2019年7月18日木曜日

新人、いきなり月間目標達成!!

4月入社の2人。
7月から目標持ちましたが2人ともいきなり月間目標達成しました。
2人とも社長取材で頑張ってくれ、8月以降も沢山ネタ持ってます。
『効果にこだわる』、『同業他社とは違った採用戦略』を武器に良い仕事してもらってます。
早く平均年齢20代の営業の皆に移行し暴れてもらいたい。
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2019年7月12日金曜日

夕刊フジ「飲食FC(フランチャイズ)で第2の人生」にて3連載でやきとり大吉のダイキチシステム様取り上げました。

夕刊フジの新連載「飲食FC(フランチャイズ)で第2の人生」が5月17日(金)よりスタートしましたが、
6月28日(金)、7月5日(金)、12日(金)でやきとり大吉のダイキチシステム様について記事掲載させて頂きました。
zakzakにも同時掲載しています。→こちら
(No.1)
(No.2)
(No.3)
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2019年7月11日木曜日

「飲食の戦士たち」、マンガームービー第2弾!!

「飲食の戦士たち」、マンガームービー第2弾!!
飲食の経営者の生き様をまとめた「飲食の戦士たち」700連載突破を記念して
「飲食の戦士たち」のマンガムービーを時代の流れに合わせ誕生させました。
その第2弾坂東太郎様が完成しました。
ご覧ください。
マンガムービーはキイストンとトレンドプロとの合同企画商品です。
こちらは「飲食の戦士たち」です。
坂東太郎・青谷会長(飲食の戦士たちより)
https://in-shoku.info/foodfighters/vol469.html
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7月2日(火)、千葉商科大学・池田ゼミにてジローレストランシステム株式会社の佐藤社長の講演でした。

7月2日(火)、千葉商科大学・池田ゼミにてジローレストランシステム株式会社の佐藤社長の講演でした。
学生発信で、なにやら新たな試み始まりそうな予感です。

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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

新たな総合人材サービスの商材になるか・・・・・・。

昨日、新たな総合人材サービスの商材の一つとして、
その人の特性を知る適性試験にと、
特殊カメラで撮影した人物の精神状態を「可視化」し、
自動で検知する画像解析システム活用の件で、
試験的にスタッフ数名やってもらいました。

項目の中にカリスマ性という項目があり、
ココが低いと社長として情けないですが、
おかげさまで誰よりも高くて安心しました(笑)

採用や既存社員のフォローに使えないかこれから検討していきます。

https://business.nikkei.com/atcl/report/15/226265/060300032/
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2019年7月9日火曜日

株式会社グルメ杵屋レストラン 代表取締役 佐伯崇司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社グルメ杵屋レストラン 代表取締役 佐伯崇司氏登場
本文より~

目標は、ロケット。

「終電に乗れたのは、週に2回くらいです。残りは、タクシーで帰るか、泊まり込み」と佐伯氏は笑う。佐伯氏がまだ日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)の人事課長だった頃の話である。入行は1980年。「まさかあの頃は銀行が潰れるなんて思ってもいなかったですね」。
佐伯氏は1956年に生まれている。岐阜出身。父親は電電公社(現NTT)に勤務し、母親は佐伯氏とおなじ銀行員だった。「背がちいさくて、引っ込み思案の子だった。本を読むのが、好きだったかな。旅行も、外食も、あまり記憶にないですね。ただ、年1回、父母の田舎に帰省はしました。当時はSL、蒸気機関車です/笑」。
窓を開ければ、黒い煤が流れ込んでくる。何両もの車両をひっぱっていたのは、石炭だ。「そうですね。まだ、そんな時代ですね。子どもの頃の私は、ロケットを飛ばしたいと思っていました。石炭の時代ですからね。ロケットなんていうと、もう相当な未来の話だったんです」。
じつは、ロケットは思いつきではなく子どもの頃は真剣に、東大の航空宇宙研究所をめざしていた。「でも、高校になると、だんだんわかってくるでしょ。さすがに『航空宇宙研』は無理だと。理Ⅲ(医学部)より難しい。/笑」。
たしかに、ロケットはあきらめたが、かわりに東大法学部にあっさり進んでいる。佐伯氏にとって、赤門自体は、高い門ではなかったようだ。

