうまでもなく、中村氏のことだった。
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株式会社丘里 代表取締役 中村康彦氏
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観葉植物が8年でこんなに・・・・・。

事務所移転時の観葉植物が8年でこんなになりました。
知らない間にこんなに月日が経ってるんですね・・・。
人も一緒。成長してくれています。

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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

新人、いきなり月間目標達成!!

4月入社の2人。
7月から目標持ちましたが2人ともいきなり月間目標達成しました。
2人とも社長取材で頑張ってくれ、8月以降も沢山ネタ持ってます。
『効果にこだわる』、『同業他社とは違った採用戦略』を武器に良い仕事してもらってます。
早く平均年齢20代の営業の皆に移行し暴れてもらいたい。
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2019年7月12日金曜日

夕刊フジ「飲食FC(フランチャイズ)で第2の人生」にて3連載でやきとり大吉のダイキチシステム様取り上げました。

夕刊フジの新連載「飲食FC(フランチャイズ)で第2の人生」が5月17日(金)よりスタートしましたが、
6月28日(金)、7月5日(金)、12日(金)でやきとり大吉のダイキチシステム様について記事掲載させて頂きました。
zakzakにも同時掲載しています。→こちら
(No.1)
(No.2)
(No.3)
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2019年7月11日木曜日

「飲食の戦士たち」、マンガームービー第2弾!!

「飲食の戦士たち」、マンガームービー第2弾!!
飲食の経営者の生き様をまとめた「飲食の戦士たち」700連載突破を記念して
「飲食の戦士たち」のマンガムービーを時代の流れに合わせ誕生させました。
その第2弾坂東太郎様が完成しました。
ご覧ください。
マンガムービーはキイストンとトレンドプロとの合同企画商品です。
こちらは「飲食の戦士たち」です。
坂東太郎・青谷会長(飲食の戦士たちより)
https://in-shoku.info/foodfighters/vol469.html
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7月2日(火)、千葉商科大学・池田ゼミにてジローレストランシステム株式会社の佐藤社長の講演でした。

7月2日(火)、千葉商科大学・池田ゼミにてジローレストランシステム株式会社の佐藤社長の講演でした。
学生発信で、なにやら新たな試み始まりそうな予感です。

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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

新たな総合人材サービスの商材になるか・・・・・・。

昨日、新たな総合人材サービスの商材の一つとして、
その人の特性を知る適性試験にと、
特殊カメラで撮影した人物の精神状態を「可視化」し、
自動で検知する画像解析システム活用の件で、
試験的にスタッフ数名やってもらいました。

項目の中にカリスマ性という項目があり、
ココが低いと社長として情けないですが、
おかげさまで誰よりも高くて安心しました(笑)

採用や既存社員のフォローに使えないかこれから検討していきます。

https://business.nikkei.com/atcl/report/15/226265/060300032/
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2019年7月9日火曜日

株式会社グルメ杵屋レストラン 代表取締役 佐伯崇司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社グルメ杵屋レストラン 代表取締役 佐伯崇司氏登場
本文より~

目標は、ロケット。

「終電に乗れたのは、週に2回くらいです。残りは、タクシーで帰るか、泊まり込み」と佐伯氏は笑う。佐伯氏がまだ日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)の人事課長だった頃の話である。入行は1980年。「まさかあの頃は銀行が潰れるなんて思ってもいなかったですね」。
佐伯氏は1956年に生まれている。岐阜出身。父親は電電公社(現NTT)に勤務し、母親は佐伯氏とおなじ銀行員だった。「背がちいさくて、引っ込み思案の子だった。本を読むのが、好きだったかな。旅行も、外食も、あまり記憶にないですね。ただ、年1回、父母の田舎に帰省はしました。当時はSL、蒸気機関車です/笑」。
窓を開ければ、黒い煤が流れ込んでくる。何両もの車両をひっぱっていたのは、石炭だ。「そうですね。まだ、そんな時代ですね。子どもの頃の私は、ロケットを飛ばしたいと思っていました。石炭の時代ですからね。ロケットなんていうと、もう相当な未来の話だったんです」。
じつは、ロケットは思いつきではなく子どもの頃は真剣に、東大の航空宇宙研究所をめざしていた。「でも、高校になると、だんだんわかってくるでしょ。さすがに『航空宇宙研』は無理だと。理Ⅲ(医学部)より難しい。/笑」。
たしかに、ロケットはあきらめたが、かわりに東大法学部にあっさり進んでいる。佐伯氏にとって、赤門自体は、高い門ではなかったようだ。