バンカーへ。日本債券信用銀行入行。

「法学部ですが、弁護士は頭になかったですね。司法試験に比べれば東大に入り直す方がよっぽど楽です」。
けっきょく、就職先は長期信用銀行の1行だった日本債券信用銀行となる。債券発行を担った銀行である。「最初は、上野に配属されました。ハイ、浅草のおばちゃん相手です/笑」。
時代はマンション不況・第二次オイルショックから立ち直り、景気回復で金融引き締めが行われた頃。国債金利が6%から9%まで駆け上がる、そんな頃の話である。ちなみに、上昇した3%だけでも、いまの金利と比較すれば数十倍だ。
「まぁ、そういう時代ですね。私は入行5年目から、当時の大蔵省に出向し、銀行にもどってからはインベストメントバンカー、労働組合書記長、人事課長ですね」。
インベストメントバンカー時代、佐伯氏は、日本企業がユーロ市場で起債する債権などを担当していたそう。「マーケットがロンドンだから、時差は8時間ですよね。ときにはニューヨークまで追いかけるので、向こうとは11時間時差がある。ハンパなかったですね」。バンカーが描く地球儀には、日付変更線は記されていない。「でもまだこの頃は、土日が休めていましたからね。人事課長になってからは、それもなくなった/笑」。
約20年と、佐伯氏はいう。「バブルが弾け、不良債権の山ができる。うちの銀行も1998年に経営破綻し、一時国有化されます。経営陣も総入れ替えでしょ。私が知っている銀行ではなくなった。そう思って退職しました」。
これが、佐伯氏42歳の時のこと。

初の飲食、初の社長。

「それからですか? まず、外資のアーサー・アンダーセンに転職します。ただ、アーサー・アンダーセンも、エンロン事件で解散してしまうんですね。日本の事務所は、オランダ本部のKPMGに吸収され、私は、そちらでも2年勤めたあと、そう、はじめて外食に進みます。ロイヤルホールディングス株式会社の社長だった今井さんに誘っていただいたんです」。
当時、丸紅から「天丼のてんや」の「テンコーポレーション」をM&Aしたばかりだったそう。
「それで、私に白羽の矢が立ったんですが、もちろん、飲食ははじめて。『てんや』も苦戦中です。素人に舵取りは難しい。だれもがそう思うでしょうが、今井さんは、逆に飲食経験のない私だからできることがあると思われたのかもしれませんね。ご自身もそうですから」。
実際、1年3ヶ月かけ124店舗すべてを回るなど、独自のスタイルで経営を行った。パート・アルバイトとも時間をかけて直接対話するなど、異例のことだったに違いない。
「最初に私がやったのは、値引き・割引の禁止です。ええ、ぜんぶ止めました。だって、500円の天丼。これだけで価値は充分あるんです。にもかかわらず値引きのキャンペーンをしたり、3杯食べたら1杯無料にしたりするとか。なんで、自分から価値を下げるんだって」。
行脚と会話。
だれもが、天丼500円の価値に気づく。それが起死回生始まり。「正式に社長になったのは、転職して9ヵ月経ってからだから、丸3年ですね。ハイ、業績は、回復したんですが、つぎにリーマン・ショックです。会社は存続できましたが、私は退任させられました/笑」。
アルバイト・パートとつないだホットラインもなくなる。従業員向けに毎週送ったレターも、もう書くことはない。
はじめての社長業は、たしかな実績も残したが、ほろ苦い結果となったとも言えるだろう。
ただ、佐伯氏は面白いことを言っている。
「飲食っていうのはBtoCでしょ。相手は経済合理性なんか関係ない個人消費者。私は新社会人の時浅草のおばちゃんたちに鍛えられましたからね、個人はどう思うか、どう行動するか知っている。だからこの仕事はできるって」。
・・・続き
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株式会社ソラノイロ 代表取締役 宮﨑千尋氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ソラノイロ 代表取締役 宮﨑千尋氏登場
本文より~

一杯を彩る、ソラノイロのラーメン。

ラーメンに色彩がある。赤、オレンジ、緑…。観た目はもちろんだが、味のバラエティも豊か。オシャレなカフェでいただくような、フォトジェニックな逸品ぞろいである。
ベジタリアンが、好むのは「ベジソバ」。動物系の素材を一切使用していないのは「ビーガンベジソバ」。ここに150円をプラスすれば、グルテンフリーの美味なラーメンがいただける。
今回、ご登場いただいたのは、この評判のお店「ソラノイロ」の代表取締役 宮﨑 千尋氏。1977年2月16日生まれの41歳だ。
「ラーメンの食べ歩きを始めたのは、15歳です。高校時代には150軒ちかく回りました」。年季が入っている。「大学生になってからは拍車がかかり、卒業まで400~500軒は食べ歩いたと思います」。
まさに、ラーメンフリークである。その経歴から生まれたラーメンは、ある意味、ラーメンとは別物。ラーメンから進化した新たなジャンルと表現したほうがいいかもしれない。
はたして、どのようにして、「ソラノイロ」は生まれたのだろう。もう少し詳しく、宮﨑氏の足跡を追いかけてみよう。

ラーメン食べ歩き。

「小学校の頃は、野球をやったり、虫とりをしたりするふつうの少年です。お祭りが大好きで、私の飲食の原点は、テキヤさんです/笑」。
中学では陸上部に所属。高校は都立高校に進んで、バスケットボールをはじめ、この部では部長を務めている。「食べ歩きを始めたのは、この頃です。きっかけは、親父が持っていたラーメンの本です」。
もっとも、食べ歩きはラーメンだったが、バイトはうどん屋。なんでも友人の家がうどん屋さんを経営していたからだという。ちなみに、高校のバスケットボールでは都大会で、ベスト16に入っているからすごい。
「大学は青山なんですが、そちらでもバスケをつづけます。一方、食べ歩きには拍車がかかり、ラーメンを食べない日はないくらいになりました」。大学生になってからは、バイト先もラーメン店。ラーメン博物館で、はたらきながら、ラーメンにより一層、魅了される。
ちなみに、この頃、いろんな著名人と交流する。ラーメンデータバンクの取締役会長で、自称日本一ラーメンを食べた男、大崎裕史氏もその1人。また、ラーメン評論家の石神秀幸氏も、一風堂の河原成美氏とも、この時に出会っている。
ラーメンという磁石が、多くのフリークたちを惹きつけたのだろう。

ラーメン愛は、通い合う。

大学卒業後、宮﨑氏は、人材業界の大手企業に就職するが、わずか4ヵ月で退職してしまう。一般企業でラーメン愛を語れないからだろうか。
「そのあと、調布にある個人のラーメン店でお世話になります。あとで河原さんからも怒られるんですが、勉強のために就職したんですが、店主とケンカしてしまって。それで、こちらも4ヵ月です/笑」。
ほかに手はない。宮﨑氏は、「河原さん」という、一風堂の河原成美氏に電話を入れる。六本木で会い、翌日、福岡にいっしょに向かった。
「1週間くらい向こうで寝泊まりさせてもらって、帰りもおなじ飛行機です。その時、『就職させて欲しい』っていうんですが、『いまはだめだ、待て』と。OKがでなかった。3回目で、はじめて『わかった』って」。
翌年、新卒とおなじ枠で採用される。同期は6名。
そのなかで、宮﨑氏はもっとも社長に近かった。いや、会社のなかでも、河原氏と宮﨑氏はちょっと他とは、異なった関係だったかもしれない。互いにラーメン愛が抜きんでている。
「社長との距離っていうのは、だれが決めるんでしょうね。ぼくは、自分から、河原さんに電話を入れました。そうですね。社長と社員だからじゃないかもしれない。どちらかと言うと、ラーメンを愛する者同士の情報共有。そんな具合だった気もします」。
宮﨑氏は、新店や、流行の店を紹介した。2人いると話は尽きない。ラーメンという共通言語がある。「河原さんも、私も、たいていの店は行っているでしょ。だから、話も弾むんです」。
「ええ、最初から独立するつもりだったし、河原さんにも3年と言っていました。ただ、3年経った時に『五行』への異動が決まり、もう少し勉強してみよう、と。で、最終的には本部も2年。結局11年、お世話になりました」。河原氏とはまだ付き合いがある。
「最後は、なかなか辞めさせてもらえなかった」と宮﨑氏はいうが、もちろん円満退職である。
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株式会社らーめんワールド 代表取締役 小林 健氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社らーめんワールド 代表取締役 小林 健氏登場