バンカーへ。日本債券信用銀行入行。

「法学部ですが、弁護士は頭になかったですね。司法試験に比べれば東大に入り直す方がよっぽど楽です」。
けっきょく、就職先は長期信用銀行の1行だった日本債券信用銀行となる。債券発行を担った銀行である。「最初は、上野に配属されました。ハイ、浅草のおばちゃん相手です/笑」。
時代はマンション不況・第二次オイルショックから立ち直り、景気回復で金融引き締めが行われた頃。国債金利が6%から9%まで駆け上がる、そんな頃の話である。ちなみに、上昇した3%だけでも、いまの金利と比較すれば数十倍だ。
「まぁ、そういう時代ですね。私は入行5年目から、当時の大蔵省に出向し、銀行にもどってからはインベストメントバンカー、労働組合書記長、人事課長ですね」。
インベストメントバンカー時代、佐伯氏は、日本企業がユーロ市場で起債する債権などを担当していたそう。「マーケットがロンドンだから、時差は8時間ですよね。ときにはニューヨークまで追いかけるので、向こうとは11時間時差がある。ハンパなかったですね」。バンカーが描く地球儀には、日付変更線は記されていない。「でもまだこの頃は、土日が休めていましたからね。人事課長になってからは、それもなくなった/笑」。
約20年と、佐伯氏はいう。「バブルが弾け、不良債権の山ができる。うちの銀行も1998年に経営破綻し、一時国有化されます。経営陣も総入れ替えでしょ。私が知っている銀行ではなくなった。そう思って退職しました」。
これが、佐伯氏42歳の時のこと。

初の飲食、初の社長。

「それからですか? まず、外資のアーサー・アンダーセンに転職します。ただ、アーサー・アンダーセンも、エンロン事件で解散してしまうんですね。日本の事務所は、オランダ本部のKPMGに吸収され、私は、そちらでも2年勤めたあと、そう、はじめて外食に進みます。ロイヤルホールディングス株式会社の社長だった今井さんに誘っていただいたんです」。
当時、丸紅から「天丼のてんや」の「テンコーポレーション」をM&Aしたばかりだったそう。
「それで、私に白羽の矢が立ったんですが、もちろん、飲食ははじめて。『てんや』も苦戦中です。素人に舵取りは難しい。だれもがそう思うでしょうが、今井さんは、逆に飲食経験のない私だからできることがあると思われたのかもしれませんね。ご自身もそうですから」。
実際、1年3ヶ月かけ124店舗すべてを回るなど、独自のスタイルで経営を行った。パート・アルバイトとも時間をかけて直接対話するなど、異例のことだったに違いない。
「最初に私がやったのは、値引き・割引の禁止です。ええ、ぜんぶ止めました。だって、500円の天丼。これだけで価値は充分あるんです。にもかかわらず値引きのキャンペーンをしたり、3杯食べたら1杯無料にしたりするとか。なんで、自分から価値を下げるんだって」。
行脚と会話。
だれもが、天丼500円の価値に気づく。それが起死回生始まり。「正式に社長になったのは、転職して9ヵ月経ってからだから、丸3年ですね。ハイ、業績は、回復したんですが、つぎにリーマン・ショックです。会社は存続できましたが、私は退任させられました/笑」。
アルバイト・パートとつないだホットラインもなくなる。従業員向けに毎週送ったレターも、もう書くことはない。
はじめての社長業は、たしかな実績も残したが、ほろ苦い結果となったとも言えるだろう。
ただ、佐伯氏は面白いことを言っている。
「飲食っていうのはBtoCでしょ。相手は経済合理性なんか関係ない個人消費者。私は新社会人の時浅草のおばちゃんたちに鍛えられましたからね、個人はどう思うか、どう行動するか知っている。だからこの仕事はできるって」。
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株式会社ソラノイロ 代表取締役 宮﨑千尋氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ソラノイロ 代表取締役 宮﨑千尋氏登場
本文より~

一杯を彩る、ソラノイロのラーメン。

ラーメンに色彩がある。赤、オレンジ、緑…。観た目はもちろんだが、味のバラエティも豊か。オシャレなカフェでいただくような、フォトジェニックな逸品ぞろいである。
ベジタリアンが、好むのは「ベジソバ」。動物系の素材を一切使用していないのは「ビーガンベジソバ」。ここに150円をプラスすれば、グルテンフリーの美味なラーメンがいただける。
今回、ご登場いただいたのは、この評判のお店「ソラノイロ」の代表取締役 宮﨑 千尋氏。1977年2月16日生まれの41歳だ。
「ラーメンの食べ歩きを始めたのは、15歳です。高校時代には150軒ちかく回りました」。年季が入っている。「大学生になってからは拍車がかかり、卒業まで400~500軒は食べ歩いたと思います」。
まさに、ラーメンフリークである。その経歴から生まれたラーメンは、ある意味、ラーメンとは別物。ラーメンから進化した新たなジャンルと表現したほうがいいかもしれない。
はたして、どのようにして、「ソラノイロ」は生まれたのだろう。もう少し詳しく、宮﨑氏の足跡を追いかけてみよう。

ラーメン食べ歩き。

「小学校の頃は、野球をやったり、虫とりをしたりするふつうの少年です。お祭りが大好きで、私の飲食の原点は、テキヤさんです/笑」。
中学では陸上部に所属。高校は都立高校に進んで、バスケットボールをはじめ、この部では部長を務めている。「食べ歩きを始めたのは、この頃です。きっかけは、親父が持っていたラーメンの本です」。
もっとも、食べ歩きはラーメンだったが、バイトはうどん屋。なんでも友人の家がうどん屋さんを経営していたからだという。ちなみに、高校のバスケットボールでは都大会で、ベスト16に入っているからすごい。
「大学は青山なんですが、そちらでもバスケをつづけます。一方、食べ歩きには拍車がかかり、ラーメンを食べない日はないくらいになりました」。大学生になってからは、バイト先もラーメン店。ラーメン博物館で、はたらきながら、ラーメンにより一層、魅了される。
ちなみに、この頃、いろんな著名人と交流する。ラーメンデータバンクの取締役会長で、自称日本一ラーメンを食べた男、大崎裕史氏もその1人。また、ラーメン評論家の石神秀幸氏も、一風堂の河原成美氏とも、この時に出会っている。
ラーメンという磁石が、多くのフリークたちを惹きつけたのだろう。

ラーメン愛は、通い合う。

大学卒業後、宮﨑氏は、人材業界の大手企業に就職するが、わずか4ヵ月で退職してしまう。一般企業でラーメン愛を語れないからだろうか。
「そのあと、調布にある個人のラーメン店でお世話になります。あとで河原さんからも怒られるんですが、勉強のために就職したんですが、店主とケンカしてしまって。それで、こちらも4ヵ月です/笑」。
ほかに手はない。宮﨑氏は、「河原さん」という、一風堂の河原成美氏に電話を入れる。六本木で会い、翌日、福岡にいっしょに向かった。
「1週間くらい向こうで寝泊まりさせてもらって、帰りもおなじ飛行機です。その時、『就職させて欲しい』っていうんですが、『いまはだめだ、待て』と。OKがでなかった。3回目で、はじめて『わかった』って」。
翌年、新卒とおなじ枠で採用される。同期は6名。
そのなかで、宮﨑氏はもっとも社長に近かった。いや、会社のなかでも、河原氏と宮﨑氏はちょっと他とは、異なった関係だったかもしれない。互いにラーメン愛が抜きんでている。
「社長との距離っていうのは、だれが決めるんでしょうね。ぼくは、自分から、河原さんに電話を入れました。そうですね。社長と社員だからじゃないかもしれない。どちらかと言うと、ラーメンを愛する者同士の情報共有。そんな具合だった気もします」。
宮﨑氏は、新店や、流行の店を紹介した。2人いると話は尽きない。ラーメンという共通言語がある。「河原さんも、私も、たいていの店は行っているでしょ。だから、話も弾むんです」。
「ええ、最初から独立するつもりだったし、河原さんにも3年と言っていました。ただ、3年経った時に『五行』への異動が決まり、もう少し勉強してみよう、と。で、最終的には本部も2年。結局11年、お世話になりました」。河原氏とはまだ付き合いがある。
「最後は、なかなか辞めさせてもらえなかった」と宮﨑氏はいうが、もちろん円満退職である。
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