本文より~

高校卒業、ボクサーをめざす。

小さい時から何をやっても長つづきしなかったが、中学からはじめた柔道は3年間つづいた。おまけに、ちゃんと練習もしたのだろう。推薦で高校に進学している。
「デカイのが、2人、おなじ部にいて…」と小林氏。
そのおかげで団体では、関東大会にも出場している。とはいえ、小林氏も推薦で高校へ進んでいる。「そうですね。ただ、推薦で入学したんですが、じつは、柔道部には入っていないんです。ま、それが許されるのも、ある意味、特殊な学校だったからかもしれません/笑」。
数年前は、校舎のなかをバイクが駆け回る。そのあとを警官が走って追いかける。
当時、スクールウォーズというTVドラマがあったが、小林氏が進んだ高校は、数年前まではドラマの舞台にそっくりだったそうである。
「警官も来るくらいですからね。1年の時は、10クラスくらいあるんですが、3年になると数クラスしかない。生徒がみんな辞めていっちゃうからです。いまですか? もう、学校はないです」。
そんなスクールウォーズ的な学校で、3年間、もまれた。もっとも、小林氏は校外での仕事がいそがしかったようだ。「回転すしに、宅配便…。高校時代を総括すると、アルバイトです。大学進学は最初から頭になかったですね」。高校卒業後は、本格的にボクシングをはじめる。「高校時代からかじってはいたんです。卒業してからは、パチンコ店でアルバイトをしながら、ジム通いです」。
若いから、怖いもの知らず。格闘技をやっているから尚更だ。
「ある居酒屋で、口論になっちゃって。向こうは、怖い人たちだったようで。こっちは4人、向こうは、団体です。ええ、もうボコボコです。2階から落とされ、顎を砕かれました。おっかなかったですね」。
顎といっしょに心も砕かれた。このままじゃ、やべぇ。

修業時代。


「広告に『月給40万円』ってバーンって書いてあったんです。それで、応募です/笑。19歳です。その会社は当時はまだ8店舗くらいだったでしょうか? 直営も1/2くらいだった。独立制度もまだなかった時代です」。 がむしゃらだった。
「子どもの頃から、これだ!っていうのが何もない。だから…」。
常務が「かわいがってくれた」と小林氏はいう。当時の常務は、小林氏に何をみたんだろうか。ともかく、常務の指導を仰ぎながら、頭角を現していく。六本木や渋谷の立ち上げを次々、任され、実績を残す。ちなみに、プライベートでも20歳で結婚し、26歳の時には住まいも購入している。
「7年目くらいの時に、業務委託制度がスタートして。そうですね、私はその制度の一期生です。個人事業主になりました。当時は給料の保証制度もあって、70万円くらいです」。
独立することになったが、この会社とは「いっしょに進んでいくんだ」と思っていた。オリジナルのラーメン店をオープンしたのも、会社から離れるためではない。むしろ、推奨されていると思っていた。
「ただ、何がどうなったのか/笑」。
9年間、在籍していたが、いきなり首を言い渡された。
「委託されていたお店は、3店舗ともいきなり没収です。だから、私の下に残ったのは、私がオープンした店だけ。私と社員10名をその店だけで養うのは難しい。だから、2号店は早かったですね。7月に首になって完全に独立して、11月には神楽坂に2号店をオープンしています」。ともかく、出店するしかなかったが、こちらが爆発する。
「日商50万円」と小林氏。月商は、1000万円を軽くオーバー。独立前までは、いい時で200万円だったが、それ以上の額が、小林氏にも転がり込む。
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株式会社寿幸 代表取締役社長 田中寿幸氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社寿幸 代表取締役社長 田中寿幸氏登場
本文より~

名古屋、大阪、修業の旅?

今回、ご登場いただいた株式会社寿幸の田中氏は、1977年、福井県越前市越廼村に生まれている。以来、この村は、田中氏を育みつづける。村を離れるのに、父親は大反対されたようだが、もともと都会生まれの母親が賛成してくれたらしい。それで、24歳にして、初めて福井県から外に出る。
最初に向かったのは、母親も暮らしたことがある名古屋市。
「大須観音のちかくに住んで、たこ焼きのお店ではたらきました。その店で1年やった頃、やるなら、本場で、と今度は、大阪に向かいました」。
福井の漁師町から比べたら、名古屋も異様な世界だったが、梅田に初めて行った時には「何かの大きな祭りか?」と思ったそう。平日の話である。
「大阪では、鉄板焼のお店に就職しました。包丁を持ったことがなかったし、料理を学びたかったからです。でも、その店にいたのは、まさかの1ヵ月で、くびになりました/笑」。
「ただ、いまになれば負け惜しみでもなんでもなく、なにか運命みたいなものも感じています。というのも、次の店で、うちの今の、スタイルのもととなるヒントをつかむわけですから。クビにならなかったら、今の創作串はなかったかもしれません」。
たしかに、人生はわからない。
わからないといえば、田中氏の行動もなかなか理解できない。
「そうですよね。だって、私は、結局、何も修業してないで独立したわけですから」と田中氏も同調する。「2軒目の店には、1年間、いたにはいたんですが、最後まで洗い場。でもね、洗い場からずっと観ていたんです。『○○のタイミングで、塩をふるんだな』みたいな、ね。それを忘れずノートに写します。1年でしょ。ページは何ページも埋まります」。
いうならば、これが田中氏の修業。
「洗い場と調理場は、少し離れていたんですが、オレ、めっちゃ目がいいんです。だから、全部覚えられた/笑」。どうやら、そうそう真似ができる方法ではないらしい。むろん、独立に際しては、料理をアレンジした。「漁師町は味が濃いんです。だから、うちのは少し味が濃いです。ほかと比べれば」と田中氏は語っている。

席数売上、飲食店日本一。

4坪9席からスタートした、と田中氏は、創業店の話を語りだす。前オーナーから譲り受けた店だったが、家賃は坪9万円と大阪ミナミでも高いほうだったらしい。
「そういう相場も、断然知らないでしょ。まぁ、そんなもんか、と。設備があるからラッキーくらいに思っていました」。
9席。9人で満席。坪で割れば、1坪2人ちょっと。客単価3000円だとすれば、2人×3000円×3回転で1日1万8000円。30日なら54万円になる。坪売上が54万円なら、悪くない。
「でも、お客様がいらっしゃれば、の話でしょ/笑」。
外も内も同じだから、だれも、経営者がかわったと気づかない。もともと、赤字で、前オーナーが撤退した店だ。好転するきっかけもないまま、時が過ぎる。
「ノウハウもなにもないわけです」。ぜんぶが、ゼロベース。「お客様ゼロ、知りあいゼロ、戦略もゼロ/笑」。ただ、それでも一つだけ、方法があった。
「お客さんが来るまで、店を閉めない/笑」。
ずっと待った。ひたすら待った。
「そんなの戦略でもなんでもないでしょ。でも、朝5時くらいかな。ほかの店が閉まりだすと、行き場をなくした人たちが『ここでもええか』みたいな感じで、来られるようになって。そりゃ、エンジン全開です」。
小学校の先生から一つだけほめられたことがある。
「田中くんは、面白いね」。
「そう、ほめられたのは、それだけです。お笑いの街でも負けません。私のトークは、全身全霊です」。
トークとサービスに惹かれるように、だんだんと通常の時間帯にもお客様が来るようになる、気づくと、連日、満席になっていた。
「250万円くらいですね。それで、いったん頭を打ちます。ふつうならそれで充分なんでしょうが、私は常識を知らないから、もっと行くぞって。どうすればいい? なにがあればいい? と。それで、料理だと思って。今度は、そちらにかけ、トークとサービスと旨い料理です」。
すると、月商は100万円アップし、4坪で350万円を叩きだすようになる。
「このあと2号店というか、いまの本店ですが、こちらで『席数売上、飲食店日本一』となるんですが、1号店のほうも、いま思えば、坪売上は、相当な数字ですね」。
ちなみに、2号店であり、現在の本店が叩き出した月商は、1850万円。1号店とおなじミナミの、ビルの奥まったロケーションで13坪、席数24席。坪で計算すれば、ひと坪142万円にもなる。
日本一だから、当然だが、快挙だ。
「福井の田舎からでてきて、ようやくですが、ひと息ついたのが、この頃」といいながら、まだまだ田中氏の目は未来を見つめている。最後にそんな話を一つ。
・・・続き
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2019年7月2日火曜日

夕刊フジ「飲食FCで第2の人生」No.2クールは飲食FC本部構築コンサルの田中司朗先生に・・・。

夕刊フジの新連載「飲食FC(フランチャイズ)で第2の人生」が5月17日(金)よりスタートしましたが、
6月7日、14日、21日の3連載で田中司朗先生にFC(フランチャイズ)本部コンサルの立場から語っていただきました。
zakzakにも同時掲載しています。→こちら
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